直観

生き方と睡眠の関係

 

私達は

眠っているときに

様々な発想を

している。

 

時々、それが

夢という形で

顕在化することもあるが、

 

それはすべての発想の

ほんの一部でしか

ない。

 

起きている時間に

発想しきれないことを

眠っている間に

一気に成し遂げている

という言い方もできる。

 

そういうことで言えば、

睡眠はとても

大事だ。

 

眠っている間に

していることを

もう少し具体的に言えば、

 

一つの発想を

それを基点として

様々に広げたり、

深めたり、

 

発想と発想を

掛け合わせたり、

紡いだり。

 

一つの発想を

そのままにしておく

ことはほとんどしない。

 

一つの発想は

次の新たな発想を

何十個も何百個も

生み出す。

 

それをやり続けて

いるのだ。

 

そして

生み出された発想は

しばらく

熟成させる。

 

すべての発想は

宝物。

しかしその宝物は

 

それを活用する

タイミング

 

が最も大事だ。

 

そのために

熟成をさせる。

 

そして、

起きている時間の

いざ、という瞬間に

 

一気にそれは

浮上する。

 

奥の方で熟成され

眠っていた発想が

 

ここぞとばかりに

顕在化する。

 

これを

「気づき」

と言う。

 

「直観」

とも言う。

 

そう考えると、

睡眠こそが

セルフコーチングの時間

とも

言える。

 

そして、

良い睡眠が取れるか

どうかは、

 

その多くは

 

その人のストレスの

状態で決まる。

 

単純に言って、

ストレスの多い人は

ちゃんと眠れない。

 

質の良い

睡眠は取れない。

 

睡眠は

量も大事だが

質も大事だ。

 

私は

睡眠時間がとても

短いときが多いのだが、

 

それでも

睡眠の質が良いので

ちゃんとセルフコーチング

できているし、

 

必要なときに

必要な発想が

ちゃんと出てきてくれる。

 

なぜなら

起きている時間、

自分の真本音に

素直に生きているからだ。

 

現実世界においては

様々なストレスが

あるが、

 

最大のストレスは

自分の望む生き方を

自分がしていない、

ことによる。

 

つまりは

自らの真本音を

大事にしない生き方を

することで

強いストレスが24時間

湧き続ける。

 

起きている時間の

生き方を

大事にすれば、

 

結果として

良い睡眠が取れ、

 

結果として

良いセルフコーチングが

でき、

 

結果として

起きているときに

良い気づきや直観が

生まれる。

 

もっと単純に言えば、

 

生き方が

睡眠の質を決め、

 

睡眠の質が

生き方に影響を

与える。

 

まずはこの

単純なサイクルを

意識しては

どうだろうか。

 

つづく

 

自分を解放できるといいね

 

「無」の中に

入る。

 

しかし入って

わかるのは、

 

本当は

「無」などない、

という事実だ。

 

そこには

「すべて」がある。

 

だから

何も観えない。

 

一見すると

「無」のように

見えるだけ。

 

そしてその

「すべて」の中から

私達は

常に何かを

「選んで」いる。

 

私達が選んだ

その何かによって

「現実」は

創られる。

 

私達は

常にそうやって

「現実」を

生み出し続けている。

 

・・・・・・

 

生み出された「現実」を

目の当たりにすると、

 

それはまるで

「自分」とは別個の

存在のように

見える。

 

それが

自分の望むもので

あるならば、

私達は喜び、

 

辛いものであるならば、

私達は

避けよう、とか

逃げよう、とする。

 

いずれにしても

自分とは別個のものが

自分に対して

降りかかってくる。

 

と、

認識する。

 

だから「自分」は

常に、

被害者になったり

加害者になったり

する。

 

被害者も

加害者も

それはそれは

辛いものだ。

 

その辛さが

人生であると

私達は思い込みながらも、

 

自分とは別個の

存在である「現実」に

振り回されて行く。

 

結果として

「現実」に反応するだけ

反射するだけの

自分となって行く。

 

しかしそれはもう

「自分」ではない。

 

そこに

本来の「自分」は

ない。

 

・・・・・・

 

すべての「現実」とは

自分が生み出している

ものである。

 

ということを

受け入れることは

それ自体が

相当に辛いことだ。

 

