チームパフォーマンスコーチ

断絶

 

断絶が

ある。

 

断絶は

分離を生み出す。

 

分離は

多くの場合、

闘いを生む。

 

確執を

生む。

 

私達は

確執の歴史を

歩んできた。

 

それをもう

終えようと

志している人達は

随分増えた。

 

でもやはり

確執の時代は

続いている。

 

人間が人間で

ある以上、

それは変わらないのか?

 

という

問いの前に

今の私達はいる。

 

断絶を

観ている。

 

私は毎日、

断絶を

観ている。

 

一度、断絶を

した者達は、

 

その断絶を

守ろうとする。

 

それこそが

正義だと

信じている。

 

人は

断絶を守る。

 

ということは

確執を

守る。

 

断絶を

していないと

自分が自分では

なくなってしまうと

恐れるからだろう。

 

断絶とは

己を形づくる

なくてはならないもの

であると

多くの人は

信じている。

 

あなたと

私は

別の存在だ。

 

という認識すらも

一つの

断絶だ。

 

もしそれを

守らなければ、

この人間世界は

おかしくなるだろう。

 

人は

断絶。

 

人生は

断絶の道。

 

断絶の合間を

私達は

生きている。

 

その事実を

しっかり

見つめる目は

必要だろうよ。

 

その事実を

見つめること

なしに、

人と人のつながりを

語っているうちは

 

何も進まない

だろうよ。

 

つづく

 

運命

 

連鎖が

始まる。

 

連鎖とは、

多くの場合

一つの出会いから

始まる。

 

あなたが今、

本当に

出会いたい人は

誰?

 

それは

名前も顔も

知らない人かも

しれない。

 

でも

もう知っている

はずだ。

 

その人と

出会うことで

何を起こす?

 

その人と

出会うために

何をする?

 

運命は

自分で導く

ものだ。

 

つづく

 

孤独

 

あぁ、やっと

あなたのことが

ちょっとわかったよ。

 

あなたは

孤独であることを

選んでいたんだね。

 

いやこれは

真本音のレベルでの

話だ。

 

真本音で

孤独を

選んでいるんだね。

 

そうか、

だから皆が

あなたに関わろうと

すると、

 

あなたは

反発を起こしたのか。

 

なぜ、

これだけ器の大きな

あなたが

あんなにも

激しく憤るのかが

ずっと

不思議だったんだよ。

 

そうか、

あなたは

人と繋がることを

この人生では

選んでいないのか。

 

もちろん、

本当はずっと

繋がり合って

生きていることは

あなた自身が

誰よりもよく

わかっているね。

 

あなたのその

根底のあたたかさは

だから

いつもあなたと

共にある。

 

それを

わかっているから

こそ、

あなたは

一人で進もうとしている。

 

イメージで言えば、

垂直の岩の壁を

一人で登攀している

あなたの姿が

観えるよ。

 

その壁は

もうすぐ終わる。

 

もうすぐ

頂上だ。

 

そうか、

そこまであなたは

一人で。

 

孤独のままで

行きたかったのか。

 

これは

あなた自身が

あなたに与えた

罰なのか?

 

いや違うな。

 

これは

あなた自身が

あなたに与えた

悦びだ。

 

孤独であることの

悦びを

あなたは体験しようと

している。

 

それこそが

また

人間の悦びの

一つであることを

 

あなたは

自ら体験したかったん

だな。

 

そしてあなたは

多くの

孤独な人達を

サポートしようと

している。

 

残りの人生、

 

あなたは

それを

したかったのか。

 

つづく

 

青星

 

心は

宇宙のようだ。

 

無限に広がり、

まるで様々な星のように

様々な自分が

いる。

 

私の心の

端っこの方に

 

ほんの小さな

薄い光、

 

それは

小さな小さな

青い星のように

存在している

自分がいた。

 

小さな存在

なので

あまり気にせずには

いたのだが、

 

でも一方で

何となくいつも

時々

意識を向けざるを

得なかった、

 

そんな小さな

自分がいた。

 

その青い星は

私に語りかけることは

なかったのだが、

 

今日、初めて

何かメッセージの

ようなものが来た。

 

うららかな

日差しの中で、

透明な川が

流れている。

 

浅くて透明で

ゆっくり流れる

川。

 

その水に

浸かると、

とてもあたたかい。

 

私はその水に

潜ってみた。

 

透明なので

ずっと向こうまで

川の中が

見通せた。

 

ゆっくり流れる

その流れに

私は身を任せて

みた。

 

すると

私の周りに

いつの間にか

私と同じように

体を潜らせている

人達がいた。

 

彼らも

気持ちよさそうに

委ねている。

 

言葉を交わす

わけではないが、

でも私達は

何かを共に

確認し合っている。

 

あぁ

この人達は、

私の命を救ってくれた

人達か、

何となく直観した。

 

人には

無理するな、

と言いながら、

私自身はついつい

無理をし過ぎてしまう。

 

命を落としそうに

なるほど、

生命エネルギーを

使い切ってしまうことも

よくあることだ。

 

そんなことは

自慢にも何にも

ならず、

むしろ自分自身への

冒涜だ。

 

自分の命への

冒涜だ。

 

それをわかりながらも

ついつい

やり過ぎてしまう。

 

その反省を

私はしている

ところだったのだ。

 

そんな私に

彼らは

無言のメッセージを。

 

私と一緒に

委ねることで

無言のメッセージを。

 

川の流れの

ために

気づかなかったが、

どうも私は

大量の涙を

流しているらしい。

 

言葉にならない

メッセージと

言葉にならない

涙。

 

私はその

青い星から

出た。

 

青い星は

私の心の隅っこの

方で、

 

今もじっと

小さく

輝いている。

 

私を励ます

のでもなく、

 

私を叱る

のでもなく。

 

私はこれまで以上に

その星を

見つめながら

進もうと思う。

 

つづく

 

勇断

 

今、

大きな変化を

しようとしている。

 

これまで

本当に

大切にしてきたもので、

 

ここからは

もう

大切にする必要の

ないものは

何だろう?

