チームパフォーマンスコーチ

光、漏れているのに

自分の中の
光を
見つけるのは、

簡単そうで
難しい。

余分なもの達が
あまりに
たくさんあるから。

余分なもの達が
邪魔をする。

視界が
見えなくなる。

肝心な部分が
虚ろになる。

しかしその
邪魔するもの達を
いつしか
「これが私である」

私達は勘違いする。

自分の個性を
勘違いする。

それは本当は
余分なんだ。

要らないもの
なんだ。

と、
その人自身が
その人に
訴え続ける。

訴え続けるが、
本人は
まったく気づかない。

自分の声が
自分に
届かない。

自分の声こそ
自分に
届かないものだ。

自分の
本当の声を
自分で理解できるように
なれたら、
もうそれだけで
人生は数百倍も
楽になるだろう。

自分のことが
一番、
わからない。

自分のことを
一番、
誤解しやすい。

光は
ある。

確かに
ここに。

しかも
出ようと
している、
その
暗い洞窟から。

それを
見つけるのが
早ければ早いほど、

私達は
「自由な人生」
を長く謳歌できる。

この
不自由な世の中で
自由に生きる
ことのできる人生を。

誰もが皆、
今は光が
強まっている。

光の漏れを
私は誰もに
感じる。

見つけてほしい。
自力で。

これは他者には
できないこと
だから。

祈るしかない。

つづく

ツラいものはツラいが

脱皮直前の
不安定さは
まだ
続いているかな?

