- ホーム /
- 2020年 11月
どれだけ疲労して
動けなくなっても、
いや、
そういう時だから
こそ、
私達は自分自身の
真本音に
意識を向けるといい。
真本音は
変わらずに
光り輝いている。
変わらずに
パワーを
解き放っている。
変わらずに
笑顔だ。
しかし
だからと言って、
自分自身に
無理強いはしない。
休みなよ。
・・・と
笑顔で語りかける。
大丈夫だよ。
・・・と。
私はちゃんと
やることを
やっている。
そういう疲労ならば、
ちゃんと癒える。
今はしっかり
休むことだ。
・・・と。
真本音は、
誰よりも「現実」を、
そこで起きている
ことを、
あるがままに
観る。
そして
その上で
私達に「最善」を
教えてくれる。
だから私は
安心して
休むことができる。
やること
やったら、
ちゃんと
休んで、
力を回復
させて、
また、
やることやろう。
一つ一つ
誠実に、
軽く、
明るく、
静かに、
笑顔で。
つづく
バランスが
とれている。
・・・というのは
どういうことだろうか。
例えば、
ヤジロベエで言えば、
左と右がちょうど
50%ずつ、
均等になっている
状態だろうか。
いや、
そうとも言えない。
例えば、
右が10%で
左が90%でも、
絶妙なバランスをとる
こともできる。
側から見れば
ヘンテコな格好だが、
それでも
それはそれなりの
バランスであり
個性だ。
むしろ、
50%50%のバランス
よりも
そちらの方が
個性的で面白い。
人間も
同じことが言える。
その人には
その人なりの
バランスがあり、
それが
その人の個性だ。
よく
「バランスが大事だ」
という言葉を
使う人がいるが、
実は私は
この言葉、
あまり好きではない。
なぜなら
バランスをとろう
としている人で、
魅力的な人は
あまりいないからだ。
もちろん
私の主観だ。
でも、
バランスをとろう
とろう
とすることで
その人本来の魅力を
むしろ消してしまっている
ケースは
多いと思うんだ。
だから
極端に言えば、
バランスなんて
とろうとしない方が
いい。
・・・くらいに
言いたい。
バランスなんて
考えるから
おかしくなるんだ。
・・・くらい
言っちゃいたい。
それくらい
自由になった方が
結果的に
その人にしか
現せないバランスが
その人の
真の魅力として
表出すると
思うんだな。
みんなもっと
個性的で
あればいい。
個性を
際立たせると
いい。
その方が逆に、
社会も組織も
調和が生まれると
思うんだ。
真のバランスが
生まれると
思うんだ。
つづく
嵐の中にいる時は、
私達は
不安になる。
心の中にも
嵐が吹き荒れる。
穏やかに
晴れた日であれば、
私達も
穏やかでいられる。
私達は
環境に左右されながら
生きている。
私達の心は
環境にモロに
影響され、
環境に反応するように
動く。
環境が「主」で
私達は「従」
なのだろうか。
私達が
「主」となることは
ないのだろうか。
私達は
揺れる。
揺れるように
できている。
心は
揺れる。
揺れるように
できている。
それを
揺れないように
しよう!
と
思うこと自体が
不自然だ。
揺れるように
できているならば、
揺らしとけば
いい。
環境に対して
「従」であるならば、
それで
良いではないか。
それらの
事実と、
どうやらそれは
摂理であることを、
真正面から
すべて
受け入れれば、
それによって
私達人間は
初めて
「主」
となれるようだ。
ただし
「主」
とはなれるが、
「従」
は何も無し。
実は
すべてが
「主」であったのだ。
ということが
腑に落ちると、
強い。
実に強く
生きることが
できる。
心?
揺れれば
いいじゃないか。
と
受け入れれば、
その心の中心に
何があっても
揺るがない部分が
あることを、
その事実に
初めて
気がつくことが
できる。
事実を
受け止めなければ、
まだ観えていなかった
事実に
気づくこともない。
事実を
受け入れる強さが
自分の
本当の強さまで
導いてくれる。
私とあなたは
どっちが
「主」だ?
どっちも
「主」だ。
じゃあ
共に何をする?
