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もうちょい
静かに
せんか。
落ち着いて
進めんか。
一回、
ちゃんと
立ち止まり、
背筋を伸ばして、
しかと
前を向き、
遠くまで
見渡し、
深呼吸を
し、
目線を
上げて。
・・・そして
我に返って。
ガタガタと
騒ぎ過ぎ
だろうよ。
慌てて
騒いで
あたふたと
走り出しても、
何にも
ならんよ。
あなたには
あなたにしか
踏み出せない
一歩が
あるのだから。
何も見えない
状態で
闇雲に暴れる
よりも、
一回、
シャンと
落ち着いて。
静かに
なったら
しっかりと
100%の気持ちで
決断しよう。
決断とは
本来
そういうものだ。
慌てて
するものではない。
単なる
勢いで
するものではない。
つづく
私は
天上から来ている
わけではないだろうが、
地上に降りる
感覚
というのがある。
きっと
人間、
みんなあるのでは
ないか。
地上に降りる
のは
勇気が要る。
勇気を振り絞り、
降りてきて、
実際に地上に立ったら、
あとは
開き直る。
そのような
経験を経て、
我々は皆、
ここにいるのではないか。
私はあまり
人のことを安易に
同志である、
とは
思わないことに
しているが、
でも考えてみれば
ある意味、
同志だよな、
とも。
同じ試練を
越えて
ここまで来たのだから。
本当は
私達はもっと
繋がり合える
はずだ。
もっと
たくさんのシナジーを
起こし、
もっと
素晴らしい世界を
創れるのでは
ないか。
と
単純に
思うのだ。いつも。
同じ人間。
同じ苦しみ。
同じ喜び。
みんな
同じなのだ。
でも、
目的が違ったり、
欲が違ったり、
違いばかりが
際立ったり。
そんなこんなで
混乱ばかり
している。
混乱こそが
人生だ、
と
ちょっと思い込み
過ぎではないか。
現実をみれば、
どうしようもない
ことばかりだが、
でも、
なんとかなる
こともあるだろう。
せっかく
地上に来たんだ。
地上に降りた
同志として、
もっとできることが
あるのでは
ないか。
つづく
上も下も
右も左もない、
無限のような
広大な空間
で、
その世界で、
私は一人
漂っている。
私以外には
何もなく、
だから
「存在」という
ものの
意味が
そこでは
わからない。
「私」という
存在は何故だか
わかるのだが。
その広大な
空間は、
時には
空色になったり、
黄色になったり、
シルバーのような
白いような
単純だけど
表現のしようのない
不思議な光を
放ったり。
そこが
自分の帰る場所
であることは
わかるし、
恐らくであるが、
一日が終われば
毎日そこに
帰っているぽいのだ。
そこにずっと
いると
しまいには、
私自身ですら
わからなくなるが、
それがまた
非常に
心地が良い。
あらゆるものの
源泉に
還る、とは
こういう感覚か。
無限の中の
一点。
それが
私であり、
私がなくなる
ことで
無限と一つに
なる。
が、
それで私が
消えるわけでは
ない。
この
これまた表現の
しようのない
感覚を
思い出している
が故に、
日常において私は私を
忘れることは
ないのだろう、と
思えるのだ。
人とは
何か?