その不安定を
何とかしようとは
思わないことだ。

不安定な
ままで。

とは言え
キツいよね。

こういう時は
1秒1秒の
時間に意識を
向けよう。

1秒1秒を
噛み締める
ように。

自分の鼓動も
感じながら。

一刻一刻を
刻みながら
私達の命は
流れる。

鼓動とは
命のリズム。

時間とは
万物の鼓動。

自分の鼓動と
万物の鼓動が
一致するかどうか
ではなく、

たとえ
ズレているように
思えても、
そのズレそのものが
実は
調和しているのだ
ということを
感じ取ろう。

時間は
進む。

私達の人生も
進む。

一瞬として
同じ場所には
いない。

私達は
生きている。

だから
ここにいる。

その「実感」を
改めて
身に沁みて
受け取ろう。

ツラいものは
ツラい。

でも
生きている実感も
確かに
ここにあるんだ。

つづく

未来はわかるわけがない

ゆっくり
開かれていく
未来。

最初は
ボンヤリと。

徐々に
輪郭が露わに
なり、

そして
ある時についに
全貌が現れる。

眼前に
聳える自分自身の
未来。

人生の目的。

それを
目の当たりに
すれば、
きっとわかるだろう。

なるほど、
これは
以前の私が
明確にしてはならない
ものだ。

以前の私では
受け切れない
ものだ。

以前の私が
無理に受け取れば、
誤解を生じさせ、

未来が見える
ことで
未来が遠のく
という結果を
生んでいただろう。

・・・と。

未来は
怖いものだ。

それがどれだけ
幸せなもので
あったとしても。

未来からの
影響は
強い。

強過ぎる。

だから私達は
皆、

慎重に慎重に
自分自身に
未来を見せる。

受け取れる
範囲で。

崩れない
ギリギリの
ところを。

だから、
未来がわからない
というのは
当たり前のことだ。

自分自身の
真本音が
自分自身に
隠しているからだ。

もちろんそれは
「実現したい」
という意志がある
からこそ。

必要なタイミングで
必要なだけ
未来を見せながら、

私達は
最善最速の
ルートを
模索し続ける。

真本音で生きる
とは
そういうことだ。

最初からすべてが
わかるわけでは
ない。

わかってしまっては
つまらないしね。

つづく

苦しみの時代の果てに

自分の
真本音の道を
進むことを
阻害する
苦しみ、がある。

それは
人生でずっと
苦しみ続けている
こと。

変わらずに。

絶えずに。

その苦しみこそ
自分自身では
ないか、と
思い込むくらいに。

時々、
正面から対峙する。

何度、対峙しても
苦しいものは
苦しい。

対峙するほどに
ますます
苦しい。

何度も
完全浄化できた
と思う瞬間はあった。

しかしこの
苦しみはきっと、

魂に
刻み込まれて
いる。

ということで
あれば、
これは本当にもう
私の一部
なのだろう。

苦しみと共に
生きるのが
人間だ。

・・・と
言い切ってしまえば
それまでだが、

そこをまた
我々は
乗り越えようと
しているのだ。

新たな時代が
来ている。

というよりも
すでにそれは
来た。

新たな時代に
我々はもう
立っている。

これまでの
苦しみと共に進む
自分自身から

さすがにもう
変わらねば
ならない。

ここからの
苦しみは、
単なる
自己満足に
なる。

苦しみを
乗り越えるのが
人生であり、
成長である。

という時代は
終わった。

その事実を
ちゃんと
自覚せねば。

新たな生き方で
進もう。

私だけの話
ではない。

あなたも
同様だ。

つづく

変化に気づくだけでは意味はない

自分の変化を
感じた時、

それが
本当の変化
なのか?

本当の成長
なのか?

考え過ぎない
方がいい。

それよりも
その変化を
大切にしながら

日常生活に
向かうこと。

人との関わり、
現実との関わり、

その中で
結果として
目の前に展開する
現象を
あるがままに
感じよう。

本当の変化、
本当の成長
であれば、

現象(結果)は、
自分にとって
より幸せなものに
なる。

今はもう、
変化が現象化する
のが早い。

以前は存在した
タイムラグが
ほとんど
なくなってきた。

だから
判別がつきやすい。

自分の変化や成長に
気づいた段階で
満足するのではなく、

しっかりそれが
現象化するまで
観察する、
感じ取る。

これこそ
誠実な生き方
というものだろう。

現象が変わらずして
変化、とは
言わない。

内面的変化だけでは
意味がない、
くらいに
今はもう
思った方がいいよ。

つづく

場が人を揺るがす

みんな、
もっと

“場”