到底、

受け入れられること

ではない。

 

「現実」と「自分」を

分離しているからこそ、

私達は何とか

ここに立てている。

 

と、

私達は思う。

 

誰かや何かの

せいにすることで、

自分のバランスを

何とか保っている。

 

しかしそのバランスは

ほんのちょっとの

強い刺激や作用に

よって、

 

すぐに

壊れる。

 

壊される。

 

それをまた

常に恐れながらも

私達は

生きる。

 

しかしそれが

本当に

「生きる」

ということだろうか。

 

・・・・・・

 

すべての「現実」とは

自分が生み出している

ものである。

 

という到底

受け入れがたいことを

 

本当の意味で

 

飲み込むことが

できたとしたら、

 

そこで私達は

初めて

何かから

解放される。

 

言いようのない

「自由」を

手に入れる。

 

「自分」を

手に入れる。

いや、

思い出す。

 

「自分」を思い出して

初めて、

 

私達は

自分の中(内在的世界)に

おける、

 

ある一つの「境界」

 

超えることができる。

 

その「境界」の

向こう側にあるものを

見出すことが

できる。

 

その向こう側に

あるのは

 

発想の宝庫

 

だ。

 

つまり、

私達には

 

「境界」を超えなければ

得られない発想が

あるのだ。

 

その発想を

「直観」

私は呼んでいる。

 

・・・・・・

 

すべての「現実」とは

自分が生み出している

ものである。

 

ということを

理屈で自分に

飲み込ませようとしても

それは土台、

無理なことだ。

 

しかもそれは決して

器の大きな人格者に

なる、

ということではない。

 

それはそういった

こととはまったく

別次元の話だ。

 

なぜならそれは

単に、

「思い出す」ということに

他ならないから。

 

「思い出す」

だけなので、

本当は、「思い出せ」れば、

誰もがそれを

何の抵抗もなく

受け入れられる。

 

というか、

受け入れるも何も

ない。

 

すべてが自分

なのだから。

 

その「思い出す」状態に

なるための

唯一の方法は

 

自らの

真本音度合いを

高めるしかない。

 

これが私の

結論だ。

 

残念ながら

これ以外の方法は

 

ない。

 

だから私は

どのような状況に

なろうとも、

 

昨日も今日も明日も

 

そのためのサポートを

粛々と

やり続けるのだ。

 

つづく

 

アイデアを実行に移すな

 

これは良いアイデアだ!

 

というものが

もし浮かんだら、

 

次に私が行なうのは、

それを

捨てることだ。

 

頭の中から、

心の中から、

完全に捨て去る。

 

良いと思った

度合いが高ければ

高いほど、

それをしっかりやる。

 

当然、

良いと思った

度合いが高ければ、

捨て去るのには

時間がかかる。

 

それでも

やる。

 

そのアイデアへの

執着を

なくすためだ。

 

アイデアを

捨て去ることができると、

心の中と頭の中は

空っぽになる。

 

その状態で

待っている。

 

すると、

奥の方から

「直観」が

浮かび上がってくる。

 

それは

「良いアイデアだ!」

というレベルのもの

ではない。

 

まるで

過去を思い出すかの

ように、

「あぁそうだったな。

私はこれをするのだったな」

かなりニュートラルに

そして

当然のように

 

まるでそれが

最初から真理で

あったかのように

 

最初からずっとそこに

存在していたかのような

感覚で

浮かび上がってくる。

 

一言で言えば

「未来を思い出す」

ような感じ。

 

そうなったら

私はそれを実行に

移す。

 

いや、

実行に移そう、

などと考える間もなく、

勝手に体が動いてしまう。

 

面白いことに、

 

この、実行に移した発想は

最初のアイデアと

結果的に全く同じこともある。

 

それはそれでいい。

 

ただ、

最初のただのアイデアレベル

における実行と、

未来を思い出すレベル

における実行では、

 

その「実行」の質が

根本的に違ってくる。

 

その「違い」こそが

重要であり、

 

道が開くかどうかは

すべてここに掛かっている

と、私は思うのだ。

 

これが本来の

「直観」である。

 

いつも言うことだが、

この直観の力は

誰もがもともと持っている。

 

この「直観」に基づいて

動く人がどれだけ増えるか?