とにかくそれを
探究したい。
その想い
だけは
どうなっても
ここに
残っている。
だから
私は
私として
ここに
いるのだろう。
つづく
心が
バラバラになってる
人がいる。
心が
いくつもに
分離されている。
もともと
人の心は
いくつもに分離
しているものだが、
しかしその程度が
ひどくなり過ぎて
しまうのだ。
結果、
自分がまったく
わからなくなる。
とりとめが
なくなる。
そして
生きる気力が
失われる。
ただ、
その状態を
本人が無自覚の
人は多い。
バラバラの心を
無理に集約しようと
するのは
それこそ
無理がある。
バラバラの
ままでいい。
ただし
バラバラのままの
調和を図る
必要がある。
そのためには
中心核
が必要だ。
まるで太陽系の
中心に
太陽があるように。
中心核が
できれば、
それぞれの心達は
それぞれの
最も居心地に良い
距離感で、
全体として
調和を始める。
調和することで、
一見、バラバラな
心達が
バラバラだけど
統合される、
という状態になる。
バラバラだけど
同じ方向を
向くのだ。
それにより
その人からは
内発的なパワーが
溢れる。
だから、
改めて言うと、
バラバラな心を
無理に
一つにしようと
しないことだ。
それよりも
中心核を
持とう。
中心核と
なり得るのは、
願い。
人生の願い。
真本音の
願いだ。
つづく
ほんの
一滴のメッセージを
私は
その人に残す。
ほんの
一滴でいい。
それは
その人の心の海で
海底深くまで
スーッと
沈み、
ただ
ゆらゆらと
漂う。
メッセージは
皮膜に覆われ、
皮膜に
守られながら、
ずっと
ゆらゆらと
漂い続ける。
きっと
最善のタイミングで
その人の海は
その皮膜を
破るだろう。
するとその瞬間、
皮膜の中の
メッセージは、
海を浮上
し始める。
それは
時には
稲妻のような
鋭い輝きと
衝撃を
海全体に
与えるかも
しれない。
どれだけの
刺激が必要かは、
メッセージが
決めるのでは
ない。
海が
決めるのだ。
心の海が。
これは
一つのプレゼント
のようなもの。
皮膜付き
メッセージを
ほんの
一滴。
その人の
海が
望むものを。
それが
私の役割だ。
つづく
怖がりだからこそ
出る
パワーがある。
人は皆、
怖がりだ。
怖くない
ということは、
自分の範疇でしか
物事を為していない
ということ。
自分の枠を
超えることに向かえば、
誰だって
怖くなる。
怖がりである
ことを
恥じることはない。
むしろ、
怖がりであることは
誇りに思えば
いい。
自分の怖さを
ちゃんと見つめる
度胸がある
ということだから。
怖ければ
怖いほど、
しっかりと
現実を見よう。
自分の目と
耳と
体験で、
確かめよう。
怖さの原因を
見つけ、
怖さの原因を
見つめ、
怖さを
消さず、
そのままに、
怖がりの
まま
堂々と
進もうではないか。
つづく
人間の本質は
祈り
ではないか。
・・・と
強く感じるのは、
青空のもとに
強く風の吹いている
日だ。
風は
空気が生きている
証拠だ。
この世界が
生きている証拠。
人が
生きている証拠
だな、と。
強く風が吹けば、
ついつい
抗ってしまうが、
いっそのこと
風に身を任せ、
飛ばされても
よいではないか。
などと
考えながら
仕事に向かう。
自然に吹く
風と
同じものを
私はいつも
人から受けている。
今日お会いする
人達は、
どんな風を
吹かしているだろうか。
その
風のもとである
祈りは、
どんなものか。
人の祈りに
触れることは
私の秘かな
楽しみであり、
その祈りは
到底、言葉には
ならないものだが、
それらを
風として感じるのは
格別である。
今日は
どんな風に
乗り、
私自身が
その風を
どう活かすか?
組織や場に
皆さん自身の
良い風を
増幅させ、
最も魅力的な
風の循環に
成長させていく。
そのサポートが
私の仕事の
本質だな。
つづく
私は
私と
一致しているか?
本当に
一致しているか?
私は今、
本当に
私だろうか?
私だと
思っていても
実は
何かに支配されている
だけの
存在ではないか?
自分の想いで
生きている
つもりでも、
実は
自分の本当の想いは
踏みにじり、
どこの誰かも
わからない、
存在すらも
あやふやな、
何者かによって
揺らされ続けて
いるのではないか。
これは
本当の道か?
私の望んだ
道か?
今日は
本当の一日か?
私の一日
だっただろうか?
私は私か?
本当に
私か?
・・・
もっと真剣に
問おう。
目を
そらさずに。
もう、
進む時だ。
本当の足で。
自分の足で。
つづく
天と地は
実は
一つだ。
一つが
あえて
二つに分離
している。
二つに分離
したからこそ、
進化が
始まる。
二つを
一つに
結ぶもの。
それが
人間であり、
私達だ。
天と地を
結ぶ
生き方。
天は想い。
地は形。
想いと形を
一致させる。
それができるのは
私達
人間のみ。
これからの
社会は
人間が創っていく。
これまでも
そうだったでは
ないか、
とは
思うなかれ。
これまでは
人間の世では
ない、
と私は思う。
人間ではなく、
何かに私達は
ずっと
支配されてきたのでは
なかったか。
自分の人生を
生きている
つもりで、
そうではない道を
創ってきたのでは
なかったか。
時代を変える。
人間の時代に
変えていく。
そのために
私達は
ここにいるでは
ないか。
天と地を
結ぶのは、
私達だ。
私達人間
だ。
つづく
今、
流れが
観えるだろう。
あなたの
前に。
ここに
辿り着いたのは
あなた自身だ。
あなたの
成果だ。
その流れは
あなたがずっと
夢みてきたもの。
あなたの
人生の願いに
直結する。
この流れに
入り、
流れに
委ねれば、
あなたはきっと
あなたの望む
海に
出られるだろう。
さぁ、行くか?