を意識するといい。

“人”と“場”は
別個の存在として
捉えるといい。

それぞれ独立した
存在として。

それぞれ分離した
存在として。

そして
別個の存在である
“人”と“場”が
お互いにどのような
影響を
与え合っているか?
という視点で
観察するといい。

これまで
見えなかった
様々な物事・現象の

本質的原因が

忽然と
姿を現したりする。

“人”は“場”を
左右するが、

“場”も“人”を
大きく揺るがす。

そして
“場”そのものに
対しても、
まるで“人”に
対するように
コミュニケーションをとる
こともできる。

“場”との対話。

“場”が
訴えかけてくることは
多い。

“人”を見ている
だけでは
盲点となっていることは
多い。

だから当然の
ことながら、

“場”にも
真本音度というものが
そのまま適用できる。

“場”の真本音度を
高めることは
組織の活性化に
直結することだ。

組織とは
単なる”人”の集まり
ではない。

“人”と“場”の
コラボで
出来上がるものだ。

つづく

みんな、脱皮かな

どうもみんな、
また
一気に脱皮する
みたいだな。

心が
不安定になったり、

体調不良が
続いたり、

そんな人が
多いのではないかな。

進んでいるからこそ
の脱皮。

進んでいるからこそ
の不安定。

ここはその
不安定さに抗う
のではなく、

そのまま

でいよう。

ちゃんと脱皮が
完了するまでは、

いつも通り、

真本音も
反応本音も
両方大切にしながら、

自分の意志・意思で
一つ決め、
一つ実行する。

その基本的
生き方を
粛々と、丁寧に
続けよう。

そうすれば
短期間で
一気に、脱皮だ。

つづく

過去はここにある

懐かしい風が
フッと
吹く。

懐かしい自分が
フッと
出る。

過去が
目の前に
蘇る。

過去は私と
共にいる。

いつもいつも。

経験は私と
共にいる。

いつもいつも。

それがわかって
いるからこそ、

手放せるんだ。

経験するから
わかること
ばかりだ。

でも、
役目を終えた
経験は
手放すべきだ。

懐かしい風。

懐かしい自分。

フッと、
私はそれらを
手放した。

つづく

ふいにするかもしれないよ

近くの星と
遠くの星。

同じ星だが、
遠くの星は
やはり

あまりに
遠い。
手が届かない
感じだ。

近くの星は
憧れでは
あるが、
頑張れば
行ける気はする。

そういった場合、
我々人間は
まずは近くの星から
目指すといい。

そこを目指し
そこを達成した
その上で初めて、
見える景色がある。

すると、
最初は遠過ぎて
あまりに実感のない
星だったものが、

手が届くかも・・・

という
印象になるかも
しれない。

今の自分と
未来の自分は
異なるのだ。

今の自分の
感覚が
ずっと未来永劫続く
ということはない。

今日、決断
できなければ、

明日、決断
できる自分に
なればいい。

それが
基本だ。

それを重々
わかった上で、

しかしそれでも
最初から
遠くの星を目指して
しまう。

これが私の
生き方・行き方だ。

やはり
他の人には
オススメできない。

場合によっては
人生全体を
ふいにするかも
しれないから。

しかしそれでも
最初から
遠くの星を目指して
しまう。

そんな気配の
人達が
今、
私以外に増えて
いるのは、
驚くべきことだ。

つづく

本当に強くなるには

変な表現だが、

心の左半身が
麻痺している
ようだ。

酷使しすぎた
ようだ。

しかし
今の歩みを
止めるわけには
いかない。

幸い、
心の右半身は
健全だ。

これでは
バランスが悪いだろう

思われがちだが、

そうでもない。

心は
体と異なり、
独特の、絶妙な
バランスをとることは
できる。

本当に心が
健全な人など、
今のこの社会には
ほとんどいない。

皆、各々の
傷を負っている。

心の傷、
というよりも
魂の傷
という表現の方が
より適切かもしれない。

誰もが
健全さを忘れている。

その中で
やるべきことに
邁進すれば、
それは
麻痺の一つも
起こすだろう。

私は私の心を
最低、
あと23年は
もたせなければ
ならない。

そのためには
逆に、

麻痺しようが
どうなろうが、
それでも進み続ける
という術を
身に付けなければ
ならない。

何かあれば
すぐに止まってしまう、
・・・という「弱さ」では
それこそ23年も
もたないだろう。

無謀は
行けないが、

ちゃんと術を
講じながら、

決して
止まらない
という選択を続ける。

人は
進むための
存在だ。

人が歩みを
止めたら、
それこそそれだけで
死んでしまう。

何があろうとも
進みながら
強くなるしかない。

止まって
強さを取り戻して
また動いて、
弱ったらまた止まって、
強さを取り戻して
また動いて、

・・・では、
いつまで経っても
強くならないのだ。

私達は
もっともっと
自分を鍛えねば
ならない。

あなたも
そうではないか?

つづく

なぜそんな無茶な進み方を

もし
煙が立ち込めて
いて、
周りがまったく
見えない状態に
入ってしまったら、

誰だって

煙の薄そうな
方向に逃げるだろう。

まずはそちらに
逃げてから、
客観的に
煙の外から
状況を観察する。

これが最も
妥当な
対処法だろう。

しかし私は
私の人生において
それを
して来なかったのだな、

最近、ようやく
自覚した。

煙が立ち込めて
きたら、
私はその
最も濃い方向に
自らを進めた。

自殺行為に
等しい。

でも
それをせずには
いられない
何ものかが、

何らかの
理由が

私には
明確にあったのだ。

煙の
最も濃い方向に
行けば、
死ぬかも
しれない。

しかしその代わり、
その煙の
根源を
ダイレクトに
知ることができる。

ダイレクトに
理解して
根本的対応をする方が
早いか?
それとも
私の命が尽きる方が
早いか?

そういった
スレスレのところを
私は躊躇なく
進んだ。

とてもとても
人にオススメできる
生き方ではない。

その怖さを
知っているが故に
私はこれまで
誰にもそういった
進み方を
奨めてこなかった。

実際、
これからも
奨めないだろう。

しかしなぜ
私は
そのような生き方を
続けたのだろう?

