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私達は
「今この瞬間」
に生きている。
「今この瞬間」
以外の現実は
ない。
本当は
実在のレベルでは
「今この瞬間」
とは
「永遠」であり
「すべて」であり
過去も未来も
あらゆるものが
「一つ」になっている
のであるが。
しかし
私達の顕在意識は
「今この瞬間」
のみを
「現実」と
認識している。
であれば、
「今この瞬間」を
受け入れよう。
「今この瞬間」に
自分に起きている
あらゆる状況を
受け入れよう。
「今この瞬間」
を
自分のものに
するのだ。
目をつぶったり、
目を逸らすから、
それは
自分と乖離
していく。
自分の
コントロール外
となる。
「今この瞬間」
と
対峙せよ。
すべての現実
と
向き合おう。
向き合うことで
恐怖を感じたり、
絶望を感じる
こともあるだろう。
次の一歩が
まったくわからなく
なることもあるだろう。
であれば、
向き合うだけで
いい。
わからなければ
ただただ
向き合い続ける
だけでいい。
それだけで
「現実」は
自分のものとなり、
そこから
自分の人生が
始まる。
もう何十年も
人生を生きているのに、
いまだに
自分の人生に
なっていない人が
いる。
「今この瞬間」
と
対峙せよ。
私は
厳しいことを
言っているかい?
いや、
最も楽な生き方を
言ってるんだけどね。
つづく
「やろう」
と思ったことを
ちゃんとやる
ためには、
「やらない」
と思ったことを
ちゃんと
やらないことだ。
よく私は
仕事を「後回し」に
する。
一日の最初に
まず私が決めることは
「今日は何を
やらないか?」
ということだ。
それを決めて、
自分の中から
手放してしまう。
頭の中から
いったん
除外するのだ。
すると
必然的に
「今日は何を
すればよいか?」
がクッキリと
明確になる。
その時点で
すごく
スッキリする。
そして
その仕事に
全身全霊を込める。
もちろん、
突発的な仕事や
想定外の仕事が
割り込んでくるのは
普通である。
しかし、
ちゃんと
「今日すべきこと」
が
真本音で納得
できていれば、
あらゆる
突発的な仕事が
「今日一日の
調和を高めるための
必然的なもの」
に思えてくる。
そして、
一日の終わりには
必ず、
「完了感」
がくる。
今日すべきことを
やり切ったな。
という
深い満足感だ。
一日一日を
このように丁寧に
進めていけば、
人生は間違いなく
満たされたもの
となる。
真本音度合いの
高い人の、
共通の生き方だ。
つづく
自分の中から
真本音の想いが
浮上し、
顕在化しているにも
関わらず、
「こんな気持ちを
現してはダメだ」
と、
その想いを
必死に抑えながら、
違った自分を
懸命に出しながら
仕事に向かっている
人がいる。
多い。
実に
もったいないねぇ。
その想いに
素直に動けば、
すべてが
調和を始めるのに、
その人は
「この想いは
混乱しか生まない」
と
信じてしまっている。
真本音の想いに
素直に動くことは
俗にいう
「わがまま」
ではない。
なぜなら
真本音は皆、
つながっているから。
自分の真本音の
想いと
自分以外の人の
真本音の想いは
つながっている。
一人が
その想いに素直に
動けば、
隣の人も
真本音が活性化
する。
その人がまた
素直に動けば、
さらに隣の人の
真本音も活性化する。
その連鎖が起き、
組織は
完全調和へと
向かっていく。
「わがまま」とは
たくさんある反応本音の中の
たった一つの想いに
執着し、
それを頑なに、強引に
押し通すこと。
反応本音は
残念ながら
他の人とは
つながっていない。
だから
「わがまま」
となる。
真本音と
反応本音の
区別がつくように
なると
本当にいい。
本当に
楽になる。
個人も
組織も。
そんな世の中に
したい。
そのために
今は「コーチ」が
必要なんだ。
真本音サポート
のできる
「コーチ」が。
つづく
私達は
非常に強い「意志」
を持って
この世に
生まれてくる。
生まれたばかりの
赤ちゃんや、
街中で
抱っこされている
幼い子ども達と
一瞬でも
向き合えば、
それが
よくわかる。
最初は
それらの「意志」は
言葉には
ならないものだ。
しかしそれは
非常に強い。
その「意志」により
私達は恐らく
「私」という
存在として
「ここに在り続ける」
ことが
できるのだと思う。
じゃないと
辛くてしょうがない。
生まれたての
赤ちゃんは、
「自分」と「自分以外」の
区別がついていない。
その状態から
徐々に
「自分」が
分離されていく。
それはつまり
「つながり」を
喪失していくこと。
「孤独」への道を
突き進むこと。
これを私は
「次元を下げる」
と表現しているが、
あえて
この世に生まれる
ことで
次元を下げるのは
誰もが
とてつもなく
辛いことだ。
その辛さに
打ち勝つには、
強い「意志」が
必要だ。
逆に言えば、
誰もがそれほどに
強い「意志」を
持っているからこそ、
誰もが
「分離」を実現する。
それが
この世における
人生の始まり。
だから
私達の人生は
その「意志」と
共にある。
・・・・・・
今、ここにいる
自分の
今のこの意志は
その
「意志」と
一致しているだろうか?
その
「意志」を
尊重しているだろうか?
生まれた時から
私達の中にある
「意志」。
ここに素直に
生きる人は
常に内側から
エネルギーが
湧き続ける。
それは
「私の人生」を
きちんと生きている
証だ。
「私の人生」
を
生きる者は、
個性と力が
溢れる。
どのような環境
においても
自らの道を
創り出すことが
できる。
その道は
周りとの調和を
起こし、
進化につながる。
私は
すべての人が
「意志」
を
思い出すとよい
と思っている。
本当は
その「意志」は
いつでも「ここ」に
ある。
その人の「意志」は
その人自身でも
あるからだ。
だから決して
難しいことじゃ
ない、
「意志」と共に
歩むのは。
「意志」を忘れて
しまっていた人は、
「意志」を
思い出すことで、
その瞬間から
人生が変わるだろう。
「環境」が変わる
わけではない。
「環境」を
変えなければならない
わけでもない。
ただ、
「人生」が
変わり始めるのだ。
調和の人生に。
道を築く
人生に。
私は、
すべての人が
そうなるといいな、
と
願いながら、
今の私にできる
最大のサポートを
今日も
し続ける。
つづく
私はよく、
自分の人生を
振り返る。
過去を振り返る
よりも、
常に未来に意識を
向けた方がいい、
とも言われるが、
過去を振り返る
ことができない
うちは、
自分の本当の
未来を
築くことはできない。
なぜなら
過去の体験は
すべて
自分自身の心の中に
残っている。
それを観ない
ということは、
自分と向き合っていない
ということに
なるからだ。
自分と向き合えない人
に、
真本音の未来は
見つからない。
・・・・・・
とは言え、
何でもかんでも
まずは過去を振り返る
ところから、
・・・とやってしまう
サポートも
お勧めできない。
どうしても
見つめたくない
辛い過去は
誰だってある。
それを
見つめるだけの
準備が整う前に
強引に過去を見つめることで
心が壊れることもある。
人の心は
繊細だ。
やり過ぎると
すぐに壊れる。
しかし、
人の魂は
何があろうと
安定している。
心と魂は
別個のものだ。
魂に基づいて
今日という日を
生きることができる人は、
繊細な心のすべてを
見つめることが
できる。
魂の安定を
常に感じ取れるから。
しかし、
自分の魂を無視した
日々を送る人は、
自分自身の魂と
乖離し、
結果として
魂の安定を
感じられなくなる。
その状態で
自身の繊細な心と
向き合うのは
難しい。
安定しているから
こそ、
あらゆる過去を
振り返ることができる。
だからまず私は
クライアントさんに
その、安定状態に
なっていただくための
サポートをする。
つまり、
日々を
自分の魂に基づいた
行動が取れるように
サポートする。
魂の意思のことを
私は
「真本音」
と呼んでいる。
つまり、
真本音度合いを高める
サポートを
私はする。
・・・・・・
私自身も
自分の真本音度合いが
高まってからだ、
本当に
過去と向き合えるように
なったのは。
それまでも、
過去を振り返ることは
何度もしたが、
すべて
「ひん曲がった」見方
をしていた。
要するに、
自分に都合の良い
見方をしていた。
見たくないものは
見ずに
見ても差し支えのない
もののみを
見ていた。
しかも、
自分の分厚いフィルター(解釈)
をつけて。
それでは
過去の振り返りとは
言えない。
真本音度合いが
高まり、
安定度合いが高まる
ことで、
私は初めて
あるがままに過去を
振り返ることが
できるようになった。
まぁ、
過去を振り返る
と言っても、
意図的にやるという
よりも、
自然にフラッシュバックを
してしまうのだけど。
そして
大抵の場合、
そのフラッシュバックは
私を「反省」させる
ものだ。
過去の振り返りは
私にとっては
反省の時間だ。
しかし大事なのは、
「反省しようと思って
過去を振り返る」
のではなく、
「自然に過去を振り返り、
結果として
自然に反省する」
ということ。
この違いは
大きい。
前者の反省は、
自分を責めるだけで
終わる可能性が高い。
後者は、
本当に「反省」できる。
その結果として、
「今」や「未来」への
重要な指針となる。
こんなこと
胸を張って言える
ことではないが、
私の過去は
本当に恥ずかしいもの
ばかりだ。
道を歩いている時に
ふと
フラッシュバックする
ことがある。
その瞬間、
思わず私は
「ごめんなさい」
と小声で呟いていることが
多い。笑
過去において私は
随分と多くの方々に
迷惑をかけてしまった。
傲慢だった。
だからこそ、
今のこの瞬間に
今、目の前にいる
この人に、
本当に
真摯に向き合おうと
思うのだ。
つづく
人は
変われるか?
