チームパフォーマンスコーチ

言葉の本質を探ろう

 

「言葉」を

単なる意味として、

解釈として

頭で捉えるのでは

なく、

 

体験として

捉えてみる。

 

過去の自分の

体験として。

 

しかしそれは

過去を

思い出している

というだけに

留めない。

 

例えば、

 

『楽しむ』

 

という言葉がある。

 

意味は誰もが

知っているだろう。

 

しかしそれは

解釈に過ぎない。

 

解釈は

解釈だ。

そこで終わっていると

私達はその本質には

到達し得ない。

 

過去の自分の

「楽しむ」体験を

思い出そう。

 

最も「楽しむ」ことの

できた体験を。

 

しかもそれは

思い出すだけでは

いけない。

 

もう一度、

今ここで

その体験を

し直そう。

 

今ここで

まさにその出来事が

起きているかの

ように。

 

そして、

まだ、これでも

足りない。

 

その「体験」を

「楽しむ」

そのものとして

味わうのだ。

 

頭の解釈

ではない。

 

その体験を

通じて、

自分自身が

 

「楽しむ」そのもの

 

となるのだ。

 

私は

「楽しむ」

だ。

 

・・・と。

 

自分の

全身全霊すべてが

「楽しむ」そのもの

となる。

 

その時になって

初めて私達は、

 

「楽しむ」の本質

 

を理解する。

 

もちろんそれは

その人それぞれの

理解で良い。

 

自分なりの

「楽しむ」の本質

で良い。

 

私がこれを

やったら、

 

私が

「楽しむ」そのもの

となったら、

 

私は私の「中心」に

何かの存在を

感じた。

 

それは「卵」の

ような

何か。

 

私はそれを

「守っていた」。

 

とてつもない

深い愛で、

それを

守っていた。

 

それを守りながら

私は

高いエネルギーを

もって

活性化をしていた。

 

そこで

理解したのだ。

 

私にとっての

「楽しむ」

とは、

 

「守るべきを守り

活性化すること」

 

であると。

 

以上が、

「言葉」を

真に「自分のものとする」

ということだ。

 

この世の言葉は

すべて

記号に過ぎない。

 

しかしその記号は

すべて

本質と繋がっている。

 

特に

自分にとって

大切にしたい言葉、

好きな言葉、

自分自身の本質と

相まって

ここに存在している。

 

こういったことを

一つ一つしっかり

理解することこそ、

 

自己理解

ではないか。

 

自分の人生を

理解する

ということでは

ないか。

 

つづく

 

仮の姿だったのだ

 

私は

変わった。

 

少なくとも

もう

「コーチ」ではない。

 

コーチではない

人間が

コーチをしている

のだから、

 

だんだんと

私の活動は

コーチから外れて

行くだろう。

 

こうなることは

今から思えば、

数年前から

わかっていた。

 

私は

変わる。

と。

 

そのための

私のあらゆる

行動だった。

 

その意味が

今はよく

わかる。

 

そして

私はすでに

変わった。

 

本質が。

 

私の本質が

今は何か?

ということについては

 

まだ書くのは

やめておこう。

 

突飛なもの

ではない。

 

「コーチ」という

方がむしろ

突飛だろうな。

 

私は私の変化を

今はもう

必然的なものだと

すべてを

受け入れている。

 

自分が自分との

約束を

果たすための

一つの過程で

あるし、

 

それを経なければ

私は

私の人生の目的を

果たすことは

決して

できないことを

知っている。

 

しかも

その、新たな私に

違和感は

まったくない。

 

というか、

私は生まれてから

ずっと

これ、だったに

違いない。

 

「コーチ」とは

仮の姿だったのだ。

 

仮の姿を

人生の本来の姿

であると

100%信じ込み

進んできたからこそ、

 

これ、である

私になれた。

 

ここ、に

たどり着いた。

 

仮の姿を

経なければ

決して

たどり着かなかった。

 

仮の姿・・・。

 

皆さんの中にも

私と同じような

過程で進んでいる

人は

 

多いのでは

ないか。

 

だから

このヘンテコな

ブログを

長く読み続けて

いただいている・・・。

 

そろそろ、

 

仮の姿を

捨てる時では

ないか?

 

つづく

 

勉強すんな

 

インプットは

すれば良い

というものでは

ない。

 

余分な勉強は

すればするほど

本質が

わからなくなる。

 

自分の中に

既に明確な答えが

あるにも関わらず、

下手なインプットを

することで、

それが遠のいてしまう。

 

何のための

インプットか?

ということを

もっとしっかり考えないと

わけがわからなくなる

のが

今の時代だ。

 

私はこれまでの

人生で

本をまったく読まなくなった

という時期が

何度もある。

 

読まなくて

よかった、

今、振り返ると

よくわかる。

 

特に、真本音という

概念を確立した

数年間は、

本当に一冊も本を

読まなかった。

 

ただ、

目の前の人と

ひたすらに

向かい合った。

 

セミナーとか

勉強会とか

そういったことにも

一切、参加せず。

 

おかげで

本当に「現場」の中から

私の人生を決定する

「真本音」という視点を

見つけることができた。

 

下手なインプットは

自分の目を

惑わせる。

 

人生を

遠回りさせる。

 

・・・というくらいの

認識は必要だろう。

 

真本音度合いが

高まると、

 

この情報は

必要ないな。

 

この本は

読んじゃダメだな。

 

ネットで

このサイトは

見ちゃダメだな。

 

この番組は

見ちゃダメだな。

 

・・・ということが

瞬時にわかるように

なった。

 

無駄な情報は

取り入れない、

決めると逆に、

 

この本は

今、読むべきだな。

 

この番組は

見た方がいいな。

 

このサイトは

今の私には

価値があるな。

 

・・・ということも

明確にわかるように

なり、

勉強の効率も随分と

上がった。

 