答えは
一つである。

それは
「特異点」を
見つけるためだ。

「人生の特異点」
だ。

もちろん
そんなに簡単に
見つかるものでは
ない。

それも充分に
承知の上で、
私はその生き方を
選び続けた。

煙の根源を
ダイレクトに
知るため、

煙の根源と
ダイレクトに
対峙するため。

これをしなければ
「特異点」を
見つけることは
永遠にできないだろう。

しかしどうも、
そういった
私の生き方と
似た生き方をしている人が
いるようだ。

いるようだ、
というよりも
最近はそういった
人との出会いが
増えている気がする。

あえて
こういう話は
しない。

後押しも
しない。

普通に進んで
くれればいい、と
私は
願っている。

でも
その人には
その人の進み方が
ある。

私がそうで
あったように、
これは誰にも
邪魔されたくない。

だから
そっと見守るだけに
しておく。

きっと将来、
その人とは

同じような
歩みの果てに、

共に力を
合わせている
気がする。

が、
今は何も
意図はしない。

私は私の
進み方を
ただ粛々と
これからも進める。

つづく

活気を決めるもの

海の音が
聴こえる。

風の音も
聴こえる。

人々の賑やかな
話し声も。

活気があるな、
と喜ぶ。

人の内面には
様々な世界が
ある。

それは
その人自身が
自ら創り出すもの。

しかし
その内面は
ほぼそのまま
外面に反映される。

その人自身が
まるで
映画のフィルムの
ような役割を
果たし、

その人の内面が
現実世界に
映し出される。

すべての人々の
一つ一つの
フィルムに
内包されているものが、

もちろん
すべてではないが、
その一部が、

現実に
映し出され
重ね合わされ、

そして現実の
世界が
創り出されていく。

その
重なり具合が
調和しているか
どうか。

私はいつも
それを
あるがままに
感じようとしている。

現実に
起きていることを、

ただ
外面的に
捉えるだけでは
足りない。

外面的に
原因を捉え、
外面的に
対処するだけでは

浅過ぎる。

それでは物事の
根本的な改善には
ならない。

内面と外面の
繋がりを観る。

そして
外面の重なり方を
観る。

外面の重なり方を
調和させるには、

一人ひとりの
内面から
変えなばならない。

しかしそれには
本人の意思が
必要だ。

だからその意思を
真本音に基づく
ものにする、
ための
サポートをする。

真本音であれば
それは
間違いなく
その人の本当の
意志・意思であるから。

そして
真本音に基づく
フィルムとなれば、

外面に現れる
ものすべてが
調和した重なり合いを
自然に醸し出す。

私が毎日毎日、
毎日毎日、
やり続けていることは
そういうことだ。

賑やかで
活気があり、
かつ
調和している。

今は、
そういう場が
増えてきた。

今年に入ってから
急激に。

世界はまだまだ
表面的には
混乱しているし、

それは今後も
さらに激しく
なるだろう。

しかし一方で、
調和の場は
増えている。

混乱か
調和か。

それを決めるのは
我々一人ひとりだ。

つづく

すべてに意味があったさ

水の中を
ビュンビュン
泳いでいく。

まるで
水なんか
ないかのように。

空中を
飛ぶかのように。

まったく
抵抗を感じずに。

自由自在に。

自分の周りに
あるもの
すべては、

自分が
進むために
ある。

すべての存在が
自分の仲間だ、
と。

敵・味方
という短絡的な
表現をあえて使えば、

すべてが
味方だと。

すべての
存在が。

世界は
豊かさに
満ちている。

一見、
不完全に見える
ものも、

それそのままで
完全であり、

一つとして
存在意義のない
ものはなく、

一つ一つが
あるからこそ、
この世界なのだ、
と。

水中を
泳ぎながら
感じている。

あぁ、あんたは
水中を
体験したんだな。

水中を
駆け巡ったんだな。

良い体験を
したな。

で、どうだい、

水中から出て
人間に戻った
今の感覚は?

物足りない
かい?

窮屈かい?

そうでも
ないよ。

水中の感覚は
ずっと
残っているよ、
ここにね。

よかったな。

じゃあやっと
あんたも
いっぱしの
人間だな。

あぁそう思うよ、
私もね。

で、
どうするんだい?
ここからは。

もちろん
自分に素直に
生きるさ。

決めたことを
決めた通りに
やっていくさ。

そうか、
何も変わらなかったな。

そりゃそうさ。

最初から
私はちゃんと
生きている。

そうではない、

思った時期は
長かったが。

すべてが
必要だったんだ。

水中を泳ぎながら
感じたようにね。

つづく

ツルンとした中心核が

自分の
中心核に

変化の兆しが
ないか?

まるで太陽の
黒点のように、

ちょっとした
歪みのような。

一見すると
それは小さくとも
とても不安定な
感じなので、

不安になるかも
しれない。

しかしそれは
とても大事な
歪み。

その歪みが
あるからこそ、
まるでそこから
皮が剥がれ、

それは
葡萄のように、

中から
ツルンと
新たな核が
生まれるだろう。

その
生まれたて
ホヤホヤの核は

不慣れな
うちは、
とても敏感で、

この世に
生まれたての
赤ちゃんや幼児が
一つ一つの現実に
過剰反応するように、

感情豊かに

恐ろしいほどの
生きる実感を
与えてくれるだろう。

しかしそれも
じきに慣れる。

その敏感さは
そのまま
感受性の豊かさ
となる。

そして
様々な未来が
観えてくる。

この未来は
好き!
この未来は
嫌い!

