チームパフォーマンスコーチ

風を贈り合う

 

今日は珍しく

昼も夜も

人と食事を

共にした。

 

真剣な話を

すればするほど、

 

笑顔に

なれる。

 

軽く

なれる。

 

そんな人達と

一緒に向かい合う

時間は

 

私にとっては

至福だ。

 

顔は

真剣なのに、

 

なぜか

そこには

常に笑顔を感じ、

 

そして

ふとした瞬間に

 

その人の真実

 

が、

フッと風のように

私の

心に届く。

 

私はその時、

何かを

理解する。

 

時の蠢き

のようなもの。

 

時代の

切り替わりの

スイッチが

入れ替わるような

感触を

伴うもの。

 

背中を

やさしく

深く

そして強く

押してもらっている

ような

風。

 

あーこれが

この人の

真実か、と

 

その理解と

共に

言いようのない

悦びが

 

私を満たして

くれる。

 

人には

真実があり、

 

その真実は

ほんのちょっとだけ

顔の覗かせ、

 

それを

お互いに

確認し合いながらも

 

お互いに

風を贈り合う。

 

すべての人達が

こんな会話が

できるようになれば、

 

世の中は

根底から

変わるのでは

ないか。

 

つづく

 

しっかり迷おう

 

願いが強ければ

強いほど、

 

願いが深ければ

深いほど、

 

迷いもまた

深くなるものだ。

 

迷うことは

いけないことでは

なく、

とても大事なことだ。

 

いけないのは、

必要のないところで

迷うこと。

 

決めているのに、

迷っているフリをして

進まないこと。

 

でも、

本当の迷いとは

しっかりと

向かい合った方がいい。

 

本当の迷いと

対峙することで、

 

そこで

しっかりと

「止まる」ことで、

 

「進まない」ことで、

 

初めて

観えてくるものが

ある。

 

そして

しっかりと

迷い、止まることで

 

その後に

「超加速」できる。

 

そう。

 

今、

「超加速」を望む人が

またもや

増えている。

 

ただの加速では

ない。

 

「超加速」だ。

 

そしてそのために

今、

 

本当に心から

 

魂から

 

迷っている。

 

とても

良いことだ。

 

必要不可欠な

ステップだ。

 

しっかり

止まり、

しっかり

迷い、

 

しっかりと

疲れるといい。

 

つづく

 

風を起こそうか

 

太陽は

いつも天にあり、

 

地上に

光をもたらして

くれる。

 

私達に

光をもたらして

くれる。

 

太陽がもし

なければ、

私達は生きること

自体ができなくなる。

 

太陽から

一体どれだけの

恩恵を

私達は得ている

ことか。

 

しかし普段、

 

私達は太陽の

ことなど

気にも留めていない。

 

時折、

今日は暑いなぁ、

とか

 

あ〜、天気

良くなったなぁ、

とか

 

そんな時に

ふと気にするくらいだ。

 

そこにあって

当たり前のもの。

 

だと

私達は太陽を

捉えている。

 

思えば、

 

私はそういった

太陽のような存在で

ありたいな、と

思い続けてきた。

 

とてもエネルギーが

高く、

多くのものを

もたらしながらも、

 

決して

目立たない存在。

 

だけど、

ふと意識を向ければ

それがそこに

あることに

自然に感謝の念が

湧いてくる存在。

 

もし自分が

そんな存在になれたら

最高だろうな、と

思ってきた。

 

でも今日、

 

強く思ったんだ。

 

太陽は

もっと自分の想いを

語るべきでは

ないか、と。

 

さりげなく

そこにあることは

もちろん大事だし、

 

主役は

そこで生きている

人達だけど、

 

でも

太陽はもっと

自分の想いを

語った方が良いのでは

ないか、と。

 

それをするからこそ、

多くの人達が

もっともっと

本来のその意志や

願いを

掘り起こすことが

できるのではないか、と。

 

太陽は

光をもたらすだけで

なく、

 

時には

風を起こしても

良いのではないか、

と。

 

そう思わせてくれた

私の大切な

仲間たちに

 

本当に

感謝します。

 

つづく

 

外へ外へ

 

私達人間は

社会的生き物なんだな

つくづく思う。

 

自分は本当は

何者か?

 

を知るためには、

人と向き合うしか

ない。

 

答えは

自分の内側には

ない。

 

いや、

本当はあるのだが、

それは

人と向き合い続ける

中で刺激を受け、

初めて顔を見せるように

なる。

 

人に向かわずして、

社会に向かわずして、

 

自分を知る

ことはない。

 

それが

私達人間の

本質だ。

 

だから、

自分らしく生きる

ためには、

 

自分らしい

コミュニケーションを

探究する必要がある。

 

「探究」というと

堅苦しいが、

 

要は、

 

どうコミュニケーション

とることが、

本当に楽しいか?

 

を探すのだ。

 

向き合う

とは

楽しいこと。

 

しかも

自分にしかできない

向き合い方がある。

 

それこそが

その人の個性だ。

 

個性とは

人との向き合い方

なんだ。

 

極端に

言えば。

 

だから、

 

迷ったら

人と向き合おう。

 

積極的に

人と関わろう。

 

オープンマインドで

人を感じながら

世界を感じながら

生きよう。

 

すべての答えは

自分の内ではなく、

 

外にある。

 

つづく

 

楽しいかい?

