本来の自分

本来の私じゃない

 

今の私は

本来の私じゃない。

 

・・・という

強烈なメッセージが

その人から

ダイレクトに届く

ことは多い。

 

イメージで言えば、

まるで魂のような

強烈な光が

その人の体から

私へと

 

撃ち込まれる。

 

その光を

強い圧迫のもとに

受け取ると、

 

一瞬であるが、

 

本来のその人

の姿が

目に映るのだ。

 

どころか、

まるで私とずっと

そこに一緒に

いたかのような

感覚となる。

 

すると、

実際に今

目の前にいるその人

の姿が、

 

急激に

嘘っぽく見えてくる

から不思議だ。

 

この人は今、

一生懸命に私に

語りかけているが、

その一言一言は

この人の本来の言葉

ではないのだな、

よくわかるようになる。

 

で、

多くの場合、

ダイレクトに問うて

みる。

 

それは

本来のあなたの

想いですか?

 

と。

 

その途端に

その人は

大きく揺らぐ。

 

グラグラ揺れて、

まるで

陽炎のように

なる。

 

人は

弱い。

 

本来の自分では

ない自分のままでは

 

強烈に

弱い。

 

その状態で

現実に立ち向かおう

としても

道を開くなど

土台無理な話だ。

 

本来の自分

でない自分で

いったい

何をしようとするのか?

 

そこに

どんな価値がある?

 

なぜそんなに

本来ではない自分に

執着する?

 

とは思うのだが、

でもそれもまた

人間。

 

本来の自分と

そうでない自分。

 

せめて

自分のことは

それくらいは

自分で

区別をつけられるように

なると

いいよなぁ。

 

つづく

 

本来を戻そう

 

「本来の自分」

「今の自分」

ズレていないか?

 

「本来の自分」

今、どこにいる?

 

あなたの身体と

一致している?

 

それとも

少しズレている?

 

それとも

自分の身体から

離れてしまっている?

 

もし離れていると

したら、

どこにいる?

 

前? 後ろ? 横?

上? 下?

 

どれくらい

離れている?

 

 

「本来の自分」の場所

がわかったら、

 

「本来の自分」に

戻ってきてもらおう。

 

自分の身体と

一致させよう。

 

完全に

一致させよう。

 

すると、

フッと楽になるはずだ。

 

どことなく無理をしていた

感覚が

抜けるはずだ。

 

「本来の自分」が

戻ったら、

 

目を閉じて

深呼吸して

 

自分自身に

問うてみよう。

 

なぜ、いつの間にか

「本来の自分」が

「今の自分」から

ズレてしまったのだろうか?

 

と。

 

どこに問題があり、

 

自分は何を

修正すれば良いのだろうか?

 

とね。

 

つづく

 

何とかしなければ

 

樹が

燃えている。

 

青い炎で

燃えている。

 

樹は

何かを叫んで

いるようだ。

 

訴えて

いるようだ。

 

それに耳を

傾けてみる。

 

それは、

呻くような声。

 

「私を

ここから

出してくれ」

 

苦しみを伴って

伝わってくる。

 

どうすれば

いい?

 

私に何が

できる?

 

そう問うが、

 

樹はそれには

答えず、

ただ

 

「出してくれ」

 

を繰り返す。

 

私は

樹の周りを

観察した。

 

幹の表面が

青く燃えている

のだが、

 

ただ燃えている

だけで、

樹そのものには

何の変化もない。

 

そこで

気づいた。

 

その樹は

樹ではない。

 

樹だと思ったのは

私の解釈に

過ぎない。

 

これは一種の

牢屋のような

もの。

 

この樹の形のような

牢屋に

何かが

閉じ込められている

のだと。

 

私は

私のエネルギーを

思いっきり

樹にぶつけた。

 

眩い黄色の

光となって

爆発が起こる。

 

樹に

穴が空いた

ようだ。

 

穴の中に

私は入って行く。

 

中は

何もない、

ように見える。

 

しかし注意深く

探索する。

 

すると、

何かが逃げようと

していた。

 

とても小さな

何か、だ。

 

私は急いで

それを追い、

 

手で

捕まえた。

 

小指の先ほどの

小さな小さな

もの。

 

それは

怯えているように

感じた。

 

その小さなものに

語りかける。

 

君は

何だ?

 

その小さなもの

は、

自信なさげに

消え入りそうな声で

答えた。

 

「私は、ヒントです」

 

ヒント?

