2018年 3月 の投稿一覧

本当の想いを見つける方法

両足を肩幅くらいに広げて

リラックスした状態で

立ってください。

 

全身の力を

できるだけ抜きます。

 

おへその奥の体の中心と

頭のてっぺんの中心を

結んでください。

 

それが

あなたの中心軸です。

 

その中心軸を、

下の下へと伸ばしてください。

 

ずっとずっと伸ばして、

地球の中心まで

到達させてください。

 

地球の中心と

つないでください。

 

それができたら今度は、

その中心軸を

頭より上の方に伸ばします。

 

上へ上へと伸ばして

宇宙まで到達してください。

 

宇宙とつながるイメージを

してください。

 

地球の中心と

宇宙をつなぐ

一直線。

 

その途上に

あなたは存在しています。

 

その一直線と

あなたの中心軸は

一致しています。

 

その状態で、

あなたが今、

立っている大地を

自由にイメージしてください。

 

あなたは今、

どのような大地に

立っていますか?

 

その大地が

あなたにとって

とても気持ちの良い

ものであれば、

OKです。

 

気持ちの良いもので

なければ、

いったんここで

終了です。

 

もう一度、

時間を置いてから、

改めて最初から

やり直してください。

 

気持ちの良い大地に

立っている自分を

イメージできた人は、

次に進みます。

 

今度は、

その大地を感じながら、

空を見上げます。

 

気持ちの良い

空ですか?

 

気持ちの良い空で

ない場合は、

残念ながら

時間を置いて

またやり直しです。

 

気持ちの良い空で

あれば、

次に進みます。

 

あなたは今、

気持ちの良い大地に

立ち、

気持ちの良い空を

見上げています。

 

その状態で、

あなたの心の中に

自然に浮かんでくる

あなたの想いを

空に向かって

叫んでみてください。

 

もちろん、

叫ぶと言っても

本当に叫ぶのではなく、

イメージの中で

叫べば結構です。

 

その叫びは

人によって

様々でしょう。

 

例えば、

自分の中に鬱積した

不満や不安や

憤りなどを

叫ぶ人もいるでしょう。

 

例えば、

自分の夢や希望や

未来への前向きな意志を

叫ぶ人もいるでしょう。

 

何でも結構です。

 

プラス指向でも

マイナス指向でも

何でも結構です。

 

心の中から

湧き上がる想いを

そのまま空に向かって

叫んでください。

 

一度叫び始めると、

次から次へと

叫びたい想いが

浮上してくることもあります。

 

そうなったらもう、

とことん

叫び続けてください。

 

もし時間がなければ、

時間を置いて

もう一度最初から

やってください。

 

落ち着いた時間に

自分の想いを

最後まで

叫び尽くすことが

大切です。

 

叫んで叫んで叫んで、

もう何も出なくなるまで

叫び続けてください。

 

どれだけ

長い時間がかかっても

大丈夫です。

 

もう何も出なくなるまで

叫び続けてください。

 

すべて

叫び終えた時、

今度は、

あなたの中心軸に

もう一度、

意識を向けてください。

 

中心軸の中で、

最も強く輝いている部分が

あるはずです。

 

それが見つかったら

そこに意識を

向けてください。

 

すると、

その光から

これまでの叫びとは

まったく異なる質の

想いが浮かび上がってくると

思います。

 

それは、

叫びではなく、

とても静かなもの。

 

しかし、

とても深く、

自然で、

力強いものです。

 

それが、あなたの

真本音の想い

です。

 

真本音の想いとは、

自分の中に存在する

あらゆる叫びを

出し切った後に、

それでもそこに残っている

ものです。

 

何がどうなっても、

どのような状況になっても、

ずっとそこに

あり続けるものです。

 

自分の想いを叫ぶことで、

私達は自分の想いを

成仏させることが

できます。

 

すべてを成仏させても

それでもなお

中心軸上で

変わらずにあり続ける想い。

 

それこそが、

真本音の想いです。

 

私達が

自由に生きるとは、

その、

真本音の想い

に素直に生きる

ということです。

 

反応本音の想いとは

残念ながら

状況が変われば

消えてしまいます。

 

叫べば、

成仏してしまいます。

 

そういった

消えてしまう可能性のある

想いに向かって生きるのは

自由

とは言えません。

 

その時は自由を

感じるかもしれませんが、

必ずそれは

後悔を生んでしまいます。

 

自分の中に

永遠にあり続ける想い。

 

それを存分に

大切にする。

 

それが、

本当の自由への

第一歩です。

 

つづく

 

絶対に自由になれない方法とは

昨日、お書きしたように、

ここしばらくは

「自由」

というテーマで記事を

書いてみたいと思っています。

(→前回記事)

 

が、

まずは最初に明確に

申し上げますね。

 

私の言う自由とは、

 

『真本音の自由』

 

ということです。

 

まぁ、

私の言う自由、という

書き方をすると

まるで私の理論のようですが、

そうではありません。

 

私が語ることのすべては

私が考えた理論では

ありません。

 

物事の本質、

つまり、

当たり前のことしか

言っていません。

 

一人の人間が考えた主張

ではなく、

かなり格好良く言えば、

「真理」

を私なりの表現でお伝え

しているだけのことです。

 

「真理」

というのは、

一部の人だけが理解していること

ということではなく、

「本当はみんながわかっていること」

です。

 

顕在意識のレベルでは

普段は意識していないけれども、

本当はみんなよくわかっていて、

その視点の話をすれば、

あぁそうだよね、

それが普通だよね、

と、当たり前のように感じること

ということです。

 

私はそういったことしか

お伝えできないですし、

それ以外のことをお伝えするのは

私の役割ではないと

思っています。

 

ですから、

「教える」

のではなく、

「思い出していただく」

というのが、

私の活動の本質です。

 

そういった意味で

もう一度申しますが、

自由とは、

「真本音の自由」

であり、

真本音が自由でなければ、

何がどうあっても、

私達人間が

本当の意味での自由を感じる

ことは

あり得ないのです。

 

なぜなら真本音とは

「本当の自分自身」

だからです。

 

本当の自分自身が

「自由だな」

と感じなければ、それはもう

自由ではありません。

 

では、

本当の自分自身とは何か?

ということになるのですが、

そっちの視点からの話になると

難しくなってしまう可能性があるので、

別の視点から

お話を進めることにします。

 

まず皆さん。

 

皆さんの自由を

阻害しているもので

最も大きなものの一つは

何だと思いますか?

 

これは

いろんな角度からいろんな答え

が出そうな質問です。

 

あえて私がここで

お伝えしたい答えは

次のようなものです。

 

私達の自由を

阻害している最大のもの。

 

それは、

 

「自由への渇望」

 

です。

 

言葉を換えれば、

 

「自由を阻害しているものへの不満」

 

とも言えます。

 

さらに言葉を換えれば、

 

「自由になりたい心の叫び」

 

です。

 

今、自分は

自由ではない。

 

自由でないから

自由になりたい。

 

なんで

自由になれないんだよー!

 

どうすれば

自由になれるんだよー!

 

という、

心の叫び達が、

実は

自由を阻害しています。

 

まずはこの

叫び、達を

浄化・成仏させてあげないと

いけないですね。

 

これは要するに

「反応本音の叫び」

です。

 

反応本音とは、

外部環境からの影響を受けて、

その反応として生まれる

私達の本音です。

 

その多くは、

・何かに満たされていない

・だから満たしたいと思う

という実にシンプルな理由から

発生します。

 

例えば、

・今の私は自由じゃない

・だから自由になりたい

というわけです。

 

これを理論的に捉えて、

・では、今の自分は何が自由じゃ

ないんだろう?

・どうすれば、そこから自由に

なれるんだろう?

とやっていくと、

実は、

おかしくなります。

 

この発想をして、

そこで生まれた答えを

実行に移して、

例えば、すべてを実行できたとしても

永遠に自由を得ることは

できないのです。

 

自分の中に発生する

反応本音に

どれだけ対応しようとも

私達は

自由になれないからです。

 

私達が自由になるには、

反応本音に対応すること

ではなく、

自らの真本音を

自由にすること

です。

 

さぁ、ではまずは、

反応本音の自由への叫びを

浄化・成仏させましょう。

 

その方法は

次回で。

 

つづく

 

あなたは自由に生きていますか?

私達には

自由意志があります。

 

自由に何でもしてもいいよ、

と言われたら、

自然に浮かんでくる

やりたいこと、があります。

 

その時その瞬間に

それは常に

浮かび続けています。

本当は。

 

ところが多くの人は、

日常において

自由ではない日々を送っています。

つまり、

何らかの制約を感じながら

日々の生活をしています。

 

ですので、

自分自身の自由意志に

フタをしてしまっています。

 

フタをしないまでも、

そこに意識を向けずに

生きています。

 

結果として、

自由意志は本当は

あるんだけれども、

そこに気づかない状態

が続きます。

 

そしてそのうちに、

自由意志とは何なのか?

自分の制約がなくなったら

いったい自分は何を望むのか?

について、

 

「考えたこともありません」

「まったくわかりません」

 

という返答になります。

 

もしくは、

自由という言葉を聴くと、

「そんなのは無理だ」

「現実的ではない」

と思ったり、

「自由に伴う責任がウザい」

と思ったりして、

自由を敬遠する傾向となって

現れることもあります。

 

いずれにしても、

自由意志から離れてしまっている

そんな人が

多いのが今の世の中です。

 

要するに、

全然、自由じゃない

のです。

 

ほとんどの人が。

 

もちろん、

現実世界の中で

何の制約もない状態

というのは稀有でしょう。

 

物理的にすべてから

自由になる

というのは現実的では

ありません。

 

しかし、

心の中まで

自由を失ってしまっても

よいでしょうか?

 

心の中まで

自分で自分を縛りつけ、

果たしてそれで本当に

生きている

と言えるのでしょうか?

 

よく、こんな声も

聴きます。

 

「自由な発想をしてしまうと、

現実の不自由さとの

ギャップを感じてしまい、

それがストレスになるんです」

 

・・・と。

 

しかし、実は、

心の中の自分を縛りつけてしまう

ことで発生するストレスの方が、

現実とのギャップを感じるストレスよりも

圧倒的に大きいのです。

 

私がこのブログで

よく書かせていただいている

エンティティ。

つまりは、

ストレスがある一定以上の濃度に達し

実体化したもの、

は、

心の中の不自由さによって

発生するのです。

 

私達は

生まれた直後は

皆、自由です。

 

もちろん体は不自由で

想い通りに動きませんが、

心は自由です。

 

幼児期も多くの場合は、

皆、心の中は

自由です。

 

それが、

私達人間の本来望んでいる

心の在り方です。

 

しかし

大人になるとは、

心に制約をはめることである

と私達は思い込み、

自由からいかに遠ざかるか、

遠ざかった状態で

いかに上手く生きていくか、

という力をつけることが

人としての成長であると

思い込み過ぎてしまいました。

 

今の社会の歪みの

根本原因の一つは

ここにあると、

私は日々、実感しています。

 

実は・・・。

 

正直に申しますが。

 

私は、

私ほど自由な人は

いないのではないか、と

日々、思っています。

 

本当にたくさんの人達と

向き合ってまいりましたが、

私から観れば、

ほとんどの人が

不自由に観えます。

 

ただ、

私が長くサポートさせていただいている

クライアントさん達は

違います。

 

私の密かな

コーチとしての目的は

クライアントさんに

本当の意味で自由になっていただく

ことなんです。

 

まぁ、ここで書いてしまった以上

「密かな」では

なくなってしまいますが。

 

でも、本当にいつも

そればかりを願って

サポートしています。

 

ですからクライアントさん達は

どんどん自由になり、

私と同じくらいに

自由になっていきます。

 

すると、

私との共鳴・共振が

起こります。

 

人は、

本当の意味で自由になると、

非常に深い

共鳴と共振を

起こします。

 

それは

「調和」

と言えるものです。

 

その「調和」は

「進化」を起こします。

 

とは言え、

以前の私は恐らく

世の中の誰よりも

「不自由」だったと思います。

 

絶望的な不自由さの

中でずっと生きていました。

 

そう考えますと、

どう観ても、

私は、今が一番、幸せです。

 

こんなことを書くと

傲慢に思われるかも

しれませんが、

私はすべての人が

私と同じような自由を

得られるといいなぁ、と

思っています。

 

特に、

組織のリーダーや

組織の要となる人達が

本当の自由を得られれば、

その組織全体に

「自由の調和」が

巻き起こります。

 

それは非常に

幸せな状態です。

 

私は世の中全体が

そうなるといいなぁと

真剣に思っています。

 

そこで、

次回からは

「自由」をテーマにした記事を

書かせていただこうかなと

思います。

 

そして、

本当の意味で自由になるための

セルフコーチングの手法

なども

いくつかご紹介できればな

と思っています。

 

お楽しみに。

 

つづく

 

そのエネルギーはどこから来ている?

モチベーションが

高まったり、

気分が高まっている時、

私達は

エネルギーに満ち溢れます。

 

それはとても

気持ち良いものです。

 

エネルギーが満ちることで

私達は

自信にも満ち溢れ、

何でもできそうな

気がします。

 

そのパワーは

未知の領域を

開拓できそうです。

 

これまで挑戦したことのない

ことに挑戦し、

これまで成し得たことのない

物事を

達成できそうです。

 

そしてそのままの勢いで

私達は

前進を始めます。

 

なかなかに凄い勢いの

前進です。

 

「飛ぶ鳥を落とす勢い」

というやつです。

 

しかし。

 

もしクライアントさんが

その状態に入った時、

その時こそが、

私が最も注意深くなる時

です。

 

なぜ注意深く

なるのか?

 

なぜなら、本当に

「飛ぶ鳥を落とす」ことは

してはならないからです。

 

もし

「飛ぶ鳥を落とす勢い」

であれば、

私はクライアントさんに

ストップをかけます。

 

それは、

本来のその人のエネルギーでは

ないからです。

 

そのエネルギーは

周りの人達から

奪い取っているものだから

です。

 

エネルギーやパワーには

2種類あります。

 

一つは、

外から奪い取ることで

発生するもの。

 

もう一つは、

自らの内側から

自然発生するもの。

 

後者の場合は、

「飛ぶ鳥を落とす勢い」

ではなく、

「飛ぶ鳥をさらに活かす」

ことができます。

 

つまり、

周りのあらゆる人達が

より元気になっていくのです。

 

それが、

本来のエネルギーであり

本来のパワーです。

 

私が、

真本音のパワー

と呼んでいるものです。

 

もし

「飛ぶ鳥を落とす勢い」系の

パワーの場合は、

それは長続きしません。

 

必ず、

終わりが来ます。

 

そして、

反動が来ます。

 

プラスに振れた分だけ

今度は

マイナスに振れることに

なります。

 

ある時は、

ワーッと勢いがいいのに、

ある時、突然

それがまるで嘘であったかのように

萎んでしまう。

 

パワーの乱高下を

起こしやすいのです。

 

するとその乱高下に

周りの人達は振り回され、

ますますエネルギーを

奪われることになります。

 

最もタチが悪いのは、

それを起こしている張本人が

それを起こしていることを

自覚していないことです。

 

どんどん疲弊していく

周りの人達を見て、

「奴らはダメだ」

と、その人は言います。

 

「奴らは俺に

ついて来ることができないのだ」

と。

 

一度でも、

「飛ぶ鳥を落とす勢い」を

体験してしまった人は、

その気持ち良さを

忘れることができません。

 

その時、その人が感じていることを

一言で表すと、

こうなります。

 

「万能感」。

 

もしくは

「全能感」。

 

つまり、自分が全知全能の神に

なれたような感覚。

 

この体験は

あまりに気持ちよく、

常にそこに戻りたいという

欲望を喚起します。

 

そこに戻るためには、

多少のパワーの乱高下など

気にしない。

 

そこに至る自分自身に

酔ってしまう状態です。

 

残念ながらこういった人には

どのような忠告も

効きません。

 

むしろ、

忠告する人を

遠ざけるようになってしまいます。

 

周りには、イエスマンしか

置かなくなります。

 

要するに、

裸の王様になるということです。

 

本来のパワー、

真本音のパワーに

「勢い」はありません。

 

それは、

静かなものです。

 

静かですが、

深いです。

 

それは

永遠に続きます。

 

勢いで人を動かすのではなく、

深い部分での

共鳴や共振によって

人と共に動きます。

 

真本音のパワーを

発揮している人の顔を

思い浮かべると、

それだけで人は

元気になれます。

 

早くその人に

会いたいなぁ、と思えます。

 

一緒にいるだけで

幸せになります。

 

ただしそれにより

依存を生み出すことは

ありません。

 

むしろ、

自立心と自律心を

生み出します。

 

私もその人のように

確固たる自分を持ち、

周りの人達を元気にしたい。

 

周りの人達を

活かしたい。

 

そういった「進化への欲求」が

頭をもたげるからです。

 

そういった自律心によって

広がる「仲間」は、

モチベーションアップとか

気分を高めるとか、

そんなことはいっさい

必要ありません。

 

表面上は

淡々と生きるだけです。

 

今、やることを

今、やるだけ。

 

しかしその

一挙手一投足には

魅力が溢れます。

 

うるさい魅力では

ありません。

 

静かで

心や魂に沁み渡るような

その人本来の魅力です。

 

「勢い」によって

人を動かす人のほとんどは

人々のパワーを

奪い取っています。

 

パワーの奪い合いは、

新たなパワーを

発生させることは

まずありません。

 

しかし私達人間の

本来のパワーは

無尽蔵です。

 

内側から湧き出す

真本音のパワーとエネルギーは

「循環」を生みます。

 

「奪い合い」ではなく、

「循環」。

 

しかもその循環は

お互いのパワーの次元を

どんどん高めます。

 

一人のパワーが

一緒にいることで

さらに高まっていく。

 

それが、

本来の私達人間の

姿です。

 

そんな組織やチームを

創りたいですね。

 

そのためには、

真本音で生きるリーダーが

必須なのです。

 

つづく

 

虚無に負けるな

人生に辛さを感じている人、

特に、

「虚無感」に苛まれている人が

今、本当に増えているのを

実感しています。

 

ですから今日は、

「虚無」について

書かねばなりません。

 

「虚無」とは

何だと思いますか?

