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私の息子は5歳で
子ども園に
通っている。
毎日はとても
無理であるが、
週に何回かは
できるだけ夕方に
お迎えに行くように
している。
息子との会話の時間
を取りたいという
目的があるが、
子ども園にいる
子ども達の「集団」を
感じてみたい
という
目的も大きい。
あの「集団」の中に
入ると、
今の幼い子達の
真本音からのメッセージ
をたくさん
知ることができる。
今、彼らは
世の中を
どのように捉えていて、
何を感じ、
自分がどう動こうと
思っているのか?
それを
真本音のレベル
(魂のレベル)
で知ることが
できる。
これは実は、
私のお仕事の
大きなヒントと
なっている。
なぜなら私は
彼らのような子ども達が
将来、
大活躍できる社会に
したいと思っている
からだし、
そのためにも、
そういった組織(会社)を
増やしたいと
願っているからだ。
子ども達の
感受性は
素晴らしい。
我々の世代よりも
真本音の度合いも
意識の次元も
明らかに
高い。
我々が創り出した
のとは
違った社会を
彼らは創り出して
くれるだろう。
その土台を
今のうちから
創っておく必要が
あると
私は思っている。
・・・・・・
これまで彼らから
いくつもの
真本音メッセージを
感じたが、
最近、最も
印象的なのは、
「大人達みんなが
こなし過ぎてる」
という
メッセージだ。
もちろんそんなことを
言葉で言われた
わけではない。
しかし彼らの
空気感を言葉にすると
こうなる。
「こなす」
というのは、
「魂を込めていない」
ということだ。
「妥協している」
ということだ。
日常の一つ一つの
行動、
それはほんの些細な
ことかもしれないが、
一つ一つの
大人達の振る舞いに、
子ども達は
悪い意味の「適当さ」を
感じてしまっている。
しかもそれが今は
日々、
増大している
ようなのだ。
そこに子ども達は
「気持ち悪さ」を感じ、
そのストレスが
私に伝わってきた。
子ども達は
親や、
周りの大人達に対して
「幸せであってほしい」
と常に
願っている。
自由奔放に見えて、
実は、
親や大人達の
幸せのために
「こうしよう」と
彼らなりに思いながら
行動していることは
とても多い。
子ども達は
親(大人達)の生み出す
ストレスに
敏感になっており、
多くの子ども達が
親(大人達)が
発生させたストレスを
肩代わりしている。
だから私は、
子ども達を通じて、
大人達のストレスを
子ども園では
よく受け取って
帰ってくる。
今、それらの多くは
「妥協のストレス」
だ。
自分の真本音を
無視し、
「まぁこれくらいでいいか」
と妥協しながら
生きる大人が
多いのだろう。
特にその妥協の度合いが
最近は増えている
ようだ。
子ども達の
感受性は高い。
大人達の生き方が
彼らにダイレクトに
影響を及ぼしている
という事実を
我々はもっと
知った方がいい。
「子ども達に
幸せになってほしい」
とか、
「次世代につながる
社会にしよう」
とか、
軽々しく我々は口に
するが、
そのためには
まずは、
普段の我々の
生き方こそを
もっとしっかり
するべきではないか。
もっと
一つ一つの物事に
魂を込める
べきではないか。
つづく
私はまず、
企業様のサポートに
入らせていただく場合、
最初に
一日かけて研修を
行なうことが
多い。
そこでは
「真本音」「反応本音」
について
ゆっくりじっくりと
ご説明をするのと同時に、
自分自身のこと
について、
自分の人生に
ついて、
私が23問の問いを
投げることで
ゆっくりじっくりと
考えていただく。
すると
多くの人達から
「こんなに自分の
ことを、
自分の人生のことを
考えたことは
ありませんでした」
というお声を
いただく。
もちろんそれは
喜びのお声
なのだが、
いつも私は
そこで、
少し悲しくなる。
だって、・・・
私の講義を入れても、
たったの
6〜7時間。
これまで
何十年も生きてきて、
たったの6〜7時間
という短い時間。
そんな短い時間
自分や人生を
考えただけ。
それでそんな
感想、って。
いったいどれだけ
自分と向き合って
いないんだ、
ってことでしょ。
これまでの
何十年、
いったい何を
してきたの?
ってことでしょ。
でもそれが
ほとんどの人達。
今の社会の現状。
自分のことを
考えないという
ことは、
自分のことを
大切にしていない
ということ。
自分の人生を
大切にしていない
ということ。
まずはそんな
とても単純な
現実を知ることが
スタートなのであるが、
しかしやはり、
悲しい現実だ。
・・・・・・
自分のことを
知らず、
自分の人生の
ことを
知らず、
ただただ
人は
人生を生きていく。
それが
苦しいことである
という事実を
感じる人は
まだ、よいと思う。
しかし
その苦しさに
麻痺をしてしまい、
そのまま
人生を歩み続ける
人は多い。
今日、
私のセミナーを
受けてくださった
ある人が、
そのことを実感され、
「私はなんて
危うい人生を
生きてきたんだろう」
と言いながら、
目に涙を
溜めていた。
そう、
自分のことを
知らないままに
進むのは
危うい人生だ。
でも
その人はこう
続けられた。
「だから私は
これからは
自分の人生を
生きる。
まだまだ抽象的だけど、
私の本来の役割が
少し見えてきた」
と。
そして
その人から
真本音の風が
吹いてきた。
たとえ、
何十年も
自分を知らないままに
生きてきたとしても、
それでも、
「今」から始める
ことはできる。
もちろんそれは
少しでも早い方が
よいのだが、
それでも、
始まればそれは
「自分の人生」
だ。
自分の人生
を
生きてほしい。
自分の人生
として、
目の前の現実に
対峙して
ほしい。
それが私の
「コーチ」としての、
いや、
「人間」としての、
最も単純な
願い、かな。
つづく
明日でもなく、
昨日でもなく、
今日やらねば
ならぬことが
ある。
今日この日こそが
最善最高の
タイミングで、
二度とそのチャンスは
来ない、
ということがある。
実は人生とは
その連続だ。
一見、当たり前の
ように
見えることでも、
一見、偶然に
見えることでも、
今日のここしかない、
これ以上の
タイミングはない、
という事柄は
無数にある。
だから
それを
今日やる。
そして反対に、
今日が
最善のタイミングでは
ないことも
ある。
だからそれは
今日は
やらない。
この連続。
ここを丁寧に
進むことで
道は開ける。
これが
真本音で生きる
基本だ。
つづく
自分の中から
エネルギーが湧き出てくる
のであれば、
そのエネルギーの
使い途が
必ずある、
ということだ。
ところが、
それがわからない
という人が
多い。
わからないから
エネルギーを
放っておく、
という人が。
下手をすると
せっかく湧き出ずる
そのエネルギーに
蓋をして
なかったことにする
人さえいる。
実は、
若い人に
多い。
もし
エネルギーが
湧くならば、
誰よりも
自分自身が
そのエネルギーを
感じ続けること
だ。
そのエネルギーを
常に
観察すること。
そのエネルギーを
抱き続ける
こと。
何がなんやら
さっぱりわからなくても、
それをとにかく
大切にすれば、
「現実」が
その「エネルギー」に
ついてくる
ようになる。
「現実」が
そのエネルギーによって
徐々に
流れ始めるのだ。
変化を
始めるのだ。
するとその
変化の中で、
ふと、
エネルギーの使い途
を
直観する。
人生は
面白い。
自分の道が
わかることで
エネルギーが湧く
こともあれば、
エネルギーが
湧いてから、
そのエネルギーが
ヒントになって
道が観えてくる
こともある。
いずれにしても、
そのエネルギーは
自身の真本音が
もたらしている
ものだ。
・・・・・・
人生において
自分のエネルギーを
常に
100%出し続けている
人がいる。
これは実は、
間違っている。
エネルギーとは
そのように使うもの
ではない。
それに
常に100%出すことを
「真剣」とは
言わない。
それは単なる
「ガムシャラ」
である。
ガムシャラと
真剣は
違う。
もちろん
ガムシャラに生きる
ことが大事な
時もある。
真剣とは、
いつ、どの瞬間に、
ガムシャラになるか?
を見極めながら
生きている状態
だ。
力を抜くところでは
しっかりと
力を抜き、
そのかわり、
いざというところで
100%ではなく、
1000%の力を
出す。
それができる
自分でいる。
それができる
生き方を
する。
それが
真剣に生きる
ということだ。
つまり、
真剣に生きる
とは、
自分自身の
エネルギーマネジメント
をすることである。
・・・・・・
真本音で生きる
のと
真剣に生きる
のは
ほぼほぼ
イコールである。
私達の真本音は、
自分の中から
必要なだけ
エネルギーを開放し、
それを
必要な場所で
必要な瞬間に
必要なだけ
活用しようとする。
真本音に
素直に生きることで、
私達は
自分自身のエネルギーを
有効活用できるし、
今の自分の
1000%を
出せる瞬間を
生み出すし、
それにより、
自分の枠を超えたり、
可能性を
無限に引き伸ばす
きっかけを
創り続ける。
それはある意味、
とても冒険的で
刺激的で
楽しくもある。
・・・・・・
私の中にある
心の大地。
今日、
その大地に
小さな亀裂が入り、
そこから
新たなエネルギーの束が
溢れ始めた。
抑えていたものが
破れ、
まるで血しぶきのように
エネルギーが
溢れ出しているのを
今、私は
茫然と見つめている。
このエネルギーは
何のために
どのように使うのか?
それを
明日以降の私は
楽しみたいと
思っている。
つづく
こんな風に書くと
変な風に聞こえるかも
しれないが、
私は私自身の
あまりのエネルギーの
高さに
呑まれそうになって
しまうことがある。
昔はこんなことは
なかったのだが、
真本音度合いが
高まってからは
時々、来る。
実はその
高いエネルギーを
人前で見せたことは
一度もない。
私自身が
呑まれるわけには
いかないからだ。
下手をすると
人前では
私はいつも
自分のエネルギーを
1%も見せていない
かもしれない。
でも、
こういう人、
今は
増えているのでは
ないか?
・・・・・・
「内発的モチベーション」
という言葉が
ある。
一般的にも
使われる言葉だが、
私は以下のように
定義している。
と、その前に
「外発的モチベーション」
との区別から
入った方がいいかな。
外発的モチベーション
とは、
外からの影響によって
動機付けされ、
やる気が高まること
を言う。
例えば、
誰々に喜ばれて
やる気が高まった、
とか。
お給料が上がって
やる気が高まった、
とか。
好きな仕事と
巡り合えて
やる気が高まった、
とか。
要は、
「現実」が「自分」に
影響を与え、
やる気が高まる
という状態だ。
通常、
「モチベーション」という
言葉を使う場合は、
ほぼほぼ、
こちらをイメージする
人が多い。
それに対して、
内発的モチベーション
とは、
今の「現実」がどうか?
