チームパフォーマンスコーチ

今、増えている一つの症状

 

クルクルと

体を回転させると

目が回ってしまう。

 

すると

まともに動くことが

できなくなる。

 

何も正確には

見えなくなる。

 

思考すら

できなくなる。

 

要するに

正常ではない状態

になる。

 

クルクル回る

だけなのに。

 

実は、

 

心がこの状態の人

が増えている。

 

すると

正常な判断が

できなくなる。

 

本来のその人なら

絶対にしないような

判断をしてしまう。

 

物事が

上手く進展しなく

なり、

その人自身が

 

自分は今、

何かがおかしい。

 

と感じたり、

 

自分は今、

正常ではないのでは

ないか。

 

と訝しんだり。

 

でもそのように

自覚できる人は

症状としてはかなり軽い。

 

この状態。

 

これは別に

病気ではない。

 

体をクルクル回して

目が回ることが

病気ではないのと

同じだ。

 

心が

クルクル回っている

だけだ。

 

だから

止めればいい。

 

でも、

止め方がわからない。

 

心がクルクル回る

最大の原因は

単純だ。

 

一言で言えば、

 

「傲慢」

 

だ。

 

つまり、

自信のある人に

多い現象だ。

 

物事が上手く

行き出して、

モチベーションが高くなって、

 

喜びが高くなって、

 

毎日が

楽しくてしょうがなく

なって、

 

ウキウキワクワク

が止まらなくなって、

 

俺って凄いぞ!

 

私って凄いな!

 

となって。

 

心が踊り出す状態に

なって、

 

回転を始める。

 

そして、

止まらなくなる

のだ。

 

もうこうなると、

ほとんどの場合、

 

痛い目に遭うまでは

止まらない。

 

痛い目にあって、

 

物事が上手く進展

しないようになって

初めて、

 

自分は何かおかしい

気づくのだ。

 

正直言って、

コーチングもあまり

機能しない。

 

どんなアドバイスを

しても、

 

俺は凄い。

 

私は凄い。

 

の真っ只中に

いるからだ。

 

だから、

痛い目に遭うまで

待つしかない

というケースが多い。

 

これも

人間の可愛らしさ

と言えば

そうとも言えるが、

 

結構、

周りの人は

本人以上に痛い目に

遭っている。

 

何を隠そう、

昔の私もそうだったけど。

 

だから

随分、人を傷つけた。

 

今、

そんな人が増えている

というのも、

 

この時代にあって

面白い現象だ。

 

傲慢になる、

というのは

真本音で生きる

のとは

真逆の生き方だ。

 

自分はちょっと

はしゃぎ過ぎでは

ないか?

 

という目線は

いつも持っておいた方が

いいね。

 

つづく

 

空っぽ

 

最近、このブログでは

「空っぽ」

という言葉を

よく使っている。

 

意図して使っている

わけではないが、

 

どうやら現時点での

我々のキーワード

のようだ。

 

私達は

あえて

「空っぽ」に

ならねばならない。

 

「空っぽ」に

なることで初めて

見つかるものがある。

 

例えば、

 

心の中を

「空っぽ」にすると、

 

そこで初めて

自分の中心に

 

「源泉」

 

のようなものが

あるんだ、

ということがわかる。

 

そこでは

まるで泉のように

透明な水のようなものが

湧き続けている。

 

そして

あ〜なるほど、

これが「私自身」か。

 

これが

私の「原点」か。

 

実感できる。

 

「空っぽ」にした

つもりが

実は私達は

「空っぽ」にはなり得ない

ということがわかる。

 

常に私達の

中心には

「創造」

があるのだ。

 

また、

 

例えば、

「空っぽ」になることで

初めて、

 

自分以外の「世界」の

 

「豊饒さ」

 

がわかる。

 

「世界」がいかに

エネルギーに

満ちているか。

 

愛に満ちているか。

 

そしてそれらが

自分自身に

どれだけの恩恵を

もたらしてくれて

いるか。

 

という、

理屈ではない実感を

ただただ

得られる。

 

私達はきっと

余分なものを

持ち過ぎなのだ。

 

「空っぽ」になる

ことで、

あるがままの真実を

知ることができる。

 

そういうことで

言えば、

 

「空っぽ」とは

空っぽではない。

 

「空っぽ」とは

満ちること、

満たされること、

イコールなのかも

しれない。

 

さて。

 

自分の「源泉」と、

世界の「豊饒」を、

 

共に感じた

我々は、

 

次に何をしようか?

 

何のために

どの一歩を

踏み出そうか?

 

これこそが

今の我々にとって

最も大事な

問いなのかも知れないね。

 

つづく

 

もう変わったんだ

 

過去の自分を

振り返っても

 

そこに答えは

ない。

 

過去の事例を

学んでも

 

そこに答えは

ない。

 

もう、

その世界には

私達は

いないのだ。

 

もう私達は

「別の世界」

にいる。

 

「世界」が

変わったのだ。

 

というくらいの

認識を持った方が

いい。

 

私は今

ここにいるが、

 

ここにいる私は

これまでの

私ではない。

 

「私」も

変わったのだ。

 

我々は

なかなか変化を

受け入れない

ものだが、

 

変化に

恐怖を感じる

ものだが、

 

でも

変化したものは

しょうがない。

 

もし

これまでと同じような

行動パターンを

とろうとする自分に

気づいたら、

 

直ちに

ストップしよう。

 

その方向では

ない。

 

これからは。

 

さぁ・・・、

 

一度、まっすぐに

立ってみよう。

 

何も持たずに

まっすぐに。

 

そして、

肩の力を抜き、

 

一番、向きたい

方向を

向こう。

 

そして

何も考えず、

その方向に進んで

みよう。

 

もし可能なら、

 

最大速で

走ってみよう。

 

まぁ、多少は

転んでもいいだろう。

 

どうせ

痛い目には

遭うんだ。

どこに行っても。

 

身軽なままで

走れば、

それはそれで

楽しいだろう。

 

もし

今の「世界」が

わからなくなったら、

 

立ち止まるよりも

探検をしよう。

 

幼い子どもが

何でもかんでも

触ったり

口に入れたり

するように。

 

すべてを

体験すればいい。

 

もう

武器は要らない。

 

自分を

守る必要もない。

 

そこに気づいた

人から、

 

ようやく今の

「世界」の意味が

わかるだろう。

 

これまでとは

違うんだよ。

 

もうすでに

変化は

完了してるんだ。

 

つづく

 

赤ちゃんもどり

 

私は誰か?

 

ということが

すごく曖昧になる

ことがある。

 

記憶喪失に

なったり、

精神分裂を起こしたり

するわけではなく、

 

ただ普通の

精神状態なのだが、

 

ふと、

私は私が誰か?

わからなくなる。

 

人とずっと

向き合っていたり、

 

もしくは

世界とずっと

向き合っていたり

すると

なりやすい。

 

ところがその状態は

感覚的に

悪いものではない。

 

むしろ、

自分の中から

あらゆる余分なものが

消え去っている

感じがする。

 

良い意味での

空っぽ状態だ。

 

そんな時は

決まって、

 

自分の範疇の

外からの

何らかの気づきが

来る。

 

と同時に

 

とてつもない

安心感が

来る。

 

むしろ

この状態でずっと

過ごせると良いな、

とさえ

思うことも。

 

もしそうなると

いったい

私の人生は

どう展開するのだろう?