と、
未来に対しても
敏感になり、

自ずと
自らの進むべき道が
わかってくる。

敏感なことは
悪くない。

むしろ私達は
鈍感に
なり過ぎたのだ。

敏感なことは
悪くない。

一つ一つの
体験を、

未来への
一歩一歩を

もっと
味わおうでは
ないか。

つづく

絶望感に見舞われたら

私達の心には
結構簡単に

絶望感


湧くもんなんだよ。

本人が
気づいているか
どうかは
別として。

心の奥の方に
ひっそりと
湧くこともある。

でも
そういったものほど
怖いけどね。

絶望感には
敏感であると
いい。

絶望感が
あるからと言って
それ自体が大問題だ
と思わない方が
いい。

絶望感は
簡単に湧くもの
だから。

むしろ
絶望感を覚える方が
健康的だ。

自分自身が
創り出す絶望感も
あるが、

人から感染する
絶望感も
多い。

絶望感というのは
ウィルスに
似ている。

人から人へ
伝染する。

だから
絶望感があることで
絶望しない方が
いい。

それよりも、
その絶望感と
しっかり向き合うこと。

その絶望感は
何を
言っているのか?

何を
自分自身に
伝えようとしているのか?

その中身を
理解して、

その上で
自分の意思で
しっかり対処・対応しよう。

場合によっては
中身を理解するだけで、

その絶望感は
満足して
消えていくかもしれない。

理解しただけでは
消えてくれない場合は、

現実的に
何に対してどう対処すれば
良いかを
しっかり考えよう。

そして
自分で行動を起こそう

決めること。

その決断だけで
また
絶望感は
消えていくことも多い。

結局は
意志・意思だ。

自分の人生は
自分で開くんだ、
という
意志・意思で
決まる。

絶望感は
すぐに宿る。

でも
大事なのは
そこからの自分の
生き方だ。

つづく

自己コントロールのために

高く高く
上空に舞い上がり、

自分の人生

今の自分の
立ち位置を

俯瞰して
みよう。

人生全体の中の
どの場所に
今のあなたは
いるだろうか?

そして
どのような姿勢で
どのように
振る舞っている
だろうか?

ちゃんと
毅然と
今と向き合っている
だろうか?

毅然と
未来に向かって
いるだろうか?

このままの毎日は
あなたの望む
未来へと、
繋がっているだろうか?

地上に降りて、
今度は
あなた自身の
すぐ横に立ってみよう。

すぐ間近から
見つめるあなたは
どう観える?

あなたの
空気感は?

意識はちゃんと
外に(現実に)
向かっている?

外を(現実を)
あるがままに
見つめてる?

目はきれい?
澄んでいる?

自らの意志で
進もうとする
空気感は出ている?

最後に、

鏡で実際の
自分の顔を見つめて
みよう。

あなたの顔は
どう?

良い表情を
している?

良い目を
している?

エネルギー
度合いは?

自分の目を
見つめていると、
パワーをもらえる?

それとも
奪われる?

周りの人達は、
そのあなたといつも
関わっているわけだ。

あるがままの
自分を
見つめてみよう。

客観的な
自分のチェック。

とても大事だ。

まずいな
このままでは、

思ったら、

わずかでも良いから、
自分の生き方
在り方、
動き方を
変化させてみよう。

あなたを、
あなたの人生を
コントロールできるのは
あなただけだから。

つづく

本気で目指そうよ

手の届かない
ものを
求めても
意味がない。

・・・と
よく言われるが、

本当にそれは
手が届かない
のだろうか?

あなたの
望むことは
すべて、

本当は
手が届くのでは
ないか?

今の自分

基本にし過ぎて
いないかい?

過去の自分

縛られ過ぎて
いないかい?

真本音で生きる
とは、
過去の経験の
延長線上でしか
生きられない、
という
人生から
自分自身を解放
することでも
あるんだよ。

経験を超えた
人生。

そういうことが
人には
できるんだ。

自分の中に
どうしようもない

抑えようのない

願いが
生まれてしまう
だろう。

それに
蓋をしたり

無視したり

するのでは
なく、

一度、
堂々とそれを
目指して
みないか。

私達は、
「非線形」の成長を
することが
できる。

それを本気で
望むかどうか?
の違いでね。

そんな時代が
始まったんだよ。

その願い、

本気で
誠実に
目指してみないか?

