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無心になる、
ということが
昔の私にはとても
難しかった。
無心になろうと
しても、
心の中が非常に
騒がしい。
いろんな心の声が
ずっと
心の中に
こだまし続けていた。
しかもそれが
当たり前の状態
だったので、
心を静かにする
とか
無心になる
ということが
どういったことか、が
まったくわかって
いなかった。
無心になったつもり
にはなれたが、
それは本当の
無心ではなかった。
・・・・・・
今の世の中、
そんな人が
とても多い。
残念なこと
だと思う。
無心になることで
観えてくるものや
気づく答えは
たくさんある。
本当は
自分自身の中に
答えがあるにも関わらず、
心の中が
騒がしいが故に
その答えが
わからないのだ。
当時の私は
無心になるために
随分と
瞑想をした。
瞑想のやり方を
勉強し、
それを毎朝
30分〜1時間くらい
必ず行なった。
そんな日々を
5〜6年続けた。
一日も
欠かさなかった。
でも残念ながら、
無心になったつもり
にしか
なれなかった。
それくらいに
私の心は
騒がしかった。
・・・・・・
心の中を
静かにし、
本当の意味での
無心になるためには、
真本音度合いを
高めるしかない。
真本音度合いを
高めるためには、
自分の本当の
人生の願いと、
「今ここ」における
自分の行動を、
一致させることだ。
一貫性。
願いとカタチを
一貫させること。
つまり
私達人間は、
瞑想するだけでは
ダメなんだ、と
あえて
断言しよう。
心を整えて
行動に移す。
行動に移せる
自分になれて
初めて、
心は静まって
いく。
行動のない
静けさは
ない。
もっと言えば、
行動の伴わない
心の平安は
絶対に
ないのだ。
だから、
自分の本当の願いに
基づいて
毎日、毎日
行動し続けている人と
向かい合うと、
私はいつも
居心地の良い
静けさを感じる。
とても
落ち着いてくる。
そういった人と
ずっと一緒にいたいなぁ
と思う。
だから、
私の推奨する
セルフコーチングとは、
行動に結びつける
もの。
行動が伴わない
セルフコーチングは
まったく
意味がないと
思っている。
・・・・・・
行動が伴って
初めて人は
無心
を手に入れる。
そして
無心になることで、
初めて
観えてくる答えが
ある。
それは、
自らの人生の願いに
直結する
ヒント達だ。
だから、
無心になれる人
は、
人生の願いをも
叶えることができる。
この世のすべての
人達が、
そうなれる社会を
目指して、
私は今日も明日も
魂を込めて
仕事を続けよう。
つづく
今、
あなたの心の中心に
「滝」
があるとする。
イメージを
してみてほしい。
その「滝」は
どのようなもの
だろうか?
水量は
どうだろうか?
落ちる水の
勢いは
どうだろうか?
高さは?
嶮しさは?
音は?
滝壺の様子は?
・・・どうだろうか。
次に今度は
その滝の中に
入り込んでみよう。
自分自身が
水と一体化しよう。
水となって
落ちて行くとき、
どのような感覚を
得るだろうか?
その水の
純度は?
濁り具合は?
スピードは?
落ち方は
スッキリしているか?
いろいろなものに
ぶつかりながら
淀みながら
落ちて行くのか?
落ちる時間は?
長く感じるか?
一瞬に感じるか?
滝壺に落ちた後は、
穏やかになるか?
それとも、
どんどん不安定に
なるか?
滝壺の水と
なった後に、
自然に湧いてくる
感情は?
エネルギーは
満ちてくる?
それとも、
奪われていく?
そして。
その滝そのもの
その自然そのもの
全体と
一つになった時、
あなたは
何を感じる?
・・・・・・
心の中心の「滝」を
体験した時、
自分にとってそれが
居心地の良いものか?
そうではないか?
・・・は、
今のあなたの「生き方」
をそのまま
表していている。
「生き方」に
正解、不正解、
はない。
ただ、
あなた自身にとって
それが
納得いっているかどうか?
あなた自身が
本当に望む生き方が
できているかどうか?
がある。
望む生き方が
できている人は、
本来の魅力が
溢れているだろう。
結果として
様々な「現実」が
開かれて行く。
その逆は、
やはり辛い日々と
なるだろう。
「滝」を体験した時、
ここの部分は
気持ちいいけど、
ここは気持ち悪い、
というように、
部分部分によって
印象が異なる場合は、
それは一体
何を意味しているのだろう?
と、
自己分析してみるといい。
例えば、
水と一体化すること自体は
気持ちいいけど、
落ち方が
気持ち悪い、とか。
なぜ気持ち悪いの
だろうか?
と
自分自身に問うて
みるといい。
そうか、
スピードが
緩すぎるんだな。
もっと私は
速く進みたいのだな、
・・・などのように
自分自身の
「意志」と「現実」という
視点から
自己分析してみると
いい。
「滝」を
イメージするのは、
客観的に自分自身を
捉えるため。
いつもとは
ちょっと違った視点で
自分と向き合うのも
セルフコーチングの
一つの形だ。
つづく
この世は、
形あるものはすべて
古くなって行く。
それぞれが
分離した
「形」
というもので
成り立っていること。
そして、
時間が
過去から未来へと
一方向にしか
流れないこと。
この二つが
私達がいる3次元の
世界における
特徴であるが、
その二つの特徴の
象徴とも言える
現象が、
「古くなる」
ということだ。
だからこれは
この世においては
とてつもなく
重要なことだ。
「古くなる」
こと自体に
大いなる価値がある
と
捉えた方がよい。
・・・・・・
ところが、
古くなることを
私達は
拒絶し過ぎていないか?
新しいままで
いることに
執着していないか?
日に日に
古くなっていく
という事実を
あるがままに
受け入れ、
だからこそ
何をしようか?
だからこそ
何を目指そうか?
だからこそ
どう行こうか?
などを
真摯に考えることこそが
私達にとっては
とても重要であると
思うよ。
・・・・・・
古くなることを
受け入れれば、
私達の心は
とても
静かになる。
静かな
自然な笑顔に
なれる瞬間が
増えるだろう。
どう生きるか?
とは
どう
古くなるか?
という
ことなんだよ。
つづく
全力疾走で
進む人ほど、
振り返る時間
を大事にすると
いい。
特にオススメは
一日の終わりに
日記をつけること。
自分自身の
心の内側で
起きたことと、
心の外側、
つまりは現実で
起きたこと、
その両方を
記録しておく。
最速で進んでいる
人ほど、
過去の自分を
忘れやすい。
下手をすると
昨日の自分を
忘れたりもする。
しかし、
最速で進んでいる
その一歩一歩には
宝物が
ぎっしりと詰まっている。
その宝物は
いずれ未来の自分が
活かすことのできる
ヒントになるかも
しれないし、
他者の成長に
活かせるかも
しれない。
自分の体験を
自分以外の人でも
再現するための
仕組み化の
ヒントになることも。
書く、
という行為は
セルフコーチングの
基本だ。
書くことで
自分の思考以上の
ものを
掘り起こすことが
できる。
セルフコーチング力を
高めるための
最も基本的かつ
地に足のついた方法
は、
書く
ことだ。
先ほども書いたが、
自分の内面と
外面、
両方を書く。
両方を書こうとする
ことで、
内面と外面の
つながり
がわかる。
両方を書くことで
内面と外面の
一貫性が
より高まる。
という
効果もある。
全力疾走する
人ほど、
必ず、
一日一日を
じっくりと
振り返ってほしい。
あなたのその
一日は
一歩は
宝物に溢れて
いるんだよ。
つづく
空は真っ暗なのに
なぜか
地上は明るい。
私は
砂漠のような場所に
立っている。
その砂漠の砂が
真っ白に
輝いている。
白砂の輝きと
漆黒の空。
何とも言えない
コントラストの中に
私は一人でいる。
なぜ
ここにいるのか?
