2020年 2月 の投稿一覧

痛いものは痛い

 

全身が

引き裂かれるような

感覚だ。

 

とても

生きていられる

状態とは思えない。

 

しかし

目の前のその人は

生きて、

しかも笑っている。

 

なんという

鈍感。

 

・・・・・・

 

私は、

目の前の人の

抱えているストレスを

そのままに感じ取るという

身体的な特徴を

持っている。

 

先天的に持っている

のではなく、

コーチという仕事を

続けるうちに、

自然に養われてきた。

 

受け取ったその感覚と

向き合うことで、

その人へのサポートの

大きな指針となった。

 

ストレスは、

大きければ大きいほど、

その本人は

気づいていないという

傾向は確かに高い。

 

麻痺させなければ

立っていられない

からだろう。

 

下手をすれば

心がおかしくなって

しまう。

 

身体に大きな負傷を

した時に感覚が麻痺し、

小さなすり傷の方に

痛みを感じる、

というのと同じなのだろう。

 

自己防衛の

一つかもしれない。

 

しかし私はいつも

思うのだ。

 

その鈍感は

本当に危険だ。

 

実際に

命の危険にまで

及んだケースも

いくつかある。

 

私がそのストレスの

大きさに気づかなければ、

いったいこの人は

どうなっていたのだろう、

ヒヤヒヤしたことは

数知れず。

 

我々はもっと

自分自身のことについて

もっと敏感になるべきでは

ないか。

 

といつも思う。

 

・・・・・・

 

苦しいことを

苦しいと感じる。

 

痛いことを

痛いと感じる。

 

これが健康の基本だと

私は思う。

身体も心も。

 

苦しいことを

苦しいと思っては

ならない。

そんなマイナス指向では

ダメだ。

などとは決して

思ってはならない。

 

苦しいことも

痛いことも

すべてわかった上で、

その上で

進んでいくのが私達人間の

本分だ。

 

痛くても

あえてこのまま進むのか、

それとも

いったん止まって

対策を練るのか。

 

そういったことを

自らきちんと判断しながら

進むことが

自律の基本だろう。

 

自分の痛みから

目を反らすことこそが

現実逃避のスタートである

と私は思うよ。

 

つづく

 

焦ってるね

 

あなたのその

本質的な焦りは

 

宝物だと

思った方がいい。

 

その焦りが

あなたを次のステージへと

駆り立てる。

 

焦りがあるからこそ

生まれるエネルギーも

ある。

 

でも、

せっかく生まれた

そのエネルギーを

 

焦りに任せて

浪費させては

ならないんだよ。

 

そうなってしまう

最大要因は、

 

焦りを消そう、

 

とすることだ。

 

焦りは

愛せばいい。

 

よしよし、と

可愛がればいい。

 

大切に

抱けばいい。

 

常に加速をしようと

強い想いを持っている

あなたには、

 

焦りは

家族みたいな

もんだ。

 

なくなるものでは

ないし、

なくしては

ならない。

 

家族として

共に行けばいい。

 

だから

もっと

焦ろう。

 

しかし、

焦りには

呑まれるな。

 

あなたの手の平に

その焦りを乗せ、

 

巨大なあなた

として、

進んでほしい。

 

つづく

 

もうすぐ出会いだな

 

真本音で

着実に

人生を進めれば、

 

私達は

出会うべき人と

出会える。

 

真本音度合いが

高まれば、

その予感・予兆すら

わかるようになる。

 

そして

最善のタイミングで

出会い、

 

出会ったその瞬間から

その人との間で

エネルギーの循環が

始まる。

 

そして

それまでよりも

さらに

自分の意図を超えた

素敵な展開が始まる。

 

ただし。

 

焦っては

ならない。

 

相手のある

ことだ。

 

独りよがりでは

いけない。

 

私は

自分自身に

戒めていることが

ある。

 

それは、

出会いを

喜び過ぎないこと。

 

私の場合、

あまりに嬉しくて、

ついつい相手を

引っ張ってしまう。

 

自分のペースに

巻き込んでしまう

ことがある。

 

それをしてしまうと

結果的に

回り道になる。

 

相手の

あることだ。

 

嬉しい出会いで

あればあるほど、

 

ゆっくり

じっくりと

自分自身を

オープンにしていこう。

 

とはいえ、

思わずニヤニヤ

してしまうかも。

 

まぁそのくらいは

いいだろう。

 

出会いを楽しむ

のは、

人生の醍醐味の

一つだ。

 

つづく

 

最初から曲がるな

 

まっすぐな道なんて

所詮は歩けない。

 

・・・そう思う前に、

一度、思い切って

歩いてごらんよ、

まっすぐに。

 

そして

行けるところまで

まっすぐ

行っちゃおう。

 

この辺くらいまでなら

行けるかな、

とか

あの辺くらいまでなら

大丈夫かな、

とか、

予測を立てている

暇があったら、

 

一歩でも前に

進んでみようよ、

まっすぐに。

 

もちろん

いろんなところに

限界はあるだろうが、

 

その限界を

自分の思い込みで

決める必要は

これっぽっちもないんだ。

 

どうせまっすぐ

歩けないから、

最初から曲がりくねって

進むんだ、

・・・だと?

 

歩いてもないくせに

勝手に決めんなよ。

 

何もやる前から

妥協すんなよ。

 

妥協しながら進むより、

多少転びながらでも

自分の行きたい道を

堂々と進む方が

 

多少痛くても

全然気持ちがいいよ。

 

勢いで行け、

と言っている

わけじゃない。

 

まっすぐだけど、

その分

丁寧に行くんだ。

 

一歩一歩に

想いを込めて。

 

魂を込めて。

 

地に足がつく

その感触を

充分に噛み締めながら、

 

一歩、また一歩と

進んで行くんだ。

 

そうすれば

行けるもんだよ。

思っているよりは。

 

どうしても

進めなくなったら、

そこでじっくり

考えればいい。

 

そこまでの

一歩一歩が

丁寧であればあるほど、

智慧は生まれるよ。

 

自分の道を

決めるんだ。

 

自分の道を

進むんだ。

 

まっすぐにね。

 

つづく

 

その意図から自由になろう

 

みんな、

「意図」を

持ち過ぎだ。

 

意図を

持つな。

 

と、

あえて断言せねば

ならないほどだ。

 

意図を手放せた時、

初めて観える

ものは

 

あまりに

多過ぎる。

 

意図があるが故に、

その多過ぎることの

一つとして

観えないままでいる。

 

これでは

人生も仕事も

進まない。

 

ただし。

 

意図を手放すためには

「準備」が

必要だ。

 

それは

自分自身の意図と

しっかり向き合うことだ。

 

例えば、

人と会う場合、

 

今回は

どんな目的のために

会うのか?

