チームパフォーマンスコーチ

必死から恩恵へ

やってできない
ことはない。

と、
信じて進んで
コケる。

一つとして
思うように
進まない。

そんなこと
ばかりだった
気がする。

私の人生の
話だ。

しかし
振り返って
これだけは!と
誇れるのは、

とにかくいつも
必死だった
ということ。

必死だったので
なんとか
やってこれたのかな、
とも
ふと思ったのだ。

力を抜くべき
ところで
力を入れて、

力を入れるべき
ところで
ガス欠を起こす。

そんなんばっか
だったけど、
必死だったことは
間違いない。

上手くやろう
というのは
もちろんあったが、

本当に上手く
行かせられるような
器用さはなく、

大概、ドツボに
ハマったので、

結局
必死になるしか
なかった、
最後には。

そんな自分が
愛おしいな、

実は今日初めて
思ったかもしれない。

ふと思ったのだ。

今の私の
毎日は、

恩恵ばかりだ。

幸せなこと
ばかりが
やってくる。

もちろん
真本音で生きる
ということに
シフトチェンジしたからだ、

言えばそうだが、

今回はあまり
そういう結論には
したくないところが
あってね。

ゴツゴツ
ぶつかりながら
歩いてきたのが、

それこそが

良かったの
かな、と。

今日、また
素敵な人達と
出会えたんだ。

恩恵だよ。

本当に
ありがたいことだ。

必死にきて
良かったな、と

そういう気分で
思えたんだ。

つづく

出会いの前に

きっと
幸せな出会いに
なるな、

思う。

とても大切な
人達。

人生に
とっても、
仕事に
とっても。

ここで出会い、
その瞬間を
境にし、

一つ一つ
お互いの人生を
紡いでいく。

それはきっと
あまりにも
情熱的な展開に
なるのだろうが、

その情熱を
高揚したまま
受け取り発散する
よりも、

ただ淡々と

出会いのその
一瞬から

ただ淡々と

丁寧に
紡いでいきたい。

お互いの
時間と
足跡を。

より
幸せになるのは
わかっている。

より
豊穣な人生に
なるのも。

だからこそ
その悦びを
大事に
抱き、

静かにその時を
迎えたい。

あなたとは
静かに
出会い、

静かに
歩みたいのだ。

つづく

素敵な一日

水平線に沈む
太陽を見ながら、

今日という
一日を想う。

今日も
すべきことを
すべて
完了させることが
できたな、と、

満足感と
共に。

しばらく世の中は
暗くなり、

また時間が
経てば
次の朝が来る。

そこからは
一体、
どのような一日が
始まるのだろうか。

「一日」
という単位は
絶妙だな、と

いつも思う。

「一日」に
合わせた人間の
体になっているのだから
当然と言えば
当然だが。

それにしても
「しっくり」
くる。

「一日」を
本当に大切に
できたならば、

それは
「自分」を
本当に大切に
できたことに
なる。
この、独特の
満足感。

「一日」を
本当に大切に
できたならば、

それは
「人生全体」を
本当に大切に
できたことに
なる。
という感覚に
なれる。

もし
人生をシフトチェンジ
させたいと
願うならば、

まずこの
「一日」を
変えてみよう。

と言っても
最初からすぐに
大きく変える
必要はない。

「今日はここだけ
変えてみよう」

と、
しっかり自分の
意思で決め、

それを
実行する。

やり過ぎず、
途中で
諦めず。

ちょうど
100%、
決めたことを
する。

ちゃんと100%で
止めれば、

独特の
「完了感」が
くる。

それは
「完全調和」の
感覚だ。

この感覚で
「一日」を
完了させることが
できれば、

次の「一日」も
素敵な始まり方
になる。

人生を
大切にしたい
ならば、

まずはこの
「一日」を。

今から始まる
「一日」から。

つづく

真に成熟した人とは

私達は
卵の殻の中に
いる。

何度
殻を破って
生まれても。

またすぐに
卵になる。

だから
殻を破り続ける
ために
ここにいるようだ。

いつまで
たっても
未熟なのか?

そう。

いつまで
たっても
未熟だ。

そういった
事実を
真に受け止め

その
未熟さを
真に受け入れ

未熟であり続ける
この歩みを
真に楽しめるように
なったら、

それが
成熟
ということでは
ないか。

成熟した人
とは、

自分の未熟さに
悦びを感じられる
人。

さらに
もっともっと

殻破りを
楽しめる人。

もっともっと
進化し続ける
意志を持つ人。

だから
より
謙虚になれる。
真摯になれる。

誠実に
なれる。

穏やかに、

そして
強く。

やさしく、

そして
厳しく。

つづく

未来か、足元か

足元を
見るか?

