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今回は二つの問いを
投げよう。
今、このタイミングで
しっかり考えよう。
・・・
これまでの私の
最大の悔しさとは?
それは、
何をもたらす
ためのもの?
・・・
実はこの問いは、
あまり頭で
考えない方がいい。
思考で答えを
出すことで
ズレた答えを導き出し、
せっかくの「悔恨」が
本来の意味を
成さなくなる可能性の
方が
圧倒的に大きいから。
私達人間は
自分に都合の良い
思考をするのよ。
悔しさから
自分を
救い出すために。
だから通常は、
私は
悔恨は悔恨のまま
あるがまま
しっかりとそれを
感じ続けることを
お勧めするのだが、
しかし、
今は特別。
今は、一気に
次のステージに
進もうとしている人が
多い。
上記の問いを
しっかり考えた上で、
その後、
本質的答えが
直観として浮かび上がる
可能性は高い。
そう。
しっかり考えながらも
本当の答えは
直観を待とう。
その前提のもとで、
上記の問いと
しっかり
向かい合ってみよう。
つづく
気持ちのよい
風の中に
立っていると、
風の感触のみに
意識を奪われ、
周りの景色が
目に映らなくなる。
風と共に
私自身も
空に舞い上がっていく
気になる。
この
体という制限が
もしなくなれば、
どれだけ自由に
なるだろう。
どれだけ
遠くに
行けるだろう。
自分自身に
問うてみる。
私は今、
何に縛られている?
いつの間にか
何を前提にして
すべてを発想している?
私が今
立っているこの
地面は、
土台は、
本当に今の私に
必要なものか?
もっと
心を解き放ち、
魂を解き放ったら、
本当は私は
何をしたい?
本当は
何者として
進みたい?
以上の問いを
あなたにも
プレゼントしよう。
ステージが
変われば、
前提が変わる。
あなたのこれまでの
前提は
もう、
前提ではないのだよ。
つづく
今回は
大事なチェックを。
まず、
自分の「中心軸」を
意識しよう。
ここで言う「中心軸」
とは、
自分のおへその奥
辺りの体の中心点と、
自分の頭頂部の
中心点を
結んだものだ。
二つを結べば
体の中に中心軸が
走っているように
感じるだろう。
その中心軸を
さらに
上と下に伸ばそう。
上は
天(宇宙)と繋がる
くらいに。
下は
地球の中心と繋がる
くらいに。
まっすぐに立って
やった方が
やりやすいかも
しれない。
地球の中心と
天(宇宙)を繋ぐ
一直線。
これが「中心軸」。
それに貫かれている
自分。
これを
イメージしようと
した時、
はっきり
「中心軸」を感じる
ことができるかどうか?
途中で
「中心軸」が見えなく
なっていたり、
何かモヤモヤしたものが
へばりついていたり。
もしくは、
「中心軸」のはずなのに
グニャグニャと
曲がっていたり。
・・・とにかく
スッキリとまっすぐに
「中心軸」が見えない
場合、
その
モヤモヤした部分に
意識を集中して
向けてみよう。
もしそこに
激しい不安・絶望・不信
のようなものを
感じたら、
それは
あなたのもの
ではない。
他の誰かから
受け取ってしまった
「念」である。
つまりは
「エンティティ」と
呼ばれるものだ。
エンティティとは
ストレスの濃度が
ある一定以上に高まることで
実体化したもの。
念の塊だ。
それは
人から人へ
まるでウィルスのように
伝染する。
今、
真本音度の低い人達
のエンティティが
凄い。
街を歩いていると
そこかしこに
それを感じる。
本来は
真本音度が高ければ、
ちゃんと自分の
真本音に素直に
生きていれば、
そのようなエンティティ
に対しても
耐性は高く、
しっかり睡眠を取れば
解消できるはずだが、
今はあまりに
街に氾濫している
エンティティが多いので、
それを受けて
しまい、
言いようのない
不安・絶望・不信
などの気持ちに
苛まれてしまっている
人が
増えている。
しかしそれは
その人自身の
不安・絶望・不信
ではない。
そういった「念」を
受け取って
感じ取って
しまっているだけだ。
上記のように
自分の「中心軸」を
意識し、
もしそこにエンティティの
存在を感じたら、
そこに
ド直球に
あなたの目線を
向けよう。
エンティティを
攻めるわけではない。
癒すわけでも
ない。
ただ、
エンティティと
向き合うだけ。
意識の矢印を
向けるだけだ。
それだけで
エンティティ達は
あなたのもとを
離れる。
攻めては
いけない。
戦っては
いけない。
ただ、
まっすぐに
見つめるだけ。
真剣な
眼差しで。
あなたの
「自分の人生を生きる」
という意志を
向けるだけ。
するとその
「真剣さ」に
エンティティ達は
ここは自分のいる
場所ではない、
と感じ、
去っていく。
先ほども書いたが、
今、
真本音度の低い人達は
とても激しく
揺れている。
こういう時こそ、
真本音で生きる私達は
自分の人生を
毅然と進もう。
自分のすべきこと
したいことに
素直に、誠実に。
その意志が
私達自身を
楽にする。
エンティティを
相手にしている
場合ではない。
つづく
たった一文字の
新たな理念が
私の中に
生まれたようだ。
たった一文字で
かつ
私に大きなパワーを
与えてくれる
理念であることは
わかる。
でも
肝心のその一文字が
わからない。
どれだけ
心を無にしても
浮かんでこない。
思考では
決してたどり着けない
ことはわかるので、
直観をじっと
待っている。
が、
わからない。
実はこれまでも
こういったことは
よくあった。
そんな場合は
「わからない」という
気持ち悪さを
そのまま感じながら
1分1秒を
過ごしていく。
自分にとって
非常に大事な理念
であることは
ヒシヒシ感じるので
「わからない」という
ことが本当に
気持ち悪い。
首を掻きむしり
たくなるような
じれったさ。
でもそれすらも
共に
時間を過ごす。
わかる時は
必ず来る。
その瞬間が
訪れるまで、
このままで。
こういったことも
セルフコーチングの
基本だ。
つづく
本当に望む
未来は
どこにある?
