チームパフォーマンスコーチ

ぶつかれ 転べ

急成長を

したり、

 

超加速を

する人は、

 

もちろん

ゆとりがない。

 

しかも

無駄なことを

たくさんする。

 

当たり前だろう。

 

未知の領域に

進んでいる

のだから。

 

ゴツゴツと

壁にぶつかったり、

自ら転んだり。

満身創痍。

 

当たり前だ。

 

それだけ

真剣だということだ。

 

上手く進もう

考え過ぎるよりも、

 

自分らしく

自分の生き方を

大切にしたい!

望めばいい。

 

どうせ

上手くいくはず

ないのだから。

 

もっと言えば、

ここで

上手くいってしまえば、

どう考えても

後々、もっと苦労する

ことになる。

 

上手くいく

=逃げている証拠

くらいに

今は思っておけば

ちょうどいいくらいだ。

 

しかし、

私も人間だ。

 

側から見ていれば、

ついつい

手を差し伸べたく

なる。

 

そこをグッと

我慢して、

「見守る」

ことに徹する。

 

これが

最善最大のサポート。

 

サポートする側の

人間は、

これができるかどうか

本当のサポートが

できるかどうかが

決まる。

 

これもまた

大変なことだ。

 

いずれにしても

今は皆、

大変だ。

 

当たり前だろう。

 

未知の領域に

進んでいる

のだから。

 

つづく

 

不安を浴びよ

 

今、

不安に

苛まれている人が

多い。

 

いつもは

安定した生き方が

できているのに。

 

不安には

二つある。

 

反応本音レベルの

不安と、

真本音レベルの

不安だ。

 

真本音そのものが

不安になる

わけではない。

しかし、

真本音がわざと

自分を「不安」の中に

ぶち込む。

 

自らの反応本音と

手を組み、

不安の反応本音の

中に

自分をぶち込んで、

出れなく

する。

わざと。

 

もちろん

理由がある。

 

理由は

単純。

 

大きな脱皮を

するためだ。

 

羽化

と言ってもいい。

 

自分を

「変態」させる

大事なステップだ。

 

人は

不安にならなければ

なかなか

自分を失うことは

ない。

 

もちろん

不安以外にも

様々な手段は

とれるが、

変な表現だが、

不安が最も

お手軽で

効果的・効率的だ。

 

何も事件が

起こらないのに、

勝手に

自分を失うことが

できるからだ。

 

自分を失わねば、

脱皮は

できない。

 

これまでの

自分の範疇に

いるうちは、

決して

自分を超えることは

ないからだ。

 

今、

とてつもなく

不安な人へ。

 

その不安に

具体的な理由が

あるか、

ないか、

は関係ない。

 

いかなる理由から

くる

不安であっても、

 

もし

これまで経験した

ことのないような

巨大な不安で

あって、

 

かつ

 

自分を完全に

失ってしまっている

ようなら、

 

あきらめよ。

 

不安から

逃げることを

あきらめるんだ。

 

その不安を

徹底的に

浴び続けよう。

 

もちろん

その辛さ苦しさは

私もよく

わかっている。

 

そんな簡単な

ことではない。

 

私は何度も

逃げたし、

何度も

乗り越えたことも

ある。

 

だから

強く言う。

 

最後まで

その不安、

 

浴びよ。

 

徹底的に。

 

自分の進化の

ために。

 

つづく

 

 

今、向き合うべき問い

今回は二つの問いを

投げよう。

 

今、このタイミングで

しっかり考えよう。

 

・・・

これまでの私の

最大の悔しさとは?

 

それは、

何をもたらす

ためのもの?

・・・

 

実はこの問いは、

あまり頭で

考えない方がいい。

 

思考で答えを

出すことで

ズレた答えを導き出し、

 

せっかくの「悔恨」が

本来の意味を

成さなくなる可能性の

方が

圧倒的に大きいから。

 

私達人間は

自分に都合の良い

思考をするのよ。

 

悔しさから

自分を

救い出すために。

 

だから通常は、

私は

悔恨は悔恨のまま

あるがまま

しっかりとそれを

感じ続けることを

お勧めするのだが、

 

しかし、

今は特別。

 

今は、一気に

次のステージに

進もうとしている人が

多い。

 

上記の問いを

しっかり考えた上で、

その後、

本質的答えが

直観として浮かび上がる

可能性は高い。

 

そう。

 

しっかり考えながらも

本当の答えは

直観を待とう。

 

その前提のもとで、

上記の問いと

しっかり

向かい合ってみよう。

 

つづく

 

一度、風になろう

 

気持ちのよい

風の中に

立っていると、

 

風の感触のみに

意識を奪われ、

 

周りの景色が

目に映らなくなる。

 

風と共に

私自身も

空に舞い上がっていく

気になる。

 

この

体という制限が

もしなくなれば、

 

どれだけ自由に

なるだろう。

 

どれだけ

遠くに

行けるだろう。

 

自分自身に

問うてみる。

 

私は今、

何に縛られている?

 

いつの間にか

何を前提にして

すべてを発想している?

 

私が今

立っているこの

地面は、

土台は、

本当に今の私に

必要なものか?

 

もっと

心を解き放ち、

魂を解き放ったら、

本当は私は

何をしたい?

 

本当は

何者として

進みたい?

 

以上の問いを

あなたにも

プレゼントしよう。

 

ステージが

変われば、

前提が変わる。

 

あなたのこれまでの

前提は

もう、

前提ではないのだよ。

 

つづく

 

命の決断

 

人生には

決断をしなければ

ならない時が

ある。

 

その決断とは

もちろん

その人自身が

しなければ

意味がない。

 

決断の瞬間から

逃げてしまう。

 

・・・それによって

人生の混乱は

始まる。

 

当たり前の

ことだが、

 

自分の人生の

最終意志決定者は

自分自身だ。

 

誰かにそれを

譲ろうとしても

そうはいかない。

 

他者から

いかなる影響を

受けようとも、

 

自分が決めた

その選択は

自分のものだ。

 

だからこそ、

 

ちゃんと

自分と向き合い、

自分の人生と

向き合い、

 

自らの意志で

決めなければ

ならない。

 

これができない

ことで、

命を落とすことすら、

人には

あるのだ。

 

昨日と今日。

 

私のクライアントさん

3人が、

人生(そしてビジネス)の

大決断を

された。

 