 

人生の楽しさ、

って

 

ゴツゴツと

ぶつかるところに

あるんじゃないかな。

 

他人の助言は

もちろん大事だけど、

 

助言っていうのは

あくまでも

本人の

 

自ら進もう

 

という強い意志が

前提だと思う。

 

それのない助言は

ただ

依存を生むだけ。

 

助言を受けながら

上手く進もう

とすれば

 

人生の楽しさの

大半が失われる

のではないかな。

 

かなり

極端な言い方を

しているけど、

 

これって

本質じゃないかな。

 

楽しさっていうと、

どうしても

刹那的な楽しさを

追い求めてしまうとは

思うけど、

 

もちろんそれも

人間として

大事だけど、

 

本当の

楽しさ、

 

自分の魂が

悦ぶような楽しさって

 

ゴツゴツと

ぶつかりながらも

自分の望む生き方で

進むことだと思うな。

 

ぶつかれば

痛いし、

 

転べば

立ち直れなくなることも

あるし、

 

逃げたくなることも

当然あるけど、

 

それでも

進もうとするのが

私達人間の本能だし、

 

その本能に

忠実に生きることが

私達の元気の

源じゃないかな。

 

本当の元気を

生み出す

楽しさ。

 

魂の悦ぶ

楽しさ。

 

そんな楽しさを

得ながら進むことに

 

私達はもっと

真剣になった方が

いいよな。

 

つづく

 

努力してる?

 

「努力」

という言葉を

聴くと、

 

やりたくないことを

一生懸命やること

 

のような

イメージがある。

 

自分を縛っていく

感じだ。

 

しかし私は

そうではないと思う。

 

努力とは

自由になるために

行なうものだ。

 

例えば、

この世の中では

技術が身につくことで

自由自在になれること

がたくさんある。

 

例えば自転車。

 

最初は

自転車に乗ることは

容易ではないが、

 

努力して

自転車の練習を

繰り返せば、

そのうちに

自由自在に乗り回せる

ようになる。

 

自分を

自由にするために

行なうこと、

それが本来の努力だと

私は思う。

 

ところが、

 

その努力を怠る人が

多いんだな。

 

自分のための

努力であり、

 

その努力をすることで、

他の人にも

とっても良い影響が

あるだろうに、

 

その努力を

面倒だから、という理由で

しない。

 

そして

「私は自由でいたいから

そういう努力はしません」

へっちゃらで言う。

 

いやいやいや。

 

それは

不自由な生き方だな。

 

そんな不自由なままで

人生を進めてしまって

本当にいいのか?

言いたくなる。

 

逆に

普段から努力を

続けている人は、

 

その人の真本音が

発動すると、

凄いことになる。

 

真一文字に

邁進する。

 

なかなか勇気の出ない

判断も

 

ある意味

捨て身な覚悟で

決断し、

 

実行に移す。

 

そして

そういう人ほど

本人は

努力だとは思って

いない。

 

そういう人は

「努力」という言葉は

使わないかもしれない。

 

自分の願いに

向かって

進んでいるだけ

だからね。

 

つづく

 

今だからこその問い

 

今回は

問いを一つ。

 

今のこのタイミングで

この問いを投げることは

 

かなりのインパクトに

なるかもしれない。

 

そんな問いだ。

 

難しい問いだが、

ぜひ

魂を込めて

この問いと

向かい合ってほしい。

 

今だからこそ。

 

 

『私の人生のゴールは

何だろう?』

 

 

答えは出なくても

良いので、

自然に浮かぶキーワードを

拾ってみよう。

 

キーワードは

毎日の宝

としてください。

 

つづく

 

見つめられている

 

自分自身を

じっと見つめる

自分自身の目を

 

意識したことが

あるかな?

 

ただ

じっと見つめ

続けるだけの

自分。

 

そこには

評価も判断も

ない。

 

ただ

あるがままを

見つめる。

 

見張っている

わけではない。

 

意図もない。

 

ただ

見つめるだけ。

 

この目が

あるからこそ、

私達は

「ここ」に

立っていられる。

 

この目が

もしなければ、

私達は

生きては

いられない。

 

そして

この目が

あるからこそ、

私達は

悩み苦しむことも

できる。

 

あるがままを

見つめる目

とは、

 

慈愛

 

そのものだ。

 

慈愛とは

そこに

意図はない。

 

愛そう

という意思も

ない。

 

私達は

自らに

慈愛を向け続ける

自らの目を

持っている。

 

だからこそ

生きていられるんだ。

 

その目を

「我が目」

とするといい。

 

その目で

もって

世界を観ると

いい。

 

すると私達は

自分以外の

あらゆるものに

慈愛を

向けられる。

 

それだけで

世界は

変われると

思うんだ。

 

つづく

 

手に負えない自分が

 

手に負えない

エネルギーの乱れが

私の中にある。

 

一昨日に

『宇一』

という新しい理念が

生まれたのだが、

 

そこからずっと

そんな状態だ。

 

エネルギーの乱れの

中に、

新しい自分がいるのも

感じる。

 

微かに

自分の姿が観える。

 

何かを必死に

やっているようにも

観えるが、

よくわからない。

 

私は今、

何をしているのか?

 

・・・・・・

 

これまで必死に

培ったものを

一気にすべて

捨ててしまう、

という勇気を出すのは

 

誰もが

難しい。

 

特に、

いろんな経験を経ながら

ようやくにして

形作られた自分

というものを

根底から破壊するのは

 

私達人間に

してみれば、

 

不可能に近い。

 

しかしその

不可能に近いことを

私はやろうとしている

のではないか、

という

 

不気味な予感

がする。

 

しかし

不気味な予感

とは言いながらも、

 

それ自体を

楽しんでいる自分も

確かにいる。

 

いったい

何が起こるのかな。

 

何も

起こらないのかな。

 

・・・・・・

 

だいたい、

手に負えないもの

を、

 

手に負えるように

しようと思うこと

自体に

無理がある。

 

手に負えない

ものは

 

手に負えない

ままでいい。

 

そう言えば、

私のクライアントさん達も

皆、

私の手に負えない人達

ばかりだ。

 

手に負えないことを

わかっており

そこを諦めているから

こそ、

私は彼らと

関係を紡ぐことが

できるのかもしれない。

 

自分に対しても

きっと同じだ。

 

新たな自分は

きっと

私の手には負えない

だろう。

 

じゃあもう

任せるしかないか。

 

すべてを。

 

つづく

 

自分の訴え

 

静かな何もない

場所で

 

静かに一人

立っている自分を

イメージしよう。

 

周りには本当に

何もなく

 

つまりは

存在そのものが

なく

 

存在しているものと

言えば

自分だけ、

 

という状態だ。

 

私達は常に

「環境」の中にいるが、

 

その「環境」を

すべて取っ払ってしまう

イメージだ。

 

そんな自分を

側から見つめてみよう。

 

背中を

見つめるといいかな。

 

何もない中での

自分。

 

自分の背中は

何を語っているかな?