 

「虚無」と言うと

何もない状態であると

思われる人が多いでしょう。

 

しかし。

 

「虚無」

とは、何もない

というものではありません。

 

もっと言えば・・・。

 

「無」という一文字も

見てみましょう。

実は、・・・。

 

「無」

と言うのも、何もない

というものではありません。

 

それは、

「無」

という一つの

かたまりなのです。

 

我々人間が解釈した

「何もない」

というものの、

かたまりに過ぎないのです。

 

解釈の

かたまり。

 

ただの想像の

かたまり。

 

本当に何もない

わけではありません。

 

実在のレベルで言えば、

「何もない」

という状態は本来は

あり得ないのです。

 

「何もない」状態は

ないのです。

 

ところが私達は

「無」とか「虚無」を

極度に恐れます。

 

我々人間の持つ

あらゆる恐怖感の

根底にあるものが

「無」や「虚無」への

言いようのない恐れです。

 

「無」になりたくない。

 

「虚無」に陥りたくない。

 

私達の恐れは

すべてここから

きています。

 

しかし、

「無」も「虚無」も

本当はありません。

 

ないものに対して

私達は恐怖しているのです。

 

よく、

次元が高まると

何もなくなる。

すべてが無になる。

 

という言い方をされる人が

います。

 

しかしそれは実は

無とは似て非なるもの

です。

 

それは、無ではなく、

「すべてがある」

状態です。

 

どういうことかと言いますと、

光をイメージするとよいでしょう。

 

赤い光、青い光、緑の光、・・・

様々な波長のすべての光が

合わさると、光は

無色透明になります。

 

無色透明ですから、

一見すると何もないように

見えますが、実は

すべてがそこに

あるのです。

 

すべてが完全に

存在する状態になると、

表面的には無と同じに

なります。

 

しかし、それは無ではなく、

一般的には

「空」(くう)

と言われる状態です。

 

「空」とは

あらゆるものを

生み出す源です。

 

すべてが最初から

そこにあります。

 

実は、

「創造する」

とは、

「すべてがある」状態から

一部分を分離させること

を言います。

 

「すべてがある」状態から

一部分だけを焦点化する

という言い方もできます。

 

次元が高まると、

すべては「一つ」に

なっていきます。

つまりそれは

「空」に近づく

ということです。

 

逆に言えば、

次元が高まり「空」に近づくことで

私達は、あらゆるものを

自由自在に

分離させたり焦点化させることが

できるようになります。

つまり、

望むものを「創造」できるのです。

 

次元が高まれば高まるほど、

望む現実を手に入れられる

という理由の本質は

そこにあります。

 

ちょっとわかりづらいお話に

なってしまったかも

しれません。

 

言いたいのは、

無などない

ということです。

 

しかし、この世には

「無」を感じさせる物事が

たくさんあります。

 

であるが故に

私達は惑わされます。

 

前回の記事でも

書かせていただいた

エンティティも、

ある意味、

「無の象徴」と言えます。

 

エンティティとは、

無への恐れ、という念が

実体化したものです。

 

無への恐れの実体なので、

まるでそれが無そのもののような

恐ろしさを感じます。

 

ですので私達は

エンティティから逃げようと

します。

 

逃げようとすれば、

逆に背後からエンティティに

取り込まれます。

 

知らず知らずの間に

取り込まれています。

 

すると、

どうせすべては

無に帰するのではないか、

という絶望感が

発生します。

 

それにより、

あらゆる気力やパワーが

失われます。

 

何日か前の記事にも

書かせていただきましたが、

このエンティティの氾濫が

今は激しくなっています。

 

エンティティ自体は

実は全然大したことのない

弱いものなのですが、

弱いが故に、

私達の心の弱い部分と

共鳴します。

 

私達は今こそ、

強い意志(意思)を持たねば

なりません。

 

自分の人生は

自分のものである、

ということ。

 

人生に

正しい、間違っている、

という答えはなく、

答えは自分で決めていくのだ

ということ。

 

自分で自分の願いを持ち、

自分で自分の課題を持ち、

自分で自分の決断をし、

それを実行する。

 

つまり

自分で決め

自分で動く。

 

自分で選択し、

自分で進む。

 

この、当たり前を続ける

覚悟。

 

それを持っている人に

エンティティは

絶対に寄りつけません。

 

当然、

心に弱さはあってもよいです。

 

ただ、一方で

心には揺るがぬ部分も

確かに存在しています。

 

それを私は

真本音と名づけています。

 

誰もにある揺るがぬ部分。

 

真本音。

 

それを大切にし、

次の一歩を

踏みしめる。

 

ただそれだけのこと。

 

その意志(意思)に

エンティティは近づけません。

 

もし仮に

一度はエンティティに

取り込まれたとしても、

真本音のパワーによって

エンティティは

すぐに成仏します。

 

私は自分のミッションとして

あえて、

向き合う方々のエンティティを

すべて受け取り吸収します。

 

私が吸収すれば、

目の前の人はエンティティから

解放されるからです。

 

そして後の時間で、

すべてのエンティティと向かい合って

すべてを浄化します。

 

真本音のパワーで浄化

するのです。

それはまさしく「成仏」と言える

ものです。

 

ですから、

成仏する瞬間の彼らの声を

私は毎日のように聴いています。

 

エンティティ達は皆、

最期にこう言うのです。

 

「ありがとう。」

 

彼らは、

無ではなく、

「すべてがある」世界に

戻っていきたいのです、

本当は。

 

つづく

 

疑いのかたまりになった日

ある日、

目が覚めたら、

すべての物事を

疑っている

自分がいた。

 

そんなご経験は

ありませんか?

 

これまでの自分の

道のり。

 

今の自分。

 

これからの未来。

 

大切な人達。

 

それらすべてに

疑いの眼差しを

向けてしまう。

 

そんな自分に

陥ったことは

ありませんか?

 

まったく自慢にも

なんにもなりませんが、

私は

数えきれないほど

あります。

 

そういった場合、

自分の心の中心は

「疑い」

となっています。

 

「疑い」という

理念のもとに

すべての物事を

見つめています。

 

中心がそうなので、

何に対しても

信じることが

できません。

 

この状態は

どういうことなのでしょうか?

 

なぜ、

こんなことに

なるのでしょうか?

 

以前の私は、

その状態に入ったら、

無理に自分に言い聞かせ、

「信じる自分」

を創り出そうとしていました。

 

私は信じる。

私は信じる。

私は信じる。

私は信じる。

・・・・

 

と、一日中、心の中で

唱え続け、

疑う自分を駆逐しようと

していました。

 

だって、

私は人をサポートする仕事を

しているのです。

 

人をサポートする立場の

人間が、

人を疑っていたら

仕事になりません。

 

目の前のクライアントさんにも

疑いの空気が

伝染してしまうでは

ありませんか。

 

なので、

必死でした。

 

しかし、

どれだけ自分に

言い聞かせても

信じる自分には

なり切れませんでした。

 

疑いという根底の上に

無理に

「信じる」自分を

形作っていますから、

とてつもなく不自然です。

しかも、

疲れます。

 

その状態で

コーチングなんてやろうものなら、

ヘトヘトで

立ち上がることも

できなくなりました。

 

ですから、

ある日、それを

あきらめました。

 

疑う自分を

自由にしたのです。

 

すると、

いろんな心の声が

聞こえてきました。

 

いや。

 

それは、

心の声などというものでは

ありませんでした。

 

それは、

阿鼻叫喚の叫び。

 

中には本当に

断末魔のような叫びも

ありました。

 

私は、

自らに襲いかかってくる

それらの叫びと、

それに伴う苦痛を

そのままにしました。

 

すると、

いろんなものが

観えてきました。

 

疑いには、

憎しみが伴って

いました。

 

それは、

誰か特定の人に対する

憎しみというよりも、

「人間」

そのものに対する憎しみ、

すべての人、

いや、

すべての物事、

世界全体に向けられた

憎しみでした。

 

そしてその根幹には、

自分自身に対する

憎しみが

観えました。

 

あぁ私は、

私のことをこんなにも

憎んでいるんだ。

 

あぁ私は、

世界のあらゆるものを

こんなにも

憎んでいるんだ。

 

そうわかると

涙が止まらなく

なりました。

 

いったいこの憎しみは

どこから来るのだろうか?

 

そんなことを考えながらも

そのままに

委ねていました。

 

すると、

その後に

「絶望」

がきました。

 

すべては

憎しみの対象であり、

すべては

信じるに足らない

ものであり、

すべては、

存在する価値の

ないものである。

 

私自身も

存在している価値は

ない。

生きている意味も

ない。

いてはならない

存在。

 

害でしかない

存在。

 

あぁこのままいけば、

私は自殺をするのではないか、

とも思いましたが、

それでも私は

そのまますべてを

委ねていました。

 

「無」

に落ちていく感覚。

 

うん。

もう落ちればいいや。

 

とあきらめました。

 

どこまでも

落ちればいいや。

 

・・・恐らく、

この時点で私の心は

「限界」を迎えたと

思います。

 

「限界」を迎えたのですが、

それでも委ねることを

やめませんでした。

 

最後の最後の

深い闇が

観えました。

しかしそれにも抗わずに、

落ちていこうと

あきらめた時。

 

その瞬間。

 

その、

闇だと思っていたものの

中心に

突如として

まばゆい光が

現れました。

 

私は茫然と

その光を見つめました。

 

すると、

その光と私は

一つになりました。

 

そこで

わかりました。

 

なんだ。

 

この光が

私か・・・。

 

どこまで落ちようと、

私自身が光であるならば、

私が消えることは

ないではないか。

 

私自身が光であるならば、

どこに行っても、

どこまで落ちても

関係ないではないか。

 

すると。

 

阿鼻叫喚、断末魔の

心の叫びが

さらに大きなボリュームとなって

鳴り響いてきました。

 

その瞬間に

ふと私は

違和感を覚えました。

 

君は、

誰だ?

 

私は、その叫び達に

問うていました。

 

あぁそうか、

君はどうやら、

私ではないな。

 

そこに気づいた時、

ザザザーっと

私の中から

何かが抜けていく感覚が

ありました。

 

嵐が

急激に去った感覚。

 

気がつくと私は、

「今ここ」に

いました。

 

急に

泥酔状態から

シラフに戻った感覚。

 

・・・これが、

私がエンティティを知った

最初の体験です。

 

私が私自身の心だと

思い込んでいた

疑いや、憎しみなどの

心達は、

実は、私の心ではなく、

エンティティでした。

 

ストレスの

濃度がある一定以上にまで

高まり、

実体化するくらいまで

濃くなった「念」の塊。

 

それがエンティティ。

 

実は、

私がこの状態に入った

数日前、

私はある、自殺願望のあった方の

コーチングをしたのでした。

 

その方はもちろん

自殺願望からは脱したのですが、

恐らく、そのエンティティは

その人から

受け取ったのでしょう。

 

エンティティとは、

疑い、

憎しみ、

絶望、

の塊です。

 

もしそういった心に

苛まれた時、

自分自身に問うてみて

ください。

 

これは本当に

私の心か?

と。

 

自分の心と

そうでないものとの

区別がつくだけで、

私達は

自分を救うことが

できるのです。

 

つづく

 

試練に意味を求めないで

世界と自分は今、

どれだけ

「一つ」だろうか?

 

・・・このような問いを

考えたことはありますか?

 

もし今この問いを

自分に投げたとしたら、

どのような答えが

自分の中から返って来ますか?

 

私達の意識は

次元が低くなればなるほど、

すべてと分離していきます。

 

そして

次元が高くなればなるほど

すべてと「一つ」になります。

 

すべてと

「一つ」になっている自分と、

すべてと

分離している自分が、

共存しているのが

私達人間の心の中です。

 

様々な階層の次元が

共存しているのが

私達人間という生き物です。

 

今、

どの次元の自分を

前面に出して生きているか、

によって

人生の展開は

大きく変わります。

 

最近、

本当によく聴く声が、

「これまでの人生で

最大の試練に

ぶち当たっています」

という悲痛な叫びです。

 

外的な要因も

さることながら、

内面の自分がすべて

壊れてしまいそうなくらいに

揺れ動かされています。

 

我を失う、

という状態。

 

心の中の

大地震。

 

あらゆるものが

無に帰すような

恐怖。

 

まったく道の見えない

絶望感。

 

その中で

もがいている人。

 

もがくことすらできずに

茫然と佇む人。

 

そのような人が

増えています。

 

そのような時に

絶対にしてほしくないことが

一つあります。

 

それは、

「この試練には

どのような意味があるのだろう?」

と考えることです。

 

試練の意味を考える。

・・・それは一見すると

前向きな行為ですが、

私はそれを

現実逃避の第一歩であると

いつも実感します。

 

意味を考え

答えを見出す。

 

もしそれで簡単に答えが

見つかるのであれば、

その試練は

試練とは言えません。

 

あくまでも自分の範疇で

試練のふりをし、

悩んでいるふりを

しているだけのこと。

 

悩みながらも、

自分が進まない理由づけを

して人生をサボっている

だけのことです。

 

本当の試練の中にいる時、

その試練の意味は

決してわかりません。

 

もし無理に答えを

見出せば、

それは「間違った答え」です。

 

間違った答えに基づいて

試練を乗り越えようとすれば、

その試練の本当の意味から

結果的に逃げることに

なってしまいます。

 

本当の意味は

後からわかります。

 

その試練を乗り越え、

その試練が去り、

さらにその後の新たな道を

進む途上で初めて、

ある時ある瞬間に

必然的に「気づき」がきます。

 

その瞬間が来るまで

その試練の意味は

考えないでください。

 

ただ単に、

試練に身を委ねて

ください。

 

試練に身を委ねるとは

何もしない、

ということではありません。

 

試練と

対峙するのです。

 

向き合うのです。

 

武器は持ちません。

 

裸になるイメージで

あるがままの自分を

試練の前にさらします。

 

肩の力を抜き、

正面から試練を

見つめます。

 

観察をします。

 

その結果、

心は大揺れに揺れ、

我を失うかもしれません。

しかし

それでも良いのです。

 

それでも

身をさらします。

 

あえて言えば、

すべてを

あきらめる

のです。

 

開き直る

のです。

 

開き直りとは

すべてを手放した状態

です。

 

その状態に入れた時、

人は言いようのない強さを

発揮しますが、

それは意図をして

できることではありません。

 

私達にできるのは、

何があっても

あるがままの自分として

その試練に

身をさらそうと

し続けることです。

 

試練を乗り越えるか、

試練が去るまで、

それを続けます。

 

試練が永遠に続くことは

ありません。

 

試練から解放された時、

自分自身に

問うてみてください。

 

世界と自分は今、

どれだけ

「一つ」だろうか?

 

・・・と。

 

もし、

試練の前よりも格段に

「一つ」になれたかな、と

思えれば、

その後、必然的に

その試練の意味は

わかるでしょう。

 

なぜならそれは、

自分自身が次元を一つ

上がれた証拠だからです。

 

一つの次元が上がる

ということは、

景色が変わるということです。

 

新たな次元に立たなければ

見えない景色があります。

 

その景色を前にした時に

初めて、

その試練の意味は

明確にわかるでしょう。

 

人生というのは

その繰り返しですね。

 

つづく

 

慈しみのリーダーを応援したい

「慈しむ」

という言葉に

皆さんはどのような印象を

お持ちですか?

