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あー、この人は
素晴らし過ぎるな。
お手上げだ。
・・・そう思う瞬間に
出会えるのが、
この仕事をさせていただく
最大の喜びの
一つかな。
素晴らし過ぎて
言葉にできない。
声も出せない。
心の中で
両手を挙げて
降参するしかない。
こういう時には
私はその人に
どう言葉をかければ
良いのか、
いまだに
わからない。
ただし、
そう思える瞬間は
何もその人が
もの凄い何かを達成した
とか、
驚嘆するような
行動を起こしたとか、
そういう時では
ない。
面白いことに。
それよりも
ほんの一瞬の
ほんの些細な
その人の振る舞い、
ちょっとした
表情、
ちょっとした
一言。
その多くは
淡々としたものであり、
あまりにその人にとっては
自然なことなので、
きっと当の本人は
私の感動など
まるで気づいていない
だろうし、
後になって記憶にも
上らない、
そんな「普通」の
瞬間ばかりだ。
でもそういった
「普通」の中にこそ、
人の本当の魅力
というのは
滲み出るのだ。
そして私は
それを感じると、
その場では
何気ないふりを
しているが、
後になって、
多くは、
夜になって、
その瞬間のことを
思い出し、
さめざめと
泣いたりする。
自分がなぜ
これほど泣けるかは
わからない。
心の感動とは
別物だ。
まぁやはり
魂の感動という
やつなのだろう。
そういった涙の
後は、
とても心は
澄み渡る。
まるで
気持ちのよい心のシャワー
を浴びたようだ。
そしてそれは
私に
根本的な活力を
与えてくれる。
人間には
そんな素晴らしさと
力があるのだと、
その度に
思うのだ。
いつもは
そうした涙が出たとしても
その後で
このブログを書くのだが、
今日は何となく、
泣きながら
書いてみました。
つづく
自分を縛る自分。
自分を開放しようと
する自分。
私達の中には
二つの自分が
せめぎ合っている。
どちらが良い悪い
ではない。
両方とも
大事な自分だ。
この二つの自分は
表面上は
せめぎ合っていても、
本当は
協力し合っている
のだ。
ある時は自分を
縛り、
ある時は自分を
開放し、
・・・を繰り返しながら
自分を徐々に
ステップアップさせていく。
その「縛り」と「開放」
がいかに調和するか?
ここがポイントであり、
真本音度合いが高まる
とは
この調和度合いが高まる
ことでもある。
本当に縛るべき時に
自分を縛り、
本当に開放すべき時に
自分を開放する。
それにより私達は
自分の望むスピードで
人生と
進化を
進めることができる。
だから、
縛る自分をなくそう
などと
してはならない。
すべての自分には
大切な役割がある。
その役割を
ちゃんと全うさせて
あげることこそが
自分自身への愛
である。
さて。
ではまた今回も
問いを一つ。
『これからの3ヶ月間だけ
限定で、
私は自分自身の何を
縛り続けようか?』
ちゃんと縛りつける
ことで、
ちゃんと開放できる
もんだ。
つづく
一つだったものが
二つに
断絶する。
二つに割れた
その存在は
「これは私ではない」
と
お互いをお互いから
引き剥がす。
それは一見すると
大きな悲しみや
憤りが
あるかもしれない。
しかし、
その引き剥がしが
どうしても必要な
時が、
人生には
あるのだ。
断絶の裂け目は
ある時、突然に
訪れる。
それを確認すると
私はいつも、
人生というのは
移り変わって
いくのだな、
人は
変化を求める
生き物なのだな、
と
強く思う。
同じところに
ずっといたい。
同じ場所で
安定していたい。
とは
誰もが思うことだが、
いや実は、
それは私達の真本音が
求めてはいない。
同じ場所で
ずっといることは
衰退を意味する
からだ。
それを私達の
本能は
よくわかっている。
だから
「裂け目」を
創る。
ずっと同じままで
いようとは
しない。
だから
「裂け目」とは
決して悪いものでは
ない。
人生を次に進める
ための兆しだ。
その兆しに
敏感になることは、
自分の望むスピードで
人生を進めるための
大事な指針となる。
「裂け目」とは
