チームパフォーマンスコーチ

丁寧に行くぞ

 

いよいよ

門が開き、

 

その向こうの道が

あらわになった。

 

まるで

大河のような

光り輝く道が

 

延々と

永遠に

続いている。

 

その彼方は

あまりに眩しくて

 

今のところ

よく見えない。

 

でも、

ようやく待ち望んだ

道が開けたので、

 

祝福ムード、

お祭り騒ぎだ。

 

・・・・・・

 

私一人の道

ではない。

 

皆と共に

進む道。

 

皆と共に

準備をしてきた

その努力によって

 

ようやく

結晶化した

道。

 

だから、

私はもう

先頭を歩くことは

しない。

 

もう、いっつか昔に

そんな時代は

終わった。

 

誰が先頭を

行ってもいい。

 

それこそ、

全員がリーダーであり、

全員がコーチであり。

 

別に

組織になることも

チームになることも

 

なりたければ

なればいいが、

 

そんなことは

どっちでもいい。

 

一歩一歩を

自らの本当の意思で

進みさえすれば、

 

勝手に

調和も進化も

成されていく。

 

そこには

意気込みも必要ないし、

気合も

前向きさも

必要ない。

 

ただ、

行けばいい。

 

・・・というか、

もうみんな勝手に

進んでるし。笑

 

・・・・・・

 

これから、

様々なことが

大きく変わって

くるだろう。

 

これまで

躊躇していたことや

遠慮していたことや

 

コツコツと

準備のみをし続けて

きたことも

 

すべてが

流れとして

形として

 

一気に開花を

始めるだろう。

 

それを

一つ一つ

楽しめばいい。

 

「芽」はもう

すぐに出始めるだろう。

 

たくさんの芽が

出るので、

一つ一つ丁寧に

行こう。

 

一つの芽には

一つの広大な

命がある。

 

一つ一つ丁寧に

その命を

育もう。

 

・・・・・・

 

時代は

変わるな、

本当に。

 

わかりやすく

変わっていく。

 

時代に

呑まれるか、

 

時代を

創り上げるか。

 

それは私達の

丁寧さ

に掛かっている。

 

スピードはもう

充分にある。

 

ここからは、

 

一つ一つに

魂を込める

丁寧さだ。

 

・・・・・・

 

閉まっていた門

が開き、

 

見えなかった道

が観える時、

 

私達は

嬉しさのあまり

一気に進もうとする。

 

でも

こんな時こそ

注意が必要だ。

 

放っておいても

この流れは

止まらない。

 

だからこそ、

一瞬一瞬を

丁寧に、ね。

 

つづく

 

拒絶しちゃうだろ

 

拒絶感

ですら、

 

真本音と結びつく

ことがある。

 

祈りと拒絶感の

融合だ。

 

するとそれは

驚くような展開で

 

「愛」として

発現することがある。

 

もちろん

意図してできる

ことではない。

 

私達は

「愛そう」

という意図と意志を

持つことはできるが、

 

本当に「愛」そのものが

発現するかどうかは、

私達の意図の範疇

にはない。

 

なぜなら「愛」とは

エネルギーだから。

 

そのエネルギーが

発するかどうかは、

 

私達の顕在意識が

調整できることでは

ない。

 

それよりも

普段の自分自身の

生き方と生き様こそが

 

それを左右する。

 

・・・・・・

 

嫌いな人を

愛することが

できるだろうか?

 

普通は

できないだろう。

 

「できます」

と言う人はむしろ

危うい。

 

それは

自己満足か自己愛に

陥っている可能性が

高い。

 

私達人間は

そんなにも

出来は良くない。

 

ということを

ちゃんと見つめて

おいた方がいい。

 

出来の良くない自分を

見つめることの

できない人は

残念ながら

「愛」というエネルギーは

あまりに脆弱となる。

 

それはともかくとして

嫌いな人を

愛そうとすることには

かなりの難しさが

ある。

 

ましては

拒絶感を手放すことは

なかなかに

至難のわざだ。

 

だから、

そのままでいい。

 

やはり、

 

そのままで

いいのだ。

 

ただ、

 

普段の自分の生き様

として、

常に真本音を大切に

するといい。

 

自分の願いや祈りと

今ここにおける

行動を、

結びつける努力を

続ける。

 

それを日々

大切にする人は、

 

いざという時に、

 

拒絶感すらが

真本音と結びつく。

 

真本音が

自分自身の拒絶感を

活用するのだ。

 

そして

その多くの場合は、

 

自分自身の

空気感として

その場で勝手に

発現される。

 

そしてその空気感は

お互いの関係を

癒していく。

 

それはもちろん

劇的というよりも

徐々に、だろう。

 

でもその

徐々に、

 

ある時ある瞬間に

ある境界を超え、

 

劇的な展開を

見せることも

ある。

 

それを期待しては

ならない。

 

でも、

地道にいくんだ。

 

人間としてね。

 

つづく

 

悲しみが溢れる

 

実は、

 

真本音の悲しみ

 

というのも

ある。

 

もちろん、

真本音そのものに

感情はない。

 

真本音が

「悲しみ」という自らの

反応本音を

活かしているのだ。

 

悲しみと

祈りが

結びつく。

 

それが

真本音の悲しみ

だ。

 

そうなると、

悲しみも

エネルギーに変わる。

 

悲しみも

次へのパワーと

最善の一歩に

変わる。

 

そう考えると、

私達の心には

(反応本音には)

 

やはり一つも

無駄なものはない。

 

・・・・・・

 

先日、

ある人から

「トラウマはどうすれば

解消できますか?」

というご質問を

いただいた。

 

それに対して私は

 

「トラウマは宝物だ」

 

とお答えした。

 

トラウマは

そのままにしておけば

自分にとっては

辛いものでしかないが、

 

しかしこれも

真本音と結びつくことで

祈りのエネルギーへと

変換される。

 

そのトラウマが

あるからこそ、

 

そんな自分で

あるからこそ、

 

見出せる道があり、

やり遂げられること

がある。

 

自分にとって

これは良いもの。

これは悪いもの。

 

良いものは

大切にし、

 

悪いものは

消去しよう。

 

・・・ということは

必要ないのだ。

 

そういうことでは

ないのだ。

 

それよりも

私達がすべきは、

 

これまでの経験も

 

その経験で得た

自分の心も

 

すべて

 

活かすことだ。

 

それが

自分の人生では

ないか。

 

そしてそのためにも

私達にとって

必須なのは、

 

真本音で生きる

こと。

 

真本音度合いを

高めること。

 

つまりは、

自分自身の

本当の願いや祈りに

基づいて

 

今この瞬間を

生き続けることだ。

 

つづく

 

怖がってもいいんだ

 

混乱が

怖いかな?

 

これまで

安定していたものが

一気に壊れ、

 

足元が

ぐらついてしまうのは

 

怖いかな?