どうする?
人生の展開は
これまでの
展開の仕方が
まるで別人の人生
だと
感じるくらいに、
変貌するだろう。
これまで
あなたは
陸地を歩いてきた。
流れに乗れば、
ここからは
陸地を歩く
ことは
もう、ない。
しかしそれこそが
本来の
あなたの
進み方だ。
あなたが
最も得意とする。
さぁ、どうする?
流れに入り、
流れに委ねるか?
もう少し
陸地を進むか?
どうする?
今はその判断を
しっかりと
決めるとき。
明確に、
明瞭に、
決めるとき。
つづく
自分を責める
時間があれば、
自分を
誉めてあげた方が
いい。
なぜなら、
自分は
生きているでは
ないか。
生きていて
くれるでは
ないか。
それがどんなに
すごいことか、
私達は
忘れてしまっては
いないか。
人生なんて、
いつでも
リタイアできるものだ。
私達が想像する
よりも
ずっと簡単だ。
私達は本能的に
それを
知っている。
しかし今、
私達は
生きている。
生ききろうと
している。
それで
充分だ。
そうしている
自分を
誉めずして、
いったい何を
愛せるだろう。
生きる
とは
大変なことだ。
生ききる
のは
もっと大変だ。
そのことも
本能的によく
わかりながら、
私達は
ここにいる。
今、
ここにいる。
まずはその
現実を
しっかりと
感じようではないか。
つづく
生まれる、
というのは基本、
怖いことだ。
だから、
新たな自分として
生まれ変わったように
生きることも
怖いことだ。
でも一度
生まれてしまったら
生きるしかない。
新たな自分も
同様だ。
新たな自分として
せっかく
生まれ変わったなら、
開き直って
「これが私だ」
と
生きるしかない。
そこで
「以前の私に
戻りたい」
と
思ってしまうから
その中途半端さが
不調和の始まり
となる。
道を一つ
決めたら、
そこに
向かう。
真一文字に。
別の道の方が
良かったか?
ということはもう
考えずに。
私達人間は
器用ではない。
一つ決めて
一つやる。
そういう生き方しか
基本的には
できない。
中にはもちろん
二つ決めて
二つともやる。
とか
三つ決めて
三つともやる。
という離れ業が
できる人も
いるが、
それは
一つ決めて
一つやる、
という生き方が
ちゃんとできるからこそ
そういった応用が
効くだけのことだ。
一つ決めて
一つやる、
ことすらできない人が
二つ決めて
二つやる、
という芸当が
できるはずがない。
新たな自分として
生きる、
と
決めたら、
その自分が
自分なのだから、
以前の自分は
無視しよう。
この極端さが、
今は
道を開くんだ。
つづく
今回もまた
問いを。
ちょっと変な
問いだが。
・・・
あなたは今、
何に
包まれている?
それを
しっかり感じた
上で、
その
包んでいるものは
あなたに今、
何を
与えようと
してくれている?
・・・
与えられるもの
を
しっかり認識し、
それを活用し、
あなたは
今日から
何をする?
つづく
人には、
新たな自分
が
生まれる瞬間が
ある。
でもそれは
本人が気づかなければ
すぐに
消えてしまう。
気づき、
それを丁寧に
誠実に
育んでいく。
それにより
新たな自分は
ある時ある瞬間から
グッと
成長を始める。
それにより、
これまで自覚して
来なかった
自分の願いや
自分のビジョンや
自分のミッションや
自分の進むべき道が
観えてくる。
または、
これまでまったく
存在しないと思っていた
新たな能力や
新たな魅力や
新たな個性が
一気に開花する。
ほんのわずか、
そっと
芽生える
新たな自分。
それに気づける
自分で
あるか?
人生の展開は
ここで
まったく異なるもの
となる。
本来の自分に
戻る、とは
そういった
新たな自分を
一つずつ
育むことで成される。
新たな自分に
気づく感性。
それは
自らの真本音に
素直に生きる、
ということでしか
得られないものだ。
真本音で
生きる。
とても単純な
ことなんだけど、
その単純な
ことが、
今日一日、
あなたは
できたかな?
つづく
“迷ったら攻めよ”
という
指針が浮かんだ
という話を
昨日、書いたのだけど、
“攻める”
とは
どういうことだろう?
まず真っ先に
思い浮かぶ
のは、
「目的を定める」
ということだ。
何のために
私は
動くか?
