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海中
深くに潜り、
じっと
しよう。
光の届かない、
まるで
宇宙のような、
その場所で。
完全に
閉じ籠ろう。
完全に
一個の
点になる。
微動だに
しない。
心も
動かさない。
ただの
点
として
音もない
そこに。
時間の経過
も
感覚として
なくなるだろう。
それでいい。
自分とか
他人とか
もう
どうでもいい。
ただの
点。
一点。
そうして
いて、
測り知れない
時間が
経って、
体が
ブルっと
震えたら、
それが
合図だ。
一つの
誕生。
あなたの中に
何かが
生まれただろう。
あとは
それが
ひらめきとして
浮上するのを
待ち続ける
だけだ。
つづく
心を
上に向かって
開放
してみよう。
天に向かって
大きく
広く。
宇宙を
丸ごと
感じるくらいに。
面白いことに、
地に足が
ついている
感覚が、
確かであれば
あるほど、
天に向かって
より
オープンになれる
ものだ。
天と地は
結ばれる
ものだ。
天と地は
結ばれる
ために
ある。
それを
成せるのは、
私達
「人」
だ。
地に立つ
我々
だからこそ、
地を
離れられない
我々
だからこそ。
天に
全てを晒す
というのは
怖いかもしれない。
怖かったら
やっては
ならない。
怖くなくなったら
堂々と
やろう。
地を
感じながら。
これを
する人には、
初めの
ひらめき
が
来るんだ。
それだけで
命の運び方
が
変わるかもよ。
つづく
そこにある
ひらめき
の正体を
見つけよう。
ひらめき
が
ひらめき
のまま
終わらない
ように。
ひらめき
と
対峙し、
君は
なぜここに
現れたのか?
誠実に
問うてみよう。
全てのひらめき
には
目的がある。
目的のために
使ってあげねば、
そのひらめきが
生まれた意味が
なくなる。
ひらめきの
中身を
知る前に、
何のための
君なのか?
と
しっかり
問い、
深く理解しよう。
変な表現だが、
ひらめき
と
信頼関係を
結ぶのだ。
それをすれば、
そのひらめき
は、
次のひらめき
を
連れて来てくれる。
誠実に
向かい合えば、
ひらめきの
連鎖が
始まるんだ。
人間関係と
同じだね。
つづく
人には、
自力で
突破できること
と、
自力では
突破できないこと
がある。
その判断が
とても重要だが、
ここが難しい。
この判断が
つくようになる
だけで、
チームや組織は
圧倒的に
成長できる。
調和できる。
逆に言えば、
自力突破
すべきところで
他者の助けを
借りてしまう、
もしくは、
他者の助けを
借りながら
協力すべきところで
自力突破しようと
してしまう、
それにより
一体どれだけの
混乱が
起きていることか。
よく私は
「自律」
という言葉を
使うが、
自律できている
人は、
この判断が
実に的確だ。
特に、
リーダー的立ち位置
の人達には
必須の力だと
思うのだが。
私達人間は
皆、
協力し合うように
できている。
協力し合わなければ
道が開かないように
なっている。
しかし
協力ポイントを
間違えたまま
放置している
組織やチームは
多い。
一部の人間が
引っ張れば、
社会に貢献できる
時代は
とうに終わっている。
これからは
全員が
自走しなければ、
本質的な
社会貢献は
チームとしては
成り立たない。
チーム(組織)
としての
活躍度合いは、
自律度合いと
直結する。
やはり・・・、
チーム(組織)を
丸ごと
サポートできる
コーチ的存在は
必要だ。
最近また
ヒシヒシと
感じる。
本格的な
コーチ養成を
再び始めようか・・・。
つづく
雑踏の中に
私は
溶け込み、
私は
私の姿を
見失った。
その世界は
一つの塊
となり、
すべてが
混ざり合い、
そして
消えた。
まるで
当たり前の
ように、
私も
消えた。
すべて
消えた。
光は
色を失い、
無色透明
となった。
何もない、
空っぽ状態。
そこでは、
死も生も
同じこと
だった。
一点も
無限も
同じこと
だった。
何もない、
のではなく
すべてが
満ちている
わけだ。
「存在」
とは
焦点化だ。
焦点を絞る
ことで
ギュッと何かが
集約され、
塊となり、
「そこに在る」
ことになる。
焦点化さえ
しなければ、
すべては
無限に
そこにあり、
どうにでも
なる、
つまりは
自由自在。
前も後ろも
右も左も
ない。
すべて
ここ
であり
あそこ
でもある。
なんという
平安。
だが
しかし
それでは
何も
起こらない。
ずっと
そのまま
同じまま。
楽しい
も
つまらない
も
同じもの。
さて
どうしようか?
