チームパフォーマンスコーチ

一つの節目を越えました

節目、というものが

私達の人生には

いくつもありますね。

 

年の変わる年末年始は

代表的な節目ですが、

会社で言えば、

期が変わる節目とか、

個人で言えば、

誕生日とか、

結婚記念日とか。

 

様々な節目があり、

その節目ごとに

私達は何かしら

気持ちを新たにしています。

 

それらは

現象レベルの節目

です。

 

それとはまったく別として

実在レベルの節目

というものもあります。

 

実在レベルの節目

というのは

現象レベルのように

何月何日と日付が

決まっているわけでは

ありません。

 

不定期にその節目は

訪れます。

 

実は。

 

4月18日から19日にかけて、

ここに一つの

節目がありました、

実在レベルでは。

 

・・・・・・

 

「実在」とは、

私達の心の中の世界

です。

 

私達の心は

宇宙のように広く

そして深いです。

 

そして、

すべての人の心は

つながっています。

 

集合無意識、という

言葉がありますが、

私達は無意識下で

つながっています。

 

しかもそのつながりの

深さには

階層があります。

 

表面的なつながりから

深〜いつながりまで。

 

その奥の奥の奥まで行けば、

私達は「一つ」となります。

 

「一点」に集約されます。

 

その「一点」とは

「一点」ではあるのですが、

「無限」です。

 

そこには「すべて」が

存在しています。

 

何もない状態を

「無」と言いますが、

その真逆で、

すべてが存在している状態

です。

 

それを

「空」(くう)

と言います。

 

その、「空」である中心の一点

であり

無限であるものを

アメリカでは「Source(ソース)」と

呼んでいます。

 

日本では

『源』(みなもと)

と訳されているようです。

 

名前のごとく

これがすべての源である

と捉えられているのですが、

実は、

本当は、そうではありません。

 

「源」のさらにその奥にも

さらなる「一点」が

あるのですが、

それについてはまだ

ここでは言及しません。

 

とにかく私達の心は

深いです。

そして、

すべてがつながっています。

 

その心の中に実在している

ものを私は

『実在』

と呼んでいます。

 

心の中に実在しているもの

という言い方をすると、

それは

「イメージのことか?」

と思われそうですが、

そうではありません。

 

イメージとは

単なる幻に過ぎません。

言葉は悪いですが、

妄想と同じです。

 

「実在」は

妄想ではありません。

イメージでもありません。

本当に実在しているものです。

 

心の中の世界。

 

すべてとつながっている

世界。

 

それは

『実在の世界』

と言ってよいでしょう。

 

実在の世界において

実在しているものが

心の外の世界に

反映されます。

 

つまり、

私達のいるこの現実世界に

反映されます。

 

それを

『現象』

と言います。

 

この世にある

あらゆるものは

「現象」です。

 

それは、

「実在」の反映です。

 

「実在」がなければ

決して生まれないものが

「現象」です。

 

「実在」から

「現象」は生まれます。

 

つまり、

心の中にあるものが、

現実化するのです。

 

心理学の世界で

よく喩えられるのですが、

実在とは、映画のフィルムであり、

現象とは、フィルムによって

映し出された映像

のようなものです。

 

・・・・・・

 

さて、話を

戻しましょう。

 

そんな実在の世界において

4月18日と19日の境目が

一つの節目でした。

 

どんな節目かと言いますと、

一言で表現すれば、

 

『手放す期限』

 

です。

 

私達は、

人生において

何かを手放さなければ

先に進めない

という法則のもとに

生きています。

 

真本音で

手放そうと思っていたものを

きちんと

手放せたかどうか?

 

ということは逆に、

これは手放してはならない

と真本音で決めているものを

ちゃんと大事に抱いて

いるかどうか?

 

そのチェックを

自分自身がする節目

だったのです。

 

あくまで

自分自身のチェックです。

 

他の誰かが

するわけでは

ありません。

 

自分の真本音が

自分をチェックするのです。

 

チェックの結果

真本音が満足すれば

次のステージに

その人は進みます。

自らの意志でもって。

 

チェックの結果、

真本音が

これはまだまだダメだな

と判断すれば、

次のステージには行かず、

もう一度、同じステージに

戻ります。

もしくは、

もっとずっと前のステージから

やり直しをします。

もちろん、

これも自らの意志で。

 

その分かれ道が

4月18日と19日の

節目だったのです。

 

ダメだったな

という人も

落胆する必要はありません。

 

ちゃんとやり直しを

すればいいだけのこと。

 

しかし恐らく

その人はかなりの

後悔をするでしょう。

 

その、後悔こそが

大事です。

 

後悔するからこそ

進化があります。

 

人の人生には

やり直しが効きます。

自分で自分に対して

不合格を出しても、

やり直しをすれば

よいのです。

 

自分で自分に

合格を出せた人は

本当に

よかったですね!

 

おめでとう!

とお伝えしたいです。

 

その人達は

次のステージへ出発です。

 

そこには

これまでに経験したことのない

新たな冒険が

待っています。

 

それは

ドキドキワクワクする

冒険です。

 

つづく

 

そろそろ一つ、枠を外そうかな

私達の人生は

答えのわからないこと

だらけです。

 

どうすればよいのか?

がまったくわからない。

 

方法がまったく

思いつかない。

 

そんなこと

だらけです。

 

ですから私達は

ついつい

答えのわかる範疇に

留まろうとしてしまいます。

 

自分が把握できる

世界の中でのみ

生きようとしてしまいます。

 

自分が見ることのできる

視界の中に

い続けようとしてしまいます。

 

それこそが

安心であり

安定であると。

 

しかし本当は、

そういった生き方をし始めることで

私達は

安心と安定を失います。

 

なぜなら

自分の把握できる視界を

超えていくこと、

今の自分では

「わからない」世界に

飛び出していくこと、

それこそが

私達の本能が望んでいる

ことだからです。

 

そのための存在が

私達人間だからです。

 

『進化』

 

・・・これが、

私達人間の本質です。

 

進化を失ったとき、

私達の存在意義も

失われます。

 

つまり、

自分は生きている意味がない

と、

心の奥底で私達は

感じてしまうのです、

進化から逃げることで。

 

「進化することは怖い」

 

と言う人がいます。

 

「進むことが怖い」

 

と。

 

よく言う喩えですが、

私達は自転車と同じように、

進むことで安定し

進むことで安心できるのです。

 

止まってしまうと

途端に不安定になり、

あらゆることにすぐに

恐れを抱くようになります。

 

それが人間の

性であり

宿命です。

 

なんて疲れる宿命なんだ!

 

と思わないでください。

 

進むことで

疲れは癒されるのです。

 

進むことで

とても楽になるのです。

 

そのように創られているのが

私達なのです。

 

答えがわからない?

 

方法がわからない?

 

・・・それこそが

私達の進むべき方向です。

いえ、

進みたい、方向です。

 

その道を行くことで

私達は

真の安寧を得ます。

 

・・・・・・

 

あなたはどれだけ

日々、

人と向き合っていますか?

 

「向き合う」とは

意識を完全に相手に

向けることを言います。

 

相手ではなく、

自分の意識や自分の解釈に

意識を向けながら

人と関わるのは

「向き合う」という状態では

ありません。

 

「向き合う」とはある意味、

目の前の人に

完全に委ねるということでも

あります。

 

自分がその場を

引っ張るのでもありません。

 

相手に委ねるのです。

 

そのためには、

相手を信じるしか

ありません。

 

「相手を信じる」とは

相手の真本音を信じる

ということです。

 

信じる、

とは意志です。

 

信じられるかどうか?

ではありません。

 

信じようと

するかどうか?

 

それだけで

決まります。

 

私はこの人の

真本音を

完全に信じよう。

 

この人の

真本音に私のすべてを

委ねてしまおう。

 

その覚悟を持って

その人に

全意識を向けていきます。

 

するとそこで初めて

私は私の枠を超えた

私になれます。

 

人と向き合うことで

自分の枠を超える。

 

・・・これは

私達すべての人間が

持っている

願いの一つです。

 

その願いに素直に

人と関わり続ける。

 

私は今のお仕事を通じて

それをし続けることが

できました。

 

そういった関わり方を

私はすべての皆さんに

お勧めします。

 

そのような関わり方、

向き合い方を

毎日のようにし続ける人は、

必ず

「真実」を知ることができます。

 

宇宙の真実

です。

 

なぜ、この世が

できているのか?

 

なぜ、この世が

生まれたのか?

 

私達は

なぜ、ここにいるのか?

 

私達は皆、

何を目指しているのか?

 

人と宇宙

(実は、人と宇宙はイコール

ですが)

に関する真実を

実感できるようになります。

 

すべての真実は

「向き合っているその瞬間」

にあります。

 

そこにすべての

答えがあるのです。

 

このブログも

そろそろ

一つの枠を超えようかなと

思っています。

 

実は、

こう見えて、

かなり私は自分を制御しながら

このブログを

書き続けてきました。

 

もちろん

すべての制御を

取り去ることはしません。

 

しかし、

そろそろ

一つだけ、制御を

取り去ろうかな。

 

ちょいと勇気が

要りますが、

そうすることにします。

 

なぜならこのブログは

いつも読んでくださっている

皆さんと向き合いながら

書かせていただいて

いるのですから。

 

つづく

 

今、ここにいないでしょ

自分のことしか

考えない人は、

自分が今ここにいることに対して、

いったいどれだけ周りから

様々な力をいただいているか?

ということを

まったく気づけないままに

生きることになります。

 

自分のことを

わかっているのは、

自分だけ。

 

誰も自分のことを

理解してくれない。

 

理解しようとも

してくれない。

 

ひょっとするとそれは

事実かも知れません。

 

しかしその事実を

創り出しているのは

自分自身であるという

事実もあり、

もしそこに本当に気づけたら

その人はもう8割くらいは

そこから抜け出せたと

言えるでしょう。

 

自分の孤独を

創り出していたのは、

実は自分自身であった。

 

そして、

自分の現実を

創り出していたのは、

実は自分自身であった。

 

この単純な事実を

もしほとんどの人が

腑に落とすことができたら、

それだけで

世の中は変わると

思うのです。

 

ところが。

 

ご承知の通り、

そう簡単にはいかないのが

現実でもあります。

 

ここで、

ちょっと視点を

変えて。・・・

 

「あなたは今、

どこにいますか?」

 

と問われて、

あなたは何と

答えますか?

 

時たまですが、

私は突然クライアントさんに

そのように問うことが

あります。

 

多くの人は

 

「ここにいます」

 

と答えます。

 

でも本当に

そうでしょうか?

 

次の問いを

真摯に受け取って

みてください。

 

その上で、

自然に浮かぶ答えを

自分の中から

聴いてみてください。

 

「あなたは今、

本当に、ここにいますか?」

 

どうでしょう?

 

どんな答えが

浮上しますか?

 

やはり、

「ここにいます」

という答えですか?

 

もし

「ここにいます」

という答えでしたら、

次の問いを

自分に投げてください。

 

「本当に本当に

ここにいますか?」

 

そして、

 

「本当は

どこにいますか?」

 

と。

 

なんでこんなことを

書くかと言いますと、

今、「ここにいる」人が

極度に減っているからです。

 

これは

ここ2〜3週間の

傾向です。

 

私の印象では、

ほぼ、すべての人が

どこかに行ってしまっている。

 

ここに、

心と体はあるけれど、

魂が

どっかに行ってしまっている

のです。

 

もう一度、

このように問うて

ください。

 

「今、私は本当は

どこにいるのだろうか?

どうして、

そこにいるのだろうか?」

 

ここにいないことを

決して悪いことだと

思わないでください。

 

意味があって

あえて、

ここにいないのだと

思ってください。

 

どこかに行っていて

いいんだよ。

今は、そんな

時期なんだよ。

必要があって

そうしてるんだよ。

 

という気持ちで

自分自身に

問うてください。

 

「今、私は

どこにいるの?

何のために

そこにいるの?」

 

そして

さらに次のように

問うてください。

 

「何が完了したら、

ここに戻って来れるの?」

 

自分がここにいない、

真の理由を

できるだけ明確に

してください。

 

それをしなければ、

あなたはだんだんと

孤独になります。

 

そして冒頭に書いた通り、

自分のことしか考えない

という状態に

入ります、

今、ここにおいては。

 

私達人間は

「今、ここにいて

今、ここを生きる」

ことができて初めて、

周りとのつながりを

実感できるように

できています。

 

今、ここにいないということは

本来の自分を

見失うことに

直結します。

 

しかし、

今、多くの人が、

わざと

「今、ここにいない」

という状態を創り出して

います。

 

理由は

今の私にはわかりませんが、

恐らく、

そのうちに、近いうちに

わかるでしょう。

 

ただ、私が

皆さんにお伝えしたいことは、

今自分は、ここにいないのだ

という事実を知り、

そして、そのことに

大いなる意味があることを知り、

そういった状態にある自分を

許し、

大らかな眼差しで

自分を見つめてあげてほしい

ということです。

 

皆さんは今、

今ここから離れることで

何かを得ようとしています。

 

早くそれが

得られればいいなと

願います。

 

つづく

 

さて、ビジョンに向かおうか

豪雪の中、

立っている私が

いた。

 

雪はどんどん降り積もり、

私の全身は雪の中に

埋もれようと

していた。

 

抗うことを

まったくせず、

私は、自分が

閉ざされていくままに

していた。

 

このままいったら

私は死んでしまう

のではないか。

 

やり残したこと

いっぱいあるなぁ。

 

そう思いながらも

だんだんと

意識が遠のいて

いく。

 

うわぁ、

これじゃホントに

死んでしまうよ。・・・

 

・・・ハッと気がつくと

私は布団の中。

 

どうやら

夢だったようだ。

 

いや、

どう考えても

今のは夢ではない。

 

夢であるもんか。

 

たった今、

本当に経験したような

生々しさが

ある。

 

私は、私の人生の終わりを

本当に経験

したのではないか?

 

そう心の中で

つぶやくと、

まるでそのつぶやきに

返事をするかのように、

 

そうだよ、

本当に経験したんだよ、

 

と、また

私自身の心が

つぶやいた。

 

いったい、私とは

何なのだろうか?

 

私のこの人生とは

何のための

ものだろうか?

 

そんな問いが

浮かびながらも、

また私は

ウトウトし始めた。

 

ふと気がつくと、

私は暗闇の中。

 

何も見えない。

 

しかし、

私の周りに

複数の人達の気配が。

 

誰だ?

 

と思って周りに

意識を向けると、

姿は見えないけれども

どうやら

私の仲間のようだ。

 

なんだ、君らか・・・。

 

それは、

いつも当たり前のように

一緒にいる

私のファミリーのような

仲間達。

 

私は彼らと共に、

暗闇の中で

何か一点を見つめていた。

 

見つめる先に

目をやると、

そこには私自身の

姿があった。

 

横たわっている

私自身の姿。

 

その私にはすでに

意識はないようだ。

 

今、

心臓が止まろうと

しているのが

わかった。

 

あぁこれは、

私の人生が終わる

瞬間だと

直観した。

 

心臓の鼓動が

どんどん弱まって

いく。

 

もうほとんど

止まっている

と言ってもいい。

 

時々、思い出したかの

ように、

ドクン、と波打つだけ。

 

あぁもう本当に

私は死ぬんだな、

と、

私を見ている私は

つぶやいた。

 

すると、

暗闇の中の

仲間の一人が

私に訊いた。

 

どうでした?

いい人生でした?

 

私はニッコリと

笑った。

 

うん。

 

とっても

いい人生だったよ。

 

だって、

やり残したことが

一つもない。

 

さっきはさ、

やり残したこと

たくさんあるな、って

思ったけど、

違ったよ。

 

私がすべきこと

私が本当にやりたいことは

すべて完了した。

 

今わかったよ。

 

完了感が

ハンパない。

 

なんかさ。

 

これ以上の人生は

ないんじゃないかな、

と思えるくらいの

満足感だよ。

 

こういう人生も

あるんだな。

 

いやぁ、

いい人生だったよ。

 

すると、

暗闇の中の別の

仲間が

 

あっ、

もう完全に

止まりそうですよ、

 

・・・と。

 

私が見降ろすと、

横たわっている私の

心臓は

確かに最後の

一鼓動を

打とうとしていた。

 

あと一回、

心臓がドクンと

動いたら、

それで

終わりだ。

 

それで

この人生は

終わりだ。

 

あぁ、

本当に良かった。

 

いい人生

だったなぁ。

 

私は

私の人生のビジョンを

ちゃんと達成

できたなぁ。

 

まさか本当に

達成できるとはなぁ。

 

・・・と、

つぶやいた瞬間に

ハッと

私の意識は

もどった。

 

私は布団の中に

いた。

 

なんだ、

また夢か。

 

いやいやいや、

今のが夢で

あるもんか。

 

どう考えても

今まさに

経験したことだ。

 

今のはいつの

経験だ?

