2019年 12月 の投稿一覧

意味不明の四字熟語

 

今日、仕事仲間と

打合せをしていたら、

「たけうちさんが

これから大切にする言葉は

何ですか?」

と、問われた。

 

すると、

心の奥の方から

浮かんだ言葉があった。

 

相変わらずこういう時は、

意味のわからない言葉が

浮上する。

 

まったくわけが

わからないかも知れないが、

あえてここに記しておく。

 

『響逸煌舞』

 

・・・という言葉だ。

 

これで

「ねいおうま」

と読む。

 

「響」が「ね」。

「逸」が「い」。

「煌」が「おう」。

「舞」が「ま」。

 

ねっ、

わけがわからない

でしょ。

 

この意味は

これから徐々に

わかってくるとは思うが、

普通に考えて

こんな意味なんだろうな、

ということは

書いておこうか。

 

「響」とは、

そのまま、ひびく。

 

「逸」とは、

突くという意味らしい。

 

「煌」とは、

きらめく。

 

「舞」とは、

舞うということだが、

これは、

広がるという意味らしい。

 

響くところを

突き、

突いたところが

きらめき、

きらめきが一気に

広がっていく。

 

・・・ということだ。

 

う〜む、

わかったような

わからんような。

 

とは言え、

企業様のサポートを

させていただく時は、

私はいつも

これをやっているような

気がする。

 

組織全体を

良くしようとするよりも、

きらめきやすい場所に

刺激を入れ、

そこを起点に

深い影響を組織全体に

広げていく、

というやり方だ。

 

だからそれを

表現する言葉なのかな、

とも思ったのだが、

 

でもそれであれば、

これまでの私と

同じだ。

 

取り立てて、

わざわざこんな四字熟語に

する必要はない。

 

きっと何か

別の

深い意味があるのだろう。

 

まぁいつも私の場合は

このような

なぞなぞのような

展開となるセルフコーチングが

多い。

 

2020年は、

この四字熟語の意味が

解き明かされていくのを

楽しむところから

始めようかな。

 

つづく

 

赤ちゃんのような笑顔

 

小さな笑い

でいい。

 

静かな笑い

でいい。

 

でも、確かに

腹の底から

魂から

自分の芯から

笑いながら生きる

ためには

どうすればいいだろうか?

 

私のクライアントさん達の

笑顔はみんな

こちらも笑えるほどに

素敵だ。

 

まるで

赤ちゃんの笑顔を

見ているようだ。

 

魂レベルの悦びが

そのまま

波動となって

空気を癒す。

 

とは言え、

皆、

厳しい。

 

自分にも

人にも厳しい。

 

今日、コーチングさせて

いただいた

経営者のBさんも、

どちらかと言えば

周りから

怖がられている。

 

でも、

若者が集まって

くる。

 

その若者も

Bさんと同じ

淀みのない笑顔を

見せる。

 

「笑顔のつながり」

 

という言葉が

浮かんだ。

 

真剣に

厳しく生きる

人ほど、

この笑顔のつながりは

深く

強く

なるのではないか。

 

そう言えば、

赤ちゃんも

必死に全力で

生きている。

 

生きる、

ということに

すべての力を

注いでいる。

 

だからこそ

あれだけの素敵な

笑顔になるのかな。

 

残念ながら、

 

笑顔が淀んで

しまっている人は

多いなぁ。

 

残念ながら。

 

でも、

私はよ〜く

知っている。

 

皆、ちょっとのきっかけで

本来の笑顔は

すぐに取り戻せる。

 

実は、

そんなに難しい

ことではないことを。

 

それを信じて、

私は

「笑顔のつながり」

をもっともっと

深く強いものに

したい。

 

そんな社会に

したいな。

 

つづく

 

迷わず迷走する

 

以前の受講生さんから

久しぶりに

ご連絡をいただいた。

 

最近のご様子を

教えてくださる

実に楽しいメールだった。

 

その中に

とても印象に残る

言葉が二つあった。

 

どうやら来年の

抱負のようだ。

 

一つは

 

「とりあえずはやってみたいことを

片っ端から徹底的に中途半端に

やってみる!」

 

もう一つは

 

「迷いを持たずに

迷走しまくる!」

 

・・・とても素敵な

豊富だと思わない?

 

一見、矛盾したことを

言っているように

思うでしょ。

 

でも、実は

そうじゃない。

 

私はこの人からは

真本音の道を

楽しく進む一貫性を

ヒシヒシと感じる。

 

自分の

中途半端さ。

 

自分の

迷走。

 

そういったものを

この人は

あるがままに

そのままに

受け止めている。

 

そしてそれが

「今の自分」であり、

 

そんな今の自分を

徹底的に生きる

ことで、

自らの人生の目的を

見つけようと

されている。

 

素敵だなぁ〜、

思ったね。

 

こういう人が

増えると、

面白い世の中に

なるだろうな。

 

つづく

 

我々はまだ何も・・・

 

私は、A社長と

バーのカウンターで

飲んでいた。

 

A社長は、

会社を創業されて

10年目。

 

創業当時から

A社長の傍で、

私も共に

歩んできた。

 

私が提唱する

「自律調和型組織」

とか

「自律調和型社会」

という言葉を

考えてくださった

人だ。

 

A社長の会社は

素敵な会社だ。

 

20数名の小さな

会社だが、

社会的には

とても意義の深い

「三方よし」の

お仕事をされており、

特にこれからの時代には

なくてはならない存在と

なっていくだろう。

 

何よりも、

後継者が育った。

 

A社長の意志を

受け継ぐ経営層が

少なくとも

二人は育った。

 

私は、

この規模の会社で

これだけ立派な

後継者が育ち、

 

A社長のような

エネルギーの高い

創業者が

まだ現役社長として

存在しているにも

関わらず、

 

A社長から

「もう、彼らには

完全に任せて

いられる」

と信頼される、

それだけの状態になれた会社を

他に見たことがない。

 

今日は、

その後継者二人が

中心になって、

仕事納めの全体会議や

忘年会が行われ、

 

A社長と私は

静かに、

彼らの成長ぶりと

組織の成長ぶりを

味わった。

 

そして、

二次会まですべてが

終わり、

その後、二人で

バーで飲んでいる。

 

ここ数年は、

いつもこうやって

二人で一年を

しんみりと振り返る。

 

ふと。

 

A社長が

呟いた。

 

たけうちさん、

我々はさぁ・・・、

 

まだ何も

成してないよな。

 

まだ

なんにも

やれてないよな・・・。

 

目の前の

ウィスキーの

茶色の輝きが

その言葉と共に、

しんみりと私の胸に

沁み渡った。

 

まだ

何も

成してないよな。

 

もう一度私は

心の中で

反芻した。

 

すると、

心と体の中の

すべてが、

シンと

静かになった。

 

そうだな。

 

私はまだ

何も成してないし、

 

まだ

何もやってない。

 

ただその

「事実」だけが、

あるがままに

そのままに

「ここ」に

屹立し、

 

その「事実」を

ただただ

私達は静かに

見つめていた。

 

なぜだろう。

 

私はとても

心が満たされた。

 

なぜだろう。

 

とても

嬉しくなってきた。

 

静かに

何かが

悦んでいる。

 

すべては、

ここからだな。

 

すべては

こっからだな。

 

と、

心の内で

さらに呟きながら、

私は、

 

何も成せていない

自分を

 

味わった。

 

そう。

 

ちょっと時間を

置いて、

今はよくわかる。

 

これは

私が

私の仲間全員で共有したい

メッセージだ。

 

いや、

人類全体で

共有したいメッセージだ。

 

我々は

まだ

何も成せていない。

すべては

ここからだ。

 

つづく

 

重要な問いがあるはずだ

 

私達には全員、

必ず、

 

人生を終える

瞬間が来る。

 

その時に、

「あぁ、いい人生だった」

と思いたい。

 

・・・という願いを

持っている人は

多い。

 

それは

尊い願いだと

思う。

 

私はこの願いを

二十歳前後の時に

持った。

 

しかし、

あるカリスマ経営者に

その話をしたら、

 

「そんなのは

願いではない」

 

と一笑された。

 

「願いとは

もっと具体的な

ものだ」

と。

 

「人生の目的は

もっと具体的な

ものだ」

と。

 

彼の言いたいことは

今はよくわかる。

 

「いい人生だった」

と最期に言える

ためには、

 

具体的な目的を

持ち、

具体的な行動を

起こすこと。

 

それなくして

「いい人生だった」

と、心から言える満足感は

得られないように

人間はできている、

と。

 

そう。

 

私達は

「具体化」

を望んでいる。

 

具体化とは

「カタチ」だ。

 

『願いをカタチにする』

 

こと。

 

これが人生だと

思う。

 

20代前半に

私は彼からの

アドバイスを受けて

ラッキーだったと

思っている。

 

彼の言葉を

聴いた瞬間に私は

旅に出ることを

決めた。

 

当時の私は

彼に対して

「見とれよ!」

という憤慨の気持ちで

いっぱいになったが、

 

それもまた

彼の意図した

ものだったのだろう。

 

おかげで私は

人生の逸脱を

始めることができ、

それは

今日まで続いている。

 

何のために

生きるか?

