チームパフォーマンスコーチ

子どもだって自律する

 

『子が育ちますように』

 

という祈りは、

すべての人の

本能の中心に

脈々と

流れ続けるものだ。

 

私は思う。

 

子は

親のその祈りを

受け、

自らを成長・進化

させようとする。

 

この祈りと想いが

すべての

原動力になっているように

私には

思えてならない。

 

もちろんこの祈りは、

実際の親子

だけに当てはまる

ものではない。

 

例えば、

私のクライアント企業様の

ある社長から感じる

社員さん達への想いは

これとまったく

同質のものだ。

 

・・・・・・

 

私は、5歳の息子と

できるだけ

向き合うようにしている。

 

彼と共に時間を過ごし、

彼との会話を続けていると、

時々、

彼の真本音からの

メッセージが届く。

 

その多くは、

 

「今は私を

自由にさせないでください。

ここでしっかり

私に何が大切かを

何をしてはならないかを

教え込んでください」

 

というものだ。

 

このメッセージを

受け取った時、

私はできるだけ

その通りに

応えることにしている。

 

これはダメ。

 

こうしなさい。

 

やめなさい。

 

こんな言葉が

多く飛び交う。

 

今の息子のテーマは、

 

「一つを決めて

一つをする」

 

である。

 

彼は本当に

発想力と行動力が

豊かで、

しかも様々なことに

興味関心が向く。

 

一つのことを

始めても、

すぐに別のことに

目移りしてしまう。

 

一つを

やりっぱなしで、

次のことに

向かってしまう。

 

そんな時に、

「きちんと今、決めたことを

最後までやりなさい」

と叱る。

 

「心を

落ち着かせなさい」

 

「人を大切にして

自分が今、

どう動けばよいかを

相手の気持ちになって

決めなさい」

 

という言葉も

毎日のように

かけている。

 

恐らく、

こういった話を聴けば、

「それは5歳の子に

すべき教育ではない」

という反対意見が

出るかもしれない。

 

5歳であれば

「もっと伸び伸びと

させてあげた方がいい」

と。

 

しかし私の息子は

徹底的に

伸び伸びと自由だ。

 

なぜなら彼は

真本音度合い100%で

生きているから。

 

彼はすでに

人生のあらゆることに

向き合い、

自らの意思と意図で

動いている。

 

つまりは

私の言葉で言えば、

自律している。

 

もちろん幼いが故に

できないことは

大人よりも圧倒的に

多い。

 

知らないことも

多い。

 

しかし、

そういった未経験が

故の行動範囲と、

自律できているかどうか、

はまったくの別次元の

話だ。

 

彼はもちろん

子どもだからこそ、

親に依存している。

 

親がいなければ

生活もできない。

 

しかし、

実は、依存と自律は

対義語ではない。

 

彼は

自らの意思と意図で

依存している。

 

つまり、

自律した心で

依存している。

 

そんな彼だからこそ、

きちんと

教えるべきことを

教えなければならない。

 

・・・・・・

 

なんて

偉そうなことを書いたが、

その彼への教育を

しているのは

ほとんどが私の妻

である。

 

妻と息子との

コミュニケーションを

見ながら、

私は多くを学んだ。

 

「子が育ちますように」

 

という祈りを

実行するとは

こういったことか、

と。

 

そして私はそれを

様々な企業様での

人の育成と

組織活性化の

参考としている。

 

親の子に対する

育成の仕方こそに、

すべての育成の

原点がある。

 

と、今の私は

思うようになった。

 

・・・・・・

 

まずは

真本音度合いを

高めること。

 

その上で、

しっかりと

指導すること。

 

これこそが

本質であると

今の私は思っている。

 

そして

これができるコーチを

増やしたいと

思っている。

 

つづく

 

悔恨の浮上は、解放である

 

砂漠のような

ところに

私はいる。

 

夜だ。

 

星は

出ている気配は

ない。

 

漆黒の闇が

私を覆っている。

 

私は

四つん這いの

ような格好を

している。

 

私の両手は

砂を掴んでいる。

 

私の手は

震えている。

 

渾身の力で

砂を

掴んでいる。

 

私の目からは

止めどなく

涙が

溢れ続けている。

 

私の表情は、

自分では見えないが、

恐らくは、

鬼のごとき

怒りの表情か、

もしくは、

情けなさの極みの

ような、

深い悲しみの

表情か。

 

私の心の中には

チクショー

チクショー

チクショー

・・・

という私自身の

叫びが

こだまし続けている。

 

悔恨の

念。

 

あまりにも

深い

悔恨の念。

 

私は

その塊だ。

 

怒りはすべて

私自身に

向けられていた。

 

悲しみはすべて

自分の人生

そのものに

向けられていた。

 

人に対する恨みも

きっと

とてつもなく

大きなものだったろう。

 

しかし

それをかき消すくらいに

私は私を

責め続けていた。

 

・・・・・・

 

この情景は、

記憶なのだろうか。

 

よくわからない。

 

しかしそれは

紛れもなく

「体験」だ。

 

「体験」として

私のこの体に

そして

魂に刻まれている。

 

この情景を

思い出したのは、

そんなに遠い

昔ではない。

 

確か、

17〜8年前だ。

 

当時の私はすでに、

今のお仕事を

していたが、

「真本音」とは

まだ出会って

いなかった。

 

この「体験」を

思い出してから

だろうか。

 

私の人生は

大きく

向きを変えた。

 

・・・・・・

 

「体験」の浮上。

 

失われていた「記憶」

の浮上。

 

これは、

決して悪いことでは

ない。

 

「浮上」とは

「解放」を意味する。

 

逆に言えば、

「浮上」していない

ということは、

自分の知らぬところで

それらに自分は

「支配」されている

ことになる。

極端な表現であるが。

 

私のその「体験」の

「浮上」の前は、

恐らく私の人生は、

それに「支配」された

ものだったろう。

 

つまりは、

そのあまりにも深い

悔恨。

 

これに苛まれ、

これを打ち消すために

私は

生きていたのだろう。

 

悔恨を

打ち消すための

人生。

 

悔恨から

逃げるための

人生。

 

別の視点から言えば、

それまでの私の

人生は、

「償いのための人生」

だったのだと

思う。

 

自分を責め続け、

そんな自分は

「償いのために生きよう」

と決め、

それをすべての

モチベーションの源泉

とした。

 

恐らく、

こういう人は

多い。

 

もちろんほとんどの

人には

自覚はないだろう。

 

しかし、

はっきり言おう。

 

自分を

責め続けることを

自分の中心とし、

 

悔恨から

抜け出すことを

人生の目的とし、

 

償うために

生きる、

 

ということは

自分自身の

本来の力の

1割をも

発揮できない人生になる。

 

・・・と。

 

償いたいことが

ある。

 

だから、

償うために

人生を生きる。

 

・・・これでは

一生をかけても

償いは成就しない、

のだ。

 

真の償いとは、

 

『自分自身を

真に幸せにすること』

 

である。

 

自分が

真に幸せにならねば、

自分が

周りを幸せにすることは

不可能だ。

 

この当たり前の

事実は、

もちろん頭ではずっと

わかってはいたが、

 

本当に

紛れなく淀みなく

本当に

心と魂の底から

そう断定できるように

なるために、

私はこの10数年間を

費やしたように

思う。

 

人生は

修行である。

 

もちろん、

そうだ。

 

しかし、

人生は修行である

言い続けているうちは、

真の自分には

近づけない。

 

自分の本当の

人生の目的には

到達できない。

 

人生は

修行である、

というのは

自己満足の行為だ。

 

償いを目的に

するのも、

自己満足だ。

 

自分も周りも

誰もが

それで真の悦びを

得ることは、ない。

 

身も心も魂も

そのように

断定できるように

なったとき、

初めて私達は

本当の人生を

始めることができる。

 

初めて私達は

自分の使命を

知ることができる。

 

何のために

ここにいるのかを

ありありと

知ることができるのだ。

 

つづく

 

思い切って信じてみよう

 

広い野原を

走っていたら、

断崖絶壁に

出た。

 

地面が割れ、

深い谷が落ちている。

 

絶壁から顔を出し、

恐る恐る下を

覗けば、

その谷はあまりに深く、

下は暗く、

まるで奈落の底だ。

 

ここを落ちたら

一巻の終わりだと、

全身が震えた。

 

でも私は

この深い谷を

越えなければ

ならない。

 

ここを飛び越えて、

向こう岸に行き、

さらに野原を

突き進まなければ

ならない。

 

しかも、

期限が

迫っている。

 

切り落ちた

深い谷の向こう岸まで

恐らく50mほど。

 

さて、

どう行くか?

 

・・・・・・

 

すると、

向こう岸に

人が現れた。

 

こちらを見て

ニコニコしている。

 

手を振ってきた。

 

私も手を

振った。

 

声が聞こえた。

 

「早く

おいでよ!」

 

と。

 

「渡る術が

ないんだ!」

 

と私が

叫ぶと、

 

「大丈夫!

思い切って

飛んでごらん。

飛べば、

暗い谷の奥から

風が吹き上がってきて、

あなたが

落ちることはないから。

そして、

その風が

あなたをこちら側まで

運んでくれるから!」

 

との返事。

 

私はその人を

じっと見つめた。

 

するとその人も

私を

見つめてきた。

 

50mも離れているのに、

目と目が合った瞬間、

つながり合えた

気がした。

 

嘘を言っているようには

思えなかった。

 

とは言え、

本当にその人の

言う通りになる確証は

何もない。

 

とは言え、

ここを飛び越える

術も

他にはない。

 

どうする?

 

あなたなら

どうする?

 

・・・・・・

 

私は

躊躇なく

跳んだ。

 

すると、

本当に暗い谷から

風が吹き上がり、

私は

飛んだ。

 

風に身を委ねると

難なく

向こう岸に

たどり着いた。

 

その人は

その様子を

ニコニコと

見守っていた。

 

その人のもとに

降り立つと、

その人は

 

「おかえり」

 

と笑った。

 

「あなたは

どなたですか?」

 

と私が

訊くと、

 

「何言ってんの」

 

と、

さらに笑いながら、

突然その人は

私に近づいてきた。

 

えっ?と

驚く間もなく、

その人は

私に溶け込んだ。

 

それで

わかった。

 

なんだ、

私じゃないか。

 

私の

真本音だった、

と。

 

・・・・・・

 

私は私の

真本音を信じた。

 

だから、

すぐにこちらに

来れた。

 

しかしもし

信じていなかったら

どうなっただろう?

 

間違いなくまだ

もとの場所に

いただろう。

 

そして

ここをどう渡るかを

悩んでいるか、

もしくは

あきらめるか・・・。

 

いずれにしても

多大な時間が

かかるだろう、

ここまで来るには。

 

そう思いながら

野原をさらに

進むと、

またもや

断崖絶壁が。

 

今度は

向こう岸まで

100mくらいある。

 

しかし

またもや向こう岸に

人が現れた。

 

遠くて豆粒の

ようだが、

やはりあれも

私の真本音なのだろう。

 

その人は

「おいでおいで」と

手で合図をした。

 

だから私はまた

躊躇なく

跳んで、

そして飛んだ。

 

あっという間に

次の岸へ。

 

恐らくこれから

どれだけ多くの

谷が現れても、

その向こうに

真本音が現れるならば、

私は難なく

進み続けるだろう。

 

もちろん

谷の難易度は

これからずっと

高まるかもしれない。

 

しかし、

やることの本質は

同じだろう。

 

真本音を信じて

その通りに

進むだけだ。

 

私は、

最初の50mの谷で

経験ができた。

 

だから

より確信を持って

真本音の通りに

進むことができるように

なった。

 

みんな

そうなればよいと

思う。

 

真本音は

無茶しない。

 

いやいや、

跳ぶのは無茶でしょ、

言われるかも

しれない。

 

しかし、一度でも

跳んでしまえば、

それがまったく

無茶ではないことは

よくわかるのだ。

 

そんなもんだ。

 

だから

思い切って

やってみようよ、

真本音の通りに。

 

つづく

 

迷いの真っ只中にいます

 

人生は

試行錯誤の連続

である。

 

悩み、迷い、

それでも決断し、

やってみて

結果が出て、

また、迷う。

 

その連続。

 

真本音度合いが

高まると、

それがなくなるのですか?

 

と、時々

訊かれるが、

 

それは

なくならない。

 

何も

変わらない。

 

えぇ〜?