 

怖いのが

いけないのでは

ない。

 

怖がるのが

人間だから。

 

大事なのは

自分のその

怖がっている気持ちを

 

あるがままに

 

そのままに

しておくことだ。

 

その存在を

認めることだ。

 

そうすれば、

 

「怖さに基づいた

行動」

 

には

つながらない。

 

私達が後々に

後悔してしまうことの

多くは、

 

「怖さに基づいた

行動」

 

を起こしてしまった

ときだ。

 

もちろん

本当に身の危険を

感じる場合は

そうせざるを得ない

が、

 

単なる自分の

憶測だけの怖さに

よって、

 

本当に自分の

取りたかった行動とは

別の行動を

取ってしまい、

 

さらなる混乱や

不安を

引き起こしてしまった場合、

 

私達は

後悔する。

 

本当は、

「怖さ」とは

私達の味方だ。

 

「怖さ」を

あるがままに

感じ取り、

 

あるがままに

見つめることで、

 

本当に望む

自分自身の最善の

一歩が

観えてくる

ものなんだ。

 

私達の心の中に

不必要な心は

 

本当は

一つもない。

 

しかし

私達自身がそれを

不必要な存在に

仕立て上げて

しまっている。

 

それは

その心に蓋をしたり、

 

その心から

目を背けたり、

 

その心から

逃げよう逃げようと

し続けることで

 

そうなってしまう。

 

そして、

「不必要にされた心」

は、

 

心の中で

反乱を起こす。

 

それにより

心の中に混乱が

起こり、

 

現実の混乱と

心の中の混乱が

融合し、

相乗効果を起こし、

 

ますます自分自身を

混乱させて

しまうのだ。

 

怖がる心を

怖がるな。

 

という

ことだけど、

難しいかな?

 

一見難しそう

だけど、

 

実は

えいっ!と勇気を持って

怖がっている心を

見つめると、

 

案外、

大したことはない

ことが多い。

 

やはり

蓋をするから

大したことになって

しまうのだ。

 

私達の心は

 

見つめれば

見つめるほど

良い。

 

それが

自分と向き合う

基本だ。

 

つづく

 

苦しみを語る

 

いつも私は

人の苦しみについて

考える。

 

人は

苦しむ生き物

だ。

 

それを完全に

自らの中から

排除することは

極めて難しい。

 

その苦しみの

多くは、

その人自らが

生み出しているもの。

 

苦しみとは

現象そのものなので

実在としてのそれは

存在しないのだが、

 

しかし

その現象が

苦しい。

 

実在のない

もの。

 

ただ、

感覚のみが

現象として発生

するもの。

 

それが

苦しみだ。

 

だから、

本当は苦しみなどは

ないのだよ、

言われることも

ある。

 

実在の意味に

おいては

その通りなのだが、

 

しかしここは

現象の世界なのだ。

 

現象として在る

ものは在る

のだ。

それもまた

現実。

 

しかもその

現象(苦しみ)は、

 

人から人へと

伝播もする。

 

8割方

今の苦しみが

自分の苦しみだと

しても、

 

あとの2割は

他の人から

受け取ったものであり、

他の人の苦しみを

まるで自分の苦しみの

ように

感じ取っている

ものだ。

 

ところが、

その8割と2割が

逆転することが

ある。

 

人の苦しみを

受け取り

その感覚によって

苦しんでいるのに、

 

その苦しみと

自分の「記憶」の何らかの

現実とを

自分で勝手に結びつけ、

 

あぁこの苦しみは

あれが原因の苦しみだ、

 

自分で勝手に

結論を出して

 

本当は自分の苦しみ

ではないのに

苦しみ続けている人が

いる。

 

自分の苦しみの8割方を

そういうことをしている

人もいて、

実はとても多い。

 

いずれにしても

苦しみとは

苦しいことなので、

私達は

そこから逃げ出したい。

 

だから

苦しみには

背を向ける。

 

だから余計に

苦しみの正体を

知らないままに、

 

人は

苦しみ続けている。

 

・・・・・・

 

今、

私はとても

頭が痛い。

 

その痛む箇所に

意識を向けると、

 

それは

今日コーチングをした

クライアントのAさんの

ものだとわかる。

 

内容までは

さすがにわからない。

 

しかし

どのような類の

苦しみかは

わかる。

 

そして

どれだけの大きさの

苦しみか、も。

 

私はそのAさんの

苦しみと向き合いながら、

それを浄化しながらも、

Aさんの次のサポート

の方向性について

検討をする。

 

こんなことをもう

20年も毎日毎日

休みなく

続けている。

 

だからよくわかる。

 

Aさんはこのままで

いると、

間違いなく

病気になるな、と。

 

人の苦しみは、

それがある境界を

超えると、

3次元化する。

 

つまりは、

物質化する。

 

心が

物理的なものに

変化するのだ。

 

それが

病気となって

現れる。

 

医学的にそんなことが

証明されているか

どうかはわからないが、

 

これは私が

サポート現場でいやでも

実感し続けている事実

だ。

 

だから

病気になる前に

何らかの手を

打たねばならない。

 

どうしようかな?

 

・・・・・・

 

私は

人の宿命について

いつも考える。

 

宿命と苦しみは

セットだ。

 

宿命が苦しいもの

だという

意味ではない。

 

でも多くの人が

自分自身の苦しみと

向き合い、

それを越えようと

するときに、

 

自らの宿命を

受け入れる。

 

そこから初めて

「自由」は

始まるんだ。

 

つづく

 

大丈夫だ

 

心配するな。

 

あなたはちゃんと

進んでいる。

 

ただ、

 

かつてないスピードに

挑戦しているが故に

 

何もわからなくなって

いるだけだ。

 

進むが故の

不安定と

進むが故の

混乱だ。

 

必然的な

ものだ。

 

道は、

観えなくても

いい。

 

今はまだ

観えない方が

いい。

 

観えないことを

楽しめばいい。

 

その不安定さを

楽しもうとすれば

いい。

 

今、

 

進む仲間は

世の中にたくさん

いる。

 

まだ出会っていない

人達も多い。

 

でも、

進む人達は

常に影響をし合って

いる。

 

もうすでに

連携をとっている。

 

相乗効果すら

ある。

 

相乗効果の波を

きちんと生み出し、

 

波が波に乗った

その上で、

 

出会おう

という魂胆だ。

 

何という変態的な

進み方か、

とも思うが、

 

それも楽しみ方の

一つだ。

 

人生は、

いろいろな進み方が

ある。

 

私達の頭では

想像をし得ないくらいの

とんでもないことを

 

私達は心の

奥の奥の方では

すでに決めていたり

する。

 

そして

その奥の方で、

 

つまりは

実在のレベルで、

 

私達は

チームなんだ。

 

チームが

チームとして

出会っていく。

 

これからちゃんと

出会えるように、

 

今は多少の不安定が

あったとしても、

 

多少の無茶を

したとしても、

 

このまま

行けばいい。

 

未知のスピードで

行けばいい。

 

つづく

 

私は何者か?

 

よく私は

「加速しよう」

という言葉を

使うが、

 

実は、

 

中途半端な加速ほど

苦しいものはない。

 

加速するなら

徹底的に

するしかない。

 

加速してみようかな?

では

苦しいだけで

逆にすぐに止まってしまう。

 

勢いだけで

進もうとしてもダメだ。

 

それも

中途半端さしか

生まない。

 

本当に加速する

ためには、

 

「私は何者か?」

 

という問いと

徹底的に向き合う

ことだ。

 

そしてその答えを

出そうと、

 

完全に

決めることだ。

 

とは言え、

そう簡単に答えは

出ない。

 

下手をすると

一生出ないかも。

 

しかしそれでも

必ず答えを出そう

決めるんだ。

 

私は何者か?

 

私は何者か?

 

私は何者か?

 

これを問い続けながら、

その答えを

求めながら

 

今、やる。

 

思えることを一つ決め、

(完全に決め)

 

その一つを

一切の迷いを捨てて

実行する。

 

それの連続だ。

 

「私は何者か?」

 

とは、

自分の意識を

「原点」に

戻してくれる。

 

その「原点」が何か?