 

具体的な目的は

何か?

 

そのために

今日は何をするか?

 

新たに

何を始めるか?

 

・・・常に

私の中には上記の

「問い」がある。

 

毎日、

この問いと

向き合い続けた

この約30年だった。

 

あなたにも

あなたの中に

重要な問いが

存在しているはずだ。

 

それをまずは

見つけてほしい。

 

そしてその問いと

毎日毎日

欠かさずに

向き合い続けて

ほしい。

 

答えはすぐに

出なくてもいい。

 

とりあえずの

答えになっても

いい。

 

とにかく

毎日、新鮮な気持ちで

その問いと

向き合い続けて

ほしい。

 

これもまた

セルフコーチングの

基本の一つだ。

 

つづく

 

どう起きる?

 

朝、目覚めた時、

あなたは

どう起きる?

 

私はね、

まずは必ず自分に

問うんだ。

 

「今すぐに

起きる?」

 

って。

 

「すぐ起きる」

と返ってきたら、

すぐに布団を

出る。

 

でも多くの場合、

「もう少しこのままで

いる」

と返ってくる。

 

その場合、

私はそのまま

布団の中にいる。

 

そうするとたまに

二度寝してしまう

こともあるが、

それでも

構わない。

 

で、

ちょっと時間が

経った時に、

また同じことを

問う。

 

「どうする?

もう起きるか?」

と。

 

これを

繰り返す。

 

何度か繰り返す

うちに、

 

「うん、いいよ。

すぐ起きよう」

 

という返事が

返ってくる。

 

その瞬間に

バッと

布団を跳ね除けるんだ。

 

すると、

実に気持ちよく

起き上がれる。

 

そのままの勢いで

一日を始められる。

 

実に

気持ちよく、

しかも

スムーズだ。

 

一日の始まりが

気持ちよいと、

一日すべてが

気持ちよくなる。

 

これも

セルフコーチング法の

一つだよ。

 

つづく

 

その混乱は調和だ

 

進まないことにより

起こる混乱と、

 

進むからこそ

起こる混乱は、

 

表面上は同じような

「混乱」でも、

本質はまったく

異なるものだ。

 

前者は

正真正銘の混乱。

不調和による

混乱。

 

しかし後者は

一見、混乱に見えるが

実はそうではなく、

それも「調和」の

一種だ。

 

要するに

「混乱のような調和」

だ。

 

「不調和の調和」

という言い方も

できる。

 

・・・・・・

 

「不調和の調和」

は、

人生が進むという意味では、

非常に良い兆しだ。

 

どれだけ

激しい混乱でも

堂々と進めばいい。

 

混乱が起きているから

自分の進み方が

間違っているのでは

ないか?

という疑問を持つ

必要はない。

 

むしろ、

混乱を楽しもう。

 

まぁ、「楽しもう」と

言っても、

そんな余裕はないとは

思うが。

 

でも、

よ〜く混乱を

あるがままに観察して、

そして

味わってみよう。

 

混乱している

自分の心も、

無理に改善しようと

せずに、

そのまま味わって

みよう。

 

「あーオレ、

すごく混乱してるなぁ」

とね。

 

「不調和の調和」

の場合は、

どれだけ混乱しても

足元はしっかりと

しているので、

これができるはずだ。

 

・・・・・・

 

慣れてこれば、

「不調和の調和」は

人生の

スパイスとなる。

 

そしてさらに

未知の道を進もうと

する

意欲に変換される。

 

「不調和の調和」を

楽しめる人は、

実際にお会いして

向き合うと、

 

常に

静かだ。

 

とても穏やかな目を

しており、

根底の安定感が

独特の空気を

醸し出している。

 

そういった人と

一緒にいると、

 

表面上は

「いや〜、たけうちさん、

まいりましたよ」

その人は言うのだが、

 

空気感としては、

「いや〜、たけうちさん

人生は楽しいねー」

言っているようにしか

思えない。

 

そして、

その人の内側に

込められた

現実を切り拓くパワーが

ダイレクトに

こちらに伝わってくる。

 

非常に

心地が良い。

 

そういう人のコーチングは、

コーチである私の方が

癒されたり

エネルギーをいただいたり

する。

 

ということは、

その人は

周りのあらゆる人達に

常に

パワーを与え続けている

ということだ。

 

・・・・・・

 

だから。

 

不調和を恐れずに

進んでほしい。

 

表面上で

上手くいかないことは

あって当たり前。

 

進むからこそ

様々な壁が

前に立ちはだかるが、

 

それらは

すべては結果的には

さらなる調和への

「栄養」

となる。

 

たくさんの「栄養」を

人生に

仕事に

取り込んで行こう。

 

つづく

 

ここを切り拓けるのは

 

人間関係は

面倒かい?

 

ゴタゴタばかり

起こるかい?

 

進もうと思っても

いつも何らかの

邪魔が入るかい?

 

なら、

残念だけど、

 

もっと

一人一人と

より丁寧に

向き合った方がいい。

 

進もうと

思えば思うほど、

 

混乱が起きたり、

齟齬が起きたり、

するのは

当然じゃないか。

 

みんなそれぞれ

違う個性を

持ってるんだから。

 

何も問題が

起きないということは、

 

何もしていない

ということ。

 

真剣に前に進む

からこそ

問題は起こるんだ。

 

これは

しょうがない。

 

みんなの真本音度合いが

高ければ

もっと違う展開に

なるだろうが、

 

現時点では

そういうわけではない。

 

だから、

私達にできるのは、

 

一つ一つ

丁寧に向き合い、

 

一人一人

丁寧に向き合い、

 

そして、

瞬間瞬間を

丁寧に

真本音で決めて行く。

 

これの

連続だ。

 

ここを怠ると、

さらに問題は

深まり、

混乱は

拡大してしまうだろう。

 

この面倒臭さの

中で、

しっかりと

未知の道を

切り拓けるのは、

 

あなたの

真本音しか

ないんだよ。

 

だから

止まろうとするのでは

なく、

 

だからこそ

さらに進もうと

しよう。

 

真本音でね。

 

つづく

 

ここは飛ばして次に行こう

 

心の中に

何か、抵抗のようなもの

を感じるので、

心の中に入って

確認してみると、

 

海が観えた。

 

私は砂浜に立ち、

これから海に

入って行こうとしているのだ。

 

しかし海は

荒れている。

 

だから私は躊躇し、

抵抗している。

 

でも私は

沖に観えるあの島に

行こうとしているようだ。

 

早くあそこへ

行かねば、という

気持ちが湧いてくる。

 

しかし海は波が高く、

正直言って

怖いし、面倒臭い。

 

まぁでも

しょうがないか・・・。

 

と、

意を決した私は

トボトボと海の中に

入った。

 

深くなればなるほど、

波は高く、

私は波に押し戻される。

 

その中を

それでも必死に

私は泳ごうとした。

 

・・・と。

 

何かが私を

ヒョイっとつまんだ。

 

私はまるで

首元をつかまれた

子猫のように、

その「何か」によって

ヒョイっと

島まで運んでもらった。

 

ヒョイっとできる

くらいだから、

その「何か」はかなり

巨大なものだ。

 

びっくりして

振り返ると、

そこには超巨大な

「私」がいた。

 

「私」は

私に向かって

言った。

 

「荒海を渡るのも大事な

ことだが、

今はそこに時間を

費やしている暇はない」

 

その瞬間に

私はその巨大な「私」は

 

私自身の真本音

である、

 

とわかった。

 

「あっそうなの?」

 

と、

私は素っ頓狂に

答えた。

 

真本音は

言った。

 

「それよりもさ、

あっちを見ろよ」

 

指差す方を見ると、

数え切れないくらいの

船が

海に浮かんでいる。

 

大小様々な

船たちだ。

 

皆、荒海の上で

行き場を失っている

ように見えた。

 

しかし

どの船にも

強い意志を感じる。

 

あーそうか、

あの船たちは

ちゃんと自らの行き先を

決めてるんだな、

わかった。

 

「あの船たちと

共に行けよ」

 

と、

真本音は言う。

 

「あの船たちも

私が行けば喜ぶよ。

きっと力になれる」

 

でもどうやって

船まで行けば

いいのだろう?

