チームパフォーマンスコーチ

響く時代だ

 

自分の

本当の想いは、

 

もはや

 

自分だけの

ものではない。

 

本当の想い、

つまり

真本音の想いは、

 

間違いなく

「皆」

と繋がっている。

 

であれば、

堂々と

発信すればいい。

 

・・・と、

 

ようやく躊躇なく

言える

状態に入った。

 

響くべきものが

ちゃんと

響く時代。

 

社会の根底が、

そうなった。

 

表面上は

まだまだ社会は

混乱を続ける。

 

しかし

根底は、

日々、静謐に

近づいている。

 

「そのまま」が

響く静謐に。

 

真本音度の

高い人達が増え、

 

その人達が

素直に

生きている。

 

これが一番の

原因だ。

 

そう、

世の中全体の

真本音度は

間違いなく

高まっている。

 

しかし

表面上現れる

現実は、

どうしてもそのように

見えないだろう。

 

表面に

惑わされては

ならない。

 

本質を

きちんと

感じ取ることだ。

 

今こそ、

本当に自分の

すべきことに

向かおう。

 

真本音の想いは

ちゃんと

響く。

 

響き渡る。

 

それを

自らの意志で

世に現そう。

 

つづく

 

今、この問いを

 

大事な問いを

二つ。

 

・・・

 

今、

あなたの中の

混乱の心は、

何を叫んでいる?

 

今、

あなたの中の

静寂の心は、

何を見つめ、

 

その結果、

どんな意思を

持ち始めている?

 

・・・

 

混乱と静寂。

 

同居しているのが

私達の心。

 

でも

正確に言えば、

 

静寂という土台

があり、

 

それがあるから

こそ、

 

安心して

その上で

混乱できる。

 

静寂と混乱。

 

その二つの

自分を

そのまま感じよう。

 

共に

大事にしよう。

 

その上で、

 

静寂の自分の

意思で

 

動いてみよう。

 

つづく

 

星がみえるか?

 

最近、

昼も夜も、

 

屋外でも

屋内でも、

 

見上げれば

そこに

青く光る

星が観える。

 

また変なことを

言ってるな、

と思うかもしれないが、

 

それは紛れもなく

実在の星

だ。

 

それだけ

世の空気が澄んで

きたということだ。

 

それだけ

世の中が

健康体に近づいた

ということだ。

 

もちろん

表面上、現実は

混乱をきたしている。

 

混乱具合は

今後ますます

増加の一途を

たどるだろう。

 

しかしそれは

健康体に

近づくからこその

もの。

 

いわゆる

好転反応に近いが、

 

しかし

好転反応ほど

優しくはない。

 

私達がこれまでの

歴史を通じて

ずっと

創り続けてきた

社会。

 

その結果が

今、

そして、これから

 

健康的に

返ってくる

わけだから。

 

それはそれは

厳しい結果も

返ってくるだろう。

 

ただそこで

 

自らも混乱して

しまうのか、

 

それとも

 

それらの現実を

静かに

あるがままに

真摯に

受け止めるのか。

 

その、

 

「自分自身の」

 

生き方によって

その後の展開が

180度変わってくる。

 

あの

青い星が

観えるか?

 

実在の

青い星が。

 

静かな自分で

いることが、

 

真っ当な生き方を

続けることが、

 

星を

見せてくれる。

 

星が観えれば

道がわかる。

 

どの方向に

どう進めばよいか?

 

確信をもって

わかるんだ。

 

つづく

 

変化の火花

 

自分の中の

ほんのわずかな

変化の兆しを

 

自ら

捕らえられるかどうか?

 

その力をつけるのも

セルフコーチングの

重要な目的だ。

 

変化とは

最初は

線香花火の小さな

小さな

火花のようなもの。

 

ほんのわずか

輝き、

 

一瞬で

消えてしまう。

 

そのため

ほとんどの人が

気づかない。

 

だからこそ

コーチが必要

とも言えるが、

 

日々の変化を

自分で

キャッチできれば

それほど強い

ものはない。

 

なぜなら

あらゆる変化には

意味があるからだ。

 

ただしその意味は

頭で考えるものでは

ない。

 

自らの微かな

変化と

あるがままに向き合う

ことで

 

人生における

重要な指針が

突然

わかったりする。

 

つまり

「変化」こそ

 

自分自身の

指南役。

 

自分自身の

道しるべ。

 

「変化」ほど

自己理解を深めて

くれる

存在はない。

 

パチッとくる

わずかな火花を

逃すな。

 

真の変化には

火花がセットで

ついている。

 

火花に

敏感であろう。

 

つづく

 

期限に間に合った?