 

「はい。

この人が

本来の自分に戻る

ためのヒントです」

 

じゃあなぜ

こんなにも小さく、

しかも

逃げようとする?

 

「この人が

本来の自分に戻る

意思がないからです」

 

この牢屋

みたいなのは?

 

「これもこの人の

意思です。

私を閉じ込めて、

ちゃんと自分の

手元に置いておこうと

する。

でも、私を見ようとは

しない。

私は弱っていきます。

もうこんなにも

小さい。

私は消えそうです。

私が消えたら、もう、

この人は

本来の自分には

戻れないでしょう」

 

なるほど。

そういうことか。

 

私は

私の意識を

「現実」

に戻した。

 

私の目の前には

「ヒント」君が呼んでいた

 

「この人」

 

がいる。

 

私のクライアントさん

だ。

 

「この人」は

現時点では

本来の自分に戻る

意思はないようだ。

 

「ヒント」君ももう

消えてしまう。

 

さぁどうしようか?

何とか

しなければ。

 

・・・最近、

この手のコーチングが

多過ぎる。

 

つづく

 

真本音度合い100%とは

 

真本音、真本音、と

もう16、7年言い続けて

いるので、

もちろん私は

真本音100%で

生きている。

 

ただ、100%になれたのは

わずか9年ほど前だ。

 

2010年3月のことだ。

 

ある企業様での

研修の真っ最中。

 

ちょうどミッションについて

講義をしている

最中だった。

 

皆さんの前で

喋りながら、

 

あっ、今、100%に

なれたな、

 

と明確にわかった。

 

そしてその瞬間に

よ〜く理解できた。

 

真本音100%になる

とは、

別人になることでも

特殊な自分になることでも

何でもない、と。

 

「普通の自分」

になることだ、と。

 

「本来の自分」

に戻るだけのことだ、と。

 

と同時に

わかったのは、

 

あぁそうか。

みんな、「本来の自分」では

ない状態で

生きているのだ、と。

 

余分なものを

いっぱいいっぱい

持ちながら

生きているのだ、と。

 

もっと

シンプルに生きれば

いいだけなのに。

 

余分な一言を言い、

余分な行動をし、

余分な寄り道をし、

余分な波紋を広げ、

余分な波に自ら

溺れてしまう。

 

今この瞬間の

ちょっとした

振る舞い。

 

ちょっとした

言動。

 

それらを

本来の自分として

シンプルにすれば

良いだけのこと。

 

ということが、

感覚で理解できた。

 

なんだ、

極めて普通のことじゃ

ないか、

と思えた。

 

そして、

誰もがそれは

できるはずだ、と

確信した。

 

だから私のサポート

とは、

皆さんが

「本来の自分」に戻る、

そのきっかけを

与えることなんだ、と

明確にわかった。

 

その時から私は

それ以上のことは

何もやっていない

気がする。

 

だって、

「本来の自分」に

戻れたら、

その人は

本来の人生を自然に

歩み始めるし、

 

その人の願いは

自然に

成就されていくから。

 

だから私は

その人の願い実現のサポート

をしている

わけではない。

 

あくまでも、

その人が

日々の一歩一歩を

本来の自分として

踏み出すための

サポートだ。

 

その人が

真本音100%になるための

サポートだ。

 

・・・・・・

 

真本音100%になってからは、

私の毎日は

極めて「普通」になった。

 

今日、やろうと思うことを

やる、

だけ。

 

今日、やらないと思うことは

やらない、

だけ。

 

一日一日を

淡々と過ごすだけなのだが、

なぜか

幸せ度合いは

毎日、とてつもなく

増していく。

 

それは

今でもそうだ。

 

状況も変わった。

 

意図したわけでは

ないのに、

次々と願いが叶うように

なった。

 

願いと言っても

大きな願いだけでなく、

日常のほんの些細な願いも

いつの間にか

一つ一つ着実に

叶っていく。

 

もちろん、

上手くいかないことは

ある。

 

失敗したな、

と思うこともある。

 

でもそれを

後悔することはない。

 

すべてが必要な

試行錯誤だと

よくわかる。

 

そこで得られるものが

必ずその後に

活かされる。

 

着実に

人生の願いに向かって

進んでいる実感が

毎日、ある。

 

先日、

私の仲間の一人から

 

「たけうちさんって

いつも飄々としてるでしょ」

 

と、

さもそれが当たり前の

ように言われたが、

私としてはまったく

自覚がなかった。

 

「飄々」なんて、

私の真逆の生き方だと

ずっと思っていた。

 