遠く
未来を
見るか?

もちろん、
両方大事だ。

両方を
繋ぐことが
大事だ。

しかしあえて
「今は」
ということで
言おう。

今は
遠く未来を
しっかり
見つめよう。

遠いから
わからない、
ではなく。

遠くても
できるだけ
はっきりくっきり
見つめよう。
強い意志で。

今はそれが
できるはず。

未来が
見えれば
見えるほど、

足元も
くっきり
見えてくる。

今は、
あえて、
不必要なくらいに

遠く未来を
見つめよう。

つづく

ここでまた問い一つ

今回はまた
ここで
重要な問いを一つ。

・・・

日常生活の
ルーティンの中で、

一つだけ何かを
壊すとしたら、

何を壊す?

・・・

日々の習慣、
毎日の生活に

少しヒビを
入れる。

それにより、
ちょっとした
引き金として
何かとても
大切なことが
起こる。

今はそんな
予兆のある
空気感だ。

何も起こらない
かもしれない。

でも、
何かが起こる
かもしれない。

その「何か」が
ちゃんと
発現するように、

その糸口として、
毎日の自分の
習慣を
少しだけ
破壊してみよう。

つづく

無謀だが、行くよ

滝が
見えるだろう。

天地を
切り裂くように。

垂直に
そそり立って
いるだろう。

あそこを
ダイレクトに
越える勇気は
あるかい?

普通じゃ
できないだろう。

私にも
できる気は
しない。

何がどうあっても
不可能だと
思うよ。

でも
考えてごらんよ。

ここで
引き返すくらい
だったら、

最初から
こんなところまで
来ていないだろ?

不可能なのは
わかっていて、
それでも
来たのだろ?

「自分」という
範疇では
決してできない道を
進むという
意志でのみ
来たんだろ?

だからさ、
どれだけこれは
無理だな、と
思っても、

やっぱり
私は
行くよ。

予想通り
落ちて死ぬかも
知れん。

いやむしろ、
そのイメージしか
湧かん。

どう見ても
無謀だろ。

無謀はダメだ
って、
ずっとアドバイス
してきたよな、俺。

そんなことは
わかってるよ。

全部わかっていて
でもやはり
行くよ。

君は
どうする?

ちゃんと
決めた上で
動きな。

まずは俺はもう
行くよ。

つづく

扉を開けてしまった

新たな自分の
個性。

体の芯に
鳥肌が立つような。

心の根底が
揺らされる、
それくらいの
悦びのもとで。

生まれ出づる
個性。

その個性を
開放することは、

これまでの
自分を丸ごと
捨て去ることに
なるかもしれない。

そのような
恐れの中、

しかしそれでも
その開花を
待ち望む自分が
おり、

完全に恐れを
悦びが優ってしまう。

もう、
委ねるしか
ないのか。

その勇気一つで
進む時なのか。

葛藤も起きるが、
瞬時に消える。

抗えないのだな、

半ば諦める。

この個性を
発揮させる時、

道は
変わる。

根本的に。

進み方が
変わる。

根本的に。

それこそ
本来の自分
なのだろうけど、

ついに私は
別人になって
しまうのか。

恐れ慄き
悦び勇み

震えるこの手で
扉を開け、
蓋を開く。

そして、
我に返る。

人間に
返る。

つづく

苦しみそのものだった

かつて、
大きな後悔と
共に、

手放し
見送った
あの願い。

それがまた
蘇ってきた
ようだ。

一度捨てたものを
自分の中で
復活させるのは、

・・・復活を
許してしまうのは、

過去、
あの大嫌いだった
自分を
認めることにも
なる。

それがどうした、
という
次元の高い気持ちも
確かにあるのだが、

今はあえて、
ここにある

この目の前に
横たわる

低い次元の
私自身の
気持ち達に
焦点を当てていたい。

復活はきっと
もう
決めている。

だからこそ、
自分を誤魔化したく
ない。

だからこそ、
低い次元を
ありのままに
あるがままに
見つめ、
感じたい。

今度はもう
逃げない。

痛いものを痛い!