あなたの周りの
空間の
どこかにそれはある、
としたら
どこにある?
私の場合、
私の少し前の
上空。
ずっとずっと
上の方に
それはある。
とてつもなく
強い光として
それは
そこに存在している。
あなたのは
どこ?
それは、
真本音のビジョン
だ。
もし場所を
見つけられたら、
そこにじっと
意識を向けてみよう。
少し落ち着いた
時間に、
ずっと意識を
向け続けよう。
ずっと。
じっと。
何も考えず。
それをし続ける
だけで、
何か感じるものが
あるはず。
私の場合、
感じるのは
あったかさ。
とても穏やかで
静かなあったかさが
じんわりと
伝わってくる。
と同時に、
「仲間」の存在感。
大勢の仲間達の
感覚が。
とてもパワーのある
仲間達だが、
とても静かで
落ち着いている。
一緒にいて
居心地の良い
仲間達。
これを感じると、
私はまだまだこれから
大勢の人達と
出会うのだな、と
わかる。
さらに意識を
向け続けると、
じんわりと
メッセージのような
ものが。
それをあえて
言葉にすれば、
「やったね」
となる。
きっと何かを
みんなで
やり遂げたのだろう。
あなたは
どうだろう?
あなたのビジョンの
場所に
意識を向け続けると、
何が伝わって
くる?
その、
伝わってくるものを
素直に感じながら、
今日
に向かおう。
今日
という一日に。
今のこの
一歩一歩が
その未来に
続いて行くように。
その未来に
たどり着けるか
どうかは、
今の私
で決まるのだから。
つづく
今一度、
自らの中心軸を
明確にしよう。
今ここで
明確にすることに
意味がある。
たとえ
これまで確立した
中心軸が
あったとしても。
今、
だからこその
言葉(表現)が
見つかるはず。
その際、
発想の起点となる
いくつかの問いを
列挙しておこう。
・・・
これまでの私の人生は
何を軸としてきただろう?
これから私は
何のために生きよう?
これからの私は
何をやらない?
何をやり続ける?
これからの私は
何から離れる?
何に近づく?
これからの私は
誰から離れる?
誰に近づく?
ここからの私が
何が起きても決して
変えることのない
軸は何だろう?
それを最も
今の私に納得のいく
シンプルな表現で
言語化すると?
・・・
上記の問いは、
あくまでご参考までに。
中心軸をちゃんと
言語化したら、
さぁ、
超加速だ。
つづく
これは、
今の自分には
わからない
ことなのだ。
と、
わかることが
ある。
きっと
未来の自分、
ひょっとすると
それは
明日の自分かも
しれない、
1時間後の自分かも
しれない、
10年後の自分かも
しれない、
・・・けど、
でもとにかく、
未来の私にしか
出せない、
今、ここにいる
この私には
出せない答えなんだ。
今の私が
出してはならない
答えなんだ。
・・・と
わかる。
この感覚は
とても大事だ。
そうしたら
今、ここで
答えを出すことは
あきらめて、
では、
答えのわからない
自分は、
今これから
何をしようか?
と。
「答えを出すために
何をしようか?」
という観点も
大事かも
しれないが、
それ以上に
「答えをわかっていない
この自分だからこそ、
何をしようか?」
という
この感覚も
超
大事だ。
コーチという
役割をしていて、
私は痛感する。
「答えがわからない」
ということが
いかに
素敵なことか。
これこそ
人間の醍醐味
ではないか。
人生の醍醐味
ではないか。
問いがある
ということは
イコール、
必ず答えがある
ということだ。
にも関わらず、
答えがわからない。
わかるべき
時が来るまで
わからない。
・・・これ、
凄く面白い!
だからこそ
人生が進む。
冒険が
始まる。
未知の領域へ
進んで行ける。
「わからないまま
進む」
・・・その楽しさ。
だから私は
いつも自分に
問いばかり
投げ続ける。
問いは全部、
それ専用の手帳に
書き続けている。
その手帳を
いつも見ながら、
答えがわからない
モヤモヤを
楽しみ尽くして
いる。
これが
セルフコーチングの
基本だ。
この
楽しみこそが。
つづく
自分の心の
最も痛い部分には
何がある?
痛さを感じるのは
健康である
証拠。
痛い部分を
見たくない、
と思うのも
健康である証拠。
ここからより
健康に進むためにも、
その痛い部分を
直視しよう。
可能であれば、
その痛い部分に
全身
どっぷり浸かる
くらいに
入り込んでみよう。
観て
感じる。
あるがままに。
その痛い部分は
自分自身に
何を訴えているか?