 

私達は誰もが、

無意識に

真本音で

何らかの「期限」を

決めている。

 

つまり、

 

いつまでに

これを成そう、

 

いつまでに

こんな自分になろう、

 

いつまでに

こんな力をつけよう、

 

いつまでに

こんな準備を整えよう、

 

などなど。

 

期限というのは

仕事だけのことでは

ない。

 

私達は全員、

自分の人生展開に

期限を決めている。

 

期限に間に合えば

次のステージに

進み、

 

間に合わなければ、

もう一度、

今のステージを

最初から

やり直す。

 

そうやって

自分の人生を

創り上げている。

 

数日前の

7月31日を

人生の大事な期限に

設定している人は

多いのではないか。

 

期限に間に合った

人は、

 

今、とても

スッキリしている

はずだ。

 

未来に対して

明るさと

開放を

感じているはずだ。

 

その逆で

モヤモヤが溢れて

いたり、

 

未来への希望が

見出せない人は、

 

残念ながら

間に合わなかった

ということかな。

 

その場合は

ちゃんと

「反省」をしよう。

 

期限に間に合わなった

こと自体が

悪い、というよりも、

 

間に合わないことは

誰にでもあるので、

 

そこでちゃんと

反省するかどうか?

 

これで

人生は決まる。

 

自分は毎日

ちゃんと

自分の意思で

進んだか?

 

自分が本当に

やりたいことに

真摯に

向かい続けたか?

 

一日一日の

完了感を

大切にできたか?

 

などなど、

しっかり反省し、

 

もう一度

やり直しだ。

 

人生は

やり直しが効く。

 

期限に間に合った感

のある人は、

 

さらに自由に

軽やかに

 

自分に素直に

進もう。

 

ここからまた

新たなステージだ。

 

つづく

 

揺れる軸

 

中心軸が

あるのに、

 

それが

ブレブレに

揺れる。

 

だから

揺れないように

必死になって

それを抑える。

 

必死になって

抑えているのに、

 

「それは違うのじゃ

ないか」

 

周りから助言が

くる。

 

こっちは

必死なのに。

 

だから

腹が立つ。

 

「大きなお世話だ、

放っておいてくれ!」

 

返してしまう。

 

ついつい。

 

でも、

落ち着いて

よく

考えてほしい。

 

必死になって

抑えなければ

揺れてしまうなら、

 

もうその時点で、

 

それは

中心軸とは

言えないのだよ。

 

本当は

誰もに

 

最初から揺れない、

 

決して

揺らぐことのない、

 

始めから

安定している

軸が、

 

中心に、

本当の中心に、

 

存在している

のだよ。

 

必死になって

創るのでは

ない。

 

必死になって

守るのでも

ない。

 

最初から

そこにあるもの。

 

自分の中に

確かにあるもの。

 

それを

見つけ、

 

見つめる

だけだ。

 

中心軸は

見つめるだけで

いい。

 

他は

何もいらない。

 

見つめるだけで、

シャンと

するもんなんだ。

 

つづく

 

自分の苦しみ

 

後ろから

何者かが

自分の首を

締めてくる。

 

スリーパーホールド

のように。

 

く、苦しい。

 

息が詰まる。

 

呼吸が

止まる。

 

こ、このままでは・・・。

 

目の前の

クライアントさんが

そのようにして

苦しんでいる。

 

でも、

 

その首を

締めているのは、

そのクライアントさん

自身。

 

他の誰でも

ない。

 

自分で自分の

首を絞め、

一人で

苦しみ続けている。

 

かつての私も

そうだったのだが、

 

これを続けても

誰も

喜ばない。

 

見事に、

 

誰一人として。

 

だから

何の意味もない。

 

これによって

成長することも

ない。

 

当然、

進化もない。

 

要するに

自己満足。

 

・・・いや、

自己が満足している

訳でもないので、

 

自己満足

未満だ。

 

もう

やめよう。

 

そういう生き方

は。

 

もう

時代は変わったし。

 

苦しみから

逃げることも

追うことも

どちらも必要は

ない。

 

あるがままの

願い、

 

あるがままの

自分、

 

素直な一歩

 

踏み出すだけで

良いではないか。

 

つづく

 

回転を止めろ

 

世界が

混乱している!