 

何を

訴えているかな?

 

私達は

自分自身からの訴えに

あまりに鈍感だ。

 

もちろん「訴え」とは

悪いものばかりでは

ない。

 

歓喜の訴えも

ある。

 

しかしそれにすら

気づかない人が

多い。

 

ただ単純なる

一つの存在「自分」

は、

 

「自分」の背中は、

 

何を語ってる?

 

つづく

 

すべてからすべてへの流れ

 

私自身がまた

新たな流れを起こす

時が来たようだ。

 

「来たようだ」

と言うからには、

現時点では

まったくもって

意味がわかっていない。笑

 

しかし、

新たな流れが

目の前に観えている。

 

それはあくまで

「実在」なので、

 

今はまだ私の脳が

それを上手く

キャッチできていないが、

 

そんなことは

どうでもよく、

さっそく私はきっと

何かを始めるのだろう。

 

それは

ほんの些細なことかも

しれないし、

とてつもなく巨大な

ことかもしれない。

 

まだわからない。

 

しかし、

 

表面は

とても激しく波打ち、

 

根本は

とても静かにすべてを

観ている。

 

根本と表面の

あまりの落差に

愕然とするくらいの

 

そんな流れが

起きるのはわかる。

 

文字が

浮かんだ。

 

「宇」

 

 

「一」

 

だ。

 

「宇」とは

その流れの根本を

表し、

 

「一」とは

表面を表す。

 

両方とも

「すべて」という

意味の込められた

文字だ。

 

ただ、

「宇」は

終わりのすべて、

完成されたすべて、

という意味であり

それに対して、

 

「一」は

始まりのすべて、

という意味だ。

 

始まりと

終わりの

すべて。

 

それが

強烈な流れとなって

現れる。

 

今日は

いつもにも増して

わけのわからないことを

書いている自覚は

あります。笑

 

でも、

わけはわからないけど

とてつもなく

何かがよくわかる。

 

あぁ、始めるんだな、

という感覚だ。

 

その二文字、

どうやら一つに

つながるらしい。

 

『宇一』

 

うい、と読むのかな。

 

私にとっては

あまりにも

強烈な言葉だ。

 

きっと私は

大きく変わる。

 

つづく

 

現実と共に

 

心の中が

うるさいときは、

 

私は決断は

しない。

 

心の中が

鎮まっているときに、

 

私は決断

する。

 

心の中が

うるさいときは、

 

私は仕事は

しない。

 

心の中が

鎮まっているときに、

 

私は仕事

する。

 

だから大事なのは

いかに

心が鎮まっている状態を

増やすか?

 

いかに自らの意志で

心を鎮めることが

できるか?

 

だと思って

私はこの人生を

生きてきた。

 

恐らく

このテーマを

真剣に持ったのは

19歳のとき。

 

33年前だ。

 

それ以来ずっと

私は

自分との向き合い方を

探究してきた。

 

その極意を

今回はここで

書こうというわけでは

ない。

 

ただ、

その探究の中で

つくづくわかったことが

ある。

 

自己探究とは、

行動を伴わなければ

まったく意味がない

 

ということだ。

 

自己探究すれば

するほど、

現実から

逃げる人がいる。

 

自分の内面

ばかりを見て、

 

自分の外側の

現実を

見なくなる人が

いる。

 

しかしそれは

自己を喪失させて

いく行為だ。

 

私達は

現実世界に生きて

いる。

 

自己探究をして

今の現実じゃ

いやだ、

と思うのなら、

 

その現実に

自ら取り組み、

自己の望むものに

変えていく必要が

ある。

 

それを放棄する

というのは

自己探究の

真逆だ。

 

私の心が鎮まるのは、

その視点から

言えば、

 

現実と

向き合い、

 

人として

今やれることを

やり切っている、

 

そんな行動が

できている

ときだ。

 

そんなときは

人の心は

鎮まる。

 

だから

良い決断が

できる。

 

良い仕事が

できる。

 

人は

行動する生き物。

 

そして

現実を生きる者。

 

だから、

考えて止まるよりも

 

まずは

行動だ。

 

つづく

 

今と共に

 

私達に与えられた

唯一の現実は

 

「今」

 

である。

 

私達は

「今」という現実を

生きている。

 

だから

「答え」はすべて

「今」にある。

 

ちゃんと

「今」を生きている人は

自らの「答え」に

「今」気づくことができる。

 

どの「今」に

気づけるか?