今の時代、

多くの人達は

インプット過多だ。

 

だから

まずは

アウトプットを

オススメする。

 

どこかに答えを

探すよりも、

自分で考えて

答えを書いてみる。

 

自分の意志を

書いてみる。

 

まずは自分だけで

答えにたどり着こうと

してみる。

 

そこから始めると

良いと思う。

 

私は昔から

とにかくよく書く。

 

書きながら

発想するのは

セルフコーチングの

基礎でも

あるんだよ。

 

つづく

 

場を選べ

 

真本音度合いを

高め、

 

自らの意志・意思で

自らの一歩を

選び、

 

地に足をつけた

進み方ができている

人を、

 

私は

自律した人

呼んでいるが、

 

もし

私はもう自律

できているな、

自分自身に対して

納得できるならば、

 

次の段階に

進むといい。

 

次の段階とは

 

『場をプレゼントする』

 

という段階だ。

 

自分自身に

プレゼントするのだ。

「場」を。

 

つまり、

自分が活躍する

ステージを

自らのために

選ぶ、ということ。

 

環境を選ぶ

ということ。

 

本当に今、

私がいる「場」の

ままで

良いのだろうか?

 

しっかりと

問い、

 

今の「場」に違和感を

覚えるなら、

 

本当は

どんな「場」が

良いか?

 

ということと

真正面から

向き合うといい。

 

これは多くの場合、

人生の大きな

転換点となるが、

 

その覚悟を

もって

向き合うべきだ。

 

自律できたら

場を選べ。

 

今はもう

その時だろう。

 

つづく

 

私のやり方です

 

セルフコーチングの

いつもの私のやり方を

教えます。

 

私の場合、

 

まずは自分の中に

何らかの

「発想」

が浮かんだことが

わかる。

 

多くの場合、

それは

「光」として

認識される。

 

つまりは、

私の心の中に

「光」が発生する

わけだ。

 

あっ、

「光」が来たな。

 

わかったら、

その「光」に

意識を向ける。

 

ただ、

意識を向ける

だけ。

 

何も考えない。

 

すると、

私はその「光」と

一体化を

自然に始める。

 

「光」の中に

全身が

入っていく感じだ。

 

「光」の中に

入ったら、

じっと

そのまま「光」を

感じる。

 

何も考えない。

思考しない。

 

すると

フッと

まるで思い出すような

感覚で、

 

「問い」が

浮かぶ。

 

そうしたら、

「光」の中のままで

自分にその「問い」を

投げる。

 

すると

多くの場合、

その直後に

「答え」

を思い出す。

 

まさに

「思い出す」感覚

だ。

 

これを

一日に何度も

行なっている。

 

これで

自分が今日すべき

ことや、

 

今日すべき仕事に

必要な発想は

すべて揃って

しまう。

 

未来のビジョンも

課題も

必要な時に

必要な形で

明確になる。

 

なぜこの私の

やり方を

ここに書いたかと

言えば、

 

皆さんの中には

もう

やろうと思えば

このやり方のできる人が

いるのではないか。

 

生産性、

メッチャ上がります。

 

試してみて

ください。

 

つづく

 

やるべきことを知った瞬間

 

空から地上を

見降ろせば、

 

いつも地上に

いるのとは

まった別の景色が

見れるだろう。

 

正しいと

思っていたことが

間違っていて、

 

間違っていると

思っていたことが

実は

正しかったのだと、

 

根本的に

考えを改めることも

あるかもしれない。

 

どこに立って

ものを見るか?

 

によって

人生は変わる。

 

私達は

一つの点だ。

 

だからと言って

たった一箇所に

留まらねばならない

という

法はない。

 

私達は

一点でありながら、

 

無限の点

でも

あり得る。

 

それを拒むのは、

自分はただの一点である

という

自己イメージにすぎない。

 

私は今の仕事を

通じて、

 

人の心は

人の内側は

宇宙と同様に

広くて深いことを

知った。

 

内側の宇宙と

外側の宇宙。

 

その接点が

「人」であり

「私」であると。

 

接点は

一点かもしれないが、

 

その一点には

「無限」と「無限」

重なり合っている。

 

むしろ

「無限」と「無限」を

重ねるために、

 

私達は

ここにいる、

 

と。

 

人は

ここにいる、

 

と。

 

さらに、・・・

 

実は、

これまで内側だと

思っていたものが

外側で、

 

外側だと

思っていたものが

内側なのでは

ないか、

 

ある人と向き合って

いる瞬間に

感じ取った。

 

その瞬間、

一瞬

すべてがひっくり返った

感覚がきて、

 

次の瞬間、

あらゆるものの

景色が変わった

感覚がした。

 

何がどう

変わったのかは

よくわからない。

 

ただ、

 

私には

やらねばならない

ことがある、

直観した。

 

私達は

ただの一点

ではない。

 

宇宙と宇宙を

結ぶ

一点だ。

 

その実感は、

人生の見方を

一変させる。

 

その同じ感覚は

皆さんにも

すでに

あるのではないか。

 

つづく

 

重く見つめている

 

傷ついて

倒れて

エネルギーまで

枯渇する。

 

そんな状態に

なると

人はどうなるか?

 

すべてに絶望

してしまうのか?

 

案外

そうでもない。

 

自分の進み方

さえ

できていれば。

 

あらゆる物事の

結果の前には

原因がある。

 

原因の中でも

最も核になるのが、

 

その結果を

出すまでの

自分の進み方だ。

 

自分の

生き方だ。

 

結果は

状況により

変わるだろう。

 

運・不運

というのも

あるだろう。

 

しかし私達は、

「状況によって

左右されるもの」

原因としてあまり

重く捉えていない。

 

状況によって

変わるのは

当然だと

捉えている。

 

しかし一方で、

状況によって

ではなく、

自分の意志・意思

として

変わるものがある。

 

その

自分自身が示した

意志・意思が

どのようなものだったか?