つづく
私達には
「力が宿る」
ということが
実は時々、ある。
もともと先天的に
持っていたもので、
ずっと眠っていた力が
何かのきっかけで
一気に浮上する。
するとそれはまるで
宿ったかのような
印象となる。
しかし本当は
宿ったのではなく、
もともと才能として
あったものが
開花しただけのことだ。
自らの真本音に
素直に生きる人は
そういう体験が
何度も訪れる。
ところが。
せっかく花開いた
その才能を
使わずにいる人が
たまにいる。
その力を使う
ということは
イコール、
それ相応の挑戦をする
ということだ。
これまでの自分では
考えられなかった
挑戦をする、
ということだ。
だからそこで
怖気付いてしまい、
逃げてしまい、
せっかく花開いた
才能を
使わないままに
人生を送ってしまう。
実に
もったいない話だ。
だから私は
「コーチ」として、
そういった才能が
開花し始めた
クライアントさんには
半ば強引に
挑戦をさせることが
ある。
本当は「コーチ」とは
クライアントさんを
引っ張ることは
しないものであるが、
しかし
その人の真本音の
意志を尊重するために、
あえて
強引なことを
することもある。
もちろん
そんなことをせずとも
ご本人が自ら
挑戦できれば、
それに越したことはない。
才能は
使わなければ
意味がない。
せっかく自分自身との
約束を果たすために
あらかじめ
自分自身に備えた力だ。
必然的な
力だ。
それを
使いこなすことこそが
「自分らしさ」
の基本となる。
これまで
苦手だと思っていた
ことが、
ある時にふと、
「そうでもないかな」
と思えたら、
それは
あなたの才能の
開花の始まりかも
しれない。
であれば、
思い切って
試してほしい。
挑戦を
してみてほしい。
つづく
すべては
なるように
なっていく。
しかも、
何がどのように
なっていくかは、
私達自身が
本当はよく
わかっている。
わかっている
ことが
わかっている
ように
起こるだけ。
・・・高い次元の
意識からみれば、
そういうことだ。
しかし、
3次元のこの世界に
生きている
私達(の顕在意識)は、
何も
わからない。
1分先の未来さえ
わからない。
その
「わからない」
ことにこそ
価値がある。
「わからない」
からこそ
ここに生まれてきた
意味がある。
本当は
わかっているけど、
何も
わからない。
それが
私達人間だ。
人として生きる
とは、
わからないことを
わからないままに
生きる、
と言ってもいい。
人として生きる
とは、
本当はわかっている
自分自身を
信じて、
自分にすべてを
委ねるところまで
自己を成長させること、
とも言える。
まったくもって
おかしな存在だ、
人間とは。
目の前の
Aさんが
「YES」
と言った。
しかしそのほぼ
同じ瞬間に
Aさんの実在は
「NO」
と言った。
同じAさんなのに、
現象と実在から
まったく逆の答えを
投げられた。
じゃあいったい
私はどうすれば
いいんだ?
・・・と。
こんなことがほぼ
毎日続いている。
実在と現象の
不一致。
これが
この世界の
最大の問題だ。
とはいえ、
その問題を
引き受けながら
生きるのがまた
人間だ。
まったく
おかしな存在だ。
もっとみんなが
自分の真本音が
わかるといい。
だって
自分の真本音
なのだから。
実在と現象が
不一致を起こして
いる時に、
せめてその
違和感を
自覚できるように
なるといい。
せめてそのくらいの
健康は
取り戻したいものだ。
だから私は
鏡となる。
「コーチ」とは
鏡だ。
鏡が足りない。
今の世の中には
まったく足りない。
だから
鏡を増やしたい。
つづく
目を閉じて、
静かに
じっと座ってみよう。
心が騒がしい
時は、
それ自体が
とても苦痛だ。
じっとして
いられない。
体が
ソワソワと動いて
しまうか、
心があーでもない
こーでもないと
様々な思考に
入ってしまうか。
もしそんな状態
であれば、
疲れている
証拠だ。
その状態では
残念ながら
良い判断や決断は
できない。
その状態での
選択は
必ず後悔を生む。
良い人生や
良い仕事を
続けるためには
自分自身の
状態管理は必須だ。
心身が健康で
あれば最高だが、
せめて
心だけでも
健康でありたい。
健康とは
静かなこと。
鎮まっている
状態。
そうなるためには
鎮まっていない
心の一つ一つを
あるがままに
見つめることだ。
何も評価せず、
何も判断せず、
何も解釈せず、
ただただ
一つ一つの心を
丁寧に観察する。
観察
だけでいい。
それ以上は
何もやらない。
「それ以上は
何もやらない」
という眼差しこそが
自分を癒してくれる。
最初は
時間がかかるかも
しれない。
でもそうやって
自分を鎮めたら、
静かな心の
底から、
自然に問いが
浮かぶはずだ。
その問いは
今の自分にとって
とても重要な
もの。
その問いの答えは
今の自分を
静かに変えて
くれる。
救ってくれる。
静かな中から
浮かぶ問いを
静かに迎えよう。
そして
静かに
答えを出そう。
これが
セルフコーチングの
基本だ。
つづく
あまりに
頼りない一歩だと
しても、
今の自分が
「この一歩だ」
と思うのなら、
その一歩を
進めばいい。
頼りないとか
力強いとか
関係ない。
すべては
自分の意志だ。
私達は
頼りなさを
能力の視点から
感じることが多い。
自分には
そんな能力はない。
だから
頼りない、と。
そして、
能力をしっかりと
つけてから
一歩を踏み出そう、
と
する傾向がある。
しかし
それでは遅い。
しかも
それでは
その一歩の意味すら
失われる。
今のその
頼りない能力だから
こそ、
その一歩には
大いなる意味が
込められるんだ。
今の自分
だからこそ
その一歩に
価値が出るんだ。
だから
能力のみで
決めてはならない。
自分の意志
で判断しよう。
「意志」と
「能力」を
区別しよう。
そのためには
次の問いを
自分に投げれば
いい。
「もし私に
能力が充分にあれば、
この一歩を出したいと
素直に思うか?」
もしYES
であれば、
何としてでも
その一歩は
出すといいよ。
つづく
私達には
目標がある。
目標とは
もちろん、
実現したい未来
のこと。
ビジョンと
言ってもいい。
そしてその目標
には
「期限」
がついている。
いつまでに
こんな未来を
実現しよう!