無上の

喜び。

 

つづく

 

激流の中で

 

一見、

混乱としか思えない

状況の中でこそ、

 

生まれ出づる

ものがある。

 

激流に

呑み込まれながらも

その中に

動かぬ静かな

光がある。

 

さっきまでは

確かに

なかった光。

 

今、ここで

生まれ出た

もの。

 

それは、

残念ながら

激流の中でしか

生まれない。

 

だからこそ

私達は

わざと激流に

身を投げることが

ある。

 

もしくは

激流を自ら

創り出すことさえ。

 

激流は

我を失う。

 

わけが

わからなくなる。

 

諦めそうに

なる。

 

そして

諦めるとか

諦めないとか

それすらも

わからなくなった

その時に、

 

それは

生まれる。

 

その光を

観ると、

 

たとえそこに

我を忘れた自分が

いたとしても、

 

激流のまま

だとしても、

 

とても静かに

なる。

 

とても静かに

その光を

両掌で

そっと掬い上げる。

 

掌の中の

光。

 

激流の中で

涙する。

 

そして

私達は

生まれ変わるのだ。

 

新たなステージを

始めるのだ。

 

私自身が

そうだったし、

 

そこに立ち会うのが、

私の仕事だ。

 

光は

すぐ目の前に

あるんだよ。

 

つづく

 

人生最大?

 

また卵が

割れる。

 

いったい何度

殻を破れば

気が済むのか。

 

そう思い、

半ば飽きれながらも

ニンマリする。

 

本当は

一つずつ破っていく

殻なのに、

 

3つくらい

一気に

爆発させる。

 

そんな進み方を

しようと

している。

 

今、

私のクライアントさん

とか

ビジネスパートナー達

そんな状態だ。

 

どうせ

一気に進むなら、

 

中途半端な

迷いは

横に置いて

 

とことん

真一文字に

進んでほしいな。

 

そう私は

願っている。

 

まぁとはいえ

かく言う私も

似たようなものか。

 

ひょっとすると

ここからは

人生最大の

超加速かもしれない。

 

つづく

 

見えなくていい

 

何も見えない

ことは

怖いかもしれないが、

 

恐れることは

ない。

 

何も見えないことを

楽しめる

自分になろう。

 

何も見えなくても

わずかな

「感覚」

捕らえる。

 

自分の行きたい

方向は

こっちの方だと。

 

わずかでいい。

 

「こっちではないな」

と何となく

わかるだけでもいい。

 

何となく

違和感がある。

 

何となく

モヤモヤする。

 

何となく

抵抗感がある。

 

何となく

悪い意味の怖さ

がある。

 

何となく

変な疲弊感が

ある。

 

何となく

狭まる感じがする。

 

・・・等々、

わずかなその

進めない感じ、

それを

掴めばいい。

 

それがあるなら

そちらに

行かず、

 

それらを感じない

方向に進む。

 

何も見えなくても

いい。

 

見えないことを

楽しみながら。

 

一歩進む。

 

次の一歩を

進む。

 

見えなくても

自分の感覚を

信じて。

 

するとある瞬間から

突然、

何かがわかる

ようになる。

 

見えなかった

何かが

突然、

現出する。

 

なぜ、

そうなるか?

 

それは

すべて自分の意志で

進んでいるからだ。

 

自分の感覚で

自分を信じて

進んでいるからだ。

 

信じるとは

意志だ。

 

意志を持つ人には

いずれ

必ず

見えてくるもんだ。

 

つづく

 

一つの峠

 

2週間以上

続いた

激しい消耗戦が

 

ようやく

終わった。

 

急がねば

ならないという

焦りと、

 

焦って一歩を

踏み出しては

本末転倒だという

戒めと。

 

それらの

葛藤のような

ものも

今回は実に

大きかった。

 

真本音で

進もうという

実直さが

あればあるほど、

 

キツかった

のかもしれない。

 

だが、

やり遂げた。

 

もちろん、

やり遂げた

と言っても

すぐに「次」への

スタートだ。

 

それも

わかっているが、

束の間の

安堵も大事だ。

 

自分の選んだ

この道の

この進み方は

 

側から見れば

決して

幸せなものでは

ないだろう。

 

しかし

こう行く

決めたんだ。

 

決めて

進んでいるので

清々しい。

 

どのような道も

どのような進み方も、

 

自分で

決めるかどうか、

 

だな。

 

一つの峠

のようなもの。

 

今回は

それを越えた。

 

越えれば

ここから

「カタチ」が

始まる。

 

ここまでの

成果が

「カタチ」となってゆく。

 

それを

楽しみながらも

 

しかし

それを見つめる

だけでは

済まさない。

 

やはり

止まることは

ない。

 

「次」に

進むんだ。

 

つづく

 

エネルギー制限を

 

今は

湧き出るエネルギーを

そのまま

使い切っている

感じだ。

 

ギリギリの

ところにいる。

 

だから

ゆとりのない人が

多いだろう。

 

妙な疲れが

ある場合は、

 

それは必然的な

ものであると

認識し、

 

無理をしないこと。

 

気合いだけで

進もうと

しないこと。

 

セルフコーチング

とは、

自己のエネルギーマネジメント

でもある。

 

以下の問いを

自分に投げてみよう。

 

・・・

 

今の私は

通常の何%のエネルギー

を出せるだろうか?

 

そして

 

その制限を

超えないために、

 

何を

やめようか?

 

何を

どんなやり方に

変えようか?

 

特に

自分が今、

気をつけるべき

ことは?

 

そして

 

この状態を

いつまで続ける

必要がある?

 

・・・

 

多少、無理をしても

良い時と

そうではない時が

ある。

 

今は

自らを客観的に

観察しながら、

 

決して

無理はしないことだ。

 

つづく

 

内に籠ってないで

 

もし心が

内に籠っているな

感じたら、

 

世界を

感じてみよう。

 

外に出て、

 

できるだけ

広い場所に出て、

 

世界全体に

意識を向ける。

 

広げる。

 

それは

自然の豊かな場所

でも良いし、

街の真ん中でも

いい。

 

静かな場所でも

良いし、

人がたくさんいる

雑踏でも

いいんだよ。

 

できれば、

 

いろんな場所に

行き、

いろんな「世界」を

感じよう。

 

私達は「世界」の

中にいる。

 

内に籠り過ぎると

「世界」と

分離してしまう。

 

その分離感こそが

私達をさらに

不安にさせる。

 

意識をどんどん

「世界」に広げ、

 

「世界」と一つになる

くらいの

感覚まで。

 

私はいつもこれを

やり続けている。

 

いつもこれを

続ければ、

 

たとえ

一人でいても、

家の中にいても、

常に

「世界」を感じる

ことができるようになる。

 

「世界」と共に

「ここ」にいる。

 

という状態に

なれる。

 

私達人間には

「つながり感」

が必要なんだよ。

 

つながるために

人は存在

しているのだから。

 

だからまずは、

「世界」そのものと

つながってしまおう。

 

つづく

 

不安・絶望・不信はないか?