は
まったく関係ない。
嬉しいことがあった
とか、
悲しいことがあった
とか、
「現実」とは
関係なく、
ただただ
自分の内側から
エネルギーが
高まってきている
状態だ。
通常は、
真本音度合いが
高まるだけで、
人は
内発的モチベーションが
上がる。
「現実」とは
関係なく、
内側からエネルギーが
湧いて来るのだ。
だからよく
私のコーチングを受けて
真本音度合いが上がると、
「状況は何も
変わっていないのに、
なぜかとても私、
毎日元気です」
「以前は不安に負けて
足がすくんでいましたが、
今はなぜだか、
多少の試練では
揺るがないどころか、
それを楽しんでいる
自分がいます」
などのお声を
いただく。
これは私自身も
そのような体験の
連続だったので
よくわかる。
ところが、
真本音度合いが
高いのが当たり前の
状態が続くと、
ある時ある瞬間に、
まるで何かの
殻が壊されたように、
凄まじい
というくらいの
エネルギーが
湧き始める。
何かの臨界点を
超えたように。
その状態に
入る人は、
逆に、
エネルギーマネジメントが
必要になるのだ。
つまりは、
省エネルギーで
進む必要が
出て来る。
自分のエネルギーを
自分で管理し、
必要な時に
必要なだけ
エネルギーを
使える状態
を維持できるように
するのだ。
・・・・・・
そしてこの
エネルギーマネジメント
が上手くできるように
なるのに
時間のかかる人が
多い。
私自身も
そうだったし、
今の私のクライアントさんは
この段階の人が
増えている。
ただ、・・・
その状態にある人
に、
あえてここで
お伝えしたいのは、
もう、
あなたのその
エネルギー、
一気に
解放してしまっても
よいのではないか。
・・・ということ
である。
私自身に対しても
言える。
これまで
1%未満に抑えていた、
そのエネルギーを、
もうちょい
解放しても
よいのではないか、
と。
それだけ、
世の中が整って
きたのだと思う。
「実在」のレベルでは、
世の中の
真本音度合いが
上がってきているし、
多くの人々の
「準備」も
あなた自身の
「準備」も
整ってきているのでは
ないだろうか。
これまで
無意識に躊躇してきた
その「躊躇」を、
もう少し
緩めてもよいのでは
なかろうか。
そういった意味で
2019年は
解放の年
なのかもしれないね。
つづく
人と向き合う
ということは、
人の反応本音と
向き合うという
ことだ。
反応本音は
激しい。
反応している本音
なのだから
当然だ。
しかし多くの人は
その激しさに
フタをしている。
自らの激しさに
フタをし、
自ら気づかないままに
生きている。
そして
何かの拍子に
そのフタが取れてしまう
ことがある。
その時に
驚くのだ。
自分自身の
反応の激しさ、
心の揺れの大きさ
に。
「コーチ」がしっかりと
向き合えば、
フタが取れてしまう前に
自分で自分の激しさを
垣間見ることが
できるし、
徐々にではあるが、
その激しさを
理解しながらも、
そのさらに奥に
あるものを
自ら感じられるように
なる。
激しければ
激しいほど、
そして、
それを感じれば
感じるほど、
それと
向き合えば
向き合うほど、
そのさらに奥にある
「静寂」と
「安定」に
人は気づくことが
できる。
それが
「真本音」
である。
・・・・・・
その状態に
なるためには、
まずは「コーチ」が
その人の激しさと
向き合う必要がある。
実は、
残念なことであるが、
この段階で
「コーチ」の厳しさを
知り、
「コーチ」という役割から
逃げてしまう人が
多い。
「人をサポートするのは
好きだけど、
人の激しさと
向き合うのはいや。」
という意識では
残念ながら
「コーチ」には
なれない。
もちろん
自己満足のコーチ
にはなれるだろうが、
それは
自己満足のサポート
でしかない。
よく私は
「人の真本音と
向き合う」
という言い方をするが、
その前提として
どうしても必要なのが、
「人の反応本音と
向き合い、
そのすべてを
あるがままに
受け止める」
という段階だ。
ここを逃げずに
やり続けることで、
初めてその「コーチ」は
目の前のその人の
「静寂」と「安定」を
感じることが
できる。
つまりは
「真本音」を感じとる
ことができる。
ここが
「コーチング」の
スタート地点である。
・・・・・・
私はこのお仕事を
させていただいて
本当によかった。
このお仕事のおかげで、
人間というものの
あらゆる面と
対峙することが
できた。
よく、
「たけうちさんは
性善説ですか?
性悪説ですか?」
と
初対面の人に
問われることがあるが、
人間とは
そんなにも単純な
ものではない。
あらゆるものを
包含しているのが
私達人間であり、
そのすべてと
対峙できるのが
「コーチ」であり、
ただただ
対峙するだけでなく、
何を観ても、
何を聴いても、
何を感じても、
自分自身が
毅然とそこに
立ち続けられる
必要がある。
だからこそ、
「コーチ」自らが
自分自身の
激しさと対峙
しなければならないし、
その奥にある
自分自身の
「静寂」と「安定」を
知っていなければ
ならない。
つまり。
「コーチ」になるために、
自分を強くしよう。
ではない。
これを言っているうちは
「コーチ」ではない。
「コーチ」になるために、
大事なのは、
あらゆる自分を
知ること。
特に
自分の弱さを
知ること。
その弱さと対峙し、
弱さを変えるのではなく、
そっくりそのまま
受け止めること。
自分の
あまりの弱さを
最後まで
実感し尽くすこと。
そしてそれを
直そうと
しないこと。
永遠に
その弱さの中に
いても大丈夫
という自分になる
こと。
それができて
初めて、
私達は
自分自身の心の大地に
しっかりと
足を踏みしめることが
できるし、
その状態になるからこそ、
すべての人と
向き合い、
すべての人の
激しさを
受け止めることができ、
「コーチング」を
始めることが
できるのだ。
厳しいお仕事だと
思うかな?
確かに
厳しい。
でも、
それを「使命」として
生まれてきた
あなたが
いるのではないか?
つづく
私達の中にある
真本音の願いは、
何があっても
揺らぐものでは
ない。
それは
生まれた瞬間から
存在し、
人生経験を経る
ことで、
徐々に明確に
なっていく。
そして、
ある時ある瞬間に
一気に
その姿を
見せる。
それは
「準備」が整った
証だ。
「準備を整える」
ための
人生のステージと、
「準備完了から」
始まる
人生のステージと、
私達の人生は
明確に二つに
区別される。
残念ながら、
最初のステージを
終える前に
人生を終えてしまう
人が
これまでは
ほとんどだった。
しかし
これからは
違う。
二つ目のステージに
人生の大半を
費やす人の割合が
劇的に
増えていくだろう。
つまりは、
人は
間違いなく
変わっている。
時代は
間違いなく
変わりつつ
あるのだ。
・・・・・・
この、
時代の変化を
私達はきちんと
受け止めねば
ならない。
これまでと
同様の
世の中が続く
と思っては
ならないし、
これまでの
「やり方」
の延長線上に
これからのやり方が
あるとは
思ってはならない。
もっと端的に
言おう。
これまでの時代は、
自分の使命を
見つけるために
人生の大半を費やす
時代だった。
これからは、
自分の使命を
見つけるのは
当たり前。
使命を見つけた
人達が、
使命を実現するために
人生の大半を
費やす時代
だということだ。
当然、
人と人の
関わり方、
そして、
組織のあり方、
仕組み
そのものが
大きく変貌する
はずだ。
ゆくゆくは
資本主義そのものが
何か別のものに
変換されるだろう。
そしてそのための
変換点は、
ほぼ、
この30年以内に
集約されると
私は観ている。
「観ている」
というのは、
予測している
ということではない。
「実在を感じ取っている」
ということだ。
この30年で
ほぼ、すべてが
決まる。
人類の
行く末が、
この30年間で
決定される。
と、
私は感知
している。
・・・・・・
この3次元の世界
では、
「時間」とは
過去から未来へと
一方向に一定の速度で
進むものだ。
つまり、
「時間」に自由は
ない。
これが、
この世界の宿命
だ。
しかし、
それ以上の次元に
なれば、
「時間」は自由
となる。
次元は
高まれば高まるほど、
「すべてが一つ」
になっていく。
つまり、
高い次元では
過去も今も未来も
「一つ」
である。
そして私達の中には
高い次元の意識が
確かに存在している。
ある意味、
3次元の私達の
見方で表現すれば、
高い次元の私達の意識は
「未来を知っている」
ことになる。
もちろん、
3次元的に言えば、
未来とは
無数にあるものだ。
しかし、
高い次元からいえば、
それらすべてを
含めても、
私達は「一本道」の
中にいる。
「実在」とは
心の中の現実。
それを感知する
とは、
高い次元の意識を
感知する
ということ。
私達は
真本音度合いを
高めることで、
誰もが
それができるようになる。
・・・・・・
高い次元の意識は、
「脳」を使わずに
ダイレクトに
理解できるものだ。
そこにチャンネルを
合わせれば、
今後のこの30年が
いかに重要かが、
理屈ではなく
感覚として
よくわかる。
恐らく、
遠い未来から
今を振り返れば、
この30年は
新たな時代の
「始まりのとき」
という位置付け
だろう。
そしてその
「始まり」の
始まりが、
この
2019年
だ。
この一年で
私達が
・何を成し、
・何を成さないか、
によって
この後の流れが
大きく変わるだろう。
だからもう私は、
妥協せずに
進もうと
決意を新たに
しているところだ。
つづく
セルフコーチング力を
高めていくと、
生まれた瞬間の
感覚すら
思い出すことが
できる。
その瞬間、
私達は
ありとあらゆる
感情の中に
いる。
その感情たちを
抑えることが
できずに、
全身で泣き叫びながら、
私達は
人生を始める。
まだ
生まれた直後には、
自分と他人の
区別すら
ついていない。
しかし、
母親から
離れるという
喪失感の中で、
私達は
不安の極致に
至る。
と同時に、
その状態にある
自分自身を
ただただ
静かに見つめる
自分が
「自分として」
発動する。
それが
真本音だ。
すべてと
つながり、
すべてと
「一つ」である
私達の意識と、
その一方で
「自分として」の
意識。
その境目に
あるのが
真本音だ。
だから
真本音の発想とは、
すべてのために、
そして
自分自身のために、
何をすることが
最善であるか?
というものと
なる。
そこに
一切の揺らぎは
なく、
その
揺るぎなさは
一生続く。
・・・・・・
真本音は常に、
自分自身に
語りかけ続ける。
すべてのために、
そして
自分自身のために、
今、
何をすべきか?
