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丁寧に生きる、
とは
「完了感」を大事に
しながら生きる、
ということと
同義語であると
私は思っている。
一つ決めて
一つ行なう。
それをどこで
終えるか?は
「完了感」の有る無しで
決める。
たとえ仕事の途上で
あっても、
「完了感」が出たら
そこでいったん終える。
たとえ1時間のミーティング
でも、
20分で「完了感」が出たら
そこで終える。
逆に、
「やったー、終わったー!」
と顕在意識レベルで
仕事が完了したと思っても、
「完了感」がなければ
終えてはならない。
何かまだそこで
すべきこと
したいことが
残っているはずだ。
もちろん、
「終わったー!」という
気持ちと、
「完了感」が一致する
ことは多い。
この「完了感」に
敏感になることで、
仕事も人生も、
「時間」も
すべてが調和
していく。
すべてが
楽に進んでいくようになる。
・・・・・・
コーチングでも
そうだ。
たとえ相手が
クライアントさんで
あったとしても、
私は
「完了感」が出たら、
「ここでセッションを
終わりにしましょうか」
とご提案する。
もちろん
たまにクライアントさんの
方では
「完了感」が出ていないことも
あるので、
その場合は続けるが。
しかし
滅多にそれはない。
で、残りの時間を
雑談にする。
するとその雑談の
中でこそ
とてつもなく大切な
気づきがあったりする。
もちろんそれを
狙っているのではない。
残念ながら
狙ってもそれはできない。
本当に終わった。
本当にあとは雑談だ。
と思えるからこそ
得られる気づき。
そういうものが
確かにある。
そんなこんなも
全部含めて、
「完了感」を大切にすれば
人生が楽しくなる。
・・・・・・
「完了感」に敏感に
なるための
最も効果的な習慣は、
一つ決めて
一つ行なう。
を徹底することだ。
今はこのための時間だ、
と
決めるのだ。
もちろん
「今はダラダラする時間だ」
というのもアリ。
ダラダラするなら
ちゃんと
ダラダラする。
「完了感」が出るまで
ダラダラする。
そう決めて
ダラダラするのだ。
もちろんダラダラだけでなく、
すべてのことを
そのように決めて
行なっていくとよい。
すると
最初はわからなかった
「完了感」も、
しだいに感覚でわかるように
なる。
「完了感」がない場合は
そこで終えようとすると、
何となく
気持ち悪いのだ。
この「何となく」が
わかるようになるとよい。
メリハリなく
曖昧なままで
時間を過ごすのは
もうやめよう。
人生は
長いようで短い。
自分の意思で
人生を進めよう。
つづく
大空を見上げることは
大事だが、
見上げるのであれば
その前に、
今ここで立っている
自分自身の足元に
意識を向けてみよう。
ちゃんと自分は
自分の両足で
ガッシリと安定して
立っているだろうか?
立っているつもりが、
自分以外の誰かや
別の何かに
しがみついていたり、
寄りかかっていたり、
もしくは
抱っこされていたり、
していないだろうか?
立っているその場所は
安定した健康的な
大地だろうか?
足元のおぼつかない
沼地だったり、
蟻地獄のような
砂漠だったり、
踏ん張りの効かない
場所ということは
ないだろうか?
ちゃんと
健康的な大地に
自らの足で
しっかりと立つ者だけが、
ちゃんと
健康的に大空を
見上げることが
できるんだ。
足元も見ずに
空ばかりを見続ける
人がいる。
日々のやるべきことを
やらずに
自分の願いばかりに
意識を向ける
人がいる。
・・・・・・
今、目の前にある
自分の「現実」に
もしくは「課題」や「問題」に
向き合い、
行動し、
一歩ずつでも道を創る。
それができない人は
夢に向かっては
ならない。
もっと
極端に言おう。
夢を描いては
ならない。
なぜならそれは
本当の夢では
ないから。
現実に向き合えない
人の心からは
本当の夢は
浮上しないように
私達人間は
できている。
夢を描くならば、
真本音の夢を
描いてもらいたい。
しかしその真本音とは
まずは「現実」を
とても大切にしている。
「現実」を大切にする
生き方が日々できるからこそ、
真本音は
「未来」を観せてくれる。
それが本当の
夢でありビジョンだ。
・・・・・・
今、本当は
何が問題か?
自分が
向き合わねばならない
現実とは何か?
自分が立ち向かわねば
ならないものとは何か?
今、自分は
何をすべきか?
目をそらさずに
見つめてほしい。
もうそろそろ
本気にならんとな。
つづく
残念ながら、
私の体は一つしかない。
時間も
一日24時間と
限られている。
もちろん、
人としての集中力も
体力も気力も
人並みに限界はある。
もう51歳だしね。
ところが、
私が一回のコーチングや
研修などで使う
エネルギー量は
年々増している。
それだけのエネルギーを
注いでも大丈夫な人が
増えてきたからだ。
だから、
今は一日が終わると、
私の生命エネルギーは
ほぼ、ゼロに近くなっている。
それを朝までに
復活させるのが
私の夜の仕事の一つだ。
残念ながら
眠るエネルギーすら
残っていない。
眠るのには
エネルギーが要るんだよ。
だから寝ずして
自分を復活させねば
ならない。
こんなことをもう
7〜8年やってるのだが、
ここにきてさらに
私は一日のエネルギー量を
大幅アップさせねばならない。
泣き言を言いたい
わけではない。
むしろここからはちょっと
傲慢なことを
書かねばならない。
私はこれから
お客様を
選ばせていただくことにする。
もちろんこれまでも
それはやってきた。
私は
私がお客様にしたいと
思える人のみを
お客様にさせていただいて
きた。
具体的に言えば、
「この人を、
たとえ無料でも
サポートしたいか?」
と自分に問い、
迷いなく
「したい!」
と思える人と
契約をさせていただいてきた。
でも残念ながら
今後はさらに
それを絞らねばならない
と思っている。
人間としての
私の限界を超えない
ように。
というよりも、
ちゃんと私が
生き続けられるように。
これは
冗談でも何でもない。
切実な問題だ。
だからと言って
私は病気でも何でもない。
実に健康なのだが、
ただ
一日に使える
エネルギーに限りがある
ということだ。
・・・・・・
正直、
こんなことをブログで
書くことになるとは
思わなかったが、
何となく
書いておいた方がいい
と思うので
書きますね。
これから私は
さらにお客様を絞らせて
いただくと思う。
絞り方は単純。
その人の
「本気度合い」
で決めることにする。
もちろんそれは
私の主観となって
しまう。
あぁこの人
本気だな。
と本当に思える人。
そんな人は
周りへの影響も
大きい。
そんな人を優先的に
サポートさせていただく
ことにする。
こうやって書いていても
傲慢だよな、俺。
・・・と思うのだが、
でも、もうこれをしなければ
ならないし、
それをすることが
世の中に対する
「最大の効果」
となるのも
一方ではわかる。
どこまで
やっていいか?
どこからは
やってはならないか?
このギリギリの
見極めの中で、
これから私は
判断をし続けていくことに
なるだろう。
私は本気の人を
これまで以上に
徹底的に
サポートしていくことに
なると思う。
つづく
目の前に
滝がある。
大量の水が
激しく
落ち続けている。
激しい水飛沫が
私の全身を
襲う。
水飛沫、
うっとうしいなぁ。
と思った私は
いっそのこと
滝壺に
潜り込んでしまおうと
思い、
その通りにした。
すると
もの凄い水圧がまた
私に襲いかかってきた。
大概はここで
やめてしまうのだが、
そして
滝から離れて
しまうのだが、
なんだかこの滝、
気になるのだ。
だからちょっと
がんばって
さらに水中に
潜ってみた。
水圧に負けずに
潜り続けると、
しだいに
静かになった。
滝壺の
奥の奥は
意外にもとても
静かだった。
そこに、
誰かいた。
静かに目を閉じて
眠っているようだ。
ある意味、
サナギのようにも
見える。
私はその人に
近づいてみた。
声をかけようと
したが、
それよりも前に
その人が誰か
わかった。
「どうしたん?