 

今回は

大事なチェックを。

 

まず、

 

自分の「中心軸」を

意識しよう。

 

ここで言う「中心軸」

とは、

 

自分のおへその奥

辺りの体の中心点と、

自分の頭頂部の

中心点を

結んだものだ。

 

二つを結べば

体の中に中心軸が

走っているように

感じるだろう。

 

その中心軸を

さらに

上と下に伸ばそう。

 

上は

天(宇宙)と繋がる

くらいに。

 

下は

地球の中心と繋がる

くらいに。

 

まっすぐに立って

やった方が

やりやすいかも

しれない。

 

地球の中心と

天(宇宙)を繋ぐ

一直線。

これが「中心軸」。

 

それに貫かれている

自分。

 

これを

イメージしようと

した時、

 

はっきり

「中心軸」を感じる

ことができるかどうか?

 

途中で

「中心軸」が見えなく

なっていたり、

何かモヤモヤしたものが

へばりついていたり。

 

もしくは、

「中心軸」のはずなのに

グニャグニャと

曲がっていたり。

 

・・・とにかく

スッキリとまっすぐに

「中心軸」が見えない

場合、

 

その

モヤモヤした部分に

意識を集中して

向けてみよう。

 

もしそこに

激しい不安・絶望・不信

のようなものを

感じたら、

 

それは

あなたのもの

ではない。

 

他の誰かから

受け取ってしまった

「念」である。

 

つまりは

「エンティティ」と

呼ばれるものだ。

 

エンティティとは

ストレスの濃度が

ある一定以上に高まることで

実体化したもの。

 

念の塊だ。

 

それは

人から人へ

まるでウィルスのように

伝染する。

 

今、

真本音度の低い人達

のエンティティが

凄い。

 

街を歩いていると

そこかしこに

それを感じる。

 

本来は

真本音度が高ければ、

 

ちゃんと自分の

真本音に素直に

生きていれば、

 

そのようなエンティティ

に対しても

耐性は高く、

 

しっかり睡眠を取れば

解消できるはずだが、

 

今はあまりに

街に氾濫している

エンティティが多いので、

 

それを受けて

しまい、

 

言いようのない

不安・絶望・不信

などの気持ちに

苛まれてしまっている

人が

増えている。

 

しかしそれは

その人自身の

不安・絶望・不信

ではない。

 

そういった「念」を

受け取って

感じ取って

しまっているだけだ。

 

上記のように

自分の「中心軸」を

意識し、

もしそこにエンティティの

存在を感じたら、

 

そこに

ド直球に

あなたの目線を

向けよう。

 

エンティティを

攻めるわけではない。

 

癒すわけでも

ない。

 

ただ、

エンティティと

向き合うだけ。

 

意識の矢印を

向けるだけだ。

 

それだけで

エンティティ達は

あなたのもとを

離れる。

 

攻めては

いけない。

 

戦っては

いけない。

 

ただ、

まっすぐに

見つめるだけ。

 

真剣な

眼差しで。

 

あなたの

「自分の人生を生きる」

という意志を

向けるだけ。

 

するとその

「真剣さ」に

エンティティ達は

 

ここは自分のいる

場所ではない、

 

と感じ、

去っていく。

 

先ほども書いたが、

今、

真本音度の低い人達は

とても激しく

揺れている。

 

こういう時こそ、

真本音で生きる私達は

自分の人生を

毅然と進もう。

 

自分のすべきこと

したいことに

素直に、誠実に。

 

その意志が

私達自身を

楽にする。

 

エンティティを

相手にしている

場合ではない。

 

つづく

 

細胞達と

 

全身全霊

という言葉は、

 

ちょっと力が

込められ過ぎて

疲れるイメージが

あるかもしれないが、

 

私は結構

好きだ。

 

最近は常に

この在り方を

大事にしている。

 

物事の発想を

する時も、

 

何か

文章や書類を

書く時も、

 

人に

ものを伝える

時も、

 

全身全霊を

大事にしている。

 

私の場合は

全身に力を

入れるというよりも、

 

自分自身の

全身すべての細胞に

意識を向ける。

 

細胞の一つ一つ

すべてに

私の魂が宿っている

感覚を得ながら、

 

目の前の

一つの物事に

意識を向ける。

 

すると明らかに

余分な力が抜ける。

そして、

私の解釈という

範疇を超えた

振る舞いができる。

 

しかも

これをすればするほど

私の細胞達が、

全身が

喜んでいる感覚が

増すのだ。

 

この感覚は

結構、気持ちよくて、

 

ここのところ

何もしていない時ですら、

私は私の細胞達に

意識を向けるように

なった。

 

細胞

とは言わないまでも、

このように

意識を自分の全身に

行き渡らせることは

とても大事だな。

 

つま先とか

指先とか

あんまり意識しないでしょ?

 

普段から

意識を向け続ける。

 

これが

「大事にする」

ということの基本だな、

と改めて思うよ。

 

体だけでなく、

あらゆることに

言えるよな。

 

つづく

 

じれったい

 

たった一文字の

新たな理念が

私の中に

生まれたようだ。

 

たった一文字で

かつ

私に大きなパワーを

与えてくれる

理念であることは

わかる。

 

でも

肝心のその一文字が

わからない。

 

どれだけ

心を無にしても

浮かんでこない。

 

思考では

決してたどり着けない

ことはわかるので、

直観をじっと

待っている。

 

が、

わからない。

 

実はこれまでも

こういったことは

よくあった。

 

そんな場合は

「わからない」という

気持ち悪さを

そのまま感じながら

 

1分1秒を

過ごしていく。

 

自分にとって

非常に大事な理念

であることは

ヒシヒシ感じるので

 

「わからない」という

ことが本当に

気持ち悪い。

 

首を掻きむしり

たくなるような

じれったさ。

 

でもそれすらも

共に

時間を過ごす。

 

わかる時は

必ず来る。

 

その瞬間が

訪れるまで、

このままで。

 

こういったことも

セルフコーチングの

基本だ。

 

つづく

 

思考と直観の関係

 

よく私が

直観直観と

言うので、

 

じゃあ

思考はしちゃあ

いかんのか?