を。
その語りかけに
真摯に
耳を傾けること
こそが、
人生を生きる上で
なくてはならないもの
であると
私は思う。
真本音の願い
は、
人類の願いであり、
自分自身の
願いだ。
私達すべての人には
役割があり、
真本音に素直に
生きることで、
自然にその役割と
出会い、
全うし、
幸せに至る。
そしてそれが
そっくりそのまま
人類全体が
望んでいることに
直結する。
だから
当たり前のように
すべてが
調和していく。
何も
特別なこと
ではないし、
特別な
力が必要な
わけでもない。
すべての人が
そうなのだ。
人間である
限りは。
・・・・・・
私は
自らの真本音に
気づく(思い出す)
ことにより、
人生が劇的に
変わったが、
人生を劇的に
変えようなどとは
思っていなかった。
ただ、
一日一日、
真本音に素直に
行動しただけだ。
その一歩一歩は
とても小さいもの。
時には
大きなものも
あったが、
それも自然に
大きく、できた。
気がつけば、
何もかもが
変わっていた。
別に
変わることが
正しいとも
思わない。
成長しなければ
ならない、
と思う必要すら
ない。
極端に
言えば。
ただ、
真摯に
自分と向き合うこと。
生まれた瞬間から
発動しているはずの
自らの真本音に
耳を傾けること。
そして、
そのメッセージに
素直に
次の一歩を
進むこと。
たった
これだけの
ことなのだ。
すべきことは。
すべての人が
このシンプルな
生き方ができるように
サポートするのが
私の役割であるし、
「コーチ」の
役割だ。
こういった「コーチ」を
増やすのも
私の役割だ。
人が人として、
シンプルに
生きることのできる、
そんな世の中に
なればいい。
本来の人として
生きる世の中に。
これが私の
宿願である。
つづく
私達は全員、
生まれてこのかた
自分自身の
ナマの姿を
見たことはない。
見るとしても、
鏡に映る
自分とか、
写真に写る
自分とか、
せいぜい
ビデオなどに撮って
そこに映っている
自分とか。
それらはすべて
ナマの自分では
ない。
自分以外の
誰かが
自分と接したときに
対面している
ナマの自分では
ない。
しかも、
自分の声すらも
私達は
知らない。
自分の耳で聴く
自分の声と、
他の人が聴く
自分の声は
全然違う。
何かに録音したり、
マイクを通じて
自分の声を
聴くこともあるが、
やはりそれも
機械を通した
もの。
つまり私達は、
自分自身の
ナマの姿も
ナマの声も
そして
ナマの空気感すら
知らない。
自分のことなんて
何も
知っちゃいない
のだ。
・・・・・・
自分のことは
自分が一番よく
わかっている。
そう思い込んでいる
ことを、
私は
「傲慢」
と呼んでいる。
今のお仕事を通じて、
つくづく
思うのだ。
自分のことを
最もよくわかって
いないのは、
その人自身では
ないか、と。
(私自身も含め。)
誰よりも知らない
自分自身。
それを
知ろうとすることが
人生
ではないか。
知らないが故に、
自分と
向き合う。
知らないが故に、
他人と向き合い、
それを通じて
自分の真実を
知る。
これが
人生を生きる
ということでは
ないか。
・・・・・・
自分の姿や
声と同じく、
というよりも、
それ以上に
私達は
私達の心を
知らない。
まったく
知っていない。
自分の心を
誰よりも
自分が知っている
と思うことも
傲慢の極み
だろう。
ましてや、
他者と自分を
比較して、
勝った負けたと
生きるのは、
いったい
何を遊んでいるのだ、
と
私は言いたくなる。
自分のことも
他人のことも
両方まったく
理解していない状態で
比較して、
何の意味が
あるのだろうか。
そこで
「勝った!」
と自己満足して、
いったい誰に
どのような得が
あるのだろうか。
そんなことに
時間を費やすよりも
私達にはもっと
人生のこの貴重な
時間を使って、
真摯にすべきこと、
本当にしたいことが
あるのではないか。
・・・・・・
人生を
一つの旅に
見立てたとして、
私達は今、
どこに
向かっているのだろうか?
その目的地は
本当に
私達が
望んでいるものだろうか?
この一歩一歩は、
納得のいく
満足のいく
一歩なのだろうか?
本当は
今、私達は
何を感じ、
どんな気持ちで
この旅を
続けているのだろうか?
そんなことを
問いかけ合いながら
進みたいものだ。
私達は本当は
「一つ」
なのだから。
つづく
何もない
広大な大地に
私はたった一人で
佇んでいる。
頭上にも
広大な空が。
今まさに
夜が明けようと
している。
雲は一つも
見当たらない。
黒から紺、
そして紫色へと
光のグラデーションが
広がりながら、
だんだんと
明るさが増していく。
私は風を感じながらも、
ただ一人
無言で立っている。
恐らくもう
数刻で、
あの地平線の向こうから
陽が昇るだろう。
私は
世界と一つになる
感覚の中で、
自然に
呟いていた。
さて、
もう許そうか。
・・・・・・
許す。
・・・これが簡単に
できれば、
人生はもっと
楽に進めるだろう。
しかしそのためには、
しっかりと
怒らなければ
ならない。
怒りを抑え込み、
怒りに
蓋をすることで、
許したつもりに
なっている人は
多いが、
それは
本当は、
まったく
許せていない。
許していないのに、
許したと
思い込むのは
とても危険だ。
自分にとっても、
人にとっても。
怒りとは
解放しなければ、
時間と共に
どんどんと
増大していくものだ。
悲しみも
同じ。
悔しさも
同じ。
寂しさも
絶望感も
すべて同じ。
反応本音とは、
抑えれば
抑えるほど
増大していくように
できている。
・・・・・・
とはいえ、
怒りをそのまま
人にぶつければ、
今度はその人が
怒りにまみれる。
そしてその人は
また、
私や他の誰かに
怒りをぶつける
だろう。
怒りは人々の間を
循環したり
放浪することで、
さらに
増していく。
これも
よくない流れだ。
大切なのは、
怒りを
自分の中で
しっかりと
解放すること。
自分自身が
怒りにまみれること。
まみれさせて
あげること。
その瞬間は
とてつもなく
苦しいかもしれないが、
反応本音には
必ず
終わりが来る。
怒るときは
思いっきり
怒ればいい。
ただし
その怒りは
自分の中だけに
留めておくことだ。
・・・・・・
広大な大地に
一人。
私は夜通し、
怒りに身を任せた。
怒りの渦の中に
自分を委ねた。
心の中の
話だ。
それは
長い長い
怒りだった。
しかし
それをしっかりと
行なうことで、
ようやく今、
新たな陽が
昇ろうとしている。
新たな
一日が
始まろうと
している。
さて、
許そうかな。
私はもう一度、
呟いた。
そして
真本音に
戻った。
本来の私に
戻った。
では、
次の一歩は
どうしようか?
私は
どう動こうか?
その問いを
投げた瞬間に
答えが
浮かんだ。
それは、
私自身でも
とても納得のできる
会心の発想。
なるほど、
そう動けば
すべてがまた
回り始めるな。
ようやく私は
自然ににっこり
笑うことが
できた。
と、同時に
太陽の光が
空と大地に
注がれた。
あぁ夜明けだな、
と
とても嬉しくなった。
つづく
私には
決めていることが
ある。
でも
その全貌が
まだ、ほぼ
わからない。
でも、
ちょっとだけは
わかる。
だから、
そのちょっとだけ
わかっていることを
そのまま
実行する。
私は
意図を持たない。
いや、
意図を持つことは
大事だ。
自分の意図に
基づいて
自分で判断し、
自分で決断することは
「自律」という意味で、
とても重要だ。
そういった意味では
私はちゃんと
意図を持っている。
ただ、
その、意図の全貌が
わからない。
わからないことを
勝手に頭で
想像して、
頭のレベルで
(顕在意識のみのレベルで)
意図を決めることは
しない。
それをしても
本来の意図とは
ずれてしまうことが
よくわかるからだ。
そういった意味で
私は
顕在意識(頭)では
まったく自分自身のことを
理解できていない。
というよりも、
理解しては
ならないのだと
思っている。
理解せずに
ちょっとずつ
わかることだけを
そのまま素直に
実行することで、
結果的に
最短の道になること、
これもよく
わかっているからだ。
根拠はないのだが、
それが私の
確信だ。
・・・・・・
私が決めていること
の中で、
今、明確に
わかっていることは、
私はもう
一人では
進まない。
ということだ。
私はある意味
これまでずっと
一人で
やってきた。
例えば、
企業様にサポートに
入る場合も、
私一人で
やってきた。
もちろん、
ビジネスパートナーは
いるし、
一緒に営業なども
するのだが、
いざ、肝心部分のサポート
となると、
すべて一人で
やってきた。
だから、
お客様も含めて、
私の肝心部分の
サポートのやり方の全貌を
ご存知の方は
この世の中に今のところ
私以外に一人もいない、
のだ。
これはまずい、
と
思う。
このままでは
私の後継者が
育たない。
もちろん、
後継者と言っても、
私とまったく同じことを
する必要はない。
ただ、
私が普段
自分でも気づかずに
実行していることや、
私が普段
何気なく大事にしている
サポートの本質などを
ちゃんと
顕在意識のレベルで
知るというのは
とても大事なことだと
思うのだ。
だから私はもう、
できるだけ
一人では
やらないように
しようと決めた。
サポート現場に
入るのも、
私と同じ志を持つ人と
共に入ることにする。
現場こそが、
一番の育成の場
だと思う。
私は実は、
セミナーなどで勉強をした上で
今のお仕事を始めた
わけではない。
まったく何のノウハウも
ない状態で
私は現場に出た。
私のノウハウの
9割以上は
現場の中で
培ったものだ。
私が
一般的なセミナーなどに
受講生として参加して
勉強を始めたのは、
このお仕事を始めて、
10年近く経ってからだ。
しかもそれは、
私が現場で得たことの
整理のために
出たくらいで、
おかげで
現場での学びがやはり
一番であるという事実の
確認にもなった。
だから私は
「コーチ」の育成も
現場育成を
大事にしたい。
・・・・・・
自分自身が何を
決めているか?