 

そういう人を

どれだけ育成し、

どれだけサポートできるか?

 

これによって

ここからの時代の明暗が

決まると

私は思っている。

 

つづく

 

もっと大きな目で

 

人はどうしたって、

暗い雨雲が立ち込めて来たら、

この後、どんな大雨が

降るだろう?

不安になるだろう。

 

雨だけじゃなく

雷も来そうだ、と。

 

そして

一刻も早く逃げねば、

不安に駆られて

自分の行動のすべてを

決めてしまうだろう。

 

それはある意味、

人としての非常に

健康な

心の動きだ。

 

しかし、

雨雲ばかりに目を

奪われていたら、

知らぬ間に大事な何かを

失ってしまうのも

また私達だ。

 

後になって冷静に考えれば、

どうしてあの時

あんな判断を

自分はしてしまったのだろう、

後悔することも多い。

 

そうならずに、

やはり

「最善の道」を

一つ一つ丁寧に見極めることが

大切であると

私は思う。

 

現実と向き合う、

とは

目の前にある現実だけを

見つめることではない。

 

もちろんそれは

最低限必要なことだが、

それは現実の一部

でしかない。

 

雨雲の上には

間違いなく

果てしなく続く青空がある。

 

今、目の前には雨雲しか

見えなくとも、

その向こうに青空がある

という事実もまた

現実である。

 

しかも、現実とは

心の外側だけにあるもの

ではない。

 

心の内側にも

現実がある。

 

私達は

「内と外」

二つの現実の狭間で

生きている。

 

二つの現実の

近くと

遠くを

それぞれちゃんと

見渡すこと。

 

それができて初めて、

「次の一歩」

が直観できる。

 

その直観とは、

一切の迷いがない。

 

透き通った

自分の「答え」だ。

 

透き通った

風が吹く「答え」だ。

 

その「答え」にこそ

私達は素直に

従うべきだろう。

 

すべての現実を

毅然と

見渡す生き方と

在り方。

 

今こそ、それを

身につけるチャンスだ。

 

つづく

 

波長の視点から

 

よく私は

「空気感」

という言葉を使うが、

 

これを別表現すると、

 

「波長」

 

とも言える。

 

私達人間だけでなく、

この世のあらゆるものは

独特の「波長」を

持っている。

 

すべてはエネルギー体

であり、

それぞれがそれぞれなりの

振動を続けている。

 

その中でも特に

人間は、

その「波長」をよく

変える。

 

それを私は

「空気感が変わる」

と表現している。

 

しかしとは言え、

変わらない波長も

ある。

 

私達人間には

変わらない波長と

変わる波長が

ある。

 

正確に言えば、

本当はすべてが

変わっていくのであるが、

変わりづらい波長

と言えばよいのかな。

そういうものがある。

 

私は人と向き合う時、

その両方の波長を

あるがままに

感じ取る。

 

そしてほぼほぼ

その「波長」によって

私自身の対応を

決めている。

 

こうやって書くと

なんか動物みたいだが、

人間も動物であり、

そういった感性は

本当は誰もが持っている。

 

私はおかげさまで

本当に多くの人達と

向き合い続けてきたので、

いつしかそういうことが

できるようになった。

 

はっきり言うと、

見た目よりも

波長を捉えた方が

本質を千倍も捉えることが

できるのだ。

 

そして

次のようなことも

実感できる。

 

「波長と波長の共振」

だ。

 

つまりは、

同じような波長を持つ

人同士は

やはり近づいていく。

 

そして時には

それが共鳴、共振し、

相乗効果を発揮しながら、

まったく新たな波長を

生み出すことさえ

ある。

 

それが人間関係の

面白さであり、

組織の面白さ

とも言える。

 

私はその、

相乗効果を発揮する

人同士のペアを

探し当てるのが

得意だ。

 

人生においても

仕事においても。

 

お互いが無理に

波長を合わせながらも

頑張る人達がいるが、

 

その場合は、

変わらない波長と

変わる波長の

両方を感知しながら、

 

その人達が協力をし合う

タイミングは

今が本当に良いのだろうか?

「直観」する。

 

そしてタイミングが

今ではないと感じた時は、

あえて

距離を離すことを

ご提案する。

 

人と人の

距離感は

とてつもなく大事だ。

 

近ければいい、

というものではない。

 

今はどの距離感で

どう関わるか?