 

そこでは、

自分は何を本当に

伝えたいのか?

 

何を共に

考え合いたいのか?

語り合いたいのか?

 

何をその場の

ゴールとしたいのか?

 

そしてそのために、

自分はどんな問いを

そこで投げたいのか?

 

それら、自分の「意図」を

本質的にしっかりと

考えることだ。

 

自分の意図を

しっかり考え、

明確にすることで

初めて、

 

意図は手放せる。

 

もちろん、

しっかり考えたら、

「そんな場にしよう」

強く思えばいい。

 

意図通りで行きたい

強く思えばいい。

 

その気持ちでもって

その人と

会えばいい。

 

そして、

会ったその瞬間から

自分の意識を

その人にのみ

向けてみよう。

 

その場にのみ

向けてみよう。

 

その人を

その場を

味わい、楽しんで

みよう。

 

すると

自分の意図は

どうでもよくなってしまう。

 

この

「どうでもよくなる」

ことが重要で、

 

これが

「手放せた」

という証だ。

 

手放せた結果、

その場は

まったく想定外の

展開になることは多い。

 

しかし、

手放せたからこそ

意図通りの展開に

なることも

またよくあることだ。

 

どちらでもいい。

 

どちらでもそれは

とても素敵な

展開となる。

 

要するに。

 

しっかりと

準備せい!

 

ということだ。

 

人とコミュニケーションを

とる前には

それくらいしっかりと

準備をする。

 

一つ一つ

しっかりと。

 

それにより

「自分の意図」という

狭い世界から

 

私達は自由に

なれるんだよ。

 

つづく

本当の情熱で生きよう

 

「情熱」

という言葉がある。

 

情が熱すること。

 

感情が熱くなって

いること。

 

このもともとの

語源は

「受難」から

来ているらしい。

 

つまり、

苦難の中で

それに立ち向かおう

とするところから

発生する状態。

 

それが「情熱」

ということのようだ。

 

・・・・・・

 

以下は

私流の解釈だが、

 

情熱の「情」とは

反応本音のことだ。

 

反応本音が

熱くなっている。

 

反応本音が

燃えている。

 

それが

エネルギーとなり

目の前の物事に

取り組んでいく。

 

大事なのは、

 

「誰」が

その反応本音を

燃やしているか?

 

だ。

 

これ、

結構、いろんな

「誰」が

いるもんだ。

 

私が思う

人として最も幸せな

情熱とは、・・・

 

その人自らの

真本音が

 

自らの反応本音を

燃やしている。

 

・・・という状態だ。

 

真本音が

一つの「現実」に

向かおうとする。

 

その自分に

さらにエネルギーを

与えるために、

 

自らの

情(反応本音)に

熱を与える。

 

熱を与えられた

反応本音は

その熱を「炎」に

する。

 

それにより

人間としての

心のパワーが

増幅する。

 

それにより

その「現実」に

立ち向かうパワーが

増幅する。

 

それにより

道が開かれる。

 

真本音が

反応本音を

燃やす。

 

それは喩えれば、

会社の創業者が

一つの目的を果たす

ために、

組織を編成し、

 

そこにいる

社員さん達に

エネルギー(熱)を

与え、

 

自分一人ではなく、

組織としての

相乗効果を発揮しながら、

 

自分一人では

成し得ないことを

成し遂げていく。

 

・・・というような

ものだ。

 

私はよく、

人の心を「組織」に

喩える。

 

真本音が

創業者で、

 

反応本音は

その創業者に共感する

社員さん(仲間)達。

 

これが

本来の私達の

心の有り様だ。

 

真本音と反応本音が

このような関わりに

なることが

本来の私達の

心の姿であり、

 

この状態になることを

 

「真本音度合いが

高まる」

 

と、

私は表現している。

 

つまり、

真本音度合いが

高まることで、

 

私達は、

真本音と反応本音の

パワーの相乗効果が

発揮される。

 

それこそが、

真の情熱であり、

 

これが発揮されて

いる時、

 

その人は

その人らしさを

最大限に発揮する。

 

その人らしい

道を

切り拓く。

 

だから。

 

「情熱」って

いいね。

 

情熱的な人生で

ありたいと

私はいつも願って

来たし、

 

みんなもそうなれると

いいな、と

思う。

 

無理な

熱じゃない。

 

自らの願いや

祈りの込められた

真本音の熱で、

 

自分をさらに

熱くしよう。

 

つづく

 

流されよう

 

自分は

たった一枚の

葉っぱだ。

 

くらいに

自分を捉えた方が

良い時がある。

 

一枚の

力のない葉っぱが

水に流されていく。

 

最初は

小さな小さな

沢の流れだったのが、

 

しだいにその沢は

様々な沢と

合流しながら

太く大きくなっていく。

 

ある時は

激しく、

ある時は

緩やかに。

 

ある時は

まっすぐ、

ある時は

曲がりくねりながら。

 

濁流に

呑まれたり、

岩にぶつかったり。

 

様々な体験を

重ねながらも、

 

しかし決して

葉っぱは

川下から川上へは

流れない。

 

重力の法則に則り、

川上から川下へ

流れ続け、

 

やがては

海へと至る。

 

それが

人生であると

私は捉えている。

 

もちろん。

 

川や水の流れに

依存する

のとは違う。

 

川や水の流れの

真理に目を向け、

 

そこに確かに

流れが実在することを

知り、見つめ、

 

その流れに乗る

ことこそが

自分自身の

本分であるという

 

それもまた

真理であることを

知り、

 

その通りに

流れていく。

 

これこそが

「自律」の本質で

あると

私は思っている。

 

流れに乗る

覚悟。

 

流れに委ねる

覚悟。

 

実は、

流れそのものが

自分自身である

という真理を

そのままに受け入れる

覚悟。

 

これが

「自律」だ。

 

だから私は

時々、

 

あえて自分を

葉っぱのように

捉えることにしている。

 

何の力もない

葉っぱ。

 

ただ、

委ねることしか

できない

葉っぱ。

 

しかし、

その世界のすべてが、

 

委ねるその

世界そのものが、

 

自分自身である

ということを

よく知っている葉っぱ。

 

そんなイメージで

一日を過ごすのも

悪くない。

 

つづく

 

沁み込むなぁ

 

言葉とは

本当は

多くは要らない。

 

たった

一言でいい。

 

その一言が

胸の奥の奥まで

沁み込むことがある。

 

私が

真本音メッセージ

と呼んでいるものだ。

 

今日も

そんなメッセージを

いくつかいただいた。

 

それが

ある種の炎のように

なって、

しかしとても静かに

 

私の奥で

トツトツと

燃えている。

 

きっとこの炎は

しばらくは、

何日、いや、何週間かは

私の中のここに

あり続けるのだろう。

 

その炎は

恐らく

様々な気づきと指針を

私にもたらして

くれるだろう。

 

そしてその影響が

私のコーチングに、

様々な人へのサポートに

ダイレクトに

及ぶだろう。

 

つまり、

一人の人の

たった一言が、

多くの人の人生を

変えることすら

あるのだ。

 

それくらいに

真本音メッセージは

世の中に

響き渡っていく。

 

多くの人が

これができると

いい。

 

そうすれば、

世の中は

心地よい響き合いのもとで

進化を続けて

いくだろう。

 

つづく

 

それは本当にそれか?