は、誰もが
知りたいところだろう。
しかし
私達の真本音は
最初からその全貌を
自分自身には
教えてはくれない。
知るということは、
それを必ず
実行に移す
ということだ。
そのためには
覚悟が要る。
その覚悟を持てる
自分になること、
そして能力も含めて
自分自身の
準備が整うこと。
よし。
もう私は
先に進もう。
と、
真本音がOKを出す
ことで、
初めて観えてくる
のだ。
だから、
そのステップ自体を
楽しめばいい。
観えないことを
焦るよりも、
観えていることを
着実に一歩ずつ
実行に移していこう。
つづく
将棋の駒で
言えば、
最初は
「歩」
でいい。
「歩」は前に
一歩進むことしか
できないが、
しかし
前に一歩進むことは
できるのだ。
もし
「歩」なんて
何の役にも立たない、
と思っているのなら、
それは
大きな間違いだ。
「歩」で
「王」を詰むことだって
できる。
たった一方向に
たったの一歩しか
進めないが、
それを積み重ねれば
どれだけでも
前に進める。
たった一方向に
たったの一歩しか
進めないが、
いつどのタイミングで
その一歩を進むか?
によって、
その一歩は未来の
すべてを決定して
しまうくらいに
大きな影響につながる
こともある。
もし今、
「歩」の力しか
ないのであれば、
その力を
いかに活かすか?
である。
・・・・・・
私達は、
「在るものを活かす」
ことしか
できない。
であれば、
「在るものを
最大に活かそう」
「最善を尽くそう」
とすることが
生きる意味だと
私は思う。
そうすれば、
「在るもの」が
増えていく。
「在るもの」の
一つ一つが
進化・深化していく。
何をするにしたって
始まりは
弱っちいものだ。
人生の始まりが、
赤ん坊の頃の
私達が、
自分では何もできなかった
のと同様だ。
・・・・・・
「在るもの」
を活かす。
そして目の前に
「自分」以外の
「在るもの」があれば、
それも
活かそうとする。
お互いに
活かし合おうと
する。
それが人生の
醍醐味では
ないか。
しかし、
「自分」以外の
「在るもの」があれば、
それと「自分」とを
比べ、
「俺の方が凄いんだ」
と、
潰し合いの戦いをし、
勝った方のみが
生き延びていく。
そんな生き方を
してしまう人が
いる。
いや、恐らく
人類の歴史の大半は
そうだったかも
しれない。
しかしそれは
もったいない話だ。
異質なもので
あればあるほど、
「自分」以外の
「在るもの」との
活かし合いは
価値あるものに
なるだろうに。
・・・・・・
「自分」と
まったく同じ存在は
この世には
いない。
私達は
異質な「在るもの」との
活かし合いを
宿命づけられている。
いや、
それこそが
「人」の本質であり、
存在意義ではないかと
私は
このお仕事の中で
痛感している。
潰し合いの組織か、
活かし合いの組織か、
どちらが
人が元気になるか?
人が幸せになるか?
は
問うまでもない。
どちらを
人が望んでいるか?
も
問うまでもない。
問うまでもないのに、
真逆なことを
やり合っているのが
今の多くの
組織ではないか。
もちろん
そういった試練は
必要だし、
経験を通じて
学ぶこともある。
しかし
そういったことを
踏まえても、
あまりにも
無意味な潰し合いを
私達は
し過ぎではないか?
・・・・・・
私は数多くの
「コーチ」を育成したい
と思っているが、
なぜそう思うか?
の理由の一つに、
数多くの
「リーダー」
が、世の中に
輩出するとよいと
願っているからだ。
ただしその「リーダー」
とは、
潰し合うための
リーダーではないし、
「自分が一番だ」と
自己顕示や虚勢を張る
リーダーでもない。
人々と
共に向き合い、
共に新たなものを
創り出していく
リーダーだ。
自らの力のみで
進もうとするのではなく、
そこに「在るもの」を
活かし合いながら、
未開の大地を
切り拓いていく
リーダーだ。
そういった
「リーダー」の素養を
もつ人は、
特に、若者の中に
多いと
私は感じる。
しかし残念ながら
その素養は、
自力だけでは
なかなか伸びない。
まずもって、
その素養があること
自体を
本人が気づかない。
それが
現状だ。
だからこそ
「コーチ」が
必要なのだと私は
思う。
これからの時代に
必要な、
真の「リーダー」を
発掘し、サポートする
存在が。
つづく
自分のこの命を
どう使おうか?
ということを
私達は全員、
真本音で
決めている。
単純なことだ。
その
決めていることを
思い出し、
それに素直に
生きれば、
私達は
至福とも言える
感覚を得ながら
人生を
進めることが
できる。
そこから
遠のけば
遠のくほど、
道は閉ざされるし、
ストレスも
多くなる。
単純なこと。
しかし、
遠のいた道で
あるにも関わらず、
上手くいってしまう、
つまりは
成功してしまう
人も多い。
その人の
能力の賜物だ。
力があるからこそ
そこで
成功してしまう。
だから
この道でいい、
と
本人が
思い込んでしまう。
そして
そのままその道を
進んでしまう。
そういった
複雑な人が
多いのが
残念ながら今の
社会だ。
だから
成功している人ほど、
心が
深いダメージを
負っている
という傾向が
現れる。
そして
成功とは、
ダメージとか
犠牲の上に
成り立つものである、
という思い込みが
蔓延する。
単純なことが
複雑化し、
妙な原理原則が
世の中を
支配しているように
私には思えて
ならない。
・・・・・・
本来のその人の
持っている力は、
使命を果たすための
もの。
しかし
自分と向き合わず、
たまたま成功した
その道に進むことで、
その力を
宝の持ち腐れ
としている。
成功しているから
凄い!
ではない。
本来であれば、
その人は
もっともっと凄いことが
できるはずなのだ。
実は、
そう感じる人が
とてつもなく多い。
能力や力だけで
生きることは
もうやめよう。
能力や力とは
「手段」
である。
その手段を
使うための
「目的」
がある。
それこそが、
自分自身で決めている
「使命」
だ。
・・・・・・
「使命」と言ったって、
様々だ。
大きなことを
しなければならない、
ということではない。
実は、
規模の大きさは
あまり関係ないのだ。
実在のレベルでは。
規模の大小ではなく、
「使命」に基づいて
生きるという
その行為そのもの、
その一歩そのもの
によって、
実在のレベルでは
世の中に
大きな影響を
与えることになる。
自分の能力だけを
使い、
使命とは異なる
道において
100万人の人に
何らかの価値を
提供するよりも、
自分の使命として
目の前の一人の
人に、
自分が与えるべき
本来の価値を
与える方が、
それこそ
100万倍も
影響が大きくなるのだ、
実在のレベルでは。
今、世の中は
そのエネルギー
こそを
欲している。
形だけの
成功は
もはや欲して
いない。
それはもう
古い。
それはもう
時代遅れだ。
それよりも、
たった一つの行動に
どれだけ
魂を込めるか、
使命に向かう
真摯な意志を
込めるか、
である。
・・・・・・
「コーチ」を
使命としている
人がいる。
その人が
「コーチ」としての
一歩を
踏み出すことが、
どれだけ
良い影響を
生み出すかを、
私は確信している。
だから私は、
「コーチ」を
使命としている人を
サポートしたい。
「コーチ」を
使命としている人を
発掘したい。
それが
今の私の最大の
使命だ。
つづく
私達の体が
細胞の一つ一つで
できているのと同様に、
私達の人生は
一瞬一瞬の時間によって
成り立っています。
どの一瞬の時間が
なくなっても
人生は、成り立たなく
なります。
命が途切れることなく
続いているからこそ
私達は
存在し続けます。
今ここにある
自分の命を
どのように
使おうか?
その答えを
私は
『使命』
と呼んでいます。
2018年は、
使命という視点から
俯瞰すると、
どのような年
だったでしょうか?
そして
2019年は
使命という視点から
どのような年に
しましょうか?
・・・・・・
ゼロリセット。
2018年に
やり残したことの
ある人も、
いったんはすべて
意識の中では
ゼロリセット
することをお勧めします。
節目というのは
便利なもので、
ゼロリセットするには
うってつけの
タイミングです。
やり残したことを
やるところから
スタートをするのでは
なく、
すべてをリセットし、
純粋に新たな道を
始めようと
するのです。
その状態で、
結果的に
やり残したことを
やり遂げることに
なるかもしれません。
そうならないかも
しれません。
いずれにしても、
自分の意識を
スタート地点に
戻すのです。
本当は
毎日これを
やり続けられると
最高なのですけどね。
・・・・・・
さて、
2019年です。
この年もまた
大変重要な一年と
なるでしょう。
・何をして、
・何をしないか?
この判断を
これまで以上に
研ぎ澄ます必要が
あります。
私自身は
これまで同様、
最短の道を
進もうと思います。
そしてそのためであれば、
最難の試行錯誤にも
立ち向かうつもり
です。
私達が目指す
未来のために、
やりたいこと
すべきことを
すべてやり切る
一年に
いたしましょう。
つづく
例えば、
30年後からこの
2018年という年を
振り返ったとしたら、
どのように位置付けられる
一年だっただろう?
この問いを
私自身に投げると、
面白いことに、
「紫色の石」
が浮かんでくる。
これは
何なのだろう?
石の中に
入ってみる。
すると
そこには
「赤」と「青」が
存在している。
なるほど、
だから紫か。
「青」の方に
入ってみる。
するとそこには
青空と海が
観える。
しかし、
人はいない。
ただ雄大で
広々として
眩しくあたたかな
大自然が
観える。
次に
「赤」の方に
入ってみる。
あぁこれは
人の血だ。
と言っても
流血をしているわけ
ではなく、
たくさんの人々の
命のようなもの、
エネルギーを
感じる。
その命は
フツフツと
煮えたぎっている。
あぁそうか。
私はこの
「赤」と「青」を
どう混ぜ合わせ
統合・融合させようか?
をずっと
試行錯誤して来た。
自分自身も
そして
人々においても。
その試行錯誤が
これまでの人生だった、
と言っても
過言ではない。
「赤」と「青」の
結びつきまでは
できるようになったが、
融合となると
また別次元の
難しさがあった。
それが恐らく、
初めて
2018年では
成功した。
とは言っても、
それはまだ
石ころのように
ちっちゃい。
あぁだから、
紫の石
なのだ。
今わかるのは、
この紫の石を
どのように大きくするか?
を
考えてはいけない
ということだ。
その視点からは
道は見つからない。
それよりも
私はその
紫の石を
手放したい。
どこに手放せば
その石が
最も活きるのか?
を見つけたい。
そんな発想が
生まれてくる。
どうやら私は
2019年から
人生の展開を
変えようとしている
らしい。
何をどう変えるか
を
これからゆっくり
考えてみようか。
つづく
今日のコーチングで
「バランス」
というお話が出た。
そういえば私、
「バランスを取ろう」
なんて考えたこと、
これまでの人生で
一度として
あったかなぁ・・・?
