自由

なぜ私はこんなに苦しむのか

自分の人生で起こる

すべての現実は

すべて自分自身が

引き起こしているものであると

本当に自覚した人は

幸せです。

 

頭での理解ではなく、

肚での理解。

 

まったく本当にその通りだと

わずかな淀みもなく

そう理解できた状態を

『覚悟』

と言います。

 

人は、

覚悟を持つと

軽やかになります。

 

すべてから解放・開放された

感覚に満たされます。

 

それは言葉を換えれば、

『自由』

です。

 

ですから私は

「覚悟」と「自由」は

イコールであると思っています。

 

自分自身の人生に対して、

そして

すべての現実に対して、

人が

「覚悟」を持つ瞬間と

私は多く立ち合ってきました。

 

「覚悟」を持った瞬間の

その人の

晴れやかな表情を

どう表現すればよいでしょうか。

 

恐らくその瞬間とは、

人間としての幸せのすべてが

凝縮されているのだと

私には思えます。

 

その瞬間から

人は、

「逃げる」必要がなくなるから

です。

 

私達の魂を淀ませるものの

本質とは

「現実逃避」です。

 

いざとなれば

逃げればいい。

 

ここから

逃げ出したい。

 

逃げれば

何とかなる。

 

・・・そういった

「逃げ」への可能性を

心のどこかに秘めている内は

私達は

苦しみ続けます。

 

自分を救おうとするために

「逃げ」という選択肢を

私達は持つのですが、

実はその選択肢そのものが

自分を苦しめている

というのが人生のカラクリの

一つです。

 

かと言って、

「逃げを手放そう」

としてもいけません。

 

「逃げを手放そう」

とすればするほど、

「逃げ」に執着するのも

私達人間です。

 

「逃げを手放したフリ」を

している人も

私は数多く拝見してきましたが、

そういった人達は

本当に苦しそうです。

 

手放したつもりで

執着の度合いを高めている

からです。

 

私はよく、

「人はもっと楽に

生きることができる」

という表現を使います。

 

しかしその言葉を聴くことで、

すぐに「逃げ」に入る人も

います。

それにより、余計に苦しむ

ことになります。

 

ですので、

「人はもっと楽に

生きることができる」

という言葉は使うべきではないかな、

と思った時期もありました。

 

しかしそれでもやはり、

私は言わねばなりません。

 

人はもっと楽に

生きることができます。

 

そのためには、

逃げなければよいのです。

 

しかしそのために

「逃げ」をなくそう、とか

「逃げ」を手放そうと

してはなりません。

 

じゃあ、

どうすればよいのでしょうか?

 

実はその答えは、

私がこれまでずっと

このブログでお伝えし続けてきた

ことと同じです。

 

「逃げようとしている自分」を

あるがままに

観察する、ということです。

 

「観る」

ということです。

 

そして、その自分を

操作しようと

しないことです。

 

存在を承認する、

それだけのことです。

 

「逃げようとしている自分」と

真摯に

向き合ってみてください。

 

自分は

何から逃げようと

しているでしょうか。

 

それは

ほんの些細なことから

かも知れません。

 

もしくは、

人生を左右する大きな

ことかも知れません。

 

物事の大小は

重要ではありません。

 

逃げようとしている

その姿勢そのものが

本質です。

 

その本質を

きちんと観つめること。

 

観つめ続けること。

 

じーっと

観つめていれば、

ある瞬間から

そんな自分を可愛らしく

感じるはずです。

 

すべての反応本音は

本当は

可愛らしいのです。

 

可愛らしく

感じることができたら、

そんな「逃げる自分」に

伝えてあげてください。

 

「君は可愛いなぁ。

君はそこにいていいんだよ。

だって

それが人間じゃないか。」

 

その瞬間に

私達は解放・開放されます。

 

解放・開放されたときに

自分が立っている大地。

 

その瞬間の自分。

 

それが、私達の

『真本音』

です。

 

「真本音で生きる」とは

覚悟を持ち自由に生きる

ことなのです。

 

つづく

 

観察するだけで私達は自由になれる

「直観力」を増すには、

「普通の生き方」を取り戻すことが

重要。

そしてそのための第一のステップが

『観察』

であり

『観る』

ことです。

・・・というところまで

お話ししました。

(→前回記事)

 

「観る」とは、

あるがままを見る、

ということなのですが、

実はこれはさらに本質的なことを

言えば、

「脳を使わずに見る」

ということにもなります。

 

こういう書き方をすると

かなり難しい印象を

受けるかもしれません。

 

しかしあえてここでは、

本質的な表現を

使わせていただきます。

 

「観る」とは

ここにあるすべてのものを

脳を使わずに見ることであり、

感じることであり、

それをしている自分自身は

その瞬間は、

「ここに在るだけの存在」

となります。

つまり、自分には

何の解釈もなく

何の評価もなく

何の判断もない

状態です。

 

これは正しい、とか

それは素晴らしい、とか

反対に

これはおかしい、とか

これはつまらない、とか

そういった

自分の中から発生する心、

つまりは反応本音からは

完全に解放されています。

 

ただし、解放とは、

それらの反応本音をゼロにするとか

抹消するということでは

ありません。

 

それらの反応本音それ自体も

観ている状態です。

 

つまり、

自分の心の中にあるものも

外にあるものも、

すべての存在を

観ている状態であり、

それをしている自分自身は

すべてから解放されています。

 

「ただ在る」

 

それ以上でも

それ以下でも

ない状態となっています。

 

そこには

何があっても

よいのです。

 

そして、

すべてから

解放されています。

自由です。

 

これこそが

「自然体」と言えるもの。

 

私達人間にとって

「普通」の状態です。

 

いやいや、

そんな、まるで悟りを開いたかのような

状態が普通であるはずかない、

それは修行を積んだ

特別な人が手に入れる

特別な状態だ、

と思われる人もいるかも

しれません。

 

いやいや、

その固定観念こそが

私達の生き方と

今のこの世の状態を

創り出してしまっています。

 

それは本当に

特別な状態ではなく、

誰もがもともと持っている

普通の状態です。

 

別にその状態になることで

人格者になるわけでも

ありませんし、

超人になるわけでも

ありませんし、

稀有の存在になるわけでも

ありません。

 

何があっても

オールOK。

しかしその「オールOK」とは

解釈による「オールOK」ではなく

本当にただそこに在るだけの

「オールOK」です。

 

そうなれた時、

私達は

今ここに在るすべてのものを

リアルに

ダイレクトに

実感できます。

 

それはある意味

実に感動的です。

かといって

気持ちが高ぶる感動ではなく、

トツトツとした

魂が静かになるような

安心感と安堵感に満たされた

感動です。

 

その時の実感をあえて

心の声として表現すると、

「あぁなんだ。

すべてが普通ではないか」

・・・というような感じに

なります。

 

すべての存在に対してそれが

「存在していることを承認」

しています。

 

すると自分自身から

とてつもないエネルギーが

発生します。

 

それは、すべてを存在承認しながら

その「分離」を楽しんでいるが故に

発生するエネルギーです。

 

そのエネルギーは

分離して存在している

あらゆるものを

大切にしよう、

それらと

一つになろう、

というエネルギーです。

 

それを私達の言葉で

『愛』

と言います。

 

この「愛」を発する状態で

すべての物事と向き合い、

関われば、

あらゆる物事が

調和していきます。

 

物事がすぐに

頓挫する人生を送る人と、

物事がどんどん

調和する人生を送る人の

違いが

この「愛」の発生量です。

 

私達がもともと持っている

このエネルギーを

使いながら生きるかどうか?

なのです。

 

・・・

だいぶ今回は

本質をそのまま躊躇なく

表現する文章に

なってしまいました。

 

できましたら、

今回の文章は

頭で解釈するよりも

魂でそのまま

感じ取っていただけると

よいかな、

と思っています。

 

次回からは、

自分の心の「観察」の仕方、

自分の心を「観る」コツ

などを

お伝えいたします。

 

つづく

 

意図から自由になるために、とことん意図する

自分自身の思考レベルでの

思惑や意図に捕らわれ、

それを達成するために

必死になって策謀を重ね、

焦りながらも結果を出そうとする。

 

・・・そんな疲れる人生から

私達は自分を解放することが

できるのです。

 

前回の記事で

私は上記のように書かせて

いただきました。

(→前回記事)

 

今回は、この件について、

もう少ししっかりと

書かせていただきますね。

 

「意図を持たずに生きる」

という言い方をしますと

誤解をされることが多いです。

 

そっか、意図を持たなくていいんだ。

何も考えずに行けばいいんだ。

・・・という誤解です。

 

逆です。

 

自分の意図に執着せずに、

自分の意図から自由になるためには、

とことんまで

意図を考えることが重要なのです。

 

意図から自由になるためには

意図をしっかり考える。

 

一見、矛盾しているようですが、

そうではありません。

 

例えば、

肩に力が入っている場合、

肩の力を抜く最も簡単な方法は、

「肩の力を抜こう」

とすることではなく、

「思いっきり肩の力を入れてしまう」

というやり方です。

 

とことんまで

肩の力を入れると、

フッと、力が抜けます。

 

その要領と

同じことなのです。

 

例えば、明日

大事な営業があるとします。

 

どうしても受注を

しなければならない。

 

果たして良いクロージングが

できるだろうか?