今後のあらゆる物事の

進展度合いを大きく

左右する。

 

こういったところこそが

本当にサポートの必要な

部分ではないかと

いつも思っている。

 

波長や空気感の話を

し出すと、

止めどがなくなるくらいに

無限に話が広がっていく。

 

しかしそれは

「直観」というテーマに関しては

とても重要な要素となるので、

 

そんな視点からも

ポツポツと

ここで書いていこうかと

思っている。

 

つづく

 

もっとしっかり感じ取ろう

 

自分の心の揺れ

と、

 

世の中の揺れ

を、

 

それぞれ別個に

あるがままに

感じ取ってみよう。

 

その二つは、

どのような関係に

あるだろうか?

 

私達は、

 

内側の揺れ

外側の揺れ

二つの揺れの狭間で

生きている。

 

二つの揺れに

常に迫られながら、

次の自分の一歩

決めている。

 

人生を生きる

というのは

そういうことなのだが、

 

内側の揺れ

外側の揺れ

混在しながらも

区別がつかなくなる

ところから

 

私達は

「わけがわからなく」

なる。

 

わけがわからなく

なった状態で

次の一歩を決めるよりも、

当然、

わけがわかった状態で

決めた方がいい。

 

そのためには

まずは

「観察」だ。

 

両方の揺れを

観察することだ。

 

人生の始まりは

「観察」

だ。

 

・・・・・・

 

内側も外側も

両方すべてを

観察しようとする時、

 

つまりは、

あるがままに

捉えようとする時、

 

その

捉えている自分が

両方の揺れから

「分離」する。

 

そこまで

観察できると

いい。

 

逆に言えば、

そこまで観察できない

からこそ、

私達は混乱してしまう

のだ。

 

徹底的な

観察だ。

 

徹底的に

あるがままを

見つめるのだ。

 

「あるがまま」

とは、

評価も判断も解釈も

何もしない

ということだ。

 

見えるものを

ただそのままに

見る。

 

聴こえるものを

ただそのままに

聴く。

 

感じるものを

ただそのままに

感じる。

 

慣れないうちは

かなり難しいだろう。

 

でもぜひ

やり続けてほしい。

 

「分離」が

できるまで。

 

・・・・・・

 

とは言え、

無理な分離は

してはならない。

 

自然な分離で

あることが大事だ。

 

自然な分離に

なるためには、

 

徹底的に、

見て、聴いて、

感じる

しかない。

 

辛いものも

徹底的に

その辛さを

感じるのだ。

 

それは当然

とてつもなく辛い

かもしれないが、

 

でも

逃げずに、

徹底的に。

 

そして

自然な「分離」が

訪れる時、

 

初めて

本当に観える

ものがある。

 

本当にわかる

ことがある。

 

その時に

実感できるのだ。

 

なんだ、

そうか。

私は最初からすべてを

わかっていたじゃないか。

 

・・・とね。

 

つづく

 

静かな場所から来る

 

私達は現実世界の

中で

生きている。

 

だから

いろんなことが

降りかかってくる。

 

楽しいことばかり

ではない、当然。

 

嵐のようなことが

降りかかることも

ある。

 

現実世界から

嵐が降りかかれば、

心の中も

荒れる。

 

私の言葉で言えば、

 

反応本音が

大揺れになる

 

ということに

なるが、

 

そういうことは

ほぼ毎日のように

ある。

 

しかし。

 

私達の中には、

現実が

どれだけ荒れようが、

心も

どれだけ揺れようが、

 

決して

揺れない場所

がある。

 

何が起ころうとも

いつも

静か

な場所がある。

 

それが

体の中のどこかに

ある。

 

その場所を

見つけよう。

 

それが

真本音の場所

だ。

 

・・・・・・

 

そこはいつも

静かで

落ち着いている。

 

「落ち着こう」

という意思を持って

落ち着いた状態を保っている

のではなく、

 

何の努力も

何の意図もなく、

ただ最初から

静かで落ち着いている。

 

その場所を

見つけることができたら、

そこに

入ってみよう。

 

自分の意識を

そこに入れ込んで

みよう。

 

するとそこには

何があるだろうか?