痛烈に受け取りながらも、

それでもその
願いへと
進もう。

かつて
「私」とは
苦しみそのもの
だった。

「人生」とは
苦しみそのもの
だった。

私はまるで
自分を罰するように
生きていた。

その時の
「私」のすべてを
今こそ
感じきる。

そう
決めたんだ。

つづく

本来の道なのに

進めば進むほど
疲弊してしまう
道ならば、

それは本来の
道ではない、


なるはずだが。

しかしどうみても
本来の道である
はずなのに、

それでも極度に
疲弊し続けることが
ある。

その場合、
考えられる
最大の原因は、

スピードだ。

本来のスピードで
進んでいない時に
私達は
疲弊する。

特に
スピードに
こだわっている人で
あるほどに。

最近、私の周りでは
そういった人が
増えてきた。

例えば、
電車で北海道に行こう

決めた場合、
その行き方は
いくらもあるが、

新幹線でなければ
ダメだ、


決めている人
という感じ。

飛行機は違う。
地上を走って
行きたい。
しかし
最速で。

各駅停車とか
普通の特急レベルでは
満足できない
というタイプだ。

もちろん、
各駅停車でも
普通の特急でも
それぞれが
それぞれなりの
良さを満喫できる。

新幹線では
見ることのできない
景色も堪能できる
だろう。

しかしそれでは
ダメなのだと。

飛行機ではなく
地上はちゃんと
走るが、

景色を楽しむ
のではなく、
一刻も早く
北海道に着きたい
と。

なぜそこまで
早く着きたいの?

と問えば、

私の本来の人生は
北海道に到着して
から
始まるんです!
と。

北海道までは
これまで
何度も行ったことが
あるのです、
でも
北海道では
まだまだ私にとって
未踏の地が
たくさんあるんです、
だから
私の人生の時間は
その未踏の地の
探検に当てたいのです!
と。

その気持ち、
私は非常に
よくわかる。

私もそういった
タイプなのだと
思う。

であれば
それをちゃんと
自覚し、

新幹線に
乗ることだ。

一刻も早く
北海道まで
たどり着くことだ。

人生の時間は
あまりに
少ない。

こんなところで
躊躇している
暇はない。

未踏の地に
行きたいならば、

既踏の地は
駆け抜けて
しまおう。

つづく

今、重要な問い

ここでまた
一つ
重要な問いを
投げよう。

・・・

この一年で、
あなたは
何を極めた?

それをここから
どのように
活かす?

・・・

きっと
無意識のうちに
この一年で、
あなたの極めた
ものがある。

それをよく
考え、
自覚しよう。

極めたのに
それを知らない
あなたがいる。

もったいない。

自覚しよう。

そしてそれを
大いに活かそう。

活かすために
極めたのだから。

つづく

手の届かない想いでも

今の自分では
まったく
手が届かないな、

と、
思ってしまったと
しても、

それでもその想いが
自分の中に
確かに在るならば、

私はその想いを
ずっと
抱き続ける。

自分の想いは
まずは
自分自身が
最大に愛し続ける。

すると、
その想いに向かう
今ここにおける
一歩
が、一瞬、
観えることがある。

そうしたら
その一歩を
踏み出してみる。

もちろん
たったの一歩なので、
その想いの実現に
近づいている実感は
まったくない。

しかしそれでも
一歩がわかれば
その一歩を
進む。

その連続で、
いつの間にか、
徐々に
近づいている感が
芽生えてくる。

かと言って、
焦らない。

やることは
変わらない。

「できそうだ」と
思えたから一気に
進む、というのではなく、

今ここにおける
「わかる一歩」を
ただ淡々と
踏み出し続けるのみ。

想いは
深く抱きながら。

私には
人生の目的(ビジョン)
がある。

そこには現時点では
まったくもって
近づいている感は
ない。

55年頑張って
来たが、
道はあまりに遠く、
果てしない。

しかしそれでも
私は
今ここ、の一歩を

真摯に
踏み出し続けようと
思う。

あと23年。

あと23年で
あそこまで
たどり着くために。

つづく

想いは大切だけど

ポツンと
光っていたものが
消えた。

私にとっての
大切な
想いが。

あぁ
消えてしまったな、

寂しくは思う。
一旦はね。

これまでは
その想いこそが

私自身である

くらいには
思っていたよ。

その想いの
ために
頑張ってきた。
生きることをね。

しかし今、
こうして
消えてしまうと、

それは
どうでもよかったんだな、
最初から、


わかるよ。

わかって
しまうよ。

じゃあ、これまでの
その想いで生きた
自分自身は
無駄だったのか?