 

ちょっと迷っていると、

 

「大丈夫。

さっきみたいに

私がつまんで船まで

持ってくよ」

 

と、真本音。

 

「もう、この荒海を

泳ぐ必要はない。

それよりも一刻も早く、

船に乗って

皆と共に進むんだ。

我々を待っている人達が

いる」

 

と。

 

・・・・・・

 

こんな感じだ。

 

こんな感じの人が

増えている。

 

本当は、

一つ一つちゃんと

海を泳いで

進んでいくのが

順当な生き方(行き方)だとは

思うのだが、

 

それではもう

時間がないのだ。

 

それよりも

もっと別なことに

人生の時間を

使わねば

間に合わない。

 

そんな人が

増えている。

 

この状態を

打破するには、

 

自らの真本音に

素直に生きること。

 

自らの

真本音度合いを

一気に高めること。

 

・・・だ。

 

私はそういった人達の

そういったサポートに、

できるだけ集中したい

と思っている。

 

つづく

 

あなたも逸脱するか

 

人ってやっぱり、

 

自分の成長を

自分が実感

しているとき、

 

・・・が一番幸せ

なのではないか、と

よく思う。

 

それは

子どもも大人も

変わらない。

 

真の成長は、

明らかに

周りに影響を与える。

 

その波及効果は

凄まじく、

 

その人は

自分自身の成長を

通じて、

周りのすべての人の

成長を喚起する。

 

そして、

自分も周りも

根こそぎ

成長させていく。

 

今、

「させていく」

という表現をあえて

使ったが、

 

そんなクライアントさん

が増えてきた。

 

「共に成長しよう」

ではないのだ。

 

ある意味、

強引にでも

「成長させてしまう」

のだ。

 

それくらいの

「スピード」を

今、望んでいる人が

増えているということだ。

 

これは一見、

不自然なことをしているように

思えるかもしれないが、

 

実はこれこそが

今の潮流。

 

自然の潮流だ。

 

今、私達共通の

真本音の想いは、

 

「これまでの

延長線上にはない

逸脱した成長」

 

だからだ。

 

逸脱した成長を

望む人達を

これまで私は

「変態」と呼んできたが、

 

ひょっとすると

これからはもう

その「変態」が

普通になるかもしれない。

 

それくらいに

そういった人達は

急増している。

 

世の中は

やっぱり

根こそぎ変わろうと

しているのだ。

 

今日、

ある経営者のコーチングを

していたのだが、

彼がとても

面白いことを言われていた。

 

「この地球とは、

70億人の異星人が

集まってきている星

ではないか」

 

と。

そして、

 

「私は、70億人の

異星人達が、

そのまま、

異星人のままでいられる

世界にしたい。

どうせビジネスを展開

するならば、

そこに貢献できる

ビジネスにしたい」

 

と。

 

70億の異星人が

調和する世界へ。

 

なんか、

楽しそうだな。

 

つづく

 

世界の自律のために

 

人には、

その人にしか

出せない

空気感

がある。

 

その空気感は

その人独自の

「世界」

を創る。

 

本来の自分の

「世界」を

創り出すことの

できた人は、

 

自分とは別の

「世界」を

既に創り出している

人達と、

 

共鳴し合う。

 

一人一人の

「世界」は

異なる。

 

決して一つとして

同じものはない。

 

違うのが

当たり前。

 

だからこそ、

共鳴し合える。

 

共鳴し合った

「世界」と「世界」は

 

時には

接着し、

 

時には

統合し、

 

時には

融合し、

 

時には

分離し、

 

そして

時には

同じ渦を

巻き起こしながら、

 

相乗効果の波を

波及させる。

 

その結果として、

たった一つの「世界」

だけでは決して

生まれなかった

何かを

 

この世に

生み出す。

「カタチ」」として。

 

その「カタチ」が

さらにまた次の

「世界」を

創り出す。

 

・・・・・・

 

「世界」を創り出せる

状態のことを

私は

 

「自律」

 

と呼んでいる。

 

つまりは、

自律した人のみが

自らの「世界」を

創り出せる。

 

自律できていない人は

残念ながら

「世界」とはならず、

 

したがって

相乗効果も

ない。

 

新たなものを

生み出すことも

できず、

 

どちらかと言えば、

生み出すよりも

奪い合う

関わりになりがちだ。

 

だから

組織においては

私はまずは何よりも、

 

いかに自律した人を

一人でも多く

増やすか?

 

を大切にしている。

 

「世界」と「世界」が

共鳴し合いながら

相乗効果を発揮する

状態のことを

私は

 

「調和」

 

と呼んでいる。

 

「調和」とは

「進化」と

同義語だ。

 

自律した人が

増えることで、

その組織は

調和していく。

 

進化していく。

 

組織を

社会と言い換えても

まったく同じである。

 

・・・・・・

 

自律調和した

社会にしたい。

 

これが私の

願いだ。

 

今。

 

若いのに既に

自律している

人達が増えている。

 

つまりは

「世界」をすでに

創り出している

若い人達が

増えている。

 

ちょっと極端に

言えば、

 

子どもでも

幼児でも

赤ちゃんでも

 

すでに

自律している子が

増えている。

 

なんだ

この子は。

 

すでに

「世界」を

持ってるよ。

 

感嘆する。

 

しかし残念ながら、

大人達が

それに気づかず、

 

子どもであるが

故に、

若いが故に、

 

未熟である

 

と勝手に

レッテルを貼り、

 

せっかくの「世界」を

壊しにかかる。

 

「世界」が壊れる

ことは、

この世の大いなる

損失だ。

 

私はそれを

どうにか

止めたい。

 

だから、

若い人達のサポートを

これから

増やしていく。

 

と同時に

大人達の

自律サポートも

増やしていく。

 

でも到底、

私一人では

無理だ。

 

だから、

仲間がいるし、

 

後継者も

必要だ。

 

後継者と言っても、

たけうち流に

なる必要もないし、

 

私と同じことを

する必要もない。

 

ただ、

本質を

後継したい。

 

本質とは、

 

真本音で生きるとは

どういうことか?

 

ということだ。

 

そして、

 

そんな人達を

増やすには

どうサポートすればよいか?

 

ということだ。

 

先日、

私の仕事仲間の

一人が、

 

私のやっていることを

「学問にしたい」

と言ってくれた。

 

学問にすることで

私がいなくなっても

本質につながる

カタチが残る。

 

それを何とか

実現したい、と

言ってくれた。

 

ありがたい。

 

そういったことも

含めて、

 

あと残された

人生の時間で、

 

自分が何を

すべきか?

何を

残すべきか?