はわからなくとも

少なくとも

原点のその場所には

意識は戻る。

 

原点とは

ゼロの地点だ。

 

いつもいつも

ゼロの地点に

戻りながら、

 

前に進む。

 

これにより、

勢い任せの中途半端な

加速からは

解放される。

 

これを

実直に淡々と

飄々と

 

毎日、

毎時間、

毎分、

毎秒、

 

する。

 

そう決めて

進む。

 

進もうとする。

 

これだけの

ことなんだよ。

 

つづく

 

開き直ってシンプルに

 

「私」の範疇で

物事を進めようと

するから、

 

複雑化

するんだ。

 

わけが

わからなく

なる。

 

わけがわからないままに

次の一歩を進むから

 

余計に

わからなくなる。

 

自分を失うのは

当然のことだ。

 

「私」の範疇に

いようとすると、

 

結果として

自分を失うんだ。

 

とても乱暴な

言い方だが、

 

今は

次の心の声が

とても大事な時代(時期)

のような気が

どうしてもするんだ。

 

「私なんて、

どうだっていい。」

 

この一言。

 

これを呟きながら

決断するといい。

 

もちろんこれは

自暴自棄になる

ことではない。

 

でも、

「開き直る」ことだ。

 

自暴自棄と開き直りは

真逆のことだ。

 

自暴自棄は

自分もすべても

捨ててしまうこと。

 

自分を失った状態で

進むこと。

もしくは、

進まないこと。

 

そこにあるのは

「虚無」だ。

 

「開き直り」は

真逆。

 

それは

自分を超えること。

 

それにより、

これまでの自分では

到底為し得なかった

「すべてを大切にする」

「すべてを活かす」

「すべてを統合する」

ということが

 

結果的に

成されるんだ。

 

そのためには、

今の「私」という

小さな範疇にいては

ダメだ。

 

「私」を超えて

本当の

本来の

『わたし』の声を

聴き、

 

『わたし』の

決断で行くんだ。

 

開き直って

「私」を捨てた時、

 

その奥から

『わたし』が

悠然と

屹立する。

 

でも、

 

それを意図しては

ならない。

 

頭で考えて

行なっても意味は

ない。

 

行なうのは、

 

真剣に、

 

「私なんて、

どうだっていい。」

 

と呟きながら、

進むことなんだ。

 

今はね。

 

つづく

 

目が眩む怒りだな

 

目も眩むような

怒りがある。

 

それは

私のものでは

ない。

 

それは

「人々」のものだ。

 

人々は今

怒っている。

 

真本音の怒り

だ。

 

その中心に

あるものは、

 

自己が消滅してしまう

のではないか、

というくらいに強い

 

進化への欲求

 

だ。

 

私のことなど

どうでもいい。

 

・・・乱暴に書くと

そんな意志を

感じる。

 

しかしそれは決して

自己犠牲では

ない。

 

それは

「すべてを生かす」

ための想いであり、

 

自分の生命を

本当の意味で

燃やし活かす

ための想いだ。

 

私のことなど

どうでもいい。

 

となって初めて

覚醒する自分が

いる。

 

本来の自分が

そこにいる。

 

その

本来の自分が

怒っている。

 

自分自身に対して

怒っている。

 

なぜ、

そんなことに

こだわるのだ?

 

なぜ、

ここであえて

止まるのだ?

 

なぜ、

止まっていることを

誤魔化すのだ?

 

なぜ

そこまでして

いい格好をし続けるのだ?

 

と。

 

「本来の自分」を

そこまで怒らせて

しまった自分を

反省するといい。

 

「反省」とは、

自己評価ではない。

 

自己を評価している

場合ではない。

 

「反省」とは

悔恨の心と

向き合うことだ。

 

自分自身の

最も深いところにある

悔恨を

 

あるがままに

見つめ

対峙することだ。

 

これをせずして

あなたはあなたの

本当の気持ちを

知ることはない。

 

本当の祈りに

気づくことはない。

 

もう

誤魔化すな。

 

自分自身を。

 

つづく

 

抑えてはならない怒りがある

 

祈りとしての

怒り。

 

そんなものが

ある。

 

私が

「真本音の怒り」

表現しているものだ。

 

真本音自体には

感情はない。

 

真本音とは

自分自身と

自分の周りの現実の

すべてを

あるがままにただ

観察し、向き合い

続けている存在だ。

 

しかし、

真本音は

反応本音と

結びつく。

 

本来、反応本音とは

現実世界において

調和しながら生きるために

真本音が生み出したものだ。

 

真本音と反応本音は

仲間。

 

会社で言えば、

真本音が「創業者」と

するならば、

反応本音は

「創業者に共感して

集まってきた仲間達」

だ。

 

そんな真本音は

反応本音を

活用する。

 

反応本音と共に

歩む。

 

その中で、

今は「怒り」という反応本音と

共に進もう、

真本音が決めた時に

 

「真本音の怒り」

 

は発生する。

 

それは

真本音と反応本音の

コラボの一つの

カタチだ。

 

もし、

自分の中に

言いようのない

激しい怒りがあれば、

 

その中心を

見つめてみてほしい。

 

その中心に

光はあるだろうか。

 

その中心に

輝きはあるだろうか。

 

もしそれを

感じることができるなら、

 

その光(輝き)は

自分自身の祈りだ。

 

祈りに基づいた

怒り。

 

それが

真本音の怒りだ。

 

これが生まれた時は

決して

その怒りを

抑えてはならない。

 

怒りを

開放する方向に

進めば、

 

そこから

真の調和が

始まるんだ。

 

つづく

 

もっと自律せな

 

私は地球だ。

 

・・・そう思える人が

今、地球上には

何人いるのかな。

 

私達は、

「場」に

頼り過ぎだ。

 

自分が今いる「場」は

あって当たり前だと

思っている。

 

例えば、家族。

例えば、学校。

例えば、会社。

例えば、国。

例えば、社会。

そして、地球。

 

「場」という土台の

上に

私達は生まれ、

もしくは参入し、

今、ここにいる。

 

でも

私達の多くは

知らない。

 

私達自身が

「場」を創っている

という事実を。

 

「場」が先にあるのか?

「私」が先にあるのか?

 

なんてことは

どうでもいい。

 

「場」が「私」に影響を

与え、

 

そして

「私」は「場」に影響を

与えている。

 

その循環が

成り立っている。

 

自分は今、

「場」と共に

どんな循環を創っているか?

 

この問いに

誰もが真摯に向き合うべき

だと

私は思う。

 

そして

これに真摯に向き合う人

こそが

「自律した人」だと思う。

 

そして

自律した人は

真剣になればなるほど

心のどこかで

痛感しているはずだ。

 

私が場であり、

場が私なんだな。

 

・・・と。

 

こんな人が

増えることで、

「私」も「場」も

次元を一気に高めていく。

 

一気に、だ。

 

「場」には

命がある。

 

当然、「私」にも

命がある。

 

命とは

持続しようとする

意志であり、祈りだ。

 

持続とは

進化だ。

 

今こそ我々は

一気に

進化が必要ではないか。

 

つづく

 

試行錯誤すればいい

 

試行錯誤は

大事だな。

 

と思う。

 

「成就」の前には

必ず試行錯誤が

ある。

 

試行錯誤のない

成就はない。

 

よく私は、

「調和」という言葉を

使うが、

 

調和とは、

物事がすぐに成就する

という意味ではない。

 

調和とは、

私は「進化」そのもの

だと思っている。

 

そして、進化には

試行錯誤が

必須だ。

 

だから私は

調和とは、

 

進化につながる試行錯誤

を続けている状態

 

だと思っている。

 

人生とは、

そのような試行錯誤を

楽しめるかどうか?