何を
望んでいるか?
何を
理解してほしいのか?
あなたはそれらを
受け取り、
どう思うのか?
思ったことは
正直に
その痛い部分に
告げてみよう。
そして
その痛い部分と
しっかりじっくり
話し合うのだ。
つまりそれは
自分自身との
対話だ。
これも大切な
セルフコーチング。
真本音度が
高まれば高まるほど、
こういった対話は
しっかりやった方が
いい。
これを私は
毎日、やり続けた。
このように
ちゃんと自分と
向き合い続ければ、
自分自身との
「和解」
が進む。
その結果、
痛い部分は自然に
消えていく。
成仏する
感じ。
今はもう
私の心に
痛い部分はない。
あるのは
他の人から受け取った
痛い心。
それはそれで
別の対処をするのだが、
まずは基本は
自分自身の心との
対話だ。
自分の痛みは
自分で向き合おう。
自分の道を
しっかり進む
ためにも。
つづく
もっと自分に
問うといい。
みんな、
問う量が
圧倒的に少ない
のだと思う。
問えば
自然にわかることが
ある。
しかし
問わないから
永遠に
わからないままだ。
もっと
自分の中に発生
している問いに
敏感になった方が
いい。
最も単純な
問いは、
「なぜだろう?」
だ。
まずは
この問いを意識
するだけでも
人生は変わる。
ちょっとした
ほんのわずかな
心の隙間。
そこに
「なぜだろう?」
が
存在している。
わざわざそんな
どうでも良いことを
考えなくてもいいか、
と
思うなかれ。
そこにどれだけ
深い意味があるか?
は
答えに気づいた
後にならねば
決して
わからないものだ。
私達は
一日のうちに
何度も何度も
「なぜだろう?」
を
繰り返している。
その一つ一つに
馬鹿丁寧に
なるくらいに
真摯に向き合って
ごらんよ。
それだけで
人生の充実度は
根底から
変化するかも。
大袈裟では
ない。
問いに敏感に
なるのは、
人生を豊かにする
ための
基本だと思う。
私は一日中
自問自答するように
なって
本当に景色が
変わった。
この充実度は
誰もがすぐに
手に入れられるもの。
存分に
自分自身に向かって
問うてほしい。
生きるとは、
問うことだ。
つづく
そろそろ
「思考」
を止める練習を
してみようか。
心の中を
宇宙だと
思ってもらいたい。
心の宇宙を
我々、顕在意識が
漂っている
イメージだ。
私達に必要な
「答え」
が出来上がったとき、
それは
宇宙のどこか
特定の場所に
浮遊している。
実際の宇宙には
「浮遊惑星」
という星がある
らしい。
要するに「遊星」
というやつで
自由気ままに
その星は宇宙を
駆け巡っている。
心の宇宙に
おいては、
出来上がった「答え」
がまさに
その「浮遊惑星」の
ようだ。
自由に心の中を
飛び回っている
わけだ。
そいつを
捕まえなければ
ならない。
そこで邪魔に
なるのが
「思考」
というわけさ。
思考している間、
我々は
一つの場所に
止まってしまう。
そうすると
「答え」には
永遠に巡り会えない。
「答え」に
巡り合うためには、
こちらから
「答え」を追いかけたり、
待ち伏せしたり、
一緒に流れたり
しなければならない。
それを「思考」で
することは
不可能だ。
どうするか?
と言えば、
簡単なことだ。
「思考」を止めた
状態で、
心の宇宙に
ただ、漂うだけだ。
これをしていると、
私達は勝手に
心の宇宙の中を
移動し始める。
ある時は
光をも超えるような
勢いで
駆け巡ったりする。
「思考」さえ
止めれば、
勝手にそうなる。
あとは
じっと待つだけ。
順当に行けば、
数分後には、
「浮遊惑星」である
「答え」と
巡り合う。
巡り合ってからも
「思考」は
働かさない。
やはり
待つだけ。
自分(顕在意識」と
「答え」は
スーッと「一つ」に
なる。
一つになっても
思考はするな。
一つになった
感覚を
ただ、楽しむだけ。
すると、
フッと
まるで過去を
思い出す感覚で、
「答え」が
顕在意識に
浮上する。
思い出す感覚なので、
すぐにわかる。
そこには
「確信」しかない。
この「答え」で
間違いないと。
だからもう
迷うことはない。
決断しよう、
という意志も
必要ないくらいに、
私達は
その「答え」と共に
現実世界を
歩み始めるんだ。
まとめると、・・・
自分の必要と
している「答え」が
生まれたな、
と、まずはわかる。
わかったら
心の宇宙に入り、
じっとしている。
思考をゼロに
すれば、
勝手に宇宙の旅が
始まり、
答えと巡り合う。
そして
答えと一つになれば
思い出す。
本当の答えを。
・・・たったそれだけの
こと。
慣れれば、
一日に何度でも
できる。
「直観」を
意図的に
起こすことができるんだ。
本当に必要な
答えと
共に生きる。
それができる
自分になろう。
そろそろ
思考を止める
練習をしよう。
つづく
「言葉」を