つづく

大変なのはわかっている

やっとここまで
来れたな、

思ったら、

また
後ろに引き摺られる。

前に進むのは
時間も労力も
かかるのに、

後ろに引き摺られると
あっという間に
もとの場所に。

進んでは
戻り、

戻っては
進むのだが、

戻るのは
速い速い。

やっぱり
もといた場所の
方が、
居心地が良いから。

人間誰しも
そうだろう。

しかしそれでも
私達は
進まねばならない。

いつまでも
同じステージで
足掻いているわけには
いかない。

時間が
ないのだ。

人生の時間が
足りないのだ。

随分と無茶な
目標設定を
したものだと思う、
我々は。

しかし、
何がとうあっても
自分自身との
約束だ、それは。

約束を
果たすために
我々は
ここにきた。

それを誠実に
思い出すか、

忘れたふりを
するか。

その違い
だけだろう。

力は、
ある。

もともとね。

眠っている
だけだ。

それを
揺り起こすのも
自分自身。

早く目を
覚まし、

先に
進もう。

もともと
大変だとわかって
いて、

ここに
来たんだから。

つづく

私のサポートの本質

境目と区別。

これが
大事だ。

私のコーチング
とは、
クライアントさんに

境目と区別

を自分で
見つめることが
できるように、

サポートさせて
いただいている。

・・・結局は
そういうことなのかも
しれない。

例えば、

今日は昨日と
同じ自分として、

昨日の
延長線上の自分
として、

物事に取り組めば
良いのか?

それとも
あえて
昨日までの自分を
否定するかの
ように、

大きく変えて
物事に取り組めば
良いのか?

例えば、

ここからは
これまで学んだことを
活かしながら
進めば良いのか?

それとも
あえて
これまで学んだ
あらゆることを
手放した状態で
進めば良いのか?

つまりは、

経験上の人生を
今日は
進めば良いのか?

経験を超えた
人生を
今日から始めるのか?

その
境目と区別。

例えば、

Aさんとの関係。

Aさんとは
昨日までと同様
もっともっと向き合い、
共に人生を紡ぎ合い、
共に同じ方向を
見つめながら
進めば良いのか?

それとも
あえて
ここからは
これまでの関係を
大きく変えて、

一気に
Aさんから離れる
方向に
進めば良いのか?

その
境目と区別。

昨日と今日は
同じではない。

そして
昨日までのように
今日を送れば
良いのか?

昨日までとは
別物の
今日を送れば
良いのか?

いつから
そうなるのか?

今は
どうなのか?

境目と区別。

当然であるが
これが最も
よくわかるのは、
その人自身だ。

なのに
気づかないままに
進んでしまう。
惰性のように。

その判断を
自ら見極める。

そのためのサポートを
させていただいている。

境目と区別。

ここからの時代は
これまで以上に
これが大切だと
私は思う。

つづく

とても大切な問い

今回もまた、
このタイミングで
重要な問いを
一つ。

・・・

あなたが
これまで観えなかった
ものが
観えるようになるために、

今、
手放すべき
自分の信念は何?

・・・

これまでは
ずっと大切にしてきた
けど、
ここからはもう
必要ない信念。

これまでは
その信念があったからこそ
道を開くことが
できたが、
ここからはもう
あなたの道を
阻害してしまうだろう信念。

それは
何だろう?

ちゃんと自覚して
ちゃんと手放そう。

自分で自分を
阻害する必要は
ないんだ。

つづく

誰か教えてほしい

謎多き
存在が、

人だ。

謎を
解けたと思ったら
すぐに

次の謎が
来る。

あの人は
やっとこさ、
ここまで来て、

あと一歩

あと一息

だったのに、

なぜここで
引き返そうと
するのか?

ずっと
永遠に近い時間を
かけて

ここまで
来たのに。

本当に望んでいた
ものを
自力で掴む
ことが

やっとできるように
なったのに。

誰にも
何にも
邪魔されず、

自由にそれを
手に入れることが
できるのに。

なぜ
最後の一歩が

一息が

出ない?

これで
終わってしまうと
思い込んでいるの
だろうか?

ここからこそが
始まりなのに。

いやでも
違うな。

そんな理由では
ない。

それくらいの
理由であれば、
いくらでも対処は
できる。

何も出来ない
私。

他者としては
何の力にも
なれない。

なぜそこまで
強固な決心で、

諦めるのか?