と。

 

そして逆に

こうも思うのだ。

 

私は

私であることに

固執し過ぎではないか?

と。

 

もっと

私であることを

忘れても良いのでは

ないか、と。

 

少し表現を間違えると

とても危ない感じが

するが、

 

この感覚は

それとは真逆な

感じがする。

 

私が私であることを

忘れることで、

むしろ

私は

本当の私に

戻れるのではないか?

 

私の原点に

立ち戻れる

のではないか?

 

ひょっとすると

これは

赤ちゃんの感覚

なのかもしれない。

 

自分が何者かが

わからない状態で、

 

自分と他人の

区別がつかない状態で、

 

ただ

純然と

世界と向き合い続ける。

 

そこから生まれる

発想は、

私自身をびっくりさせる

ことも多いが、

 

今はそれ自体を

楽しみたいと

思っている。

 

つづく

 

どっちでもよくなったら

 

こうしたい!

 

とか

 

こうなりたい!

 

とか。

 

自分の夢とか

ビジョンとか。

 

目標でも

使命でもいい。

 

とにかく、

 

自分が強く

願っていたこと

が、

 

ある日を境に

突然、

 

あれっ?

どっちでもいいかな・・・。

 

思うようになること

がある。

 

あれだけ強く

願っていたのに、

 

ずっと

実現のために

頑張ってきたのに、

 

実現しても

しなくても

どっちでもいいかな・・・、

 

と。

 

もしそうなったら、

 

それらの願いは

手放してしまうと

いい。

 

ついさっきまでの

自分は、

その願いのために

生きてきた。

 

でもこれからの

自分は

ちょっと違うのかも、

 

・・・というところに

素直になればいい。

 

その代わり、

手放すなら

本当にしっかりと

手放すといい。

 

中途半端に

願うなら

 

ゼロにする

 

のだ。

 

自分を

空っぽにする

のだ。

 

すると、

その空っぽの奥から

 

新たな

願いが浮上を始める。

 

つまり、

どっちでもいいかな、

思うようになった

ということは、

 

自分の願いが

「進化」「深化」

する兆しだ。

 

ひょっとすると

これまでのその願いを

手放すことは、

 

自分自身の人生や

 

自分自身そのものを

手放してしまうくらいに

 

インパクトがあったり、

怖かったりするかも

しれない。

 

しかしそうであっても

私は

オススメする。

 

中途半端な願い

なら

ゼロにしちゃえ!

 

と。

 

空っぽの自分

として

もう一度、今日から

生きてみよう。

 

きっと何か

脱皮できるよ。

 

つづく

 

発想が出なくなったら

 

ある事柄に関して

 

何も発想が

出ない

 

という状態に

なることがある。

 

これを私は

「ゼロ状態」

呼んでいる。

 

どれだけ考えても

まったく

発想が湧かない。

 

何も浮かばない。

 

ひょっとして

自分は、

その事柄について

モチベーションがゼロ

なのではないか。

 

まったく

やる気がないのでは

ないか。

 

避けたいのでは

ないか。

 

・・・そんな風に

思ってしまう。

 

しかしそんな時は、

その事柄についての

「お部屋のイメージ」

をしてみると

いい。

 

その事柄についての

発想が

たくさん詰まっている

お部屋を

イメージするのだ。

 

その部屋に

入ってみて、

 

もしその部屋に

いろんなたくさんの

ものが

存在している感じが

するのであれば、

 

・・・にも関わらず

発想が出ないので

あれば、

 

確かに

もうやる気がない

のかもしれない。

 

しかし

そのお部屋に入ると

中が完全に空っぽ

 

・・・のように

感じるのであれば、

 

それは先ほど

私が書いた

「ゼロ状態」

である。

 

ゼロ状態の場合は、

一見、発想がゼロ に

見えるが、

 

実は

そうではない。

 

大掃除をして

これまでの古い発想

達を

いったんすべて

お部屋から出して

捨ててしまったイメージ

だ。

 

そういう意味では

発想がゼロとも

言えなくもないが、

 

しかし実はまったく

真逆で、

 

これまでの発想を

完全に卒業した上で、

そのお部屋に

新たな発想達を

 

ゼロから

 

入れ直したい、

思っているのだ、

 

だから、

一見、発想ゼロに

見えても、

 

待てばいい

 

のだ。

 

むしろ

お部屋の中が

空っぽになっている

その状態そのものを

楽しめばいい。

 

この部屋が

新たにどのような

発想達で埋まるのかな?

楽しみにすればいい。

 

一つ注意点は、

 

ここで自分の思考に

入らないことだ。

 

思考に入ってしまうと、

結局はまた

これまでと同じ発想で

その部屋を

埋めてしまうことになる。

 

せっかくいったん

空っぽになったのだから、

 

もう思考は

やめて、

 

これまでのパターンは

やめて、

 

ただ

直観を待てばいい。

 

つまりは

「ゼロ状態」

とは

新たな直観達が

生まれる寸前の状態、

 

ということだ。

 

だから

やることは

ただ一つ。

 

待つこと。

 

空っぽ状態を

楽しみながら、

 

待つことだ。

 

つづく

 

こんなところにヒントが

 

たった一つの

ヒントが

 

人生を劇的に

変えることがある。

 

最初はそれが

「ヒント」であるとは

つゆ知らず。

 

しかしその

些細な何かは

ずっと

心の片隅に

ヒラヒラと

さりげなく

漂い続ける。

 

そのヒラヒラが

あまりに自然なので、

 

その存在そのものを

忘れてしまうのだが、

 

しかしそれは

確かにそこに

在り続け、

 

その存在を自分は

感じ続けている。

 

まるで

空気のような

存在となった

その「ヒント」は

 

しかし、

 

ある時ある瞬間に、

「あぁ私の周りには

確かに空気があり、

これがあるからこそ

私は生きていられるんだ!」

気づいた時の

ように、

 

その存在を

前触れなく、

 

突然に

誇示する。

 

そしてそれが

本当は

自分自身の人生の

道への

最大の「ヒント」であったと

わかった瞬間は、

 

まったく

わからなくて

どうしても知りたかった

手品のタネを知り、

 

そのタネが

あまりに簡単で

単純なものであることに

仰天する、

 

と同時に

 

笑ってしまう、

という

あの感覚にそっくりだ。

 

そう。

 

「ヒント」はもう

あるんだ。

 

あなたの

すぐそばに。

 

あなたと

共に。

 

あとは

気づくだけ。

 

つづく

 

大地と共に進む

 

思いきって

進む時ほど、

 

足元を

しっかりしよう。

 

勢いだけで

走るよりも、

 

急ぎたい時ほど、

 

一歩一歩を

着実に。

 

大地を

踏みしめながら。

 

大地の感触が

足と腰を通じて、

 

しっかりと

全身に渡るように。

 

私は今、

ここにいる。

 

私は今、

ちゃんとここに

立っている。

 