単なる意味として、
解釈として
頭で捉えるのでは
なく、
体験として
捉えてみる。
過去の自分の
体験として。
しかしそれは
過去を
思い出している
というだけに
留めない。
例えば、
『楽しむ』
という言葉がある。
意味は誰もが
知っているだろう。
しかしそれは
解釈に過ぎない。
解釈は
解釈だ。
そこで終わっていると
私達はその本質には
到達し得ない。
過去の自分の
「楽しむ」体験を
思い出そう。
最も「楽しむ」ことの
できた体験を。
しかもそれは
思い出すだけでは
いけない。
もう一度、
今ここで
その体験を
し直そう。
今ここで
まさにその出来事が
起きているかの
ように。
そして、
まだ、これでも
足りない。
その「体験」を
「楽しむ」
そのものとして
味わうのだ。
頭の解釈
ではない。
その体験を
通じて、
自分自身が
「楽しむ」そのもの
となるのだ。
私は
「楽しむ」
だ。
・・・と。
自分の
全身全霊すべてが
「楽しむ」そのもの
となる。
その時になって
初めて私達は、
「楽しむ」の本質
を理解する。
もちろんそれは
その人それぞれの
理解で良い。
自分なりの
「楽しむ」の本質
で良い。
私がこれを
やったら、
私が
「楽しむ」そのもの
となったら、
私は私の「中心」に
何かの存在を
感じた。
それは「卵」の
ような
何か。
私はそれを
「守っていた」。
とてつもない
深い愛で、
それを
守っていた。
それを守りながら
私は
高いエネルギーを
もって
活性化をしていた。
そこで
理解したのだ。
私にとっての
「楽しむ」
とは、
「守るべきを守り
活性化すること」
であると。
以上が、
「言葉」を
真に「自分のものとする」
ということだ。
この世の言葉は
すべて
記号に過ぎない。
しかしその記号は
すべて
本質と繋がっている。
特に
自分にとって
大切にしたい言葉、
好きな言葉、
は
自分自身の本質と
相まって
ここに存在している。
こういったことを
一つ一つしっかり
理解することこそ、
自己理解
ではないか。
自分の人生を
理解する
ということでは
ないか。
つづく
セルフコーチングの
いつもの私のやり方を
教えます。
私の場合、
まずは自分の中に
何らかの
「発想」
が浮かんだことが
わかる。
多くの場合、
それは
「光」として
認識される。
つまりは、
私の心の中に
「光」が発生する
わけだ。
あっ、
「光」が来たな。
と
わかったら、
その「光」に
意識を向ける。
ただ、
意識を向ける
だけ。
何も考えない。
すると、
私はその「光」と
一体化を
自然に始める。
「光」の中に
全身が
入っていく感じだ。
「光」の中に
入ったら、
じっと
そのまま「光」を
感じる。
何も考えない。
思考しない。
すると
フッと
まるで思い出すような
感覚で、
「問い」が
浮かぶ。
そうしたら、
「光」の中のままで
自分にその「問い」を
投げる。
すると
多くの場合、
その直後に
「答え」
を思い出す。
まさに
「思い出す」感覚
だ。
これを
一日に何度も
行なっている。
これで
自分が今日すべき
ことや、
今日すべき仕事に
必要な発想は
すべて揃って
しまう。
未来のビジョンも
課題も
必要な時に
必要な形で
明確になる。
なぜこの私の
やり方を
ここに書いたかと
言えば、
皆さんの中には
もう
やろうと思えば
このやり方のできる人が
いるのではないか。
生産性、
メッチャ上がります。
試してみて
ください。
つづく
今回は、
問いを一つ。
・・・
私は、何をカタチにするために
生きているのだろう?
・・・
自分自身の
深いところへ
投げてみよう。
この問いは
かなり
難しい問いだ。
答えがすぐに
わかったとしたら、
それを「答え」と
せずに
さらにもっと
深いところにある
答えを
見つけ出して
ほしい。
「カタチ」
の定義は
人それぞれだが、
私達は
何かを「カタチ」に
するために
生まれてきた。
その
自分自身との
約束を
思い出すときが、
今だ。
つづく
温泉にでも
浸かっているような
穏やかな感覚で、
次の問いを
自分自身に投げてみよう。
・・・
私は
本当は
何をしたいのだろう?
そのために来年は
何をしようか?
そのために
今年中に
何を完了させておこうか?
・・・
落ち着いて
静かな心で、
でも
本気で
発想してみよう。
つづく
一つの問い
がある。
その問いは
とても答えづらい
かもしれない。
しかしそれを
わかって上で、
強引にでも
答えを出さねば
ならない時がある。
そんな問いを
一つ
ここに。
・・・
私は今、
誰から離れよう?
・・・
今、ちゃんと答えを
見つけ、
しっかりと行動する
ことで、
新たな道が
開くんだ。
つづく
「問い」とは
自分の意識の
一点
を定めるもの。
今、どこに
焦点を当てながら
生きるべきか?