 

見えて、

実は

 

自分一人だけが

混乱しているのだった

 

・・・ということは

よくあるもんだ。

 

自分一人だけが

グルグル回転を

続け、

 

「世界が回っている!」

 

叫んでいる。

 

笑い話のようだが、

案外

多いのだ、

そういう人は。

 

そして

あらゆることを

世界のせいに

する。

 

これも一つの

人の性

だが、

 

やはりちょっと

悲しいよな。

 

勝手に自分が

知らぬ間に

回転している。

 

高速回転。

 

だから

何も見えなくなる。

 

回転するだけ

でも

疲れるのに、

 

そのまま何も見ずして

行動を起こすから、

余計に

不調和が起こる。

 

その現実の中で

さらに

不必要な回転を

高める。

 

その疲れる回転

やめるだけ

なのに。

 

止まれば

良いのに。

 

止まって、

静かに

周りを眺めれば、

 

それだけで

道は

観えるのに。

 

誰もが、

 

道は

ほんの目の前に

ある。

 

あるのに

観ない。

 

回転しながら。

 

やはり

悲しいもんだな。

 

つづく

 

もう二歩広く

 

今よりも

もう「二歩」

広い視野を

持とう。

 

いつもの

視点。

 

いつもの

視線。

 

そこから

自分を開放

しよう。

 

例えば、

 

いつも仕事で

自部署のことばかり

考えているならば、

 

まずは

もう一歩広く、

隣の部署のことまで

考えてみよう。

 

そして、

さらにもう一歩、

 

さらに隣の部署

でも良いし、

お客様でも良いし、

 

部署を超えて

全社の視点に

立っても良いし、

 

要するに、

 

「もう二歩」

と意識した時に

しっくりくるような

視野を持ってみよう。

 

そして

その視野から

いつもの自分を

客観的に

見つめてみよう。

 

いつもとは

違った

印象になるだろう。

 

我々は、

 

広い視野を

持てば持つほど、

人生に面白さを

増すことが

できる。

 

いつもと同じ

場所、視点

にいるという、

 

それだけの

ことで

 

飽きてしまう、

つまらなくなってしまう、

 

力が出なく

なってしまう、

 

という

傾向があるんだよ。

 

人間の一つの

特性だ。

 

つづく

 

まっすぐ来てるか?

 

スーッと

まっすぐに

 

人生を進める

ことができると

いいが、

 

なかなか

そうはいかない。

 

あっち行ったり

こっち来たり。

 

進んでいるつもり

でも、

気がつけば

随分とジグザグに

なっている。

 

でも

そういうもの

だろう。

 

自分自身の

真本音が望む

ことは、

 

最善の

試行錯誤を重ねる

 

こと

だからだ。

 

逆に言えば、

 

表面上は

ジグザグに進んで

いるようでも、

 

本質的には

それこそが

 

「一直線」

 

だったりするのだ。

 

本質的一直線

に基づく、

表面的ジグザグ。

 

これが

本来の進み方

だ。

 

現実が上手く

進まないなぁ、

思う人は、

 

本質はどうか?

 

本質的には

自分は

まっすぐに進んでいる

のではないか?

 

という視点で

自分自身の歩みを

 

今の毎日を

 

あるがままに

観察、確認して

みよう。

 

最も良くないのは、

まっすぐ来ている

ように見えて、

 

実は本質的には

何も進んでいない

こと。

 

それは

上手に手際よく

進んでいるだけで、

 

表面上だけの

まっすぐさでは、

 

必然的に肝心な所で

行き詰まる。

 

その場合、

どこから自分は

おかしくなったのか?

 

謙虚に、しっかり

見つめよう。

 

そして、

誠実に

もう一度、

引き返せば良いのだ。

 

本質的に

引き返せば、ね。

 

つづく

 

相手の立場に立つ?

 

ビジネスでは

特に、

 

相手の立場に

立つ

 

ことは

とても大事だが、

 

でも

ここからは、

 

まずは、

 

自分の願いを

明確にすることだ。

 

そして、

 

自分の願いと

相手の望むことを

 

紡いでいく。

 

両方を

大事にしようと

真剣に決めた時、

 

どのような

発想が

生まれるか?

 

お互いの想いを

紡ぐこと

でしか出ない発想

というものがある。

 

それはつまり、

お互いが

出会ったからこそ

生まれるもの。

 

それこそ、

私達人間の

本質的な価値では

ないか。

 

紡がれることで

生まれるもの。

 

ここからは

特に

こここそを

大事にしよう。

 

こここそが

真の影響を

生み出すのだから。

 

つづく

 

断絶へ

 

自分の中に

亀裂

が観えるかい?

 

怖いだろ。

 

でも

怖がることは

ない。

 

その亀裂は

これからどんどん

大きくなる。

 

亀裂は

断絶となり、

 

ついには

自分が

分離する。

 

その始まり

が今だ。

 

なぜ自分は

分離するか?