チャンスなのだ。
そして
断絶が始まったら、
時には
強引にでもそれを
進める
勇気と覚悟が
私達には必要だ。
断絶すると
決めたら、
断固として
断絶するのだ。
一つが二つに
分かれることは
悪いことではない。
もちろんそれを
一時的な反応本音や
我欲によって行なえば、
それは単なる
崩壊に過ぎなくなるが、
真本音の意思により
進む断絶は、
それこそが
「愛」だ。
「断絶の愛」を
実行できる人こそ、
結果的には
「すべてと一つ」に
なれるのだと
私はつくづく実感している。
裂け目に目を向け、
断絶と向き合い、
愛を実行する。
その手前にいる
人は
今、多いのではないか。
つづく
昨日に続いて
今回も難しい問いを
ご紹介しよう。
これも
私自身が常に
自分自身に投げ続けている
問いであり、
昨日の問いと
セットで投げ続けると
良い。
『私は、自分自身との
どんな約束を果たすために
この人生を生きている?』
私は今でもずっと
この問いと共に
生きているな。
つづく
自分自身に対して
あえて
とても難しい問いを
投げ続けることも
私はオススメする。
すぐには
答えられない問い。
たとえ答えが出ても、
さらに深く
さらに「本当の」
答えが
まだまだ眠っていそうな問い。
そういった問いは
同じ問いを
毎日のように
連続して投げ続ける
ことが大事だ。
今回は、
私が私自身にいつも
投げ続けている問いを
一つご紹介する。
下手をすると
24時間ずっと
投げ続けている日も
あるような気もする。
『もし私が完全に自由
であるならば、
私は一生をかけて
何を生み出し続けようか?』
こういった難しい問い
と、
死ぬほど真剣に
向き合い続けると、
セルフコーチング力は
高まるよ。
つづく
人と出会う時、
私は
稲妻のようなスパークが
走るのを
感じることがある。
運命的な出会い
だからかどうか、
は
わからない。
その瞬間は
スパークは走るのだが、
その人とはそれきり、
となったことも
ある。
あのスパークは
何だろう?
と疑問に思っていた。
今日、
ちょっとだけ
その意味がわかった。
今日もスパークが
走ったのだ。
私は今日、
その人と出会ったが、
ほとんどその人とは
言葉を交わしていない。
でも一瞬だけ
目が合い、
その瞬間に走ったのだ。
スパークの意味。
それをあえて
一言で言えば、
「水面に反射した太陽の光」
に近い。
反射した太陽の光が
目に届くと、
一瞬眩しくなるが、
あんな感じのようだ。
つまりその人は
「太陽の光を反射できる人」
ということ。
それはつまり
その人が
「コーチに向いている」
という合図のようだ。
と、
後になってわかった。
人の真本音の光を
そのまま受けて
反射できる人は
「真本音の鏡」
となれる。
その素養を持った人は
「コーチ」として
多くの人の開花を
サポートできるだろう。
ということは、
彼ともうちょっと
話をしてみたいな、
と
後になって
思ったよ。
つづく
最近、
重要な問いが
よく浮かぶ。
今回も一つ、
とても重要な問いを
ここに書いておこう。
『あなたは今、
何を待たなければ
ならないか?』
そう、
あなたは待たなければ
ならない。
焦って動いては
ならない。
「それ」が
来るまで。
ちゃんと準備が
整ってから、
あなたは発進しようと
している。
今、発進したら、
「それ」を
取りに戻らねば
ならなくなる。
それは大きな
時間の損失だ。
それならば
今は
ちゃんと待った
方がいい。
あなたは今、
何を待っている?
つづく
親の心
というのは、
実際に親になってみないと
わからないものだろうか?
そんなことはない、
と
私は思う。
なぜなら私達は
この世に
赤ん坊として生まれて来て、
一度は
抱っこをされた。
だから今、
ここで生きている。
抱っこをしてくれた
その人が
本当の親かどうかは
関係なく、
抱っこをされた
その瞬間に私達は
子どもとして生まれた
自分自身と、
抱っこをしてくれている
その人自身を、
区別のない存在
として
「一つ」として
感じ取っている。
その「一つ」の
感覚によって
私達は「親の心」を
知るのだ。
現実のレベルでは
血が繋がっているかどうか?