じゃあ、意味ないじゃん。

思われるかもしれないが、

そうではない。

 

試行錯誤には

2種類あるからだ。

 

つまりは、

どれだけ試行錯誤しても

前には進めない

という

試行錯誤がある。

 

同じところを

グルグル回り続ける

試行錯誤だ。

 

これは本当は

試行錯誤とは

言わない。

 

停滞、

と言った方がよい。

 

もう一つは、

手応えのある

試行錯誤だ。

 

これは、

試行錯誤自体に

とてつもない充実感を

得る。

 

とはいえ、

あくまでも試行錯誤

なので、

本気で悩むし

本気で迷う。

 

しかし、そこを越えて

自分なりの決断ができると、

目の前の視界が

一気に開ける。

 

それはまるで、

すべてから

解き放たれ、

すべてから

自由になれたような

そんな感覚。

 

これを私は

「脱皮」

と呼んでいるが、

 

この、脱皮を伴う

試行錯誤が

本来の試行錯誤だ。

 

真本音度合いが

高まるということは、

 

「停滞の試行錯誤」が

なくなり、

 

「脱皮の試行錯誤」のみが

始まる

 

ということになるのだ。

 

・・・・・・

 

もちろん、

悩むのも

迷うのも

苦しいことだ。

 

できれば、

悩みも迷いも

まったくない

人生がいい、

と思うだろう。

 

しかし人間、

面白いもので

そういった意味での

安定を得ると、

途端に

生きがいを失くし、

「自分」を失くす。

 

生きがいとは、

生きる意味を

感じていること。

 

生きる意味を

感じない人生は

誰もが

放棄したくなる。

 

「私は安定を

求めます」

誰もが言う。

 

安定のために

がんばっている人は

多い。

 

しかし、

そういった意味での安定を

実際に手に入れてしまうと、

残念ながら

冒険したくなるのが

人間だ。

 

実はここで言う

安定

は、本来の安定では

ないからだ。

 

・・・・・・

 

本来の安定とは、

自転車のような

ものである。

 

つまりは、

進み続けることで

安定する。

 

止まってしまうと

倒れてしまう。

 

それが自転車であり、

人間も

同じようなものだ。

 

ということを、

何万人という人達と

向き合うことで

私は実感した。

 

私達は

「進むことによる安定」

最も望む生き物

なのだ。

 

恐らくこれが

宇宙の摂理

だ。

 

だから私は

人間の本能の中心は

「進化」

であると思っている。

 

・・・・・・

 

進化が始まると、

誰もが

イキイキする。

 

目は輝き、

その人らしさが溢れ、

「毎日が楽しくて

しょうがありません」

と言う。

 

進化が止まると、

途端に人は

元気を失くすし、

輝きを失くす。

 

それは

あまりにも

顕著だ。

 

顕著すぎて

笑ってしまう。

 

そして、

進化にどうしても

必要なのが

「試行錯誤」

である。

 

もちろん

「脱皮の試行錯誤」

だ。

 

真本音で生きる、

とは

そういった

私達人間の本能に

素直に生きる、

ということで、

 

それにより

多くの人達の人生は

冒険的になる。

 

冒険、

と言っても

決して、無茶は

しない。

 

真本音は

「できることしか

しない」

のだ。

 

しかし、

素直にそれを

やり続けると、

側から見れば、

 

「あの人

無茶だ」

 

と思われることは

しばしばあるが。

 

でも本人は

決して

無茶はしていない。

 

できることを

着実に

日々、行ない続けて

いるだけ。

 

しかもそれは

自分にとって

最も「適度」な

刺激を伴いながら。

 

だから、

楽しい。

 

真本音の人生に

入ると、

すべてが楽しくなる。

 

そういった人生は

誰もが、

つまりは全員が

手に入れることが

本当はできる。

 

・・・・・・

 

実は、

今の私は

試行錯誤の真っ只中

にいる。

 

迷いの

真っ只中だ。

 

手がかりが

つかめない。

 

まったく

つかめない。

 

だからこそ、

とてつもなく

面白い。

 

と、

素直に感じることが

できるのは、

ずっと真本音で

生きてきた成果かな、

とも思う。

 

つづく

 

「指示」できるコーチが必要だ

 

私は夜、22時以降に

スカイプなどを使った

コーチングをすることが

多い。

 

夜中にしか

コーチングできない人も

いるからだ。

 

スカイプは基本的に

声のみで行なう。

 

声のみに

集中する。

 

そういったコーチングも

それはそれで

独特の良さがある。

 

クライアントさんの

姿は見えないのに、

あまりにも

まばゆい光を

感じることが

実は、よくある。

 

今も、お一人のコーチングが

終わったところであるが、

私はその人の光に

ずっと包まれていた。

 

その人は

今日のコーチングで

大きく開放された。

 

もはや、

「脱皮」という次元

ではない。

 

あえて言えば、

「羽化」

と言えるものだろうか。

 

サナギだったその人が

まるで突然変異のように

成虫へと

姿を変えた。

 

そして、

これまでいた地中から

抜け出て、

一気に大空に

高く飛び上がった。

 

果てしなく

上昇を続けていく。

 

そんな姿が

ありありと観えるような

コーチングだった。

 

・・・・・・

 

こういう時、

私は

やっぱり人の可能性は

無限なんだなぁ、

と、いやでも

思ってしまう。

 

と同時に、

なんでこんなコーチングが

できたのだろうか、と

自分でも

わからなくなる。

 

恐らく、

意図がないからこそ

できることなのだろう。

 

本当に私には

まったくの

意図がない。

 

その人を

開放させてやろう、

とか、

気づきを与えてやろう、

とか。

 

それどころか、

その人が

成長するといいな、

という意図すら

ないかもしれない。

 

もっと言えば、

コーチングによって

良い成果が出れば

いいな、

という意図すら

ない。

 

何も、

ない。

 

その状態で

向き合うからこそ、

恐らく私は

その人の真本音の

「鏡」

となれるのだろう。

 

人は

本当の「鏡」を

観れば、

わかるものなのだ。

 

自分が何者で、

本当は

何を為すべきか?

ということを。

 

それは

他者が教えることでも

指導することでも

ない。

 

すべての人が

自分と向き合い、

自分自身と語り合う

ことでしか、

見つけられない

ものなのだ。

 

・・・・・・

 

意図を

手放す。

 

これができる

コーチが

ほしい。

 

そんなコーチが

増えると

本当に

よいだろう。

 

一般的には

コーチとは、

答えを与えない人

のことを言う。

 

あくまでも、

クライアントさん自身が

答えを見つけ出すのを

サポートするのが

コーチだ。

一般的には。

 

しかし、

完全に意図を

手放すことが

もしできたとしたら、

 

そのコーチは

「教える」

ことができるのだ。

 

「答えは

こうですよ」

と。

 

「あなたは今、

こうすべきですよ」

と。

 

はっきり明確に

断定的に

教えることや、

指示することすら

できる。

 

意図のない

状態での

指示。

 

これほど

強烈なものは

ない。

 

そんなことができる

コーチを

私は育成したい。

 

つづく

 

組織のどこかにツボがある

 

自分の可能性に

気づいていない人が

多いのと同様に、

 

自社(もしくは自部署)の

可能性に

気づいていない組織も

実に多い。

 

しかも、

たった一人の人の

ちょっとした振る舞いが

その組織の可能性を

大きく左右している

ケースも多い。

 

例えば、

Aさんがちょっとだけ

表情を曇らせると、

その瞬間に

そこにいる誰もが

口をつぐんでしまう。

 

するとそこで

本来、出されるはずだった

大切な意見が

出されなくなる。

 

本当はそこで

出される意見が、

組織の方向性に

大きな影響を与えたはずのに、

そのたった一つの意見が

出なかったばかりに、

組織は迷走を続ける。

 

・・・というような場面を

私は数多く拝見してきた。

 

表情を曇らせたAさんには

もちろんその自覚は

ないし、

それに影響を受けた

何人もの人達にも

その自覚はない。

 

自覚がないままに

迷走への流れを

創ってしまっている。

 

そしてそれが

その組織の

パターン(クセ)と

なっている。

 

ちょっと極端な例だが、

これに近い組織は

本当に多いのだ。

 

そんな時、私は

意見を出せなかった皆さんに

「意見を出しなさい」

という風には

しない。

 

Aさんのちょっとした

表情の曇りが

出ないように

まずは

Aさんに働きかける。

 

Aさんは無自覚に

やっているので、

単純に言えば、

Aさんにそれを

教える。

 

すると

たったそれだけで

Aさんの表情は変わり、

たったそれだけで

組織の空気感が

大きく変わる。

 

そんな簡単に

いくの?

 

本当にそんなことが

あるの?

 

と思われるかも

しれないが、

実は、

そんなことばかり

である。

 

私は常に

「一点」

を探している。

 

今のこの組織の「現実」を

創り出している「一点」は

どこにあるか?

を探している。

 

それはほとんどの場合、

「この人が原因だ」

と特定される。

 

もしくは、

「この人とこの人の

関係性が原因だ」

というのも多い。

 

逆に言えば、

その「一点」を解決せずして

本当の解決には

つながらない。

 

本当は

たった一つのツボを

押せば、

体はすぐに治るのに、

そこを外して

様々な治療を

立て続けに行なうようなもの。

 

的を外した対策は

残念ながら

効果としては

何十分の一となる。

 

多くの人は

組織活性化を

難しく考え過ぎている。

 

そして

あまりに多くの

対策を打ち過ぎている。

 

それにより逆に

不調和が起きてしまう。

 

下手をすると、

「この組織はもうダメだ」

とあきらめモードになる。

 

あきらめる必要は

ない。

 

注意深く

ツボを探せばいい。

 

「一点」を

見つければいい。

 

「一点」を見つけ、

そこを押す。

 

するとそこは

改善され、

次の「一点」が見えてくる。

 

そうしたらその

次の「一点」を

押す。

 

するとさらに

次の「一点」が

見えてくる。

 

そうしたらまた

それを押す。

 

その連続。

 

それにより、

組織活性化の流れが

大きくなる。

 

ツボ探し。

 

「一点」探し。

 

それができるのが

「コーチ」である

と私は思っている。

 

前にも書いたが、

「コーチ」とは

企業という組織の

コーチングができて

初めて「コーチ」だと

私は思う。

 

組織は

人の集まり。

 

誰かのどこかに

ツボはある。

 

必ず、ある。

 

つづく

 

それは本当に望む成長か

 

生まれてからずっと

地中にいた生き物が

初めて地上に出て、

太陽の光を浴びた時の

驚きとは

どのようなものだろうか。

 

実際の生き物が

どうとか言うことではなく、

自分がそうなったつもりで

想像してみよう。

 

例えば、

最初から目が

見えるとしよう。

 

初めて地上に出たら、

どうなるだろうか。

 

もちろん、

太陽のあまりの明るさに

目は眩むだろう。

 

地中にいた

窮屈さがなくなり

戸惑うだろう。

 

しかし

そういった表面的な

こととは別として、

何かがとても

「静か」になるのでは

ないだろうか。

 

と、

私なんかは

思うのだ。

 

なぜなら

似た経験を私は

何度もしている。

 

あの

独特な感覚。

 

戸惑いと

嬉しさと

静けさと。

 

そしてその後に

やってくる、

内側から

溢れ出ようとする

自らのエネルギー。

 

しかしそのエネルギーは

やはり

静けさを伴う。

 

むしろ、

「安心する」

「安寧を得る」

と表現した方が

よいだろう。

 

何か大いなるものに

包まれる感じだ。

 

それを自らが

発していると知ったとき、

みんな

誰しもが驚くと同時に、

思い出すのでは

ないか。

 

あぁこれが

私であった、

と。

 

安心と安寧とは、

自らを思い出すことによる

わかりやすい

感覚なのだろう。

 

・・・・・・

 

コーチという

お仕事をしていると、

とても多くの方々が、

 

「私、成長しました!」

 

と喜び勇む瞬間と

出会う。

 

その時こそ私は

とても注意する。

 

何かから

解放された瞬間の

喜びに

私は注意する。

 

その視点として

最も大事にしているのは、

その人が、

 

静かかどうか?

 

である。

 

もちろん表面的な

ことではない。

心の奥底、

それを、魂、と言っても

いいが、

そこの静けさを

観察する。

 

成長は

エネルギーを呼ぶ。

 

やる気を呼ぶ。

 

前向きさを

呼ぶ。

 

しかしその根底が

静かかどうか?

によって、

 

その「成長」が

永続的か

刹那的か

がわかるのだ。

 

要するに、

「刹那的な成長」

という

ものがあるのだ。

 

これによって

生み出される

エネルギーは、

 

短期間で

枯渇する。

 

間違いなく。

 

そしてその後には

必ず、

「虚無」

が来る。

 

つまりは

「反動」が来るのだ。

 

そしてその人は、

「成長の喜び」と

「反動としての虚無」

行き来するようになる。

 

それは結果として

とてつもなく

疲れることだ。

 

そしてそこに

「進化」

はない。

 

このような成長の

ことを私は、

 

「膨張」

 

と呼んでいる。

 

・・・・・・

 

とても残念であるが、

「膨張」を

成長と信じて、

そして、

「膨張のエネルギー」を

成長のエネルギーと

信じて、

邁進する企業は

あまりにも多い。

 

私の役割は

まずはそれを

止めることだと

思っている。

 

なぜならその先に

待っているのは

「破裂」だからだ。

 

実のない膨張は

間違いなく

破裂する。

 

風船が

大きくなり過ぎて

破裂するのと

同様だ。

 

風船の中身は

何もない。

 

ただ、

枠が大きくなっている

だけのことだ。

 

中身がないから

枠が広がれば広がるほど、

その枠は

薄く弱くなっていく。

 

そして

ある限界を超えることで

破裂する。

 

あまりにも

自然な道のりで

ある。

 

しかしそれに

気づかない企業と、

 

それに気づかない

コーチが

多過ぎるのでは

ないだろうか。

 

膨張は

わかりやすい。

 

今の世の中では

ある意味、

実現もしやすいかも

しれない。

 

だからと言って

本当にそれで

いいのか?

 

私達は、

刹那的な

成長に

喜んでいる

場合だろうか?

 

つづく

 

本当は、確信はそこにある

 

あらゆる反応本音から

解放されて、

真本音そのものと

なれている状態を

私は

 

『真本音状態』

 

と呼んでいる。

 

本当は

このように名付けることに

かなりの抵抗が

ある。

 

なぜならこの状態が

「特別な状態である」

という印象を

与えてしまうから。

 

私からしてみれば、

この状態は本当は

人間にとって

最も「普通」の状態であり、

この状態にいることが

「当たり前」のことだと

毎日つくづく感じている

のだが、

 

逆に私が

そのようにお伝えすると、

どうも多くの方は

「わけがわからなくなる」

ようだ。

 

確かに、

20年くらい前の私に

その言い方をすれば、

理解不能になるか、

もしくは、

「理解しているつもり」

になるかもしれない。

 

だから本当は

「普通の状態」

なのだが、

それをあえて

「真本音状態」と呼び、

まるで普通ではないような

表現をしている。

 

・・・・・・

 

真本音状態になると、

「すべてがわかっている」

状態となる。

 

とは言え、

それは顕在意識のレベルで

わかっているのではなく、

 

「私はすべてが

わかっているんだなぁ、

本当は」

 

という事実(真実)が

ありありとわかっている

状態である、

ということだ。

 

だから、

そんな自分の中から

生まれる

あらゆる発想や判断や

決断の数々を

掛け値なしに

信じることができる。

 

「信じる」と言うとまた

語弊がある気も

するが、

あえて言えば、

すべての自分の発想と

行動に

「確信を持てる」

感覚だ。

 

もちろんそれが

本当に正しいかどうか?