なんでこんなところで
眠っている?」
と
その人に問うと、
その人は目を閉じながら
答えた。
「もうちょっと
眠らせたおいて
ください。
もうすぐ
起きますから。
起きたら、
羽化しますから。」
そっか。
今、その人は着々と
準備を進めているんだ。
こんな滝壺の
底で。
「なんでこんな場所で
準備を進めてるの?」
「自分を試すためです。
この恐ろしい滝壺を
通って、
外の世界に向かうには
相当の覚悟と勇気が
必要です。
でもそこに立ち向かえる
私になれれば
私はやっていける。
それができれば
ちゃんと羽化できます。」
「そうなんだ。
あまり無茶しないでね。
あと何日くらいで
羽化できそうなの?」
「あと二日だと
思います。」
「おー、あと少しだね。
応援してるよ。」
私は上昇した。
するとまた
激しい水の渦が
私を襲った。
そこを突き抜けると、
私は滝壺の
外に出た。
この滝壺を、
あの人ももうすぐ
上がってくるのだろう。
そうしたら
新たなあの人と
出会えるのだろう。
その後の展開が
楽しみだな。
あと二日。
待ち遠しいな。
つづく
一日一日を
自らの意志で始め、
自らの意志で終える
ことは
とてつもなく大切なことだと
思う。
何となく始め
何となく終わる
日々が一年続くのと、
自ら始め
自ら終える
日々が一年続くのとでは、
恐らく
一年後の未来の
「開き方」
は雲泥の差になるだろう。
よく言われることだが、
「時間」は我々に
等しく与えられている。
しかしその密度は
人によってまったく違う。
密度が濃ければ良い
という短絡的なものでは
ない。
密度を濃くすることも
薄くすることも
自由自在であることこそが
大切だ。
そのためにも
自らの意志で
生きること。
そしてその意志を
高められる
最も効果的な方法が、
一日の始まりと終わり
を
自らの意志で決める
ことだ。
・・・・・・
「ウチの社員は
主体性がないから・・・」
と
多くの社長さんが
悩んでいる。
「だから仕事に
主体性を持たせてほしい」
というご依頼を
よくいただくのだが、
残念ながら
「仕事のみ」に主体性を
持たせることは
ほぼ、不可能だ。
「人生」に対する
主体性を持てて初めて、
「人生の一部である仕事」
への主体性も
高まっていく。
本当に主体的な人
は、
仕事もプライベートも
すべて充実している。
何かを犠牲にして
何かを成り立たせる
のが
これまでは当たり前
だったかもしれないが、
しかし
ここからの時代は
もうそれでは
無理だ。
何かを犠牲にしている
というその時点でもう、
その人は
「本来の主体性」とは
異なる状態にいる。
・・・ということを
多くの人達がもう
気づき始めている。
私の表現で言えば、
反応本音の主体性か?
真本音の主体性か?
ということになるのだが、
しかし本来
反応本音の主体性
というのは存在し得ない。
主体性とは
自らが「主」になっている
ことなので、
真本音なくして
それはあり得ないのだ。
しかし
反応本音の主体性を
本来の主体性だと
信じて、
苦しみながら生きている人は
多い。
主体性とは
苦しいものでは
ないはずなのに。
・・・・・・
みんな
ちょいと
苦しみ過ぎだ。
「主体的であらねば」
・・・なんて、
そんなものは
主体性ではない。
主体性とは
もっと自然なもの。
それを思い出すと
いい。
そのための
第一歩が、
一日を自らの意志で
始め、
一日を自らの意志で
終える。
ということだと
私は思う。
つづく
今日一日は、
自分にとって
どんな一日になると
幸せだろうか?
一日の始まりに
そのような問いを
自分自身に
投げてみるといい。
そして
今日という一日に
名前をつけてしまおう。
ちなみに
私は、今日という日を
こう呼ぼうと思う。
『大樹の日』
今日もいろんな人と
会う。
皆、心の中に
それぞれの
「大樹」を持っている。
その人にしかない
その人独自の
「大樹」を
味わう日としよう。
まるで森林浴を
するように、
自分の身を
その人の「大樹」に
委ねてしまおうかな。
よし。
そんな一日を
楽しもう。
つづく
仕事にやりがいは
ありますか?
と、
時々訊かれるのだが、
実は
あまりピンとこない。
「やりがい」
という言葉が私には
ピンと来ないのだ。
その代わりに、
「仕事は私の
生きがいです」
とは
自然に言えるな。
「やりがい」
と
「生きがい」。
似た言葉だけど
だいぶ違うな。
・・・・・・
「やりがい」とは
目の前の物事に
対して、
「やる意味がある」
とか
「やる価値がある」
と
思えている状態。
だから
とても良いことだね。
でもそれは
目の前の
一つ一つの物事に
対して思うこと。
この仕事は
やる意味があるな。
だから
モチベーションが
高まるな。
という感じになると
思うのだが、
これがちょっと私には
ピンと来ないのだ。
それに対して
「生きがい」とは
「生きている意味を
実感できるな」
とか
「自分の人生の価値を
実感できるな」
ということかな。
私達には皆、
人生の願いが
ある。
こんな人生に
したい!
こんな人生が
いい!
こんな人生になれば
これ以上の幸せはない!
などなど。
しかも
真本音レベルの願い
となると
一人ひとり
とても深いものを持っている。
よく私は
「自分自身との約束」
という表現を使うが、
この世に生まれた
その瞬間に
私達は魂のレベルでは
自分自身と
約束をしているのだと
思う。
それは言葉で
表現できるものでは
ないが、
でもあえて言えば、
私の人生は
このためにある。
だから
私の人生においては
必ずこれを
成し遂げよう。
私の人生においては
常にこれをテーマと
しよう。
という感じかな。
自分なりの人生の意味を
皆、しっかりと
噛み締めながら
人生を始める。
自分が人生の始めに
持つその願いは、
まるで
自分自身との約束の
ようだと私は
思っている。
その約束に見合った
生き方ができると、
私達は魂レベルの
幸せを感じられる。
そういった生き方が
できることで私達は、
「生きがい」
を得られるのだと
思う。
自分の人生を
生きている実感を
得られるのだと思う。
私においての仕事は
まさに
これだ。
仕事をすることで
私は
生きている実感を
得られるし、
自分自身との
約束を
日々、ちゃんと果たしている
という
言いようのない手応えを
得られるのだ。
だから
「やりがいはありますか?」
と問われても、
ちょっとなんか
ピンと来ないのだ。
・・・・・・
今、
若者達の多くは
間違いなく、
仕事に
「生きがい」
を求めている。
「生きがい」を得られる
仕事を
探している。
自分との約束に
素直な人が
多いのだと思う。
ところが、
生きがいを感じながら
働いている大人達は
いったい
どれだけいるのだろうか?
仕事と生きがいが
分離しているのが
今の世の中だ。
というとても残念な
現実がある。
だから私のサポートとは、
仕事と生きがいを
結びつけることだ。
生きがいを感じられる
仕事を見つけよう。
・・・というのとは
ちょっと違う。
もちろんそれも大事
だと思うが、
それ以上に私は、
すべての仕事と
生きがいを
結びつけることは
可能だと思っている。
目の前にある
現実。
その現実に
生きがいを
感じられるかどうか?
ではなく、
どのような現実に
対しても
生きがいを得られる
自分になるのだ。
人間には
それができる。
なぜなら、
それが私達の
真本音の意志だから。
魂の
意志だから。
何をするか?
ではないのだ。
何をするにしても、
魂を込める。
というのが
私達の真本音の
願いなんだ。
つづく
2年前の今日、
ブログを毎日更新しよう
と決めた。
あれから2年。
一日も欠かさずに
書き続けることが
できた。
でも、現時点では
本来書くべきこと
本当に書きたいことは
まだ何も
書けていない気がする。
でも
とても嬉しいことが
いくつもあった。
このブログを通じて
何人もの素敵な方々と
出会えた。
毎日、しっかりと
読み込んでくださっている人。
時折、
感想を送ってくださる人。
お知り合いの方々を集め、
私のブログ内容をもとに
語り合いを続けて
いらっしゃる人。
ブログの文章を印刷し、
大切な方にお手紙を添えて
送っていらっしゃる人。
外国の皆さんに
このブログをほぼ毎日
通訳した上で
シェアしてくださっている人。
こんなマニアックな
内容なのに、
本当に感謝しています。
そういった皆様が
いてくださるおかげで、
雨の日も、
風の日も、
仕事でエネルギーを
使い果たして
動けなくなった日も、
酔いつぶれて
ほぼ意識を失った日も、
書き続けることが
できました。
この場を借りて
お礼申し上げます。
本当にありがとう
ございます。
・・・・・・
ただ、
まだこのブログは
序章にしか過ぎない。
先ほども書いたが、
本当に書きたいことは
まだほとんど
触りくらいしか
書けていない。
ブログを配信しながら、
世の中の空気を
感じながら、
不特定多数の方々に
向けて
書けるギリギリの線を
いつも見極めている。
世の中は
「実在」のレベルでは
随分と整ってきた。
例えば2年前と比べれば
雲泥の差がある。
でも本当の変化は
ここからだ、
ということもわかる。
やっと
基礎ができてきた。
家を建てるのは
ここからだ。
・・・・・・
やはり、
この世界では
「継続」は力だ。
真本音で「やろう」と
決めたことは、
継続すると良い。
真本音の想いを
習慣化するのだ。
オススメは
毎日行なうことだ。
一日置きとか
毎週一回とか
ではなく、
一日一日、
毎日必ず行なうことを
決めるのだ。
なぜなら、
一日とは人生の大切な
一区切り。
最もわかりやすい
一区切り。
その一区切りごとに
必ず一つ
行なうことを決める。
これはやはり
力になる。
「私は何があっても
毎日、何を続けようか?」
と
自分にシンプルに
問うてみよう。
・・・・・・
このブログ、
一年後には、
もう少し踏み込んだ内容に
なれているといいな、
というのが
今の願いだ。
そのためにも
世の中に向かう
毎日の活動を
(日中の活動を)
さらに加速
させていこう。
つづく
人との出会いに
期待してはならない。
出会いが人生を
変えることは
もちろんあることだし、
出会いは
人生においては
宝物のようだ。
だからと言って
そこに期待をして、
「出会うために
今日を生きる」
ことをしてはならない。
出会いを目的と
してはならない。
・・・・・・
それよりも、
「今の自分の生き方」
を
大事にしよう。
私は本当は
どう生きたいのか?