という
自分自身が
本当に納得する
目的を特定する。
この目的に
真一文字になろう!
と
思えるものを。
それが
第一だね。
次には、
「余分なことは
全部やめる」
ということかな。
目的に近づく
のを阻害することや、
目的とは特に
関係のないことは、
極力
やめる。
自分の全エネルギーを
その目的に
注げるように。
もちろん
100%とは
いかないかも
しれない。
でも
徹底的に100%に
近づけようとする、
その潔さこそ
大事だな。
さらに、
「一つ決めて
一つやる」
かな。
これをやろう!
と
行動を一つ決めて、
その行動に
集中する。
その完了感が
出たら、
次の行動を決める。
・・・というように
一つ一つ
丁寧に、
最大の集中力を
持って
取り組む、
ということ。
一つの行動を
しているときは、
そこに意識を
100%向ける
ということ。
なんか
書いているうちに、
いつもやっているのと
同じような
当たり前のことばかりだな
と
思ってしまうのだが、
でもこれら基本を
もう一度、
しっかり
丁寧に。
そうするだけで、
きっと
かなりの
攻め!
となるのだろう。
自然にね。
つづく
5月末から
この6月にかけて、
どうやらまた
大きな節目が
あるようだ。
一つ、何かが
世の中全体として
完了した感が
ある。
この節目を
どう
越えれば良いか?
という問いを
私自身に
投げてみると
たった一言、
かなり明確な
指針が来た。
・・・
“迷ったら攻めよ”
・・・
どうやら
私達は、
5月末まで
何かを必死に
守っていたようだ。
「守りきれた!」
という
達成感がある。
だからここからは
攻める。
「攻める」
という表現は
なんとも攻撃的
だが、
しかし今は
これが一番
ピッタリくる。
真本音で
攻めよ!
素直に
攻めよ!
場合によっては
勢いだけで
突っ走っても
いい!
という
開放的な
想いに乗って
それらの言葉が
浮かんでくる。
恐らく
5月末まで、
私達はだいぶ
我慢したのだ。
苦労したのだ。
お疲れさん。
でもそれはもう
終わったよ。
だから一気に
駆けようぜ!
という
ことだな。
つづく
今の
5月から6月にかけての
日々が、
またとてつもなく
重要なんだな。
一つの大きな
転換点。
これについては
改めて
書かせていただくと
思うが、
今回はまた、
今だからこそ
大事な問いを。
・・・
あなたの心の
根底にある
怒り(憤り)は何だろう?
それを
しっかり見つめて、
あるがままに
感じて、
その声を
ちゃんと聴いて
みよう。
・・・
怒り、って
大事なんだ。
自分はすぐには
怒らない
大らかな人間で
いよう。
・・・とする人が
いるが、
もし本当に
そうなりたいなら、
より一層、
自分の怒りや
憤りを感じ、
向き合った方が
いい。
怒りに敏感に
なる。
それにより、
自分が今
本当に意識を向け
エネルギーを注ぐ
べきことは何か?
が
観えたりする。
怒りは
安易に人にぶつけては
ならないが、
怒りは
ちゃんと自分自身の
大切な気持ちとして
自分が
大切にすべき。
自分の中では
いつも
怒りを
開放させておこう。
さて、
今はとてつもなく
大事な転換点。
その指針を
見出すには、
自分の怒りに
光を当てることだ。
つづく
もし
大波に
呑まれたら、
自分に
太刀打ちできない
もので
あればあるほど、
私はその
大波に
完全に
委ねることに
している。
完全に、
委ねる。
完全に。
・・・これが
できるようになる
まで、
だいぶ人生の時間が
かかった。
私が
セルフコーチングの
力をつけたのは、
これができるため
であったと
言ってもいい。
自分の
手に負えない現実に
完全に
委ねられる
自分になる。
これが私がずっと
目指したもの。
これができて
初めて、
この現実世界の
中で
調和を生み出せる、
自らを起点
とした
調和を。
・・・と
ある時
腑に落ちたのだ。
大波に
抗ったり、
反発したり、
そういった経験は
たくさんしたが、
結局は
すべて遠回り
だった。
これでは
人生の目的は
果たせない、
間に合わない
と
思った。
ただし、
大波に委ねる
とは
大波に従属する、
とか
大波に屈服する、
とか
自分を失う、
とか
そういったこと
とは
本質的根本的に
異なる。
それらとは
むしろ
真逆だ。
自己を
しっかり持ち、
自分の使命を
果たそうとする
とてつもない
意志を持つからこそ、
大波には
委ねることが
できる。
気がつけば、
大波を
自分が活用している
ということに
なっていることも
ある。
ただし
これも難しいことだが、
俺が大波を
活用しているぞ!