という実感を

持ちながら。

 

これがあるうちは、

進める。

 

思いきって

進める。

 

その安心感を

一日一日、

できれば常に

 

自分自身に

与え続けると

いい。

 

そのためにも、

 

次の問いを

自分に投げよう。

 

「これまでの私は

どんな大地を

進んできただろう?」

 

「そして今の私は

どんな大地に

立っているだろう?」

 

これは

「言葉」ではなく

「イメージ」できるといい。

 

イメージできたら

しっかりと

「今の大地」

に立っている自分を

 

大地そのもの

その感触を

 

実在として

得よう。

 

その上で、

 

思いっきり

急ごうではないか。

 

つづく

 

ラスボスが外れた

 

私達人間は

全員、

 

「リミッター」

 

を自分にかけている。

 

自分が

自分にならない

ための

リミッターだ。

 

本来の自分

に戻ることを

阻害するための

リミッターだ。

 

それを

自らの意志として

持ち、

 

自分で自分を

制限し続ける。

 

これが

私達の

全員の

人生だ。

 

何のために

そんなことを

するのか?

 

の理由は

明白だ。

 

自分を

試しているのだ。

 

自分の

準備を整える

ためだ。

 

準備完了

となって初めて

私達は

そのリミッターを

外す。

 

それにより

本来の自分に

戻っていく。

 

もちろん

リミッターは

一つではない。

 

たくさんある。

 

一つの準備が

整えば、

一つのリミッターを

外す。

 

また次の準備が

整えば、

次のリミッターを

外す。

 

当然であるが、

すべてのリミッターを

外す前に

人生を終えてしまう

人は多い。

 

むしろ

9割以上の人は

そうではないか。

 

一つずつ

リミッターを外し、

 

最後の最後の

リミッターを外し、

 

(それは

リミッターのラスボス

のようなものだ。)

 

そしてようやく

本来の自分に

戻る。

 

本来の自分に

戻ることで、

私達は

本来の人生の目的を

思い出し始める。

 

そして

本来の個性を

発揮し始める。

 

本来の力を

発揮し始める。

 

その人にしかない

先天的な

魅力が

醸し出され始める。

 

そこからが

人生の第2ステージだ。

 

本来の自分

として進む

ステージだ。

 

その、

最後の最後の

リミッターを外し、

 

人生の第2ステージに

進む人が

私の周りでは

一人、また一人と

増えてきた。

 

おかげでまた

私自身も

自分自身の本来の

役割を

担える状況になってきた。

 

だから私も

そちらに進む。

 

踏ん切りは

すでについている。

 

全身全霊の

内側からの悦びが、

 

中心からの

悦びが、

 

今、溢れ出ようと

している。

 

皆の準備を

待っていたんだ。

 

ようやく、だ。

 

つづく

 

空っぽのままで

 

自分には

何もないのでは

ないか?

 

・・・と

恐れたことは

ある?

 

自分の空っぽさ

感じたことは?

 

もし、

そんな感覚が

襲ってきたら、

 

それに

抗ってはならない。

 

全身全霊を

その感覚に

預けてしまおう。

 

空っぽさ。

 

これはとても

大事だ。

 

これまで

培ったものを

いったん

自分の中から

除去している。

 

もしくは

これまで培ったもの

に対する

価値を見出さなく

なっている。

 

虚しさにも

似た

その感覚は、

 

まったく新たな

自分が

 

生まれる

予兆だ。

 

だから、

抗っては

ダメだ。

 

むしろずっと

虚しくいれば

いい。

 

人によっては

いったん

モチベーションゼロ状態

になるかもしれない。

 

それでいい。

 

どうせなら

徹底的に

空っぽになって

しまえ。

 

目的意識とか

目標とか

 

どうでもよくなって

しまったら、

 

どうでもいい!

 

決めてしまえ。

 

全部

手放せばいい。

 

すべての意図を

排除すれば

いい。

 

無色透明の

何もない

空虚な自分。

 

そんな自分として

一日を

過ごしてみると

いい。

 

この症状は

「進んでいる」からこそ

発生する

 

とてもとても

大切な

 

ステップだ。

 

自分という人間を

一気に広げたり

 

開花させる

 

ための

ステップだ。

 

だから

空っぽになれれば

なれるだけ

いい。

 

とても不安定で

不安な

感覚だろうが、

 

空っぽの

ままで。

 

意図のない

ままで。

 

つづく

 

何から逃げるか

 

果敢に

新たなステージに

入り、

 

未開の地に

突入している人が

増えている。

 

どうも

私の周りだけでは

ないようだ。

 

そういった

気配とか

 

躍動感を

感じる。

 

とても良いことだ。

 

応援したい。

 

未開の地に

進むということは、

 

当然であるが

それだけ

いろんな困難にぶつかる

ということでもある。

 

覚悟を持って

進む人だからこそ

ぜひ大切にして

いただきたいのは、

 

目の前のその

困難や障壁や、

妨害は、

 

・立ち向かうべきもの

・避けるべきもの

 

一つ一つ

落ち着いて

しっかりと判断してほしい。

 

特に、

覚悟を持った人ほど、

 

立ち向かい過ぎる

 

という傾向が

ある。

 

避けることや

逃げることは

いけないことだ、

思い過ぎる。

 

そうではない。

 

「逃げる」

ことも

とても大事だ。

 

覚悟を持たない人が

逃げてしまうと

それは単なる

現実逃避になる。

 

しかし、

 

ちゃんと覚悟を持ち、

自分の人生を

引き受けている人が

 

未開の地に

入った時には、

 

「今、自分は

何から逃げるべきか?」

 

・・・こここそを

しっかりと自覚し、

 

「本当に立ち向かう

べきもの」

 

しっかりと

区別をしてほしい。

 

そして

自分自身の

エネルギーマネジメントを

的確にすることだ。

 

つまりは、

「自分は何に対して

エネルギーをかけるべきか」

ちゃんと決め、

 

「集中力を高める」

 

ことだ。

 

何でもかんでも

立ち向かってしまうことに

よって、

エネルギーは分散

してしまう。

 

エネルギー分散に

よって

拓くはずの道も

拓かなくなる。

 

いかに自分の

意識を

絞り込むか?

 

自分という存在の

意義を

絞り込むか?

