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私達は
生身の人間なので、
その都度
その都度
気が変わるのは
当たり前ではないか。
この
気を移り変わり
を
楽しまず
どうするの?
気が変わる
私はダメだ。
ではなく、
それよりも
なぜ気が変わったのか?
を
じっくり観察する方が
余程、実りがある。
人間の本質は
進化
なので、
変化は
当たり前だ。
変化する自分、
状況により
気持ちの変わる自分、
を
探究することが、
真に
変化せず
揺るがず
ずっと在り続けるもの
の
存在を逆に
際立たせるんだ。
変化を
楽しむからこそ、
不変のものが
わかる。
不変のものが
理解できるほどに
より
変化を
楽しめる。
これは
二面性
というよりも、
こういった
在り方そのものが
真理
というものでは
ないか。
解釈・評価
よりも
まずは
観察だ。
私達に
まだまだ
足りないものは。
つづく
これは
皆さんにお勧め
するわけではなく、
あくまでも
私個人の考え方
であるが、
私は
与えられたものは
すべて
命である
と
捉えるように
している。
目の前の
物。
与えられた
考え方。
与えられた
経験。
与えられた
課題。
与えられた
夢。
・・・
もちろん
夢とか自分の
想いとかは、
自分の中から
湧いてくるものだが、
それについても
自分が
自分に与えた、
という捉え方を
私はする。
すべてを
命であると捉え、
命として
大切にしようと
する。
だからこそ、
逆に
捨てる
こともある。
大切にしようと
するが故に
捨てる
のだ。
時
もそうだな。
時間も
与えられた命だ。
だから
とてつもなく
大切にする。
大切にするが
故に、
今は
ダラダラ過ごそう
と
決めることもできる。
無為な時間を
過ごそう
と
真面目に決めて、
ダラダラする。
命だからだ。
私の長男は
もう8歳になったが、
先日、
強く叱った。
物を雑に
取り扱ったからだ。
私は基本的に
私の生き方は
他者に押し付けることは
しないが、
しかし
きっと長男もそれを
望んでいたのだろう。
「すべてのものを
命だと思え!」
と
叱っていた。
それが
この世で生きる
覚悟であると
思うのだ。
固い話
ではない。
むしろ
固いか柔らかいか、
で
表現すれば、
これは
柔らかい話だ。
なぜなら
やはり私には
すべてが
命に観える。
私にはそれが
真実に
観える。
だから
それをそのまま
受け入れている
だけだ。
すべてが
命だと思ったら、
フッと
すべてが
軽くなったんだな。
そして
軽くなった心の
ままに、
一つ一つを
丁寧に生きる。
自然に
それができる自分に
なれて、
我ながら
ちょっと自分を
好きになれた。
自分も
命なんだな、
と
思えたんだ。
つづく
心の中の
この暗黒のような
モヤモヤは
何だ?
それほど
大きなものでは
ないが、
濃い。
実に濃い。
まるで
固形物のようだ。
ブニョブニョ
している。
できれば
触りたくない。
しかし
こういったものほど
放っておいては
ならない。
しっかり
意識を向ける。
それどころか
場合によっては
一体化せねば
ならない。
私自身が
ブニョブニョに
なる。
勘弁して
ほしい。
でもやる。
おかげさまで
私自身が
このようなブニョブニョを
発生させることは
もうないので、
きっと
誰かから
もらったやつだろう。
一体化すれば
もともとの
持ち主が
ほぼわかる。
このブニョブニョは
深い悲しみ
だな。
これは
キツイな。
あの人は
こんなものを
抱えながら
生きてきたのか。
よく
体がもった
ものだ。
しかしこれが
こちらに
移ってきたということは
一つの開放だ。
きっとその人は
まもなく
その悲しみを
乗り越えるのだろう。
それはそれで
喜ばしいことだが、
このブニョブニョ、
どうしようか。
誰か
もらってくれる人
いないか?
いない
よな。
仕方ないから
しっかり成仏
するまで
向き合うとするか。
おい、
なんで
こんなにも
濃くなった?