と
私達は潜在意識的に
決めている。
そしてもし
それを
本当に実現できたら
私達は脱皮をし、
次のステージに
上がる。
期限までに
それができなかったら、
もう一度、
今のステージを
やり直す。
そのように私達は
潜在意識的に
決めている。
だから今回は
皆さんに問おう。
「あなたの
目標は何だ?」
「あなたは
いつまでに何を
実現しようと
決めている?」
まぁ、ありがちな
問いなのだけど、
大事なのは
これからこの目標を
決める、
ということではない
ということ。
もう
あなたの中で
すでに
決めている目標を
自覚する
ということだ。
上記の質問を
純粋に自分自身に
問い、
答えを待つと
いいね。
つづく
いざ、
全力を出すべき
時に、
私達は本当に
全力を出せる
だろうか?
そもその
自分自身の全力を
わかっているの
だろうか?
すべての人には
ポテンシャルがあり、
しかしそれを
知らない、
もしくは
信じないままに
人生を進む人は
多い。
私達が本来の力を
発揮するためには、
未知の領域に
突入せねばならない。
これまでの枠を
超えた、
これまでの範疇を
逸脱した、
そんな領域に
飛び込んでこそ、
私達は私達の
隠されていた力を
目の当たりにする。
そしてしかも、
私達人間は
本能的には
未知の領域に
向かい続けたい
生き物だ。
だからこそ
文明は発展してきたし、
そこまで大仰な
話をしなくても、
赤ちゃんや幼ない子を
見ていれば、
よくわかる。
私達は皆、
同じことをしていれば
飽きてしまう。
そして
知らないことに
向かおうとする。
その本能は
赤ちゃんや幼ない子供達が
教えてくれる。
好奇心。
安心安全よりも
結局は
好奇心が
勝ってしまう。
それが人間だ。
そのように
できているのだから、
怖くても
進んでみよう。
行きたい方向に。
未知の領域に
向かう面白さを
思い出せば、
私達の人生は
もっと充実するし、
成長の喜び、
進化の喜び
に満ちた日々となる。
挑戦しよう。
あーだこーだと
言っていないで
その新しい世界に
突入しよう。
私達は
人間なのだから。
つづく
自分自身への
問いを持つということは
とても人生を
豊かにしてくれる。
たとえすぐに答えが
出なくても、
問いを持ち続けるだけで
人生は豊かになる。
逆に言えば、
自分の人生を
豊かにしてくれるような
問いを持つといい。
あなたは
今後の人生を
どんな問いと共に
進めて行きたい?
ちなみに、
今の私が常に
持ち続けている問いは
こうだ。
「始まり」は
どうすれば
始まるか?
・・・変な問いだと
思うかな。
これ、
私の人生を
メッチャ豊かに
してくれる。
つづく
地球には
重力があるので、
物は
上から下へ
落ちる。
下から上に
昇ることは、
普通ではあり得ない。
重力に従って
上から下へ。
これが
自然の摂理だ。
自然の摂理に
反したことを
やろうとすると
かなり苦労する。
自然の摂理に
則ったことをすれば
スムーズに進む。
これは
人生においても
ビジネスにおいても
同じこと。
今自分がやろうと
していることは、
自然の摂理に
則っているか、
それとも
反しているか。
こんな視点で
客観的に
チェックをしてみると
いい。
・・・・・・
会話もそう。
例えば、
Aさんに何か重要な
ことを伝えなければ
ならないとする。
それを、
自分だけのペースで
強引に
伝えてはならない。
伝えるべき「瞬間」が
必ずくる。
もしその「瞬間」が
来ないのであれば、
それは
伝えるべきことでは
なかったのだ。
あっ、今
伝えるべきなんだ、
と
ありありとわかった
その瞬間に
私はそれを
ダイレクトに伝える。
すると
その言葉はスッと
Aさんの中に
吸い込まれていく。
まるでそこに
重力があるかの
ように。
・・・・・・
このように
あらゆることに
「流れ」
はある。
「流れ」をつかむ
感受性が
私達には必要だ。
それはやはり
自分自身が
自然の摂理に則った
生き方を
普段からしているか
どうか。
そこで決まる。
自然の摂理に則った
生き方。
それが
真本音で生きる
ということだ。
だから人は
真本音で生きる
ようになると、
どんどん
余分な力が抜けていく。
そして
いざというときに
とんでもないパワーが
発現する。
それもまた
自然の摂理だと
思う。
つづく
どうしても
壊さないといけない
ものがある。
壊すことに
躊躇をしていては
ならない時
がある。
そんな時に
迷うことなく
壊すことが
できるか?
心にどれだけ
恐怖や痛みが
走ったとしても、
一瞬の淀みも
なく、
壊すことができるか?