でもよく考えたら、

確かに

余分な力は入っていない

かもしれない。

 

昔はいつも

「肩に力が入り過ぎ」

と言われたもんだが。

 

・・・・・・

 

飄々としているのは、

私の本来の個性で

あって、

 

真本音100%になったから

と言って、

すべての人が

飄々とするわけではない。

 

その人には

その人の

本来の個性がある。

 

それが出るだけで、

周りの人達からは

「自然体」

と見られるのだろう。

 

私は

すべての人が

自然体で生きることが

できたらいいなぁ、と

本当に思う。

 

今の世の中じゃ無理だよ、

と思われるかも

しれない。

 

いやいやいや。

 

自然体とは、

環境には寄らないものだ。

 

どの環境でも

自然体でいられるのが

本来の自然体だ。

 

そして自然体とは、

「穏やか」

ということとも限らない。

 

怒ったっていい。

 

気が短くても

いい。

 

ただ、

自然体ではない状態で

怒ったり、気が短い人が

多いのが

今の世の中。

 

自然体であれば、

「すべて」と

調和する。

 

真本音100%とは、

自然体の生き方

だ。

 

つづく

 

なんだ、つまらないな

 

私の仕事は

人の苦しみを受け取る

仕事である。

 

と書くと、

自己犠牲のように

思われるかもしれないな。

 

でも、

自己犠牲ではない。

 

自己犠牲ではないが、

確かに

苦しい。

 

今日も、ある人の

コーチングをしていたが、

その人の持つ苦しみを

そのまますべて受け取り、

私は

あまりの苦しみに

意識を失いそうになった。

 

しかしおかげで

そのコーチングで

何をすべきか?を

知ることができ、

 

その通りのことを

することで

その人は苦しみから

解放され、

同時に私も解放された。

 

しかも面白いことに、

その苦しみは

その人本人には

自覚のなかったものだ。

 

自覚がないのに

確かに苦しんでいる。

 

多くの人が

その状態だ。

 

自分の苦しみを

そのまま

苦しめるようになるというのは

なんと健康的なことか、

ということを

私はこの仕事を通じて

知った。

 

潜在的にせよ、

その人は確かに

苦しんでおり、

その同じ苦しみを

私はそのまま感じ取る。

 

それだけを見れば

なんと苦しい仕事か、

とも思うが、

しかしその後の「解放」も

共に感じ合うことが

できる。

 

それはその人にとっては

「本来の自分」に戻る

大切なステップであり、

「本来の自分」に

一歩戻ることが

人としての「最大の幸せ感」の

一つでもある。

 

その「最大の幸せ感」を

私もそのまま

感じることができる、

ということで言えば、

この仕事は

なんと幸せな仕事か、

とも言える。

 

・・・・・・

 

ところで、

「本来の自分」に戻る、

と私達は

どうなるだろうか。

 

今日の別のクライアントさんは

まさしく「本来の自分」に

戻れた直後の状態だった。

 

どんな感じですか?

 

と私が問うと、

 

「それがまったく

普通なんですよね。

ただ淡々としています」

 

というお答えだった。

 

そう、

そうなのだ。

 

私達は「本来」を

取り戻すと、

まったくもって

「普通」

となる。

 

これを

 

『凡』

 

という。

 

平凡の「凡」である。

 

辞書を引けば、

「すぐれ劣りのないこと。

目立つ点のないこと。

ありふれていること。」

などとある。

 

一般的には

つまらない

というイメージがあるだろう。

 

実際に

当の本人は「本来の自分」に

戻ると、

かなりその「つまらない」という

感覚に近いものとなる。

 

しかし実は

その本質は

一般的な「つまらない」とは

まったく異なるものだ。

 

その「つまらない」とは、

言葉を換えれば、

 

「やろうと思えば

何でもできてつまらない」

 

という意味での

「つまらない」なのだ。

 

実はこれも言葉にすると

ちょっと違和感があるが、

これに近い。

 

不安も恐れもあるし、

実際に自分の能力だって

変わっていないが、

しかし

「やろうと思えば

何でもできるし、

自分が望むことは

すべてその通りに叶っていくな」

ということを

「思い出している」のだ。

 

「自然の摂理」を

理屈ではなく「実感」として

思い出している。

 

だから、

「なんだ、つまらないな」

となる。

 

自分の中に

喜びもある。

悲しみもある。

苦しみもある。

嘆きもある。

怒りもある。

憤りもある。

望みもある。

願いもある。

祈りもある。

 