やはり、
こんなになっても
まだ
一つ
あるんだ。
この
祈りが。
こんなに
なっても。
“子が
育ちます
ように”
これがな、
なぜかな、
あるんだな。
なんだ
これ。
これが
すべての
始まりか。
やはり
ここから
始まるのか。
つづく
この人の
流れ。
私の
流れ。
あーここだ!
ここが
ちょうど
結び目だ。
二つの流れが
交わる
わずかな
一致点だ。
今、
ここだ。
・・・そう
わかった時、
私は必ず
その人と
真正面から
向き合う。
そして
その人に
完全に委ねる。
二つの流れの
一致点では、
どちらかが
どちらかに
完全に委ねなければ
ただの
交差で
終わってしまう。
その瞬間
委ねることで、
二つの流れは
一つとなり、
共に
流れ始める。
この感覚。
この感覚を
掴めるように
なってほしい。
そうすれば
私達は、
出会うべき人と
出会うべき
タイミングで
出会い、
人生の
シナジーを、
この人と
でしか
創り出せない
流れを
創り出せる
ように
なるんだ。
これが、
セルフコーチング力
を高める
最も重要な目的の
一つなんだ。
つづく
エネルギーの
高い人は、
どこにいても
その人なりの
“風”を吹かす。
意図しているか
どうかは
関係ない。
その人ならではの
“風”が吹く。
“風”は人々に
影響を及ぼす。
良い意味でも
悪い意味でも。
“風”と共に
生きる人は、
自らの“風”のことは
しっかり
認識し、
理解を深めた方が
いい。
自らの“風”を
理解することで、
自分自身の
活かし方
もわかるからだ。
・・・
“風”の根元
には
祈りがある。
その人なりの
祈り。
“風”の理解
とは
祈りの理解でも
ある。
私は
いついかなる時も
どんな祈りを
抱きながら
生きている人間か?
この問いと
真摯に
向き合い続ける
ことだ。
・・・
“風”には
個性がある。
時と場合によっても
変化する。
変幻自在
である。
もし
自らの“風”を
自らがコントロール
することができれば、
人生を
コントロールする
こともできる。
ただしここで言う
「コントロール」とは
完全に思考と思惑を
超えた次元の
ことだ。
“風”を扱う人は
もう
思惑では
生きていかないのだ。
・・・
”風”の強い
若者が
増えている。
しかしみんな
それを
自覚していない。
そんな人達を
本気で
発掘し、
集めようかと
考えている。
私がすることは
“風”の存在を
伝えることと、
“風”の使い方を
ちょっとだけ
教えること
だけだ。
それ以上は
しない。
それ以上は
必要ないからな。
つづく
たった
一言。
この一言さえ
もっと早くに
聴いておけば、
私の人生は
もっと変わったものに
なっただろうに・・・。
もっと
若いうちに
この一言に
出会いたかった・・・。
実は
コーチングにおいて
私がこれまで
クライアントさんから
何度も
言われた言葉だ。
人生を
変える一言。
本来の自分を
思い出させて
くれる一言。
それはまるで
「自分」という
箱の蓋を
開ける
“合言葉”
のようなものだ。
私はひょっとすると
この“合言葉”を
お伝えするために
コーチをしているのかも
しれない。
・・・と
ようやく
気づいたんだ。
であれば、
直接その人と
会わなくても、
直接その人と
出会わなくても、
その人にとっての
“合言葉”を
届けることは
できないか?
・・・これが
私がサーベイ開発を
始めた動機だ。
その人に
真本音メッセージを、
その人だけの
“合言葉”を
届けるための
サーベイ。
今の私は
ここに結構な時間を
割くようになった。
きっと
今後は
コーチとしての活動
よりも
こちらの方の割合が
増えるのでは
ないか。
直接会わずして
“合言葉”を
届ける。
ゆくゆくは
不特定多数の人達
にも、
これをできるように
したい。
これが今の
私の
最大の探究テーマだ。
私一人では
できない。
仕組みも
必要だからだ。
仲間と共に
開発していく。
つづく
あの朝は
衝撃的だった。
ちょうど
20年前の朝。
突然に
実在が
わかった日。
自らの
真本音の声が
心の中に
こだました朝。
その瞬間から
私の人生は
大転換を始めた。
ずっと永遠に
続くと信じていた
レールが
突然、
途切れた。
道が
なくなった。
これまでの
道が
幻影であったと
知ってしまった。
あれから
20年。
真本音の
しの字も
なかった時代。
遠いな。
遠い過去だ。
しかし
決して忘れない。
あの時
私は初めて
覚悟を持ったのだ。
いついかなる
時にも、
すべてをゼロに
する覚悟。
あれからずっと
持ち続けている。
今日も
ゼロから始まり、
ゼロに終わる。
一日で
一つの人生が
完結する。
そんな日々。
今日は
今日の世界。
明日は
明日の世界。
すべてが
分離した
断絶の連続
とも言える
この世界。
その断絶を
感じ
尊重しながらも
今
を生きる。
常に
ゼロから。
この覚悟は
きっと
絶えることは
ない。
つづく
今回はまた
今だからこそ
大切な問いを
二つ。
・・・
これまでの自分と
ここからの自分が
継続して
大切にしたい価値観は?