 

先日、ある社長さんとの

出会いがありました。

 

一緒に食事をさせていただいたのですが、

その社長さんは

「慈しむ」という言葉が

そのまま服を着ているような

感覚の人でした。

 

幹部さんや社員さんについての

ご相談をいただいたのですが、

その社長さんの

幹部さんや社員さんのことを

語るそのその空気感。

 

それを感じるにつけ、

あぁこの人は間違いなく

社員さん達と共に

道を拓いていける経営者だな

と確信しました。

 

その社長さんから

ご質問をいただいたのです。

 

「たけうちさんは、

今のお仕事を、どのようなきっかけで

始められたのですか?」

 

こういったご質問をいただくと、

いつもでしたら、海外の放浪から

帰ってきた時のお話を

させていただくのですが、

その日はなぜか

学生時代のある場面が

思い出されたのです。

 

私は大学1年の時から

登山を始めました。

登山と言っても

ただひたすらに山を縦走

するのですが、

いわゆる「体育会系」という部活で

荷物の重さも含めて

なかなか激しいことを

していました。

 

2年生の時、

私は初めてリーダーとして

パーティー(登山チーム)を

率いて長期間、日本アルプスに

入りました。

 

ところがそこで私の

パーティーは

ほぼ、瓦解した状態となります。

 

縦走計画こそ貫徹したものの、

パーティーメンバーの心が

バラバラ状態になったのです。

 

その根本原因は

私のリーダーぶりに

ありました。

 

実は、通常、リーダーとは

3年生の行なう役割です。

ところが、

その年は3年生の人数が少なく、

どうしても2年生からリーダーを

出さないといけないという状態で、

それは前代未聞のことでした。

 

その前代未聞というのが

私の琴線に触れ、

「俺がやってやろう」

となったのです。

 

要するに、

初の2年生リーダーとして

完璧な山行を実現し、

「お前、すごいなぁ」と

言われたかったのです。

 

ところが散々な結果となり、

私は悩みました。

 

その時に人生で初めて、

「人はどうすれば

前向きになれるのか?

チームはどうすれば

一つにまとまるのか?」

という疑問が湧きました。

 

19歳の時です。

 

その時から私は、

複数人で登山をする場合は

リーダーしかやらない、

と決めました。

 

確か大小含めると、

20数回は

学生の内にリーダーをやったと

思います。

部活全体の主将も

させていただきました。

 

で、ずっとずっと

リーダーとはどうあるべきか?

に悩み続けました。

 

その中で、人生を変える場面に

出会ったのです。

 

それは、

リーダーとしての最初の挫折から

ちょうど一年経った時の

夏山の縦走でした。

 

私は確か、

これまで部が始まって以来の

最も長い縦走をしようと

計画を立てたのでした。

 

その計画のちょうど中間地点

辺りで、

非常に難易度の高い行程の日が

ありました。

 

私達の重装備で

そこを乗り越えるのはどうか?

と直前まで迷い続ける

そんな行程だったのですが、

私は強行突破しようと

思いました。

 

ところが、その行程は

想像以上に大変でした。

 

登山の縦走というのは毎日、

夜中の2時に起床します。

そして、明るくなりだす

4時過ぎくらいには

テントを畳み出発します。

 

その日はいつもより早く

確か1時半に起床し、

4時を待たずに出発したと

記憶しています。

 

道は険しく危険で、しかも

長い行程でした。

 

何時間歩いても

目的地に到着できません。

日も傾き、

薄暗くなってきました。

 

ついに、

パーティーのメンバーの一人が

動けなくなりました。

 

彼は、陸上の長距離走で

県大会で優勝するくらいの

持久力や体力のあるヤツ

だったのですが、

完全にバテてしまったのです。

 

そして、彼は

泣き出しました。

 

もう動けない、と。

 

声を上げて

泣きました。

 

私はどうすることもできず、

ただ茫然と彼を

見つめていました。

 

その時です。

 

私は生まれて初めて

味わう不思議な感覚に

包まれました。

 

泣いている彼のことが

愛おしくてしょうがなく

なったのです。

 

私は彼を

抱きしめたくなりました。

 

その瞬間です。

 

私がリーダーとして

何が足らなかったのか?

を知ったのは。

 

当時の私の日記には

「私に足りなかったのは、

愛だった」

と書いてあります。

 

そこから私には、

「愛とは何か?」

という新たなテーマが

浮上してきました。

 

恐らくその瞬間だったと

思います。

その瞬間のその感覚がなければ、

私はきっと

今のこのお仕事を

していないでしょう。

 

今から振り返れば、

その時の私は人生で初めて

人を「慈しむ」という

体験をしたのだと思います。

 

もちろん私もその時は

体力的には

限界状態でした。

 

しかし限界状態だったからこそ

初めて自分の中から

浮上した感覚に敏感になれたのだと

思います。

 

まぁ・・・、

その後の私が

人を慈しむ人生になったかと

言うと、

真逆なんですけどね。苦笑

 

「俺は、愛を知ったぞ!」

と、その後、天狗になった

わけで・・・。

 

ホントに困ったもので。

 

おかげで散々な人生展開に

なったりもしたのですが、

しかしあの時の感覚は

今でも私の中に

生き続けており、

それが今の私の原点の一つに

なっているのは確かです。

 

あの時私は、

人の深さと、

人と人の関係の深さを

体験したのだと思います。

 

そして、

よくよく考えてみますと、

私はそういった

人に対する「慈しみ」を

持ちながらリーダーをされている人を

応援したい、サポートしたい、

と思いながらここまで

来たのだと思います。

 

あの「慈しみ」の社長さんの

ご質問のおかげで、

顕在意識レベルではずっと

記憶から外れていた出来事を

思い出すことができました。

 

感謝ですね。

 

つづく

 

その人達の不仲は改善されるのか

出会いというものは

必然です。

 

しかし

出会いというものは

相手のあることです。

 

自分だけの思うままに

行われるものでは

ありません。

 

たとえ自分自身の

真本音度合いが

高まったとしても、

次元が上がったとしても、

相手の準備ができていなければ、

出会いは起こりません。

 

自分の準備と

相手の準備が

きちんと完了した上で

初めて実現するもの。

 

それが

出会いです。

 

そういった意味で、

出会いとは

悦びです。

 

真本音レベルでの

深い悦びです。

 

ところで、以前に

次のようなご質問を

いただきました。

 

「本当は

出会ってはいけない人との

出会いというのは

あるのでしょうか?」

 

はい。

 

実は、

本当は出会ってはいけない人との

出会いは

実際にあります。

 

例えば、準備という視点で

言えば、

まだお互いの準備ができておらず、

本来であれば

真本音レベルでは

まだ出会いたくないと

思っているにも関わらず、

出会ってしまった

というケースはあります。

 

本来であれば、

お互いの真本音度合いと

次元がある一定以上に高まり、

そこで出会うことで

お互いが調和し

相乗効果によって

人生展開が加速する、

・・・そういった相手であったとしても、

タイミングを外した出会いをすることで

不調和が起きてしまいます。

 

すると、

その人のことを

嫌いになります。

苦手意識が出ます。

 

本来であれば、

その人ほど相性の合う人はいない

というくらいの相手であったとしても

嫌いになり、

足を引っ張り合うのです。

 

実は、

そういったケースが

とても多いのです。

 

特に見られるのが、

経営幹部さん同士。

 

本来であれば、

相乗効果を発揮するはずの

縁のある人同士が

共に会社を運営するのですが、

出会いのタイミングのズレが

すべてをずらします。

 

幹部さん同士の

仲が悪い、

というケースはどこでもあること

ですが、

そのうちの何割かは、

そういった

「出会うタイミングを間違った」

ことによる不調和です。

 

なぜタイミングを

間違ってしまうかと言うと、

簡単に言えば、

その人が真本音通りに

生きていなかったからです。

 

日々、

自らの真本音を無視した

動きを取り続けることで、

人生のありとあらゆる

タイミングが

真本音の望むものと

ずれ始めます。

 

その中で起こる一つの現象が

タイミングのずれた出会い

なのです。

 

しかし、

そういった出会いをしてしまい、

不調和が起きたとしても、

その人同士は

もともとご縁のある人同士ですので、

実は

修正は効くのです。

 

顕在意識レベルでは

誰がどう見ても

仲が悪く、

お互いがいがみ合い

打ち消し合い

エンティティを出し合っている

そんな関係でも、

根本的な改善が

できます。

 

その方法は

極めてシンプルです。

 

お互いの

真本音度合いを

高めればよいのです。

 

真本音度合いを

高めた上で、

お互いが

「本当に向き合う」

という状態を創ります。

 

それにより、

徐々に関係が改善したり、

時には、

一気に相乗効果を起こす

本来の関係に

戻れたりします。

 

「この会社の

経営幹部のAさんとBさんの

不仲がなくなり、

お互いが協力し合えるように

もしなれたとしたら、

どれだけこの会社は

盤石になれるだろう。

何とかなりませんか?」

 

・・・というご相談は

本当に多いです。

 

その場合、私は、

そのAさんとBさんの

真本音レベルのつながりを

確認します。

 

真本音レベルで、

距離が近すぎたり、

本来は出会うべきじゃなかった

人同士が

無理に幹部をされているのか?

 

それとも、

ただ単に、

出会いのタイミングのズレが

引き起こしている不調和なのか?

 

後者の場合は、

かなりの確率で

関係改善ができます。

 

それによりその会社は

本当に盤石になり、

次のステージに進むことが

できます。

 

しかし本当は、

出会うべきタイミングで

出会うのが一番。

 

そのためにも、

私達一人ひとりが普段から

一日一日を大切にしながら

丁寧に

自らの真本音に素直に

生き続けることですね。

 

つづく

 

真の静寂は、激しさの中でこそ

学生時代、私は

山登りに明け暮れて

いました。

 

山登りといっても

縦走をするだけです。

とはいえ、夏山の場合、

いったん山に入ると3週間も

縦走を続けますので、

荷物は一人50kgを

超えていました。

 

今はもうないと思いますが、

キスリングという

横長の黄色いザックを

背負っていました。

 

今から考えると

人間工学とか全く関係のない

非常に体に悪そうな

ザックでした。

あの頃の体のダメージが

今の私の体に残っていないのが

奇跡のように感じられます。

 

初めてその体験をした

大学一年の時、

私のいたパーティー(登山チーム)は

台風に直撃されました。

 

凄まじい暴風雨。

 

重いザックを担いでいても

踏ん張らないと

飛ばされそうです。

 

その中を延々と

歩かなければなりませんでした。

 

その時の私には

精神的な余裕は

ゼロだったでしょう。

 

とにかく、

一歩を踏み出すこと

だけで精一杯。

 

生きるとか死ぬとか

そういうことではなく、

とにかく

今ここで次の一歩を

踏み出すだけの存在。

 

そんな自分に

なっていました。

 

そんな時、私は、

とてつもない

「静寂」

を感じたのです。

 

それは

忘れることができない

体験です。

 

今から思えば、

それは

魂の静寂でした。

 

ひょっとすると私は

その時の体験を

もう一度繰り返したくて、

山登りを続けたのかも

しれません。

 

私は大学の部活を

終えてからも、

社会人になってからも

一人で山登りを

続けました。

 

ある冬。

 

一人で冬山に

向かいました。

 

北アルプスです。

 

車で入れるギリギリまで

入り、

そこからは歩いて

登るつもりでした。

 

ところが、

車を止めて

外に出ようとしたところ、

突然の大雪に

見舞われました。

 

あっという間に

雪は降り積もり、

車は雪に埋もれ、

外に出ることもできなく

なりました。

 

私は車の中で

2日間、

閉じ込められることに

なりました。

 

ガソリンは余裕がなく、

暖房をつけることが

できなくなりました。

しかし、

冬山の装備がありましたので

それで凍死を

免れました。

 

その時にも

魂の静寂がやってきました。

 

その時私は初めて、

未来の自分と

対話をしました。

 

今となっては

当たり前のことなのですが、

私達は実在を

感じ取れるようになれば、

未来の自分と

対話もできるようになります。

 

セルフコーチングの

一つの形です。

 

その初めての体験が

その時でした。

 

当時の私は20代前半で

そこから20年後くらいの

自分と対話をしました。

 

もちろん20代前半の頃は

今の私のお仕事を

するようになるとは思いもよらず、

その後の人生展開も

まったく展望もなく、

真っ白な状態でした。

 

その時の

未来の自分からのメッセージは

「君には道がある。

やりたいことがある。

いつかそれを見つけることが

できるだろう。

そのためにも、

今わかる、やろう!と思えることを

徹底的にやりなさい。

そうすれば、

私のところに来れるだろう」

というものでした。

 

その後、私は

サラリーマンを辞めて

海外の放浪の旅に1年半ほど

出ることになるのですが、

その時のメッセージが

かなり影響を及ぼしたと

思います。

 

未来の自分と対話をした

その時は、

車の外は大吹雪。

しかし、

私の中には

言いようのない静寂がありました。

 

外は激しく、

内は静寂。

 

その後の人生で、私は

こういった経験を無数に

繰り返してきました。

 

外が激しくなればなるほど、

内の静寂度合いは

より深まる感じがしました。

 

今・・・。

 

暴風雨に見舞われている

人が増えています。

 

厳しい現実に

さらされている人達。

 

しかし私は

思うのです。

 

そんな時だからこそ、

得られる静寂が

あるはずだと。

 

自分の中のその静寂に

気づけるといいな、

と。

 

今の私のコーチングは

ひょっとすると

そのためのサポート

なのかもしれません。

 

つづく

 

命を大切にする、とは

「命の捧げる」

というと、ちょっと重いイメージが

ありますか?

 

自己犠牲的な

ニュアンスを感じますか?

 

私達は自らの命を

捧げています。

 

誰に捧げているかと言いますと、

自分自身に捧げています。

 

この3次元世界においては

時間は過去から未来へと

一方向に一定のスピードで

流れ続け、

その流れに乗る私達の命は

時間という視点から見れば、

限られています。

 

その限られた命を

私達は自分自身に捧げ、

自分自身に委ねています。

 

この命をどう使うか?

をすべて

自分に委ねています。

 

命の使い方。

 

これを

『使命』

と言います。

 

この言葉もちょっと

重い感じがしますか?

 

でも私達の真本音は

自分自身の命の使い方、

つまり使命を

決めています。

 

どうせ限られた時間であれば、

その中で

何のためにどのように

この命を使うか?

を明確に決めています。

 

自らが真本音で決めた

その使命に

素直に生きている人は

内側からエネルギーが

湧き続けます。

 

常に魂と心が満ちている

非常に安定した状態

となります。

 

その結果、

どのような現実が

目の前に現れても、

どことなく常に

「ゆとり」

があります。

 

そして、どのような現実に

対しても

しっかりと向き合い、

納得の一歩を出し続ける

ことができます。

 

結果として、

現実は開かれていきます。

 

しかし残念ながら、

自らが決めた命の使い方を

していない場合は、

私達の心は非常に

脆弱になります。

 

ちょっとしたことで

すぐに揺れ動き、

外的な要因に左右され続け、

人生のハンドルを

外部環境の何物か、

つまり、自分以外の何物かに

握られ続けます。

 

自分の人生なのに、

自分でハンドルを

握っていない。

 

その不安定さ。

その不安。

 

それがあるために、

常に何かを恐れ続けて

生きることになります。

 

同じ人なのに、

使命に素直か

そうでないのか

によって、

真逆の自分になります。

 

真逆の人生に

なります。

 

何が幸せか?

 

何をもって

成功と言えるのか?

 

それは

その人その人それぞれ

です。

 

現実・現象レベルで

どうなっているか?ではなく、

その人の生き方そのもの

つまりは

使命に向かっているかどうか

によって、

その人の抱く

幸せ感や成功感は

は左右されます。

 

そういった意味で、

自分の命を

自分とは分離して

捉えることを

私はお勧めします。

 

自分=命

ではなく、

自分は、

この与えられた命を

どう使おうか?

というように、

命を与えられたプレゼントのように

見つめるのです。

 

そう捉えた時、

あなたの命は今、

どこにありますか?

 

あなたの体の

内側にありますか?

 

それとも

外側にありますか?

 

あなたが命を

包んでいますか?

 

それとも

あなたが命に

包まれていますか?

 

その命は今、

どのくらいの輝きを

放っていますか?

 

その光は

何色ですか?

 

その光は

輝きを日々、

増していますか?

 

それとも

輝きが

減退していますか?

 

その命の光を見つめると、

命からあなたへの

メッセージを感じますか?

 

もし感じるとすれば、

あなたのその命は

あなたに何を

伝えようとしていますか?

 

・・・このように

自分自身の命と

対話をしてみると良いですね。

 

これはつまり、

真本音との対話と

本質的には同じものです。

 

命を大切にするとは、

自分を大切にする

とは少し異なるものです。

 

命を大切にするとは、

命との対話を大切にし、

命からのメッセージを

大切にし、

命の使い方を

大切にするという

ことなのです。

 

つづく

 

いつ決断するか? ホントに今?