まぁ一度くらいは
あったかもしれないが、
ほぼ
そういうの無しで
生きてきたなぁ、と
思った。
恐らくであるが、
私の場合、
「バランスを取ろう」
と思わずに来たのが、
結果的に
私なりのバランスに
なっていたのかも
しれない。
そして
他の人も
そうなのでは
ないだろうか。
・・・・・・
「自分なりのバランス」
これが「個性」
というものなのかも
しれない。
そしてその「個性」は
本人が最も
気づいてはいない。
なぜなら本来の
「個性」とは
あまりにも「自然」なので、
本人の意図とは
別の次元にある。
ということでいえば、
本来の個性で
生きる人は
必然的に
バランスが良い、
ということに
なるのかな。
であれば
とても私は
納得できる。
たくさんの人と
お会いする中で、
「この人
本当にバランスが
いいなぁ」
と思える人って、
みんな個性的
だから。
しかも
その個性を
抑えようと
していない。
かといって
あえて個性を
出そうとも
していない。
ただ、
あるがまま。
やはり、
自然体。
そういう人こそ、
とても
バランスがいい。
「バランスを取ろう」
としている
バランスは、
ちょっと疲れる。
でも、そんな意図なく
自然に取られている
バランスは、
一緒にいて
とても居心地が良いし、
こちらも
安心する。
落ちないように
バランスばかりを
気にして
進み続ける人よりも、
いっそのこと
自分の翼を手に入れて、
自由に伸び伸びと
大空を飛び回っている人
の方が
バランスなんて
気にする必要がないほど
安定している。
そんな
違いかな。
・・・・・・
だから。
バランスを取るために
自分の個性を
抑えよう、
とする必要はないし、
やっては
ダメだ。
それよりも
もっともっと
自分を解放する。
中途半端な
解放こそが、
バランスを悪くする
ので、
徹底的に
解放する。
そこが大事かな。
で、その「解放」を
私の表現で言えば、
「真本音度合いを
高める」
ということになる。
「解放」とは
決して
「反応本音をわがままに
外に出す」
ことではない。
それは
「解放」ではなく、
私には逆に
「自縛」
にみえる。
真の解放とは、
真の自分を
出すこと。
真本音の自分で
生きること。
それをすることで、
その人なりの
バランスは
より際立っていくだろう。
そういった意味で、
個性の際立つ
バランスの良いコーチ
を
私はたくさん育成
したい。
そういったコーチは
多くの人に
真のバランスを
もたらすことが
できるだろう。
来年に入ったら、
そろそろ
本格的なコーチ育成に
入ろうと思う。
コーチの募集に
入ろうと
思う。
つづく
自分の中に
浮かんでくる
「問い」
をもっと
大事にしよう。
「問い」とは、
たとえ答えが
わからなくとも、
大事に持っている
だけで
良いものだ。
「問い」を
持っていることで
ある瞬間ある瞬間に
様々な気づきや
ヒントを
直観することがある。
「問い」と共に
進むことが、
人生を進めることだと
言ってもよいくらいだ。
オススメは、
毎日、毎朝
次の問いから
始めること。
「今日の私は
どんな問いを
大切にしようか?」
と。
その日の
「問い」を
必ず最低一つは
自分で設定するのだ。
そしてできれば
その日のうちに
答えを見つける。
これを繰り返せば、
人生の展開が
加速される。
セルフコーチング系の
長期講座の受講生さん達
には、
実際に毎日これを
していただいている。
毎日の「問い」を
Facebookグループに
必ずアップしていただき、
皆で皆の「問い」を
共有しながら
日々を送っている。
皆さん本当に
実にバリエーション豊かな
「問い」を
毎日思いつくし、
昨日の「問い」が
今日の「問い」に
つながっているのが
よくわかる。
何よりも、
皆さんの質問力が日々、
着実にアップしていくのも
よくわかる。
これがそのまま
コーチング力の
アップにもなる。
私は、と言えば、
毎日、1問なんてもの
ではなく、
恐らく一日の内に
最低、20問くらいは
自分に「問い」を
投げているのでは
ないだろうか。
先ほども書いたが
全部に答えなくても
いい。
ずっと持ち続け、
毎日変わらずに
投げ続ける「問い」
もある。
このように
「問い」と共に
進む人生は
とても楽しい。
皆さんに強く
オススメしたい。
つづく
人と人は
つながっている。
・・・なんて、
最近、よく
言われるように
なった。
とても
喜ばしいことだ。
企業でも
「つながり」
という言葉を
よく聴くように
なった。
私達は誰もが
つながりを
欲している。
時々、
「私は孤独がいい」
という変わり者も
いるが、
普通の人は
孤独な人生よりも
量はともかくとして、
本当の意味で
つながりを感じられる
人が
一人でもいれば
心は安らぐ。
ただし、
そういった風潮の中で、
安直なつながりが
増えてしまった
という事実も
確かにある。
「私達、
つながってます」
と
自己満足し合う
関係。
これも
増えている
気がする。
・・・・・・
自己満足の
つながりは、
はっきり言って
虚しい。
本当は
つながっていない
ということを
本人達が
一番よく
わかっている。
しかし
一人なのは不安
なので、
自己満足でも何でも
つながりを
増やそうとする。
残念ながら、
これも
「現実逃避」
の一種だ。
現実逃避を
すれば、
真本音度合いは
下がる。
つまり
私達の心は
苦しみを
増していく。
つながりを
増やせば増やすほど
苦しみが
増していく。
それはまるで、
大都会の
人混みの中で
孤独を感じる、
あの感覚に
似ている。
・・・・・・
本当に今、
私が
つながりたいのは
誰か?
この問いと
真正面から
向き合ってみよう。
そして
その答えがわかれば、
その人のことを
とことん
考えよう。
オススメは、
その人が
今ここにいる
イメージをしよう。
そしてイメージである
その人に
真剣に意識を
向け続けよう。
実は、
はっきりくっきりと
イメージができた場合は、
それはすでに
イメージ(幻影)ではなく、
「実在」
である。
その「実在」に
真剣に意識を
向けてみよう。
その人の「実在」から
自分へ
何が伝わって
来るだろうか?
そして自分は
何を感じ、
その人に対して、
何をしたいと
思うだろうか?
何を今、
すべきだと
思うだろうか?
自然に出る
その答えに、
素直に行動
してみよう。
実はこれ。
私が毎日
行なっていること
である。
私は、
次の日にお会いする
すべての人の
「実在」を感じ、
すでに前の日に
一人一人と
コミュニケーションを
取ってしまうのだ。
その上で、
次の日に
実際にその人達に
会う。
すると、
すべてが
調和する。
これを私は
「実在コミュニケーション」
と呼んでいるが、
この力を持ち、
この力を使いこなす
人のことを
「コーチ」
と呼んでいる。
・セルフコーチング
・実在コミュニケーション
・実際のコーチング
それらすべての
力を持って初めて
「コーチ」だ
というのが
私の考えだ。
こういったコーチを
私は
増やしていきたい。
つづく
どれだけ
疲労・疲弊
しても、
どれだけ
身や心が
ズダボロに
なっても、
それでも
自分の内側から
溢れ出る
エネルギーが
ある。
その光の
強烈さ。
心地良さ。
あたたかさ。
それらを
常に感じ取れる
感受性を
持ってほしい。
それが
真本音のエネルギー
であり
魂の放つエネルギー
だ。
その光が
わかったら、
光の中に
入るといい。
そして、
光の中心を
目指すといい。
中心を目指せば、
その光が
どれだけ深いものか、
が
よくわかる。
光の世界は
無限に
どこまでも深く
深く
続いていく。
そして
ようやくたどり着いた
その中心。
そこには
いったい
何がある?
そこには
何が
観える?
何を
感じる?
そして、
何が
聴こえる?
その中心に
あるものこそが、
あなたの
本質だ。
そして、
その本質からの
今のあなたへの
メッセージ
だ。
ぜひその
本質を、
あなた自身が
理解してほしい。
そして
光の中心から
放たれる
そのメッセージを
素直に
受け止めてほしい。
素直に
動いてほしい。
それが
生きる基本
であると
私は思う。
つづく
私はよく
「調和」
という言葉を使うが、
であるが故に
誤解も
多いようだ。
調和とは、
上手く進むこと、
もしくは
物事を上手く進めること、
と
思われがちだ。
が、
実は
「上手く進めよう」と
思えば思うほど、
不調和が起きる
というのが
現実だ。
ある企業の
管理職のAさん。
Aさんは管理職として
あらゆることを
「上手く進めよう」
とされていた。
ある意味
それが彼の
理念とも
言えた。
しかしAさんのもとでは
問題ばかりが
日々、起こっていた。
上手く進めたいのに、
なぜ、
問題ばかりが
起こるのだ?
という
Aさんの悩み。
次々に新たな問題が
起こり、
その対処のための
時間ばかりが
過ぎていく。
生産性は
極度に低く、
当然
実績も上がらない。
私はこんなに
頑張っているのに。
なぜ
こんなにも
部下達は
非協力的なんだ?
という
Aさんの悩み。
「あなたのその
上手く進めようという
在り方が
すべての元凶です」
と
私ははっきりと
Aさんに伝えなければ
ならなかったのだが、
こういったことは
本当によくある
ことだ。
・・・・・・
「調和」「調和」と
言いながらも、
本当のことを言えば、
私は普段、
「調和」のことなど
これっぽっちも
考えていない。
私が考えているのは
ただ一つ。
今ここで
何をするか?
である。
そしてそれに
集中すると
決まって、
「これはどう見ても
波乱しか
起らないだろう」
と思われる行動を
私は取ろうと
してしまう。
私の顕在意識は
私も人間なので、
その「波乱」を
恐れる。
「いやいやいや、
そんなこと
したくないよー!」
と
いつも心の中で
叫ぶことになる。
しかし
私の真本音が
それを望んでいるので
あれば、
やはり私は
真本音通りの行動を
選択する。
波乱は
起きてもいいや。
何が起きても
最後までしっかり
向き合いきるぞ。
と
私はいつも
覚悟を決める。
そして
何の淀みもなく
その行動を
私は取る。
すると、
びっくりするくらいに
すべてが
「調和」する。
実はこれは
ほとんど毎日の
ことである。
しかし、
毎日これを体験
しても、
慣れることがない。
常に私は
「波乱」の恐れを
抱いている。
しかし
それは単なる
恐れに過ぎず、
私は私の真本音の
通りに動く。
毎日、
ヒリヒリする。
これがある意味、
「コーチ」の
仕事である。
・・・・・・
「コーチ」は
サポート役である。
しかしよく、
「私はリーダーに
向いていないから、
サポート役に
徹します」
という声を聴く。
正直言って、
サポート役というのは、
そんなに
生易しいものではない。
サポート役
だからこそ、
その人の人生の
生き方がそのまま
ダイレクトに
サポートの仕方に
反映される。
曖昧な生き方を
している人は
曖昧なサポートに
終始する。
すると
サポートを受ける側
にとってみたら
たまったものではない。
サポート役とは、
本当の意味で
自分自身を
リードできる人、
つまりは
「自分自身のリーダー」
となれる人でないと
難しい。
・・・・・・
「サポート役」
を
人生の目的と
している人がいる。
その人へ、
私は今こそ
メッセージしたい。
まずは、
自分の中の
その意志に
気づいてほしい。
あなたにしか
できない
「サポート」が
ある。
それを見つけ出し、
それを発揮する、
という
人生の道に
入る勇気を
持ってほしい。
もう始める時だ。
と
私は思う。
つづく
今こそ、
「自分は何のために
ここにいるのか?」
という
極めて本質的な
問いと
向かい合った方が
いい。
それは、
「自分は何のために
この人生を始めたか?」
という
ことだ。
すべての人生には
目的があり、
その目的を
誰よりもよく
理解しているのは
自分自身である。
だからこれは
人に訊くことでは
ない。
これまで何度も
自問自答してきたが、
全然、答えが
わからなかった。
という人も
いるかもしれない。
しかしそれでも
同じ問いを
投げてほしい、
今こそ。
問いには
答えが出る瞬間が
必ずあるものだ。
その瞬間が
今、
ではないか?