 

これまで

必死になって

守ってきたもので、

 

ここからは

もう

守る必要のない

ものは

何だろう?

 

大切にしてきた

ものを

「もう大切じゃない!」

言い切るのは

とても勇気の要ることだ。

 

しかし

はっきりと

それを自覚し、

 

まるでこれまでの

自分を

全否定するかの

ように、

 

その気持ちを

自分の中から

追い出さねば

ならない時が

ある。

 

それが

今。

 

もう、

変わるんだ。

 

人生の

ステージが。

 

だから

勇気を持って

その気持ちを

捨てるんだ。

 

もうこれは

大切じゃない!

 

胸を張って

決めるんだ。

 

つづく

 

軽快

 

遊び心で

行かないと、

 

壁を突破できない

ときがある。

 

もちろん

遊び心で

行ってはならない

時もある。

 

同じ人でも

時期によって

心の在り方は

異なる。

 

今の自分は

どうか?

 

今の自分に

遊び心は

必要だろうか?

 

私はよく

自分にそう

問いかける。

 

大概、

8割くらいは

 

遊び心

絶対必要!

 

返ってくる。

 

そう。

 

私はちょっと

真面目過ぎる

のだ。

 

固く考え過ぎる

ところがある。

深刻過ぎる

のだ。

 

だから結構、

私にとって

遊び心

というのは

難しかった。

 

でもある時に、

遊び心は

開き直りだ、と

知った。

 

あくまで

私の場合だけどね。

 

どうとでもなれ

開き直って

軽く進んでみる。

 

お遊びのように、

悩まずに

進んでみる。

 

すると

ポンっと、

 

びっくりするくらいに

物事が

スムーズに運んだ。

 

最初は

まぐれだと思って

いたが、

 

何度か繰り返す

うちに

 

慣れた。

 

コツを

掴んだ。

 

今は、

遊び心はダメ。

 

でも今は、

遊び心で

行けばいい。

 

その判別が

つくようになった。

 

これは

理屈ではなく

嗅覚だ。

 

嗅覚だからこそ

遊び心だ。

 

賭けみたいな

もんだ。

 

そして

遊び心に

慣れてきたら、

 

知らぬ間に

覚悟が

できていた。

 

私として生きる

覚悟がね。

 

なんだ

こんなことなんだな、

思ったね。

 

皆さんは

どうかな?

 

つづく

 

二足

 

二つの方向に

進みたい自分が

いるのなら、

 

その両方が

どうてみても

自分にとって

本気であると

思えるなら、

 

二つとも

徹底的に

大切にしてみると

いい。

 

本来は、

道は一つに

決めた方がいい。

 

エネルギーを

一本に集約するのと

二本に分裂させるのでは、

 

それは

2分の1になるのでは

なく、

 

1/1000 くらいの

効果に

減退するのだ。

 

それをわかっていて

それでも二つを

大切にしたいなら

 

徹底的に

二つ共を

大切にするといい。

 

徹底的に。

 

それをして

初めて

観えてくるはずだ。

 

実はそれは

二つだと

思っていただけで

 

一本道だった

と。

 

しかし

そこにたどり着く

までは

 

生半可では

ない

ということは

言っておくよ。

 

一本道を

行くよりも、

難易度も数十倍だ。

 

それを

わかった上で

それでも

覚悟あるなら、

 

それは

自分の選択だ、

 

徹底的に

二つ共

大切にしよう。

 

つづく

 

使命

 

私のままで

いいじゃないか。

 

このまんまで

いいじゃないか。

 

・・・本当に

そう思えるまで

とことん

私として

生きてごらんよ。

 

徹底的に

として。

 

もしそれが

できたら、

 

次に

こう思えるんだ、

実に自然にね。

 

今の私じゃ

ダメだ。

 

・・・と。

 

このままじゃ

ダメだ。

 

・・・と。

 

この状態での

この想いは

次の想いと

完全に一致する。

 

今の世界じゃ

ダメだ。

 

このままの世界じゃ

ダメだ。

 

・・・とね。

 

そこで初めて

わかるんだ。

 

私は

何のために

生まれてきたか?

 

何を

成し遂げるのが

私の人生か?

 

・・・がね。

 

この順番。

 

この順番でしか

見つからないんだよ。

 

つづく

 

無益

 

とてつもない

敵と

ずっと戦い続けている

人がいる。

 

とても

かなわない敵。

 

それでも

一人で

戦い続ける。

 

戦略がある

わけではない。

 

結局

いつも同じ戦い方

になる。

 

そして

結局

いつも同じ

負け方となる。

 

戦いに敗れて

傷ついて

しかし時間が経てば

だんだん

体力は戻る。

 

体力が戻ったら

また

その同じ敵と

戦う。

 

でも

何も改善されてない

ため、

また負けるのだ。

 

心の中の

話だ。

 

自分の心の中の

敵。

 

自分が作り出した

敵。

 

それと戦い続け、

負け続け、

 

エネルギーを

消費し続ける。

 

人生の

 

生きるという

意味の

 

エネルギーの

ほとんどを

 

そこで

使っている。

 

その状態で、

様々な現実に

向かって行く。

 

だから

実際の

現実における

出来事にも

 

まともに

対応できない。

 

もともと

弱っているから、

対応できる

はずがない。

 

「人生は戦いだ」

その人は言う。

 

いやいやいや。

 

そうやっている

のは

あなたの勝手でしょ。

 

勝手に敵を

つくり、

勝手に疲れる。

 

そうして

つまづいて

ばかりいるのは

あなたが

勝手にやっている

ことだ。

 

自己満足

 

という言葉が

どうしても

浮かんでしまう。

 

今日も

また

戦うの?