変われないか?
と
問われれば、
やはり、
「変われる」
と
答えるだろう。
この仕事を
続けていれば、
絶望的な場面には
幾度となく
出会う。
人の
変わらなさ
に失望したことなど
本当に
数えきれない。
もうちょっとなのに、
なんであの人は
あと一歩が
出ないんだ。
なぜ
そこで逃げてしまう。
なぜ
同じことをまた
繰り返すのか。
なんでこうも
この人は
変わらないのか。
・・・そういった
憤慨や
悲しみや
虚しさは
いやというほど
体験したし、
何度体験しても
まるで初めてかの
ように
辛かった。
私自身が
本当に
絶望してしまったことも
ある。
しかし
その度に、
想定外のところで
「人は変われるのだ」
という
体験をプレゼント
された。
人は
変わらない。
変わろうとしない
人は
いっぱいいる。
でも
やはり、
人は変われるんだ。
この印象が
ここまで現場に
い続けている
今の私の真実だ。
・・・・・・
いつだったか。
この人を
変えよう。
と意図することが、
その人の変化を
阻害する
という事実に
気がついた。
他者による
無理強いの意図は
その人を
頑なにさせる。
たとえ
表面上は
無理強いしていなくとも、
心の中に
その意図を持ち続ければ、
それが確実に
無意識レベルで
その人には伝わる。
それが
その人を
より頑固にさせる。
だからもう
「この人を変えてやろう」
という意図は
いっさい手放すことに
した。
とはいえ、
これは大変
難しいことだった。
とはいえ、
いつしかそういった
意図を
私はまったく
持たなくなった。
もちろん、
口頭では
「この人はどうすれば
変わるか?」
というお話はする。
しかし、
実は
私の心の中では
その意図は
完全に手放している。
それができるように
なってから、
人が
劇的に変わる瞬間を
目の当たりにする
頻度が
劇的に増えた。
人は
面白い。
変えようとすれば
変わらず、
その意図を
手放せば
変わってゆく。
ただし、
意図を手放すのと
何もサポートしない
のとは
まったく別の話だ。
人はどうせ
変わって行くのだから
もう何もしなくて
いい。
とやってしまうと
また、
その人は永遠に
変わらない。
まったく
厄介だ。
でも
だからこそ
面白い。
・・・・・・
人との関わりは
奥深く、
一見、とても
複雑で、
しかし実は
極めて
シンプルだ。
そのシンプルさ
に
気づけると
強い。
人との関わりで
揺らぐことは
なくなる。
しかしその
シンプルさとは
頭での理解では
理屈では
到底説明のできない
ものだ。
「感覚」として
身につけるしか
ない。
そのためには
多くの人と、
人生で
出会う
すべての人と、
向き合い続ける
ことだ。
まずは
向き合うこと。
これがやはり
すべての
スタートだと
思う。
シンプルに
人と関われる人を
私は増やしたい。
できれば
全人類が
そうなれるといいな
と、
願っている。
つづく
自分の中に
「躊躇」
が現れたとき、
私はそれと
しっかり真摯に
向き合うことにしている。
その「躊躇」には
非常に多くの
示唆が含まれている
からだ。
「躊躇」するのは
悪くない。
よく
すぐに決断できない
自分を
責める人がいる。
それは
意味のない
時間だ。
その時間を
「躊躇」としっかり
向き合う時間に
変えた方がいい。
「躊躇」を
観察してみよう。
もしくは
「躊躇」の声を
とことんまで
聴き切ってみよう。
そこまで明確で
なければ、
「躊躇」と一体になる
くらいまで、
それを感じてみよう。
その上で
ふとした瞬間に
浮かんでくる
一つ一つの気持ちや
発想を
丁寧にキャッチしよう。
「躊躇」は
自分自身に
何をメッセージ
しているだろうか?
・・・・・・
人は、
恐らく
「躊躇」としっかりと
向き合わないからこそ、
自分を見失っていく。
「躊躇」にフタをし、
気合いと根性だけの
(つまりは表面的な)
決断を無理にしてしまい、
先に進む。
その結果、
気合いと根性が
途切れた時に、
あっという間に
止まってしまう。
そして
後悔する。
何度も言うが、
「躊躇」は
良くないものでは
ない。
「躊躇」と向き合わない
のが
良くないのだ。
・・・・・・
「躊躇」と向き合えば、
自分が何に対して
「無理」をしているのか?
がわかる。
これを知るのが怖い
という人もいるが、
怖がっている場合
ではない。
しっかり
見つめよう。
自分の「無理」を
知れば、
その次は、
その「無理」は
しない方がいいか?
それとも、
あえて今は
その「無理」をし続けた
方がいいか?
の判断がつく。
そうしたら、
その判断の通りに
行けばいい。
もう無理はしては
ダメだ。
と判断したならば、
思いきって
その「無理」していることを
手放そう。
たとえ今、手放さなくても
いずれはそれは
手放す瞬間が来る。
そういった場合の
多くは、
手放すのが
後になればなるほど
辛くなるし、
ダメージも大きくなる。
いつ手放すの?
今でしょ。
ということだ。
・・・・・・
意図的であるならば、
「無理」は
してもいい。
そのかわり、その場合は
それこそ躊躇せずに
とことん無理をすること。
「無理」をするか?
しないか?
は、
0か100か?
しかない
と思った方がいい。
一番良くないのは、
中途半端に
無理をし続けること。
これが結果的には
最も辛いし、
自分を見失うことに
なる。
「無理」をするなら、
無理をする自分を
許そう。
「無理」をやめるなら、
無理をやめる自分を
許そう。
許した上で
徹底的に
その方向に進もう。
・・・・・・
つまり、
「躊躇」とは
「決断」のための
大事なステップだ。
「躊躇」としっかりと
向き合うことで
真本音の
「決断」
ができる。
「躊躇」することを
躊躇するな。
「躊躇」も
人生の醍醐味
だ。
つづく
誕生。
という言葉が
好きだ。
この仕事を
していると、
多くの
「誕生」
を拝見できた。
ある意味、
生まれ変わる
と
と言ってもいい。
それは単なる
「変化」とか
「変革」の域を
超えて、
本当に
ゼロからもう一度
スタートする
ようなものだ。
そのような人を
拝見すると、
やはり一番ビッタリの
言葉は、
「誕生」
となる。
誕生するためには、
これまでの自分
を
「すべて」
手放さなければ
ならない。
そんなことが
できるのか?
と思われるかも
しれないが、
本当は
そういったことが
できてしまうのが、
私達人間の
本当の意味での
凄みだと
私は思う。
かく言う私自身も
「誕生」
の経験がある。
・・・・・・
面白いことに、
「誕生」
してから、
つまり
一度すべてを
ゼロリセットしてから、
その上で、
過去の自分の
個性を
改めて活用しよう
という
動きに入る人もいる。
一度ゼロリセット
してから、
過去の自分を
取り出すのと、
過去の自分を
持ったままで
進むのとは、
まったくもって
本質的に異なるものだ
ということは
何となくでも
ご理解いただけるだろう。
過去の自分を
活かす
と言っても、
ゼロリセットを
することで、
その「活かし方」が
全然違ったものになる
からだ。
さらに面白い
ことに、
一度ゼロリセットをし、
「誕生」した人で、
過去の最も
嫌いだった自分の個性
を
最も大切に扱うように
なる人は
多い。
だから私は
「私は私のことが
大嫌い!」
と言う人に出会うと、
ついつい
「この人は面白い成長を
されそうだ」
と思ってしまう。
自分を嫌いな
ことは、
良くないことだが、
別に
大したことではない。
好きか嫌いか、
なんて、
本当は
大したことではない。
本当のことを
言えば、
それによって
人生が決まることも
ない。
こんなことを書くと
意外に思う人が
いるかも
知れないが、
私達の真本音は
「好き」
も
「嫌い」
も両方、
楽しんでいる。
好き嫌いは
あっていい。
それこそ人生の
醍醐味の
一つだ。
・・・・・・
私達は
「人間」
をやってる。
「人間」は
人間が考えるよりも
ずっと
奥深い。
私は
私が思っているよりも
ずっと奥深いし、
あなたは
あなたが思っているよりも
ずっと奥深い。
どうせ
人生を生きる
のであれば、
そんな自らの
奥深さを
感じ取れる
人生にすればいい。
と私は思う。
それには
すべてに対して、
「あるがまま」
にいること。
好きなものは
好き。
嫌いなものは
嫌い。
自分を変えたければ
「生まれ変わりたい」
「新たに誕生したい」
と
思えばいい。
「あるがまま」に
すべてを
受け止めれば、
すべては
「真本音の願い」
の方向に
進んでいく。
もっと
シンプルに
行けばいいんだ。
つづく
ゆっくり
じっくり
と、
自分の心と
向き合おう。
ゆっくり
じっくり
と、
日常の風景と
向き合おう。
いつも
そこにあるのに、
いつも
それに気づかない。