 

もう答えは

わかっているだろ?

 

そう、

 

その奥から

新たな自分が

目覚めるからだ。

 

これまで

何度もやって

きたことだ。

 

でも

今回は

大きい。

 

過去最大

かな。

 

だから

怖いだろ。

 

でも

怖がることは

ない。

 

なるにまかせよ。

 

抵抗するな。

 

断絶するもの

なら、

 

一刻も早く

 

断絶させて

しまおう。

 

つづく

 

鏡を見つめよう

 

私達は

鏡に映る自分を

自分である

思い込んで

生きている。

 

あるがままの

素の自分を

見つめることは

ほぼほぼ不可能だ。

 

であれば

いっそのこと、

 

鏡に映る自分を

しっかり

見つめるといい。

 

鏡は

多くの場合、

ひずんでいたり、

ゆがんでいたり、

割れていたり、

なかなか本来の役割を

担ってくれないが、

 

それでも

しょうがない。

それをわかった上で

しっかり見つめよう。

 

特に

鏡の役割として

最大のヒントとなるのは、

 

自分の関わる

人達の

反応だ。

 

自分の振る舞いの

一つ一つに対して

どのような

反応をするのか?

 

これを

丁寧に誠実に

できるだけ

あるがままに

観察をしよう。

 

それだけでも

「自分」が

観えてくる。

 

コミュニケーションや

人間関係つくりの

苦手な人は、

 

要するに

これがちゃんと

できていない。

 

ちゃんと誠実に

見ていないのだ。

 

自己理解とは、

 

自分の内面を

見つめることも

大事だが、

 

外面、

つまり、人々の反応

を見つめることが

早道。

 

その癖を

つけよう。

 

ちなみに、・・・

 

以上は、

「周りに映る自分を

気にする」

ということとは

本質的に異なる

ことだ。

 

周りの目を気にする

わけではない。

 

ただ、

周りの反応を

あるがままに観察

する。

 

この違いを

しっかり

認識しよう。

 

つづく

 

一つに絞ろう

 

人生の選択肢は

たくさんあるし、

 

それぞれが

とても魅力的に

見えるだろう。

 

すべてをみんな

かじりたくなる。

 

でもね、

 

一つに決めた

方がいい。

 

自分の力は

 

これに集中しよう!

 

一つに決め、

そこに込めた方が

いい。

 

その後の

道に開き方の

次元が異なるんだ。

 

私達のエネルギーは

「濃さ」

最も大きなポイントと

なる。

 

どれだけ大量の

エネルギーがあっても、

一つの物事に

込められる濃度が

薄ければ、

 

極端に言えば、

 

何もしなかったと

同じ

ということにも

なりかねない。

 

ある一定の

濃さ以上のエネルギーを

込め続けることで

初めて

 

突破できる

境界線

 

があるんだ。

 

そこを突破することで

人生の次元が

変わり、

 

調和の度合いが

本質的に

変わる。

 

それにより

出会う人も

掘り起こされる力も

 

すべてが

変わってくる。

 

より自由に

より伸び伸びと

道が開き、

 

結局は

それが自分の幅を

広げる。

 

だから最初は

狭くても

深い取り組み方が

必要だ。

 

できるだけ

自分のエネルギーを

集中させる。

 

できれば

一つに絞る。

 

自分の

すべてを捧げる

一つに。

 

つづく

 

想いはオープンに

 

ここからは、

自分の想いは

できるだけ

語った方が良い。

 

たとえそれが

これまでは

秘めたる想い

だったとしても。

 

内側に

込められることで

エネルギーになるものも

確かにあるが、

 

ここからは

 

オープンさ

 

が、

多大なるパワーに

変換される。

 

世の中は

変わったのだ。

 

伝わり方、

伝播の仕方が、

 

その

本質的振動の

波及の仕方が

 

明らかに

変わったのだ。

 

装飾する

必要はない。

 

躊躇する

必要もない。

 

それが

自分自身の

真本音の言葉

ならば。

 

できるだけ

それを

あるがままに

 

ありのままに

 

語ろう。

 

いろんな人に。

 

そして

語る中で

言葉を、

より深くて広がる

言葉に

 

ブラッシュアップ

していくんだ。

 

そういう

時代が

始まったんだ。

 

つづく

 

真本音度と集中力

 

集中力は、

とてつもなく

大事だ。

 

いざという時に

100%の集中力を

発揮できる

自分でいること。

 