 

月が水面に

映ると、

 

その月は

水面の揺らぎと

共に

揺れる。

 

もし、

その映っている月を

本物の月であると

思い込んでいたら、

 

私達は、

月とは揺れるものだ、

勘違いするだろう。

 

しかし同じようなことが、

この世の中では

起きている。

 

私達は

その物事の本当の姿を

ちゃんと

見つめているだろうか。

 

ただ、

その物事の幻影を、

 

どこかに映っている

幻影を

 

見ているだけでは

ないだろうか。

 

私達は

その人の本当の姿を

ちゃんと

見つめているだろうか。

 

ただその人の

幻影を

見ているだけでは

ないだろうか。

 

私達は

自分自身の本当の姿を

ちゃんと

見つめているだろうか。

 

ただ、

自分という人間の

幻影を

見ているだけでは

ないだろうか。

 

真実は

どこにある?

 

目に映っている

その現実は

本当に

現実だろうか?

 

私達は

その本質を

実在を

ちゃんと捉えて

いるだろうか?

 

そんな問いを

持ちながら

すべてと向き合うだけで

 

人生観は

変わるかも

しれないんだよ。

 

つづく

 

しっかり心に留めてほしい

 

私には

ミッション、ビジョン

がある。

 

このために

私の全人生と

全エネルギーを注ごう、

というものだ。

 

とてもありがたいことに、

この私の願いを知り、

共感、共鳴、共振

してくれる人が、

 

本当にそうなってくれる

人達が

 

少しずつ増えてきた。

 

そして、

共振しながらも

その人自身が自分の

ミッション、ビジョンの

ヒントを得て、

それに向かおうと

している。

 

その人の成長は

私自身のミッション、ビジョン

の実現に

直結する。

 

だからとてもとても

ありがたい。

 

その感謝の気持ちを

前提として、

 

あえて、

 

そう、あえて

申し上げたい。

 

無茶すんな。

 

・・・と。

 

・・・・・・

 

私がどれだけ

そこに

自分の命を込めているか?

ということは、

 

その人達は

感覚でわかってくれる

ようだ。

 

それもとても

ありがたい。

 

そしてその人達は、

「自分も!」

自分の命をそこに

注ごうとする。

 

もちろんそれは

私のミッションというよりも

その人自身のミッション

なのだが、

 

私と同じように、

いや、

私以上に

自分の命を注ごうと

してくれる。

 

しかしそれは

無茶な話なのだ。

 

正直に言おう。

 

私の命の注ぎ方、

エネルギーの注ぎ方は

人間としての常軌を

恐らく、逸脱している。

 

一歩間違えれば、

本当に今ここで

死んでしまう、

 

というくらいに

自分の生命エネルギーを

使うことは

これまで何百回、

いや

何千回とあったと思う。

 

でもそれは、

 

そこまでギリギリの

ことができるように

なったのは、

それだけの訓練と

修行を重ねたからだ。

 

それはたった一人の

訓練と修行であったが、

それは今でも

日々、重ねていることだ。

 

そして私はそれを

他者にもやってもらおう

とは

到底思っていない。

 

こんな言い方を

すると、

格好良く聞こえてしまう

かもしれないが、

 

でもあえて

本気で思っていることだから

言っておこう。

 

無茶をするのは

私一人でいい。

 

そのために

50年以上も

訓練を続けてきたんだ。

 

それは、

私以外の人が

無茶をしなくてもいい状態を

創るためだ。

 

それを

わかってほしい。

 

だから、

無茶をするな。

 

・・・・・・

 

私が提唱する

「真本音で生きる」

というのは、

 

決して

無茶をする生き方

ではない。

 

自分にできることを

 

その時の自分が

できる最大のことを

 

最善の方法で

 

最も楽しく

充実しながら

 

自分らしく

 

今ここで行なう、

 

という生き方だ。

 

そこには無茶も

無理もなく、

 

そこには自分の命を

込める悦びが

ある。

 

その生き方に

集中してくれればいい。

 

自分自身の

真本音で、

 

今、これをしよう

 

と思うことを

そのまま素直に

行ない、

 

今は、これはしない

 

と思うことを

そのまま素直に

やらない。

 

今、この瞬間に

常に意識を向けて、

 

丁寧に

向けて、

 

今この瞬間を

生きていく。

 

これが

どこまで行っても

 

基本なんだ。

 

この基本を

何があっても

繰り返すだけだ。

 

もちろんこれは

私もいつも

やっていることなのだが、

 

私の無茶とは

これとはまったく

異なる世界の話だ。

 

そこまで

踏み込まなくても、

いい。

 

少なくとも

今は。

 

無茶をするよりも、

今は

もっともっと

自分の命のエネルギーを

高めながら

進んでほしい。

 

これが私の

願いであり、

祈りだ。

 

つづく

 

美しい生き方とは

 

迷うことは

悪いことではない。

 

むしろ、

迷うからこそ人生は

進む。

 

迷うからこそ

その先の成長・進化に

つながっていく。

 

迷うことは

悪いことではない。

 

しかしもし問題が

あるとすれば、

それは

 

答えを出すことを

あきらめることだ。

 

・・・・・・

 

答えを出そうと

努力することは

大変だ。

 

それによる

ストレスもかかるだろう。

 

しかし、

答えをあきらめるストレス

に比べれば、

そんなのは100分の1だ。

 

答えをあきらめる

ということは、

人生をあきらめる

ということだ。

 

そしてそれは

自分という人間を

あきらめるということだ。

 

これによる

ストレスはあまりにも

根本的で苦しく、

 

苦しいが故に

麻痺をする。

 

そして、自分が

そのようなストレスに

苛まれていることに

自分で気づかない。

 

これを別の言葉では

「現実逃避」

と言うのだが、

 

現実逃避ストレスは

あまりに深く

辛いのだ。

 

時々、

「たけうちさんと出会って

前よりも格段に

苦しくなった」

と言う人がいるが、

 

それは単に、

麻痺していたものが

取れてきた

ということだ。

 

最初からそれだけ

苦しんでいたんだよ。

 

私はいつもコーチとして

その人の鏡

になる。

 

私と向き合うと、

自分のその時の本質と

向き合ってしまうことに

なる。

 