 

幻影の

敵と?

 

幻と共に

疲れ果てるの?

 

幻によって

傷つくの?

 

もういい加減、

その

お遊び

から

 

脱け出さないか?

 

つづく

 

出口

 

出口が

見えたとき、

 

凄まじい加速が

始まる。

 

これまで

経験したことの

ない

 

加速。

 

だからここで

多くの人が

逃げる。

 

何とか

踏ん張り、

 

その加速

自分自身

 

一致させた者

だけが

出口にたどり着く。

 

そして

次の世界に

解放される。

 

自己開放

 

が起こる。

 

そう。

 

出口の手前

までは

誰でも

到達できるんだ。

 

しかし

出口を脱ける

のは

容易ではない。

 

どれだけ

口で

意気込んでも、

 

どれだけ

気合を入れても、

 

その加速の

前で

皆、尻込みする。

 

しかもそこは

他者による

サポートは

一切意味を成さない。

 

孤独で

あるし、

 

不安の

権化となる。

 

その状態での

加速。

 

それでも

あなたは

出口に向かうか?

 

つづく

 

道標

 

真一文字に

上昇する

鳥のように

飛んでゆく。

 

目は

たった一点を

見つめている。

そこから

離れない。

 

むやみに

翼は

動かさない。

ただ

大きく広げ、

風に乗っている。

 

あの一点さえ

見つめ続ければ

いい。

 

目を離さなければ

いい。

 

しかしその一点は

すぐに近づく

わけではない。

 

どれだけ

進んでも、

それは同じように

遠い。

 

ずっと

遥かなる一点だ。

 

あそこに

たどり着けるか

どうかは

わからない。

 

むしろ

その実感も気配も

ない。

 

このまま

飛び続けることが

私にとって

正しいのかどうか?

 

それすらも

わからない。

でも

私は飛ぶ。

 

身の程知らず

だろう、

きっと。

 

後先を考えても

いない。

 

無謀か?

 

でも

そう問うと、

とてもそうは

思えない。

 

根拠のない

この確信。

 

あの一点には

私しか

辿り着けないだろう

という

理由のない確信。

 

それに

委ねてしまう

この馬鹿さ加減。

 

それらは

ちゃんと

自覚している。

その上で、

飛んでいる。

 

私の他は

誰もいない。

 

孤独だろうか?

 

これも

違う、と

わかる。

 

私以外

誰もいないのに

孤独ではない。

 

なぜ

飛ぶか?

 

わからない。

 

なぜ

目指すか?

 

わからない。

 

なぜ

やめないか?

 

わからない。

 

ただ、

これが私である、

とは

わかるのだ。

 

つづく

 

限界

 

自分の限界を

超える

スピードが出た時、

 

私達は

目がくらむ。

 

何も見えなく

なる。

 

見る余裕が

なくなる。

 

現実が

わからなくなる。

 

だから本当は

限界を超えるスピードで

進むことは

無茶であり

やめた方がいい。

 

本当は。

 

でも

それをよく

わかっていて、

 

しかしそれでも

あえて

限界を超えたまま

進もうとする人がいる。

 

実は

私もよくやる。

 

これはあまり

お勧めできないこと

なのだが、

どうしてもそれを

やりたいという人を

 

止める術は

ない。

 

だから一つだけ

アドバイスを。

 

どうせ限界を

超えるのであれば、

 

とことん

委ねてしまえ。

 

何という

無茶なアドバイス、

言えなくもないが、

 

しかしそれが

一番良い。

 

限界を超えて

何も観えなくなると

途端に恐怖が来る。

 

恐怖が来れば

身がすくむ。

そして

変なブレーキが

かかってしまう。

 

それが一番

怖い。

 

限界を超える

とは

まさしく限界を

超えることなので、

 

私達自身にはもう

コントロールは

不可能だ。

 

であればもう、

すべてをその流れに

委ねるのだ。

 

諦めるのだ。

 

どうとでもなれ、

と。

 

開き直りだ。

 

これしかない。

 

これしかなくなるのが

限界を超える

ということだ。

 

だから

興味本位で

やらないこと。

 

しかし、

 

やる以上は

完全に

 

委ねてしまえ。

 

つづく

 

過去

 

皆さんの場合、

過去を振り返る

ということが

普段はあるだろうか?