すべてが

ただ、

ある。

 

そのまま、

ある。

 

なんだ。

すべて「そのまま」では

ないか。

 

ということが

そのままわかるのだ。

 

この状態は

さらに言葉を換えれば、

 

「完全に自由になれた」

 

状態でもある。

 

私達は

完全なる自由を手に入れると

「つまらないな」

となるのだ。

 

さらに

実感としてわかるのは、

自分の中にある

無限のエネルギーの

存在だ。

 

正確に言えば、

宇宙全てのエネルギーが

自分と共にある

という実感だ。

 

なんだ。

いつでも無限のエネルギーが

ここにあるじゃないか。

「つまらないな」

という感じだ。

 

これらを一言で

表現すれば

 

『凡』

 

となる。

 

そしてこれが

「本来の自分を取り戻した」

状態であり、

 

私のサポートの目的の

第一段階は

これである。

 

すべてのクライアントさんが

まずはこの状態にまで

戻ること。

 

それが

「第一段階」

だ。

 

つまり、

これができて初めて

私達は

「スタートラインに立てた」

ということになる。

 

・・・・・・

 

なんだ、自分は

何でもできるじゃないか。

 

思い出した時点が

スタートライン。

 

人生の本番は

ここからだ。

 

何でもできるのだから、

何をするか?

自ら決める必要が

ある。

 

何でもできることが

わかっている状態で

道を決める。

 

実はこれこそが

最も難しいことの一つ

だ。

 

本当は

ここからこそが

「コーチング」の

スタートだ。

 

ちょいと

長くなったな。

 

この話、

続けようと思えば

永遠に書き続けられるけど、

 

この続きは、

またその気になったらね。

 

つづく

 

クセはクセである

 

勇気を持って

何かに取り組もうと

したとき、

 

あなたの心は

どのように

動くだろうか。

 

そしてその結果、

あなたは

どのような行動を

取るだろうか。

 

一連の自分の

心の動きと

実際の

行動の取り方には

 

その人なりの

法則性が

ある。

 

それを私は

あえて

「クセ」

呼んでいる。

 

人生経験を

積むということは、

その「クセ」を

一つ一つ

増やしていくこと

だ。

 

とも言える。

 

しかし

「本来の自分を

生きる」

ということは、

 

それら一つ一つの

クセを

手放すこと

でもある。

 

クセを

超えることでも

ある。

 

クセを

増やし、

クセを

手放す。

 

いったい

私達は

何をしている

のだろうか?

 

・・・・・・

 

クセとは

能力である。

 

これがなければ

私達は

生きてはいけない。

 

例えば、

クセという能力

があるからこそ、

 

私達は

自転車に

乗れるようになる。

 

箸を

使えるようになる。

 

歯を

磨けるようになる。

 

記憶というのも

クセの一種

かもしれない。

 

九九を覚えるのも

クセを

つけているのかも

しれない。

 

ちょっと極端かも

しれないが、

 

でももし

クセという能力が

なければ、

私達にできることは

激減するだろう。

 

しかしその

一方で、

 

自分についた

クセを

 

「私自身である」

 

思い込むところが

私達にはある。

 

例えば、

 

こういった時には

私は

こういった心の動き

をして、

こういった行動を

取る。

 

というクセ。

 

これを

「私自身である」

と思い込む。

 

それが

自分であり、

自分である以上、

それは一生

変わらない、と

思い込む。

 

クセとは

とても強烈な

能力であるが、

 

クセは

クセに過ぎない。

 

それは、

あなたでは

ない。

 

あなたの

パターンでしか

ない。

 

・・・・・・

 

自分には

どのようなクセが

あるだろうか?

 

という視点で

客観的に

 

・自分の心の動き

・実際の行動

パターンを

見つめて

みるとよい。

 

同じようなパターンが

頻繁に

日々の中で

繰り返されている

ことに

びっくりするだろう。

 

狭いなぁ。

 

なんて狭く

窮屈な中で

私は生きて

いるのだろう。

 

・・・と

感じることが

できたら、

しめたものだ。

 

その感覚が

クセを超える

きっかけとなる。

 

クセは

大事。

 

しかしそれは

超えるもの。

 

手放す

もの。

 

クセをつけて、

それを

手放す。

 

この連続で

私達は

「本来の自分」

探究し続けて

いるのだ。

 

つづく

 

思い出し合おう

 

思い出す。

 

自分を

思い出す。

 