私達は

 

私達の真本音は、

と言った方が

良いかもしれないが、

 

重く見つめて

いる。

 

つまりは

それが

生き方であり

進み方だ。

 

自分は自分の

意志・意思として

どんな生き方を

その時、

選択していたか?

だ。

 

私達が

絶望したり、

虚無感に陥ったり、

 

あらゆることに

無気力になる時、

 

それはほぼ

間違いなく

自分の望む生き方・

進み方とは

異なる選択をし続けた

結果だ。

 

その場合、

たとえ結果がたまたま

上手くいったとしても、

 

虚しさが

発生する。

 

心のどこかに

ポッカリと

穴が空く。

 

私達(の真本音)は

私達自身を

じっと

観察しているのだ。

 

自分自身の

意志・意思を。

 

生き方を。

 

もちろん

結果は大事。

 

私達は結果を

出さねばならない。

 

しかし、

その結果に至る

原因としての

生き方・進み方。

 

それによって

さらに次の結果が

大きく左右される。

 

その後の

人生展開が

大きく左右される。

 

いかに

結果を出すか?

 

だけでなく、

 

いかに

自分の生き方と

結果を

結びつけるか?

 

これが

すべての人に共通の

テーマだろう。

 

自分の生き方を

大切に「しよう」と

し続ける人は、

 

どのような状況に

なったとしても、

 

どのような結果が

出たとしても、

 

決して

虚無や絶望に陥ることは

ない。

 

つづく

 

未知なんだ

 

人間の心は

宇宙のように

広いと、

私は日々

実感する。

 

なのに、

心の浅いところ

表面的な部分

のみの

自分の心を感じて、

 

これが私だ

 

理解できた気に

なる。

 

それはまるで

ちょっとだけ

大気圏を

出ただけで、

宇宙すべてを

理解できたと思い込む

に等しい。

 

もっと

自分という存在を

探究すれば

良いのに。

 

もっと

未知の自分を

見つけ出そう

すれば良いのに。

 

いつもそう思う

のは、

この仕事を始めてから

ずっと変わらない。

 

もちろん

私自身だって

私のことはまだ

何にもわかっちゃ

いないだろう。

 

知れば知るほど

わからなくなる。

 

理解すれば

理解するほど

わかっちゃいない

ことが

さらにわかる。

 

それが

私達人間の

奥深さだ。

 

そして、

 

私達の心の

中では、

いつも

 

次々に

超新星が

生まれている。

 

それは

自分自身の心の

全体に

非常に大きな

インパクトを

与え続ける。

 

しかし

そのことに

気づいていないのが

自分自身だ。

 

私達は常に

インパクトのある

変化を

続けているのに。

 

なぜ、

昨日までの自分に

 

執着する?

 

ちょっとだけ

覗き見た

表面上の皮膜みたいな

部分を

掬って、

 

これが私だから、

決めつける?

 

もったいない、

というよりも

 

もっと私達は

自分自身に対して

誠実であるべきでは

ないだろうか。

 

誠実さの第一歩は

「知ろう」

とすること。

 

「知ろう」と

するためには、

 

「挑戦しよう」

だ。

 

挑戦なくして

新たな自分を

知ることはない。

 

つづく

 

聡明のもと

 

前転が

上手くできるから

と言って、

 

バク転が

上手くできるわけでは

ない。

 

ただ、

床の感触を掴む力とか、

自分の体の

バランス感覚とか、

 

前転を通じて

得たものを

バク転に活かす

ことはできる。

 

本質を掴めば

応用が効くように

なる。

 

最近、

ある企業様で

「教え方研修」

というのをさせて

いただいた。

 

研修講師としての

教え方を学ぶ

という研修だったが、

 

この研修を企画担当

された方が、

私の講義をお聴き

いただいた後に、

 

「今回は教え方を

教えていただきましたが、

この内容は

教え方以外の

あらゆる仕事にも

使えますね」

 

言ってくださった。

 

これもまた、

本質を掴んで

いただいたからこそ

出てくる言葉。

 

物事を

表面的な形として

のみ捉えるのでなく、

 

常にその本質を

掴もうとする。

 

そういった姿勢は

とても大事だ。

 

あらゆるものに

本質はある。

 

本質のない

ものはない。

 

・・・という

見方をすると

良いだろう。

 

もちろんそれは

自分自身にも

言える。

 

「自分」の

本質は何だろう?

 

「自分の人生」の

本質は何だろう?

 

難しい問い

だろうか。

 

いや、

 

答えがすぐには

わからなくとも、

常にそのような問いを

投げ続けることこそ

大切だと思う。

 

頭の聡明さ

とは、

こういった地道な

問いによって

養われるのだと

思う。

 

つづく

 

静かなる一点を

 

今の自分の

全エネルギーを

一点に集中させる

としたら、どこか?

 

この答えを

常に

明確にできていると

強い。

 

たとえ、

実際には一点に

集中できないとしても、

 

本来は

どこに集中したいか?

 

自分の中で明確に

しておくだけでも

強い。

 

一点突破

一点。

 

この絞り込みが

できるように

なろう。

 

エネルギーの

分散癖のついている

人は多い。

 

前に進もう!

すればするほど、

いろんなことに手を

出してしまう。

闇雲に。

 

結果として

エネルギーが分散し、

すべてが

中途半端になる。

 

そして

一つも道が

開かない。

 

その人に

エネルギーが足りない

わけではない。

 

エネルギーの使い方

が下手なのだ。

 

自分には

無尽蔵にエネルギーが

ある、

と思い込むのも

良くない。

傲慢だ。

 

もちろん

無尽蔵にエネルギーが

溢れることも

ある。

 

しかし

そんな自分になれるのは

充分な

エネルギーコントロール力が

ついてからだ。

 

静かに

呼吸を整えた上で、

静かに

自分自身と向き合おう。

 

今の自分の

最大の課題は

何か?