もし

その瞬間、

100%発揮できれば、

 

人生の道が開く

決断ができる。

 

しかしもし

その瞬間、

100%が発揮できな

ければ、

 

たとえ

99.9%発揮できた

としても、

 

本来の決断は

成されない。

 

つまり

人生展開が

そこから

180度変わってしまう。

 

たった

0.1%の差が

人生を左右する。

 

これが

私達の生きている

この人生だ。

 

真本音度を

高める、

とはつまり、

 

100%の集中力を

出せる自分の

度合いを高める

ということだ。

 

だから当然の

ように、

人生は調和していく。

 

最初は、

100%の集中力

というと

難しいように

思うだろう。

 

でも、

慣れれば、

印象は

真逆になる。

 

100%でない

集中力など

気持ち悪くて

しょうがない。

 

100%でない

集中力を発揮する

方が

実は我々人間には

不自然で

居心地悪く

耐えられないことである、

ということが

だんだんわかってくる。

 

100%の集中力

とは、

言葉を換えれば、

 

自然体

 

ということだ。

 

それは無理に

発揮されるもの

ではなく、

 

自然に

そうなるもの。

 

自然に

戻るもの。

 

真本音度を高める

とは、

自然に戻る

という

ことなんだ。

 

つづく

 

それでも道はある

 

もし

断崖絶壁に

出たとしても、

 

目の前の

地面が消えて

しまったとしても、

 

それでも

進むことは

諦めるな。

 

よく

目を凝らそう。

 

そこが

断崖絶壁だと

認識しているのは、

 

過去の自分

だ。

 

これまでの

自分だ。

 

今の自分は

違う。

 

これまでとは

違う。

 

だからこそ

「ここ」まで

来れたんだ。

 

よく目を

凝らそう。

 

世界に

意識を向け、

 

世界

そのものとなり、

 

自分という

枠を外し、

 

あるがままの

現実を

見つめよう。

 

断崖絶壁など

ない。

 

まっすぐで

太い一本道が、

 

まるで

当たり前のように

そこに

続いているでは

ないか。

 

つづく

 

進めばわかる

 

道筋は

必ず、ある。

 

自分の進める

道筋は。

 

どれだけ

混沌としているように

見えても、

 

ちゃんと

歩めば、

道は続く。

 

自分にしか

歩めない道筋が

ある。

 

それを見つけ出す

ためには、

 

今は

進むことだ。

 

止まっていても

永遠に

見つからない。

 

思い切って

進むことで、

 

一歩一歩が

教えてくれる。

 

どんな世界

でも、

「ここ」

にいる以上は、

 

必ず

自分の道筋は

ある。

 

それを信じる

者だけが、

結局はそれを

見つけ出す。

 

進みながら

見つける。

 

進まなければ

見つからない。

 

勇気がなくても

それでも

今は、進め。

 

つづく

 

今は進め

 

落ち着いて

進む、

ことは大事だが、

 

落ち着いて

から

進もう、

とすることは

 

今はダメだ。

 

そんなゆとりは

ない。

 

進むべき時に

止まっていれば

ますます

落ち着かなく

なる。

 

乗るべき

流れ

がある。

 

それに乗らない

ことで

1秒1秒

ぐんぐん遅れる。

 

それを取り戻す

のは

並大抵ではない。

 

今は

何が何でも

進む時。

 

迷ったら

進め。

 

不安があっても

進め。

 

今は

そのような時。

 

つづく

 

願いは叶うか?

 

こんなこと

叶うわけが

ないよな。

 

・・・と

思うことでも、

 

それが自分の

真本音からの願いだと

思うなら、

 

大事にすると

いい。

 

私は

どれだけ現実離れを

していても、

 

真本音の願いは

いつも

いつ何時も

大事にしている。

 

だからと言って

叶うかどうかは

わからない。

 

でも、

その願いを

誠実に抱き続けている

自分だからこそ

 

為すことのできる

行動や振る舞いは

確かにある。

 

行動や振る舞いが

変われば、

現実が変わり

始める。

 

その積み重ねに

よって、

 

当初描いた願いが

思いもよらぬ形で

叶う、という

体験をいくつも

させていただいた。

 

いや、

 

今、振り返れば、

私が本当の本当に

願っていることは、

 

気がつけば

すべて

叶っているかも。

 

私は預言者では

ないし、

預言者でありたい

とも思わない。

 

それどころか、

未来がまったく

わからないことを

心から

楽しんでいる。

 

でも、

真本音の願いは

どうも

必ず叶うようだ。

 

自分自身の

真本音度を

高め続ける人生を

進むならね。

 