はわからない。

 

それに

「確信が持てる」

とは

「正しいと思える」

と言うことでもない。

 

「正しいとか

正しくないとか、

そんなことどっちでも

いいじゃん」

 

という状態である。

 

「そんなことよりも

今の私はこれを

やるんだ。

それが当たり前のことだし、

宇宙の摂理だ」

 

くらいに

思えていることが

「確信」かな。

 

あえて言えば、

 

「思い出す」

 

感覚に近い。

 

あぁそうそう。

私はここで

こうするんだったな、

と。

 

まるで未来の自分が

過去である今の自分を

思い出している

感覚だ。

 

過去の出来事を

思い出し、

「そうそう、あの時

私はこう動いたよな」

という感じで、

今の決断を

するのだ。

 

その判断が

正しいかどうかは

別として、

その感覚のまま

毎日を動いていれば、

 

必然的に

すべてが調和する。

 

「調和」というのは

何も、

すべてがスムーズにいく

ということでもないし、

 

「不調和の調和」

ということもあるが、

 

しかしそれでも

やはり、

「こんな風に

人生は自然に

展開していくものなのか」

という実感を

驚きと共に

得ることはできる。

 

・・・・・・

 

私がいつも

最大にエネルギーを

注いでいるのが、

 

そこにいる人々が

自ら意図的に

真本音状態に戻れる

ようになる。

 

という状態に

することだ。

 

組織の中で

全員とは言わなくても、

1割以上の人が

そうなれると、

組織のエネルギー(パワー)

は変質する。

 

社会に対して

良いエネルギーを

発し続ける組織と

なり、

その結果として

業績が向上していく。

 

もちろんそこまでには

紆余曲折があるが、

その紆余曲折の

一つ一つもすべてが

「調和」への道だ。

 

その状態まで

サポートできる人の

ことを私は

「コーチ」

と呼んでいる。

 

そんなコーチを

私は

増やしていきたい。

 

つづく

 

ここにいるから

 

ビルの谷間から

ふと上を見上げると、

 

真っ青な

空があり、

 

あぁ、空はいつも

あり続けて

きたんだなぁ、

 

と思うと、

我に返るような

感覚を得る。

 

我に返る

とは

今ここに帰る

ということ。

 

私達は

今この瞬間に

生きている。

 

「現実」は

今この瞬間

のみに

存在する。

 

「人生」は

今この瞬間の

連続で、

それ以上でも

それ以下でも

ない。

 

という事実を

身をもって思い出す

と、

ホッとする。

 

そして

改めて思うのだ。

 

今を楽しもう。

 

と。

 

今を嚙みしめよう。

 

と。

 

つづく

 

掴みたいものがあるんだ

 

私は早く

「要なし」

になりたい。

 

「たけうちさんは

もう

必要ないよ」

 

と言われたい。

 

すべての

クライアントさんから

そう言われたいし、

 

世の中からも

そう言われたい。

 

そうすれば

私は

安心して

引退できる。

 

早くその日が

来れるように

今は

がんばっている。

 

・・・・・・

 

私は本当に

多くの人の人生と

触れ合ってきた。

 

その人の人生は

その人のもの。

 

その人の人生は

私の人生では

ない。

 

その区別は

とても大切であり、

区別をすることが、

コーチとしての

必須の

在り方である。

 

だからこそ

「他者だから

できる最大の

サポート」

が可能になる。

 

「あなたの人生は

私の人生だ」

なんて言おうものなら、

何たる傲慢!

となるだろう。

 

人への愛とは

自分と

自分以外の人とを

区別するところから

始まる。

 

そしてコーチという役割は

「その人の人生は

その人のもの」

という

尊重から始まる。

 

・・・という

基本がある。

 

この基本を

わかっていない人は

人をサポートしては

ならない、

ということは重々に

わかっているし、

 

そうしている。

 

しかし、

その上で

あえて言おう。

 

私は

人をコーチングさせて

いただきながら、

その人と

いつも

「一つ」

になる。

 

そして

その人の人生と

「一つ」

になる。

 

その人の喜びとも、

その人の苦しみとも、

「一つ」

になるのだ。

 

ちゃんと

区別はついて

いる。

 

私と

あなたは

違う。

 

現実世界では

そうなっている。

 

しかし、

実在の世界では

私は

確かに

「一つ」

になっている。

 

私は

すべてであり、

すべては

私であり、

あなたは

私であり、

私は

あなたである。

 

という

ことに

なっている。

 

区別は

ついている。笑

 

でも、

そうなってる。

 

・・・・・・

 

例えば今日は、

12名の人と

向き合った。

 

すると

今の私の中には

12名が

まだいる。

 

そして

12名の

人生を

そのままに

ありのままに

感じている、

 

というよりも

やっぱり正確に

表現すれば

「一つ」

となっている。

 

そして今、

12名分の

喜びと苦しみを

感じている。

 

これはいったい

どういうこと

なのだろう?

 

何のために

私は

こんなことを

しているのだろうか?

 

・・・・・・

 

いや、

答えはよく

わかっている。

 

わかってないけど

わかっている。

 

もちろん

自己満足で

やっているわけでは

ない。

 

はっきり言って

これ、

日によっては

とてつもなく

苦しいのだ。

 

自分の生命力の

ほぼすべてを

使い切ってしまう

日もあるし。

 

とてもとても

自己満足のレベルで

できることでは

ない。

 

かと言って

私は

満足している。

 

満足というよりも

悦び

である。

 

何でだろう?

 

恐らくこれは

必要なことが

できている

悦びなのだと

思う。

 

これを私は

約10年、

毎日続けているが、

 

その体験は、

これから

私がすべき

あるゆることにおいて

必要なことだと

わかるからだ。

 

この体験を

通じてしか、

人に伝えられない

ことがあるのだ。

 

私はこれまで

何万人もの人と

向き合ってきたが、

 

その人と自分を

区別して

分離して

向き合うことでは

得られないものを

得ようとしていることは

よくわかっている。

 

もし途中で

自分の生命力が

持たず、

自分が死んでしまっても

それはそれで

しょうがないと

いつも覚悟を

決めてきた。

 

ひょっとして

明日、

死んじゃうかも、

いつも思って

ここまできた。

 

私にだって

守りたいもの、

守るべきものがあるので、

絶対に

死にはしないと

決めているが、

 

でも、

その覚悟は

確かにあった。

 

そうまでしても

私には

掴みたいものが

あるのだ。

 

そのための

人生であると

よく

わかっている。

 

だから明日も

私は

あらゆるものと

「一つ」に

なる。

 

その経験を

日々、

積んでいく。

 

それをしなければ

絶対に

気づけない「何か」を

得るために。

 

私は私のこの

真剣さが

怖いとも思う。

 

でも

しょうがない。

 

最初から

決めている

道だからね。

 

つづく

 

受講生さんが凄くてね

 

『ザ・セルフ』 という

セルフコーチングの手法を

集中的に修得していただく

新しい講座を始めたが、

 

やってよかったな、

つくづく思っている。

 

ちょうど今、

半分を過ぎたところ

であるが、

 

なんと、

私の中では

ある意味での

完了感がある。

 

もう、皆さん

大丈夫ではないか。

 

得るべきものを

得たのではないか。

 

このまま

講座を終えてしまっても

よいのではないか。

 

とさえ

思っている。

 

いったいこの

完了感は

何だろうか?

 

そこを自分なりに

セルフコーチング

してみたい。

 

・・・・・・

 

まず真っ先に

思い浮かぶのは、

 

皆、すでに

「一本道」

に立てている、

ということだ。

 

私達人間には

全員、

「一本道」が

ある。

 

それは、

生まれた瞬間から

自分が自分に

約束した

人生の道である。

 

最初は

その道を探すのが

人生の目的となる。

 

そして見事に

それを見つけたら、

人生の第2ステージに

入る。

 

つまりは

その「一本道」を

突き進むのだ。

 

今回の受講生さんは

講座のスタート時では、

ほぼ全員、

人生の岐路に

立っていた。

 

もしくは、

立とうとしていた。

 

自分の道を

見つけたい。

 

本当の道を

見つけたい。

 

という意欲が

高かった。

 

だから、

セルフコーチングが

非常に効いた。

 

そして今、

全員が

「一本道」に

立った。

 

もちろん、

その「一本道」のすべてが

見通せているわけでは

ない。

 

しかし、

自分が今、

一本道に立っているのか?

いないのか?

という判別のつけ方と、

 

そしてその

一本道を堂々と

進むためにはどうすれば

よいか?

 

ということを

理屈ではなく

体得したのだと思う。

 

だからもう

私なんかがいなくとも

皆さんは充分に

自分の道を歩いていけるな、

という

実感がある。

 

それが私の

完了感になっている

のだと思う。

 

・・・・・・

 

もう一つ浮かぶのは、

 

皆さんは完全に

オープンになった

という事実だ。

 

変な言い方をすれば、

「裸になった」

ということになる。

 

そして、

裸の方が

まったくもって

人生を進むには

楽である、

という真実を得た

ということだろうか。

 

もちろん、

日々の悩みはある。

 

迷いも

出る。

 

自分を失うことも

あるだろう。

 

しかし、

どうすれば

本来の自分に

戻れるか?

 

どうすれば

裸の自分に戻れるか?

 

そして、

裸の自分に戻ることが

どういうことなのか?

 

裸の自分に戻る

ことで

何が起こるのか?

 

ということを

やはり理屈ではなく

体得できたのだと

思う。

 

要するに、

「自分らしさ全開」

である。

 

かと言って、

それがゴールでは

ない。

 

それが

「スタート」

である。

 

自分らしさが

全開になってからが、

本当の成長(進化)の

スタートであり、

 

自分の発する

エネルギーと魅力と

力の数々は

これから本格的に

開発される。

 

まだ見ぬ自分との

出会いも、

これから本格的に

始まるだろう。

 

しかし

その「スタート地点」に

立てたということが

素晴らしい。

 

これがまた

完了感になっている

のだと思う。

 

・・・・・・

 

恐らく、

講座をスタートさせた時点

での、

皆さんの真本音の目的は

すでに

果たされたのだと思う。

 

しかし講座はまだ

半分弱、

残っている。

 

ということは・・・。

 

ここで私は

改めて

自分の役割に

気づく。

 

私の役割とは、

皆さんの真本音の

想いに

お応えするだけでなく、

 

さらに

皆さんの真本音が

当初願っていた以上の

「加速」を

ご提供することである、

と。

 

表現によっては

かなり傲慢な感じ

ではあるが。

 

しかし思えば、

自分がかつて体験

したことのない

「加速」を得たい、

という人達が

ここには集まっている

ように思う。

 

期待以上の

加速を

したい。

 

という期待。

 

それにまた

お応えするのが

私の役割なのだろう。

 

すでに皆さんは、

心の中だけでなく、

「現実」をも

変えた。

 

今日も

「次々にいろんなことが

起こります」

と喜びながら

ご報告くださった。

 

しかしそれはまだ

序の口である

ということを

今後、さらに

体験を通じて

知っていくのだろう。

 

そのきっかけを

ご提供するのが

私の役割であると、

改めて

感じ入ったのが

 

今日だった

のかな。

 

つづく

 

躊躇を外してみようかな

 

「完了感」。

 

何かを100%

やり切った

感覚。

 

99%ではなく、

101%でもなく、

100%の時にしか

得られない

独特の感覚。

 

それが

今の私にある。

 

なぜだか

わからないのに、

ある。

 

時々、

こういうことがある。

 

理由もなく、

完了感のみが

湧き上がる。

 

こういう時は

実在のレベルで

何かを

完了させたのだろう。

 

「実在」とは

心の中の現実。

 

心の中で

確固たるものとして

生まれたもの。

 

恐らくであるが、

長年かけて

構築を目指して

やり続けてきたことが

完成したのだろう。

 

もちろん、

本当の意味での

完成は

ない。

特に実在に

おいては。

 

しかし、

一つの段階において

何かが完成し、

次のステージに

入っていくのだろう。

 

・・・・・・

 

実在における

完了感を得た

ということは、

 

これからそれが

現象化

するということだ。

 

つまり、

心の中の現実が

実際のこの世界の

現実として

現れる。

 

それが何かは

今のところ

まだ自分でも

把握できていないが、

 

何となく

楽しみである。

 

・・・・・・

 

さて。

 

これから私は

何をしようか?

 

もちろん

コーチを育成する

ことは

決めている。

 

そのコーチと一緒に

たくさんの

現場に入ることも

決めている。

 

まだまだ

やることは多い。

 

これからさらに

増やしていく。

 

ただ。

 

これまでの私を

私は一つ大きく

変えねばならない、

 

と、今わかった。

 

これまでの私は

私の真剣さを

私以外の人に向ける

ことを

躊躇してきた。

 

いや、

そのつもりはなかった

のだが、

今、本当に

そう思った。

 

変な言い方

であるが、

私は私の真剣さが

実は、ちょっと怖い。

 

真剣すぎる

からだ。

 

私のこの真剣さを

受け止め切れるのは、

私の妻だけであると

これまでは

思ってきた。

 

しかしそれでは

いけない。

 

それでは

進めない。

 

私は私の真剣さを

徐々にではあるが、

解放しようと

思う。

 

実在で

何が完了したかは

わからないが、

そうしなければ

その完成したものは

現象化できないと

今、わかった。

 

ちょっとずつ

躊躇を

外そう。

 

う〜む、

勇気が要るね。

 

つづく

 

怖いからこそ見つめよう

 

今、

問題の核心は

何か?

 

本当は、

このダイレクトな

問いに素直に

向き合えば、

 

ほとんどの問題は

8割方は

解決してしまう。

 

しかし私達には

その、

素直さ

がない、

 

場合が多い。

 

核心を観る

のが

怖いのだ。

 

だから

まずはそこから

目を背けることに

全力になる。

 

もちろん、

そうなっている自分を

自覚することは

ない。

 

自覚できたら

大したものだ。

 

だから私は

いつもいつも

この問いを

大切にしている。

 

今、

問題の核心は

何か?