いつも
当たり前に
あるのに、
いつも
その意味に
気づかない。
そんな存在が
たくさん
あるはずだ。
それらを見過ごし
ながら
人生を進めるのは、
実に
もったいないことだ。
それを見過ごし
ながら
人生なんてつまんない、
なんて
言わないでほしい。
この人生には
噛み締めるものが
たくさんある。
自分自身の
ことだって
知らないこと
だらけだ。
人生は
「未知」に
満ちている。
いつもの
自分と
いつもの
風景を
しっかりと
味わってみよう。
たった
それだけの
ことで、
次元が一つ
上がるかも
しれないよ。
つづく
混乱。
そして、
混沌。
これらは、普通、
誰もが
嫌うものだ。
混乱するよりは
スムーズに進みたい。
と、普通は
思うだろう。
もちろん私も
そうだ。
ただ、
私はあえて
混乱や混沌を
その人や
その組織に
もたらすことを
大事にしている。
ちょっと極端に
言えば、
混乱・混沌をもたらす
人が「コーチ」である。
くらいに
思っている。
もちろんそれは
良い混乱
であり
良い混沌
だ。
「良い」とは
つまり、
「進化へとつながる」
ということ。
結果として
これまでよりも
次元を高めた
「調和へとつながる」
ための
混乱であり
混沌だ。
・・・・・・
混乱・混沌を
恐れる人は
結果として、
その心の内では
混乱・混沌が
大きくなる。
という傾向を
私は企業サポートの
現場で、
いやというほど
見てきた。
例えば、
人間関係を上手く
収めよう、
と
いつも努力している
人ほど、
表面上の関係を
繕うだけで、
心の内面では
そこにいる皆の中に、
日々、
混乱・混沌、
そして怒りや苛立ちが
増幅する、
という現実を
創り出してしまう。
しかも本人は
それに気づかない。
しかし、
望んでいない
出来事が
日々、
次々に起こってしまう。
自分は毎日
こんなにも
頑張っているのに、
なんで
悪いことばかりが
起こるのだろうか。
と、
その人は
悩んでいる。
実は自分が
すべての原因で
あることに
本当に
気づいていない。
混乱・混沌への
恐れは、
ますますの
混乱・混沌の増長と
共に、
麻痺すらも
起こす。
だから私は
わかりやすく
混乱・混沌が
起こりやすい状況を
創っていく。
いや、
そう書くと大変
おこがましいな。
私が創る
のではない。
私はただ、
「自業自得」が
働きやすい状態に
サポートする
だけだ。
真本音度合いが
高まれば、
自業自得が
起こりやすくなる。
自業自得と言うと、
悪い印象が
あるかもしれないが、
私はこれこそが
健康な状態
だと思っている。
調和に向かう
ことをすれば、
ちゃんと物事が
調和し、
不調和に向かう
ことをすれば、
ちゃんと物事は
不調和していく。
この状態が
できて初めて、
人は
健康的に進化を
始めるからだ。
子どもの育成
と同じ。
悪いことを
すれば
叱られるし、
良いことを
すれば
褒められる。
それを
親が行なうのでは
なく、
「現実」が
わかりやすく
行なってくれる。
これが
自業自得が機能
している状態だ。
自業自得が
機能するように
なれば、
必然的に
これまで
誤魔化し誤魔化しで
来たことが
そうはいかなく
なる。
次々に
不調和が起こり、
混乱・混沌が
増えてくる。
しかしそれは
本当に
一時的なものだ。
混乱・混沌の
おかげで、
自分が何を
修正し、
何をさらに進めれば
良いか?
が
よ〜くわかる。
それがわかれば、
日々、
面白いように
現実は
調和していく。
こういったことを
意図せずに
意図的に
もたらす
(意味、わかっていただけるかな?)
のが
「コーチ」だと
私は思っている。
つづく
嬉しいことが
あると、
悦びのあまり、
内側から
凄いエネルギーが
湧いてくるが、
最近の私の
それは、
ちょっと尋常ではなく、
自分を
見失いそうに
なる。
今日も
嬉しい日だったのだが、
少しの時間、
私の顕在意識は
私自身の
エネルギーの中に
埋没してしまった。
注意せねば。
エネルギーが
出ること自体は
良いことなのだが、
そのエネルギーを
自らコントロール
するのではなく、
エネルギーの
放流に
呑まれてしまうと、
気がつけば
単なる
イケイケどんどん
になってしまう。
イケイケどんどん
のまま
行動すれば、
その時は
気持ち良いのだが、
あとで必ず
その反動が来る。
これは恐らく
私だけのことでは
なく、
すべての人が
そうなのだと思う。
気持ちが良い時
ほど、
自分のコントロールが
効かなくなる。
ここを
乗り越えることも
我々人間の
テーマの一つだ。
エネルギーが
高まれば
ガンガン進み、
エネルギーが
静まれば
止まってしまう。
その不安定さから
抜け出ることが
人生に調和を
もたらすし、
そこを私達の
真本音は
望んでいる。
・・・・・・
とは言え、
悦びは悦び
として
感じ取ろう。
以前にも
書いたことがあるが、
悦びによって
発生するエネルギー
は、
しっかりそれを
噛み締めながら、
自分の体の
中心に
大切に抱く
ようにしよう。
すると、
ずっと体の中心から
あたたかさが、
トツトツと
全身に
行き渡り続ける。
そのあたたかさは
私達を
安定させてくれる。
実は
この状態にするまでが
今日の私は
とても苦労したのだが、
今は
落ち着いている。
私の悦びの
多くは、
人の進化を
感じたときだ。
特に、
その人の進化が
具体的な形となって
現れたときだ。
それが今日、
あったものだから、
とても
嬉しかった。
・・・・・・
悦びのエネルギー
を
自分の中心に
抱いたら、
そんな時こそ、
自分の「願い」
について
思いを巡らせよう。
今、
改めて私は
「コーチ」を
増やしたいと
思う。
本物の
「コーチ」を。
ただし
私の言う「コーチ」
とは、
別に「コーチ」と
名乗らなくても
いい。
プロが増えれば
増えるだけいい、
とは思うが、
プロになるかどうか、
にこだわらなくても
いい。
ただ、
人や組織の
「人生」を
「進化」を
「道」を
本質的にしっかりと
サポートできる
「コーチ」を
発掘し、
育成したい。
日本にとどまらず、
世界中で。
エネルギーが
高まれば高まる
ほど、
やはりその原点に
戻るのだな、
と
思う。
つづく
もし、
「怖い」
と感じたら、
その怖さを
打ち消さない
方がいい。
怖さを
味わおう
としよう。
「怖い」という
感情の中に
ドップリと
浸かってしまおう。
「怖い」という
感情と
一体化しよう。
自分のすべてが
「怖い」
そのものに
なってしまおう。
要するに
その怖さを
100%感じる
こと。
それができた時
初めて、
その「怖さ」の
下に
大きな「土台」の
ような存在を
自覚するだろう。
実は、
「怖さ」とは
「土台」がなければ
決して感じることが
できないように
私達の心は
なっている。
「怖さ」の
奥には(下には)
必ず
「土台」が
ある。
その「土台」は
決して
揺るがない。
努力をして
揺るがないようにしている
のではなく、
最初から
そこにあり、
決してブレる
ことがない。
要するにそれこそが
「真本音」
であり、
「真本音の願い」
だ。
もしその存在を
自覚できれば、
その瞬間に
さらに次のことも
わかるだろう。
なるほど。
この「怖さ」が
あるからこそ、
最善の一歩を
進むことができるんだ。
と。
そう。
「怖さ」とは
味方だ。
最善の一歩、
地に足のついた
一歩を
踏み出すための
なくてはならない
財産だ。
しかしそれは
自らの真本音の
存在を
思い出してこそ
実感できるもの。
そして真本音を
思い出すためには、
怖さから
逃げようと
するのでなく、
怖さを
誤魔化そうと
するのもなく、
怖さを
あるがままに
感じ取ろうと
することだ。
人間はホントに
面白く
できている。
つづく
現実を大事にする
とは
どういうことだろうか?
それは、
起きている事実に
きちんと
目を向けること。
というのは
もちろんある。
が、
その事実を
目の当たりにした
自分自身の
心の動きにも
きちんと
目を向けることも
大事だ。
最近ずっと
書かせていただいて
いるように、
「現実」とは
心の外のみで起こること
ではなく、
心の内で起きていること
も含めての
「現実」であるから。
内と外の
「現実」。
私は常に、
人や組織のサポートを
させていただいている時、
この二つの現実の
関係性に
目を向ける。
例えば、
内が外に
影響を与えているのか?
それとも、
外が内に
影響を与えているのか?
もちろん
両方に決まっているのだが、
影響の与え方の強弱が
人や組織によって
随分と違うのだ。
しかも
「影響を与えている」
と言っても、それは、
「内と外が一致している」
わけではない。
内と外が
どれだけ一致していて、
どれだけ
乖離(分離)しているのか?