を
定めるもの。
良い人生を
送る、
とは
良い問いを
自身に投げ続ける、
ということだ。
今回は
単純な問いを
一つ皆さんに
投げよう。
「今年中に
絶対に
やり遂げなければならない
と
決めていることは
何だろう?」
今、皆さんの
すでに
頭の中にある答え
ではない答えを
見つけ出そう。
私達は
無意識に決めている
ことがある。
その多くには
「期限」がある。
「今年中」という
期限を持った
何かを
皆さんはお持ちだ、
きっと。
まだ見つけて
ない答えも
あるだろう。
今のうちに
それを自覚し、
この12月を
充実させよう。
つづく
一つの発想が
言葉になるまでには
時間がかかる。
通常は、
言葉になった上で
浮かんでくるのが
発想であるが、
セルフコーチングの
力をつけることで、
言葉になる前の
発想
に気づくことが
可能になる。
私の場合、
それは
まるで一つの星
のように観える。
心の中、
もしくは
自分の身の周りに
星が
フッと現れる。
それは
すぐ近くに
現れることもあれば、
無限に近く
遠くに現れる
(という印象を持つ)
こともある。
星に気づくと
意識をそちらに
向け続ける。
その時、
思考の類は
いっさい手放す。
空白の心
の状態。
ただ、
その一点の星
のみを見つめ
続ける。
すると
またフッと
思い出すような
感覚で、
発想が
言語化もしくは
映像化
される。
「自分の中の
星を観る」
・・・という
これも一種の
セルフコーチング法なのだと
思うが、
最近はずっと
これが続いている。
これまでも
そうであったように、
私にできる
ということは、
他の皆さんにも
できることではないか。
一度、
試してみてください。
つづく
今回は
今の私達にとって
とても大事な
問いを。
・・・
今、あなたが
最も集中したいことは?
そのための時間を
どのように創り出す?
・・・
今、
本当に集中したいこと
に
本当に集中しよう。
今の私達にとって
とても大事な
ことだ。
何としてでも
そのための時間を
創り出そう。
つづく
私達は日々、
変化をし続ける。
だから
時々、
とてもシンプルな
問いを
ダイレクトに
自分に投げると
いい。
例えば、こんな
感じだ。
「私は本当は、
どんな自分になりたい?」
「そしてそのためには
どんな力を得たい?」
今のこの
タイミングで
この二つの問いを
自分に投げ、
今のこの
タイミングで
発想された答え。
これは
相当に大事な
答えのはずだ。
今日から
本気で
それを目指すことを
お勧めする。
つづく
身に沁みる経験
というのが
誰にもあると思う。
身に沁みる経験
とは、
ほぼほぼ
自らが引き寄せている。
だから、
なぜ身に沁みたか?
を
ちゃんと深堀りする
必要がある。
そこでの気づきが
自分にとっては
とてつもなく大事な
指針となる。
身に沁みたら、
その
身に沁みている
心の感覚に
素直になること。
自分の都合の
良いように
頭で強引な解釈を
しないこと。
そして、
必要以上に
自分を責めないこと。
オススメの
問いは、・・・
身に沁みた私の心は
何を叫んでいる?
身に染みた私の心は
何を後悔している?
私にどんな強い
願いがあるから、
こんなに身に沁みて
いるのだろう?
今回の経験で
私の願いは
変化するだろうか?
今の私に必要な
栄養は?
この経験で
私が取り戻したものは?
私は何に
凝り固まっていた?
この経験を通じて、
私は何を変化させ、
何を変化させずに
進もうか?
・・・
身に沁みたら、
ちゃんと最後まで
とことん
身に沁みよう。
つづく
人は誰にも
創造力
がある。
何かを生み出す
力だ。
その、
本来備わっている力
を発揮するには、
しかしそれ相応の
訓練が必要だ。
今回は一つ、
その訓練法を
お伝えしよう。
・・・・・・
「創造」には、
皆、
「創造の源」
がある。
あなたにとっての
創造の源を
探し出そう。
と言っても
やることは簡単。
「光」を
イメージしてみて
ほしい。
「創造の源」とは
一つの「光」である、
と
わざと思い、
その「光」は
どこだろう?
と
あなたの体の周りを
探してみてほしい。
例えば、
頭の50cmくらい
上にあるな、とか
自分の背後、
3mくらいのところに
あるな、とか。
多くの場合、
体の中というよりも
外にあるはずだ。
ほとんどの人が
「創造の源」と
離れてしまっている
からだ。
人によっては
宇宙の彼方に光がある
くらい
かなり遠くかも
しれない。
場所を特定できたら、
その「光」に
意識を向けてみよう。
それは
どれくらいの強さで
どんな色で
光っているだろうか?
それがわかったら
あとは簡単だ。
その「光」に
じっと意識を
向け続けるだけだ。
無心で
何も思考せずに、
ただじっと
意識を向け続ける。
それをしていると
何らかの発想が
ふと
呼び覚まされるかも
しれない。
それが
あなたにとっての
「創造」だ。
ただし、
最初からすぐに
できるわけではない。
まずもって
無心で意識を向ける
ということ自体が
難しいだろう。
ちなみに私は
これ、
やろうと思えば
何時間でもできると
思う。
「創造の源」である
「光」は、
そこに意識を向ければ、
ずっと無心で
いられるのだ。
そして
無心でいられれば
いられるほど、
あなたの人生にとって
必要な何かが
そこから発想される。
毎日、少しずつでも
良いから
練習しよう。
この練習は、
実は、
創造力以外にも
様々な効用を見せてくれる。
あえてそれは
ここでは書かないので
ぜひ自らそれを
体験してみてほしいな。
つづく
そういえば、
昔よく自分自身に
投げ続けていた
問いを思い出した。
突然、
ご紹介したくなった。
『もし今、私が
記憶喪失になり、
これまでの人生の記憶を
すべて失くしたら、
私はこれから
何を望み、
何をするための人生に
するだろう?』
二十歳くらいの頃から
しょっちゅう投げ続けて
いたな。
今の仕事と
巡り会えたのは、
ひょっとすると
この問いのおかげかも
しれない。
記憶を失くす
ということは、
これまでの自分の
願いや想いを忘れてしまう
ことでもあるが、
自分の能力も
忘れてしまうことだよね。
これまで培った
経験なども。
つまり、ゼロ
になっちゃうんだけど、
そんな状態の私は
純粋に何を目指すの
だろう?