ではないか。

 

試行錯誤の

一歩一歩を

 

自分の本来の生き方と

生き様で

 

一つ一つの現実を

味わい、噛み締めながら

 

進んでいく。

 

もちろん試行錯誤なので、

三歩進んで二歩下がる

こともあるだろう。

 

いや、時には

一歩しか進んでないのに、

四歩も五歩も

下がらなければならない

こともある。

 

それでも一歩を

出し続けること。

 

それを自らの

真本音で

行ない続けることが

最も大事なことだと

私は思う。

 

私達の真本音は

「成就」をもたらして

くれるのではない。

 

意味の深い試行錯誤を

もたらしてくれる。

 

進化への一歩一歩を

もたらしてくれる。

 

だから結果として

真の成就となる。

 

私達にできることは

真本音の一歩だ。

 

次の一歩を

真本音で

進むんだ。

 

つづく

 

あっ、答えが来た

 

私達は

いろんな「答え」を

日々、出しながら

人生を生きている。

 

その「答え」が

本当に自分の望む

ものかどうかは別として、

 

誰もが何らか「答え」を

出さねば、

先には進めない。

 

朝起きて、

最初に何をしようか?

というくらいに

些細な「答え」もあれば、

 

人生を大きく左右する

ような

影響の大きな「答え」も

ある。

 

私は

強く思うのだが、

 

どのような「答え」も

「すべて」

自分の本当に望む

ものを

一つ一つ丁寧に

出し続けるといい。

 

私の表現で言えば、

すべてを

真本音の「答え」で

進めるといい。

 

・・・と。

 

些細な答えか

大きな答えか

そこには関係ないと

思うのだ。

 

いやむしろ、

些細な答えすら

自らの望む答えを

出せない人は

 

本当に人生を大きく

左右する答えを

出さねばならない時に

それができなくなる

 

と実感している。

 

やはり

「生き方」の

問題なのだ。

 

日々、日常での

一つ一つの生き方が、

 

いざという時に

ありありと出るのだ。

 

だから

いざという時だけ

頑張ればいい、

という生き方は

通用しない。

 

それが人生だと

思う。

 

・・・・・・

 

セルフコーチング力が

ついてくると、

 

まずは、

 

あっ、

何か「答え」が来たな。

 

という

感覚がわかるように

なる。

 

何らかの「答え」が

生まれた感覚だ。

 

「答え」というものの

「存在」だけが

まずはわかるのだ。

 

その感覚がくると、

次には

その「答え」の場所を

特定する。

 

「答え」は

自分の体の中の

どこかに

発生しているはずなのだ。

 

まぁ時々は、

体の外、

自分から離れた場所に

発生するときもあるけど。

 

「答え」の場所が

特定できたら、

そこに意識を向ける。

 

私の場合、多くは、

その「答え」は

明るい光の球のように

観える。

 

そこに意識を

向け続けると、

 

「問い」

 

がやってくる。

 

「答え」そのもので

なく、

まずは「問い」が

明確になるのだ。

 

そしてその「問い」を

自分自身に

投げる。

 

その光の球に

意識を向けながら。

 

すると

その光の球から

「答え」が

浮上してくる。

 

これが、

セルフコーチングの

真髄だ。

 

これを私は毎日、

一日のうちに

数えきれないくらいに

やっている。

 

仕事だけでなく、

人生においての

大事な「答え」達は

ほぼすべて

このやり方で得ている。

 

これで得られた「答え」は

必ず「調和」を

もたらしてくれる。

 

このやり方は

10年くらい前から

本格的に始めたのだが、

 

それがいかに

「調和」をもたらしてくれるか

については

今でも毎日、強烈に

実感し続けている。

 

特にこれからの時代は、

こういった

セルフコーチング力が

誰にも必要だと

私は思う。

 

一つ一つ、

外部の状況や環境に

揺らされることなく、

 

かといって

状況を否定・拒絶するのでも

なく、

 

すべてに「調和」を

もたらすような

「最善の答え」を

自ら見出していく。

 

そんな人が

増えるといい。

 

それが

今後の社会の進み方を

左右すると

私は真剣に思っている。

 

だから

そのための方策を

取っていくつもりだ。

 

もちろんこれまでも

そうしてきたが、

ここからは

初めてのやり方で

この流れを加速させる

つもりだ。

 

一つ一つ「答え」を

出しながらね。

 

つづく

 

ここにある未来

 

とてつもなく

広い通りがある。

 

私はその中央に

立っている。

 

気がついたら

ここにいたのだ。

 

人々が

たくさんいる。

 

皆、思い思いに

歩いているのだが、

 

私がキョロキョロと

周りを戸惑いがちに

見渡していると、

一斉に私に注目した。

 

皆が笑顔を

向けてくる。

 

何か、笑いながら

話しかけてくる。

 

でも彼らの言葉が

わからないのだ。

 

にも関わらず、

私も何故か笑顔に

なった。

 

笑いながら

彼らと握手をした。

 

どんどん皆が

来る。

 

凄い人数だ。

 

一人ひとりと順番に

握手する。

 

なんと私は

知らないうちに

自分でも何かを喋っている。

 

勝手に口が

動くのだ。

 

自分で喋っているのに、

自分の言葉が

理解できないでいた。

 

俺はいったい

何をしてるんだ?

 

と疑問符ばかり

なのだが、

そんな気持ちとは

裏腹に

私は笑顔で彼らと何かを

話しながら、

一人ずつと丁寧に

握手を続けた。

 

ポタっと

何かが落ちた。

 

見ると、

涙のようだ。

 

私が泣いている

のだ。

 

なんだこれは?

 

彼らも皆

泣いていた。

 

泣きながら

笑っていた。

 

それを見ながら

私は理解した。

 

そうか、私は今、

彼らと再会しているのだ、

と。

 

・・・・・・

 

広い通りは

真っ直ぐに彼方へと

続いている。

 

皆は私を手招きした。

 

「あっちですよ」

私を導いてくれている

ようだ。

 

道の彼方は

眩しく輝いていて

その先がどうなっているのか、

よくわからない。

 

しかし彼らの導きの

ままに、

私はその道を進んだ。

 

気がつけば

彼らの姿はもう見えず、

 

私は一人で

光の中を歩いていた。

 

私の涙は

さらに増えているようだ。

 

どこに向かっているのか、

私にはさっぱり

わからないのだが、

 

でも一方では

私はすべてを

知っていた。

 

あぁ、確認だな。

 

わかった。

 

私は未来を一度、

きちんと確認しようと

している。

 

そのために

ここに来たのだな。

 

確認できたら、

そこでの記憶は

消えるのだろう。

 

それがわかっていて

私はあえて

ここに来たのだな。

 

記憶に残らずとも

刺激は残る。

 

その刺激を

私は私に与えたかった

のだな、と。

 

であれば

迷うことはない。

 

この光の先を

見てみようか。

 

私はさらに

歩を進めた。

 

そしてやはり、

そこから先の

記憶は消えた。

 

・・・・・・

 

必要な刺激は

ちゃんと手に入った

のだと思う。

 

かなりさっぱりした

感覚なので、

きっと私は

良いものを見ることが

できたのだと

思う。

 

いや、

そう思うことにしよう。

 

未来は

わからないからこそ

価値がある。

 

わからないからこそ

人生を

人間であることを

噛み締めることが

できる。

 

人としての

最善、最大の一歩を

これからも

進むだけだな。

 

つづく

 

場と共鳴しよう

 

大地というものは

面白いもので、

 

魂を込めて

しっかりと

耕せば耕すほど、

 

エネルギーは

高まっていく。

 

真本音度合いが

高まっていくのだ。

 

ちなみに、

真本音度合いというのは

あらゆるものに

反映する。

 

すべては人の意識の

反映だからだ。

 

すべての「物」に

真本音度合いはあり、

それはエネルギーの

高低に直結する。

 

そして

そういった影響を

最も受けやすいものの

一つに

 

「場」

 

というものがある。

 

例えば、

家族という場。

企業という場。

仲間の場。

 

それだけではなく、

その土地そのものも

影響を受ける。

 

私はいつも、

企業サポートを

させていただく時、

 

個人個人の真本音度合いの

高まりを把握するのと同時に、

 

その会社の

場としての真本音度合い

にも意識を向ける。

 

すると、

「人」と「場」は

密接に共鳴し合っている

ことがわかる。

 

人が場に

エネルギーを与え、

 

場が人に

エネルギーを与える。

 

そんな

プラスのエネルギー循環が

始まり、持続するようになると、

私のサポートの大半は

完了できたのではないか

とさえ

思うのだ。

 

もちろんその「場」というのは、

日本全体

という場もあるし、

地球全体

という場もある。

 

私は常に

そんな視点からも

「場」に意識を向ける。

 

・・・・・・

 

あなたは今、

どんな「場」で

一日の多くを

過ごしているだろうか?