 

について

私はもっともっと

探求をしていきたい。

 

そのためにも

「仲間」をさらに

増やしていきたいな。

 

つづく

 

未知へ

 

これまでに

経験したことのない

新たな一歩を

踏みしめる時、

 

私達には

独特の不安と共に、

独特の悦びが

発生する。

 

一歩、一歩、と

「未知」に進むその

感触を、

まるで自分自身に

刻むように

味わっている。

 

この悦びを、

一人でもたくさんの

人達が

体験できるといいなぁ

と、

最近は毎日のように

思っている。

 

時代は

変わった。

 

以前、このような

選択をしたら

上手くいかず、

こうしたら逆に

上手くいった。

だからこれからも

こうしよう。

 

・・・という経験が

まったく役に

立たないのだ。

 

以前の経験は

あくまでも

「反応本音の時代」

における

経験。

 

しかし今はもう

「真本音の時代」

に入っている。

 

しかもその

時代の潮流に、

世の中全体の土台が

馴染んできた。

 

これまでの

経験則に縛られない

本当に自由な

選択こそが

必要で、

 

それができている時、

私達は

独特の悦びを

得ることができる。

 

人はやはり、

 

人の本質は

やはり、

 

「未知」に

向かうことなのだ。

 

それが

自然体なのだ。

 

つくづくわかる。

 

さぁ、

「未知」へ

行こう。

 

その道のりの

中でこそ、

本当の

安定と安寧は

存在する。

 

進むからこそ

力は

生まれ、

 

未知の道での

未知の力に

包まれることで、

私達は

満たされ

安心する。

 

その、

人間としての

本来(本能)

大事にしようでは

ないか。

 

つづく

 

もっと軽やかに

 

流れるならば、

もっと自由に

流れて行こう。

 

もっと

軽やかに

流れて行こう。

 

私達の目は

常に前に

向かうように

できている。

 

目は、

前にはついているが、

頭の後ろには

ついていない。

 

時々振り返ることは

大事だけど、

でも基本は

前、だ。

 

時間は

何がどうあっても

未来に向けて

流れ続けている。

 

どうあっても

私達は

未来に向かっている。

 

ならばもっと

自由に行こう。

 

軽やかに

行こう。

 

・・・・・・

 

ちゃんと

流れに委ね、

ちゃんと

スピードを上げて

行くと、

 

私達の内側は

どんどん

静かになっていく。

 

エネルギーは

高まるのだが、

 

高まれば

高まるほど

静かになっていく。

 

静かな目で

すべてを

あるがままに

俯瞰できるようになる。

 

自分が今

どこにいて、

 

まずはどこに

たどり着くために

 

何をすれば

いいか?

 

それがありありと

わかるように

なる。

 

すると、

とても集中力が

増してくる。

 

そう。

 

軽やかに

流れに身を任すと、

 

結果として

集中力が

増してくるんだ。

 

一点集中。

 

「今ここ」

だからこそ

魂を込める一点。

 

そこに

エネルギーを

注げばいい。

 

「流れに委ねる」

とは

「エネルギーを込める」

こと。

 

この二つは

一見、真逆なことに

思えるが、

実は、本質的には

同義語だ。

 

・・・・・・

 

未来は

明るい。

 

しかし、

未来が明るいから

進むのではなく、

 

私達が進むことで

未来を

明るくするんだ。

 

つづく

 

二つの試行錯誤

 

人生とは

試行錯誤の連続

だ。

 

試行錯誤が

あるからこそ、

大切な何かを

見つけられ、

 

その「何か」が

次のステージへの

ヒントとなる。

 

だから

思う存分に

試行錯誤をすればいい

と思うのだが、

 

しかし中には、

必要のない試行錯誤を

続けている人もいる。

 

ちょっとキツい言い方

をすれば、

 

自己満足の試行錯誤

 

ということに

なるだろうか。

 

本当はもう

先に進める自分に

なれているし、

 

どんどん道を

進み、

次のステージに入る

準備もできているのに、

 

試行錯誤を

するのだ。

 

試行錯誤を

繰り返すことで

先に進むことを

避けている。

 

つまりは

現実逃避のための

試行錯誤だ。

 

多くの場合は、

当の本人は

それを無意識に

やってしまっている。

 

自己満足を

している人や

現実逃避を

している人は、

 

残念ながら

本人には自覚が

ない。

場合が多い。

 

そんな人から、

必要のない試行錯誤に

ついての相談を

いただくと、

だいぶ困ってしまう。

 

答えようが

ないのだ。

 

何をどう答えても、

それは

自己満足の試行錯誤を

助長していることに

なるからだ。

 

だから本当は、

 

「あなたは今、

自己満足の試行錯誤を

していますよ」

 

と、ちゃんと

お伝えしたいのだが、

 

がしかし、

そういう人ほど

心がとても弱っている。

 

現実逃避って

キツいから。

当の本人が。

 

しかも、

心の奥底で

現実逃避をしている自分を

責め続けるものだから、

さらに心が

弱っていく。

 

そんな弱っている人に

到底、

上記のフィードバックは

できない。

 

もしそれをしたら

心が潰れてしまうだろう。

 

だから結局は、

見守るしかなくなる。

 

・・・・・・

 

一方で、

今、

最速で進む人が

増えている。

 

その人達は

ガンガンと

激しい試行錯誤を

始めている。

 

そこに躊躇は

ない。

 

未開の地に

平気で突き進む。

 

いや、本当は

平気ではないはずだが、

 

勇気を持つとか、

そんなレベルではない

覚悟で、

 

突き進む。

 

しかも当の本人は

とてつもなく

楽しそうだ。

 

自己満足の試行錯誤

は、

その人自身を

疲弊させ続け、

最後には

歩く力も立つ気力も

失われていく。

 

しかし、

本当に必要な試行錯誤は

その人自身に

次々に新たな力と

新たなエネルギーを

与え続ける。

そして

その人は

次元を飛び越えて

行く。

 

二つの

試行錯誤。

 

同じ試行錯誤であるが、

本質が真逆の

試行錯誤。

 

それが今、

あちらこちらで

渦巻いている。

 

試行錯誤の

時代だな。

 

つづく

 

出口だな

 

風が

吹いて来たな。

 

だいぶ

心地のよい

風だ。

 

う〜む

なるほど。

 

ここまで

気持ちいいもの

だとは。

 

皆、

がんばったな。

 

もちろん、

がんばるフリをして

何もしていない人は

いるけど。

 

でも、

本当によく

がんばった人は

多い。

 

がんばる、

と一口に言っても、

通常のがんばり

ではない。

 

それはもう

際限なく勇気の

要ることだった。

 

でももう

そろそろ

出口だ。

 

出口から

吹き込む風が

こんなにも

強い。

 

・・・・・・

 

人がステージを

変える時、

 

必ず起こるのは

 

混乱

 

だ。

 

その混乱に

真っ向から

立ち向かうか

どうか?

 

これで

出口に近づくか

どうかが

決まる。

 

残念ながら

逃げちゃった人は

もう一度

やり直し。

 

双六ゲームじゃ

ないけど、

もう一度

スタート地点から

やり直しだ。

 

それもまた

人生だ。

 

・・・・・・

 

出口は

風が強い。

 

突風のように

吹いてくる。

 

最後まで

気を抜かずに

足元をしっかり

踏ん張って、

 

一歩ずつ

着実に

進んで行こう。

 

ここからは

特に

一歩一歩を

確かめるように。

 

その着実さが

結果的には

最速を生む。

 

ここまで来たら、

ちゃんと出口を

見つめよう。

 

見続けよう。

 

あの一点を

目指せば

良いのだから。

 

つづく

 

ちょっと、から始めよう

 

家の書斎にいて、

ふと

気配がしたので

振り返ると、

後ろの壁に

小さな蜘蛛がいた。

 

蜘蛛は何かを

言いたげだったので

意識を向けると、

 

「ちょっと無理

し過ぎだよ」

 

とのメッセージ。

 

あーまたか、

反省。

 

無理をし過ぎると

よく

蜘蛛くんが

教えてくれる。

 

・・・こんなことを

書いていると

この人、大丈夫か?

と思われるかも

しれないが、

(もう充分、思われている

フシもあるが・・・)

 

もちろんこれも

セルフコーチングの

一つである。

 

今日ふと

思ったのだが、

 

私は世の中の

あらゆるものと

常に

コミュニケーションを

とっている気がする。

 

極端に言えば、

空気の分子とも

会話をしている

気がする。

 

もちろん、

意識的なこともあれば

無意識にやっている

こともある。

 

でもこれって、

実は

私だけではなく、

人間は誰でも

していることなのでは

ないか。

(違う?)