は
大きな問題となることが
多いが、
実在のレベルでは
実はそこは
それほど大きな問題
ではない。
子を抱っこすれば
誰もが本能的に
親の心となる。
それが顕在意識化
するかどうかは
別として、
本能として
そうなる。
そしてその
「親の心」を
抱っこされた側も
「一つ」として
感じ取る。
だから、
この世に存在する
すべての人は
「親」
であり
「子」
でもある。
そして私が
常に言い続けている
「人の本能の中心には
進化欲求がある」
ということを
もっとぶっちゃけた
表現で言い換えれば、
人の中心には
次の「祈り」がある。
『子が育ちますように』
親の経験が
あろうとなかろうと、
今、親だろうと
子どもだろうと、
高齢だろうと
中年だろうと
若者だろうと
幼子だろうと
まったく関係なく、
私達の中心には
生まれてこの方
常に
ずっと
恐らく永遠に
この祈りがある。
これが
すべての根本で
あると、
私は企業サポートの
現場において
ある時から確信するように
なった。
そして
その祈りをいかに
喚起するか?
もともと持ち合わせている
その人のその祈りを
いかに表出するか?
が
私のサポートの
根本だ。
しかしもちろん
そのような話を
企業のサポート現場で
することはなかったし、
恐らく
このブログも含めて
このような話をするのは
初めてではないかな。
多分。
人は
親だ。
そして、
人は
子だ。
これが真実だ。
ここに素直に
なることは
恐らく、
あらゆる調和と
進化につながる。
なんか無性に
これを伝えたくなった。
だから
書いてみた。
つづく
今、世界中で
何が起ころうとも、
地球は
静かだ。
静かにすべてを
見守っている。
私達は
自分達の手に負えない
ことに見舞われると、
その多くを
地球のせいにするが、
果たして
それで良いのだろうか。
もう少し私達は
私達自身に
責任を負った方が
良いと
私は思う。
生きるとは
本来、
そういうことではないか。
最近、
クライアントさん達の
エネルギーの開放が
凄まじい。
そういったことは
もちろん
ご本人よりも
側から観ている
第三者の方が
よくわかる。
これまで
閉ざされていた
エネルギーが
開放される。
その瞬間に
私はこれまでいったい
どれだけ
立ち会わせていただいた
だろうか。
その度に
いつも思う。
人のエネルギーは
人の手には
負えないな、と。
この人のこの
エネルギーは
この人の手には
負えないな、と。
いつもそう思うのだが、
しかしそれでも
手に負えるように
してしまう。
それもまた
人間の凄まじさ。
進化の凄まじさ
だ。
でも本当に
そうなるためには、
私達はもっと
謙虚であるべきだ。
私達は
私達自身のエネルギーに
謙虚であるべきだ。
責任を負うために
まず必要なのは
謙虚さであると
私は思う。
どうだこの
エネルギーは!
と
やっているうちには、
その人は
自身のエネルギーに
呑まれて終わる。
まさしく
身を滅ぼす
というやつだ。
無責任
極まりない。
せっかく
そんな素晴らしい
エネルギーを
いただいたのに。
自分一人で
手に入れたわけでは
あるまいに。
しかし
これは俺のものだ!