 

私は過去など

振り返らない。

未来のみ見つめる。

 

という

人もいるが、

 

過去の振り返りは

想定外の気づきを

私達にもたらしてくれる

ことがある。

 

私はいつも

「私の人生」

というものを

過去・今・未来を

一直線に結んで、

 

その全体像を

客観的に眺める

ということを

 

ほぼ毎日のように

行なっている。

 

実は意識的に

そうしているわけでは

なく、

ふと、無意識に

それをしてしまうので

あるが。

 

そうして

人生の全体像を

眺めていると、

自然に過去のある場面に

引きつけられる

ことがある。

 

すると私の意識は

その場面へと

飛ぶ。

 

その場面に完全に

入り込む。

 

そして

そこでもう一度、

過去のその体験を

やり直すのだ。

 

もちろん

事実を捻じ曲げる

ことはしない。

 

実際の過去の

その出来事を

そのままに

もう一度、体験する。

 

しかし

今の私がそれを

すると、

その出来事の景色が

その当時とは

まったく別物に変わる

ということは

本当に多い。

 

そしてそれにより

その出来事からの

気づきが来る。

 

その気づきが

今の私への指針に

なるのだ。

 

私達は

体験の中で

生きている。

 

人生とは

体験だ。

 

しかしその体験は

一度の体験で

済ましてしまうには

惜しすぎる。

 

体験は

何度でもし直せる。

 

それにより

人生をより豊かに

進めることは

可能だ。

 

無理に過去を

振り返る必要は

ないが、

 

人生を客観的に

眺めつつ、

自然な振り返りは

強くお勧めする。

 

つづく

 

状況

 

物事の状況

というのは

もちろん、

自分にとって

都合の良いこと

ばかりではない。

 

なぜ

こんなことに

なってしまったんだ、

悔やむことも

多いだろう。

 

状況に焦る

気持ちは

そのままに。

 

心は

そのままに。

あるがままに。

 

ただ、

 

今のこの状況

だからこそ

できる発想が

ある。

 

この状況だからこそ

気づくことが

ある。

 

この状況だからこそ

とれる行動が

ある。

 

今の状況が

自分にとって

プラスかマイナスか、

という

視点から離れ、

 

どのような状況も

今ここでしかないのだ、

という

事実は誠実に

受け止めよう。

 

今ここ

でしかできない

ことをする。

 

どれだけ心が

荒れていても

そこに真摯で

あり続けよう。

 

それが

私達にできる

最善のこと。

 

つづく

 

心身

 

どれだけ

自分のエネルギーが

高まっても、

 

実際に

現実のレベルで

出せるエネルギー量には

限界がある。

 

限界以上の

エネルギーをもし

出し続けると、

 

体が

壊れてしまう。

 

時には

心も壊れてしまう。

 

せっかく

エネルギーが

高まったのに、

それによって

心身が壊れてしまうのは

あまりにも悲しい。

 

エネルギーが

高まった人ほど、

エネルギーコントロールが

必須だ。

 

エネルギーコントロール

とは、

自己マネジメント

そのものだ。

 

つまり、

 

「今、私は

何にこそ自分の力を

注ぐべきか?」

 

絞り込むことだ。

 

これは

 

「今の私の取り組む

課題は?」

 

イコールだ。

 

エネルギーとは

発散・拡散

させ続けるのではなく、

 

集約・集中

させるものだ。

 

一点集中

と言ってもいい。

 

その

「一点」を

的確に決めることこそ

自己マネジメントの

真髄だ。

 

もっと

大袈裟に言えば、

 

無駄なことは

一切しない。

 

無駄なエネルギーは

一切かけない。

 

あらゆる無駄を

削ぎ落とす。

 

ということだ。

 

日々を

シェイプアップ

する。

 

時間の使い方、

エネルギーの使い方を

シェイプアップする。

 

エネルギーが

高まった人ほど、

その意識を

高めること。

 

エネルギーの

高まりによって

自己を過信

してはならない。

 

エネルギーが

高まったからこそ

よくわかるだろう。

 

心も体も

そんなに強いもの

ではないのだ、と。

 

つづく

 

惰性

 

このまま進むと

私の未来は

どこに行き着くか?

 

この問いと

真剣に向き合う

ことは

かなりの恐怖かも

しれないな。

 

今だって

一生懸命

やっているさ。

 

でも

これまでと

変わらぬ

一生懸命さで

 

これまでと

変わらぬ

進み方をする

のは

 

単なる

惰性なんだよ。

 

どれだけ

一生懸命でも。

 

これまでの

延長線上は、

すべて

惰性。

 

惰性の先に

あるものを

イメージするのは

怖い。

 

なぜなら

惰性であると

自分自身が

よくわかっているから。

 

自分の範疇を

超えない

成長。

 

これも

惰性だ。

 

そういう人も

未来をイメージする

のは

怖がるはずだ。

 

未来は

怖い。

 

なぜなら

惰性の生き方を

しているから。

 

惰性の何が

悪い!

 

という声も

ありそうだが、

 

良い悪いの

問題ではない。

 

私達人間は、

惰性の生き方が

怖いのだ。

 

いや、もうちょっと

正確に言えば、

 

惰性の生き方を

続けるうちに

不安は日々、

積もり続けるのだ。

 

怖いから

自分を失う。

 

自分を失うから

自分以外の

何かのせいにする。

 

環境のせいにする。

 

状況のせいにする。

 

どれだけ

何かのせいにしても

ますます

不安は増すばかり。

 

惰性で生きている

自分に、

 

その生き方に

 

妥協はしない

方がいい。

 

惰性に

安定はない。

 

惰性に

安心はない。

 

早くその事実を

受け止めよう。

 

惰性で

進むのではない。

 

願いの方向に

進むんだ。

 

つづく

 

1500

 

2017年8月7日から

ブログを毎日書こう、

決めた。

 

で、実際に

そこから毎日

書いた。

 

今回で1500回。

つまり、

1500日。

 

ちゃんと

続いたな。

 

書くにあたり、

決めていたことが

あった。

 

一つ、

書き溜めはしない。

 

一つ、

書くのはすべての仕事が

終わってから。

つまり、夜中。

 

一つ、

昼の間に内容は

一切、考えない。

 

つまり、

一日を終え、

その「終えた時」に

私は何を書くのか?