謎だ。

誰が教えて
ほしい。

何か
手立ては
ないものか・・・

つづく

運命とか宿命とか

毎日をちゃんと
真本音で
生きていると、

生きる理由
とか

人生の目的
とか

どうしようもなく
それが

「わかる」

瞬間は
必ずくるんだ。

最初は
理屈ではなく。

単なる
「感覚」
としてくるんだ。

感覚なので、
意味は
わからない。

でも
感覚なので、
全部
わかってしまう。

感覚でね。

最初から
わかった上で
ここにいるんだな、
と。

感覚でね。

すると
どうしようもないくらいの
安心感が
くる。

次に
不安がくる。

さらに
その次に、

自分の
運命とか宿命とか

そういったものが
目の前にじっと
横たわっているのを

やはり感覚で
知り、

ストン

何かが
肚に落ちる。

そっからだよ。

本当に
落ち着いて
生きることが
できるのは。

何があっても
心は揺らいでも

魂は
揺るがなく
なるのは。

皆、
そうさ。

あなたも、
そうさ。

つづく

真の能力開花とは

掬い上げるように
能力とは
掘り起こされる。

本来の自分の
力は

それが発揮されるか
どうかは、

すべて
自分自身が
決めている。

眠っているものを。

自分の意志と
自分の行動と
自分の姿勢を

評価判断では
なく、
解釈でもなく、

ただじっと
本来の自分は
観察し続けている。

そして

何かがカチッと
完了した時、

この瞬間だ!