お前自身も
気持ち悪い
だろう。
もう
やめようぜ。
本来の姿に
戻ろうじゃ
ないか。
つづく
昔の出来事が
フラッシュバック
するとき、
よく私は
その時の自分自身
となる。
心も体も
その時に戻る
感覚だ。
と同時に
今の目線から
その自分を冷静に
時には
冷徹に
見つめる
自分もいる。
それはやはり
過去を振り返る
という状態
だからからだろう
と
思っていのだが、
どうやら
違う気がする。
つまり、
その出来事の
起きた
その時その瞬間も
まさしく
今と同じ
状態ではなかったか。
つまり、
このように
冷静に
時には
冷徹に
自分を見つめる
自分が
そこにいた
のではなかったか。
だから
初めから
わかっていたのだ。
自分の
愚かさを。
そっちでは
ないよ、
と。
そうでは
ないよ、
と。
何をやってるんだ
俺は、
と。
その客観性が
あることを
ちゃんと
自覚してたらなぁ、
と
思うのだが、
しかしやはり
そこは人間。
そうそう上手く
行くようであれば、
むしろ
人生など
必要ない。
未来の私は
常にいる。
今の
ここに。
今まさに
今の今にも
いるだろう。
じっと
私を
見つめている。
冷静に
冷徹に。
過去の
目もある。
過去の私も
今の私を
見つめている。
見つめ
続けている。
過去と
今と
未来の自分
の
コラボ。
これが
人生の
本質だろうよ。
ただ、
それをわかりながらも
私は
今に生きる。
じっと
見られている
感覚は
今はよくわかる。
でもあえて、
それを
無視してでも
今の自分として
今に
いたい。
たとえ
愚かでも。
それも
人生の
本質だろうよ。
つづく
情け容赦のない
体験が
ある。
落ちるところ
まで、
心が落ちる。
心には
底がある。
永遠に
落ちることは
ない。
底に着けば、
まるで
死んだように
横たわる。
目を閉じ、
無を
感じる。
いっそのこと
このまま
ずっと
無でいられれば、
なんと
幸せなことか。
しかし
残念ながら、
底にはそう長くは
いられない。
また
浮上が始まる
のだ。
これが
人間の
最も辛いところだ。
情け容赦が
ない。
何度も
落ちる。
落ちては
また
浮上する。
その繰り返し。
いつまで
続くのか・・・。
目を開けた
とき、
自分が完全に
浮上しきった
ことを知った。
終わったのか?
いや、
でもまたいつ
繰り返すか
わからない。
その不安は
拭えないが、
しかしそれでも
今は
浮上
しきった
ようだ。
上体を起こす。
立ってみる。
シャキッと
立てる
のが
また悲し。
歩いてみる。
なんという
すがすがしさ。
あれだけの
目に
遭ったのに。
なぜこのように
復活できて
しまうのか。
前を向けば
希望さえ
観える。
そして
今、
私は確かに
思い出している。
これまで
決して
思い出さなかった
ことを。
永遠に
思い出すことは
ないと
とうに諦めていた
ことを。
それを
思い出せば、
体は勝手に
動いてしまう
ではないか。
走り出して
しまうではないか。
この
エネルギーは
いったいどこから?
なぜ
湧いてくる?
私は
落ちた人間だ。
落ち尽くした
人間だ。
だからこそ、
なのか?
つづく
自分の中に
満ちたもの
が
あるだろう?
すでに
満ちたものが。
何が
満ちた?
充分に
満ちたからこそ
もう
手放せるのか。
もう
離れるのか。
これまでは
満ちるために
頑張ってきた。
足りないから
その枯渇感が
エネルギーのもと
だった。
でも
もう満ちたんだ。
もはやそれは
エネルギーを
生まない。
それよりも
エネルギーは
もっと
根源的なものから
自然に
流れ続けて
いるだろう。
そこに
気づいただろう。
生き方は
根本的に
変わるんだ。
満ちないものを
満たすために
進む人生から、
そういったことの
関係のない
人生へ。
すでに
満ちたもの。
それは
何だ?
もう
自覚する時
だろう。
あなたは
変わったんだ。
つづく
そろそろ
また、
具体的に何かを
始める時だな。
心の中に
もし
モヤモヤが
あるならば、
そことは
しっかり
向き合おう。
モヤモヤの
奥に、
大事な問いが
あるはずだ。
大事な「?」が
あるはずだ。
それが
初めの一歩に
つながる
重要なヒント
を
示してくれるだろう。
始まりの時
とは、
始まりの時だ
と
しっかり自覚
した方が良い。
なぜなら
これまでとは
違う
判断や行動を
する必要があるから。
あえて
これまで大切に
してきた
判断基準を
壊さねばならないことも
多い。
始まりの時
だからね。
新たな何かを
始めるという
ことは、
自分自身も
新たに
生まれ変わる
くらいの
覚悟は持った方が
いい。
そう。
人間は
生きながらにして
何度も何度も
生まれ変わる
ものだ。
その本質に
素直になろう。
もう、
昨日までの
自分とは違う。
これまでの
私と同じ
ではない。
生き方そのものを
変化させても
いい。
くらいの
柔軟性と、
自然に浮上する
自分の意志。
意思。
そこに
敏感になろう。
始まりの時には
始めるのだ。
ちゃんと。
始めるべき
ことをね。
つづく
人間の
素晴らしいところは
やはり、
高い次元も
低い次元も
混在している
ところだろう。
どれだけ
成長しても
進化しても、
決して
低い次元の心は
なくならない。
そこにこそ
私は
人間の尊厳を
本当の尊さを
感じるのだ。
そう。
本当は、
高いとか
低いとか
ではないのだ。
すべての
存在を
あるがままに
存在として
そのまま。
・・・その
真理の体現が
人間ではないか。
この魂、
この心、
この体。
この小っぽけな
非力な
個体に
すべてが
詰まっている。
すべてが
収まっている。
収まっているが
収まっていない。
詰まっているが、
全然
詰まっていない。
閉ざされているが
すべてが
開放
され尽くしている。
その体現
こそが
我々人間だ。
そういった
意味で、
自分自身を
私達はもっと
誇りに思った方が
良いと、
四半世紀以上、
来る日も来る日も
人間の愚かさと
もちろん
自分の愚かさと
向き合い続けた
私は
思う。
そう思えるのは
私の心が
広いからではない。
一種の
開き直りだ。
かつ、
やはり
あるがままを
ある時に
諦めて受け入れた
からだろう。
とは言え、
人間の愚かさを、
私の愚かさを、
すべて許せるか
と言えば、
もちろん
許せるわけがない。
人間が
嫌いかと言えば、
大嫌いだ。
でも
一方で大好きでも
あり、
このわけの
わからなさこそが
人間だろ?
