在るのだから

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自分自身の

エネルギーを、

 

あえて

スーッと

落としていくことを

私はよくする。

 

電球の明かりを

段々と

弱めるように。

 

心の中の

明かりが

ゆっくり閉じていく。

 

すると、

 

私の意志の

そのすぐ横に、

 

明かりが

落ちることで初めて

姿を見せる、

 

エネルギーの

それほど高くない

 

存在感の

ない

 

しかし

確かにそこに

ずっと存在は

し続けていた

 

気持ち達が

浮かび上がる。

 

明るく

エネルギーの満ちて

いる時には

決して

気づかない

自分自身の気持ち達。

 

私はそういうのを

とても大切に

している。

 

まぁ単純に

言えば、

例えば

 

不安とか、

 

小さな憤りとか、

 

ちょっとした

寂しさとか、

 

悲しみとか、

・・・。

 

人として

日常の中で

無数に生じる

気持ち達。

 

いわゆる

反応本音達。

 

私の

決めたら必ず

やる、

という

明るい意志の側で

 

いつも

私から見られずに

ひっそりと

存在している

彼ら。

 

私は彼らを

よくよく考えば、

いつも

探しているようだ。

 

彼らを

感じると、

私は

人間を感じる。

 

そして

ホッとする。

 

こういうのを

感じること自体が

もう

人間っぽくないのかも

しれないが。

 

心のエネルギーを

落とし、

私はよく

彼らの中に

あえて

埋没することもある。

 

例えば

不安な気持ちに

埋没し、

不安そのものと

なる。

 

それは通常で言えば

苦しいことに

違いないのだが、

 

でもそれを

じっと感じ続ける私は

確かに

一方でそこに

悦びを得ている。

 

せっかくエネルギーが

高いのに

こんなことをする

必要はないのでは、

とは

思わない。

 

そこに在る

ものを

丁寧に感じ取る

からこそ、

 

常に

エネルギー高く

いられるのだ。

 

在るものを

在るものとして

そのまま

感じる。

 

人間という存在の

自然の姿では

ないだろうか。

 

つづく

 

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