 

不安に苛まれていると

します。

 

そんな時に、

「不安になるな、不安になるな」

「気楽に行け、気楽に行け」

と、どれだけ自分に言い聞かせても、

余計にガチガチになる

だけでしょう。

 

そんな時は、

とことんまでクロージングの

イメージをするのです。

 

思いっきり自分の意図を

明確にし、

意図に基づいて、

「こうしたい」「こうなりたい」

「こんな展開になれたらいい」

という自分の思惑を

しっかりとイメージ化するのです。

 

イメージしてイメージして

イメージし尽くせば、

ある瞬間に、

フッと楽になります。

 

まぁこれだけイメージしたのだから

何とかなるだろう、

と自分の中で「完了感」が

生まれるのです。

 

そして次の日に、

実際にお客様にお会いする直前にも

前日のイメージをしっかりと

思い出します。

 

まぁこれだけイメージしたのだから、

やるだけのことはやったな。

 

そんな気持ちを持ちながら

お客様の前に出ます。

 

そして「今ここ」に意識を向ければ、

自分がイメージしてイメージして

明確にし尽くした「意図」が

どうでもよくなります。

 

意図やイメージを

ポンっと手放すことが

できるようになるのです。

 

するとどうなるか?

 

「今ここ」に

完全に集中することが

できます。

 

そして、

次にどんな一言をお客様に

投げれば良いか?など、

直観がどんどん働くように

なります。

 

その直観こそが、

真本音の意思です。

 

その真本音の意思に

委ねれば良いのです。

 

直観のままに

直観に素直に

行動をするのです。

 

それが

「自分に委ねている」

状態です。

 

私達人間には

考える力があります。

 

考えることを放棄するのは

単なる怠慢です。

 

怠慢な人には残念ながら

直観は生まれません。

 

考え尽くすからこそ

直観は生まれます。

 

思考とは

直観の呼び水なのです。

 

ただし、

上記のように、

よく考え、よく意図を持ち、

その上で意図を手放し、

直観に委ねる、

ということを続けていますと、

考えたりイメージをするのに要する時間は

どんどん少なくなります。

 

考えなくても

直観のみが、

次々に湧き起こる状態に

なっていきます。

 

そうなると本当に

楽ですね。

 

しかしその境地まで行くには、

よく考える、

ということが必須なのです。

 

つづく

 

座標軸が一本増えれば世界が変わる

一般的に言われている

ことですが、

物理的な視点から言えば、

「1次元」とは

直線を意味します。

 

そして、

「2次元」とは

平面(縦×横)を意味します。

 

さらに、

「3次元」とは

立体(縦×横×高さ)を意味します。

 

このように、

次元が増えるごとに

座標軸が増えます。

 

座標軸が増えるということは

自由度が上がるということです。

 

そして、

もし1次元の世界で生きている人間が

いるとしたら、

1次元の人は2次元の世界を

決して見ることはできません。

 

2次元の人は3次元の世界を

決して見ることはできません。

 

しかし逆はできます。

 

3次元の人は

2次元や1次元世界を見ることが

できますし、

2次元の人は

1次元世界を見ることができます。

 

直線世界の人の前に

もし壁があったとします。

 

どうしてもそれを

乗り越えることができません。

 

しかし平面の世界の人から見れば、

壁の横を通り過ぎれば

良いだけのことがわかります。

しかし、

直線の世界の人にはそもそも

「横を通り過ぎる」

ということ自体を理解できません。

 

今度は、

平面世界の人に大きな壁が

立ち塞がっていたとします。

その壁は、

横にも無限に続いていて、

どうしても乗り越えることが

できません。

 

しかし、

立体世界の人から見れば、

横に行くのではなく、

ピョンっと上にジャンプすれば

乗り越えられることが

わかったりします。

 

ところがやはり、

平面世界においては

「上にジャンプする」

ということ自体が

理解不可能です。

 

さて、

3次元世界に住む私達に

壁があったとしましょう。

上を乗り越えることも、

横を通り過ぎることも

できなかったとします。

 

私達には

八方塞がりに見える状態

です。

 

しかしもし

4次元世界の人がいたとしたら、

私達には想像をし得ないような

解決策が

わかるのかも知れません。

 

以上は、

物理的な視点からの

お話ですが、

人の意識ということにおいても

本質は同じです。

 

つまり、

次元が高まれば高まるほど、

心の座標軸が増えていきます。

心の自由度も

視野の広さも

視点の多さも

増えていきます。

 

ですから、

高い次元の自分の意識で

いればいるほど、

壁が壁でなくなります。

 

どうしても解決でなかった

問題も、

高い次元から見ることで

簡単に道が見えたりするのです。

 

真本音度合いが増すことで

道が開きやすくなる

というのは、

こういうことでもあるのです。

 

以前にも書きましたが、

高い次元といっても、

それは特別なものではなく、

誰の中にもすでに

存在しています。

(→【人間である以上、誰もにもともとあるもの】)

 

ただ、それを

忘れているだけ。

使わなくなってしまっただけ。

 

それは実にもったいない

ことです。

 

同様に、

組織の次元とは

そこにいる人達の意識の次元で

決まってきます。

 

壁を乗り越えられる

組織であるのかどうか?の

本質的な要因が、

ここにあるのです。

 

つづく

 

せっかく自由になれたのに、自分が自由に動けない

10年間、家の中で

一人で閉じこもっていたとします。

 

雨戸も閉め、

外の光がほとんど入らない中で

10年間一人でした。

 

しかし、

電気は使えるし、テレビもインターネットも

見ることはできました。

読みたい本があれば

読むこともできたし、

着るものや食事にも困りませんでした。

つまりは、生活には支障がなかった、

とします。

 

そんなあなたが、ついに

外に出る日がきました。

 

玄関の扉を開けた途端、

まず真っ先に目に飛び込んで

きたのは、

真っ青な雲一つない空でした。

 

太陽の光でした。

 

あなたは、一瞬

クラクラと佇みます。

 

空気を吸い込んでみると、

明らかに家の中とは違う

生きている空気、

流れている空気

でした。

 

世界はなんて

気持ちがいいんだ!

 

あなたは素直にそう感じ、

喜びました。

 

なぜ私はこれまで

家から出なかったのだろうか?

 

これならもっと

早く出ていればよかった。

 

そう思いながら、

あなたは走り出しました。

 

ところが・・・。

 

ドタッと

足がもつれて転んでしまいました。

 

あなたは起き上がり、

今度は歩いてみました。

 

もちろん家の中でも

歩くことはできました。

だから体は普通に動くものと

思っていました。

 

とは言え、

ずっと家の中でしたから、

体は鈍りに鈍っていました。

 

少し歩いただけで

もう、疲れを感じました。

 

あなたは

座り込んでしまいました。

 

こんなに気持ちがいいのに、

体が思うように動かない・・・。

 

あなたは落胆しました。

 

なら、こんな気持ちよさ、

体験しなければよかった。

 

あなたは

家の中に戻り、

また雨戸を閉めました。

 

私はもう、

家の中で楽しむ人生で

いいんだ。

 

あなたはそう決めましたが、

しかしどうしても、

先ほどの外の世界の気持ちよさ

を忘れることができません。

 

しかも今度は逆に、

これまで家の中で楽しいと

思ってきたあらゆることに

魅力を感じなくなっている自分に

気づきました。

 

家の中にいても

楽しくないどころか、

ストレスばかりが積もっていく。

 

しかし、外に出ても

まったく思うように動けない。

 

あなたは、

自分の人生を

放棄したくなりました。

 

・・・・・・

 

家の中を、「これまでの次元」、

外を、「もう一つ上の次元」

と置き換えてみてください。

 

今、

上記のお話のような状態の人が

急速に増えています。

 

上記の喩え話で言えば、

いざ、家の外に出たときに、

自由に動ける自分であるために、

家の中にいるうちから、

自分自身の準備を整えておく。

 

・・・それが、

真本音で生きる、ということです。

 

家の中で真本音で生きていれば、

外に出た自分は

自由に走り回ることができます。

 

なぜなら、

真本音で生きていると、

現在の最高次元の自分よりも

さらに一つ上の次元の自分からの

メッセージが届くことも

あるからです。

 

「今のうちに

こういうことをしとけよ」

という、

準備のためのメッセージです。

 

それを、

家の中にいるうちに、

着実に実行していれば、

私達は、外の世界をすぐに

満喫できるようになるのです。

 

せっかく次の次元に

上がれるのに、

その境目で、

人生を放棄したくなる。

 

・・・実にもったいないことです。

 

そして、

以上は、個人だけの話ではなく

組織についてもまったく同様です。

 

この、実にもったいないことに

ならないようにサポートするのが

私の役割であると

日々認識しております。

 

つづく

 

もう妥協の自由から抜けませんか

私達はなぜそこまでして

『超加速』を望むのか?

(→前回記事)

 

そのもう一つの答えは、

私達は「自由」になりたいからです。

 

真の「自由」を手に入れたいのです。

 

しかし、

真の「自由」とは何か?

をわかるようでわかっていないのが

現在の私達かも知れません。

 

「自由」とは何か?