思われることも

あるのだが、

 

もちろん

我々は人間、

思考の生き物だ。

 

思考なしに

生きることは

できないし、

 

思考は

思いっきりしよう。

 

私がお伝え

したいのは、

 

思考すべきところで

しっかり思考し、

 

思考してはならない

ところでは

思考を止められる

ようになろう、

 

ということだ。

 

思考してはならない

ところというのは、

つまり

 

今は直観が

出る瞬間だ

 

という時だ。

 

私はよく

悩む。

 

悩む=思考し続ける

捉えていただいて

間違いない。

 

グルグルグルグル

頭で

思考が続く。

 

それは

意図的にやっている。

つまり、

「今は悩もう」

と。

 

「今は思考する時だ」

と。

 

しかし、

「決して答えは

出さないようにしよう」

とも

決めている。

 

答えはすべて

直観で決める。

 

なぜ思考するか?

 

その一つの答えは

「直観による答えを

導き出すため」

だ。

 

思考をよくする人は

直観力も高い。

 

思考することは

直観的な答えへと

導いてくれる。

 

・・・というよりも

私の感覚では、

 

思考することで

どんどん心の靄が

浮上し続け、

 

徹底的に

思考することで

浮上し続けた靄が

一気に浄化されていく。

 

それにより

心の底にあった

本当の答えが

直観として現れる。

 

・・・という感じだ。

 

実際、

よく思考する人は

直観力も高い人が

多い。

 

ただし、

直観が出る瞬間に

至ったとしても、

それでも自分の

直観を信じず、

思考で答えを出そうと

し過ぎてしまう人もいる。

 

それは

実にもったいない。

 

さて。

 

なぜ思考するか?

もう一つの答えが

ある。

 

それは、

「直観をしっかりと

言語化するため」

だ。

 

つまりそれは

自分以外の人に

きちんと伝える

ためだ。

 

直観を直観のままに

しておく人も

多い。

 

それではその答えは

「自分だけのもの」

だ。

 

直観を、他の人にも

わかりやすく

伝え、共有する。

 

特にビジネスに

おいては

とても大切なことだ。

 

このように

私達は、

思考と直観のコラボ

によって

生きている。

 

良いコラボのため

には

良い役割分担が

必要だ。

 

思考と直観の

役割分担を

しっかりする。

 

というのが

私のオススメしたい

ことだ。

 

今は、

役割分担をせず、

どちらも中途半端な

人が多いと思う。

 

中途半端な

思考(悩み方)。

 

中途半端な

直感。

 

ただの思いつき

レベルの直感しか

浮かばない人は、

 

まだ悩み方が

足りない。

 

もっと

徹底的に思考

する。

 

そのためには

自分に

問い続ける。

 

問う力のない人は

思考する力も

ない。

 

結局は

セルフコーチング力に

行き着くんだけどね。

 

つづく

 

超加速の問い

 

私が時々使う言葉

として

 

「超加速」

 

というのがある。

 

これまで

自分が体験したことの

ない

加速の仕方で、

 

一気に前に

進む。

 

そのような状態に

入っている人。

 

これまでの

最大加速を

超える状態。

 

それを

「超加速」

表現している。

 

私達は

人生において

何度も

「超加速」の時期を

迎える。

 

その時は

もちろん心の根底に

言いようのない

恐怖が湧く。

 

未知の加速だから

当然だろう。

 

しかしそれでも

私達は

「超加速」

をする。

 

私達自身の

真本音の意志に

基づいて。

 

今、

 

この4月から、

 

「超加速」に入る

人が

とても多いようだ。

 

私もその

一人だが。

 

そこで、

 

「超加速」に入る

人達に

いつも投げている

問いがある。

 

それをここに

改めて

書いておこう。

 

これまでも

何度か

投げさせていただいた

問いだ。

 

・・・

 

あなたがこれまで

最も大事にしてきたもの

の中の一つで、

 

今、ここで

手放すべきもの

 

は何だろう?

 

・・・

 

「超加速」のためには

重りを一つ

取り除かなければ

ならない。

 

この問いの答えは

内面的なことかも

しれない。

例えば、何らかの

信念や価値観など。

 

もしくは、

外面的なことかも

しれない。

実際に何か「物」を

手放すとか、

誰か「人」から

離れるとか、

何らかの「環境」から

離れるとか。

 

手放すべきものは

人それぞれ。

 

これまで本当に

大事にしてきたもの

だから、

それを手放すこと自体が

 

人の心として

 

辛いことだろう。

 

でもそれでも

それをしなければ

「超加速」

はできない。

 

「答え」は

自分自身が最もよく

わかっている

はずだ。

何となくでも。

 

しっかりこの問いと

自分自身と

向かい合い、

 

明確に

答えを出し、

 

実行しよう。

 

時間はあまり

ないのだ。

 

つづく

 

安全安心でいたい?

 

水は、

澱みに溜まると

死んでいく。

 

流れていないと

死んでいく。

 

人も

同じだ。

 

一つの場所に

ずっといて、

変化も進化もない状態に

い続けると、

だんだんと心が

死んでいく。

 

私達の意志

とは

まずもって

「動く」

ことを求める。

 

今とは違う場所に

向かって。

 

それが

本能だ。

 

ところが、

その一方で私達には

安全安心欲求も

ある。

 

新たなことを始める

不安よりも、

同じところで

同じことを

やり続けていることで

安心していたい

という欲求だ。

 

しかしその欲求は

人とは本来動くもの、

という

前提のもとで

生み出されたものだ。

 

だから

動いている時には

安全安心欲求は

健康的な出方を

する。

 

しかし

動かなくなることで

それは

ある意味、病的な

出方をしてしまう。

 

・・・

 

安全安心欲求を

なくしては

ならない。

 

それをなくすことが

人としての成長だ

思い違いをしている

人がいる。

 