 

・・・・・・

 

問題の核心は

恐怖感の

その先に

ある。

 

そりゃそうだ。

 

問題の核心

だからこそ

恐怖感が湧く。

 

つまり、

最も怖い方向を

見つめれば、

そこに

実にシンプルな

核心が

潜んでいる。

 

いや、

本当は潜んでなんか

いないのだが、

あまりの恐怖によって

そいつの前では

私達は

目を瞑ってしまうのだ。

 

全力で

目を瞑る。

 

で、

わからない

わからない

と言い続ける。

 

時には、

目を瞑っているその

まぶたの上に、

くっきりとした

キラキラの目を描いて、

 

ほら、

私、ちゃんと

目を開いているでしょ!

 

とアピールする

人もいる。

 

もちろんやはり

本人にその自覚は

ない。

 

逃げることに

必死だという

自覚が。

 

そういう人と

向き合うと、

あまりの恐怖感と

あまりの拒絶感に

私は

言葉を失う。

 

怖いものを

怖いと言えれば、

もっと楽になるのに。

 

本人は最も

楽ではない道を

邁進する。

 

まぶたの上に

描いた偽物の目を

堂々とこちらに見せ、

 

ほら、

私はこんなに真剣に

自分の使命に

向かっています、

 

と訴え続ける。

 

自分の人生を

邁進しています、

 

と。

 

・・・・・・

 

そのように

全力で逃げようと

する人は、

 

どうやら

私からのお墨付きを

もらいたいようだ。

 

つまり、

「たけうちさんが

いいね、って

言ったから、

私はこれで

いいんだ」

という

お墨付きだ。

 

このお墨付きを

ほしいが故に、

あえて私に相談

してくる人もいる。

 

しかし私は

決して

そのような「お遊び」

にお付き合いする

ことはない。

 

そのような

「お遊び」は

ダメですよ。

もっと

真剣に生きましょうよ。

 

というニュアンスの

空気感を

ほんのちょっとだけ

私は

その人に向ける。

 

すると多くの場合は、

とても残念なことに

一目散に

私の前から

去っていく。

 

私は別に

「もっと強くありなさい」

とは

一言も言っていない。

 

私はただ

「もっと真剣になろうよ」

伝えているだけだ。

 

真剣になる、

とは

自分の弱さを

知ることだ。

 

自分の恐怖を

知ることだ。

 

知ればいい。

 

だって

人は

弱いから。

 

でも、

自分の弱さを

素直に認めることで、

人は

一歩ずつ

強くなっていけるから。

 

完璧な人間など

いない。

 

何度も言うが、

私だって

人間として相当の

ヘナチョコだ。

 

でも私は

そのヘナチョコぶりを

知っている。

 

そこから

目を逸らさないように

している。

 

それだけで

いいのだ。

 

それだけで、

ちゃんと

進めるのだ、

私達は。

 

「あるがまま」を

見つめよう。

 

それができれば、

問題の核心は

すぐにわかるし、

 

そしてその核心は

実は、

結構、可愛いものだった

ということも

わかるのだ。

 

つづく

 

スクスクと育ってほしい

 

私は、

仕事のアポイントを

取るとの同じように、

家族とも

アポイントを

取るようにしている。

 

そして、

仕事も家族も

一度決めたアポイントは

必ず守る。

 

そうしないと

私のクセで、

どうしても仕事優先の

日々にしてしまうからだ。

 

私はできるだけ

平日の18時〜20時の

2時間は、

5歳の息子との時間を

取るようにしている。

 

彼の通う子ども園に

迎えに行き、

歩きながらいろいろ

語り合い、

夕食を一緒に食べ、

家で一緒に遊んだり、

ウルトラマンのDVDを

観たりする。

 

20時前には

息子のセルフコーチングの

時間を創る。

 

私のクライアント企業様の

社長さんから

送っていただいた

神棚がある。

 

その神棚に向かって

まずは手を合わせ、

一日の感謝をする。

 

そして、

どんな一日だったか?

を振り返る。

そして、

明日は

どんな一日にしたいか?

をイメージする。

 

もちろん

5歳の子どもの発想だから

他愛のないことが多いが、

しかしそれでも

これをすることで、

心や魂がスッと

落ち着くことがわかる。

 

20時を過ぎると

彼はもう就寝する。

 

私も少し休み、

そしてまた

仕事に向かう。

 

もちろん毎日

このようにできるわけでは

ないが、

可能な限り

そうしている。

 

・・・・・・

 

子ども園では

様々な子ども達が

いる。

 

彼らを観ていると、

みんなすでに

いろんなものを

抱えていることが

わかる。

 

子どもは純粋だ、

と思う人は多いと

思うが、

いやいや

そんなことはない。

 

子どもにこそ、

ストレスが多い。

 

しかも最近の子は

親のストレスを

肩代わりしている子が

多い。

 

以前にこのブログで

「エンティティ」

について

書いたことがある。

 

エンティティとは、

ストレスがある一定の

濃度以上になることで、

実体化したもの。

 

日本語では

「生き霊」

と訳されることもあるが、

要するに

人の「念」の塊であり、

ストレスの塊だ。

 

それは誰もが持っており、

人から人へと

伝染する。

 

最近は、

エンティティの濃い

大人達が増えている。

 

その大人達の

エンティティを

子ども達が

肩代わりするのだ。

 

それで苦しんでいる

子が多い。

 

・・・・・・

 

大人の人生の

不調和が、

子ども達に

ダイレクトに

影響している。

 

電車で

子どもを抱っこしながら、

自分のエンティティを

子どもに与え続けている

人は多い。

 

電車でもそうなのだから、

家ではもっと

すごいのだろう。

 

よく私は

子ども達と目を

合わすことがある。

 

子ども達は

私をじっと

見てくる。

 

その目から

伝わってくるのは

彼らからの

SOSだ。

 

私はもちろん、

目で励ますしか

できない。

 

これが今の世の

実態である。

 

子ども達が

スクスク育つことの

できない世の中を、

私達大人は

確かに創り上げている。

 

親は親の

人生。

 

子どもは子どもの

人生。

 

と言われたりも

するが、

そんなことはない。

 

親が子に与える

影響は

測り知れない。

 

親の今日の生き様が

そのまま

子どもに影響するのだ。

 

その自覚を

もっと我々は

持つべきではないか。

 

・・・・・・

 

子どもには

覚悟が

ある。

 

覚悟をもって

人生に

向かおうとしている。

 

特に今は、

そういった

真剣な子が

多い。

 

私は彼らの

真本音の想いの強さを

ヒシヒシと

感じる。

 

彼らのその想いを

私は

尊重したい。

 

尊重できる

世の中にしたい。

 

そのためにも

私は

大人達に

向かう。

 

今後の世の中に

こそ、

コーチが必要だ。

 

つづく

 

鏡を見つめよう

 

誰だって

溺れたくない。

 

でも、

人生の海に

溺れてしまう。

 

気がつけば、

足のつかない

深い場所にいて、

 

高い波が

押し寄せて来て、

 

必死にもがく

だけの状態に

なっている。

 

もがくのは

苦しくて、

エネルギーが

必要で、

周りが見えなく

なって、

 

ある意味、

一刻一刻の時間を

過ごすことだけで、

生きることだけで、

精一杯になってしまう。

 

あれ?

私はいったい

何をしにここまで

来たんだっけ?

 

という問い

すらも

忘れてしまう。

 

もがくだけ。

 

生きるだけ

の存在。

 

それが

「自分」

となる。

 

・・・・・・

 

海から出る

唯一の方法は、

 

海から出よう

 

しないことだ。

 

まずは、

ここは海なんだ、

認識すること。

 

深い海にいて

今の自分は

溺れていて、

 

ただただ日々、

必死にもがいている

のだという

自覚をすることだ。

 

そして、

ただただ

もがくだけの自分を

許すこと。

 

もがくのは

ダメだ!

とやってしまうと

ますます

深みにはまることになる。

 

時々、

 

「私は海から

出ることができました」

 

と言う人がいるが、

それはただ

海から出たという

幻想、妄想の

中にいるだけだ。

 

本当は

溺れているのに、

溺れていることを

認めず、

その事実にも

目を伏せ、

 

とてつもない

妄想力を

働かせている。

 

そして、

「こうすれば

海から出られますよ」

と、

他の人にも

妄想を勧める。

 

だから世の中には

妄想魔が

増えてしまった。

 

妄想は、

本人は気持ちいい

かもしれないが、

周りには

とても迷惑だ。

 

しかも

本人の気持ち良さも

ある時に

限界を迎える。

 

妄想から

覚めた時の

その人の絶望ぶりは

半端ではない。

 

・・・・・・

 

あなたは今、

溺れていますよ。

 

ということを

私はこれまで

いったいどれだけ多くの

人達に、

コーチとして

伝えて来ただろう。

 

ほとんどの人は

最初はそれを

認めたがらなかった。

 

何を言おう、

私自身も

昔はそうだったから、

その気持ちは

よくわかる。

 

私は

自分が溺れていることに

気づいた時は、

本当に

人生のすべてが

終わったと

感じた。

 

自分のすべてを

否定した。

 

やはり、

そうなってしまうことを

誰もが恐れるので、

溺れている事実を

認めるのは

難しいのだろう。

 

だからこそ

私は

淀みなく、

100%の純粋さを

持って

伝えることにしている。

 

あなたは今、

溺れているんですよ。

 

と。

 

こちらが

100%の純粋さを持って

伝えることで初めて、

その人には

ちょっとだけ

伝わる。

 

でもその「ちょっと」

こそが大切で、

あとはその人が

自ら

事実に気づいていく。

 

妄想している人に

とって

私はとても怖い存在の

ようで、

妄想を続けようとする

人は、

皆、私の前から

逃げていく。

 

こちらは

何もしていないのに、

ただただ

理由をつけて

逃げていく。

 

それは、

自分の人生から

逃げていくのと

同じことだ。

 

もっと

自分を大切に

してほしい、と

心から思う。

 

私は

何もしない。

 

ただ、

鏡として

一人一人と

向き合うだけ。

 

人は

鏡が怖いのかも

しれない。

 

でも、

今の世の中に

鏡は絶対的に

必要だ。

 

自分の人生から

逃げずに、

そして

鏡としての役割を

担おうと

本気で思う人との出会いを

私は望む。

 

そういったコーチを

私は

育成したいからだ。

 

つづく

 

ヘナチョコのおかげかな

 

コーチングの魅力を

一言で言うと

何ですか?

 

と問われたら、

私だったら、

 

「想定外」です。

 

と答えるだろう。

 

私自身が

コーチングと出会って

想定外の人生に

なったし、

 

私のクライアントさんの

ほとんどは、

私の想定外の

道を歩み始める。

 

これが実に、

実に、

嬉しいし、

幸せである。

 

人の育成というのは

とても難しく、

どうしても、

育成される人は

育成する人の

範疇に留まってしまう。

 

ところが

コーチングと出会って、

私はその

枠の外し方を

知ることができた。

 

私が

クライアントさんを

コーチングしていると、

 

「ちょ、ちょ、ちょっと

待った!」

 

と言いたくなる場面が

頻発する。

 

「それはちょっと

行き過ぎでない?」

 

とか、

 

「ちょっとそこまでやるのは

どうだろうか?」

 

とか、

 

そんな一言を

思わず口走ってしまう

ような

場面が頻発する。

 

実は以前の私は

それを実際に

口走ってしまっていた。

 

しかしそれにより

起こることは、

クライアントさんは

私の範疇に

留まってしまうという

事実だけだった。

 

今は、

どれだけ私の心の中で

「ちょっと待った!」

と言いたくなっても、

今は言わないように

している。

 

それにより、

私は

信じられないような

展開を

多く拝見できた。

 

その度に

本当に思うのだ。

 

人というのは、

やっぱすげーな、

と。

 

私は、

自分について言えば、

 

コーチング力は

確かにある、

 

と思うが、

 

人としては

ヘナチョコだ、

 

と思っている。

 

だって、

クライアントさんの方が

全然すごい。

 

私には到底

できないことを

どんどんやっちゃう。

 

その度に

私は自分の

ヘナチョコさに

溜息が出るのだが、

 

でも

ひょっとすると、

人間としてヘナチョコで

あるからこそ、

自分の範疇に留めない

コーチングができるのかな、

 

とも思う。

 

・・・・・・

 

私には

5歳の息子がいるが、

 

彼なんかは

生まれた時から

真本音の人生を

生きているから、

 

すげーなぁ、

 

と毎日思っている。

 

第一、

人生がとても

楽しそうだ。

 

彼を見ていると、

 

人生って

こんなにも楽しい

もんなんだ、

 

と感嘆する。

 

もちろん、

子どもには子どもの

悩みがあるはずだ。

 

しかし彼は

そんな悩みもすべて

味わっている。

 

「今日ねぇ、

○○君がパンチして

きたんだ。

すごい痛かった。

○○君の力って

すごいんだよ!」

 

と彼は

くったくなく笑う。

 

子ども園というところに

通っているのだが、

先生から聴くと、

外に散歩に行くときに

みんなが彼と

手をつなぎたくなり、

いつも取り合いになるらしい。

 

妻が朝、

彼を子ども園に連れて

行くのだが、

園内に入った途端に

何人もの子達が

彼に

突進してくるらしい。

 

「一緒に遊ぼう!」

と。

 

まぁ、

こういうことを書くことを

「親バカ」

と言うのだろうが、

 

彼が本気になって、

私の妻に、

「もっと子ども園に

いられる時間を

伸ばしてほしい」

と直談判している姿を

見ると、

 

どうやら彼は

私とはまったく別の

人生を歩んでいるのだ

と実感する。

 

私は

子どもの頃から

「できれば、

誰とも接したくない。

一人で生きていけるのなら、

一生、一人でいたい」

と思っていたので、

彼のあのオープンな

神経がわからない。

 