今、本当は
何をしたいのか?
それを
「人生の視点」から
真剣に問おう。
自分自身に。
問い続けよう。
たとえ答えが
出なくとも、
問い続けるべきことは
ある。
粛々とそれを
続けることで、
日々は間違いなく
進化していく。
真本音度合いは
高まっていく。
その結果として、
日々の調和も
高まり、
出会うべきタイミングで
出会うべき人と
出会える、
という「結果」を
得る。
・・・・・・
以上をあえて、
私の表現で
さらにシンプルに
言い直そう。
「現象」に
期待してはならない。
自分の中の
「実在」に
目を向けること。
「実在」を
粛々と
行動に移し、
自らの意思で
「現象」を
創り出すことだ。
これがすべての
調和の原点だ。
もうすでに
あなたには
できるはずだ。
つづく
昔、私にまだ
セルフコーチングの力が
まったくなかった時代、
私は物事に悩むと
よく、
星空を見上げた。
昼間であれば、
青空を
見つめ続けた。
天気が悪ければ、
さらに若い頃に行った
ヒマラヤの山々や
日本の山々を
心の中にイメージした。
とにかく、
大きなもの
広大なもの、
そして
私達人間の力が
まったく及ばないものに
意識を向け続けた。
すると、
目の前の物事が
小さなことのように
思えた。
思えるだけで
本当はそうではないのだが、
でも、
私の視界は大きくなり、
その大きな自分から
今の自分を
見つめることができた。
だから私は
大自然のような
大きなものに
憧れた。
自分は小さく、
自然は大きい。
その大きさを
目指した。
が、
目指してはいたが、
そこには決して
たどり着けないのだと
思っていた。
大自然と
自分が
分離していたのだ。
・・・・・・
今は
ちょいと違う。
大自然と自分は
つながっているし、
実は
「一つである」
ことを
実感として身に沁みて
理解している。
でっかい宇宙の中に
人はいるが、
実は
人の中にも宇宙があり、
内の宇宙と
外の宇宙は
完全に一致することも
実感としてわかる。
しかしそれは
決して
傲慢な感覚ではない。
その感覚は
「祈り」に近い。
私は
一つの祈りでもあるし、
全体の祈りでもある。
言葉で表現しようと
すると、
わけのわからないものに
なってしまうが、
感覚として捉えると、
当たり前のことを
言っているだけだ。
・・・・・・
なんか久しぶりに
わけのわからないことを
書いている気もするが、
先日、
私のビジネスパートナーから、
「いやいや、
たけうちさん、最初からいつも
わけがわからないですから、
慣れてますよ」
と言われた。(苦笑)
私のパートナー達は
素晴らしい。
私のわけのわからなさに
わけがわからないままに
ちゃんと真摯に
向き合い続けてくれる。
誠にありがたい。
・・・・・・
私は、
5歳の息子には
できるだけわけのわからない話は
しないことにしている。
ところが、時たまであるが、
ポロっと出てしまうことがある。
先日、二人でおもちゃ屋に
行った。
すると息子が
「このおもちゃ買ってほしい」
と言った。
「そりゃダメだ」
と私が伝えると、
「え〜、なんで〜、なんで〜!」
とゴネ始めた。
あんまりゴネるので、
「そのおもちゃさ、
真本音度合いが低いんだよ」
と思わず言ってしまった。
もちろん、
「真本音」とかそういうことを
説明したことはない。
しかし彼は
私のその一言を聴いた
途端に、
「あ〜そうなんだ」
と納得したのだ。
似たようなことは
他にもあった。
外食しようとして
お店を探している時に、
私が思わず、
「ちょっとここのお店、
次元が低いんだよな。」
と呟いたら、
「あっそう、じゃあやめよ」
と普通に返ってきた。
もちろん
「次元」なんて言葉を
使ったことはない(と思う)。
なんでこんなに
納得するんだ?
俺の子だからか?
とは思うが、
しかしこの感覚、
この、本質的なことを
実に素直に受け止める
この感覚は、
今の若い世代の人達には
本当によく感じることだ。
おそろしいなぁ、
(いい意味で)
と思う。
・・・・・・
最近、
本屋さんなどを見ると、
結構良い本が
出始めている気がする。
ちゃんと本質を
大切にした本だ。
残念ながら、
ほんの少し前までは、
本質を語っている風で
真逆なことを言っている
本が多かった。
なんかやっぱり
時代が
潮流が
良くなってきているのかな。
「実在」は完全に
良くなったので、
それが「現象」化され
始めている
ということだな。
(最後にちょっとだけまた
わけのわからないことを
書いてみた。)
つづく
あぁ、なるほど!
と思う。
そういうことか、
と。
あとですべて
合点が行く。
そんな瞬間が
来る。
私はその瞬間が
来るまでは、
物事の意味を
あえて
考えないようにしている。
よく、
前向きに物事を
捉えようとする傾向の人に
多いのだが、
どんな物事にも
意味を見出そうと
する。
それ自体は
大事なことだが、
それを
頭で解釈しているのは、
実は
オススメできない。
確かに
物事には意味が
ある。
その意味を摑むことも
大事だが、
それは「解釈」すること
ではない。
むしろ
解釈することで、
本来の意味とは
別の意味を
自ら見出し、
本来学ぶべきことを
学ばずして、
もしくは
学んだつもりになって
次の一歩に向かって
しまう。
そしてそれにより
様々な不調和が
起こる。
極端な例だが、
以前に
ものすごく体調不良に
悩まされている人がいて、
しかしその人は
「この体調不良には意味が
あるんです。
ここをしっかりと乗り越えなさい
という思し召しなんです」
と
言われていたが、
私は思わず、
「早く医者に行きなさい」
と
言わざるを得なかった。
前向きな人は
特に、
「試練」を意味あることとして
必然的なものとして
前向きに捉えようと
する傾向が高いが、
それも大事なんだけどね、
でもあえて
極端に言うよ、
そんな、
試練ばかりに向かうよりも
もっと
楽な道を行こうよ。
あえてもっと
極端に言っちゃおう。
試練にわざわざ
向かうなんて、
暇なんじゃない?
・・・と。
試練探しをして
自己満足している人は
残念ながら
多い。
物事に意味を見出そうと
する人ほど
その傾向が高いのは
本当に残念だ。
しかし。
私達にはもっと
やるべきことが
あるのではないか?
もっと
そんなことよりも
全力を尽くすべきことが
あるのではないか?