 

と問うた瞬間に

答えが浮かんで

きた。

 

あぁそうか。

 

30年後だ。

 

私は今、

ちょうど30年後の

自分を経験

したんだ。

 

ということはやっぱり

夢ではなく、

今のは実在だな。

 

そう言えば私は

自分のビジョンが達成

できたと、

つぶやいていたな。

 

30年後のビジョン、

とは何だろう?

 

・・・と問うた瞬間に

その答えが

浮かんだ。

 

あぁそうか。

 

これが私の

ビジョンか。

 

そうだったのか。

 

私はこのビジョンを

実現するために

生まれてきたんだ。

 

これが私の

人生の

目的か。

 

そう思った瞬間に、

これまでの私の人生の

道のりのすべてが

腑に落ちた。

 

なるほど、

私のこれまでの人生は

すべて

このビジョン実現の

ためのものだったんだ。

 

これからの人生の

すべても

きっとそうだ。

 

な〜んだ、

そうだったのか。

 

私は、

これまで

味わったことがないくらいの

スッキリ感を

味わった。

 

・・・・・・

 

これが、

私が

自分自身の人生のビジョン

を初めて認識できた

瞬間です。

 

私はそれを

「30年ビジョン」

と名づけました。

 

それから2年が

経ちました。

 

私は今、ようやく

30年ビジョンに向かって

本格始動

できそうです。

 

まぁ、

2年経ったので

あと28年ですが。

 

あと約半月後の

5月1日に

私は一つの法人を

立ち上げます。

 

ダイレクトに

ビジョンに向かうための

会社です。

 

名前はもう

そのまんま。

 

『株式会社真本音』

 

です。

 

つづく

 

距離感を修正しただけで、こんなにも・・・

私達の真本音は

距離(感)をとても大事にしている

というお話をしました。

(→【人生の展開は距離感で決まる】)

 

本当に面白いことですが、

例えば、AさんとBさんがいた場合、

距離(感)が

真本音が望むものであれば、

AさんとBさんはお互いに

パワーを与え合い、

パワーの循環を起こします。

が、

距離(感)が

真本音の望むものとズレていた場合、

二人はお互いに

パワーを奪い合う関係になってしまう、

・・・そんなケースが

非常に多いのです。

 

距離(感)によって

真逆の関係になるのです。

 

そしてその距離(感)とは、

・実在の距離と

・現象の距離が

あります。

 

実在の距離を適正なものに

することで、

現象の距離も適正に

なります。

 

一つ、実際にあった例を

かいつまんで

ご紹介しましょう。

 

ある会社で、

私はAさんのコーチングを

していました。

 

Aさんは、

言われました。

 

「どうしても私はB課長と

上手くいきません。

・・・というより、

B課長と一緒に仕事をしたく

ありません。

こんな子供のようなことを言うのは

ナンセンスだとわかっています。

でも、本当のことを言えば、

B課長と一緒の空気を吸うこと

自体が嫌なのです。

私は会社を辞めようと

思っています。」

 

そこで私は

Aさんに目を瞑って

いただきました。

 

そして次のように

問いました。

 

「Aさん、

B課長のイメージをしてみてください。

B課長のイメージは

どの場所に浮かぶかわかりますか?

その場所を特定してみてください。」

 

以下、Aさんと私のやりとりです。

 

Aさん

「B課長は私の正面の前方

3mくらいの場所にいます。」

 

たけうち

「その距離はAさんにとって

居心地の良い距離ですか?」

 

Aさん

「いえ、とてもきついです。」

 

たけうち

「もっと近づけたいですか?

それとももっと遠ざけたいですか?」

 

Aさん

「もちろん、もっと

遠ざけたいです。」

 

たけうち

「どれくらいの距離に

遠ざけたいですか?」

 

Aさん

「・・・。

15mくらいでしょうか。」

 

たけうち

「本当に15mで良いですか?」

 

Aさん

「・・・、いえ、もっと

離してしまってもいいですか?」

 

たけうち

「もちろん良いですよ。」

 

Aさん

「じゃあ、・・・60mくらい。」

 

たけうち

「本当に、60mで良いですか?」

 

Aさん

「えぇ? これ以上離しすぎると

姿が見えなくなってしまいます。

まずくないですか?」

 

たけうち

「大丈夫ですよ。

Aさんが本当に望む距離は

どれくらいですか?」

 

Aさん

「できれば、姿はもう見たく

ありません。

2kmくらい離れちゃっても

いいですかね?」

 

たけうち

「本当に2kmでいいですか?」

 

Aさん

「ええっ? だってそんなに

離したら、なんか悪いです。」

 

たけうち

「悪くないですよ。

これは単なるイメージ遊びです。

本当の本当の望みを

言ってみてくださいよ。」

 

Aさん

「・・・実はですね、本当は

地球から出て行ってほしい

くらいなんです。

・・・僕、ひどいこと言ってますね。」

 

たけうち

「大丈夫ですよ。

じゃあそれを数字で表すと

どれくらいですか?」

 

Aさん

「う〜ん・・・。

3000万kmくらいでしょうか。」

 

たけうち

「おっ、いいですね。

やっとAさんの空気感が安定しましたよ。

では、イメージのB課長を

Aさんから3000万km

離してみてください。」

 

Aさんはその通りに

イメージをしてみました。

 

たけうち

「いかがですか?

どんな気持ちになりますか?」

 

Aさん

「いや、なんか凄く

楽になりました。

体の力が抜ける感じですね。」

 

たけうち

「じゃあ、Aさん。

いつもB課長を今のように

3000万km離した状態で

いてください。

イメージの中では。

で、あとは実際には

いつもの通りにB課長と

接してみてください。」

 

それから2週間後、

再びお会いしたコーチングの場で、

Aさんはしみじみと

言われました。

 

「たけうちさん、驚きです。

B課長のことがそんなに

嫌じゃなくなりました。

むしろ課長のことを

よく観察できるようになりました。

で、自分でも驚いていますが、

先日、課長を誘って

一緒にランチに行ったんですよ。

課長とあんな風に話せたのは

初めてです。」

 

・・・

この話、あまりに上手く

でき過ぎているように思われそうですが、

実際にあったお話です。

 

もちろんこの例だけでは

ありません。

 

このように

イメージの距離を修正することで

イメージの中での調和が起こり、

それが現実の調和に

影響を及ぼすのです。

 

でも実はこれ、

本当は

「イメージ」ではないのです。

 

これは

「実在」です。

 

「実在」を

動かしたのです。

 

「イメージ」と「実在」とは

本質的に異なるものです。

 

「イメージ」でこのようなセッションを

しても、

ほぼ効果は出ません。

 

「実在」で行なうからこそ、

効果が大きく出るのです。

 

とりあえず今日は

ここまでにします。

 

つづく

 

先に進む? 進まない? どっち?

子どもは

永遠に親の保護のもとに

いるわけではありません。

 

必ず

親から独り立ちする

瞬間が来ます。

 

親から離れる

時が来ます。

 

『子が育ちますように』

 

この祈りは

誰もの心の中に

いえ、

魂の中に必ず

存在するものです。

 

この祈りに基づいて

生まれるエネルギーと

そのエネルギーに基づいて

生まれるあらゆる行動や

振る舞いのことを

『慈しみ』

と言います。

 

これについては

実は

私達人間の「本能」の成立にとって

あまりにも重要なものですから、

改めて時間をとって

ゆっくり書かせていただく

つもりです。

 

慈しみには必ず、

独り立ち、巣立ち、離れ、

そして、別れ

といったものがセットで

ついて来ます。

 

きちんと別れるべき時に

別れること。

 

離れるべき時に

手放すこと。

 

それは

真の慈しみの行為に

他ありません。

 

あの人のことが嫌いになった、

だから別れる

という単なる感情による

別れとは

それは本質的に異なる

ということは

誰もがわかるでしょう。

 

感情的な別れ、とは

反応本音による別れ。

 

慈しみの結果としての別れ、

とは

真本音による別れ。

 

どちらも寂しく

悲しいものかもしれませんが、

真本音の別れには

根底に必ず不思議な

すがすがしさが

湛えられています。

 

真本音で生きるということは

別れるべき人と

次々に別れ、

出会うべき人と

次々に出会う

人生となります。

 

よく言われることですが、

何かを手放すことで

新たな何かが

入ってくるというのは

真実です。

この3次元の世界に

おいては。

 

つまり、

感情のまま、もしくは

情に流されたまま、

別れるべき人と別れないことで

出会うべき人と

出会えなくなります。

 

・・・

何でしょう?

 

こうしてこの文章を

書いていますと、

様々な人達のお顔が

浮かんで来ます。

 

ほとんどが私の

クライアントさんですが、

今、多くの人達が

人生を次のステージへと

転換されようと

しています。

 

先日、

ある人が私に

言われました。

 

「なんか、この同じ体を

持ったまま、

生まれ変わろうとしている

気分です」

と。

 

まさしく、

そんな感じ。

 

そんな状態の人が

今、とても増えています。

 

今が4月だから

ということではない気が

します。

 

来年の今頃にちょうど

平成から新たな時代に

変わりますが、

その一年前に先んじて

人生の新たな時代に

入ろうとしている人が

多いのかな。

 

皆さんがちゃんと

新たな時代に入るためには、

ちゃんと

別れるべきと

別れなければなりません。

 

手放すべきを

手放さなければ

なりません。

 

中途半端なまま

先に進むことだけは

やめましょう。

 

先には進まない、

という選択も

もちろんありです。

 

その場合に、

別れは必要ありません。

 

行くか、

行かないか。

 

100か、

ゼロか。

 

どちらかの

選択にしましょう。

 

中途半端であること

だけは

やめましょう。

 

混乱や混沌とは

多くの場合、

中途半端さから

発生するものです。

 

本当は、

「距離感」についての

具体的な事例を

今回はご紹介しようと

思ったのですが、

あまりにいろんな人の

お顔が浮かぶものですから、

あえてその人達に向けて

今日はメッセージさせて

いただきました。

 

明日は

具体的な事例を

ご紹介できるかな?

 

つづく

 

人生の展開は距離感で決まる

私達の人生において

大きな転換のきっかけと

なるものに

「出会い」

がありますが、

その一方で、

「別れ」

というものがもたらす

影響も大きいですね。

 

出会いは概して

嬉しいものですが、

別れは概して

寂しいものですし

大きな悲しみを

伴うこともあります。

 

そのため結果的に、

 

「本当は今、

別れなければならないのに、

別れられない」

 

という現実を

創り出してしまっている

人が多いのが、

今の世の中の一つの傾向です。

 

実は、

どれだけ素敵な出会いを

重ねてきても、

きちんと別れるべき人と

別れないことで、

真本音度合いを著しく

落としてしまい

人生の不調和が始まって

しまった、

という人を私は

とても多く観てきました。

 

「別れ」とは

とても大事なものです。

 

そして

いつ、誰と別れるか?

私達は自らの真本音で

決めています。

 

もちろん

AさんとBさんが別れる場合、

Aさんの真本音が決めている

別れのタイミングと、

Bさんの真本音が決めている

別れのタイミングは

完全に一致します。

 

そしてその通りに

別れることができた場合、

二人の人生は

新たなステージに進み、

次の出会いと展開が

二人ともに起こり、

二人ともが

さらに真本音度合いの高い

人生を送ることができます。

 

別れるべき時に

しっかりと

別れましょう。

 

もし相手が

反応本音のレベルで

「別れたくない」

と言ったとしても、

その「情」に流されずに

しっかりとそれを

断ち切りましょう。

 

・・・このように書くと

寂しいでしょうか。

悲しいでしょうか。

 

冷たい人間だと

思われるでしょうか。

 

「別れる」という言葉と

ほぼ同義語として、

「手放す」

という言葉もあります。

 

手放すのも

本当に大事なことです。

 

本当に必要なタイミングで

別れを自ら切り出せる人、

そして

手放すことのできる人は

愛の深い人だなぁ、

と私は思います。

 

では、

「別れる」とか「手放す」

という行為の

本質とは

何だと思いますか?

 

それは私は

「距離を離す」

ということだと

捉えています。

 

「距離」

 

とか

 

「距離感」。

 

実は私達の真本音は

これをとても

大事にしています。

 

同じAさんとBさんでも

二人の距離や距離感が

真本音で望むものと

ずれていたら、

そこには不調和が

起きてしまうのです。

 

逆に言えば、

「調和」とは

「距離(感)で決まる」

と言っても

言い過ぎではないでしょう。

 

特に私達が今いる

この「3次元」という世界は

すべてが分離している

世界です。

 

分離しているが故に

一つ一つの物事

(その中に当然、「人」が

含まれます)

との距離(感)が

あらゆるものの展開に

影響を与えます。

 

その距離(感)とは、

心の中の距離(感)と

実際の距離(感)の

両方があり、

その両方を

真本音の望むものと一致させる

ことが「調和」のためには

必須です。

 

ちょっと

わかりづらいですか?

 

もう少し詳しく

お話しした方が

良さそうですね。

事例を交えて。

 

ただ、そのためには

ちょっと文章が長くなりますので、

続きは明日に。

 

まずは今回は皆さんに

二つの問いを

残しておきます。

 

単純に

直観でお答えいただくと

よいですね。

 

以下の問いを

自分自身に向けて

投げてみてください。

 

「私の人生において、

私はあらゆるものと

適正な距離感を持つことが

できているだろうか?」

 

そして、

 

「私が今、もっと

距離を離すべきものとは

何だろうか?」

 

つづく

 

自信のない人生を送ってきた自信がある

今日ふと、

思ったんですよね。

 

私って、

自信があるなぁ、と思いながら

道を進んだことって

あったっけ?

と。

 

いや、もちろん

ありました。

 

でもそれは相当に

昔の話です。

 

いつからでしょうか。

 

ずっと

自信のないままに

生きているのは。

 

皆さんは

どう思いますか?

 

自信って

あった方がいいですか?

 

ない方がいいですか?

 

そりゃもちろん、

あった方がいいですよね。

 

私も

そう思います。

 

あった方が

楽ですよね。

 

そう思うんですけどね・・・。

 

でもそれは

顕在意識の私が

そう思っているだけで。

 

実は、

これはあくまでも

私の経験上での話ですが、

私の場合、

自信のある道を行く方が

結果として

楽ではなかったんですよね。

 

なんでかと言うと、

自信があると

余分な自分が

どんどん出てきてしまうのです。

 

こうやれば

こうなるな。

 

こんな場合は

こうすればきっと

上手く行くぞ。

 

・・・自信のある場合は

過去の経験則が

役に立ちます。

 

しかし私の場合、

そういった

過去の経験則に沿って

物事を進めると、

大概にして

ドツボにハマるんですね。

 

まぁそれは

人と向き合うお仕事を

させていただいているから

かもしれません。

 

人と向き合う私のお仕事は

過去の経験則が

ほぼ使えません。

いや、

本当は使えるのですが、

経験則で物事を進めようとすると、

大切な何かが

失われるのです。

 

大切な何か・・・。

 

それをあえて言葉に

すると、

 

「目の前の人と

共に最善の答えを見つける」

 

・・・ということでしょうか。

 

人生とは

現在進行形です。

 

人も様々です。

 

本当は

二つとして全く同じ事象や

現象は

ありません。

 

今、目の前にある一つの現実は

唯一無二

のものです。

 

これまでの人類の

過去のあらゆる場面で

一度もなかった現実が

目の前にあるのです。

 

そしてその現実は

今後の未来において

誰も経験することのない

ものでしょう。

 

すべて、

今この一瞬一瞬は

ただ、ここにあるだけ

のもの。

 

唯一無二のもの。

 

それが、

私達の人生の

尊厳だと思います。

 

唯一無二の

現実を

経験する

唯一無二の

存在が

私達人間

なのです。

 

そんな、

唯一無二に対して、

過去の経験則から

答えを導き出すことは

本来の

今この瞬間でしか生まれ得ない

宝物のような

本当の答えを

掘り起こさずに進む

ということになってしまうのだと

私は思うのです、

・・・これは経験的に。

 

ですから

いつしか私は

自分の中に「自信」という

感情が生まれた時に、

最も気をつけるように

なりました。

 

そしてちょっと

極端に言えば、

自信のない方ない方に

舵を切るように

なりました。

 

その方が

謙虚になれるからです。

 

何に対しての謙虚かと

言うと、

目の前の現実に対する

謙虚さであり、

目の前の人に対する

謙虚さです。

 

とは言え、

普段の私の行動や

振る舞いをご存知の方は

「一体、あなたのどこが

謙虚なんだ?」

と言われるかも

しれません。苦笑

 

なぜなら私は

ほとんど場合、

断定的にものを

お伝えすることが多いからです。

 

よく言われます。

 

「たけうちさんは

いつも断定的に

ものを言いますね。

よく、言えますね」

と。

 

私は、

自己弁護をする気は

毛頭ないのですが、

私の中では、

謙虚さの証が

「断定的振る舞い」

なのです。

 

私の場合、

自信があると

断定的になれないのです。

 

だって、

自信があるということは

目の前の人と

「共に最善の答えを

見つける」

ということが

できている実感が

極度に減るからです。

 

私が断定的になれるのは、

私一人の結論

ではないからです。

 

共に向き合い

共に創り出した

お互いの真本音コミュニケーション

によって生み出された

その場にしかない

唯一無二の

答えだからです。

 

それは

宝物です。

 

そんな宝物だから、

それをそのまま

表現しているだけの

ことなのです。

 

なんだ?