 

それを

大切にした。

 

しばらくは

慣れなかった。

 

書くのに何時間も

かかり、

結局、朝を迎えたり。

 

写真選びも

こだわり、

それだけで

何時間もかけたり。

 

地味なところ

だけど、

フェイスブックにブログ記事を

紹介する

1行の紹介文。

その1行にも

何時間もかけたり。

 

とにかく、

1%でも淀みのある

ものは

書かない。

100%の気持ちの

一言一言しか

書かない。

 

内容が

正しいかどうか、

とか

素晴らしいかどうか、

ではなく、

 

ちゃんと自分の

100%がそこに

乗っかっているかどうか。

 

それを

大切にした。

 

そして実は、

 

ブログを書いた直後に

もう一つ

始めたことがある。

 

私は勝手に

「ヴォイス講座」と

呼んでいるが、

 

私の声の録音も

ある時から

始めた。

 

1回約10分の

声だけによる

講座。

 

真本音反応本音の

基本から、

真本音度合いの

高め方、

セルフコーチング法、

人の真本音度合いを

高めるコミュニケーション法、

・・・

というように

かなり基本的なことから

始め、

だんだんと次元の

高め方になり、

 

実在と現象の

話になり、

 

結局、今は

ちょっと人様にはなかなか

お聴かせできない内容に

なってしまい、

 

いったい私は

これをどうする気なんだ?

と思いながら

 

それでも

毎日、録音を続けて

いる。

 

これも昨日時点で

517回。

 

つまりは

517日、続けている。

 

でもこれ本当に

今は

一般公開する気は

なく、

きっとこれは

私が死んだ後に

世の中に出してもらうと

いいんじゃないかな、

くらいに思えてきた。

 

ただ、

あまりここは

考えないようにしている。

 

なぜこれを

録音しているか?

いつか必要な時に

わかるのだろう、と。

 

私にはよく

こういうことがある。

 

意味も目的も

わからないのに、

なぜか

「やろう」

と思うもの。

 

そういうのが

発想された場合、

私は

意味も目的も

わからないままに、

必ず素直に実行に

移す。

 

よく考えたら

人生、

そんなことばかりかも

しれないな。

 

とにかく

今回は完全に私事

なのだが、

 

1500という数字が

なんとなく

嬉しくってね。

 

書かせて

いただきました。

 

つづく

 

節目

 

白い龍が

踊っている。

 

踊りながら

あちらこちらを

自由に

飛び回っている。

 

表情は

見なくても

わかる。

 

悦び勇んで

いるのだ。

 

あぁ、節目が

来たな。

 

節目まで

来れたな。

 

わかる。

 

私の場合、

人生のとても重要な

節目を迎える時、

 

大概、そこで

白い龍を観る。

 

私にとって

白い龍は

自分ががんばった

証であり、

 

次のステージへの

スタートの合図

でもある。

 

自分を褒める

のと同時に、

どこかがキュッと

緊張する。

 

しかしこの

緊張感こそが、

ひょっとすると

私にとっては

人生でも最も好きな

感覚かもしれないのだ。

 

私はこれから

白い龍と共に

セルフコーチングに

入る。

 

ここは節目だ。

 

これまでの私は

何者で、

 

ここからの私は

何者となるのか?

 

それをゆっくり

見出そうと思う。

 

つづく

 

一祈

 

私の心の奥には

祈りがあるな、

ある時にわかった。

 

祈りとは

信仰心という

意味ではない。

 

他に言葉が

ないので、

どうしてもこの表現に

なってしまうが、

 

それは確かに

祈りだ。

 

しかも

何を具体的に

祈っているのかは

わからない。

 

でも確かに

祈りなのだ。

 

本当に苦しい

時期だった。

 

自分という人間を

根こそぎ

捨ててしまいたいと

考えていた

時期だった。

 

八方塞がり。

 

どこにどう向かっても

私には地獄しか

待っていない。

 

と、

そんな風にしか

考えられない

日々だった。

 

そんな中で

気づいた

私の中の祈り。

 

それは

自分を救い出す

ための祈り

ではなかった。

 

それは

私自身が

生まれてきた意味

だと思えた。

 

八方塞がりで

今は何をどうすれば

良いのか

さっぱりわからないが、

 

ただ

この祈りだけは

持ち続けようと

決めた。

 

恐らくであるが、

 

人は全員、

祈りを持っている。

私と同じように。

 

たくさんの人と

向き合いながら、

私は今では

ほぼすべての人に

祈りの存在を

感じる。

 

私はいつも

その人の祈りを

感じながら

人と向き合う幸福を

感じているのだが、

 

残念ながら

当のご本人が

それに気づいて

いない。

 

あなたには

祈りがありますよ。

 

などとは

伝えない。

 

伝えても

意味がない。

 

あなたは

祈りですよ。

 

本当は伝えたいのだが、

それをしては

恐らくすべてが

逆効果に働くだろう。

 

祈りは

自分で感じ取るしか

ない。

 

言葉はないが

自分という存在の

根源的なもの。

 

それと歩むのが

人間なのだと

思う。

 

私は一つの祈り。

 

皆の中の

たった一つの

祈りだ。

 

つづく

 

未来

 

未来が私に

語りかけてくる。

 

もっと私と

一つになったらどう?

 

と。

 

いや、いいよ。

 

私は返す。

 

私は未来を

知りたくないんだ。

 

ほんの1秒後の

未来でさえ。

 

その気持ちは

わかるけど・・・。

 

未来が呟く。

 

これは好みの

問題じゃないんだ。

 

未来がわからない

のが

この人生の

醍醐味さ。

 

悲しいことも

多いでしょう?