自分自身との
(自分の真本音との)
約束があるだろう。
人生の願いが
あるだろう。
そこに
向かおうよ。
素直に。
そして、
真剣にそこに
向かおうとする人は、
常に、
真剣に
最も楽な道を
見出そうとする。
そして
一つ一つの物事、
自分に降りかかる
あらゆる現実を
真摯に
受け止める。
真摯に受け止めはするが、
解釈はしない。
ただ、
受け止めるだけ。
それをすれば、
ある時ある瞬間に
必ず
「わかる」ときは来る。
あぁなるほど、
そういうことだったか、
と。
これも一つの
人生の醍醐味では
ないか。
つづく
少し、
「人生」を
意識してみようか。
まずは
目を閉じよう。
深呼吸をしながら
リラックスしよう。
そして、
「時間」に意識を
向けよう。
一秒、また一秒と
時間は過ぎていく。
何がどうあろうが、
着実に
一秒一秒、時間は
進んでいく。
その「一秒」にのみ
意識を向け続けよう。
この一つの瞬間と
そのつながりとしての
「時間の流れ」。
これが
「人生」だ。
これが
私達の「存在」だ。
この「時間の流れ」に
乗っかって
今ここに
私達はいる。
「時間の流れ」から
外れてしまえば、
私達は存在のものを
失ってしまう。
これこそが、
この3次元の世界の
掟だ。
・・・・・・
そう言えば、
いつも私はこの
「時間の流れ」を
意識している。
「時間の流れ」と
共にある自分を
意識している。
一日中。
ここに意識を
向けると
明らかにわかることが
一つある。
それは、
「どの一秒に
何をするか?」
こそが大事だ
という真実だ。
つまりわかりやすく
言えば、
「タイミング」
が大事だ。
同じ行動でも、
タイミングが変われば、
その後の展開の
「すべて」
が変わると言っていい。
例えば、
Aさんに何を言おうと
する。
その決めた一言を
「いつ言うか」
によって
Aさんの反応も
その後の展開も
大きく変わってくる。
行動だけではない。
「決断」も
そうだ。
私がいつも
クライアントさんに
お伝えし続けていることの
一つは、
「いつ決断するかを
決めましょう」
ということ。
つまり
「どのタイミングで
決断をするか?」
「どの一秒で
決断をするか?」
によって、
決断の内容も
その後の展開も
やはり「すべて」
変わってくる。
真本音度合いが
高まるということは、
その「感性」が
非常に豊かになる
ということでもある。
真本音度合いが
高まれば、
・今、何をするか?
・今、何をしないか?
そして
・いつ、何をするか?
・いつ、何をしないか?
が
ありありと確信として
わかるようになる。
すると
悪い意味での「迷い」が
なくなる。
つまり、
極端に言えば、
「タイミング」を掴むことさえ
できるようになれば、
「迷い」はなくなるのだ。
それこそつまり、
「時間」を
「一秒一秒」を
そして
「人生」を
大事にしているという
ことだろう。
「自分」を
大事にしている
ということだろう。
「人」を
大事にしている
ということだろう。
つづく
これまでのやり方を
大きく変えようと
する場合、
私がいつも行なうのは、
私が信頼する人に
「すべて委ねてしまう」
という方法だ。
例えば、
家庭であれば
妻であるし、
ビジネスであれば
パートナー達に
委ねてしまう。
正直言うと、
私のこれまでの
やり方や考え方と
真逆な時もある。
そんな時はやはり、
心に少しばかりの
抵抗が生まれるが、
まぁまぁ
これくらいの抵抗
どうでもいいじゃん、
と
私の真本音は
判断してしまう。
すると、
私の心が抵抗を起こした
ものに限って、
私の想定外の
良い結果が現れる。(苦笑)
そこで知る羽目に
なる。
これまでの自分の
考えは
固かったんだなぁ、
と。
私ももう51歳なので、
知らない間に
私の周りの人達のほとんどが
私よりも年下になった。
気をつけないと
ついつい私がすべてを
仕切ってしまいそうになる。
だからいつも
かなり気をつけている
つもりだ。
委ねるなら
本当に
委ね切ろう、と。
・・・・・・
似たようなことだが、
私はできるだけ
経験の浅い人や
未経験者の意見を
あるがままに
受け止めることに
している。
実際に、
周りの人達の目に私が
どのように映っているかは
知らない。
あのクソ頑固オヤジ、
と周りは見ているかも
しれないが、
それでも私は私なりに
すべてを
受け取ろうとしている。
どんなに
未熟な意見でも、
「未熟」の一言で
片付けることは
極力しないようにしている。
それよりも
まずはそれらの意見を
自分の中に
「インプット」
する。
「肯定する」
のではない。
ただあるがままに
「インプット」
するのだ。
これが大事だと
思っている。
そうすると、
インプットされた
それらの発想達と、
これまで私自身が
培ってきた発想が、
私の中で
「チャンククロス」
する。
ちなみに
「チャンククロス」とは
私の造語だが、
「別々の発想と発想が
紡がれる」
と言うような意味だ。
紡がれた発想達は、
相乗効果を起こしたり、
統合されたり
融合されたり
しながら、
さらに次の新たな発想を
生み出す。
そんなことが
私の潜在意識の中で
起こり、
それが「気づき」や「ひらめき」
として浮上する。
私はそれが
楽しくてしょうがない。
私は
あらゆるお客様とも
それをやっているので、
100社のサポートに入ったら
100通りのまったく異なる
サポート展開となる。
常に
そのお客様との間でのみ
生まれるものがある。
お客様との
「チャンククロス」
がある。
それが実に
冒険的だし、
刺激的で、
だからこそ私は
このお仕事に
いまだに熱中しているのかも
しれない。
でもよくよく考えたら、
それは私のお仕事だけの
話ではなく、
人生とは
そういうものなのだと
思うな。
つづく
料理を作るためには
材料と道具が
必要だ。
材料と道具は
いろんな種類が
あるほど、
いろんな料理が
作れて良いだろう。
だから
たくさんの材料と道具を
仕入れる。
たくさんの材料と道具を
抱える。
たくさんの材料と道具を
増やし続ける。
・・・で、
そこで満足して
終わり。
という人を
私はたくさん見てきた。
大事なのは
そこか?
もちろんそれも大事だけど、
もっと大事なことが
あるのではないか?
それは、
自分は
誰のために
どんな料理を
本当は
作りたいか?
・・・ではないか?
どれだけ材料があっても
道具があっても
そこで満足するのではなく、
それらを活用して
何をするか?
何のために
何をするか?
・・・ここに対して
私達はもっと真剣に
なるべきではないか。
・・・・・・
人生を進ませる、
とは、その
「何のために何をするか?」
に向かうことを言う。
ただし、
この答えはなかなか
見つからないことも
確かだ。
だから真剣に
見つけようとする。
見つけようとするだけでも、
人生は進む。
ただ漠然と
材料や道具を集めるのではなく、
その答えを
真剣に見つけようと進むことで、
自ずと、
良い材料にも道具にも
出会えるのだ。
・・・・・・
実は。
この仕事を始めた
20数年前の私は、
かなりの不勉強だった。
本を読んだりしながら
勉強するのが
億劫で億劫で。
だから、
ほぼ何のノウハウも
ないままに
コンサル現場に入った。
それはそれで
大問題なのだが、
でも、
何も知らなかったからこそ
必死に
人と向き合った。
今、目の前にいる
この人は、
どうすれば元気に
なるのだろうか?
どうすれば
成果を上げられる
のだろうか?
そればかりを
考えて考えて考え
尽くした。
で、
目の前の人に
試してみた。
というよりも、
その人本人と一緒に
試してみた。
当然、上手くいくこと
いかないこと、
様々だった。
しかし私は
「現場」から学ぶことが
できた。
本から学ぶよりも
先に
現場から学べた。
本で学んだり、
セミナーを受講して
学んだりしたのは、
「現場」での自分の学びが
間違っていないかどうか、を
確認するためだった。
今となっては
この順番で良かったと
思っている。
おかげで
「現場にこそ、本当の
答えがある」
ということを
私は知ることができた。
・・・・・・
たった一つの
材料でいい。
たった一つの
道具でいい。
今、自分が持っている
ものを使って、
真剣に、
自分は
何のために
何をするか?