これまでの自分
にはなく、
今から
新たに大切にすべき
価値観は?
・・・
この二つの問いを
私自身に
投げてみた。
最初の問いの
答えは、
「常に進化のための
最善を尽くす」
そして
次の問いの答えが
結構、面白かった。
「直近の3日間のこと
のみを考える」
・・・ちょっとこの発想は
これまでの私には
なかった。
面白そうなので、
しばらく
試してよう。
つづく
今、
ここに
風が吹いて
いるだろう。
ここまで
登って
来たんだ。
真剣に
生きた証だ。
地に足を
つけて
一歩に
精一杯を
込めて
何度も
ずり落ちながらも
諦めずに
進んできた。
精一杯以上の
精一杯では
なかったか。
命が
消えそうになった
時もあったが、
消えそうに
なればなるほど、
その奥から
さに新たな命が
芽生えてきた
のではなかったか。
私達は
たった一つの
命を生きている
わけではない。
命はすべて
繋がっている。
私は分離した
私ではない。
命は
分離した存在
ではない。
一歩を進む
ごとに
それを実感
できただろう。
私は
何者か?
それを
問い続け、
答えは出ず、
問い続け、
答えが
出ても、
問い続け・・・。
確信と
あやふやさと
一体感と
分離感と
希望と
絶望と
恍惚と
虚無と
相反する
ものたちが
ちゃんと
ない混ぜに
なっている。
それが
私達であり
あなただな。
知ることと
わからなく
なること
気づきと
混乱と
一本道と
幻影と
確かな私と
不明確な世界と。
さぁ、
全部をちゃんと
体験したのだから、
そして
ここまで登った
のだから、
わかるだろう。
この風を。
感じるだろう。
この心地よさを。
ここまで
来たんだ。
あとは
委ねろよ。
風の中で。
あと少し。
つづく
一つ、
カタチを創って
しまうと、
それを壊す
のは
とても億劫だ。
だから
納得のいかぬ
ままに、
そのカタチを
維持する。
しかし
そのことが
次の不調和を
呼び、
そのカタチは
不調和の源
と
言っても良いくらいの
存在となる。
そんなカタチに
なるならば、
いっそのこと
早く
壊してリセット
した方がいい。
それが
本当にできる
覚悟を持つ人こそ
真のリーダーと
言えるだろう。
すべての物事
には
想いがある。
その想いが
核となり
カタチとして
結晶化する。
想いとカタチが
繋がっていれば
理想だが、
カタチとは
それが形成される
過程で
想いを忘れて
しまうもの。
私達は皆、
カタチばかりに
意識が行く。
途中から。
想い、
とは
原点。
常に原点に
戻り、
原点から
発想し続ける存在が
やはり
必要だ。
もちろん
最初から
理想的なカタチは
できない。
何度も
トライアル&エラー
が必要だろう。
最善を
尽くす。
何度も何度も。
何度
壊しても。
それだけは、
私は
大事にしよう。
私の残りの
時間は
24年。
どこまでの
ものが
できるかな。
つづく
動けば動くほど、
事件が起きたり
事故が起きたり
トラブルに
見舞われたり。
様々なことが
あるね。
真本音度が
低いと、
それら一つ一つに
どうしても
振り回される。
例えば、
目の前に竜巻が
来たとして、
それが自分からは
まだ距離があるにも
関わらず、
恐怖のあまり
足がすくむ。
足がすくむ
くらいならまだ良いが、
パニックを
引き起こし、
後で振り返ると
わけのわからない
行動や振る舞いを
とってしまう。
結果的には
そういった自分の
振る舞いが
本来は発生させる
必要のない
トラブルをまた
引き起こす。
不安や怖さに
基づいた
揺れ具合。
少しの揺れを
大揺れのように
感じてしまう。
真本音度の
低い人達は今、
そういった状態に
入っている人が
多い。
自らの真本音を
毎日、大事に
している人は、
竜巻が見えても
まずはしっかりと
それを
見つめるだろう。
竜巻の大きさは?