 

もちろんね。

耐えられそうも

ないことも

たくさんあった。

 

でもそれでも

私に未来は

必要ない。

 

寂しいね。

 

どうして?

私は未来を

創っていくものだと

思っている。

 

それはそうだけど、

でも結局はそれは

私と一つとなる

ということだよ。

 

もちろん

わかっているよ。

 

でもそれでも

未来は

私が創っていく。

その方が

面白いし、

ここにいる意味が

あるよ。

 

でもあなたの

歩みは、

私と一つになった方が

随分楽だと思うけど・・・。

 

いや、

今でも充分に

楽だよ。

私は「今」を

愛しているからね。

「今」を愛せば、

未来を感じるよ。

決して未来はわからない

けどね。

 

わかった。

じゃあ、あなたからは

離れておこう。

もっと離れようか?

 

そうだね。

遠くの星くらいで

いてほしい。

未来を星のように

眺めながら、

遠くの存在として

感じながら

進みたいんだ。

 

あなた、

変わってるよね。

 

そうかなぁ。

これが人間の

醍醐味だと思うけどなぁ。

 

つづく

 

約束

 

一本の道を

歩いている。

 

ずっとまっすぐ

続いている。

 

この道を

歩き続けたら、

 

一緒に歩く人が

自然に増えた。

 

私は常に

前を向いていた。

 

あまり

横は向かなかった。

 

なのに、

ふと気がつくと

一緒に前を向いて

隣を歩いてくれる

人達がいた。

 

あぁ俺は

幸せなことだなぁ。

 

呟きながら

さらにスピードを

上げた。

 

すると途端に、

道を外れる人が

出てきた。

 

えっ、えっ、えっ!?

 

君、外れちゃうの?

 

一緒にまっすぐ

進もうと

約束してたのに。

 

そこ、

曲がっちゃうの?

 

必死に声をかける

のだけど、

私は無視された。

 

あんたとは

もともと道が

違うのだよ、という

感じで

 

平気で

無視された。

 

本当に

言葉もなかった。

 

その度に

私は泣いた。

 

泣くけども、

それでもその道を

進むことは

止めなかった。

 

むしろ

スピードアップした。

 

反撥していた

わけではない。

 

君がいなくなるなら、

もっと俺は

頑張らねば・・・、

 

という気持ち

からだ。

 

でもそれを

やっているうちに、

その新たなスピード

だからこそ

だろうな、

 

また自然に

隣に

一緒に進む人が

集まってきた。

 

そしてさらに

スピードアップ。

 

するとまた

何人か外れていく。

 

ずっと

その連続だった。

 

何度も泣き、

何度も喜んだ。

 

気をつけた

こと。

 

それは決して

横を向き過ぎないこと。

 

横を一緒に

進んでいる人のために、

ならないこと。

 

あくまでも

私は前を向き、

自分のこの限られた人生で

 

進めるところまで

進む。

 

私にはどうしても

達成せねばならぬ

ことがあるのだ。

 

そのために

進む。

 

そこは揺るがぬ

こと。

 

こういうのを

頑固

と言うのだと思う。

 

融通が利かないなぁ

と思う。

 

でもそれが

という人間だ。

 

この道を進むのが

私であり、

 

この道が

私だ。

 

これからも

悲しむことは

あるのかな。

 

なきゃない方が

良いけれど、

 

悲しまないために

どう進むか、

ということも

きっと私はまったく

考えず、

 

さらに

スピードアップを

続けるのだと思う。

 

私自身との

約束だから。

 

つづく

 

地道

 

地道に一歩ずつ、

私達は

行くしかないでは

ないか。

 

たった一人の

能力は

たかが知れている。

 

一日、24時間。

 

この限られた

資源。

 

その中でできることは

たかが

知れている。

 

大きなものを

目指すことは

自由だが、

 

私達に

今、

できることは、

 

今、

できることを

すること。

 

だから

今、ここを

とてつもなく

大切にする。

 

ほんのわずかな

一歩だと

しても、

 

そこに

魂を込める。

 

ほんの些細な

一言だと

しても、

 

そこに

魂を込める。

 

体が一つしか

ない自分。

 

1秒においては

1秒しか

活動のできない

自分。

 

この制限の

中、

私達は

生きている。

 

ほんのわずかしか

命の炎は

燃やせない。

 

命のエネルギーは

費やせない。

 

どれだけ大声を

出しても、

地球の裏側まで

その声が届くことは

ない。

 

どれだけ

思いっきり

空気にパンチをしても、

 

自分の右手の

周りの空気が

小さな小さな

風を立てるくらいだ。

 

何という

小さな存在、

 

小さな

影響力。

 

にも関わらず

大志を抱く。

 

この

人間という

存在。

 

ならば

やはり

ここに、すべてを。

 

この1秒に

すべてを。

 

この一つに

すべてを。

 

丁寧に、

誠実に、

 

祈りを込めて。

 

つづく

 

生活

 

通常の成長の

限度を超えた

 

逸脱的成長を

しようとしている

人達が

 

今、急増している。

 

かなり

勇敢な行為だ。

 

勇気と覚悟を

もって

一気に進もうと

している。

 

それ自体は

称賛すべきこと

なのだが、

 

しかし

わかってほしいのは

それは

そんなに簡単な

ことではない。

 

逸脱的成長を

しようとする場合、

最も大事なことは

何だろう?

