無茶

無茶もしょうがないだろう

 

自分自身の

エネルギーコントロール

ちゃんと安定的に

できる状態で

 

前に進むことは

とても重要だ。

 

しかし、

 

自分の成長を

急ぐことは、

 

エネルギーコントロールを

上手にやろう、

 

ということを

一時的にとは言え

手放すことだ、

 

とも言えるのだ。

 

私のクライアントさんや

受講生さん達は、

 

多少、自分が

不安定になっても

 

自己成長を

真っ先に優先したい!

 

異常なまでに

望む人達が多い。

 

異常だ。笑

 

まぁ、私自身が

そうだから、

類は友を呼ぶのかも

しれないが。

 

それにしても

無茶をする人は

多い。

 

で、あえて

言うのだが、

 

今は

無茶をしろ。

 

・・・なんか

支離滅裂なようだが、

 

今は

しょうがない。

 

特に

もうすぐ始まる

7月からは。

 

喩えて言えば、

 

今、私達の目の間には

川の急流が

あるのだ。

 

ここまでジャングルを

探検していたら、

川と出会った。

 

この川の流れに

乗れば、

どうやら一気に

行きたいところへ

辿り着けそうだ。

 

しかし流れは

激しく、

すぐにその激しさに

自分は

呑み込まれてしまう

かもしれない。

 

でも、

 

それでも自分は

行きたい。

 

早くその地に

辿り着き、

 

しかしそこは

真のゴールではなく、

むしろ

そここそが

真のスタート地点で、

 

そこから

新たな探検の

ステージが始まる。

 

そしてその

新たなステージこそ、

 

そこを探検する

ことこそ、

 

私がこの世に

生まれてきた

目的だ。

 

・・・という感じ。

 

そう思うと、

たとえ流れが

激しかろうが、

 

今、目の前に

展開するこの川に

 

飛び込んで

しまいたい、

と思うのは

 

やむを得んだろう。

 

かく云う私だって

もう

飛び込むと

決めている。

 

まぁだから、

多少の無茶は

しょうがない。

 

その覚悟を持って

進もうではないか。

 

つづく

 

ちょうど100%のスピードで

 

無茶する人が

多い。

 

多い、というか

増えている。

 

そう言えば

以前にもこんなこと

書いたっけな。

 

しかし

その時以上に今、

急増している。

 

無茶がいけない

わけではないが、

 

あまりの無茶は

不調和を

起こしてしまう。

 

たとえその方向が

真本音が望む

方向だとしても。

 

最大速で

進むことは大事だが、

 

自分の限界を超えた

最大速は

自己コントロールを

失わせる。

 

今、自分が出せる

最大速は

どこまでだろうか?

 

という視点は

とても大事なんだ。

 

それこそが

自己マネジメントでは

ないかな。

 

・・・・・・

 

自分に問うて

みてほしい。

 

私は今、

躊躇しているだろうか?

 

と。

 

していない。

 

と直観的に

答えが浮かべば

OK。

 

次に問うて

ほしい。

 

自分は今、

無理をしているだろうか?

 

と。

 

直観的に

 

している。

 

と返ってきたら、

それは

あまりよろしくない。

 

躊躇はしていないが、

無理はしている

という状態。

 

これは残念ながら

長続きしない。

 

それどころか

シワ寄せが

周りに与えられてしまう。

 

結果的に

物事の展開が

遅くなってしまう。

 

101%でもなく、

99%でもなく、

 

ちょうど100%の

力とスピードで

進もう。

 

それを見極めることが

今の私達の

テーマでもある。

 

これができれば

世の中は

進化を続けられる。

 

すると、

私達の100%そのものが

進化をし、

さらにスピードアップ

できる。

 

それによりさらに

世の中の進化も

スピードアップする。

 

この循環を

創り出そう。

 

躊躇はしなくて

いいが、

無理はするな。

 

楽しみながら

進もう。

 

つづく

 

思い切って信じてみよう

 

広い野原を

走っていたら、

断崖絶壁に

出た。

 

地面が割れ、

深い谷が落ちている。

 

絶壁から顔を出し、

恐る恐る下を

覗けば、

その谷はあまりに深く、

下は暗く、

まるで奈落の底だ。

 

ここを落ちたら

一巻の終わりだと、

全身が震えた。

 

でも私は

この深い谷を

越えなければ

ならない。

 

ここを飛び越えて、

向こう岸に行き、

さらに野原を

突き進まなければ

ならない。

 

しかも、

期限が

迫っている。

 

切り落ちた

深い谷の向こう岸まで

恐らく50mほど。

 

さて、

どう行くか?