 

今回は、自己弁護のための

文章か?

 

いや、・・・違うな。

 

私が今、

とっても皆さんに断定的に

お伝えしたいことが

あるのです。

 

それは一言で言えば

こうなります。

 

『今はあえて、

自信のない方に進もう!』

 

です。

 

これが、現在、

多くの人達の真本音が

望んでいる

人生の指針です。

 

自信のない方向に

行くからこそ、

すべての現実と

あるがままに向き合う

ことができるでしょう。

 

そこで得られるのは、

これまで見たことのないような

自分の個性と、

自分の力です。

 

自分の

まだまだ隠されていた

可能性です。

 

そういったものを

どんどん自ら

掘り起こしてほしいですね。

 

ですから私も

今まで以上に

自信のない方向に

行こうと思います。

 

皆さんも、ぜひぜひ

そうしましょう。

 

つづく

 

あなたのリミッターを取り払う一つの発想法

あなたは、これからの人生で

どんな人と

出会いたいですか?

 

あなたの出会いたい

理想の人を

描いてみてください。

 

もちろん、一人だけで

なくても結構です。

 

こんな人と、こんな人と

こんな人と、さらにこんな人と

こんな仲間と、こんなチームと

こんな家族と、・・・

出会えるといいな。

 

とにかく

発想されるだけ

描いてみてください。

 

できれば

何かにそれを書いてください。

 

書けば書くほど、

さらに発想が広がる

可能性があります。

 

本当にそのような出会いが

可能なのかどうか?

現実的なのかどうか?

などは

一切、考えないでください。

 

ワガママで結構です。

 

独りよがりで結構です。

 

自己中心で結構です。

 

とにかく自由な心で

理想の人達を

描いてみてください。

 

そして。

 

描き切れたなぁ、と

完了感が出たら

次の発想に進みます。

 

あなたの描いた

理想の出会い。

理想の人達。

 

その人達と本当に

出会えたとします。

 

理想のタイミングで

出会えたとします。

 

すると、その後、

どのような素晴らしい展開が

待っているでしょうか?

 

どのような未来が

待っているでしょうか?

 

あなたはその人達と共に

何をしたいでしょうか?

 

それをした結果、

どんな現実が手に入る

でしょうか?

 

これも思いつくだけ

たくさん発想します。

 

こんなことが

起こるといいなぁ。

 

こんな未来が

手に入るといいなぁ。

 

こんなことが実現できたら

もうこれ以上の

幸せはないなぁ。

 

これも、

ワガママでも独りよがりでも

結構ですから

自由に描きます。

 

さて。

 

まだ終わりません。

 

そういった未来が手に入ることで

さらに、

どのような出会いが

起こると思いますか?

 

どんな人達と出会い、

どのようなつながりが

広がっていくと思いますか?

 

今のこの世の中では

そんな出会いは無理だよ、

と思えることであっても

構いません。

 

現実的でなくでも

構いません。

 

どんどん発想してください。

 

そして。

 

それらの出会いによって

その後にどのような

未来が展開するでしょうか?

 

自由に、さらに自由に

発想を。

 

そして。

 

さらにその後、

どのような出会いが

あるでしょうか?

 

そして。

 

さらにその後、

どのような未来が

開くでしょうか?

 

そして。

 

さらにどのような

出会いが?

 

さらに、

どのような未来が?

 

・・・・・・

 

というように、

あなたの発想が続くうちは

それを延々と

続けましょう。

 

もうこれで

満足。

 

ここまでの未来が

手に入れば

言うことはない。

 

・・・と思ってからが

スタートです。

 

その先、

をぜひ発想して

ください。

 

あなたの理想の幸せ。

 

あなたから出てくる

最高の発想。

 

・・・それが

あなたの「枠」です。

 

自分自身にはめていた

「リミッター」

です。

 

その「リミッター」を

取り払ってしまってください。

 

何度も申しますが、

実現可能かどうか?

はまったく考えないでください。

 

大事なのは、

あなたの心の奥から

どのような発想が

飛び出してくるか?

です。

 

発想の

掘り起こしです。

 

どのような夢物語でも

あなたの心の中から

生まれる発想はすべて

あなたのものです。

 

発想のリミッターを

外していただきたいのです。

 

それが

目的です。

 

リミッターが

外れたな。

 

なんか、すごく自分は

自由な心に

なれているな。

 

そんな風に思えたら

それでOKです。

 

そこまで行ったら、

最後の問いです。

 

その問いの答えは

ぜひ、

頭で考えずに、

ひねり出さずに、

自然に浮かび上がってくるものを

そのまま言葉に

してください。

 

その問いは

これです。

 

「私が最高の出会いと

最高の人生を送るために、

今、

最も大事にしたい

私自身の生き方は

何だろう?」

 

自然に浮かぶ

言葉があるはずです。

 

それらをすべて

紙に書き出してください。

 

できるだけ

シンプルな言葉が

よいです。

 

書き出した言葉のうち、

本当に今、

大事にしたいなぁと思える

「生き方」を

表した言葉を

一つ、選んでください。

 

それが、

あなたの真本音の願い

の可能性が

高いです。

 

私達の中には

たくさんの真本音の願いが

ありますが、

その中で最も簡単に

見つけ出しやすいのは

「今ここで、どのような

生き方をしたいか?」

という、

生き方に関する願いです。

 

これを私は

『人生理念』

と呼んでいます。

 

これが私の人生理念かな、

と思える一つのワードを

選んでみてください。

 

選んだら、

それを24時間、

大事にしてみてください。

 

その理念の通りに

行動しなきゃ、

とは思い過ぎないことが

コツです。

 

行動に移せるかどうか?

よりも、

いつもその理念を

心の中心に大切に

抱き続けてください。

 

いつも思い出していて

ください。

 

それをしながら

いつもの日常を

過ごしてみてください。

 

それだけで

あなたの空気感が

変わります。

 

あなた自身は

気づかないかも

しれませんが。

 

そして、

これまでと同じ日常なのに、

いつもの風景なのに、

少し違って観えるように

なるかもしれません。

 

自分の行動パターンが

少し変化するかも

しれません。

 

ただし、

そういった「結果」を

求めないでください。

 

ただただ、

自分の選んだ理念を

大切に心の中心に

抱いてください。

 

これが

真本音で生きる

第一歩です。

 

真本音度合いを高める

第一歩です。

 

つづく

 

その願いの奥に真の悦びはある?

「願い」について

書かせていただいています。

(→前回記事)

 

反応本音の願いとは、

達成することで完了する願い

です。

 

それに対して、

真本音の願いとは

永遠に願い続ける願い

です。

 

・・・という言い方もできます。

 

永遠に願い続ける、とは

ゴールがない

ということです。

 

ゴールがないということは

一見すると

満たされることがない、

という印象を持つかもしれません。

 

しかし

満たされないものを満たす

願いこそが

反応本音の願いです。

 

つまり、

満たされるまでは

満たされない

ということですね。

 

それに対して

真本音の願いにはゴールは

ありませんが、

ゴールがなくても

満たされている

のです。

 

なぜなら、

真本音の願いとは

その願いを持つこと自体で

満たされるからです。

 

そしてさらに、

その願いに向かって

一歩ずつ進むだけで

その一歩一歩で

満たされるからです。

 

満たされるからと言って

じゃあ終わりにしよう

とはなりません。

 

満たされても

満たされなくても

さらに進みたくなるのが

真本音の願いです。

 

そして、

最初から満たされているけれども

一歩ずつ進めば進むほど

さらに満たされ感は

増していきます。

 

100%だと思っていた

満たされ感が

進めば進むほど、さらに

高まります。

120%にも、200%にも

1000%にも

100万%にも。

 

実際に私のクライアントである

ある社長さんは、

真本音の願いに気づいてからの

ご自分の経営の満足度について

「100万%です」

と笑いながらお答えに

なりました。

 

100万%です、とは

言いながらも、

それでも、

まだまだ足りない表現かな、

と思ってしまいます。

要するに、

数字で表すことができないレベルの

満たされ感が

あるのです。

 

私はこれを

「魂の満足」

と表現します。

 

心の満足と

魂の満足は

まったく次元の異なる

ものです。

 

魂の満足は

それを得ることで

歩みが止まるものでは

ありません。

 

それを得ることで

ますます

前に進もうという意欲と

エネルギーが

湧いてきます。

内側から。

 

私はそれを

「内発的モチベーション」

とも呼んでいます。

 

それは

私達の魂からもたらされる

動機付けです。

 

さて。

 

魂に動機付けされた人は

どうなるかと言いますと、

まずは、

「出会い」が変わってきます。

 

真本音の願いは、

他の人の真本音の願いと

共鳴します。

 

いえ、

それは「共鳴」と言うよりも

「共振」

と言った方が正確でしょう。

 

共振し合った人同士が

必然的に出会い、

出会った瞬間から

それは「共感」を生みます。

 

出会ったばかりで

まだお互いのことを

ほとんど何も知らないのに、

なぜか

お互いのことが

理解し合える。

 

何の説明も解説も

必要とせずに、

ただ一緒にいるだけで

もう、

わかり合えている「感覚」

がある。

 

そのような出会いが

多発します。

 

自分が

真本音の願いで生きているか

どうか?

をチェックする最も

簡単な方法が、

そういった出会いが今、

増えているかどうか?

をみることです。

 

最近、出会い自体は多いけど、

本当に共振し合える人は

どうだろうか?

 

そんな視点で

観てみてください。

 

何かを説明しなければ

わかり合えない人が多ければ

それはその人が悪い

のではなく、

自分自身に問題があります。

 

満たされないものを

満たすための動きを

自分はしていないか?

 

と、自分に問うてみてください。

 

もちろん私達は人間ですから、

満たされないものを満たす

ための動きはすればよいです。

 

しかし同時に

それにより、私の魂は

本当に悦んでいるか?

 

とも問うてみてください。

 

以前のブログにも

書かせていただきましたが、

真本音と反応本音は

どちらが正しいか?ではなく、

「つながり合う」関係です。

つまり、

真本音という上司が

反応本音という部下を

「活かす」

という関係です。

 

満たされないものを満たそう

とするその願いの奥に、

魂の願いが宿っているか?

を問うてみてください。

 

その問いに対して

理屈で答える必要は

ありません。

 

自分自身に問うた時に、

スッキリと迷いなく

あぁ何となく今の私は

自分の魂の願いを大切に

できているな、

と思えれば、問題はありません。

 

思えなければ、

もう一度、心を静かにして

内省をしてください。

 

満たされるとか

満たされないとか、

そういったこととは関係なく、

私が願い続けていることは

何だろうか?

 

と、静かに自分に問い、

静かに自分と

向かい合ってみてください。

 

さて、

では真本音の願いを見つける

最も簡単な方法とは

何でしょうか?

 

その辺りのことを

次回以降に書かせて

いただきます。

 

つづく

 

その願いは、自由をもたらす?

てんでバラバラな記事を

書いているように

思われるかもしれませんが、

ここのところのこのブログの記事の

すべての根底に流れている

テーマがあります。

 

それは、

「自由」

です。

(→【あなたは自由に生きていますか?】)

 

自由とは何か?

 

自由を阻害するものは何か?

 

真に自由になるために

必要なものとは何か?

 

真に自由になるために

どうすればよいか?

 

これらの問いが

すべての根底にありつつも、

様々な視点から

書かせていただいています。

 

もう一度、この辺りで

それを思い出していただくと

よいかなと思いました。

 

今回も

そんな視点からの

お話です。

 

さて。

 

人間とは何でしょうか?

 

・・・と問われたと

します。

 

私は、

人間と向き合い続ける

お仕事をさせていただいて

いますので、

毎日のようにこの問いと

向かい合っています。

 

これまで、様々な視点から

様々な答えを

見出すことができましたが、

この問いに関しては、

「これがベストアンサーだ」

という結論は出さない方が

よいと思っています。

 

その方が

もっともっと人間探究を

楽しめます。

 

その前提のもとで、

その問いについての

ある視点からの一つの答え

(あくまで私が実感した答え)

を申し上げます。

それは、

人間とは、

 

『願いのカタチ』

 

である。

・・・ということです。

 

「願いが服を着て歩いている」

のが人間である、と。

 

ただしその願いには

いろいろな願いが

あります。

 

私の言葉で表現すれば、

真本音の願いもあれば、

反応本音の願いも

あります。

 

どのような願いだとしても、

私達人間は、

 

「願いの一点」

 

を決めています。

 

つまり、

今の自分は、

今日の自分は、

どの「願い」のために

生きるか?

ということを無意識に

決めています。

 

そしてそれを

自分の「中心」として、

すべての言動を

無意識に

自分で決めています。

 

願いの一点を決めずに

日々を生きている人は

私が実感する限りでは

一人もいません。

 

ですから、

次の問いが非常に

重要だと思うのです。

 

「私は今、

どのような願いの一点を

中心にして

生きているのだろうか?」

 

ここが、

反応本音の願いだとしたら、

その人の心の中には

残念ながら

ストレスが湧き続けます。

 

真本音の願いだとしたら、

その人は

中心からパワーが

湧き続けます。

 

そういった

単純明快な法則が

あります。

 

反応本音の願いとは、

「満たされないものを

満たそうとする願い」

です。

 

ですのでそれは、

「枯渇した中で湧く願い」

です。

 

枯渇した中で

湧きますから、

多くの場合それは結果として

周りの人から

「何かを奪う」

願いとなります。

 

そういった人と一緒にいると、

単純に、

パワーを奪われ続けます。

 

あの人と一緒にいると

疲れる。

 

あの人と一緒にいると

苦しい、辛い。

 

あの人と一緒に

いたくない。

 

そんな印象を持ってしまう人の

中心には

そういった「枯渇した中で湧く願い」

が設定されています。

 

そして、

周りからパワーを奪い続けて

いることを、

一番よくわかっているのは

その人自身です。

 

ですからその人は

無意識のレベルで

自分を責め続けます。

つまり、

罪悪感というやつです。

 

罪悪感とは、

自分で自分を

傷つける行為と同じです。

 

ですからずっと

ストレスが湧き続け、

その人自身も

パワーが減退します。

 

つまり、

パワーを奪っているのに、

自分からもパワーが

奪われ続ける、

という状態に入っています。

 

で、ますます枯渇し、

ますます人からパワーを

奪おうとします。

 

その悪循環。

 

それを引き起こしてしまうのが

反応本音の願いを

中心に置く生き方です。

 

それに対して

真本音の願いとは

それ自体が

自分自身にパワーを

与えます。

 

願いが叶っているかどうか?

ではなく、

その願いを持つこと自体で

パワーが宿るのです。

 

そしてそのパワーは

周りに伝播します。

 

真本音の願いを

中心に生きている人と

一緒にいると、

誰もが元気になります。

 

あの人ともっともっと

一緒にいたいな、と

本能的に思うようになります。

 

さて、

どちらが

自由な人生となるでしょうか?

 

言わずもがな

ですね。

 

では、

真本音の願いとは

どんなものか?