となった瞬間から
そこまでの道のりは
すべてオジャンになる。
残念ながら
そういう人は
多かった。
思えば、
この地球という大地に
存在させてもらっているのも
私達の
エネルギーの一つの現れだ。
感謝せよ、と
言うと
少々押し付けがましいが、
せめてもうちょっと
謙虚になれないものか、
我々は。
何が起ころうと
地球は静かだ。
それと同質なものを
私達は
すでに自分の内側にも
持ち合わせている。
それを私は
「真本音」と
呼んでいる。
真本音は常に
静かに自分自身を
見つめている。
見守っている。
そこにももっと
謙虚に
私達はあろう。
それが
生きるということ
ではないか。
つづく
真本音には
力がある。
それは太陽のような
存在だ。
どれだけ世界が
重い雲に閉ざされても、
その雲の向こうには
必ず青空があり、
そこには
太陽が浮かんでいる。
雲の向こうに
ほんのわずかでも
太陽の光が
透けて見えるだけで、
私達は
希望を得ることが
できる。
そして、
雲というのは
一時的なものに過ぎない
という真実を
思い出すことが
できる。
それが
真本音という存在だ。
しかし、
真本音が本当に
その力を発揮するのは、
「あれは太陽だ」
という認識のままでは
難しい。
つまり、
私は私で、
あれは太陽で、
・・・というように、
自分と太陽が
分離していては
それはあくまでも
「希望」のままで
終わってしまうのだ。
本当の意味で
雲を晴らし、
自らの道を創るには、
「私自身が
太陽であった」
と知ることだ。
つまりは、
「自分」と「真本音」
とは
別物であったり
分離しているものでは
ない。
自分は真本音であり、
真本音こそが
自分自身である。
という真理を
思い出さなければならない。
とは言え、
最初は残念ながら
多くの場合、
自分と太陽とは
分離している
ように見える。
自分の真本音なのに、
自分ではないように
見える。
最初はみんな
そうだ。
だからこそ、
まず私達がすべきは
真本音の通りに
「行動する」
ということだ。
太陽の意思に
素直に
動いてみる
ということだ。
それをしなければ
一生かかっても
自分と太陽は
分離したままだ。
それでは
人生の意味は
ない
のだ。
そこまであえて
言い切るくらいの
覚悟で、
自らの真本音の
意思を尊重して、
行動する
挑戦する
を
続けてほしいのだ。
自分の人生を
評価するのは、
その後でいい。
つづく
あぁもうすぐ
とても大事な
答えが出るな。
この仕事をしていると
その予兆が
ありありと
わかるようになる。
「答えの存在感」
というやつだ。
答えの中身は
わからない。
しかしその存在と
その濃さ、強烈さ、
などは
よくわかる。
もちろんそういった
答えは重要だし、
その答えの中身を
知ることは
その後の人生や
ビジネスを
根底から大きく揺さぶる
ことになるだろう。
そんな
「答えの存在感」
を
今、私はとても多くの
人達に感じる。
多くの人が
今後の人生を左右する
ような
そんな答えを
もうすぐ見出そうと
している。
ちゃんと
見出せるといいな、
と
願う。
できれば
最善のタイミングで
見出せればいいな
と。
答えを自覚する
ために必須なこと、
それは
間違いなく
「問い」
だ。
答えの前には
問い、
あり。
その問いに
自ら気づけなければ
答えには永遠に
たどり着けない。
だから
こんな時に本当に
思うのだ。
皆、
セルフコーチング力が
必要だ、と。
セルフコーチング力
とは、
自らに問う力
だ。
自問自答力だ。
これはやはり
人生を変える。
必要な答えが
必要な瞬間に
手に入るかどうか。
これが
人生を決定する。
これはもう
断言しても良いだろう。
あなたの中には
今、
どんな問いがある?
自分の中の問い
を
必死になって
見つけ出した方が
いい。
特に今は、ね。
今は
一日中、
自分自身に問う
と良い。
私の中の問いは何か?
私の中の問いは何か?
・・・と。
24時間、やり続ける
くらいがいいよ。
今はね。
つづく
バランス
というものは
とても大事なことだと
思うのだが、
しかし私は
意図的にバランスを
取ろうとはしない。
バランスを意図すると
結果的には
「表面的な安定」
しか得られないことを
いやというほど
体験してきたからだ。
私自身も。
私がサポートさせて
いただいた人や
組織も。
端的に言えば、
「表面的な安定」
とは
「バランス」の真逆だ
とさえ思ってしまう。
本来のバランス
とは
表面上は結構、
荒れていたりする。
例えば、
人の心で言えば
とても感情が豊かで
ちょっとしたことに
すぐに一喜一憂する
人がいるとして、
その人が
「一喜一憂はいや」
だからと言って
バランスを取ろうとする。
一喜一憂のデコボコを
もっとなだらかなものに
しようと努力する。
そしてそれがもし
上手く成されたとしたら、
私はそこに
不安定さを感じる。
それも強く。
逆に、
「一喜一憂する自分」を
もうそういうものだと
諦め、
そんな自分に
委ね、
あるがままに
一喜一憂すると、
その人は
根底から安定し、
その人にしかない
「アンバランスのバランス」
を実現する。
表面的には
アンバランスに見える
のだが、
しかしそれこそが
その人にとっての
バランスであり、
それによって
その人本来の魅力や
安定感が生まれ、
真本音の人生が
始まるのだ。
人の個性
という意味で言えば
以上のようなことを
よく感じるのだが、
組織の個性
ということでも
まったく同様であると
私は思うのだ。
表面上、
安定している組織は
はっきり言って
面白くも何ともない。
しかも
ほとんどの場合
脆弱だ。
自分達の範疇を
超える現実が来ると、
すぐにその安定は
崩れ去る。
本当にバランスの
取れた組織は
表面的には常に
「何か」が起こり、
いつも流動的で、
昨日と同じ場所に
いない。
そしてその原動力は
恐らく
「成長意欲」
だ。
私の言葉で言えば
「進化意欲」
だ。
進化する人や組織が
表面上、安定するなんて
それこそ
不自然なことだ。
だから、
不安定な状態を
恐れる必要は
まったくない。
次々に
「何か」が起こる
ことを
恐れる必要は
まったくない。
もう毎日、
大変だよ!