真本音度が

高まった人ほど、

私は

不安とか怖さとかを

しっかりと感じるように、

アドバイスする。

 

それがあるからこそ

私達は

エネルギーが高まったと

しても、

地に足のついた

進み方ができるのだ。

 

・・・

 

令和の時代に

入って、

若い人達と接していると、

 

自分の心を

抑え、

自分の心を

殺し、

自分を出さないようにして

生きる

 

という時代は

本当に終わったのだな

実感する。

 

「これからは心の時代だ」

とは

四半世紀前から

言われ続けている

ことだ。

 

が、

本当にそうなれて

来ているなと

思う。

 

心の時代

だからこそ、

 

私達は

動こう。

 

進もう。

 

それが前提の

私達の心

なのだから。

 

つづく

 

世の中を変える力

 

ほんの

ちょっとしたこと

だ。

 

ほんの

一言。

 

ほんの

一歩。

 

ほんの

一つの

何気ない行動。

 

一見すると

とても些細な

こと。

 

それが

人生を

変える。

 

人生の展開を

根底から

変えることも

ある。

 

それを

無意識に行なう

のが

ほとんどだが、

 

それを

意識して行なう

こともできる。

 

その度合いを

高めることも

できる。

 

意識的に

人生の展開を

コントロールする。

 

いや、

コントロール

という言葉は

語弊があるかも

しれない。

それはすべて

意図を超えた

展開になるから。

 

でも、

そういったことも

含めて、

展開を変えて

いく。

意識的に。

 

その力は

みんな

もっと養った方が

いい。

 

例えば、

Aさんと会う。

 

しばらく会話を

して、

別れ際、

 

さりげない

一言を

 

Aさんに

残しておく。

 

それが

Aさんにとって

時限爆弾のような

刺激となり、

 

時間差で

Aさんの行動が

変わり、

その後の物事の

展開が変わる。

 

もちろん

Aさんの行動の変化を

予測したり

意図したり

想定したり

するのではない。

 

Aさんは

想定外のことばかり

する。

 

でも

それでいい。

 

それがいい。

 

それによって

様々な調和が

結果として

起こる。

 

こちらが

意識的に行なう

のは、

 

さりげない

別れ際の

あの一言だけだ。

 

「この一言を

今、残せばいいのだな」

その瞬間に

わかる。

 

わかったことを

ただ

行動に移す。

 

こちらが

意識的に行なっている

のは、

それだけ。

 

これは

人生が

楽しくなる。

 

未知の領域に

進むための

最大にして

唯一の進み方、

 

・・・だと

今の私は

思っている。

 

みんなが

この力を

グンと高めれば、

 

世の中

変わるだろうな、

 

今日も思ったよ。

 

つづく

 

勢いで始めるよりも

 

最初は本当に

細い道だったと

しても、

 

始めることに

意味がある。

 

始めなければ

続かない。

 

続かなければ

大きな波には

ならない。

 

最近は「持続」という

言葉が当たり前のように

使われるようになった。

 

持続することは

大事だ。

 

持続することで

初めて

到達できる次元が

ある。

 

そして

そのためには

始めなければ

ならない。

 

・・・

 

私は

未知の領域で

あればあるほど、

 

始まりは

小さくて良いと

思っている。

 

スモールスタート

だ。

 

大きな志が

あればあるほど、

 

最初は小さく

かつ

しっかりと

地に足をつけて

始めるべきだ。

 

物事の始まりで

最も重要なのは、

その物事に

「魂」

を宿すこと。

 

一つ、一つ、

の行動に

魂を込めることで

それは自然に

醸成される。

 

最初から規模に

こだわることで

そこが

薄くなる。

 

魂とは

その物事の

核である。

 

核が薄ければ、

持続は

しない。

 

最初は勢いだけで

進めたとしても、

 

勢いがなくなった

ところで初めて

それが本当に

持続できるかどうかが

決まる。

 

勢いが大事な

時期はある。

 

しかし

勢いだけで進むことは

特にこれからの

時代においては、

 

致命的だ。

 

進化を伴う

持続が大切、

 

・・・というか、

本来の持続とは

進化によって

成される。

 

着実な進化を

進めるには、

 

「始まり方」

 

が大事だ。

 

そしてその始まりに

おいて

必須なのが、

一つ一つの選択と

行動に

魂を込める

ということだ。

 

・・・

 

だから最初は

スモールスタートが

いい。

 

そこで魂を込め、

核を生み出す。

 

それが

ビッグウェーブに

つながっていく。

 

つづく

 

本当の瞬発力

 

本当の瞬発力

とは、

 

待てる人

 

にこそ

発揮される。

 

物事には

タイミングが

大事、

ということは

これまで何度も

書かせていただいた

ように思うが、

 

今ほど、

「タイミング」が大事な

時期は

これまでになかった

のではないかと

 

最近は強く

感じている。

 

1秒、

タイミングがズレれば

その1秒が

永遠に広がっていく。

 

・・・というような

表現が

大袈裟ではない

気がする。

 

だから私は

どれだけ良いアイデア

でも、

 

全身で納得

 

できるような

タイミングが来ない内は

何もしない

ことにしている。

 

タイミングを

じっと待つ。

 

私のクライアントさんで

これが非常に

上手な人がいる。

 

その人を

拝見していると

いつも思うのだが、

 

瞬発力

すげーな!

と。

 

で、思うのだ。

 

瞬発力とは、

タイミングを掴むことで

初めて

発揮されるもの

なんだな、と。

 

あらゆることが

調和を始める

調和ポイント。

 

そのタイミングを

掴み、

そこで一気に

駆け出す。

 

その瞬間がくる

までには

イライラするほど

歩みが遅い。

 

何もしない。

何も進まない。

 

でも、

調和ポイントが

「今だ」

と感じられたら、

 

これまでの静けさが

嘘かと思うくらいに、

 

躊躇なく

 

ぶっ飛ばす。

 

あなた

怖いもの何もないの?