 

もしそう問われたら

私なら

こう答える。

 

ちゃんとした

「生活」

をすること。

 

・・・と。

 

「生活」とは

つまり、

 

今、やるべきことを

今、ちゃんとやる

ということだ。

 

自分をコントロール

して、

人として

生きる上で必要な

こと、

人間関係を維持する

上で必要な

こと、

をちゃんとすることだ。

 

例えば、

ちゃんと毎日

体を洗う、

歯を磨く、

清潔にしている、

部屋は掃除する、

食事はきちんととる、

人とのコミュニケーションを

大事にする、

挨拶を大事にする、

感謝の一言を忘れない、

ごめんなさい、をちゃんと言う、

一つ一つの物事を

丁寧に心を込めて行なう、

・・・etc.

 

ということだ。

 

地に足をつけて

「生活」すること。

 

これは

自分自身の意思で

行なうことだ。

顕在意識の意思で。

 

そういった

当たり前のことを

大事にできない人は

 

逸脱的成長など

とんでもない。

 

「生活」を

コントロールできない人が

自分をコントロール

することはできない。

 

そんな人が

逸脱的成長を目指せば、

自分が

壊れてしまう。

 

「成長できた!」

と思ったとしても

それは究極の自己満足

に過ぎないだろう。

 

真本音度合いが

高まる、

と人は自然に

「生活」をしっかり

するようになる。

 

「今」という時間を

大事に、

「人」を大事にし、

「生活」を

本当に大事にするように

なる。

 

それが

正常な成長の姿

だ。

 

人としての

姿だ。

 

つづく

 

自分

 

「自分」

という人間を

自分が潔く見つめる。

 

たったこれだけの

ことで

 

人生は

変わる。

 

私自身も

そうだったし、

 

それができた人は

皆、そうなった。

 

なぜ、

私の人生は

変わらないのか?

 

その理由は

自分をちゃんと

見つめてないから。

 

・・・究極は

そう言ってしまっても

良いのだな、

最近は改めて

思う。

 

人生を変える、

までは

行かなくても、

 

最近、物事が

上手く捗らないなぁ、

 

すぐに何かと

ゴタゴタに

ぶち当たるなぁ、

 

なんでこうずっと

モヤモヤが

続くんだろう?

 

思うのであれば、

やはり答えは

同じだ。

 

自分をちゃんと

見つめてない

のだ。

 

最後は

ここに行き着く。

 

自分を見つめず、

自分から逃げる。

 

そういう人が

現実から逃げる。

 

逃げていることを

誤魔化す。

 

本当は

現実から

逃げているのでは

ない。

 

自分から

逃げている。

 

結局は

そうなのだ。

 

私達には全員、

 

ただ

自分を

そのままに

見つめる自分が

いる。

 

本当は

自分のことは

よくわかっている。

 

なのに

わかっていない

フリをする。

 

それも

誤魔化しだ。

 

もういい加減、

そんなことは

止めよう。

 

時代は

変わったんだ。

 

誤魔化しで

進めるほど、

今の時代は

甘くはない。

 

つづく

 

人間

 

年齢が若い

からと言って

未熟なわけではない。

 

表面的な若さ

のみを見て、

 

この人は

まだ未熟だ

 

決めつけることの

危うさ。

 

最近よく

感じる。

 

成熟している

若者が

増えている。

 

これはもちろん

良い意味で

言っている。

 

サポートしながら、

私の方が

100倍も未熟じゃないか、

よく感じる。

最近は。

 

もちろん

そういう人ばかりでは

ないが、

 

しかし

私達は、

特に私と同じくらいの

世代の人間は、

 

人の見方を

 

そろそろ

根本的に

変えなければならない

と思う。

 

「人間」

変わったよ。

 

ここ数年で

大きく変わった。

 

良いことだよ。

 

変わったことに

気づかない、

もしくは

気づいていないフリを

しながら

行くのは

終わりだ。

 

「人間」

変わったよ。

 

そして

これからも

さらに

大きく

変わっていくよ。

 

「人間」を

これまでの人間と

同様に

見てはならない。

 

その私達の

目線が

時代を本当に

変えていくのでは

ないか。

 

「未熟」

なんて

決めつけるな。

 

ここからは

共に社会を

創っていくんだ。

 

つづく

 

エネルギーいただこう

 

もし目の前に

川の激しい流れの

ような

 

勢いのある

エネルギーの束が

観えるなら、

 

それを

存分に浴びる

といい。

 

激流を目の当たり

にすれば

一瞬、

恐ろしくなるが、

 

開き直れば

いい。

 

自分を閉じる

のではなく、

 

自分を

開く。

 

全身を

開いて

そのエネルギーに

委ねてしまう。

 

すると

自分の中の

あらゆる余分な

存在が、

 

キレイさっぱり

洗い流される。

 

身も心も

軽くなるだろう。

 

必死に進む

毎日ならば、

もちろん

エネルギーを使い切る

ことなんて

ざらだろうね。

 

無理するな

と言っても

無理しちゃうよね。

 

全力で進めば

当然そうなる。

 

そんな時は

ふと

心を鎮めれば、

 

至るところに

流れる

エネルギーを

感知できるかも。

 

感知できるだけで

私達はそれを

引き寄せられる。

 

エネルギーは

真剣に進む存在へと

引き寄せられる。

 

それを

有り難く

いただけばいい。

 

私達は

自分のエネルギーだけで

進んでいるわけでは

ない。

 

自分のエネルギーだけで

進まなければならない

わけでもない。

 

この世は

エネルギーに

満ちている。

 

エネルギーの循環に

溢れている。

 

真剣に進む者は

それを活用できるように

なるんだよ、

自然にね。

 

つづく

 

希望の芽

 

自分の中に

希望が見えても、

それをすぐに

捨ててしまう人が

いる。

 