 

私の場合は、

そこには

「海」

がある。

 

気持ちよく

スーッと遠くまで

広がる

水面がある。

 

海なのに

波は一つもない。

 

まるで

鏡のような

冴え渡った海。

 

そこに

舟が浮かんでおり、

私はその舟に

乗っている。

 

時には、

舟にも乗らず、

その水面や水中に

自分自身の全身を

浸している。

 

その「景色」の中に

いると、

スッと私は

「もとの自分」

「もともとの自分」

に戻ることができる。

 

・・・・・・

 

「直観」

とは、

 

ここから来る。

 

この、

静かな世界から

来るものだ。

 

私の場合で言えば

その「海」は

 

「答え」の

宝庫だ。

 

「海」は

すでにもう

すべてをわかっているし、

すべてを知っている。

 

過去も今も未来も

全部、

「そこ」にある。

 

だから、

今自分が何をすれば

よいか?

ありありとわかる。

 

その「答え」が

「直観」である。

 

真本音の発想

という

やつだね。

 

つづく

 

本当は、できて当たり前

 

今、

これをすれば

よいのだ。

 

という確信は、

本来は、

 

体と心と魂

 

が、

完全に一致した時に

現れる。

 

言葉として

表現すればそれは

どうしても

「確信」

ということになってしまう

のだが、

 

実は、それほど

大層なものではない。

 

よく言うことだが、

それは何かを

「思い出す」

感覚に非常に近い。

 

過去の出来事を

思い出す感覚だ。

 

「あぁあの時は

そうだったな」

と。

 

もしくは、

何か探し物の在処を

思い出すようなもの。

 

「あっそうだ、

あそこに置いたんだった」

と。

 

本当に

それくらいの

感覚だ。

 

ただしそれはもう

「過去」の

出来事。

 

つまりは、

事実として既に

揺るぎのないもの。

 

それであることが

当然であるもの。

 

寸分違わずに、

他の答えが入り込む

余地を

まったく与えないもの。

 

それくらいの

明確さで、

 

未来のことと、

今、自分が

すべきことが

 

「わかる」

のだ。

 

だからもう

寸分違わず、

他の答えはまったくもって

存在の余地なく、

 

「今、これを

しよう」

 

思えるのだ。

 

これが本来の

「直観」

だ。

 

そしてこの「直観」は、

人生において

数えるほどしか

現れないような

特別で神秘的なものでも

なく、

 

それは

日常生活において、

朝起きてから

夜寝るまで、

ずっと

現れ続けられるものだ。

 

なんなら、

24時間の自分の行動の

すべてを

この「直観」のみで

決めることすらも

可能だ。

 

それくらい

「普通」

のことだ。

 

むしろ、

「直観」によって

自分の行動を決めない、

ということの方が

「普通ではない」

気がするし、

「無理をしている」

とか

「不自然な生き方」

な気もする。

 

私達にとっては

やって当たり前の

もの。

 

それができていないのが

不自然なので、

その不自然さを

治さねばならない、

 

というのが

今の世の中の状態だ、

私は観ている。

 

本当は、

何も難しいことは

ない。

 

難しくしているのは

私達自身だ。

 

複雑にしているのは

私達自身だ。

 

それこそを

「思い出す」

必要が、

今の私達には

あるんだな。

 

つづく

 

現象は現象だ

 

今の世の中は、

 

今の私達は、

 

「現象」に

揺らされ過ぎだな。

 

ちょっと何かが

起こると、

大きく

右に揺れたり

左に揺れたり

上に揺れたり

下に揺れたり

 

いつも

騒がしい。

 

ポンっと

ちょっと肩を

叩かれたくらいで、

 

飛び跳ねるように

驚く。

 

常に何かに

ビクビクしている。

 

過剰反応。

 

その連続の

ような生き方と

行き方。

 

脆弱だな、

と思う。

 

「現象」に

振り回され、

「現象」が

すべてであると

思い込んでいる。

 

すべての「現象」には

本質があり、

その本質のことを

「実在」と言うが、

 

もう少しみんなが

「実在」を

感じ取れるようになれば、

 

世の中はもっと

平和であり

調和するのになぁ、

 

私達の生活の

一歩一歩は、

 