を考えながら
目の前の「現場」に
向かってほしい。
特に
「コーチ」を目指す人には
それをしてもらいたい。
ちゃんと勉強して
力をつけてから
コーチの仕事を始めます。
・・・じゃないのだ。
それ言っているうちは
一生、コーチにはなれない。
人生は
「現場」だ。
仕事も
「現場」だ。
経営も
「現場」だ。
机の上には
ない。
自分にしか
創れない料理を
現場で創ろうではないか。
つづく
24歳の時、
あるカリスマ経営者から
「お前には人生の目的がない」
と言われた。
当時の私は
私なりに目的は持っていた
つもりだった。
それは
「人生の終わりに、
あぁ、いい人生だった、と
満足できること」
というものだった。
しかしそれをその社長に
伝えたところ、
一笑に付された。
「そんなのは
目的ではない」
と。
「目的とはもっと
具体的なものだ」
と。
私の人生の目的探しは
あの時から始まった
のかもしれない。
その後、私はすぐに
当時勤めていた会社を
辞めた。
そして一年間で資金を
貯め、
旅に出た。
一年半ほどの
バックパッカーだ。
当時はまだそんな言葉は
なかったと思うが。
そして帰ってきて、
人との出会いを経ながら、
今の仕事に出会った。
あの社長の一言から
もう27年が経った。
27年後の今、
私は人生の具体的な
目的を持っている。
今、気づいたのだが、
その目的は
今から27年後の達成を
目指したものだ。
今、ちょうど
中間地点にいるのだな。
・・・・・・
27年前の私が
「人生の終わりに、
あぁ、いい人生だった、と
満足できること」
と言いながらも
イメージしていたのは、
私自身が
一人で人生を終える
場面だった。
当時の私は、
私のことを
本当に理解してくれる人
など、
一人もいない。
それが人間というものだ。
と、完全に
思い込んでいた。
それが今は
どうだろう。
まだそんなに人数は
多くはないが、
私のことを真に
理解してくれる仲間が
今はいる。
死ぬときは
どうも私は賑やかに
死んでいくイメージばかりが
出てくる。(笑)
そこに悲しみななく、
最期まで
充実感に溢れている。
そんなイメージ、
・・・というよりも「実在」が
私の中にある。
今日という一日は
そこに大きく近づく
大事な一歩となった。
気がつけば、
7月末。
意図したわけではないが、
いつも大きな節目が
7月と8月の合間に来る。
私はまた
変わる。
仲間と共に。
世の中への影響の仕方も
ここから一気に
変えていきたい。
つづく
私がどうして
経営者の方々を中心に
コーチをさせていただいて
いるかと言うと、
やはり経営者は
立場上、
真剣にならざるを得ない
環境にあるからだ。
一歩間違えれば
ビジネスも人生も
大きく左右してしまう、
自分の人生だけなら
まだしも、
社員さん達もそのご家族も
含めた人生を
大きく左右してしまう、
そんなヒリヒリするような
決断をしなければならない
立場であるからだ。
本気で悩むし、
本気で落ちるし、
本気で這いつくばる。
もちろん
経営者以外の人達だって
同じだろう。
人生みんな
本当に悩みながら
進んでいる。
しかしやはり
社会的影響の大きさと
独特の孤独感と
圧倒的な重圧と、
それらに苛まれ、
真本音を忘れ、
反応本音にまみれながらも
それでも必死に
進もうとしている人を見れば
どうしたって
応援したくなる。
それが結果的に
経営者の方々が多かった
ということだ。
そして、
いつも書かせていただいて
いることだが、
私は「コーチ」を
育成したい。
世の中には「コーチ」が
足りなさ過ぎるから。
しかもその「コーチ」は
本物のサポート力を
持っていなければならない。
だからよく
「コーチになりたいのですが、
私を指導してくださいますか?」
とご依頼をいただくのだが、
そんな時に私が必ず
お伝えするのが、
「ではまずは
コーチとして独立をしてください。
小さくても良いですから、
自分で経営を始めてください」
ということだ。
自らが自らの
経営もできない人が
「コーチ」はできないからだ。
以前はそうでもない、
とも思っていたが、
やはり本物のサポート力は
「自律」した人からしか
出てこない、
と
つくづくわかったのだ。
この数年で。
私はすでに
自律している人を
サポートしたいし、
今はできていなくても
本気で自律しようと
している人を
サポートしたい。
そんな人にこそ、
「真本音で生きる」
ということの真髄を
体験を通じて
会得してほしいのだ。
自律した人が
さらに自律度合いを
高めれば、
調和の波が起こる。
自律調和。
そんな社会に
早くたどり着くためにも
私はさらに加速しなければ
ならないな。
つづく
夏にサンタクロースの話を
するのも何だが、
サンタはいいなぁ、
と思う。
なぜなら
すべての子ども達に
プレゼントを与えるから。
プレゼントの中身が
どうとか言うことよりも、
私はあのプレゼントとは
「命のエネルギー」
だと思っている。
人としての
生きる上での大切な
エネルギーを
「プレゼント」という形を
とりながら、
すべての子ども達に
与えている。
しかも毎日与えるのではなく、
年に一度だけ、
最低限必要なだけ
与えている。
そこもいいなぁ
と思う。
・・・・・・
サンタのおじさんは
年に一度だけのお仕事で
いいなぁ、と
思われるかもしれない。
きっと夏は暇なんだろうなぁ、
と。
いやいやいや、
私はちょっと違った考え方を
している。
きっと
サンタのおじさんは
夏も必死に働いているのだと
思う。
もちろん、自分がサンタである
ことを隠しながら。
きっと
コーチをしているんじゃ
ないか、と。(笑)
たくさんの人達と
日々、向き合い、
たくさんの人達の
喜びや悲しみや
幸せは苦しみや
いろんなことを
ダイレクトに受け取り続けて
いるのだと思う。
サンタのおじさんは
きっと
「現場」が好きだ。
「生きる」という現場に自分も
分け入って、
一人ひとりといつもしっかりと
向き合い、
いろんな人の人生を
噛み締めているのだろう。
だからこそ、
年に一度、最高の
プレゼントを
与えることができるのだ。
・・・・・・
本当はサンタのおじさんは、
子ども達にプレゼントを
と言いながらも、
大人達にも
プレゼントを与えている。
「命のエネルギー」という
プレゼントを、
子ども達へとはちょっと
違った形で
与えている。
・・・のだと思う。
だから結構、
大変だな。
サンタさん。
きっと
サンタのおじさんから
してみれば、
すべての人達が
「子ども達」
なのだろう。
「すべての子が
ちゃんと育ってほしい」
というのが
彼の願いなんだろうな。
サンタのおじさんは
実は
結構たくさんいるような
気もする。
できれば、
みんながサンタのおじさんに
なれると
いいな、
そんな世の中に
なれるといいな、
と思う。
つづく
怖がりなのは
良いことだ。
怖がりだからこそ
悪い意味での無茶
をしなくなる。
怖がりだからこそ
足元に目がいく。
ちゃんと一歩一歩を
慎重に
真剣に
進もうとする。
・・・・・・
私の5歳の息子は
とにかく明るい。
天真爛漫と言って
よいだろう。
いつもオープンで
誰とでもすぐに
友達になる。
しかし
とても怖がりだ。
しかも、
自分が怖がりであることを
まったくもって
気にしていない。
・・・というよりも
それを誇りに思っているのでは
ないかと感じるほどに、
堂々と怖がる
のだ。
これ、本当に私は
見習うべきだなと
いつも思っている。
私なんかは
怖がりの自分を少し
恥ずかしく思ったりする。
そしてそれを
人様に見せないように
したりするのだが、
息子は
本当にあるがままに
躊躇なく
まったくもってオープンに
怖がるのだ。
しかも側から見ていると、
コイツ、本当に怖いんだな
とわかるし、
コイツ、本当に小心者だな
とわかる。
しかし
あまりに堂々と怖がるので
笑えてしまうのだ。
つまりは
深刻でなくなってしまう。
そして息子は
自分を怖がらせる原因
となるものを
自分で対処するなり
除去するなり
状況を変えるなりして、
安心を得ると、
途端に
何事もなかったかのように
進み出す。
毅然と。
泰然と。
おいおいお前、
さっきまであんなに
怖がってたじゃないか、
と
ツッコミを入れたくなるのだが、
ちょっと前まで
怖がっていた自分を
まるで記憶喪失してるんじゃ
ないかと思うくらいに
忘れて、
あまりに堂々と
前に進む。
怖がるのも
堂々。
進むのも
堂々。
本当に
勉強になる
今日この頃。
つづく
本当に情に厚い
人は、
情に流されないな、
と
いつも思う。
人の痛みとか
心の傷の辛さとか、
そういうことを
すべてわかった
上で
あえて
厳しくできる。
あえて
人を突き放したり、
手放したり、
手を差し伸べる
ことをやめたり、
そういったことを
すべき時に
しっかりと
できる。
本当にその人の
成長を
願っているからこそ
冷たくも
できる。
だけど常に
目は優しい。
人の情や
振る舞いを、
愚かな部分も
すべて含め
優しく
あたたかく
見つめ
見守っている。
あまりむやみに
人は褒めず、
でも
褒めるときは
本当にその一言に
魂が乗る。
そういった
情に厚い人が
私のクライアントさんには
多いな。
だから私は
いつもあったかい。
人間の
あったかみを
いつも感じ続ける
ことができる。
幸せなことだな、
と思う。
そう言えば、
以前の私は
人と一緒にお酒を飲みに行く
ことはほとんどしてこなかった。
でも、
ここ7〜8年かな、
そういう機会が徐々に
増えてきた。
私はウィスキーが好きで、
しかも
ストレートでチビリチビリと
やるのが好きなのだが、
情の厚い人と
飲んでいると、
ウィスキーの味わいも
より深く
厚く感じるから
面白い。
真本音コミュニケーション
をしながら
ウィスキーを飲むのは
今では
私の人生の
最大の楽しみの一つ
かもしれないな。
年齢を重ねるほど
楽しみが増えていく
というのは
とてもありがたい。
でもこれが
真本音で生きる
ということなのだろう。
真本音で生きれば
人生は
日々、
豊かになっていくんだ。
より幸せに
なっていくんだ。
つづく
どれだけ蒸し暑くても、
風を感じた瞬間に
私達は心地良さを
感じる。
「風」。
空気の流れ。
逆に私達自身が
動くことで
空気の流れを
感じ取ることもできる。
先日、
湿度が非常に高い日に、
5歳の息子と少しだけ
サイクリングをした。
自転車を漕ぎ出した
瞬間に
蒸し暑さが消し飛んだ
のにはびっくりした。
自分自身が
風になったようだ。
同じ場所に
留まり続けると
私達は淀んでしまう。
止まることは
衰退を意味する。
そう言えば、
私は電車が好きなのだが、
電車に乗りながら
セルフコーチングをすることが
とても多い。
前に進んでいるその状態が
最も発想が湧きやすい
からだ。
やはり私達人間は
動くことで
進むことで
活性化するように
できているらしい。
・・・・・・
自分が進んでいるか
どうかがわからない。
と、時々
相談される。
とても単純な確かめ方が
ある。
今、毎日が
気持ちいいかどうか?