つづく

 

静かな時間を

 

私達には

 

静かな時

 

が必要だ。

 

何もせず、

ただ静かに

自分自身と向き合う

時間。

 

日々の生活に

おいて、

その時間を丁寧に

とっている人は

とても少ない。

 

第一、

自分との向き合い方

自体がよくわからない、

言われることも多い。

 

自分のこと

なのにねぇ。

 

とはいえ、

かつての私も

そうだった。

 

自己不理解。

 

・・・と

断定的に表現しても

まったく過言ではない

自分だった。

 

自己誤解。

 

・・・とも言える。

 

自分のことを

知らず、

 

知らないばかりか

誤解さえも

たくさん抱えたままで

毎日を生きて、

 

それで

自分の人生を生きる

など、できるわけが

ない。

 

ただ、

外部から与えられる

「現実」に

反射するだけの

人生。

 

反射するだけの

自分。

 

まずはここから

出ることだ。

 

そのためにも

静かな時間が

必要だ。

 

最も

優先的に

必要だ。

 

毎日、少しずつ

でもいい。

 

必ず

継続的に。

 

生きている

うちは

ずっと。

 

つづく

 

真本音度と混乱

 

激流に呑まれ

大混乱に

なっている。

 

右も左も

わからない。

 

上も下も

わからない。

 

自分がまったく

わからなくなる。

 

その状況の

中で、

 

いや、

 

その状況の

中でこそ、

 

とてつもなく

静かな自分が

現れる。

 

それは

自分自身を

じっと

見つめている。

 

何も言わず。

 

その静かな自分の

目と

対峙する。

 

じっと

見つめ合う。

 

スーッと

何かが

抜けていく。

 

余分な混乱が

抜けていく。

 

余分な混乱が

抜けたとしても、

 

それでも

混乱は残る。

 

もはやそれは

余分なものではなく、

今の自分にとって

 

最も必要なもの

だ。

 

この混乱があるから

こそ、

 

次のステージに

行けるのだ。

 

それが確信として

わかるので、

 

あとはもう

委ねればいい。

 

混乱に

身を任せる。

 

我を失えば

いい。

 

大混乱。

 

それを

味わい尽くす。

 

必要な混乱とは

味わい尽くせる

ものだ。

 

我を失いながら、

どんどん

自分が鎮まっていく。

 

そして、

もうすぐ

生まれるのが

わかる。

 

新たな自分

が。

 

より

本来に近づく

自分が。

 

混乱は

人生に必要な

ものだ。

 

しかし

余分な混乱は

要らない。

 

この混乱は

余分なものか?

 

必要なものか?

 

真本音度が

高まれば、

その判別が

 

簡単に

つくんだよ。

 

つづく

 

真本音度と感性

 

激しい流れだな、

思う。

 

この流れに

飛び込むのが

私のすべきこと

だろうか?

 

ちょっと

迷ったが、

 

でも瞬時に

答えは出た。

 

飛び込むんだな、

と。

 

では、

いつ?

 

今でしょ。

 

しょうがない。

 

じゃあ行こう。

 

・・・

 

飛び込んだ

後に

わかるのだ。

 

あー、

あのタイミングを

逃したら、

「次」はなかったな、

と。

 

あのタイミングこそ

絶妙。

 

あれが最善であり

最高。

 

おかげで

今は

とても調和している、

と。

 

・・・

 

飛び込めば

すぐにわかる、

いろんなことが。

 

でも、

 

飛び込まねば、

何もわからない。

 

ずっと

迷ったまま。

 

本当にここに

飛び込めば

良いかどうか?

 

そして

いつ飛び込むか?

 

真本音度を

高めるということは、

 

この感性を

養うということだ。

 

この感性が

研ぎ澄まされれば、

 

人生は

楽しくてしょうがなく

なる。

 

つづく

 

人生の後悔

何かが螺旋状に

回転しながら

落ちてくる。

 

小さな

何か。

 

それを静かに

両掌で

受け取る。

 

消えそうな

何か。

 

小さな

光。

 

まるで

蛍のようだ。

 

その

小さな小さな

声が

聴こえた。

 

ささやくように

それは

聴こえるのだが、

 

だが

しかし、

 

それは実は

必死になって

叫んでいるようなのだ。

 

何かを必死に

訴えている。

 

私は最大限

心を鎮め、

雑念を手放し、

 

そのものに

意識を向けた。

 

それは、

言葉に表現するのは

とても難しいのだが、

 

一言で言えば、

どうも

 

悔恨の念

 

のようだ。

 