という意味の問いだ。
今、ゼロになったら
何を目指す?
ということだね。
これ結構、
真剣に考えると
いいよ。
つづく
一つ、
仕事が終わると
私は目を閉じる。
そして
何も考えず
じっとしている。
すると自然に
次の仕事に取り掛かろうか
という意識が
湧いてくる。
その状態になって
私は
「今から何をする?」
と
自身に問う。
問うた瞬間に
答えが浮かぶ。
その浮かんだ仕事に
すぐさま
取り掛かる。
・・・このやり方を
繰り返すと、
非常に気持ちが良い。
仕事が
タンタンタンと
進む。
今、何をやるか?
その明確な答えを
私達は持っている。
今、やることを
今、やる。
そこに忠実になる
だけで、
実に一日が
気持ち良くなる。
今、やることを
今、やることで、
なかなか凄い
集中力が出る。
そりゃそうだろう。
今、やると
決めていることを
今、やるのだから、
その時間は
他のことには
意識がまったくいかない。
そして
そんな状態になれば
自然に
直観力が増す。
恐らく
同じ仕事を
今、ではない別のタイミングで
行なったとしたら、
このような直観とは
出会わなかっただろうな、
と思えるような
発想と巡り合える。
だから
仕事の生産性も
質も増すことになる。
いや、
これは仕事に関する
ことだけではない。
一日の自分の
あらゆる行動について
言えることだ。
今、やることを
今、やる。
これができずに
今、やることを
やらず、
今、やることではないことを
やってしまうことで、
私達は、
集中力も直観力も
生産性も減退する。
もちろん
不調和が起こる。
とても
単純なことでは
ないか。
時間を大切に
する。
人生を大切に
する。
自分を大切に
する。
・・・その基本は、
ここにあるのでは
ないかと
私は毎日、思っている。
つづく
昨日の続きです。
(→ 意識を向ける③)
(→ 意識を向ける②)
(→ 意識を向ける①)
世界に意識を
向け、
世界から観た
自分に
意識を向ける。
これをずっと続けると
どうなるでしょう?
私はちょっと
不思議な体験を
した。
一言で言えば、
自分の中にも
「世界」がある
と
「わかった」
のだ。
そしてその
自分の中の世界は、
自分の外の世界と、
完全に
一致する。
・・・と。
もう一度、言おう。
自分の中の世界と
自分の外の世界は
完全に一致する、
と
ある瞬間に
理屈ではなく
感覚として
わかったのだ。
それを
「思い出した」
と言うと、
かなりピンとくる。
内側の世界と
外側の世界が
完全に一致して、
その境目にある
のが
「人間」。
するといったい
人間とは
何なのだろうか?
そんな疑問が
湧いた。
なぜ、
同じ世界が二つあり、
しかも
そこに境目が
あるのだろう?
何のために?
この疑問を持ちながら
私は日々の
コーチとしての活動を
続けた。
すると
また一つわかった。
私も含めて
ほとんどの人が
内側の世界と
外側の世界が
「一致していない」
と。
本当は
完全に一致するはずの
二つの世界が、
一致していないと。
そこに
境目があることで
二つの世界は
分離され、
分断され、
断絶している、と。
そしてそれにより
内側の世界も
外側の世界も
それぞれが
それぞれなりに
不調和を起こしている、
と。
その不調和により
さらに
二つの世界は
分離・分断・断絶度合いを
高め続けている、と。
本当は
二つの世界を
一致させれば良いのに。
たった
それだけの
ことなのに・・・。
そこでまた
ハッと気づいた。
二つの世界を
一致させること
こそが、
私達人間の
役割なのではないか。
二つの世界を
一致させることで、
二つの世界が
より調和する。
それをすること
こそが、
人間の役割なのでは、
存在意義なのでは
ないか。
そしてもし
二つの世界が
完全に一致できたら、
人間は
ただの境目ではなく、
世界そのもの
と
なれるのではないか。
そして
すべてが一つに
なれるのではないか。
それを我々は皆、
心の根底では
願い続けているのでは
ないか。
それが我々の
共通の願いなのでは
ないか。
そこから私は、
二つの断絶したもの
不一致になっているものを
一致させていく。
・・・その過程を
「進化」
と呼ぶことにした。
そして
そのために
我々人間が発する
エネルギー、
かつ
世界が発する
エネルギーを
「愛」
と呼ぶことにした。
そして、
愛のエネルギーを
高め、
進化に向かうための
その時その瞬間、
その人の発することの
できる
最大最高の