と自分に
問えばいい。
感覚の問題だ。
日々、何が起こっているか?
という理由づけは
必要ない。
本能的感覚的に
答えればいい。
今、私は
毎日が
気持ちいいだろうか?
気持ちよくないので
あれば、
止まってしまっている
可能性は高い。
真本音の望んでいること
を、していないか、
しているつもりに
なっているか、
どちらかだろう。
・・・・・・
今日、お会いした
若い経営者は、
もっと
スピードを
上げたい!
と
心の底から
呟いていた。
あぁ、本能に素直で
いいな、と
思った。
自分に素直で
いいな、と。
素直な人が
増えるといい。
私は素直な人を
サポートしたいな。
凄い加速が
できるように。
心地良い「風」と
なれるように。
つづく
私は、
真面目な人にほど、
「もっと不真面目で
いいよ」
と伝えるし、
不真面目な人には、
「もっと真面目に
やれ」
と言う。
矛盾しているように
思う?
矛盾していないんだな、
これが。
・・・・・・
「真面目」
って、いろんな捉え方が
あるけど、
私は
「与えられた一つの枠を
壊さずに、
その枠を守りながら
がんばり続ける」
という風に
考えている。
不真面目な人は
第一、
この「枠」を守らない。
「こうしろ」と言っても
その通りにしない。
例えば、
朝は8時から仕事だ、
という決まり事があっても
それを守らない。
とか、
ちゃんと人には挨拶しような、
と注意しても
まったく守らない。
とか。
人に枠を与える意味は、
一つには
「基本をしっかりする」
というのがある。
基本や基礎が
しっかりするからこそ、
その人は良い方向に
伸びていく。
地盤がしっかり
していないと、
ちゃんとした家が
建たないのと同じだ。
不真面目な人の多くは、
地盤がフニャフニャにも
関わらずに、
自分勝手に
自己満足の家ばかりを
建てようとする。
しかしどんな家を
建てても、
地盤が緩いから
安心して住むことすら
できない。
それでは
誰も喜ばない。
だから
「真面目にやれ」
と言う。
一方、
真面目な人の多くは、
基本や基礎はできてるけど、
いつまで経っても
自ら「枠」を壊そうとしない。
与えられた枠から
出ようとしない。
だから、
その人が本来持っている
独創性のようなものが
生まれない。
そういう人の創る家は
いつまで経っても
つまらない。
遊び心もない。
安心して住むことは
できるかもしれないが、
それ以上の魅力が
ないのだ。
だから、
そういつまでも
枠に捕らわれずに、
たまには
「もっと不真面目で
いいよ」
と伝えるのだ。
大事なのは
真面目か
不真面目か
ではない。
両方できること
だ。
ここは真面目に。
でも、
ここは不真面目に。
・・・と
自ら選択できる
ことだ。
「真面目」と「不真面目」
という表現に
もし抵抗があるなら、
次のように
言い換えてもいい。
「基本に忠実」
と
「望みのままに」
だ。
・・・・・・
基本を修得する
努力もせずに
「望みのままにやりたい」
と思っている人が
多過ぎはしないか。
本当に望みのままに
やりたいのなら、
もっとちゃんと
勉強せい。
努力せいよ。
一方で、
勉強と努力をして
そこで満足してしまっている
人も
多過ぎないか。
せっかく基礎が
あるんだから、
もっと
好きにやれよ。
冒険しろよな。
自分の望みに
素直になろうな。
つづく
私は
「コーチ」
を名乗っているが、
コーチというお仕事の
重要な役割は、
その人の本来の
魅力や力を
その人自身が
活用できるようにするサポート
だと思っている。
自分自身の
「本来」
を
人はあまりにも
知らない。
「本来」ではない部分の
魅力や力を
伸ばそうと努力している。
しかし残念ながら
そこはなかなか
伸びない。
伸びないから
自信喪失する。
結果として、
「自分なんて価値がない」
と
本気で思い込むように
なる。
今日も実はちょっと
そんな場面が
あったのだが、
そんな時、私は
実に悲しくなる。
私はもう長く
このお仕事を続けているので、
ある時から
その人の本来のエネルギーを
感じ取れるようになった。
しかしそのエネルギーを
ちゃんと使っている人は
ほぼいない
という事実を知った。
エネルギーが
そこにあるのに
その存在に気づかず、
魅力や力が
充分にあるのに
「価値がない」と
思い込む。
人により
程度の差はあるが、
私の目から観ると
9割以上の人が
そうだと映る。
いや。
ここは躊躇せずに
言おう。
99.9%以上の人が
そうだと
私の目には
映っている。
だから
思う。
いったい
この世の中は
何なんだ!と。
人の本来を
発揮できない
世の中。
しかしそれは
世の中が
悪いわけではない。
世の中は
一人ひとりが
創り出している。
だから、
一人ひとり
その人本人、
つまりは
「自分」のせいだ。
と、
悲しくなるのだ。
もちろん、
そういう私だって
まだまだ「本来」は
出せていないだろう。
でも少なくとも
私は
「本来を出せていない」
という事実を
知っている。
そして
何とかしよう!と
している。
何とかしよう!と
する人が
増えるといいな。
そのためにも
私は今のお仕事を
がんばるよ。
つづく
直観を大事に
しよう。
と私はよく
言うのだが、
どうしてもそこに
自信の持てない人は
多いようだ。
直観か思考か?
となったら、
いつもの思考による答えを
選択してしまう。
以前も書いたが、
思考が悪いわけでは
ない。
むしろ、
思考をしっかりする人ほど
直観は生まれやすい。
しかし、
思考をしっかりする人ほど
直観のその根拠のなさと
奇抜さに
どうしてもついて
いけなくなってしまうのだ。
自分自身の発想
なのに。
・・・・・・
そこでお勧めなのが、
できることから
直観で動いてみる
ということだ。
大層なことで
なくていい。
例えば、
今日のお昼は
何を食べようか?
とか、
これから乗る電車は
何両目にしようか?
とか。
そのくらいの身近な
ところで、
まずは直観の通りに
動いてみよう。
そして
思考して出した選択と
直観による選択の
行動した時の違いを
体験するのだ。
体験してもし
ちょっとでも面白かったら、
もう少し冒険的なことで
直観に素直になってみる。
そうやって
直観で動く頻度を
徐々に上げていくとよい。
ただし。
思考をするのを
やめてください、
ということではないので
ご注意を。
何度も書くが、
しっかり思考する人ほど
直観は生まれやすい。
だから、
しっかり思考すれば
いい。
でも、
決めるときは
直観で決める。
そんなメリハリを
つければいい。
・・・・・・
これを続けると、
直観の出やすい時と
出にくい時の
違いがわかるように
なるだろう。
どんな時に
出やすく、
どんな時に
出にくいか?