日常の

一挙手一投足は、

 

もっと

地に足のついた

安定したものに

なるのになぁ、と

よく思う。

 

右往左往して

何も見えなくなるよりも、

 

しっかりじっくり

物事の展開を

見つめ(観察し)、

 

本当に

「こうしよう」と

迷いなく思える事柄

のみを

行動に移す。

 

その連続で、

すべてが

調和するのになぁ。

 

「現象」に

捕らわれるということは、

 

目を瞑ったままで

走るのに等しい。

 

それは

危険だ。

すぐに転ぶし、

すぐに何かに

ぶつかるよ。

 

物事の

「実在」を、

本質を感じ取れば、

 

私達は常に

ちゃんと目を開いた

状態で、

 

今、

何をすればよいかが

しっかりわかる。

 

何をすれば

よいか。

 

何をしては

ならないか。

 

それはすべて

「直観」として

わかる。

 

答えはすべて

私達の中に

ある。

 

外の情報は、

その答えに行き着く

ための

きっかけに過ぎない。

 

もっと

落ち着いて

生きよう。

 

「直観」とは

落ち着いた人から

発せられるものだし、

 

「直観」に基づき

生きることで、

その人は

落ち着いて進むことに

なる。

 

思いつきと

直観は違う。

 

右往左往するのは

単なる思いつき。

 

直観はもっと

静かな

ものだ。

 

静かで

とてもエネルギーが

高く、

 

あたたかく

安らぐ

ものだ。

 

つづく

 

1万人の答え

 

以下はあくまでも

私が現場で実感している

話なのだが、

 

決して大袈裟な

表現ではない。

 

私達の心の中には

1万人の「自分」が

存在している、

と考えてほしい。

 

様々な個性を持った

「自分」だ。

 

前向きな自分も

いれば、

後ろ向きな自分も

いる。

 

自信満々の自分も

いれば、

気弱な自分も

いる。

 

親切な自分も

いれば、

わがままな自分も

いる。

 

様々な個性や

考え方を持った

「自分」

が、

1万人いる。

 

決して大袈裟な

表現ではない。

 

もちろんそのほとんどの

「自分」を

自分は知らない。

 

1%の「自分」も

知らないだろう。

 

そして、

 

その1万人の「自分達」が

常に、

話し合いを続けている。

 

発想をし合っている。

 

ブレーンストーミングを

続けている、

考えてみてほしい。

 

例えば、

顕在意識のレベルで

一つの問いが

浮かんだとする。

 

するとその問いに

ついて、

1万人が議論し合うのだ。

 

当然、

宝物のような価値ある

「答え」は

そこかしこに生まれる。

 

珠玉の「答え」は

そこかしこに

生まれる。

 

しかしそのほとんどを

私達は

顕在化していない。

 

珠玉の答えが

たくさん生まれているのに、

それを顕在化

できないのだ。

 

もったいない!

 

しかしそれが

現実。

 

しかし、

時々ではあるが、

 

珠玉の答えの一つが、

何かの拍子に

フッと

顕在化することがある。

 

それがいわゆる

「直観」

だ。

 

だから、

 

直観とは

一つの答えが生まれて、

それがそのまま顕在化する

ということではない。

 

数え切れないくらいに

たくさんある答えの

内のたったの一つが

浮上する、

だけのことなのだ。

 

では、

 

直観力が高まる、

とは

どういうことか?

 

それは、

数え切れないくらいの

答えが、

同時に無数に

顕在化することだろうか?

 

・・・それはそれで

大変面白いかも

しれないが、

 

残念ながら

そうではない。

 

やはり顕在化する答えの

数そのものは

それほど変わらない。

(もちろん、増えるが。)

 

それよりも、

 

本当に今の自分にとって

最高・最善と思える答えを

きちんと選び出して

顕在化することが

できる。

 

・・・というのが

直観力が高まる

ということだ。

 

しかも、それを

 

「答えが欲しい

タイミングで」

 

行なえるように

なることだ。

 

一番欲しい時、

欲しいタイミングで、

一番欲しい答えが

浮上する。

その度合いが高まることが

「直観力が高まる」

ということだ。

 

そして、

それをするのが

「真本音」

の役割だ。

 

真本音とは、

1万人いる「自分」の中の

リーダーだと

思ってもらうとよい。

 