 

覚悟を持った人こそ

大切にしてほしい

ことだ。

 

避けるべきを

ちゃんと避け、

 

逃げるべきから

ちゃんと逃げ、

 

手放すべきを

ちゃんと手放し、

 

諦めるべきを

ちゃんと諦める。

 

そして、

 

本当に立ち向かう

べきと

 

真摯に

誠実に

立ち向かう。

 

これこそが

自己マネジメント

だ。

 

応援しています。

 

つづく

 

高まってるんだ

 

ただ

純粋な存在

として

 

私はここに

いる。

 

ただ

純粋な存在

として

 

あなたもここに

いる。

 

私達は

向かい合って

いる。

 

ただ

純粋な存在

として。

 

その事実だけを

そのまま

受け取るとき、

 

そこには

エネルギーの

渦が観える。

 

脳が感知する

渦ではない。

 

そこに実在する

ものを

 

そのまま

受け取っている

だけだ。

 

脳を使わずに

受け取っているものは

多い。

 

それを自覚することは

人生の

あらゆる場面の

意味を

 

根底から

覆すだろう。

 

一見、

ピンチに見える

出来事が

 

実は

とてつもない

愛に満たされている

ことを知ったり、

 

逆に

 

愛に満たされている

思い込んでいたものが、

 

実は

空虚の塊に過ぎない

ことを知ったり。

 

そういうことを

「わかる」

というのは

怖いことかもしれない。

 

でも本当は

私達人間は

最初から

わかっているのだ。

 

わからないフリを

しているだけ。

 

フリをするために

脳に

逃げている。

 

脳の創り出す

五感に

逃げている。

 

それだけの

ことだ。

 

もう

逃げる人生からは

卒業しようと

 

覚悟をすると

いい。

 

その覚悟は

自分自身の

鼓動の質を

変える。

 

人生の質を

変える。

 

すべては

実在している。

 

それらは

幻ではなく、

 

むしろ

五感で得るものの

方が

幻に近い。

 

薄っぺらい。

 

本当の存在、

本物の存在を

 

私達はもっと

知った方がいい。

 

世の中は

変わりつつあるように

見えるが、

 

それも五感。

 

本当は

変わるとか

変わらないとか

ではなく、

 

ずっとそこに

あるんだ。

 

存在しているものを

ただそのまま

感じ取れる度合いが

 

私達自身に

 

高まっている

だけなんだ。

 

つづく

 

待て

 

たくさんの発想を

することは

大事だ。

 

しかし、

真の発想とは

 

それら無数の

発想達が

すべて

飛び去り、

 

消え去った

後に

 

初めて

 

現れる。

 

そして

真の発想とは、

 

決して

飛び去らない。

 

消え去らない。

 

いったんそれが

姿を現せば、

 

確信

 

という感覚と

共に、

 

自分自身が

その発想そのもの

となる。

 

つまり、

真の発想とは

自分が生み出す

ものではない。

 

自分自身だ。

 

私は、

真の発想が

明らかになるまでは

決して

動かないことに

している。

 

決断しない

ことにしている。

 

皆、

 

決断が

早すぎるのだ。

 

まだ上辺だけの

発想の状態で、

 

強引に一つの

解を

出してしまう。

 

無理矢理に

自分に言い聞かせる

ようにして、

決断をしてしまう。

 

しかし残念ながら、

その決断は

その後の迷いを

必ず生む。

 

では、

どうすれば

上辺だけの発想

ではなく、

 

真の発想に

たどり着ける

だろうか?

 

実は単純な

ことだ。

 

自分には

真の発想が

すでにある。

 

信じることだ。

 

そして

それが姿を現す

まで、

 

「待つ」

 

ことだ。

 

人生とは、

 

待てるかどうか、

 

だ。

 

今回はちょっと

あえて

極端な言い回しを

している。

 

でも、

とても大事なことだから、

 

あえて

誤解を恐れずに

断言する。

 

人生は、

 

待てるかどうか、

 

だ。

 

ちゃんと自分を

信じて

待つことのできる人は

 

道を

手に入れる。

 

道が

開かれる。

 

急いでいる時

ほど、

 

待つがいい。

 

急いでいる時

ほど、

 

焦らずに。

 

真の答えを

待て。

 

つづく

 

現状維持の本質

 

「現状維持」

とは

進むことだ。

 

これ、

多くの人が勘違い

している。

 

現状維持とは

今と同じ場所に

い続けることだと

思い込んでいるが、

 

そうではない。

 

今と同じ場所に

い続けることは、

イコール、

「衰退」

である。

 

私のクライアントさんが

とても良いことを

言われた。

 

「私はこの一年は特に

現状維持に

努めたい。

だから、存分に進みます」

 

と。

 

特に今の時代は、

現状維持のためには

最大速を

出さねばならない。

 

ということは

さらなる成長

さらない進化の

ためには、

 

これまでの自分を

逸脱した加速を

せねばならない。

 

それが

今の現実だ。

 

ここを勘違いした

ままだと

大変なことになる。

 

進むのは

当たり前のこと。

 

今の場所に

かじりついている

場合ではない。

 

・・・・・・

 

逸脱した加速

のためには、

 

自分自身を

もっと理解する必要が

ある。

 

自分の本質を

理解する必要が

ある。

 

自己理解なしに

逸脱はできない。

 

なぜなら私達は

みんな、

無自覚のままに

自分自身に様々な

リミッターを

かけ続けているから。

 

自分は

何者か?

 

そんな自分に

どんな枠(リミッター)を

自分ははめているか?

 

どの枠から

順番に

外せば良いか?

 

・・・これらを

理解しなければ

ならない。

 

結局、私のコーチング

とは、

これをサポートしている

のだと、

改めて、今日、痛感した。

 

と同時に、

こここそを

これからもちゃんと

意識的に

大切にしたサポートを

続けようと

思った。

 

そしてやはり、

 

そんなサポートの

できるコーチを

増やさなきゃ。

 

つづく

 

変な踊り

 

時々、

私のクライアントさん達に

意識を向けると、

 

変な踊りをしている

映像が浮かぶことが

ある。

 

変テコな踊りを

実に楽しそうに。

 

そうすると

私はホッとする。

 

それは

そのクライアントさんが

「何か」から

自由になれた合図だから。

 

何かを脱ぎ捨て

一つ

脱皮をした合図

だから。

 

それにしても

その「踊り」は、

 

人それぞれ

まったく個性が

違う。

 

みんなそれぞれの

「踊り方」

つまりは「生き方・行き方」

があるのだな、

いつも実感する。

 

そして

思うのだ。

 

みんな、

踊りたいのだな。

 

自分の踊りを、

 

自分にしか

できない踊り方で。

 

そんなイメージ(実在)

を得た後で

実際にそのクライアントさんと

お会いすると、

 

確かに

「何か」が変わっている。

 

空気感は

明らかに違う。

 

そこで

コーチングの最初に

そんな時は

いつも問うのだ。

 

何かがなんか

凄く変化されたように

感じるのですが、

何だと思いますか?