自分からの
距離は?
そしてその竜巻は、
自分があえて
立ち向かうべき
ものか、
それとも
避ければ良い
ものか?
避けるには
今、
どう動けばよいか?
立ち向かう場合は
どんなテーマで
どの一点に集中すべき
問題なのか?
それらを
しっかり自問自答し、
自らの意思で
答えを出す。
実は、
そういった在り方
生き方・行き方
そのものが発する
波長がある。
その波長が
不必要な竜巻を
遠ざけてくれる。
ここからの
世の中は、
さらに
(表面的には)
不安定さを
増す。
言ってみれば、
至るところに
大小様々な竜巻が
発生している状態と
なる。
私達はしっかりと
大地に足を
踏み締め、
自分の本来の
生き方を
実践し続けよう。
本来の波長の
自分として
ここに在り続けよう。
普段の
生き方だ。
これがすべてを
決める。
つづく
誰とお会いする
時でも、
私はしっかりと
準備をする。
自分の心を
整え、
無心となり、
意識を
その人のみに
向け、
その人の
実在を
感じ取る。
そして
今回お会いする
本質的目的は
何か?
私から
お伝えすべき
メッセージは?
私から
投げかける
問いは?
・・・等々を
無心のまま
その人の実在から
受け取る。
人生の中で
これからの
その人との
時間。
それは
一度きり。
たった
一度きり。
それは
宝だろう。
その人と
その時その瞬間
にしか
できないこと
がある。
それが
何か?
を
私なりにしっかりと
明確にして、
その場に
臨む。
私は本当に
これを
毎日丁寧に
行なっている。
たとえ
家族に対しても。
その丁寧さが
きっと
誠実さに
なるのだと思う。
そしてその
丁寧さが、
私自身の人生の
調和に
つながっているのだと
思う。
人を大事に
するとは、
その人との時間を
大事にする、
ということが
まずは最も
基本ではないか。
つづく
仕事と家庭で
ボロボロになって
しまっている
ある社員さんが
いる。
状況は何も
変わっていない
のに、
ある日、
急にその人は
輝き始めた。
一つ一つの
言葉が
スーッと私に
伝わってくる。
どうしたの?
と
訊くと、
何がですか?
と。
どうやら本人は
自分の変化に
気づいていないようだ。
だいぶ
変化したように
思うけど・・・?
そうですね。
よくわかりませんが。
私もそう思います。
・・・その瞬間に
わかった。
その人は
自分の人生を
引き受けたのだ。
この現実は
私のものだ、と。
この現実が
私の人生だ、と。
追い詰められて
追い詰められて
ついに
覚悟を持った。
その迫力。
本人には
自覚されないが。
でもこれこそが
道を開いて
行くのだな、と、
改めて
実感。
つづく
いろいろ
言いたいが、
今のあなたに
本当に
伝えたいことは
たった
一つだ。
ここから
どんな現実が
目の前に来ても、
決して
目を逸らすな。
何があっても
何もできなくても
向き合い
続けろ。
・・・
20年前の
私に
真本音の
私が
強く
語りかけた
こと。
そこだけは
守ったな。
だから
今、ここに
いる。
20年間、
守り続けた
こと。
つづく
挑戦しよう!
という意志が
またそこかしこに
溢れてきている。
どんどん皆が
動き始めている。
それ自体は
とても良いことだ。
挑戦というのは、
自分のこれまでの
限界を超える
ための行為だ。
だから
これまでと同じことを
同じ範疇でしていても
意味はない。
しかしその
「限界を超える限度」
がある。
その境界線
ギリギリのところまで
挑戦して、
それ以上になりそうなら
スッと引く。
・・・これはとても
大事なことだ。
上手く行くために
そうしよう、
ということではない。
その挑戦を
本当に実りのあるもの
にするためだ。
境界を越えて
しまえば、
それは単なる
「無謀」となる。
そういった意味で、
「挑戦」とは
明らかに「闇雲」とは
違う。
「勢い」だけで
行なうことでは
ない。
「挑戦」には
ちょっと離れたところ
から
じっと自分自身を
観察する目が
必要だ。
だから、
本当に覚悟を持って
真本音で
挑戦をしようと
する人は、
とても心が
クリアになる。
限界を超える
が故に
これまで観えなかった
ものが
観えるようになる。
自分の情熱を
じっと観察する
自分が
常にいる。
それは
頭の冷静さとは
まったく本質的に
異なるものだ。
「ここまではいい」
でも
「ここからはダメだ」
と
瞬時にわかる。
そこが境界線だ。
挑戦の限度
だ。
もう一度言うが、
上手くやるために
これをするのでは
ない。
そして、
本当にそういった
「挑戦」のできている
人は一方で、
自分自身の恐怖心も
観えている。
自分がいかに
怖がっているか、も
ありありと
わかる。
そしてそれを
消そうとはしない。
怖さを感じながらも
進む。
怖さを克服する
というよりも、
怖さと共に
進む。
自分の弱さと
共に進む。
これが
「挑戦」だ。
だから
怖いのは当たり前。
怖くなければ
それは
「挑戦」ではない。
つづく
今日、
長男と
ある田舎を一緒に
歩いていた。
空は晴れ渡り
風が
とても気持ちよかったな。
こんなに
気持ちいい風が
あるんだ、
と
びっくりしたな。
その時、
一瞬
ある「祈り」が
私の頭をかすめた。
その一瞬を
見逃さず、
私はその「祈り」を
捕まえた。
私は何を
祈ったか?