ハラハラするような

ことでも

躊躇なく。

 

そして次々に

物事を

進展させていく。

 

まるで、

これが人生の

進み方だ、

教えられるようだ。

 

でもまさに

それは

人生の醍醐味

なんだろうな。

 

待つことが

できる人は

 

一気に進む

ことも

できるんだな。

 

つづく

 

出会いの刺激

 

人には

鍵みたいなもの

があってね、

 

それを知らずに

扉を閉じたまま

ずっと

生き続けているんだ。

 

でも、

 

ある時ある人と

出会った時に、

 

あー、この人と

出会えたから

もういいかな、

 

自分にOKを

出して、

 

その鍵を

開けるんだ。

 

扉が開くと、

その向こうに

ずっと隠れていた

ものが

姿を現す。

 

それが

「本来の自分」

だったりする。

 

しかもその

「本来の自分」

は、

これまでの自分の

個性とは

真逆のものを

たくさん持っていたり

する。

 

能力もそう。

 

これまで

まったく使ってこなかった

力を

突然使い出したりする。

 

未経験の個性で

未経験の力を

使う。

 

本人にとって

みれば、

自分が自分では

なくなってしまった

感じ。

 

でもその

個性と力のその

向こう彼方に、

 

確かに

観えてくるんだ。

 

本当の

ビジョンが。

 

これを自覚

した時、

その人は初めて

 

本当に

 

認めるだろう。

 

以前の私は

仮の姿だった、

と。

 

そういった意味で

出会いとは

ある意味

恐ろしい。

 

と、当時に

 

とてつもなく

素敵だ。

 

出会いによって

人生は

とんでもなく

刺激的な変化を

することになる。

 

人との出会いは

自分との出会い

でもあるんだ。

 

つづく

 

頑固だよな

 

融通の利かない

自分がいる。

 

それを

面白おかしく

眺めている

自分がいる。

 

私は私の

頑固さを

楽しんでいる。

 

人生においての

遊び心の

一つとして。

 

実際、

頑固というのは

子供っぽい。

 

こだわらなくて

良いところに

こだわり続ける。

 

例えば、

雨が降ってくる。

 

しかし

傘をさすと

なんだか

負けた気になる。

 

だから

ささない。

 

何に対して

負けた気になるのか

わからんけども、

 

でもそんな自分を

面白おかしく

眺めながら、

 

濡れて帰る。

 

まぁこれくらいの

軽い頑固であれば

良いが、

 

企業の中で

重要な選択をしようと

するところで

頑固さを出す

人がいる。

 

みんな心の中で

辟易している。

 

その人に

本当はもう

寄り付きたくないと

みんな思っている。

 

この人さえ

もしいなくなれば、

もっと物事は

スムーズに進めるのに。

 

この人が

いるから

我社はいつまでも

変わらないのだ。

 

みんな内心

思っている。

 

思っているが、

口には出さない。

出しても

無駄だと

わかっているから。

 

その虚脱感。

 

何を言っても

どうせ無駄。

 

・・・この認識が

その人を組織から

離れさせる。

 

人をそんな気に

させてしまう

頑固さは

致命的なのだが、

 

しかしそれでも

やはり

私は

その頑固さを

 

面白おかしく

観てしまう。

 

ついつい

微笑んでしまう。

 

でも

本当に面白いのは、

 

そういった

微笑みの目線で

見つめ続けると、

 

その人の頑固は

溶けていくのだ。

 

もちろん

全部が全部では

ない。

 

でも、少なくとも

私の前では

その人は

自分の頑固さを

出しながらも、

 

その人自身が

「まぁ私が頑固な

だけですけどね」

微笑み出すのだ。

 

そういう場面は

数限りなく

あった。

 

社内にそんな

微笑みの目線が

あれば、

そんなに深刻な頑固には

ならないのにな、

よく思う。

 

が、まぁ

難しいわな。

 

人間だからな。

 

つづく

 

軸を醸成しよう

 

自分の

「想い」

「行動」

一致させるとしたら、

 

どんな想いで

どんな行動を

し続ける?

 

・・・

 

何がなんでも

やり続ける

その行動を、

 

明確にすると

いい。

 

何がなんでも。

 

そういったものを

一つでも

持つことだ。

 

それが

自分の「軸」を

一気に醸成して

くれる。

 

・・・

 

ちなみに

私の答えを

書いておこう。

 

私の「想い」は、

 

『関わるすべての人

と共に

殻を破り続けたい』

 

だ。

 

その人の殻。

私の殻。

 

共に人生を全うする

ために。

 

そしてそのための

「行動」は、

 

『殻を破壊するための

刺激を、

自分にも人にも

与え続ける』

 

だ。

 

刺激、というのは

具体的には

メッセージや問いだ。

 

私は何よりも

自分自身に

それを与え続ける。

 

それができるが故に

人に与え続ける

こともできる。

 

そういった意味で、

私は破壊者だ。

 

殻の破壊者。

 

なんかこう書くと

怖いねぇ。

 

でもこれを

素直にやり続ける

ようになったので、

 

破壊されるのが

怖い人は

いつからか

私に寄り付かなく

なった。

 

気がつけば、

破壊されるのが

好きな人達

ばかりだ。笑

 

それはそれとして、

私はこれを

日々、ずっとやり続けて

いる。

 

やらない日は

ない。

 

やめる気は

ない。

 

さて。

 

ではあなたは

どんな想いで

どんな行動を

し続ける?

 

つづく

 

選択肢はないのだ

 

地面が

覆いかぶさって

くるのか。

 

それとも、

私自身が

地面に倒れ込もうと

しているのか。

 

せり上がり

迫りくる

地面の、

その荒々しい土のような

砂のような

 

一粒一粒の

表情まで

観えるようだ。

 

ガツン

という衝撃と

共に、

気が遠くなる。

 

やるべきことを

やった上での

これであるなら

しょうがないか、

思った。

 

きっと私は

半身不随のような

大きなダメージを

負うだろう。

 

しかしそれは

自業自得だ。

 

私の選択の

結果だ。

 

しばらく

気を失って

いたのだろう。

 

ハッと

目を覚ますと

私は

大の字だった。

 

目に映るのは

青空のみ。

 

風が

吹いている。

 

首から下の感覚が

ない。

 

そうかきっと

私は

このまま

動けないのだろう。

 

頬に風を感じながら

私は

鎮まったまま。

 

何も考えず、

無心となった。

 

青空だけを

見つめているので、

自分なのか

青空なのか

私の存在が

何なのかわからなく

なった。

 

途端に

体の中心から

力が溢れた。

 

ガバッと

飛び起きる。

 

体が勝手に

動く。

 

私は全力で

ダッシュをしていた。

 

なんだ、

もう復活したのか。

 

ちょいと

早くねーか?