とても

羨ましいと

思う。

 

恐らくであるが、

私は

彼のことを100%

信じている。

 

そして、100%

尊敬している。

 

ひょっとすると

だからこそ、

彼は生き生きと

しているのかも

しれない。

 

そう思うと、

ヘナチョコの私で

よかったな、とも

思う。

 

・・・・・・

 

人には人の

個性がある。

 

私はずっと

自分のヘナチョコぶりが

我慢ならなかったので、

ある意味、

ずっとそこにフタを

して生きてきた。

 

しかし、

それをあるがままに

見つめ、

受け入れ、

むしろヘナチョコぶりを

楽しめるようになったのは、

 

自分自身の

真本音と出会って

からだ。

 

だから私は

今日も明日も明後日も、

真本音コーチングを

続ける。

 

すべての人が

自分の「あるがまま」を

受け入れ、

 

そして

「あるがままの自分」を

活かせるように。

 

そして私はやはり、

そんなサポートのできる

コーチを

たくさん育成したい。

 

つづく

 

現場でしか学べないことがある

 

企業様の継続サポート

をさせていただいていると、

ある時ある瞬間から

「風」

が吹き始めるのを

感じることがある。

 

昨日の企業様が

そうだった。

 

関わらせていただいて

そろそろ3ヶ月になろうとする

企業様だが、

研修の最中に

急に「強風」が吹き始めた

のを感じた。

 

それは、まずは

「突風」のように

来た。

 

あくまで

イメージではあるが、

急に吹いた風に

おっとっとと、

足元が揺らいでしまう

感覚だった。

 

少し

想定外だった。

 

嬉しい

想定外だ。

 

この「風」を感じる

ということは、

本質的な変化を始めた

人がいる

ということだ。

 

30名近い方々に

研修を受けて

いただいていたのだが、

私は皆さんお一人お一人に

注意を向けた。

 

すると数名の方に

大きな変化が

起き始めているのを感じた。

 

もちろんそれは

まだ、

表面化していない。

現象化・現実化

していない。

 

だから恐らく

ご本人も

自分の変化を

自覚していないだろう。

 

しかし

人の成長や組織の成長は

こういった

「本人にも気づかない変化」

から始まる。

 

こういったときに

私はいつも

思うのだ。

 

やっぱり

人にも組織にも

「コーチ」が

必要だな、と。

 

第3者の立場で

客観的に

「あるがまま」を

観察できる存在。

 

そういった立場から

でしか、

見つけられない「変化」が

あるのだ。

 

そしてその「変化の芽」

しっかりと育てていく

必要がある。

 

それができれば、

人の組織も

スムーズに成長して

いけるのであるが、

 

残念ながら多くの場合は、

「変化の芽」に

自らが気づかず、

そして

気づかないままに

その芽を自分で

踏んづけてしまう。

 

せっかく芽が出ても、

潰してしまう。

 

その連続を

し続けている。

 

踏んづけられても

それでも逞しく育つ芽も

中にはある。

 

しかし

そういった芽が

自然発生的に生まれるのは

奇跡に近い。

 

ほとんどは、

芽というのはとても

弱く、

小さく、

繊細だ。

 

そんな芽を

繊細に、大切に、誠実に

育てることが、

人や組織の変革の

第一歩だ。

 

しかしそれができるのは

残念ながら、

第3者的存在があって

初めて可能となる、

という事実が

現時点の世の中の

状態(レベル)である。

 

・・・・・・

 

最近の私は

自分一人では

企業のサポート現場には

出ないように

している。

できるだけ。

 

なぜなら私の

今の最大のテーマは

「後継者育成」

だから。

 

私と同じように

人や組織をサポートできる

「コーチ」を

目指している人を

一緒に「現場」に

連れていく。

 

もちろん、

クライアント企業様の

了承をいただいている

場合だけであるが。

 

そして未熟であってもその人に

現場で

コーチングやファシリテーションを

してもらう。

 

もちろん、

私がフォローしながら

であるが。

 

現場でしか

学べないことがある。

 

現場でしか

伸びない力がある。

 

何でもそうであるが、

特に、私の仕事は

その要素が高い。

 

私も、

現場で揉まれて来た。

 

現場にこそ、

あらゆる「答え」が

転がっている。

 

だから私はこれから

もっともっと

コーチの「現場育成」を

増やしていこうと

思っている。

 

・・・・・・

 

私の現場で発見し、

現場で培った

人と組織の活性化サポート

ノウハウを、

まずは講座形式でお伝えし、

講座の中で練習し合い、

 

その上で、

共に現場に出て行き、

現場の中で

本物の力をつけ、

 

そして、

ゆくゆくは

自立して私と同じような

お仕事ができるように

なっていく、

 

という、

現場実践型の講座を

これから

始めようと思う。

 

人数は少なくても

よいから、

 

たとえ

一人でもよいから、

 

本気で

私のようなお仕事を

自分ができるように

なりたい、

という人がいたら

始めようと思っている。

 

まだ

準備に取り掛かった

ところであるが、

早く

始めたいと

思っている。

 

つづく

 

本当に生まれるのはこれからだ

 

私達の

人生の目的は

「一点」

である。

 

たったの

一点

である。

 

あえて極端に言えば、

自分自身の一点を

果たすためだけに

私達は

この世に来た。

 

しかし最初から

一点が

見えるわけでは

ない。

 

一点を

まずは見つけることが

人生の

第一のゴール。

 

そしてその

第一のゴールにたどり着く

と同時に、

一点への道が

スタートする。

 

私はその瞬間を

「生まれる」

と呼んでいる。

 

これまた極端に言えば、

一点を見つけるまでは

私達は本当には

まだ生まれていない

のだ、

くらいに思っている。

 

実際に、

「私は私の人生を

生きている」

と実感できるのは、

一点への道を

歩み始めた人だけだ。

 

・・・・・・

 

とは言え、

一点が見つからない

ことを

恥じることはない。

 

それよりも、

一点を見つけることを

諦めたり

放棄することが

私は恥だと

思っている。

 

恥と言っても

誰かに対して

恥ずかしいと思う

ことではなく、

 

自分自身に対して

恥ずかしい

と思うのだ。

 

だって、

私達は

志を持って

ここに来たのだ。

 

自分だけの

一点を見つけ、

一点を果たそうと、

自分自身と約束を

したのだ。

 

その約束を

と言う。

 

一点に向かうことを

放棄することは、

その約束(志)を

自ら反故にする

ということだ。

 

だから、

恥ずかしいのだ。

 

・・・・・・

 

一点を見つけるまでは

様々な試行錯誤が

ある。

 

逆に言えば、

試行錯誤を抜きにして

それは見つからない。

 

上手くどこにも

ぶつからずに

進もう、

としているうちは

一点を放棄しているのと

同じだ。

 

ガツガツと

ぶつかればいい。

 

後悔すれば

いい。

 

反省すれば

いい。

 

その一つ一つを

丁寧に進むこと、

 

一つ一つと

向かい合い続ける

こと。

 

それによって必ず

一点は

見つかる。

 

・・・・・・

 

一点が見つかった人には

もう

迷いはない。

 

いや、

最初の一歩は

迷うかもしれない。

 

本当にその道を

行くのか?

自分で自分を試す瞬間が

ある。

 

そこを毅然と

乗り越えることで

迷いはすべて

払拭される。

 

あとは

進むだけなのだが、

そこからこそ、

様々な課題が

降りかかる。

 

しかし

一歩進めば、

一歩進んだ手応えが

あり、

課題に取り組めば、

その一歩一歩に

とてつもない充実感を

覚える。

 

今、

この段階に

入りつつある人が

増えている。

 

そして、

その直前にいる人も

増えている。

 

いずれにしても

人生の

重要な分岐点

である。

 

・・・・・・

 

私達は

心の中心に

一点を大切に

抱いている。

 

しかしそれは

セルフコーチングだけでは

見つからない。

 

きちんと現実に

向かい、

現実の荒波の中で

揉まれることでしか

見つからないように

できている。

 

というよりも、

そのように自分自身と

約束をしている。

 

私達は

自分を試す。

 

自分自身を試すのは

自分だけだ。

 

もう私は

一点を知り、

一点に向かう道に

入れる私になれただろうか?

 

それを

何度も試しながら、

ある時ある瞬間に

 

「よし、OKだ!」

 

と自分に

GOを出す。

 

すべての人が

そうなれるといい。

 

本当の自分の人生に

入れるといい。

 

「生まれる」ということを

皆が

実現できるといい。

 

つづく

 

現実と向き合っているかどうかの判断基準とは

 

なんでみんな

こんな苦しいままで

平気なんだろう?

と、よく思う。

 

心が麻痺しちゃってる

のかな。

 

私は

人と向き合うと

その人の苦しみを

そのまま感じ取ってしまう。

 

その人が

感じているのと

まったく同じように

感じてしまうのだ、

ということに

10年以上前に気づいた。

 

もちろん、

その苦しみの詳細は

わからない。

 

実際にその人に

何が起きているのかも

わからない。

 

でも、

苦しみの感覚は

ありありとわかるし、

それが、

悲しみなのか

怒りなのか

絶望なのか、

 

そして、

それをその人自らが

創り出しているのか、

それとも

誰かから受け取って

しまっているのか、

 

などはわかる。

 

時々は、

その人の

心の叫び声が

聴こえたりもする。

 

「助けてくれ〜!!」

 

と叫んでいる人は

いっぱいいる。

 

にも関わらず、

その人は表面上は

へっちゃらな顔を

している。

 

最初は

それは装っているのかな、

とも思っていたが、

どうも違うようだ。

 

多くの場合は、

自分で自分のその苦しみに

気づいていない

ようだ。

 

「気づかないまま

行けばいいじゃないか」

 

という意見も

あるだろうが、

やはり

そうはいかない。

 

苦しみが

ある限界を超えると、

それは

「病気」に

なってしまうから。

 

それは、

体の病気として

現れることもあるし、

心の病気として

現れることもある。

 

苦しみを

苦しみと

感じることの

健康さ。

 

それを私は常に

訴えている。

 

・・・・・・

 

現実と

きちんと

向き合っているか?

 

という

問い。

 

これを受けて、

向き合っていると

迷いなく答えられる人は

稀ではないか。

 

人は本当は

現実と

向き合えば向き合うほど、

楽になる。

 

しかし

現実には

苦しみの象徴が

たくさんある。

 

だから

目を背けたくなる。

 

目を背ければ

その時点で

現実逃避だ。

 

現実逃避は

多大なストレスを

生む。

 

この状態のまま

人が人を

サポートすることは

極めて難しい。

 

サポートする側の

人間は、

少なくとも

現実とはきちんと

向き合い続けており、

自ら発生させるストレスは

最小限であるのが

望ましい。

 

それができている人を

私は

「コーチ」

と呼ぶ。

 

・・・・・・

 

現実と

きちんと向き合っているか

どうか?

 

その最も簡単な

判断基準は、

 

「自分の家族と

きちんと向き合って

いるかどうか?」

 

・・・だ。

 

家族というのは、

やはり

大事だ。

 

その人の人生の

基盤になる。

 

家族との関わりは

人生との関わり

に反映される。

 

自分の家族と

向き合えていない人が

コーチをやると、

最悪のコーチングになると

言っていい。

 

表面上は

どれだけ素晴らしい

コーチングになったとしても、

根底が

あまりに脆弱に

なるのだ。

 

家族と向き合えていない

コーチは

その時点でもう

本物ではない。

 

・・・・・・

 

どれだけ

セルフコーチングをして

内面を整えたとしても、

 

自分の目の前にある

現実を整えずして

人生は

進まない。

 

その「現実」の

最も基本となるのが

「家族」

だ。

 

例えば、

両親。

 

例えば、

兄弟姉妹。

 

例えば、

妻、

もしくは、夫。

 

例えば、

子ども。

 

関係が

上手くっているかどうか、

ではない。

 

もちろん

上手くいっていることに

越したことはないが。

 

関係が

上手くいっていても

いっていなくても、

 

ちゃんと

向き合い続けているか

どうか、

だ。

 

つづく

 

コーチじゃないけどコーチだ

 

自分と向き合う、

ということと、

現実と向き合う、

ということは

完全に一致する。

 

私は

セルフコーチングを

提唱しているが、

 

セルフコーチングと

言うと、

心の内面ばかりに

意識を向ける印象が

どうも一般的には

あるらしい。

 

しかしそれでは

意味がないし、

逆に

内面に意識を向ける

だけでは

セルフコーチングなど

やらない方が

ましだ。

 

セルフコーチングは

自分をオープンに

するために行なう。

現実に対して

オープンになるために。

 

というよりも、

本当は

セルフコーチングを

正しくすればするほど、

人は自然に

現実に向かいたく

なるものだ。

 

9月から

『ザ・セルフ』という

セルフコーチング法を

学んでいただく

新しい講座を始めたが、

ご参加されている皆さんは

どんどん「現実」を

変えている。

 

拝見していて

実にすがすがしい。

 

セルフコーチング法さえ

きちんと教えていけば、

コーチという存在など

要らなくなるのではないか、

という

錯覚さえ抱いてしまう。

 

もちろん、

錯覚である。

 

・・・・・・

 

私には

お気に入りの美容師さん

がいて、

もうかれこれ10年近くは

彼に髪の毛を

カットしていただいている。

 

若い人だ。

 

初めて出会った時は

彼は確か27歳と

言っていた。

 

道端で、

彼の勤める美容室の

リーフレットが

配られていた。

 

それを手にとって

写真を見たら、

彼が小さく写っていた。

 

あっ、この人に

会いたいな。

 

と思い、

さっそくその美容室に

行った。

 

思った通り、

真本音度合いの高い人で、

若いくせに(失礼)

とても真摯な人だった。

 

彼の美容師としての

成長意欲は

とても高く、

私は彼と共に、

私も成長していこうと

決めた。

 

それ以来、

私の髪の毛は

彼の直観にお任せ

である。

 