 

「あっ、そうそう、

それ、自分でも

わかります!」

 

と返ってくることも

あれば、

 

「へぇ、そうなんですか。

自分では

わからないなぁ」

 

と返ってくることも

ある。

 

どちらでも

いい。

 

どんな返事でも

その日のコーチングは

実にまた

楽しいものになるんだ。

 

変な踊り。

 

みんな、

変な踊りを

思いっきり

踊ればいい。

 

つづく

 

能力は諸刃の剣

 

能力があるのは

素晴らしいことだし、

 

自分の能力を

活かすことも

大切だ。

 

しかし、

能力だけに

頼ってはならない。

 

決して。

 

能力を活かす

だけの

人生であっては

ならない。

 

「能力」とは

諸刃の剣だ。

 

それが見つかる

ことで、

そこに執着して

しまう人が多い。

 

能力がある

ことで、

 

その能力を

活かすことにおいて

 

物事が

成功してしまう。

 

すると当然、

周りの人も

喜ぶ。

 

すると

「そこ」が

自分の役割であり、

自分のすべきことだと

 

思い込む。

 

そう。

 

思い込む。

 

その結果、

その人は小さくまとまって

しまう。

 

というケースが

実に多い。

 

一つの素晴らしい

能力が見つかった

としても、

 

それは

百あるうちの

たったの一つかも

しれない。

 

他の99の能力を

眠らせたままで

人生を終える必要は

ない。

 

例えば、

 

「私はリーダーには

向いてないのです」

 

断言する人で、

 

でも私から観れば、

どうみても

先天的にリーダーの

素養を持っている人は

本当に多い。

 

しかし本人は

食わず嫌いのまま

リーダーをやらない。

 

この人は

リーダーをすることで

様々な能力を

発揮するに違いない

のに、

 

ただ単に

本人の思い込みに

よって、

決してそれをしない。

 

実にもったいない。

 

本来、能力とは

自分の「願い」に

向かうための道具だ。

 

手段だ。

 

基本的には

自分の「願い」に

向かうことで

 

その人の

先天的な能力は

「次々に」

開花する。

 

そう。

 

それはまさしく

「開花」

という言葉が

ぴったりだ。

 

たとえ

「願い」がわからなくとも、

 

私の願いは

何だろうか?

 

という

問いを大切に生きる

だけでもいい。

 

「私には

こういった能力しか

ないから、

この能力を活かすことを

したい」

 

ではなく、

 

「私の本当の願いは

何だろうか?」

 

ずっと探究すると

いい。

 

この単純な問いは

真摯に自分に

投げ続けるだけで、

 

自分の心には

大きなインパクトと

刺激を与えてくれる。

 

自分自身に

「栄養」を

与えてくれる。

 

「願い」に向かおうと

するその意志こそが、

 

本来の「能力」を

掘り起こす。

 

手段である「能力」

目的にしては

ならない。

 

あなたは

そんなもんじゃない。

 

つづく

 

人は自由になれる?

 

自由に生きる、

 

ということの

一つの重要な

要素は、

 

自由に決断できる、

 

ということだ。

 

しかしその

「自由に決断」

とは

どういうことだろうか?

 

私達は一見、

自由に見える時でも

 

実は様々な

束縛の中にある。

 

「今日、一日

自由に何をしても

いいよ」

 

と言われても、

本当に自由に

私達は

行動できるだろうか?

 

よくよく考えると、

こうしてこのように

ここで生きている

ということ

そのものが

束縛ではないのか?

 

・・・というような

方向に意識が向かうと、

 

心はどんどん

虚無の方向に行く。

 

虚しくなって

くる。

 

このように

思考をすること

自体も、

束縛かもしれない。

 

自分を束縛している

ものを

列挙し始めたら、

 

恐らく

キリがないだろう。

 

そう。

 

私達は皆、

束縛の中にいる。

 

無数の束縛の

中で

生きている。

 

それが

人生であり

人間だ。

 

自由に決断

できている!

 

たとえ感じたと

しても、

 

それは、

ただ単に

自分では気づいて

いない

まだ自覚できて

いない

束縛の中で

決断しているに

過ぎない。

 

という

事実がある。

 

まずはここを

ちゃんと

受け入れないと、

私達は

自由にはなれない。

 

自由になる、

とは

束縛を外すこと

ではない。

 

自由と束縛は

実は

まったく関係のない

ものだ。

 

実にたくさんの

束縛に中にいても

私達は自由に

なれる。

 

逆に、

仮に束縛のすべてを

取り払うことが

できたとしても、

それだけでは

私達は自由になれない。

 

自分の不自由を

環境のせいにする

人は多いが、

 

それは

観点がズレている。

 

環境のせいで

不自由になる

ことはない。

 

実は、

 

私達はもう最初から

「すべて」を決めている。

 

あらゆる束縛の

中で、

しかしその

決めていることを

決めている通りに

進もうとしている。

 

そして、

 

決めていることを

決めている通りに

進めている時にこそ、

 

私達は

「自由」を感じる。

 

だから

ひょっとすると、

 

真の自由とは

真の束縛

なのかもしれない。

 

自由に決断する

というのは、

 

真の束縛の通りに

決断する、

 

ということ

なのかもしれない。

 

つづく

 

世界へ

 

常に「世界」を

感じながら生きる。

 

ということを

大切にし始めたのは

いつからだろうか?

 

きっと

実在を感じ取れる

ようになった

11〜2年くらい前から、

かな。

 

この「世界」は

どうやら

自分が思っている以上に

奥深く、幅広く、

 

無限の「?」に

満ちている、と

痛烈に感じたんだよな、

 

きっとあの頃からだ。

 

そうしたら、

1分1秒、いつもいつも

「世界」を

感じ取っていたいと

欲求するように

なった。

 

だからそこから

私は自分を

「オープン」にした。

 

「世界」に対して

開いている状態で

生きることにした。

 

実際に

人間関係やコミュニケーションが

オープンになったのか

どうかは

わからない。

 

しかし私自身の

在り方としては、

 

「私」と「私以外(=世界)」

の間に存在していた

見えない壁のようなもの、

 

見えない境界の

ようなものを

 

すべて取り払った。

 

その状態で

日常を過ごすように

なった。

 

すると、

常に「世界」を感じ取り、

 

その「感触」を

得ながら、

 

「今ここ」にいる

自分を認識した。

 

すると、

今の1秒1秒が

とても愛おしくなり、

 

もっともっと

噛み締め、

味わいたくなり、

 

すると

この1秒1秒に

「生きている実感」を

得るようになった。

 

すると

その感覚自体が

人間にとっては

とても幸せなことなんだと

知った。

 

そして

「孤独」ではなくなった。

 

逆に言えば、

それまでの私はずっと

孤独だった。

 

どれだけ

様々な人と接しても、

仕事が順調でも、

仲間がいても、

 

孤独だった。

 

それが

いつの間にか

完全になくなった。

 

そしていつの間にか、

「世界」と「私」の

区別をつけながらも、

 

世界は私であり、

私は世界である、

 

という

感覚に満たされるように

なった。

 

そして

その状態における

その後の必然的な「出会い」は

 

恐らく、

私の「命」を

救ってくれた。

 

今はよくわかる。

 

以前の「孤独」のままの

私でいたならば、

 

きっと私は

ここまで生きてはいまい。

 

生命力が

持たなかったと

思うのだ。

 

それくらいに

人生に疲弊

していた。

 

今も、毎日のように

生命エネルギーを

使いまくっている。

 

一日が終わると、

全エネルギーを

使い果たしている。

 

でも

私は世界であり、

世界は私であり、

 

だから

世界が私を

常に守ってくれるし、

 

エネルギーを

与えてくれる。

 

どうしても

「感謝」という

ありきたりな言葉に

なってしまうのだが、

 

本当に

すべてに

感謝したい。

 

つづく

 

相手の立場に立てる?

 

視点を外す、

というのは

結構難しいこと

なのかな。

 

例えば私達は

 

「私」という視点

 

から

すべての物事を

捉えている。

 

まぁ当たり前

だね。

 

その

「私」という視点を

外すこと。

 

これは難しい

のかな?