これも私の30年来の探究テーマですが、

でもよくよく考えると、

このテーマは、人類共通かも知れません。

 

「自由」を実現しよう、とすることが

人類の根本欲求の一つであり、

そしてそれは「進化」を望むことと

恐らくイコールです。

 

「自由」については、

様々な視点からいろんな議論ができると

思いますが、

ただ、ここで私が確信を持って

お伝えできることが一つあります。

 

それは、

真の「自由」とは

進む者しか手に入れることはできない

ということです。

 

しかもその進むスピードとは、

私達の真本音が望むスピードです。

 

つまり、

真本音の望むスピードで進むことにより、

私達は真の「自由」を実感できる、

ということです。

 

私達は、

どれだけ現象レベル(現実レベル)で

「自由」を得ても、

本当の意味で満足することは

ありません。

 

環境的な自由を手に入れても、

必ず私達の心は何かによって

縛られるのです。

 

現象レベル(現実レベル)では、

どれだけ「自由」を求めても、

求めれば求めるだけ、

「自由」は遠のきます。

 

しかしその中で、

妥協してしまう人がいます。

「まぁこれだけ自由だからいいじゃないか」

と自分を納得させます。

 

それは、「妥協の自由」です。

 

真の「自由」とは、

私達の魂も心も満たされるものです。

 

そしてそこには、「スピード」が

必須要因なのです。

 

「スピード」とは、

人生を進めるスピードであり、

進化するスピードです。

 

真本音で

「今、こうしよう」と思ったことは、

今、行動に移すのです。

 

それを一瞬でも後回しにしたら、

その時点で、真の「自由」からは遠のきます。

 

しかし本当に

決めたことを決めた通りに

決めたタイミングで行なうことができれば、

その瞬間、私達は真の「自由」を得ます。

 

その連続が、

「自由な人生」となります。

 

それをし続ける人は、

本人が意図せずとも自然に

「超加速」をしているでしょう。

 

つまり「超加速」とは、

しなければならないもの、ではなく、

自然にしているもの、であり、

それができている状態が「自由」です。

 

本人は極めて「幸せ」であり

「自由」なのです。

 

そしてそれは私達人間が最も

「安定」を感じている時でもあります。

 

「超加速」とは

それをする前の私達にとってみれば

とても怖いことかも知れません。

 

しかし、いざ「超加速」してみれば、

それが最も安定であり安心なのです。

 

私達の真本音は

そういった、最も安定で安心の道を

行こうとしているのです。

 

つづく

 

正義、って重いんだねぇ

私達人間のほとんどの苦しみは

幻影です。

 

幻影と言っても、

実際に起きている現実は、

現実です。

 

しかし本当は、

その現実が私達に苦しみを与えている

わけではありません。

 

現実とは

どこまで言っても

現実でしかあり得ません。

 

その現実をどう受け止めるか?

を私達は自ら決めています。

 

自ら、解釈をしています。

 

その段階で、

自らに苦しみを与えます。

 

例えば、

とても厳しい現実が目の前にあったとしても、

もし似たような経験が過去にあったとすれば、

その人の苦しみは減退するでしょう。

 

自分は過去に、このような現実を

乗り越えたことがある、

という経験は、私達の苦しみを

減退させます。

 

しかしだからと言って、

今の現実が変わるわけではありません。

 

私達の現実を受け止める解釈が

変わるだけのことです。

 

つまり私達は私達自身の解釈により

苦しみを増減させています。

 

「人生は苦しい」

と思う人の多くは、

自分でその苦しみを創り出している

だけのことです。

 

私達はそういった解釈の世界から

脱け出すことが

本当は誰もができます。

 

ただ、現実をあるがままに

感じ取るだけの日々の始まり。

 

するとその瞬間から、

現実はまったく違った世界を

私達に見せてくれます。

 

現実を、あるがままに感じ取ることが

できればできるほど、

私達は、自分自身がいかに自由であるか?

を知ることになります。

 

脱皮をするというのは、

現実をあるがままに捉えられない原因となる

強い解釈の衣を

一つ脱ぎ捨てることである、

という言い方もできます。

 

今、弓江さんは

「正義」という解釈を脱ぎ捨てようと

しています。

(→前回記事)

 

実在レベルで表現すれば、

弓江さんが脱ぎ捨てようとしている

「正義」は、

弓江さんの左足に絡みついています。

それを取り払えば、

弓江さんはその「正義」から自由になれます。

 

しかしそれが

なかなか取れません。

 

「どうすれば、

取り払えそうですかね?」

 

「木村リーダーに

取ってもらおうかな。」

 

「わかりました。

それはなかなか良いアイデアですね。

では木村さんに取ってもらいましょう。」

 

思わず、木村さんが言います。

「えっ、私にできますか?

どうすればいいんでしょう?」

 

「簡単ですよ。

今、弓江さんが言われた“正義”は、

単なるイメージではなく、実在です。

ですから木村さんにもわかるはずです。

意識を弓江さんの左足に

向けてみてください。

何か見えませんか?」

 

「見える、というよりも、

確かに何か異物があるような

感覚がありますね。」

 

「それで充分です。

木村さん、その異物は

どうすれば取れると思います?」

 

「えっ? ・・・そうですね。

どんなやり方でもいいですか?」

 

「もちろん、いいですよ。」

 

「私が、私の手ですくい上げても

いいですか?」

 

「できそうですか?」

 

「はい。」

 

そう言われた木村さんは、

弓江さんの左足の踵の近くに手を伸ばし、

一気にその「正義」をもぎ取ってしまいました。

 

「あっ、軽くなった!」

 

と弓江さんがびっくり。

 

「たけうちさん、

今、私の両手にその“正義”がありますが、

これ、どうしたらいいでしょう?」

 

「どうされたいですか?」

 

「たけうちさん、

受け取っていただけます?」

 

私は笑いました。

 

「しょうがないですね。

じゃあ、私がいただきます」

と言いながら、

私は、木村さんから弓江さんの「正義」を

受け取りました。

 

ド〜ンと腰の辺りが

重くなりました。

 

実はこういった展開、

しょっちゅうあるんです。

 

私はよく、

脱皮をした人の古い皮を

受け取ります。

そして浄化をします。

 

その古い皮があまりにも重く、

苦しいものであればあるほど、

私の場合は、腰に来ます。

 

まるでギックリ腰になったかのような

感覚が来るのです。

場合によっては

立てなくなってしまうこともあります。

 

それだけその古い皮は

その人にとって重いものであった

ということです。

 

これは「イメージ」の話ではありません。

あくまでも「実在」の話ですので、

こういったことが起こるのです。

 

そして、重い皮をもらうたびに、

私はいつも思うのです。

 

人間というのは、

こんなに重いものを抱えながら

生きているんだな、と。

 

つづく

 

本当は、自力で脱皮できればいいんだけど・・・

「脱皮」とは、

大きく「進化」すること。

 

そして「進化」とは、

より「自由」になることです。

 

ですから「脱皮」をすればするほど、

私達は、何かから開放されます。

人としての根本的な幸せを

感じるようになります。

 

しかし「脱皮」そのものについては

不安定さと恐怖心が

伴います。

 

これをたった一人で

乗り越えることのできる人は

なかなかいません。

 

通常は、

「今、自分は脱皮しようとしている」という

自覚はありません。

「脱皮」そのものの概念すら

ないでしょう。

 

何もわからない状態です。

 

ですから、

突如として襲ってくる不安定さと恐怖心を

何とか消そうとするのが

ほとんどの人です。

 

そしてそのための手立てを打ちます。

それにより実際に

不安定さと恐怖心を減退させることも

あるでしょう。

 

しかし、それをしてしまうと

「脱皮」は完了できません。

 

「脱皮」のチャンスを逸し、

「脱皮」をしないままに人生を進む

ということになります。

 

それはそれで一つの人生

かもしれません。

 

しかし、

脱皮のチャンスを逸し、脱皮せずに進む

というのは、

脱皮のチャンス以前の自分に比べて

苦しさが増します。

 

なぜならその人は

「なぜ、脱皮をきちんとしないんだ!」

と自分で自分を責め続けるように

なるからです。

 

もちろんそれは無意識に行われることですから

本人は認識していません。

しかし明らかに

以前よりもその人は人生における苦しみが増し、

その苦しみに耐えながら生きる

ということになります。

 

脱皮のチャンスを逸してしまったことによる

苦しみ。

 

これは私達が想像する以上に大きな

ものです。

 

できれば私はすべての人が、

この苦しみを味わわずに人生を

進ませる、

つまりは、きちんと脱皮を続ける人生を生きる、

・・・そんな状態になればいいなと

思っています。

 

極端に言えば、

それができるだけで、

世界はもっと平和になるのではないかと

私は思います。

 

脱皮には

的確なサポートが必要です。

 

本当は、サポートなしでも行ければ

よいのですが、

現在の世の中においては、

どうしても、サポートが必要です。

 

それが、コーチの存在意義の一つである

と私は思っています。

 

多くの人が健全に脱皮を続け、

世の中の次元がもう少し高まれば、

自力で脱皮できる人の割合も

もっと高まるのではないかと思います。

 

そうなるためにも、

今はコーチが、的確なサポート役が

必要なのだと思います。

 

木村さんと弓江さんは今、

二人コーチングのその場で、

自らの脱皮を完了させようとしています。

 

まずは、弓江さんが

今まさに脱皮しようとしています。

 

実在レベルの表現を使えば、

弓江さんは、これまでの古い皮をほぼ

脱ぎ捨て、

その皮は今、

左足に絡まっている状態です。

 