 

私達は、

ありとあらゆるものと

コミュニケートし合いながら

生きている。

 

それが

人間というものでは

ないか。

 

いや、人間だけでは

ない。

 

それが

「存在」というものでは

ないか。

 

・・・・・・

 

人生を変えるには、

コミュニケーションの

やり方を

変えればいい。

 

と、

単純に思う。

 

まずは

自分自身との

コミュニケーションの

やり方。

 

そして、

目の前の一人の人との

コミュニケーションの

やり方。

 

そして、

複数の人との

コミュニケーションの

やり方。

 

さらに、

人以外の

あらゆる存在との

コミュニケーションの

やり方。

 

この順番で、

自らの本来の

コミュニケーションのやり方

を、思い出せば、

 

人生には

どんどん調和が

広がる。

 

今、

「本来の」と書いたが、

私はこの仕事を

させていただいて

強く思うのだ。

 

その人には

その人本来の

コミュニケーションのやり方

がある、

と。

 

これは言葉を

換えれば、

 

その人には

その人本来の

人生の生き方・進み方

がある、

と同義だ。

 

コミュニケーションの

やり方を

ちゃんと整えていけば、

その人の真本音度合いは

着実に高まる。

 

これが最も

近道ではないか。

 

と、

よく現場で思うのだ。

 

・・・・・・

 

残念ながら

現時点では、

多くの人が、

 

というより、

ほとんどの人が、

 

その人本来の

コミュニケーションの

やり方を

していない。

 

だから、

余分な時に

余分な一言を言い、

 

そのちょっとした

積み重なりが

人生の大きな齟齬

となっていく。

 

ほんのわずかな

一言。

 

ほんのわずかな

振る舞い。

 

ほんのわずかな

空気感。

 

それらによって

人生は

成されていく。

 

逆に言えば、

ちょっと変えれば、

その瞬間から

ちょっとずつ

変わり始める。

 

何事も

その「ちょっと」から

始めるとよい、

 

と、

いつも思う。

 

それができるか

できないか。

 

その違いだけでは

ないか?

人生が幸せになるか

ならないかの

違いは、

 

本当に

毎日のように

思っているんだ。

 

つづく

 

もうすぐだな

 

待っている。

 

私は何かを

待っている。

 

それまでは

動かないと

決めている。

 

こういう時に、

待てる自分に

なれた、

 

というのが、

真本音度合いが

高まったことによる

最大の効果の一つだと、

 

私はよく

思う。

 

少し前に

私はコーチ仲間から

コーチングを受けた。

 

その時に

「たけうちさんにとって

たけうちさんとは

何者か?」

問われた。

 

その瞬間に

浮上してきた答えが、

 

「待つ人」

 

だった。

 

これができるように

なれた意味は、

果てしなく

大きい。

 

むしろ、

昔の私は

これができなかった

が故に、

人生において

様々な不調和や混乱を

招いていたと

今ならわかる。

 

人生は

上手く進めることよりも、

様々なことに

ぶつかりながら、

試行錯誤を繰り返し

ながら、

進んだ方がいい、

私は思っている。

 

だから

上手に物事を進めよう

とは、これっぽっちも

思っていないのだが、

しかし結果的に

いつもほとんどのことが

 

流れるように、

 

まるで

パズルのピースが

気持ちよくハマるように、

 

進んでいく。

 

もちろん

試行錯誤もあるし、

ダメだったなぁ、という

経験も

ある。

 

しかしそれらは

すべて

 

本当に必要な

いい試行錯誤だったな、

 

とか、

 

あそこで

ダメだった、と思えたことが

その後のあの展開を

生んでくれたな、

 

と、

 

後になって

必ず感嘆できる

のだ。

 

あれ以外

なかったな。

 

この展開が

最高だったな。

 

と、

その時その瞬間は

わからなくても、

後で必ず

そう思える。

 

それらを含めて

なかなかに

すげー調和だなぁ、

我ながらよく

感動するのだ。

 

そんな人生に

なれたのも、

その直接的な原因の

最大の一つは

 

待つことが

できるようになった

 

ことにあると

思える。

 

人生にも

仕事にも

 

決断すべき

瞬間

 

というのは

必ず来る。

 

動き始める

瞬間

 

というのは

必ず

わかる。

 

その時その瞬間が

来るまで、

私は

日々、

ひたすらに

待っている。

 

そして

その時その瞬間は

決して

逃さない。

 

余分なことを

し過ぎな人生

 

から、

 

必要なことを

必要な瞬間

のみに

行なう人生

 

への

シフトアップ。

 

私にとっては

真本音度合いが

高まる、とは

そういうこと

だった。

 

そして今。

 

私は、またもや

何かを

待っている。

 

何を待っているのか、

わからない。

 

待った結果として

自分が何を決断するか、

わからない。

 

でも、

じっと意識を集中して、

何かを待っており、

 

そして、

もうすぐ何らかの

決断を下す、

という瞬間が迫っているのは

 

よくわかる。

 

この独特の

緊張感、

 

・・・が実に

気持ちいい。

 

これも今の私にとっては

人生の醍醐味の

一つなんだ。

 

つづく

 

全力の向こうの真剣

 

真剣さ、って

何だろうね。

 

真剣さって、

力を抜くことだと

思うんだよね。

 

力の抜けてない人を

見ると、

あぁまだまだ

真剣じゃないな、

って

よく思うよ。

 

とはいえ、

なかなか本当の意味で

力を抜くところまでは

いかないけどね。

 

力、と言っても

余分な力

という意味で、

 

真剣な人は、

いざという時に

凄まじい力を

一点に

集中できる。

 

それをするためには

通常は

力を抜いていないと

無理。

 

「一点」

に自分のすべてを

込めることの

できる人。

 

それが

真剣な人。

 

そこまでの域には

届いていないと

しても、

そこまでの域を

全力で目指している人は

 

やっぱり

真剣、と言っても

いいかな。

 

もし、

力を抜くことが

どうしてもできない、

 

もしくは

わからない、

という人は、

 

「力を抜こう」とは

思わない方が

いい。

 

むしろ

逆を目指すといい。

 

つまりは、

全力を尽くす。

 

いつも

全力を尽くす。

 

全力を

出し切って

出し切って

出し切って、

 

限界を

超える。

 

限界を超えても

どうにもならない

状態になった時に

 

初めて

体験的に

観えてくるものが

あるし、

 

初めて

フッと力が抜ける

かもしれない。

 

だから。

 

形ばかりの

力を抜く

というのは

やってほしくないな。

 

それは

真剣のマネに

すぎないし、

 

それは

全力にすら

なってないから、

 

ただの手抜き。

 

それじゃあ

残念ながら

道は開かないね。

 

「全力を

打ち込めるものが

ないんです」

 

とは

言わないでね。

 

全力とは

生き方だから。

 

全力を打ち込める

ことに全力になる

のは

むしろ全力じゃない。

 

何にでも

全力で取り組む。

 

それが

全力。

 

やるなら

徹底的に

全力になってほしい。

 

すると

その向こうに

「真剣」

が観えてくるよ。

 

つづく

 

照れながら照らす

 

日が

昇った。

 

明るい。

 

でも、

当の本人である

その太陽は、

 

自分が太陽で

あることに

戸惑っている。

 

間違いなく、

自分は

世界のすべてに

光を注いでいる。

 

間違いなく、

生命に光を

与えている。

 

にも関わらず、

そんなことのできる

自分自身に

戸惑いを

隠せないでいる。

 

戸惑う太陽。

 

そして、

はにかむ太陽。

 

照れながら

すべてを

照らす太陽。

 

可愛らしいなぁ

と思う。

 

応援したいなぁ

と思う。

 

こんなクライアントさん

が、

増えてきた。

 

毎日のコーチングが

楽しくて

しょうがない。

 

つづく

 

無心を手に入れる

 