このままで
いいだろ?
これで
しょうがないだろ?
このまま
行くしかないのだよ、
我々は。
人間を
人間から変えようと
する必要はない。
そんなの
無理だし。
人間のまま
でいい。
このままで
いい。
だからこそ、
このままじゃ
嫌だと、
渾身の気持ちと
想いでもって
突き
進もうでは
ないか。
つづく
自分を
抑えること
よりも、
自分を
広げること
に
真剣になろう。
自分を
抑えることで
上手く進もう
などとすると、
いついかなる
時も
窮屈な人生と
なる。
自分を
広げることを
第一とすれば、
その自分は
どこまでも
広がり、
最初は
ゴツゴツと
いろんなものに
ぶつかるかも
しれないが、
そのうちに、
本当の広がり方が
わかってくる。
すると、
あらゆることが
調和してくる。
上手くやろう、
としての
調和ではない。
自然に
より広がる
ことによる
調和だ。
この二つは
似て非なるもの。
真逆のもの。
自分が
広がり尽くせば、
世と自分は
一つとなる。
その感覚を
得られるまで
とことん
自分を広げることに
真剣になろう。
私達は
個
としてあるが、
個として
全体に広がる
ために
あるのだ。
もし今、
何か選択に
迷っているなら、
自分が
広がる方向に。
自分を
広げる方向に。
多少、
ゴツゴツしたと
しても、
開き直って
そっちに
進もうよ。
つづく
やるべきことを
やる。
単純な
ことだ。
自分が本当に
今ここで、
やるべき
と思うことを
やる。
ちゃんとやる。
それだけの
ことではないか。
やるべき
という言葉は
硬いかい?
この言葉は
ちょっと大きく
捉えてほしい。
この言葉の
中には
やりたいこと
というのも
入っている。
今ここでしか
できないこと
という意味も
入っている。
今ここで
すべきことを
する。
単純なこと。
この単純さに
誠実に
なろう。
この単純さに
素直に
なろう。
私は常に
「ここ、ここ、ここ、・・・」
と
心の内で
呟いている気がするよ。
これまで以上に
今ここ
を
大切にしたいんだ。
私も今は
とても変化している。
あなたも
そうだろう。
みんな
そうだろう。
変化がちゃんと
変化として
成就するために。
今ここ
を
本当に
大切にしよう。
つづく
今回も
大事な問いを。
今、
あなたの
「中心」
はどこにある?
体の中の
場所を特定しよう。
場所がわかったら
その「中心」に
意識を向けてみよう。
その「中心」は、
昨日までの
「中心」と
同じだろうか?
それとも
異なるだろうか?
もし
異なるな、
と
思うなら、
あなたは
新たなステージに
入った可能性が
高い。
その場合、
さらにその「中心」に
意識を
強く向けてみよう。
そして
その「中心」が
発する
「願い」
を感じ取ってみよう。
それは
言葉になっても
ならなくてもいい。
ダイレクトに
感じてみよう。
さらに、
その「中心」から
ここからの自分の
「課題(テーマ)」を
感じ取ってみよう。
これは可能なら
言語化できると
いい。
「中心」
「願い」
「課題(テーマ)」
この3つを
大切に抱きながら、
一日一日を
丁寧に
過ごしてみよう。
つづく
今また
新たな段階に
入ろうとする人が
増えている。
今また
新たな一日が
始まろうと
している。
夜明け直前の
状態。
空は晴れ渡り、
気持ちの良い
日の出を
迎えそうだ。
そんな
今
にいる。
・・・とした
場合、
次の問いを
自分自身に
投げてみよう。
・・・
ここからまた
新たなステージ
新たな日々が
始まるとしたら、
今日からの日々に
名前をつけよう。
どんな
名前がいい?
・・・
シンプルかつ
インパクトのある
名前を
発想してみよう。
つづく
進む者を
進まない者が
妨害する、
というのは
よくあることだ。
妨害される
ことで、
いちいちそれに
反応してしまう
というのは
人情だが、
もうそれに
反応している
暇はない。
「妨害」
というのは
妨害に見えないから
厄介だ。
多くの場合、
進む者は
親切だから、
進まない者は
その親切心に
食らいつく。
進む者は
自らの成長の
ために、
その食らいつかれた
ものに対応するが、
それは本当は
成長にも何も
ならない。
疲弊のみ
残る。
そして
本来進むべき
ペースを
極度に落として
しまう。
妨害と
わかれば
それに付き合う
こともないが、
わからないから
こそ
面倒だ。
私はどうしても
そういった
現象を見ていると、
腹立たしく
思う。
進む者は
何がどうあろうと、
自らの足で
進もうとする。
進まない者は
そういった人に
どうにかして
依存しようとする。
自らの足で
いかに歩かずに
済むか?