ここで
何をすればいいのか?
さっぱり
わからない。
わからないときは
焦りも出るが、
ジタバタしても
しょうがないのも
よくわかる。
だから私は
まぁいいか、
と
白い砂の上に
仰向けに寝転んだ。
大の字になって
黒い空を
見つめる。
大地は
あたたかい。
・・・・・
静かだ。
音一つない。
何もせずに
寝転んでいると、
自分なのか
自分でないのかが、
よくわからなくなる。
存在そのものが
よくわからなくなる。
ふと。
すべての始まりは
ここだったのかな、
と
思った。
私は何度も
ここに戻り、
「始まり」を
思い出しては、
今いる
場所(世界)へ
戻っていく。
今いる場所が
冒険の地だと
するならば、
じゃあここは
帰る場所なのかな、
とも
思う。
・・・・・・
さらに
ふと、
思ったのだ。
私はこの砂の一粒
なのだな、
と。
たった一粒の
この小さな砂は、
同時に
この世界そのものでも
ある。
一粒の砂に
すべては内包され、
一粒の砂は
すべての一部と
なる。
一部であり
全体である。
これが
真理。
これを忘れた時、
私達は
すべてを失う方向に
進んで行くのだろう。
すべてを
失うか?
すべてを
育てるか?
その境目に
今の私達は
あるのだろう。
・・・・・・
うむ。
もういいかな。
・・・と、
私は立ち上がる。
帰ってきて
よかったな、と
思う。
さて、
冒険に戻ると
するか。
どんな冒険を
するにしても、
大事なことを
忘れずに、
帰る場所を
忘れずに、
進みたい
ものだ。
帰る場所が
あるからこそ、
私達は
大冒険が
できるんだ。
つづく
人には
無限の可能性が
ある。
・・・と
安易に言わないで
ほしいな。
それを言うなら、
もっともっと
自分自身のことを
知ってほしい。
理解して
ほしい。
少なくとも
自分自身と
向き合ってほしい。
人と
向き合い続けて
ほしい。
それをせずに
「人には無限の
可能性があるのだから」
と言うのは、
あまりに
無責任では
ないだろうか?
もちろん
無限の可能性は
あると思うよ。
でも、
その前に
あなた自身の
苦しみを、
あなたは本当に
わかっているの
だろうか?
あなた自身が
自分の可能性を
縛り続けている
という事実に
あなたは
気づいているだろうか?
自分の苦しみに
気づかない
ということは、
現実と
向き合っていない
ということでも
ある。
現実と
向き合わない人に
無限の可能性は
発揮されるのだろうか?
人は
深いよ。
本当に
深い。
人のことを
自分のことを
理解すればするほど
わからなく
なる。
自分を探求すれば
するほど、
より
わからないことが
増えてくる。
だから
本当に現実と、自分に
向き合っている人からは
傲慢な気持ちは
抜けていく。
自分のことは
自分が一番よく
わかっている。
とか、
あなたのことは
私が一番よく
わかっている。
とか、
そんな傲慢なことは
言えなくなるよ。
人には
永遠の深さが
あるからね。
その深さは
畏れをも
伴うものだ。
だから
本当に自分と
向き合うことは
怖いだろう。
でもその怖さを
乗り越えて
真摯に自分を、
そして人を、
見つめる人こそが
初めて
少しずつ
人間の持つ可能性の
凄さを
実感し始めるのでは
ないだろうか。
だから、
軽々しく
喋るな。
喋っている時間が
あれば、
本当にすべきことに
集中したら
どうだろうか。
あなたの動きを、
真摯な動きを、
待っている人は
たくさん
いるのだから。
つづく
もし、
心の中のエネルギーが
すべて
奪われてしまったな、
と思ったら、
それは
新たな自分を
発見できるチャンスだ。
エネルギーが
ゼロ。
生きること自体の
気力が
湧かない。
もしそこまで
行ってしまったら、
大チャンスだ
と
思えばいい。
とはいえそれは、
無理に前向きに
捉えなさい
という話ではない。
無理は
必要ない。
ただ、
大チャンスだという
認識だけ
すればいい。
あとは
待つだけ。
エネルギーが
ゼロだから、
毎日は本当に
辛いだろうが、
ただ、
その時を
待とう。
大事なのは、
ここできちんと
待てるかどうか、
だ。
残念ながら
ここで何割かの人は
待てなくなる。
エネルギーのない
自分を自分で
責めたり、
無理に
エネルギーを高める
ことをしてしまう。
それにより、
自分の真本音の道
から
外れてしまう人を
私は何人か
見てきた。
辛いことは
辛いままでいい。
今の自分の
ままでいい。
ただ、
待つこと。
たとえ
エネルギーがゼロ
だとしても、
目の前の
一つ一つの日常に
しっかりと
向かうこと。
辛いままで
向かうこと。
マイナス思考の
ままでいいから
現実と向き合うこと。
あとは
待つこと。
これを
やり切ろう。
そして
次の段階へ
進もう。
つづく
樹が
燃えている。
青い炎で
燃えている。
樹は
何かを叫んで
いるようだ。
訴えて
いるようだ。
それに耳を
傾けてみる。
それは、
呻くような声。
「私を
ここから
出してくれ」
苦しみを伴って
伝わってくる。
どうすれば
いい?
私に何が
できる?
そう問うが、
樹はそれには
答えず、
ただ
「出してくれ」
を繰り返す。
私は
樹の周りを
観察した。
幹の表面が
青く燃えている
のだが、
ただ燃えている
だけで、
樹そのものには
何の変化もない。
そこで
気づいた。
その樹は
樹ではない。
樹だと思ったのは
私の解釈に
過ぎない。
これは一種の
牢屋のような
もの。
この樹の形のような
牢屋に
何かが
閉じ込められている
のだと。
私は
私のエネルギーを
思いっきり
樹にぶつけた。
眩い黄色の
光となって
爆発が起こる。
樹に
穴が空いた
ようだ。
穴の中に
私は入って行く。
中は
何もない、
ように見える。
しかし注意深く
探索する。
すると、
何かが逃げようと
していた。
とても小さな
何か、だ。
私は急いで
それを追い、
手で
捕まえた。
小指の先ほどの
小さな小さな
もの。
それは
怯えているように
感じた。
その小さなものに
語りかける。
君は
何だ?
その小さなもの
は、
自信なさげに
消え入りそうな声で
答えた。
「私は、ヒントです」
ヒント?
「はい。
この人が
本来の自分に戻る
ためのヒントです」
じゃあなぜ
こんなにも小さく、
しかも
逃げようとする?
「この人が
本来の自分に戻る
意思がないからです」
この牢屋
みたいなのは?