そしてその皮に意識を向けると、

それは、

「私の“正義”ですね」

と、弓江さんは自覚しました。

(→前回記事)

 

通常のコーチングでは、

「では弓江さん、その“正義”とは

具体的にどういったものですか?」

というような質問をするかもしれません。

 

しかし、脱皮時においては、

あえてそれ以上のことは訊きません。

“正義”という言葉に反映される

あらゆるもの、

というくらいのザクッとした認識で

充分なのです。

 

理屈では脱皮できません。

顕在意識はあまり

働かさない方が良いのです。

 

「弓江さん、

その左足に絡まっている“正義”を、

完全に取り去ることはできますか?」

 

弓江さんはしばらくの間、

左足に意識を向けていましたが、

「う〜ん、難しいですね。

どうしても取り払えません」

と、苦しそうに言いました。

 

「どうすれば、

取り払えそうですかね?」

 

すると彼女は、

面白いことを言いました。

 

「木村リーダーに

取ってもらおうかな。」

 

「えっ? 私ですか?」

と、木村さんは少しびっくりした表情。

 

「わかりました。

それはなかなか良いアイデアですね。

では木村さんに取ってもらいましょう。」

 

つづく

 

融通の効かない人には一貫性がない

前回の記事で

「実在」と「現象」について

述べました。

(→前回記事)

 

私達人間が真の意味で

「自由である」

と感じられるのは、

この「実在」と「現象」が一致している時

です。

 

現実レベルで見て、

どれだけ自由な環境で

自由に動いていたとしても、

それが自分自身の「実在」の想いと

一致していなければ、

その人は決して自分のことを

「自由である」

とは感じません。

 

私はよく、

「実在の自分」

「現象の自分」

という言い方をします。

 

その表現を使えば、

「実在の自分に素直に生きている」

状態にあれば、

私達は「自由」を感じるのです。

たとえ、

どのような環境においても。

 

そして、

「実在の自分」と「現象の自分」が

一致していることを

「一貫性が取れている」

と言います。

 

ですからシンプルに言えば、

一貫性が取れている人は自由

です。

 

私はこの「一貫性」を

コーチングにおいては非常に

大事にしています。

 

ちなみに。

 

「一貫性」と「頑固」は

本質的に異なります。

 

「頑固」とは

一貫性の取れていない人の

振る舞いです。

 

一貫性の取れていない人が

自分を守ろうとするために、

融通が効かなくなり、

「頑固」になります。

 

「自我」と「自己」という視点から言えば、

(→【自我による発想など、たかが知れている】)

「頑固」とは、自分だけを守ることですから

「自我」によるものです。

周りとは分離しています。

だから、

周りに迷惑が及びます。

 

それに対して、「一貫性」とは

柔軟です。

 

「一貫性」の取れている人ほど、

周りの意見をよく聴き、

取り入れ、自分のものとすることが

できます。

 

「一貫性」の取れている人は、

何を大事にすれば良いか?

何を変えてはいけないか?を

本質的によくわかっています。

 

変えてはいけないものを

わかっているからこそ、

それ以外に関しては非常に柔軟に

なるのです。

 

「変えてはいけないもの」を

大事にするために、

あらゆるものを変え続けるのです。

 

そこに執着はありません。

 

組織やチームで言えば、

頑固な組織(チーム)か?

一貫性のある組織(チーム)か?

の見極めが非常に重要です。

 

さて。

 

そろそろ木村さんと弓江さんに

戻りましょう。

 

私は、

新規事業プロジェクトチームが

脱皮をするための、

戦略を見出そうとしています。

 

そのための二人コーチングです。

 

チームメンバーは

半分に減らされました。

しかしそれにより、

チームとしての調和性は上がっています。

 

きちんとした脱皮が成されれば、

チームの生産性は何倍にも

アップするでしょう。

 

脱皮段階は、

個人もチームも非常に不安定に

なります。

 

しかしその不安定こそが

大事です。

 

不安定を助長するくらいの方が

良い脱皮ができます。

 

そのためには、

不安定をさらに不安定にするための

刺激を入れる必要があります。

 

どこにどのような刺激を入れることが

最も効果的か?

・・・それが戦略です。

 

そしてその、刺激の入れ所とは、

チームとしての「実在」と「現象」の不一致点

であることが望ましいです。

 

「実在」と「現象」の不一致点を見出し、

そこを突くことで、

個人にとってもチームにとっても

良い意味での「崩壊」が起こります。

 

脱皮とはある意味、

これまでの自分を壊すこと。

 

壊すべきをちゃんと壊すことで、

これまで以上の「一貫性」を

手に入れることができるのです。

 

そして、

より「自由」になれます。

 

そういった意味で、

コーチとは時には「破壊者」であることが

必要です。

 

私は今、

「破壊者」であろうとしています。

 

つづく

 

悩まない人は、自由になれない

私は、

「自由になる」

とは、

「直観に素直になる」

ということだと思っています。

 

もちろん、

「思考」を否定しているわけでは

ありません。

 

しかし「思考」とは

「直観力」を高めるための

一つの手段である、

と思っています。

 

何も「思考」しない人からは

「直観」は生まれません。

 

なぜなら私達の真本音は

「試行錯誤」を非常に

重要視しているからです。

 

結果のみならず、

結果に至るまでの過程(プロセス)の

一歩一歩を大切にしています。

 

ただ単に望む結果を出すのではなく、

その道のりの中で得られるものこそを

大切にしています。

 

そこで必要なのが、

「思考」すること。

言葉を換えれば、

「悩む」こと。

そして、

「迷う」ことです。

 

悩むべきことに

100%しっかりと悩み、

迷うべきことに、

100%しっかりと迷い、

考えるべきことを

100%しっかりと考えることで、

初めて、本当の「直観」は

働くようになります。

 

そしてそこで得られた

「経験」は、

次の似たような傾向の「経験」や

応用的な「経験」において

力を発揮するようになります。

つまりは、

「悩まなくても一瞬で決断ができる」

状態となるのです。

 

私が企業現場でいつも実感するのは、

本来悩むべきことから

逃げている人が実に多い、

という事実です。

 

悩みから逃げるからこそ、

直観が働かなくなります。

そしていつまで経っても

その悩みを解決できない、という

悪循環に陥ります。

 

人生が、仕事が、

ストップしてしまうのです。

 

それは、

進化のストップ、ということでもあります。

 

冒頭の言葉に戻りますと、

「自由になる」とは

「直観に素直になる」ということ。

そのためには、

悩みや迷いから逃げないことです。

 

きちんと「直観」の働く状態に

自分を持っていくということです。

 

さて。

 

木村さん、弓江さんの二人コーチングの

場面に戻ります。

 

二人が「直観的」に決めた

チーム員のペアの組み合わせは、

思考レベルで考えると、

とても納得のいくものではありませんでした。

(→前回記事)

 

「直観」ではOK。

「思考」ではNG。

 

こうした場合、

私はコーチとしてあえて

「断定」することにしています。

 

一般的に、コーチは

クライアントの意見を尊重して、

自分からは答えは言ってはならない

というのが原則だそうです。

しかし、私は時と場合で、

思いっきり結論を言いますし、

断定もします。

時には、「指示」に近いこともします。

 

クライアントが

「直観」か「思考」かで迷った場合、

多くの場合、私は断定します。

 

「ここは直観で行ってください」

と。

 

有無を言わせない空気感を

出します。わざと。

 

それでも抵抗するようなら、逆に

直観に従うことは

やめた方がよいでしょう。

 

しかし、木村さんと弓江さんは

私のその断定を聴いて、

とてもホッとした表情をされました。

 

「わかりました。

これでやってみます」と

木村さんは言いました。

 

そこに、理由や理屈はありません。

それを探してもしょうがない、

という場面です。

 

それをまた木村さんと弓江さんは

直観的に悟ったようです。

 

今から思えば、

この時の二人コーチングが

本当に運命の分かれ道でした。

 

つづく

 

完全に意図を手放せば、素晴らしい展開が待っている

私はいつも、かなり綿密に

コーチングの準備をします。

 

今回のコーチングは、何の目的のために

何をすればよいか?

 

私は、どのような問いを投げ、

どのようなメッセージをプレゼントするか?

 

Aさんのコーチングがある前の日に、

私は以上のことを頭だけで考えるのではなく、

実際にシミュレーションします。

 

まるで目の前にAさんがいるかのようにして

前の日にAさんのコーチングを自分の中で

完了させてしまうのです。

 

それはイメージトレーニングに近いものが

あるかもしれませんが、

実はこれは、イメージトレーニングとは

本質的には異なります。

私はそれを、『実在コミュニケーション』と

呼んでいますが、

これについてはいずれ詳しく書かせていただくことに

なると思います。

 

なぜ、これほどまでに綿密な準備を

するのか?