ばかりに意識が
向かう。
やっぱり
そういうのは
腹が立つ。
腹が立つが、
そこで
腹を立てること
そのものが
遠回りの原因と
なるので、
私は一切を
手放すことに
している。
進む者にも
「手放した方がいいよ」
と
アドバイスする。
人情。
大事であるが、
これが故に
脇道に逸れて
しまう。
大事にすべき
人情と、
手放すべき
人情。
その区別は
つけた方がいい。
進む者が
進まなくなって
しまったり、
進むペースが
遅くなることで、
起こるべきことが
起こらなくなる。
ということは
実に多い。
それが
世の中の
不調和を起こして
いる。
進む人達よ。
もっと
冷たくても
いいぞ。
もっと
自分の道の
ことのみを
考えても
いいぞ。
大変、偉そうな
アドバイスだが、
ついつい
そう言いたくなって
しまうのだ。
つづく
みんながもっと
自由になれると
いいな。
真の自由
に。
環境による
不自由があるから
自由になれない、
というのではなく。
逆に
環境による
自由があるから
私は自由だ
というのではなく。
環境、
つまりは
自分以外のあらゆるもの
によって
もたらされる自由
ではなく。
いかなる環境に
おいても
自ら
生み出せる
自由。
真の自由とは
そういったものだ。
真の自由で
ある人は、
力の源を
得ている。
だから、
真の自由な人ほど、
束縛を
楽しむ。
自由になれない
環境を
楽しむ。
楽しむ、とは
ちょっと短絡的な
表現かも
しれないが、
楽しむ、とは
自身の力の源から
エネルギーが
展開できている
状態。
それを
心
という視点から
表現すると、
楽しむ
となる。
だから結構
奥の深い感覚
なんだ。
自由な人は
何でも
楽しめる。
だからこそ
逆に
自分がどれを
選ぼうか、と
自らの本当に
望む選択が
できる。
だから、
あの人は
望む選択ができるから
自由だ。
ではなく、
あの人は
真に自由な人だからこそ
望む選択ができる。
ということだ。
自由とは
すべての源。
誰もが
本当は
戻れる場所。
つづく
人には皆、
孤独がある。
それは
そうだろう。
私達は
「個人」として
あらゆる存在から
分離している。
「私」とは
私一人である。
この分離感の
世界において
孤独を感じない
人はいない。
だから皆、
心の奥では
孤独だ。
そしてまた
その孤独感が
浮上するのを
極度に恐れる。
孤独感から
逃れるための
あらゆる
自己防衛を
行ないながら生きる。
ひょっとすると
孤独への恐怖
ほど
強いものはないかも
しれない。
と、
私自身も含め、
多くの人達と向き合う
人生の中で
私はよく感じた。
私は
孤独である。
と
感じている
事実がある。
この事実と
どう対峙するか?
で
人生の多くは
決まるようだ。
可能であれば、
孤独感と
その孤独を
恐れる心のすべてと
向き合いきる
ことができると
良い。
それが成される
ことでしか、
さらにその奥に
存在している
真の自分は
浮上しないから。
孤独を感じる
自分の存在は
事実ではあるが、
それは
幻影でもある、
という
事実もある。
とはいえ、
私は孤独である
と感じるのは
幻影である、
などと
思ってはならない。
それは
事実だから。
幻影だという
認識は
現実逃避となり、
結果、
真の自分は
遠のく。
事実は事実として
受け止める
のが
すべての基本。
事実は事実として
受け止める
のが
自分と向き合う
基本。
私は孤独だな。
と
つくづく
実感してみよう。
そこに
真の恐怖を感じる
ならば、
もう少しだ。
そういう人は
がんばって
その恐怖と
向き合い続けると
いい。
つづく
問いを。
あなたにとって
自由とは
何だろう?
自由は
本当に
手に入れたい?
自由を
手に入れたあなたは
どうなる?
そもそも
本当は今すでに
自由ではないかい?
自由の反対は
不自由なの?
不自由の反対は?
自由はあなたに
何をもたらし、
何を失わせる?
あなたの人生に
自由は必要?
あなたは
自由に
何を与える?
あなたは
自由を
どう育てる?
それは
あなたの人生に
どんな意味を
もたらすだろう?
・・・これらを
とてつもなく真剣に
自由に
考えてみるといいよ。
つづく
さて、
今
目の前に
一つの流れ
がある。
これに
乗るか?
乗らないか?