「これもこの人の
意思です。
私を閉じ込めて、
ちゃんと自分の
手元に置いておこうと
する。
でも、私を見ようとは
しない。
私は弱っていきます。
もうこんなにも
小さい。
私は消えそうです。
私が消えたら、もう、
この人は
本来の自分には
戻れないでしょう」
なるほど。
そういうことか。
私は
私の意識を
「現実」
に戻した。
私の目の前には
「ヒント」君が呼んでいた
「この人」
がいる。
私のクライアントさん
だ。
「この人」は
現時点では
本来の自分に戻る
意思はないようだ。
「ヒント」君ももう
消えてしまう。
さぁどうしようか?
何とか
しなければ。
・・・最近、
この手のコーチングが
多過ぎる。
つづく
組織にも
真本音は発生する。
それはまさしく
「発生」だ。
個人であれば、
真本音は
生まれた時から
存在している。
しかし組織の場合は
そうではない。
組織を構成する
人達が、
組織に魂を
宿すのだ。
すると
変な言い方だが、
人から組織が
自立する。
ある瞬間から
組織そのものに
魂の意思や願いが
芽生える。
それが
組織の真本音
だ。
・・・・・・
組織のサポートを
させていただいていると、
あっ、もうすぐこの組織に
真本音が生まれるな。
・・・というのが
ありありとわかる。
その時の空気感は
独特のものだ。
ただし、そこで
本当に無事に
真本音が生まれるか
どうかは、
わからない。
生まれそうで
生まれない
という組織も多い。
そこには
大きな段差が
あり、
いわゆる
組織としての脱皮
が必要だ。
実は私は
そのサポートを
させていただくのが
一番楽しい。
まるで生命が
生まれる瞬間のような
感動を
得られるからだ。
・・・・・・
組織が真本音を
持つと、
組織はその真本音に
基づいて
成長(進化)しようと
し始める。
経営者がどのような
意思を持つか
とはまた別次元で、
組織が組織の
意思と願いを
持つのだ。
その組織は、
自らの社会的使命、
社会的役割を
果たそうとし始める。
それをちゃんと
キャッチできるかどうか?
が、
その組織が
持続的な成長を
続けられるかどうかの
境目となる。
ところが。
組織自身のその
真本音と、
組織を構成する
経営者や社員さん達の
意思に、
ギャップが生まれる
ケースも多い。
多くの場合は、
組織そのものが
望む進化のスピードに、
経営者や社員さん達が
ついて行けなく
なるのだ。
組織の進化に
人の進化が
追いついて行けない、
ということ。
その歪みによって
ストレスを抱えて
しまっている組織も
多い。
しかし逆に、
組織そのものの真本音
と、
経営者や社員さん達の
真本音が、
見事に調和、融合
している組織も
ある。
こういった組織は、
皆が
幸せだ。
社員さん達は
自らが主役となっている。
自らの人生を
良くすることと、
組織の成長や
働きがいが
一致してくるのだ。
あまり年齢で
区別をつけるのは
好きではないが、
でもやはり傾向として、
若い人達の会社に
そういった会社は
増えている気がする。
そんな会社が
増えるのは、
それ自体が
社会貢献だなと
私は思う。
・・・・・・
組織は
創業者のもの、
ではない。
経営者のもの、
でもない。
組織は
組織である。
社会に生まれた
一つの「存在」
である。
意思や願いを持つ
「存在」
である。
と、
最近私は強く
感じるようになった。
皆で
ここに「存在」している
組織を
大切に育む。
まるで、
子育てのように。
一人一人が
自らが所属している組織に
そんな愛着を
自然に
持てるようになるといいな、
と
強く思うね。
つづく
真の発想は
すべての発想を
出し切った後に
初めて
現れる。
これ以上、
もう発想は
出ません。
・・・と
あきらめたところ
からが、
真の発想を掘り起こす
スタートだ。
自分自身が
空っぽに
なってしまった後、
空虚に
なってしまった後、
無力感を
本当に感じてしまった
その後に、
真の発想は
浮上し始める。
だから、
変な言い方だが、
あきらめるところ
まで
あきらめずに
がんばろう。
もちろん
あきらめたふり
ではダメだ。
本気で
もうダメ、と
あきらめないと
いけない。
そこまで
徹底的に
考えるんだ。
徹底的にね。
・・・・・・
ちなみに、
こういった
徹底的な発想を
繰り返すと、
ある力を
手に入れられる。
それは、
意図的に
そして瞬時に、
真の発想を
掘り起こすことの
できる力だ。
一言で言えば、
直観力。
単なる思いつきレベル
のひらめきではなく、
100%の確信を
もたらしてくれる
直観力だ。
私の推奨する
セルフコーチングとは、
この力を
発揮できるようにすることが、
一つの目的だ。
しかしそのためには、
最初の段階として、
あきらめるところまで
あきらめずに
考え抜く、
ということを
がんばってやって
ほしいんだ。
ちなみに、
経営者の多くは、
会社経営を通じて
もう、
常にこれをやり続けている。
だからこそ、
私がセルフコーチングの
手法をお伝えすると、
あっという間に
真の答えを掘り起こす
力が漲る。
やっぱり、
現実と向き合い
続けている人は、
底力が違うね。
つづく
自信とは、
経験を積むことで
生まれるものだろう。
しかし私の場合、
どれだけ経験を
積んでも、
いまだに
本当の意味で
自信を持ったことは
一度もないのでは
ないか。
過信は
何度もあるが。(苦笑)
いつまで経っても
なんでこんなに
自信がないのだろう?
と
不思議に思う。
でも今は、
これが私の個性
なのだと
思っている。
そう。
自信を持てるか
どうかは、
その人の個性
だと思うのだ。
・・・・・・
恐らく
私の場合は、
自信を持たない
方が、
最大速で進める、
と
私自身が真本音で
わかっているの
だろう。
最大速で
進むために
自信を持たない。
そう
決めているの
だろうな。
かと言って
謙虚なわけでも
ない。
自信がない
のと
謙虚である
のとは
私の場合、だいぶ
違う。
謙虚であるか
どうか?は
時と場合だ。
しかし
自信がないのは
永遠に、
なのだ。
私の場合。
・・・・・・
これまで、
自信がないことで
随分と
助かってきた。
自信があるか
ないか?
という判断基準を
手放すことができた
からだ。
この判断基準で
物事を進めていたと
したら、
私のようなヘナチョコ人間は
一歩も人生を
進ませることは
できなかっただろう。
むしろ、
この判断基準を
手放したことで、
私は常に
自信の持てない方に
人生の舵を
切り続けていたような
気もする。
だから、
自信があることをして、
自身のないことは
しない、
というのが、
今の私にはよくわからない。
昔はそんな時期も
あったけど。
・・・・・・
自信をつける
必要のない人生は、
楽だ。
自信があるかどうか?