それは
具体的なある人の
ある、具体的な
未来だった。
あぁ本当に
そうなるといいな、
と
思ったら、
それをずっと
強烈に
祈り続けている
自分が
いたことを、
その時に
知った。
そして次の
瞬間に、
私は開放
された。
ある「枠」が
サーッと
風と共に
洗い流されて
いた。
人間というのは
面白くて、
「枠」が
消え去って初めて
自分が「枠」の
中にいたことを
知るんだ。
私は大空に
舞い上がるような
感覚があった。
そして
あの、
理念が来た。
それは
明確な一つの
言葉。
その言葉を
しっかり
認識した時に、
最初に思ったのは、
あーここに
たどり着くまでに
54年も
かかってしまった。
ということ。
と同時に
私のこれまでの
54年の人生の
意味が、
これまでとは
さらに
次元の異なる
深さで、
明確に
わかったことだ。
きっと
そうは言っても
私には
まだまだ「枠」がある。
これからも
それを一つずつ
洗い流して
行くのだろうが、
しかし今回のは
ちょっと
大きい。
特にこの3年間は
独特の
苦しみがあったが、
なるほど
この「枠」を
超えるためだったか。
自分がやっている
ことは、
自分では本当に
わからんものだ。
私達はやはり
意図を超えた
ところで
自分の人生を
コントロール
している。
その自分自身の
流れに
委ねることだ
と、
それがちゃんと
できたんだな、
と、
自分を褒めて
やったよ。
風の中で。
つづく
落ち着け、
落ち着け、
と
何度自分に
言い聞かせても
落ち着けない
時がある。
そんな時
私は、
次の二つのどちらだろうか?
と区別する。
本当に
落ち着きたいのに
落ち着けないだけの
悪い心の状態に
なってしまって
いるのか?
それとも
実はこの
落ち着かない状態
こそを
今の私は真本音で
望んでいるのか?
・・・の
どちらだろうか、と。
前者であれば、
私はいったん
自分のやろうとしている
ことを
すべてストップして、
「何もしない」
時間を創る。
これこそが
最優先だ。
これをして
本当にクリアに
物事が観えるように
なってから、
もう一度
歩みを始める。
落ち着かないまま
進めば進むほど、
結果的には
あらゆる混乱が起き、
すべてが遅延する。
それなら
いったん止まって
ちゃんと進み直した
方がいい。
後者の場合、
私は思いっきり
落ち着かない状態
のまま
進む。
闇雲に
進んでしまう。
なぜならその
「闇雲さ」こそを
私は真本音で
望んでいるからだ。
もちろん
そんなことをすれば
いろんなことに
ゴツゴツと
ぶつかるだろう。
痛いだろう。
しかしその痛みを
経験を
真本音で望んでいる
わけだ。
なら、
ちゃんと痛いことを
やる。
今この痛みを
味わっておかないと、
きっと
未来の自分が
本当に困るから。
いずれにしても
最初にする
区別が重要だ。
似て非なるもの。
表面的には
同じ落ち着きなさも
本質は
随分と違うものだ。
つづく
使命。
命の
使い方。
自分は
自分の人生で
何のために
どのようにして
自分の命を
使って行くか?
自分は
社会において
どのような役割を
自分で
果たしていくか?
それらの
答えは
皆、全員、
自分自身で
決めている。
真本音で
決めている。
ところが
それが
わからない。
見えない。
なぜなら、
準備ができて
いないからだ。
自分で決めた
使命に
自分で気づくには
「準備完了」
と
自分自身が
自分に
OK!
を出さねば
ならない。
しかし、
OK!