そんな自分に
なるために
私はかなり
苦労した。
正直、今でも
自信はないのだが、
でも
心は揺れても
その瞬間を逃すことは
ないであろう。
それが私は
「コーチ」の役割だと
思っているし、
それができなければ
「コーチ」ではない
と思っている。
壊すべきものを
壊せるか?
手放すべきものを
手放せるか?
自分の心の苦しみを
理由に
自分の行動や
振る舞いを変える
ことなく、
誰よりも正確に
その瞬間にそれを
実行する。
その覚悟の
ある人を
私は「コーチ」として
育てたい。
「壊す」
とは
「生かす」
こと。
「手放す」
とは
「結ぶ」
こと。
それを
本当に知っている
人こそが、
人を
真にサポートできる
のだから。
つづく
定期的に
点検しよう。
「私は今、
“すべて”の中心に
いるだろうか?」
・・・と。
年齢や立場に
関係なく、
人は
誰しも
“すべて”の中心
にいる。
本質的本能的
には
そのように
捉えている。
それが
人の心が健康
な状態だ。
そうなれている
時は
私達の心や体が
壊れることは
ない。
そうなれていない
からこそ、
私達は
喪失感や孤独感や
執着に
苦しめられる。
だから最初は
イメージ
だけでもいい。
自分が
“すべて”の中心に
いる状態を
意図的につくろう。
イメージ
だけでもいい。
いつもそうなれて
いない人は
このイメージを
するだけで
苦しくなるだろう。
しかし
苦しくても
続けるといい。
毎日毎日だ。
中心にいることに
自分を慣らすと
いい。
それだけで
心身は
シャンとするよ。
つづく
時々、
未来を感じる
ことがある。
イメージが湧く
わけでもないし、
明確でもない。
でも、
確かに未来を
感じている。
そして
いつも安心する。
あぁこのまま
行けばいいな、
と。
自分が
今ここにいて
自分の今の
一挙手一投足が
未来を創る
ということは
誰もが理屈では
わかっていても、
その影響の大きさ
には
あまり意識は
ないようだ。
でも、
ちょっとした自分の
振る舞いが、
人生を大きく左右する
のは
日常茶飯事だ。
今の自分の
振る舞いと
未来の現実。
その繋がりが
みえないから
なかなか実感は
ないかも知れない。
でも、
その繋がりは
私達の想像以上だ。
人生は、
人生に影響するな
という
大きな選択肢のみ
が
大事なわけではない。
むしろ、
自らの気づかない
あまりにも
日常的な
ちょっとした振る舞いに
よって
決まってくるのだ。
その自覚を
もう少し
私達はした方が
良いと思う。
良い人生を
創りたいのなら、
今ここでの
次の振る舞いを
大切にしよう。
一つ一つを
丁寧に。
力を入れる必要は
ないけれど、
誠実に。
つづく
未来を
イメージした時、
胸がザワザワ
したり、
心が騒がしく
なるようであれば、
その未来は
目指さない方が
いい。
それは
反応本音のレベル
のビジョンだ。
どうせ
未来を描くので
あれば、
真本音で
描こうではないか。
真本音で描く
未来は、
静かだ。
静かと言っても
エネルギーがない
わけでも
表面的に静かな
わけでもない。
むしろ
踊るような
活気ある場面を
描いたとしても、
それを見つめる
私達自身の
心と魂が
静かになるのだ。
それを
イメージすれば
するほど、
ワクワクするのと
同時に
鎮まるのだ。
そして
鎮まったその
心で、
あぁそうか
私はこれを
目指すんだったよな。
・・・と
まるで過去の出来事を
思い出したかのような
感覚になる。
そう
それは、
実際に
思い出している。
未来を
思い出している。
私達は
未来を思い出し
ながら
進むことで、
未来を
まるで当然のように
実現していく。
もちろん
試行錯誤はある。
悩みも迷いも
生まれる。
でも
その一歩一歩を
やはりこれも
最初から必要と
されているステップとして
必然的で
大事な道のりとして
どこか
楽しみながら
進むことができる。
その瞬間は
心の底から
悩んでいる。
余裕もゆとりも
ない。
一歩先が見えなく
なることも
ある。
暗中模索だ。
しかしそれでも、
どこか
私達はすべてを
わかってやっている。
そんな眼差しが
どこかにありつつも、
今を
精一杯に
進む。
そして、
進むごとに
自分自身を取り戻し、
進むごとに
自分は開かれ、
本来の自分として
その未来に
たどり着く。
歓喜の道。
達成したその瞬間も
もちろん
嬉しいが、
一歩一歩が
歓喜の道なんだ。
悩もうが
迷おうが
そこに
歓喜があるんだ。
だから
未来を描くなら
真本音で
描こう。
つづく
昔、登山をしていた頃、
北アルプスや
南アルプスや
様々な山に登りながら、
時折ふと
遠くに聳える
富士山を見つけた
ものだ。
富士山は
どこからどう見ても
だいたいいつも
同じ形だ。
季節が変わっても
天候が変わっても
場所が変わっても
同じ形だ。
威風堂々とし、
かつ
神秘的で
揺るがない。
男性性も
女性性も
ある。
人は
そういった
揺るがないものに
安堵する。
富士山という
存在が
日本という国に
与えた影響は
私達が想像している
よりも
大きいのではないか
と思う。
・・・・・・
私達の中にも
揺るがないものは
存在する。
心はいつも
移ろうものだが、
心の中心には
揺るがぬ存在が
ある。
私はそれを
『真本音』
と名付けたが、
名前をつけても
つけなくても
それは
太古の大昔から
そこにある。