と言えば、
もちろんそうでは
ない。

その想いを
大切にし尽くした
からこそ、

ここまで
来れたのは
よくわかる。

この境界まで
来れたのは、
その想いの
おかげだ。

でも、
境界を越えた
瞬間に、
想いは消えた。

ステージが
変わったんだ、
と言えば
その通りだ。

でも私という人間の
人格が変わって
しまったのか?
と言うと、
それはまったく逆かな。

これまでは
その想いが
私らしさだった。

しかしここからは、
その想いにこだわる
ことによって、
私は私から
遠のいてしまう。

より
私らしく生きるには、
その想いはもう
いらない、

というよりも
あってはならない
ものなのだろう。

実際、
それが消えてから
私は妙に
開放された
スッキリした気分だ。

また一歩
自由になれた。

これが人間
なんだな、
と。

人は
想いによって
生きている。

しかし
自分の想いに
固執するのは

自分を閉ざす
ことにもなるんだな。

今の想い

大切にしよう。

過去の想い
ではなくね。

つづく

格好いい人とは

時々、
異様な傾き方を
私はする。

異様な
心の傾き方。

前のめりに
なったり、

後ろに
反り返ったり、

右にも左にも
変な風に傾く。

昔はそういった場合、
必死に
バランスを取ろうと
していた。

元のまっすぐな
状態に
焦りながら戻す努力を
し続けていた。

今はそういった
ことは
まったくしない。

なるに任せよ、
という感じに
している。

傾くなら
傾いたままで
いい。

心の状態管理
とは、
まっすぐに戻す
ことが重要ではなく、

今のそのまま
あるがままで
いい、

その状態そのものを
許すこと。

楽しむこと。

・・・ではないか、と
ある時から気づき、
そこから急激に
生きるのが楽に
なった。

自分とは、
修正しなければ
ならない存在だ、

というのを
完全に
手放すところから
本当の人生が始まる、
という
気にすらなる。

そして
そういう人をみると、

格好いいなぁ、

と思う。

格好いい人
とは
傾いたまま
ニッコリと笑える
人だ。

・・・あくまでも
私の考えだけどね。

つづく

世界と歩調を合わす

答えが
わからなければ、

あれこれ無闇に
考え続けるよりも、

全身の力を
抜いて、

世界を
感じて、

ゆったりと、
この世の空気に
身を委ねれば
いい。

自分と
自分以外の
境界を意識せず、

全意識を
ただただ外へ
外へ。

何か
居心地の良い
物体があれば、
それと
一つになる感覚で。

こういう時、
私はよく
外を散歩しながら、
気の合いそうな
樹々と
一つになる。

春の空気の
中で、
少しぼんやりとした
なだらかで
なめらかな

うつろな感じの

樹々の気配が
伝わってくる。

答えが出ない
ことで
ヤキモキしている
のは
どうやら
私だけのようだ。

空気と時間は
ゆっくりと
流れている。

すると私は
「時間」と
歩調を合わせるように

「時間」のみに
意識を向ける。

一つ一つの
時間と
一つ一つの
自分の鼓動が
共鳴し、

落ち着いて
くる。

今、出す必要の
ない答えだな、


わかる。

出す必要のない
答えを
考え続けるのは
疲れるだけの
ことだ。

もっと自分の
エネルギーを
大切にしよう。

自分の内側に
篭りきりになって
しまえば、
大事なものを
見失う。

私達は
この世界に
生きている。

つづく

真っ二つに斬られた

自分自身が
真っ二つに斬られる

というイメージが
鮮明に浮かんだ。

まるで
白昼夢のように。

普通であれば
なんて怖いことだと
恐れ慄きそうだが、

まったく逆で、
とてつもなく
すがすがしさを
感じてしまった。

真っ二つに
ぶった斬られる、
というのを
私はどこか
いつも望んでいる
気がする。

そんなことを
書けば、
頭がおかしいと
言われそうだが、

皆さんの中にも
そういった願望は
ないか?
(ないよ。)

二つに斬られた
私は
明確な区別を
される。

その「区別」が
私の道を
より明確にして
くれそうだ。

だからむしろ
私は
その、
斬られた感覚を
何度も反芻しながら

しっかりと
思い出し続けて
いる。
(変態か?)