無心になる、

ということが

昔の私にはとても

難しかった。

 

無心になろうと

しても、

心の中が非常に

騒がしい。

 

いろんな心の声が

ずっと

心の中に

こだまし続けていた。

 

しかもそれが

当たり前の状態

だったので、

 

心を静かにする

とか

無心になる

ということが

どういったことか、が

まったくわかって

いなかった。

 

無心になったつもり

にはなれたが、

それは本当の

無心ではなかった。

 

・・・・・・

 

今の世の中、

そんな人が

とても多い。

 

残念なこと

だと思う。

 

無心になることで

観えてくるものや

気づく答えは

たくさんある。

 

本当は

自分自身の中に

答えがあるにも関わらず、

心の中が

騒がしいが故に

その答えが

わからないのだ。

 

当時の私は

無心になるために

随分と

瞑想をした。

 

瞑想のやり方を

勉強し、

それを毎朝

30分〜1時間くらい

必ず行なった。

 

そんな日々を

5〜6年続けた。

 

一日も

欠かさなかった。

 

でも残念ながら、

無心になったつもり

にしか

なれなかった。

 

それくらいに

私の心は

騒がしかった。

 

・・・・・・

 

心の中を

静かにし、

本当の意味での

無心になるためには、

 

真本音度合いを

高めるしかない。

 

真本音度合いを

高めるためには、

 

自分の本当の

人生の願いと、

 

「今ここ」における

自分の行動を、

 

一致させることだ。

 

一貫性。

 

願いとカタチを

一貫させること。

 

つまり

私達人間は、

 

瞑想するだけでは

ダメなんだ、と

あえて

断言しよう。

 

心を整えて

行動に移す。

 

行動に移せる

自分になれて

初めて、

 

心は静まって

いく。

 

行動のない

静けさは

ない。

 

もっと言えば、

行動の伴わない

心の平安は

 

絶対に

 

ないのだ。

 

だから、

自分の本当の願いに

基づいて

毎日、毎日

行動し続けている人と

向かい合うと、

 

私はいつも

居心地の良い

静けさを感じる。

 

とても

落ち着いてくる。

 

そういった人と

ずっと一緒にいたいなぁ

と思う。

 

だから、

私の推奨する

セルフコーチングとは、

 

行動に結びつける

もの。

 

行動が伴わない

セルフコーチングは

 

まったく

 

意味がないと

思っている。

 

・・・・・・

 

行動が伴って

初めて人は

無心

を手に入れる。

 

そして

無心になることで、

初めて

観えてくる答えが

ある。

 

それは、

自らの人生の願いに

直結する

ヒント達だ。

 

だから、

無心になれる人

は、

人生の願いをも

叶えることができる。

 

この世のすべての

人達が、

そうなれる社会を

目指して、

私は今日も明日も

魂を込めて

仕事を続けよう。

 

つづく

 

滝になってみよう

 

今、

あなたの心の中心に

「滝」

があるとする。

 

イメージを

してみてほしい。

 

その「滝」は

どのようなもの

だろうか?

 

水量は

どうだろうか?

 

落ちる水の

勢いは

どうだろうか?

 

高さは?

 

嶮しさは?

 

音は?

 

滝壺の様子は?

 

・・・どうだろうか。

 

次に今度は

その滝の中に

入り込んでみよう。

 

自分自身が

水と一体化しよう。

 

水となって

落ちて行くとき、

どのような感覚を

得るだろうか?

 

その水の

純度は?

 

濁り具合は?

 

スピードは?

 

落ち方は

スッキリしているか?

 

いろいろなものに

ぶつかりながら

淀みながら

落ちて行くのか?

 

落ちる時間は?

 

長く感じるか?

一瞬に感じるか?

 

滝壺に落ちた後は、

穏やかになるか?

それとも、

どんどん不安定に

なるか?

 

滝壺の水と

なった後に、

自然に湧いてくる

感情は?

 

エネルギーは

満ちてくる?

それとも、

奪われていく?

 

そして。

 

その滝そのもの

その自然そのもの

全体と

一つになった時、

 

あなたは

何を感じる?

 

・・・・・・

 

心の中心の「滝」を

体験した時、

 

自分にとってそれが

居心地の良いものか?

そうではないか?

 

・・・は、

今のあなたの「生き方」

をそのまま

表していている。

 

「生き方」に

正解、不正解、

はない。

 

ただ、

あなた自身にとって

それが

納得いっているかどうか?

あなた自身が

本当に望む生き方が

できているかどうか?

がある。

 

望む生き方が

できている人は、

本来の魅力が

溢れているだろう。

 

結果として

様々な「現実」が

開かれて行く。

 

その逆は、

やはり辛い日々と

なるだろう。

 

「滝」を体験した時、

ここの部分は

気持ちいいけど、

ここは気持ち悪い、

というように、

部分部分によって

印象が異なる場合は、

 

それは一体

何を意味しているのだろう?

 

と、

自己分析してみるといい。

 

例えば、

水と一体化すること自体は

気持ちいいけど、

落ち方が

気持ち悪い、とか。

 

なぜ気持ち悪いの

だろうか?

自分自身に問うて

みるといい。

 

そうか、

スピードが

緩すぎるんだな。

もっと私は

速く進みたいのだな、

・・・などのように

自分自身の

「意志」と「現実」という

視点から

自己分析してみると

いい。

 

「滝」を

イメージするのは、

客観的に自分自身を

捉えるため。

 

いつもとは

ちょっと違った視点で

自分と向き合うのも

セルフコーチングの

一つの形だ。

 

つづく

 

古くなる

 

この世は、

形あるものはすべて

古くなって行く。

 

それぞれが

分離した

「形」

というもので

成り立っていること。

 

そして、

 

時間が

過去から未来へと

一方向にしか

流れないこと。

 

この二つが

私達がいる3次元の

世界における

特徴であるが、

 

その二つの特徴の

象徴とも言える

現象が、

 

「古くなる」

 

ということだ。

 

だからこれは

この世においては

とてつもなく

重要なことだ。

 

「古くなる」

こと自体に

大いなる価値がある

捉えた方がよい。

 

・・・・・・

 

ところが、

古くなることを

私達は

拒絶し過ぎていないか?

 

新しいままで

いることに

執着していないか?

 

日に日に

古くなっていく

という事実を

 

あるがままに

受け入れ、

 

だからこそ

何をしようか?

 

だからこそ

何を目指そうか?

 

だからこそ

どう行こうか?

 

などを

真摯に考えることこそが

私達にとっては

とても重要であると

思うよ。

 

・・・・・・

 

古くなることを

受け入れれば、

 

私達の心は

とても

静かになる。

 

静かな

自然な笑顔に

なれる瞬間が

増えるだろう。

 

どう生きるか?

 

とは

 

どう

古くなるか?

 

という

ことなんだよ。

 

つづく

 

内面と外面を記録しよう

 

全力疾走で

進む人ほど、

 

振り返る時間

 

を大事にすると

いい。

 

特にオススメは

一日の終わりに

日記をつけること。

 

自分自身の

心の内側で

起きたことと、

 

心の外側、

つまりは現実で

起きたこと、

 

その両方を

記録しておく。

 

最速で進んでいる

人ほど、

過去の自分を

忘れやすい。

 

下手をすると

昨日の自分を

忘れたりもする。

 

しかし、

最速で進んでいる

その一歩一歩には

宝物が

ぎっしりと詰まっている。

 

その宝物は

いずれ未来の自分が

活かすことのできる

ヒントになるかも

しれないし、

 

他者の成長に

活かせるかも

しれない。

 

自分の体験を

自分以外の人でも

再現するための

仕組み化の

ヒントになることも。

 

書く、

という行為は

セルフコーチングの

基本だ。

 

書くことで

自分の思考以上の

ものを

掘り起こすことが

できる。

 

セルフコーチング力を

高めるための

最も基本的かつ

地に足のついた方法

は、

 

書く

ことだ。

 

先ほども書いたが、

自分の内面と

外面、

 

両方を書く。

 

両方を書こうとする

ことで、

内面と外面の

つながり

がわかる。

 

両方を書くことで

内面と外面の

一貫性が

より高まる。

 

という

効果もある。

 

全力疾走する

人ほど、

 

必ず、

一日一日を

じっくりと

振り返ってほしい。

 

あなたのその

一日は

一歩は

宝物に溢れて

いるんだよ。

 

つづく

 

始まりの地にて

 

空は真っ暗なのに

なぜか

地上は明るい。

 

私は

砂漠のような場所に

立っている。

 

その砂漠の砂が

真っ白に

輝いている。

 

白砂の輝きと

漆黒の空。

 

何とも言えない

コントラストの中に

私は一人でいる。

 

なぜ

ここにいるのか?