ということも

だんだんとわかるようになる。

 

「今」はまだ

答えは出ないな。

 

あっ「今」ここで

答えが出るな。

 

・・・ということが

わかるようになる。

 

これができると

人生はとても

楽になるし

 

自由になる。

 

逆に言えば、

私達は

「今」から意識が外れる

ことで

 

迷わなくてよいところで

迷い、

 

本当は決められるのに

その瞬間を

逃し、

 

人生の路頭に迷う。

 

でも実は

どれだけ路頭に迷っても

「今」に戻り

「今」を生きれば

 

すぐに

本来の自分に

戻れるんだ。

 

「今」にいない

ということは、

 

「世界」と分断されている

状態だ。

 

それは

孤独だ。

 

私達が唯一

「世界」とつながれるのは

「今」だけだ。

 

「今」に生きている

人はだから、

孤独ではない。

 

すべてとの繋がりを

「今」感じ取る

ことができる。

 

それは理屈ではない

感覚だ。

 

だから、

 

人生がわからなく

なったら

「今」に戻ろう。

 

今この瞬間に

意識を集中させ

 

今この瞬間を

生きよう。

 

そのためには

まずは

「今」をゆっくりと

感じ取ることだ。

 

呼吸を整え、

「今」の自分と

「今」の世界を

両方同時に

感じ取ってみよう。

 

「今」を

味わい尽くしてみよう。

 

その状態で

生きるんだ。

 

その状態で

ずっと

生きるんだ。

 

つづく

 

この一言を

 

人と会うときに

とてもお勧めなのは、

 

「この人に今回は

どんな言葉を

プレゼントしようか?」

 

前もって真剣に

決めておくことだ。

 

その言葉とは、

もちろん

やさしい一言とは

限らない。

 

時には

厳しい一言を

残さなければならないことも

当然ある。

 

でもやはり

それは

プレゼントだ。

 

自分の解釈ではなく、

その人のことを

ずっと想いながら、

 

その人の姿を

浮かべながら、

 

自然に浮かぶ一言を

私はいつも

胸に抱いた上で

当日、

その人と会う。

 

するとそのプレゼントを

実際にお渡しできる

こともあれば、

できないこともある。

 

どちらでもいい。

 

相手がいること

なので、

その時その場の流れを

大事にすればいい。

 

でも、

言葉のプレゼントを

渡せても渡せなくても、

 

言葉のプレゼントを

胸に抱いた状態で

その人と向き合えば、

 

随分とその場は

あったかいものに

なるよ。

 

つづく

 

まっすぐなんだから

 

まっすぐな道が

観えるなら、

 

進めばいい。

 

観えなくても

感じるだけでも

いい。

 

「まっすぐさ」

 

これを感じる

ということは

 

「全力で進みたい」

 

という

自分自身の

真本音の意志だ。

 

そこに

素直になればいい。

 

そこで

変な躊躇をしていると

いつしかその

「まっすぐさ」

は消えていく。

 

一度消えてしまうと

また復活させるには

かなりの苦労が

要る。

 

せっかく手に入れた

「まっすぐさ」

存分に味わえばいい。

 

全力疾走だ。

 

これをすると

全力だと思っていた

自分の限界が

 

本来の自分の

わずか1割の力

にしか

過ぎなかったという

事実を知るだろう。

 

であれば

そこからさらに

全力を出そう。

 

つまりは

そこからが本当の

加速だ。

 

そして

良い加速ができれば、

 

ある時ふと

その道を離れ、

頭上の空から

道を見降ろしている

自分にも

気づくだろう。

 

その自分は

空にいるので、

かなり遠くまで

見通せる。

 

ほんの一瞬かも

しれないが

道の彼方を

垣間見れるかも

しれない。

 

それはそれで

自分から自分への

プレゼントだ。

 

プレゼントは

素直に受け取れば

いい。

 

要はだね、

 

遠慮するな、

ということだ。

 

まっすぐな道は

まっすぐ気持ちよく

進むために

あるのだから。

 

つづく

 

暗闇だからこそ

 

暗闇の中を

進むよりも、

 

明るい道を

進んだ方が良い、

 

に決まっているが、

でも人生は

そうもいかない

時がある。

 

暗闇になると

どうしても

怖気づくが、

 

暗闇には

暗闇の意味が

ある。

 

暗闇の時こそ

自分の生き方が

試される。

 

だから、

 

どうせだから、

 

そんな時こそ

自分の生き方に

こだわろう。

 

胸を張り

堂々と

自分の生き方で

進もう。

 

そうすると

多分、

 

ゴツゴツと

いろんなものに

ぶつかるし、

 

スッテンコロリン

と転ぶだろう。

 

でも

それこそが

暗闇の意味だ。

 

明るいところでは

そうはいかない。

 

見えちゃうから

上手く進めて

しまう。

 

暗闇だからこそ

思い切り

ぶつかれる。

 

素っ転べる。

 

上手く進もうなんて

思っちゃダメだ。

 

諦めて

開き直って

進むしかない。

 

暗闇は

楽しめないかも

しれないが、

 

しかしそれでも

楽しんでしまえ。

 

つづく

 

生まれたか

 

産みの苦しみ、

というのがある。

 

新たな何かを

生み出すために

どうしても

経なければならない

過程だ。

 

その苦しみが

大きければ大きいほど、

 

生まれる何かも

大きい。

 

今、

新たな何かが

生まれた感覚が

凄い。

 

もの凄い

生命力とエネルギー。

 

恐らくこれは、

たくさんの人達の

中に、

 

何かが生まれた

感覚だ。

 

・・・・・・

 

人の心や魂は

「脱皮」を

繰り返すものだが、

 

「脱皮」という

表現では足りないような

 

・・・それはまさしく

「生まれ変わる」

と言った方が

ぴったりくるような

 

そんな

根本的変化を

遂げることがある。

 

もちろん

並大抵のことでは

ない。

 

人のサポートを

どう受けるか、

などと言うレベルの

ことでもない。

 

その人が

生まれた時から

抱き続けている、

密かな覚悟が

それをさせる。

 

その覚悟は

多くの場合、

そのご本人すら

気づかないもの。

 

それがある時

何かのきっかけで

ニョキっと顔を現し、

 

そして

一気に生まれ変わる。

 

「一気に」とは

言うものの、

そこに発生するのが

言語に絶する

産みの苦しみだ。

 

・・・・・・

 

恐らく

私のクライアントさんの

何人かも

これを成し遂げた

のだと思う。

 

会えばその瞬間に

わかるだろう。

 

「おめでとう!」

って

言いたいね。

 

つづく

 

それが人間だから

 

新たな何かに

チャレンジしようと

したり、

 

何か大きな問題に

立ち向かおうと

するとき、

 

私達はどうしても

不安に苛まれる。

 

不安のモヤモヤに

入り込んでしまう。

 

そんな場合は

そんな自分を

ただあるがままに

感じ取ってみよう。

 

今ある不安を

取り払うのではなく、

 

その不安の

すべてを

そのまま受け止めよう。

 

そして

受け止めている自分自身も

そのまま見つめてみよう。

 

すると

どうだろうか。

 

案外、その不安、

自分が自分の意志で

大切に

抱いているのでは

ないか?