答えは
100%すべてわかる
必要はない。
ただ、
ほんの一部だとしても、
わずかなヒント
だとしても、
今、ここで
掴むべき、知るべき
大事な一言が
あるのではないか?
それは
自分から自分への
メッセージ。
必ず
受け取らねば
ならない
メッセージ。
人生は、
受け取るべきメッセージ
を、
受け取るべき瞬間
に、
きちんと受け取るかどうか?
によって
決まる。
自分自身の
「何のために」
を果たせるかどうかは、
ほぼ、
そこで決まる。
今が
その時では
ないか?
今こそ、
しっかりと
自分の声を
聴くときではないか?
つづく
進むスピードも
ある限界を
超えると、
まるで
静止しているような
感覚に
なる。
そこには
永遠の静寂
すら
感じる。
実はこれが
最も
安定した
状態だ。
多くの人は
スピードを
出すことや、
加速することを
怖がる傾向に
ある。
特に、
これまで
経験したことのない
スピードや
加速感は
極度の恐怖を
呼ぶ。
しかしそれは
幻
である。
その恐怖は
幻。
実在
ではない。
つまり
どこまでいっても
反応本音レベルの
ものでしかない。
私達は
本能的に
知っているのだ。
どこに
本当の
安定と安心が
あるか?
ということを。
・・・・・・
加速をするときは
確かに
エネルギーが
必要かもしれない。
しかし
一度スピードに
乗ってしまえば、
あとは
それに身を
委ねるだけだ。
スピードに
乗ることで、
私達は
余分な力を
抜くことができる。
本当に
必要な時に
必要なだけ
力を込めれば
よい。
それは
非常に楽チンな
状態である。
短絡的に
あえて言えば、
スピードに
乗ってしまえば、
こっちのもん
である。
・・・・・・
私がサポートに
入らせていただく
企業様は
ほぼ必ず、
次のステージに
進もう
という強い
意志を持つように
なる。
もちろん
私が強引に
そうさせている
のではない。
むしろ私は
私の嗅覚で、
そういった企業様に
近づいて
行っているのだと
思う。
そういう組織に
関わり、
真本音度合いを
高めていけば、
その組織は
ほぼ間違いなく、
不安定期
に入る。
しかしこれは
決して
悪いことではない。
急加速する
前兆だ。
未知の領域に
入る決意が
高まるとき、
人も組織も
不安定になる。
まぁ、
当たり前の
ことだ。
人も組織も
不安定になれば、
多くの場合、
止まろう
とする。
ここで
「慎重に物事を
進めましょう」
などという
サポートをするならば、
そのコーチは
害にしか
ならない。
そこでこそ、
「もっと前に!」
と、
後ろから
お尻を蹴飛ばす
くらいの勢いで
サポートする人こそが
本来の
「コーチ」だ。
それができる
人は、
残念ながら
まだまだ少ない
ようだ。
なぜなら、
コーチその人も
急加速や
未体験を
怖がるから。
しかし
それではもう、
道は
開かないのだ。
・・・・・・
未知の領域、
未知の次元、
そして
未知のステージに
進もうとしている
人と
組織が
今、
急増している。
それを私は
実在のレベルで
強く
実感している。
しかし
それを後押しする
「コーチ」が
足りない。
圧倒的に
足りない。
今のままでは
間に合わない。
つづく
心を開放する
のと、
魂を開放する
のは
違う。
恐らく、
この区別が
つかないことが、
今の世の中の
現状を
招いていると
私は考える。
心を開放すれば、
心は
元気になる。
しかし、
魂を開放したからと
言って、
魂が元気になる
とは限らない。
むしろ、
私達の魂は、
自分自身の元気さを
いつも
調整している。
つまり、
元気でない状態を
意図的に
創り出している。
この真実に
気づかないと
道を誤ることが
多い。
私達の
決めている道
とは、
単純に
魂が元気になる
方向
・・・ではないのだ。
・・・・・・
魂の意思を
私は
『真本音』
と呼んでいる。
厳密に言えば、
ちょっと違うのだが、
まぁ、ほぼ
そうなので、
ここでは
そういうことにする。
真本音に素直に
生き(行き)、
真本音度合いが
高まることで、
何が起こるかと言えば、
魂の元気度合いを
調整できる
ようになる
のだ。
つまり、
いつも元気であろう
と欲求する
状態から卒業し、
今はこの
元気度合いで
進もう
という
魂の意思に
そのまま素直に
進むことができる
ようになるのだ。
私達の魂が
最も大事にしている
ことの一つは、
「自分自身の
エネルギー量」
と
「周り(もしくは現実)の
エネルギー量」
の
「調和」
である。
ここで不調和が
起こってしまうと、
進むべき道が
開かなくなってしまう
ことがあるからだ。
私は、
「尊重」
という行為の
最も根本的
根源的な要素は
これであると
思っている。
人を尊重する。
現実を
尊重する。
社会を
尊重する。
とは、
まずは
エネルギー量を
尊重するところから
始まるのだ、
と。
エネルギー量の
尊重は、
その場その場の
「調和」には
なくてはならない
要素だ。
ここが上手くいけば、
エネルギーの循環
が起こる。
すべての物事は
この
「循環」によって
進められていく。
循環が
スムーズに行けば
行くほど、
それは
真本音の道
となる。
循環が
スムーズでなければ、
一見して
どれだけ現実が
上手く展開していても、
必ずどこかで
淀みが起こる。
するとその
淀みを解消するための
新たな流れを
起こさねば
ならなくなる。
大体の場合、
そこで使われる
エネルギー量は
果てしなく
大きい。
我々が思っている
以上に。
そして結果として、
その「調整」のために
(「調和」のために、ではない)
大半のエネルギーを
費やさねばならなく
なる。
つまりそれは、
本来
エネルギーを
使うべきところに
使えていない
状態だ。
これでは結果として、
道は
開かない。
どのような
「循環」を
起こすか?
そのためには、
今、自分の発する
エネルギーは
どれくらいが
良いのか?
この調和を、
私達の魂は
最も大事にする。
そしてその
指針を
一つの「意思」として
心の中に
浮上させる。
それこそが、
「真本音」
である。
・・・・・・
真本音で生きる
ことで
すべては
調和を始める。
真本音を無視する
ことで
すべては
不調和となって行く。
間違っては
ならないのは、
現実が上手く
行っている
ことが
調和とは限らない
ということだ。
現実が
思うように進まなく、
試行錯誤が
続いたり、
暗中模索に
入っていても、
それが
調和のために
起きているのか、
それとも
不調和の結果として
起きているのか、
その判別を
きちんとすること。
ちゃんと
真本音で進めて
いるのであれば、
今のこの視点を
持つだけで、
答えは
わかるはずだ。
ここで
答えがわからない
のであれば、
そこには
何らかの不調和が
存在している。
・・・・・・
今回はちょっと
難しい文章の
表現になったかな。
でも
この文章の意味の
本質が
ピンとすぐに
わかる人は
「コーチ」の素養が
あると
私は
思うけどね。
つづく
世の中には、
まずは
「自分のために」
を中心に生きると
結果として
「人のために」
なる人と、
まずは
「人のために」
を中心に生きると
結果として
「自分のために」
なる人の
2種類のタイプが
ある。
いや、
すべての人は
何だかんだ言っても
「自分のために」
が中心でしょ。
という
意見もある。
もちろん
もっともである。
ほぼ、
みんなそうである。
しかし、
ほんのわずかだけど、
確かに
後者のタイプの
人がいる。
「わずか」
というのは
現時点では
1%にも満たない
割合だ。
他の
99%以上の人は
前者のタイプであり、
自分を顧みず
人のためだけに
生きることで、
結果として
ただの自己満足になり
結果として
誰も幸せにならない
ということになる。
しかし。
わずか1%未満であるが、
後者のタイプがいるのは
事実だ。
しかも。
約30年後には
その割合は
10%くらいまでに
増加するだろう。
つまり、
これから生まれてくる
子ども達は
後者のタイプが
多い。
後者のタイプを
私は
あえて、
『コーチタイプ』
と呼ぶ。
・・・・・・
今でも
わずかであるが、
「コーチタイプ」
の人はいる。
しかし
そういったタイプで
あるにも関わらず、
いや、
そういったタイプで
あるからこそ、・・・かな、
今の世の中に
絶望してしまい、
「人のために生きる
ことに何の意味が
あるのだろう?」
と、
無気力になって
しまっている人も
いる。
実は、
そういった人との
出会いが
最近、増えている。
この人、コーチタイプだな、
とわかったら、
私はできるだけ
それを伝えるように
している。
すると
伝えられたその人は
すごく
ホッとした表情と
になる。
安堵感に
包まれるのだ。
「もっと、自分のために
生きなさい、といつも
周りから言われます。
でも、どうしても
その気持ちが
湧かなかったのです。
私は自分が無気力の
廃人だと思って
いました。」
と
言われた人も
いる。
そういった人に
「利他」
という言葉は
必要ない。
実は私は
「利他」という言葉が
いまいちピンと来ない。
言葉自体は
大事な意味だと
思うが、
しかし、
本当に「利他」で生きる人には
そんな言葉は
必要なく、
天然でそうなのである。
しかも
まずは「自分のために」
生きることが大事
というタイプの人が
「利他」という言葉を
使うと、
大概はおかしなことになる。
「私の信条は、
利他です」
と自己アピールするように
なるし、
それによる利他は
当然のことながら
本当の利他ではない。
そういう人は私は
もっと徹底的に
「自分のために」
生きた方が良いと
思っている。
自分のために生き、
自分の望みを
叶える人生を
徹底的に目指せば、
本当に
徹底的に目指せば、
その人は間違いなく
自らの真本音に
行き着く。
真本音は
他の人の真本音と
つながっている。
すると、
「自分のために=人のために」
が自然にできるように
なる。
それを私は
次元が上がる
とも表現するが、
それが自然の
道だ。
つまり、
本当に天然で
利他で生きる人には
利他という言葉は
必要ないし、
そうでない人は
利他という言葉を
使うことで
利他から遠ざかって
しまうのだ。
だから、
利他という言葉を
使うこと自体に
私は違和感がある。
・・・・・・
いずれにしても
「人のために」
生きることが
自分の力になる
「コーチタイプ」
の人は
これから増えていく。
コーチタイプの人は
私は単純に
コーチになればよい
と思っている。
もちろん
「コーチ」と名乗る
必要はない。
しかし、
人のために
徹底的に生きれば
よい。
約30年後、
1割に増えた
コーチタイプの人が
本人の素養の通り、
人のために
人をサポートしながら
生きる世の中に
する。
これが私の
ビジョンである。
つづく
強い人よ。
自分のその
本来の強さを
もっと
理解してほしい。
あなたは
そんなものでは
ない。
今、あなたが
知っているその
強さは、
まだまだ
仮の強さだ。
本来の
1000分の1にも
満たない。
だから
自分で自分を
評価するなど、
意味がない。
あなたはまだ
自分を
知らないのだ。
見たことが
ないのだ。
という事実を
知ってほしい。
いや。
本当は
もう
知ってるね。
知ってることを
認めてほしい。
強い人よ。
あなたは
求められている。
あなたを
待っている人が
たくさんいる。
あなたのその
本来のパワーを
注がなければ
ならない人達が
いっぱいいる。
あの人も、
この人も、
あの部署も、
この部署も、
あの会社も、
この会社も、
あなたのその
パワーを
欲している。
そして、
あなたとの
出会いを
欲している。
強い人よ。
あなたがその
本来の力を
認めなければ、
あなたは
先に進めない。
あなたが
先に進まなければ、
出会いも
起きない。
あなたはもう
そこに
留まっていては
ならない。
次の世界へ、
次のステージへ
進まなければ
ならない。
あなたは本当は
そのことを
誰よりもよく
自覚している。
強い人よ。
私がいても
いなくても、
あなたは
たくましく
着実に
進むことができる。
自分を
信じてほしい、
とは言わない。
ただ、
そこにある
「確信」に
気づいてほしい。
あなたの準備は
もう
整っているのだ。
つづく
たけうちさん、
なんか最近とても
疲れやすいんですよ。
休みの日なんか、
一日中寝てますよ。
下手をすると
10時間近く
寝てしまうことも
あります。
私にとっては
休みの日をいかに
楽しむか?