「区別する」という行為は、
これまで混乱していた
あらゆるものを
明確に分別して
くれる。

思えば、
真本音・反応本音
という区別も
そうだった。

区別のつかない
ことが
混乱を起こす。

そういった意味で
私のコーチングとは

区別のための時間

とも言える。

真っ二つに
斬られた私は、

右の私は、
混乱を見据え、
それへの最善の
対応をしようと
目を凝らしている。

左の私は、
私の人生のゴールを
まるで光り輝く
出口に観えるそれを、
ずっと
仰ぎ見続けている。

右からくる
発想と、

左からくる
発想。

その区別がつけば、
きっと
私のサポートも
さらにすっきりした
ものとなるだろうな。

つづく

空気を入れ替えよう

窓を開ければ、
すがすがしい
風が入ってくる。

風を受ければ、
生き返った
心地がする。

ほんのわずかな
時間でも、

空気が入れ替わる
だけで、
世界が変わる。

内面も
外面も。

リフレッシュは
大事だよ。

日々、
リフレッシュの
ための時間を

第一優先なくらいの
意識で
ちゃんと確保しよう。

人生の空気を
入れ替えるんだ。

毎日ね。

私達は
体で呼吸している
だけではない。

心も
呼吸するし、

魂も
呼吸する。

そのためには
新鮮な空気が
必要だ。

あなたにとって
それは何?

毎日、
何をすることで
空気を入れ替える
ことができる?

つづく

命の使い方

黒い渦が
みえる。

吸い込まれ
そうだ。

ブラックホールの
ようだ。

黒いのに
エネルギーが
高そうだ。

そういった
場合は、

吸い込まれて
しまおう。

吸い込まれたら
きっと

どこかまったく
別の場所に

飛ばされる
だろう。

それでいい。

それを
楽しもう。

ここにいなきゃ
ならない、

ということは
ない。

私達はもっと
自由でいい。

その代わり
何が起きても
全部、自分で
引き受けるべきだ。

全部、自分の
人生だ。

自分の
生だ。

自分の
命だ。

自分の命の
使い方は、

自分で
決めよう。

つづく

まっすぐとは何か?

まっすぐに
進まねばならない、

決めることは
大事だが、

何がまっすぐ
なのか?

そもそも
「まっすぐ」とは
どういうことか?