 

まるで

赤ちゃんを抱っこする

ように、

 

不安を大切に

抱っこしているのでは

ないか?

 

不安はなぜ

起こるのか?

 

それは

必要だからだ。

自分にとって。

 

本来は、

自分にとって

不必要なことは

起こらない。

 

必要なことしか

起こらない。

 

特に私達の内面

においては。

 

不安も

必要だから、

私達が自ら

生み出している。

 

そして

抱いている。

 

だから、

不安と共に

進もう。

 

不安を

抱きながら

進もう。

 

理屈云々では

ない。

 

それが

人間だから。

 

つづく

 

ずっと反対し続けた

 

いつもあまりに

当たり前のように

やっていること

 

だからこそ

 

気づかない

ことがある。

 

今日、私は

一つ気づいたこと

がある。

 

人生、

半世紀以上過ぎて

初めて気づいた。

 

私は

自分の心の中で

いつも

ディベートを

し続けてきた。

 

ということを。

 

人生にとって

大事なこととか

そうじゃないこととか

関係なく、

私の中には

必ず

反対者が生まれる。

 

自分の意見に

異を唱える自分だ。

 

その自分は

自分のしようとする

判断に、

ずっと評論家的な

突っ込みを

入れ続ける。

 

ある重要テーマに

ついては

下手をすると

一日中、

もしくは何日も、

やり続けているかも

しれない。

 

これ、

めっちゃ疲れる。

 

時にはその

反対者は

自分をボロクソに

責め落とす。

 

しかし

それでもその

反対意見に

私はさらに

反論を続け、

 

ある一定以上に

それが続くと、

 

自分の中に

言いようの知れぬ

納得感と

完了感が

生まれる。

 

すると私は

水を得た魚のように

その判断を

行動に移す。

 

・・・ということを

私は人生で

ずっとやり続けていた

ようだ。

 

恐らく、

幼少の頃から。

 

でもこれ、

納得は得られるが、

本当に疲れる。

 

下手をすると

自分の中の

ディベートにエネルギーを

取られ、

 

肝心の

目の前の現実が

疎かになることも

多かった。

 

私の人生の失敗の

多くは、

ここに原因があった

ようにも思う。

 

だから私は

いつしか、

 

もっと楽に

ディベートはできないか?

 

もっと楽に

自問自答は

できないか?

 

もっと早く

納得の答えは

見つけられないか?

 

ということも

知らず知らずのうちに

探究し続けたのだと

思う。

 

恐らく、

その過程の中で

発見したのが、

「真本音」

という存在であり、

 

「セルフコーチング」

の各種手法だ。

 

最近私は、

セルフコーチングの

ことを

 

『直観型自問自答』

 

と呼んでいる。

 

自分の直観を

(確信の答えを)

いかに早く

掘り起こすか?

 

いかに楽に

掘り起こすか?

 

こそが

セルフコーチングの

肝だと思うからだ。

 

この手法は、

自己内ディベートで

苦労し尽くした

私だからこそ

生み出せたものかも

知れないな、と

 

今日、ふと

気づいたんだ。

 

であればやっぱり

もっと本格的に

世の中にご紹介した方が

良いのかな、とね。

 

つづく

 

時と共に

 

静かに

時の流れを

感じてみることを

お勧めする。

 

何もせず、

目を瞑り

 

自分の呼吸を

感じ、

 

一秒一秒の

時を感じる。

 

時の流れとは

なんと

静かなものか、

少しびっくりする。

 

それに比べて

我々人間の心の

なんと

騒がしいことか。

 

時は

こんなに

静かなのに。

 

人生が

騒がしくなるのを

私達は

時のせいに

し過ぎているような

気がする。

 

騒がしいのは

私達自身であり、

 

ではない。

 

時はただ

いつもまったく

同じペースで

私達を

じっと見つめる。

 

時に翻弄される

私達は思うことも

あるが、

 

時は私達を

翻弄したりは

しない。

 

ただそこに

あるだけ、

 

流れ続けている

だけだ。

 

こうやって

時の流れのみに

意識を向けて

いると、

 

もっと

シンプルに

生きたいものだ、

 

行きたいものだ、

 

思わないかい。

 

すべては

なるように

なっていくのだから、

 

どうせなら

時と共に

静かな自分として

進んで行きたい。

 

つづく

 

不完全だねぇ

 

この世の中では

私達は

お互いのことを

理解できないように

できている。

 

心も体も

それぞれが

分離しているから、

 

人生だって

分離しているから、

 

理解できる

はずがない。

 

だからこそ

「理解しよう」

し続ける。

 

そこにこそ

価値が生まれる。

 

「できない」

からこそ

できることがある。

 

「できない」

ことにこそ

価値がある。

 

これがこの

3次元の世界だ。

 

言い換えれば

「不完全」

にこそ価値がある。

 

あえて

「不完全」に

できている。

 

それがこの世だと

言える。

 

だから

完全さを求めること

自体はいいけど、

 

完全じゃないことに

腹を立て

拗ねてしまっても

しょうがない。

 

完全じゃないことを

恨み続けても

しょうがない。

 

不完全さを

楽しもう!