だから現実逃避している

人は、

本能的にそれを察知する。

 

そして

私の前から逃げていく。

 

私とは決して

向き合おうとは

しなくなる。

 

それは、

私から逃げている

のではなく、

自分自身から

逃げているということだ。

 

もうそんな

辛い人生は

やめにしないか。

 

・・・・・・

 

悩めば

いいじゃないか。

 

迷えば

いいじゃないか。

 

格好良く進まなくても

いいじゃないか。

 

それが人間だろ。

 

人間の一番の

美しさは、

 

あるがままの自分を

見つめる生き方

だと

私は思うな。

 

答えは出なくとも

答えを見つけようと

する。

 

どれだけ格好悪くても

何としてでも

見つけようとする。

 

そんな意志を持つ人を

私は本当に

美しいなぁ、と

いつも思ってるよ。

 

つづく

 

原点に戻ろう

 

一日の内に

本当に様々なことが

起こるので、

 

一日の終わりには、

心の中は

嵐のようになっている。

 

人から受けた風や

自分自身が起こした風、

 

それらが

心の中で絡み合いながら

いつまでもずっと

吹き荒んでいる。

 

もちろんその嵐は

悪いもの、というわけでは

ない。

 

その中には喜びも

あるのだが、

しかしそれにしても

疲れる。笑

 

その嵐の中に

ずっといるままで

眠りにつき、

一日を終えてもよいのだが、

 

それでは

明日が今日に

影響を受けてしまう。

 

明日が今日に

影響を受けるのは

当たり前ではないか、

と思うかもしれないが、

 

私はそれを

あえて

お勧めしない。

 

一日の終わりには

ちゃんと自分の

電源を

一度、切った方がいい。

 

そして、

その一日という「人生」を

いったんきちんと

終えるのだ。

 

一日は

その一日で

終わり。

 

完了。

 

そして、次の朝の

目覚めは

そこでまた

「生まれる」のだ。

 

そういった毎日を

過ごすことができれば、

 

私達は毎日、

原点に戻れる。

 

いったん原点に

戻ってから、

「昨日の続き」を

また始められる。

 

いったん原点に

戻るのと、

まったく戻らずに

そのまま続きをするのでは、

 

雲泥の差

となる。

 

なぜなら

原点に戻るということは、

私達は

本来の自分を思い出し、

自分自身との約束を

おさらいすることに

なるからだ。

 

要するに

「私は何のために

ここにいるか?」

「何のための人生か?」

を、

明確な言葉にはならなくとも、

感覚として

思い出せるのだ。

 

それが

とてつもなく

重要だ。

 

原点に戻るためには、

今日という一日で

発生した嵐を、

 

その嵐のすべてを、

 

ただただ

じーっと見つめることだ。

 

眺めることだ。

 

嵐を鎮めようとする

必要はない。

 

ただ、あるがままのそれを

観察するのだ。

 

すると、

最初は嵐の中に

自分はいても、

 

だんだんといつの間にか

その嵐から

離れられる。

 

いつの間には

嵐と自分は分離し、

 

嵐を眺めている自分は

とても静かな場所に

いることに気づく。

 

嵐は嵐。

 

自分は自分。

 

ということが

わかる。

 

これが

原点だ。

 

そうなった上で、

眠りにつこう。

 

そんな一日の終え方を

しよう。

 

つづく

 

無数にあるんだよ

 

人生の選択肢は

いくらでもある。

 

あの時、

こうしておけば

今頃どうなっていただろう?

 

という疑問は

誰しも一度は

持ったことがあるのでは

ないか。

 

しかしそういった

思い出せる分かれ道

もあるが、

実は、記憶に残らない

細かな選択の場面は

無限と言ってよいほど

あるものだ。

 

例えば、

ある日、ランチに何気なく

入った店で

ちょっとした発想が生まれ、

その発想が

ゆくゆくの大きな展開を

生み出した、とか。

 

そんな場合、

私達はよく

「あの発想があったからこそ」

という記憶の仕方をするが、

しかし実は、

あの時、あのランチの店に

入ったからこそ

その発想が生まれた

のである。

 

もし店が違ったら、

発想は生まれなかった

かもしれないし、

生まれたとしても

そのタイミングが

変わっていた可能性は

充分にある。

 

どんな発想が

生まれ、

それをどのように

行動に移したか?

 

ということと、

 

あらゆる発想や行動の

タイミング、

 

によって

人生の展開は

次々に変わる。

 

そう考えると、

私達はあまりにも無数の

選択肢の中にいる。

 

それが私達の

日常だ。

 

その日常の中で、

「最善」を

選んでいく。

 

一つ一つ、

ほんの些細なことにも

「最善」を

選んでいく。

 

それが

真本音で生きる

ということだ。

 

最善かどうか

わかるのですか?

 

というご質問を

いただくことがある。

 

私は明確に

答える。

 

「わかりますよ」

と。

 

今の自分が

最善の選択を

し続けているかどうか、

は、

 

自分自身の実感として

実によくわかるのだ。

 

それはまるで、

自分が今、立っているのか

座っているのか、

を知るのと同じくらいに

明確にわかるものだ。

 

真本音度合いが高まる

ということは、

それがわかるようになる、

ということでもある。

 

もともと人には

そのような感性が

備わっており、

それが発現する

だけだ。

 

真本音で生きる

ことは、

人としての

もともと持ち合わせている

様々な力を

発現させてくれる。

 

つづく

 

「死」と共にある

 

日常生活の中で、

自分の死について

考えることは

あまりないのかな?

ほとんどの人は。

 

でもよく振り返れば、

私はいつも

そのことばかりを

考えてきたように思う。

 

いや、

ちょっと違うな。

 

考えているわけでは

ない。

 

「死」は

常に私と共にあったし、

今もある。

 

それは別に

悪いものでもないし、

悪いことでもない。

 

これがあるが故に、

私は

「どう生きるか?」

も常に考え続けた。

 

よく言われることだが、

死と生は

一つのことだから。

 

・・・・・・

 

今でも鮮明に

覚えている。

 

確か、小学3年か4年の

頃だ。

 

学校が終わり

下校している途中、

私は

一人だった。

 

歩きながら

近所のちょっとした

林を見つめた。

 

その瞬間、

まるで電撃に打たれた

かのように、

自分の「死」について

考えた。

 

何がどうあろうが、

いつか自分には

「死」が訪れるんだ、

という事実が、

 

ふと、

林の木々と共に

眼前に屹立したのだ。

 

私は急に

怖くなった。

 

死にたくない。

 

と思って

震えた。

 

でも、

必ずいつか、

私は死ななければ

ならない。

 

いったいその瞬間は

いつ、どのような形で

訪れるのだろうか?