と
意識した瞬間から
大波には
呑まれてしまう。
要するに、
自我とか
反応本音レベルの
意図では
まったく太刀打ちは
できない。
そんな次元は
手放してしまう。
それが
委ねる
ということの
根本だ。
言葉で説明しようと
すると、
このように
とても難しくなる。
これはやはり
説明することでは
ない。
自ら
体験することだ。
体験すれば、
すぐに
わかる。
説明はできないが
「わかる」
のだ。
頭ではなく、
肚でわかる。
私自身が
そのように生きて
行きたいし、
みんなが
そのように
生きていけるように
サポートするのが
私の役割だ。
さて、
7月からまた
大事な動きに
入る。
そのための準備が
この6月だ。
つづく
自分自身の
コア(中心核)に
意識を向けると、
静謐、
という言葉が
ぴったりするくらいの
静けさを
たたえている時と、
ブンブンと
凄い勢いで回転
しまくっている時が
ある。
あんまり
中間はない。
中途半端が
嫌いだからか。
静謐な時は、
私はできるだけ
物事を(現実を)
よく観察するように
している。
観察するだけで
あとは
何もしない。
何か
思考を働かせたり、
今後の道筋を
見つけたり、
実際に何か
行動に移したり、
・・・どれだけ
そういったことを
したくなっても
やらない。
ただ、
観察に徹する。
逆に、
ブンブン回転
している時は、
自分のすべての
思考と直観と
知恵を
振り絞って
道を見出そうと
する。
たとえ
道が見出せなくても
一歩ずつでも
進む。
行動に移す。
振り返れば、
そのメリハリを
とても大切に
してきた。
恐らく、
そのメリハリこそが
私の人生を
調和させてくれた
のだと思う。
調和とは
安定ではない。
極端な言い方を
すれば、
調和とは
不安定だ。
進化のための
最善の
不安定さを
常に内包しているのが
真の調和だ。
私のその
メリハリは、
常に何らかの
波乱と
混乱と
課題を
私自身に与え続けて
くれた。
それが
とてつもなく
良かった。
さて、
今日からまた
私の中心核は
ブンブンと
凄い勢いで
回転し始めた。
明日から
どうなるかな?
楽しみ。
つづく
ふと、
意味のわからない
映像が
浮かぶときは
ないかな?
それがかなり
明瞭な場合、
それは
単なるイメージ
ではなく
「実在」
かもしれない。
「実在」
つまりは
現象(現実)の
もとにあるもの。
物事の根元。
物事の本質。
何らかの物事
について
その本質を
掴めた時、
私達は時々、
それを映像化して
自分自身に
もたらす。
それは
非常に意味のある
ヒントとなる。
自分が単に
頭でイメージを
しているのか?
それとも、
何らかの「実在」を
掴み、
そのヒントとしての
映像を
自分自身に見せて
いるのか?
この区別が
つくようになると
人生はとても
面白くなる。
そうなるためには
まずは、
ふと浮かぶ
一見すると
わけのわからない
映像があった場合、
それは
ほんの一瞬
よぎるだけの場合が
多いのだが、
それを
逃さずに、
来た!