まで
きちんと探究しよう。

表面だけ
カタチだけ
まっすぐにしようと
してしまえば、

間違いなく
何かとぶつかる。

必ず
障壁が現れる。

そしてそこを
強引に貫けば、

それは
「まっすぐ」ではなく、
ただの「わがまま」
となる。

本来、「まっすぐ」
とは、
周りと調和する
ものだ。

本質的に
「まっすぐ」行けば
行くほど、
周りとの調和性は
高まり、

実に
フレキシブルに
進むことができる。

ぶつかるものも
最小限で済む。

それは
「自分が本当に
まっすぐで
在り続けるものは
何か?」

よくわかっているから。

するとそれ以外は
良い意味で
「どうでもよくなる」。

だから
まっすぐな人ほど、
良い意味で
いい加減であり
軽い。

まっすぐさに
よって
深刻度が高まって
しまう場合は、

それは
カタチだけの
まっすぐだからさ。

私達には
ちゃんと
道がある。

まっすぐに伸び、
まっすぐに進める
道がね。

つづく

自分を失い自分に帰る

心の深海深くに
潜ると、

いったんは
すべての感覚が
失われる。

自分と自分以外の
境界が曖昧に
なり、

自分の存在自体が
わからなくなる。

それでいい。

そのままで
しばらくいると
いい。

自分という“個”に
こだわり過ぎることで
私達は
疲れてしまう。

むしろその方が
本当に
自分を失ってしまう。

自分を守る
という本能は
大事だけど、

私達の意志とは
それだけでは
ない。

いったんすべてを
リセットすることで
大切なものを
思い出すことも
できるだろう。

深海には
光は届かない。

真っ暗闇
だ。

その中で
自分の境界が
わからなくなるの
だから、

それは一抹の
恐怖を
伴うだろう。

しかしそれでも
それは
「無」ではない。

むしろ逆。

自分自身が
“全体”に
広がっているわけだ。

そこに委ねれば、
一時的ではあるが、
すべてが満ちる
感覚を得られるだろう。

本当は私達は
満たされている。

エネルギーだって
溢れている。
循環し続けている。

エネルギーに
満ちた世界に
私達はいるのだから。

“個”へのこだわりを
いったん、
一瞬だけ、
手放して

その上で
再び
帰っておいでよ。

つづく

今の現実が嫌なら

“世界全体”に
常に意識を向け続ける
ということをしている。

この世の“世界全体”
に向けて。

できるだけ
24時間それを
やり続けている。

それを始めて
もう13年。

するともう
その状態が
「普通」となった。

その状態のまま
一つのことに
没頭したり、

自分の内面を
探索したり、

できるように
なった。

すると、
内面と外面が
見事に
繋がるんだ。

内面に
深く入れば入るほど、
外面と
深く繋がる。

内と外は
一体なんだな、

それを通じて
知ることができた。

自分の内面に
あることが
そのまま
現実化する。

それが
健康な世の
ならわし。

内面に
淀みがあれば、

現実にも
淀みが発生する。

という
単純な構造。

現実を
変えたいなら、
自分を
変えること。

それ以上でも
それ以下でも
ない。

現実に対して
文句がたくさん
出てくるなら、

その人は
自分自身に対して
文句を言い続けて
いるのだろう。
無意識に、かも
しれないが。

ちゃんと
自分自身を
コントロールしよう。

それが
「自律」だ。

自律した人が
増えることで、
社会は
活性化する。

もちろん
組織も
活性化する。

自分を変える
ことで
現実を変えよう、
という
意志を持つだけで

まずは
いいんだよ。

つづく

精魂尽き果てたら

彼方、上の方から
光の雨が
振ってくる。

それを浴びる
ことで
あらゆるものが
洗い流される感覚。

気持ちがいい。

ようやく私は
立ち上がることが
できた。

恵みの雨だ。

ギリギリまで
追い詰められると、
このように
自然は
私を助けてくれる。

人事を
尽くしているから
こそ。

人事を尽くさずに
助けてくれ、

ないな。

自分の最大力を
使うからこそ
初めて
得られるものは
多い。

すべてに全力を
出す
ということではない。

全力を出すべき
ところを
見極め、

その時その瞬間に
しっかりと
全身全霊を
込める。

それが
真剣に生きる
ということだと
私は信じてきた。

逆に言えば、
全力を出すべき
ではない時が
ある。

その時は
ちゃんと丁寧に
誠実に
手を抜いてきた。

それにより
必要なその時の
ために
エネルギーを溜める
ことができた。

そう考えると
人生とは
エネルギーコントロール
で決まる。

全力を出すべき
とことで
ちゃんと全力を
出せるか?

それが
どこまで丁寧に
できるか?