さえ出れば、
それは
一気に
浮上する。
側からよく
人を観察
していると、
それがよく
わかる。
あっ、今この人
使命が
浮上したな、
と。
今日も、
ある人のコーチングで
それが
起きた。
その人の中で
一気に使命が
浮上したのが
ありありとわかった。
でも私は
それを言わない。
心の中で
密かに
その人を祝福する
のみ。
ここまで来たら
コーチが
サポートしては
ならない。
使命とは
自分で見つける
もの。
自分で
顕在化するもの。
あとは
楽しみながら
見守るだけ。
もうすぐだ。
コーチとしての
至福の時。
つづく
自分の中が
空っぽだな。
と
感じる時は
チャンスである。
それは
心が完全に
満ちている状態
だから。
「空っぽ」
とは、
焦点のない状態。
「すべて」が
あるがまま
の状態。
それは
「無」とは
真逆のものだ。
だからもし
「空っぽ」になれたら、
あらゆる創造性の
源になれる、
そんな自分の状態に
あるということだ。
だから
恐れる必要は
ない。
「空っぽ」を
楽しめばいい。
「創造も何も、
まったく発想が
浮かんでこないのですが・・・」
と
言われることが
ある。
それはまだ
発想が浮かび上がる
タイミングではない、
という
だけのことだ。
焦る必要は
ない。
「泰然と待つ」。
「空っぽ」の人に
お勧めの
在り方だ。
もし
「空っぽ」の中に
一点が
見つかったら、
その一点
のみに
集中しよう。
他には
脇目も振らず、
その一点を
徹底的に
追求・探求しよう。
・・・
もう一つ
面白いのは、
そんな「空っぽ」の
自分を
いろんな人に
触れさせることだ。
いろんな人からの
刺激を受けることで
思いもよらぬ方向に
創造性が発揮される
ケースは多い。
もしくは、
「空っぽ」の自分
だからこそ、
周りのいろんな人に
深いレベルの
刺激を与えることも
できる。
もちろんこれは
無意識に、だ。
自分自身に
とっても
周りの人に
とっても
「空っぽ」の自分は
面白い。
だから「空っぽ」を
楽しもう。
つづく
自分の魅力は
自分では
わからないもんだ。
自分の個性を
真逆に
捉えている人も
結構、多い。
昔々、
ある人から、
「竹内さんは
笑顔よりも真剣な顔
の方がいい」
と
言われたことがある。
へぇ、そうなんだ、
と
びっくりした。
それまでは
とにかく笑顔でいよう
とし続けていた。
そこから
無理な笑顔は
やめることにした。
自分が周りに
どのように映っているか?
は本当に
わからないものだ。
実は最近、
・・・というか
もう一年くらいに
なるか、
私は「サーベイ」を
やっている。
ビジネスパートナー
と共に
「竹内が直接、
人に会わなくても
その人の本質的な
魅力や能力や強みを
見つけ、
その人に書面を通じて
メッセージする」
という
コンセプトで始めた。
実は、
構想の始まりは
5年前。
時々、中断しながらも
ずっと開発を
続け、
数十社で
モニタリングもし、
大変、ご好評を
いただいた。
28問の問いに
お答えいただき、
そのデータに基づいて
私が分析し、
一件一件丁寧に
レポートを書く。
またそのうちに
このブログでも
正式な案内なども
しようかと
思うが、
これが実に
楽しい。
お会いして
いないのに、
その人がまるで
目の前にいるような
感じがするのだ。
もちろん
サーベイをした上で、
研修やコーチングに入る、
という企業様も
ある。
サーベイをして
その人の人物像が
ありありとわかった上で、
実際にご本人と
お会いすると、
サーベイでの印象
そのものなので、
思わず笑って
しまったりもする。
メッセージを
すでにお伝えした
上での
研修・コーチングなので、
これがまた
実に
楽しい場になる。
これはちょっと
本腰を入れて
広げていこうと
思っている。
おかげさまで
いろんな方々からの
お声をいただきながら、
サーベイの種類も
増えた。
私は分析者
であるが、
本質は「コーチ」と
何も変わらない。
一つの狙い
であり
願いは、
自分の魅力は
まずは
自分が知ろう。
・・・である。
自分を見損なったり
見誤ったりするのは
もったいないよね。
つづく
問い一つ。
『今、目の前に
ある、
そのモヤモヤの
向こう側には
何がある?』
モヤモヤとは、
漠然と
モヤモヤしている
だけでは
解決しない。
モヤモヤは
しっかりと
見つめる必要が
ある。
それが
何となく薄〜く
存在するもの
だとしても。
いや、
実はそういった
モヤモヤの方が
根が深いケースは
多い。
モヤモヤを
ちゃんと
見つめる。
そして
その中に入り、
ちゃんと
感じる。
モヤモヤを
感じ切ろう
とする。
全身で
感じ切ろう
とする。
そこまですると
ようやく
その向こう側が
観えて来る。
出口が
わかるのだ。
そこで初めて
モヤモヤの
真の意味が
わかる。
モヤモヤとは
新たな世界への
入り口に
大抵は
あるものだから。
つづく
ここは
無理をしては
いけないな、
と
ここは
頑張って
限界を超えてやろう、
と。
この二つの区別が
つくといいな。
人はよく、
頑張るべきところ
を見誤る。
例えば、
頑張るべき物事、
対象、目的などを
見誤る。
頑張るべき課題、
問題点を
見誤る。
頑張るべき場所、
環境を
見誤る。
頑張るべき時間、
タイミングを
見誤る。
・・・見誤って
ばかりだ。
真本音で
生きよう。
自分の本当の
真本音の
願い。
それを常に
心の中心に
置き、
願いに基づいた
毎日を
送ろう。
できるところから
でも。
それをする以外に、
頑張るべきものを
区別する力は
決して
養われない。
真本音度を
高めるという
ことは、
どこで頑張れば
良いか?