という状態こそが
実は
最善のバランス
なんだよな。
つづく
人の感情は
よく荒れる。
「いや、私は荒れない」
と言う人も
いるが、
いやいや、
それは
荒れていることに
気づいていないだけ。
・・・と
あえて断言してしまっても
いい。
台風が来たら
海が荒れるように、
何か出来事があれば
私達の心は
ちゃんと荒れるように
できている。
そう。
荒れることが
「健康」だ。
決して悪い
ことではない。
大切なのは
荒れているその心を
自覚していること。
ちゃんと
見つめていること
だ。
それができれば
私達は
自分を自分で
コントロールできる。
コントロールできない
のは
しっかり最後まで
見つめていないからだ。
私のクライアントは
社長さんが多い。
すると「経営」を
しなければならないので、
そりゃもう
荒れるに荒れる。
しかし
その「荒れ具合」を
見つめないままに
先に進もうとする人も
多い。
そうすると必ず
どこかで
すっ転ぶ。
見つめないから
すっ転ぶ。
だから社長さんほど
私は
セルフコーチングを
しっかりとやっていただく。
それにより
ほとんどの人が
荒れること自体は
なくならないが
荒れても大丈夫な
状態となる。
どれだけ荒れても
静かに粛々と
進むことができるように
なる。
その方が間違いなく
実績につながる。
何度もくどいようだが、
見つめないから
足を取られる。
見つめるから
コントロールできる。
この単純明快な
原理を
私達はもっと真摯に
受け止めよう。
人間として。
つづく
心が混乱している
時は大概、
心の中で
いろんな「糸」が
絡み合っている場合が
多い。
そんな時は、
「糸」を一本一本丁寧に
見つめると良い。
つまりは、
一つ一つの気持ちを
見つめるといい。
混乱の原因は、
一本の「糸」を見つめる
その途中で、
次の別の「糸」に
意識が移ってしまう
からだ。
意識は
次から次へと
様々な「糸」を渡り歩き、
そのうちに
わけがわからなくなる。
そうならないためには
ちょっと我慢しながら
一本を
しっかりと理解し切るまで
観察する。
あぁなるほど。
この「糸」は
こんな想いがあるの
だな。
こんな願いが
あるのだな。
こんなことを大切に
しているのだな。
こんなことを恐れて
いるのだな。
こんなことが不安
なんだな。
だからこの「糸」は
ここに存在しているのだな。
・・・と、
その存在理由までもが
しっかりわかれば、
「糸」は落ち着く。
落ち着いたら
次の「糸」の観察に
入る。
ちょっと面倒だが
結局は
これをしっかりやることが
最短の道だ。
そして
すべての「糸」を
見つめ終えたら、
たくさんの「糸」達が
もつれるのではなく、
並んで整然と
自分の前にあるのが
わかるだろう。
「糸」と「糸」の
区別がついている
状態だ。
それでOKだ。
あとは「糸」達を
どうこうしようなどとは
思う必要はない。
「糸」達は
そのままに。
その上で純粋に
自分自身に
問えばいい。
「本当は私は
何をしたいのだ?」
と。
すると、
「糸」達に捕われない
純粋な
真本音の答えが
浮上する。
浮上したら
その真本音の気持ちを
「糸」達に
伝えれば良い。
すると「糸」達は
勝手にあなたに
協力してくれる。
それが
「糸」達(=反応本音)と
真本音の
関係だ。
つづく
世界の中心に
自分が立っている
という
イメージをしよう。
世界の中心
ということは
宇宙の中心でもある。
そんな傲慢な・・・、
とは思わないで
ほしい。
大事なことなんだ。
すべての中心
に