迷うところだ。
なぜ
迷うかと言えば、
どっちでも
良いからだ。
正しい
間違っている
という
判断がここには
ない。
あえて言えば
どっちを選択しても
正しい
のだ。
どっちを選択しても
道は開かれる。
こういう時は
いつも迷う。
もちろん
贅沢な迷いだ。
今、目の前にある
この流れは
かなり
静かな流れだ。
静かだが
エネルギーは
高い。
この流れに
揺られればきっと
楽しい旅に
なるだろう。
周りの景色を
存分に味わいながら
心地よく
風も感じながら。
だが、
そういう予測が
つく時は、
どっちかと言えば
私の好みは、
本当に
好みだけで
言えば、
ちぃと
物足りない。
私はどうしても
刺激を
求めてしまう。
それも
「想定外」
という刺激を。
何が起こるか
わからないという
ヒリヒリさ。
だからきっと
この流れには
乗らないのだろう。
我ながら
もっと穏やかに
進めば良いのに、
と
思うのだが。
これもまぁ、
生き方・行き方の
こだわりか。
もうちょい
激しい流れを
待ってみよう。
つづく
風がビュンビュン
吹いてくる。
真正面から。
飛ばされそうだ。
少なくとも
前にまっすぐ
進むことはできない。
そんな時、
どうする?
どうするかは
人それぞれの
自由だが、
私の場合、
その
まっすぐ歩けない
という状態を
楽しむかな。
横に
曲がることは
しない。
斜めに
進むことも
しない。
あくまで
道を決めたら、
まっすぐに
進もうとする。
それで
進めないなら、
それでも
まっすぐ進もうとし、
結果的に
そこに止まっている
状態となる。
それでいい。
と
考える。
進めないなら
それでいい。
ただ、
進もうとする。
まっすぐ。
そういった
自分の生き方は
大事にする。
生き方を
疎かにすることは
しない。
あとは、
状況に任せる。
これをすると、
結果的には
「待っている」
のと同じ状態と
なる。
そしていつか
風が和らいだ
その瞬間に
一気に進む。
この生き方(行き方)、
正しいかどうかは
わからない。
皆さんに
お勧めするわけでも
ない。
ただ、
私は
そう進みたいのだ。
皆さんは
どう進みたい?
自分の進みたい
ように
素直に
進もうよ。
つづく
どれだけ
嵐に見舞われ、
自分を失い、
クタクタになっても
真の目的は
微動だに
しない。
それはまるで
北極星のように
いつも同じ場所で
すべての
中心で
煌めき続けて
いる。
真の目的は
失われない。
もし
失ってしまったと
思ってもそれは、
自分自身が
目を閉じている
だけのこと。
もしくは
まったく別の方角を
見つめている
だけのことだ。
真の目的は
ずっと
そこにある。
おかげさまで
今の私は
それを見失うことは
ほぼほぼないが、
以前は本当によく
見失った。
見失ったものを
改めて見つけるには
自分自身が
落ち着くしかない。
だから必死に
落ち着く術を
その力を
身につけた。
そういった
人生だった。
その
最も有効な術が
セルフコーチング
だった。
セルフコーチング
という表現を使えば
それはかなり
手法チックになるが、
要するにそれは
自分と向き合う
ということに他ならない。
いつ何時
どんな場合
どんな場面でも
ちゃんと自分と
向き合える
自分になる。
ここに尽きる
のだと思う。
逆に言えば、
それを身につけた
からこそ、
真の目的は
ずっとそこにある、
と
わかったのだとも
言える。
そして、
真の目的は
ずっとそこにある、
と
本当に理解した
ことによる
安堵感。
これは
並大抵では
ない。
だって、
そこにあるんだから。
自分が
どうなろうと。
どんな状態だろうと。
変わらずに。
その事実を
事実として
捉えられるように
なったからこそ、
より
落ち着けるように
なったんだな。
人間は
揺らぐものだ。
でも、
真の目的は
揺るがない。
というか、
揺らぐとか
揺るがないとか
そういった
次元にはない。
それは
最初からそこに
ある。
あり続ける。
そこに向かうのが
私達の
人生だ。
つづく
心の中を
まったくの無に
していると、
やがて
一つの光が
観えてくる。
無の中の
一点の光。
・・・というのは
実はこの言葉の
表現通りではない。
無とは
我々が「無」と
解釈しているだけの
ものだ。
「無」と感じるものは
実は
「有の極致」
と言ってもいい。
つまり
「すべてがある」
状態だ。
七色の光が
すべて揃うことで
無色透明となる
のと同じだ。
だから私の
やっていることは、
「すべてがある」
という心の状態に
して、
そこに一点の
光が現れる、
ということは
そこに
意識が焦点化する
ということに
他ならない。
そういった
本質を
ちゃんとわかった上で
改めて
上記の表現に戻りたい。
私は
心を無にすることで
一点の光を
見出した。
見出された光に
私は
意識を集中させる。
何の思考も
働かないままに
ただ
意識のみを
向け続ける。
それは
青い光に観えるが、
「青い」という
思考すらそこにはない。
ただじっと
見つめていると、
その光の周りを
さらに光の渦が
取り巻いているのが
観える。
形としては
銀河系のようだ。
渦は
真ん中に収束している
ように観えて、
実は
外へ外へと
発散し、
広がり続けている。
それを
遠くから眺めて
いると、
中心の青い光が
突如として
「中心軸」
となった。
光の槍のような
感じで。
それが私を
グサリと貫く。