あの時、

ああすれば

良かった。

 

もっと

こうすれば

良かった。

 

なんであの時

あんなことを

してしまったのか。

 

なんであの時

逃げてしまったのか。

 

本当に

すべきことは

一つもせずに。

 

・・・

 

人生に対する

自分に対する

深い深い後悔。

 

人間には皆、

それがある。

 

でも

ある一定以上に

それが高まれば、

 

その念は

一つの塊として、

それそのものが

独立して

漂うようになる。

 

でも

私の受け取った

それは、

 

確かに

悔恨の念だが、

 

それでも

光っているのだ。

 

弱くても

光り輝いて

いるのだ。

 

さらに

意識を向け続けると、

奥の方から

一つの意志が。

 

明確な

意志が。

 

「次こそは・・・」

 

・・・と。

 

私達は

何度も

やり直せる。

 

今はまだ弱くとも

この意志さえあれば

何とかなるか。

 

でも、

それは今にも

消えそう。

 

弱い光。

 

まるで

蛍のよう。

 

私はただ、

祈るばかり。

 

つづく

 

真本音度を低める口癖

 

自分が普段、

何気なく

喋っている口癖

意識を向けて

みよう。

 

とは言え、

それは

自力で自覚するのは

とても難しい。

 

なので

周りの人達に

訊いてみるといい。

 

「私っていつも

どんな口癖がある?」

 

と。

 

結構、

思わぬ返答が

あるかも。

 

それら口癖を

できるだけたくさん

見つけよう。

 

そして

それらをメモ

する。

 

列挙された

口癖のうち、

 

「これは私の

真本音度を低く

してしまうなぁ」

 

と思うものを

選ぼう。

 

そしてその

口癖を

やめるための

努力をしよう。

 

その最も簡単な

やり方は、

 

①その口癖が出るのを止める

そして、

②別のセリフをつぶやく

 

という方法だ。

 

口癖を自覚できれば、

①は比較的

容易にできる。

 

あ、出るな

と思った瞬間に

つぶやかないように

止めるだけだ。

 

止めたらすかさず、

②をやる。

 

そのためにも

あらかじめ

②のセリフを決めておく

ことだ。

 

例えば、

 

「疲れたなぁ」

という口癖を

やめたいとする。

 

その場合

②の口癖としては

例えば、

 

「ちゃんと休もう」

 

みたいな

感じにする。

 

ちなみに、

「疲れたなぁ」

を止めるために

「私は元気!」

みたいなセリフを

用意するのは

不自然だ。

 

ちょっと

無理があるでしょ。

 

そうではなく、

できるだけ自然で

かつ

自分の真本音度を

下げないものに

変えるわけだ。

 

そんな感じで

一つ一つ

口癖を自分で

改善することで、

 

想像以上に

 

私達のエネルギーは

高まるんだよ。

 

つづく

 

真本音度の高い物たち

 

あらゆるものは

人の意識の反映

なので、

 

人だけでなく

「物」にも

 

真本音度は

ある。

 

パソコンも

机も

洋服も

車も

鉛筆も

ノートも

洗剤も

カーペットも

 

あらゆる

物たちに。

 

真本音度の

高い物は

やはり

それだけで

心、というよりも

魂が癒される。

 

癒されない

までも、

スッキリした自分で

いられる。

 

テレビの番組

とかも

そうだね。

 

真本音度の

高い番組もあれば

低い番組もある。

 

食べ物も

そう。

 

飲み物も

そう。

 

まぁあまり

敏感になる必要は

ないが、

 

どうせなら

真本音度の高い物に

囲まれた方が

いい。

 

「そんなこと言ったら

今の世の中、

真本音度の低い物

ばかりでは?」

 

と思う人も

いるかもしれないが、

 

そうでもないの

ですよ。

 

例えば、

コンビニで売っている

食べ物でも

真本音度の高い物は

いくらでもある。

 

身近に使う物達は

結構、高い物は

多い。

 

だから

真本音度の高い物たちに

囲まれるのは

 

思う以上に

簡単だ。

 

価格の高いものが

良い、

ということでもない。

 

大切なのは、

 

その「物」に

ただただ純粋に

意識を向けたときに、

 

何の解釈も

なしに、

 

自分がそれを

どう感じるか?

 

すべて。

 

「いいな」

と感じれば

それを選べばいい。

 

単純なこと。

 

自分の

感性を信じる

 

ということね。

 

で、

実際にそれを

使ってみて、

また

自分がどう感じるか?