という
判断基準の要らない
人生は、
本当に楽。
自分の
願いにだけ
意識を向ければいい。
もしくは、
自分の直観に
素直になればいい。
いつも自信がない、
という状態にも
すぐに慣れるし。
だから
自信を理由に
止まっている人を
見ると、
ちょっと勿体無いなぁ、
と
よく思う。
きっと私は
自信を持ってしまったら、
その場所に
安住してしまうのだろうな、
という気もする。
そう思うと、
自信を持てない自分で
よかったなぁ、と
いつも思うんだ。
つづく
一度、
無になると
いい。
「無」
と言っても
実際には
「無」というものは
ない。
「無」とは
人間が生み出した
解釈の一つ
でしかない。
それはともかく、
「無」に
なるといい。
「無」のイメージの
中に
自分を埋没させる
という意味だ。
私が時々
やるのは、
青空の中に
浮いている自分を
イメージすることだ。
青空の
真っ只中。
すべてが
青い世界で
何もない。
その中に
埋没していると、
自分の体も
その青空に溶けて
しまい、
「自分」が
なくなっていく。
青空と自分の
境界が
わからなくなって
いく。
そのままの
状態で
しばらくいる。
たった
それだけの
ことだ。
夜、布団の中で
これをやると、
そのまま静かに
眠りにつくことも
できる。
私達の体は
事実として
ここにあるが、
「私」という境界は
私達自身が
勝手に決めている
解釈でしかない。
その境界を
取り払うことで
初めて浮上する
発想もある。
もちろんその発想は
もともと自分自身の
中に存在していた
ものだ。
しかし、
「私」という解釈による
境界が、
枠が、
その発想に蓋を
していたのだ。
境界をなくさないと
出ない発想が
私達には
とてつもなく多い。
さて。
改めて
言うが、
一度、
無になってみると
いい。
自分を縛っていた
自分自身の
こだわりが、
わかるかもよ。
つづく
自分に翼が
生えたのなら、
飛べばいい。
飛ぶのが
恐ければ、
最初は
ジャンプでも
いいじゃないか。
地面にばかり
いた
これまでの経験を
ちょっとずつでも
よいから
超えて行く必要が
今のあなたには
あるのでは
ないか。
今のあなたが
望むことでは
ないか。
自分の望みは
自分が
叶えてあげる。
これが
人生の基本だ。
これを
放棄するところから
人の苦悩は
始まる。
もちろん、
思った通りに
行かないことや、
理想通りに
進まないこと
ばかりだ。
それがわかって
いても、
あえて
ジャンプしてみる
のが、
今
ではないか。
今、
ジャンプするか
どうかで、
今後の人生の
流れが
決まるよ。
それを一番よく
わかっているのが
あなた自身だな。
翼を
感じるのだろ?
未熟な翼
だとしても、
それは
翼なんだろ?
飛ぶための
力なんだろ?
なら、
やっちゃえよ。
つづく
次の一歩を
決めようとする、
あなたのその
心は
静かかな?
心の中心に
魂が
存在しているとして、
あなたの
その魂は
静かかな?
心と魂が
静かな時に
重要な一歩は
決めた方が
いい。
ギャンギャンと
うるさい時に
決めてしまえば、
恐らく
ほぼ間違いなく
後悔する。
人生に
どれが正しいか?
という
解答はない。
でも、
どうせ自分が
答えを出すので
あれば、
後悔のない
答えが
いいよな。
心の中が
騒がしい時の
決断は、
後悔を生む。
静かな
時に
決断
しよう。
もし、
心が静かに
ならないのであれば、
今のあなたの
生き方は、
どこか
間違っている。
「間違っている」
と言っても
正解があるわけでは
ない。
でも
あなた自身が
「間違っている」
と
自己評価しているから
こそ、
心は
騒がしくなるんだよ。
せめて、
自分で自分を
本当に
祝福できるような
生き方を
しよう。
やっぱ
生き方だよな、
と
よく思う。
自分の生き方が
すべてに
反映される。
望む現実が
手に入って
いないのであれば、
生き方を
変えよう。
そのための
まず第一歩は、
静かな決断
だよ。
つづく
自分にできる
範疇の中でのみ
生きていたら、
人生は
進まない。
進化とは
冒険である。
人間の本質とは
進化である。
だから人は
冒険を求める。
もちろん
私達には安全欲求
がある。
安心したいし、
安全でいたいし、
安定していたい。
しかし
本当の安定を
手に入れると、
刺激が
欲しくなる。
それが
健康的な人間の
業だ。
私のクライアントさんで
とても力を持った
コーチがいる。
3年ほど前に
出会った頃は
収入がほとんどなく、
来月からどのように
生活していこうか?と
彼は悩んでいた。
ところが今は、
出会う人ほぼすべてから
信頼され、
お客様が
増え続け、
一度、お客様になれば
皆が「ファン」になり、
リピートが続き、
しかも
コーチとしての能力も
直観力も
研ぎ澄まされ、
短時間で仕事に
対応し、
収入も凄いが、
時間もたっぷり
あり、
人生そのものを
謳歌している、
・・・という状態に
なれた。
この状態は
これからも拡大し、
何をどうすれば、
お客様に喜んで
いただき、
どうすれば
自分がさらに
成長でき、
どうすれば
これまで以上に
人生を謳歌できるか?
それらがすべて
わかるように
なりました、
と彼は
目を輝かせた。
言ってみれば、
質も量も
人生の成功者と
言えるだろう。
自分の望む人生を
手に入れた
のだから。
ところが・・・。
「僕は、
このまま成長を続ける
人生では
満足できません。」
と、
前回のコーチングで
彼は言った。
逆に私は
彼に言ったものだ。
このままの流れで
行けば、
さらに成長も進化も
できるんだよ。
幸せな人生
だよ。
調和の人生
だよ。
このまま
行っても、恐らく
世界中の多くの人達が
喜んでくださるビジネスが
展開できるし、
今以上に
日々の充実感が
増すんだよ。
・・・と。
ところが彼は
「いえ、
やはり、このままの流れの
成長では
満足できません。」
・・・と。
一般的な意味での
真本音100%の人生を
彼は
手に入れたし、
真本音の願いを
実現できる人生の流れにも
入った。
にも関わらず、
さらに彼は
「逸脱」
したいのだ。
それを見て、
あぁこれが
人間なのだな、
と改めて私は
感嘆した。
じゃあ、私も
あなたへのサポートの
仕方の次元を
変えなければならない。
これまでとは違った
質の
コーチングに入るよ。
と私は
彼に伝えた。
その瞬間からもう
彼の内側から
これまでとは違った質の
エネルギーの波が
放たれ始めた。
彼は言った。
「恐らくここからの
私の人生は、
五里霧中です。
何をどうやればいいのか、
今は全くわかりません。」
と。
「五里霧中」。
これが
彼の選んだ道だ。
真本音の道はもう
観えているのに、
さらに
もっと先の次元の
道を行こうとする。
するとまったく
何もわからなくなる。
それはそれは
不安である。
でも、
彼はその道を
望むのだ。
こういう人を
私は
『変態』
と呼んでいる。
真本音の道にも
二つある。
「普通の真本音の道」
と
「変態的な真本音の道」
だ。
後者の道に
入る人が、
一人、
また一人、
と
今はまだほんの
数えるほどだが、
増えてきた。
面白い。
実は、
私の魂が最も
震える瞬間であり、
私自身の
コーチング力は
こういった人のためにこそ
活用されるべきではないか、
と
最近は
思い始めている。
面白い。
とても
面白くなってきた。
今後の世の中の
展開そのものも、