 

・・・・・・

 

すると、

向こう岸に

人が現れた。

 

こちらを見て

ニコニコしている。

 

手を振ってきた。

 

私も手を

振った。

 

声が聞こえた。

 

「早く

おいでよ!」

 

と。

 

「渡る術が

ないんだ!」

 

と私が

叫ぶと、

 

「大丈夫!

思い切って

飛んでごらん。

飛べば、

暗い谷の奥から

風が吹き上がってきて、

あなたが

落ちることはないから。

そして、

その風が

あなたをこちら側まで

運んでくれるから!」

 

との返事。

 

私はその人を

じっと見つめた。

 

するとその人も

私を

見つめてきた。

 

50mも離れているのに、

目と目が合った瞬間、

つながり合えた

気がした。

 

嘘を言っているようには

思えなかった。

 

とは言え、

本当にその人の

言う通りになる確証は

何もない。

 

とは言え、

ここを飛び越える

術も

他にはない。

 

どうする?

 

あなたなら

どうする?

 

・・・・・・

 

私は

躊躇なく

跳んだ。

 

すると、

本当に暗い谷から

風が吹き上がり、

私は

飛んだ。

 

風に身を委ねると

難なく

向こう岸に

たどり着いた。

 

その人は

その様子を

ニコニコと

見守っていた。

 

その人のもとに

降り立つと、

その人は

 

「おかえり」

 

と笑った。

 

「あなたは

どなたですか?」

 

と私が

訊くと、

 

「何言ってんの」

 

と、

さらに笑いながら、

突然その人は

私に近づいてきた。

 

えっ?と

驚く間もなく、

その人は

私に溶け込んだ。

 

それで

わかった。

 

なんだ、

私じゃないか。

 

私の

真本音だった、

と。

 

・・・・・・

 

私は私の

真本音を信じた。

 

だから、

すぐにこちらに

来れた。

 

しかしもし

信じていなかったら

どうなっただろう?

 

間違いなくまだ

もとの場所に

いただろう。

 

そして

ここをどう渡るかを

悩んでいるか、

もしくは

あきらめるか・・・。

 

いずれにしても

多大な時間が

かかるだろう、

ここまで来るには。

 

そう思いながら

野原をさらに

進むと、

またもや

断崖絶壁が。

 

今度は

向こう岸まで

100mくらいある。

 

しかし

またもや向こう岸に

人が現れた。

 

遠くて豆粒の

ようだが、

やはりあれも

私の真本音なのだろう。

 

その人は

「おいでおいで」と

手で合図をした。

 

だから私はまた

躊躇なく

跳んで、

そして飛んだ。

 

あっという間に

次の岸へ。

 

恐らくこれから

どれだけ多くの

谷が現れても、

その向こうに

真本音が現れるならば、

私は難なく

進み続けるだろう。

 

もちろん

谷の難易度は

これからずっと

高まるかもしれない。

 

しかし、

やることの本質は

同じだろう。

 

真本音を信じて

その通りに

進むだけだ。

 

私は、

最初の50mの谷で

経験ができた。

 

だから

より確信を持って

真本音の通りに

進むことができるように

なった。

 

みんな

そうなればよいと

思う。

 

真本音は

無茶しない。

 

いやいや、

跳ぶのは無茶でしょ、

言われるかも

しれない。

 

しかし、一度でも

跳んでしまえば、

それがまったく

無茶ではないことは

よくわかるのだ。

 

そんなもんだ。

 

だから

思い切って

やってみようよ、

真本音の通りに。

 

つづく

 

あなたはタガを外しますか?