判断する。

一気にすべてを
開花させるわけでは
ない。

少しずつ。

必要な分だけ。

掬い上げる
ように。

しかし着実に
開花は進む。

無茶ではなく、

着実に、

しかし
必要なその時に
ちゃんと間に合う
ように。

それが本来の
能力開花だ。

つづく

必死から恩恵へ

やってできない
ことはない。

と、
信じて進んで
コケる。

一つとして
思うように
進まない。

そんなこと
ばかりだった
気がする。

私の人生の
話だ。

しかし
振り返って
これだけは!と
誇れるのは、

とにかくいつも
必死だった
ということ。

必死だったので
なんとか
やってこれたのかな、
とも
ふと思ったのだ。

力を抜くべき
ところで
力を入れて、

力を入れるべき
ところで
ガス欠を起こす。

そんなんばっか
だったけど、
必死だったことは
間違いない。

上手くやろう
というのは
もちろんあったが、

本当に上手く
行かせられるような
器用さはなく、

大概、ドツボに
ハマったので、

結局
必死になるしか
なかった、
最後には。

そんな自分が
愛おしいな、

実は今日初めて
思ったかもしれない。

ふと思ったのだ。

今の私の
毎日は、

恩恵ばかりだ。

幸せなこと
ばかりが
やってくる。

もちろん
真本音で生きる
ということに
シフトチェンジしたからだ、

言えばそうだが、

今回はあまり
そういう結論には
したくないところが
あってね。

ゴツゴツ
ぶつかりながら
歩いてきたのが、

それこそが

良かったの
かな、と。

今日、また
素敵な人達と
出会えたんだ。

恩恵だよ。

本当に
ありがたいことだ。

必死にきて
良かったな、と

そういう気分で
思えたんだ。

つづく

出会いの前に

きっと
幸せな出会いに
なるな、

思う。

とても大切な
人達。

人生に
とっても、
仕事に
とっても。

ここで出会い、
その瞬間を
境にし、

一つ一つ
お互いの人生を
紡いでいく。

それはきっと
あまりにも
情熱的な展開に
なるのだろうが、

その情熱を
高揚したまま
受け取り発散する
よりも、

ただ淡々と

出会いのその
一瞬から

ただ淡々と

丁寧に
紡いでいきたい。

お互いの
時間と
足跡を。

より
幸せになるのは
わかっている。

より
豊穣な人生に
なるのも。

だからこそ
その悦びを
大事に
抱き、

静かにその時を
迎えたい。

あなたとは
静かに
出会い、

静かに
歩みたいのだ。

つづく

素敵な一日

水平線に沈む
太陽を見ながら、

今日という
一日を想う。

今日も
すべきことを
すべて
完了させることが
できたな、と、

満足感と
共に。

しばらく世の中は
暗くなり、

また時間が
経てば
次の朝が来る。

そこからは
一体、
どのような一日が
始まるのだろうか。

「一日」
という単位は
絶妙だな、と

いつも思う。

「一日」に
合わせた人間の
体になっているのだから
当然と言えば
当然だが。

それにしても
「しっくり」
くる。

「一日」を
本当に大切に
できたならば、

それは
「自分」を
本当に大切に
できたことに
なる。
この、独特の
満足感。

「一日」を
本当に大切に
できたならば、

それは
「人生全体」を
本当に大切に
できたことに
なる。
という感覚に
なれる。

もし
人生をシフトチェンジ
させたいと
願うならば、

まずこの
「一日」を
変えてみよう。

と言っても
最初からすぐに
大きく変える
必要はない。

「今日はここだけ
変えてみよう」

と、
しっかり自分の
意思で決め、

それを
実行する。

やり過ぎず、
途中で
諦めず。

ちょうど
100%、
決めたことを
する。

ちゃんと100%で
止めれば、

独特の
「完了感」が
くる。

それは
「完全調和」の
感覚だ。

この感覚で
「一日」を
完了させることが
できれば、

次の「一日」も
素敵な始まり方
になる。

人生を
大切にしたい
ならば、

まずはこの
「一日」を。

今から始まる
「一日」から。

つづく

真に成熟した人とは

私達は
卵の殻の中に
いる。

何度
殻を破って
生まれても。

またすぐに
卵になる。

だから
殻を破り続ける
ために
ここにいるようだ。

いつまで
たっても
未熟なのか?

そう。

いつまで
たっても
未熟だ。

そういった
事実を
真に受け止め

その
未熟さを
真に受け入れ

未熟であり続ける
この歩みを
真に楽しめるように
なったら、

それが
成熟
ということでは
ないか。

成熟した人
とは、

自分の未熟さに
悦びを感じられる
人。

さらに
もっともっと

殻破りを
楽しめる人。

もっともっと
進化し続ける
意志を持つ人。

だから
より
謙虚になれる。
真摯になれる。

誠実に
なれる。

穏やかに、

そして
強く。

やさしく、

そして
厳しく。

つづく

未来か、足元か

足元を
見るか?

遠く
未来を
見るか?

もちろん、
両方大事だ。

両方を
繋ぐことが
大事だ。

しかしあえて
「今は」
ということで
言おう。

今は
遠く未来を
しっかり
見つめよう。

遠いから
わからない、
ではなく。

遠くても
できるだけ
はっきりくっきり
見つめよう。
強い意志で。

今はそれが
できるはず。

未来が
見えれば
見えるほど、

足元も
くっきり
見えてくる。

今は、
あえて、
不必要なくらいに

遠く未来を
見つめよう。

つづく

ここでまた問い一つ

今回はまた
ここで
重要な問いを一つ。

・・・

日常生活の
ルーティンの中で、

一つだけ何かを
壊すとしたら、

何を壊す?

・・・

日々の習慣、
毎日の生活に

少しヒビを
入れる。

それにより、
ちょっとした
引き金として
何かとても
大切なことが
起こる。

今はそんな
予兆のある
空気感だ。

何も起こらない
かもしれない。

でも、
何かが起こる
かもしれない。

その「何か」が
ちゃんと
発現するように、

その糸口として、
毎日の自分の
習慣を
少しだけ
破壊してみよう。

つづく

無謀だが、行くよ

滝が
見えるだろう。

天地を
切り裂くように。

垂直に
そそり立って
いるだろう。

あそこを
ダイレクトに
越える勇気は
あるかい?

普通じゃ
できないだろう。

私にも
できる気は
しない。

何がどうあっても
不可能だと
思うよ。

でも
考えてごらんよ。

ここで
引き返すくらい
だったら、

最初から
こんなところまで
来ていないだろ?

不可能なのは
わかっていて、
それでも
来たのだろ?

「自分」という
範疇では
決してできない道を
進むという
意志でのみ
来たんだろ?

だからさ、
どれだけこれは
無理だな、と
思っても、

やっぱり
私は
行くよ。

予想通り
落ちて死ぬかも
知れん。

いやむしろ、
そのイメージしか
湧かん。

どう見ても
無謀だろ。

無謀はダメだ
って、
ずっとアドバイス
してきたよな、俺。

そんなことは
わかってるよ。

全部わかっていて
でもやはり
行くよ。

君は
どうする?

ちゃんと
決めた上で
動きな。

まずは俺はもう
行くよ。

つづく