 

考えた。

 

考えながら

怖くて震えた。

 

その瞬間から

ずっと、

私の傍らには常に

「死」がある。

 

・・・・・・

 

こんな仕事を

しているので、

 

これまでは

人の「死」と関わることも

多かった。

 

知り合いで

自殺した人もいるし、

不治の病の人も

いた。

 

生きるか死ぬか

という病気に

かかった人や、

その手術をされた人、

人の「死」に、お仕事で

毎日のように関わる人

もいた。

 

その度に、

私の「死」は

私の傍らでいつも

うごめいていた。

 

でもこれはきっと

他のほとんどの人も

同じだ。

 

ただ気づかないだけで、

ほとんどの人は

「死」と共に

歩んでいる。

 

その人の傍らには

常に

「死」がうごめいている。

 

何度も書くが、

それは決して

悪いことではない。

 

・・・・・・

 

「死」が傍らにあると、

最近の私は

毎日のように思っている。

 

残された時間が

あまりに少ないな、と。

 

私がこの世で

やりたいこと、

成し遂げたいことと、

残された時間の量との

ギャップだ。

 

こんな短い時間の中で

いったいどうすれば

いいのだろう?

いつも愕然とする。

 

そして、

今日と同じ一日を

明日も過ごすわけには

いかない、

焦りの気持ちが

どうしても湧いてくる。

 

と同時に、

その奥から

とてもあたたかく

高いエネルギーのような

ものが

ひょっこりと

顔を出す。

 

その「エネルギー」は

私にいつも言う。

 

「大丈夫だ。

ちゃんとやること

やっているよ。

明日も今日と同じく、

やることを

ちゃんとやればいい」

 

私は

一人の人間としての

限界を持っている。

 

私の思っていることが

成就するかどうかは、

やってみなければ

わからない。

 

私にできる

唯一のことは、

 

最善を尽くす

 

ことだ。

 

これ以外には

ない。

 

真本音で生きる

とは、

最善を尽くす

ことなんだ。

 

つづく

 

答えと巡り会う

 

心を

空っぽにする。

 

一見すると

それは

「無」であるが、

 

実は

そうではない。

 

そこには

「すべて」

がある。

 

心を

空っぽにする。

 

一見すると

それは

ある種の不安と

恐怖すら覚えるが、

 

実は

そうではない。

 

それは

自分が「自分である」

と思い込んでいる

あらゆるものを

手放した状態であり、

 

本来の自分そのものを

そのままに

感じ取り、

 

そのままに

そこに在る、

という状態だ。

 

この状態に入れば、

ほんの数秒で

いい、

 

自分がその時

ほしいと思っている

あらゆる「答え」

手に入る。

 

それには

一切の迷いが

ない。

 

一般的にはそれを

「確信」

と言うが、

 

「確信」というほど

力の入ったものでも

ない。

 

それはあまりに

自然なもの。

 

当たり前の

もの。

 

ただ、思い出した

だけのもの。

 

しかしそれは

紛れもなく

「真実」であり

「真理」である。

 

だから

その「答え」に

巡り会えば、

 

その瞬間から

すべてが

動き出す。

 

だから、

 

私はいつも

思うのだ。

 

心を空っぽに

する。

 

・・・ということを、

誰もが気軽に、

気楽に、

すぐに、

どこででも、

日常において

どんな時でも、

 

今この瞬間に、

 

できるように

なれればいいな、

と。

 

そのための

手段が、

 

真本音度合いを

高める

 

ということなんだ。

 

つづく

 

そいつは無理だ

 

真剣に進む

のと

無理をする

のとは

まったく異なる

ことだ。

 

というよりも、

真逆だ。

 

第一、

無理をしていては

真剣になることなど

できない。

 

真剣とは、

全力を出すべき時に

全力をきちんと

出すこと。

 

そんな自分で

い続けること。

 

そんな生き方を

持続すること。

 

全力を出すべき時に

もし全力を出せないようで

あれば、

最速で進むことなど

できない。

 

全力を出すべき時に

全力を出せないのは、

どこかで無理を

しているから。

 

つまり、

「無理」とは

「真剣」を

阻害するものだ。

 

ただし。

 

「無理」をしたことの

ない人は

「真剣」に生きることは

できない。

 

矛盾しているように

聞こえるかもしれないが。

 

無理をして無理をして

無理をして、

 

自分の限界を味わって、

限界を痛感して、

痛い思いをして、

 

それでやっと

「無理をしない」とは

どういうことか、

「真剣に生きる」とは

どういうことか、を

我々は学べる。

 

だから、

真剣に生きるために

上手に無理をしないように

しよう、

と思う人は

いつまで経っても

真剣にはなれない。

 

かといって、

無理をしていることに

自己満足している

人もいる。

 

私は毎日、無理を

している。

それだけ必死に生きている。

凄いでしょ。

 

・・・と自己満足している。

 

こういう人も

真剣にはなれない。

 

難しいかな?

 

いや、

やることは

単純だ。

 

私はいつ

全力を出すべきか?

常に考えながら

生きればいい。

 

そして、

その瞬間に本当に

全力を出せるためには

どうすれば良いか?

常に考えながら

生きればいい。

 

その探究を続ければ、

最初は「無理」ばかりに

なるかもしれないが、

そのうちに

「真剣」になれるよ。

 

つづく

 

なるにまかせよ

 

内側から

何かが

込み上げてくる。

 

それは

決して悪いものではなく、

心地良いもので

あるが、

 

しかしそれにしても

凄いエネルギーだ。

 

このエネルギーを

どうやって

コントロールしようか?

 

・・・と思うと

途端に自信が

なくなる。

 

しかし

込み上げるものを

抑えることも

できない。

 

わずかでも気を抜けば、

それはまるで

活火山のように

大噴火し、

マグマを放流させるだろう。

 

・・・・・・

 

そのエネルギーは

あえて感情として

表現すれば、

 

悦び

 

となるだろう。

 

しかしそれにしても

なんと強い

悦びか。

 

この悦びに

包まれること自体に

恐怖すら感じる。

 

この悦びを

制御できなければ、

いったい自分は

どうなってしまうのか?

 

・・・・・・

 

いくら居心地の良い

ものであっても、

私達は

未知のものや

これまでの範疇を

大きく超えるものを

前にすれば、

 

誰だって

躊躇する。

 

だから

躊躇すること自体は

健康的だ。

 

しかし。

 

今は、

躊躇している

場合ではない。

 

今、感じている

制御不能のその悦びは、

そのエネルギーは、

 

まだまだ

序の口だ。

 

そんなものは

堂々と

受け止めよ。

 

それができる

あなたに

なっているんだよ。

 

早く受け止めて、

 

すぐに

次に行こう。

 

つづく

 

無限の自分へ

 

自分という人間を

徹底的に

客観視してみよう。

 

ちょっと離れた

ところから

自分を観察し続ける

イメージだ。

 

朝起きてから

夜寝るまで

一日中、一度それを

完全にやり遂げて

みてもらいたい。

 

何が

観えるだろうか?