私達の真本音は、

決断のタイミングを

とても大切にします。

 

いつ、決断するか?

 

同じ答えだとしても、

いつその答えを出すか?によって

その後の展開は

根本的に異なる可能性が

あるからです。

 

決めるべき瞬間に

決める。

 

決めてはならない時は

決めない。

 

後回しにすべきことは

きちんと後回しにする。

 

それが、

本当の意味での

「決断」

のポイントです。

 

決断とは、

決めて断つ

こと。

 

つまりは、

一本の道を決めて、

他の道をすべて

断つこと、

手放すことです。

 

完全に一本に

決めるからこそ

私達はそこに全パワーを

集中させることができます。

 

そして、

全パワーを集中させるからこそ、

物事は成就します。

 

逆に言えば、

99.9%のパワーでは

成就しない物事が

とても多いです。

 

私達の真本音は

100%のパワーを出すために、

いつ、どのような決断を

すればよいか?

を見極めているのです。

 

以上を少し別の視点から

表現すると、

 

「準備ができてから

決断する」

 

という言い方もできます。

 

逆に言えば、

 

「準備ができないうちは

決断しない」

 

ということです。

 

「準備」とは、

自分自身の準備もありますし、

決断することで関わることになる

あらゆる環境(人や組織や物事すべて)

の準備もあります。

 

しかも準備とは、

実在レベルの準備もあれば、

現象レベルでの準備も

あります。

 

それは到底、

私達の頭(理屈)では

捉えきれないものです。

 

そういったあらゆるものを

感知しながら、

私達の真本音は

「準備が整ったかどうか?」

を判断します。

 

準備が整う前に

勇み足で決断してしまうことを

私達の真本音は

望みません。

 

そして、

準備がすでにできているのに

それでも決断を遅らせることも

私達の真本音は

望みません。

 

では、

準備ができているかどうか?

今、

決断すべきことがあるかどうか?

はどこで

判断できるでしょうか。

 

それを言葉にするのは

実はちょっと難しいのですが、

あえて言えば、

 

「自分の内に満ちる光」

 

によって判断できます。

 

よく私は

「自分と向き合う」

という言葉を使いますが、

自分と向き合うとは、

自分を客観的に見つめる

ことでもあります。

 

今ここにいながらも、

自分の姿を

自分の少し離れたところから

見つめることは

できますか?

 

これはコーチングでは

一般的に

「デソシエイト」と呼ばれる

状態です。

 

自分から離れて

客観的に自分を観る

のです。

 

それができれば、

今自分の内側に

どれだけの光が満ちているか?

を知ることができます。

 

自分は今、

光り輝いているのかどうか?

 

その光は、

外から与えられたものか、

それとも

自ら、内側から発しているものか?

 

それを確認します。

 

そして、

「あぁ今の自分は、

自分の内側から光が

満ちているなぁ」

と素直に思えたら、

今が決断の時です。

 

それは、

準備が整っているという

証です。

 

私はどちらかと言えば、

自分がその状態になったことを

まずは察知します。

 

で、その後で、

じゃあ今何か、決断すべきことが

あるんだな、

と気づき、

何を今、私は決断しようとして

いるのだろう?

と自分に問いかけます。

 

自分で自分を

コーチングするのです。

つまり、

セルフコーチングです。

 

すると、そういう時はすぐに

答えが浮かびます。

 

あっそっか、

この件についての決断だな、

と。

 

すると次に私は、

では、答えとしての選択肢は

何と何があるのだろうか?

と選択肢を明確にします。

 

選択肢は二つの場合もありますし、

もっと多い場合もあります。

 

どの道とどの道とどの道が

あるのかな?

ということが明確になれば、

あとは簡単です。

 

では、私はその中で

どの道を選択しようか?

 

どの道を

一本道として

選ぼうか?

 

と、問いかけます。

 

するとすぐに

答えがわかります。

 

それは、

確信の答えです。

 

わかった瞬間にそれは

確信となります。

 

迷いは

一切ありません。

 

決断すべき瞬間に

これをすれば、

とてもスッキリと

決断できるのです。

 

上手く決断できない人は、

このタイミングを

外しているという可能性が

高いです。

 

決断とは、

手放すこと。

 

手放すには

確信が必要です。

 

迷いながら何かを手放す

というのは

きついですし、

執着がどうしても

生まれます。

 

決断すべきタイミングを

逃さない。

 

・・・これ、

ぜひ大切にしてみてください。

 

つづく

 

そのこだわりは執着です

私達人間は

真本音のこだわりを持つことで

進化します。

 

しかしその「こだわり」は

なぜ持つかと言うと、

「手放す」ためです。

(→前回記事)

 

真本音のこだわりは、

必ず

手放す時が来ます。

 

なぜならそれは

自分自身だからです。

 

私で言えば、

私が初めて見出せた

真本音のこだわりは

「向き合う」

でした。

 

私はそれを自分の人生理念として

大切にし続けました。

それこそ、

24時間、その言葉を

思い出し続けました。

 

特に人とコミュニケーションを

とるときは、

「向き合う」という言葉を

自分の体の中心に

貼り付けているようなイメージを

いつもしていました。

 

すると、本当に

人と向き合うことができた

からです。

 

それ以前の私は、

人と向き合うことが

至難の業でした。

 

向き合っているフリは

できましたが。

 

人生理念「向き合う」ということを

いつも意識し続けることで、

私は私にとっての至難の業だと

思っていたことを

乗り越えることができました。

 

で、ある時に

その「向き合う」という言葉が

どうでもよくなりました。

 

むしろ、

「向き合う」という言葉に

違和感を覚えるように

なりました。

 

「向き合おう」とすると

逆に力が入ってしまうような、

自然体が崩れるような

感覚となりました。

 

それはそうです。

だって、

本当は、

「向き合う」とは

私自身だったから

です。

 

たけうちなおと

という人間は、

「向き合う」が

現象化したものだった

のです。

 

向き合う=私。

私=向き合う。

 

ということです。

 

つまり、

真本音のこだわりとは

本来の自分自身を

ある一面から

表現しているに

過ぎません。

 

「向き合う」と「私」は

同じであり、

「一つ」です。

 

でも、以前の私は

もともと「一つ」であったものが、

分離してしまって

いました。

 

私は向き合うことが

できない人間だ。

 

・・・と私は思い込んで

いました。

本当はそうではないのに。

 

そこで、その分離をなくし、

本来の姿に戻るために、

私はあえて

「向き合う」という言葉を

言語化、明確化し

それを意識するように

したのです。

 

意識し続けることで、

その分離はだんだんと

修正され、

ある時ある瞬間に

「一つ」に戻ることが

できたのです。

 

その瞬間から私は、

「向き合う」ということを

わざわざ言語化すること自体に

不自然さと違和感を

覚えるようになったのです。

 

当然のことです。

 

実はこれは私だけでなく、

誰にでもよくあることです。

 

私達の多くは、

本来の自分を忘れています。

 

そして、

本来の自分を

自分から分離しながら

生きています。

 

それは非常に

不自然な状態です。

 

不自然が故に、

ストレスが生じます。

エンティティが

発生し続けます。

 

その不自然さを

修正するために必要なのが

言葉。

 

言語化することで

修正し、

修正できればもう

その言語は

必要ありません。

 

手放せば

良いのです。

 

ところが、

もうすでに

修正が完了し、

もうすでに

「一つ」に戻れているにも

関わらず、

「まだ自分はそれができていない」

と思い込み、

ずっと自分の「こだわり」に

こだわり続ける人がいます。

 

それは、

本質的なこだわりではなく、

ただの「執着」であり

「依存」です。

 

「執着」の段階に

入ってしまっているにも関わらず、

それにこだわり続ければ、

逆に、

ストレスやエンティティが

発生します。

 

だからこそ

大事なのです、

「手放す」ことが。

 

そこで、

自分自身にぜひ

問うてみてください。

 

私にとっての

最大のこだわりとは

何だろうか?

 

もうそのこだわりは、

私は

手放してもよいのではないか?

 

・・・と。

 

理屈でも何でもなく、

直観として

「そうだな。手放そうかな」

と思えたら、

その通りにすることを

お勧めします。

 

もうあなたは

それ、そのものに

戻れているのですから。

 

つづく

 

それ、手放せます?

あなたの中にある

最大の「こだわり」とは

何ですか?

 

それは、

人生に対するものでも、

仕事に対するものでも、

人間関係に対するものでも、

その他のことでも

何でもよいです。

 

「こだわり」と聴いて、

最初に思いつくことは

何ですか?

 

恐らくその「こだわり」は

人生経験を踏む中で

できあがったものだと

思います。

 

とても

大切なものでしょう。

 

でももし、

その「こだわり」を

あなた自身が手放したとしたら、

あなたは

どうなりますか?

 

あなたの人生は

どうなりますか?

 

人生展開は

どうなりますか?

 

以上の質問を受けると、

多くの場合、

その「こだわり」をなくすことで、

人生展開は

暗転するイメージを

持たれるではないでしょうか。

 

それはそうです。

 

人生を好転させるために

私達は「こだわり」を

持っているのですから。

 

私で言えば、

私の最大のこだわりは

「向き合う」

ということかもしれません。

 

これは、

私が初めて明確化した

最初の真本音キーワード

であり、

私の最初の人生理念でも

あります。

 

「向き合う」ことで

物事は好転し、

自分の真本音度合いも高まり、

良い意味での真剣さと

良い意味での「楽」を

手に入れることができる

と、私は考えています。

 

私にとっては

なくてはならないもの。

 

私から

「向き合う」ということを

取ってしまったら、

もう私ではなくなるのではないか、

と思えるほどのものです。

 

ところが・・・。

 

今回、書かせていただく内容は

 

その最大の「こだわり」を

手放しましょう。

 

・・・ということなのです。

 

つまり私で言えば、

私のこだわりである

「向き合う」

という自らのポリシーを

手放してしまおう、

ということです。

 

これを、

すぐにできる人のことを

 

『天真爛漫』

 

と言います。

 

真本音度合いが高まったり、

意識の次元が高まることで、

人は自然に

天真爛漫になっていきます。

 

ですので、

真本音度合いが高まったり、

意識の次元が高まることで、

人は自分の最大の「こだわり」を

すぐに手放すことが

できるようになります。

 

正直に言いまして、

私はですね、

最大のこだわりは

「向き合う」ということですが、

じゃあ、

「その、向き合う、というこだわりを

手放してしまってください」

と言われたら、

 

あっそっか、

それも面白そうだね、

 

・・・などと思えてしまいます。

 

いつからそうなったのかは

定かではありませんが、

少なくとも

以前の私はこうでは

ありませんでした。

 

「手放してください」

と言ったその人に対して、

以前の私であれば

食ってかかっていたでしょう。

 

「何言ってるんですか。

あなたは私が最も大事にしていることを

蔑ろにするのですか!」

とか、

「大事にしたいことを

大事にし続けることこそが

大事なことではありませんか!」

とか、

「自分の中心軸を取り除いたら

もうそれは、自分では

なくなるではありませんか!」

とか。

 

でもこれらのセリフって、

本当はちょっと

不自然だと思いませんか?

 

皆さんは

いかがですか?

 

皆さんの中の

最大のこだわりを

手放してください、と言われたら、

拒絶感が

出ますか?

 

それとも逆に

好奇心が

出ますか?

 

もし拒絶感が

出るとしたら、

残念ながらその人は、

 

「自分のこだわりに依存している」

 

ということになるのです。

 

私の場合で言えば、

「向き合う」ということに

自分は依存していた

ということになるのです。

 

実はそれは

人間本来の生き方では

ありません。

 

自然な生き方では

ありません。

 

かと言って、

こだわりを持つのを

やめましょう、

と言いたいわけでも

ありません。

 

こだわりは

大事です。

 

こだわりがあるからこそ

私達は

進化できます。

 

でも、

「こだわり」とは

何のために持つもでしょうか?

 

それは、

 

そのこだわりを

手放すために持つ

 

ものなのです。

 

このテーマについては、

明日以降も続けます。

(多分。 ・・・笑)

 

つづく

 

ゼロリセットする覚悟はありますか?

今、私達が

本当に為すべきことは

何でしょうか?

 

こんな疑問を持ったことは

ありませんか?

 

今、皆さんには

全力を注いでいる何かが

あると思います。

 

これは自分の

したいことだ。

自分の

すべきことだ。

 

そう信じて

エネルギーを注いでいることが

あると思います。

 

職業で言えば、

「天職」と思えること。

 

もっと広くみれば、

「使命」と思えること。

 

それが見つかっている人も

多いと思います。

 

でも。

 

ほんのふとした瞬間に、

「これは本当に

私の為すべきこと

なのだろうか?」

という問いが、

自分の中に浮かぶことは

ありませんか?

 

実は、

私の人生は

その問いの連続でした。

 

昔の私は、

自分の中にその問いが

浮かんだとしても、

その問いを

瞬時に抹殺していました。

 

見なかったことに

していました。

 

ブレるのが

怖かったからです。

 

今振り返れば、

もっと早い段階から

その問いときちんと

向き合っていればよかったな、と

思います。

 

今の私にも、

その問いは、

浮かんできます。

 

浮かんできたら、

「しめた!」

と喜びます。

 

そして、

その問いが浮かべば

その後に必ず

することがあります。

 

何だと思います?

 

実は、その問いとは、

今すぐに答えを見つけなさい、

という問いとは

少し性質の異なるものです。

 

実は、

問いというよりも

メッセージなのです。

 

私はその問い(メッセージ)が

自分の中から自然に浮かべば、

必ず、自分の心を整えて、

最も良い状態(真本音状態)にします。

 

そして、

「覚悟」

を持ちます。

 

何の覚悟かと言いますと、

 

『すべてをゼロリセットする覚悟』

 

です。

 

これまで自分が

長い年月をかけて

培ってきたあらゆるものを

すべて

「崩壊させてもいい」

と思える覚悟です。

 

そして

その覚悟を持つことができれば、

ほぼ必ず、

その後にその「崩壊」は

起こります。

 

ただしそれは

現象(現実)レベルではなく、

実在レベルにおいて

起こります。

 

わかりやすく言えば、

心の中ですべてのことが

一度、「崩壊」するのです。

 

完全なる

「ゼロ」

となります。

 

で、また一つずつ一つずつ

積み上げていきます。

 

これを喩えて言うならば、

引越しのようなものです。

 

例えば、これまで

6畳一間の部屋に

住んでいたとします。

そこには、

様々な家財道具があり、

自分なりに快適な生活を

実現できていたとします。

 

ゼロリセットとは、

大掃除をするという

レベルではなく、

その6畳一間の部屋を

引き払うということです。

 

そして、

新たな部屋を

見つけます。

 

例えば、

もっと広い部屋がいいな。

もっと日当たりの良い部屋が

いいな。

部屋は8畳が二間くらい

あった方がいいな。

・・・などなど、

自分の本当に望む生活を

目指して、

住むところそのものを

変えてしまうのです。

 

で、

その新たな部屋に見合う

家財道具を取り揃えます。

しかしそれは、

新たな家財道具を購入する

とは限りません。

 

部屋を変えても

家財道具はこれまでのままがいい、

というケースの方が多いです。

もちろん、

買い換えたいものは

買い換えます。

 

これが、

「ゼロリセット」の

意味です。

 

私は、ここ数年だけでも

何度も、

人生のゼロリセットを

繰り返してきました。

 

その度に

すべてを崩壊させる覚悟を

持つのですが、

結果的に現象レベルでは

何も変わりませんでした。

 

表面上では、

これまでの延長線上での

人生が続いています。

仕事も同じです。

 

でも実は、

その中身がまるっきり

変化(進化)しているのです。

 

それは家財道具は

変わらないけど、

住んでいる部屋が

6畳一間から

8畳二間に変わる

ようなものです。

 

同じ家財道具でも

快適さが全然違うのです。

 

「ゼロリセット」というと

怖い感じがしますが、

しかし、本当にゼロリセットしてみると、

これまで培ってきたものが

いかに素晴らしいものであったか、

素晴らしい財産であったか、

ということを

改めて再認識することが

できます。

 

ただし、

前提条件としては、

本当にすべてが崩壊してもよい、

という覚悟を持つこと。

これがないと

ゼロリセットはできません。

 

しかしその覚悟は、

日々を真本音に素直に

生きている人にとっては

結構、容易いことです。

 

「これは本当に

私の為すべきこと

なのだろうか?」

 

もし自然にその問いが

浮かんできたら、

ぜひ、大切にしてください。

 

それはきっと

人生の醍醐味に

つながりますよ。

 

つづく

 

崩壊、の前で立ちすくんでいる人へ

これまで何十年もかけて

培ってきたもの、

育んできたもの、

継続してきたもの、

などが、

一気に崩壊してしまう。

 

音を立てて、

崩れ落ちてしまう。

 

そんな人生展開や

組織展開をしている人が

今、急激に増えています。

 

「ずっとここにあったもの」

が、

なくなる。

 

「ここにあるのが当然なもの」

が、

なくなる。

 

その、

茫然と自失。

 

その後にやってくる

絶望。

 

虚無感。

 

それらの大きさは

到底、耐えられる気が

しません。

 

これまでずっと

がんばってきたことは

いったい何だったのだ?