を、もう少し詳しく見て

いきましょうか。

 

つづく

 

愚かでもいいじゃないか

すべての人の中に

愚かさはあります。

 

自分の愚かさを

一番わかっているのは

自分自身だと

言えるでしょう。

 

しかし、

愚かさが限度を超えてしまうと

私達は

自分の愚かさに

フタをします。

 

愚かさに

向き合えなく

なるのです。

 

自分は愚かではない。

自分は愚かではない。

自分は間違ってはいない。

自分は間違ってはいない。

自分は精一杯やっている。

自分は精一杯やっている。

・・・・

 

必死に自分に

言い聞かせるようになります。

 

愚かさを見ずに

前向きに

行こうとする。

 

本当のことを言えば、

これこそが最も

愚かなことです。

 

自分の愚かさにフタをして

前向きに生きる人は、

ほんのわずかな成果に

焦点をいつも当て、

ほんのわずかな成果を

クローズアップさせ、

そこで自己満足します。

 

その成果の影で、

いったいどれだけの人に

迷惑をかけているか、

いったいどれだけ多くの

悪影響を

周りに与え続けているか、

には

まったく目を向けません。

 

残念ながら、

そういう人からは

周りの人の心は離れていきます。

 

しかし誰もその人に

「あなたは愚かだよ」

とは言ってはくれません。

なぜなら、

何を言ってもこの人には

届かないだろう、と

皆、あきらめているからです。

 

孤立無援。

 

愚かさにフタをして

前向きに生きている

つもりになっている人を見ると

私はいつも

この言葉が浮かびます。

 

私達の真本音(魂)は、

自分の愚かさを

責めることは

いっさいありません。

 

「愚かだから自分は

ダメな人間だ」

と自分を評価することも

いっさいありません。

 

真本音(魂)は

ただただ、

あらゆる自分を

見つめ続けます。

 

あるがままの自分を

見つめ続けます。

 

時々、次のような

お声をいただきます。

 

「真本音を大事に

生き始めたら、

自分の愚かさが

どんどんクローズアップされて

苦しくなった」

と。

 

恐らくその人は、

自分の愚かさに

フタをしていたのでしょう。

 

しかし真本音で

生きるようになって、

心の安定度合いが

一気に高まったのでしょう。

 

心が安定したことで、

愚かさと向き合おうと、

無意識に決意を

されたのでしょう。

 

そして、

フタを取り払った

のでしょう。

 

フタの奥から溢れる

愚かさの数々。

 

フタをする度合いが

高ければ高いほど、

その苦しみは

大きくなります。

 

しかし、

これまではただ

フタをしていただけであって

本当はその人は

その苦しみと共に

ずっと生き続けていたはずです。

 

つまり、

麻痺していた苦しみが

顕在化しただけのこと。

 

ですが、

顕在化することで、

すべての苦しみは

徐々に浄化されていきます。

 

自らの愚かさと

向き合う人を私はいつも

「美しいな」

と感動してみています。

 

自らの愚かさと

向き合う人は

自分以外の人々の

愚かさとも

向き合うことができ、

自分以外の人々の愚かさを

許すことができます。

 

人の大きさとは、

自分自身の愚かさと

向き合った度合いで

決まるのではないか、と

私はよく思います。

 

人は

愚かなもの。

 

愚かな部分を

持っているもの。

 

でも、人は

それだけではありません。

 

様々なものを

持つのが

私達人間です。

 

性善説とか性悪説とか

そういったものを超えて、

あらゆるものを

包含できるのが

人としての尊厳であり

人としての凄みです。

 

人は皆、

大きいのです。

 

本当は。

 

でも、

本当は大きいはずの自分を

小さくしてしまうのが、

自分の愚かさを認めないこと、

自分の愚かさにフタをすること、

自分の愚かさから逃げること、

です。

 

人は

小さくなってしまうと

自分自身の真本音すら

信じられなくなります。

 

そして、

愚かさにフタをするのと

同じように、

真本音にも

フタをしてしまいます。

 

真本音は

そのような自分に対しても

抗うことはしません。

 

フタをされたままの状態で、

再びフタを開けてもらえるのを

ただただ

じっと待っています。

 

愚かでも

いいじゃないですか。

 

ダメダメな自分でも

いいじゃないですか。

 

私達が持っている

最大の力の一つは

「向き合う力」

です。

 

あるがままの自分と

しっかりと

向き合ってほしいな、と

私はいつも切に

祈っています。

 

つづく

 

本当に望む未来を描くには

今、自分は確かな道を

歩んでいる。

 

・・・という実感は、

未来が見通せているから

得られる、

というわけではありません。

 

むしろ私達の真本音

(真本音のことをあえて

魂と表現します。

あえて、ですが・・・)

私達の魂は、

わざと自分自身に

「未来を見せない」

ということをするケースが

多いです。

 

なぜなら、

私達に「準備」ができていない

からです。

 

「準備」が完了しないうちに、

もし私達が「未来」を

観てしまったら、

どうなるでしょうか?

 

多くの場合、

私達はその「未来」に

縛られることになります。

 

「未来」が

プレッシャーになります。

 

もしくは、

「未来」と今のギャップの大きさに

無気力になってしまう

かもしれません。

 

私達が真本音(魂)で

決めている「未来」は、

準備ができた時点で

「徐々に」

観えてきます。

 

つまり

「段階」があるのです。

 

一つの準備が完了すれば、

一つ、未来へのヒントが

わかります。

 

そしてもう一つ次の準備が

整えば、

未来像がより具体的になります。

 

さらにまた次の準備が

整えば、

さらにまた未来の姿が

明確になります。

 

・・・というように、

自分自身の準備には

ステップがあり、

そのステップに応じるかのように

未来が「徐々に」

観えてきます。

 

それを真本音(魂)は

意図的に行なっています。

 

よく、こんな声を

聴きます。

 

「私はどうしても未来を

描けません。

どう描いても、ピンときません。

違和感ばかりで、

未来を描く気になりません」

と。

 

それはまだ

未来を観るだけの準備が

整っていないのです。

 

私も自分自身の

人生のビジョンが浮かぶまでは

だいぶ時間がかかりました。

 

本当の意味での

私の人生のゴール(と決めていること)

がわかったのは、

たったの3年前です。

 

「わかった」と言っても

まだまだ抽象的です。

 

すべてが明確に

観えているわけでは

ありません。

 

でもそれで充分です。

 

必要な時に

必要な未来は

必ずわかるからです。

 

それよりも大切なのは、

「必要な時に

必要な未来が

ちゃんとわかる自分で

あること」

です。

 

人によっては

「準備」が一生整わない

というケースもあります。

 

いえ、実は

そんな人が圧倒的

多数です。

 

もしくは、

「準備」は整っているのに

未来を観ることができない

人もいます。

 

「必要な時に必要な未来が

ちゃんとわかる自分になる」

ためには、

必須なことが

一つ、あります。

 

それは言葉を換えれば、

 

「どんな人が

自分が本当に決めている

未来(ビジョン)に

気づくことができるか?」

 

という問いの答えです。

 

その答えは

単純明快です。

 

「今を大切に

生きている人」

 

です。

 

では、

「今を大切に生きる」

とは、

どういうことでしょうか?

 

これも

単純明快です。

 

「自分の本当に望む生き方を

今この瞬間に

大切にする」

ということです。

 

「今」とは、

この3次元の世界においては

唯一の「現実」です。

過去も未来も、

「現実」ではありません。

私達の頭の中にあること

です。

 

自分を大切にするとは、

「現実の自分」を

大切にすること。

人生を大切にするとは、

「現実の人生」を

大切にすること。

 

それはつまり、

唯一の現実である

「今」を大切にすること。

 

・・・私達の真本音(魂)は

そのように捉えてます。

 

どれだけ

未来を大切にしようと

思っていても、

今を大切にしない人は

一生、未来を大切にすることは

できないのです。

だって、

今の積み重ねが未来を

創るのですから。

 

今を大切にできる人が

未来を大切にできる。

そして、

今、望む生き方のできる人が

望む未来を実現できる。

 

そんな「事実」を

私達の真本音(魂)は

大切にしています。

 

「人生のあらゆる場面において

今、大切にしたい生き方」

のことを

私は、「人生理念」と

呼んでいます。

 

それは、

「今この瞬間に、

私は本当はどんな生き方を

したいか?」

の、その人その人の

真本音の答えです。

 

魂が望んでいる

答えです。

 

私はそれを

シンプルに言語化

することを

お勧めしています。

 

言葉として表すことは

有意義です。

 

それがもし

真本音(魂)から浮かび上がる

言葉であれば、

その言葉そのものに

深いパワーが宿るからです。

 

その言葉を

心の中でつぶやくだけで、

シュッと「本来の自分」に戻れる、

・・・そんなパワーが

宿ります。

 

そして、

その「人生理念」を

自分自身の心の中心に

いつも置いておくのです。

 

つまり、

魂の望む生き方を

心の中心に据えるのです。

 

それにより、

「今を大切にする度合い」は

圧倒的に高まります。

 

真本音度合いも

圧倒的に高まります。

 

そして、

その状態でいつも楽しく

未来を描くのです。

 

未来を描こうと

するのです。

 

すると、

必要な時に必要な未来が

自分の中心から

湧き上がってきます。

 

それは

頭で無理矢理に考える

ものではありません。

 

それはもう

私達の中にすでに

存在していますから、

必然的に

浮かび上がってくるのです。

「徐々に」

ではありますが。

 

たとえ

未来がわからなくとも、

今を大切に生きていれば、

「今の私は望む未来に

着実に向かっている」

という確信に

満ちてきます。

 

「今と未来のつながり」

を実感できます。

 

それはとても

気持ちのよいこと。

 

未来を見通せるから

確信が起こるのでは

ありません。

 

今を大切にするからこそ

未来への確信が

自然に生み出されるのです。

 

つづく

 

あなたの魂は怒ってませんか?

『反応本音』。

 

・・・真本音に対する言葉として

私はよく使います。

 

外からの影響により、

その反応として

出来上がる私達の心。

 

それが反応本音です。

 

反応として

出来上がりますので、

それは基本的には

弱いものです。

 

不安定です。

 

しかし、これは

私達の心の表面に常に

現れ続けますので、

反応本音そのものを

自分である、

という認識をしている人が

多いです。

 

もしくは、

反応本音のパターンを

「これが私である」

と思い込んでいる人も。

 

ただ、

いつもこういった書き方を

しますので、

反応本音は良くないものだ、

とか、

薄っぺらいものだ、

とか、

レベルの低いものだ、

とか、

そんな印象を持ってしまうかも

しれませんね。

 

ですからあえて申しますが、

反応本音とは

私達人間にとって

なくてはならないものであり、

宝でもあります。

 

反応本音があるが故に

私達は

人としての幸せを

感じることができます。

 

反応本音があるが故に

現実とより深く

関わり合うことができます。

 

反応本音があるが故に

真本音が活きる

のです。

 

もともと

反応本音とは、

現実世界において

真本音で生きやすいように

という目的のために

私達の真本音が自ら

発生させているものです。

 

私達は

真本音のみでは

この現実世界は

生きられません。

 

真本音と反応本音の

コラボによって初めて

生きる(活きる)ことが

できます。

 

ちょっと

わかりづらいですか?

 

ではあえて、

反応本音を「心」、

真本音を「魂」、

という言葉に

置き換えてみます。

(本当はちょっと短絡的な

置き換え方ですが。)

 

私達はこの現実世界では

魂のみでは

生きられないのです。

 

魂と心が

結びついて初めて

この世での

成長が成り立ちます。

 

今、目の前に一つの

現実があり、

その現実に対して

「どのような心で

関わって行こうか?」

を魂が決めるのです。

 

つまり、

魂が上司で

心が部下のようなもの

ですね。

 

魂が心を

活かすのです。

 

つまり、

真本音が

反応本音を活かす

のです。

 

反応本音は、

現実世界における経験によって

次々に生み出されます。

 

つまり、

経験を積めば積むほど

反応本音のバリエーションが

増えます。

 

その増えたバリエーションの中で

「今回は、どの反応本音に

活躍してもらおうかな」

ということを

真本音が決めるわけです。

 

つまり、

真本音と反応本音は

セットなのです。

 

それが

本来の姿です。

 

ところが、

反応本音が増え過ぎると

私達は

肝心要の真本音を

忘れてしまいます。

 

自分自身の真本音を

無視するように

なってしまいます。

 

すると、

真本音のないままで、

もしくは、

真本音にフタをした状態で、

反応本音のみで

現実に関わるようになります。

 

それにより、

現実も自分自身も

おかしなことに

なっていきます。

 

本来は

真本音と反応本音はセット

なのに、

真本音を忘れて

反応本音のみで

生きてしまう。

 

言い換えれば、

本来は

魂と心はセットなのに、

魂の意思を忘れて

その時その時の心の意思

のみで生きてしまう。

 

それにより、

その人の人生の一貫性は

失われ、

いったい何のために

自分は生まれてきたのか?

何のための

人生だったのか?

を忘れた状態で

ただただ惰性で生きていく、

ということになります。

 

その状態を実は、

最も嫌うのが

私達の真本音であり、

魂です。

 

ですので、

真本音(魂)は怒ってしまいます。

(喩えです。)

 

怒ってしまった結果として

真本音(魂)は

隠れてしまいます。

(これも喩えです。)

 

それにより、

「中心」を失った私達は

非常に不安定となります。

 

ストレスも

大量発生します。

 

残念ながら、

そういった状態になっている人が

とても多いのが

今の世の中です。

 

「中心」がないのは

とても不安であり

不安定ですので、

私達はとりあえずの「中心」を

無理矢理に自分に

設定します。

無意識に。

 

その多くは

反応本音による「中心」です。

 

本来は

真本音が「中心」に

来るはずなのですが、

それとは別の「中心」を

無理矢理に「中心」と

してしまうのです。

 

それでますます

真本音(魂)は怒り、

ますますストレスが発生し、

ますます、

自分がわからなくなります。

 

それも、

今の世の中の多くの人の

傾向です。

 

ですから、

「中心」を本来のものに

戻さなければなりません。

 

きちんと、

自らの真本音に

「中心」になってもらうのです。

 

それにより初めて、

私達は

「本来の自分」

を取り戻します。

 

逆に言えば、

「中心」を本来に戻さずして

私達に安定は

訪れません。

 

本来の「中心」ではないままで

自分を変えようとしても

それは難しい相談です。

 

たとえ自分が変わったとしても

本来の「中心」でないならば、

どのような自分に変わっても

不安定さは変わりません。

 

真本音中心の自分に

戻ること。

 

それにより、

あらゆる反応本音達も

生きて(活きて)きます。

 

自分自身が

活きて来るのです。

 

ですから私のサポートは

まずは

「中心を変える」

つまり、

「中心を真本音に戻す」

ところから始まります。

 

そこから始めるのが

最も簡単で、

最も楽だからです。

 

つづく

 

私の心は私のことを何も知らない

私とは何者か?

 

・・・を自分の心に問うても、

その答えは

永遠に出て来ません。

 

なぜなら

私達の心の中には

その答えは

ないからです。

 

私達の心とは、

外部との接触の中で

その「反応」として

創り上げられるもの

です。

 

つまり、

「経験」によって

生み出されるもの。

 

これこれこういう経験を

積み重ねたことにより、

これこれこういう反応の

パターンができあがった。

 

・・・というもの。

 

それはあくまでも

「反応のパターン」

でしかありません。

 

ところがその

反応のパターンを

私達は

「自分である」

と思い込みます。

 

こういう時には

こういう反応の仕方をするのが

自分である、

という認識です。

 

しかしそれは

どこまで行っても

反応のパターンでしか

ありません。

 

「私」でも「自分」でも

ありません。

 

ところが私達は

その「反応のパターン」の中に

「私とは何者か?」

の答えを見出そうと

します。

 

ですから、真の答えに

行き着くことが

できません。

 

反応のパターンは

反応のパターン。

それは

「私」ではないからです。

 

心で考えても

答えが出ない。

 

であれば、いったい

私達はどうすれば

よいのでしょうか?

 

実は・・・。

 

「私」というものは

本来はありません。

 

いやいやいや。

 

私はここにいるし、

私は私だし。

 

ちゃんと個人としての

私が存在するではないか。

 

それを否定しては

何も進まないではないか。

 

・・・普通は

そう思いますね。

 

でもまぁ、

ちょっとお付き合い

ください。

 

「私」は

ないのです。

 

便宜上、

私達は「私」を

カタチ創っている

だけのことです。

 

かと言って、

その「私」に価値がない

わけではありません。

価値があるからこそ、

あえて「私」を

創っているのです。

 

「私」を創ることで

「あなた」が

できます。

 

「あなた」ができることで、

「私とあなた以外」も

できます。

 

すべてが

分離します。

 

すべての

区別が始まります。

 

分離と区別をして

初めて

得られるものがあります。

 

それが

「進化」

です。

 

私達は進化を

したがっています。

 

だから、

「私」と「あなた」と

「私とあなた以外」を

分離させました。

 

分離することで

起こるのは

すれ違い

です。

 

不理解であり、

誤解であり、

拒絶であり、

否定です。

 

別物であるからこそ

初めて発生する

それら。

 

それらを乗り越えて

また

「一つ」に戻ろうとする。

その過程を経てこそ、

「進化」は

実現します。

 

別物が

一つになろうとする時に

発生するエネルギーが

あります。

 

それを

「愛」

と呼びます。

 

「愛」とは

進化のために必要な

エネルギーです。

 

私とは何者か?

 

この答えをもし本当に

知りたいと思うのであれば、

「すべてが一つ」である自分を

思い出す以外に

方法はありません。

 

分離された「私」

だけでものを考えても

決して到達できない

答えなのです。

 

あぁそうか。

「私」と「あなた」は

一つなんだ。

 

「私」は「あなた」であり、

「あなた」は「私」であり、

「私」と「あなた」は

「私とあなた以外のもの」

でもあるんだ。

 

・・・ということを

理屈ではなく、

実感としてわかること。

 

その「真理」を

「当たり前のことだ」と

思い出すこと。

 

その状態になって初めて

私達は

「私は何者か?」

を本質理解できます。

 

そして、

人生における

「私の為すべきこと」と

「私の成すべきこと」を

知ることができます。

 

何のために生きればよいか?