 

その理由はたった一つです。

 

私の中から、すべての意図を手放すため

です。

 

これだけ綿密な準備をして行なったことを

私は、実際のAさんのコーチング時には

すべて手放します。

 

実は、準備をしっかりすればするほど、

簡単に、そして完全に、

手放すことができるのです。

 

意図を手放すために

準備するのです。

 

すると、実際のコーチングの場は

必ずと言ってよいほど、

私の意図を超えた、想像を超えた

素晴らしい展開になります。

 

意図を手放すということは、

完全に自由な状態になります。

 

私は、何物にも捕らわれない

完全に自由な状態として

クライアントさんと向き合うのです。

 

ですから、様々なことをキャッチしたり

クライアントさんと「一つ」になることも

できます。

 

これは私だけが持っている能力ではなく、

すべての人が私と同じようにすれば

同じ能力を発揮することができるでしょう。

 

木村さんと弓江さんの二人コーチングは、

そういった意味で、

完全に私の想定外の展開になっています。

しかしそれはつまり、

私が望んでいた展開です。

(→前回記事)

 

コーチングは、想定外になってこそ

コーチングです。

 

コーチの意図の範疇でのやりとりは、

コーチングとは言いません。

 

自分の意図の範疇でコーチングする人のことを

コーチとは言いません。

 

想定外の展開の中でようやく私は、

今回の木村さんと弓江さんの二人コーチングの

本当の目的に気づくことができました。

 

すべての雲が晴れた

感覚でした。

 

で、またもや思ったのです。

ここからが、この二人コーチングの

本番の始まりだ、と。

 

私はお二人に申しました。

 

「このままでは、新規事業プロジェクトが

成功しない、と3人ともが思っている

真の理由がわかりましたよ。」

 

「何ですか?」

弓江さんと木村さんの目が輝きました。

 

「新規事業プロジェクトは

ここまで順調だったということです。

実は、何の問題もなかったのです。

そして、ここまで順調だったからこそ、

この場があるのです。」

 

「・・・???」

 

つづく

 

的確な枠こそが、心を自由にさせる

「なぜ木村さんがコーチに向いていないか、

わかります?」

 

「はい、だって私は、

自分が主役でいたいからです。

だから、ロックバンドやってますしね。」

(→前回記事)

 

木村さんがこう答えた時、

私は実在レベルで、

木村さんの雲が完全に取り払われたのを

感じました。

 

そして、雲が取り払われたことによって

姿を見せたものがありました。

それは、

小さな一輪の花でした。

 

紫色で、とても小さく可愛らしい花ですが、

スッと一直線に茎を伸ばし、

凛として立っています。

 

イメージとして表現するとそんな感じですが、

「実在」ですので、

それは脳を使わずに感知したものです。

 

あぁ木村さんはやっと

木村さんの本来の花を咲かせ始めたんだな、

と思いました。

 

今後はその花を

大切に育てていくことです。

 

「やっと本来の木村さんらしさが

出て来ましたね。

どうですか木村さん、

自分が主役でいたい、と改めて認識されて、

今の木村さんの心は自由ですか?」

 

「はい、自由です。

なんか、急に肩の荷が降りた感じがします。

とても楽になりました。」

 

「じゃあ木村さん、

木村さんはこれからご自分のエネルギーを

何に向けたいですか?」

 

彼はニッコリ笑いながら言いました。

 

「もちろん、新規事業プロジェクトの成功です。

なんか、自分がなぜプロのコーチになりたい、と

言ったのか、まったくわからなくなって来ました。

そんなことはどうでもいい。

私はプロジェクトリーダーとして全力を尽くしたい。

そしてそれを成功させて、

平井を喜ばせたい。

あっ、たけうちさん、私は平井のためにやるんじゃないですよ。

自分のためにやりたいんです。」

 

「笑。わかってますよ。

自分のため=平井さんのため、でしょ。

平井さんを喜ばせたい、というのも木村さんの真本音です。

自分の喜び=平井さんの喜び、になってますよね。」

 

「そうなんです。

私は本当に平井のことが好きなんですねぇ。」

 

このブログをお読みの皆さんは覚えて

いらっしゃるでしょうか?

 

この木村さんとのやりとりをご紹介しているのは、もともと

「私達人間は、的確な枠(もしくは、限度・限界)を与えることで

可能性を伸ばす」

という原理をご理解いただくためでした。

(→【自分の可能性は無限? それはハッタリです】)

 

この場合の木村さんにとっての「的確な枠」とは、

新規事業プロジェクト

に他ありません。

 

つまり、今の彼は、彼自身に与えられた

新規事業プロジェクトのリーダーという役割を全うすること

によって、彼自身の最大の進化を引き起こせる

ということです。

 

しかし彼は、イケイケのパターン(クセ)を出し、

その枠を外れた発想(=プロコーチになる)を始め、

エネルギーが完全に分散してしまいました。

 

実は「コーチング力を伸ばしたい」という想い自体は

彼の真本音だったのですが、

その真本音の想いを実現するためには

「新規事業プロジェクトリーダーという役割の中で

コーチング力を伸ばす」

というのがベストだったわけです。

 

そしてもうお気づきのように、

こういった「的確な枠」とは、本人にとっては

「枠である」

という認識がありません。

 

「ここでこそ、全力を注ぎたい」

とか

「今はここに集中したい」

といったように、エネルギーの焦点化を起こすような

モチベーションのもと、になります。

 

つまり、「的確な枠」をはめることで

モチベーションが高まるのです。

 

逆に言えば、

人には、最もモチベーションの高まる「枠」が

存在するということです。

 

それを見つけることも

コーチとしての大事な役割の一つです。

 

つづく

 

本当に自由な人ほど、周りとうまくいく

真本音で生きる、

ということは

自由を得る、ということです。

 

自由とは、

現実レベル(現象レベル)における自分の環境のことを

言うのではありません。

 

ここはあえて断言しますが、

現象レベルにおける環境的な自由を

どれだけ実現しても、私達は決して

「自由」を感じません。

 

それにより満たされることはないのです。

 

私達人間が本当の意味で自由を感じられるのは

心が自由

である時です。

 

ですから、

自分の不自由さを自分以外の何かのせいにしている人は

決して自由になれません。

 

真本音で生きるということは、

一般的に言われる「人格者になる」ということでは

ありません。

 

「私は、こうあらねばならない」

「人の成長は、こうでなければならない」

という意識で自分を律するようになると

その人はどんどん不自由になっていきます。

 

ですから、

人格者を目指している人ほど、

真本音度合いが低い、という事実を

これまで私は本当にたくさん目の当たりにしてきました。

 

「自由になろう」としても

自由にはなれません。

むしろ、

どんどん不自由になります。

 

なぜなら、

「自由になろう」という縛りを自分自身に

与え続けることになるからです。

 

自由を目指している人は、

自由という縛りを自分に与えていて、

とてつもなく不自由です。

 

やはり、真本音度合いは

低いです。

 

真本音で生きる、とは

自分の中の揺るがない心に素直に生きること。

私達の中には

どのような環境に置かれても決して

揺るがない強烈な願いがあります。

 

その願いは、

「この願いを持って生きよう」という意図を

持つことで発生するものではありません。

 

最初から、ここ、にあるものです。

 

自分=その願い、と言ってもよいです。

 

その願いこそが、本来の自分自身

なのです。

 

真本音度合いを高めるとは、

その願いに向かう度合いを高める、ということ。

つまり、

本来の自分に戻る度合いを高めること。

 

それをすることで

人は初めて、自由を感じ始めます。

 

ですから、

真本音で生きることによって

その人の顔からは「険しさ」や「苦しみ」や「困惑」や「悔恨」が

どんどん抜けていきます。

 

一言で言えば、

憑き物が落ちた

という、非常に晴れやかな表情になっていきます。

 

それは、自由、だからです。

 

そして真本音度合いを高めれば高めるほど、

周りとの調和性も増していきます。

 

つまり人は、

自由になればなるほど、

周りと調和する

・・・ようにできているのです。

 

自由を目指せば目指すほど周りと不調和を起こす、

のであれば、それは

本当の自由ではない、ということです。

むしろ、不自由な方向に向かっているということです。

 

もしくは、

その自由さがまだまだ中途半端である

ということです。

 

人は、

完全に自由になれば

完全に世界と調和します。

 

そのようにできています。

 

私はまず、コーチングにおいては

そのような完全調和の状態を創ります。

 

このような書き方をすれば

とてつもなく凄いことのように思われるかも

しれませんが、

「そうではないのです!」

ということをお伝えするために

このブログを書かせていただいているのかもしれません。

 

これまでも何度か書かせていただいたように

私が行なっているコーチング、・・・というよりも

「真本音コミュニケーション」は

私だけが行なえるものではありません。

 

すべての人が

普通にできるコミュニケーションです。

 

むしろ、

人間が本来持っている最も自然な

コミュニケーションである、

と言ってもよいでしょう。

 

それを私は、一人でも多くの人が

思い出せるといいな、と願います。

 

真本音度合いが高まれば、

誰もが「真本音コミュニケーション」ができるように

なります。

 

真本音で生きる、ことは

伝播するのです。

 

つまり、

「自由」は伝播します。

 

だから私はこのお仕事を

させていただいています。

 

さて。

 

木村さんのお話に戻ります。

 

木村さんと私の間には、

完全調和の状態が出来上がりました。

だから私は彼に、

「あなたは、コーチに向いていません」

と伝えることができました。

(→前回記事)

 

通常であれば、

その人が必死に取り組んでいることに対して

真っ向から否定をしているわけですから、

その私の一言を受け入れることはできません。

 

しかし、木村さんと私は完全調和してます。

 

私は、木村さんが最も「欲しい一言」を

彼に伝えている、という状態になっています。

 

ですので、その一言は

効きました。

 

その一言を聴いて、

彼は大笑いされたのです。

 

「あっははは!