が
判別できるように
なる
ということだ。
もちろん
一般的な判別
ではない。
答えは
自分にしか
ないのだから。
自分の人生の
答えは、ね。
つづく
心の中に
実在する
「高原」
を見つけよう。
それは
誰にでも
ある。
非常に気持ち良い
風の吹く
広々とした
高原だ。
青空が
広がり、
暑くも寒くも
ない
暖かな日差し。
静かに揺れる
お花達。
ところどころ、
木々もある。
遠くまで
見渡すことが
でき、
自分自身も
心身ともに
広々と
開放される。
そんな
高原。
心の中に
それを見つけたら、
その中に
どっぷりと
入り、
その大地に
大の字になって
休もう。
日差しに
全身を包まれ、
そして
大地からは
地熱を感じさせる
ような
パワーが
やさしく伝わってくる。
私の場合、
椅子に座ったままで
それをするが、
そのまま数分
ウトウトと
眠ってしまうことも
ある。
それでいい。
慣れれば、
立っていても
外を歩いていても
これができる。
これをすれば、
「自分」
が戻ってくる。
地に足のついた
自分が。
何かが
とても落ち着き、
何かが
シャンとする。
その状態で
物事の発想を
する。
「高原」は
イメージで
創り出すのでは
ない。
もう最初から
自分の中に
存在するもの。
実在するもの。
それを
「見つけ出そう」。
つづく
今日はまた
重要な問いを。
次の二つ。
直観的な
答えを
見つけよう。
・・・
今のあなたの
視野を
30倍に広げると、
今のあなたの
やろうとしていることは
どう見える?
そして、
あなたは自分の
何を変えたい?
・・・
理屈じゃなく
直観でね。
浮かんだ発想は
大事にしよう。
つづく
未知の領域に
いるということは、
「未知」なだけに
わからないこと
だらけだ。
「わからない」
が
普通であり、
通常状態
だ。
だから、
「わからない」まま
進むしかない。
「わからない」のに
進む、
のではなく
「わからない」
からこそ
進む。
同じ場所で
迷っていても
答えは永久に
見つからない。
答えのわかる
場所まで
移動し続ける
しかない。
もちろん
その場所の見当すら
つかないケースが
ほとんだろう。
だったら
直観に従う
しかない。
私達がこれまで
ずっと
直観力を鍛えて
きたのは、
この時の
ためだ。
未知の領域に
おいて
進み続ける
ためだ。
どうせぶつかる
なら
良いぶつかり方
をしたい。
どうせ転ぶなら
良い転び方
をしたい。
そのための
直観だ。
良い試行錯誤の
ための
直観であり、
上手くいくための
直観ではない
ということを
肝に銘じておこう。
もちろん、
わかることも
ある。
それは
「道はできる」
ということだ。
私達が進む
限り、
道は
できていく。
つづく
豪雨に見える
状況も、
実は
自分が創り出している
幻影に過ぎない。
しかしそれを
幻影である、
と認識しても
何の意味もない。
それは
現実だ。
幻影だろうが
実在だろうが
そこにあるのだから
すべては
現実だ。
そう捉えて
真摯に向かう
しかない。
幻影の痛みは
幻影だが、
でも実際に
痛むのだから
しょうがないだろう。
痛くない、
なんて思い込む
必要はない。
むしろ、
痛い痛い!と
泣き叫べばいい。
痛いものを
痛いと
ちゃんと感じるから、
私達は
ちゃんと進めるのだ。
雨は雨。
晴れは晴れ。
一つ一つ
丁寧に
噛み締めながら
進もう。
都合の良いこと
のみを受け入れ、
都合の良くないこと
からは逃げる。
そんな生き方
だからこそ、
エネルギーは
減退し、
虚しさは
増し続け、
ついには
何の気力も
出ないようになる。
雨が降っている
から
気力がなくなる
のではない。
逃げ続けるから
気力が
削がれている
わけだ。
今、
豪雨に立つ
人は多い。
豪雨であると
ちゃんと
認めることだ。
そして
雨粒に向かって
顔を上げよ。
雨は私達を
殺しはしない。
風邪はひく
かも知れないが、
結局はそれで
鍛えられる。
豪雨を
楽しめる自分に
なってゆく。
限界を超える
感覚がすると、
ついつい
逃げたくなるが、
逃げたくなる
心も
そのままに。
逃げたいよー!