彼の素敵なところは、

その能力もあるが、

それにプラス、

私の言うところの

「コーチ」としての

力にもある。

 

彼は、

私が話しかけて

ほしくない時は、

決して一言も

話しかけてこない。

 

私がちょっと

会話をしたいなと

思うと、

その瞬間に

気軽に話しかけてくる。

 

しかし

余分なことは

一切、言わない。

 

気軽だけど

シンプル。

 

実に

居心地が良い。

 

私はいつも

カットだけでなく、

彼に頭のマッサージを

依頼しているが、

彼にマッサージしてもらうと

「愛」を感じる。

 

そして、

目を瞑りながら

いつも私は

セルフコーチングをする。

 

すると、

仕事上のひらめきが

次々と

自然に起こってくる。

 

一人でいる時よりも、

彼と共にいる時の方が、

間違いなく

生産性が上がるのだ。

 

私は

こういう人のことを

「コーチ」

と呼んでいる。

 

私は、20年以上、

セルフコーチングを

探究してきたが、

それでも

彼のような「コーチ」が

そばにいると、

より発想が広がるのだ。

 

もちろん、

彼には

私は仕事の話は

ほとんどしない。

ほぼ、

雑談ばかりだ。

 

でもそれで

充分。

 

彼と話すだけで、

発想は広がり、

そして深まる。

 

そういった意味で

「コーチ」は

必須の存在だ。

 

・・・・・・

 

しかし今日、

私は彼に髪を

カットしてもらいながら、

彼に言った。

 

「コーチ」なんて

必要ない世の中に

なればいいと

思ってるよ。

 

・・・と。

 

その言葉に

彼はちょっと

驚いていたようだが、

私は本当に

そのように思っている。

 

「コーチ」の

必要のない世の中に

この世が進化したら、

どれだけ素敵な

ことだろうか、と

思うのだ。

 

それはつまり、

すべての人が

「コーチ」となれる

世の中のことだ。

 

「コーチ」なんて

名乗る必要のない

世の中。

 

人が人の想いや

可能性を

より広げ、高め、

深め合える、

そんなコミュニケーションを

取れる世の中に

なるといいな、と

本当に思う。

 

そのためにも

私は、

「コーチ」として

今日も明日も

がんばるし、

 

そのためにも

本物の「コーチ」を

育成したい。

 

つづく

 

前向き、前向き、って言うけどさぁ・・・

 

誤解を恐れずに

言うならば、

 

私は

「自己肯定」

という言葉がどうも

しっくりこない。

 

もちろん、

その意味は知っているし、

重要さもわかっている。

 

なくてはならないもの

だということも。

 

しかしどうしても

「肯定」

という言葉に

ひっかかる。

 

「肯定」という

言葉の裏には必ず、

「否定」が

セットだからだ。

 

自分を否定し続けていた

人が、

 

それではいけない。

自分をもっと

肯定しなければ。

 

と、決意して、

自己イメージを変え、

人生を新たに

歩み始める姿は

何度も目にしてきた。

 

しかし私は

「自己肯定」を

唱える人達には

どうしても

不安定さを感じてしまう。

 

「否定」を

「肯定」に

変えただけだからだ。

 

それは

「解釈」の変化

「視点」の変化

に過ぎない。

 

次元が

同じなのだ。

 

同様に、

「物事を肯定的に

捉えよう」

という人にも私は

不安定さを感じてしまう。

 

「物事を

肯定的に捉える」

のと

「物事を

否定的に捉える」

のは、

同じ次元だからだ。

 

同じ次元に

いるうちは、

「どっちが正しいか?」

という

闘いに過ぎない。

 

だから、

自己肯定に

努力している人が、

それでも

大きな失敗をしてしまうと、

途端に

自己否定に戻ってしまう。

 

「私には

素晴らしいところが

あるんだ」

と、努力して

思っていても、

それを覆す出来事が

あれば、

「やっぱり私は

ダメだった」

となるのだ。

 

「素晴らしいか」

「ダメか」

のせめぎ合い。

 

そこにいるうちは、

本質は

何も変わらないのだ。

 

安定度合いは

何も

変わらないのだ。

 

・・・・・・

 

「私は前向きに

生きることを

信条としています」

 

という人がいれば、

 

「後ろ向きな気持ちが

あるのが

人間の当たり前の

姿ですよ」

 

と私は伝える。

 

すると、

多くの人達が

とてもホッとした

お顔になる。

 

どんな心があっても

いいじゃないか。

それが

人間なんだから。

 

というメッセージを

これまでは私は

何千人、何万人の

人達に

伝え続けて来ただろうか。

 

「前向きか」

「後ろ向きか」

という世界から

解放されて初めて

人は、

自分自身の本当の

人生の道を

歩み始める。

 

どんな自分も

愛せるように

なるからだ。

 

「愛」とは、

「前向きさ」では

ない。

 

「人を愛する」

とは

「前向きに生きる」

ことではないのだ。

 

「前向き」も

「後ろ向き」も

どっちでもいいじゃん、

というところに

愛はある。

 

そこかしこに

すべてに

愛はあり、

それを知るものが

本当に

人を愛せるのだ。

 

・・・・・・

 

そんな話をした時に

ピンと来ない人が

いる。

 

そんな人は

コーチをやっては

ならない。

 

それよりも

もっと自分自身の人生に

真剣になった方が

よい。

 

自分と向き合うことに

真剣になった方が

よい。

 

これも誤解を恐れずに

言ってしまえば、

残念ながら今の日本には

「にわかコーチ」

が多い。

 

自分の人生と

自分自身と、

しっかりと向き合うことも

せずに、

人をサポートする

からだ。

 

それをもって

「私は人を愛する人生を

進んでいる」

と言う人もいるが、

それは残念ながら

「自己愛」

だ。

 

本当の愛

ではない。

 

そして残念ながら、

そういった人ほど、

「前向きに生きる」

ことが大切だ、と

口を酸っぱくして

言い続ける傾向にある。

 

ひどいことを

言うようだが、

なぜこうもはっきり

言えるかと言えば、

かつての私自身が

そうだったからだ。

 

おかげさまで

だから私はよく

叩かれた。

 

どこで叩かれたかと

言うと、

企業様で、だ。

 

自己愛の頃から

私は

企業のコーチを

していた。

 

企業のコーチを

する、というのは

自己満足のレベルでは

済まされない。

 

だから

自己満足、自己愛レベルの

コーチは

叩かれることに

なるだろう。

 

どれだけ叩かれても

どれだけ失敗しても、

それでもくじけずに

進み続ける。

 

私は、

人を、組織を、

サポートし続けるのだ、と

進み続ける。

 

その中でこそ、

自己愛から

本当の愛への

自己変革が

成される。

 

その成長度合いと

加速度合いが

人や組織に、良い影響を

与える。

 

「完璧な私になってから

私はコーチを始めます」

 

とか

 

「もっと成長してから

私は本格的にコーチ活動を

始めます」

 

という人もいるが、

それも自己満足であり

自己愛だ。

 

叩かれて、叩かれて、

それでも真剣に

自分と人に向き合い続ける。

 

その現場でしか

得られないものが

ある。

 

というか、

それしかない。

 

それが人生だ。

 

そんなこともわからず、

そんなところから

逃げてしまう人は、

コーチをやっては

ならない。

 

私はやはり、

本物のコーチを

育成したい。

 

真剣な

コーチを。

 

つづく

 

本物のコーチの育成に入ります

 

「自分らしくあろう」

という意志は

残念ながら、

強く持ち続けないと

消えてしまうことが

多い。

 

私達にはそれぞれ

役割があり、

その役割を真面目に

果たそうとする人ほど、

役割に

埋没する傾向がある。

 

例えば、

わかりやすいところでは、

「リーダー」

という役割。

 

この役割を担った途端に、

「リーダーであろう」

とする。

 

そしてその

「リーダーであろう」

という意志は

「自分らしくあろう」

という意志を

消してしまうことが

多い。

 

「あの人、

リーダーになってから

魅力なくなったよね」

 

という声を

これまでどれだけ多く

聴いたことか。

 

そして、

 

「私、リーダーになってから

仕事が全然

面白くなくなりました」

 

という声も。

 

役割意識が

自分らしさを

凌駕する。

 

どこにも

あることだ。

 

・・・・・・

 

「リーダーらしい自分」

になることよりも、

 

「自分らしいリーダー」

を目指すことの方が

 

圧倒的に

パワーが出るのが

私達だ。

 

その人本来の

魅力を、

リーダーという役割の中で

いかに発揮させるか?

 

ということであるが、

これをするためには

どうしても、

 

「セルフコーチング力」

 

もしくは

 

「コーチの存在」

 

が必須だ。

 

人は

自分のことが

わからない。

ましてや、

「自分らしさ」を

正確に自覚している人は

私は

これまでに一人も

見たことがない。

もちろん、

私自身も含めて。

 

「コーチ」とは

その人の

「鏡」

となる存在だ。

 

ただし、

ただの「鏡」では

ない。

 

その鏡は

ものを言う。

 

現実に映し出されている

もの、

つまりは

顕在化しているもの

だけでなく、

 

まだ、眠っているもの、

潜在しているものすら

映し出すのが

コーチという鏡だ。

 

コーチという鏡を

活用することで、

その人は

自分と向き合う術を

手に入れ、

結果的に

セルフコーチング力を

高めていく。

 

セルフコーチング力を

高めれば高めるほど、

自分理解が進むが、

 

その「自分理解」の

さらに上を行く

「鏡」であり続けることが

コーチには

必要とされる。

 

クライアントの

自分理解を100と

するならば、

常に、120以上を

映し出す鏡であることが

コーチの役割だ。

 

もちろんそのためには、

コーチ自身も

自分らしくあらねば

ならない。

 

誰よりも

自分らしく生きる人

こそが、

コーチという役割を

担うことができる。

 

「鏡」であるからには

自分を消さねばならない、

 

ということではない。

 

自分を極める人

こそが、

鏡になれるのだ。

 

そういうことで言えば、

コーチというのは

難易度の高い

役割であると

言わざるを得ない。

 

が、

自分らしく生きる

とはどういうことか?

の本質を

一度掴んでしまえば、

これほど面白い

職業もない、のだ。

 

私の義理の父は、

囲碁が大好きであるが、

先日、

「囲碁っていうのは、

初心者にとっては

難易度が高く、

非常に取り付きにくい

ものだが、

その代わり一度

その魅力を知ってしまうと、

もう、やめられなくなる」

と言っていた。

 

コーチも

それに近いものが

あるのかもしれない。

 

・・・・・・

 

私は

コーチを育成

する。

 

改めて、

そう決めた。

 

ただし、

本物のコーチしか

育成しない。

 

これまでは

ある意味、

「コーチ的なコミュニケーションを

取れるだけでも

いいですよ」

でやってきたように

思う。

 

しかしこれからは、

「本気でコーチになろう」

という人を

発掘し、

徹底的に育成する

ということを

やろうと思う。

 

本物のコーチ

というのは、

先ほど書いたように、

「鏡になれるかどうか?」

という要素が

必須であるが、

 

もう一つは、

「企業(組織)を

コーチングできるか?」

という要素も

必須であると、

私は考える。

 

つまり極端に言えば、

「企業をコーチングできない人は

コーチとは言えない」

と、私は最近、

考えるようになった。

 

この世は

経済で回っている。

 

その中心は

企業だ。

 

みんな、企業という

ステージで

必死に生きている。

 

そういった、

この世を回している

存在を

コーチングできない人は

コーチを

名乗ってはならない、

思うようになった。

 

それくらいに

シビアに

「コーチ」という存在に

これからは

こだわっていこうと

思う。

 

企業とは、

人間のルツボだ。

 

その企業に

果敢に

分け入っていける。

自分らしく。

 

そして、

そこにいるあらゆる

人達の

「自分らしさ」を

サポートできる。

 

しかも、

その企業の

組織としての課題解決や

求める成果まで

きちんとつなぐことができる。

 

そういった

本物の力を持った

コーチの育成に、

私は

全力を注ぎたい。

 

つづく

 

福田さんのコーチング その1

 

では、

体験コーチングを始めさせて

いただきます。

まずは、

コーチングを受けてみたいな、

と思われたきっかけや

理由がございましたら、

教えてください。

 

はい。

よろしくお願いします。

いきなり

本質的な話で恐縮ですが、

ぶっちゃけて

言いますと、

私、

自由になることが

怖いんです。

 

はい?

 

いえね、・・・

私は人から言われた通りに

生きることが

好きだったんです。

だって、

楽じゃないですか。

仕事でも特に

出世意欲もなく、

ただ上司の言われた通りに

仕事をする。

もちろん、言われたことは

きっちりと仕事しますよ。

でもそれだけを

考えて、

求められたことに応える

ことだけを考えて

仕事をするのが

とても好きだったし、

それが仕事だと

思ってたんです。

 

なるほど。

 

でも、最近急に、

会社から

「主体性を大事にしろ」

と言われるように

なったんです。

「自分で考えろ」

と。

そんな、・・・急にそんなことを

言われても、と

困りましたよ。

人生なんて、

主体的でなければないほど

楽だと私は思いましたし。

 

へぇ。

なかなかそこまで

言い切る人も

珍しいですね。

 

そうなんですよ。

みんなそうじゃないのかな?

ここまではっきり

「主体性が嫌です」

と言う人も少ないらしく、

私、それをはっきり会社でも

言ってしまったんです。

今まで通り、

言われたことを

言われた通りに

こなす仕事をしたい、って。

するとなんと、

会社は私にコーチを

つけました。

 

えっ?