そして、

何を目指して生きればよいか?

を、

まったく惑うことなく

決めることができます。

 

「すべては一つ」であり、

「すべては私」である、

ということ。

そして、

その上で

「この分離した私がここにいて」

「分離した私だからこそ

できることがある」

ということ。

 

それらをすべて

完全理解した自分から

発せられるあらゆる

願い・想い・意志・意思・・・。

 

それを私は

『真本音』

と呼んでいるのです。

 

つづく

 

本当は決めていることがあるでしょ?

自分の人生の道が

最初から決まっていたとしたら、

皆さんはそこに

不自由さを感じますか?

 

決められたレールの上を

進む人生なんてまっぴらだ!

と思いますか?

 

それとも、

自分で自分の人生のレールを

決めることができるのであれば、

それは自由だな、と

思いますか?

 

人生は変化します。

 

人生は自分一人で

進められるものでは

ないからです。

 

状況は刻一刻と変化し、

自分に降りかかる現実も

刻一刻と変化します。

 

想定外のことが起こるのは

普通のことで、

想定外であることが

想定内だと言っても

よいくらいなのが、

この世における人生です。

 

自分が予測した通りの

人生を最後まで

歩み通したという人は

まず、いないでしょう。

 

人生は予測不能で、

自ら、状況を見ながら

一歩ずつ

創り上げていくものです。

 

予測不能で

想定外で

右往左往することを、

あえて一言で

「試行錯誤」

と表現するとします。

 

すると、

人生は試行錯誤の連続である

と言うこともできます。

 

しかし。

 

その試行錯誤のすべてが

もともと自分が

決めていたことであると

したら・・・。

 

皆さんは、

どのようにお感じに

なるでしょうか。

 

人が本当に

自由に生きる、とは、

その、あらかじめ決めていた

試行錯誤を

その通りに生きることである、

としたら、

どう、お感じになるでしょうか。

 

未来は、

本当に観えませんか?

 

もちろん、

観えませんね。

 

でも、本当に

未来は観えませんか?

 

本当の本当は

観えるのでは

ありませんか?

 

それが私達人間

ではありませんか?

 

未来が観えるからこそ、

私達には

「確信」が働くのでは

ありませんか?

 

未来が観えるからこそ、

根拠のない自信が

湧き起こることが

あるのではありませんか?

 

私達はもう、

すべてを知っている。

 

自分の道も。

 

自分の未来も。

 

人の道も。

 

人の未来も。

 

すべてを知った上で、

ここにいるのでは

ありませんか?

 

道が決まっていることは

自由ですか?

 

それとも

不自由ですか?

 

すべてが決まっている上での

試行錯誤は、

無駄だと思いますか?

 

抵抗がありますか?

 

それともそれを知ることで

楽になりますか?

 

未来がわかることで、

私は、

人生の99%以上の醍醐味は

失われると

思っています。

 

だから私は

未来を知りたくは

ありません。

 

ですので、

未来がわからないように

しています。

 

でもその一方で

思うのです。

 

「未来をわからないようにする」

という自分の意思を

外してしまえば、

きっとすべてがわかってしまうの

だろうな、と。

 

すべて、

自分自身で行なっている

ことなのだろうと、

どこかでよくわかっています。

 

私は人生を

楽しんでいます。

 

思わぬ出会いがあり、

思わぬ展開があり、

自分の想定外の現実が

起こることを、

心の底から

楽しんでいます。

 

そうやって

人生を味わっています。

 

それが人としての

幸せだからです。

 

そうです。

 

意図して、

そうしているのです。

 

私だけではありません。

 

すべての人が

そうです。

 

人生は

苦しいですか?

 

人生を

早くやめてしまいたいですか?

 

私は本気で

そう思ったことは

何度もあります。

 

でもそれも含めて、

私は人生を

味わっているのだと、

ある時に

気づいたのです。

 

人生という

ステージの上で

演じる自分。

 

それを監督として

ステージの外側から

見つめる自分。

 

両方の自分が

いませんか?

 

物語は、

最初から決まっている。

 

しかし、

演じているステージ上の自分は

それを忘れるくらいに

没頭している。

 

それが、

人生ではありませんか?

 

すべてをわかった上で

自分自身を見つめる

自分がいます。

 

それを

『真我』

と呼ぶ人もいます。

 

真本音とは、

「真我の意思」

と言ってもよいのかも

しれません。

 

人は

真我の意思を思い出せば、

すべてが変わり始めます。

 

「自分を変える」

ことよりも、

「真我の意思を思い出す」

方が、100倍も楽です。

 

私のさせていただいている

サポートとは、

要するにそういうことなんだと

最近、つくづく思います。

 

つづく

実は最も楽なのは、根本を変えること

自然の摂理という視点から

観たとき、

私達は、大河の流れに

身を委ねるということが

人として大切なことであり、

それが「自由」につながることである

ということを

昨日、書かせていただきました。

 

流れに身を委ねることで、

今度は

私達自身が自らの

流れを創り出すことが

できます。

 

自らの流れ。

 

・・・それは

「循環」

です。

 

私達が「生きる」ということは、

私達自身が何かを

「発想」

し、

その発想に基づき、

「行動」

し、

その行動によって何らかの

「結果」

を得る、ということです。

 

「結果」という言葉を

「現実」という言葉に

置き換えることもできます。

 

発想して、

行動して、

結果(現実)を得ることを、

一言で

「経験」

と言います。

 

「経験」により、私達は

次の「発想」をします。

 

「経験」により

次の「発想」に影響が

及びます。

 

そしてその「発想」により、

それがまた次の

「行動」につながります。

 

発想、行動、結果(現実)、

そして、

次の発想、行動、結果(現実)

そして、

次の発想、行動、結果(現実)

・・・・

この「循環」を私達は絶え間なく

続けています。

 

ところが

「循環」には、

その「循環」そのものに

力が宿ります。

 

「循環」を回すうちに、

慣性力が働き、

私達が意図しなくとも

ある時から勝手に

その「循環」が回り続けるように

なります。

 

それはまるで、

自転車を漕ぎ出したら、

スピードに乗った後は、

勝手に自転車が前に進むのと

同じようなものです。

 

すると、その

勝手に回り出した「循環」が

その人の人生のパターンと

なります。

 

それが固定観念を

生みます。

つまり、

「これが人生というものだ」

という固定観念、

「これが私という人間だ」

という固定観念です。

 

その固定観念が

その人にとっては

「真実」となります。

 

するとその人は

ある時からその「真実」に

基づき、

さらにその「循環」を

同じように回し続けるように

なります。

 

こうして、

その人の人生や

個性が

形作られていきます。

 

でもこれは果たして、

「自由」

と呼べるものでしょうか?

 

自ら生み出した流れ、

自ら生み出した循環。

 

その中から

出ることができない・・・。

 

年齢を重ねるということは

そういった自分なりの人生、

自分なりの真実を

固定化させることである、

という思い込みも

世の中には蔓延しています。

 

年齢を重ねるに従って、

私達はどんどん

自らの創り出した循環のパターンに

呑み込まれていく。

 

これはやはり、

自由ではないですね。

 

人生を変える

ということは、

本当は、

実に容易いことです。

 

自ら創り出している循環を

変えるだけのこと

なのですから。

 

ほんの一つの発想、

ほんの一つの行動を

変えるだけで、

人生は劇的に

変わっていきます。

 

その事実を

あまりにも多くの人が

知りませんし、

信じていません。

 

しかし、

信じていないものを

「信じなさい」

と言って、

他者がその人を変えることも

ほぼ、不可能です。

 

洗脳というものも

ありますが、

あれは、本当は

本人が洗脳されたがっている

という理由があります。

 

それも本人の選び出している

循環の中の

一つの現象に過ぎません。

 

私達は結局は

自らの意志で生きています。

 

もちろん、

あまりに理不尽な環境に

生まれ、

自らの意志、という概念すら

わからない人も

世界中にはたくさんいます。

 

でも、

それでもやはり私達は

自らの意志で

自らの循環を創り出して、

その中で生きています。

 

その循環を変えることが

できるのは

本人だけです。

 

それこそが

人の真実。

 

ですから

循環を変える方法は

たったの一つです。

 

本人が

「変えよう」

とすることです。

 

いえ、

正確に言えば

「変えよう」と思っているうちは

まだその循環に

捕らわれています。

ですから、

なかなか変わりません。

 

私が

私自身の経験と、

多くの方々と向き合いながら

実感することができた、

循環を変えるための

最大最善の方法があります。

 

それは、

 

「循環の原点を変える」

 

ことです。

 

原点を変えても実は、

循環そのものは

これまでと同じように

回り続けます。

 

しかし、

原点が変わることで

本人が気づかないうちに、

つまり

本人が「変えよう」としなくても

ある時は、徐々に

ある時は、劇的に

循環は変質します。

 

もちろん

「原点を変える」こと自体は

その人の意志です。

 

実は・・・。

 

表面上の循環を

変えることよりも、

原点を変える方が

簡単なのです。

 

一番簡単なところを

変える。

 

それが「原点」。

 

原点を変えることで

知らぬ間に循環が変わる。

 

・・・これが私のサポートの

本質です。

 

ではその

「原点」とは何か?

 

「原点」を変えるとは

どういうことか?

 

について、

次回以降に書かせて

いただきます。

 

つづく

 

自由は摂理の中でこそ

本当の自由を手に入れる

ためには、

委ねることです。

 

流れに委ねる

ことです。

 

私達人間は、

自然の摂理の中で

生きています。

 

自然が人を生んだ

とも言えますし、

人が自然を選んだ

とも言えます。

 

人と自然は

イコールです。

 

まずはその

厳然たる事実が

あります。

 

人と自然がイコールで

ある以上、

自然の摂理を無視することは

私達人間からあらゆる自由を

奪います。

 

私達は、

船に乗っている存在

であると

イメージすると

わかりやすいでしょう。

 

私達の目の前には

悠久の時を流れる

大河があります。

 

その大河の流れに乗り、

上流から下流へと

流れて行くことを

進化と言います。

 

進化の先には

無限に広がる海が

あります。

 

私達は

海にたどり着きたい

のです。

 

それが人の本能であり、

人という存在が生まれた

意味でもあります。

 

私達は船を

持っています。

 

船は、

大河の流れに乗らなければ

進むことはできません。

 

岸にいても

永遠に進むことは

できません。

 

岸にい続けることが

自由である、と

叫ぶ人もいますが、

同じ場所にいることを

私達人間は

本当に望まないのです。

 

私達は

旅する存在。

 

進む存在。

 

流れに乗って

前に進むことで初めて

その船は

活きてきます。

 

中には

流れに逆行することが

自由であると

言い張る人もいます。

 

しかし

どれだけ踏ん張ろうとも

船は、

上流から下流へとしか

移動できません。

 

それを

不自由というのは

あまりに勝手です。

なぜなら、

船に乗ることを選んだのは

私達人間なのですから。

 

大河の流れは

非常に気持ちのよいものです。

 

心地よい風を受けながら、

力を抜けば

自然に船は

動き出します。

 

風景も徐々に

変わっていきます。

 

時には

急流もあるでしょう。

 

それはちょっとした

刺激であり冒険です。

 

緩急を織り交ぜながら

船は進みます。

 

大河に委ねることで

船は気持ちよく

進み続けます。

 

大河に委ねることで

その船は

安定します。

 

その船の上で

私達は何をしても

良いのです。

 

変わりゆく風景を

楽しみながら、

私達は船の上で

自由に自分の役割を

全うします。

 

船の上にいるからこそ

活きるのが

人間です。

 

人間とは

そのような存在として

生まれたのです。

 

人間としての喜びを

素直に感じようとする

その生き方が、

私達に

「本当に私は自由だなぁ」

という実感をもたらします。

 

そして・・・。

 

大河の流れは

時に、

変化します。

 

実は、今日、

2018年4月1日をもって

流れは大きく変化しました。

 

進む方向は

変わりませんが、

流れが

これまでとは別次元

と言っても良いほどに

速くなったのです。

 

その「速さ」に

ついていけるように

私達はこれまで

準備を続けてまいりました。

 

準備が整った

ということもあり、

大河は

その流れを

一気に速めました。

 

最初はちょっと

怖いかもしれません。

 

でもすぐに

慣れるでしょう。

 

そして以前よりも

このスピード感の方が

何倍も気持ちが良いと

わかるでしょう。

 

なぜなら、

私達には

私達の望むスピードが

あるからです。

 

実はまだ

そのスピードまでには

達していません。

 

しかし、

大きく、その望むスピードに

近づいたのは

確かです。

 

真本音で生きる人が

一気に増えてきた

その結果です。

 

大河の流れを

速めることのできた私達を

まずは、

誇ることにしましょう。

 

よくやったな、と

自分を褒めましょう。

 

そしてこの新たな

スピード感に

委ねましょう。

 

そうすれば、

さらに私達は

自由になれます。

 

流れは速まり、

船はさらに

盤石なものとなりました。

 

私達はさらに

自由になれます。

 

ですから、

自由にやりましょう。

 

自由に

やってください。

 

つづく

 

嫌いになるのは悪いこと?

私達人間には誰しも、

好き・嫌い

があります。

 

嫌いなものがあった場合、

それを

「好きになろう」

とする人がいます。

 

例えば、

嫌いな人がいたとしても

その人のことを

好きになろう、

とします。

 

そういった生き方をしている人を

見ると、

私は素直に、いいなぁ、と

思います。

 

が、その生き方を

無理にし過ぎている人にも

これまで多く出会いました。

 

無理にし過ぎることで、

その人は自分の中の

「嫌い」

という気持ちにフタをして

しまいます。

 

そんな気持ちはないのだと

自分で自分をごまかして

しまいます。

 

その上で、

「好きであろう」

としますので、かなり心に

無理が生じ、

その無理無理感が

おかしな空気を生みます。

 

その空気感は実は

誰もが感じ取っていて、

その人の

「好き」

は、実はとても不自然なものだと

誰もが薄々わかってしまいます。

 

「好きになろう」

という気持ちは大切ですが、

「好きであらねばならない」

までいってしまうのは

苦しいです。

 

そういった人を観ると私は

「不自由な人だなぁ」

と思います。

 

ちょっと極端に言いますが、

私は思うのです。

 

嫌いなのものは

嫌いでよいではないか。

 

・・・と。

 

「好きだ」

「嫌いだ」

という、自分から湧く

素直な気持ちは

人間として当たり前のものなので、

それはそれでよいではないか、

と。

 

そこを否定することは

人間そのものを否定して

しまっている気がします。

 

ただし、・・・ですが。

 

「嫌いなものは嫌いだから、

そこは避けて通る」

とか、

「嫌いな人とは接しない」

とか、

「嫌いなものはすべて

拒絶する」

とか、

そういった人も私は

「不自由な人だなぁ」

と思います。

 

そこには

「選択肢」

がないからです。

 

「嫌い」

だから、

関われない。

 

「嫌い」

だから、

離れずにはいられない。

 

「嫌い」

だから、

受け止められない。

 

というのは、

その選択肢でしか

生きられないということです。

 

つまり

「嫌い」なものに

翻弄されている。

 

自分以外の何かに

翻弄されている。

 

・・・ということ。

 

それは、

人生のハンドルを

自分以外の他の何かに

握られているということと

イコールです。

 

一つの視点から言えば、

私は、自由とは

「選択肢の多さ」

にあると思っています。

 

つまり、

選択肢が多ければ多いほど

自由である、と。

 

どのような環境においても、

どのような状況においても、

自分の選択肢を

たくさん創ることのできる人こそが

自由ではないか、と。

 

「嫌いだから、関われない」

というのは、

たった一つの選択肢しか

ありません。

 

その選択肢以外の選択肢を

得られるようにすることが

より自由になるということでは

ないでしょうか。

 

それを「問い」として表せば、

次のようになります。

 

もし何か嫌いなものに遭遇した

として、

 

「嫌いなことはわかった。

では、その嫌いなことに

私はどのように関わろうか?」

 

ということですね。

 

その関わり方に

多くの選択肢があればあるほど

自由です。

 

選択肢が多い、

ということはそれだけ

「最善の選択」

をしやすいということです。

 

選択肢が少ないと、

そこには

「妥協」

が発生しやすいです。

 

「妥協」とは

自分が本当は納得していない

答え。

 

「最善」とは

理想とは違いますが、

今の状況においてはこれが最高だな、

と自分で納得できている

答えです。

 

妥協の道ばかりを

行く人は

自由ではありません。

当然ですが。

 

最善の選択のできる人が

自由なのだと

私は思います。

 

真本音で生きる度合いが

高まると、

単純に言えば、

その、最善の選択の度合いが

高まります。

 

つまりは、

今、自分は何を

最善と思っているか?