 

・・・なんて

到底言えないことも

多いけど、

 

でも、

不完全だからこそ

できる

我々の生き様を

大切にしようでは

ないか。

 

つづく

 

否定してもさ

 

この世は

映し出されたもの

である。

 

・・・などと書くと、

この世の現実を

おろそかにしそうに

なるが、

 

そうではない。

 

映し出されたもの

こそを

しっかりと

あるがままに

見つめることでしか、

 

映し出す本体

(つまりは、実在)

のことは

理解できない。

 

この世は

ただの幻だから、

 

などと

言っているようじゃ

ダメだ。

 

幻なら幻を

よく観なければ、

 

解釈なしに

観なければ、

 

何も

進まないんだ。

 

・・・・・・

 

あらゆるものに対して

まずは否定から

入る人がいる。

 

こんなものは

あってはならない、

と。

 

気持ちは

わかる。

 

でもそれでは

何も始まらない。

 

あるものは

ある。

 

それが

事実なのだから。

 

幻だろうが

何だろうが、

 

それが事実

なのだから。

 

あるものはある

として

そのまま受け入れて、

 

それを

あるがままに

観察する。

 

理解しようと

する。

 

それが全ての

スタートだ。

 

それができて

初めて、

最善の一歩が

見出される。

 

・・・・・・

 

否定の眼差しを

持つ人は、

 

自分自身をも

否定するように

なる。

 

下手をすると

自分の存在そのものを

否定するようになる。

 

それは

「生きる」道では

ない。

 

「活きる」道では

ない。

 

「すべてを前向きに」

という話ではない。

 

「あるがまま」

でいいんだ。

 

すべてを

「あるがまま」に

受け取るだけで

いいんだ。

 

その覚悟を持つことで

人生の道のりは

大きく違って観えると

思うんだけどな。

 

つづく

 

約束があるんだ

 

自分はなぜ

ここにいるのだろう?

 

という本質的な

問いの答えとして、

 

自分自身との

約束を果たすためだ。

 

・・・というのを

あえて

答えにしてみないか。

 

そうすると

問いが次のように

変わる。

 

自分は

自分と

どんな約束を

交わしたのだろうか?

 

私達は

この問いにこそ

もっと真摯に

向き合わなければ

ならないのではないか。

 

そしてさらに、

 

今、自分がやろうと

していることは、

 

今、自分が

選択しようとしている

ことは、

 

自分自身との約束を

果たす方向に

向かうことだろうか?

 

という視点。

 

常にこの視点を

持ちながら

日常の今ここにおける

一歩一歩を

決めるべきではないか。

 

約束が具体的に

何か?

ということが

わからなくても、

 

この一歩は

約束に近づくのか、

遠のくのか、

感覚的にわかることだ。

 

そして、

 

その感覚に素直に

選択し続けることで

 

私達はだんだんと

自分自身との約束を

思い出していく

のではないか。

 

つづく

 

正義を超えて

 

いろんな企業様に

サポートに

入らせていただくと、

 

もちろんそこには

様々な問題が

ある。

 

その問題を

引き起こしているのは

ほとんどが

人だ。

 

誰かが何かの

問題を起こす。

 

それについて

誰かがそれを

評する。

 

誰かが

文句を言う。

 

意見を言う。

 

それらが絡み合い

ながら、

その問題は

さらに大きくなっていく。

 

例えば、

AさんはBさんに

問題がある、

と言い、

 

BさんはAさんに

問題がある、

と言う。

 

どっちが正しいんだ?

ということに

なったりする。

 

そんな場合は、

本当に多くの場合、

 

どっちも正しい

 

ということが

わかる。

 

それぞれには

それぞれの

「正しさ」

がある。

 

もっと大きく言えば、

それぞれには

それぞれの

「正義」

がある。

 

どっちの正しさが

正しいか?

 

どっちの正義が

正しいか?

 

この視点に立っている

限りは、

絶対に答えは

出ない。

 

例えば、

 

誰もが「Aさんに問題がある」

と言ったとしても

Aさんに話を聴けば、

やはりAさんにはAさんの

「正義」がある。

 

私が常に

気をつけていることは

 

一つの問題に対して

偏った意見のみを聴く

ことはしない、

ということだ。

 

AさんにはAさんの

視点、

 

BさんにはBさんの

視点、

 

がある。

 

それぞれの視点に

立ち、

それぞれの景色を

知れば、

 

なるほど

それぞれには

それぞれの「正義」が

あるなぁ、

よく思う。

 

そして結局は、

 

時間はとても

かかるが、

 

それぞれの「正義」の

意味を、

その本質を、

 

お互いが理解し合う

しかない。

 

理解し合った上で、

「では何が最善か?」

決めていくしかない。

 

しかし

これも多くの場合だが、

ちゃんと向き合い

理解し合うことで

 

そこで

皆の真本音が

発動する。

 

すると、

どっちの正義が

正しいか?

を超えた次元の

発想が生まれる。

 

そうなるための

場創りが

私の仕事だ。

 

結構時間は

かかるし

大変だし、

 

どうしようもない

時もあるが、

 

しかし

あっ!次元が変わった!

と思える瞬間は

本当にたくさん

体験できた。

 

そういうのを

体験すると、

 

人間も

やるじゃないか!