と
その映像に意識を
向けること。
頭で解釈する
のではなく、
ただただ
その映像に
意識を向け続ける
こと。
・・・ということを
続けるといい。
意味がわからない
ならば、
意味がわからない
ままで良いので、
これを続けていると、
ふと
突然に何らかの
気づきが
来るかもしれない。
来ないかも
しれないが。
来ないなら
来ないで
それでいい。
これも一つの
セルフコーチングの
訓練だ。
一つ一つの
映像を
大切に。
つづく
ブクブクブクと
海の底に
潜って、
静かに
していると、
どこからともなく
賑やかな
声が
聴こえてくる。
楽しそうな
声。
仲間達。
今、私は
海の底にいるので、
音もなく
光もないが、
その賑やかな
声達の
その場所は
光り輝く
明るい場だと
わかる。
無邪気な
笑顔、
安心して
自分そのまま
でいられる、
しかも
パワー溢れ、
志、溢れる。
私はこの
静かな場所から
その賑やかさを
感じ
楽しんでいる。
彼らには
彼らなりの
やり方がある。
それを
存分に
試してみればいい。
私のやり方は
私がやるための
もの。
彼らには
自らの道を
自由に進み、
彼らにしか
出せない答えを
出すことこそ、
最速の進み方。
それにしても、
私の若い時は
あんなに
賑やかでは
なかったよな。
もっと深刻で
ジメジメしていた。笑
もっと苦行
だった。
時代が変わった
というよりも、
次元が変わった
のだな、
と思う。
新たな時代
新たな次元の
進み方。
このまま
堂々と
進んでほしいな。
つづく
その人は
一社員。
いつもは
目立たない。
自主的に
仕事をすることも
少なく、
いつも
受け身。
どちらかと
言えば、
手を抜くことばかり
考えている。
上司も
困り果て、
竹内さんの
コーチング受けて
ダメだったら、
もう彼の成長は
諦めます。
・・・と
言われる始末。
最近は
こういった傾向の
コーチングは
受けないことに
していたのだが、
だが
しかし、
その人が
今日の研修で
発した
何気ない一言。
その言葉
自体は
ホント
大したことは
何もないのだが、
でも
その言葉を
発している
その人自身の
中心に、
何か
青空のような
水晶のような
とても深くて
清々しいものが
一瞬だけ
観えた。
こういう一瞬を
見逃したら
もう
コーチは失格だ。
あーこんな
深いものを彼は
持ってるのか。
一瞬でも
姿を現した
ということは、
ここからは
刺激さえ入れれば
それは
まもなく本格的に
目を覚ますだろう。
本当の彼。
本来の彼。
その源。
ちょっと
面白そうだ、
このコーチング。
私は
受けることに
した。
人は
自己開放の
時を待つ。
それは
一気にくる。
もちろん
コーチングはその
きっかけに
過ぎない。
ちゃんと彼の
真本音の
望み通り、
最短距離を
最大スピードで
進めるように
祈りを込めて。
つづく
今、
自分がいる
「場」。
つまりは、
「環境」。
私は
この場に
どんな価値を
感じているだろう?
この場から
どんな価値を
享受しているだろう?
そして、
私は
この場に
どんな価値を
提供しているだろう?
この場は
私からどんな価値を
享受できているだろう?
・・・以上の
視点、
つまりは
「価値」
という視点から、
「自分と場」
の関係性を
観察して
みよう。
私達は、
人から影響を
受けながら
生きているが、
場からも
多大な影響を
受けている。
逆に、
影響を
与えてもいる。
場との共存。
場との共創。
この視点は
今こそ
大事なのではないか。
場との調和。
場との進化。
・・・
場がなければ
人は存在できず。
人がいなければ
場は育たない。
自分は
どんな場に
身を置くか?
も
大事だが、
それ以前に
もっとしっかり
考えるべきことが
あるのではないか。
つづく
必要なことが
必要なタイミングで
必然的に
起こる。
そういった
調和した人生を
創り出すためには、
時間との調和
が
必須だ。
自分と時間
との調和。
そのための
第一歩は、
無駄なことを
やめる
・・・だ。
さらに
そのための
第一歩は、
無駄なことを
考えない
・・・ことだ。
みんな、
無駄なことを
考え過ぎだ。
考える必要の
ないことを
あーだこーだ
と
考え続ける。
自分の意識が
全部そっちに
持っていかれる
ので、
目の前の
肝心な現実が
観えなくなる。
それが
調和度を
極度に下げる。
じゃあ、
無駄なことを
考えないように
するには?
無駄なこと
なのか、
必要なこと
なのか、
その判断は?
という質問が
来そうだ。
でも残念ながら、
今すぐに
判断がつくように
なる方法は
ない。
大事なのは
日々の
習慣づけだ。
どんな
習慣かと
言うと、
単純だ。
自問自答
だ。
自分に
丁寧に問うのだ。
今、自分にとって
最も大切な
問いは(=考えるべきことは)
何だろうか?
と。
そして、
今、私が
考え続けていることは
本当に必要なのだろうか?
と。
う〜ん、
わからない。
必要かどうか
わからない。
・・・と
迷う場合は、
必要ない
ということだ。
本当に必要なことで
あれば、
上記の問いを
自分に真剣に投げれば、
すぐさま
「これは必要なことだ」
と
答えられるはず。
・・・と、
あえて決めつけて
しまう。
つまり、
必要かどうかわからない
ことはもう
考えない。
考えない代わりに
意識を外に
向け続ける。
自分の周りの
現実を
あらゆる現実を
観察し続ける。
散歩にでも
出ればいい。
外の景色を
眺めながら。
自分の心の内側に
意識が
向かわないように。
最初は
無理矢理にでも。
強引にでも。
そして、
本当に必要な
ことのみ、
「よーし、今からこれを
徹底的に考えるぞ」
と決めて、
真剣に集中して
考える。
考え尽くす。
以上のような
メリハリ。
これをつけながら
一日一日を
過ごしていく。
そうすると自ずと、
無駄なことは
考えない
必要なことのみ
考える
自分となれる。
すると途端に
時間との調和が
始まり、
人生の調和が
始まるんだ。
つづく
私達は
“環”(わ)
の中心にいる。
誰もが
そうだ。
自分の環がある、
と
表現することも
できる。
あなたの環は
今、
どれくらいの
大きさだろう?