 

自分はいったい

何のためにここまで

きたのだろうか?

 

自分がここにいる

意味も

意義も

すべてが白紙になり、

生きることへの

気力が

なくなります。

 

そのように、

自分という人間が

耐えられる範疇を

逸脱してしまっている展開に、

我を失っている人が

増えています。

 

それでも

さらにがんばって

踏ん張ろう、

立ち続けよう、と

するのですが、

足元の地面そのものが

崩れ落ちていく感覚で、

踏ん張るどころの

騒ぎではありません。

 

その人にとっては

すべての崩壊に等しく、

かつ、

自己崩壊に

等しいものです。

 

肉体だけでなく、

魂さえもが

死んでしまう感覚。

 

崩壊の現実の前で

そのように

自分のすべてが崩壊してしまう

感覚の中にいる人が

増えています。

 

崩壊の波。

 

これが、

今の世の中に流れる

潮流の一つです。

 

その潮流に

呑み込まれそうになった

場合、

まずはぜひ

していただきたいことが

あります。

 

それは、

「現実の崩壊」

「自分の心や魂の崩壊」

区別をつけること

です。

 

今、目の前にある

その現実は、

過去の自分のとってきた

様々な選択や行動の

「結果」です。

 

つまりは、

「過去の原因」による

「結果」が、

今、目の前に現れている

ということです。

 

今、目の前にありますが

それは

過去にすでに創られたもの

ということです。

 

その現実は

過去のもの。

 

そして、

その結果を見つめている

今のあなたのその心と魂は

今のもの、

です。

 

過去のものを

今のもので

見つめています。

 

その、

過去のものと

今のものを

区別してください。

 

一度、完全に

切り離してください。

 

分離

させてください。

 

「現実」が崩壊したからと言って、

今ここにあるあなたの

心や魂までもが

崩壊する必要は

まったく

ないのです。

 

その分離が

しっかりできたら、

今度は、

今の自分の心と魂そのものに

だけ

意識を向けてみて

ください。

 

まずは、

心へ。

 

恐らく、心は

目の前の「現実」を見て

相当のショックを受け、

取り乱しているでしょう。

 

目の前の「現実」と

同じように、

崩壊しようとしているかも

しれません。

 

でも、

安心してください。

 

それが、

心というものです。

 

現実からのショックを

そのまま受け取るのが

心であり、

現実による反応を起こすのが

心です。

 

反応本音の集合体、

それが心です。

 

ですから

取り乱すのが

普通です。

 

その普通の現象としての

心をそのまま

観察してください。

 

あぁ、ただ、

取り乱しているだけだな

と、

わかるはずです。

 

それでOK。

 

次に、

魂へ

意識を向けます。

 

魂だけに

意識を向けます。

 

あなたの魂は今、

光を放っていますか?

それとも

光を失おうと

していますか?

 

心ではありません。

魂です。

魂だけに

意識を向けます。

 

輝いているでしょ?

 

わかります?

 

なぜなら今、

あなたは

甚大なる「崩壊」と

しっかりと向かい合っている

からです。

 

崩壊に対して

目を瞑ってしまえば、

それは現実逃避です。

 

現実逃避に入った

その瞬間から、

私達の魂は

光を失います。

 

しかし、

どれだけ厳しい現実が

あろうとも、

その現実と向かい合う

その姿勢がある限り、

魂は強い光を

放ち続けます。

 

そしてその光が

ある限り、

私達人間は

大丈夫です。

 

その光を見つめ、

その光に

癒されてください。

 

それは

自分自身の光です。

 

命の光です。

 

それを見つめ続ければ、

ある瞬間に、

次の一歩がわかるはずです。

 

このような激しい崩壊の中でも

次に自分が何をすればよいか?

が観えるはずです。

 

それが観えるまでは

じっとしていればよいです。

 

その代わり、

観えたらその通りに

動きましょう。

 

それが新たな

道となります。

 

たった一歩でも道を創れば

その道は続きます。

 

そしてある時に

必ずわかります。

 

あぁそれは、

自分にとって必要な

崩壊だったのだな、と。

 

今は

無理にわかる必要は

ありませんし、

無理にわかっては

ダメです。

 

余裕もゆとりもなくて

よいです。

そのままで。

 

ただ、

・現実と

・心と

・魂の

区別をつけましょう。

 

最後に私達を

救い、

導いてくれるのは

私達自身の魂の意志です。

 

それこそが、

真本音です。

 

つづく

 

心の中が変わっただけでは進化とは言えない

私達は現実世界に

生きています。

 

現実世界に生きるとは、

この世界の空気を吸い、

この世界の様々な現実に触れ、

この世界で行動をする

ということです。

 

逆に言えば、

その実感がなければ、

それは「生きている」とは

言えません。

 

今年に入ってから

このブログでは

一貫したテーマとして

「次元を上げる」

ということについて

お話しさせていただいています。

 

次元というのは

「実在」レベルでのお話です。

つまりは、

心の中のお話です。

 

ところが、

どれだけ次元を高めたとしても

それを「現象」レベル、

つまりは現実レベルで

それが発揮されていなければ

それは、何も変わっていない

のと同じなのです。

 

つまりは、

「心の中」と「行動」の

一致をさせること。

 

「心の中の願い」と

「現実のカタチ」を

一致させること。

 

それをせずに、

心の中のみで

「私は次元が高まった!」

と喜んでいても、

それは自己満足に過ぎません。

 

次元の高まりを

実感できたのであれば、

それをすぐさま

行動に移すことです。

 

自分の振る舞いの

たった一つでもよいですから、

実際に変えることです。

 

もちろん、

次元が高まれば

無意識にそれが成される

ことも多いです。

 

自分の意識しないところで

自然に空気感が変わったね、

自然に振る舞いが変わったね、

自然に行動パターンが変わったね、

ということはあります。

 

しかし

私達には顕在意識があります。

 

この世で生きているのは、

顕在意識です。

 

顕在意識レベルでの

「意図」が

大事です。

 

私は、

ここが変化した。

こんな風に

次元が高まった。

だから、

私はこれから、

この私の想いを

このように行動に反映させよう。

 

・・・そんな「意図」が

大切です。

 

無意識に変化する部分と

顕在意識的に

変化させようとする部分、

それが一致した時に初めて

「脱皮」が成立します。

 

片方だけでは

成立しないのです。

 

「今の自分の状態」と

「理想の自分の状態」の

あまりのギャップに

悩む人が増えています。

 

ギャップがあるのは

当然です。

 

どれだけ「実在」レベルで

成長しても、

それを「現象(現実)」レベルで

実現するのは、

私達の顕在意識に

他ありません。

 

ギャップを感じるからこそ、

その気持ち悪さがあるからこそ、

私達は

行動を変化させることができます。

 

では、

私は、私の何を

変えれば良いだろうか?

 

・・・この問いを

常に大切にすることですね。

 

昨日の私と

今日の私が

同じであるはずはありません。

 

実際に、

実在レベルでも

この3次元世界においては

それは別物です。

 

以前のブログでも

書かせていただきましたが、

0.1秒前の自分と

今の自分と

0.1秒後の自分は

すべて別物なのです。

 

分離しているのです。

 

それが同じであると

思っているのは、

単なる「思い込み」にしか

過ぎません。

 

分離しているからこそ

できることがあります。

 

分離しているからこそ

チャンスがあります。

 

私達は

いつでも自分を

「変化」させることが

できるのです。

顕在意識を使って。

 

自分を本当に

成長(進化)させようと

思うのであれば、

本気で

「変わろう」

としてください。

顕在意識レベルで。

 

すると、

「実在」での変化と

「現象(現実)」での変化の

一貫性が

取れてきます。

 

それにより、

私達は本当に

望む方向に

変化できます。

 

心の中だけを

変えてもダメです。

 

行動を

変えなければ。

 

急速な次元の高まりを

しているあなたにこそ

お伝えしたい

メッセージです。

 

つづく

 

逃げてもいいじゃないですか

皆さんは人生において、

「逃げる」

という経験をどれくらい

されたでしょうか?

 

「逃げる」

という経験は誰もに

ありますね。

 

私は逃げたことが一度もない

という人は

いないはずです。

 

もしいたとしたら、

単なる嘘つきか、

余程、人生において挑戦というものを

したことのない人です。

 

でも残念ながら

どれだけ挑戦しない人生を

送ろうと思っても、

それを私達の真本音は

許しません。

 

人の根本的本能は

「進化」への欲求です。

 

進化のためには

挑戦は必須です。

 

挑戦をしないということは、

進化という根本欲求を

無視するということですから、

人として、

それは無理な話です。

 

でもひょっとすると、

これまでは

とことん挑戦しない人生、

というのもある意味可能だったかも

しれませんが、

これからは

無理です。

 

また改めて詳しくお話しすることに

なると思いますが、

世の中全体の潮流として、

今、全体の真本音度合いは

着実に、

ジワリジワリと

アップし続けています。

 

どれだけアップしたか?

というよりも

「アップし続けている」という

この流れ自体が重要で、

この状態にあるということは

世の中全体が

自然の摂理に素直な方向に

向かっているということで、

その状況の中では、

自分の真本音や

根本的欲求を無視することは

極めて難しくなるのです。

 

話をもとに戻しますが、

私自身のことで言えば、

私は見事なくらいに

「逃げる」という経験を

重ねてきました。

 

真本音と出会う前の私は

「逃げる」ばかりの人生だった

かも知れません。

 

真本音と出会ってからも

逃げずに立ち向かうとは

どういうことか?を

かなり長い間、

試行錯誤し続けてきました。

 

ですから、

「逃げる」人の心境とか、

心の動きとか、

本当によく理解できます。

 

そして、

「逃げる」ことで

どれだけその後に

苦しみが待っているか?

どれだけその後に

混乱や混沌が待っているか?

もよくわかります。

 

本当に「逃げ続ける」人は、

そういった混乱や混沌さえも

「なかったこと」にします。

 

本当は混乱のさなかに

いるにも関わらず、

「今の私は平和」であり、

「今の私は幸せ」だと

言い張ります。

 

誰に対して言い張っている

かと言いますと、

自分自身に対して

言い張っています。

 

そして、

自分の苦しみから

目を逸らし続けます。

 

私もそうでしたから、

よくわかります。

 

私は

思います。

 

逃げても

いいじゃないか、と。

 

逃げようとしていることを

自覚し、

自ら意図的に

それを選択しているのならば。

 

「あぁ自分は今、逃げているな」

と分かった上で、

「でも今はあえて逃げてしまえ!」

と自分で決める。

 

それであれば、

いいじゃないか、と

私は思います。

 

自覚、

が大事です。

 

私が最もよくないと思うのは、

逃げているくせに

逃げていないふりを

する生き方。

 

逃げている自分を

自分自身に対して

隠している生き方。

 

自分で自分を

ごまかす生き方。

 

・・・です。

 

私は、

潔さとは、

すべてをあるがままに観ること、

あるがままを認めること、

あるがままを受け入れること

だと思います。

 

それさえできていれば、

何とかなります。

 

「逃げよう」と思って

逃げているのであれば、

それは、

人生のハンドルを自分で

握っていることになります。

 

逃げても

いいじゃないですか。

 

自分の意思であれば。

 

進むもよし。

止まるもよし。

曲がるのもよし。

逃げるのもよし。

走るのもよし。

歩くのもよし。

 

真剣に進むのもよし。

やみくもに進むのもよし。

傲慢になるのもよし。

怠慢になるのもよし。

 

すべてちゃんと

自覚し、

自分の意思であれば。

 

ごまかさずに

いるのであれば。

 

私は、

そう思います。

 

自分をごまかさずに

進む人には

ある時ある瞬間から

必ず真本音が発動します。

 

真本音の願いや

真本音の意思が

ある時から

実感できるようになります。

 

それは

少しずつ、少しずつ

かも知れません。

 

でも着実に

実感の度合いは

高まります。

 

今、世の中全体の

真本音度合いが

ジワリジワリと高まっているように、

その潮流に乗るように

ジワリジワリと

本来の私達を取り戻して

行けるようになるのです。

 

自分で自分を

ごまかすのは、

百害あって一利なし。

 

どんな自分でも

良いではないですか。

 

そんな大らかさで

自分を見つめてみませんか。

 

つづく

 

とことん後悔すれば救われる

後悔と反省

という言葉があります。

 

時々、

「後悔せずに反省しなさい」

と言われたりしますが、

後悔のない反省は

あり得ません。

 

悔恨の念。

 

これは、

とても大切です。

 

真剣に生きれば生きるほど、

自分が何か

間違っていたな、と

思ったら、後悔は

生まれます。

 

生まれなきゃ

不自然ですよね。

 

後悔や、悔恨の念には

私達は呑まれてしまいます。

 

それで良いのです。

 

思いっきり

とことんまで

呑まれることこそが

大事です。

 

ただそれを

まるでゲームのように

行ない続けている人も

います。

 

毎日後悔することで、

それを言い訳に

前に進まない状態を

つくっています。

 

それは、

後悔とは

言いません。

 

ただの

怠慢です。

 

本当の後悔や悔恨は

呑まれます。

 

落ちるところまで

落ちます。

 

そこに意味があります。

 

中途半端ではなく、

落ちるところまで

しっかりと落ちること。

 

それをすれば、

必ず、

「底」

にたどり着きます。

 

底にたどり着くことで

私達はもう

どうあがいてもこれ以上

落ちることができないことを

知ります。

 

頭での理解ではなく、

実感として

知ります。

 

それにより

私達は

「再浮上」

を始めます。

 

本当に後悔し、

本当に落ちるところまで落ち、

再浮上する。

 

この一連の流れを

私達は真本音で望むことが

あります。

 

その真本音の望み通りに、

しっかりと後悔をすれば、

再浮上の直前から

「反省」

が始まります。

 

「反省」とは

「解放」であり「開放」

です。

 

「反省」とは

本来は

すがすがしいもの

です。

 

なぜならそれは

次のステージに上がるための

気づきだからです。

 

私達はどうしても、

自分が落ちようとすると

まるで無限に落ちていくような

恐怖に苛まれます。

 

それにより、

バタバタとあがきます。

 

しっかりと

後悔すればよいのに、

中途半端に

後悔や悔恨の念から

逃れようとします。

 

そして、

中途半端な反省を

します。

 

中途半端な反省は

中途半端な浮上しか

もたらしません。

 

ゲームではなく、

本当の意味で後悔する

ということは、

真剣に生きている

証拠です。

 

真剣に生きていることを

一番よくわかっているのは

自分自身です。

 

そんな自分を

私達は見捨てることは

しません、決して。

 

ですから、

後悔に呑まれたら、

とことん後悔し尽くしましょう。

 

素直に

落ちていきましょう。

 

底に着いたら

底で大の字になって

休みましょう。

 

そして、

自然に浮上するのを

待ちましょう。

 

今、

人生の転換点を

迎えている人が

増えています。

 

大事な転換点。

 

後悔すべきをしっかり後悔し、

反省すべきをしっかり

反省しましょう。

 

つづく

 

無理な自己肯定は苦しみしか生まない

「私はなぜ、こんなにも

これまでの自分に

固執してしまうのでしょうか。

自分の殻を破りたいと思っても、

どうしても、それができません。

これまでの自分のまま

行けばいいじゃないか、という

自分が出てきて、

自分を支配してしまいます。

私は一生、このまま

行くのでしょうか?」

 

あるクライアントさんの

この切実な声を聴いたとき、

私は、

あぁこの人は大丈夫だな、

と思えました。

 

もうすでに

ちゃんと自分を

否定しています。

 

これまでの自分ではいけない、

ちゃんと自分を否定しています。

 

そして、

これまでの自分に

固執してしまう自分を

ちゃんと否定しています。

 

私は、

 

「自己否定感」

 

って、とても大事だと

思っています。

 

よく、

「自己肯定感を大事に

しましょう」

と聴きます。

 

もちろん、大事です。

 

でも同時に、

自己否定感も私は

私達人間にとっては大切な

宝物だと思うのです。

 

大事なのは、

・どこを肯定して

・どこを否定するか

です。

 

これは、

私達自身の真本音が

決めることです。

 

ところが、これが

ずれている人が

います。

 

すると、とても苦しい人生展開と

なります。

 

よく、やみくもに

「自己肯定感が大事だ」

と言い続ける人がいますが、

それは間違いです。

 

肯定の裏には

必ず、否定があります。

 

「肯定しよう」と思う心の裏には

必ず、

「否定しよう」という自分が

隠れています。

 

否定する自分を消して、

肯定だけの自分になる

というのは、

自然の摂理に反しています。

 

自然の摂理に反することを

すれば、

私達人間は苦しみます。

 

15タイプというお話を

最近は書かせていただいて

いますが、

(→【最も苦しい状態に入ると、人はどうなるか?】)

なぜ人は15タイプにまで

落ちてしまうかと言いますと、

それは、

いびつな自己肯定感に

よるものです。

 

何でもかんでも

自己肯定しようとする

不自然さが、

多大なるストレスを生み、

そのストレスの苦しみから

逃げるために、

現実逃避に走り、

その結果として

15タイプにまで落ちてしまいます。

 

「肯定」

という言葉の裏には必ず

「否定」

があります。

 

「肯定」と「否定」は

同次元です。

 

同次元による

「解釈」にすぎません。

 

大切なのは、

すべてを

「あるがままに見つめる」

こと。

 

それをすることで、逆に、

「今の私は自分自身の

何を肯定し、

何を否定すればよいか?」

が観えてきます。

 

観えてきたら、

肯定すべきをしっかりと

肯定し、

否定すべきをしっかりと

否定する、

ということをすればよいのです。

 

それによってのみ、

私達は

本当の一歩、

つまりは、真本音で望む一歩を

進むことができます。

 

しっかりと、

自己否定できる人は、

しっかりと、

自己肯定することも

できます。

 

中途半端にしか

自己否定できない人は、

中途半端にしか

自己肯定できません。

 

上記のクライアントさんの

言葉に対して、

私はどのようにお応えしたと

思いますか?