 

少しは思ったが、

私はただ

前だけを向く。

 

一点に意識を

集中し、

余分なことは

考えない。

 

あーこのままでは

また

すっ転ぶだろう。

 

今度こそは

立ち直れない

かも。

 

でも、

私には

選択肢はない。

 

いや、

私は私の選んでいる

この選択肢以外には

 

興味がない。

 

だから

前よりももっと

速く走る。

 

次こそは

ヤバいかもな。

 

呟きながら

笑う。

 

楽しくて

しょうがない。

 

私には

選択肢はないのだ。

 

つづく

 

調和ポイントがある

 

焦り、

というのは

厄介でね。

 

どうしても

焦ると

闇雲に動いて

しまう。

 

私達はどこかで

「動かなきゃ」

「行動しなきゃ」

強迫観念のように

思っているところが

ある。

 

一つの場所に

留まっていると、

 

それは

何もしない

ということなので、

 

止まっている

わけなので、

 

物事は何も

進まなく、

それが最も悪い結果に

なると、

 

どうしても

思ってしまう。

 

ところが、

「動くことが」

最も不調和を呼ぶ

ということが

 

私達の人生に

おいては

 

私達の想像以上に

多いのだ。

 

ただ一方で、

「問題を先送りにする」

という癖を

持っている人も

いる。

 

そういう人は、

動かねばならない

ところで

止まってしまうために

不調和が蓄積する。

 

「とにかく動かなきゃ」

という人は、

その「先送り」こそが

最悪なのだ、

闇雲に動いてしまう。

 

私のクライアントさんは

行動力の豊かな人が

多いので、

 

問題先送り型の人は

少ない。

 

だからこそ

お伝えするのだが、

 

「待たねば

ならない時がある」

 

と。

 

動かないことが

ベストの時が

ある。

 

物事には

「調和ポイント」

という

極めて密度の高い

「タイミング」

がある。

 

そのタイミングで

次の一歩を進む

ことで、

 

あらゆることが

調和を始める。

 

まったく同じ行動

だとしても、

調和ポイントで動くのか、

そこを外すのか、

では

起こる結果は

180度変わることも

ある。

 

調和ポイントを

キャッチするその

感性は、

 

真本音度を

高めることで

得られる。

 

真本音度の

高い人ほど

 

「今だ!」

 

というのが

わかりやすいのだ。

 

逆に言えば、

「焦り」

というのは

真本音度を低める。

 

普段、

真本音度が高い人

だったとしても、

 

焦りによって

一気に低まる。

 

そして闇雲に

動いてしまう。

 

私はコーチとして

そこを

引き止める役割を

これまで随分と

させていただいた。

 

ちょっと極端に

言えば、

そのサポートだけで

他のサポートは

ほとんど要らない

人も多い。

 

それだけ

「焦り」

は、キツイのだ。

 

物事の判断を

するとき、

 

焦りによって

動こうとしていないか?

 

落ち着いて見つめる

ことは大事だ。

 

焦っていては、

調和ポイントは

決して

掴めない。

 

混乱の現実の

前でこそ、

 

私達は

深呼吸しよう。

 

つづく

 

私がここにいる意味

 

無限の中の

一点。

 

それが

私であり

あなただ。

 

無限には

無限に

すべてが

満たされている。

 

それは一見、

何もない

のと同じ。

 

しかし

すべてが

満たされている。

 

本当は

そのまま

でも良いのだ。

 

その

満たされたまま

で。

 

そのままでも

無限は

無限に続く。

 

時間的にも

空間的にも。

 

しかしそこに

一点

という存在が

始まった。

 

一点

が存在する

ことで、

一瞬にして

 

無限では

ないもの

 

始まった。

 

その瞬間

「無限」は

根本的な

意味を、

 

存在の意味を

 

変えた。

 

いや、

「意味」という

存在が

与えられた。

 

そこからだ。

 

一点が

次の一点を

生み、

 

無限の中に

一点が

増殖し始めた。

 

これがすべての

始まり。

 

なぜ、

 

何もない

とも言える

「無限」に、

 

突如として

「一点」が

現れたのか?

 

これが

私の探究テーマ

だ。

 

私は

ある時ある瞬間から

 

その

無限から一点が

始まる瞬間、

 

立ち会っている

ような

生き方を始めた。

 

ここを

探究せねば

何も始まらない。

 

何も

わからない。

 

気づいたのだ。

 

この仕事を

続けていて、

そこにたどり着いた。

 

それが

12年前の

ことだ。

 

「一点」は

増殖し、分離し、

 

その一つの形

として

「人」

がある。

 

私達はすべて

「一点」

である。

 

無限の中の

一点。

 

そしてその

一点の中に

無限がある。

 

なぜだ?

 

なぜ

すべてが満たされて

いたはずの

無限から

一点が生まれた?

 

毎日、毎時間、

毎分、毎秒、

 

私はこれを

自分に問い続けながら

生きている。

 

自分の中の

無限に

問い続けながら。

 

すると

ある時ある瞬間に

とても不思議な

感覚が起きた。

 

「一点」が

生まれるその瞬間、

 

私は

「無限」の願い

感じたように

思うのだ。

 

「無限」の願い?

 

なぜ

「無限」に

願いが?

 

「無限」

なのに?

 

私はずっと

問い続けている。

 

私のテーマで

あり、

 

これは

すべての「人」が

いずれ向き合わねば

ならない問い

であると

私は感じている。

 

答えは

言葉ではない

ことは

わかっている。

 

なぜなら

言葉とは

「一点」である存在が

生み出したもの

だから。

 

でも、

それでも

私は

それを、

言葉として

表現しようとしている。

 

きっとそれは

一言では

言い表せまい。

 

きっとそれは

一つの

「物語」

となるだろう。

 

私はその

「物語」を

残すために、

この後の人生のすべてを

 

費やそうと

しているようだ。

 

つづく

 

この楽しみこそ

 

これは、

今の自分には

わからない

ことなのだ。

 

と、

わかることが

ある。

 

きっと

未来の自分、

 

ひょっとすると

それは

明日の自分かも

しれない、

 

1時間後の自分かも

しれない、

 

10年後の自分かも

しれない、

 

・・・けど、

 

でもとにかく、

未来の私にしか

出せない、

今、ここにいる

この私には

出せない答えなんだ。

 

今の私が

出してはならない

答えなんだ。

 

・・・と

わかる。

 

この感覚は

とても大事だ。

 

そうしたら

今、ここで

答えを出すことは

あきらめて、

 

では、

答えのわからない

自分は、

今これから

何をしようか?