昔、
南アルプスの
少しだけマイナーな
地域を
一人で歩きまわった。
ある山の
ピークに立ったとき、
そこは3,000mくらいの
高度だけあって、
人は一人も
見えないのに、
世界が
青空のもと、
360度
見渡せた。
地平線なのか
水平線なのか
区別のつかない
彼方にのみ
雲は存在し、
あとは
濃い青空。
その時、私は
確かに
“環の中心にいる”
と感じた。
あの感覚が
33年経った今も
ずっと
残っている。
それは一つの
真実なのだと
思う。
私達は
誰もが
“環の中心にいる”。
そして
“環”を意識することで、
“自分”がわかる。
それは
自我ではなく、
“世界の中の自分”
である。
その目をずっと
持ち続けること
でしか、
私達は自分の
本当の道を
見出すことはできない
のではないか、
と
今日、ふと
思ったのだ。
変な表現だが、
きっとみんな
無意識に
自分の環を
意識している。
それをもっと
意識的に
意識するといい。
今、
あなたの環は
どれくらいの
大きさだろう?
自分が
その環そのものに
なると、
自分のことが
どう観える?
自分が
その環そのものに
なると、
自分に何を
メッセージしたい?
今、
環は、
何を語りかけている?
あなたは
今、
何をすべきだろう?
つづく
人生にヒントは
たくさん
ある。
それはまるで
蜘蛛の糸
のような感じで、
天から
垂れ下がっている
イメージだ。
蜘蛛の糸
なので
一見、何もないように
見える。
しかし
本当にたくさんの
糸は存在し、
それを見つけられる
自分であるかどうか、
が
ポイントだと
わかる。
心が
ある一定以上に
スッキリしていないと
その糸は
観えない。
真本音で生きる
意味の一つは
ここにある。
クリアな生き方
は、
たくさんの
蜘蛛の糸
との出会いを
意味する。
糸は
こんなに
たくさん
あるんだ!
と
びっくりする
ことだろう。
ただし、
糸が観えた
としても
その糸の彼方、
つまりは天
を見上げても
何も見えない。
この糸が
どんな源から
どのように
垂れ下がっているのか
は、わからない。
ただ、
その糸が
とても大事である
ということのみ
わかる。
だから私は
糸をじっと
見つめる。
そして
必要ならば、
その場ですぐに
セルフコーチングする。
糸との対話
だ。
私はこういう時の
ために
常に手帳を
携帯している。
手書きですぐに
書けるヤツ。
どこに行く
時でも、
仕事でも
プライベートでも。
糸との対話は
ほぼほぼ
メモに残して
おく。
その時には
まったく意味が
わからなくても、
それでも
メモに残し
それを蓄積する。
そして時々、
その手帳を
眺めたり
読み返したりする。
すると
ある時ある瞬間に
圧倒的な
気づきや
ひらめきが
来る。
人生にヒントは
たくさん
垂れ下がっている。
ヒントは
常に目の前に。
それを掴める
自分でいよう。
つづく
無闇に
苦しむ必要は
ないが、
私はやはり、
人としての
苦しみ
を
大切にしたい。
エネルギーが
ぐんぐん湧いてきて、
いわゆる
モチベーションアップ
という状態で、
全能感みたいな
ものが出てきて、
心が全部
前向きになって、
怖いものが
なくなって、
何でもできそうな
気がする。
・・・という
状態になると、
私はいつも
行動を
止めてしまう。
なんか、
いやなのだ。
エネルギーの
高まりが
不自然で。
このまま
行けば、
確かにすべての
物事が
上手くいきそうだな、
と
思えている
時、
私が常に
チェックするのが、
今、
目の前の
現実が
ちゃんと観えて
いるか?
ということだ。
例えば、
目の前にある
道端の小さな
お花。
そのささやかな
可愛らしさが
ちゃんと
目に映っているか?