揺るがぬものを
常に感じながら
生きる人生と、
揺るがぬものを
知らぬまま
生きる人生では、
人生の質も中身も
根底から
変わるだろう。
同じ人間なのに、
人生は
根底から変わる。
揺るがぬものが
なければ、
私達は常に
何かに怯え続ける。
そして
その怯えに
打ち勝つための
人生か、
怯えから
逃げる人生か、
どちらかに
なるだろう。
どちらになっても
それは
不安定だ。
・・・・・・
怯える心を
怯えないように
矯正したり、
強制することは
不可能だ。
怯えの心は
そこに存在
し続ける。
なぜなら
それが私達の
本能の一つだから。
怯えても
怯えなくても
関係ない、
揺るがぬ存在が
そこにあれば、
怯えても
怯えなくても
関係のない人生と
なる。
いや、むしろ
怯えがあるからこそ
間違いなく進める
私達になる。
怯えの心を
なくさなければ、
というのは
不自然だ。
それは
世の中から
風をなくさなければ
と
言っているに等しい。
世の中に
風は吹く。
それが
自然だから。
心の中に
怯えは湧く。
それが
自然だから。
あらゆる自然を
そのままに
受け止め、
あらゆる自然を
そのままに
楽しみ、
あらゆる自然の
中で
聳え立つ。
そんな
まるで富士山の
ような自分に
私達は
誰もがなれる。
真本音を大切に
生きる
とは
そういうことだ。
つづく
その人の
心の中心には
火が灯っている。
確かに
火が灯っている
のがわかる。
だからその火を
大切にして
ほしい。
それは
命の灯火だ。
命そのもの
だ。
なのに、
その灯火を
打ち消すかのような
言動を
私達人間は
してしまうことが
ある。
それを
目の当たりに
すれば、
当然、
悲しくなる。
悲しくなるが、
他者として
できることには
限界があり、
自分の命を
活かすかどうかは、
これも
当然だが、
その人自身の
判断に
よるしかない。
その人の人生は
その人のもの。
その人の命は
その人のもの。
確かにその通り
だが、
本当に
それだけで
良いのだろうか。
それは
その人を
本当に尊重している
ということに
なるのだろうか。
・・・・・・
灯火と灯火は
本当は
共振し
共鳴する。
灯火が紡がれ、
さらに大きな
光になる。
そんな社会に
なれるといいな、と
いつも私は
願っているが、
そのために
全力を注いで
いるが、
なかなか、ね。
もし
人を救う力が
あるのなら、
私はその人を
救いたい。
でも、
その人を救う
ことは、
本当にその人を
救うことに
なるのだろうか。
そもそも
救う、
とは何だ?
命を救うのは
その人を
救うことに
なるのだろうか。
つづく
私達大人が
自分の心に蓋を
してしまうと、
子供たちだって
してしまう。
子供は大人の
真似をする。
しかし
これからの時代を
担う
若い世代の人たちは
私と同じ世代よりも
感受性が豊かだ。
だから
蓋をする生き方を
すれば、
言いようのない
気持ち悪さ
を感じるはずだ。
気持ち悪さを
感じて
自ら生き方を変える
ことができれば
良いが、
そう都合良くは
いかないだろう。
むしろ
その気持ち悪さに
さらに蓋をする
ということに
なるのではないか。
ますます
心は閉じこもって
しまうだろう。
私はそういう
社会になることを
本当に
避けたいと思う。
今の社会を
引っ張っている
我々の世代が
大人たちが
ちゃんと
自らの心と向き合い、
自分の本当に望む
生き方を
社会において
実践する。
それこそが
最も大事なこと
であり、
次世代に
良い世の中を
引き継いていくために
まずはできること
だと私は
思う。
・・・・・・
蓋をして
自分を誤魔化し
ながら生きることは
とてつもなく
深くて強い
ストレスを生み出す。
しかし、
それをしている
当の本人に
その自覚は
ない。
だからどうしても
サポート役が
必要だ。
最近、改めて
つくづく
思う。
世の中には
「コーチ」が
必要だ。
本物の
「コーチ」が
必要だ。
「コーチ」が
足りない。
「コーチ」が
いない。
何とかしたいと
改めて
強く思う。
つづく
やっぱり
向き合うかどうかだな
と
改めて思う。
人と人が
出会うのは
ご縁だが、
その縁を
本当に生かせるか
どうかは
運に任せる
わけにはいかない。
せっかく出会った
のだから、
その縁を
宝物として自ら磨く。
それをする
唯一の方法が
「向き合う」
だな、と。
ちゃんと
目と目を合わせ、
意識を
相手に向け続け、
自分の価値観とか
考えとかに
執着せずに、
その「場」そのものを
大切にする。
しかし
自分の価値観も
考えも
必要に応じて
ちゃんと表明する。
そして
相手の話を聴く。
喋る時も
聴く時も
意識は相手に
向け続ける。
そんな基本的な
ことを
一つ一つ丁寧に
続けることで、
この人と私は
なぜ出会ったのか、
が
理屈を超えて
わかる瞬間が来る。
その人と私は
何を創造すれば
よいのか、
が
理屈を超えて
わかる瞬間が来る。
その瞬間その場に
吹く風は
実に気持ちよく、
そんなときに
つくづく思うのだ。
この人と出会って
本当に良かったな、
とね。
つづく
あなたの心の
中心核には
「祈り」と共に
「問い」が
あるはずだ。
「問い」とは
人生のテーマ。
自分の人生の
最初から終わりまで
一貫して
持ち続ける。
探究テーマ
だ。
人生の問い。
それは
人それぞれ
異なる。
あなたの問いは
何だろう?