そしてそれは
私の
新たな中心軸と
なった。
言いようのない
覚悟のようなものを
その中心軸からは
感じる。
その覚悟は
恐らく
時間を置かず
私自身のものと
なるのだろう。
多くの仲間の
姿が観える。
まだ知らない
これから出会うで
あろう仲間達。
この中心軸は
出会いを呼ぶのだな。
であれば
私は
中心軸そのものと
して、
今日から
生きよう。
つづく
左肩が痛い
からと言って、
左肩の治療を
すると、
それがまったくの
的外れだった
ということは多い。
痛みのある
場所に、
痛みの根源が
あるわけではない。
特に
心はそうだ。
表面的な
現象があり、
その現象により
心が痛んでも、
原因はまったく
別のところにある。
ということの方が
圧倒的に
多いだろう。
現象に
捕われ過ぎては
ならない。
現象は
大事だが、
現象は
引き金でしかない。
きっかけ
でしかない。
現象に対して
現象で
対策を打つ。
これも
時には大事だが、
それだけで
問題を解決した
つもりになるのは
逆に危険だ。
心が
痛む時、
この心の痛みは
どこから
来るのだろう?
と
私は素直に
実直に
自分自身に問いかける
ことにしている。
心を鎮めて、
痛みと
対坐する。
呼吸を
静かにして。
痛みそのものを
直に
感じるようにする。
すると突然に
まったく別の
痛みに襲われる。
すると、
その新たな痛みと
対坐する。
するとさらに
また
別の痛みが・・・。
これを繰り返す
うちに、
ついには
その根源に
たどり着く。
この根源は、
最初の痛みとは
まったくもって
関係のないことすら
ある。
表面的な
痛みでもって
根源的な痛みを
誤魔化している
わけだ。
人間の
やることは、
思っている以上に
奥深いのだ。
そういった
意味で、
痛みに鈍感で
あってはならない。
変な表現だが、
痛みの感受性を
高めた方が
良い。
心は
痛むように
できているのだから。
つづく
私は
どこにいるの
だろう?
と
よく思うことが
ある。
もちろん
「ここ」
にいるのだが。
「ここ」
を味わって
いるのだが。
でも、
どこか別の場所に
「ここ」
にいながらも
存在し、
その別の場所から
遠く離れて、
「ここ」
を
静かに眺め続けて
いる。
そんな感覚は
確かにあるのだ。
この感覚が
起こるとき、
決まって一つの
現象が
起こる。
何か、自分が
一つの
巨大な目
になったような
気分になるのだ。
そして
その巨大な目
が
私を動かすのだ。
巨大な目による
その私の行動は、
大概、
私の心を
逸脱したものと
なる。
しかし私は
それを
いとも簡単に
行ない、
しかもそれについて
何の抵抗もない。
しかも
大体それは、
私が一人でいる
ときではなく、
例えば
コーチングとか
研修とか
真正面から
人の目に
晒されているときに
多い。
まったくもって
意外な行動を
とる自分。
それを見つめる
他人の目。
意外な行動を
とっている私は、
私らしくないな
と
自分では思う。
でも
他者から見れば、
ひょっとすると
それこそが
「竹内さんらしいな」
と
なっている可能性は
充分にある。
人間とは
案外、こういうもの
かもしれない。
さて、
今こうやって
文章を書いている
私であるが、
珍しいことに
一人でいるのに
今は
その巨大な目のように
なっている。
巨大な目は
次のような
意思を私自身に
告げているようだ。
立ち位置の
変わった自分を
もうちょっと
ちゃんと
自覚せよ、
と。
立ち位置の変化に
ついては
ここ何週間かで
随分とその変化は
感じ続けてきた。
言ってみれば
私はもはや
「コーチ」では
ない。
立ち位置的には。
もちろん
「コーチ」はできる。
でも
以前は
「コーチとして
コーチをしてきた」
のだが、
今は
「コーチではないが、
コーチのできる自分が
コーチをしている」
状態だ。
立ち位置を変えた
ままで。
だからきっと
私の知らないところで
私自身の
コーチングそのものも
変貌しているのだろう。
その辺りを
もう少し自覚した方が
良さそうだ。
私にとっての
意外な行動が、
ここからはさらに
それが当たり前に
なってくる予感。
その変化は
意図しようとは
思わないが、
しかし
自然に変貌をする
自分を、
せっかくなので
この際、
楽しもうと思う。
つづく
私達が
自分自身の殻を
大きく破るときは、
大抵、
その時の自分にとって
最も怖い存在と
向き合わなければ
ならなくなる。
現実の
レベルで。
それがちゃんと
できて初めて、
私達は
「殻を破った」
ということになる。
心の中だけの
成長では
殻は破れない。
現実においての
行動をして
初めて
殻は破れる。
最近、
若いクライアントさんが
増えたが、
彼らはこれを
躊躇なくやるのだ。
いや、
本当は躊躇している。
魂も心も体も
完全に
ブルっている。
怖い、と
素直に震える。
でもやる。
ちゃんと怖さを
自覚した上で
やる。
これは
称賛に値する。
私の若い頃は
逃げてばかり
だったもんなぁ。
今日のコーチングでも
すごいねぇ、
よくやるねぇ、
と
タメ息ばかり
ついていたよ。
言うは易し
行うは難し。
知行合一。
今でこそ
できるようになったが、
昔の私は
ボロボロだったよ。
自分の枠内の
怖いものには
立ち向かえるけど、
自分の枠外の
怖いもの、
本当に怖いもの
からは
逃げつつも
言い訳ばかり
していた。
私だけか?