試せばいい。

 

世評や一般的認識

惑わされず、

 

自分の感性と

直観で

 

自分の身のまわりの

物たちを

 

選び直して

みよう。

 

つづく

 

真本音度が高まると

 

真本音度が

高まると、

どんな良いことが

あるか?

 

という答え方は

これまで

いろいろしてきた

のだが、

 

最近、

とっても腑に落ちる

良い表現が

出てきた。

 

まぁ当たり前の

答えなのだが。

 

まず、

 

真本音度が

高まると、

 

あらゆることが

想像通りに行かなく

なる。

 

それはもちろん

悪いことではない。

 

自分の想像を

超える展開に

なるのだ。

 

それはそうだ。

 

これまでの自分

という

範疇を超える

生き方になっていく

わけだから。

 

その前提の

上で、

表現すると、

 

真本音度が

高まることで、

 

『楽しさが

すべてを超える』

 

という

日々が始まる。

 

この表現。

これが今は

最もピンとくる。

 

「すべてが楽しくなる」

のでは

ないのだ。

 

いつも書いている

通り、

私達は人間なので、

 

痛いことは

痛い!

 

苦しいことは

苦しい!

 

と感じることが

大切だ。

 

現実はもちろん

楽しいことばかり

ではなく、

辛いことも

たくさんある。

 

それは

真本音度が

高まっても、

何ら変わることはない。

 

ただ、

 

あらゆることは

そのままに、

 

その上で、

 

『楽しさがすべてを超える』

のだ。

 

想像通り

いかない。

 

痛いものは

痛い。

 

でも、

そうなる。

 

ということさ。

 

そうなれた

時の

人の強さと深さを

私はずっと

観てきたし、

 

味わってきた。

 

そういう人が

もっともっと

増えてほしい。

 

だからこそ、

私は

私の範疇を

 

現実レベルで

 

超えるための

活動を

本格スタートさせる。

 

私自身が

真本音度の高い

日々を、

 

さらに

満喫するだろうよ。

 

つづく

 

苦しんでるぞ

 

まるで

腹をえぐられるような

痛み。

 

激しい

痛み。

 

目の前の

その人から

伝わってくるもの。

 

こんな苦痛の

中で

この人は

生きているのか。

 

今のこの

苦痛は

心の苦痛だが、

 

もう少し経てば

間違いなく

それは

体の苦痛となる。

 

結果、

病気になったり

突然の

身体機能低下と

なったり。

 

そうならない

ためには、

早く自分の状態を

自覚することが

必須なのだが、

 

そういう人こそ

こういうのだ。

 

「私は

ストレス耐性

ありますから」

 

その自信は

どこからくるんだ?

 

過去の経験か?

 

ストレスは

溜まり続けるもの。

 

ある時に

突然

容量オーバーを

起こすもの。

 

変な過信は

人生を

壊してしまう。

 

わかってほしい

のだけど、

こればかりは

どれだけ口で

説明しても、ね。

 

だから

いつも思う。

 

自分の痛みや

苦痛に

敏感な人は

幸せだ。

 

自分を守れる

から。

 

守らねばならない

ことを

自覚できるから。

 

苦しいことを

苦しいと

感じられる自分で

いよう。

 

つづく

 

一滴の魂

 

たった

一滴の

水滴が、

 

すべての流れを

変える

こともあるのだ。

 

その一滴が

 

「私は所詮

一滴だから」

 

言っているうちは、

決してそれは

起こらないが。

 

「すべて」の中に

「一滴」はあり、

 

「一滴」の中にも

「すべて」がある。

 

すべてを包含する

自分という

存在を、

 

まずは

信じることだな。

 

自分は

何もできない、

 

・・・とも

 

自分は

何でもできる、

 

・・・とも

 

どちらとも

違う。

 

その視点は

必要ない。

 

今、

何をするか?

 

今、

自分の魂を

込めて

ここで、

何をするか?

 

これだけだ。

 

つづく

 

内と外から

 

いつも

外側から

ものを観るように

している。

 

どれだけ

その「現実」に

埋没したと

しても。

 

とはいえ、

内側の埋没も

大事だ。

 

内と外。

 

両方から常に

「それ」

を観る。

 

見つめ

続ける。

 

すると

「それ」は

一つのカタチを

現してくる。

 

明確な

カタチ。

 

内と外から

見続けなければ

決して

わからない

そのカタチは、

 

多くの場合、

 

とても

意外なものだ。

 

なるほど、

こうなっていたのか、

と。

 

これがわかれば

あとは早い。

 

内と外から

刺激を入れ続ける。

 

そのカタチが

本来のカタチに

戻れるまで。

 

つづく