 

今、自分は何に向けて

最大のエネルギーを

かけるべきか?

 

何に集中

すべきか?

 

静かに問い、

静かに答えを

出そう。

 

つづく

 

始めるなら

 

自分の中に

ある

大樹のように

揺るがぬもの。

 

その存在を

常に

感じ続けるだけで、

 

生き方は、

その一歩一歩は、

180度変わる

ことがある。

 

次の一歩を

どうするか?

 

今ここにある

選択肢のうち

どれを

選ぼうか?

 

それらを

大樹を感じながら

するのと、

そうでない状態で

するのとでは、

 

選択の質が

変わる、

というよりも

 

もっと根本的な

自分という

存在そのものの

土台のような

何かが

変わる。

 

その体験を

多くの人達が

できるといいな、

という

願いを込めて、

 

私はそれを

「真本音」

というキーワードを

使い、

皆様にご紹介して

きた。

 

それからもう

20年経つ。

 

思えばちょうど

2002年から

なのだ。

これを本質的に

始めたのは。

 

しかし今でこそ

私は

そういった生き方が

できるが、

20年前は当然の

ことながら、

一日のほとんどを

私自身が

大樹を忘れていた。

 

今も未熟だが、

当時の未熟ぶりは

それこそ

大したものだった。

 

でも

思うのだ。

 

未熟な私

だったからこそ、

真本音を

必死に

語り続けることが

できたのだと。

 

「未熟だから

できません」

 

「もっと成長してから

始めます」

 

・・・というのは

だから私は

違うと思う。

 

志があるならば、

想いがあるならば、

 

今、

始めよう。

 

人間は

どこまで行っても

未熟だ。

 

未熟なのが

人間。

そこに価値が

ある。

 

未熟の極みが

真本音を語り続けた

ところに

価値があると、

 

20年やり続けて

本当にわかった。

 

始めようと

思うことは、

 

今、

始めよう。

 

今、

始めよ。

 

つづく

 

フワフワのままで

 

私達は

新たな自分に

変わる時、

 

これまでの

心の立ち位置を

変える。

 

そのため、

 

これまで

当たり前のように

立っていた

心の中の大地を

 

捨てる。

 

イメージで言えば、

その大地から

飛び上がり、

 

空中を

フワフワ漂いながら、

次の大地を

探す。

 

当然、

その間は

地に足がついて

いない。

 

心は

落ち着かず、

不安定になる。

 

その不安定さが

嫌で、

とにかくどこでも

良いから、と、

たまたま感じる

新たな大地に

スッと降りてしまう

人は多い。

 

しかしここで

安易に

決めてしまっては

ならない。

 

せっかく

自分を大きく

変化させるんだ。

 

本当に自分が

納得のいく

大地を

自分自身が見つける

まで、

 

待っていて

あげてほしい。

 

フワフワの

ままで。

 

落ち着かない

ままで。

 

むしろ

その不安定さを

楽しもう。

 

今は。

 

つづく

 

未踏だ

 

目の前が

鏡のように

なる。

 

すぐ目の前に

私がいる。

 

目と目が

合っている。

 

何かを

訴えかける目。

 

その

言葉にならない

メッセージを

確かに

受け取る。

 

瞬間、

 

ハッと

目が覚める。

 

胸の真ん中

あたりに

 

電流のような

何かが

走った感触と

ともに、

 

わずかな

空虚感。

 

そして、

わずかな

高揚感。

 

新たな芽が

生まれた、

恐らく。

 

これから

私は

その芽を

育てるのだろう。

 

それは

今後の私に

とって

新たな武器と

なる。

 

道を切り拓く

ための。

 

これまでの

自分とは

別物になるという

覚悟が

 

もうすでに

私の核を

揺さぶり続けて

いる。

 

その最初の

兆しだ。

 

ここからは

本当に

未踏だ。

 

つづく

 

中心を尊重する

 

自分の心の中心に

意識を

向けてみよう。

 

思いっきり。

 

自分の心の中心に

入っていこう。

 

中心に入ったら、

さらにその中に

中心があるはずだ。

 

その中心にまた

入ったら、

 

さらにその中にも

中心が

あるはずだ。

 

さらにさらに

その中心に入れば、

 

さらにその中に

中心が・・・。

 

このように

心の中心の中心の

中心の・・・

と、

行けるところまで

進んでみよう。

 

すると、

 

最後に行き着く

本当の本当の

中心には、

 

何がある?

 

・・・・・・

 

私の場合、

これをすると

最後の中心には

 

「探究心」

 

があった。

 

何をするにしても、

その物事の

本質を

掴みたい。

 

人として

人生を生きる

ならば、

 

人生の本質を

掴みたい。

 

「人」の本質を

掴みたい。

 

知りたい。

 

わかりたい。

 

理解したい。

 

・・・といった

飽くなき探究心

だ。

 

私の場合、

それがすべての

原動力に

なっていたようだ。

 

恐らくこれは

一生続くだろう。

 

これがあるからこそ

私は今の

お仕事を選んだ

のであり、

 

これがあるからこそ

私は

今後の私のビジョンを

目指し続けている。

 

逆に言えば、

 

この探究心を

疎かにしてしまう

ような

人生の選択を

私はしないだろう。

 

これまでも

してこなかったし、

これからも。

 

自分の本当の

中心にあるものを

大切にすることで、

私達は

自らの人生を

大切にできる。

 

もし

自分の人生に

何となく

言葉に言い表せ

ないような

不満足感や

虚無感などが

あるならば、

 

それは

自らの中心を

大事にできていない

からだろう。

 

皆さんの中心の

中心の中心の・・・

最後の中心には、

 

何がある?