人生とは

そのための

旅なのかも

しれない。

 

本来とは

異なる自分を

自分だと

思い込み

私達の多くは

生きているが、

 

毎日、

ほんの少しずつ

でも

ちょっとずつ

ちょっとずつ

でも

 

思い出し

続ければ

それだけで

私達は

満たされる。

 

思い込みの

自分から

本来の

自分へ。

 

そして、

本来の自分

から

さらに

未知の自分

へ。

 

本来を

思い出すから

こそ、

 

次の

「未知」への

冒険が

始まる。

 

できれば、

人生の途上で

その段階に

行けると

いい。

 

そんな人が

増えると、

 

世の中は

かなり

活性化するだろう。

 

なぜなら

私達人間は

 

「未知」

に進むことが

大好きだから。

 

それが

本能だから。

 

「思い込み」

から

「本来」

へ。

 

「本来」

から

「未知」

へ。

 

・・・・・・

 

思い出す。

 

目の前の

この人が

「誰か?」

思い出す。

 

本来のこの人は

何者だったか?

思い出す。

 

これも

人生の醍醐味

の一つだ。

 

ひょっとすると、

自分自身を

思い出すよりも

 

目の前の

この人のことを

思い出す方が

 

早いかも

しれない。

 

そして

その結果、

本来の自分を

思い出す。

 

人と人は

お互いに

影響を与え合い

ながら、

 

思い出し

合う。

 

本当は

そのために、

出会う。

 

そんな関係が

増えるといい。

 

・・・・・・

 

関われば

関わるほど、

 

自分を

忘れていく。

 

関われば

関わるほど、

 

自分を

失っていく。

 

そんな世の中を

私達は

創ってしまったのでは

ないか。

 

でも、

それを変えられる

のも、

 

私達しか

いない。

 

本当は、

変えようと

思えば、

 

すぐに

変えられる。

 

明日から

でも、

 

今から

でも。

 

つづく

 

新たな講座の最初の終わり

 

人は、

たくましい。

 

本当は

ちゃんと

地に足が

ついている。

 

ガッシリと

まるで

根が張ったかのように

揺るがずに

立っている。

 

みんな、

そうだ。

 

しかし

そんな自分を

本人が

知らない。

 

知らないから

揺らぐ。

 

知らないから

迷う。

 

本当の

自分の姿を

知ればいい。

 

思い出せば

いい。

 

ただ、

それだけの

ことだ。

 

・・・・・・

 

セルフコーチング力を

徹底的に

向上させる、

 

という目的で

始めた新講座

『ザ・セルフ』

が、

修了した。

 

全6回。

 

4ヶ月に渡る

講座だったが、

 

たった4ヶ月で

これだけのことが

できるもんなんだなぁ、

 

感嘆することが

できた。

 

受講生の皆さんは

間違いなく、

本来の自分を

感じ取れている。

 

ここまで来るのが

大変なのだが、

しかし

本当はここからこそが

スタートだ。

 

本来の自分を

思い出したら、

そこから

本来の人生が

始まる。

 

本当の

挑戦と

試行錯誤は

ここからだ。

 

ただ、

 

今は一人一人が

自分の足で

自分の大地に

立っている。

 

これは本当に

喜ばしいことだ。

 

・・・・・・

 

人は

たくましく

なればなるほど、

 

肩の力が

抜けていく。

 

静かに

なっていく。

 

しかしその奥に

潜むエネルギーは

極めて強く、

そして明るい。

 

それは

無尽蔵の

エネルギー

だからだ。

 

自分と向き合う

とは、

その無尽蔵の

エネルギーと

向き合うという

ことでもある。

 

そして、

無尽蔵のエネルギー

無尽蔵に使えばいい

という

ものではない。

 

どこに

どれだけの

エネルギーを

どのように

使うか?