も重要な視点だ。
と同時に、
影響の中身も
注視する。
こうやって書くと
だいぶ難しい印象
かもしれない。
まぁ確かに、
難しいかもしれない。
しかし慣れてくると、
内と外の現実を
両面から捉えることで、
外の現実しか
見ていない状況では
決して知ることのない
「循環」
が観えてくる。
それが
好循環であれば
それをさらに
助長すれば良いのだが、
悪循環であれば
どこかでそれを
断ち切り、
新たな「循環」を
起こさねばならない。
そのきっかけとなる
「一点」を
探し、
最善の「刺激」を入れる
ことこそ、
私のサポートの
本質だ。
・・・・・・
このブログを
お読みいただいている
皆さんは恐らく、
心の内側の現実
について
かなり深いご興味を
抱いている方々なのだと
思う。
最近、
「コメントください」
とブログ上で申し上げた
ところ、
私が想像していた以上の
皆さんから
かなり「真剣」な
メッセージをいただいた。
このブログは
特に多くの人に拡散する
意図を
ほとんど持ち合わせて
いないので、
これまで私と
何らかの関わりのあった
方々のみが
お読みいただいていると
思いながら
書かせていただいてきた。
しかし、
私のまったく知らない
方々からのメッセージを
いただき、
ちょっと驚いた。
こういったことを
続けていると、
ご縁というのは
広がっていくのだな、
と
改めて実感した。
そこで・・・、
心の内側の世界に
強い興味を
お持ちの方々にこそ、
あえて
お伝えしたいことが
ある。
それは、
「心の内側を
探究するために
最も大事なことは、
心の外側と
しっかりと向き合う
ことです」
ということだ。
私が
心の内側の現実を
探究できたのは、
多くの人々と
向き合い続けた
からだ。
企業という
ビジネスの現場に
おいて、
そこで日々起こり続ける
様々な出来事と
真摯に
向き合い続けたからだ。
心の内側の
探究とは、
心の内側を
観ることだけではない。
心の外
(一般的に言われる「現実」)
を
味わい尽くすことで
それは成される。
つまり、
外に意識を
向け続ける。
100%。
これを続ければ、
自然に
心の内側の動きを
感じ取れるようになる。
人間は
面白い。
心の内を
大事にしようと
思う人ほど、
心の外を
大事にする。
そして、
心の外のみを
大事にしようと
思う人ほど、
心の内を
大事にする。
ということを経なければ
本質を知ることは
ないように
できているから。
内も外も
両方大事にすることが
自分を
人生を
大事にすることだ。
というのが、
私達人間という存在が
選択した
進化の法則だ。
つづく
決めたことが
できない。
という人が
いる。
その原因としては
以下の3つの
段階がある。
一つ目は、
「本当は決めて
いない」
という原因だ。
本人は決めた
つもりになっているが、
本当は
迷いがあるという
状態だ。
そうなってしまう
最も単純な理由は、
反応本音で
決めているからだ。
そういった人には
真本音で生きる
という体験を
身近なところから
一つずつ
積み重ねる必要が
ある。
二つ目は、
「真本音では決めている
のに、
心の中に強い反応本音の
クセがあり、
行動に結びつかない」
という原因だ。
この状態の人は
無意識に自分が
取り続けている
反応本音のクセを
認識し、
それを意図的に
直すことを
しなければならない。
最後に
三つ目だが、
二つ目までは
できているのに、
つまりは、
真本音で決めて、
無意識レベルでの
反応本音のクセも
直せているのに、
それでも
行動できない。
という人が
いる。
それはつまり、
「顕在意識が
行動することを
拒絶している」
という原因だ。
実は。
この三つ目が
最も
タチが悪い。
二つ目までは
コーチングなどを
通じて、
サポートすることが
できる。
しかし
三つ目については
もう、
他者が介入できる
ことは
ほぼ、ない。
やれること
と言えば、
「やれ!」
と後ろから
蹴飛ばすくらいだ。
しかし
それもどうかなぁ、
と
思ってしまう。
心の中が
整い、
自らの願いも
自覚し、
何をすれば良いかも
わかり、
自分自身を
阻害する自分の心
も、
ほぼなくなっている
のに、
最後の最後で
顕在意識が
「やっぱりやめる」
という
決断をする。
遮るものが
ないのに。
障害も壁も
もうないのに。
自由なのに。
そこで
自らの真本音を
無視する
決断をする。
こうなるともう、
それを
尊重せざるを
得ない。
・・・・・・
ただし、
三つ目の段階で
止まってしまう人は
もちろん
最も少ない。
大概は、
一つ目か二つ目の
原因が解決すれば
まっすぐに
進んでいく。
逆に言えば、
一つ目と二つ目の
原因に
手をつけずして、
いきなり
三つ目である
顕在意識のみに
手をつける
という指導やサポートが
現在の世の中では
多過ぎる気がする。
つまり、
できないことに
対して
とにかく
「やれ!」
「ここを変えろ!」
「ここを直せ!」
と外圧的に
やりすぎている。
一つ目二つ目を
改善せずして
三つ目の改善は
本当は
あり得ない。
もし仮に
あったとしても
それは
表面上のもの。
その人は
仕方なくそれを
しているだけ、
という状態になり、
やはり
長続きしない。
一つ目二つ目の
サポートこそが
今の世の中には
必要だと思う。
が、
そのサポートを
しても
三つ目の原因で
止まってしまう人が
たま〜にいるのも
事実だ。
やはり最後は
顕在意識だ。
つまりは
この世で、
この現実世界で、
最後に自分を
動かす
最終意志決定者は
今、ここで
頭を働かせて
物事を考えている、
この、私であり
あなただ。
顕在意識を
バカにしては
ならないね。
つづく
心の中の現実を
私は
『実在』
と呼んでいるが、
心の中には
現実ではないものも
存在している。
それを
『幻影』
と呼ぶことにしている。
つまり心の中には
「実在」
と
「幻影」
の二つがある。
残念ながら
ほとんどの人は
この二つの区別が
ついていない。
しかし本当は
この二つはまるで
本物の青空
と
絵の具で描いた青空
くらいの差があり、
それくらいの
違いがわかるはずなのだ、
私達人間は。
本来は。
・・・・・・
私の言葉で
表現すれば、
実在のことを
「真本音」
幻影のことを
「反応本音」
と言う。
真本音とは
実在であるので、
確固たるものだ。
どのような状況でも
揺らぐことはない。
しかし
反応本音は逆に
幻影であるだけに
すぐに
揺らぐし、
消える。
確固たる度合いを
比喩的に表現すれば、
真本音は
地球。
反応本音は
雲。
くらいの違いがある。
雲は確かに
その瞬間は現れるし、
時には大きくなるが、
必ず
いつかは消えていく。
掴もうと思っても
掴めない。
乗っかろうと
思っても
乗っかれない。
それだけ
不確かなものだ。
ところが、
雲に一度巻かれて
しまうと
何も見えなくなる。
例えば、
怒り、という反応本音に
巻かれてしまうと
怒り以外のものが
見えなくなってしまう。
そしてそのまま
雲(怒り)に巻かれた状態で
私達は
次の自分の言動を
起こす。
本当は
地球はあるのに。
いつだって。
本当は
私達は地球に
いるのに。
それすら
わからなくなる。
地球にいることを
思い出せば、
私達は本当は
自分が何を望んでいるか
も思い出せる。
しかし
忘れたまま
生きていく。
幻影に
巻かれたまま
生きていく。
たとえ
一つの幻影から
抜け出ても、
次の幻影に
巻かれる。
幻影から幻影に
移り変わるだけ。
地球を思い出さずに
幻影の中のみ
を移り変わるだけ。
そのような状態で
生きている人が
残念ながら
ほとんとだ。
幻影に巻かれて
行動を決める、
ということは、
幻影に基づいた
心の外の現実
(これを現象という)
を創り上げることに
なる。
幻影に基づいた
現象を創るということは、
当然であるが、
実在の望む現象とは
別の現象を
生み出すことになる。
ここに、
「実在と現象の不一致」
が起こる。
そして
その不一致によって
さらなるストレスが
発生し、
それが心の中に
大量の「苦しみの幻影」
を巻き起こす。
そして私達は
その「苦しみ」からさらに
次の行動を
決めてしまう。
そのサイクルを
延々と続ける。
それが人生であると
思い込みながら。
・・・・・・
そのサイクルから
抜け出ていただく
のが、
私のサポートの
第一段階だ。
ちなみに、
第二段階は、
抜け出た後に今度は
望む現実(現象)を
創り出していく。
それによって
「実在と現象が一致」
する。
これが私のサポート
の本質であり、
私はこのような
サポートのできる人を
「コーチ」
と呼んでいる。
「実在と現象を一致させる」
ためのサポート力。
これを修得していただく
ための場を
春くらいを目処に
立ち上げようと
思っている。
それは恐らく
一つではなく、
いくつかの
バリエーションを持たせて。
まだ現時点では
明確ではないが、
すでに準備には
入っている。
(→【コーチ探し、始めます】)
つづく
「世界」とは
二つある。
一つは、
「心の内の世界」、
もう一つは、
「心の外の世界」。
そして
それぞれに
「現実」
がある。
心の内の現実
のことを
私はいつも
「実在」
と呼んでいる。
心の外の現実
のことを
私はいつも
「現象」
と呼んでいる。
一般的には
心の外で起きていること
(つまりは「現象」)
のことを
「現実」と
呼んでいるのだろうが、
今書いたように、
「現実」は
心の外だけで
起きていることでは
ない。
この視点がないから
「現実」を変えることが
極めて困難になる。
私が大事にしている
サポートとは、
心の内と外の
二つの「現実」を
一致させる
ことだ。
心の外の現実
(つまり、現象)
のみを
上手くいかせようと
皆、し過ぎている。
たまたま
上手くいくかも
しれないが、
しかしそれにより、
心の内と外が
不一致になる可能性が
高い。
この「不一致」が
あらゆる
不調和を起こす。
実は、
「不一致」による
ストレスが
私達人間にとって
最もキツい。
現実(この場合は、現象)が
上手くいっているのに、
本人はそれほど
幸せでなかったり、
物事が上手く
進んでいるのに、
疲労感・疲弊感ばかりが
高まっていくのは
そこに原因がある。
心の内の状態が
悪ければ、
心の外の状態も
悪くなる。
心の内の状態が
良ければ、
心の外の状態も
良くなる。
これが
「健康」
ということだ。
心の内の状態が
良くないのに、
心の外の状態のみが
良くなっていく。
この状態に
なっている人や組織
を、
私は最も
「危険」
とみる。
そのため、
私が行なっている
サポートには
大まかには
次の二つの段階が
ある。
①心の内を良い状態にする。
②心の外を良い状態にする。
つまり、
心の内の状態を
整えた上で、
それが心の外に
反映するように
する。
これを
一言で表現すれば、
『実在を現象化する』
となる。
これさえできれば、
もう私のサポートは
要らないのではないか、
とすら
私は思っている。
・・・・・・
以上の話に
「真本音」
という言葉を絡めると、
次のようになる。
①心の内の
真本音度合いを
高めた上で、
②心の外の
真本音度合いを
高める。
ということだ。
つまり、
「真本音度合い」
という尺度には
2種類ある
ということだ。
①を
「潜在的真本音度合い」
②を
「顕在的真本音度合い」
と
私は呼んでいる。
心の内の真本音度合いを
高める、とは
どういうことか?