そして「最善」の意識を
「真本音」
と呼ぶことに
したんだ。
※この項終わり
ブログはつづく
昨日からの続きです。
(→ 意識を向ける②)
(→ 意識を向ける①)
世界全体に
意識を向ける、
つまりは
世界全体を
感じ取ろうとする。
これを日常的に
続けることで、
私達の意識は
無限に広がっていく。
そして常に
「世界」を感じ取りながら
今ここに
向かうようになる。
単なる自分の主観
のみで生きるのと、
世界全体を感じ取り
ながら
生きるのとでは、
自分の生き方
自分の在り方
発想の仕方
行動の仕方
さらには
現実の起こり方
が
根本的に違って
くる。
意識的に変えよう
としなくても、
無意識的に自然に
変化が始まるだろう。
さらに、
常に世界全体に
意識を向けていると、
ある時ある瞬間から
「世界の中の自分」
を
感じ取れるように
なる。
それは
自分自身に対する
世界からの
客観的視線だ。
もし、
これまで自分の
主観のみで生きていた
とすれば、
これにより
自己イメージは
かなり変わる可能性が
ある。
「自分」という存在
の意味が
突然にわかったり
するかもしれない。
それは相当な
インパクトだ。
私がこれを
初めて体験した時、
私が真っ先に
思ったのは、
「いったい俺は
何を遊んできたんだ」
「こんなことを
やってる場合ではない」
「こんなことに
悩んでいる場合ではない」
「俺はもっと別のことで
悩まねばならない」
・・・そんなような気持ちが
立て続けに湧いてきた。
かと言って
職を変えるとか
環境を変えるとか
そういったことではなく、
生き方
を変えようと思ったのだ。
そこから
変なことに悩まなく
なったし、
必要のないところで
深刻にならないように
なり、
人生がかなり
軽くなった。
すると面白いように、
人間関係とか
出会う人の種類とか
ということはつまり
人生の展開が
変わり始めた。
そこから私は、
常に「世界」に
意識を向け、
かつ
常に
世界から観た「自分」に
意識を向け
続けるようになった。
おかげでさらに
心は安定するように
なり、
確信
も高まった。
さて。
まださらに
お話は続きます。
つづく
昨日の続きです。
(→ 意識を向ける①)
「意識を向ける」
とは
客観的目線であり、
それは、
あるがままに
観る
聴く
感じる
ということだ。
そういった
「意識の使い方」
を
私達現代人は
忘れてしまっている。
さて。
今回は何を一番
お伝えしたいのかと
言うと、
世界に意識を
向けよう。
・・・ということだ。
「世界」とはつまり
「自分以外の存在すべて」
だ。
ある特定の存在に
意識を向けるのでは
なく、
世界全体
に意識を向けて
みよう。
全身全霊を
込めて、
世界全体
を感じ取ってみよう。
するとどうだろう。
自分の意識が
どんどん無限に
広がっていくのが
わかるだろうか?
実際に
世界全体を
観ることはできないが、
感じることは
できる。
世界全体を
あるがままに
感じ取ろう
とする。
本当にできるか
どうか、ではなく、
しようとする
のだ。
それを一日の内に
何度も何度も
すると良い。
ちなみに私は
ほぼ24時間
ずっとこれを
やり続けているのかも
しれない。
ちょっと極端に言うと。
これに慣れてくると、
ある時から
世界の意識
が、
何となく自分に
伝わってくるように
なる。
そんなの自分の
思い込みではないか、
と
言われそうだが、
たとえ思い込みでも
良い。
世界全体を
あるがままに感じ取ろう
と
意識を広げること
自体に
意味がある。
そしてその状態で
自然に感じ取れること
そのものに
意味がある。
世界全体から
伝わってくる何らかの
意識。
それを無理に
言葉にしなくても
良い。
でもそれを得た状態で
今を生きると、
何かが根底から
安定する。
ドッシリと
安定する。
そして、
今自分がしようと
していることに
根拠のない
確信を
持てるようになる。
私達は
「世界」の中で
生きている。
であれば、
「世界全体」を
常に感じ取りながら
生きると良い。
その生き方は
自分自身の開放に
つながっていく。
このお話、
まだ続きます。
つづく
すべての存在を
・自分
と
・自分以外
に
分けたとする。
そして
自分以外のことを
「世界」
と表現するとする。
すると
すべての存在は
・自分
と
・世界
のどちらか
ということになる。
さて。
皆さんは、
・自分
と
・世界
の
どちらにいつも
意識を向けている
だろうか?