 

それを

自由自在に

自ら選択し

実行することが、

「自分の人生」

である。

 

「自分の人生」の

始まりを

皆さんは

手に入れた。

 

であれば、

思う存分に

進んでほしい。

 

ここからが

本当の

加速だ。

 

つづく

 

早くスタートラインに立とう

 

ある一つの視点から

観たとき、

私は

人の成長には

二つの段階があると

思っています。

 

一つは、

 

「本来の自分を

取り戻す」

 

段階です。

 

もう一つは、

それを成し遂げた上で、

 

「本来の自分を

さらに進化させる」

 

段階です。

 

現時点では、

私がサポートさせて

いただいている

ほとんどのケースは

前者です。

 

そして

本当に数えるほどの

ケースとして

後者に入っている段階の

人がいらっしゃいます。

 

・・・・・・

 

「本来の自分を

取り戻す」

段階で大切なことは、

 

自分の中の

余分なものを

手放し続ける

ことです。

 

私達はともすると、

成長とは

どんどん新しい服を

重ね着していくこと

であると

勘違いします。

 

しかしそれは

まったくの逆。

 

本来の自分を

取り戻すためには

着ている服を

どんどん

脱ぎ捨てていくことです。

 

変な表現ですが、

ある意味

素っ裸に近づいて

いくこと。

 

するとその人は

とても自然体になり、

本当に自分を

取り戻します。

 

そして、

なんで私は

あんなことに

悩んでいたのだろう?

 

何をそんなに

こだわっていたのだろう?

 

もっと

大切なことがあったのに。

 

同じ悩むのであれば、

もっと私の人生にとって

充実した悩みが

あったのに。

 

・・・と、

ふと我に返る

感覚となります。

 

そして本当は、

我に返ってからが

スタートラインです。

 

ここから

本来の人生が

スタートします。

 

ですので現時点では

多くの方々が

まだ、

人生のスタートラインにも

立っていません。

 

極端な表現ですが。

 

・・・・・・

 

本来の人生とは

一本道です。

 

自分で決めている

道があるのです。

 

真本音の道です。

 

我に返ると

その道が

ありありと

観えてきます。

 

と同時に、

こんなにもはっきりとした

太くてまっすぐな

一本道があるのに、

 

自分がわざわざ

その道を外れ、

まるで獣道のように

心もとない脇道ばかりに

入っては戻り、

入っては迷い、

していたことを

自覚します。

 

進んでいるようで

肝心な方向には

ちっとも進んでいなかった、

そんな自分を

認識します。

 

ただし、

そんな自分が

ダメだ、

と思う必要はありませんし、

そう思う感情も

湧いてきません。

 

あっそっか、

ああやって脇道に

入り続けてきたからこそ、

本当の一本道を

見つけることができたのだな、

と自然に思えます。

 

・・・・・・

 

一本道を進むことは

とてつもなく充実し

楽しいことです。

 

もちろん課題や問題は

たくさん来ますが、

それらに取り組むこと

そのものが

幸せです。

 

“進んでいる感”

が半端ないからです。

 

やはり私達は

進むべき方向に

進んでいる時が

最も幸せなんです。

 

それこそ人間。

 

そして。

 

その一本道を

ズンズンと進むと、

一つの「ライン」が

観えて来ます。

 

その「ライン」まで来て

ようやく悟るのです。

 

あぁそうか、

ここでようやく私は

「本来の自分」に

戻れたのだな、と。

 

そしてこの

ラインから先は

未知の領域

なのだな、と。

 

この、

未知の領域こそが、

そこを進むことこそが、

恐らく、

私達の人間としての本能が

最も悦ぶ段階です。

 

「本来の自分を

さらに進化させる」

段階。

 

早く、

多くの人達が

そこまで来れるといいなぁと

願っています。

 

つづく

 

自分は本当に気持ち悪かったなぁ

平井さんは人生で初めて、

自分の中に「中心軸」が生まれたのを

感じたそうです。

(→前回記事)

 

それはとても気持ちのよいものでした。

 

恐らく、私が真本音というものを「海」のような存在として

実感したのと同様の感覚だったと思います。

 

実を言うと、

「中心軸」は最初からそこにあるものです。

 

真本音とは

最初からそこにあるのです。

というよりも、それこそが「本来の自分」であり、

それ以外の自分は極端に言えば

「幻想の自分」と表現してもよいくらいです。

 

人は「本来の自分」の存在を感じ取ることで、

まるで酩酊状態から覚めたような感覚を得ます。

シラフに戻った感覚。

我に返った感覚です。

 

その状態を「覚悟」と言います。

 

「覚悟」とは、

我に返った自分が、

・自分の為すべきこと

・自分の為すべき役割

・自分が本当にしようと思っていること

に向かおうと決めることで現れる

私達人間にとっては実に自然な状態です。

 

「自然体」と言ってもよいでしょう。

 

平井さんはその状態に入りました。

 

中心軸を思い出し、自然体に戻り、

覚悟を持った平井さんは初めて、

これまでの自分にいかに中心軸がなく、

不自然で、覚悟のない状態のまま

闇雲に生きていたか、を思い知ることになりました。

 