の詳細については
また改めて
書かせていただくとして、
人は、
まずは心の内が整えば、
かなり元気になる。
しかし
本当の元気さとは、
それがちゃんと
心の外に反映する
ことだ。
つまりは、
心の内にある
本当の想いに基づき、
それを
行動に移し、
結果を出す。
それが
できるように
なってこそ、
本当の元気さ、
永続的な元気さ、
に
つながっていく。
ところが、
②は
勇気が要る。
①までは
できたのに、
②で止まってしまう
人がいる。
私が最近
「進め!」
と言っているのは、
②をせよ!
ということだ。
要するに、
「行動せい!」
ということだ。
①だけで
気持ちよくなって
満足するな、
と。
そして当然であるが、
②までをサポート
できる「コーチ」が
必要だ。
そしてさらに
当然であるが、
そのためには
コーチ自らが、
自身の人生において、
②までが
できていなければ
ならない。
①しか
できていないのに、
もしくは、
①すら
できていないのに、
「私は人のサポートを
します」
と言っている人が
多過ぎはしないか。
そういった
コーチによるサポート
を受けた人は、
①すらどんどん
ひどくなっていく
のだ。
(→【コーチ探し、始めます】)
つづく
新しい世界に
最初に降り立つ
というのは、
とても勇気の
要ることだ。
そこには
何があるのか、
さっぱり
予測ができない。
予測ができる
ということはもう
その時点で
新しい世界では
ない。
予測ができる
ということはもう
その時点で
「超えていない」。
完全に、
自分の範疇を
超えているので
あれば、
予測は不可能だ。
むしろ
予測をしない
方がいい。
自分の範囲よりも
大きな場所に
いるのだから、
自分の範囲で
考えることは
危険である。
予測し意図を持つ
ことはむしろ
死を意味するかも
しれない。
だから
開き直る。
しかない。
開き直って、
予測ではなく、
「創造」に
集中する。
つまりは、
私は何をここで
創り上げたいか?
その、
願いのみに
意識を集中し、
行動を集中させる
しかない。
あとは、
人智を尽くして
天命を待つ。
煮るなり焼くなり
好きにしてくれ。
と、
開き直るしかない。
そして
その状態に
入った時に初めて、
一瞬、
すべてがわかる。
という体験が
ある。
(かもしれない。)
理屈で
わかるのでは
ない。
完全に
意識化できる
わけでもない。
でも
たった一瞬でも、
すべてがわかる
のだ。
その一瞬の
確信のみで、
私達は
毅然と進む
ことができる。
・・・・・・
私達は
今、
ここにいる。
という
紛れもない
現実がある。
そもそも
その現実を
受け入れていない
人が多い。
そういった人は
皆、
自分の「思考」の
世界に
入り浸っている。
目の前の
Aさんの表情を
見ることよりも、
Aさんとは
こういう人だ、
と解釈する方を
優先する。
Aさんを
見つめているような
振る舞いはするが、
実は
Aさんではなく、
Aさんに対する
自分の解釈のみを
見つめている。
これでは
Aさんとの関係性に
変化は
訪れない。
Aさんと共に
「新しい世界」
に
入ることもない。
一生。
本当に、
そんな人生で
よいのか?
自分の狭い
解釈の世界の中に
いるだけの
人生で
よいのか?
それで、
人生を終える
瞬間に、
満足感は
得られるのか?
自分の人生の
目的を果たせたと、
魂の悦びに
震えることは
できるのか?
・・・・・・
私達は
生きている。
生きる
とは
進化である。
進化の悦びを
得る、
ために
今ここにいる、
というのが
私達人間の
厳然たる事実
である。
と、
私は
人と向き合う現場で
確信できた。
ありがたい
経験だった。
人と向き合い
ながら、
自分と
向き合うことが
できた。
今のこの
お仕事に
本当に感謝
している。
明日向き合う人
と、
私はどのような
会話をするのだろう?
そして
どのような
「新しい世界」への
扉を
開くのだろう?
いったい
何を
創造したいと、
願うのだろう?
つづく
世の中は、
自分一人だけでは
力及ばぬこと
ばかりである。
私には
「できないこと」
ばかりである。
「できないこと」
というのには
二つの要素がある。
「能力的にできない」
ということと、
「やってはならない」
ということだ。
そしてこの二つは
完全に
つながっている。
私達には
「役割」
がある。
それは私達自身が
真本音で
決めている。
自らの本当の役割を
見つけ出すことが
人生の最初の
目的だ。
そして
その「役割」を
全うするために
私達は皆、
先天的な能力を
持ち合わせている。
これをつまりは
「才能」
と呼ぶ。
「才能」とは
少しの努力で
ぐんぐんと伸びて行く
力を言う。
しかし
面白いことに、
どれだけ優れた
「才能」があっても、
それを
使わなければ
それは
まったく発揮されない。
だから
自分の「才能」に
気づかずに
人生を終えてしまう
人も多い。
多い、
と言うか、
びっくりしないで
いただきたいのだが、
私の現場感覚では
9割以上の人が
自らの「才能」に
気づいていない。
そして
「才能」以外の部分を
必死に努力して
伸ばしながら
生きているし、
仕事をしている
という現状がある。
だから私の
「コーチ」としての
目的の一つは、
その人の
「才能」を見出すこと。
そして
その人の真本音が
望む「役割」
を見出すことだ。
組織において、
(組織外でも同じだが)
その「役割」と「才能」が
合致し、発揮されれば、
そういった人達が
増えれば、
間違いなくその組織は
「調和」する。
そして
「進化」を始める。
それが如実に
「数字」となって
現れる。
・・・・・・
「才能」は
見つけ出さねば
発揮されないが、
見つけ出すだけ
ではダメだ。
次は、
それを伸ばす努力
が必要だ。
「才能」は
努力をすれば
すぐに伸びるが、
努力もしなければ
まったく伸びないように
できている。
まったく
人間というのは
面白い。
「才能」が伸びるように
努力するということは、
イコール、
その「才能」に見合った
「役割」に挑戦する
ということだ。
その「役割」を
担うのが
私達の人生の望み
であり、
真本音の望みなので、
要するに、
真本音に素直に
生きることで、
「役割」を見つけ、
「才能」も掘り出される。
その結果、
・自分がすべきこと
・自分がすべきではないこと
が自然に
明確になる。
組織も社会も
ここが混乱している
ので、
不調和が起きてしまう。
一人一人が
真本音で望む「役割」を
しっかりと担えば、
組織も社会も
自然に調和する。
つまり、
本当に面白いことだが、
「この組織を
こうするために
人をどうするか?」
という方向で
考えるよりも、
「この人を
本当に活かすために
どうするか?」
を出発点にする
ことで、
自然に組織は
進化して行く。
組織とは
人の集まり
だからだ。
この原則を
実践しているのが、
私のサポートの
真髄だと言ってもいい。
私は
こういった「コーチ」を
育成したいのだ。
(→【コーチ探し、始めます】)
つづく
進む人。
進まない人。
その差が
またさらに
顕著になった。
この一ヶ月での
ことだ。
進まない人は
本当に
止まってしまった。
恐らく、
テコでも動かない
つもりなのだろう。
進む人は
サポートがなくても
勝手に
進んで行く。
誰もが、
最大加速を
楽しんでいる。
進めば
楽し。
止まれば
苦し。
という
これ以上ない
くらいに
シンプルな原則が
あるのだが、
それが
あまりにも見事に
現れてきている。
・・・・・・
私自身も
またさらに
加速しようと
思っている。
今、
一年前の手帳を
見てみたのだが、
この一年で
随分と
加速を続けてきた。
一年前の自分が
とてものんびり
しているように
感じられる。
だが恐らく、
一年後の自分が
今の自分を
振り返ると、
「止まっていたのでは
ないか」
と思うくらいの
加速を、
これからしてみようかな
と
思っている。
・・・・・・
これまでの
自分は、
準備段階の
自分であった。
これからが
本番だ。
・・・と
毎年思っている
気がする。笑
が、
私はそれでいい
とも思う。
これまでは
準備段階に
過ぎなかったんだ、
と思えるくらいの
加速を
続ければいい。
そこにこそ、
人としての
本質的な悦び
がある。
人生、丸51年。
今日から、
52年目の日々が
始まる。
つづく
私には
やりたいことが
山のようにある。
だからこそ、
一本道を
創っている。
たくさんのことに
エネルギーを
分散するよりも、
常に
「一点」を
決める。
というのを
基本にしている。
一点を決めると、
自然に
一本道が
観えてくる。
まるで
川の水が
流れるかのような
一本道が。
川には
至る所に
岩や障害があり、
そこでは
水はせき止められて
いたり、
濁流を生んだり
しているが、
そういった箇所には
できるだけ
寄らない。
水が最も
スムーズに流れる
「本流」を
見つける。
つまりは
最も楽な行き方
を見つける。
最も
楽だと思える
道筋で、
最も
集中すべき
ことに
集中する。
これを私は
「戦略」
と呼んでいる。
「戦いを略す」。
要らぬ戦いを
せずして
目的に至る
最善の道だ。
・・・・・・
人生には
戦略が必要だ。
人の成長(進化)
にも
戦略が必要だ。
最も楽な
行き方をするから
こそ、
最も大事な
課題に
全エネルギーを
集中できる。
それにより
「最速」
で進める。
もちろん
今の自分に出せる
「最速」
だ。
・・・・・・
最速で進む
には
「覚悟」が
必要だ。
その「覚悟」を
持った人には
私は
「戦略」を
オススメしている。
実際に、
覚悟のある人
こそ、
戦略が
生きてくる。
覚悟とは
気合いのことでは
ない。
いつも言うことだが、
覚悟のある人は
静かだ。
スッキリクッキリと
物事が
観えている。
そして
淡々と
すべきことを
している。
あーだこーだと
できない理由を
並べ立てることは
しないし、
力を鼓舞する
こともない。
一つを決め、
一つをやる。
その連続を
まるで呼吸の
ように
進めていく。
その行き方と
戦略が
合致すると、
その人は
独特の空気感を
発する人
となる。
その人と
一緒にいるだけで
こちらの心は
洗われ、
その人と
一緒にいるだけで
こちらの道も
観えてくる。
余分な悩みや
迷いは消散し、
自分がなぜ
あんなことで
ウダウダと止まっていたのか、
わからなくなる。
心も体も
楽になるが、
背中に一本の軸が
通ったような
爽快さも感じるように
なる。
つまり、
その人と一緒に
いるだけで、
周りの誰もが
「自律」し始める。
・・・・・・
そんな
「リーダー」
を増やすために
私はサポートを
しているし、
そんな
「コーチ」
を私は
たくさん育成したい。
(→【コーチ探し、始めます】)
つづく
変化が大事だ。
と、
皆が口を揃えて
言う。
しかし
そう言いながらも、
本気で変化しよう
と決めている
人は
いったいどれだけ
いるのだろうか?