これから
こういった「変態達」によって
とても面白いものに
なるのだろう。
つづく
人生に
混乱はつきものだ。
混乱には
二つある。
不調和による
混乱と、
調和による
混乱だ。
調和による混乱は
必要不可欠な
もの。
それがあるからこそ、
その後に
より次元の高い
調和が実現される。
ただ、
不調和による混乱
だろうと、
調和による混乱
だろうと、
対し方は
同じだ。
混乱をしっかりと
見つめること。
混乱としっかり
向き合うこと。
そして、
混乱を楽しもうと
することだ。
・・・・・・
「楽しもう」
という言い方を
すると、
「前向きな生き方」
が必要なのだな、
という印象を
持つかもしれない。
しかし実は
そうではない。
ちょっと語弊があると
いけないのだが、
私は、
・前向きか
・後ろ向きか
という視点は
ほとんど意味がない
と思っている。
どっちでもいい
と思っている。
人間なのだから、
前向きになる時も
あれば、
後ろ向きな時も
ある。
いや、
正確に言えば、
どんな事象を前にしても、
私達の心の中には、
・前向きな心
も
・後ろ向きな心
も
両方発生する。
「両方発生」するのだがら、
どっちでもいいじゃないか、
と思うのだ。
乱暴に言えば。
だから
さらに乱暴に言えば、
「私はどんな時も
物事を前向きに
捉えます!」
とか
「前向きであることが
一番です!」
という言葉を
聴くと、
不自然さを感じて
しまう。
そんなに無理をしなくても
いいじゃないか、
と
思うことが多い。
前向きな心の
裏には、
間違いなく
後ろ向きな心が
存在している。
前か
後ろか
の違いに過ぎない。
だいぶ乱暴な言い方
だけどね。
そしてここが大事だが、
本来の生き方とは、
前向きと
後ろ向きを
超えたところにこそ
存在する。
それが
真本音の生き方
であり、
私達の真本音とは
前向きも
後ろ向きも
超えた次元に
存在している。
・・・・・・
「楽しもう」
という言葉の
本来の意味は、
「味わおう」
に似ている。
つまりは
「あるがままに
感じよう」
ということだ。
これができると
私達の心には
エネルギーが
発生する。
「あるがままに感じる」
とは、
「現実を大事にする」
のと
イコールだ。
これができることで
私達の心のエネルギーは
高まるように
できている。
それが
人間の心だ。
・・・・・・
というわけで、
混乱から
逃げてはいけない。
逃げたい気持ちは
あってもいいし、
後ろ向きな気持ちは
どれだけ膨らんでも
一向に構わない。
でも
逃げてはならない。
しっかりと
あるがままに
味わおう。
すると、
心は楽になる。
そして、
不調和による
混乱だろうと、
調和による
混乱だろうと、
その向こうに
必ず
新たな調和が
始まるんだよ。
つづく
人には
願いがある。
その願いが
強ければ強いほど、
それを
遮るものも
強くなる。
遮るものを
取り除くためには、
遮るものを
あるがままに
見つめなければ
ならない。
それができて
初めて、
願いに向かう
自分
としての
覚悟ができる。
願いに
向かってもいいよ
・・・と
自分に対して
OKが出る。
願いとは、
それだけを
見れば、
気持ちの良い
ものだ。
願いを語ったり、
理念を語ったり、
それらは
気持ちの良い
行為だ。
しかし、
本当にその願いや
理念に向かうには
尋常ではない
覚悟が
必要だ。
生きる覚悟。
それは、
自分自身と
向き合う覚悟でも
ある。
気持ちの良い
部分のみを見つめ、
気持ちの良い
部分のみを認める
のでは、
何も
進まない。
それが
人生というものだ。
しかし
だからと言って
悲観する
ことはない。
そういった
プロセスも含め
すべて
私達は
一つ一つ
一歩一歩
何をすれば良いか?
を
知っている。
自分自身の
真本音が
すべてを
知っている。
だから
その通りに
行けばいい。
覚悟とは
結果だ。
真本音で
進むことにより
自然に育まれる
結果だ。
つづく
「自分」と「世界」との
境界をなくして
じっとしていると、
様々なことを
感じることができる。
いや。
「感じる」
というのは実は
正確ではない。
私達は常日頃、
脳を使って
生きている。
言い換えれば
五感を使って
生きている。
しかし、
「自分」と「世界」の
境界をなくしてしまえば、
五感からも
解放される。
すると、
脳というフィルターを
介することで
わからなかったことが
途端に
わかってくる。
そこで感じ取る
あらゆるものを
私は
『実在』
と表現している。
本当は
すべての人は
常に「実在」を感じながら、
(正確には「感じながら」
ではないのだが、
それ以外の適切な言葉が
ないので、
便宜上、この表現でいく)
それに
影響されながら
自分の行動を
決めている。
五感で得るものと、
五感以外の実在で
得るもの、
その両方によって
人生を
左右されている。
しかし普段は
五感しか
把握できない。
その「狭さ」が
生きづらさを
生み出している。
本当は
感じ取っているはずの
実在を、
ちゃんと一つ一つ
自覚しながら
生きていけたら、
どんなにか
楽か。
私の推奨する
セルフコーチングの
コンセプトの一つは
ここにある。
すでに
実在として感じ取っている
ものを、
自覚する方法が
セルフコーチングである
と
言える。
私はよく、
コーチングセッションの最中や
普段の会話の途中で、
少し時間をいただいて
静かに目を瞑る、
ということをさせていただく。
私と関わっている人であれば、
それは日常的な光景
だろう。
あれは、
私がすでに感じ取っている
実在を
自覚するためにしている。
セルフコーチングを
しているわけだ。
そして、
目を開けた直後、
私はいつも確信的に
ものを言っていると思う。
まったく迷いのない
言葉が
自然に出てくる。
実在を感じ取ることで
ある意味
「すべてがわかる」
状態となれるからだ。
「すべてがわかる」
という言葉だけを見ると、
かなり傲慢だが、
そうではなく、
むしろ、
今この瞬間に
私達が自覚すべき発想が
何か?
を、
謙虚にあるがままに
受け止めることができた
証だ。
私達には
今、ここで、
自覚しなければならない
発想がある。
それが
次の行動を決める。
この当たり前のことを
しっかり丁寧にすることで、
人生も現実も
すべてが調和する。
そんなことを
すべての人ができるように
なるといいな、
というのが
私の願いだ。
つづく
「待つ」
ことができると、
人生は
劇的に調和する。
「待つ」
とは言い換えれば、
「何もしない」
ということでもある。
何をするか?
よりも
何をしないか?
空白の時間を
いかに創るか?
これにより
空白でない時間が
すべて
調和する。
・・・・・・
たけうちさんと
関わるようになってから
随分と
無口になりましたよ。
・・・と
よく言われる。
確かに、
皆、
あまり喋らなくなっていく。
ビジネスパートナーの
人達と
一緒に電車で移動したり
する時も、
ほぼ、無口のままで
いることが多い。
喋る必要が
ないからだ。
喋らなくても
安心
だからだ。
だからよく、
沈黙の時間が
怖くなくなりました。
とも言われる。
人は、
何もしない時間
沈黙の時間
が
ちょっと怖いようだ。
もちろん私も
昔は怖かった。
沈黙が来ると
ソワソワした。
でも今は、
その時間こそが
人生を決める
と
思っている。
・・・・・・
決断力のない人の
多くは、
何をしないか?