どうせ無理だ、

と。

 

もしくは、

 

今の私には

無理だ、

と。

 

そんな勿体無い

ことはしない方が

いい。

 

希望は

希望だ。

 

それは

大切にすれば

するほど、

心の中心核に

育っていく。

 

希望は

最初は甚だ心許なく、

弱々しいものかも

知れないが、

 

それをずっと

持ち続けることで

自分と一体化を

し、

 

そして

自分の中心核と

なる。

 

その中心核からは

芽が出、

茎が伸びる。

 

それは

自身の中心軸と

なる。

 

もちろん

花はそんなに簡単には

咲かないかも

知れない。

 

でも私達は

中心核と中心軸が

あるだけでも

毅然と生きることが

できる。

 

そういった

意味でも、

 

希望は

希望だ。

 

つづく

 

志の本質

 

新たな志が

芽生えたならば、

 

それと

ジッと向き合い

続けるといい。

 

志そのものと

ジッと

向き合い続ける。

 

思考する

のではない。

 

何も

考えない。

 

ただ、

静かに向き合い

続けるのだ。

 

・・・・・・

 

その志から

感じるのは

何だろう?

 

あたたかさ?

冷たさ?

柔らかさ?

硬さ?

 

その志は

伸びゆくもの

だろうか?

 

自分を伸ばして

くれるもの

だろうか?

 

思考ではない。

ただ

その視点で

見つめるといい。

 

その志は

自分自身に

何をメッセージ

しているだろう?

 

自分に何を

リクエスト

しているだろう?

 

思考ではない。

ただ

その視点で

見つめるといい。

 

・・・・・・

 

志には

命がある。

 

それは一人の

子どもが生まれた

のと

何ら変わらない。

 

大切に

常に大切に。

 

常に栄養を

与え、

励まし、

時には叱り、

指導する。

 

志を叱ったり

指導するのだ。

 

そうしないと

志はまっすぐに

育たない。

 

子どもと

同じだ。

 

志に依存しては

ならない。

 

志は

自分の意思で

育てるもの。

 

志は最初は

まだまだ小さくて

未熟だ。

 

自分からの保護が

必要だ。

 

志の保護者で

あること。

 

これをちゃんと

誠実にやり遂げる

人こそが、

 

志を

成就させるのだ。

 

私達は

志と共に進む。

 

志とは

パートナーである。

 

本当のパートナーに

育て上げるのは

自分次第だ。

 

つづく

 

遥かな終わり

 

よく私は

トンネルの中に

入る。

 

トンネルは

延々と続く。

 

トンネルという

よりも

洞窟と言った方が

正しいかも知れぬ

自然さの

トンネル。

 

延々と続く中を

私は

延々と進む。

 

どれだけ進んでも

終わりが見えない。

 

同じ光景が

続くのみ。

 

しかしそれでも

進んでいる実感は

あるのだ。

 

そしてそこに

喜びを確かに

得ている自分がいる。

 

きっと

この進みの先には

まだ見えぬ終わりが

あるのだと思う。

 

その終わりを

見たいという想いで

進むのだが、

 

一方で

その期待のままに

永遠に進み続けたい

とも思う。

 

この感覚は

何かに似ているなと

思っていたが、

 

あぁこれは

我々の魂の旅路

であり

 

人生の旅路そのものの

感覚だな

とも思った。

 

早く終わりたいが

ずっと終わりたくない。

 

この

人間としての

感覚。

 

人間だからこその

感覚。

 

すべてのことに

きっと

終わりはある。

 

それは

出口かも知れないし、

 

行き止まりの壁

かも知れない。

 

それを見極めた時、

次の瞬間には

別の世界に飛び、

 

次の別のトンネルの

中にいるのかも

知れない。

 

このトンネルの

先には

何がある?

 

私はこういった時、

ダイレクトに

そう自分に問う。

 

すると面白い

ことに

必ず何らかの

答えのようなもの

を得る。

 

今回は

こんな答えが来た。

 

「たくさんの

集合体がある。

これまで出会った

あらゆるものの

集合体だ。」

 

つづく

 

近過ぎる 遠過ぎる

 

人と人の距離感

というのは

とてつもなく大事だと

私はいつも思っている。

 

せっかく相性が

良いのに、

距離感がズレている

ことで

足を引っ張り合ったり、

仲違いをしてしまうことも

ある。

 

近い距離を

遠ざけるのは

一般的には

「寂しさ」を感じたり、

 

それは表面的には

「手放す」ことと

同じなので、

 

罪悪感を

感じたり。

 

でもそこを

毅然と遠ざけることの

できる人は

私は本当に

愛のある人だなぁ、

と思う。

 

みんな距離が

近過ぎるな、

とも

よく思う。

 

もっと離れていて

良いのに、と。

 

執着や依存心が

距離を必要以上に

近づけてしまう。

 

逆もある。

 

この人達

もっと近づけばいいのに、

と思うのに

近づかない。

 

無理に

距離を取ろうとして、

そこにばかり

エネルギーを費やして

しまう。

 

近づけるどころか、

いっそのこともう

一つになってしまえば

良いのに、

というケースもある。

 

私達人間は

体は二つでも

本質的には

一つになることも

できるのだ。

 

なのに

中途半端にしか

近づかない。

 

とても遠慮を

する。

 

そんな関係も

多い。

 

距離感のみを

修正することで

世の中全体の調和は

根本的に変わるのでは

ないか。

 

とさえ

思えるんだな。

 

距離感。

 

この視点で

すべての関わりを

総チェックしてみると

いいね。

 

つづく