 

皆さんなら、

どのように対応

されますか?

 

私は、そのクライアントさんに

次の問いを投げました。

 

「では、あなたは

あなたの何を肯定していますか?」

 

です。

 

それをすべて明確に

しました。

 

すると、

素晴らしかったです。

 

そのクライアントさんは

ちゃんと自分のことを

観ている。

そんなことがよく

わかりました。

 

自分で自分の何を

肯定しているか?

 

をすべてきちんと

列挙すると、

 

自分で自分の何を

否定しているか?

 

もわかります。

 

そのクライアントさんは

言われました。

 

「あぁなるほど!

私は本当は、私のことを

全否定しているわけでは

なかったのですね。」

 

そして、

 

「なんだ、結局は、

私は、これから取ろうとしている

私の行動(選択)に対して、

恐怖を抱いていただけ

なのですね。

なんだ、そうか・・・。

私がこれから本当に行きたい

と思っている選択肢に

行くのが怖かっただけですね。」

 

・・・と。

 

で、私はさらに問いました。

 

「怖ければ、

やめてもいいんですよ。

自分でちゃんと決めるので

あれば、

行くのもよし、

やめるのもよし、

ですよ。」

 

すると、

そのクライアントさんは

きっぱりとお答えになりました。

 

「いえ、行きます。

ここで行かなきゃ、後で絶対に

後悔します。

なんだ・・・。

この一歩を踏み出せば

良いだけのことだったか・・・。」

 

あぁ、今この人、

次元が一つ、上がったな。

 

と実感できました。

 

う〜む。

 

人って、やはり

本当に凄いですね。

 

つづく

 

あなたと私は別物? それとも、一つ?

人と向き合うお仕事を

始めてから、

気がつけばもう22年が

経っています。

 

しかし私が

本当の意味で

人間探究を始めたのは

31年前、19歳の時からです。

 

私は

何のために生きれば

よいのか?

 

人は

何のために生きれば

幸せなのか?

 

人間探究の基本的問いは

これだったでしょうか。

 

この問いを

徹底的に考え続けた

31年間でした。

 

とはいえ、

考え続けると言っても

本当にただ考え続けるだけでは

何の意味もないと

私は思っています。

 

「考える」とは

「現実」とのコラボであると

私は思います。

 

つまり、

どこかに引きこもって

一人で考えるのではなく、

現実世界を生きる中での様々な

体験や経験を通じて、

一つ一つを

時には悩みながら、

時には突破しながら、

考え続けるということですね。

 

それをしなければ

単なる自己満足に

終わるでしょう。

 

で、

そんなことを続けながら

今さらながらに

本当に思うわけです。

 

人間というのは

奥が深いなぁ。

面白いなぁ。

 

人生というのは

奥が深いなぁ。

面白いなぁ。

 

・・・と。

 

同じ人間が、

同じ経験を積んでも、

同じ人生になるとは

限らないのです。

 

例えば、

もう一度タイムマシンで

生まれた瞬間に戻り、

記憶を消した上で、

同じ環境下で

人生をやり直したとしても、

同じ人生展開になるとは

限らないのです。

 

記憶を消しながら

100回同じ人間として

同じ環境に生まれたならば、

間違いなく

100通りの人生と

なるでしょう。

 

いやいや、

人生って決まっているから

と言う人もいます。

 

私も過去のブログで、

高い次元では

過去も今も未来も一つである、

と申しました。

 

しかしそれは、

人生というものが一つに

固定されているという意味では

ありません。

 

今この瞬間の

過去と今と未来は

一つです。

 

この瞬間だけを

切り取ったとしたら、

すべては「決まっています」。

 

ところが、

0.1秒後の「今」を起点にすれば

その時点での

過去と今と未来は

一つですし、決まってはいますが、

その0.1秒前の

過去と今と未来と

一致するとは限らないのです。

 

この3次元の世界は

時間が分離しています。

 

今の自分と、

0.1秒前の自分と、

0.1秒後の自分は

別物です。

 

それぞれの

過去・今・未来が

あるのです。

 

つまり、

無限とも言える自分が

一刻一刻の「今」という時間に

存在しています。

 

わけがわからなく

なりますでしょ?

 

じゃあ人生って何よ?

となりますでしょ?

 

だから人生は

奥深いのです。

 

本当は別々で

分離している自分という

人間が、

時間というものが

一方向に一定のスピードで

流れ続けることで、

まるで連続しているかのように

顕在意識では把握される、

というのが、

この3次元世界の特徴です。

 

高い次元では、

そういうこともすべて

ひっくるめて

「一つ」ですので

説明の必要もないのですが、

3次元にいる自分が

これらのことを理解しようと

すれば、

本当にわけがわからなく

なります。

 

でもそこを諦めずに

探究し続けたのが、

私の人生だった気がします。

 

私はいったい

何者なのだろうか?

 

あの人はいったい

何者なのだろうか?

 

あの人と私は

別物か?

それとも、一緒か?

 

別物であるならば、

なぜ、別物でなければ

ならないのか?

 

一緒であるならば、

なぜ、一緒であるように

思えない時があるのか?

 

・・・マニアックでしょ。笑

 

でもそういうことを

本当に真剣に

答えを求め続けてきましたし、

今でもそうです。

 

おかげで、

途中から

「実在」と「現象」の存在とか、

その関係性に

気づくことができました。

 

その気づきとは、

本来、言葉にならないもの

です。

 

でも、それをあえて

言葉にしながら説明する

というのも、

私の使命の一つだとも

思っているのです。

 

今、おかげさまで

多くの方々との出会いが

広がっています。

 

出会うすべての人は、

私とは別人であり、

でも、

私そのものであるとも

思っています。

 

どの次元からものを観るか?

によって、

答えが真逆になるものだ、

ということも

経験を通じて知りました。

 

真逆の真理の

溢れる世界。

 

それがこの3次元世界であり、

3次元で生きる

私達の人生の醍醐味の

一つです。

 

真逆とか矛盾とか、

そういったことをすべて

ひっくるめて、

人生を味わい尽くしたいですね。

 

つづく

 

不自然なものは、自然なものにはかなわない

ある会社では、

8名の幹部さん達が

経営を担っていました。

 

彼らは一致団結しながらも

会社の根本的改革に

取り組んでいました。

 

ところが、

ある日を境に突然、

8名のうちの3名が

幹部を抜けることになりました。

 

3人とも

会社に来れなくなったのです。

 

「会社に来るのが怖い」

と言い始めたのです。

そして3人ともが、

退社の方向にありました。

 

また、ある別の会社では、

これまで社内の雰囲気が

とてもよく、

社長以下、全社員さんが

「我社は本当に人を大事にする

居心地の良い会社です」

と、明るい表情で胸を張って

言われていました。

 

ところが、ある日を境に、

社員さん同士が

深刻な対立を始め、

立て続けに

数名の社員さんが

辞めていくことになりました。

 

原因は

明白でした。

 

2社とも、

「15タイプの風」が

社外から流入したのです。

(→前回記事参照)

 

前者では、

幹部さんではなく、

ある一般社員さんから

でした。

 

そして後者では、

新しく入ったばかりの

明るい女性社員さんから

でした。

 

お二人とも

その社員さんご自身には

何の問題もありませんでした。

 

ところが、

そのご家族に15タイプが

いらっしゃることが

わかりました。

 

そのご家族も

もともと15タイプだったわけではなく、

他の15タイプの人からの

風を受け、

15タイプにまで落ちてしまった

ようです。

 

さらに別の例ですが、

ある小学校の先生は、

自分が鬱になるのではないか?

という悩みを抱え、

私のところにいらっしゃいました。

 

面談してすぐに

わかりました。

 

その先生も

「15タイプの風」に

やられていました。

 

それは、ある生徒さん

から来ていました。

 

その生徒さん自身には

問題はありません。

 

ところが、

その生徒さんのご両親が

15タイプになってしまっていた

ことがわかりました。

 

こういった例を

挙げ出すと、

キリがありません。

 

皆、

前向きな人ほど、

やられてしまいます。

 

誰よりも人を大切にし、

誰よりも会社を大切にしようと

真面目に取り組んでいる人ほど

やられてしまいます。

 

この人が

おかしくなるはずがない、

と思われている人ほど、

やられてしまいます。

 

「15タイプの風」には

そんな傾向があるのです。

 

ただ、・・・

以上の3例はすべて

今は改善されました。

 

今は、15タイプの風は

吹いていません。

 

いえ、

正確に言えば、

15タイプの風がたとえ吹こうとも

まったくビクともしない

強さを、

今は誇っています。

 

15タイプの風にやられることで、

多くの人は

かなりのダメージを得ます。

 

あまり脅すつもりは

ありませんが、

あえて表現すれば、

魂や心が焼けただれている

ようなダメージです。

 

大火傷のような

ダメージです。

 

しかし私達人間には

自然治癒力があります。

 

そしてたとえ、

15タイプと関わっても、

自分が影響を受けるのではなく、

むしろその15タイプに影響を与え、

もう一度、健康状態に戻すだけの

力が、

もともと私達にはあります。

 

その力を

取り戻すことが

唯一の対応策です。

 

つまりそれは、

15タイプの風の窓口となって

しまっている人と、

15タイプの風を

真正面から受けてしまっている

人の

 

「真本音度合いを上げる」

 

ということに

他なりません。

 

しかもその「上げ方」の

目安があります。

 

それは、

「真本音度合い50%以上」

にするということです。

 

つまり、

自分の行動の半分以上を

真本音に素直にする、

真本音に基づいたものにする、

ということです。

 

真本音度合いが

50%を超えますと、

明らかに、自覚症状として

その人自身が

パワーがみなぎってくるのが

わかります。

 

しかもそのパワーは

イケイケどんどん的な

発散するようなパワーではなく、

もっと自然で

もっと静かで、

しかももっと深いものです。

 

そのパワーを

自ら感じ取れるようになれば、

「あぁ私は、どんな人と

向き合っても大丈夫だな」

と思えるようになります。

 

その状態になれば、

15タイプの風に当たっても

ビクともしません。

 

そして、

15タイプの人と関わっても

しっかりと「向き合う」ことが

できます。

 

15タイプは所詮、

15タイプです。

 

真本音の放つ本質的な

パワーには太刀打ちできません。

 

そのパワーに

癒されながら、

再び15タイプを離れ、

自らの真本音度合いを高めていく

ことも可能です。

 

実は、

今回の記事の二つ目の例の

女性社員さんの

15タイプのご家族というのは

その方の旦那さんでした。

 

その方は

15タイプの旦那さんと

結婚されたのではなく、

結婚されてから旦那さんが

職場において15タイプの風を

受け続けることで、

自らが15タイプにまで

落ちてしまったようです。

 

しかしその女性社員さんは

真本音度合いを50%以上に

上げることができました。

 

その結果、

旦那さんも健康状態に

戻りました。

 

そして先日、

お子さんが生まれたのです。

 

私のところに赤ちゃんを連れて

ご挨拶にいらっしゃった時、

私は嬉しくて

泣きそうでした。

 

とても元気な

赤ちゃんでした。

 

真本音度合いを高める、

とは

特別なことではありません。

 

私達が、本来の人間としての

姿を取り戻すだけのこと。

 

自然体を

取り戻すだけのこと。

 

私達は、自然体になれさえすれば、

調和を起こすことが

できるのです。

 

つづく

 

社外からウィルスが持ち込まれてしまう

ある会社(A社)で

新規事業が始まりました。

 

そのため、

これまでの顧客とは別の

新たなお客様が急激に

増えました。

 

その新規事業は将来性が高く、

A社のナンバー2の

幹部社員Bさんが

すべての責任者となりました。

 

Bさんは精力的に

新しいお客様と交わりました。

 

Bさんは社内でも

信頼度の高い幹部さんで、

社員さん達からの人気も高く、

何かあればまず第一に

Bさんに皆が相談にいく、

という風潮がありました。

 

ところが、

新規事業が軌道に乗り、

数ヶ月が経った頃、

これまで一致団結していた

社員さん達に

急に不協和音が起こるように

なりました。

 

派閥などがなかった社内に

短期間で派閥ができました。

 

社員さん同士の

足の引っ張り合いが

始まりました。

 

そのうちに、

会社を辞めたい、という

社員さんが出始めました。

 

特に、仕事に精一杯

取り組んでいた社員さんほど

「辞めたい」と。

 

そしてついには

うつ病の社員さんが

出始めました。

 

私はその会社の

ナンバー3の幹部さんから

ご相談を受けました。

 

そして社長とお会いしました。

 

とても魅力的な社長

でした。

人思いの社長です。

 

社長は言われました。

 

「なぜか急激に

社内の雰囲気が悪くなりました。

原因はわかりません。

強いて言えば、

新規事業を立ち上げたことでしょうか。

でも、新規事業自体は順調ですし、

お客様からの評判も良いですし・・・。

でも、それ以外に

特に何かが変わったわけではありません。

私の経営の仕方が

悪いのでしょうか?」

 

次に私は、

新規事業担当幹部のBさんと

お会いしました。

 

Bさんも素敵な

方でした。

 

しかし、

Bさんとお会いした瞬間に

原因がわかったのです。

 

15タイプです。

(→前回記事参照)

 

いえ、

Bさんが15タイプという

わけではありません。

 

Bさんが

「15タイプの風」

を受けていたのです。

 

つまり、

こうです。

 

新規事業で出会った

新たなお客様の中に

15タイプの人が

いたのです。

 

Bさんはその方と

頻繁にお会いすることで、

その方から強烈な

エンティティを

もらい続けていました。

 

しかしBさん自身は

元気な方で、

恐らく心も丈夫な人

なのでしょう。

 

Bさん自身に

エンティティによるダメージは

あまりありませんでした。

 

ところが、

Bさんは、そのお客様から

もらったエンティティを

毎日、社内に

持ち込んでしまっていたのです。

 

エンティティとは、

風邪のウィルスと

同じです。

 

インフルエンザのウィルス

という表現をした方が

わかりやすいでしょうか。

 

人から人へと

伝播します。

 

元気な人は

それを受けても

発症しません。

 

ところが、

Bさんがそれを社内に

持ち込むことで

15タイプの強烈なエンティティが

毎日、社内を

「流れる」

ようになったのです。

 

その「流れ」に

触れることで、

強烈なエンティティを

受け取ってしまい、

その結果、

真本音度合いが極度に下がり、

エンティティの持つ

・不安や恐れ

・絶望感

・憤り

などによって心を侵食され、

それらによって、

人への不信感や

未来への絶望感を感じ続け、

本来の自分を見失ってしまう

という、

そんな症状の現れる人が

続出したのです。

 

その結果が、

派閥であり、争いや確執であり、

うつ病です。

 

以上は、実際にあった例を

述べましたが、

こういった

「外部から15タイプのエンティティが

社内に流入し続ける」

という現象が、

ここ最近、私がびっくりするくらいに

多発しています。

 

社内に15タイプがいる

わけではないのです。

 

でも、社内の誰かを伝って

15タイプのエンティティが

流入し続けるのです。

 

それは最近流行している

インフルエンザのようです。

 

ですから最近の私は、

外部から誰を介して

「15タイプの風」が

社内に持ち込まれているか?