 

ここで

何をすればいいのか?

 

さっぱり

わからない。

 

わからないときは

焦りも出るが、

ジタバタしても

しょうがないのも

よくわかる。

 

だから私は

まぁいいか、

白い砂の上に

仰向けに寝転んだ。

 

大の字になって

黒い空を

見つめる。

 

大地は

あたたかい。

 

・・・・・

 

静かだ。

 

音一つない。

 

何もせずに

寝転んでいると、

自分なのか

自分でないのかが、

よくわからなくなる。

 

存在そのものが

よくわからなくなる。

 

ふと。

 

すべての始まりは

ここだったのかな、

思った。

 

私は何度も

ここに戻り、

「始まり」を

思い出しては、

 

今いる

場所(世界)へ

戻っていく。

 

今いる場所が

冒険の地だと

するならば、

 

じゃあここは

帰る場所なのかな、

とも

思う。

 

・・・・・・

 

さらに

ふと、

思ったのだ。

 

私はこの砂の一粒

なのだな、

と。

 

たった一粒の

この小さな砂は、

同時に

この世界そのものでも

ある。

 

一粒の砂に

すべては内包され、

一粒の砂は

すべての一部と

なる。

 

一部であり

全体である。

 

これが

真理。

 

これを忘れた時、

私達は

すべてを失う方向に

進んで行くのだろう。

 

すべてを

失うか?

 

すべてを

育てるか?

 

その境目に

今の私達は

あるのだろう。

 

・・・・・・

 

うむ。

 

もういいかな。

 

・・・と、

私は立ち上がる。

 

帰ってきて

よかったな、と

思う。

 

さて、

冒険に戻ると

するか。

 

どんな冒険を

するにしても、

 

大事なことを

忘れずに、

 

帰る場所を

忘れずに、

 

進みたい

ものだ。

 

帰る場所が

あるからこそ、

 

私達は

大冒険が

できるんだ。

 

つづく

 

可能性を語る前に

 

人には

無限の可能性が

ある。

 

・・・と

安易に言わないで

ほしいな。

 

それを言うなら、

もっともっと

自分自身のことを

知ってほしい。

 

理解して

ほしい。

 

少なくとも

自分自身と

向き合ってほしい。

 

人と

向き合い続けて

ほしい。

 

それをせずに

「人には無限の

可能性があるのだから」

と言うのは、

 

あまりに

無責任では

ないだろうか?

 

もちろん

無限の可能性は

あると思うよ。

 

でも、

その前に

あなた自身の

苦しみを、

 

あなたは本当に

わかっているの

だろうか?

 

あなた自身が

自分の可能性を

縛り続けている

という事実に

 

あなたは

気づいているだろうか?

 

自分の苦しみに

気づかない

ということは、

 

現実と

向き合っていない

ということでも

ある。

 

現実と

向き合わない人に

無限の可能性は

発揮されるのだろうか?

 

人は

深いよ。

 

本当に

深い。

 

人のことを

自分のことを

理解すればするほど

 

わからなく

なる。

 

自分を探求すれば

するほど、

より

わからないことが

増えてくる。

 

だから

本当に現実と、自分に

向き合っている人からは

傲慢な気持ちは

抜けていく。

 

自分のことは

自分が一番よく

わかっている。

 

とか、

 

あなたのことは

私が一番よく

わかっている。

 

とか、

 

そんな傲慢なことは

言えなくなるよ。

 

人には

永遠の深さが

あるからね。

 

その深さは

畏れをも

伴うものだ。

 

だから

本当に自分と

向き合うことは

怖いだろう。

 

でもその怖さを

乗り越えて

真摯に自分を、

 

そして人を、

 

見つめる人こそが

初めて

少しずつ

人間の持つ可能性の

凄さを

実感し始めるのでは

ないだろうか。

 

だから、

軽々しく

喋るな。

 

喋っている時間が

あれば、

 

本当にすべきことに

集中したら

どうだろうか。

 

あなたの動きを、

 

真摯な動きを、

 

待っている人は

たくさん

いるのだから。

 

つづく

 

今は待てばいい

 

もし、

心の中のエネルギーが

すべて

奪われてしまったな、

 

と思ったら、

 

それは

新たな自分を

発見できるチャンスだ。

 

エネルギーが

ゼロ。

 

生きること自体の

気力が

湧かない。

 

もしそこまで

行ってしまったら、

 

大チャンスだ

 

思えばいい。

 

とはいえそれは、

無理に前向きに

捉えなさい

という話ではない。

 

無理は

必要ない。

 

ただ、

大チャンスだという

認識だけ

すればいい。

 

あとは

待つだけ。

 

エネルギーが

ゼロだから、

毎日は本当に

辛いだろうが、

 

ただ、

その時を

待とう。

 

大事なのは、

ここできちんと

待てるかどうか、

だ。

 

残念ながら

ここで何割かの人は

待てなくなる。

 

エネルギーのない

自分を自分で

責めたり、

 

無理に

エネルギーを高める

ことをしてしまう。

 

それにより、

自分の真本音の道

から

外れてしまう人を

私は何人か

見てきた。

 

辛いことは

辛いままでいい。

 

今の自分の

ままでいい。

 

ただ、

待つこと。

 

たとえ

エネルギーがゼロ

だとしても、

 

目の前の

一つ一つの日常に

しっかりと

向かうこと。

 

辛いままで

向かうこと。

 

マイナス思考の

ままでいいから

現実と向き合うこと。

 

あとは

待つこと。

 

これを

やり切ろう。

 

そして

次の段階へ

進もう。

 

つづく

 

何とかしなければ

 

樹が

燃えている。

 

青い炎で

燃えている。

 

樹は

何かを叫んで

いるようだ。

 

訴えて

いるようだ。

 

それに耳を

傾けてみる。

 

それは、

呻くような声。

 

「私を

ここから

出してくれ」

 

苦しみを伴って

伝わってくる。

 

どうすれば

いい?

 

私に何が

できる?

 

そう問うが、

 

樹はそれには

答えず、

ただ

 

「出してくれ」

 

を繰り返す。

 

私は

樹の周りを

観察した。

 

幹の表面が

青く燃えている

のだが、

 

ただ燃えている

だけで、

樹そのものには

何の変化もない。

 

そこで

気づいた。

 

その樹は

樹ではない。

 

樹だと思ったのは

私の解釈に

過ぎない。

 

これは一種の

牢屋のような

もの。

 

この樹の形のような

牢屋に

何かが

閉じ込められている

のだと。

 

私は

私のエネルギーを

思いっきり

樹にぶつけた。

 

眩い黄色の

光となって

爆発が起こる。

 

樹に

穴が空いた

ようだ。

 

穴の中に

私は入って行く。

 

中は

何もない、

ように見える。

 

しかし注意深く

探索する。

 

すると、

何かが逃げようと

していた。

 

とても小さな

何か、だ。

 

私は急いで

それを追い、

 

手で

捕まえた。

 

小指の先ほどの

小さな小さな

もの。

 

それは

怯えているように

感じた。

 

その小さなものに

語りかける。

 

君は

何だ?

 

その小さなもの

は、

自信なさげに

消え入りそうな声で

答えた。

 

「私は、ヒントです」

 

ヒント?

 

「はい。

この人が

本来の自分に戻る

ためのヒントです」

 

じゃあなぜ

こんなにも小さく、

しかも

逃げようとする?

 

「この人が

本来の自分に戻る

意思がないからです」

 

この牢屋

みたいなのは?