が、

すぐに明確になります。

 

そういった人生は

楽ですし、

自由ですね。

 

つづく

 

本当の想いを見つける方法

両足を肩幅くらいに広げて

リラックスした状態で

立ってください。

 

全身の力を

できるだけ抜きます。

 

おへその奥の体の中心と

頭のてっぺんの中心を

結んでください。

 

それが

あなたの中心軸です。

 

その中心軸を、

下の下へと伸ばしてください。

 

ずっとずっと伸ばして、

地球の中心まで

到達させてください。

 

地球の中心と

つないでください。

 

それができたら今度は、

その中心軸を

頭より上の方に伸ばします。

 

上へ上へと伸ばして

宇宙まで到達してください。

 

宇宙とつながるイメージを

してください。

 

地球の中心と

宇宙をつなぐ

一直線。

 

その途上に

あなたは存在しています。

 

その一直線と

あなたの中心軸は

一致しています。

 

その状態で、

あなたが今、

立っている大地を

自由にイメージしてください。

 

あなたは今、

どのような大地に

立っていますか?

 

その大地が

あなたにとって

とても気持ちの良い

ものであれば、

OKです。

 

気持ちの良いもので

なければ、

いったんここで

終了です。

 

もう一度、

時間を置いてから、

改めて最初から

やり直してください。

 

気持ちの良い大地に

立っている自分を

イメージできた人は、

次に進みます。

 

今度は、

その大地を感じながら、

空を見上げます。

 

気持ちの良い

空ですか?

 

気持ちの良い空で

ない場合は、

残念ながら

時間を置いて

またやり直しです。

 

気持ちの良い空で

あれば、

次に進みます。

 

あなたは今、

気持ちの良い大地に

立ち、

気持ちの良い空を

見上げています。

 

その状態で、

あなたの心の中に

自然に浮かんでくる

あなたの想いを

空に向かって

叫んでみてください。

 

もちろん、

叫ぶと言っても

本当に叫ぶのではなく、

イメージの中で

叫べば結構です。

 

その叫びは

人によって

様々でしょう。

 

例えば、

自分の中に鬱積した

不満や不安や

憤りなどを

叫ぶ人もいるでしょう。

 

例えば、

自分の夢や希望や

未来への前向きな意志を

叫ぶ人もいるでしょう。

 

何でも結構です。

 

プラス指向でも

マイナス指向でも

何でも結構です。

 

心の中から

湧き上がる想いを

そのまま空に向かって

叫んでください。

 

一度叫び始めると、

次から次へと

叫びたい想いが

浮上してくることもあります。

 

そうなったらもう、

とことん

叫び続けてください。

 

もし時間がなければ、

時間を置いて

もう一度最初から

やってください。

 

落ち着いた時間に

自分の想いを

最後まで

叫び尽くすことが

大切です。

 

叫んで叫んで叫んで、

もう何も出なくなるまで

叫び続けてください。

 

どれだけ

長い時間がかかっても

大丈夫です。

 

もう何も出なくなるまで

叫び続けてください。

 

すべて

叫び終えた時、

今度は、

あなたの中心軸に

もう一度、

意識を向けてください。

 

中心軸の中で、

最も強く輝いている部分が

あるはずです。

 

それが見つかったら

そこに意識を

向けてください。

 

すると、

その光から

これまでの叫びとは

まったく異なる質の

想いが浮かび上がってくると

思います。

 

それは、

叫びではなく、

とても静かなもの。

 

しかし、

とても深く、

自然で、

力強いものです。

 

それが、あなたの

真本音の想い

です。

 

真本音の想いとは、

自分の中に存在する

あらゆる叫びを

出し切った後に、

それでもそこに残っている

ものです。

 

何がどうなっても、

どのような状況になっても、

ずっとそこに

あり続けるものです。

 

自分の想いを叫ぶことで、

私達は自分の想いを

成仏させることが

できます。

 

すべてを成仏させても

それでもなお

中心軸上で

変わらずにあり続ける想い。

 

それこそが、

真本音の想いです。

 

私達が

自由に生きるとは、

その、

真本音の想い

に素直に生きる

ということです。

 

反応本音の想いとは

残念ながら

状況が変われば

消えてしまいます。

 

叫べば、

成仏してしまいます。

 

そういった

消えてしまう可能性のある

想いに向かって生きるのは

自由

とは言えません。

 

その時は自由を

感じるかもしれませんが、

必ずそれは

後悔を生んでしまいます。

 

自分の中に

永遠にあり続ける想い。

 

それを存分に

大切にする。

 

それが、

本当の自由への

第一歩です。

 

つづく

 

絶対に自由になれない方法とは

昨日、お書きしたように、

ここしばらくは

「自由」

というテーマで記事を

書いてみたいと思っています。

(→前回記事)

 

が、

まずは最初に明確に

申し上げますね。

 

私の言う自由とは、

 

『真本音の自由』

 

ということです。

 

まぁ、

私の言う自由、という

書き方をすると

まるで私の理論のようですが、

そうではありません。

 

私が語ることのすべては

私が考えた理論では

ありません。

 

物事の本質、

つまり、

当たり前のことしか

言っていません。

 

一人の人間が考えた主張

ではなく、

かなり格好良く言えば、

「真理」

を私なりの表現でお伝え

しているだけのことです。

 

「真理」

というのは、

一部の人だけが理解していること

ということではなく、

「本当はみんながわかっていること」

です。

 

顕在意識のレベルでは

普段は意識していないけれども、

本当はみんなよくわかっていて、

その視点の話をすれば、

あぁそうだよね、

それが普通だよね、

と、当たり前のように感じること

ということです。

 

私はそういったことしか

お伝えできないですし、

それ以外のことをお伝えするのは

私の役割ではないと

思っています。

 

ですから、

「教える」

のではなく、

「思い出していただく」

というのが、

私の活動の本質です。

 

そういった意味で

もう一度申しますが、

自由とは、

「真本音の自由」

であり、

真本音が自由でなければ、

何がどうあっても、

私達人間が

本当の意味での自由を感じる

ことは

あり得ないのです。

 

なぜなら真本音とは

「本当の自分自身」

だからです。

 

本当の自分自身が

「自由だな」

と感じなければ、それはもう

自由ではありません。

 

では、

本当の自分自身とは何か?

ということになるのですが、

そっちの視点からの話になると

難しくなってしまう可能性があるので、

別の視点から

お話を進めることにします。

 

まず皆さん。

 

皆さんの自由を

阻害しているもので

最も大きなものの一つは

何だと思いますか?

 

これは

いろんな角度からいろんな答え

が出そうな質問です。

 

あえて私がここで

お伝えしたい答えは

次のようなものです。

 

私達の自由を

阻害している最大のもの。

 

それは、

 

「自由への渇望」

 

です。

 

言葉を換えれば、

 

「自由を阻害しているものへの不満」

 

とも言えます。

 

さらに言葉を換えれば、

 

「自由になりたい心の叫び」

 

です。

 

今、自分は

自由ではない。

 

自由でないから

自由になりたい。

 

なんで

自由になれないんだよー!

 

どうすれば

自由になれるんだよー!

 

という、

心の叫び達が、

実は

自由を阻害しています。

 

まずはこの

叫び、達を

浄化・成仏させてあげないと

いけないですね。

 

これは要するに

「反応本音の叫び」

です。

 

反応本音とは、

外部環境からの影響を受けて、

その反応として生まれる

私達の本音です。

 

その多くは、

・何かに満たされていない

・だから満たしたいと思う

という実にシンプルな理由から

発生します。

 

例えば、

・今の私は自由じゃない

・だから自由になりたい

というわけです。

 

これを理論的に捉えて、

・では、今の自分は何が自由じゃ

ないんだろう?

・どうすれば、そこから自由に

なれるんだろう?

とやっていくと、

実は、

おかしくなります。

 

この発想をして、

そこで生まれた答えを

実行に移して、

例えば、すべてを実行できたとしても

永遠に自由を得ることは

できないのです。

 

自分の中に発生する

反応本音に

どれだけ対応しようとも

私達は

自由になれないからです。

 

私達が自由になるには、

反応本音に対応すること

ではなく、

自らの真本音を

自由にすること

です。

 

さぁ、ではまずは、

反応本音の自由への叫びを

浄化・成仏させましょう。

 

その方法は

次回で。

 

つづく

 

あなたは自由に生きていますか?

私達には

自由意志があります。

 

自由に何でもしてもいいよ、

と言われたら、

自然に浮かんでくる

やりたいこと、があります。

 

その時その瞬間に

それは常に

浮かび続けています。

本当は。

 

ところが多くの人は、

日常において

自由ではない日々を送っています。

つまり、

何らかの制約を感じながら

日々の生活をしています。

 

ですので、

自分自身の自由意志に

フタをしてしまっています。

 

フタをしないまでも、

そこに意識を向けずに

生きています。

 

結果として、

自由意志は本当は

あるんだけれども、

そこに気づかない状態

が続きます。

 

そしてそのうちに、

自由意志とは何なのか?

自分の制約がなくなったら

いったい自分は何を望むのか?

について、

 

「考えたこともありません」

「まったくわかりません」

 

という返答になります。

 

もしくは、

自由という言葉を聴くと、

「そんなのは無理だ」

「現実的ではない」

と思ったり、

「自由に伴う責任がウザい」

と思ったりして、

自由を敬遠する傾向となって

現れることもあります。

 

いずれにしても、

自由意志から離れてしまっている

そんな人が

多いのが今の世の中です。

 

要するに、

全然、自由じゃない

のです。

 

ほとんどの人が。

 

もちろん、

現実世界の中で

何の制約もない状態

というのは稀有でしょう。

 

物理的にすべてから

自由になる

というのは現実的では

ありません。

 

しかし、

心の中まで

自由を失ってしまっても

よいでしょうか?

 

心の中まで

自分で自分を縛りつけ、

果たしてそれで本当に

生きている

と言えるのでしょうか?

 

よく、こんな声も

聴きます。

 

「自由な発想をしてしまうと、

現実の不自由さとの

ギャップを感じてしまい、

それがストレスになるんです」

 

・・・と。

 

しかし、実は、

心の中の自分を縛りつけてしまう

ことで発生するストレスの方が、

現実とのギャップを感じるストレスよりも

圧倒的に大きいのです。

 

私がこのブログで

よく書かせていただいている

エンティティ。

つまりは、

ストレスがある一定以上の濃度に達し

実体化したもの、

は、

心の中の不自由さによって

発生するのです。

 

私達は

生まれた直後は

皆、自由です。

 

もちろん体は不自由で

想い通りに動きませんが、

心は自由です。

 

幼児期も多くの場合は、

皆、心の中は

自由です。

 

それが、

私達人間の本来望んでいる

心の在り方です。

 

しかし

大人になるとは、

心に制約をはめることである

と私達は思い込み、

自由からいかに遠ざかるか、

遠ざかった状態で

いかに上手く生きていくか、

という力をつけることが

人としての成長であると

思い込み過ぎてしまいました。

 

今の社会の歪みの

根本原因の一つは

ここにあると、

私は日々、実感しています。

 

実は・・・。

 

正直に申しますが。

 

私は、

私ほど自由な人は

いないのではないか、と

日々、思っています。

 

本当にたくさんの人達と

向き合ってまいりましたが、

私から観れば、

ほとんどの人が

不自由に観えます。

 

ただ、

私が長くサポートさせていただいている

クライアントさん達は

違います。

 

私の密かな

コーチとしての目的は

クライアントさんに

本当の意味で自由になっていただく

ことなんです。

 

まぁ、ここで書いてしまった以上

「密かな」では

なくなってしまいますが。

 

でも、本当にいつも

そればかりを願って

サポートしています。

 

ですからクライアントさん達は

どんどん自由になり、

私と同じくらいに

自由になっていきます。

 

すると、

私との共鳴・共振が

起こります。

 

人は、

本当の意味で自由になると、

非常に深い

共鳴と共振を

起こします。

 

それは

「調和」

と言えるものです。

 

その「調和」は

「進化」を起こします。

 

とは言え、

以前の私は恐らく

世の中の誰よりも

「不自由」だったと思います。

 

絶望的な不自由さの

中でずっと生きていました。

 

そう考えますと、

どう観ても、

私は、今が一番、幸せです。

 

こんなことを書くと

傲慢に思われるかも

しれませんが、

私はすべての人が

私と同じような自由を

得られるといいなぁ、と

思っています。

 

特に、

組織のリーダーや

組織の要となる人達が

本当の自由を得られれば、

その組織全体に

「自由の調和」が

巻き起こります。

 

それは非常に

幸せな状態です。

 

私は世の中全体が

そうなるといいなぁと

真剣に思っています。

 

そこで、

次回からは

「自由」をテーマにした記事を

書かせていただこうかなと

思います。

 

そして、

本当の意味で自由になるための

セルフコーチングの手法

なども

いくつかご紹介できればな

と思っています。

 

お楽しみに。

 

つづく

 

そのエネルギーはどこから来ている?

モチベーションが

高まったり、

気分が高まっている時、

私達は

エネルギーに満ち溢れます。

 

それはとても

気持ち良いものです。

 

エネルギーが満ちることで

私達は

自信にも満ち溢れ、

何でもできそうな

気がします。

 

そのパワーは

未知の領域を

開拓できそうです。

 

これまで挑戦したことのない

ことに挑戦し、

これまで成し得たことのない

物事を

達成できそうです。

 

そしてそのままの勢いで

私達は

前進を始めます。

 

なかなかに凄い勢いの

前進です。

 

「飛ぶ鳥を落とす勢い」

というやつです。

 

しかし。

 

もしクライアントさんが

その状態に入った時、

その時こそが、

私が最も注意深くなる時

です。

 

なぜ注意深く

なるのか?

 

なぜなら、本当に

「飛ぶ鳥を落とす」ことは

してはならないからです。

 

もし

「飛ぶ鳥を落とす勢い」

であれば、

私はクライアントさんに

ストップをかけます。

 

それは、

本来のその人のエネルギーでは

ないからです。

 

そのエネルギーは

周りの人達から

奪い取っているものだから

です。

 

エネルギーやパワーには

2種類あります。

 

一つは、

外から奪い取ることで

発生するもの。

 

もう一つは、

自らの内側から

自然発生するもの。

 

後者の場合は、

「飛ぶ鳥を落とす勢い」

ではなく、

「飛ぶ鳥をさらに活かす」

ことができます。

 

つまり、

周りのあらゆる人達が

より元気になっていくのです。

 

それが、

本来のエネルギーであり

本来のパワーです。

 

私が、

真本音のパワー

と呼んでいるものです。

 

もし

「飛ぶ鳥を落とす勢い」系の

パワーの場合は、

それは長続きしません。

 

必ず、

終わりが来ます。

 

そして、

反動が来ます。

 

プラスに振れた分だけ

今度は

マイナスに振れることに

なります。

 

ある時は、

ワーッと勢いがいいのに、

ある時、突然

それがまるで嘘であったかのように

萎んでしまう。

 

パワーの乱高下を

起こしやすいのです。

 

するとその乱高下に

周りの人達は振り回され、

ますますエネルギーを

奪われることになります。

 

最もタチが悪いのは、

それを起こしている張本人が

それを起こしていることを

自覚していないことです。

 

どんどん疲弊していく

周りの人達を見て、

「奴らはダメだ」

と、その人は言います。

 

「奴らは俺に

ついて来ることができないのだ」

と。

 

一度でも、

「飛ぶ鳥を落とす勢い」を

体験してしまった人は、

その気持ち良さを

忘れることができません。

 

その時、その人が感じていることを

一言で表すと、

こうなります。

 

「万能感」。

 

もしくは

「全能感」。

 

つまり、自分が全知全能の神に

なれたような感覚。

 

この体験は

あまりに気持ちよく、

常にそこに戻りたいという

欲望を喚起します。

 

そこに戻るためには、

多少のパワーの乱高下など

気にしない。

 

そこに至る自分自身に

酔ってしまう状態です。

 

残念ながらこういった人には

どのような忠告も

効きません。

 

むしろ、

忠告する人を

遠ざけるようになってしまいます。

 

周りには、イエスマンしか

置かなくなります。

 

要するに、

裸の王様になるということです。

 

本来のパワー、

真本音のパワーに

「勢い」はありません。

 

それは、

静かなものです。

 

静かですが、

深いです。

 

それは

永遠に続きます。

 

勢いで人を動かすのではなく、

深い部分での

共鳴や共振によって

人と共に動きます。

 

真本音のパワーを

発揮している人の顔を

思い浮かべると、

それだけで人は

元気になれます。

 

早くその人に

会いたいなぁ、と思えます。

 

一緒にいるだけで

幸せになります。

 

ただしそれにより

依存を生み出すことは

ありません。

 

むしろ、

自立心と自律心を

生み出します。

 

私もその人のように

確固たる自分を持ち、

周りの人達を元気にしたい。

 

周りの人達を

活かしたい。

 

そういった「進化への欲求」が

頭をもたげるからです。

 

そういった自律心によって

広がる「仲間」は、

モチベーションアップとか

気分を高めるとか、

そんなことはいっさい

必要ありません。

 

表面上は

淡々と生きるだけです。

 

今、やることを

今、やるだけ。

 

しかしその

一挙手一投足には

魅力が溢れます。

 

うるさい魅力では

ありません。

 

静かで

心や魂に沁み渡るような

その人本来の魅力です。

 

「勢い」によって

人を動かす人のほとんどは

人々のパワーを

奪い取っています。

 

パワーの奪い合いは、

新たなパワーを

発生させることは

まずありません。

 

しかし私達人間の

本来のパワーは

無尽蔵です。

 

内側から湧き出す

真本音のパワーとエネルギーは

「循環」を生みます。

 

「奪い合い」ではなく、

「循環」。

 

しかもその循環は

お互いのパワーの次元を

どんどん高めます。

 

一人のパワーが

一緒にいることで

さらに高まっていく。

 

それが、

本来の私達人間の

姿です。

 

そんな組織やチームを

創りたいですね。

 

そのためには、

真本音で生きるリーダーが

必須なのです。

 

つづく

 

虚無に負けるな

人生に辛さを感じている人、

特に、

「虚無感」に苛まれている人が

今、本当に増えているのを

実感しています。

 

ですから今日は、

「虚無」について

書かねばなりません。

 

「虚無」とは

何だと思いますか?