 

持ち込まれたエンティティが

どのような経路で

社内を循環し続けているか?

 

・・・を特定する仕事が

増えています。

 

それを特定し、

エンティティの循環を

断つことが、

まずは応急処置として

必要だからです。

 

「15タイプの風」にやられた人と

向き合うと、

私は独特の「ザワザワ感」を

得ます。

 

それは、

15タイプの人と向き合った時の

ザワザワ感と

本質的には同じです。

 

昨年までは

ここまでひどい状況では

ありませんでした。

 

本当にここ1〜2ヶ月の

ことです。

 

なぜこうなっているのか?

を私自身が今、

研究・探究している最中

です。

 

しかし、とにかく

対応をしなければ

なりません。

 

その対応に追われているのが

最近の私です。

 

このお話は

まだ続けます。

 

つづく

 

最も苦しい状態に入ると、人はどうなるか?

さて・・・。

 

今回は、

 

「15タイプ」

 

ということについて

書かせていただきます。

 

実は、これについて

こういった不特定多数の方々が

ご覧になるブログのような場で

書かせていただくのは

初めてではないかな、

と思います。

 

なぜならこの内容については、

人によってはかなりの

誤解や偏見を

生んでしまう可能性が

あるからです。

 

ですから、

これについては

これまでは口頭で

かなり慎重にお伝えする、

ということを大切にして

まいりました。

 

しかし、状況的に

そうも言っておられなく

なりました。

 

今年に入ってから、

私は様々な

「15タイプによる影響」

と遭遇してきました。

 

その頻度は、

昨年までの比では

ありません。

 

初めてお会いする企業様で

組織活性化において

かなり深刻なご苦労を

されている場合、

今はその根本原因のほとんどが

15タイプによる影響だった、

と言って差し支えないでしょう。

 

ですから一つの情報として

これについて書かせていただくことは

かなり有用ではないか、と

考えた次第です。

 

では、

「15タイプ」について

書かせていただきます。

 

前回の記事で、

「エンティティ」について

書きました。

(→前回記事)

 

「15タイプ」とは

そのエンティティを

普通の人の6倍以上

抱え込んでしまっている人の

ことを言います。

 

15タイプの「15」とは

「真本音度合い1.5%の人」

という意味です。

 

私は個人や企業様での

サポートにおいて、

「真本音度合い」を

かなり詳細な数値(%)として

把握します。

 

数値化することで、

きめ細やかなサポートが

できるからです。

 

ここではその詳細は

書きませんが、

「真本音度合い1.5%」

というのは、

人間としてこの世に存在できる

最低の数値であると

言ってよいでしょう。

 

つまり、

真本音度合いが1.5%未満では

私達の心と、そして魂は

存在できなくなるのです。

 

私達が「存在」するための

「生物」としての臨界点が

真本音度合い1.5%なのです。

 

その最低値まで

真本音度合いが落ちてしまっている

人のことを

「15タイプ」

と呼んでいます。

 

最低値ですので、

それはもう大変なことです。

 

割合としては、

滅多なことでは遭遇しない

タイプです。

 

私達人間は、通常、

真本音度合いが

高まれば高まるほど

人としての「幸せ」な感覚に

包まれます。

 

魂も心も満たされた

感覚となります。

 

その結果常に

ゆとりを持ち、

安定感や安心感を伴いながら

生きることができます。

 

15タイプとは

その真本音度合いが

最低ということですから、

人間としては

最も苦しい状態となります。

 

ところが・・・。

 

真本音度合いが1.6%までは

確かに苦しいのです。

苦しいことを

苦しいと感じるのです。

 

しかし最低値の1.5%にまで

落ちてしまうと、

苦しさの限界を超えて

しまうのです。

 

その結果として、

「麻痺」

が起こります。

 

いや、

麻痺だけならまだ

ましです。

 

かなり表現は悪いのですが、

あえて言えば、

覚醒剤を打ったような

状態となるのです。

 

昔、中学の理科の授業で

カエルの解剖を

したことがありました。

 

その時、解剖するカエルは

麻酔液の中に

全身を浸けられます。

 

そうなるとカエルは

恍惚とした表情となります。

 

その表情のまま、

解剖をされていくのです。

 

解剖をされながらも

恍惚としている

そのカエルの表情が

当時の私としては

かなりショックだった

覚えがあります。

 

それに近いです。

 

15タイプの人は、

その不自然な恍惚の中

で生きています。

 

ですので

表面上の雰囲気だけを見れば

非常に自信に溢れて

いる人が多いです。

 

ところが、

本質的には、そのような

苦しみの極致にありますので、

その人には

通常では考えられない

大量のエンティティが

発生するのです。

 

そのエンティティ量は、

私の体感で表現すれば、

普通の人の6倍以上

ということなのです。

 

私がこの15タイプについての

お話をなぜ公ではしないかと

言いますと、

これを聴いた人が

「あの人は15タイプではないか?」

と勝手に

疑心暗鬼になりながら、

人と関わるようになることを

危惧するからです。

 

ですので、あえて

書きますが、

かなりひどい表現でここまで

書きましたが、

それでも、15タイプの人も

ただの人間です。

 

悪魔でも妖怪でも

ありません。

 

人間である以上、

もちろん、15タイプに落ちて

しまったとしても、

再び、誰もが浮上します。

 

人は、

進化を望む生き物

だからです。

 

ただ、15タイプの人の

エンティティは

なかなかに凄いものがあり、

その影響によって

人や組織が

「我を失ってしまう」

状態になることがあります。

 

そんなケースが

最近、多発しているのです。

 

ということで、

次回以降、

15タイプの特色と

最近、企業や組織において

どのような影響が広がっているか

について、

書かせていただきます。

 

つづく

 

なんだ?この異様な不安感は・・・

今回は、次のご質問に

お答えします。

 

「どうしても未来に対して

不安になってしまいます。

自分なりに真本音を大切にして

生きているつもりですが、

すぐに不安になり、

そこから抜け出せなくなります。

私の真本音度合いは

上がっていないのでしょうか?」

 

・・・実は、こういったご質問が

とても増えています。

 

これは、世の中全体の

ある潮流による影響もあるのですが、

それについてはまた改めて、

別の機会に書かせていただきます。

 

今回は、ダイレクトに

このご質問にお答えします。

 

自分の真本音を大事にすれば

するほど、

逆に不安感が増してしまう、

という場合、

最も多いケースが、

 

「エンティティ」

 

によるものです。

 

エンティティとは、

ストレスがある一定以上の

濃度に凝縮されたものを

言います。

 

ある一定以上になれば、

それは、3次元化します。

つまり、

物質化します。

 

まぁ、物質とまではいかなくても

それに近い状態にまで

なります。

 

それは強烈な「念」であり、

エンティティを日本語に訳すと

「生霊」

と訳されることもあります。

 

こう書くと、非常に怖いですが、

実はエンティティとは

多かれ少なかれ

すべての人が持っています。

 

持っていない人はいない、

と言い切ってしまっても

よいでしょう。

 

そしてそれはまるで

風邪のウィルスのように、

人から人へ

伝染します。

 

いつも空気がドヨ〜ンと

淀んでいる人や、

空気感の重たい人、

顔つきが、まるで獣のように

険しい人などは、

エンティティが多い人です。

 

そういった人と一緒にいると、

エンティティがこちらに

移ってきたりします。

 

こう書くと、

いやだ、気持ち悪い!

となると思いますが、

これは私達が日常において

当たり前のように行なっている

ことです。

 

極端な言い方をすれば、

私達はエンティティの交換を

しながら関わり合っている、

とすら言えます。

 

さて。

 

真本音度合いが高まると、

通常はエンティティは

とても少なくなります。

 

自らエンティティを発生させる

ことは激減します。

 

ところがその分、

稀にですが、

他者のエンティティを

どんどん吸収してしまうタイプの

人がいるのです。

 

ほとんどの人が

他者のエンティティを受けても

真本音度合いが高まれば

それを「流す」ことが

できます。

つまり、エンティティによる

ストレスやダメージを

受けずに済むのですが、

稀に逆になるタイプの人が

いるのです。

 

それは、

その人の真本音の使命に

よるものです。

 

つまり、

真本音レベルで

「私は人のサポートをしたい」

と決めている人のうち、

「私は人のエンティティを

あえて受け取り、

そのエンティティの状態を

把握することにより、

その人の苦しみを把握し、

それによりその人に

適切なサポートをしたい」

と決めている人が

いるのです。

 

実はその典型が

私なのですが。

 

私の場合、

その傾向が極度に高く、

私の真本音度合いが急激に

高まった時代は、

道端でも何でも、

会う人会う人のエンティティを

全部吸収してしまい、

本当に大変でした。

 

今は、おかげさまで

その人のエンティティを

吸収するかどうか?を

自分で決めてコントロール

することができるように

なりましたが、

当時はもう、死ぬ思いでした。

 

おかげで

自律神経がいかれてしまい

ご飯をほとんど食べられなくなった

時期もありました。

 

しかしおかげで

エンティティ浄化の方法を

研究し編み出すことが

できたのですけど・・・。

でもそれには

数年を要しました。

 

で・・・。

 

何が言いたいかと言いますと、

真本音度合いが上がっている

にも関わらず、

未来に対する不安感が

増してしまう場合の多くは、

 

人からのエンティティを

大量に吸収してしまっている

可能性が高い、

 

・・・ということです。

 

エンティティは多くの場合、

未来に対する

・絶望

・不安

・憤り

などの塊です。

 

その塊を受けることで、

・自分の心が発生させている不安と

・エンティティが持っている不安の

区別がつかなくなるのです。

 

つまり、その不安は、

「あなた自身のものではなく、

エンティティのものなんだよ」

・・・ということになります。

 

まずは、

その区別をつけるだけで

相当に楽になるはずです。

 

ですので、

自分は真本音を大事にしている

のに、

なぜか不安が高まってしまう、

という場合は、

 

「この不安は本当に

私のものだろうか?」

 

と自分自身に問うてください。

 

そして、

体の中のどこにその不安感が

あるか?を

特定してください。

 

そして、

そこに意識を向ければ、

「うわっ、なんか

気持ち悪いものがある!」

となるかもしれません。

 

そうなったらそれが

エンティティです。

 

エンティティだとわかれば、

それをただ

存在承認してあげてください。

 

愛の眼差しで

そのエンティティを

観てあげてください。

 

それだけでエンティティは

浄化されるはずです。

 

エンティティも

人の心です。

 

反応本音の塊です。

 

すべての反応本音は

存在承認すれば

よいのです。

 

つづく

 

手に負えないクライアントさんばかりで・・・

次のようなご質問を

いただきました。

 

「私にはずっと以前から

一つの夢があります。

でも、真本音というお話を聴いてから、

その夢は単なる反応本音の夢では

ないか?と思うようになりました。

でも、どうしてもその夢を

捨て去ることができません。

その場合は、どうすれば

よいでしょうか?」

 

以前に、

未来を描くことで

道が閉ざされてしまう、

ということを書かせていただきましたが、

でもやはり、

自分なりの

「捨て去れない夢」

があること自体は

素晴らしいな、と私は思います。

 

捨て去れないのであれば、

捨て去らない方が

いいですね。

 

私が最も良くないな、

避けてほしいな、

と思うのは、

頭で(理屈で)良し悪しを

判断・解釈して、

頭で(理屈で)すべてを

進めてしまうことなんです。

 

特に、

人から言われた理屈を

そのまま鵜呑みにして

無理に「それが正しい」と

自分に思い込ませるのは

良くないですね。

 

私のクライアントさんは

その点、

とてもしっかりした人が多く、

私がどんなアドバイスをしても、

聴いてくれない人が

多いんです。笑

 

「たけうちさんには、

ああ言われたんですけど、

でもどうしても、こうだと思い、

こうしちゃいました。」

 

・・・と笑いながら、

ある意味、自分の思う通りに

物事を進めるクライアントさんが

多いんです。

 

そういった姿を見ますと、

私はいつも嬉しくなります。

 

だって、その人は

自分自身できちんと

判断していますもんね。

 

ですので、

私のクライアントさんで

長くクライアントさんでいて

いただける人は、

私の手に負えない人

ばかりかな。笑

 

私は、私の手に負えない人と

お付き合いするのが

どうも、大好きなようです。

 

なので、

「私の夢は反応本音の夢だと

思いますが、

それでも、その夢を

目指すことにします!」

と断言されると良いですね。

 

その断言が、

道を創ります。

きっと。

 

人生を進むということにおいて、

私が最も大事だなと

思うことの一つは、

「納得」だと思うのです。

 

本人の納得。

 

どれだけ他者から

良いアドバイスを受けたとしても

たとえそれが真理だとしても、

本人が納得しなければ、

その人にとってはそれは

真理ではないのです。

 

納得しないまま、

言われた通りに人生を

進めれば、

それはもう、その人の人生

ではありません。

 

ですので、

「反応本音だろうが、何だろうが、

私はこの夢に向かうんです!」

という人がいれば、

私はその意志をとことん

尊重したいですね。

 

で、本当にその夢が

叶うように

サポートすると思います。

(もちろんその人が

サポートを望むならば。)

 

そして、

本人の「納得の道」を行けば、

必ずそこに「真理」は

待っています。

 

「あぁ、そういうことか!」

という、納得の気づきが

待っています。

 

その道のりこそが、

大事であり、

その人の真本音が

望んでいるものでは

ないでしょうか。

 

人生に

正しい・間違っている

はありません。

 

その人が「正しい」と

思う道を行くことが

大切です。

 

たとえそれで

痛い目にあったとしても

そのプロセスこそが大切であると

思います。

 

ただ、・・・

私が拝見するに、

自分が納得していないにも

関わらず、

その道に進もうとする人が

多いです。

 

その場合は、

私は、それを止めるでしょう。

 

「本当に、

納得していますか?」

と。

 

納得しないままに

進んでしまえば、

それは、「妥協の道」です。

 

妥協の道において

真理に結びつく気づきは

あり得ません。

 

真本音・反応本音とか

関係なく、

その人の本当に納得のいく

道に進むためのサポートを

私はしたいですね。

 

で、それができていれば

必然的にその人は

真本音の道に進むようになりますし、

その結果、

「やっぱりあの夢は違いました」

となれば、

それは大きな「脱皮」です。

 

そういったことをすべて

踏まえて、

私は、これからも

真本音・反応本音の真理について

語り続けるでしょう。

 

真本音の道を

行きなさい、と

言い続けるでしょう。

 

それが私の

役割ですから。

 

つづく

 

最後に出てくるラスボスは、顕在意識です

「自分を変えたい、と思っても、

自分の何を変えればよいのか、

わからないのです。

ただ、今の自分に対して

イライラ、モヤモヤします。」

 

ここ1〜2ヶ月、

こういったお声を

たくさんお聴きします。

 

イライラ、モヤモヤ。

 

・・・この感覚は

本当に大切です。

 

私達人間は、

イライラ、モヤモヤを感じた場合、

それを本能的に

解消しようとします。

 

ところがその解消には

かなりのエネルギーを

要することがあります。

 

特にそれが

真本音によるイライラ、モヤモヤ

であれば、

なおさらです。

 

真本音による

イライラ、モヤモヤとは

何でしょうか?

 

それは、

 

「今の自分のパターンでは、

脱皮できないよ」

 

とか

 

「これまでのやり方では、

次元を上がれないよ」

 

という合図であり、

メッセージです。

 

これまでのパターンや

これまでのやり方を

変えるということは、要するに

「自己変革」です。

 

その場合の「自己変革」とは

「まずは行動パターンを

変えなさい」

ということです。

 

つまりそれは、

「自分自身の顕在意識の

パターン(クセ)を

変えなさい」

ということです。

 

その場合、

自分のどのようなパターン(クセ)を

変えなければならないか?を

しっかりと頭で

考えなければなりません。

 

顕在意識・・・。

 

これは、

今こうしてものを考えたり

感情を出したりしている

自分自身なのですが、

これがまた結構

厄介なのです。

 

よく、

潜在意識が変われば、

顕在意識も変わる、

というようなことが

言われていますが、

なかなかどうして、

顕在意識は、強いです。

 

潜在意識レベルの

あらゆるものが変化したとしても、

最後の最後で

顕在意識が変わらないことで

自己変革ができていない人を

私は、いやというほど

拝見してきました。

 

結局は、

この世(3次元の現実)で

生きているのは

私達の顕在意識です。

 

自分の行動の

最終決定者は

顕在意識なのです。

 

どれだけ

潜在意識レベルで

「Aに行こう」

と思っていても、

最終的に顕在意識が

「Bがいい」

と思えば、

Bに行ってしまいます。

 

心の中では真本音の度合いが

上がり、

真本音発想がどんどん生まれる

ようになっても、

それをその通りに

行動に移すかどうかは、

顕在意識が決めます。

 

その結果、

真本音で望むのとは

まったく別の行動を

取り続けるということも

人によってはあるのです。

 

私はこれを

「顕在意識の抵抗」

と呼んでいますが、

ゲームのラスボスではないですが、

最後の最後で

自己変革の妨害をする

最大の敵が

顕在意識であったりします。

 

そしてそういった場合に

イライラ、モヤモヤが

大量発生するのです。

 

つまり、

イライラ、モヤモヤとは

「顕在意識の抵抗」

に対する、

「真本音の抵抗」

です。

 

顕在意識レベルで

変わろうとしない自分自身への

警告です。

 

そういった

真本音レベルでの

イライラ、モヤモヤの場合、

先ほども書きましたが、

私達のエネルギーは著しく

ダウンします。

 

真本音からしてみれば、

「これ以上、これまでの自分の

パターンに執着するならば、

もう私は私に

生きるパワーを与えないよ」

というメッセージなのです。

 

「たけうちさん、

どうしても最近の私は

パワーが出ません。

イライラ、モヤモヤして

しまうんです。」

 

そう言われる人が

最近、増えているのですが、

その原因は

「あなたのその顕在意識です」

ということになります。

 

その人の多くは、

「パワーが出ないので、

自分が変わる気力も

出ません」

と言われるのですが、

いやいやいや、

変わろうとしていないのだから

パワーが出ないのです。

 

このカラクリに気づいたら、

一つずつ、一つずつ、

自分の行動を

変えることです。

 

自分が何をどう

変えなければならないか?