 

「これもこの人の

意思です。

私を閉じ込めて、

ちゃんと自分の

手元に置いておこうと

する。

でも、私を見ようとは

しない。

私は弱っていきます。

もうこんなにも

小さい。

私は消えそうです。

私が消えたら、もう、

この人は

本来の自分には

戻れないでしょう」

 

なるほど。

そういうことか。

 

私は

私の意識を

「現実」

に戻した。

 

私の目の前には

「ヒント」君が呼んでいた

 

「この人」

 

がいる。

 

私のクライアントさん

だ。

 

「この人」は

現時点では

本来の自分に戻る

意思はないようだ。

 

「ヒント」君ももう

消えてしまう。

 

さぁどうしようか?

何とか

しなければ。

 

・・・最近、

この手のコーチングが

多過ぎる。

 

つづく

 

本当の組織を生み出そう

 

組織にも

真本音は発生する。

 

それはまさしく

「発生」だ。

 

個人であれば、

真本音は

生まれた時から

存在している。

 

しかし組織の場合は

そうではない。

 

組織を構成する

人達が、

組織に魂を

宿すのだ。

 

すると

変な言い方だが、

人から組織が

自立する。

 

ある瞬間から

組織そのものに

魂の意思や願いが

芽生える。

 

それが

組織の真本音

だ。

 

・・・・・・

 

組織のサポートを

させていただいていると、

 

あっ、もうすぐこの組織に

真本音が生まれるな。

 

・・・というのが

ありありとわかる。

 

その時の空気感は

独特のものだ。

 

ただし、そこで

本当に無事に

真本音が生まれるか

どうかは、

わからない。

 

生まれそうで

生まれない

という組織も多い。

 

そこには

大きな段差が

あり、

 

いわゆる

組織としての脱皮

が必要だ。

 

実は私は

そのサポートを

させていただくのが

一番楽しい。

 

まるで生命が

生まれる瞬間のような

感動を

得られるからだ。

 

・・・・・・

 

組織が真本音を

持つと、

 

組織はその真本音に

基づいて

成長(進化)しようと

し始める。

 

経営者がどのような

意思を持つか

とはまた別次元で、

 

組織が組織の

意思と願いを

持つのだ。

 

その組織は、

自らの社会的使命、

社会的役割を

果たそうとし始める。

 

それをちゃんと

キャッチできるかどうか?

が、

その組織が

持続的な成長を

続けられるかどうかの

境目となる。

 

ところが。

 

組織自身のその

真本音と、

 

組織を構成する

経営者や社員さん達の

意思に、

 

ギャップが生まれる

ケースも多い。

 

多くの場合は、

組織そのものが

望む進化のスピードに、

経営者や社員さん達が

ついて行けなく

なるのだ。

 

組織の進化に

人の進化が

追いついて行けない、

ということ。

 

その歪みによって

ストレスを抱えて

しまっている組織も

多い。

 

しかし逆に、

組織そのものの真本音

と、

経営者や社員さん達の

真本音が、

 

見事に調和、融合

している組織も

ある。

 

こういった組織は、

皆が

幸せだ。

 

社員さん達は

自らが主役となっている。

 

自らの人生を

良くすることと、

組織の成長や

働きがいが

一致してくるのだ。

 

あまり年齢で

区別をつけるのは

好きではないが、

 

でもやはり傾向として、

若い人達の会社に

そういった会社は

増えている気がする。

 

そんな会社が

増えるのは、

それ自体が

社会貢献だなと

私は思う。

 

・・・・・・

 

組織は

創業者のもの、

ではない。

 

経営者のもの、

でもない。

 

組織は

組織である。

 

社会に生まれた

一つの「存在」

である。

 

意思や願いを持つ

「存在」

である。

 

と、

最近私は強く

感じるようになった。

 

皆で

ここに「存在」している

組織を

大切に育む。

まるで、

子育てのように。

 

一人一人が

自らが所属している組織に

そんな愛着を

自然に

持てるようになるといいな、

強く思うね。

 

つづく

 

もっととことん考えよう

 

真の発想は

すべての発想を

出し切った後に

 

初めて

現れる。

 

これ以上、

もう発想は

出ません。

 

・・・と

あきらめたところ

からが、

真の発想を掘り起こす

スタートだ。

 

自分自身が

空っぽに

なってしまった後、

 

空虚に

なってしまった後、

 

無力感を

本当に感じてしまった

その後に、

 

真の発想は

浮上し始める。

 

だから、

 

変な言い方だが、

 

あきらめるところ

まで

あきらめずに

がんばろう。

 

もちろん

あきらめたふり

ではダメだ。

 

本気で

もうダメ、と

あきらめないと

いけない。

 

そこまで

徹底的に

考えるんだ。

 

徹底的にね。

 

・・・・・・

 

ちなみに、

こういった

徹底的な発想を

繰り返すと、

 

ある力を

手に入れられる。

 

それは、

 

意図的に

そして瞬時に、

真の発想を

掘り起こすことの

できる力だ。

 

一言で言えば、

直観力。

 

単なる思いつきレベル

のひらめきではなく、

100%の確信を

もたらしてくれる

直観力だ。

 

私の推奨する

セルフコーチングとは、

 

この力を

発揮できるようにすることが、

一つの目的だ。

 

しかしそのためには、

最初の段階として、

 

あきらめるところまで

あきらめずに

考え抜く、

 

ということを

がんばってやって

ほしいんだ。

 

ちなみに、

 

経営者の多くは、

会社経営を通じて

もう、

常にこれをやり続けている。

 

だからこそ、

私がセルフコーチングの

手法をお伝えすると、

 

あっという間に

真の答えを掘り起こす

力が漲る。

 

やっぱり、

現実と向き合い

続けている人は、

底力が違うね。

 

つづく

 

自信は、ないなぁ

 

自信とは、

経験を積むことで

生まれるものだろう。

 

しかし私の場合、

どれだけ経験を

積んでも、

 

いまだに

本当の意味で

自信を持ったことは

一度もないのでは

ないか。

 

過信は

何度もあるが。(苦笑)

 

いつまで経っても

なんでこんなに

自信がないのだろう?

不思議に思う。

 

でも今は、

これが私の個性

なのだと

思っている。

 

そう。

 

自信を持てるか

どうかは、

その人の個性

だと思うのだ。

 

・・・・・・

 

恐らく

私の場合は、

 

自信を持たない

方が、

最大速で進める、

 

私自身が真本音で

わかっているの

だろう。

 

最大速で

進むために

自信を持たない。

 

そう

決めているの

だろうな。

 

かと言って

謙虚なわけでも

ない。

 

自信がない

のと

謙虚である

のとは

私の場合、だいぶ

違う。

 

謙虚であるか

どうか?は

時と場合だ。

 

しかし

自信がないのは

永遠に、

なのだ。

私の場合。

 

・・・・・・

 

これまで、

自信がないことで

随分と

助かってきた。

 

自信があるか

ないか?

という判断基準を

手放すことができた

からだ。

 

この判断基準で

物事を進めていたと

したら、

私のようなヘナチョコ人間は

一歩も人生を

進ませることは

できなかっただろう。

 

むしろ、

この判断基準を

手放したことで、

私は常に

自信の持てない方に

人生の舵を

切り続けていたような

気もする。

 

だから、

自信があることをして、

自身のないことは

しない、

というのが、

今の私にはよくわからない。

 

昔はそんな時期も

あったけど。

 

・・・・・・

 

自信をつける

必要のない人生は、

 

楽だ。

 

自信があるかどうか?

という

判断基準の要らない

人生は、

本当に楽。

 

自分の

願いにだけ

意識を向ければいい。

 

もしくは、

自分の直観に

素直になればいい。

 

いつも自信がない、

という状態にも

すぐに慣れるし。

 

だから

自信を理由に

止まっている人を

見ると、

ちょっと勿体無いなぁ、

よく思う。

 

きっと私は

自信を持ってしまったら、

その場所に

安住してしまうのだろうな、

という気もする。

 

そう思うと、

自信を持てない自分で

よかったなぁ、と

 

いつも思うんだ。

 

つづく