意識を向ける、
とは
もう少し具体的に言えば、
「観察する」
とか
「声を聴く」
とか
「感じ取る」
とか。
そういったことだ。
ちなみに、
頭の中で思考を
したり、
解釈をしたり
することは
上記の3つのどれとも
違う。
頭の中の思考
は、
意識が内側に籠もっている
状態で、
それは主観的だ。
意識を向ける
とは、
客観的だ。
つまりは
「知ろう」
とすることだ。
もしくは
「体験しよう」
という表現でも
良いかも。
そう捉えると、
・自分
にも
・世界
にも、
どちらにも
意識を向けていない
人は多い。
いつも意識は
内側にあり、
主観的な状態だけで
生きている
という人だ。
そういった人は
残念ながら
なかなか自分の視界
から抜け出ることは
できないし、
本質的な成長も
難しい。
私達は
・自分
を生きているし、
・世界
の中で生きている。
まずはその二つに
客観的目線を
向けることが大切だ。
それがつまり
「意識を向ける」
ことであり、
観察したり
声を聴いたり
感じ取ることだ。
さて、
今回はここまで。
このお話は
明日も続けます。
つづく
ゆっくりと
何かを語りたい
ときがある。
何を語りたい
のかは
わからない。
でも、
何かを語りたい。
そういったときは、
私はすぐに
パソコンに向かう。
文章を
書き始める。
頭では
書かない。
手、のみで
書く。
すると
面白いように
手が
スラスラと文章を
書き進める。
手が書いた文章を
後から
目が追い、
頭が追う。
そして
それを面白がる。
これも一種の
セルフコーチングの
やり方であり、
ある意味、最も
初心者向けの
方法だ。
できればこれを
毎日、
一日の終わりに
行なうと良い。
日記を
頭ではなく、
手で書くようなものだ。
とは言え、
毎日、
何か語りたいことがあるな、
という感覚に
なるわけではないだろう。
しかしそれでも
毎日、手に書かせて
いると、
毎日、一日の終わりには
何かしら
手が書けるようになる。
習慣化というのは
面白いものだ。
我々現代人は、
あまりにも
自分自身の内面を
理解せずにいる。
頭の中で
考えていることのみが
自分であると
思い込んでいる。
もっと
しっかりと自分を
理解しようとした方が
良い。
でないと、
本当に自分の人生を
自分として生きていることに
ならないのではないかな。
手で書く、というのは
習慣化するには
とてもオススメの
やり方だ。
つづく
感覚を
言葉にする。
というのは
なかなか難しい
ものだが、
やってみると
いい。
ほんの些細な
ちょっとした感覚に
まずは
敏感になること。
セルフコーチングの
基本は、
まずは
自分の体の感覚を
感覚として
観察すること。
例えば、
何となく首筋が
重いな、
とか。
背骨にちょっとだけ
違和感たあるな、
とか。
今日は
胴体の中が
スースーする。
まるで空洞のようだ、
とか。
そして
わずかに感じる
その部分に
意識を向ける。
解釈とか
思考とか
まったくせずに、
意識のみを
向ける。
するとその
わずかな感覚が
ありありと
際立ってくる。
場合によっては
その感覚の
「中に入り込む」
状態になるかもしれない。
感覚が
際立ってきたら、
さらにそこに
全身全霊を込める
ようにして
意識を集中させる。
すると、
私の場合は
映像が浮かんでくる。
人によっては
何も浮かばない
かもしれない。
映像が浮かべば、
今度はその映像に
ずっと意識を向ける。
映像がなければ、
感覚にそのまま
意識を向け続ける。
すると
ある一定以上の
時間が過ぎると、
ふと、
何かを思い出す
感じで、
言葉が
浮上してくる。
・・・こんな感じ。
慣れないと
難しいかもしれない。
でも
練習する価値はある。
これができるように
なると、
人生の展開は
劇的に変化する。
自分の感覚をもとに
人生の選択を
していくからだ。
ちなみに
私のこのブログは
いつもこんな感じで
書いている。
自分のわずかな、
しかしそこにしっかりと
存在する感覚を、
今日という一日を
終えた
今日にしかない
その感覚を、
言葉にしている
のだ。
これも練習だと
思ってやっている。
だから、
「感覚」を日記にするのも
いいかもね。
練習してみて
ください。
つづく
「気づき」
になる前の
「気づきの感覚」。
これに敏感に
なれると
強い。
あっもうすぐ
私は何かに
気づくな。
・・・と
わかるからだ。
そんなことが
できるのか?
と
言われそうだが、
できるのだ。
私達人間は。
「気づきの感覚」
が訪れると、
私はまずは
自分に問う。
「今すぐに
気づけるか?」
と。
YESだ、と
返ってきたら、
私はちょっと
目を閉じて、
息を整える。
そして
心を静かにする。
すると、
「気づき」を得られる
心の場所に
今の私の心が
あるかどうか、
が
わかる。
つまりは
私の顕在意識が
「気づきの場所」
にいるかどうか、
ということだ。
ズレてるな、
と
思えば、
私は
私の顕在意識の
場所を変える。
心の中を
浮遊し、
心の中の場所を
移動するのだ。
特に意図する
ことはなく、
ただ、
「その場所まで
移動しよう」
と思うだけで、
スーッと移動を
し始める。
そして、
あぁ着いたな。
と
わかる。
気づきの場所に
到着したら、
私はまた
目を閉じて
息を整える。
あとは
何も考えず、
心を無にして
待つだけだ。
すると、
イメージではないが
感覚として、
光
のようなものが
来る。
あっ来たな、
と
すぐにわかる。
すると私はその
光と
一体化する。
光そのもの
となる。
すると
その瞬間に
まるで
何かを思い出す
かのような感覚で、
「気づき」
を得る。
それは
今のこの瞬間の
私にとっては
とても大事な
内容のことが多い。
私は
以上のことを
一日のうちに
何度も行なう。
コーチングの最中にも
何度も行なう。
私のクライアントさんは、
私が
「ちょっとお待ち
くださいね」
と言いながら、
少しの時間、
目を閉じることを
皆、ご存知だ。
そして
それがコーチングそのもの
の展開を
大きく変えることも
日常茶飯事で、
皆、それを
当たり前のように
受け入れて
くださっている。
私はこういった
セルフコーチングを
誰もができるように
なるといいな、と
思っている。
別に
目を閉じなくても
いいけどね。
気づくことに
気づける力。
これは
人生を大きく
展開させてくれる。
つづく