 

まずは

自分にとっての

気持ち良い場を

選択することが

とても重要だ。

 

そしてそれができたら、

次には、

その「場」の

エネルギー度合いを

高めることを

考えるといい。

 

具体的には、

その「場」を

自分にとってより

気持ち良い状態にする。

 

例えば、

整理整頓するとか、

素敵な花や小物を

飾るとか。

そんなちょっとしたこと

でもいい。

 

そして、

その「場」において、

できるだけ

「集中」をすること。

 

「集中」というのは、

根を詰める、という

ことではない。

 

「一つを決めて

一つを行なう」

 

ということだ。

 

つまりは、

「今はここでこれをしよう」

しっかりとやることを一つ

決め、

 

その一つを

迷いなく行なうこと。

 

よそ事に意識を

向けたりとか、

こんなことをしていていいのかな、

という迷いの気持ちで

それを行なうとか、

そういったことを

やめるのだ。

 

例えば、

今はここでダラダラしよう、

と思うのなら、

きちんとそう決めて、

ちゃんとしっかり迷いなく

ダラダラするのだ。

 

一つ一つを丁寧に

決めて

それを行動に移せば、

 

自分自身の心の状態が

良くなり、

それが場にエネルギーを

与える。

 

するとそのうちに、

場が自分に

エネルギーを与えてくれる

ようになる。

 

エネルギーの循環が

始まるのだ。

 

そんな時間の使い方、

場の使い方を

してほしい。

 

つづく

 

本当に生きる道を

 

本当に深く

傷つかなきゃ、

 

本当の反省とは

言えない。

 

自分を責めている

余裕なんかあったら、

 

それはまだ

本当には反省していない

ということだ。

 

単なる自己満足。

 

反省のふり。

 

誤魔化し。

 

そう。

 

誤魔化したまま

先に進もうと

していないか?

 

自分で自分を

責めて、

それでよし、と

していないか?

 

反省とは

自分で自分を

責めることではない。

 

自分の否を

自己評価することでも

ない。

 

反省とは、

自分の否を

あるがままに

見つめることだ。

 

自分の否と

向き合うことだ。

 

そして

自分の否と

一つになること。

 

そうすれば

何をしなくとも

自然にその本当の

痛みがわかるはずだ。

 

もし

自分が傷つけてしまった

人がいるのならば、

 

その人の痛みが

そのままわかるだろう。

 

そしてそれを

見ている自分自身の痛みも

そのままわかるだろう。

 

それは

身を切られる痛み。

 

誤魔化しようのない

痛み。

 

全身が

引き裂かれそうな

痛み。

 

それを潔く

引き受けた時に

初めて、

 

私達は

「反省」しているのだ。

 

そしてそれができて

初めて、

 

そう、初めて、

 

本気で自分を

「変えよう」と

思える。

 

そしてその意志が、

次の一歩を自分自身に

もたらしてくれる。

 

だから。

 

中途半端な内省など、

せんほうがいい。

 

それをもって

「私は気づけた!」

などと

言ってくれるな。

 

私達には

「願い」がある。

 

本気で「願い」に

向かおうと思うからこそ、

 

「反省」ができる。

 

ふり、だけの反省を

するよりも、

 

本気で「願い」に

向かおうとする。

 

「願い」がわからなければ、

本気で「願い」を

見つけようとする。

 

そのための

一歩を今、

決める。

 

決めたら、

やる。

 

自分の準備が

できていようが、

いまいが

関係ない。

 

それくらいの意気と

意志で

進もうとする。

 

それが今の私達には

最も必要なことでは

ないのか。

 

つづく

 

空っぽを感じたら

 

空っぽだ。

 

自分の中には

何もない。

 

虚無だ。

 

何ということだ。

 

いったい

自分とは

何だ?

 

これまで頑張って

きたのに、

結局は

何もないではないか。

 

・・・というように

もし思えたら、

 

あなたは今、

生まれ変わろうと

している。

 

よく私は

「脱皮」という言葉を

使うが、

 

それさえをも

超えて、

もっと根本的に

生まれ変わろうと

している。

 

それは

とてもめでたい

ことだ。

 

いっそのこと

完全に自分を

虚無にしてしまうと

いい。

 

何もない。

 

という状態に。

徹底的に。

あきらめて。

 

すると

近々、

ある瞬間に、

 

あなたの中に

小さな小さな自分が

生まれるはずだ。

 

それはほんの

小さな光のような

ものかもしれない。

 

しかし、

とても強烈な

光のはずだ。

 

自分の体の中

全体に意識を向け、

 

その誕生を

自覚するといい。

 

どっかに現れるよ。

そのうちに。

 

現れたら、

それを愛でるといい。

 

まるで親になった

気持ちで。

 

そうすれば、

日々、その新たな自分は

成長する。

 

きっと

急成長する。

 

そして

あなたの体と同じ大きさ、

つまりは等身大に

なったら完了だ。

 

まぁ、

楽しんでね。

 

祝ってね。

 

つづく

 

もう行くしかないだろ

 

クライアントさんの

とてつもないエネルギーを

感じると

震えてくる。

 

ある種の

畏れすら感じる。

 

こんなパワーを

この人はコントロール

できるのか?

不安になる。

 

でも、

これだけのパワーを

持っているのが

この人であるならば、

 

それは

紛れもなく必然で、

 

この人は

このパワーを使いこなす

ために

生まれてきたのだ。

 

しかし

少し気を抜けば、

 

パワーの解放が

加速的であればあるほど、

 

本人が自分のパワーに

呑まれてしまう。

 

でも

解放、開放は進む。

 

だから

「覚悟」

が必要だ。

 

もう自分は

何があっても

自身の真本音の願い

への道を

進むんだ、

 

という覚悟だ。

 

私は

真本音度合いを高める

サポートはできるが、

 

この「覚悟」だけは

本人が

するしかない。

 

覚悟ができてから

パワーが解放されるのが

順当なはずなのだが、

 

私のクライアントさんは

変態ばかりだ。

 

覚悟もクソもなく、

まず、パワーの解放が

ある。

 

それだけ

人生に急いでいるのだ。

 

だから

しょうがない。

 

そんな自分である

ということを

あきらめるしか

ない。

 

自分の変態さに

あきらめて、

 

無理矢理だろうが

何だろうが、

 

「覚悟」を持って

進むしか

ないんだ。

 

でも。

 

本当に「覚悟」を

持てれば、

 

人は実に

穏やかになれる。

 

静かになれる。

 

すべてが

クリアになる。

 

あとは

淡々と進めばいい。

 

つづく

 

身軽になろう

 

その

背負っているものを

いったん

降ろさないか。

 

重いだろう。

 

重過ぎる

だろう。

 

もちろんそれを

背負うあなただからこそ、

 

あなたの価値は

あり、

 

あなたの魅力も

出る。

 

でも、本当は

「背負う」

とは、

 

降ろすことができる

という

選択肢も持った上で

行なうべきことだ。

 

そんな無責任な!