で決まる。

そして
きちんと全力を
出し切ることができれば、

私の場合
本当に
精魂尽き果てるので、
立てなくなる。

一歩も
動けなくなる。

すると、
恵みの雨が
光の雨が
降り注いでくれる。

真剣に生きる
とは
自然と調和しながら
生きる
ということなんだろうな。

つづく

本当に変わったんだな

本当に
時代は変わったのだな、

少々びっくりしている。

この
3月1日からの
ことだ。

あまりの空気感の
変化に
毎日、私は
ドギマギしているよ。

まるで
別の世界に
転生したかのような、
新鮮だけどちょっと
不慣れな感覚。

もちろん
実在のレベルでは
こういった変化は
何度もあった。

しかしこんなにも
現象化するものか。

現象のレベルまでも
含めた
この変化の大きさは、

私がこの世に
生まれて以来、
この55年間では
初めてだと思う。

本当に時代は
変わったんだな。

つづく

小さいけれど影響力は大きい

ほんの僅かな
変化を
見逃すな。

自分自身の
内面の
変化だ。

常に小さく
震えながら、
パッと動くものが
ある。

その最初の
顫動のようなものが
連続的に
小さな波を起こし、

それがやがて
巨大な波となる。

その波は
消えることなく
広がり続ける。

それが連続して
くる。

そして小さな
小さな
気をつけていないと
見逃してしまうような

しかしそれでも
莫大なエネルギーの
ビッグバンが
起こる。
そこかしこで。

そのビッグバンの
一つ一つに
メッセージがある。

可能であれば
そのメッセージを
自覚したい。

今、あなたは
「変化の時」
だ。

それは
潜在意識レベル
というよりも
顕在意識レベル
に影響を与えやすい
もの。

一気に自分を
より望む方向に
変えるチャンスだ。

自分の中の
僅かな変化を
見逃すな。

つづく

ちゃんと痛がれよ

晴れた空を
見るのは
すがすがしいが、

毎日、晴れが
続けば、
それが当たり前となる。

雨の日や
曇りの日があるからこそ、
晴れた日の
ありがたさがわかる。

これが
人間というもの
だよな。

悩み・葛藤・試行錯誤・
苦しみ・絶望・空虚感・
・・・
それらがあるからこそ
人間とも言えるし、

それらがあるからこそ
幸せな瞬間を
噛み締めることが
できる。

人間であることを
やめる
必要はない。

むしろもっともっと
人間らしく
進みたい。

今、私の目の前に
雲々がある。

暗くて重い
雲たち。

クライアントさん
達から
もらったものだ。

彼らの
モヤモヤだ。

雲の中に入れば、
炭酸水の泡のような
刺激の強い痛みを
感じる。

彼らはこんなにも
痛みを感じながら
毎日を過ごして
いるんだ、
とわかる。

今、最大の問題は、
彼ら自身が
この痛みに蓋をして
いることだ。

痛みを痛みとして
感じない。

だから
何とかしよう
とはならない。

鈍感であることの
最大の問題だ。

鈍感でなきゃ
進めないことは
あるだろう。

しかし
鈍感であることが
成長だとは
思わないでほしい。

それは
見ないように
顔を背けているだけ、

顔の背け方が
上手くなった、
だけ。

これを人間の成長
とは
思わないでほしい。

痛いことと
ちゃんと
向き合ってほしい。

人生を開く
初めの一歩が
それなんだ。

つづく

これが新たな時代か

中心が
移動している。

ゆらゆらと。

本来、
中心なだけに
それは
中心に在り続ける
はずなのに。

中心が移動したら
もう
中心じゃないじゃん!


言いたいのだが、
おかしなことに
それはまだ
中心
で在り続けているのだ。

動く中心。

それが
動くたびに、
そこが
中心となる。

つまり
世界も
変わり続けて
いる。
中心の移動と
共に。

これまでは、

移動しない
存在があったからこそ、
世界は
安定してきたのに。

まるで
北極星が
自由に動き回る
ようだ。

それと共に、
各星座の星々も
移動する。
変化する。

そんな
時代なのだ。

じゃあ、
そんな時代だから
あらゆることが
揺れ揺れになるのか、

思いきや、

むしろ
安定度は
高まっている。

逆に言えば、
安定度が高まった
が故に、
中心が移動できるように
なったのか。

ということは、
この次元の
定点は
必要なくなったということ。

ということは、
さらに奥の次元が、
定点というよりも
まるで土台のように、

浮上してきた
ということか。

これが
新たな時代か。

この自由度が。

つづく

限界を超えたい人への

その瞬間、
余分なものは
すべて
きれいに洗い流した
状態でありたい。

なぜなら
100%どころか、
1000%の力を
発揮したいから。

その瞬間、
だけでいい。

人事を超えた
集中力、
というくらいの
集中力を
出したい。

とはいえ、
やはりそれも
人の力
だろう。

私達が
私達自身に
設定している限界。

それを瞬間的に
超えることは
できる。

超集中力
とも言えるもの。

いつの間にか
私は、
それを発揮しなければ
できないことばかりを
やっている。

だから必死になって
それを
自分のコントールに
よって
発揮できるように
ならないか?

探究し続けた。

今はかなり
コントロールできるが、
しかしそれでも
やり過ぎると
体が壊れそうに
なる。

体が壊れない
程度に、
しかし、できるだけ
頻繁に、
本当に必要な
瞬間に、
その力を出す。

結局これを
やるために
私はセルフコーチング力を
高め続けたのだな、

今になって思う。

真本音で生きる
とは、
自己の設定していた
限界を超える
ということでもある。

それをしなければ
果たせない
人生の目的を
持った人がいる。

そんな人は
増えている。

そんな人のための
サポートを
私はしたいのだ。

限界を超える
ことが良いことだとは
限らない。

それはその人の
望む生き方しだい
だろう。

だから、
限界を超えてまでも
自分の目的に
向かいたい人。

そういった明確な
願いをもつ人のみへの
サポートに
ここからはさらに
集中していくつもりだ。

つづく

エネルギー循環を起こす生き方

降り注ぐ雨に
身を晒すように、

降り注ぐ
エネルギーを
全身に浴びる。

このエネルギーの
高まりは、
間違いなくここから
半永続的に
続くだろう。

ただそれを
受け取れる
自分であるかどうか?