を決められて
いない。
これがわかれば
逆に、
何をするか?
も明確になる。
私が真本音発想を
する時も、
まず自分に問うのは、
何をしないか?
である。
コーチングセッション
だけでなく、
人と会う時、
私は
「発しない言葉」
を
とても大事にしている。
頭の中に浮かぶ
様々な言葉達を、
その9割以上を
私は
捨てている。
発しない言葉達を
しっかりと
決めることで、
最後には、
「本当に発すべき言葉」
が残る。
それのみを私は
常に人に伝える
ことにしている。
冗談のような
余分な話も含めて、
だ。
これができると
あらゆるものが
調和を始める。
人間関係が
劇的に
心地良いものに
なって行く。
・・・・・・
このブログも
そうなのだが、
9割以上の言葉達を
私はいつも
捨てている。
書きたいこと、
説明したいことは
たくさん
出て来るのだが、
そのほとんどを
捨てている。
その判断は
頭では
していない。
心で
している。
真本音で
しているんだ。
つづく
込み上げて
来るものを、
静かに
今は
受け取ろう。
そのエネルギーの
高さに
呑まれることなく、
静かに
それを
受け取ろう。
それは
今ここで
発散するための
力ではない。
あなたの中心に
これから
ずっと
抱き続けるものだ。
それは今はまだ、
言葉にはならない
ものかもしれない。
しかし
あなたがそれを
大切にする限り、
それは
育まれ続ける。
その結果として、
最も必然的なタイミングに
明確な意志(意思)として
あなたの
顕在している心に
急浮上
するだろう。
そしてそれは
すぐに
言葉というカタチとなり、
あなたの
周りの人達、
周りの世界に、
瞬時にして
伝播するだろう。
その時まで
大事に
そこに抱き続けよう。
それが
真の「願い」
というやつさ。
つづく
私の周りには、
子どものような人が
多い。
いや。
その言い方は
語弊があるな。
子どものような
純粋さを持った人が
多い。
・・・だな。
彼らは
未来を語るときに、
実に
キラキラした目で
語る。
未来がはっきりと
観えている
わけではない。
むしろ
暗中模索の人が
多いのだが、
しかしそうであっても
未来に向かう
眼差しは、
実に清々しい。
「未来の自分」
とすでに
つながっているのだ。
・・・・・・
私達の高い次元の
意識では、
「時間」は
分離していない。
過去も今も未来も
「一つ」
である。
「すべて」が
ここにある。
真本音度合いが
高まることで、
自らのそんな意識を
常に感じ取れるように
なる。
この世で生きている
私達の意識は
もちろん、
すべてと「分離」
している。
あなたと私は
別物だし、
目の前のパソコンと
私も別物だ。
空気と私も
別物だし、
自動車と私も
別物。
時間と私も
別物だ。
それが通常の
私達の意識であるが、
それとはまた
別のところで
「すべてと一つ」である
自分自身の意識が
ある。
それがいわゆる
高い次元の意識
なのだが、
そんな自分を
常に実感しながら、
分離している意識と
共に
生きるようになる。
それが
真本音度合いの高い
生き方である。
つまりは、
「すべてと一つの自分」
と
「すべてと分離した自分」
の
コラボである。
このコラボが
本当に面白い。
人生の醍醐味とは
ここにあるのでは
ないか。
・・・・・・
だから、
未来が観えなくとも
未来と一つである
自分が
ここにいる。
自分が未来で
創り出す現実は
具体的にはわからなくとも
でも、
未来のことは
よくわかっている。
自分が
何をすべきか?も
わからないのに、
よくわかっている。
わからないのに
よくわかっている
自分として、
今、ここで
未来に思いを馳せる。
そんな時
人は、
子どものような
純粋な瞳と表情に
なるのだろう。
・・・・・・
私にも
かなり壮大なビジョンが
ある。
現時点では
本当にそれが
成されるのか
さっぱりわからない。
具体的に
どうすればいいのか、
どんな状態を
創り出せばよいのか、
わずかしか
観えていない。
しかしそれでも、
「それができる」
ことは
確信、・・・というよりも
宇宙の真理くらいに
「当たり前」だと
思っているし、
今、私の周りにいる
人達は、
そんな私のビジョンに
直結する人達ばかりだ、
というのも
よくわかる。
そして
その輪はこれからさらに
加速的に
広がっていく
のもわかる。
わかってないけど、
よくわかる。
今ここに生きる
自分として、
ここからの一歩一歩を
これまで以上に
楽しみながら
進もうと思う。
つづく
流れが
観えるだろうか?
自分の
人生の流れだ。
行き先は
明確に
わからなくとも、
この流れに
素直に
そのままに
乗ればいいのだ、
と。
本当は
すべての人に
その、
流れはある。
最初から
存在している。
それを
観れるようになる
までが
人生の第1ステージ
だ。
流れが観えたら
それに
乗る。
そこからが
人生の第2ステージ
だ。
・・・・・・
一度、流れに乗ると、
それまでの人生が
実は
「止まっていたのだ」
ということに
気づき、
驚きを隠せないだろう。
しかしそれは
本当は
止まっていたのでは
ない。
「準備を整えていた」
のだ。
準備は
大事だ。
それが
第2ステージの
「根」
になる。
「根」がなければ
樹は育たない。
花も咲かない。
しっかりと
「根」を
整えよう。
・・・・・・
しかし時には、
せっかく、ほぼ
「根」が整ったのに、
もうあと一歩で
第2ステージに
入れるのに、
その「根」が
根底から覆される
こともある。
それはそれは
「大」が10個くらいつく
ショックだ。
そんな時は大抵の場合、
人として
人の心として
耐えられる限界を
越えてしまうこともある。
悲しみや
怒りや
絶望や
空虚感が
襲ってくるだろう。
残念ながらそれは、
簡単には消えない
ダメージだ。
しかしそれでも
私達は、
私達人間は、
前に進まねば
ならない。
それが
「人間」だから。
・・・・・・
良い意味で
書くが、
「人間」として
生まれてきたことを
潔く
諦めよう。
私達は
「進む」存在
なのだ。
第1ステージの
終わりに、
根底からすべてが
覆ったとしても、
それでもそれは
スタート地点に
戻ったことには
ならない。
その痛い経験も
含めて、
進んでいるんだ。
現実的には「一からやり直す」
ことは当然
必要だが、
それはすぐに
挽回できる。
いや、むしろ、
その経験は
第2ステージの
スピードと安定感を
何倍にも
増すことにつながる
だろう。
・・・・・・
どれだけ
傷ついても
それでも
進もうとする人を
私はずっと
応援し続けたい。
私自身が
そうだし。
私は私を
応援したいし、
真剣に進む皆を
応援したい。
もうすぐ、
第2ステージだ。
つづく
今日、
ある若い企業と
出会った。
社員の平均年齢は
20代前半
と言う。
今日はお二人と
お話しさせていただいたが、
その内のお一人は
今日が24歳の誕生日で、
「私が社員の平均年齢を
押し上げてます」
・・・だと。笑
私は
「若さ」とは
「成長意欲」であると
考えているが、
彼らは年齢も
さることながら、
成長意欲も素晴らしく、
一緒にいて
実に清々しかった。
立ち上がって
まだ4〜5年の会社
らしいが、
すでにもうメディアなどにも
取り上げられ、
お客様からの
信頼も厚く、
何よりも
「確信」を持った
お仕事をされているのが
伝わってきた。
これから彼らとは、
共に歩ませていただく
ことになりそうだが、
このタイミングでの
この出会いに
私は素直に
感謝した。
・・・・・・
今日、彼らとの
引き合わせを
してくれた
私のビジネスパートナーも
20代だ。
気がつけば、
私は、
20代の若者達と
共に真剣に未来を
考える時間が
とても増えた。
今後も
この流れはさらに
加速する。
ちなみに私の
精神年齢は
27歳で止まっている。笑
彼らと一緒にいても
私としては
丸っきり彼らに
溶け込んでいるのだが、
彼らは
どう思ってるかな?