 

・・・・・・

 

これを徹底してやると、

面白いことに

すぐに慣れる。

 

常に主観的な視点と

客観的な視点の

二つから同時に

物事を受け止めることが

できるようになる。

 

すると、

発想が劇的に

変わる。

 

二つの視点になるから

発想も2倍になる、

のではない。

 

二つの視点を持つことで

発想と発想のシナジーが

起こり、

発想力ということで言えば、

恐らく、数十倍になる。

 

そしてさらに

慣れてくれば、

その客観的視点を

増やしていくのだ。

 

例えば、

上から自分を客観視

する自分と、

下(地面)から自分を

客観視する自分、

というように。

 

つまり3つの視点を

常に持っている状態だ。

 

これに慣れれば、

4つ5つ、と

どんどん視点を増やしていく。

 

この客観的視点は

実は、

何十個、何百個と

増やすことができる。

 

無限に増やす

ことができる。

 

さて。

 

無限に増えた

客観的視点と、

もともと持っていた

主観的視点。

 

それらが合わさると

どうなるだろうか?

 

感覚としては、

世界と自分が

一つになる。

 

すべては私

であり、

私はすべて

となる。

 

この感覚は

明らかに

人生観を変える。

 

物事の本質を

捉える力が

次元を超える。

 

すでに真本音度合いが

ある程度高い人は、

以上を

数十分間くらいですべて

体験できるだろう。

 

・・・・・・

 

すべては私であり、

私はすべてである。

 

という感覚で、

次の自分の一歩を、

行動を

決めるといい。

 

その瞬間から

人生は

新たな段階と展開に

一気に

入っていく。

 

つづく

 

豪雨だろうと

 

凄まじい豪雨

だ。

 

これまでに

見たことのない

激しさだ。

 

その中を

私の息子が

歩いている。

 

立つことすら

ままならないので、

ヨロヨロしている。

 

しかしついに

膝をついた。

 

もう、前に進む

気力も失われて

しまったようだ。

 

息子は

後ろを振り向いた。

 

来た道を

戻ろうとしているのだ。

 

私はとっさに

豪雨の中に

飛び出した。

 

そして息子を

抱きかかえ、

そのまま

前に向かった。

 

息もできない

くらいだが、

それでも

前に進み続けた。

 

私は抱っこしている

息子に伝えた。

 

「一度、決めたら

何があっても

止まるんじゃない。

何があっても

先に進むんだ。」

 

・・・ここで

目が覚めた。

 

・・・・・・

 

調べてみると、

夢で見る豪雨とは、

どうやら

心のモヤモヤを

晴らしてくれるものらしい。

 

しかし

私が夢で見た豪雨は

恐らく、暗示ではなく

「実在」だ。

 

夢の中で

息子だと思っていた

存在は、恐らく

前に進むあらゆる人

を象徴していたのだと

思う。

 

今、最速で

前に進む人の多くは、

豪雨の中にいる。

 

それを私は

必死に応援している。

 

しかし人によっては

「救い出す」

必要がある。

 

それくらいの

豪雨だ。

 

ただ、

豪雨の終わりも

観えている。

 

もうすぐ

雨は止む。

 

それまでの

辛抱だ。

 

大変だが、

それでも

前に進もう。

 

つづく

 

静かに一点を

 

日が昇ろうと

している。

 

海の彼方から

新しい太陽が

昇ろうとしている。

 

海は

荒れている。

 

まるで

太陽に抗うかの

ように。

 

荒れた海に

意識を向ければ、

全身が

荒れてくる。

 

まるでその

荒れ狂う波に

自分のすべてが

さらわれてしまうようだ。

 

自分が

観えなくなる。

 

でも、

一転、

 

半分姿を現している

太陽に意識を

向ければ、

 

途端にすべてから

解放された

穏やかな心地になる。

 

太陽も海も

同じ視界に入っているのに、

ほんのちょっと

目を転ずるだけで、

こうも違うものか。

 

そう。

 

こうも

違うものなのだ。

 

どこに

意識を向けるか?

 

どの一点を

観続けるか?

 

・・・だ。

 

もちろん前提として、

すべてをあるがままに

観て、感じることは

とても大事。

 

荒れた海を

ないものにしては

ならない。

 

確かにそこで

荒れているのだから。

 

しかしすべてを

理解した上で、

 

私は今、

どこに意識を

向け続けながら

進むのか?

 

を明確に

するといい。

 

そしてそこから

目を離さないこと。

 

決して。

 

そうすれば

間違いなく、

あなたは

生まれるよ。

 

つづく

 

上から下から斜めから

 

いつもと視点を

変えて、

 

天井から自分を

観察してみるといい。

 

どう観える?

 

自分だけじゃない。

環境もそうだ。

 

例えば、

天井から観ると、

自分の部屋は

どう観える?

 

そして、

何を感じる?

 

・・・・・・

 

視点を変えながら

生きることは、

とても大切なことだ。

 

私達はいつも

同じ視点に立ち

同じ角度から

同じように解釈をして

生きている。

 

ちょっとそれを

変えるだけで

下手をすると

人生観そのものが

変わってしまうかも

知れない。

 

・・・・・・

 

自分自身を

正面から観たり、

上から観たり、

下から観たり、

横から観たり、

斜めから観たり・・・。

 

人を

正面から観たり、

上から観たり、

下から観たり、

横から観たり、

斜めから観たり・・・。

 

イメージするだけでも

随分違うね。

 

人生の豊かさ

を決めるのは、

この視点の多さと

広さと柔軟さではないか、

思うことが

私はよくある。

 

視点の少ない人、

視点の狭い人は

とても窮屈そうだ。

 

すぐにイライラするし、

すぐに道が

閉ざされてしまったような

顔をする。

 

一つの「現実」が

起こっても、

それを一方向からのみ

見て、

良い・悪い

と評価判断するよりも、

 

たくさんの視点から

観察をしよう。

 

あるがままに。

 

その方が

余程面白い。

 

・・・・・・

 

さて。

 

私は今、

自分の背後にまわって

自分の背中を

見つめている。

 

そうすると、

今の自分は

とても寂しそうにしている

ように感じる。

 

なんか、

励ましてあげたく

なってきた。笑

 

ちょっと一人で

背負い過ぎだな。

 

つづく

 

怖くても進もう

 

ほんの小さな

ドブがあった。

 

幅は30cmもない。

 

小さな子どもでも

一跨ぎで

越えられる

ものだ。

 

私は4歳だった。

 

そのドブの前で

立ち往生していた。

 