・・・・・・
あなたは
生まれた時から
毎日、毎日、
その問いと
共に
歩んできたはずだ。
問いは意識
せずとも、
ずっとそこに
あり、
問いの答えに
つながるヒントを
得るたびに
あなたは
理由のわからない
高揚感やワクワクを
感じ続けてきた
はずだ。
時には
問いから逃げよう
としたこともあるだろう。
そんな時期は
自分らしさから
遠く離れてしまう。
まるで
灰色のような
日々だったはずだ。
今のあなたは
どうだろう?
問いに近い日々
だろうか。
問いから遠い日々
だろうか。
・・・・・・
人生の問いは
実にシンプルだ。
説明も必要ない。
あなた自身の
問いだ。
もうそろそろ
思い出しても
良いのではないかな。
つづく
私達の中には
様々な
エネルギー源が
ある。
一つの種が
エネルギーを発する。
その種を
いくつ持っているか
によっても
その人の内発的な
エネルギー量は
変わる。
もちろん、
たくさんあればあるほど
幸せだろう。
あなたの中に、
そのエネルギーの
もととなる
新たな種が
芽生えたのでは
ないか?
よく
自己観察を
してみてほしい。
新たな種が
生まれることは
とても喜ばしいことだ。
それはあなたが
次のステージに
進むという兆し
でもある。
だから
新たな種は
ちゃんと自覚した方が
よい。
自分自身の
新たなエネルギー源。
それは
新たな目的かも
しれない。
新たな在り方・生き方
かもしれない。
新たなテーマ・課題
かもしれない。
いずれにしても
それを自覚し
意識を向けるだけで
あなたの中から
内発的なエネルギーが
発生する。
ちゃんと
自覚して、
さらに
楽しく進もう。
つづく
人って
こういうもん
なんだな。
人には
こんなところが
あるんだな。
人の本質は
こうだな。
・・・この仕事を
続け、
人について
わかるようになれば
なるほど、
人が
わからなくなった。
どこまで
わかっても
わかれば
わかるほど、
わからなくなる。
それが
人というものの
深さだなと
思う。
もともと私は
傲慢な人間なので、
俺はもう
いろんなことが
よくわかった、
と
以前はすぐに
思い込んだ。
その度に
痛い目に遭った。
懲りないところが
また
私というの人間なので、
何度も
同じ痛い目に遭いながら、
やっと
自分が何もわかっては
いないことを
わかることができた。
そして
わからない
という事実を
受け止められるように
なった。
そして
あぁこれこそが
謙虚さというものか、
とわかった。笑
謙虚さは
探究心を生む。
わからないので
あれば、
さらに
わかろうとする。
それが
永遠に続くであろう
ということは
わかっているのだが、
それでも
さらにわかろうと
努力する。
その姿勢こそが
謙虚さなのかも
しれない。
そして面白いことに
自分が
わからないことが
わかるほどに、
私は確信を持って
ものを言えるように
なった。
自信が
なくなればなくなるほど、
ある時のある瞬間に
確信が
芽生えるようになった。
その瞬間は
すべてがわかったような
感覚になる。
でも一瞬後には
何もわからなくなる。
すべてがわかった
その瞬間に
私自身が発する一言は
私でも
予測し得ないものであり、
その一言を
人に伝えることで
私は私自身をも
救ってきたと思う。
そしてまた
そんな体験が続くたびに
私はまた
私自身のことも、
人のことも、
わからなく
なるのだ。
つづく
人が
「本来の自分」
に
戻る瞬間がある。
今日のコーチングも
そうだった。
その瞬間、
風が吹く。
その人の心から
余分なものが
取り払われ、
私はまるで
初めてその人と
出会ったかのような
感覚を得るのと
同時に、
よぉ、久しぶり!
と、
旧友に再会したかの
ような
懐かしさを覚える。
そして
じわりと泣けてくる。
ずっと一緒に
いたのに、
その人は
その人では
なかった。
やっとその人と
出会えた。
出会ったら、
なんだ
あいつだったのか。
私のよく知っている
あいつだったのか。
・・・そんな感じ。
人間というのは
面白い。
そして、
「本来の自分」に
戻れたその人とは
ここまでとは
まったく異なる
会話が始まる。
これまでの
あのやりとりは
いったい何だったの?