が大事なんですが。
とはいえ、
仕事に頑張っている
訳ではないですよ。
仕事は
言われたことはきっちり
やりますが。
できるだけ余分な力を
出さないように
していますし。
なんでこんなにも
疲れるんでしょうかね?
福田さんは
ホントに相変わらず、
ご自分のことが
よくわかっていないんですねぇ。
どういうことですか?
福田さんの
真本音度合い、
最近またかなり
上がってるんですよ。
えぇ〜っ?
たけうちさんいつも言いますが、
私、真本音で生きるの
いやですから。
またそういうことを
言う。
福田さんの顕在意識がね、
どれだけそう言っても
無駄ですよ。
真本音度合い、着実に
上がってます。
その証拠に、
私とこうやって話すの
好きでしょ?
まぁね、
唯一の楽しみかも
しれません。
でしょ? 笑
でも私はね、
やはり真本音とは
無縁ですよ。
それよりも
教えてくださいよ。
わかるんでしょ?
私の疲れの原因。
わかりますよ。
じゃあ、
教えてくださいよ。
んじゃ、
ご自分が真本音人間だと
認めたら
教えてあげます。笑
また、そう言う。
まぁ、冗談です。
教えますよ。
福田さん、今直観的に
その疲れ、
誰から受け取ったと
思いますか?
誰から?
ってどう言うこと?
その疲れは
福田さんの疲れじゃ
ないですよ。
なに?
どういうこと?
福田さんのストレスじゃ
ないんですよ。
人のストレスを
受け取ってるんです。
極度の疲れの場合は
ほぼ、それが原因です。
しかもそれは
一人からじゃない。
何人もの人のストレスを
受け取ってますよ。
えぇ〜っ?
マジですか。
はい、マジです。
心当たりは?
そう言われると、
全然関係ないかも
しれませんが、
浮かぶことがあります。
あっ、それですね。笑
まだ、話してないのに。笑
関係ない話ですよ。
先日ね、
海外出張に行ったんです。
でね、
日本に帰る直前に
疲れを癒そうと思って
外国人の人がよく通う
マッサージ屋さんに
寄ったんですよ。
やっぱり、
それが原因ですね。
えっ、マジですか?
マジです。
どうせ、マッサージを
受けたら、
そっから疲れたんでしょ?
いや〜、そうなんです。
今、思い出すと
確かにそっからですね。
私ね、
そこのマッサージ、途中で
やめたんですよ。
なんか急にソワソワした
気持ちになってしまって。
全然居心地よくなくって。
あーここは私には合わないな、
って思ったんで、
途中で「もういいです」
ってやめたんです。
マッサージが
始まってから
ソワソワし出したんでしょ?
そうそう。
始まってすぐでしたよ。
なんか、せっかく
リラックスしようと思って
来たのに、
息苦しくなって来たんですよね。
それが
エンティティですよ。
エンティティ?
前に言ってた?
そうです。
ストレスの濃度が濃くなって
実体化したものです。
日本語に訳すと
「生き霊」とも言われてます。
マジですか。
はい、マジです。
でもみんなエンティティは
ありますよ。
私達はエンティティの
交換をしながら
生きているようなものです。
でもなんで
こんなにも疲れるんだろ?
それは恐らく、
福田さんの担当になった
マッサージ師さんが、
たくさんのお客様から
エンティティをいっぱい
もらっていたからですよ。
えぇ〜、まさか
そのエンティティを
私がいっぺんに
もらったと?
その通りです。
そんなのイヤですよ!
そんなの私は
望んでません。
でもしょうがないですよ。
福田さんの
真本音度合い、
高まってるんですから。
どういうこと?
真本音度合い高まると
エンティティもらうの?
稀にそういう人が
います。
実は私もそういうタイプ
です。
福田さんはきっと
真本音では、
たくさんの人達に
パワーを与えたい、って
願ってるんでしょうね。
いやいやいや、
全然願ってないし。
笑笑笑。
福田さんの顕在意識が
願ってなくても
福田さんの真本音は
そう願ってるんですよ。
そういう願いを強く
持っている人は、
人のエンティティを
受け取る傾向にあります。
いろんな人のエンティティを
どんどん掃除機のように
吸収します。
で、もともとのエンティティの
持ち主はみんな
元気になるってわけです。
いやいやいやいや。
そんなのイヤですよ。
私、望んでませんよ。
いやいやいやいや。笑
真本音が望んでるから
そうなるんです。
実際、どうですか?
首の後ろあたり、
とても重くないですか?
・・・・、いや、
悔しいけど、
メチャクチャ重いです。
でしょ?
そこにエンティティが
溜まってます。
恐らく、
何十人分かのヤツが。
福田さん、
本当に人を楽にして
あげたいのですね。
いやいや、やだよ俺。
しょうがないですよ。
そういうタイプの人は
きちんとした
エンティティ処理の仕方を
学んだ方がいいです。
今から私が
教えますから、
今日から早速、
実践してください。
すぐに楽になりますから。
はぁ・・・。
俺、真本音度合い
上げたくないよ〜。
まぁまぁまぁ、
じゃあ今から
教えますからね。
つづく
滝は
上から下に
落ちる。
決して、
下から上に
上ることは
ない。
それは
自然の摂理の
一つであるが、
その摂理に
逆らおうとすると
莫大な
エネルギーが
必要となる。
しかし、
それに似た
生き方をしている
人や組織が
多いのではないか。
万有引力は
人間が創ることは
できない。
いや、
もしかしたら
できるのかもしれないが、
しかし、
そこにエネルギーを
使うよりも、
万有引力に則って
万有引力を
活用する生き方を
する方が
圧倒的に
様々なことが
できるはずだ。
いや、
自分はあえて
水を下から上に
流すことを
人生の生きがいと
しているのだ、
と言う人が
いるかもしれないが、
それって
単なる自己満足でしょ、
と
私はどうしても
思えてしまう。
万有引力を覆す
ことが
人生の使命である、
と言う人も
いるかもしれないが、
それって
傲慢でしょ、
と
私は思えてしまう。
でも
それに近いことを
世の中では
たくさん行なっている。
傲慢な世の中だな、
と私は
よく思う。
そう思う
私の頭が
固いだけだろうか。
・・・・・・
いや、
やはり違うな。
なぜなら、
私達には
真本音がある。
真本音の願いが
ある。
その願いに
向かうことが
人生の意味と意義を
実践することに
なるし、
その人の
本来の「らしさ」や
魅力を発揮する。
そういった人は
他者に与える
影響も大きい。
たくさんの人に
幸せのきっかけを
与えることが
できる。
私達の真本音は
「自然であること」
をとても
大切にしている。
私達は自然の一部
であるし、
かつ、
私達自身が自然
そのものだ。
一部であり
全体でもある。
そういった
非常に尊い存在
によって
自然は成り立っている。
その尊さを
ないがしろにすることを
私達の真本音は
望んでいない。
傲慢さとは、
私は
「衰退」の一つの
カタチであると
思う。
傲慢さによる発展は
一見すると、
進歩のように
見える時もあるが、
それは必ず
「破裂」
する。
よく言うことだが、
風船が
限界まで膨らんだ
挙句に
破裂するのと
同じだ。
どんどん
膨らんでいくことに
喜びを感じて
無節操に
膨らませるだけ
膨らませる。
今の世の中には
そういったことが
多過ぎないか。
・・・・・・
私達は
真本音度合いが
高まれば、
自分自身の目の前に
展開する
あらゆる「現実」を
あるがままに
捉えるようになる。
あぁ、水は
上から下に
流れるんだな。
と、
素直に捉える。
そして
それらの「現実」を
そのまま生かそう、
活かそう
とする。
自然の摂理を
そのまま活用し、
さらなる
真の進歩へと
つなげようとする。
つまり
私達人間とは、
「自然との協業(コラボ)」
を起こす
存在だ。
決して、
自然と対立する
存在ではない
はずだ。
その原点を
忘れてはならないと
私は思う。
この人は
自然に生きて
いるか?
この組織は
自然な経営が
できているか?