そこまではっきり言われると

気持ちいいですねぇ」

と。

 

その瞬間に、

彼を覆っていた雲が一瞬にして

ほとんど取れてしまったのがわかりました。

 

私は木村さんに問いました。

 

「なぜ木村さんがコーチに向いていないか、

わかります?」

 

木村さんはにこやかに

答えました。

 

「はい、だって私は、

自分が主役でいたいからです。

だから、ロックバンドやってますしね。」

 

つづく

 

自分の可能性は無限? それはハッタリです

このブログをお読みいただいている皆さんは、

自分自身の可能性について

考えたことがあるでしょうか?

 

恐らく、「ある」と答えられる人が

ほとんどだと思います。

 

では、「可能性」とは何でしょうか?

 

可能性とは、無限でしょうか?

それとも、有限でしょうか?

 

今回は、

可能性とは「有限」です、

というお話です。

 

現在このブログでは、

木村さんストーリーをご紹介しています。

(→前回記事)

 

彼はこの後、すごい活躍をすることに

なるのですが、

その彼の活躍の「本質」をお伝えするためには、

その前提として、

どうしても明らかにしておかねばならないことが

いくつかあります。

 

その第1回目が今回である、

という位置付けです。

 

それが、

「可能性とは有限である」

ということなのですが、

ただ、その「有限」の意味が重要です。

 

「有限」という言葉を辞書で調べますと、

「限度・限界のあること」

とあります。

 

私達人間は、自分自身に対して

限度と限界を設ける

という特性を持っています。

 

必ず、自分自身を「枠」にはめるのです。

常に、

今の自分に見合った限度と限界を設定

するのです。

 

これは、私達の真本音の意図です。

 

ですので、よく

「私の可能性は無限です!」

といった言葉を使う人がいますが、

その言葉を放つその人自身の空気感には必ず

不自然・無理

が伴います。

 

つまりは、

ハッタリでそう言っている

ように感じ取れます。

実際に

ハッタリに過ぎません。

 

私達の真本音は、

自分自身に限度と限界を設けることを

非常に大事にしているからです。

 

なぜ限度と限界を設けることを大事にするか?

と言いますと、それは、

自分自身の無限の可能性を発現するため

なんです。

 

なんか、変な言い方になってますが、

これが本質です。

 

つまり、私達人間は、

その時その時の自分に対して的確な限度と限界を

設定することで、結果的に

自分自身を無限に進化させることができる

・・・ということになります。

 

ですから、

今の自分は、自分自身にどのような限度と限界を

設定しているか?

を理解することが、「超」がつくほど重要です。

 

ここを誤ると、

物事の進展が、極めて遅くなります。

 

私達は、自分自身が設定している限度と限界に

即した生き方や、目標設定の仕方をする

ことが大切なのです。

 

つまり、「限度と限界」とは

私達人間にとって、無限の進化を持続するためには

なくてはならないもの

なのです。

 

ですから、次の問いがとても重要であり、かつ

必要です。

 

「私は今、どのような限度と限界を

自分自身に設定しているだろうか?」

 

そして、

 

「私は今、どういった限度と限界の枠の中で

物事の発想をすることが必要だろうか?」

 

という問いです。

 

わかりやすく喩えるならば、

例えば、2歳の幼児がいたとして、

その子に、

「君には無限の可能性があるから

自由に自分のやりたいことを発想して

行動しなさい」

と言っても、危険極まりないし、第一、

本人には意味がわからない

ということです。

 

ですから私達はその2歳の子に枠をはめます。

例えば、公園にその子を連れて行き、

「この公園の中は安全だから、

好きなことをしてもいいよ」

と伝えます。

 

その子は、公園という守られた枠の中で、

自由に遊び、その遊びを通じて、

自分の意志を育てて行きます。

 

要するに、そういうことです。

 

私達の真本音とは、喩えて言えば、

自分自身の「親」であり、「師匠」と言ってもいいかな、

と思うことがあります。

もちろん、真本音とは「本来の自分自身」であるのですが、

「本来の自分」と「今の自分」が

あまりにもかけ離れている場合は、

それは「親」であり「師匠」である、と捉えた方が

受け取りやすくなるケースが多いのです。

 

真本音という「親」「師匠」は、

私達自身を最速で、しかも、一歩一歩着実に

育てようとしています。

 

そのためには、

最初からいきなり、「無限」を提示し、

何の枠もない中で、「自由にしてごらん」とは

決してしないものです。

 

きちんと的確な「枠」を設定し、

その「枠」の中で自分を育て上げ、

その「枠」での「自由」を手に入れたら、

その「枠」を壊し、

さらに大きな「枠」を設定し、その中での

「自由」を学ばせる。

 

・・・そんなことをするのです。

 

ですから、

私達人間に必要なのは、

「的確な枠」

であり、それを最もよくわかっているのが、

私達自身の真本音

だということになります。

 

逆に言えば、

その人は今、的確な枠の中にいるだろうか?

という視点でその人を観察し、

枠が小さ過ぎれば、その枠を外し、もっと大きな枠を設定する、

枠が大き過ぎれば、もっと小さな枠の中にあえて入れる、

というサポートが必要です。

 

そういった的確なサポートができる人こそが、

「コーチ」だと思うのです。

 

特に私は、木村さんにはその視点を

大事にしていました。

 

なぜなら、彼は

「枠設定」

が非常に苦手だったからです。

 

つづく

 

本当の成長は、必ず結果に結びつく

自分自身の真本音に素直に生きることにより、

人は心に「自由」を感じるようになります。

 

それにより、自然に「自分らしさ」が

滲み出るようになります。

 

それにより、その人独自の「生まれ持った味」や

「先天的な魅力」や「天性の強み」が

本人の知らないところで発揮されるようになります。

 

本当に面白いことなのですが、

その人にとっての、それらの「天然の力」が

伸びている時は、

あまりに自然過ぎて、本人が気がつかないのです。

 

周りから見れば、明らかにその人は変化しているのに、

当の本人がまったく気づかないのです。

 

それはまるで、

子供が自分の身長が日々伸びていることに

気づかないのと同じです。

 

「大きくなったねぇ」と親は感嘆するのですが、

当の本人は、そんなことは知ったこっちゃない、

という感じです。

 

私はよく、それでいいかな、と

思います。

 

本人が意識していないのに勝手に

醸し出される魅力こそが、

本当の魅力ではないか、と。

だから、あえてそれをフィードバックしないままで

おいた方がいいかな、と。

 

私の経験則ですと、

6割くらいの人が、そのパターンです。

本人には何もお伝えせずに放っておくのです。

その方が、その「天然の力」はますます伸びていきます。

 

ところが、4割くらいは

どこかのタイミングでそれをフィードバックした方が

よい、という人がいます。

 

木村さんも、その部類でした。

(→前回記事)

 

ただしその場合、フィードバックのタイミングが

大切です。

 

ただやみくもに、

「あなたは、こういった力が出るようになりましたよ」

と伝えても、本人が納得しない場合があります。

実感がないからです。

 

実感を得るために最も良いタイミングは、

その人の「天然の力」によって

わかりやすい現実(結果)が引き起こされた瞬間

です。

 

その瞬間にフィードバックすれば、

本人も実感を持って納得できます。

 

私は、木村さんにとってのその「現実」を

待ちました。

それは、恐らくすぐに現れるだろう、と思ったからです。

 

そして実際にそうなりました。

 

平井チームが、ある新規事業を

立ち上げることになりました。

 

そのためのプロジェクトチームの発足が

計画されたのですが、

そのリーダーとして、木村さんが選出されたのです。

 

これは、平井さんからの指名でした。

 

面白かったです。

 

その指名の直後に、木村さんのコーチングが

ありました。

 

彼は悩んでいたのです。

 

「たけうちさん、

実は、新規事業を行なうことになったのですが、

そのリーダーに私が選ばれました。

平井からの指名なのですが、

私なんかでよいのでしょうか?」

 

私は笑いました。

 

「あれだけ自信満々だった木村さんが

何を言われるのです。笑」

 

「いやぁ、自信満々と言っても、それは

自己保身のために無理にそうしていただけで。

あれは本物の自信ではないですよ。

たけうちさんが一番よくわかってるじゃないですか。」

 

「あっははは。

木村さん、本当に謙虚になりましたよねぇ。

謙虚になり過ぎじゃなですか?」

 

「いやいや、茶化さないでください。

ホントに、なんで私なんかが選ばれたのかわからないですよ。

私は、平井に取り消してもらおうと直談判しようと

思ってます。」

 

「何言ってるんですか。

どのようにして木村さんが選ばれたか

聴いていませんか?」

 

「いや何も。

平井が突然私を指名しました。」

 

実は平井さんは、木村さんが真本音度合いを上げ、

彼の「天然の力」が発揮されるのを見て、

本当に心の底から、「リーダーは彼しかいない」と

判断されたのです。

 

まずはそれを私に相談されました。

私も、一押し、でした。

 

さらに平井さんは、平井チームのメンバー全員の

意見を聴いたのです。

「新規事業チームのリーダーを木村にするのは

どう思う?」と。

 

すると全メンバーが、

「新しいことをするなら、木村さんしかいないでしょ」

というような反応だったそうです。

 

平井さんはそれを聴いて、

感動のあまり、涙が出そうになったそうです。

 

木村さんは、

自分がどのような「天然の力」を出しているのか

まったく気づいていなかったのです。

 