・・・・・・
今後は
彼らと共に、
様々なブレイクスルーを
起こしていくことに
なるだろう。
だから最近は
考える時間が
とても多くなった。
これまでの視野から
逸脱した発想が
求められている。
私がこれまで
養い続けてきた
セルフコーチングの力や、
真本音発想の力が
本格始動できるのは、
ここからだな。
つづく
皆、着実に
進んでいるな、
と
実感するこの頃。
一見、混乱に
見えることでも、
よ〜く目を凝らすと、
しっかりと
すべきことを
している。
混乱とは、
スッキリの
前段階。
お部屋の大掃除を
すると、
一時的に
大混乱となるのと
同じこと。
だから
恐れないで
ほしい。
しっかりと
混乱すべき時に
すること。
中途半端で
片付けないこと。
やるなら
とことん
大掃除をして、
良い新年を
迎えよう。
ちょっと気が早い
かもしれないが。
・・・・・・
もし
迷っていることが
あるとすれば、
混乱中は
答えを出さないこと。
混乱中は
混乱に
徹すること。
この状態で
無理に出す答えは
あとですべて
ほぼ必ず
後悔する。
混乱が終わり
スッキリすれば、
その時簡単に
答えはわかる。
・・・・・・
混乱している時
ほど、
自分の足元に
意識を向けよう。
ちゃんと
地面に立っている
その感覚を
思い出そう。
頭は混乱し、
出来事も
混乱するが、
足元だけは
結構ガッシリ
しっかり
踏みしめている
はずだ。
それを
認識すればいい。
「大地」は
いつでも
ここにある。
あなたは
ここに
立っている。
それだけで
良いではないか。
つづく
そんなに
深刻に
なんなよ。
もし問題点が
見つかったら、
笑い飛ばせば
いいじゃ
ないか。
なんでこんな
アホなこと
やってるんだろうね、
って。
で、
一つずつ直して
行けばいい。
真剣に生きる
とは、
笑いながら生きる
ということだと
思うよ。
深刻さは
真剣さの
真逆だ。
そして、笑いとは
希望だ。
だけど、
カタチだけの笑いは
キツいね。
笑いとは
生き方の結果
だから。
ちゃんと素直な
生き方が
できている人は、
笑いがとても
素敵だ。
そんな人の笑いは
周りの人達をいつも
ニコニコさせてくれる。
でも誰にだって
そんな笑いが
できるはずなんだ。
物事が上手くいったら
笑い、
上手くいかなかったら
深刻になる、
・・・ではなく、
いつも
笑いながら行こうよ。
カタチだけの
笑いじゃなくてね。
魂で
笑うんだよ。
そうすりゃ、
必ず
道が観える。
次の一歩が
わかるんだ。
つづく
私は自分を
大きく変えようと
思う。
今、
私の周りには
同じような意志を持った
人が多い。
皆、次のステージに
進もうとしている。
恐らく私自身も
そうなのだろうな、
と思っていたのだが、
本当に
そのように
なりそうだ。
「本当に
そのように
なりそうだ」
という言い方をしているのは、
顕在意識のレベルでは
まだ実感がないから
なのだが、
しかし
自分自身の
潜在意識をセルフコーチング
してみると、
「実在」のレベルでは
もうすでに私は
新しい世界に
足を踏み入れている
ようだ。
そこはかなり
まぶしいので、
そこに何があるのかは
まだよく観えない。
しかししだいに
慣れてくるだろう。
「実在」での変化は
私の場合、すぐに
「現象」での変化に
つながる。
恐らく今後は、
仕事の仕方や
時間の使い方が
大きく変革されるだろう
と思う。
と同時に、
いよいよ私の
30年ビジョン
(正確には、あと27年後の
ビジョン)に向かって
動き始めるのだな、
とも
思っている。
いろんな意味で
準備が
整った。
やっとだぜ、
と
自分の真本音が
喜んでいるのが
よくわかる。
つづく
私達は
子どもの頃に持っていた
自由な発想を
いつの間にか
忘れてしまう。
でも
「自由発想」
というのは
人間としてとても
大事なことだと
思うんだ。
なぜなら、
今この世にある
多くのものは
「自由発想」から
生まれたから。
常識的な固い頭からは
新たなものは
生まれない。
私達の創造性の
源は
「自由発想」なのでは
ないか。
・・・・・・
私達は
「地球」という星に
住んでいるが、
もし、
私達の中に
「地球」があると
したら、
自分の体の中の
どこにあるだろう?
ここかな?と
自然に思える場所を
特定し、
そこに意識を
向けてみよう。
すると、
「地球」が
観えてくるはずだ。
「地球」が
観えたら、
挨拶をしてみよう。
あなたは「地球」に
最初に
なんて声をかけたい?
私は、
「いつもお疲れ様!」
かな。
そして
「地球」に何か
メッセージを贈ろう。
あなたは
どんなメッセージ?
私は
そうだな、・・・
「無理すんなよ」
かな。(笑)
ちょっと最近の「地球」、
無理し過ぎのような
気がするんだよね。
「もっと自然でいいよ」
と、
メッセージしたいな。
では、
次に「地球」に何を
問うてみたい?
私は、
そうだな、・・・
「これから生まれてくる
子ども達に
あなたは何を
メッセージしたい?」
と問おうかな。
問いが浮かんだら、
実際に「地球」にそれを
投げてみるといい。
私がその問いを
投げたら、
「地球」から次のような答えが
返ってきたよ。
「無理すんな」
・・・だって。(笑)
「ゆっくり呼吸をして、
心を落ち着かせ、
無理のない自分として
自由に生きてほしい」
・・・と。
なんか、すごく
共感。
子ども達だけでなく、
大人達にも
そうしてほしいな、
私は。
よし。
そんなところを
ポイントに置きながら、
今日のコーチングを
していこうかな。
・・・・・・
「地球」との
対話。
これも
自由発想のやり方の
一つ。
自問自答、
セルフコーチングの
やり方の一つだ。
私達は皆、
地球人。
「地球」は
私達を自由に
してくれるよ。
つづく
自分を
鎮めよう。
もし
心の中が、
心の底が、
うるさくなったら、
騒がしくなったら、
物事の判断を
してはならない、
という
合図だ。
自分を
鎮めよう。
静謐な状態で
次の一歩を
決めよう。
もし
自分が鎮まらない
のであれば、
今のあなたの
生き方には
何か問題がある。
恐らく、
日々、
本当にすべきことを
していない。
自分が
鎮まらない最大の
原因は、
自分を責める
自分がいる
のだ。
すべきことを
せず、
してはならないこと
ばかりを
してしまう、
そんな自分を
心の奥底で
責め続けている
のだ。
だから
鎮まらない。
その場合は
一度、
「反省」
が必要だ。
自分の生き方を
ちゃんと
見つめ直し、
「やり直し」を
しようと、
覚悟することだ。
それをすれば、
自分を責める自分
は
「責め」をやめる。
そして
静謐が
訪れる。
その状態で
次の一歩を
決めよう。
あなたは
本当に
すべきことを
やっているか?