 

初めてお会いした

その瞬間に、

 

「あっ、この人

無茶をする人だな」

 

と直観する人が

います。

 

そういう人は

ほぼ間違いなく

本当に

無茶をします。笑

 

ただし当然のことですが、

本人にはその認識は

まったくもって

ありません。

 

本人は、

自分は怖がりだ、

と言うのですが・・・。

 

・・・・・・

 

無茶するのが

良いことであると、

私は決して

思いません。

 

それどころか、

人はやはり

しっかりとした

その人なりの基盤を持ち、

その安定の上で

進んだ方がよいと

思います。

 

一見、

無茶をしているように

見える人も、

実はその基盤が

しっかりとあるのですね。

 

まるで大地のような

安定したところに

立っているからこそ、

本人は

ゆとりを持って

進んでいる。

 

でも結果として、

周りからはそれが

無茶である、

と見えるだけのこと。

 

・・・だと思います。

 

・・・・・・

 

あぁこの人、

無茶をする人だな、

と思えるということは、

 

この人は、

安定した大地に

立っているんだな、

ということと同義です。

 

つまり人は、

安定すればするほど、

無茶をします。

 

安定していないから

安定を求め、

安定をしたら

無茶をする。

 

それが人の本質

であり、

人の面白さでも

ありますね。

 

・・・・・・

 

無茶する人と

一緒にいると、

無茶させられます。笑

 

でも私は

それが楽しくて

しょうがありませんので、

我ながら

困ったものです。

 

そろそろ私は、

この辺りで一つ、

自分自身のタガを

外そうかな、

と思っています。

 

タガを外すと、

どんな自分が

出てくるのか?

 

ちょっとばかり

怖いのですが、

まぁでも、

そろそろ、いいかな。

 

あなたは

いかがですか?

 

そろそろ

タガを外す準備は

できているのでは

ありませんか?

 

つづく

 

地に足をつけようとしてはならない時がある

人も組織も

『脱皮』

をする時があります。

 

そして脱皮の段階においては

平常時とは真逆の選択をしなければ

ならないことがあります。

 

平常時の原理原則が

まったく役に立たなくなるのです。

 

例えば、

「自分にどんどん不安定を与える」

ことが大事になります。

(→前回記事)

 

さらに、次のことも

大事です。

それは、

 

「無茶をする」

 

ということです。

 

平常時においては、地に足のついた選択と行動が

大切です。

 

しかし、脱皮をしている間は、

地に足をつけようとしても、

その、「地」そのものがありません。

それはまるで、

空中に浮かんでいるかのようです。

 

足元がないので、

いつでも「落ちる恐怖」に苛まれます。

そこで多くの人は、

バタバタと足を空回りさせ、

悪あがきをします。

 

しかし「地」そのものがないので

どうしようもありません。

 

ですので、脱皮の時は、

地に足をつけること自体を

あきらめます。

 

空中に漂うままにします。

落ちる恐怖や、実際に落ちる感覚もありますが、

そこは、あきらめてしまうのです。

 

そして、

どうせ地面がないのですから、

無茶をしてしまうのです。

 

こんな時こそ、

自由発想です。

 

ただし。

 

わざと「無茶をしよう」と考えることも

厳禁です。

「無茶をしよう」という意図そのものが、

すでに自分に「無茶」という枠を

はめるからです。

 

ただただ純粋な、

自由発想をします。

 

どうせ、何をしても怖いのだから、

怖さは変わらないのだから、

思い切って心を自由にするのです。

 

すると、

本当にとんでもない発想が

出ることがあります。

 

とんでもない発想が出た場合には

そこに、

立ち向かっていくのです。

 

それを実行に移そうとするのです。

 

大丈夫です。

 

脱皮とは、

私達の真本音の意図に

基づいています。

 

行動に移そうとして、

もしそれが本当に行動できたとすれば、

それは、真本音の行動です。

 

行動に移そうとして、

もしそこで体が止まってしまうのであれば、

それは、私達自身の真本音が

止めている、ということになります。

 

ですので、本当に危険なことは

行動に移すことができません。

 

何をどうしても不安定なまま。

・・・という状況の中だからこそ、

私達は、

「開き直る」

ということができます。

 

開き直った人は

強いです。

 

開き直ることで、

これまで体験したことがないくらいに

真本音度合いを高めることが

できるのです。

 

脱皮とは、

そういった自己革新のチャンスである

とも言えます。

 

『不安定をどんどん自分に与え、

しかも無茶をする』

 

それが、脱皮時における

原理原則の一つです。

 

脱皮時に

きちんとそれができる人は、

脱皮そのものの頻度も

上がっていきます。

 

すると、人生が加速します。

 

私たちは、

脱皮そのものに楽しさを

見出すこともできるようになるのです。

 

それが、

人間の凄さであると

私は思います。

 

つづく