その原因が
徐々にわかってくる
はずだ。
原因がわかれば
対策が打てる。
できるだけいつも
直観が生まれやすい
状態であるために
何をすればよいか?
その対策を
習慣化する。
これがお勧めだ。
・・・・・・
自分という人間の
神秘さ。
自分という人間の
深さ。
そして
自分という人間の
面白さ。
それらの片鱗は
直観と共に生きる
ことによって
現れる。
これは人生の面白さ
にも直結する。
同じ人生、
同じ時間、
同じ環境、
にいるのなら、
少しでもそれらを
楽しんでみたいと
思わないかい?
つづく
本当にやろうと
思っているのに
できないこと。
本当は
やろうとしていないのに
どんどん進んで
しまうこと。
本当は
どっちでもいいのに
決断を迫られること。
本当は
こっちがいい!と
思っているのに
その逆の展開ばかり
起こること。
・・・人生は
自分の意図通りに
進まないことばかりだ。
それを
意図に即して進むように
するにはどうすれば良いか?
ということを
皆、
考え過ぎではないか。
これは私の意見だが、
ここは
諦めた方がよい。
・・・・・・
面白いことに
ここを諦めると、
次々に想定外の調和が
起きてくる。
まったく意図通りに
物事が進まないのに、
自分の想定以上の
結果が出たりする。
自分の想像もしていなかった
素敵な展開が
起きたり。
そして気がつくと、
当初自分が
願っていたことは
いつの間にか
実現されている。
もちろんそれは
真本音の願いに
限ってのことだが。
・・・・・・
私達は
「上手くいかない」
と
思い過ぎだ。
かと言って
「なんだかんだと
上手くいっている」
と
無理に自分を納得させる
必要もない。
・上手くいく
・上手くいかない
という次元に
いなければいい。
上手くいっても
いかなくても、
それらを楽しもうと
すればいい。
と私は思う。
実は、
こういう面で言えば、
私の日々は、
上手くいかない
ことばかりだ。
ほぼ、
自分の意図や
思惑通りに
進まない。
とは言え、
頭の中では
「こうなるといいな」
という思惑は
いつも生まれる。
でも、
その通りにいった
ためしがない。
「ほらやっぱり
思惑通りには
いかないよな」
と、
事実を目の前にしながら
私はいつも
内心、苦笑いしている。
が、それも含めて
すべてを
楽しむことにしている。
委ねることに
している。
・・・・・・
ただし。
かといって
思惑や意図を考えることを
やめる
こともしない。
私は仕事の準備は
とてもしっかりとする。
コーチングも研修も
イメージングを
しっかりする。
その努力は決して
怠ってはならないし、
それをしない人が
「上手くいかない」と
嘆いていても、
そりゃそうだろ、
と思う。
意図通りに
いかないことが
わかっていても、
しっかりと自分の意図を
顕在化するのだ。
それをすると、
意図通りいかないこと
自体を
楽しめるようになる。
そして、
自分の意図を超えた
素敵な展開を
目の当たりに
できる。
そしていつも
純粋に思えるのだ。
人生ってのは
すげーなぁ。
人間ってのは
すげーなぁ。
ってね。
つづく
無茶する人が
多い。
多い、というか
増えている。
そう言えば
以前にもこんなこと
書いたっけな。
しかし
その時以上に今、
急増している。
無茶がいけない
わけではないが、
あまりの無茶は
不調和を
起こしてしまう。
たとえその方向が
真本音が望む
方向だとしても。
最大速で
進むことは大事だが、
自分の限界を超えた
最大速は
自己コントロールを
失わせる。
今、自分が出せる
最大速は
どこまでだろうか?
という視点は
とても大事なんだ。
それこそが
自己マネジメントでは
ないかな。
・・・・・・
自分に問うて
みてほしい。
私は今、
躊躇しているだろうか?
と。
していない。
と直観的に
答えが浮かべば
OK。
次に問うて
ほしい。
自分は今、
無理をしているだろうか?
と。
直観的に
している。
と返ってきたら、
それは
あまりよろしくない。
躊躇はしていないが、
無理はしている
という状態。
これは残念ながら
長続きしない。
それどころか
シワ寄せが
周りに与えられてしまう。
結果的に
物事の展開が
遅くなってしまう。
101%でもなく、
99%でもなく、
ちょうど100%の
力とスピードで
進もう。
それを見極めることが
今の私達の
テーマでもある。
これができれば
世の中は
進化を続けられる。
すると、
私達の100%そのものが
進化をし、
さらにスピードアップ
できる。
それによりさらに
世の中の進化も
スピードアップする。
この循環を
創り出そう。
躊躇はしなくて
いいが、
無理はするな。
楽しみながら
進もう。
つづく
本当に
泰然自若としている
人は、
心に傷のない人
ではない。
第一、
心に傷のない人は
一人もいない。
本当に
泰然自若としている
人は、
心に傷があるという
事実を
引き受けている
人だ。
傷のあるのが
当たり前、
・・・と。
そしてその傷を
治そうともしない。
そのままで
いい。
あるがままで
いい。
と、
良い意味で
開き直っている
人だ。
人間誰だって
痛いのはいやだ。
だから
痛さから
逃れようとする。
それは
自然なことだ。
しかし、
逃れようとすることと、
痛さを麻痺させることは
まったく別のこと。
麻痺は
ダメだ。
本当に自分が
おかしくなる。
痛い。
逃げたい。
でも痛い。
でも逃げたい。
でもやっぱり
痛い。
・・・と
あるがままに
痛がることが
健康的だ。
そして
それはもう人として
しょうがないことである
と、
人の宿命を
受け入れることで
その人には
光が溢れる。
真本音の
光だ。
人の宿命を
受け入れるからこそ
真本音は
浮上する。
痛いものを
痛い!
と素直に感じるからこそ
真本音は
浮上する。
そしてその真本音は
光に溢れている。
その光に包まれれば、
私達は、
痛さそのものは
変わらないが、
痛くても大丈夫、
という自分に
なれる。
そして、
痛いままに、
いや、
その痛さがあるが
故に、
自分の次の一歩を
ちゃんと
見極めることが
できるようになり、
その痛さがあるが
故に、
自分の道を
見出せるようになる。
それが
真本音の力であり、
真本音の道だ。
痛がる自分。
逃げようとする
自分。
すべてOKだ。
逃げても
痛いものは痛い。
だから
絶望的になる。
それもOK。
それが
人間ではないか。
そんな自分自身を
引き受けよう
ではないか。
つづく
通常、
私達人間の
自然な成長の途上では、
成長している本人は
自分の成長には
気づかないものだ。
例えば、
身長が日々、伸びている
ことを、
本人は、ほぼ自覚しない。
成長が自然であれば
あるほど、
自覚はない。
ところが、
たま〜に、ではあるが、
本人が
自ら気づくケースがある。
あっ、
今、私は大きく
変わろうとしている。
・・・と。
もちろん
自己満足でそう思い込む
というケースも多い。
それはともかくとして、
自分で自分の
本質的な成長に気づく
大半のケースは、
特異点にある時
だ。
これまでの成長の
道のりからは
かなり大きく外れた
成長を
突然、
人はすることがある。
それをよく私は
「脱皮」
と表現しているが、
ただし今回の話の
特異点とは
脱皮をも超えている。
完全に逸脱した
成長。
「変態」
とも言える。
幼虫が羽化して
成虫になるような
ものである。
この「変態」の
直前、
もしくは最中、
もしくは直後に、
自分のあまりの
変化に
自分で気づくのだ。
その場合の多くは、
人は自分の
根本的変化に
慄(おのの)く。
そして
慄きのあまりに、
せっかくの「変態」が
中途半端になったり、
本来とは違う方向に
進んでしまうことも
ある。
だから
「変態」の心構えを
ここに書いておきたい。
・・・・・・
心構えを
一言で表現すれば、
「抗うな」
となる。
「変態」の不安定さは
尋常ではない。
自分が
まったくわからなくなる
ケースも多い。
私のサポートを
受けてくださっている
人の場合は、よく
「自分の真本音がまったく
わからなくなりました」
という表現をされる。
それはもう、
人生が終わってしまう
のではないか、
という恐怖に近い。
いや、
それ以上かな。
自分が「無」になるような
恐怖だ。
そうなるともう
やみくもにもがいて
もがいて
もがきまくってしまう
のだが、
それを
いっさい諦める
のだ。
自分自身を
大いなる大自然に
委ねてしまうくらいに。
その時の
オススメの心のつぶやき
がある。
『どうでもいいじゃん』
だ。
ある意味、
すべてを投げ捨てて
しまうのだ。
川の激流に
飲み込まれて、
もう諦めて
命を投げ出し、
激流のままに流されていく
ような感じだ。
これを
続けてほしい。
かと言って、
日常生活は
ちゃんといつも通りに
すること。
えぇ〜っ?