 

きっと難しい

のだろうね。

 

よく、

相手の立場に

立ちなさい、

言われるけど、

 

これ

とても大事だけど、

 

立てる?

 

相手の立場に?

 

本当に?

 

結局、

相手の立場に立つ

と言いながらも、

 

立ったつもりになって

自分の視点から

発想しているだけ、

 

ということは

多いようだ。

 

まぁでも

それをわかった上で

相手の立場に立とう

とすることは

とても尊いと思う。

 

私の場合は

と言えば、

 

私は相手の立場に

立つこと、

とても苦手。

 

今書いたように、

相手の立場に立てた

と思いながらも

それは単なる思い込みで、

 

単なる自己満足で

 

判断してしまうこと

ばかり。

 

相手のことを

考えれば考えるほどに

自己満足に

なっていく。

 

そして

思った通りの展開に

まったく、

 

本当に、まったく!

 

ならんのよ。

 

だいたい、

思ったことの真逆に

物事は展開するね。笑

 

これは自信を

持って言える。

 

だから私は

(あくまでも私はね)

 

相手の立場に立つ

ことは

諦めた。

 

10年くらい前に。

 

その代わり、

 

相手と一つになる

 

ということを

やり始めた。

 

イメージじゃない。

 

実在で。

 

実在で一つになる。

 

すると

自分と相手の

区別がつかなくなる。

 

その状態で

「自分事として」

物事の発想を

するようになった。

 

すると、

 

その日から途端に

物事が

調和するようになった。

 

念のために

言うと、

 

調和するようになった

というのは、

「予測通りに物事が

進むようになった」

ということではない。

 

私の予測なんざ、

ほぼほぼ

当たらない。

 

でも、

すべてがちゃんと

調和してるな、と

わかるようになった。

 

だから

何がどう起きても、

それらの現実と

ちゃんと対峙し、

 

次の一手が

打てるようになった。

 

やるべきことと

やっちゃいけないことが

わかるようになった。

 

それは

相手の立場に

立っているからでは

ない。

 

相手と

一つになっているから。

 

相手と一つになった

自分として

判断しているから。

 

私は私だ。

 

いろんなものと

一つになれる

私なんだ。

 

つづく

 

感覚を言葉へ

 

感覚を

言葉にする。

 

というのは

なかなか難しい

ものだが、

 

やってみると

いい。

 

ほんの些細な

ちょっとした感覚に

まずは

敏感になること。

 

セルフコーチングの

基本は、

 

まずは

自分の体の感覚を

感覚として

観察すること。

 

例えば、

何となく首筋が

重いな、

とか。

 

背骨にちょっとだけ

違和感たあるな、

とか。

 

今日は

胴体の中が

スースーする。

まるで空洞のようだ、

とか。

 

そして

わずかに感じる

その部分に

意識を向ける。

 

解釈とか

思考とか

まったくせずに、

 

意識のみを

向ける。

 

するとその

わずかな感覚が

ありありと

際立ってくる。

 

場合によっては

その感覚の

「中に入り込む」

状態になるかもしれない。

 

感覚が

際立ってきたら、

さらにそこに

全身全霊を込める

ようにして

意識を集中させる。

 

すると、

私の場合は

映像が浮かんでくる。

 

人によっては

何も浮かばない

かもしれない。

 

映像が浮かべば、

今度はその映像に

ずっと意識を向ける。

 

映像がなければ、

感覚にそのまま

意識を向け続ける。

 

すると

ある一定以上の

時間が過ぎると、

 

ふと、

何かを思い出す

感じで、

 

言葉が

浮上してくる。

 

・・・こんな感じ。

 

慣れないと

難しいかもしれない。

 

でも

練習する価値はある。

 

これができるように

なると、

人生の展開は

劇的に変化する。

 

自分の感覚をもとに

人生の選択を

していくからだ。

 

ちなみに

私のこのブログは

いつもこんな感じで

書いている。

 

自分のわずかな、

しかしそこにしっかりと

存在する感覚を、

 

今日という一日を

終えた

今日にしかない

その感覚を、

 

言葉にしている

のだ。

 

これも練習だと

思ってやっている。

 

だから、

「感覚」を日記にするのも

いいかもね。

 

練習してみて

ください。

 

つづく

 

真面目?

 

真面目な人っていうのは

どうしても

発想や行動が固く

なりがち

 

だと思うのだが、

 

でもやっぱり、

 

真面目な人を

見ると

応援したくなるね。

 

そこまで

一生懸命やる?

言いたくなるくらい

一生懸命やる。

 

時には

本当は必要のない

ことについても

一生懸命やり過ぎ

だけど、

 

まぁでも

それも人間かな、と。

 

どうかな、

 

でも結局は

真面目な人は

強いかな。

 

何か必要な習慣を

新たにつける

必要がある場合も、

 

真面目な人は

一生懸命やる。

 

するとやはり

成果が出やすい。

 

そう考えると、

 

私のクライアントさん

って、

 

一見すると

チャランポランに

見えて(失礼!)

 

でも、根は真面目

という人が

多いような。

 

多分、

私自身もすげー

真面目なんだと

思う。

 

例えば、

「真本音度合い」

という概念が

見つかった時、

 

本当に真面目に

「まずは自分の

真本音度合い、

上げなきゃ!」

必死になった。

 

今から考えると

あんなに真面目に

やらんでも

良かろうに、

 

とも思えるし、

 

むしろ

真面目にやり過ぎて、

真本音度合い

なかなか上がらなかった

のではないか、

 

という節も

見えるけど、

 

でもまぁ

そんな愚かさも含めて

人間なのかな、

とも思うね。

 

今この瞬間を

大事に生きようね!

 

メッセージすると、

 

「ウォ〜〜〜〜!

今ここで

何すればいいんだ!」

 

すげー真面目に

考え過ぎて

 

今本当にすべきことや

したいことが

わかんなくなる人。笑

 

そんな人、

応援したいね。

 

つづく

 

さぁ次の段差だ

 

私達は皆、

階段上に

成長していく。

 

一つのステージを

比較的ゆったりと

進み、

 

ゆっくり成長を

続け、

 

ある準備が整うと、

 

次の段差が

くる。

 

そしてその段差を

一気によじ登り、

 

次のステージに

入る。

 

段差と言うくらい

だから、

それはまるで

垂直の壁だ。

 

下から見上げれば、

到底越えられない

ように思える。

 

しかし私達は

そういった

到底無理な段差を

 

これまでいくつも

越えてきた。

 

だから

ここにいる。

 

段差の前に

くると、

 

私達は非常に

不安定になる。

 

不安と恐怖の

あまり、

 

まるでこれまでの

成長が嘘で

あったかのように、

 

以前の

未熟な自分が出たり、

 

昔の

ダメダメな自分が

出たりする。

 

これまでの努力が

まったく意味が

なかったのではないか、

 

と思ってしまうほど、

自分が乱れる。

 

しかしそれこそ、

段差の前まで

来れた証。

 

次のステージに

一気に

よじ登ろうと

している証だ。

 

さて、

 

ここで皆さんに

一つの問いを。

 

今また、

次のステージに向かう

段差の直前に

いる人が増えている。

 

もし皆さんが

そうであるならば、

 

「段差をよじ登る」

という

このプロセスそのものを

 

「ゆっくりと味わう」

ために

 

皆さんは何を

決める?