 

「虚無」と言うと

何もない状態であると

思われる人が多いでしょう。

 

しかし。

 

「虚無」

とは、何もない

というものではありません。

 

もっと言えば・・・。

 

「無」という一文字も

見てみましょう。

実は、・・・。

 

「無」

と言うのも、何もない

というものではありません。

 

それは、

「無」

という一つの

かたまりなのです。

 

我々人間が解釈した

「何もない」

というものの、

かたまりに過ぎないのです。

 

解釈の

かたまり。

 

ただの想像の

かたまり。

 

本当に何もない

わけではありません。

 

実在のレベルで言えば、

「何もない」

という状態は本来は

あり得ないのです。

 

「何もない」状態は

ないのです。

 

ところが私達は

「無」とか「虚無」を

極度に恐れます。

 

我々人間の持つ

あらゆる恐怖感の

根底にあるものが

「無」や「虚無」への

言いようのない恐れです。

 

「無」になりたくない。

 

「虚無」に陥りたくない。

 

私達の恐れは

すべてここから

きています。

 

しかし、

「無」も「虚無」も

本当はありません。

 

ないものに対して

私達は恐怖しているのです。

 

よく、

次元が高まると

何もなくなる。

すべてが無になる。

 

という言い方をされる人が

います。

 

しかしそれは実は

無とは似て非なるもの

です。

 

それは、無ではなく、

「すべてがある」

状態です。

 

どういうことかと言いますと、

光をイメージするとよいでしょう。

 

赤い光、青い光、緑の光、・・・

様々な波長のすべての光が

合わさると、光は

無色透明になります。

 

無色透明ですから、

一見すると何もないように

見えますが、実は

すべてがそこに

あるのです。

 

すべてが完全に

存在する状態になると、

表面的には無と同じに

なります。

 

しかし、それは無ではなく、

一般的には

「空」(くう)

と言われる状態です。

 

「空」とは

あらゆるものを

生み出す源です。

 

すべてが最初から

そこにあります。

 

実は、

「創造する」

とは、

「すべてがある」状態から

一部分を分離させること

を言います。

 

「すべてがある」状態から

一部分だけを焦点化する

という言い方もできます。

 

次元が高まると、

すべては「一つ」に

なっていきます。

つまりそれは

「空」に近づく

ということです。

 

逆に言えば、

次元が高まり「空」に近づくことで

私達は、あらゆるものを

自由自在に

分離させたり焦点化させることが

できるようになります。

つまり、

望むものを「創造」できるのです。

 

次元が高まれば高まるほど、

望む現実を手に入れられる

という理由の本質は

そこにあります。

 

ちょっとわかりづらいお話に

なってしまったかも

しれません。

 

言いたいのは、

無などない

ということです。

 

しかし、この世には

「無」を感じさせる物事が

たくさんあります。

 

であるが故に

私達は惑わされます。

 

前回の記事でも

書かせていただいた

エンティティも、

ある意味、

「無の象徴」と言えます。

 

エンティティとは、

無への恐れ、という念が

実体化したものです。

 

無への恐れの実体なので、

まるでそれが無そのもののような

恐ろしさを感じます。

 

ですので私達は

エンティティから逃げようと

します。

 

逃げようとすれば、

逆に背後からエンティティに

取り込まれます。

 

知らず知らずの間に

取り込まれています。

 

すると、

どうせすべては

無に帰するのではないか、

という絶望感が

発生します。

 

それにより、

あらゆる気力やパワーが

失われます。

 

何日か前の記事にも

書かせていただきましたが、

このエンティティの氾濫が

今は激しくなっています。

 

エンティティ自体は

実は全然大したことのない

弱いものなのですが、

弱いが故に、

私達の心の弱い部分と

共鳴します。

 

私達は今こそ、

強い意志(意思)を持たねば

なりません。

 

自分の人生は

自分のものである、

ということ。

 

人生に

正しい、間違っている、

という答えはなく、

答えは自分で決めていくのだ

ということ。

 

自分で自分の願いを持ち、

自分で自分の課題を持ち、

自分で自分の決断をし、

それを実行する。

 

つまり

自分で決め

自分で動く。

 

自分で選択し、

自分で進む。

 

この、当たり前を続ける

覚悟。

 

それを持っている人に

エンティティは

絶対に寄りつけません。

 

当然、

心に弱さはあってもよいです。

 

ただ、一方で

心には揺るがぬ部分も

確かに存在しています。

 

それを私は

真本音と名づけています。

 

誰もにある揺るがぬ部分。

 

真本音。

 

それを大切にし、

次の一歩を

踏みしめる。

 

ただそれだけのこと。

 

その意志(意思)に

エンティティは近づけません。

 

もし仮に

一度はエンティティに

取り込まれたとしても、

真本音のパワーによって

エンティティは

すぐに成仏します。

 

私は自分のミッションとして

あえて、

向き合う方々のエンティティを

すべて受け取り吸収します。

 

私が吸収すれば、

目の前の人はエンティティから

解放されるからです。

 

そして後の時間で、

すべてのエンティティと向かい合って

すべてを浄化します。

 

真本音のパワーで浄化

するのです。

それはまさしく「成仏」と言える

ものです。

 

ですから、

成仏する瞬間の彼らの声を

私は毎日のように聴いています。

 

エンティティ達は皆、

最期にこう言うのです。

 

「ありがとう。」

 

彼らは、

無ではなく、

「すべてがある」世界に

戻っていきたいのです、

本当は。

 

つづく

 

疑いのかたまりになった日

ある日、

目が覚めたら、

すべての物事を

疑っている

自分がいた。

 

そんなご経験は

ありませんか?

 

これまでの自分の

道のり。

 

今の自分。

 

これからの未来。

 

大切な人達。

 

それらすべてに

疑いの眼差しを

向けてしまう。

 

そんな自分に

陥ったことは

ありませんか?

 

まったく自慢にも

なんにもなりませんが、

私は

数えきれないほど

あります。

 

そういった場合、

自分の心の中心は

「疑い」

となっています。

 

「疑い」という

理念のもとに

すべての物事を

見つめています。

 

中心がそうなので、

何に対しても

信じることが

できません。

 

この状態は

どういうことなのでしょうか?

 

なぜ、

こんなことに

なるのでしょうか?

 

以前の私は、

その状態に入ったら、

無理に自分に言い聞かせ、

「信じる自分」

を創り出そうとしていました。

 

私は信じる。

私は信じる。

私は信じる。

私は信じる。

・・・・

 

と、一日中、心の中で

唱え続け、

疑う自分を駆逐しようと

していました。

 

だって、

私は人をサポートする仕事を

しているのです。

 

人をサポートする立場の

人間が、

人を疑っていたら

仕事になりません。

 

目の前のクライアントさんにも

疑いの空気が

伝染してしまうでは

ありませんか。

 

なので、

必死でした。

 

しかし、

どれだけ自分に

言い聞かせても

信じる自分には

なり切れませんでした。

 

疑いという根底の上に

無理に

「信じる」自分を

形作っていますから、

とてつもなく不自然です。

しかも、

疲れます。

 

その状態で

コーチングなんてやろうものなら、

ヘトヘトで

立ち上がることも

できなくなりました。

 

ですから、

ある日、それを

あきらめました。

 

疑う自分を

自由にしたのです。

 

すると、

いろんな心の声が

聞こえてきました。

 

いや。

 

それは、

心の声などというものでは

ありませんでした。

 

それは、

阿鼻叫喚の叫び。

 

中には本当に

断末魔のような叫びも

ありました。

 

私は、

自らに襲いかかってくる

それらの叫びと、

それに伴う苦痛を

そのままにしました。

 

すると、

いろんなものが

観えてきました。

 

疑いには、

憎しみが伴って

いました。

 

それは、

誰か特定の人に対する

憎しみというよりも、

「人間」

そのものに対する憎しみ、

すべての人、

いや、

すべての物事、

世界全体に向けられた

憎しみでした。

 

そしてその根幹には、

自分自身に対する

憎しみが

観えました。

 

あぁ私は、

私のことをこんなにも

憎んでいるんだ。

 

あぁ私は、

世界のあらゆるものを

こんなにも

憎んでいるんだ。

 

そうわかると

涙が止まらなく

なりました。

 

いったいこの憎しみは

どこから来るのだろうか?

 

そんなことを考えながらも

そのままに

委ねていました。

 

すると、

その後に

「絶望」

がきました。

 

すべては

憎しみの対象であり、

すべては

信じるに足らない

ものであり、

すべては、

存在する価値の

ないものである。

 

私自身も

存在している価値は

ない。

生きている意味も

ない。

いてはならない

存在。

 

害でしかない

存在。

 

あぁこのままいけば、

私は自殺をするのではないか、

とも思いましたが、

それでも私は

そのまますべてを

委ねていました。

 

「無」

に落ちていく感覚。

 

うん。

もう落ちればいいや。

 

とあきらめました。

 

どこまでも

落ちればいいや。

 

・・・恐らく、

この時点で私の心は

「限界」を迎えたと

思います。

 

「限界」を迎えたのですが、

それでも委ねることを

やめませんでした。

 

最後の最後の

深い闇が

観えました。

しかしそれにも抗わずに、

落ちていこうと

あきらめた時。

 

その瞬間。

 

その、

闇だと思っていたものの

中心に

突如として

まばゆい光が

現れました。

 

私は茫然と

その光を見つめました。

 

すると、

その光と私は

一つになりました。

 

そこで

わかりました。

 

なんだ。

 

この光が

私か・・・。

 

どこまで落ちようと、

私自身が光であるならば、

私が消えることは

ないではないか。

 

私自身が光であるならば、

どこに行っても、

どこまで落ちても

関係ないではないか。

 

すると。

 

阿鼻叫喚、断末魔の

心の叫びが

さらに大きなボリュームとなって

鳴り響いてきました。

 

その瞬間に

ふと私は

違和感を覚えました。

 

君は、

誰だ?

 

私は、その叫び達に

問うていました。

 

あぁそうか、

君はどうやら、

私ではないな。

 

そこに気づいた時、

ザザザーっと

私の中から

何かが抜けていく感覚が

ありました。

 

嵐が

急激に去った感覚。

 

気がつくと私は、

「今ここ」に

いました。

 

急に

泥酔状態から

シラフに戻った感覚。

 

・・・これが、

私がエンティティを知った

最初の体験です。

 

私が私自身の心だと

思い込んでいた

疑いや、憎しみなどの

心達は、

実は、私の心ではなく、

エンティティでした。

 

ストレスの

濃度がある一定以上にまで

高まり、

実体化するくらいまで

濃くなった「念」の塊。

 

それがエンティティ。

 

実は、

私がこの状態に入った

数日前、

私はある、自殺願望のあった方の

コーチングをしたのでした。

 

その方はもちろん

自殺願望からは脱したのですが、

恐らく、そのエンティティは

その人から

受け取ったのでしょう。

 

エンティティとは、

疑い、

憎しみ、

絶望、

の塊です。

 

もしそういった心に

苛まれた時、

自分自身に問うてみて

ください。

 

これは本当に

私の心か?

と。

 

自分の心と

そうでないものとの

区別がつくだけで、

私達は

自分を救うことが

できるのです。

 

つづく

 

試練に意味を求めないで

世界と自分は今、

どれだけ

「一つ」だろうか?

 

・・・このような問いを

考えたことはありますか?

 

もし今この問いを

自分に投げたとしたら、

どのような答えが

自分の中から返って来ますか?

 

私達の意識は

次元が低くなればなるほど、

すべてと分離していきます。

 

そして

次元が高くなればなるほど

すべてと「一つ」になります。

 

すべてと

「一つ」になっている自分と、

すべてと

分離している自分が、

共存しているのが

私達人間の心の中です。

 

様々な階層の次元が

共存しているのが

私達人間という生き物です。

 

今、

どの次元の自分を

前面に出して生きているか、

によって

人生の展開は

大きく変わります。

 

最近、

本当によく聴く声が、

「これまでの人生で

最大の試練に

ぶち当たっています」

という悲痛な叫びです。

 

外的な要因も

さることながら、

内面の自分がすべて

壊れてしまいそうなくらいに

揺れ動かされています。

 

我を失う、

という状態。

 

心の中の

大地震。

 

あらゆるものが

無に帰すような

恐怖。

 

まったく道の見えない

絶望感。

 

その中で

もがいている人。

 

もがくことすらできずに

茫然と佇む人。

 

そのような人が

増えています。

 

そのような時に

絶対にしてほしくないことが

一つあります。

 

それは、

「この試練には

どのような意味があるのだろう?」

と考えることです。

 

試練の意味を考える。

・・・それは一見すると

前向きな行為ですが、

私はそれを

現実逃避の第一歩であると

いつも実感します。

 

意味を考え

答えを見出す。

 

もしそれで簡単に答えが

見つかるのであれば、

その試練は

試練とは言えません。

 

あくまでも自分の範疇で

試練のふりをし、

悩んでいるふりを

しているだけのこと。

 

悩みながらも、

自分が進まない理由づけを

して人生をサボっている

だけのことです。

 

本当の試練の中にいる時、

その試練の意味は

決してわかりません。

 

もし無理に答えを

見出せば、

それは「間違った答え」です。

 

間違った答えに基づいて

試練を乗り越えようとすれば、

その試練の本当の意味から

結果的に逃げることに

なってしまいます。

 

本当の意味は

後からわかります。

 

その試練を乗り越え、

その試練が去り、

さらにその後の新たな道を

進む途上で初めて、

ある時ある瞬間に

必然的に「気づき」がきます。

 

その瞬間が来るまで

その試練の意味は

考えないでください。

 

ただ単に、

試練に身を委ねて

ください。

 

試練に身を委ねるとは

何もしない、

ということではありません。

 

試練と

対峙するのです。

 

向き合うのです。

 

武器は持ちません。

 

裸になるイメージで

あるがままの自分を

試練の前にさらします。

 

肩の力を抜き、

正面から試練を

見つめます。

 

観察をします。

 

その結果、

心は大揺れに揺れ、

我を失うかもしれません。

しかし

それでも良いのです。

 

それでも

身をさらします。

 

あえて言えば、

すべてを

あきらめる

のです。

 

開き直る

のです。

 

開き直りとは

すべてを手放した状態

です。

 

その状態に入れた時、

人は言いようのない強さを

発揮しますが、

それは意図をして

できることではありません。

 

私達にできるのは、

何があっても

あるがままの自分として

その試練に

身をさらそうと

し続けることです。

 

試練を乗り越えるか、

試練が去るまで、

それを続けます。

 

試練が永遠に続くことは

ありません。

 

試練から解放された時、

自分自身に

問うてみてください。

 

世界と自分は今、

どれだけ

「一つ」だろうか?

 

・・・と。

 

もし、

試練の前よりも格段に

「一つ」になれたかな、と

思えれば、

その後、必然的に

その試練の意味は

わかるでしょう。

 

なぜならそれは、

自分自身が次元を一つ

上がれた証拠だからです。

 

一つの次元が上がる

ということは、

景色が変わるということです。

 

新たな次元に立たなければ

見えない景色があります。

 

その景色を前にした時に

初めて、

その試練の意味は

明確にわかるでしょう。

 

人生というのは

その繰り返しですね。

 

つづく

 

慈しみのリーダーを応援したい

「慈しむ」

という言葉に

皆さんはどのような印象を

お持ちですか?