「これまでの自分が気持ち悪い」

と言い出したのはここからです。

 

「以前の自分は寄生虫でした」

と表現したのもここからでした。

 

本来の状態に戻って初めて、

自分が「普通でなかったこと」や

「気持ち悪い状態で生きていたこと」に気づいたのですね。

 

そして人は、

気持ち悪い状態には戻りたくない生き物です。

 

ですので平井さんは、

覚悟を持つのが当たり前の状態として

進むことができるでしょう。

 

もちろん、「ぶり返し」というのはあります。

つまりは以前の自分の状態に戻ってしまうことです。

 

平井さんも実際に、その後に、ぶり返しを

何度も経験されました。

 

しかし一度でも本当に覚悟を持った人間は必ず

そこに戻ることができます。

しかも、ぶり返しを経験すればするほど、

どのような状態になってもすぐに本来の状態に戻れる、

そんな力が養われます。

 

そうして平井さんは

人として本来持っている「自分の人生を生きる力」を

開花させていきました。

 

覚悟を持った平井さんが実際にされたこと。

まず平井さんは自分なりの経営計画を

創られました。

それを社長に提出し、社長と何度も話し合いを重ね、

それが承認されると、

次に彼が行なったのは社員面談でした。

 

彼は、「社員を主役にするリーダーシップ」を発揮したい

という真本音の願いを持っていました。

それを実現するためです。

 

それまでの平井さんは、

社員さん達の声をじっくりと聴くことは

ほとんどして来ませんでした。

社員面談自体は何度もされたそうですが、

それは「声を聴いたふりをしている面談」だったそうです。

 

「私にも真本音があったのと同様に、

社員にも真本音があるはずです。

私はそれを知りたい。

皆の真本音を尊重し、真本音の願いが共鳴し合う

会社にしたいのです」

というのが平井さんの目的でした。

その結果として必然的に経営計画を達成したいのだと。

 

とにかく平井さんは社員さん達と

向き合って向き合って向き合い続けました。

 

「向き合うのが本当に楽しいです」というのが

平井さんの口癖になりました。

 

で、この時になって平井さんは

平井さん本来の「味」を醸し出していたのです。

 

平井さんのお話をなぜ書かせていただいているか?

それは、私達人間の持つ「本来の味」について

お伝えしたかったのが、このブログの平井さんストーリーの

スタートでした。

 

人は、どうすれば

本来の味を醸し出すことができるのか?

 

その答えは、

「覚悟」であり「中心軸」であり「自然体」です。

 

そしてそれらは、

「覚悟を持たなきゃ」でも「中心軸を持たなきゃ」でも

「自然体にならなきゃ」でも

実現できません。

 

自分自身の真本音に素直に行動することで、

自然にもたらされるものです。

 

本当に覚悟を持っている人は、

「私には覚悟がある」

などとは表現しません。

それはあまりにも自然な状態だからです。

 

そういった人は、

その人本来の味を醸し出し、

それがその人ならでは魅力として

周りには映ります。

 

それは言葉では表現できないような

感覚としての魅力です。

 

なんかこの人と一緒にいたいな。

この人と一緒に仕事していると幸せだな。

この人とこれからもずっと一緒にがんばりたいな。

 

そんな気持ちを自然に湧き立たせてくれる

魅力です。

 

そういった人が

組織や社会に溢れるといいなぁ、と

私は心から思います。

 

つづく

 

穏やかな顔の奥にある、強烈な拒絶

人間の魅力はどこで決まるか?

 

この問いには様々な答えがあると思いますが、

重要な答えの一つとして、私は

 

「その人本来の味を出せているかどうか?」

 

であると、企業現場においていつもつくづく

感じています。

 

特にリーダーという役割を果たす人が

・その人本来の味を出しながらリーダーシップを発揮するのと

・その人本来の味を消しながらリーダーシップを発揮するのでは

同じ人がリーダーをやっても雲泥の差が生まれます。

 

その差とは、

人がそのリーダーに対して抱く信頼度の差だけでなく

業務上の成果の差としても如実に現れます。

 

チームのメンバーがイキイキと仕事をし、かつ

チームとしての輝かしい成果を上げている場合、

まず間違いなく、そこには

「自分の本来の味を醸し出している魅力的なリーダー」

が存在します。

 

さて。

 

そういった意味で、

前回から例に出させていただいている平井さんは

最悪の状態だったと言ってよいでしょう。

(→前回記事)