 

会社が社外のコーチを

雇ったんです。

どうも、問題児をコーチングする

ということのようです。

私はその問題児の一人に

選ばれたようで、

社外から来たコーチに

定期的に面談され、

コーチングを受けてるんです。

 

へぇ、そうなんですか。

すでにコーチングを

受けていると。

社内で。

 

はい。

でもそのコーチングが

私は嫌で嫌で

たまらないのです。

「何を望んでいますか?」

と言われたって、

何も望んでませんよ。

「ただ、言われた通りに

生きることを望んでます」

と言ったら、そのコーチ、

凄いムッとするんですよ。

ムッとしながらも、

はっきりと叱られるわけでも

なく、

でも明らかにそのコーチは

怒っていて、

もうあの空気が嫌で嫌で。

 

なるほど。

それはちょっと

キツそうですね。

 

キツいなんてもんじゃ

ありませんよ。

会社を辞めようとまで

真剣に考えてますから。

 

そうなんですか?

 

いやでもね、

そうは言っても私は

今の会社、結構

好きなんですよ。

仕事も好きですし。

辞めてもこの年ですし、

新しい会社を探すのも

現実的じゃないし、

モチベーションも

上がらないし。

でも、コーチングは嫌で、

あのコーチの顔を

あのムッとした表情と

それを隠そうとする表情を

思い出すだけで、

胃がキリキリしてくる

と言いますか・・・。

 

あの、・・・

ちょっとよろしですか?

 

はい?

 

コーチング

お嫌いなのですよね?

 

はい、

大っ嫌いです。

 

なのにまた

自ら進んで私のところに

いらっしゃっているのは、

どのような意図なんでしょう?

 

あっ、そりゃそうですよね。

 

しかも、ご自分から

進んでここにいらっしゃって

ますでしょ?

今、会社でコーチング受けていて、

その上でまた

自分からお金を払って

別のコーチングを受けようと

されている。

これはまたどういう・・・?

 

いやぁ、

コーチングをどう受ければ

良いか?

をコーチングして

もらいたくって・・・。

 

はははっ!

 

いやぁ、真面目な話ですよ。

だって今の私にとっては

あのコーチングが

人生の最大の問題

なのですから。

これまでずっと平穏に

生きて来たのに。

いや、もちろん仕事ですから

いろいろありましたよ。

でも、私にとっては

それらは問題じゃないんです。

仕事ですから

問題はあるのが当たり前だと

思ってますし。

でも、あのコーチングは・・・。

あんなの人生にも仕事にも

必要ないでしょ。

「何を望みますか?」

なんて考える必要ないでしょ。

 

はぁ・・・。

でも、私も福田さんに

「何を望みますか?」と

お訊きすると思いますよ。

 

でも、私、聞いたんですよ。

たけうちさんのコーチングは

普通のコーチングとは

違うって。

コーチングが嫌な人が

結構受けていて、

みんな元気になるって。

 

えっ?

そんな風に私は

言われてるんですか?

 

はい。

たけうちさんを紹介して

くださった人が

そう言われてました。

で、何が違うんだろう?

ということも知りたくて、

とりあえず一度、

受けてみようかな、と。

 

はぁ・・・、なるほど。

困りましたねぇ・・・。

 

困りますか?

 

はい、

困ってます。

だって、「何を望みますか?」って

訊かれるの嫌なんですよね?

 

たけうちさん、

正直ですねぇ。

コーチがそんな

困った顔するんだ。

 

そりゃしますよ。

だって私も人間ですし。

はっきり正直に言いますとね、

コーチングって、

毎回、困ってますよ、私は。

これからこの人に

何をすればいいんだろう?って

お手上げになりますよ。

そういう時は、正直に

心の中で「お手上げだ〜」って

両手を挙げるんです。

まぁ今は、「お手上げです」って

喋ってしまってるんですけどね。

 

はははっ。

私、なんかそういうの

好きですよ。

やっぱり、たけうちさんのコーチング、

定期的に受けようかな。

 

ええ〜っ?

そうなんですか。

困りますねぇ。笑

 

はははっ。

よし、受けよ。

 

つづく

 

本当にサポートしていいの?

 

その人の

にこやかなお顔の

奥から

 

「助けてください!」

 

の声を

私は聴いた。

 

最近は、

毎日だ。

 

会う人会う人

皆が

助けを求めている。

 

特に

初対面の人に

多い。

 

そして、

企業でも

組織の上層にいる

人ほど多い。

 

皆、

苦しみ悩んで

いる。

 

しかもそれは、

自分だけで

生み出したもの

ではなく、

 

組織のいろんな人達の

苦しみを

一身に受け止めている

苦しみだ。

 

そういった人達からの

SOSを感じると、

まず私がするのは、

 

あなたは

自力でここを

乗り越えたいですか?

それとも

私のサポートが

必要ですか?

 

という

判断だ。

 

もちろん、

そのような問いを

実際に投げたところで

ご本人が正確に

答えられることでは

ない。

 

それよりも

あるがままに

向き合うことで、

自然に

明確に

その判断は自ずと

ついてくる。

 

あぁこの人は

自力突破したいのだな、

とわかれば、

私は

何もしない。

 

頼まれても

何もしない。

 

そこで何かを

してしまうことは、

その人のことを

冒涜しているに等しいと

私は思っている。

 

・・・・・・

 

他者が

絶対にやっては

ならないことが

ある。

 

それは、

その人が

自力で進もうと

しているのを

阻害することだ。

 

しかし

それをしてしまう人が

多いのも事実だ。

 

自力で進むのを

阻害することで

発生するのが

「依存」だ。

 

「ここまで来れたのは

すべてあなたの

おかげです。

ですからこれからも

よろしくお願いします」

 

と、

もしクライアントさんに

私が言われたら、

私は自分の仕事が

二流だったなと

思う。

 

「コーチのおかげで

できました」

 

と言われた時点で

コーチとしては

失格だと

私は思っている。

それよりも、

 

「たけうちさんはもう

必要ないね」

 

と言われる瞬間が

私にとっては

無上の悦びだ。

 

おぉオレ、

いい仕事できたな、

自分で自分を

褒めたくなる。

 

・・・・・・

 

今の私には

あなたのサポートが

必要です。

しかしそれは

今、だけのこと。

私は自力で進む自分に

なるために

一時的に

あなたのサポートを

求めます。

 

・・・そんな真本音の

意志を感じる場合のみ、

私はその人の

サポートの決断を

する。

 

人は皆、

自立と自律を

望んでいる。

 

そこに向かう

サポートならば

徹底的に

したいと思う。

 

本当に

この人を

サポートして

良いかどうか?

 

サポートするならば、

どれだけの

距離感で、

どれだけの

サポートをすることが

本当に必要か?

 

いつ、

サポートを終え、

その人から

離れれば良いか?

 

こんな判断が

的確にできる

コーチを

私は増やしたい。

 

つづく

 

目を開けてごらん

 

洞窟の中に

私は仰向けに

倒れていた。

 

真っ暗で

何も見えない。

 

その私の

胸からお腹の辺りに

何かが

乗っかっている。

 

重い。

 

どうやら

時間が経つにつれ、

徐々にではあるが

重みは増している

ようだ。

 

しばらく私は

それに耐えていたが、

しだいに

内臓が圧迫され、

苦しみに

悶えるようになった。

 

重い。

 

苦しい。

 

ゲホッと、

まるで動物の

呻り声のようなものが

私の口から

吐き出された。

 

やばい。

 

このままでは

圧迫されて

死んでしまう。

 

でも、

周りは真っ暗で

何も見えない。

 

いったい

自分に何が

乗っかっているのか

すら

わからない。

 

ただ、

重く

ただ、

苦しい。

 

やばい。

 

死んでしまう。

 

と、

私は必死に

もがき始めた。

 

生命の危機

を感じ、

もがき始めた。

 

その時になって

初めて、

私は

気づいた。

 

ここは

暗闇ではない。

 

私自身が

目を

瞑っているのだ、

と。

 

・・・・・・

 

私は

目を開けようと

思った。

 

しかし、

開かなかった。

 

怖いのだ。

 

怖くて

目を開ける勇気が

出ないのだ。

 

命の危機に

晒されているのに、

怖さの方が

勝ってしまっている。

 

すると

それを見透かした

かのように、

さらに重みが

増してきた。

 

あ、ダメだ。

 

本当に

もうダメだ。

 

もう

限界だ。

 

というところまで

来て、

初めて

私はようやく

目を開けた。

 

・・・・・・

 

目を開けると、

なんとそこは

草原だった。

 

明るい日差し。

 

青空が

広がっていた。

 

呆然としながらも

私は

私の体の上に

乗っかっている

ものを見た。

 

私のお腹と

胸の上には、

 

私自身が

立っていた。

 

お、お前は

俺か?

 

と、必死に

私が問うと、

 

見ての通りだ。

俺は、

お前だ。

 

彼は言う。

 

お前が俺なら

俺を

助けてくれ。

俺の上から

どいてくれ。

 

私が言うと、

 

いいよ。

 

と彼は言い、

あっけなく

私の上から

降りた。

 

ゼーゼーと

私は

何度も息を

深く吐いた。

 

た、

たすかった・・・。

 

私はしばらく

うずくまっていたが、

少し落ち着くと

途端に

腹が立って来た。

 

おい、お前、

なんで

俺の上に

乗っかっていたんだ!

 

私が叫ぶと、

 

何言ってんだ。

お前が自分で

望んだことだろう。

 

・・・と。

 

その一言で

私は

思い出したのだ。

 

そうだった。

 

私が

望んだこと

だった。

 

目を閉じたままで

決して開けようと

しない自分に対して、

本当に

腹を立てたのは

他でもない

私自身だった。

 

だから私は

私自身に

「必死さ」を

与えた。

 

それにより

ようやく私は

目を

開けることが

できたのだ。

 

私はずっと

自分が

洞窟の暗闇の

中にいると

思い込んでいた。

 

それが

人生だと

思い込んでいた。

 

しかし、

本当は

気持ちの良い

草原にいた。

 

青空まで

広がってやがる。

 

その現実を

私は

自ら目を閉ざして

見ようと

しなかった。

 

すまんな。

ありがとう。

感謝してるよ。

 

と、

私は

私の上に乗っかっていた

私自身に

伝えた。

 

わかれば

いいんだよ。

心配したぞ。

本当に

死んでしまうのでは

ないかと

思ったよ。

でも俺は

お前を、

つまりは

俺自身を

信じているから。

 

そう言われて

私は

涙した。

 

涙しながら

訊いた。

 

お前はさ、

本当に

俺なのか?

 

すると

彼は笑いながら

言った。

 

何言ってんだ。

俺はお前だ。

お前が

俺なんだよ。

 

だって俺は、

お前の

真本音なんだから。

 

つづく

 

あなたは変態ですか?

 

完全燃焼しなければ

掴めないものが

ある。

 

すべてが

灰になるまで

力を振り絞り、

限界を超えることで

初めて

わかることもある。

 

でも。

 

本当にそこまで

やる必要が

あるのだろうか?

 

ずっとその答えが

わからぬまま

ここまできた。

 

・・・・・・

 

私はほとんどが

いい加減な

人間だが、

 

でも、

これは!

と思ったことに関しては、

とことん

やり切ってきた。

 

自分が納得するまでは

決して

やめなかった。

 

自分が得たいものは

必ず

得られるまで

やり続けた。

 

ちょっと大袈裟に言えば、

たとえ

自分の命が

尽きてしまったとしても、

それよりも

得たいものを得る

方を優先した。

 

よくここまで

生きて来られたものだ

と、

この歳になって

ようやく客観的に

思えるようになった。

 

私の生き様は

極端だ。

 

人間としての私は

とても

ヘナチョコで、

臆病で気が小さくて

何ともならないのだが、

 

しかし

そんな自分であることを

お構いなしに

突き進む自分も

時々、現れた。

 

ヘナチョコでも

進むんだ、

今は。

 

と思うと、

後先考えずに

突き進んだ。

 

あっ今日、もう俺

死んじゃうな。

 

と思う日が

毎日続いた時期も

あった。

 

ヘナチョコのくせに

そこまで

やってしまう。

 

その捨て身さ加減に

私は

危うさを感じると

共に、

 

他の人にこの

生き様を

押し付けるのは

絶対にやめよう、

気をつけて

生きてきた。

 

こんな生き方、

よほどの

アホじゃないと

無理だと

やはりどこかで

ちゃんと

わかっていたからだ。

 

そういった意味で

私は私のことを

「変態」であると、

認めていた。

 

人に

「変態」を

押し付けては

ならない。

 

それが

私自身への

戒めだった。

いつもいつも。

 

・・・・・・

 

「変態」から見れば、

「普通」の人は

眩しく見える。

 

普通に生きられる

のって

いいなぁ、

いつも羨ましく

眺めていた。

 

普通の人が

普通に

生きられますように。

 

というのが

私の祈りの

一つだった。

 

そして本当に

普通の人が

普通を取り戻して

いく姿は

感動的で、

その人の魅力が

どんどん溢れ出た。

 

いいなぁ。

普通の人は。

 

という、

わけのわからない

感嘆と共に

私の人生はあった。

 

・・・・・・

 

人間は

「普通」であるのが

一番。

 

「普通」の人こそが

人としての本来の

進化を遂げていく。

 

そう思ってきたし、

今でも

そう思っている。

 

私は、

人が「普通」になるために

サポートを

続けている。

 

でも。

 

でも。

 

でも・・・。

 

どうやら

「変態」が

私の他にもいることが

近年、

わかってきた。

 

そういう人と

出会ってきた。

 

そういう人を見ると、

まるで

鏡を見ているようだ。

 

いつしか。

 

私の使命は

「変態」こそを

サポートすることでは

ないか、

 

と思うように

なった。

 

しかし

多くの「変態」は

まだ、

顕在化していない。

 

ある時

ある瞬間から、

 

あっ、この人

まだ完全に

眠っているけど、

私と同じ

「変態」だな。

 

と、

わかるようになった。

 

本当に

近年のことだ。

 

本人は

自分のことを

「変態」だとは

ちっとも思っていない。

 

かつての私が

そうであったように。

 

しかし

紛れもなく

「変態」

だ。

 

あなたは本当は

「変態」なんだよ。

 

と、

私は最善のタイミングで

その人に

伝えるだろう。

 

そして、

「変態」が

変態的に生きることを

サポートするだろう。

それは

とてつもなく

骨の折れることで

あるが。

 

人間として

本当に魅力的なのは

「普通」の人だ。

 

「変態」は、

人間っぽくない。

 

だからこそ、

「変態」のサポートは

私にしか

できないことかな、

今は思っている。

 

つづく

 

怒りについて語る

 

怒りは

抑えない方が

いい。

 

怒りが湧く

というのは、

人として

当たり前のこと。

 

人生やってれば

必ず発生

するもの。

 

怒りが発生

すれば、

それを開放

すればいい。

 

ただしそれを

単なる反応として

人に向けては

ならない。

 

反応は

次の反応を生み、

反応の相乗効果は

怒りを何十倍にも

増幅させる。

 

そしてその循環から

出られなくなる。

 

それを

怒りの開放

とは言わない。

 

むしろそれは

怒りを閉じ込めている

行為だ。

 

怒りの開放

とは

怒りと向き合う

ことだ。

 

人は

怒りが発生すると

多くの場合

向き合わない。

 

向き合えば

コントロールできる

はずのものが、

向き合わないから

コントロール不可

となる。

 

怒りに任せて

思わず

怒りそのものの行動

や振る舞いに

走ってしまうというのは、

怒りに向き合っていない

ことによる

最も典型的な

現象だ。

 

その人は

怒りに呑まれた

振る舞いをしながら、

怒りから

逃げ続けている。

 

それでは

怒りが開放される

ことはない。

 

怒りはさらに

塊となり、

その人の中に

残り続け、

育ち続ける。

 

怒りの開放とは

真逆の行為だ。

 

・・・・・・

 

怒りとしっかり

向き合い、

自分は今、何に

怒っているのか?