 

思えるんだな。

 

つづく

 

等身大がいい2

 

昨日のブログで

「等身大」

という話をした。

 

誤解のないように

もう少しこれについて

書いておこう。

 

「等身大」

と言うと、

 

「今のままの自分

でいい」

 

と思われがちだ。

 

実はそういうわけ

ではない。

 

私は「等身大」を

次のように

定義している。

 

『最も自然に

進化できる状態』

 

だ。

 

人の本能は

「進化」なので、

そういうことになる。

 

そしてそれには様々な

大事な要素が

あるが、

 

特に大事なのは、

 

①視野の大きさ

 

②進化意欲の大きさ

 

③進むスピード

 

だ。

 

この3つを

「最も自分にとって

自然の状態にする」

「等身大」となる。

 

ところが

ほとんどの人達は

3つともが

現時点では小さ過ぎる。

 

例えば、

①が小さ過ぎる人が

多い。

 

私はクライアントさんに

よく

 

「もっと地球規模で

物事の発想をすると

良いですよ」

 

とアドバイスする。

 

地球規模の視野を

持つことで

実に自然にその人からは

発想が溢れ出る。

 

今、世の中には

何が必要で、

 

だから自分は

今はこれをする。

 

というように

視野が大きくなれば

なるほど、

「今の自分」

「日常の自分」

の一歩一歩の指針を

得ることができる。

 

ところが

そういう人に限って

「私は自分のことだけを

考えたいので」

とか

「とにかく会社の

利益だけを考えたいので」

言う。

 

もちろん両方とも

大事だが、

それではその人本来の

発想が生まれず、

結局は何も

進まないのだ。

 

②もそうだ。

 

溢れるほどの

進化意欲が

その人からは空気感として

漂っているに、

 

その人自身は

へっちゃらで

「今のままでいい」

言う。

 

それでその人が

活き活きしていれば

まだ良いのだが、

それを

眉間にシワを寄せながら

言うのだ。

 

自分の進化意欲を

自分で抑えることは

実はとても大きな

ストレスを生む。

 

ご本人は

それに気づいていない。

 

③もそうだ。

 

どんどん物事の

決断をして

新たなことに挑戦したい

と、

ご本人は心の奥では

強烈に思っていても、

 

行動を

躊躇する。

 

怠けてしまう。

 

そして結局は

自分の中から

凄まじいストレスが

生まれ、

それによって

苦しみ続ける。

 

そういった人達を

見ていると

とても「等身大」とは

思えない。

 

「これが私の

等身大ですから」

苦しみの表情で

言う。

 

いやいやいや、

「等身大」とは

そんな苦しいものでは

ない。

 

等身大とは

最も肩の力が抜け

最も自分の魅力が

溢れ、

 

最も活き活きと

進めている状態だ。

 

だから

残念ながら

今は多くの人が

 

「等身大になるために

一度は

無理をしなければ

ならない」

 

という

異常状態だ。

 

私自身も

自分の出せる

「最大速」で

進めている時が

自分の「等身大」だと

思う。

 

ある意味、

振り切っている時

こそが、

最も自分が「自然」で

あると思う。

 

そんな人は

多い。

 

「等身大」

と言いながら、

「等身大」には程遠い

小さな自分を

無理に創り続ける

必要など

何もない。

 

もっと

伸び伸びと

生きればいい。

 

あっそうそう。

 

ちなみに、

「調子に乗って

自分を過信して

イケイケどんどんで

進んでいる状態」

進化とは真逆の

状態だ。

 

それは

表面上は一見すると

進んでいるように

見えて、

実はまったく

進んでいない。

 

どころか、

後退すらしている。

 

だからそれは

「等身大」とは

真逆の状態だ。

 

「等身大」の人は

本質的に

みんな謙虚になる。

 

あるがままに

物事を観れる

ようになるからね。

 

さて。

 

以上のような

意味なんだ。

「等身大」とは。

 

そうすると

昨日の文章は

だいぶ

景色が違って

見えるかな?

 

つづく

 

等身大がいい

 

どれだけ分厚い

壁に見えても、

 

よ〜く観察すると

そこかしこに

ヒビがあり、

 

そのうちのどれかを

コツンと叩くと

 

一気に崩れる

ことすらある。

 

しかし私達は

その壁の大きさと

分厚さに

尻込みする。

 

最初から無理だ

と諦めかける。

 

諦めるのは、

よ〜く観察してから

でも遅くはないのでは、

とも思う。

 

尻込みはしても

良いが、

 

というか

私なんぞはしょっちゅう

尻込みばかりしているが、

 

それでも

しっかり

目は開こう。

 

よく観るんだ。

 

よく

向き合うんだ。

 

そうすれば

いつの間にか

次の一歩が

わかってくる。

 

まるで

手品のように

感じることさえある。

 

答えは

あるんだ。

 

・・・・・・

 

人間の本領は、

どうしようもなくなった

時にこそ

発揮されるもんだと

私は思っている。

 

調子の良い時は

調子が良いに

決まっている。

 

偉そうな一言も

言いたくなるし、

言葉に説得力も

出る。

 

でもいい気になって

いると

必ずすっ転ぶ。

 

すっ転んだその時に

その人の

本領が出る。

 

大事なのは

まずは反省することだ

と私は思う。

 

調子が良い時は

「俺は完璧だ」

と思い込んでしまう。

 

そして

失敗したり間違っている

自分を認められない。

 

そんな愚かだった

自分を

ちゃんと反省することだ。

 

反省できる人は

本当に素敵だ。

 

調子に乗って

立派に見えている人

よりも

1000倍素敵だ。

 

人間、

間違うのが

当たり前ではないか。

 

完璧ではない、

という事実(真実)にこそ

人間の本来の意味と

価値があるのに、

 

なんで完璧に

こだわるのか?

 

すっ転んだら

素直に反省する。

 

だから

次に進める。

 

さらに素敵な

自分になれる。

 

・・・・・・

 

弱っちい自分を

どれだけ大事に

しながら

共に進めるか、

だと思うよ。

 

そこで人生の

価値が

決まるのではないか。

 

あんまり自分を

高く見過ぎるな。

 

評価を

し過ぎるな。

 

等身大のまま

進めばいいでは

ないか。

 

等身大だからこそ、

どれだけ分厚い壁でも

 

よ〜く観察する

ことが

できるんだよ。

 

向き合うことが

できるんだよ。

 

つづく

 

本当に何もない?