 

本当はよく

わかっているはずです。

 

だって、真本音は

それを望んでいるのですから。

 

本当は、

「答え」を知っているはずです。

 

でもその「答え」を

観たくない。

観たら、行動を変えなければ

ならなくなるから。

という抵抗をしているのは、

あなたのその顕在意識のみ

なのです。

 

つまり、

顕在意識レベルで

「私は変わろう」

と本気で思うだけのことです。

 

顕在意識で思うだけで、

発想が変化するはずです。

 

あとはその発想のまま

一つずつ

できるところからで良いですから、

自分の行動を変えるだけです。

 

はっきり言って、

こんなに簡単なことは

ないと

私は思うのですけれどもね。

 

つづく

 

人の中心に何があるか?を知り、生き続けることができました

人の本能の中心には

「進化」

があります。

 

・・・ということを私はよく

言いますし、

このブログでも書いてきました。

 

では、

進化の中心とは

何でしょうか?

 

これを言語化することは

非常に難しいのですが、

現時点でこの世の中で

一般的に用いられている言葉の中で

最も近いものを選ぶとすれば、

 

『祈り』

 

となります。

 

「祈り」と書くと、

途端に宗教チックになったり

スピリチュアルな臭いがしますが、

でもやはり、

最も近い言葉はこれかな。

 

これまでのブログでも

何度も書かせていただきましたが、

私はもともと

ひどい人間でした。

 

いまだに、

かつての私以上に

反応本音やエンティティの凄い人に

出会ったことがありません。

 

かつての私以上に

執着の凄い人に

出会ったこともありません。

 

あのままの私でもし

進んでいたら、

私は間違いなく私の命を

絶っていたでしょう。

 

その場合、だいたいいつくらいに

それをしていたかも

今となってはリアルに

わかります。

恐らく10年以上前に

私は自分が自分でいることに

耐えられなくなっていたと

思います。

 

そんなにひどい私でしたが、

幸いなことに

自分の真本音を実感する

瞬間に出会えました。

 

それ以降、

私は私の人生理念を

「向き合う」

という言葉として設定し、

何があっても

どんな状況でも

自分自身と向き合い続けることを

誓いました。

 

激しい反応本音達。

 

目もくらむような

エンティティ達。

 

(エンティティとは、

ある一定以上の濃度に高まった

ストレスの集合体を言います。

日本語に訳せば、

「生き霊」となります。

そう書くと、怖いですが、

すべての人にエンティティは

あります。常に。)

 

それらと向き合うことは

吐き気をもよおすなどという

生易しいものでは

ありませんでした。

 

でも私はそれを

それこそ取り憑かれたように

毎日続けました。

 

その結果たどり着いたのが

「祈り」

でした。

 

私は私の中心に

確固たる「祈り」があることを

ついに自覚ました。

 

その「祈り」とは

言葉になるものでは

ありません。

 

しかし確かにそれは

「祈り」です。

 

「祈り」は永遠に

続くものです。

 

何かが達成されることで

成就するものでは

ありません。

 

しかしその「祈り」に

触れるだけで、

すべてが満たされる

気がしました。

 

私は

自分自身と「向き合う」のと

同じくらいの真剣さで

私以外の人々と

「向き合う」ことを大切に

しました。

 

多くの方々から

毎日、多くのストレスや

エンティティを

受け取りました。

 

これも私の宿命なのですが、

私ほど、

他者のストレスやエンティティを

自らの中に吸収してしまう人も

まだ一度も見たことが

ありません。

 

その人のエンティティを

受け取ると、

私はその人が苦しんでいるのと

まったく同じ苦しみの感覚を

覚えました。

その人が実際に

何に悩んでいるのか?までは

当然わかりませんが、

その人の苦しみそのものは

感覚として、その通りに感じるのです。

 

これが私の体質でした。

 

100人の研修を行なえば、

100人の苦しみを

私はいつも受け取って

きました。

 

それらとすべて

向き合い続けてきました。

 

向き合うことで

それらはすべて浄化される

のですが、

その浄化をするために

朝まで眠れなかった日など

数えきれないほどあります。

というか、

それが日常化していました。

 

私自身の苦しみ。

 

人間の苦しみ。

 

それらのすべてと

向き合い続けることが

私の宿命なんだと

完全に(良い意味で)諦めたのが

2007年のことです。

 

私には

何もできない。

 

人を救うなんてことは

当然できないし、

世の中をどうとかしようなどとは

おこがましい、の極致だ。

しかし、

私はただ

「向き合う」ことを

し続けよう。

私にできる最大の行為が

「向き合う」ことだ。

 

・・・そう決めて、

とにかく

「向き合う」ことに徹し、

それのみをしよう、と決め、

あとは自分の中から

あらゆる「思惑」や「意図」を

手放しました。

 

するとようやく

実感できたのです。

 

あぁそうか。

 

すべての人の中心に

「祈り」

はあるのだな、と。

 

それは決して言葉にすることは

できないけれども、

それを大切にした生き方の

できている人は

その人の心も人生も

満たされるのだな、

と。

 

「真本音」とは、

その人の「祈り」から

発せられる全意識です。

 

「祈り」に基づいた

生き方をするのか?

 

それとも

それを自ら裏切る

生き方をするのか?

 

それにより、

その人の人生の

「満たされ度合い」は

根底から変わります。

 

どれだけ

現象レベルでの成功を

手に入れても、

その人が自らの「祈り」に

沿わない生き方をしている以上、

その人が真に

満たされることは

永遠にありません。

 

であれば逆に、

自分の「祈り」に基づいた

人生を送ること。

 

「祈り」に基づいた

ビジネスを展開すること。

 

それができれば

どんなに良いだろう。

 

どんなに

幸せだろう。

 

これが私の

サポートのすべてです。

 

人が、

自らの、言葉にならない

「祈り」を実感し、

それを大切にした生き方や

仕事の仕方や

ビジネスの展開が

できるようになる姿は

私のエネルギーの源泉です。

 

そんな人を

一人、また一人と

増やしていきたいというのが

私がここにいる理由の

すべてかな。

 

つづく

 

人生を変えるかもしれない発想

私がここ最近、

とても強く感じることなのですが、

真本音で生きる

という実にシンプルな生き方を

するために、

多くの方に足りないものが

あります。

 

それは、

 

「自分の最初の発想を

信じるという意志」

 

です。

 

最初の発想を

もっと信じて

進んでみればいいのに。

 

・・・と、

最近、頻繁に思いました。

 

最初の発想、

つまりは、

一番初めに浮かんできた

発想。

 

一番に初めに

顕在化した発想です。

 

私達の真本音は、

時々、

まったく関係のない

発想を顕在化します。

 

それは、

前回の記事で

書かせていただいた通りです。

(→前回記事)

 

AかBか?

で迷っているのに、

まったく関係のない

Cという発想が浮かんだりします。

 

その場合、

多くの人がその発想を

「つまらないもの」

「関係のないもの」

「意味のないもの」

として、浮かんだその瞬間に

捨ててしまいます。

 

しかも、

それを無意識にしている人も

多いです。

 

ですからコーチングの場では

私はよく、次のように

クライアントさんに言うのです。

 

「今、何か

発想が浮かびませんでした?」

・・・と。

 

すると、最初は

「いえ、何も・・・。」

と返ってきます。

 

でも、

「いやいや、今何か

考えましたでしょ?」

と問うと、

初めて、

 

「すみません。

まったく関係ないことが

一瞬よぎりまして。」

と返ってくるのです。

 

「それそれ、それですよ!

どんな発想がよぎったんですか?」

 

と言って、半ば強引に

それを教えていただくのですが、

その発想がきっかけとなり、

コーチングが思わぬ

すごい展開になることは

日常茶飯事なのです。

 

例えば私の場合、以前に

次のようなことがありました。

 

ある年末の話ですが、

私は、クライアント Aさんの

コーチングをしていました。

 

Aさんは若い経営者で、

次年度の方針を

明確化する内容だったのですが、

それが出来上がり、

スッキリと完了感も覚え、

コーチングを終えようとしました。

 

で、

席を立とうとした瞬間、

Aさんが私に

「たまには今から忘年会でも

いかがですか?」

と言われたのです。

 

「おぉ、いいですねぇ」

と私は答えようとしたのですが、

その時、ふと一つの言葉が

頭をよぎったのです。

 

私はそれを

そのまま口に出しました。

 

「Aさんって、

子供好きですよね。」

 

Aさんは、キョトンと

されました。

 

それはそうです。

 

「忘年会いかがですか?」

と問うたら、

「子供好きですよね」

と返ってきたんです。

 

しばらくAさんは

目を白黒されていましたが、

「ええ、好きです。

なんでわかるんですか?」

と返してきました。

 

実はAさんは独身です。

もちろんお子さんも

いません。

私もなぜそんな一言を

Aさんに言ったのか

自分でもわかりません。

 

私は答えました。

 

「いえ、なんとなく、

子供が好きかな?と

思って。

Aさんにお子さんができたら

きっとすごく個性的な子に

なりそうですね。」

 

と私が笑ったら、

 

「たけうちさん、

やっぱり忘年会は

後日でもいいですか?」

 

とAさんが言うのです。

 

「もちろん、いいですよ。

では、今日は帰りましょうか」

ということで、

私達は別れました。

 

そして、年明け。

 

私はAさんから

驚くべき報告を聴きました。

 

実はAさん、

お付き合いしていた彼女さんが

いました。

その彼女さんに

プロポーズしようと

決めていたそうです。

で、婚約指輪も密かに

購入されていたそうです。

 

Aさんは私から

「子供が好きですよね」

と言われた瞬間に、

無性にその彼女さんに

会いたくなったそうです。

 

で、Aさん、

プロポーズするなら今日だ!

と直観したそうなのです。

 

あの日、

Aさんは私と別れた後、

すぐに彼女さんを呼び出し、

プロポーズされたそうです。

 

もちろん結果はOK。

 

「最高の正月でした」

とAさん。

 

しかも、

「年末年始で彼女と一緒に

旅行をしました。

二人で今後の家族計画の

話をしてたんです。

その時、気づいたんです。

私は、もっと私のやりたい

経営の仕方があるんじゃないか?

って。

で、たけうちさんには申し訳

ないのですが、

年末に決めた計画を

もう一度根底から考え直しました。

その結果、凄い発想が

出てきましたよ。」

 

そう言われながらも

Aさんは発想された内容を

私に教えてくださいました。

 

それはかなり

ぶっ飛んだ内容でしたが、

とてもとても魅力的でした。

 

もともとAさんは

ぶっ飛んだところがありましたから、

Aさんらしいな、

と思えました。

もちろん、

すべてAさんの真本音でした。

 

そこで私はわかったのです。

 

プロポーズすることで、

Aさんは

ご自分の次元を一つ

上がったのだな、と。

 

そして、

次元の上がった意識で

経営計画を立て直したのだな、

と。

 

そう考えると、

あの時、私が発した

「子供好きですよね」

の一言が

いかに重要だったか。

 

あれで、ある意味、

Aさんの人生が変わりました。

 

しかしこれは

私がAさんの人生を変えた

わけではありません。

 

私はただ、

Aさんと真本音コミュニケーション

しただけのこと。

つまり、

Aさんの真本音をキャッチし、

Aさんが言ってほしい一言を

その時お伝えしただけの

ことなのです。

 

Aさんの真本音は

私を活用して、

自分の人生を進めたのです。

 

面白いでしょ?

 

実はこういったことが

本当に日常茶飯事で

起きています。

 

ですから私は思うのです。

 

まったく関係のない発想でも、

何かの問いを受けて、

最初に浮かんだ答えは

宝物かもしれない、と。

 

真本音度合いの

高い人であればあるほど、

それを大切にしてほしい、と。

 

本当に、

人のコミュニケーションというのは

面白いですね。

 

つづく

 

こんな迷い方をしてみよう

次のようなご質問を

いただきました。

 

「真本音が迷うことは

ないのでしょうか?」

 

お答えします。

 

真本音が

迷うことはあります。

 

ただしそれは

私達が通常捉えている迷い方とは

少し異なります。

 

一般的に言えば、

「迷い」とは

AかBか?

ということですね。

 

どちらを選択することが

メリットが大きいだろうか?と

通常は考えます。

 

しかし

真本音の「迷い」とは、

AとBという選択肢があった場合、

 

ABか、Cか?

 

・・・という迷い方をします。

 

これは

どういったことだと思いますか?

 

まずは

「AB」について。

 

AかBか?と

迷っているうちは、

私達は同じ次元にいます。

 

AもBも

どちらかが正しくて

どちらかが間違っていたとしても、

それは同じ次元にいます。

 

迷う、戦う、争う、・・・

ということは同じ土俵にいる

ということです。

 

どちらがより良いか?は

その人その人の解釈によるもので、

同じ土俵にいる以上は

同じ次元です。

 

「AB」とは

AもBも両方大事にする、

ということであり、

AもBも両方を尊重する、

ということであり、

AもBも超えたところにある解を

見出すということです。

 

それは

次元を一つ上がる

ということになります。

 

さて、次に

「C」について。

 

これは、

AとBとはまったく異なる

視点の答えということです。

 

次元が上とか下とかも

ありません。

 

AやBとは関係のない

ものです。

 

例えば、

次の休日にどう過ごそうか?

と迷っていた場合、

  1. 映画に行こうか
  2. ハイキングに行こうか

という選択肢だったとして、

Cというのは、

「今晩は寿司食べよう」

と言っているようなものです。

 

一見、まったく

関係がありません。

 

しかしまったく関係のない

方向に進むことで、

面白い展開になることが

あります。

 

例えば、

今晩、寿司食べよう、と思い、

その通りに食べに行ったら、

お寿司屋さんの大将の一言が

きっかけとなり、

次の休日の過ごし方が

決まった、とか。

 

つまり、

「AB」・・・

次元を超えた発想を自分に直接

与えるか?

「C」・・・

何らかの体験・経験を通じて

答えに気づくか?

この二つについての「迷い」を

真本音は持ちやすいのです。

 

この真本音の傾向を知っておくと、

セルフコーチングが

非常にしやすくなります。

 

私の場合、

何か「迷い」が発生した場合、

まずは、

あぁ、今の私が思いもつかない

次元の高い発想が生まれるんだろうな、

・・・と楽しみに待つ気持ちになります。

 

そして次に、

その答えは、今こうして発想するだけで

この場で生まれるものだろうか?

それとも、何らかの体験が

必要だろうか?

・・・という問いを自分に投げます。

 

で、直観的に

前者であると思った場合は、

じっと、答えが浮かんでくるのを

待ちます。

 

すると本当に

浮かびます。

 

直観的に

後者だな、と思った場合は、

じゃあ、自分は何をしようかな?

どんな体験を自分に

プレゼントしようか?

と発想します。

 

で、ふと「こうしよう」と

思ったことをそのまま

行動に移します。

 

するとその行動がきっかけとなり

「答え」が浮かびます。

 

真本音はよく

迷います。

 

それは、端的に言えば、

・今、このまま答えを見出すか?

・体験を通じて答えを見出すか?

の迷いです。

 

これは、

今の自分の状態を観ながら、

自分の「進化」のための

最善の道のりを見出すという

ことです。

 

その真本音の「迷い」を

尊重しながらセルフコーチングすれば

かなり面白いです。

 

もし皆さんの中に

「迷い」が生じたら、

ぜひやってみてください。

 

楽しいですよ。

 

つづく