 

つづく

 

変化に敏感に

 

自分自身の

変化。

 

皆さん自身の

変化。

 

特に

能力面の変化。

 

そこに意識を

向けることを

お勧めします。

 

自分は

どこが

パワーアップしたか?

 

もしくは、

 

自分は

どこが

パワーアップしようと

しているか?

 

最初は

わずかな変化の芽

かもしれない。

 

でも、

自らそれを

見出し、

 

大切に育てて

ください。

 

私自身も

どうやら

メッチャ変化し始めて

いるみたい。

 

私の周りの

人達にも

それを感じます。

 

皆さんも

そうではないかな。

 

今は

変化の時。

 

加速のための

変化の時。

 

私達は

ここからさらに

加速をしようと

しているんだね。

 

つづく

 

逃げずに答えを

 

なんか最近、

とても重要かつ

基本的かつ

 

今、本当に必要な

問いが

浮かんでくる。

 

ぜひ、

しっかりと

自由に

発想してみよう。

 

・・・

 

今、私が

最も向き合うべき人は

誰?

 

・・・

 

今、私達は

重要な転換点にいる。

 

ずっと

そう言い続けている

みたいだが、

恐らくここ数ヶ月が

長い目で見た

場合の

本当に重要な転換点

なのだ。

 

その転換点の

中でも

特に重要なポイントが

あり、

 

この

2月10日前後は

そのポイントに当たる

私は直観している。

 

そこで今日は

上記の問いだ。

 

今、ここだからこそ

向き合うべき人は

誰だろう?

 

その人から

逃げては

ならない。

 

その人を

逃しては

ならない。

 

安易な答えは

いけない。

 

本当の答えを

今、

見つけ出そう。

 

つづく

 

何者?

 

人間とは

面白いもので、

 

・・・恐ろしいもので、

とも言えるが、

 

自分の「立ち位置」

を変えるだけで、

 

人生の選択の

仕方が、

 

答えの出し方が、

 

真逆にさえ

なってしまう。

 

私自身で言えば、

私はもうすでに

「コーチ」

ではない。

 

「コーチ」という

立ち位置に

ない。

 

もっと別の

立ち位置にあり、

そうしたのは

どれくらい前だったか?

 

一年くらい

前かな?

もっと前かな?

 

忘れてしまったが

とにかく

「立ち位置」を

変えた。

 

で、改めて

振り返ってみると、

それにより

私の人生やビジネスの

進み方は

 

とてつもなく

大きく変わったように

思う。

 

「コーチ」のままだったら、

間違いなく

今のここには

いない。

 

今のこの現実とは

まったく異なる

現実を

生きているはずだ。

 

もちろん、

私は自分の意志で

「立ち位置」を

変えた。

 

だから今の現実は

私の望んでいるもの

であり、

ここからの道も

望んでいるものだ。

 

しかしもし、

自分の「立ち位置」を

自分で決めて

いなければ、

 

そんな人生は

恐ろしいよな、

改めて思った。

 

「立ち位置」

・・・別の言葉で

表現すれば、

 

「私は何者で

ありたいか?」

 

「何者として

進みたいか?」

 

である。

 

今の私には

この問いに対して

「コーチ」とは

まったく別の答えが

ある。

 

ここには

書かないけど。

 

あなたは

どうだ?

 

あなたは

何者として

進む?

 

ちゃんと明確に

決めよう。

 

今は決める

ときだ。

 

つづく

 

約束を問う

 

今回は、

問いを一つ。

 

・・・

 

私は、何をカタチにするために

生きているのだろう?

 

・・・

 

自分自身の

深いところへ

投げてみよう。

 

この問いは

かなり

難しい問いだ。

 

答えがすぐに

わかったとしたら、

 

それを「答え」と

せずに

 

さらにもっと

深いところにある

答えを

見つけ出して

ほしい。

 

「カタチ」

の定義は

人それぞれだが、

 

私達は

何かを「カタチ」に

するために

生まれてきた。

 

その

自分自身との

約束を

思い出すときが、

 

今だ。

 

つづく

 

チャンスと向き合う

 

人生において

飛び立つチャンスは

何度もある。

 

しかし、

 

本当に飛び立つ

べき時に

それをしないと、

 

その生き方が

癖になる。

 

そして、

その癖のまま

チャンスを何度も

逃すことになる。

 

そのうちに

自分自身のその

生き方に対して

自分自身が

(無意識的に)

腹を立て、

 

自分のことなのに

自分にそっぽを向く

という状態になる。

 

私はそれを

 

「真本音が

くさった状態」

 

と呼んでいる。

 

くさる、とは

本当に腐ってしまった

という意味ではなく、

 

気が滅入って

もうどうでもいいや、

となってしまう

あの状態である。

 

自分の真本音

すら

自分のことに

呆れてしまうのだから、

 

その人の周りにいる

人達は

言わずもがな。

 

あの人はもう

変わらんよ、

何をやっても。

 

諦めた状態だ。

 

そうなるともう

みんな、

その人に対しては

本音を言わなくなる。

 

建前の話、

適当な関わり、

表面上だけの

仲良しこよし、

 

となるか、

もしくは

 

無関心

 

となる。

 

正直、これは

自業自得だ。

 

私も

サポートのしようの

ないことが

多い。

 

でも、

そういう人達も

最初から

真本音がくさって

しまっていた

わけではない。

 

一つ一つの

大小合わせた

たくさんの

人生のチャンスを

 

自ら

向き合わないように

し続けた

結果なんだ。

 

一つ一つの

積み重ねだ。

 

自分自身との

信頼を高める。

 

自分の真本音

との

信頼を高める。

 

そういう生き方

こそ

大切であり、

 

そのためには、

 

チャンスの時は

飛び出そう!!