言うは易し
行うは難し
という言葉が
今ほど
身に沁みる時代も
ないだろう。
「自分の範疇」
の中における
変化は
皆、へっちゃらに
行なう。
しかし
それは本当は
「変化」とは
言えない。
変化とは
「自分の範疇」を
超えることだ。
しかし皆、
「自分の範疇」の境界線まで
来ると、
途端に尻込みを
する。
言い訳を
始める。
言い訳しながら、
もといた場所に
戻ろうとする。
人間だから
致し方ないことだと
思う。
人には恐怖
がある。
怖い
と感じることは
健康的だ。
尻込みだって
いいだろう。
でも、
尻込みしながらも、
「私は尻込みは
していない」
と、
自分で自分を
誤魔化すのは
やめにしないか。
・・・・・・
物事が
上手くいかなく
なると、
すぐに
自分のせいにする
人がいる。
「私が至らない
からだ」
と。
一見すると
謙虚であるが、
しかしそれも
「自分の範疇」に
おいてのみ
の人が多い。
いつもは
謙虚なのに、
本当にまずいことに
なると、
本当にシャレでは
済まない窮地に
なると、
途端に
人のせいに
し出す。
実は、
「私が悪いのです」
といつも口では
言っているのだが、
本当は
心の中では
そうは思っていないのだ。
心の中では
常に他人を
罵っている。
私は
それがいけないこと
だとは思わない。
人のせいにしたい
のも
私達人間の自然な
心の動きの一つだ。
誰だって
自分が悪い
とは思いたくない。
謝罪だって
したくない。
自分を
守りたい。
そんな心が
あったって
いいじゃないかと
思う。
実際
あるんだし。
でもその一方で、
「本当に
申し訳なかったな」
と、
反省する自分も
いるはずだ。
「反省する自分」
と
「人のせいに
したくなる自分」
の
どちらもいるのが
私達だ。
それで
いいじゃないか。
しかし、
「人のせいに
したくなる自分」
を
醜いと捉え、
そこにフタをする
人がいる。
これも
自分自身の
誤魔化しだ。
それは、
やめようよ。
・・・・・・
自分で
自分を
誤魔化す。
それだけは
やめようよ。
もっと
素直に
生きよう。
素直とは、
そこにあるものを
「そこにあるな」
と
あるがままに
認めること。
自分の心の
中の、
美しい部分も
醜い部分も
すべて
あるがままに
その存在を
認めよう。
それができて
やっと
「スタート」
だ。
自分で自分を
誤魔化す人に
一生、
「スタート」
は来ない。
素直な人
こそが
前に進めるんだ。
つづく
私は恐らく、
とても厳しいコーチ
なんだと思う。
厳しいと言っても、
怒鳴ったり
けなしたり
するわけではない。
しかし
ある時ある瞬間に、
躊躇なく
クライアントさんの
「すべて」
を
壊すことがある。
ただし当然だが、
本当に
「すべてを壊す」
のではない。
その時のクライアントさん
ご本人が
「これが私の
すべてである」
と思い込んでいるもの
を壊す
のだ。
しかし
側から観れば
そうなのだが、
クライアントさんご本人に
してみれば、
たまったものではない。
すべてを
完全否定される
以上の
ショックや衝撃、
そして
痛みを感じるだろう。
・・・・・・
これを
中途半端に
相手をフォローしながら
上手くやろうとする
人がいる。
しかし
そのサポートは
逆に危険だ。
やる時は
一気にやる。
のが
実は一番
安全だ。
中途半端に
やれば、
壊れるべきものが
中途半端に
残ったままになる。
それはある意味
ゾンビのような
状態だ。
その状態で
中途半端にまた
生き返ろうと
してしまう。
しかし当然
生き返れない。
で、
その状態で
苦しみ続ける。
これが
一番きついことだと
私は思う。
壊すべき時は
一気に
完全に
壊す。
これが
次に進める
最善のやり方だ。
しかしそのためには、
それをやる側の
「コーチ」の覚悟
がいる。
しかもその覚悟
とは
エイヤッという
気合いや
勢いによるもので
あっては
ならない。
目を瞑って
我を忘れて
行なうものであっては
ならない。
壊すこちらも
「痛み」を一緒に
伴わねばならない。
これがなかなか
できない。
ここまでできる
「コーチ」に
残念ながら
私はまだ出会った
経験がない。
だから
これができる
「コーチ」を
私は育成すると
決めている。
・・・・・・
「壊す」ためには
もう一つ重要な
ことがある。
それは
「タイミング」
だ。
大雑把に言えば、
「もう壊しても
この人は大丈夫だ」
という
タイミングまで
「待つ」
のだ。
壊すことで
その人が本当に
壊れてしまっては
ならない。
その人が
「すべてだと
思い込んでいるもの」
を壊しても、
そのすぐ後に、
「新たなその人」
であり、かつ
「本来のその人」
が
浮上できる、
・・・という
その状態になるのを
待たねばならない。
そこまでに
結構時間が
かかってしまう。
しかも
その状態になれたら、
「すぐさま」
に
壊さねばならない。
その
「新たなその人」
であり
「本来のその人」
は、
すぐに引っ込んで
しまうからだ。
つまり、
「本来のその人」
の
「芽」
が出始めたところで
壊すのだ。
この
「タイミング」
こそが
命かもしれない。
・・・・・・
で、
以上のことを
ぶっちゃけて
一言で表現すれば
こうなる。
「真本音度合いを
高め、
強くなったところで、
その人を壊す」
・・・だ。
まだ弱いうちに
壊してしまうと
本当に壊れてしまう。
だから
強くした上で
壊す。
要するに
そういうことだ。
表現だけ見れば
とても怖い感じだ。
しかし私は
これこそが
「コーチング」の本質
であると
思っている。
人を壊す
覚悟を持っている
人は、
自分を壊す
覚悟をも常に
持ち合わせている
人だ。
そんな人に
私は
「コーチ」を
目指してほしい。
(→【コーチ探し、始めます】)
つづく
時々、私は
自分でも怖くなる
くらいに
モチベーションが
高まる時が
ある。
最近は特に
その頻度が上がって
いるが、
実はそういう時ほど
慎重になる。
自分の内側から
エネルギーが
大量に溢れ続けると、
ある意味、
何も
観えなくなる。
エネルギー量が
凄くて、
視界が真っ白に
なる。
しかもそれは
とても気持ちの良い
状態であるし、
何でもできてしまう
感覚にもなる。
要するに、
「何も怖くない」
という
状態だ。
この状態のまま
私は
「絶対に」
人に
会わないことに
している。
なぜなら
自分のエネルギーに
そのままほだされて、
イケイケどんどん
のまま
突っ走ってしまう
からだ。
そしてそういう時ほど、
目の前の人を
置いてけぼり
にしてしまうか、
もしくは
知らぬ間に
傷つけてしまう。
イケイケどんどん
の気分になること
自体は悪くはないが、
そのまま現実を
進めるのは
大抵、
後でおかしなことに
なる。
だから
自分の中から
あまりにも大量な
エネルギーが湧いて
来た時は、
私は必ずまず、
自分の足元を
見つめる。
ちゃんと、
自分の足が
観えるか?
ちゃんと
大地に立てているか?