と。
さっき
全能感、と
書いたけど、
本当の全能感
とは、
目の前の現実が
とてもクリアに
観えている
状態だと思うのだ。
喜びや自信
だけでなく、
あらゆる苦しみや
怖さも。
ちゃんとすべてを
観て、
感じることが
できている状態
だと思うのだ。
エネルギーが
湧いて
勢いはあって
でも、
何も観えなく
なっている、
・・・という時は
私はすべての
行動を
いったん止める。
そんな自分が
気持ち悪い
から。
不自然
だから。
そんな勢いは
一時的なものだと
やっぱり
わかるから。
勢いだけで
進めば、
一つ一つに
一挙手一投足に
魂を
込められなく
なる。
それは
いやだな。
勢いの
ある時と
ない時。
勢いがあれば
ぐんぐん
進めて、
なければ
止まってしまう。
そんな人生は
いやだな。
私は昔から
苦しみを
感じ過ぎるところが
ある。
喜びよりも
苦しみに
焦点を当て過ぎる
傾向がある。
それは
自分の癖として
注意せねば
ならない。
でも、
何も感じずに
進むよりは
よほど良いな、
とは
思ってるんだ。
つづく
安心感と
冒険心。
今のあなたに
とって
真に
落ち着けるのは
どっち?
安心安全な
方に
進めば
落ち着ける。
・・・とは
なかなか単純に
ならないのが
私達人間だ。
安心安全な
場所にいれば
いるほど、
焦りと苛立ちと
そして
自虐。
そういった心が
ワッと
溢れ出す。
そんな人は
多い。
そう。
冒険したい
からだ。
今は冒険や
挑戦をする
時期である、
と
自分で
決めている
からだ。
そんな人は
心がヒリヒリ
するような
方向に
人生の舵を
切ると、
途端に
落ち着くものだ。
今のあなたは
どっち?
自分の心に
素直に
進もうよ。
つづく
今回もまた、
「今だからこそ」
大切な問いを。
大きくは
二つ。
・・・
①
「今のあなた」が
「今だからこそ」
やりたいことを列挙してください。
たくさん出し切った後で、
その中で最もやりたいことを
6つ選んでください。
今、本当にやりたいこと
を6つに特定するわけです。
・・・
②
上記、①の答え6つを
横に置いてでも、
「今だからこそ」
やるべきことを列挙してください。
本当にやりたいこと6つ
よりもさらに
優先度の高い
やるべきことです。
列挙したらやはり
そのトップ6を
選んでください。
本当にやりたいこと6つ
よりも先に
やるべきこと6つ
を特定するわけです。
・・・
・・・
・・・
・・・
・・・
・・・
②で選んだ6つ。
今、すぐに
やりなさい。
ぐずぐずせんと
はよやらんかい!
という
やつです。
私達は
すべきことを
ちゃんとしなければ
これ以上前には
進まない。
と、
真本音で決めている
ケースが多いのです。
自分が
やるべき、と
決めていることは
今すぐ、
やろう。
つづく
お湯が沸騰
した時の
気泡のように、
次々に
浮かび上がる
ものがある。
その一つ一つ
には、
きっと面白い
ひらめきが
詰まっているのだろう。
だが、
それらの
泡を
私は無視する。
勝手に
浮かび上がり、
消えていけ、
と。
実は、
ひらめきの
99%は
必要のない
ものだ。
必要がない
どころか、
それらに
捕われると、
本当に必要な
ひらめきが
観えなくなる。
本当に必要な
ひらめきから
遠ざかる。
捨てるべき
ひらめき。
それが
99%。
残念ながら、
それが今の私達の
心だ。
情報過多。
歪曲。
解釈。
ひねくれ。
悪意。
・・・まぁ、
いろんな原因が
ある。
つまりは、
インプット段階で
ひらめきの質が
大きく
低下している。
質の悪い
インプットの
反射として
発生するひらめきが
ほとんど
ということだ。
ただの
反射のひらめきか?
それとも
本当の
ひらめきか?
この区別を
つけることが
最も重要だったり
する。
セルフコーチング力
を高める意味は、
ここにある。
・・・
まずは
自分の中に
どれだけ多くの
ひらめきが
存在しているか?
を
知った方がいい。
沸騰した
お湯のように、
気泡が常に
沸き続ける。
それを
見つめられる
自分になるといい。
それもできない
のに、
ひらめきの区別は
つくはずがない。
現代は、
現在は、
生きづらい
社会だ。
余分なものが
多過ぎる。
外面も、
内面も。
だからこそ、
区別し
選び出す
という力が
必須。
それが
生きる力だ。
つづく