言われるかも

しれない。

 

もちろん

無責任にはなっては

ならない。

 

でも

本当の無責任とは、

 

選択肢が1個しか

なくて、

 

他の選択肢を

自ら創ることをせず、

 

ただひたすらに

その1個に固執する

 

・・・ことなんだよ。

 

かなりひどい言い方に

なってしまうかも

しれないが、

 

あなたのその

責任感は、

単なる執着かも

しれないんだ。

 

本当はそれにより

様々な不調和が

起きているかも

しれないんだ。

 

あなたがそこに

執着していることに

より、

 

他の誰かの成長が

阻まれているかも

しれないんだ。

 

進化が

阻まれているかも

しれないんだよ。

 

だからいったん

降ろしてみよう。

 

できるかどうかは

別として、

 

降ろそう!

真剣になってみよう。

 

案外、

想定外の展開が

あるかもよ。

 

そして

私は、

 

降ろした後の

あなたのことが

 

楽しみで

しょうがないんだ。

 

身軽になった

あなたが、

 

いったいどうなるか。

 

どんな色を出し、

どんな個性に溢れ、

 

何を仕出かすか。笑

 

だって

それこそが

新たな調和や進化を

生み出しそうだ。

 

そんな

予感がするんだよ。

 

つづく

 

答えを知ろう

 

「進む」

ということと、

 

「自由になる」

ということと、

 

「余分なものを手放す」

ということは、

 

イコールなのだろう、

いつも思う。

 

どれだけ進んでも

自由になれている感覚が

なければ、

それは本当には

進んでいないのだし、

 

あらゆるものを

身につけて、

まるで洋服を重ね着

するように

自分を大きくしていくことは

本来の成長ではない。

 

本来の成長とは

服を着飾るのとは真逆で

素っ裸に近づいて

いくことだ。

 

だから手放すものや、

時には、捨てるものは

数多い。

 

手放さなければ

自由にはなれないし、

 

自由になれなければ

進んでいることに

ならない。

 

だがここで、

一つの重要な問いが

浮かんでくる。

 

「私は本当に

進みたいのか?」

 

という

単純な問いだ。

 

この問いを

今こそ自らに

真摯に

投げかける時だろう。

 

この答えを

本当に知ることは

勇気が要ることかも

しれない。

 

しかし今こそ

知るべきだろう。

 

自分の本当の

気持ちを

見つめる時だろう。

 

そして

その答えと

「一つ」になるべき

だろう。

 

それができた時、

私達はようやく、

今始まった新たな時代の

 

未知の領域に

入り込んだこの時代の

 

「現実の一つ」

として

立つことができるのだから。

 

つづく

 

知識を得よう

 

今回は、3つほど

問いを投げよう。

 

問1

あなたは今、

何を探究したい?

 

問2

そのためには

何に関する知識を得たい?

 

今は

どんどん知識を得る

といい。

 

ただし知識とは

単にインプットするだけでは

あまり意味はない。

 

あくまでも

自らの探究のための、

目的を持った

知識であるといい。

 

本をたくさん

読むといい。

 

ただし今は

あまり速読は

オススメしない。

 

ゆっくりと噛み締める

ように

読むといい。

 

そして

読みながら、

知識を取り入れながら、

次の問3を。

 

問3

今、あなたの中には

どのような「?」(疑問文)が

湧いてくる?

 

そして、

その「?」をきっかけと

して、

 

さらに問いを広げたり

深めていこう。

要するに

セルフコーチングだ。

 

知識とは、

セルフコーチングの

ためのきっかけだ。

 

今こそしっかりと

「勉強」するといいね。

 

つづく

 

予測がつかない

 

今のこの状況を機に、

自分自身を

大きく逸脱しよう、

決心している人が

増えている。

 

私のクライアントさん

なんかは

特にその傾向が強く、

 

この4月で

私がびっくりするような

根本的な変化を

すでに遂げている。

 

まるで

これまでの歩みの

すべてが、

今回の逸脱のための

準備運動で

あったかのように。

 

そういった様を

拝見していると、

 

ある意味、

 

私は

人間というものの

言い様のない

まるで、畏れとも言いたく

なるような

 

そんな神秘性を

感じるのだ。

 

・・・・・・

 

人は進化するものだ、

ずっと言い続けてきたが、

 

実は今ほど

それを強く実感する

ことはなかった。

 

そして恐らく

この実感は、

これからが更なる

本番を迎えるような

感覚がある。

 

もちろんそれは

私からすれば

「希望」である。

 

しかも

人の進化は

予測がつかない。

 

いや、本当は

実在のレベルでは

すべてをわかって

いるのだろうが、

 

顕在意識である

私達には

「予測がつかない」

という状態と感覚が

価値のあることなのだろう。

 

私は今、確かに

その「予測のつかなさ」を

楽しんでいる。

 

・・・・・・

 

私は今、

果てしないくらいの

大広間にいる。

 

そこには

果てしないくらいの

大勢の人々が

ひしめき合っている。

 

しかし

私からはその姿は

見えない。

存在のみが

わかる。

 

人々と私は

一人ずつ丁寧に

握手を交わしている。

 

その部屋は

異様なくらいに

明るく、

私の気持ちも晴れ晴れ

している。

 

丁寧に丁寧に

握手を交わしながら、

私は

一人ひとりの想いと

願いを

 

ダイレクトに

ありのままに

 

感じ取っている。

 

にも関わらず、

私は今

ここに一人でいる。

 

その、

実在と現象の間で

 

私は

私自身の「予測のつかなさ」

楽しんでいる。

 

つづく

 

いつ開けようかな

 

私の中心に

卵のようなものが

生まれた。

 

いや、

卵というよりも

惑星のようだ。

 

それはまだ

光を放ってはおらず、

ちょっと暗く

グレーに沈んでいる。

 

とは言え

悪い感覚は皆無で、

 

恐らくその中身は

眩いばかりの

光が満たされているだろうな、

ヒシヒシとわかる。

 

その惑星のような

ものは、

私の「中心」にある。

 

心と魂の中心に

まるで中心核のようにして

ある。

 

ということは

これは今、生まれた

というよりも

最初からここに

あったものかもしれない。

 

その存在に

今、初めて気づいた

のかもしれない。

 

私はその惑星の

ようなものを、

ちょっと離れたところから

眺めている。

 

中身が何かは

わからないが、

でも

何となくはわかる。

 

中には、

とてつもなく多くの人達の

願いとか、声とか

そういったものが

多分、詰まっている。

 

そしてそれは

やはり

とてつもなく眩しい

光を放っている。

 

それらを

解放、開放することは

きっと

やろうと思えば

今、すぐにでもできる。

 

でも私は

そのタイミングを

静かにはかっているようだ。

 

どちらかと言えば、

とても私は

ワクワクしているのだが、

 

その一方では、

これを開けてしまっては

また大変なことに

なりそうだな。

 

私にはきっと

どうしてもやりたいことが

発想されてしまいそうだな、

 

まぁでもそれ自体もまた

ワクワクしながら

思っているのかな。

 

開けるタイミング。

 

いつだろう?

 

もうすぐだな。

 

まぁこのワクワクが

鎮まり、

もう少し冷静になれたら

 

その瞬間に

 

開けるとするか。

 

つづく

 

新たな誕生

 

あなたの中に

新たな自分が

生まれるとしたら、

 

それは

どんな自分

だろうか?