 

これまで

あまり意識をして

来なかった

何か

を一つ今回は

決めてみよう。

 

今回の段差越えは

恐らく、

 

これまでとは

ちょっと違う。

 

これまでの

越え方とは

異なる越え方が

必要だ。

 

そのために

どうすれば良いか?

皆さん自身が

よくわかっている。

無意識的に。

 

だから

それを自覚しよう。

 

だから

上記の問いを

何度も

自分に投げてみよう。

 

つづく

 

また夢ができた

 

やっぱりこの仕事が

好きなんだな、

と思う。

 

私は人と向き合うのが

好きなんだ。

 

当たり前のことなのだが、

改めて

最近は、一日一日

実感する。

 

以前、このブログでも

書いたが、

私は私の中心核が

入れ替わった。

 

実は、

その時から私は

「コーチ」ではない。

 

これまでは、

「◯◯のできるコーチ」

だったのだが、

 

今は

 

「コーチのできる◯◯」

 

となったのだ。

 

◯◯が何かは

まだ誰にも

喋ってないし、

しばらくは言わないつもりだ。

 

それは私の

新たな夢でもある。

 

ところが、

 

今日またさらに

新たな、◯◯が

できてしまった。

 

新たな夢が

浮上したんだ。

 

だから今の私には

新たな二つの夢が

ある。

 

今日浮上した

その夢は、

 

これまでの私が

最も思いつかなかった

分野のことだ。

 

私からは

最も遠い存在だった

と思う。

 

しかしそれが

ふと、

 

本当にふと、

 

夢になった。

 

あまりに信じられないので、

思わず自分自身に

コーチングした。

 

しかしどうやら

その夢は

私の真本音らしい。

 

ということは

それはいつかきっと

実現するのだろう。

 

やばい。

 

感動のあまり

震えてきた。

 

だけどまだしばらくは

誰にも言わない。笑

 

しかし、・・・

 

変化の激しい

毎日だ。

 

今は。

 

こんなにも

私自身が変化しているのは

いつ以来だろうかな。

 

しかし、

どれだけ変化しても、

 

「コーチ」では

なくなっても、

 

私は「コーチ」という仕事

が好きだし、

 

これからもずっと

続けるだろう。

 

「コーチのできる◯◯」

 

としてね。

 

つづく

 

懐かしい風だ

 

今日、

あるクライアントさんから

懐かしい風

が吹いてきた。

 

コーチングの

真っ最中のことだ。

 

そのクライアントさんは

ある会社の社長さん。

 

今、非常に難しい

経営の舵取りを

されている。

 

道が開くか、

閉ざされるか。

 

今の一歩一歩が

すべてを決める。

 

ある意味、

心が壊れてしまうような

濃密な日々の中、

 

ついに

懐かしい風が

吹いた。

 

これは、

「次元を超える風」

だ。

 

詳しくはここでは

書かないが、

私が

『8次元』

と呼んでいる

意識の次元がある。

 

そこに到達すると、

その風が

いつも吹いてくる。

 

この社長さんも

ついにそこに

たどり着いたか、

感無量。

 

これでこの人と

この会社の道は

開かれていくな、

こっそり心の中で

涙を流した。

 

8次元とは

「すべては一つである」

ということを

思い出している

次元だ。

 

理屈ではない。

 

感覚として、

そして

実在として

思い出している。

 

だから

「すべては一つ」

というところからの

発想が

これから自然発生する

だろう。

 

「すべてが一つ」

からの発想とは

つまり、

すべての存在が悦ぶ

発想だ。

 

これが企業活動の

基点となると

強い。

 

世の中の全員が

こうなるといいな、

この風を感じる度に

いつも

思うんだ。

 

つづく

 

好きな音楽

 

よく私は人から

芸術肌だ、

言われる。

 

確かにそうかも。

 

結構、

芸術は好きだし。

 

音楽とか絵画とか。

 

なぜなら芸術には

その作者の

人生が、

 

生き方が、

 

ダイレクトに

反映されているから。

 

要するにそこに

「人間の生の姿」

感じるから。

 

特に、

その、生の姿でも

「進化する姿」

を感じるものには、

 

表現のしようのない

感動を覚える。

 

だから、

芸術が好き

と言っても、

 

まったくもって

詳しくはなく、

 

「進化」を感じ取れる

ある一人の芸術家の

作品と出会うと、

 

その人ばかりを

追う。

 

そう考えると、

芸術そのものが

好きというより、

 

やっぱり

その人のことが

好きなんだな。

 

その人の

生き様が

好きなんだな。

 

例えば、私は

音楽をよく聴くが、

 

本当に数名の人

しか聴かない。

 

のめり込んで

しまうのだ。

 

特にのめり込んだ

のは、

 

マイルス・デイヴィス

ベートーヴェン

かな。

 

マイルスは

どの時代も

全作品、大好きだし、

 

ベートーヴェンは

最近、

のめり込み始めた

のだけど、

 

ピアノソナタの

32作品と

弦楽四重奏の

16作品ばかり

聴いている。

 

作品ごとに

進化していく

その歩みと共に、

 

その時その瞬間

にしか

生み出せない

一つ一つの

「最善であり最高」

感じるからだ。

 

しかも

作曲家である

ベートーヴェン

だけでなく、

 

演奏している人の

生き様も

そこに紡がれる

から、

たまらない面白さ。

 

真本音度合い

とか

次元とか、

 

その作品から

伝わってくる

「実在」の感覚も

 

モロに

楽しんでいる。

 

本当は私自身も

ピアノを弾いたり、

トランペットを

吹いたり

できるようになりたいな、

とは思うけど、

 

いやいや、

 

私には私の

すべきことがある。

 

もし

自分が演奏を

始めると、

 

たとえそれが

趣味だとしても、

 

きっと私は

(上手い下手は別として)

そっちに人生の大半を

費やしてしまう

だろう。

 

のめり込んじゃう

から。

 

その危険性を

知っている。

 

だから私は

私の人生で

やろうと決めていること

真一文字で進む。

 

そんな私を

マイルスもベートーヴェンも

いつも

励ましてくれる。

 

パワーを

くれるんだ。

 

つづく

 

ずっと祈っている

 

子ども達が

公園で遊んでいる

風景を見ると、

 

いつの間にか

心の中で

ずっと祈っている

自分に気づく。

 

この子達が

スクスク育ち、

 

この子達の

感性が

素直に発揮できる

世の中に

なりますように。

 

今は残念ながら、

 

感性が豊かで

あればあるほど、

 

大きな傷を

心に受けてしまう

という、

 

そんな傾向のある

世の中だ。

 

鈍感な方が

楽に進める

世の中だ。

 

しかしやはり

私は

これではいけない

と思う。

 

豊かな心を

持つ人達が

 

さらに豊かな

世の中を

創り出していく。

 

そんな当たり前の

世の中に

なってほしい。

 

そのために

できることを

私は

私なりに

全力で行なっている。

 

一日一日

今日にしかできない

ことを

全力で行なっている。

 

今のこの日々を、

 

あと25年、

私は続けると

決めている。

 

あと25年で

どれだけのことが

できるかな?