それはその人の
生き方で決まる。

自分だけが
エネルギーを
もらおう、という
生き方は
もちろんダメだし、

逆に、
自己犠牲をして
自らのエネルギーを
ひたすらに
分け与えよう、という
生き方も
ダメだ。

どちらもすぐに
エネルギーが
枯渇する。

大切なのは、
エネルギーの循環を
起こす生き方だ。

その生き方を
あえて文字で
表せば、
こうなる。

『峻悦』

これは
私の造語だ。

似た意味の言葉が
ないか調べたが、
残念ながら
見つからなかった。

「峻」とは
険しいとか、厳しい
という意味がある。

「悦」とは
本質的な喜び
のことだ。

つまり『峻悦』とは、
険しく厳しい方向に
こそ、
真の喜びがある、
という意味。

ただしこれは
現実的な意味では
ない。

内面的な
ことだ。

心の中の
今、最も険しくて
厳しい方向に
私達は無意識に
蓋をする。

見なくする。

しかしその
連続によって、
私達は本来の
自分を
失っていく。

心の中の
今、最も険しくて
厳しい方向に
自分の意志で
向き合っていく。

すると当然、
それは苦しみを
伴うのだが、

それでも
向き合い続けると、
それがある瞬間に
一気に晴れる
ときがくる。

するとそこから
自己開放が
起こり、
その向こう側に
悦びが待っている。

それは通常の
喜びとは
次元の異なる
喜びだ。

その悦びに
基づいて
現実レベルでの
行動を起こす。

するとそれは
エネルギーの循環を
生み出す。

自分発の
エネルギー循環だ。

その循環によって
エネルギーは
増幅し続ける。

良い意味で
人を巻き込み、
皆の進化にも
つながる。

『峻悦』。

結局、私はこれを
探求し続けて
きた。
この55年の人生を。

・・・と
気づいたんだ。

つづく

流れに乗るのではなく

ゆっくり時間が
進んでいくな。

一つ一つを
噛み締めるように。

一見、
穏やかに見えるな。

でも、
その根底には
激しさがある。

だからこの
進み方の様相は、

何かをきっかけに
豹変するだろう。

緩流から
突然
急流に。

急流から
激流に。

ほんの1秒で
変わるかも
しれない。

そんなある種の
エネルギーの高さ
がある。

今のこの
日々には。

表面の空気に
揺らされては
ダメだ。

その本質の
流れ方

感じよう。

急流や激流で
生き延びるため
には、

自ら進んで
そこに
飛び込んでいく
ことだ。

自らの勇気と
覚悟に、

急流・激流は
敏感で、

その波長に
同調してくれる。

覚悟のある人は
「仲間」
と見なす。

だから
調和が始まる。

世の中の流れと
「仲間」となる。

そのためには
自らの意志で
進むしかないのだ。

もはや、
上手く流れに乗る、
という時代は
終わった。

ここからは、
流れを仲間にする
時代だ。

流れと共に
進む時代だ。

つづく

魂を鬼にする

あと一歩を
踏み出せず
元の場所に戻って
しまう人と、

あと一歩を
踏み出すことで
次の世界へと
人生を進める人。

その差は
あまりに大きい。

もちろん、
どちらが良いとか悪いとか
そういった評価を
他者が下すことは
できない。

しかしこれはもう
本人の問題だ。

踏み出せなかった
ことによる
深い深い後悔を、

本人にしか
わからない後悔を、

私は側から
数多く拝見してきた。

本人にしか
わからないのだが、
その悲しみは
他者である私にも
十分過ぎるほどに
伝わってくる。

そうなると私も
とても悲しくなり、
一晩、泣き明かすことも
多くあった。

自分で決めていた
人生に
進まなかった後悔。

これは本当に
深くて痛いのだ。

私にももちろん
その体験は
ある。

ギリギリで
先に進めた体験も。

後で振り返れば、
あの時よく
進めたな、と
思う。

しかし私の場合、

私は特に
頑固なので、
他者からの
ありがたいご支援を
いただいてきた。

あの時
私を罵倒してくれた
人。
あれがなかったら、
私はそこで
止まっていた。

あの罵倒が
私を後押し
してくれた。

その経験が
あるからこそ、

私は、
罵倒までは
いかなくても、

毅然泰然と、
大地に踏ん張りながらも、
ある時は
その人の歩みを
全否定する、
ということも
している。

誰かがどうしても
それをしなければ
ならない、
という時があるからだ。

そういう場合は、
コーチという役割、
立ち位置というのは
プラスに働く。

コーチだからこそ
言えること
というのは
たくさんある。

だから私は
どうしても!
という時は、

心だけでなく
魂までもを鬼にして、
その人に
対峙する。

一歩を
進めるように。

そういう
私の役割を、
引き継いでくれる人は
いないかな?

いてくれると
嬉しいな。

つづく