と叫びながら、
進めばいい。
今の私達には
進む選択しか
ないのだから。
つづく
自分で
コントロールしよう
とするから
余分な力が
入る。
自分の
コントロールを
諦める。
すると、
途端にすべてが
進み始める。
それが
結果的には
大きな視点での
自己コントロールと
なる。
未知の領域の
進み方とは
そのようなものだ。
もともと
始めから
自分の範疇は
超えているのだ。
これまでの
自分では
対処できない世界に
今、いるわけだ。
これまでの
経験は
意味を成さない
どころか、
望むものと
真逆の効果を出す
ことさえあるだろう。
その点、
経験のまだ少ない
若者の方が
簡単だろう。
しかし、
年齢を重ねた人は
もう
未知の領域を
進むのは無理だ、
とは
言わないでくれ。
人生は、
そんな寂しいもの
ではないだろう。
よく言われること
だが、
人の創造性は
どれだけ年齢を
重ねても、
伸び続ける
ものだ。
それを
自分の意志で
発揮させるかどうか
だけの違いだ。
これまでの
人生は、
未知の領域に
突入できる自分に
なるための
準備期間。
その準備に
長い年月をかけ、
コツコツと
自分の土台を
育ててきた。
しかしその
土台は、
あなたの考えている
土台ではない。
そんな浅い
ものではない。
あなたの土台は
もっと深くに
ある。
それは
あなた自身には
認識し得ないものだ。
しかしそれを
あなたは
着実に育ててきた。
その
真の土台を
活かすためには、
あなたが今、
土台であると
思っているそれを
手放すことだ。
それが
これまでの自分を
超えるということ。
未知の領域の
進み方だ。
つづく
心の中に
嵐が荒れ狂うと
私は
やった!
と
喜ぶ。
なぜなら
大事な気づきを
得る前兆だからだ。
問いにもならない
気づき
というのが
ある。
本来は
気づきの前には
問いが浮かぶ。
問いを明確に
した上で
答えを見つけるのが
気づき
の基本だ。
しかし今は
超加速の
真っ只中。
問いを待っている
時間がない
こともある。
その場合、
問いを
すっ飛ばす。
そして
嵐が来る。
心全体が
竜巻に呑み込まれた
ようだ。
我を失う。
だが
それでいい。
それくらいで
ないと
たどり着けない。
私は
嵐に身を任す。
まったく
抗わない。
多少、痛いが
飛ばされるところへ
素直に
飛ばされる。
時には
全身が苦痛で
悲鳴を上げることも
ある。
それでも
構わない。
抗わない。
すると、
暗い嵐の中に
一点の光が
現れる。
現れても
そこには
行かない。
意図は
持たない。
光が
来てくれるのを
待つ。
追えば
逃げる。
嵐の中だが、
静かに
待つ。
泰然として
待つ。
すると
ある瞬間に
フッと光は
目の前に現れる。
私はその中に
吸い込まれる。
そして、
気づき
を得る。
問いをすっ飛ばす
気づきなので、
何についての
ことなのか、
さっぱり
わからない。
わからないが、
やはり
何も解釈せずに
素直に受け取る。
何かが
ストンと
肚に落ちる。
そして私は
根本的指針を
得る。
後でゆっくり
セルフコーチングして
それを言語化するが、
その前にもう
私は
動いている。
そして
動きながら
気づきの意味を、
内容を
知るのだ。
刺激的だろ?
他の人も
こういうこと
やってる人は
いるのかな。
もしくは、
こういうこと
やれるように
なりたい人は
いるのかな。
つづく