ドブの向こうには

当時まだ若かった

親父がいた。

 

親父は

ドブを跨いで

越えられない私を

苛立った。

 

「大丈夫だよ。

こんなの簡単に

越えられるよ」

 

と言いながら、

何度もその見本を

見せてくれた。

 

そうだ。

こんなの簡単に

越えられる。

 

・・・と、

頭ではよくわかって

いたのだが、

それでも私は

その簡単な一歩を

踏み出せなかった。

 

怖かったのだ。

 

頭では

大丈夫と

わかっていても、

どうしても

怖かったのだ。

 

そのうちに

親父は本当に

苛立って、

ついには大声を

上げた。

 

「こんなものも

越えられないのか!」

と。

 

私はそんな親父が

怖くて、

ついに一歩を

踏み出した。

 

すると

何のことはない。

 

本当に

簡単に越えられた。

 

それだけの

ことなのだが、

何故がとても鮮烈な

思い出として、

この年までずっと

私の脳裏に

こびりついている光景だ。

 

・・・・・・

 

大丈夫だよ。

あなたには

きっとできるよ。

 

・・・と、

いつも微笑んで

くれる人。

 

そんなことも

できんのか。

さっさとやれ!

 

・・・と、

厳しく叱る人。

 

どちらも人生では

必要だ。

 

私自身も

どちらの役割も

これまでは

行なって来た。

 

自分自身に

対してはどうだろう?

 

私は結構、

自分に対しては

ずっと後者で

いたのかな。

 

結構、

自分に厳しく

して来たように思う。

 

いや、

自分への厳しさ

以上に、

他人に厳しくしたことは、

きっと

一度もない。

 

自分への厳しさ

と同じくらいに

もし他人に厳しく

したら、

きっと耐えられる人は

一人もいないだろう、

思って来た。

・・・ということに

今日、気がついた。

 

私はもともと

とても怖がりなので、

私に厳しくしてくれた

人達には

とても感謝している。

 

その人達のおかげで

初めて

一歩を踏み出せたことは

数知れず。

 

あれがなかったら

ひょっとすると

今の私はもう

生きていないかも

知れない。

 

厳しさ。

 

本当の

厳しさ。

 

今の世の中にも

ひょっとすると

これが必要なのかな?

 

人間は、

怖さを越えて

もっともっと先に

進まないといけないと、

最近、特に強く

思うんだ。

 

つづく

 

基本的姿勢を崩さずに

 

意識を外に

向けよう。

 

意識を

人に向けよう。

 

そこにいる

すべての人に

向け続けよう。

 

あなたの中に

「答え」はない。

 

「答え」は

その場において

生まれる。

 

生まれる瞬間を

見逃しては

ならない。

 

生まれる瞬間を

捕らえなければ

ならない。

 

だから

思考をしている

場合ではない。

 

顔を上げ、

 

人を観て、

 

場を感じて、

 

今、目の前にある

すべてを

楽しもう。

 

この

基本的姿勢が

「調和」の

原点だ。

 

そして、

「創造」の

原点だ。

 

調和とは

創造だ。

 

調和とは

シナジーだ。

 

調和とは

「最大速」に

なくてはならない

ものだ。

 

だから、

意識を外に

向けよう。

 

そこにある

すべてを

あるがままに

観察し続けよう。

 

思考も解釈も

している場合では

ないんだよ。

 

つづく

 

人間なのだな

 

人が人を救おう、

などと

思うことは、

大変おそがましい

ことだ。

 

傲慢だ。

 

ということは

重々に

よくわかっているのだが、

 

それでも

救いたい!

思ってしまうことがある。

 

それも

人間。

 

いいだろ?

 

・・・・・・

 

心が痛む。

 

心だけじゃない。

 

魂までが

ギリギリと

痛む。

 

なんでこの人は、

自らの意志で

自らの本当の願いとは

真逆の道を

行こうとするのか。

 

なんでこの人は、

自らの意志で

自分自身を

傷つけ尽くす道を

行こうとするのか。

 

それは

成長でも進化でも

ない。

 

その真逆だ。

 

そこには

何の希望も価値も

ない。

 

なのに

まっしぐらに

その道を行こうと

する。

 

何としてでも、

腕を引っ張ってでも

止めたいと

思う。

 

救いたい!

思ってしまう。

 

でも

残念ながら

できない。

 

やろうと思えば

思うほど、

 

その人の

その道へ向かう意志を

強めてしまう。

 

他者には

できないこと。

 

本人にしか

できないこと。

 

救えるのは

本人しか

できないのだ。

 

その真実を

無力感と共に

痛感する。

 

これまでに

何度もあった。

 

何度もあったが

これは

慣れることがない。

 

あまりに

苦しく、痛く、

悲しいことだ。

 

・・・・・・

 

救いたいと

思うこと自体が

傲慢なことは

わかってるんだ。

 

でも

思うのだから

しょうがないだろう。

 

人生は

痛いな。

 

でもこの痛みを

背負うことも

また

人間なのだな。

 

痛いままで

進むのが

人間なのだな。

 

つづく

 

確認してみてほしい

 

「願い」

を口に出して

みてほしい。

 

できれば、

「人生の願い」

がいい。

 

私の人生は

これを実現するために

ある。

 

・・・くらいのものが

いい。

 

わからなければ、

わかる範囲での

自分自身の最も長期的な

願いがいい。

 

もちろんそれは

抽象的でもいい。

具体的でもいい。

 

大切なのは

「これは私の願いだ」

と思える願いで

あることだ。

 

・・・・・・

 

「願い」を口に出す

ときは、

大きな声は

出さなくいい。

 

小さな声でよいから

実際に口に出し、

それを自分の耳で

聴いてほしい。

 

それをした時に、

どれだけそれが

自然に聴こえるか?

 

どれだけそれを

自然に口ずさむことが

できるか?

 

を確認して

ほしい。

 

その願いと自分は

溶け合っているだろうか?

 

その願いと自分は

「一つ」だろうか?

 

その願いは本当に

自分のものだろうか?

 

そんなところを

確認してみてほしい。

 

そしてもし

少しでも

違和感があれば、

 

その「願い」を一度、

手放してほしいんだ。

 

その「願い」を、

なかったことに

してほしいんだ。

 

その状態でしばらく、

日々を過ごしてみて

ほしいんだ。

 

・・・・・・

 

なぜこんなことを

するかって?