木村さんの「天然の力」とは

『創造力』

でした。

つまりは、新たな何かを生み出す力。

 

しかしそれは、

木村さん自身の発想によって生み出されるものでは

ありませんでした。

 

木村さんと共にいるメンバー達から

発想されるもの。

 

だから木村さんは純粋に、

「みんななんて、凄いんだ」

と思っていました。

ですからコーチングの場では、

「最近、みんなの成長が凄いんですよ。

本当に私は、追い抜かれそうです」

と木村さんは言われていました。

 

しかし、そのみんなの「凄さ」は

その場に木村さんがいるからこそのもの

だったのです。

 

つづく

 

覚悟を持たなければ本来の自分は取り戻せない

木村さんには仕事に対する信念が

ありました。

「仕事とは、自分を演ずることである」と。

 

しかしそれは自己防衛のための信念であったと

彼本人が認めました。

(→前回記事)

 

彼は自分の中の最も見たくなかった自分、

醜いと思っていた自分をあるがままに

見つめることができました。

 

私は心の中で拍手を送っていました。

 

しかし私はここで彼への厳しい問いを

終えるわけにはいきませんでした。

なぜなら、

彼の真本音が、次の問いを望んでいたからです。

 

それは非常に重要な問いでした。

 

「木村さん、

自分を変えたいですか?」

 

「・・・はい。」

 

「そのためには、これまでの自分を

自ら壊さなければなりません。

これまでの自分を壊しますか?」

 

ここで木村さんは止まりました。

 

しばらく、無言でした。

 

そして、呟きました。

 

「・・・怖いです」と。

 

自然な反応です。

 

これまでの自分を壊す、とは、

本人にとってみれば、自分のすべてを壊すのと

同じこと。

あとは何も残らないのではないか、とか

自分が自分でなくなってしまうのではないか、

という恐怖感が襲います。

 

私は無言のまま、彼の次の発言を

待ちました。

こういった時は、何の言葉かけも意味を成しません。

ここは、

自分で決めなければならないところです。

 

例えばもしここで木村さんが、

「これまでの自分を壊すことはできません」

「その勇気は出ません」

と言われれば、私は無理強いはしません。

 

人には、できることとできないことがあるのです。

耐えられることと、耐えられないことが

あるのです。

 

ここまで真本音コミュニケーションを続けてきた上での

その答えであれば、

「今は本当に無理」

ということになります。

 

であれば、もっとソフトな別の方策を考える必要があります。

しかしこの時、木村さんは次のように答えました。

 

「怖いけど、・・・壊します。

今壊さないと、一生後悔しそうです。」

 

これは紛れもなく木村さんの真本音の言葉。

 

私はまたもや心の中で

彼に拍手を送りました。

 

「たけうちさん、どうすれば壊すことができますか?」

 

「壊すというのは、今ここでそれをしても

何の意味もありません。

日常の日々の中で壊していくのです。

自らの意志で壊していくのです。

毎日毎日、少しずつ。」

 

私がそう伝えると、彼は目を閉じました。

そして、

 

「わかりました。壊します。」

 

と力強く答えました。

 

ここまで宣言されたら、もう8割方大丈夫です。

彼の覚悟を感じた上で、私はお伝えしました。

 

「壊す、と言っても、実はこれまでの

パターンを壊すだけのことです。

もっと言えば、これまでの心と行動のクセを

直すだけのことなんです。

今の木村さんの覚悟があれば、必ずできるでしょう。」

 

木村さんの目が爛々と輝いてきました。

 

「やり方をお伝えする前に

木村さんに明確にしてほしいことがあります。

演じる木村さんではなく、本来の木村さんとは

どのような木村さんですか?

それを一言で表現できますか?」

 

この問いは、真本音度合いが高まっているからこそ

有効です。

高まっていない状態で問うても、

本当の答えは決して見つかりません。

 

木村さんからは

即座に答えが返ってきました。

 

「“素直に生きる自分”です。」

 

良い答えです。

しかし、まだまだ中途半端な感覚がしました。

 

「いい感じですが、もっともっと

本当の木村さんの想いを自由に表現できませんか?

もっと木村さんらしい言葉があるはずです。」

 

木村さんはジーッと目を閉じました。

 

そして、パッと目を見開きました。

 

「すごく変な表現が浮かんだんですが、

よいのでしょうか?」

 

「大丈夫ですよ。何ですか?」

 

「“生まれたばかりの無邪気”という言葉が

浮かびました。」

 

これを聴いた瞬間に、私は体の芯が

ゾワゾワっと痺れる感覚がしました。

 

その感覚はとてつもなく強く、

しばらく抜けることはありませんでした。

 

恐らく相当に心の深いところから掘り出された

木村さんの「願い」なのでしょう。

 

今度は、私の目に涙が溜まっているのが

自分でわかりました。

 

「それはどんな意味なのでしょうね?」

と私が問うと、

 

「自分で言いながら、自分でもよく

わかりません。

でもその言葉を思うと、心がすごく

洗われます。

スーッと楽になります。

なんかとても自由です。」

 

「じゃあ木村さん、

まずはその言葉をいつも思い浮かべていて

ください。

それはできますか?」

 

「はい、できるも何も、こんな気持ちのいい言葉なら

24時間想い続けますよ。」

 

「では、これまでの自分の壊し方は

あえてここではご説明しません。

いつもその言葉を思い浮かべながら日常生活を

送ってみてください。

そこで自分が何を感じ、どう変化するのかを

観察してみてください。

まずはそこから始めましょう。」

 

つづく

 

自信がないからできない? 傲慢だねぇ

「ラポール」という言葉があります。

 

臨床心理学で使われる用語なのですが、

コーチングの世界では「信頼関係」と訳されます。

 

もともとは、「心と心がつながる」とか「心が通い合う」

という意味だそうです。

 

私は、いつもこれをあえて

「本能的信頼関係」

と表現しています。

 

人が人を信頼する多くの場合は、

何らかの理由があります。

 

例えば、

仕事ができるから信頼できる、とか、

約束を守る人だから信頼できる、とか、

器が大きいから信頼できる、とか、

物事を必ずやり遂げるから信頼できる、とか。

 

しかし「本能的信頼関係」とは、

そういった理由や根拠はありません。

 

何となく、この人いいな。

何となく、この人好きだな。

何となく、この人と一緒にいたいな。

何となく、この人と通い合いたいな。

何となく、この人と心を開いて話したいな。

 

そのように、明確な理由がないのに、

初対面で会ったその瞬間からそう思える時が

あります。

 

それを「本能的信頼関係」と呼んでいるのですが、

その原因のほとんどは、その人の放つ

「空気感」

です。

 

生田さんが、平井さんのことを

まるで別人に生まれ変わったようだ、と感じた

最大の要因も、

平井さんの発する空気感の変化でした。

(→前回記事)

 

もともと、「人間不信」とも言える冷たい空気感を

持っていた平井さんが、

「人間愛」とも言えるようなあたたかい雰囲気を

醸し出すようになりました。

 

そうなれた最大の原因は、

平井さんが自分自身を許すことができた

からです。

 

言葉を変えると、

平井さんが、自分自身とのラポールを構築できた

からなんです。

 

自分自身とのラポール。

 

私は極端に言えば、人生の8割は

これで決まると思っています。

 

自分のことを自分が信頼できるか?

 

です。

 

ですがこの信頼とは、あくまでも

本能的信頼であって、

私はこんな能力があるから自分を信頼できる、とか

私はこんな経験を積んできたから自分を信頼できる、とか

私はこんな個性だから自分を信頼できる、とか

そういった理由付きの信頼ではありません。

 

ただただ、心の底から

自分を信頼できるかどうか?

です。

 

残念ながら、そういった意味で

自分のことを本当に信頼できている人は

非常に稀です。

 

これはいわゆる「自信」とは

関係がありません。

 

むしろ私の経験から言えば、

自信のある人ほど、

自分自身への本能的信頼感が少ない

という傾向があります。

 

自分自身への本能的信頼感がないが故に

それを満たしたいが故に物事に頑張り

経験を積み、

「自信」を得てきている人が多いのです。

 

しかしどれだけ自信を得ても、

自分自身への本能的信頼は増えません。

本能的信頼が枯渇しているから

自信の持てる自分でい続けよう、とします。

 

そんな人が多いのです。

 

自分への本能的信頼を得ている人の多くは、

自信があるとかないとか、

そんなことは関係ない、という感じです。

 

そういう人は、よく自信のなさからくる不安を

感じ取ります。

ですから、自分は弱いなぁ、という自己イメージを

持っている人が多いです。

 

しかし、自信とはまったく別の次元で、

「確信」が湧いてきます。

 

その確信に基づいて、行動をします。

 

つまり、

自信と確信は、まったくの別物です。

 

確信に基づいて生きている人ほど、

自信のあるなしは、

関係なくなります。

弱い自分だろうが、強い自分だろうが、

関係なくなります。

どちらにしても、自分の行動や選択は

変わらないからです。

 

平井さんは言われます。

 

「以前よりも今の方が私は

自信がないと思います。

正確に言えば、自信のない自分を

あるがままに感じることができるようになりました。

あぁ、自信がないんだなぁ、私は、と。

しょうがないなぁ、私は、弱いなぁ、私は、

と思いながら、でも行動を変えることはしません。笑」

 

私は、これこそが

人の本当の強さ

だと思います。

 

自信があるからできる。

 

というのは、本当の強さではないと

私は思っています。

 

自信があるからできる。

自信がないからできない。

 

その次元で自分の選択をし続ける状態を

私は「傲慢」と呼んでいます。

「独りよがり」と呼んでいます。

「わがまま」と呼んでいます。

 

その次元から抜け出ることは、

すべての人が可能です。

 

その次元から抜け出て、

自分の確信によってのみ生きることで

私達は「自由」になれます。

そして、

本当に望む人生を創り出すことができます。

 

では、どうすればそんなことが

できるのでしょうか?