 

自分の中に

「虚無」

が広がってきたら、

 

抗うのは

やめよう。

 

虚無に包まれれば、

自分は何もかもを

失ってしまうのでは、

 

という恐怖感は

あるだろうが、

 

実は

「虚無」の正体は

本当に何もないのではなく、

 

「虚無」という

虚構に過ぎない。

 

「何もない」という

カタチに過ぎない。

 

まぁ、「怒り」のような

感情と同じものだ。

 

つまり単なる

反応本音の一種だ。

 

だからそんなに

怖がることはない。

 

むしろ、

「へぇ、これが

虚無というものか」

楽しみながら観察

してしまえばいい。

 

「虚無」の隅から隅まで

観察したり

味わってしまえばいい。

 

実は「虚無」は

そういうのに極度に

弱い。

 

せっかく

「何もない」という

演出をしているのに、

その「何もない」自体を

観察されるのだから、

たまったものではない。

 

ひょっとすると

あっという間に退散

するかもしれない。

 

「私を見ないで!」

恥ずかしがって

あなたの中から

逃げ去るかもしれない。

 

それくらいの

ものなんだ。

 

一見、恐ろしそうな

ものほど、

本当は大したことは

ない。

 

所詮は

心の中の一つのカタチ。

 

心のすべては

存在承認すれば

いい。

 

それだけで

もとの自分に

戻れるよ。

 

つづく

 

孤独からの解放

 

誰の中にも

「孤独」

はある。

 

ない人は

いない。

 

コーチングなどの

サポートを

継続的にさせて

いただき、

 

真本音度合いが

高まり続けると、

 

ある時に

そのクライアントさんの

心の奥の奥の奥に

潜んでいた

その「孤独」が

 

私の方に

移ってくる。

 

それはつまり、

その人の中から

「孤独」が解放された、

 

いや、

 

その人が

その人の「孤独」から

解放された、

 

ということだ。

 

そこから

そのクライアントさんの

新たな人生が

始まる。

 

これまでは

「孤独」が表出するのを

恐れる人生。

 

これからは

「孤独」が満たされ

「願い」に向かう人生。

 

もちろん「願い」は

その人の中には

ずっと在り続けたが、

 

その「孤独」が

「願い」の開放を

阻害していたのだ。

 

そう。

 

「孤独」を満たすのは

誰でもない、

その人自身だ。

 

その人自身の

生き方だ。

 

真本音に素直に

生きることで

それは満たされる。

 

満たされれば、

その「孤独」を

その人は手放す。

 

私はそれを

受け取って

帰ってくる。

 

「孤独」とは

恐らく、

私達人間の恐れる

最大級の恐怖だ。

 

だからそれを

あるがままに観る

こと自体が

至難の業だ。

 

だから

孤独への恐怖が

その人の人生を

翻弄する。

 

翻弄される人生

から

抜け出すたった一つの

方法が、

 

自分の本当に望む

生き方を

貫くことだ。

 

だからその「生き方」

とは

その人自身の

真本音でなければ

もたない。

 

その人の

真本音の光が

その人の

孤独を解消する。

 

私達はみんな

孤独だが、

 

でも実は

本当は

そうではない、

 

ということを

自らの真本音が

教えてくれるんだ。

 

つづく

 

現象の奥の本質

 

「潮流」が

また変わった。

 

世の中の

潮流だ。

 

イメージで言えば、

90度、カクンと

横に曲がったかの

ようだ。

 

基本的には

これは

良いことだと思う。

 

これでまた、

出会うべき人と

出会いやすく

なるだろう。

 

投じた石は

波紋を広げやすく

なるだろう。

 

・・・・・・

 

実在のレベルの

変化を

今後は敏感に

察知できるかどうか?

人生の展開も

ビジネスの展開も

掛かっているのでは

ないか。

 

私達に普段

見えている

「現実」は

 

すべて現象。

 

それは

本質が一つのカタチ

として

現れているに過ぎない。

 

映像としての

現実の奥には、

 

映像になる前の

本質的な現実が

ある。

 

それが

「実在」だ。

 

実在のレベルで

何が起こり、

それがどのように

現象化しているか?

 

これをキャッチするには

澄んだ心が

必要だが、

 

澄んだ心さえ

手に入れれば、

 

それは誰もが

できることだ。

 

・・・・・・

 

ここ数年、

実在の変化は

激しかった。

 

その変化が

本当の意味で

現象化するのは

 

ここからだろう。

 

それを

「不安」と感じて

揺らされ

踊らされるか?

 

それとも

それをあるがままに

受け止めて、

しっかりと自らの

意思で対応するか?

 

それによって

人生の展開は

 

それこそ

本質的に

変わるな。

 

つづく

 

芽が出たな

 

自分の変化は

残念ながら

自分ではなかなか

気づかない。

 

だからこそ

私達は

他人と交わりながら

生きている。

 

他人との関わりに

おいて

自分の変化を

実感する。

 

だから、

 

「あの人変わったな」

 

思うのであれば、

 

「あの人が変わったのは、

ひょっとすると

私が変わったからでは

ないか?」

 

自分自身に

問うてみるといい。

 

私達は、

自分自身の変化に

無頓着すぎるな。

 

もっと

敏感になってもいい。

 

そして

変化を楽しむと

いい。

 

進化を楽しむと

いい。

 

実は

私達の中には、

「芽」は

いくらでも出ている。

 

しかしそれに

気づかないから、

知らぬ間に

せっかく生まれた「芽」を

自らが

踏みつけてしまう。

 

発芽という

変化。

 

そして、

それが育っていく

変化。

 

その両方に

敏感になるといい。

 

そのためにも

まずは

周りの変化に

敏感になるといいよ。

 

つづく