と思うような
会話の展開となる。
次元が
変わるのだ。
そして、
その人の
さっきまで語っていた
悩みは
もはや悩みでは
なくなり、
そんなことは
どうでもよくなり、
それよりも
前に進むための
最も大事なテーマを
その人は
語り出す。
人間というのは
面白い。
つづく
辛い辛い、
と言いながら、
魂が笑っている
人がいる。
幸せ幸せ、
と言いながら、
魂が苦しんでいる
人がいる。
私達人間は
面白い。
表面の自分と
奥の自分が
乖離している。
そんな人が
多い。
しかし私なぞは
もっとみんな
素直に生きれば
いいのに、
と思う。
魂が笑っているなら
顔も笑えばいい。
魂が苦しんでいるなら、
その辛さを
素直に感じればいい。
乖離をする必要は
ないのにな、と
思う。
・・・・・・
一貫性。
奥の自分と
表面の自分が
一致すること、
であると
私は捉えている。
一貫性の
取れている人は
魅力的だ。
その人にしか
出せない味を
出す。
空気感に
現れる。
一緒にいたいと
思う。
そんな人はきっと
いろんな調和を
生み出す。
その人にしか
創り出せない人生の
成果を
創り出すだろう。
そういった意味では
一貫性と素直さとは
私の中では
同じ意味だ。
・・・・・・
魂の望む生き方を
素直に
してほしい。
単純に私は
いつもそれを
願っている。
自分に対しても。
人に対しても。
世界に対しても。
一貫性のとれた
素直な世の中に
したいものだ。
つづく
想いが100
あるならば、
行動は
300くらいするのが
ちょうどいい。
この世は
制約だらけだ。
想いは自由に
持てるが、
行動はそう簡単に
自由には行かない。
動けば
いろんな障害に
当たるだろう。
だからこそ
300動くんだ。
・・・・・・
例えば、
一年後の目標が
あるならば、
半年で
実現するつもりで
動こう。
1ヶ月先の目標が
あるならば、
半月で達成する
つもりで動こう。
予定している
時間の
半分ですべてを
完了させる。
それくらいが
ちょうどいい。
・・・・・・
いざ動こうと
すれば、
私達は
自分で自分を
縛る。
できない理由を
自分に浴びせ、
動かないように
動かないように
持っていこうとする。
人間、
そうなるのは
仕方ない。
でもだからと言って
動かない
という選択肢は
ない。
それが
今だ。
・・・・・・
動くべき時が
ある。
決断すべき時が
ある。
それが
今だ。
今、動かずして
いつ動く?
いつ
自分の人生の
流れを
変えると言うのだ?
つづく
人の面白さ
とは、
自分のことを
自分自身が
ちっともわからない
ところに
あるのかもしれない。
自分のことを
本当に理解できれば、
私達はもっと
楽に生きられる。
自分は確かに
ここにいるのに、
自分は自分
なのに、
自分のことが
わからない。
何を考えているのか
わからない。
何を願っているのか
わからない。
わからないという
ことすら
わからない。
だから誰もが
いつも戸惑う。
たまたま
その時に思いついた
答えが、
自分の答えだと
思い込む。
たまたまその時
大きかった気持ちが、
自分の気持ちの
すべてだと
思い込む。
本当は
それらは
答えの一部、
気持ちの一部、
でしかない
のに。
自分自身の
見えているところ
だけが
自分だと
思い込む。
自分が自分の
ことを
一番、わかっていると
思い込む。
だから余計に
わからなくなる。
これが
私達であり、
だからこそ
面白いのかも
しれない。
・・・・・・
自分のことを
理解したければ、
自分自身に
問うしかない。
問いかけ
続けるしか
ないではないか。
問いかけては
本当の答えだと
思えるものを
答えとし、
行動するしか
ないではないか。
しかし
それすらも
真面目にはやらない。
問うことすら
しない。
そりゃ、
なんとも
ならんわな。
内側を見つめ、
行動をし、
その結果
外側で起こる現実を
見つめ・・・。
その繰り返しで
私達は
生きていくしかない
のだ。
どうせなら
その一つ一つを
楽しみたい。
そのためには、
その一つ一つを
真剣にやろう。
真剣に
自分を
理解しようと
決めよう。
だって
自分とは
自分のことなの
だから。
つづく
私はここで
何をする?
・・・この問いと
常に向き合い続ける
人は
誠実だ。
自分自身の存在意義
とは
自分で見つけるものだ。
見つけようと
するものだ。
それを放棄する
その瞬間から、
私達の中には
「虚無」が
発生する。
しかし本当は
「虚無」などというものは
ない。
「虚無」という
概念と感覚を
私達は勝手に
創り出しているだけだ。
にも関わらず、
私達は心の中に
多かれ少なかれ
「虚無」を持ちながら
生きている。
そしてそれを
極度に恐れる。
蓋をするから
余計に怖くなる。
蓋を開けられなく
なり、
「虚無」から目を
背け続け、
誤魔化しながら
生きるようになる。
誤魔化しの人生の
多くは、
ここから始まる。
私の仕事とは
人々の中の「虚無」と
向き合い続ける仕事
だとも言える。
当然、私の中にも
「虚無」は生まれる。
しかし私は
あっ、生まれたな
と
敏感に自覚できるから
幸いだ。
自覚できたら
すぐに向き合う。
向き合えば
その「虚無」が
どこでどのように生まれたか
がわかる。
わかれば
対応できる。
やはり多くの場合は
自分自身に
問題がある。
私はここで
何をする?