しかもそれは、

1万人すべての「自分」が

心から信頼し

尊敬するリーダーだ。

 

そのリーダーは

1万人の「自分」達が

総力を結集して出した

様々な発想や答えを

すべてチェックし、

 

その中の

最高・最善だと思われる

答えを

選び出す。

 

「今回は

これでいこう!」

と。

 

皆が尊敬するリーダーが

選ぶのだから、

皆、それに従う。

 

「リーダーがそう言うなら

それで行きましょう!」

全会一致となる。

 

その結果として、

1万人の「自分」達は

総力をあげて

その「答え」の方向に

動き出そうとする。

 

「本来の直観」が

発生すると、

自然に体が動いてしまう

のは、

その理由による。

 

だから。

 

真本音度合いを

高めることは、

直観力を高めることに

直結する。

 

真本音度合いが高い人は、

一日の行動のほぼすべてを

直観で決めるようになる。

 

それにより、

ほぼすべての行動が

調和につながっていく。

 

何度も言うが、

大袈裟な話ではない。

 

むしろ

普通の話だ。

 

「直観」については、

今後も度々、

様々な角度から

書かせていただくことにする。

 

つづく

 

参考 →【直観について書こうかな】

 

直観について書こうかな

 

「直観」が

出てしまうことが

ある。

 

それが出ると、

思わず

その通りに

行動してしまう。

 

自分を

その方向に

動かしてしまう。

 

それに抗うことは

ほぼ不可能だと

思わせる。

 

かと言ってそれは

自分が自暴自棄に

なったり、

混乱に陥ったり、

制御不能になっている

訳ではない。

 

むしろ全く逆で、

 

自分の頭は

その瞬間、

晴れ渡り、

冴え渡り、

 

感覚として

「すべてがわかった」

という

実に清々しい状態

であり、

 

かつ、

非常に理性的な

落ち着いた

 

地に足がついた

 

状態だ。

 

その状態において

「これをするしかない」

確信している。

 

そのような

安定感と力を

持ち合わせているのが、

 

本来の「直観」

である。

 

それが浮上すると、

私達はもう

その方向に

動いてしまう。

 

「意味」は

後からついてくる

場合が多い。

 

その時その瞬間は

確信はあるのに、

 

なぜ自分が

それをしようとしているのか

わからない

 

ことが多い。

 

でも

確かに確信はあるし、

 

その確信を

抑える必要性も

感じない。

 

そして実際に

そのような方向の行動を

起こすと、

 

驚くような展開で

「調和」が

始まる。

 

むしろ頭がついて

くるのは、

その段階だ。

 

あぁそういうこと

だったか。

 

と、

自分の行動の後に

起こる結果の数々を

体験しながら、

ようやくにして

意味がわかる。

 

そして多くの場合、

その「意味」とは

実に楽しく、

感動的だ。

 

私は、

この「直観力」こそが、

自らの人生や

使命や経営や

人間関係や

・・・あらゆることの

可能性を広げ、

道を拓く原動力になると

思っている。

 

私達の欲しい

「答え」のほとんどは、

直観によって

もたらされる。

 

しかしその直観とは、

自分以外の何者か

が、

自分にもたらしている

ものではなく、

 

それは

私達自身の

「本当の意思」

に他ならない。

 

私達は

私達自身に「答え」を

もたらす。

 

それが

「直観」という形として

現れる。

 

それだけの

ことだ。

 

これまで私は

「直観」について

随分と語ってきたが、

 

もう少し丁寧に

このブログにおいても

書かせていただいた方が

良いかな、と

思い始めている。

 

なぜなら、

「直観」を単なる「思いつき」

と混合してしまう人が

いるようだから。

 

「直観を大事にしよう」

と言うと、

「ではもう、考えなくて

いいんですね!」

という反応すら

時々見受けられるから。

 

自分の「直観」を言い訳に

現実逃避の方向に

走っている人すら

いるから。

(それは本当は

直観でも何でもないのだが。)

 

直観もどきではなく、

本当の直観で生きる

ためには

私達は何をどうすれば

よいのか?

 

直観を阻害するもの

とは何か?

 

など、

様々な視点から

書かせていただきたいな

と考えている。

 

つづく