を確認する。
足元が観えない
場合は、
そのエネルギーの
放出を
止める。
と言っても
なかなか止まって
くれないのだが、
自分の体の
中心に、
そのエネルギーを
大事に大事に
抱くようにする。
そして
「我に返る」
ことにしている。
・・・・・・
エネルギーは
大事。
モチベーションアップ
も大事。
しかし、
何も観えない状態で
進むことは
本当に
やめた方がいい。
私が特に
企業経営者の
コーチングで
気をつけているのも
ここだ。
社長が単なる
イケイケどんどんで
進まないこと。
ちゃんと、
あらゆる現実を
見つめて、
観察して、
見極めて
進むこと。
エネルギーを
放出しなければ
進めない、
のであれば
それは
その人のエネルギーが
まだ少ない証拠だ。
エネルギーの
少ない人は
自分を鼓舞しなければ
進めないから。
本当に
エネルギーの高い
人は
静かだ。
肩の力を抜き、
静かに
微笑んでいる。
力を入れずとも
淡々と
自然体のまま
決めたことをすべて
やれる。
つまりは、
持っているエネルギーを
「落ち着いて」
発揮できる。
どこに
エネルギーを
集中させて、
どこで
エネルギーを
あえて分散させて、
どこで
エネルギーを
あえて鎮めるか?
を
ちゃんと
わかりながら
進むことができる。
その状態に
常に
「戻る」
ために、
私のコーチングは
あるのかもしれない。
人にはもともと
内包されたエネルギーが
必ずある。
それが発揮されるように
なるのは
当たり前。
ちゃんと真本音で
生きれば、
皆、そうなれる。
問題は
そこからだ。
開放された
エネルギーを
どのように
コントロールするか?
だ。
つづく
あなたは
進みますか?
進みませんか?
と、
2月に入ってから
ほぼ毎日のように
人に問うている
気がする。
その
人生の大事な
選択肢の前にいる
人ばかりだ。
進む
には勇気が
要る。
進む
とは、
これまでの自分の
範疇を
超えること
だからだ。
自分の築いた
世界の中に
安住することは
楽だろう。
しかし
本当は
楽ではない。
安住すれば
するほど、
心は
不安定になり、
その不安定さを
隠すために
自分自身に
不自然な元気さを
与えようとする。
その連続で
どんどん心は
弱まり、
そのうちに
身体まで
弱っていく。
そうならない
ことを
祈りながらも、
私は
今日も問うた。
あなたは
進みますか?
進みませんか?
もう
この判断は
本人しだいだ。
他者の
関与できる
ところではない。
だから
祈るしかない。
この人が
進む勇気を
出せますように。
そんな毎日が
続いている。
つづく
人生の選択に
迷ったら、
できるだけ
遠くを
観てみよう。
視野をできるだけ
大きく
取るのだ。
私は常に、
3年後の自分と
30年後の自分と
対話をし続けて
いる。
もちろんそれは
セルフコーチングの
一種であるので、
自己対話を
しているに過ぎない
のだが、
それでも
遠くを見つめれば、
そして
遠くの視点から
今を見つめれば、
我に返る
ことができる。
大事なのは、
我に返る
ことだ。
・・・・・・
常に
我に返った状態で
一歩一歩を
進めば、
それほど
間違えることは
ないし、
後悔もなくなる。
ほとんどの人は
我を忘れた状態で
がんばっている。
我を見失った
状態で
選択をしてしまう。
だから
後悔する。
という実に
単純明快な
理由がある。
いつも私は
「真本音に素直に
行こうよ」
と言うが、
これは
「我に返って
進もうよ」
と言うのと、
本質的には
同じことだ。
・・・・・・
そして、
当たり前のことだが、
我に返った
状態で
未来を描けば、
自分の本当に
望む未来を
設定することが
できる。
我を失った
状態で
未来を描けば、
それは
本当の願いとは
ズレを生じさせ、
未来に向かえば
向かうほど
ストレスが発生
する。
そういったビジョンを
描いている人が
多過ぎる。
・・・・・・
しかも、
常に我に返って
いれば、
その「我」は
急成長する。
つまりは
次元が上がって
いく。
最初は
単なる「我」で
あったのが、
しだいに、
「我」が大きく
なって行く。
我を大事にする
とは、
自分個人を
大事にすることでは
なく、
「すべて」を大事に
することである、
ということを、
努力するでもなく
当たり前のように
思えるようになる。
それを要するに
「器が大きくなる」
と言う。
「器を大きくしなきゃ」
では
器は大きくならない。
気合いの問題でも
真面目さの問題でも
ない。
我に返って
我を大事にすることで、
自然に
器は大きく
なってゆく。
「あいつは
人のことを考えない。
だから、
人のことを考えるように
させなきゃ」
では、一向に
その人は変わらない。
我に返り
我を大事にする人
でなければ、
本当の意味で
人を大事にすることは
無理なのだ。
それが
摂理であり、
それをよく
わかっている人が
本当のサポートが
できるのだと
私は思う。
「コーチ」は
誰よりも
器が大きくなければ
ならない。
そのためには、
誰よりも
我を大事に
していなければ
ならないのだ。
(→【コーチ探し、始めます】)
つづく
私のやっていること
は、
何だろうか?
と
よく考える。
もちろん
コーチングであるし、
育成の面では
戦略コンサルタント
であるし、
もっと本質的には
皆様の真本音度合いを
高めるサポート
ではあるのだが。
でも
私のやっていること
とは
何だろう?
もちろん、
世の中を活性化
させたいし、
もっと「コーチ」を
増やしたい。
約30年後の
ビジョンもある。
理念もあるし
想いもある。
若い人達を
応援したいし、
次世代に残せる
社会創りも
したい。
でも、
何だろう?
・・・・・・
本当は
私はきっと
「何もしたくない」
のだ。
本当は
毎日、大好きな
電車に乗り、
毎日、大好きな
音楽を聴き、
毎日、大好きな
ウイスキーを
飲みながら、
世の中の流れや
人々の振る舞いを
時代の
移り変わりを
楽しみながら
観ていたい
だけなのだ。
時には
がんばっている人達
と、
ワイワイ馬鹿話を
しながら
食事をする。
みんな
すげーなぁ、
と思いながら
やはり
いつものように
いろんなウイスキーを
ストレートで
クイッとやる。
そういうことが
できたなら、
それだけで私は
満ち足りるだろう。
しかし。
満ち足りた私は
きっと
何かを始めるだろう。
人は
どれだけ
満ち足りても、
同じ場所には
居続けない
生き物だから。
すべてに
満ち足りた私が
始めることは、
きっと
今の私が
毎日行なっていること
と
完全に
一致するだろう。
そう。
私の
今の毎日は、
「満ち足りないから
やっていること」
ではない。
「すべてが
満ち足りても
それでも全力をもって
やり続けたいこと」
を今、
やっているのだ。
それが
真本音で生きる
ということだ。
・・・・・・
何かが
満ち足りないから、
それを満たすために
がんばる。
・・・これは人として
とても尊い生き方
だと私は思う。
もちろん今の私も
満ち足りないものは
ある。
それを満たすために
がんばっている。
しかし、
「満ち足りたいものを
満たすために
行なうこと」
と
「すべてが満ち足りても
それでも全力を
尽くしたいこと」
は
本当は
一致するのだ。
それが
真本音で生きる
ということ。
つまり
真本音とは、
「今の状況」
には
左右されない。
どのような状況でも
大事にしたいものを
大事にする、
というのが
私達全員の
真本音の意志だ。
そんなことが
可能なの?
という疑問は
当然、
ほとんどの人から
出されるものだろう。
しかし
それが可能である
ということを
実証し、
多くの皆さんに
知っていただき、
そういった人達の
創り出す社会に
する。
というのが
私のやりたいこと
だ。
それが今、
私がやっていること
なのだろう。
たくさ〜んの
人達と
向き合いながら、
日々、
本当に私は実感
しているのだ。
人間は
みにくい部分を
たくさん持っている。
本当に
しょーもないなぁ
と思うことも
たくさんある。
しかし
人間はやはり
すごい。
人間は
こんなもんじゃない。
人間の本質が
創り出す世界は
こんなもんじゃない。
人間の底力は
こんなもんじゃない。
「こんなもんじゃない」
部分は
恐らく、
永遠に掘り起こされ
続けるだろう。
その凄みこそが
人間の本質だ。
私はそれを
実証したいのだ。
つづく
私は
ひたむきな人
が好きだ。
私のクライアントさんや
関わる方々の中で、
結局どのような人が
最大スピードで
現実を創り上げて
いるか?
と言えば、
ひたむきな人
なんだな、と
ふと気がついた。
ちなみに
「ひたむき」を
辞書で調べてみると、
一つの事に熱中するさま。
一つの事に一生懸命になるさま。
一途(いちず)。
とあった。
ふむ。
でもなんか私の印象は
ちょっと違う
かな。
熱中とも違うし、
一生懸命とも
一途とも
ちょっと違う。
これらはちょっと
反応本音っぽい。
「一途」は
近い感じはするが、
何となく、
「こうであらねば
ならない」
という思い込みが
働いてるのが
「一途」のような
感覚がある。
「ひたむき」は
もっと自由だ。
「一途」は
「もうこの選択しか
ない」
という深刻さも
感じるが、
「ひたむき」は
あらゆる選択肢が
あり、
自由にどこにも
行けるが、
でも、この道を
行こう、
という
伸び伸びとした
意志を感じる。
しかも
そして、
真面目だ。
一つを決めたら
真面目に
まっすぐに
それに
取り組み続ける。
これが私の考える
「ひたむき」
だ。
もちろん
私の印象でしかない
ので、
一般的には間違っている
かもしれないが。
・・・・・・
どれだけ普段
おちゃらけていても、
どれだけ普段
子どもっぽくても、
ひたむきな人は
ひたむきだ。
自分で決めたことを
ちゃんと
一つずつ
コツコツと
やり続ける。
一歩ずつ
足元を大事に
しながら
着実に進む。
兎と亀で言えば、
亀っぽいかも
しれないが、
しかし私は
亀が
いざという時に
凄まじい瞬発力を
発揮することを
知っている。
ひたむきな人
は、
ひたむきに
進みながらも
ずっと
自身のエネルギーを
高め、
貯め続ける。
常に全力を注ぐ、
というよりは、
力を抜くべき
ところでは
しっかりと力を
抜き、
適当にすべき
ところでは
本当に適当に
こなし、
しかし
本来すべきことは
精魂を込めて
しっかりと
それをやり続ける。
成果が出るとか
出ないとか、
そういうことではなく、
自分が
すべきだ
と思うことは
確実に
着実に
やり続ける。
他のことはすべて
三日坊主に
なってしまっても、
それだけは
何があっても
やり続ける。
何があっても
ブレない。
何があっても
くじけない。
それだけは。
・・・という
感じかな。
恐らくそれは
自分自身の
人生の目的を
何となくでも
しっかりと理解
できているから
だろう。
何のために
自分はここにいて、
何に
自分は向かっていて、
今、
何をしなければ
ならないのか?