から逃げてしまって
いる時が多い。
私だけでなく
みんなも日々、
「虚無」を創り出す。
だから思う。
もっとこの問いと
真摯に向き合うこと。
答えがわからなくとも
真摯に向き合うこと。
それこそが
人生と真摯に向き合う
基本ではないか、と。
私達は
何らかの環境の中に
生きている。
今、いる環境とは
必ず縁が
ある。
縁とは意味である。
意味があって
必ずここにいる。
中途半端な意味を
無理に見出す
必要はない。
しかし、
私はここで
何をする?
という問い自体を
本当に
大切にし続けたい。
ひょっとすると
それだけで
人生は変わるかも
しれない。
つづく
この人、
なんといい加減なんだ、
と思う人の
中にこそ、
とてつもない覚悟を
感じる時がある。
そんな時、
あぁだからこそ
ここがいい加減なんだ、
と
妙に腑に落ちる。
人間の妙
だ。
皆、
個性がある。
どこを気にして、
どこを気にしないか、
という風に
個性は現れることが
多い。
それを
面白味として
捉える大らかさが
あれば、
その人の覚悟は
育つ。
私はひょっとすると
これまで、
その大らかさの
大切さを
学ばさせていただいた
のかもしれない。
それが
私の人生だった
のかもしれない。
よく、
「長所を伸ばせばいい」
という言葉を
聴くが、
それを聴くたびに
「安直なことを言うな」
と
言いたくなる。
人間は
そんな単純な
ものだろうか。
そもそも
長所ってなんだ?
自分にとって
都合良く、
その人の長所を
決めつけていないか?
実は、
その人の短所の
奥にこそ、
その人の本質が
隠されているのかも
しれないのだ。
その人の覚悟が
埋もれているのかも
しれないのだ。
人間とは
深いものなのだ。
しかも、
人は生まれ変わる。
生きながらにして
生まれ変わる。
人によっては
何度も。
人間を
短絡的な解釈のみで
決めつけてしまっては
ならない。
人間とはもっと
深いものなのだ。
つづく
また
潮目が変わった。
止まっていたもの、
淀んでいたもの、
が
一気に流れ
始めた。
正常な動きだ。
淀むこと自体は
悪いことでは
ない。
一気に流れる
パワーを宿すために
あえて
淀むことがある。
淀みと流れと
その連続で
世の中の潮流は
動き続ける。
正常な
ことだ。
・・・・・・
潮流に乗る
ためには、
淀むときに
ちゃんと淀む
ことだ。
淀みから
逃げては
ならない。
ただの流れは
何も生まない。
そこに
進化はない。
進化を求める
からこそ、
挑戦をする
からこそ、
様々な淀みが
起こる。
淀んで
流れ、
淀んで
流れ、
実に正常だ。
実在のレベル
では、
世の中は随分と
正常になった。
その正常さと
今の世の中の
現実(現象)を
ちゃんと
繋いでいくことだ。
一致させて
いくことだ。
これからの
最重要テーマは。
・・・・・・
挑戦したいことが
あるならば、
素直に
挑戦しよう。
未知の領域に
突入するには
好機だ。
今、変わらねば
いつ変わる?
つづく
頭で
考え過ぎだ。
考えることは
大事だ。
しかし
「考え」だけで
答えを創り出そうと
しない方がい。
そこには
「答え」はない。
「考える」とは
余分な気持ち達を
一つ一つ
存在承認しては
除ける
ためにある。
こんな考えも
あるな。
あんな考えも
あるな。
自分の中にある
様々な「考え」を
すべて掘り起こし、
存在承認し、
そして
除ける。
それが
「考える」という
行為だ。
真の答えは
その奥にある。
「考え」の
向こう側にあるからだ。
奥にあるそれが
顔を出すまで
考え続ける。
というスタンスであれば
それでいい。
「考え」の中から
強引に答えを
創り出そうとしては
ならない。
真の答えは
最初からある。
それは
いずれ必ず
顔を出す。
まるで
過去の出来事を
思い出すかのように。
だから、
もし「考え尽くしたな」
と思えたり、
同じ考えばかりが
出てくるようになったら、
今度は逆に
心を静かに、
すべての思考を
やめて、
「何もない」
状態で
「何もしない」
でいるといい。
そのためには
思考に向けた意識を
「外」に向けると
いい。
意識を
自分以外の何かに
向ければいい。
外にあるものを
ただ
観察し、
目で愛でていれば
いい。
世の中を
世界を
愛でるような眼差しで
楽しめばいい。
そうやって
真の答えが
「そろそろ出ようかな」
となる瞬間を
待てばいい。
つづく