 

と。

 

「答えを出すために

何をしようか?」

 

という観点も

大事かも

しれないが、

 

それ以上に

 

「答えをわかっていない

この自分だからこそ、

何をしようか?」

 

という

この感覚も

大事だ。

 

コーチという

役割をしていて、

私は痛感する。

 

「答えがわからない」

ということが

いかに

素敵なことか。

 

これこそ

人間の醍醐味

ではないか。

 

人生の醍醐味

ではないか。

 

問いがある

ということは

イコール、

必ず答えがある

ということだ。

 

にも関わらず、

答えがわからない。

 

わかるべき

時が来るまで

わからない。

 

・・・これ、

凄く面白い!

 

だからこそ

人生が進む。

 

冒険が

始まる。

 

未知の領域へ

進んで行ける。

 

「わからないまま

進む」

 

・・・その楽しさ。

 

だから私は

いつも自分に

問いばかり

投げ続ける。

 

問いは全部、

それ専用の手帳に

書き続けている。

 

その手帳を

いつも見ながら、

 

答えがわからない

モヤモヤを

 

楽しみ尽くして

いる。

 

これが

セルフコーチングの

基本だ。

 

この

楽しみこそが。

 

つづく

 

痛みに真摯に

 

自分の心の

最も痛い部分には

何がある?

 

痛さを感じるのは

健康である

証拠。

 

痛い部分を

見たくない、

と思うのも

健康である証拠。

 

ここからより

健康に進むためにも、

その痛い部分を

直視しよう。

 

可能であれば、

 

その痛い部分に

全身

どっぷり浸かる

くらいに

入り込んでみよう。

 

観て

感じる。

 

あるがままに。

 

その痛い部分は

自分自身に

何を訴えているか?

 

何を

望んでいるか?

 

何を

理解してほしいのか?

 

あなたはそれらを

受け取り、

どう思うのか?

 

思ったことは

正直に

その痛い部分に

告げてみよう。

 

そして

その痛い部分と

しっかりじっくり

話し合うのだ。

 

つまりそれは

自分自身との

対話だ。

 

これも大切な

セルフコーチング。

 

真本音度が

高まれば高まるほど、

こういった対話は

しっかりやった方が

いい。

 

これを私は

毎日、やり続けた。

 

このように

ちゃんと自分と

向き合い続ければ、

 

自分自身との

「和解」

が進む。

 

その結果、

痛い部分は自然に

消えていく。

 

成仏する

感じ。

 

今はもう

私の心に

痛い部分はない。

 

あるのは

他の人から受け取った

痛い心。

 

それはそれで

別の対処をするのだが、

 

まずは基本は

自分自身の心との

対話だ。

 

自分の痛みは

自分で向き合おう。

 

自分の道を

しっかり進む

ためにも。

 

つづく

 

離れ技のような進み方

 

人の個性は

花開く。

 

確かに

「開花」

という言葉が

ピッタリだ。

 

その人にしか

ない

その人の

魅力。

能力。

 

そういったもの

確かにある。

 

しかしだ。

 

「好きなことに

向かえば、

それは花開く」

 

とは

限らない。

 

もちろんそういう

人もいる。

 

でも、

そうとは

限らないのだ。

 

これまで

(私自身も含め)

数多くみてきたのは、

 

真本音度が

高まることで、

ある時、

ふと、

 

これまで自分が

苦手としてきて

最も避けてきたこと

 

本当にふと、

 

やってみようかな

 

思う瞬間だ。

 

クライアントさんが

それを口にすれば、

私はほぼ

間違いなくそれを

 

強烈に

進める。

 

「ぜひやって

ごらんよ!」

 

と。

 

自分の準備が

整うまで、

あえて

「それ」

から自分を遠ざけて

おく。

 

ということを

する人は

多いのだ。

 

自分から「それ」を

遠ざけ続けるために

自分にとっての

「それ」を

「苦手である」

「嫌いである」

という

「印象」

にしておく。

 

そうして「それ」に

ずっと関わらずに

生きる中で、

自分の準備

(「それ」に向かう覚悟)

養い続ける。

 

そして

覚悟ができた瞬間に

「それ」に関しての

制約を

一気に心の中から

取り払う。

 

・・・そういう

離れ技のような

進み方を

する人は結構

多いのだ。

 

だから

苦手だし

嫌いだし

絶対やりたくない

のに

 

なぜだか

気になる、

 

なぜだか

やってみようかな

試してみようかな

思ってしまう、

 

そんなことが

あれば、

それはもしかすると

 

自分の準備が

整ったという

合図かも。

 

実は

「それ」の方向にこそ

あなたの

天職

があるのかも、よ。

 

つづく

 

完全なる自由

 

何もない

広い空間に

一人でいると、

 

いくら自由でも

不安になるだろう。

 

むしろ

狭い部屋に

閉じ込められて、

 

「この中なら

自由だよ」

 

と言われた方が

余程、楽だ。

 

私達人間には

そういうところが

ある。

 

制約のある中

でこそ、

自由を謳歌できる。

 

しかし

完全なる自由は

不安であるし、

 

実際、

何をして良いのか

さっぱり

わからなくなる。

 

ところが

みんな

自由を望む。

 

「自由」をただ

漠然と

捉えながら。

 

「不自由でないこと」

が、自由である

と。

 

だから

一度、しっかりと

自分に問うてみよう。

 

私は何から

解放されたいか?

 

もし

解放されたら

私はどうしたいのか?

 

解放の先に、

私が望むことは

何だろうか?

 

・・・・・・

 

実は

私自身のことで

言えば、

 

私も昔は

制約の中での自由

の方が

落ち着く人間だった。

 

しかしどうも

今はもう違うようだ。

 

完全なる自由を

私は楽しむ。

 

真本音度が

高まると、

 

ある時ある瞬間から

どうも

そうなるらしい。

 

そしてそうなると

逆に、

 

今、状況的に

どのような不自由が

あったとしても、

 

そんな状況の

中でも

完全なる自由な自分

でいられるのだ。

 

さて、

これはどういった

ことだろうか。

 

あなたは

本当は

どんな自由を

得たい?

 

つづく