 

どうすれば、自分自身と

本能的信頼関係を結ぶことができるのでしょうか?

 

その答えは極めてシンプルです。

 

つづく

 

あなたの心は自由ですか?

目を閉じてください。

 

今、自分が一本の道の途上にいるイメージを

してください。

 

イメージといっても、頭で無理に創り出すのではなく、

自然に浮かび上がってくるイメージを

待ってください。

 

道が見えますか?

 

道の先に目を向けてください。

 

これから自分が進んで行こうとしているその道は

まっすぐな一本道ですか?

 

それは伸びやかに未来に向かって、

淀みなく伸びていますか?

 

それは気持ちの良さそうな道ですか?

 

その道の先には、光がありますか?

 

もしそういった感覚がなければ、

あなたには何らかの修正が必要です。

 

今立っている道が違うかも知れません。

 

もしその道で良かったとしても、

その道の先に障害があるのでしたら、

今はまだ、その障害ときちんとあなたは

向き合っていないのかも知れません。

 

今実際に、どれだけの苦境にあろうとも、

あなたの中から自然に浮かんでくる道が

まっすぐに気持ちよく伸びているのであれば、

必ず現実においてもあなたの道は開かれます。

 

もしそうでないならば、

今、何らかの修正が必要です。

 

さらに問います。

 

そのあなたの道の先には、

大勢の人達の笑顔が待っていますか?

 

それとも、それはあなた一人だけの道ですか?

 

もし、あなた一人だけの道だとしたら、

今の現実においては、あなたは独りよがりな

選択をし続けている可能性があります。

 

これから自分の未来がどうなるのか?

 

それを最もよくわかっているのは、

本当は自分自身です。

 

なぜなら、

真本音で進む未来は必ず実現するからです。

 

実現しないのであれば、

それは真本音の道ではないのです。

 

もちろんそれは短期的な意味ではありません。

 

短期的に見れば、物事が上手くいかないことは

たくさんあります。

それらの経験が、真本音の未来を実現するための

財産にもなります。

 

ただ、心を鎮めて自然に浮かぶ道が

まっすぐではないとしたら、

その道は長期的に見ても、あなたの望む未来は

実現してくれません。

 

今、自分は真本音の道にいるのかどうか?

 

今、自分は真本音の通りに進んでいるのかどうか?

 

それを一番よくわかっているのは、

自分自身です。

 

だから、未来がどうなるのかは

自分が一番よくわかるのです。

 

しっかりと、

今あなたの中にある道を見極めた上で、

自分に降りかかる現実と対峙しましょう。

 

先日、あるクライアントさんがおっしゃっていました。

 

「自由とは、何でしょうね?」

 

その方は、続いてこう言われました。

 

「私は、どれだけ状況が自由であっても

心が自由でなければ、それは自由とは言えないのではないか、

と思うんです。」

 

どのような状況下にあっても

心が自由であること。

 

そんな人はきっと、

常に、心の中では、自分自身の真本音の

一本道に立っています。

 

いついかなる時にも、

心が自由な人こそが、

望む未来を創るのだと思います。

 

平井さんのメッセージを思い出します。

 

社長と平井さんの公開コーチングを初めて

社員さん達の前でさせていただいた時、

(→前回記事)

平井さんは社員さん達に向かって、

こう言われたのです。

 

「みんな、もっと心を自由にしようよ!

みんな、窮屈なんだよ。

以前の私も窮屈だった。

でも、今の私は心が自由だ。

そっちの方がよほど仕事は楽しい。

みんな、心が窮屈すぎて、私はつまらない。

私は心の自由な人達と仕事をしたい。

みんな、もっと心を自由にして、

仕事に取り組もうよ!」

 

これが効いた。

 

もちろん、すべての社員さんに効いたわけではありません。

でも、その時はまだわずか数名でしたが、

この平井さんの言葉が、ぐっと響いた人達がいました。

 

彼らはその後、平井さんの会社の幹部として

大活躍をされるようになります。

 

この日が、“平井チーム”の

スタートでした。

 

つづく

 

想定外のマネジメント

「肚が据わる」という言葉があります。

 

肚が据わっている人は

精神的に非常に強い人である、という印象がありますが、

実は、そうではありません。

 

本当に肚が据わっている人は、

自分の弱さをすべて知っている人です。

自分の弱さをあるがままに見つめることができる人です。

 

自分の弱さにフタをして、イキがって勢いだけで進むのは、

「肚が据わる」とは真逆の状態です。

それは「ごまかし」です。

 

人は弱い。

 

自分は弱い。

 

そういった「事実」をあるがままに受け止められる人こそが

「肚が据わった」判断ができます。

 

「現実」とは、

想定外のことがいくつも起きます。

 

「想定外のことが起きること」

それが現実だと定義しても良いくらいです。

 

イキがって、「それは想定内のことだから」と言っているうちは

本質的には、現実逃避と変わりません。

 

想定外のことが起きた。

うわーっ、どうしよう?

混乱だ。混沌だ。自分を見失う!

というすべての現象をあるがままに受け取ることで、

私達は「肚が据わった」状態に入れます。

 

それは「覚悟を持った状態」であり、

人としての「自然体」です。

 

「自然体」に戻れば、

人は「最善の選択」ができます。

 

心配をしなくても、

「想定外のことがわざと起こるように出来上がっている」

のが「現実」なので、

それらをすべて楽しんで進みましょう。

 

さて、平井さんの話に戻ります。

(→前回記事)

 

私が平井さんに対して「すごいなぁ」と思えることの一つは、

「想定外のことを楽しむ」力です。

 

平井さんは言われます。

 

「私は、人が好きです。

なぜなら、人は、想定外だからです。

人は、予測できないからです。

あぁこの人のことはよくわかった、と思った瞬間に必ず、

その人は想定外のことをします。笑

それが、人の面白さではないでしょうか。

だから私は、人をコントロールすることをあきらめました。

想定外のことをするのが人である、というように

自分の中で定義づけることで、初めて

本当のマネジメントができるようになった気がします。」

 

そしてさらに続けられます。

 

「私にできることは、

人と人を結ぶことです。

今は、誰と誰を結べば、想定外に面白いことが起こるだろうか?

という観点から、マネジメントをしています。」

 

それが平井さん流のリーダーシップでもあるんですね。

 

しかし私こそ、平井さんに対して「想定外の面白さ」を

感じます。

あれだけ、自分を失くしていた人が、

今は自分を取り戻すどころか、人の可能性を

想定外に引き出しています。

 

「想定外の人生を楽しむ」平井さんの姿は

私の想定外でした。

 

私は平井さんから随分と

勇気をいただきました。

 

人生は、想定外だからこそ素晴らしい。

 

人は、想定外だからこそ素晴らしい。

 

想定外である人生を、

想定外である人を、

どのように活かすか?

それこそが、本来のマネジメントである、と。

 

マネジメントとは「管理」であると

一般的には言われていますが、

私は思います。

マネジメントとは、「自由」であると。

いかに人本来の「自由」を引き出すか?

それがマネジメントであると。

そしてそれが中途半端ではなく、

本当に成されることで、「調和」が起こると。

本当の自由は、調和を起こす。

その「調和」を起こすことこそが

マネジメントであると。

 

今の私の組織活性化サポートの核になる部分を

私は平井さんから随分と学ばせていただいたのです。

 

つづく

 

『脱皮し続ける人生』

人は脱皮します。

しかし、 脱皮の時期がきているのに 脱皮せずに
これまでの自分に執着すると とても苦しくなります。
その苦しさのまま 人生を終えてしまう人も多いです。

脱皮をすれば

とてつもない開放感を得られます。
自由自在な人生を 生きることができます。

しかもその脱皮は 連続して訪れます。

たった一年で、 何度も脱皮する人も います。

これまでの自分の人生が 嘘のように小さく見える 人もいます。

でも無理をしているわけでは ありません。

無理をするのではなく 脱皮をするのです。

そうすれば いつも自然体で いつも淡々と
いつも楽しく 進むことができます。

どうすれば そんなことができるの?

そんな疑問にお応えする ブログです。

・・・・・・

人が脱皮するのと 同じように、 組織も脱皮します。
そしてこれも個人と同じですが、 脱皮の時期にいるのに
これまでのやり方に 執着することで 衰退を始める組織も 多いです。

脱皮の時期には 混乱が起こります。
不安定が 起こります。
それを恐れるあまりに 脱皮とは逆の方向に 向かってしまう組織も
多いです。

きちんと脱皮すれば 組織は安定的に成長し続けます。

脱皮することは 永続的な組織を創り上げるのです。

チームパフォーマンスコーチとして
組織の現場で体感しながら 得た真髄を、
このブログでは書き続けます。