みんな
そうだよな。
知行合一。
でもやはり
できるだけ
早いうちから
丁寧に潔く
生き始めれば
それに
越したことはない。
とは言え、
生き始めは
いつでもできる。
今日から
知行合一。
今から
知行合一。
それでも
いいじゃないか。
誠実に
潔く
生き始めよう。
つづく
今の私が、
今ここで、
最も望んでいることは?
この問いを
自身に投げた時、
どのような
発想が浮かぶだろう。
どのような
キーワードが
浮かぶだろう。
「今」
というこの時間。
「今」
というこの場所。
ここに
本当に
意識を集中
させてみよう。
「今」
とは「無限」であり、
「今」
とは「永遠」である。
それを
感じ取れるくらいに
「今」に意識を
集中させてみよう。
その状態で、
上記の問いを
投げると、
さて
どんな言葉が
浮かぶかな。
つづく
一本道は
大事だ。
私達は
一本道を
歩んでいる。
それは
自分自身との
約束として
始めから
存在している。
それは
真実ではあるが、
しかし
今、ここにある
一本道が
本当にその
約束の一本道なのか
どうか?
は
実は
誰にも
わからない。
いや、
本当は
わかっているが、
わからないように
している。
一本道は
続く。
それはまるで
トンネルの中の
一本道のように。
周りは
壁のみ。
薄暗い。
出口は
見えない。
ただ、
道だけが続く。
だから
これが自分の
一本道であると
思い込む。
しかし
本当に
そうだろうか?
私達の
約束の一本道とは
こんなにも
薄暗く
狭いものだろうか?
周りに
何も見えない、
そういった類の
ものだろうか?
さらに言えば、
本当に今、
私達は
トンネルの中に
いるのだろうか?
壁に
囲まれていると
思っているが、
本当にここに
壁があるのだろうか?
閉ざされて
いるのだろうか、
私達は?
一本しか
見えないこの道が
本当に私達の
一本道だろうか?
もしこの
疑念
が
生まれたら、
その
疑念
そのものを
大切に
すべきではないか。
私達は
閉ざされては
いない。
トンネルなどは
存在しない。
私達は
常に自由であり、
道は
何本も無数にあり、
いつ
どの道に入ることも
可能なのだ。
すべては
自由。
それが
本当に実感できた
その時にこそ、
私達は
自分が今、
約束の一本道に
立っていることを
知るんだ。
つづく
行き先が
はっきりしていれば、
目の前の障害は
それほど
気にならなくなる。
行き先が
はっきりしていれば、
目の前に
障害があっても
揺れることはない。
行き先が
はっきりしていれば、
目の前の
この障害が、
本当に乗り越えるべき
ものなのかどうか、が
比較的簡単に
判断できる。
ところが、
その行き先が
わからない。
だから
目の前のことに
右往左往する。
なぜ
わからないか?
その原因は
いろいろ
考えられるが、
一つ明確な
原因がある。
行き先を
わかろうとすることに
真剣じゃない
からだ。
私は
どこに行けば
良いのか?
私は
何を目指すか?
あるいは、
私達は
どこに行けば
良いのか?
私達は
何を目指すか?
この問いと
真摯に
向き合い続けるか
どうか。
たとえ
行き先が
わからなくとも、
この問いと
真摯に向き合い続ける
人には、
何となくでも
観えてくる
ものだ。
今の方角で
良いか?
そして
この障害とは
本当に乗り越える
べきものかどうか?
が。
そして、
さらに大事
なのは、
行き先が
もうすでに私には
はっきりしている。
と
たとえ思えたとしても、
それでもなお
本当に
その行き先で良いか?
私が本当に
目指すのは何か?
という
問いを
忘れないことだ。
どこまでも
自分に
問い続ける。
それが
真に
行き先がわかっている
人の姿勢だ。
つづく
同情されることを
望む人は
あまりいないだろう。
かわいそうだ。
と
自分自身が言われる
ことを
望む人は
あまりいないだろう。
昔、私は
いろんな人に
同情ばかりしていた。
かわいそうだ、
と
その人のことを
思いながら、
自分にできることは
何だろう?