そんな視点を
私は大事にする。
自然に近づけば
近づくほど、
人も組織も
本質的に元気に
なるし、
博打のような
たまたまの成功
ではなく、
必然的永続的な
進歩を始める。
そういったことを
大切にできる
コーチを
私は世の中に
増やしたい。
つづく
何を
あきらめて、
何を
あきらめずに
進むか?
「あきらめ」
がいけない
わけではない。
むしろ、
人生、あきらめ
が肝心だ。
あきらめるべき
ことに
執着をしすぎることで、
本当に大切な何かを
あきらめてしまう
ことがある。
私が
「脱皮」
と呼んでいる、
人間にとっての
大きなステップアップの
瞬間は、
何かを手放すことで
多くは
成される。
「手放す」とは
別の表現を
使えば、
「あきらめる」
ということだ。
あきらめるべきを
あきらめた時、
初めて
「絶対に
あきらめては
ならないこと」
が
わかる。
それについては、
何があっても
どんな状況に
陥ろうとも、
手放しては
ならない。
あきらめては
ならないのだ。
・・・・・・
私が
『真本音の願い』
と呼んでいるものは、
その内の
一つだ。
真本音の願いは
何があっても
あきらめては
ならない。
この現実世界は
結構厳しくて、
八方塞がりに
なることが多い。
特に、
経営においては
そうだ。
にっちもさっちも
行かなくなると、
そこで多くの人は、
「ここは
願いよりも
現実だ」
となってしまう。
そして
願いをあきらめ
現実への対応へと
走る。
もちろん
現実への対応は
必須だ。
自分が
折れなければ
ならないことも
あるだろう。
しかし、
「願い」だけは
手放しては
ならない。
ここで「願い」を
あきらめるからこそ、
その後の展開が
常に
現実に翻弄され続ける
ものとなる。
現実が、
理想通りに
進むことは
ほぼ、ない。
現実が、
思惑通りに
進むことも
ほぼ、ない。
しかし
忘れないで
ほしい。
そのような展開を
呼び込んでいるのは、
紛れもなく
私達自身の
真本音だ。
真本音は、
「必要な瞬間に
必要な試行錯誤を
経験する」
ことを
常に望んでいる。
試行錯誤をしない
ことが
「スムーズに進む」
ということでは
ない。
きちんとした
試行錯誤を
繰り返すことで、
結果として
「スムーズに進む」
のだ。
しっかりと
試行錯誤を
体験・経験・実感
すること。
胸に
「願い」を
抱きながら。
この繰り返しが、
真本音度合いを
圧倒的に
高めていく。
・・・・・・
「過去」という
原因によって
「今」という
結果が
現れる。
ならば、
「今」ここで
現実に翻弄された
一歩を進めば、
「未来」もずっと
翻弄され続ける
道となる。
どのような
現実が
起ころうとも、
それは
「過去の結果」と
あきらめて、
真本音の願いを
大切に抱きながらも、
「今」出せる
最大の一歩を
踏み出そう。
真本音の願いの
ない状態での
一歩を
「妥協」
と言う。
真本音の願いを
抱いた状態での
一歩を
「最善」
と言う。
たとえ同じ一歩でも
中身は
本質は
まったく異なる
一歩だ。
物事は
理想通りには
行かない。
でも
私達は
最善を尽くす
ことは
できるはずだ。
そしてその
「最善」
とは、
真本音の願いを
中心にした
生き方からこそ
生まれるものだ。
つづく
人が人に与える
影響の大きさは、
私達が想像している以上に
大きいはずだ。
例えば。・・・
ある企業研修を
するために
私は朝、会場に
向かっていた。
通勤ラッシュの
駅。
階段を降りる時に、
ふと
すれ違った人と
一瞬だけ
目が合った。
ほんの
一瞬だけ。
そして、
それだけ。
あとは、
何事もなく
その人と私はすれ違い、
私は研修会場に
向かった。
一日の研修を終え、
いつものように
一日を振り返っている時、
そのすれ違った人との
一瞬の目線の一致
がフラッシュバック
された。
と同時に
確信と共に
わかった。
今日の研修の
あの展開は、
あのすれ違った人との
あの瞬間がなければ
起こり得なかった
ものだ、
と。
あの時あの瞬間、
私は紛れもなく
あの人から影響を
受けた。
何だろう
それは?
そうか、
私はあの時
あのすれ違った人の
瞳の奥に、
とても深い悲しみを
感じたのだ。
それが強く
私の中に
刺激として残っていた。
そして今日の
研修の受講生さん達。
彼らの中の
あの人とあの人に
私は同じ悲しみを
感じた。
なるほど。
だから
あの展開になったか。
そして、
あの展開がなかったら
今回の研修は、
これほどにも深く
影響を与えられるものには
なってなかった。
あの、
すれ違った人に
感謝だ。
あれがあったことで、
今日、
人生が変わった人も
いるだろう。
とてつもない
感謝だ。
・・・というような
こと。
程度の差はあれど、
こういったことは
日常茶飯事だ。
私はたまたま
一日の振り返りを
丁寧に行なうし、
セルフコーチングの
力もある。
だからこういったことに
気づけるが、
多くの人は
知らず知らずに
このように
影響を与え合って
生きているのだ。
・・・・・・
私は常に、
周りのあらゆる人達に
良い影響を与えられる
自分でいたいと
願っている。
ここで言う
「良い影響」
とは、
力を与えるとか、
癒しを与えるとか、
そういった意味では
ない。
その人その人に
「調和した影響」
を与えたいと
思うのだ。
上記の例で言えば、
私はすれ違った人から
深い悲しみ、という感覚を
得た。
それ自体は
私にとってみれば
不快なものと
言えるだろう。
特に、研修直前の
私にとっては
普通であれば
感じたくない感覚だ。
疲れるし。
しかし、
それがあったからこそ、
私は結果的に
より良い研修ができた。
調和とは
そういった意味である。
単に
力を与えるとか、
気持ちの良さを与えるとか、
その場のみの
影響を言っている
わけではない。
実は、
真本音度合いが高まる
ということは、
そういった「調和」を
周りに与え続けることが
できるようになる。
仕事でも
家庭でも
街を歩いていても。
あらゆる場所、
あらゆる場面で。
・・・・・・
「コーチ」
という視点から言えば、
コーチングの場や
研修の場のみで、
自分の状態を
良い状態にしようと
しているコーチが
多いように思うが、
私はそれは
真のコーチとは
言わない。
朝から晩まで
24時間、
自分を良い状態に
し続けている人こそが
私はコーチができる
と思っている。
ただし「良い状態」とは
先程と同じだ。
モチベーションが高い
とか
すがすがしい気持ちでいる
とか
そういったことではなく、
周りとの「調和」を
し続けることができる
という意味だ。
コーチングの場だけ
真本音度合いを
高める
のではない。
というか、
むしろそんな不自然な
ことはできないのだが。
毎日、
一日一日、
朝から晩まで、
一刻一刻、
真本音で生き続けることが、
人間にとって
最も楽なことであり、
それを実践し続けることが
コーチとしての
必須の生き方であると、
私は思う。
つまり、
コーチングの場だけ
特別な自分に
なるのではなく、
コーチング以外の場も
コーチングの場も、
24時間同じ自分で
いる人こそが、
コーチと言えるだろう。
そしてその
「同じ自分」
とは、
「自然体の自分」
「本来の自分」
だ。
つづく
コーチングが
なぜ必要か?
と
問われたら、
いろんな
答えはあるだろうが、
私が真っ先に
答えたいのは、
想定外を
生み出すため
ということかな。
はっきり言って、
すべてのクライアントさんに
言えることだが、
自分自身の本来の
魅力や能力を
ちゃんと知っている人は
いない。
これは
断言できる。
私はコーチとして
その
「本来持っているもの」
を掘り起こそうとする。
クライアントさんと
向かい合っていると、
ある瞬間に
その人の「未来」が
観えることが多い。
例えばその人が
2〜3年後に
どのように活躍されているか
が映像として
まざまざと
浮かび上がってくる。
私はコーチとして
その映像が
実現する方向に
サポートをする。
しかし、
である。
コーチングによる
サポートをしていると、
私の当初の
その未来像は
ことごとく
打ち砕かれる。
想定外の
展開となるのだ。
もちろん、
良い意味で
である。
つまりは
ほとんどのクライアントさんは、
私のイメージの
上を行く。
この人、
こんなことも
やっちゃうの!?
この人、
こんな現実を
創っちゃうの!?
この人、
こんなすごい人
だったの!?
と、
まずは私が
驚くことになる。
つまり、
クライアントさんは
私の「範疇」を
超える。
そして、
私の
手に負えなくなる。
それが
実に楽しい。
これがコーチングの
一番の醍醐味であり、
魅力であると
私は
思っている。
・・・・・・
このような
コーチングの展開と
なるために、
絶対的に必要なことが
ある。
それを一言で
言えば、
『何もしない』
となる。
私は
思うのだ。
コーチは
何もしない
に限る。
コーチが
何かをしては
ならない。
と。
変な表現であるが、
それくらいの
「覚悟」
を持って
コーチングに臨むのが
真のコーチであると
思う。
だいたい、
コーチのみならず、
人の育成に
関わる立場の人は
例えば、
会社で言えば
管理職の立場の人も
含めて、
やり過ぎ
である。
育成のために
余分なことを
やり過ぎ
なのだ。
やり過ぎによって
不調和が
起こる。
やり過ぎによって
育むべき
成長の芽を
潰してしまっている。
人の育成で
最も重要で
かつ
最も難しいのは
「何をしないか?」
を見極めることだ
と
私は思う。
・・・・・・
何をするか?
ではなく、
何をしないか?
をきちんと判断
できるコーチを
私は
増やしたい。
実は私は
人から助言を
求められても、
一切何も答えない
ことが
多い。
大袈裟ではなく、
ほぼ毎日、
そんな展開がある。
私が
何を言っても、
「何も言わない」
以上の効果を
発揮しないと
わかるからだ。
だから、
「お願いします。
アドバイスを一つでも
いいのでください」
と
どれだけ求められても、
頑として
答えないことにしている。
そういったことを
毅然とし続ける
コーチが
ほしい。
人は
アドバイスを求められれば、
喜んで
相談に乗ってしまう。
相談に
乗られている自分って
すごいなぁ、という
喜びで
乗る人もいれば、
純粋に、
何か力になってあげたい
という気持ちから
乗る人もいるだろう。
しかし
真のコーチの
基本スタンスは、
「何もしない」
である。
このスタンスの上で、
「ここだけは
一言、伝えた方が良い」
と、
真本音で直観し、
その最低限のみを
行なうコーチを
私は
育成したいのだ。
そうすれば、
コーチの「範疇」を超えた
想定外のコーチングが
もっと
増えるだろう。
世の中が
求めていることは
これではないだろうか。
つづく