 

そりゃもちろん、

あなたが

次のステージに

進むためだよ。

 

つづく

 

感覚を取り戻そう

 

今のこの一瞬

の中に、

永遠が存在する。

 

・・・言葉で書くと

どうしてもこうなって

しまうのだが、

 

この言葉を

感覚として

捉えてほしい。

 

私達には

この「感覚」が

あるはずだ。

 

この「感覚」を

思い出している時、

私達は

あらゆる判断が

観える。

 

すべてを知っている

自分を思い出す。

これも

「感覚」として。

 

すると、

次の自分の一歩

について、

あらゆる迷いや惑いが

なくなる。

 

その一歩は

ただの「一歩」

となる。

 

純粋な

「一歩」となる。

 

「一歩」以上のものではなく、

「一歩」以下のものでも

なくなる。

 

その「一歩」は

「一歩」ではあるのだが、

 

「全体」でもある。

 

「すべて」でもある。

 

だからこそ

完全に調和をする。

 

理屈で捉えると

訳がわからなくなるかも

しれないが、

 

これを「感覚」として

わかっている私達が

確かにここにいる。

 

それが

真実だ。

 

・・・・・・

 

今のこの一瞬が

永遠に続けば

いいのに。

 

と願ったことは

ないだろうか?

 

私はしょっちゅう

ある。

 

それ自体が

幸せなことだが、

 

しかしそれがもう

願いではなく

真実であることを

一方で、私達は

よくわかっている。

 

何度も言うが、

これは理屈では

ない。

 

この「感覚」を

日常の中で

いかに思い出し続けるか?

 

・・・だ。

 

これを私は恐らく、

もうすぐ52年になろうとする

この人生で、

探究し続けた。

 

言葉で表現すれば

実に難しいが、

 

これを「感覚」として

捉えることができるように

なれば、

 

実に

簡単なことだ。

 

簡単過ぎて

難しいのだ。

 

今、ようやくにして

よくわかるのは、

 

これは、

探究するものでは

なかった。

 

これは、

あまりに当たり前の

こと。

 

ただ、

思い出すだけの

ことだったのだ。

 

だから私は

その「思い出し方」を

 

私のすべてのサポートの

根幹に

置いているんだ。

 

つづく

 

当たり前のことほど明確に

 

「シンプル」

ということが

私は好きだ。

 

ほぼほぼ

あらゆる物事の根幹は

極めてシンプルだ。

 

例えば、

企業様で様々な問題が

起こっており、

その解決に何年もかかって

いるとしても、

実はその原因は

とてもシンプルなところに

あるケースが多い。

 

シンプルが故に

それが当たり前になり、

原因が原因として

認識されなくなっていたりする。

 

そう、それは

空気

のようなものだ。

 

シンプル過ぎて

あるのが当たり前

になっている。

 

そういうことが

仕事においても

人生においても

我々には多い。

 

そこで今回は

シンプルに

次の問いを皆さん自身に

投げてみよう。

 

「私は何が好き?」

 

・・・これ結構、

シンプルに答えられる人、

少ない。

 

もしくは

答えても実は

的が外れてしまっている

とか、

本当の答えからは

ズレているとか。

 

本当の本当の本当に

好きなことは

何だろう?

ということだ。

 

もしわからなければ、

この問いを

しばらくの間、毎日、

朝から晩まで

大事にしてみてほしい。

 

きっと何か

シンプルな答えが

見つかるよ。

 

つづく

 

根拠を根拠にするな

 

たくさんの発想が

出ることが

良いことである、

とは

私は決して思わない。

 

心の中から

発想が溢れ出ることが

よくあるが、

それが良い状態である

とは

私は思っていない。

 

むしろ、

うるせーなぁ、

自分の心になかなかに

冷たい言葉を

投げかける。

 

そしてそんな時は

実際、

100個、1000個、・・・と

どれだけの発想が浮かび、

その一つ一つが

どれだけ魅力的でも、

 

ほぼほぼそのすべてを

私は捨てる。

 

心がうるさい時の発想は

すべて

捨てるのだ。

 

本当の発想は、

「静謐」の中から

生まれる。

 

その発想は

「確信」

である。

 

根拠のない確信

である。

 

逆に言うと私は、

根拠のある確信を

「確信」とは

呼んでいない。

 

だってそれは

根拠(理由)がなければ

確信ではないのだがら、

それは

確信ではないのだ。

 

確信に

理由は要らない。

 

確信に

解釈は要らない。

 

もっと言えば、

自信も要らない。

 

賛同も要らない。

 

確信は

確信だ。

 

それに出会ったら、

四の五の言っている

暇などない。

 

勝手に体が

動いてしまうのだ。

 

これが、

真本音の発想

である。

 

真本音の発想には

根拠はないが、

しかし本当は

根拠は大ありなのだ。

 

ただそれは

次元の高い根拠なので

言語化が非常に

難しい。

 

言語化できないものを

我々は「根拠」とは

言わないので、

結局は

「根拠はないけど

確信はある」

みたいな言い方に

どうしてもなってしまう。

 

でも本当はそれは

言葉にならないほどに強い根拠

という土台があるということなので、

私達の体は勝手に

その通りに動いてしまう。

 

次元の高い根拠とは

つまりは、

「すべてはつながっている」

もしくは

「すべては一つ」

という次元から来るもの

なので、

 

これをすれば必ず

皆も悦ぶ。

 

これをすれば必ず

調和する。

 

ということが

よ〜くわかっているのだ。

 

だから

言葉や理屈としての

根拠がなくとも

私達は安心して

動けてしまう。

 

要するに、

どの次元での根拠に

基づいて生きるか?

動くか?

という問題であり、

 

どうせなら

次元の高い根拠に

基づいて生きた方が良い。

 

それは必ず

悦びにつながるから。

 

真本音度合いを

高める、

 

とは

 

真本音発想を増やす

 

ことであり、

次元の高い根拠に

基づいて生きる自分に

なる、

ということなんだ。

 

それを今のこの世の中

において

実践していく。

 

それが私のサポートの

本質かな。

 

つづく

 

ちょい待ち!

 

本当に

人のことを言えた

義理ではないが、

 

休息は

取った方がいい。

 

ちゃんと休む

ための一日を

創った方がいい。

 

「お前が言うか?」

と言われそうだが、

 

本当にそうなのだ。

 

無理を

し過ぎだ。

 

がんばり

過ぎだ。

 

魂のエネルギーは

「すべて」のエネルギーと

繋がっているから、

ある意味、

無尽蔵とも言えるが、

 

心と体は

別だ。

 

人としての

限界がある。

 

その限界を

超えてまでも、

進むことは

我々の真本音は

望んでいない。

 

命を削れ、

とは

言っていない。

 

むしろ、

進めば進むほど、

命のパワーも

力もエネルギーも

高まって行く生き方(行き方)

をした方がいい。

 

あなたは

無理をし過ぎだ。

 

そのペースでは

倒れてしまう、

そのうちに。

 

それをちゃんと

わかってほしい。

 

本当に

どの口が言うか?

だが。

 

無理すんな。

 

自己犠牲すんな。

 

しかし、

最速で進もう。

 

つづく