この問いに
静かに向き合える
自分で
いられるか?
人生に
「振り返り」と「反省」
は
必要だ。
一日の終わりに、
今日の自分を
しっかりと
見つめてみよう。
心が
鎮まったら、
一日を終えよう。
そして
鎮まった自分として
次の一日を
始めよう。
つづく
私たちの心の中には
様々な自分
がいる。
ある意味、
多重人格者である。
みんな。
ただ、
健康的な人は皆、
心の中で
すべての自分が
ある程度の「ミーティング」を
しており、
今は
誰の意見を
どう生かすか?
を
ある程度しっかりと決めて、
その選ばれた意見に
基づき、
行動を起こしている。
そういった意味では
私達の心は
組織と同じだ。
心が本当に
整っている人とは、
その「ミーティング」が
円滑に進む人だ。
つまりは、
様々な自分達が
ちゃんと一致団結して
「最善の答えを出そう」
と
みんなで協力している
状態だ。
これも
組織と同じ。
一致団結する組織が
強いのと同じように、
一致団結する心は
安定しているし、
力強い。
逆に言えば、
心の中の様々な自分同士が
足を引っ張り合ったり、
いがみ合ったり、
争い続けていると、
心は疲弊する。
決断も
しづらい。
常に最善の答えに
たどり着かずに、
「迷いながら」
「葛藤しながら」
行動し続けることになる。
・・・・・・
良い組織に
良いリーダーがいるのと
同様に、
良い心には
良いリーダーが
存在する。
様々な自分達のすべてが
「このリーダーなら
信頼できるな」
と
素直に思えるリーダーが
存在する。
そのリーダーは
どのような状況下に
おいても、
揺るがなく、
常に毅然とし、
常に泰然とし、
常に、
安定感を持って
現実と向かい合い、
最善の判断を
下すことができる。
リーダー以外の
心達は、
そのリーダーの決断に
従い、
その方向に向かって
全員、
協力体制を敷いていく。
普段は
様々な考えや、
様々な方向性を持つ
自分達が、
リーダーの決断に対しては
素直に受け取り、
それぞれの個性を
活かし合いながら
力を合わせ、
相乗効果を発揮する。
その、
「心の中のリーダー」
のことを私は
『真本音』
と呼んでいる。
・・・・・・
誰の心にも
真本音は必ず
ある。
しかし、
それに気づいていない
人は多い。
自ら真本音に
気づき、
自ら真本音を
尊重することで、
その人の真本音は
一気に活性化し、
先頭に立つようになる。
しかし、
その人自らが
自身の真本音を
大切にしなければ、
真本音は
あえて先頭に立つことを
しようとはしない。
「私は真本音を大事に
生きていく」
と
本人が明確に決め、
その覚悟を持つことで、
その人の真本音は
ようやく
重い腰を上げ、
本気になって
自分が中心となり
進んでいくのだ。
そう。
真本音は
放っておいたら
働いてくれない。
覚悟を持たねば
先頭に出ない。
そのように
決めているのも
私達すべての人達の
真本音の共通の
特徴だ。
・・・・・・
だから私は
まず最初に必ず、
その人の真本音の
願いの一つを
見つけ出し、
言語化するセッションを
行なう。
言語化することで
常に意識をし、
真本音を尊重した
日々を
徐々に創り出していく。
体験を通じて
「真本音を大切にした
人生は楽しい!」
と知り、
その人自らが
真本音度合いを高めていく
ことを
サポートする。
そしてある時
ある瞬間に、
その人自身が
覚悟を決める。
「私は真本音の道を
進もう」
と。
そこからその人の
真本音は
心の先頭に立つ。
それにより、
人生は大きく
展開していく。
・・・これが私のサポートの
初期段階であり、
私の推奨する
セルフコーチングとは、
そのための
方法論だ。
その方法論を、
できるだけ多くの人に
正しく正確に
お伝えしたいと
思っている。
つづく
右肩上がりの
成長、進化
では収まりきらず、
「垂直上昇」
する勢いで
進む人が
一人、また一人と
増えてきた。
この成長の仕方は
生半可では
できない。
余程の覚悟と
「準備」
が必要だ。
まだ数えるほど
であるが、
その「準備」が整った
人が
出てきたのだ。
大変、嬉しいと
同時に
感動的だ。
・・・・・・
「垂直上昇」
と聴いて、
ひょっとして
自分のことか。
と思われた人は
その可能性が高いため、
以下のことを
注意いただきたい。
「垂直上昇」は
通常の成長とは
本質的に異なるため、
「これまで培ったものを
これからも大切にしよう」
という気持ちを
まずは
「捨てる」
くらいの意識を持つこと。
過去の延長線上に
未来はない、
という成長の仕方だから。
階段を
駆け上がるのとも
違う。
ただただ
ロケットのように
一気に垂直に上昇し、
一気に
宇宙に飛び出る、
という
荒技を繰り出すわけ
だから、
これまでいた
「地球」という星から
まったく別の星に
行ってしまうくらいの
意識でいた方が良い。
いったん人生を終えて、
生まれ変わる
・・・という意識よりも
何十倍も
激しいことをしようと
しているという
自覚をした方が良い。
昨日の自分と
今日の自分は
まったくの別物である、
という
自覚をした方が良い。
だから
過去の自分の考えに
こだわっている
場合ではない。
これまでと
同じやり方を
している場合でもない。
もちろん、
環境を変えたり
仕事を変えたり
する必要はないのだが、
しかし
この環境にいる
「自分自身」は、
完全に変わるのだ。
要するに
メチャクチャだ。
メチャクチャなことを
自分はしようとしている、
という
自覚をきちんと
することだ。
そんな自分に
委ねてしまうこと。
ある意味、
あきらめてしまうことだ。
・・・・・・
と同時に、
顕在意識のレベルでは、
「自分の原点」
を常に大事に
することだ。
どれだけ垂直上昇
しようとも、
「原点」は変わらない。
むしろ
「原点」があるからこそ、
垂直上昇が
できるのであり、
その「原点」が備わった
からこそ
準備が整った
ということになる。
本当に
これから垂直上昇しようと
する人は、
「原点」
と聴いただけで、
何のことか、ピンと来る
はずだ。
そう。
今、その、
ピンと来たもの、
それが
あなたの「原点」だ。
そこに常に
戻ること。
24時間いつも
そこを
意識し続けること。
それができれば、
垂直上昇は
無事に成されるだろう。
・・・・・・
あとは、
垂直上昇する者は
他の
垂直上昇する者と
引き寄せ合う。
垂直上昇する者同士の
出会いや
コラボが
自然発生するだろう。
それに
委ねれば良いし、
楽しめばいい。
ここからの人生は
これまでとは
根本的に異なる
展開を
見せるだろう。
ここからが
本当の
本来の
人生のスタートであると、
自覚しよう。
つづく