その
真本音の答えを
その人は
知っているのだろう。
もちろん
明確でなくても
いい。
ひたむきな人は
「明確じゃないから
進めません」
などとは
決して言わない。
明確であろうと
なかろうと、
これをするんだ
と
直観的にでも
そう思えることには
その人は
ひたむきに
進んでいく。
やっぱり私は
そういった人が
好きだなぁ。
つづく
私はかつて、
情にもろい
人間だった。
情に揺らされ、
情に流された。
私達は人間なので、
もちろん
情はある。
それは
大切にすべきもの
だし、
自然に大切にしようと
している人も
多いだろう。
しかし、
情を大切にする
ことと
情に流される
ことは
根本的に違う。
昔の私は
情に流されることで
随分と
人生の遠回りを
してしまった。
恐らく
「コーチ」をする
ということに関して、
ここが
最大の難関の一つ
かもしれない。
「コーチ」が
情に流されると、
コーチングそのものが
「根本的に」
おかしくなる。
コーチングを
すればするほど、
クライアントさんの
真本音度合いが
激減していく
結果となるのだ。
・・・・・・
私は
よく泣く。
年齢を重ねるごとに
その傾向が
高くなっている。
とはいえ、
人前で泣くことは
ほとんどない。
でも
一人になった時に
クライアントさんの
苦しみや感情と
「一つ」となってしまい、
さめざめと
泣き続ける。
なんて
可哀想なんだろう、
と泣くこともあれば、
なんでこの人はこんなに
苦しい目に遭わねば
ならないんだろう、
と泣くこともある。
もちろん
嬉しくて泣くことも
多いが、
苦しみはさらに
多い。
私は夜中に
一人で
いつも泣き、
そして、
その上で
毅然と
クライアントさん達と
向かい合う。
そして私は
一切、
情には流されない。
一切、
である。
・・・・・・
私が人として
願うのは、
(「祈るのは」
と言った方が
よいかもしれないが)
一人ひとりが
真本音で生きる
ことである。
情に流される
ということは、
反応本音に流される
ということと
イコールの場合が
多い。
だから言葉を
換えれば、
私は一切、
その人の反応本音
には
流されない。
恐らく、
死んでも
流されないだろう。
それは
コーチングの場
だけではない。
プライベートでも
すべて同じ。
両親だろうが、
妻でだろうが、
子供にだろうが、
その人が
真本音で生きる
ことを阻害するもので
あれば、
一切そこには
流されない。
例えば、
その人が
苦しみの状況を
「自力で」
乗り越えようと
真本音で決めている
のであれば、
私はその
真本音を尊重し、
一切の
援助もヘルプも
しない。
だから
私のことを
とてつもなく
冷たい人間だと
思っている人は
多いのではないか。
しかしどう思われようが、
私がこの部分で
揺らぐことは
死ぬまでないだろう。
・・・・・・
以上を
私が本当に覚悟
してからである。
私自身の
人生も、
私のする
コーチングも、
すべてが
調和を始めたのは。
特に
コーチングにおいての
クライアントさん達の
道を開く度合いは
次元を変えた。
だから私は
「コーチ」になろうと
している人に
これを求める。
情に流されるな。
情に流された
サポートを
するな、
と。
情に流される
ことと、
愛を注ぐ、
ということは
根本的に異なる
どころか、
真逆の行為に
なることが多い。
「コーチ」に
なろうとする人は
ここに逃げずに
立ち向かってほしい。
(→【コーチ探し、始めます】)
つづく
人の可能性を
信じる。
人の光を
感じる。
その人の良いところ
を見る。
・・・それらはとても
大事なことだと
思うけど、
でも、
そこしか見ないのは
私には
どうしても現実逃避に
思えてしまう。
人には
いろんな部分が
ある。
真本音もあれば
反応本音もある。
反応本音だって
とても良いものも
あるし、
とても醜いものも
ある。
それらすべてを
観て、
理解して、
その上で、
その人の
可能性を信じ、
その人の
光を感じ、
その人の良いところに
焦点を当てる
のであれば、
それはとても
素晴らしいことだ。
人を愛する
とは、
その人の
光の部分のみを
愛すること
ではない。
それでは
愛したことに
ならない。
その人のすべてを
観ること。
受け止めること。
それが
愛の出発点だと
私は思う。
そしてそれは
自分自身に対しても
同じことだ。
・・・・・・
「受け止める」
とは
ただ、受け止める
だけのことだ。
「理解する」
とは
ただ、「知る」だけの
ことだ。
無理に
「イエスマン」
になる必要はないし、
「私はすべてを
許します」
なんて
やる必要はない。
私達は
人間だ。
自分の等身大
以上のことを
する必要はない。
もちろん
成長や進化は
目指せばいい。
でも、
今できる最大を
すればいい。
好き・嫌い
があったっていい。
その自分の気持ちを
また、
受け止めればいい。
評価判断
したり、
すべてを大らかに
包み込もう
としたり、
そこまでのことは
無理にせず、
ただただ
「受け止める」
「知る」
だけで、
愛は始まる。
愛とは
エネルギーだ。
愛という
エネルギーを
発する人は、
すべてを
(自分も他人も)
あるがままに
受け止める
人だ。
・・・・・・
「コーチ」は
人間だ。
人間にしか
できない。
人間は
常に未熟だ。
常に
成長と進化を
続ける存在だ。
今の自分の
未熟さを
評価判断するのでは
なく、
ただそのまま
あるがままを
受け止め、
そこから
最大・最善の一歩を
踏み出そうと
し続ける。
そういった生き方
をし続ける。
その見本と
なるのが
「コーチ」だと
私は思っている。
つまりは
「あるがままに生きる」
見本だ。
・・・・・・
しかし
「あるがままに生きる」
と言うと、
「そうか。
今のままの自分で
いいんだ」
とよく
誤解される。
そういうことでは
ない。
自分の
「あるがまま」
を本当に感じ取れば、
「今のままの
自分ではなく、
もっともっと私は
前に進みたい」
という
人間としての
実に自然な欲求にも
気づくはずだ。
そして、
「同じ場所」にずっと
い続けることに
気持ち悪さを感じ、
前に進みたくて
いてもたっても
いられなくなるはずだ。
だから
「あるがままに生きる」
人ほど、
自然に前に進む。
最大速で
進もうとするのだ。
(→【コーチ探し、始めます】)
つづく
私は
若い人達を
応援したい。
若いから、
という
理由ではない。
今の若者は、
「最大速で進もう」
という強い意志を
持っている人が
多いからだ。
もちろん、
人によっては
その意志は
まだ眠っている。
しかし、
何らかのきっかけで
すぐに
目を覚ましそうだ。
そんな
空気感を
放っている人が
多い。
本当は
年齢には関係なく、
私はそういった
人達を
応援したいのだが、
結果として
若者に目が行くのが
最近の傾向だ。
それだけ彼らは
目覚めようと
している。
・・・・・・
ところが、
今の世の中の
仕組みや、
もしくは
会社の状態は、
決して
意志を持った若者
にとっては
優しくない。
彼らが
活躍しづらいのだ。
我々の世代
以上の人達は、
今の社会を
創ってきたが、
その社会とは、
「反応本音の
強い人が成功
できる社会」
だった。
真本音度合いの
高さよりも、
「執着の強さ」
がものを言う
社会を創ってしまった。
その結果、
社会貢献意識
よりも
我欲の強い人が
成功するように
なった。
まぁ、
短絡的な表現を
あえてしているが。
今の若者は
真本音度合いの
高い人が多い。
彼らは
感受性が高い。
しかし、
その結果
今の社会に対して
拒絶感や虚無感を
抱いてしまっている
人も多い。
その結果が、
登校拒否や
引きこもりとして
現れてしまっている。
もちろん
すべてがそう、
ということでは
ないだろう。
しかし私は
そういった若者を
何人も見てきた。
真本音度合いが
もともと高く、
感受性も
高い人達が
本来の魅力と
能力を
発揮できる場所が
増えるといい、
と心底
願っている。
今の私が
すぐにできることは、
そういった
企業を増やすことだ。
そのために、
企業様のサポートを
させていただいている。
今後、
伸びる企業かどうか、
のパラメーターは、
若者が
伸びる会社かどうか?
のように
思う。
若者は経験が
ないから、
などと
言っている場合
ではない。
もう時代は
変わったのだ。
これからは
真本音の時代
だ。
若者が引っ張る
時代でもある。
新たな時代に
適合した
組織を創っていこう。
私は強く
そう思う。
と同時に、
そういった組織創りを
サポートできる
「コーチ」を
本当に
増やしていきたい。
(→【コーチ探し、始めます】)
つづく