と、考え
結構、実行に移していた。
今、時々
その時代のことが
フラッシュバックする。
その度に
赤面する。
自分はなんと
傲慢であった
だろう、と。
そして、
なんと独りよがりで、
しかも
押し付けがましかった
だろう、と。
同情された人は
迷惑この上
なかっただろう。
なのに私は
まるで正義の味方
気取りだ。
今、その時代の
私が目の前にいたら、
頭を
叩いてやりたい。
ふざけるな、
と。
こんな感じで
またもや最近は、
過去の私が
フラッシュバックする。
昨晩などは
いくつかの過去の場面に
戻った夢まで観た。
そこには大抵、
今見れば大変に
恥ずかしい私が
いた。
自意識過剰。
それを
絵に描いたような
私。
まぁ確かに、
いろいろ痛い目に
遭わないと
修正できない性格
だったなぁと
思う。
しかし
じゃあ今の私の
性格が素晴らしいか?
と言うと、
これまた極めて
自信がない。
性格というのは
心の癖だ。
心の動かし方と
行動の現し方の
癖。
癖はなかなか
治らん。
真本音度合いが
高まるというのは、
癖が治る
ということとは
イコールではない。
癖が治る
というよりも、
選択肢が広がる
わけだ。
たった一つの
癖による
たった一つの
選択肢からは
自由になる。
そして、
癖がどうこう
ではなく、
自分の本当に望む
一歩一歩を
進むようになる。
それができたから
と言って
癖がなくなるわけでは
ない。
むしろ
多くの場合、
これまでの癖を
真本音は活用する
ことも多い。
すぐに同情する、
という
私の癖。
人を不憫に思う、
私の癖。
今の私の真本音は
それを上手く
使っているように
思う。
そういった意味で、
私はこれまで
自分の癖治しを
したわけではない。
つまり、
性格は
変えなくても良い。
それでも
真本音度合いは
高まり、
結果として
その性格から
自由になれるんだ。
つづく
例えば、
指を切って
血が流れたら、
痛いだろう。
健康であれば
体は痛むから、
痛まないように
体を大事にする。
心も同じだ。
心も痛む。
ところが
心の場合、
すぐに麻痺をする。
傷んでいることに
気づかなくなる。
それはとても
不健康なことだ。
時たまだけど、
竹内さんの
サポート受けたら
以前よりも
余計苦しくなった。
と
言われることが
ある。
そりゃそうさ。
麻痺を
取るからね。
心の麻痺を
起こしている人が
いれば、
まずは
麻痺を取っても
安全なところまで
回復させて、
その上で
今度は
麻痺を取ることを
大事にする。
そうしたら、
これまで気づかなった
心の痛みに
気づくようになる。
心に神経が
通った状態だ。
健康状態だ。
その痛みに
気づくからこそ、
あっ、
この生き方は
いけないな。
この行き方は
私にとっては
違うのだな。
・・・と
わかるんだ。
痛みというのは
合図だ。
そして
そういった感覚が
研ぎ澄まされて
くれば、
今度は、
あっ、あの人は
とても苦しんでるな。
この人はとても
幸せなんだな。
ということも
感覚でわかるように
なる。
あるクライアントさんは
ある時、
私にこう言われた。
世の中は
今、こんなに
苦しんでいるんですね。
こんなに
ひどいとは
思わなかった。
・・・と。
感覚によって
現実を知る。
現実を知ることで、
自分の道が
定まってくる。
そのクライアントさんは
一気にご自分の
道を決められた。
世の中での
自分の役割を
思い出すかのような
感覚で
決められた。
感覚を
取り戻そう。
もう
麻痺は終わりだ。
感覚を
取り戻すことで
すべて
観えてくるんだ。
つづく
今回は、
一つ、問いを。
とてもシンプルな
問いだが、
今の私達に
とって
非常に大事な問い。
・・・
今、私が
本当に全力で
取り組むべきこと
は何だろう?
・・・
ここが
ズレではならない。
一点集中。
他はどうでもいい、
くらいの極端さで
今は
進むといい。
つづく
必死に
汗を垂らしながら
こちらに向かって来る
人がいる。
その人のことを
あえて
私は待たない。
冷たい野郎だと
思うかい?
それが愛だと
思うかい?
待ってくれ!
と
その人は
叫ぶことがある。
待たない。
決して。
待てば
すべてがそこから
乱れ始める。
最初は
少しのほつれかも
しれない。
しかしそれは
あらゆるところに
不必要な障害を
生む。
そして結局
その人の足を
さらに止めることになる。
それがわかって
いるのに
待っているなんて
私には到底
できない。
でもね。
そこで
待ってしまう人が
いるんだ。
多いんだ。
待ち過ぎだ。
人のことを
どうこう考える
前に、
自分をもっと
しっかり進めろよ、
と
叫びたくなる。
私は
待たない。
もう
待つゆとりも
時間も
ないのだ。
あなたも、
待つことよりも
することが
あるだろう。
あなたも、
もう時間が
ないはずだよ。
つづく