ハッキリくっきりと

知ること。

 

それが

向き合うという

こと。

 

いや、

自分が何に怒っているか?

などは

百も承知だ、

と言う人がいる。

 

でも残念ながら、

それは違う。

 

ずれている。

 

その人が

怒りの原因だと

思っているものとは

ずれているのだ。

 

本当はその人は

そこで怒っている

のではなく、

もっと別のところに

怒りの源泉が

ある。

 

それが見つかって

おらず、

それを放置するからこそ、

怒りは

開放されない。

 

そしてその人は

怒りの塊と

化していく。

 

・・・・・・

 

もちろんこの世の中、

「向き合う」なんて

そんな生易しくない

怒りもたくさんあるだろう。

 

それは充分

承知している。

 

人間の持つ

本当に深い怒りに

私も何度も触れてきたし、

私自身も

そこから抜け出せなく

なったこともある。

 

怒りとは

まるで宇宙のように

無限に深まっていく。

 

でもだからこそ、

私達は

怒りと向き合わねば

ならないのだ。

 

怒りに対して

逃げ腰になることで

私達は

怒りに呑まれる。

 

怒りを愛せ、

とは言わない。

 

ただ、

怒りと

向き合ってほしい。

 

怒りを

まっすぐに

見つめてほしいのだ。

 

・・・・・・

 

すべての怒りが

開放されたとしても、

それでも残る

怒りがある。

 

それこそが

本物の

怒りだ。

 

これを私は

 

『真本音の怒り』

 

と呼んでいる。

 

つまりは、

真本音と結びついた

怒りだ。

 

そして、

真本音が望む

怒りだ。

 

そういうものが

あるのが

私達人間であり、

 

真本音の怒りには

私は

思いっきり呑まれる

ことをお勧めする。

 

真本音の怒りに

呑まれ、

その怒りに委ね、

 

その怒りに任せた

行動をとれば、

 

すべてが

調和していく。

 

それは大変

勇気が必要なこと

かもしれないが、

 

それでも私は

それをお勧めする。

 

実際に

私はその通りに

している。

 

すると面白いように

すべてが

調和していくのだ。

 

私達の真本音は

「最善の道」

を進もうとする。

 

今、怒ることが

最善の道だと

判断すれば、

その通りにするのが

私達の真本音だ。

 

だから私は

真本音の通りに

淀みなく

まっすぐに

怒る。

 

それが

人を愛することの

一つの形であると

私は

確信している。

 

つづく

 

そんなに苦しまなくていいじゃないか

 

人は皆、

孤独なのだろうか。

 

よく、そう感じる

ことがある。

 

いや、

私はと言えば、

確かにずっと

孤独だった。

 

誰も私のことを

本当には

理解してくれないだろう

と思っていた。

 

多くの人も

そう思っている

のではないか。

 

一日の仕事を

終えて

帰途についている時、

ふと

無性に泣けてくる

ことがある。

 

理由がわからずに

涙が流れるので、

慌てて

人目のつかないところに

逃げ込み、

そこで泣く。

 

よくあることだ。

 

泣きながら、

この涙は

私のものだろうか?

という

問いをいつも

投げる。

 

すると

ほとんどの場合は、

ではない。

 

先ほどお会いした

あの人のものだ、

わかる。

 

とてつもない

悲しみ。

 

それと共に

必ず湧き上がって

くるのが、

言いようのない

孤独感。

 

人はみんな

孤独なんだな、と

そんな時に

いつも思うのだ。

 

・・・・・・

 

これは私の

体質なのだと

随分前にすでに

諦めているのだが、

 

私は

私と向き合った人の

苦しみを

そのまま

受け取ってしまう。

 

そして、

その人が苦しんでいる

まったく同じ強さの

苦しみを

そのまま

感じ取ってしまう。

 

一日に

何人もの人と

向き合えば、

その人数分だけ

苦しみは倍増する。

 

時には、

全身が崩壊するのでは、

と思うくらいの

苦しみに

苛まれてきた。

 

以前は、これは

私の思い込みに

違いない、

と思っていた。

 

人に相談しても

誰もが

そう言った。

 

だからこんな思い込みは

やめよう、と

ずっと試行錯誤

してきた。

 

しかし

ある時から、

どう見ても

思い込みではない

ということが

わかるようになった。

 

その苦しみ達と

いつしか私は

真正面から

向き合えるように

なったのだ。

 

すると、

その人が今、

何に苦しんでいて、

どうすれば

その苦しみから

抜け出ることが

できるのか?

が、わかるように

なった。

 

そして

その通りのサポートを

すれば、

その人は必ず

解放された。

 

そういった経験を

何十人、何百人と

続けてきた。

 

それは私にとっては

時には

地獄のようで

あったが、

 

しかしその経験を

経て、

ようやくわかったのだ。

 

人は

もっと

楽に生きることが

できる、

と。

 

そして、

人は

もっと

楽に生きる

権利がある、

と。

 

みんな、

苦しみ過ぎだ。

 

その苦しみは

不必要だ。

 

もちろん、

進化や成長の

ために

必要な苦しみは

ある。

 

乗り越えるべき

苦しみは

必ず、ある。

 

しかし、それ以上に

不必要な

苦しみもあるのだ。

 

ということが

本当によく

わかった。

 

だから私は

もっと

すべての人が

楽に生きることが

できるとよいと、

祈る。

 

その祈りのために

生きることに

した。

 

それが

約8年前の

ことだ。

 

・・・・・・

 

私は一人の

人間だ。

 

人が人を

救うなんてことは

大変

おこがましいことだ。

 

そんなことは

よくわかっている。

 

でも、

私はその人の

苦しみを

そのままに

感じ取ってしまうのだ。

 

何とかしたい、

と思うのは

人として

当然だろう、

と、今は思えるように

なった。

 

必要な苦しみは

その人自身が

自力で

乗り越えれば

いい。

 

でも、

不必要な苦しみは

早く

手放そう。

 

本当に

そう思う。

 

その術を

私は探究し続けるし、

 

その術を

修得したコーチを

私は

たくさん育成

したいのだ。

 

つづく

 

コーチを育成しよう

 

真剣な人って

やっぱり

いいなぁ。

 

真剣な人って、

上手く進もう

なんて

考えていない。

 

いろんなものに

ぶつかってもいいから

前に進もうと、

そればかりを

考えてる。

 

だから私は

言う。

 

もう少し

ゆっくり

進んでも

いいですよ、

と。

 

私、結構

この一言を

言うのが

好き。

 

早く

やりなさい、

とか

もっとスピードアップ

しなさい、

とか

本当は

言いたくない。

 

ちょっとちょっと

やり過ぎじゃない?

お伝えするときの

幸福感といったら。

 

・・・・・・

 

真剣な人ほど、

怖い、怖い、

と言う。

 

怖さに対して

素直なのだ。

 

怖い、怖い、

と言いながらも

進んで行く。

 

怖いから

止まる、

という選択肢は

ない。

 

怖いのと

止まるのとは

まったくの別物だと

いうことだ。

 

むしろ、

自分が怖がっていることを

素直に認めない人の

方が、

歩みは遅いかな。

 

人間なんで

怖いのは

当たり前。

 

怖がりが悪い

なんてことは

一つもない。

 

怖がっている自分を

噛み締めれば

いいし、

愛すればいい。

 

その方が

淡々と前に

進める。

 

・・・・・・

 

前に進む、

とは

プラス指向で生きる

ということでも

ない。

 

私はね、

プラスでもマイナスでも

どっちでもいい

と思ってる。

 

プラス指向でいなきゃ、

と思い過ぎると、

マイナスの心に

フタをしてしまう。

 

フタをされた

気持ちたちは

だいたいは

フタをされたことに

反発して

10倍くらいに膨れ上がる。

 

だから、

プラス指向で

生きなきゃ、

と思っている人の多くは、

そう思えば思うほど、

マイナスの心が

隠されている。

 

そんな辛くて

難しいことを

するくらいなら、

 

そんなの

どっちでもいいじゃん。

 

と思いながら、

進んだ方がいい。

 

まぁ、

私自身がもともと

「超」がつくくらいの

マイナス指向の

人間だったから

そう思うのかも

しれないけどね。

 

・・・・・・

 

怖くてもいい。

 

マイナスでもいい。

 

でも

進む。

 

でも

自分のやることを

やる。

 

自分のやることは

真本音が

知ってる。

 

真本音に素直に

動く。

 

それを

するだけ。

 

それが

真剣に生きる

ということ。

 

これをすると

結構

ぐうたらになる。

 

そうそう。

 

真剣な人は

結構みんな

ぐうたらだ。

 

でも、

いざという時に

1000%の力を

出す。

 

そして

「いざという時」

をよく

わかっている。

 

だから

真剣なんだ。

 

・・・・・・

 

怖がりでも

いい。

 

マイナスでも

いい。

 

ぐうたらでも

いい。

 

それでも、

私はコーチとして

人を真剣に

サポートしたい、

 

というコーチを

私は育成

したい、

真剣に。

 

なのでそろそろまた

コーチ養成を

やろうと

思ってます。

 

つづく

 

シンプル イズ ベスト だと思うよ

 

人には

第3の目がある。

 

その目が

開かれた時、

それまで

見えなかったものが

観えるようになる。

 

私の場合、

物事のシンプルさが

観えるようになった。

 

そしてその結果、

本当はシンプルで

あるはずの

現実の中で、

いかに人々が

複雑怪奇なことを

し続けているかを

知ることになった。

 

しかしそれを観て、

人は愚かだと、

私にはどうしても

思えなかった。

 

それよりも、

あぁこれが

私達人間なのだな、

とある意味

感嘆した。

 

そして

恐らくその時初めて、

私は人を好きに

なれた。

 

・・・・・・

 

シンプルなことを

複雑怪奇に

行なうことほど

疲れることはない。

 

私、

あなたのことが

大好きなんだよね。

 

このシンプルな

理由だけで

人はその人に対して

一生懸命になれる。

 

なのに、

そこに変な

理由づけをする。

 

大好き、

という純粋な

気持ちにさえ、

何らかの意味を

持たせようとする。

 

もちろん

意味はあるのだけど、

本質とは別の

意味をそこに持ってきて、

本質とずれるばかりの

行動を付加する。

 

そしてそこに

誤解が生まれる。

 

すると今度は

誤解を解くための

行動を

せねばならない。

 

当然、

上手くいかない。

 

誤解はまた

次の誤解を生み、

結局、最初は

何だったのか?

 

もともとの想いすら、

思い出せなくなる。

 

その連続の

日々。

 

そしてついには、

自分が

何者で、

何をするために

ここにきたのか?

完全に

わからなくなる。

 

皆、

迷子になる。

 

・・・・・・

 

私達は皆、

好きで

人間を

やってる。

 

人間を

味わうために

人間を

やってる。

 

だから本当は

複雑怪奇なこと

それ自体を

味わえばいい。

 

だけど

そうはなかなか

いかないんだな、

これが。

 

自分を見失うことの

辛さは

私には本当に

よくわかる。

 

私は随分と長い間、

自分を失ったままで

いた。

 

これが自分だ、と

それこそ誤解も

していた。

 

わかったつもりにも

なった。

 

人生とは

こんなもんだと

投げやりにもなった。

 

人間とは

こんなもんだ、と。

 

・・・・・・

 

私は

紛れもなく

私なんだろう。

 

そして

あなたは

紛れもなく

あなただ。

 

私とあなたは

別の脳を持ち、

別の体を持ち、

別の心を

持っている。

 

もちろん、

別の人生を

生きてきた。

 

そんな別ものが

今ここで

交わっている。

 

その場合、

私は、

私のすることとは、

あなたとの関わりを

あらゆる意味で

シンプルにすることだと

思っている。

 

私はもう

シンプルな人生を

進むと決めた。

 

もう

複雑怪奇は

飽きた。

 

本来の私として

私は生きていく。

 

だから

私と関わるすべての人、

つまり、

あなたにも

シンプルに戻ってもらおうと

思っている。

 

ちょいと傲慢な

表現だが、

それが私という

人間だ。

 

とは言え

そこに対して私は

これまで

かなり躊躇しながら

来たような気がする。

 

その躊躇を

もう取ろうかと

思っている。

 

私はあなたの

あらゆるものを

尊重しよう。

 

でも、

私の想いは、

私もあなたも

シンプルになることだ。

 

そのために

私は

あなたと関わっていく。

 

つづく