 

だ。

 

つづく

 

進もうとする人達よ

 

黒い泡のような

ネッチョリしたものが

心の中にあるのを

感じると、

 

あぁまた

もらっちゃったな

思う。

 

エンティティ。

 

ストレスの

濃度の濃いやつ。

実体化したやつ。

 

最近は

ますます増えている。

 

進もうとする人を

進みたくない人達が

妨害する。

 

それによって

進もうとする人の

心にエンティティが発生

するのではない。

 

進みたくない人達、

妨害をする人達の方に

エンティティは

発生するのだ。

 

人のことを

妨害する。

 

それに対して

最も憤りを感じるのは

 

妨害している

その人自身だ。

 

自分のそういった

生き方に対して、

非常に強い罪悪感を

発生させ、

 

それが

エンティティとなる。

 

ところが

それがあまりに濃く

辛いものだから、

本人は

蓋をする。

 

だから本人は

気づかない。

 

でも

エンティティは確かに

そこに存在し、

 

私はそれを

受け取ってしまうのだ。

 

受け取ることで、

誰がどのように

罪悪感を感じているか

が、

ある程度は把握できる。

 

私の場合は

それを仕事に活かせる

ので、

まだ良いけどね。

 

エンティティは

人から人へ伝染

するので、

 

妨害する人の

エンティティが

進もうとする人に

伝染することもある。

 

実に厄介だ。

 

人をあーだこーだ

妨害するより、

もっと自分自身を

大事にし、

自分の道を進めば

良いのに。

 

といつも思うのだが、

なかなかそうはいかない

のも人間だ。

 

だから

ここはあえて

こう申し上げたい。

 

進む人達よ、

 

まずはまっしぐらに

自分の想いに

素直に行こう。

 

周りに気兼ねを

し過ぎるよりも、

 

時には周りを

振り切っても

良いから、

 

一直線に

進んでみよう!

 

つづく

 

納得したら次へ

 

ストンと

大地に立つ。

 

しっかり

自分の足で

立つ。

 

向きたい方向を

向く。

 

そして

そちらに向かって

歩いてみる。

 

どうせなら

徹底的に

歩きたい。

 

納得いくまで

歩き続けたい。

 

自分が選んだ

大地と

自分が定めた

方向ならば、

 

たとえそれが

本当に自分が望んだ

ものと違ったとしても、

 

その過程そのものに

価値が生まれる

だろう。

 

人生は、

間違っているか

正しいか

ではない。

 

自分の意志で

場を選び、

自分の意志で

歩き続けるかどうか、

だ。

 

そうである限り、

どんな道を

進んでも、

 

必ず一つ一つに

「完了感」

が生まれる。

 

この道では

なかったと

わかっても、

 

ここでは

やるべきことを

やり尽くしたな。

 

得るべきものを

丁寧に

得ることができたな。

・・・と。

 

100%やり切った

その納得感。

 

それが

「完了感」だ。

 

これを

得たら、

すかさず

次に行こう。

 

「完了感」の

ある者には、

必ず

次のステージへの

扉が開いている。

 

「次に行こう」

 

明確に

決めればそれは

すぐにわかるよ。

 

つづく

 

美しさも、醜さも

 

人間の

美しい部分

醜い部分、

 

すべてを知りたい

ずっと願ってきた。

 

もともとは

「超」のつく

人間嫌い。

 

しかし

私の知らない

私の無意識は、

 

ずっと

人間の本質も

表面もみんな

知りたいと

願ってきた。

 

・・・と

今になってわかる。

 

じゃなければ

この仕事には

就かなかっただろう。

 

2月が来た。

 

もうこの仕事に

実際に関わって

26年だ。

 

確か、

私が中心に行なう

研修にデビューしたのも

2月だった。

 

若手社員向け

研修だった。

 

今でも内容は

覚えている。

当時の私なりに

ずっとブラッシュアップを

続けた

思い入れの深い

研修だから。

 

思えば

最近の私は、

そのデビューの頃の

私の年齢と

同じくらいの人達と

一緒に

ビジネスをしている。

 

今の彼らを

見ていると、

当時の私とあまりに

出来が違うので

びっくりする。

 

まぁ、私の出来が

ひどすぎた

というのもあるが。

 

今の私が

当時の私と出会ったと

したら、

 

あぁこの講師の研修には

出たくないな、

 

思うだろうな。笑

 

まぁ、我欲が

強すぎたよ、

当時は。

 

こう考えると、

やっぱり人は

成長する。

 

本人に意志さえ

あれば。

 

人の美しさも

人の醜さも

 

私の想像を絶する

ものだった。

 

つまりは、

 

自分の美しさも

自分の醜さも

 

ということだ。

 

26年やっているが、

今でさえ

日々、びっくり

している。

 

人の奥の深さ。

 

これだけは

尽きることは

ないな。

 

つづく

 

予測できん

 

まったく予期せぬ

方向から

風が来る。

 

生きるとは

そういうことだと

思う。

 

予期できるように

なることが

人としての成長である、

 

思い込んだ

こともあるが、

 

それはまったく

違った。

 

その事実を受け入れる

ことで

私の人生は

変わった。

 

楽しくなった。

 

真本音の度合いが

どれだけ

高まっても、

 

意識の次元が

どれだけ

高まっても、

 

風は思わぬ方向から

私を驚かす。

 

むしろ、

経験を積めば

積むほど、

 

風の難易度が

高まっている。

 

それがまた

楽しい。

 

予測がつくから

進める、

だから予測のできる

自分になる、

というのは、

 

同じ場所に

居続ける生き方

だ。

 

それでは

人生の意味は

ない。

 

どれだけ

想定外の風に

見舞われても、

 

その風

そのものを

味わいながら、

 

楽しく進む。

 

楽しく進む、

というよりも

その方が断然

楽しい。

 

だから

真本音の度合いが

高まれば高まるほど、

私は

未来を予測しなく

なった。

 

今のみに

集中する。

 

その結果、

「今」とは

「永遠」なんだ、と

 

わかった。

 

そして

結果として、

未来が見通せる瞬間が

増えた。

 

「見通せる」

とは

「予測」

ではない。

 

具体的に何かが

わかるのとも

違う。

 

ただ、

「何か」が

わかるのだ。

 

とてつもなく

重要な「何か」が。

 

それは

言葉にならない。

私の場合は特に。

 

しかし

その「何か」が

見通せるために、

 

「今」ここにおける

判断が

とても明確に

わかる。

 

この一歩を

どう進めば良いのか?