できないよ!
と思われるかも
しれないが、
それが
できるのだ。
ここが面白い
ところ。
「変態」は病気でも
何でもない。
むしろ
超健康的な大成長なので
どのような状態でも
ちゃんと
日々のすべきことは
できる。
ちなみに私は
私自身の「変態」の最中にも
毎日、いつものように
コーチングや研修を
行なっていた。
心の中はもう
死んだ状態だったのだが、
不思議なことに
いつも以上の
良い仕事ができた。
これは
病気ではないのだ。
だから、
ちゃんと仕事を
するように。(笑)
これが
もう一つの心構えかな。
「変態」を理由に
サボるなよ、
という。
・・・・・・
「変態」の状態は
長く続く人もいる。
人によっては
何ヶ月も続く人が
いる。
そんなの耐えられないよ、
と
思われるかもしれないが、
何度も言うが、
これは病気では
ない。
死にそうな気持ちに
なっている人に
「しっかり生きなさい」
と言うのも
なんだが、
でも、
ちゃんと
今こそ
しっかり生きなさい。
つづく
私とあなたが
出会えたということは、
それぞれ
真摯に人生を
進めて来れた
証だろう。
ここまで
よく来たなぁ、と
まずは
お互いを称え合おう。
と同時に
出会いは
スタートだ。
出会ったことで
私達は
新たな「覚悟」を
求められる。
出会わなければ
できないこと
に
私達はこれから
立ち向かって
いく。
その準備が
できたらこその
出会いであるが、
準備ができた
ことと
これからさらに
進むことは
また
別のことだ。
本番は
ここからだ。
これまでは
序章に過ぎない。
これまでお互いに
培ったものを
私達は
超えていかねば
ならない。
これまでの
私達に
執着している
場合ではない。
壊すべきものを
壊すのは
これからであり、
そこは
かなりの勇気が
必要かもしれない。
まぁでも、
そういったことを
すべて
引き受けた我々
だからこそ
こうやって
同じ時間に
同じ空間に
いるのだろうね。
これから私達は
未知の領域に
進むのだろう。
だいぶ
怖いかもよ。
でも、
一歩一歩
楽しんで行こうよ。
つづく
人生に
言い訳は要らない。
ところが
言い訳ばかりを
している人は多い。
誰に対して?
自分に
対して、だ。
心の中は
言い訳の宝庫。
常に
自分で自分を
納得させようと
言い訳を続ける。
それにより
大切な一日が
過ぎていく。
・・・・・・
言い訳であることを
最も知っているのは
もちろん
自分自身だ。
だから
言い訳を続ける自分を
責める自分が
発生する。
すると、
責める自分に対して
さらなる言い訳が
始まる。
それに対して
さらに責める自分。
言い訳のループ。
その結果、
自己分裂が激しくなり、
自分同士の戦いが
始まる。
その戦いにより、
人生を開拓するエネルギーの
大半は失われる。
残念ながら、
その状態で
自分の真本音の願いを
実現する人生を
創り上げるのは
不可能だ。
第一、
自分の願いそのものが
わからなくなる。
・・・・・・
ここから抜け出す
唯一の道は、
言い訳なくす、
ことではない。
言い訳をする自分を
愛する、
ことだ。
言い訳。
・・・人として
出るのは当たり前だろう。
言い訳の出ない自分になろう
などとは
思わない方がいい。
だって無理だから。
だって
人間なんだから。
私達の心には
様々な「自分」が
発生しては
消えていく。
そのように
私達の心は
できている。
だからこそ、
進化する。
心のない人間に
進化はない。
心がある、ということは
様々な「自分」が
発生する
ということだ。
それら
「すべての自分」
を、
愛することができるか
どうか、だ。
愛とは、
肯定することでは
ない。
肯定か、否定か、
という次元に
愛はない。
愛とは、
そこに在るものを
ただ
「そこに在るんだな」
と
認めることだ。
その「あるがまま」を
見つめることだ。
たった
これだけのことで
私達の中には
エネルギーが満ちてくる。
そのエネルギーこそが
愛の本質だ。
このエネルギーは
私達が自らの身を削って
創り出しているものでは
ない。
大自然に
もともと存在する
エネルギーが
「すべての存在を
あるがままに
見つめる」
という姿勢(生き方)に対して
引き寄せられて
くるのだ。
つまり、
私達の「今ここでの生き方」
こそが
私達自身に
エネルギーをもたらして
くれる。
そして
その愛のエネルギーに
満ちた者は、
自分だけでなく、
周りのあらゆるものへ、
そのエネルギーを
自然照射できるようになる。
だから
その人には人が集まり、
さらにエネルギーが集まり、
その人の人生は
満たされたものへと
好転していく。
・・・・・・
だから。
今この瞬間の
自分自身の「生き方」が
すべてを決定する。
その「生き方」の
基本は、
自分と
どう向き合うか?
だ。
自分のすべてを
あるがままに
見つめることができれば、
現実のすべてを
あるがままに
見つめることができる。
これを
「真摯」
と私は呼んでいる。
真摯な生き方を
しよう。
それは
今この瞬間から
すぐにでも
誰にでも
できることだ。
つづく
どれだけ力を
尽くしても、
届かないものは
ある。
どれだけ自分を
生きようとしても
見えないものは
ある。
自分の中で
「こうありたい」と
抱く理想を
その通りに
実践、実現できる
ようには
この世はできていない。
何の試行錯誤や
努力もなしに、
「成功」し続けるようには
この世はできていない。
この世を
そのようにしたのは、
別に神様でも何でもない。
私達自身だ。
私達の真本音だ。
追えば追うほど
わからなくなる。
求めれば求めるほど
遠のいてしまう。
その葛藤や
迷いや苛立ちや
自暴自棄。
それらを
私達は
一つ一つ丁寧に
「超えていく」
ことを
実は最も望んでいる。
なぜなら
それは「進化」への
最短の道だから。
しかし、
だから人生は
辛い。
・・・と言うつもりは
ない。
実は、
思い通りに
ならないところに
道を創っていくことは
さほど
難しいことではない。
答えはちゃんと
私達の中に
あるのだし。
私の表現で言えば、
自らの真本音に
素直に生きればいい。
そうすれば、
必要な試行錯誤を
必要なだけして、
必要なプロセスを
経て、
ちゃんと
願いや祈りは
叶っていく。
真本音で生きれば、
真本音の願いと
祈りは
淡々と
叶っていく。
真本音で生きなければ、
真本音の願いは
いつまで経っても
わからないし、
当然、
真本音ではない
願いを目指しても
それは
叶わない。
自分が本当に
目指しているものは
何か?
それをするために
今、
何をすれば良いか?
その単純な
答えは、
真本音に素直に
生きることで
実は
本当に簡単に
淡々と
観えてくる
ようにできている。
しかし
その状態に行くまでが
大変で、
その過程で
私達は
大概、
自暴自棄になる。
何をやっても
上手く行かない。
全然
想い通りに
ならない。
・・・であれば、
自分自身が
真本音では
ないのだ。
自分の「生き方」に
何か
圧倒的な
「間違い」
があるのだ。
もちろんその
「間違い」とは、
世間一般から見た
「間違い」ということではなく、
自分の中で
「間違い」と決めている
間違いだ。
「その生き方は
違うよ」
「そっちでは
ないよ」
ということを
自らにメッセージしている
ということだ。
そして
その「間違い」の
多くは、
皆、ほぼ共通している。
次の問いを
自分に投げて
みよう。
「私は今、
目の前にある
すべての現実に
真摯に
向き合っているだろうか?」
「私は今、
目の前にある
すべての現実を
真摯に
見つめているだろうか?」
「私は今、
目の前にある
すべての現実に
真摯に
魂を込めて向かって
いるだろうか?」
上手くいくこと。
いかないこと。
好きなこと。
嫌いなこと。
やりたいこと。
やりたくないこと。
そのすべての
「現実」に
ちゃんと向かい合って
いるかどうか?
まずこれが
できないうちは、
真本音は
遠のいてしまう。
という単純な
理由がある。
それができていない自分を
私達は「間違っている」と
認識する。
真本音では。
だから、
まず、
それをしなさい。
できるかどうか
ではなく、
「しよう」と
しなさい。
自分の道で悩む
のは、
その次の段階だな。
つづく