 

先日、ある社長さんとの

出会いがありました。

 

一緒に食事をさせていただいたのですが、

その社長さんは

「慈しむ」という言葉が

そのまま服を着ているような

感覚の人でした。

 

幹部さんや社員さんについての

ご相談をいただいたのですが、

その社長さんの

幹部さんや社員さんのことを

語るそのその空気感。

 

それを感じるにつけ、

あぁこの人は間違いなく

社員さん達と共に

道を拓いていける経営者だな

と確信しました。

 

その社長さんから

ご質問をいただいたのです。

 

「たけうちさんは、

今のお仕事を、どのようなきっかけで

始められたのですか?」

 

こういったご質問をいただくと、

いつもでしたら、海外の放浪から

帰ってきた時のお話を

させていただくのですが、

その日はなぜか

学生時代のある場面が

思い出されたのです。

 

私は大学1年の時から

登山を始めました。

登山と言っても

ただひたすらに山を縦走

するのですが、

いわゆる「体育会系」という部活で

荷物の重さも含めて

なかなか激しいことを

していました。

 

2年生の時、

私は初めてリーダーとして

パーティー(登山チーム)を

率いて長期間、日本アルプスに

入りました。

 

ところがそこで私の

パーティーは

ほぼ、瓦解した状態となります。

 

縦走計画こそ貫徹したものの、

パーティーメンバーの心が

バラバラ状態になったのです。

 

その根本原因は

私のリーダーぶりに

ありました。

 

実は、通常、リーダーとは

3年生の行なう役割です。

ところが、

その年は3年生の人数が少なく、

どうしても2年生からリーダーを

出さないといけないという状態で、

それは前代未聞のことでした。

 

その前代未聞というのが

私の琴線に触れ、

「俺がやってやろう」

となったのです。

 

要するに、

初の2年生リーダーとして

完璧な山行を実現し、

「お前、すごいなぁ」と

言われたかったのです。

 

ところが散々な結果となり、

私は悩みました。

 

その時に人生で初めて、

「人はどうすれば

前向きになれるのか?

チームはどうすれば

一つにまとまるのか?」

という疑問が湧きました。

 

19歳の時です。

 

その時から私は、

複数人で登山をする場合は

リーダーしかやらない、

と決めました。

 

確か大小含めると、

20数回は

学生の内にリーダーをやったと

思います。

部活全体の主将も

させていただきました。

 

で、ずっとずっと

リーダーとはどうあるべきか?

に悩み続けました。

 

その中で、人生を変える場面に

出会ったのです。

 

それは、

リーダーとしての最初の挫折から

ちょうど一年経った時の

夏山の縦走でした。

 

私は確か、

これまで部が始まって以来の

最も長い縦走をしようと

計画を立てたのでした。

 

その計画のちょうど中間地点

辺りで、

非常に難易度の高い行程の日が

ありました。

 

私達の重装備で

そこを乗り越えるのはどうか?

と直前まで迷い続ける

そんな行程だったのですが、

私は強行突破しようと

思いました。

 

ところが、その行程は

想像以上に大変でした。

 

登山の縦走というのは毎日、

夜中の2時に起床します。

そして、明るくなりだす

4時過ぎくらいには

テントを畳み出発します。

 

その日はいつもより早く

確か1時半に起床し、

4時を待たずに出発したと

記憶しています。

 

道は険しく危険で、しかも

長い行程でした。

 

何時間歩いても

目的地に到着できません。

日も傾き、

薄暗くなってきました。

 

ついに、

パーティーのメンバーの一人が

動けなくなりました。

 

彼は、陸上の長距離走で

県大会で優勝するくらいの

持久力や体力のあるヤツ

だったのですが、

完全にバテてしまったのです。

 

そして、彼は

泣き出しました。

 

もう動けない、と。

 

声を上げて

泣きました。

 

私はどうすることもできず、

ただ茫然と彼を

見つめていました。

 

その時です。

 

私は生まれて初めて

味わう不思議な感覚に

包まれました。

 

泣いている彼のことが

愛おしくてしょうがなく

なったのです。

 

私は彼を

抱きしめたくなりました。

 

その瞬間です。

 

私がリーダーとして

何が足らなかったのか?

を知ったのは。

 

当時の私の日記には

「私に足りなかったのは、

愛だった」

と書いてあります。

 

そこから私には、

「愛とは何か?」

という新たなテーマが

浮上してきました。

 

恐らくその瞬間だったと

思います。

その瞬間のその感覚がなければ、

私はきっと

今のこのお仕事を

していないでしょう。

 

今から振り返れば、

その時の私は人生で初めて

人を「慈しむ」という

体験をしたのだと思います。

 

もちろん私もその時は

体力的には

限界状態でした。

 

しかし限界状態だったからこそ

初めて自分の中から

浮上した感覚に敏感になれたのだと

思います。

 

まぁ・・・、

その後の私が

人を慈しむ人生になったかと

言うと、

真逆なんですけどね。苦笑

 

「俺は、愛を知ったぞ!」

と、その後、天狗になった

わけで・・・。

 

ホントに困ったもので。

 

おかげで散々な人生展開に

なったりもしたのですが、

しかしあの時の感覚は

今でも私の中に

生き続けており、

それが今の私の原点の一つに

なっているのは確かです。

 

あの時私は、

人の深さと、

人と人の関係の深さを

体験したのだと思います。

 

そして、

よくよく考えてみますと、

私はそういった

人に対する「慈しみ」を

持ちながらリーダーをされている人を

応援したい、サポートしたい、

と思いながらここまで

来たのだと思います。

 

あの「慈しみ」の社長さんの

ご質問のおかげで、

顕在意識レベルではずっと

記憶から外れていた出来事を

思い出すことができました。

 

感謝ですね。

 

つづく

 

その人達の不仲は改善されるのか

出会いというものは

必然です。

 

しかし

出会いというものは

相手のあることです。

 

自分だけの思うままに

行われるものでは

ありません。

 

たとえ自分自身の

真本音度合いが

高まったとしても、

次元が上がったとしても、

相手の準備ができていなければ、

出会いは起こりません。

 

自分の準備と

相手の準備が

きちんと完了した上で

初めて実現するもの。

 

それが

出会いです。

 

そういった意味で、

出会いとは

悦びです。

 

真本音レベルでの

深い悦びです。

 

ところで、以前に

次のようなご質問を

いただきました。

 

「本当は

出会ってはいけない人との

出会いというのは

あるのでしょうか?」

 

はい。

 

実は、

本当は出会ってはいけない人との

出会いは

実際にあります。

 

例えば、準備という視点で

言えば、

まだお互いの準備ができておらず、

本来であれば

真本音レベルでは

まだ出会いたくないと

思っているにも関わらず、

出会ってしまった

というケースはあります。

 

本来であれば、

お互いの真本音度合いと

次元がある一定以上に高まり、

そこで出会うことで

お互いが調和し

相乗効果によって

人生展開が加速する、

・・・そういった相手であったとしても、

タイミングを外した出会いをすることで

不調和が起きてしまいます。

 

すると、

その人のことを

嫌いになります。

苦手意識が出ます。

 

本来であれば、

その人ほど相性の合う人はいない

というくらいの相手であったとしても

嫌いになり、

足を引っ張り合うのです。

 

実は、

そういったケースが

とても多いのです。

 

特に見られるのが、

経営幹部さん同士。

 

本来であれば、

相乗効果を発揮するはずの

縁のある人同士が

共に会社を運営するのですが、

出会いのタイミングのズレが

すべてをずらします。

 

幹部さん同士の

仲が悪い、

というケースはどこでもあること

ですが、

そのうちの何割かは、

そういった

「出会うタイミングを間違った」

ことによる不調和です。

 

なぜタイミングを

間違ってしまうかと言うと、

簡単に言えば、

その人が真本音通りに

生きていなかったからです。

 

日々、

自らの真本音を無視した

動きを取り続けることで、

人生のありとあらゆる

タイミングが

真本音の望むものと

ずれ始めます。

 

その中で起こる一つの現象が

タイミングのずれた出会い

なのです。

 

しかし、

そういった出会いをしてしまい、

不調和が起きたとしても、

その人同士は

もともとご縁のある人同士ですので、

実は

修正は効くのです。

 

顕在意識レベルでは

誰がどう見ても

仲が悪く、

お互いがいがみ合い

打ち消し合い

エンティティを出し合っている

そんな関係でも、

根本的な改善が

できます。

 

その方法は

極めてシンプルです。

 

お互いの

真本音度合いを

高めればよいのです。

 

真本音度合いを

高めた上で、

お互いが

「本当に向き合う」

という状態を創ります。

 

それにより、

徐々に関係が改善したり、

時には、

一気に相乗効果を起こす

本来の関係に

戻れたりします。

 

「この会社の

経営幹部のAさんとBさんの

不仲がなくなり、

お互いが協力し合えるように

もしなれたとしたら、

どれだけこの会社は

盤石になれるだろう。

何とかなりませんか?」

 

・・・というご相談は

本当に多いです。

 

その場合、私は、

そのAさんとBさんの

真本音レベルのつながりを

確認します。

 

真本音レベルで、

距離が近すぎたり、

本来は出会うべきじゃなかった

人同士が

無理に幹部をされているのか?

 

それとも、

ただ単に、

出会いのタイミングのズレが

引き起こしている不調和なのか?

 

後者の場合は、

かなりの確率で

関係改善ができます。

 

それによりその会社は

本当に盤石になり、

次のステージに進むことが

できます。

 

しかし本当は、

出会うべきタイミングで

出会うのが一番。

 

そのためにも、

私達一人ひとりが普段から

一日一日を大切にしながら

丁寧に

自らの真本音に素直に

生き続けることですね。

 

つづく

 

真の静寂は、激しさの中でこそ

学生時代、私は

山登りに明け暮れて

いました。

 

山登りといっても

縦走をするだけです。

とはいえ、夏山の場合、

いったん山に入ると3週間も

縦走を続けますので、

荷物は一人50kgを

超えていました。

 

今はもうないと思いますが、

キスリングという

横長の黄色いザックを

背負っていました。

 

今から考えると

人間工学とか全く関係のない

非常に体に悪そうな

ザックでした。

あの頃の体のダメージが

今の私の体に残っていないのが

奇跡のように感じられます。

 

初めてその体験をした

大学一年の時、

私のいたパーティー(登山チーム)は

台風に直撃されました。

 

凄まじい暴風雨。

 

重いザックを担いでいても

踏ん張らないと

飛ばされそうです。

 

その中を延々と

歩かなければなりませんでした。

 

その時の私には

精神的な余裕は

ゼロだったでしょう。

 

とにかく、

一歩を踏み出すこと

だけで精一杯。

 

生きるとか死ぬとか

そういうことではなく、

とにかく

今ここで次の一歩を

踏み出すだけの存在。

 

そんな自分に

なっていました。

 

そんな時、私は、

とてつもない

「静寂」

を感じたのです。

 

それは

忘れることができない

体験です。

 

今から思えば、

それは

魂の静寂でした。

 

ひょっとすると私は

その時の体験を

もう一度繰り返したくて、

山登りを続けたのかも

しれません。

 

私は大学の部活を

終えてからも、

社会人になってからも

一人で山登りを

続けました。

 

ある冬。

 

一人で冬山に

向かいました。

 

北アルプスです。

 

車で入れるギリギリまで

入り、

そこからは歩いて

登るつもりでした。

 

ところが、

車を止めて

外に出ようとしたところ、

突然の大雪に

見舞われました。

 

あっという間に

雪は降り積もり、

車は雪に埋もれ、

外に出ることもできなく

なりました。

 

私は車の中で

2日間、

閉じ込められることに

なりました。

 

ガソリンは余裕がなく、

暖房をつけることが

できなくなりました。

しかし、

冬山の装備がありましたので

それで凍死を

免れました。

 

その時にも

魂の静寂がやってきました。

 

その時私は初めて、

未来の自分と

対話をしました。

 

今となっては

当たり前のことなのですが、

私達は実在を

感じ取れるようになれば、

未来の自分と

対話もできるようになります。

 

セルフコーチングの

一つの形です。

 

その初めての体験が

その時でした。

 

当時の私は20代前半で

そこから20年後くらいの

自分と対話をしました。

 

もちろん20代前半の頃は

今の私のお仕事を

するようになるとは思いもよらず、

その後の人生展開も

まったく展望もなく、

真っ白な状態でした。

 

その時の

未来の自分からのメッセージは

「君には道がある。

やりたいことがある。

いつかそれを見つけることが

できるだろう。

そのためにも、

今わかる、やろう!と思えることを

徹底的にやりなさい。

そうすれば、

私のところに来れるだろう」

というものでした。

 

その後、私は

サラリーマンを辞めて

海外の放浪の旅に1年半ほど

出ることになるのですが、

その時のメッセージが

かなり影響を及ぼしたと

思います。

 

未来の自分と対話をした

その時は、

車の外は大吹雪。

しかし、

私の中には

言いようのない静寂がありました。

 

外は激しく、

内は静寂。

 

その後の人生で、私は

こういった経験を無数に

繰り返してきました。

 

外が激しくなればなるほど、

内の静寂度合いは

より深まる感じがしました。

 

今・・・。

 

暴風雨に見舞われている

人が増えています。

 

厳しい現実に

さらされている人達。

 

しかし私は

思うのです。

 

そんな時だからこそ、

得られる静寂が

あるはずだと。

 

自分の中のその静寂に

気づけるといいな、

と。

 

今の私のコーチングは

ひょっとすると

そのためのサポート

なのかもしれません。

 

つづく

 

命を大切にする、とは

「命の捧げる」

というと、ちょっと重いイメージが

ありますか?

 

自己犠牲的な

ニュアンスを感じますか?

 

私達は自らの命を

捧げています。

 

誰に捧げているかと言いますと、

自分自身に捧げています。

 

この3次元世界においては

時間は過去から未来へと

一方向に一定のスピードで

流れ続け、

その流れに乗る私達の命は

時間という視点から見れば、

限られています。

 

その限られた命を

私達は自分自身に捧げ、

自分自身に委ねています。

 

この命をどう使うか?

をすべて

自分に委ねています。

 

命の使い方。

 

これを

『使命』

と言います。

 

この言葉もちょっと

重い感じがしますか?

 

でも私達の真本音は

自分自身の命の使い方、

つまり使命を

決めています。

 

どうせ限られた時間であれば、

その中で

何のためにどのように

この命を使うか?

を明確に決めています。

 

自らが真本音で決めた

その使命に

素直に生きている人は

内側からエネルギーが

湧き続けます。

 

常に魂と心が満ちている

非常に安定した状態

となります。

 

その結果、

どのような現実が

目の前に現れても、

どことなく常に

「ゆとり」

があります。

 

そして、どのような現実に

対しても

しっかりと向き合い、

納得の一歩を出し続ける

ことができます。

 

結果として、

現実は開かれていきます。

 

しかし残念ながら、

自らが決めた命の使い方を

していない場合は、

私達の心は非常に

脆弱になります。

 

ちょっとしたことで

すぐに揺れ動き、

外的な要因に左右され続け、

人生のハンドルを

外部環境の何物か、

つまり、自分以外の何物かに

握られ続けます。

 

自分の人生なのに、

自分でハンドルを

握っていない。

 

その不安定さ。

その不安。

 

それがあるために、

常に何かを恐れ続けて

生きることになります。

 

同じ人なのに、

使命に素直か

そうでないのか

によって、

真逆の自分になります。

 

真逆の人生に

なります。

 

何が幸せか?

 

何をもって

成功と言えるのか?

 

それは

その人その人それぞれ

です。

 

現実・現象レベルで

どうなっているか?ではなく、

その人の生き方そのもの

つまりは

使命に向かっているかどうか

によって、

その人の抱く

幸せ感や成功感は

は左右されます。

 

そういった意味で、

自分の命を

自分とは分離して

捉えることを

私はお勧めします。

 

自分=命

ではなく、

自分は、

この与えられた命を

どう使おうか?

というように、

命を与えられたプレゼントのように

見つめるのです。

 

そう捉えた時、

あなたの命は今、

どこにありますか?

 

あなたの体の

内側にありますか?

 

それとも

外側にありますか?

 

あなたが命を

包んでいますか?

 

それとも

あなたが命に

包まれていますか?

 

その命は今、

どのくらいの輝きを

放っていますか?

 

その光は

何色ですか?

 

その光は

輝きを日々、

増していますか?

 

それとも

輝きが

減退していますか?

 

その命の光を見つめると、

命からあなたへの

メッセージを感じますか?

 

もし感じるとすれば、

あなたのその命は

あなたに何を

伝えようとしていますか?

 

・・・このように

自分自身の命と

対話をしてみると良いですね。

 

これはつまり、

真本音との対話と

本質的には同じものです。

 

命を大切にするとは、

自分を大切にする

とは少し異なるものです。

 

命を大切にするとは、

命との対話を大切にし、

命からのメッセージを

大切にし、

命の使い方を

大切にするという

ことなのです。

 

つづく