 

どんな自分を

望むだろうか?

 

これまでの自分

にこだわる必要は

ない。

 

これまでの延長線上から

完全に逸脱しても

いい。

 

自由に

なればいい。

 

たとえどのような自分が

生まれたとしても、

 

あなたの中では

それは

共存できる。

 

これまでの自分と

共に生きることは

できるのだ。

 

だから安心して

その「誕生」を

迎えればいい。

 

生まれ出ようと

しているものを

拒まずに、

 

不安がらずに、

 

不審がらずに、

 

ありのままに

見つめ、

 

悦び、

 

抱けばいい。

 

あなたは

新たなあなた自身の

親でもある。

 

あなたという

子供を

迎えよう。

 

あなたはもっと

幸せになっても

いいんだ。

 

つづく

 

経験させよ

 

私達には

「経験」しなければ

ならないことがある。

 

「経験」しなければ

先には進めない。

 

いや、

「先には進まない」

決めているのだ。

 

その「経験」を

させよ。

 

自分自身に

させよ。

 

・・・・・・

 

自分に必要な

「経験」が何か?

真本音で決めていて、

 

しかもその「経験」が

できるように

そのチャンスを自らに

与え、

 

実際に「経験」の

一歩手前まで来て、

 

その時点で、

 

「経験」から

逃げてしまう人が

いる。

 

もちろんそういった

「経験」は

勇気が必要なケースが

ほとんどで、

 

であるが故に

怖気づいてしまうので

あろうが、

 

それは実に

もったいないことだ。

 

そこで勇気の一歩を

踏み出せば、

 

その後、

一気に加速ができ、

道は拓き、

自由度は圧倒的に

増すと言うのに。

 

その一歩が

ないが故に、

もと来た道を随分と

戻らねばならなくなる。

 

それによって

人生の展開が

数年から数十年遅れる

こともある。

 

出会える人とも

出会えなくなる。

 

そんな人が

残念ながら多い。

 

しかも

増えている。

 

今、どうしても私達は

環境や状況のせいに

したくなる。

 

思うように経済活動も

できず、

皆が鬱積している。

 

しかし今だからこそ、

真剣に

考えないか?

 

このチャンスに

自分にどのような「経験」を

与えようか?

 

と。

 

つづく

 

耳を澄まそう

 

心の中が

まるで暗い雨雲で

いっぱいになるように

ストレスやモヤモヤが

集積し、

 

まったく何も

観えなくなってしまった

としても、

 

真本音は

ここにある。

 

現実で

何がどう起きようが、

 

それにどのような

影響を受けようが、

 

真本音は

ここにある。

 

なぜなら、

真本音こそが

自分自身だから。

 

本来の自分

だから。

 

それがなくなる

ということは、

自分という存在が

なくなるのと同じこと。

 

私達は今ここに

存在しているという

事実がある限り、

 

真本音は

ここにある。

 

・・・・・・

 

それを信じることが

真本音度合いを高める

第一歩だ。

 

ここにあるはずの

真本音の意思に

耳を澄まそう。

 

心の状態が悪い

場合は、

 

最初は何も

聴こえないかもしれない。

 

しかしそれでも

耳を澄まそう。

 

自分の真本音に

意識を向けよう。

 

意識を向けようと

し続けよう。

 

これさえ続ければ、

きっと

真本音の声は

聴こえる。

 

微かかもしれないが、

諦めずに

耳を澄まし続ければ

きっと

聴こえる。

 

たとえ声は

聴こえなくても、

 

何となく

の感覚が

浮上するだけかもしれない。

 

それでいい。

 

ほんの僅かでも

真本音の意思を

感じ取ることができれば、

 

それに

素直になってみよう。

 

それだけで

真本音とのつながりは、

 

少しずつ

強くなり、

太くなる。

 

あらゆることが

不可能な状況になっても、

 

それだけは

できるはずだ。

 

・・・・・・

 

私達は

誰もが皆、

 

真本音という大地

に立っている。

 

大地があるから

私達は

ここにいられる。

 

その大地を

感じ取ることだ。

 

大地を

感じ取れば

私達には

大いなる安心感と

ゆとりが生まれる。

 

それが

前に進む勇気と

エネルギーに

つながる。

 

自分のエネルギーを

高められるのは、

自分だ。

 

自分の人生を

進められるのも

自分だ。

 

自分がしっかり

する以外に、

 

一体何が

あると言うのだ。

 

つづく

 

自分を解放できるといいね

 

「無」の中に

入る。

 

しかし入って

わかるのは、

 

本当は

「無」などない、

という事実だ。

 

そこには

「すべて」がある。

 

だから

何も観えない。

 

一見すると

「無」のように

見えるだけ。

 

そしてその

「すべて」の中から

私達は

常に何かを

「選んで」いる。

 

私達が選んだ

その何かによって

「現実」は

創られる。

 

私達は

常にそうやって

「現実」を

生み出し続けている。

 

・・・・・・

 

生み出された「現実」を

目の当たりにすると、

 

それはまるで

「自分」とは別個の

存在のように

見える。

 

それが

自分の望むもので

あるならば、

私達は喜び、

 

辛いものであるならば、

私達は

避けよう、とか

逃げよう、とする。

 

いずれにしても

自分とは別個のものが

自分に対して

降りかかってくる。

 

と、

認識する。

 

だから「自分」は

常に、

被害者になったり

加害者になったり

する。

 

被害者も

加害者も

それはそれは

辛いものだ。

 

その辛さが

人生であると

私達は思い込みながらも、

 

自分とは別個の

存在である「現実」に

振り回されて行く。

 

結果として

「現実」に反応するだけ

反射するだけの

自分となって行く。

 

しかしそれはもう

「自分」ではない。

 

そこに

本来の「自分」は

ない。

 

・・・・・・

 

すべての「現実」とは

自分が生み出している

ものである。

 

ということを

受け入れることは

それ自体が

相当に辛いことだ。

 

到底、

受け入れられること

ではない。

 

「現実」と「自分」を

分離しているからこそ、

私達は何とか

ここに立てている。

 

と、

私達は思う。

 

誰かや何かの

せいにすることで、

自分のバランスを

何とか保っている。

 

しかしそのバランスは

ほんのちょっとの

強い刺激や作用に

よって、

 

すぐに

壊れる。

 

壊される。

 

それをまた

常に恐れながらも

私達は

生きる。

 

しかしそれが

本当に

「生きる」

ということだろうか。

 

・・・・・・

 

すべての「現実」とは

自分が生み出している

ものである。

 

という到底

受け入れがたいことを

 

本当の意味で

 

飲み込むことが

できたとしたら、

 

そこで私達は

初めて

何かから

解放される。

 

言いようのない

「自由」を

手に入れる。

 

「自分」を

手に入れる。

いや、

思い出す。

 

「自分」を思い出して

初めて、

 

私達は

自分の中(内在的世界)に

おける、

 

ある一つの「境界」

 

超えることができる。

 

その「境界」の

向こう側にあるものを

見出すことが

できる。

 

その向こう側に

あるのは

 

発想の宝庫

 

だ。

 

つまり、

私達には

 

「境界」を超えなければ

得られない発想が

あるのだ。

 

その発想を

「直観」

私は呼んでいる。

 

・・・・・・

 

すべての「現実」とは

自分が生み出している

ものである。

 

ということを

理屈で自分に

飲み込ませようとしても

それは土台、

無理なことだ。

 

しかもそれは決して

器の大きな人格者に

なる、

ということではない。

 

それはそういった

こととはまったく

別次元の話だ。

 