 

平井さんは、本来の「味」を出しているどころか、

平井さんという「存在」そのものを私は

感じ取ることができませんでした。

 

なぜなら、彼の心の中心には、

「社長から評価を得たい」

という気持ちがドップリと根付いていたからです。

 

彼の言動のすべては、

そこから始まっていました。

 

彼は、決断力がありました。

彼は、堂々としていました。

彼は、とても言葉が巧みでした。

 

しかし、彼の部下は皆、疲弊していました。

 

そして本人は気づいていませんでしたが、

平井さん自身も、疲弊の極みにありました。

 

しかし彼のコーチングの初期段階では、

取り付く島がありませんでした。

 

私がどのような質問をしても、

彼の口から出てくる答えは、私の胸には

響きませんでした。

つまりそういう時は、

その人の本心の言葉ではない、ということです。

 

ですので、私は彼の本心を理解したいと

思いました。

 

ところが、彼は肝心なところに来ると、

空気感でもって、私を拒絶しました。

 

タチが悪いのは、

表面上の彼は穏やかだったことです。

しかし、「これ以上は私に触らないでください!」と

悲鳴にも似た拒絶が

空気感としてこちらに伝わって来るのです。

 

これにはまいりました。

 

彼の口癖は、

「そういうものですから。」

それ以上でもそれ以下でもないので、もうこの件については

これ以上問わないでくれ、

という彼の拒絶の意思表示でもありました。

 

ですので、コーチングの初期では

随分と沈黙の多い時間となりました。

 

沈黙の最中も、彼は穏やかな表情でいました。

すべてを私は受け止めますよ、

という表情。

 

しかしそれは表面だけ。

表層の皮を一枚剥がせば、

彼は「拒絶」の権化でした。

 

彼の言う、「そういうものですから」という彼の答えは、

もともとすべて、社長が言われた言葉ばかりでした。

 

つまり彼の中では「社長がすべて」。

「社長が真実」。

「社長が原理原則」。

そして、

その原理原則は、何があっても崩れない、

というものでした。

 

これがいわゆる、「社長が取り憑いた状態」です。

 

一種の洗脳状態ですが、

これは彼自身が望んで、

自らそのような状態を創り出していました。

 

もちろん、社長にも問題はあったでしょう。

こういった状態になるまでには、

社長のコミュニケーションの取り方も

原因としては大きいとは思います。

 

しかし、基本的には彼の自業自得。

 

彼自身が望んで創り出した現実。

 

彼は自ら社長が取り憑いた状態を創り出し、

自らの人格を、ある意味、殺しました。

 

そんな彼がリーダーをするわけですから、

彼の部下の皆さんのほとんども、

多かれ少なかれ、自分らしさとか自分の本当の気持ちを

押し殺したまま仕事を続けていました。

 

私がある意味、すごいなぁ、と感心したのは、

そのような状態でも、ある一定以上の業績を

彼と彼の部下の皆さんは残していたことです。

 

これは本当に凄い。

 

しかし、それ以上に、彼らの疲弊ぶりは

尋常ではありませんでした。

いつ誰が倒れてもおかしくない状態。

しかも「そのような状態で頑張ることが格好いい」という風潮。

 

なかなかに酷い状態でした。

 

実はこの後、平井さんは劇的な改善をし、

本来の自分を取り戻していくことになるのですが、

そういった状態になった後で、部下の皆さんに当時のお話を聴くと、

皆さんはまだ健全だったことがわかりました。

つまりは、

「あの頃は最悪でした。

私は、本音の一つも口に出せませんでした。

平井さんのことが気持ち悪くてしょうがありませんでしたし、

この会社にいることが、本当は嫌で嫌でしょうがありませんでした」

と素直に思っていたのです。

 

しかしそのような状態でもある一定以上の業績を出せるということは、

彼らのもともとのパワーがとてつもなく高かった

ということでもありました。

 

逆に言えば、

そんな彼らが、本来の自分として働けたら、

さらに凄いことになる、ということです。

(実際にそうなりました。)

 

さて、このように酷い状態の平井さんでしたが、

彼が本来の自分を取り戻し、

本来の「味」を醸し出せるようになるまで、

実は半年もかかりませんでした。

 

もちろん私自身も

そんなに短期間で改善されるとは

当初は思いもよりませんでした。

 

一体何が起きたのか?

何を起こしたのか?

 

公に書けるギリギリのところまでを

思い切って書いてみようかな、と

思っています。

 

つづく