わかる。

理屈でなく。

 

そしてそれをすると

さらに

予測不可能と

なる。

 

私の範疇を

「すべて」が

超えていく。

 

それがまた

実に楽しい。

 

風を

楽しもう。

 

風とは

予測できない

もの。

それが摂理。

 

風を

楽しもう。

 

それが人生だ。

 

つづく

 

外側の心

 

あなたの

身体の外側に、

 

暗くて

重いものは

ないか?

 

例えば、

 

身体の前方で

身体よりも

もっと下の方に。

 

例えば、

 

身体の後方で

身体よりも

もっと上の方に。

 

他にも

人によって

場所は様々。

 

しかし

身体の外側に

それはあるから

とても

気づきにくい。

 

身体の外側、

と言っても

それはあなたの

心の中のものだ。

 

あなた自身が

無意識に

自分の身体の外側に

それを

追いやっている。

拒絶しながら。

 

その

暗くて重いもの

と、

 

面倒でも

 

ちゃんと

向かい合った方が

いい。

 

それが何か?

ちゃんと見つめた

方がいい。

 

見つめ、

観察するだけで

いい。

 

あるがままに

受け止め、

 

肯定も

否定もせず

 

そのままに。

 

そんな意識を

向け続ければ、

それは

だんだんと

消えていく。

 

成仏していく

ようなイメージ。

 

「消そう」

などとは

思ってはならない。

 

ただ、

見つめるだけ。

 

可能であれば

ちょっとやさしい

眼差しで。

 

あなた自身の

心だからね。

 

あなたがちゃんと

見つめれば、

成仏するんだ。

 

見つめないから

暗く重くなり、

ずっと

あなたにストレスを

与え続けてきた。

 

あなたの

エネルギーを

奪い続けてきた。

 

やさしく

見つめるだけだ。

 

あなたの

身体の外側にあるけど、

あなた自身の

心だ。

 

つづく

 

その時をじっと

 

私の中に

待ち受ける

私がいる。

 

内部から

じっと

外を窺っている。

 

何かのタイミングを

待っているようだ。

 

身じろぎも

せず。

 

待つ

と決めた以上は

決して

動かない。

 

その瞬間が

訪れるまで。

 

もし

訪れることが

なかったならば、

 

それはそれで

しょうがない。

 

サッパリと

諦める。

 

その覚悟が

あるからこそ

待っている。

 

気配が

近づけば

目を開き、

 

遠ざかれば

目を閉じる。

 

じっと

落ち着いて

静かに

している。

 

が、

 

いつでも

一気に飛び出せる。

 

そんな

自分でいる。

 

疲れそう?

 

もう

慣れたよ。

 

つづく

 

無限のワクワク

 

「核」

を逃すと

すべてが観えなく

なる。

 

「核」のない

ことは

私はやらない。

一切。

 

逆に、

「核」が漠然で

あったとしても、

 

その存在が

確かに

感じられる場合、

 

そして

その「核」を

探究し続けたい

場合、

 

他の誰もが

やらなくても、

 

私は

それをやる。

 

思えばずっと

そういった

人生だった。

 

仕事にしても、

随分と

難しい道を

たどって来たものだ

今になって

つくづく思う。

 

でも私は

この道に

「核」

を感じ続けてきた。

 

それを

見極めたい

ずっと思い続けて

きたし、

 

今もそうだ。

 

探究型の

人生。

 

それが

私の望む人生

だ。

 

人生の

望む姿というのは

人、それぞれだ。

 

でも、

私のように

何かを探究し続けたい

特に、その物事の「核」を

探究し続けたい人は

増えているのでは

ないか。

 

答えの「存在」は

わかるけど、

 

その答えそのものの

「中身」が

わからない。

 

そういった場合の

何とも言えない

ワクワクさ。

 

私はずっとそれを

求め続けてきたように

思う。

 

実は

ここ数日、

 

私が探究し続けて

きた

いくつかのことが、

 

バタバタバタ、っと

 

続け様に

「答え」が

わかったのだ。

 

もちろんその

「答え」が

真実かどうかは

わからない。

 

しかしそれは

私自身が

「納得」できる答え

だ。

 

そこに

たどり着いた時、

私は

開放感、と共に、

 

ちょっとした

寂しさ

と共に、

 

さらに

「今を楽しむ」

感覚が

高まった。

 

これまでずっと

「???」

だったことが

今はもうその

「???」

はないのだ。

 

すると

とても面白い。

 

「今」

がよりクリアに

体験できるように

なった。

 

そして恐らく

私は

また次の探究の対象を

見つけるのだろう。

 

この世は

わからないこと

だらけ。

 

特に

「人間」に関しては

そう。

 

まだまだ

無限のワクワクが

あるな。

 

つづく

 

混乱から出るな

 

「自分を

混乱させたい」

 

という

強い念を

無意識に持ち、

 

自分の知らない

ところで

自分を

無意識的に

混乱状態のままに置く。

 

・・・ということを

する人がいる。

 

しかも

真本音レベルで。

 

つまりそれは

「今の自分」

にとって

必要な状態。

 

あえて

混乱し続ける

という

不安定状態を

維持する、

 

という

真本音の選択だ。

 

特に

大きな脱皮や

自己開放、

もしくは

次のステージに

進む自分となる

ために

それをする。

 