なぜならそれは

単に、

「思い出す」ということに

他ならないから。

 

「思い出す」

だけなので、

本当は、「思い出せ」れば、

誰もがそれを

何の抵抗もなく

受け入れられる。

 

というか、

受け入れるも何も

ない。

 

すべてが自分

なのだから。

 

その「思い出す」状態に

なるための

唯一の方法は

 

自らの

真本音度合いを

高めるしかない。

 

これが私の

結論だ。

 

残念ながら

これ以外の方法は

 

ない。

 

だから私は

どのような状況に

なろうとも、

 

昨日も今日も明日も

 

そのためのサポートを

粛々と

やり続けるのだ。

 

つづく

 

今こそさらに自由に

 

もっと自由に。

 

物理的な制約が

ある時ほど、

 

もっともっと

心を自由にすると

いい。

 

現実に縛られると、

私達はついつい

心をも自ら

縛る。

 

そして

自由を失う。

 

私達の住む世界は

外在的世界と

内在的世界の

二つがある。

 

外在的世界、

つまりは現実の世界

における不自由さと、

 

内在的世界、

つまりは心の中の世界

における不自由さを

わざわざ一致させる

必要はない。

 

もちろん、

外在的世界での現実は

大事にすべし。

 

それを拒絶しても

何の意味もない。

 

しかし私達の人生は

内在的世界と

外在的世界の

コラボである。

 

二つの世界を

不自由にしてしまう

のではなく、

 

内在的世界(心の中)は

常に

自由であるとよい。

 

そして

内在的世界の自由と

外在的世界の不自由を

コラボさせることで、

 

最善の一歩

 

を決めて行く。

 

それにより、

外在的世界に

一歩ずつ、一つずつ

道が開かれて行く。

 

・・・・・・

 

しかし、

「自由」という言葉を

使うと、

 

いつも誤解を

与えてしまうのも

確かだ。

 

多くの人が、

「自由」と聞けば、

 

反応本音レベルの自由

を思い描いてしまう。

 

しかし残念ながら

それは真の自由

ではない。

 

それは自由というよりも、

何か一つのその場の

気持ちに

執着しているだけ、

という状態だ。

 

むしろ執着とは

不自由の象徴だ。

 

真の自由とは

人生に対する真摯な

姿勢から

初めて生まれる。

 

真の内在的自由を

得るためには、

人生に対して

真摯であらねばならない。

 

だから今こそ、

人生をしっかりと

考えるといい。

 

これまで充分に

考え尽くしてきた、

と思う人も、

 

いや、

そういう人ほど。

 

もう一度、

ゼロから

自分の人生を

考え直すといい。

 

きっと

これまでにない発想

が生まれ、

さらに心の中、

つまりは内在的世界は

豊かに広がる。

 

それはつまり、

内在的世界の自由度が

増した

ということなんだよ。

 

つづく

 

地球の想いを受け取ろう

 

気がつくと

私は

空に浮かんでいた。

 

どうやら

自由自在に

動けるようだ。

 

しばらく

好きなように空を

飛び回り、

 

ちょっと飽きてくると

上昇を始めた。

 

眼下に見えていた

山や海や都市が

次第に

遠ざかって行く。

 

やがて

大気圏を超え、

地球全体が

見えてきた。

 

だいぶ

離れた。

 

私は宇宙空間にいて、

単なる一つの星

となった地球を

眺めた。

 

青く輝くその光は

美しかった。

 

まるで自分が

住んでいる星では

ないようだった。

 

その状態でようやく

私は

「地球」と

会話ができた。

 

それは

言葉のない会話

だった。

 

言葉にはしたくない

会話だった。

 

ただ私は

「地球」の想いと願いを

一身に受けることが

できた。

 

「場」には

魂が宿る。

 

それは長年

企業サポートの現場で

常に実感し続けていることだ。

 

組織とは

最初は単なる

「人の集まり」に

過ぎない。

 

10人の組織であれば

その10人の集積が

その組織だ。

最初は。

 

ただし、

ある時ある瞬間をもって

その組織そのものに

 

・・・それはあえて

「場」そのものに、

とも言える。・・・

 

魂が宿るのだ。

 

私の言語で表現すれば、

ある時ある瞬間に

 

「組織そのものに、

場そのものに、

真本音が宿る」

 

のだ。

 

それこそが

人の力であり、

場の力だ。

 

当然、

地球も同じだ。

 

地球には地球の

「場」としての真本音が

宿っている。

 

それを私は

感じ取った。

 

言語ではなく、

ただただ「あるがまま」に。

 

皆さんも

やってみるといい。

 

イメージをするだけでも

いい。

 

宇宙に出て

「地球」と

向き合うのだ。

 

そして「地球」の

「場」としての

真本音の想いを

感じ取ってみてほしい。

 

あなたのすべきことが

わかるはずだ。

 

私はいくつか

わかった。

 

だからそれを

することにする。

 

つづく

 

二つの現実の狭間で

 

何もない、

ということは

すべてがある、

というのと

同じことだ。

 

すべてがある、

ということは

何もない、

というのと

同じことだ。

 

すべてがあり、

何もない。

 

何もなく、

すべてがある。

 

・・・このような状態の

ままでいることは

私達が

「今ここ」に存在している

意味と価値を

失くすことだ。

 

私達は

 

「すべて」

 

の中から

 

「一つ」

 

を決める存在だ。

 

これが

私達のやること

だ。

 

一般的な言葉を

使えば、

 

「決断」

 

だ。

 

私達は

決断をする

存在だ。

 

自ら決断をしない、

ということは

その事実をもって

 

自分の人生を

生きていない

 

ということに

なる。

 

自分は今、

本当に

自分の決断を

しているのだろうか?

 

という問いは

人生への真摯さの

基本となる。

 

・・・・・・

 

私達は

 

二つの世界

 

を生きている。

 

一つは

心の外側の世界。

いわゆる

現実の世界。

外在的世界だ。

 

もう一つは

心の内側の世界。

内在的世界だ。

 

この境目にいるのが

我々人間だ。

 

現代社会に生きる

私達は特に、

外在的世界に

目を奪われがちだ。

 

ありとあらゆる情報が

入ってくる。

 

ありとあらゆる現実が

降ってくる。

 

その中で、

その情報達への

単なる反応として

決断をしてしまう。

 

しかしそれは

本来の決断ではない。

 

ただの

反応だ。

 

反射だ。

 

自分の人生を生きる

ことを望みながらも、

ただの

反応・反射のみで

人生の時間を

消費している。

 

本当の決断を

するためには、

 

外在的世界はもちろん

大事だが、

内在的世界にも

しっかりと意識を向ける

必要がある。

 

私達の心の中は

宇宙と同じだ。

 

外在的世界における

宇宙と同等の

宇宙が広がっている。

 

その宇宙では

今、いったい

何が起きているか?

 

これも一つの

現実だ。

 

外在的世界における

現実。

 

そして

内在的世界における

現実。

 

「現実と向き合う」

とは

この二つの現実と

向き合う、ということに

他ならない。

 

そして

二つの現実と

ちゃんと向き合えた

場合にのみ、

 

本当の自分の決断

 

ができるのだ。

 

・・・・・・

 

自分自身の

決断

から逃げてはならない。

 

決断を放棄する

のは

人生を放棄する

のと同じだ。

 

自分の人生だ。

 

特に今こそは、

反応・反射

をしている場合ではない。

 

二つの現実と

ちゃんと向き合い、

今ここで

一つ一つ

自らの決断をしながら

毎日を過ごしてほしい。

 

今のあなたには

あなただからこそ

すべきことが

あるはずだ。

 

つづく