 

おかげさまで

良い仲間も

増えた。

 

感性の豊かな

仲間達だ。

 

私の半分くらいしか

生きていない

若い人達もいる。

 

彼らと一緒に

いる時も、

 

気がつくと

私はいつも

祈っている。

 

ずっと

祈り続けているのだと

思う。

 

それだけで

私自身も

心が豊かになれるしね。

 

つづく

 

行っちまうか

 

進んでみなければ

わからない景色は

確かにある。

 

勢いだけで

進むことを私は

オススメしないが、

 

たまには

良いかも知れない。

 

今、ここは

あえて

勢いだけで

行っちまおうか。

 

・・・と。

 

それだけの自覚が

あれば、

それも良いかも。

 

ふと思った。

 

よくよく考えれば、

以前の私は

ずっとそうだった。

 

おかげで

随分と痛い目に

遭った。

 

痛い目に遭ったが、

私の場合は

痛い目に遭わないと

直らないものは

 

やはり確かに

あったのだ。

 

上手く進む

よりも、

 

ゴツゴツと

いろんなところに

ぶつかりながら

行くのも、いい。

 

本人に

その自覚と覚悟が

あれば。

 

道。

 

自分の道。

 

それは誰にも

ある。

 

しかも相当に

ハッキリクッキリ

している。

 

しかも

目の前に

まっすぐに

展開している。

 

にも関わらず、

私達の多くは

その自分の道に

気づかない。

 

目を瞑って

いるからだ。

 

目を開けば

すぐにわかるのに、

 

閉じているから

いつまで経っても

道は観えない。

 

そして、

痛い目に遭わないと

目を開けない人も

いる。

 

私がそうだった。

 

であれば、

それはそれでいい。

 

道。

 

しかし私は

自分の本当の道を

本当に知りたい、

という

意志だけはずっと

強く持ち続けた。

 

だから

痛い目に遭っても

耐えれたのだと

思う。

 

道を知りたい。

 

自分の道を

知りたい。

 

その渇望さえ

あれば、

 

今は

勢いだけで行っても

良いのではないか。

 

つづく

 

重荷チェック

 

自分の背後に

意識を

向けてみよう。

 

背中よりも

もうちょっとだけ

上の部分。

 

肩に近いところ。

 

もしくは、

肩甲骨に

近いところ。

 

そこから

ほんのわずかだけ

離れた空間。

 

そこに

何かいないか?

 

・・・こんな表現を

すると、

怖いかも知れないが、

 

そこに

何かが張り付いて

いないか?

 

もしくは

何か重いものが

乗っかってないか?

 

チェックを

してみよう。

 

もし

少し居心地の悪い

ものが

存在している気が

したら、

 

そこに意識を

向けてみよう。

 

それは

今のあなたの

歩みを

阻害しているもの

 

の可能性が

高い。

 

それは

自分自身の心

かも知れないし、

 

誰かからもらってしまった

エンティティ(濃いストレス)

かも知れない。

 

もし可能であれば、

それがわかるまで

意識を向けてみると

いい。

 

解釈するよりも

ただ

意識を向けること。

 

すると自然に

わかるだろう。

 

どうしても

わからなければ

それでもいい。

 

そして次に、

その重い部分、

違和感のある部分に

向かって、

 

慈しみ

の意識を向けよう。

 

「慈しもう」

とすればいい。

 

その状態を

キープしていると、

それは

徐々に浄化される。

 

決して、

その重いものと

戦ったり、

拒絶してはならない。

 

拒絶すれば

より強い反発が

返ってくるだけ。

 

慈しめばいい。

 

すると、

徐々にそれは

軽くなり、

最後にはスッキリする。

 

肩の荷が下りた

気がするなぁ。

 

思えれば

完了だ。

 

無意識レベルの

話だが、

このように私達は

 

私達自身の歩みを

阻害する何かを

持ち続けながら

進むケースが多い。

 

それはまるで

ブレーキを入れながら

自転車を漕いでいる

ようなものだ。

 

時々、

チェックをしてみると

いいね。

 

つづく

 

大事な出会い方

 

人と人が

出会うとき、

 

そこには

エネルギーの交差が

起こる。

 

そこで

バチっと火花が

飛び散り、

 

その火花が

双方の人生に

刺激を与える。

 

のみならず、

その火花は

周りにも伝播する。

 

特に

お互いを

求め合っていた

人同士の場合は、

 

その火花の

インパクトは大きい。

 

そしてやはり、

出会いにも

「予感」というものが

ある。

 

もうすぐ

大事な人と

出会えるな。

 

ずっと待ち望んで

いた人と

交差するな。

 

という予感。

 

それが今の私に

ある。

 

実在のレベルでは、

もうその人の

影は

観えているし、

 

その影を

わざと「影」に

自分がしているのも

わかっている。

 

本当はその人が

誰なのかは

よくわかっているの

だが、

 

それは

出会ってからの

お楽しみ。

 

未来がわからない

のが

この世界の楽しみ

なので、

 

それを今は

存分に

味わっている。

 

ここから

私が大事にすべきは

 

意図をまったく

持たないでいること。

 

出会いに

意図は持たせない。

 

ある時、まるで

偶然かのように

それは訪れる。

 

それまでは

忘れておこう。

 

これもまた

人生の醍醐味の

一つだな。

 

つづく

 

また意識が飛んだ

 

最近の私自身の

変化として

自覚しているのは、

 

無我夢中に

なるようになった

 

という

ことだろうか。

 

これまでも

もともと集中力は

かなり高い方だと

思う。

人によく言われた。

 

しかし

コーチングをしている

時とか、

人と向き合っている

時とかは、

 

集中しつつも、

どこか意識が

拡散し、

 

別のところから常に

自分自身を

客観視している

自分がいた。

 

それが私自身の

長所でもあると

思っていたのだが、

 

それが

なくなった。

 

コーチングに

無我夢中に

なるのだ。

 

だから

「時間」を忘れる。

 

コーチングの最中、

自分の

意識が飛ぶ。

 

気がついたら

終わっている。

 

という状態。

 

昔は

こんな感じだった

のかもしれない。

 

でも

昔と今とでは

似て非なるもの

のような気もする。

 

どちらにせよ、

今の私にとっては

 

これはとても

良いこと

 

だと

感じている。

 

プロとして

意識が飛ぶことは

良くないことだと

私はずっと

思ってきたが、

 

今は

まぁ良いかな、

 

自然に思える。

 

それでしか

できないことを

きっと

しているのだろう。

 

人との

向き合い方は

人それぞれだと思う。

 

ベストだと思える

向き合い方を

すれば良いと思うが、

 

「向き合い方

そのものを

進化させよう」

 

という

意志は持ち続けた

方がいい。

 

いろんな向き合い方に

挑戦すると

いい。

 

人と向き合う

とは、

 

自分自身の進化にも

直結するからね。

 

つづく