ところが

中途半端な

セルフコーチングを

することで、

 

その必要な混乱

 

を、

自分で無理に

抑え込んでしまう

人が多い。

 

せっかくの

「真本音の混乱」

から

逃げてしまうのだ。

 

私はコーチ

として、

それを阻止する。

 

あえて

強い言い方だけど。

 

でもやはりそれは

阻止だ。

 

つまり

コーチとして

あえて

混乱を助長する。

 

もっともっと

混乱を招き、

その混乱から

自力で脱出できない

ように

するのだ。

 

当然、

恨まれる。

 

でも

やる。

 

こういう時

なんだ。

 

やっぱり

人には

サポート役が

必要なんだな、

と。

 

当然、

私自身も含めて

ね。

 

ちゃんと

混乱する時は

 

混乱

し尽くそう。

 

その向こうに

しか

真の出口は

ないのだから。

 

つづく

 

言葉のさらに前

 

何か

念の塊のような

ものがあると、

私はその中に

閉じ籠る。

 

念と

一つになる。

 

その念を

全身で感じる。

 

解釈する

前に。

 

言語化する

前に。

 

自己理解

というのは、

本当は

 

自分の中にある

言葉を探す

ことではない。

 

言葉になる

前のものを

そのまま

 

あるがまま

 

に感じ取る

こと。

 

それが真の

自己理解に

つながる。

 

しかしそれは

そうそう

簡単なことでは

ない。

 

だからまずは

言葉

から始める。

 

でも、

セルフコーチングを

ずっとやり続けている

人達は

改めて思い出して

ほしいのだ。

そのことを。

 

言葉

自分

ではない。

 

言葉

になる

前のものを

 

それこそが

実在だが、

 

それを

ちゃんと

理解しようと

してほしい。

 

もし

言葉にすると

しても

その前に

ちゃんと

感じ取ってから。

 

感じ取った

後に

言語化すれば、

その「ズレ」も合わせて

理解できる。

 

もちろん

言葉はとても

大切だ。

 

実在に一番

ピッタリくる言葉を

ちゃんと

探し出すことも

大切だ。

 

でも

言葉の前にこそ

本当の本質は

あるのだ、

ということは

忘れてはならない。

 

つづく

 

孤独の復活

 

昔から

一人の時間が

好きで、

 

20代初頭は、

一人で山に

入り、

ずっと孤独の時間を

過ごしたりしていた。

 

誰もいない。

 

今ここで

もし自分が死んだら、

誰も気づいて

くれないのだな、

という

あの異様な雰囲気。

 

今から考えると

ちょっと

懐かしい。

 

一人になると

もう

孤独だった。

 

一人=孤独

だった。

 

今は

違う。

 

今でも

たった一人に

なったり、

 

周りをすべて

シャットダウンして

自分の心の中に

閉じ籠ることも

ある。

 

あえて

そうするのだが、

 

しかしそれでも

孤独

にはならない。

 

なれない。

 

一人になれば

なるほど、

すべて

とのつながりを

感じてしまうから。

 

しまうから、

という表現も

変なものだが。

 

つながりを

感じるのは

もちろん幸せな

ことだ。

 

ずっと

心の深奥では

満ち足りている。

 

不安になる

ことがない。

 

もちろん

心の表面に

様々な不安は

ある。

 

しかし

それらの心達を

やさしく見守るだけの

ゆとりが

常にある。

 

すべてと

つながっていると

わかるから。

 

で、

時々

その「つながり」

そのものを

シャットダウンする

ことも

できるようになった。

 

そうすると

孤独を

感じられる。

 

ゆとりが

できたからこそ

思えることなのだが、

 

孤独もやはり

一つの

人間らしさだ。

 

時々

孤独を感じることで

逆に

自分を取り戻す

こともできるだろう。

 

当然、

昔の孤独と

今感じる孤独は

違う。

 

昔は本当の

孤独なので

深刻だったが、

今は

孤独そのものを

味わえる。

 

でも

本当の孤独

であることに

違いはない。

 

人間遊び、

か?

 

いや、

遊びではない。

 

やはり

本物の孤独

だ。

でも、

やさしく感じられる。

 

山には行けないが、

山と同じ

空間

は、

いつでも創り出せる。

自分のために。

 

すべて、

セルフコーチングを

探究し続けた

成果だ。

 

つづく

 

始まりの思い出

 

波が迫り来る

海の

深みへ深みへと

向かって行く。

 

どんどん

深くなるのに、

底はずっと

見えたまま。

 

波の圧は

凄いのだが、

それに怯まずに

進む自分がいる。

 

行手は

大海原だ。

 

どこに向かうのか

何をしようと

しているのか

 

何もわかって

いない。

 

ただ、

まるで波に

逆らうかのように

進む。

 

海水を

何度も飲み込み

ながら、

溺れそうになる。

 

それでも

進みを止めようと

しない。

 

なぜに?

 

考える余裕も

ない。

 

ただ、進む。

 

ふと

見ると、

 

私の目の前に

私の背中が

見える。

 

必死に進む

私自身の

背中。

 

横波が来た。

 

溺れそうに

なる。

 

私は

背中の私を

咄嗟に支えた。

 

瞬間、

私は

支えられた私

になる。

 

後ろから

私を支える

何者かがいる。

 

それが誰か?

考える余裕も

ない。

 

それでも

前に進む。

 

私は

支えられる私

になったり、

支える私

になったり。

 

海は

ますます

深い。

 

波は

ますます

荒い。

 

でも

底は見える。

真透明な

海。

 

ふと、

 

何かが

わかった

気がした。

 

あぁこういうことか、

と。

 

私はその時、

人間であることを

あきらめた。

 

あきらめたら

海に

沈んで行った。

 

そして私は

人間に

なれたんだ。

 

つづく