本当は、できて当たり前

LINEで送る
Pocket

 

今、

これをすれば

よいのだ。

 

という確信は、

本来は、

 

体と心と魂

 

が、

完全に一致した時に

現れる。

 

言葉として

表現すればそれは

どうしても

「確信」

ということになってしまう

のだが、

 

実は、それほど

大層なものではない。

 

よく言うことだが、

それは何かを

「思い出す」

感覚に非常に近い。

 

過去の出来事を

思い出す感覚だ。

 

「あぁあの時は

そうだったな」

と。

 

もしくは、

何か探し物の在処を

思い出すようなもの。

 

「あっそうだ、

あそこに置いたんだった」

と。

 

本当に

それくらいの

感覚だ。

 

ただしそれはもう

「過去」の

出来事。

 

つまりは、

事実として既に

揺るぎのないもの。

 

それであることが

当然であるもの。

 

寸分違わずに、

他の答えが入り込む

余地を

まったく与えないもの。

 

それくらいの

明確さで、

 

未来のことと、

今、自分が

すべきことが

 

「わかる」

のだ。

 

だからもう

寸分違わず、

他の答えはまったくもって

存在の余地なく、

 

「今、これを

しよう」

 

思えるのだ。

 

これが本来の

「直観」

だ。

 

そしてこの「直観」は、

人生において

数えるほどしか

現れないような

特別で神秘的なものでも

なく、

 

それは

日常生活において、

朝起きてから

夜寝るまで、

ずっと

現れ続けられるものだ。

 

なんなら、

24時間の自分の行動の

すべてを

この「直観」のみで

決めることすらも

可能だ。

 

それくらい

「普通」

のことだ。

 

むしろ、

「直観」によって

自分の行動を決めない、

ということの方が

「普通ではない」

気がするし、

「無理をしている」

とか

「不自然な生き方」

な気もする。

 

私達にとっては

やって当たり前の

もの。

 

それができていないのが

不自然なので、

その不自然さを

治さねばならない、

 

というのが

今の世の中の状態だ、

私は観ている。

 

本当は、

何も難しいことは

ない。

 

難しくしているのは

私達自身だ。

 

複雑にしているのは

私達自身だ。

 

それこそを

「思い出す」

必要が、

今の私達には

あるんだな。

 

つづく

 

コメントを残す

*