自分が立っている。
そうイメージ
する。
もし、
上手くできない場合は
これに毎日
チャレンジしてほしい。
人間には「慣れ」という力が
あり、
これは結構
半端なく凄い。
ちゃんと継続すれば
だんだんとそれが
当たり前になってくる。
そしてある時に
世界の中心にいる自分
を
はっきり認識する。
宇宙の中心
すべての中心
にいる自分を
まるで真理を思い出す
かのように
認識できる。
そうなれた時に、
次のように
呟いてみてほしい。
「私はすべて
このままでいい。」
全身に
この言葉が沁み渡る
感覚がすれば
OKだ。
違和感があれば
違和感がなくなるまで
これも毎日、続けてほしい。
やはりいつか
慣れる時がくる。
すべての中心に
いる自分が、
自分に対して
すべてこのままでいい、
と
承認する。
これが完全に
成された時に
そこで初めて
発生する
気持ちがある。
その気持ちを
一言で表現すれば
「私はこのままでは
ダメだ。」
となる。
注意してほしいのは、
「私はすべてこのままでいい」
という言葉の
反動(反作用)として
「私はこのままではダメだ」
と浮かび上がる気持ちとは
それは
根本的に本質的に
別物である
ということだ。
「すべてこのままでいい」
を
完全に
受け入れた者のみが
その完全承認の
後に
手に入れることの
できる
これはプレゼントだ。
自分から自分への
プレゼントだ。
「私はこのままでは
ダメだ」
という言葉自体は
否定的だが、
これはプレゼントなので、
愛に満ちている。
この一言を
感じるだけで、
言いようのない
「満たされ感」に
包まれるのだ。
その状態で
最後にもう一つだけ
自分に問うてほしい。
「では、私は私を
変えるために、
今日から何を
テーマとしようか?」
この問いに対しては
何らかのキーワードが
浮かぶはずだ。
それはシンプルな
たった一つの言葉
かもしれない。
それが浮かんだら、
それをテーマに
日々を過ごそう。
それはあなたを
次のステージへと
導いてくれるはずだ。
つづく
丘の上に立って
街と海を
見降ろしている。
私の傍には
仲間達がいる。
今、初めて
この丘の上に立った
仲間も何人か。
初めての彼らは
皆、
茫然としている。
「こんなに
荒れていたんですね・・・。」
その現実を
受け止め切れない
ようだ。
しかし、
懸命に受け止めようと
している。
「そうなんだ。
びっくりした?」
「・・・・・。」
「どうする?
どうしたい?」
「・・・・・。」
「自分で決めれば
いいよ。」
「・・・・・。」
風は心地良い。
こんなに心地良いのに
随分と
荒れてしまったな。
「でもな、
これでも随分と
回復したんだよ。」
無言でいた
彼らが
やっとポツリと
呟く。
「・・・もっと早く
ここに立てば良かった。
私が不甲斐ない
ばかりに・・・。」
「まぁな・・・。
でも、今、ここに立てたぞ。
さぁ、立った以上は
決めるんだ。
どうする?」
「ここに立って
こうしてすべてを
見渡せた今、
これを見なかったことには
できません。
ここに立つ者としての
責任があります。
私は望んでここまで
来たのです。
時間はかかりましたが・・・。
ようやく辿り着いた
のです。
だからもちろん、
一緒に私もまいります。」
「もうわかってると
思うが、
大変だぞ。」
「はい。
わかっててここまで
来ましたから。」
「でも実際に見ると
怖気づくだろ。
正直なところ。」
「・・・はい。
ビビりました。
・・・でも、
行きます。」
「なんだかんだ言って、
強くなったな。」
私はもう一度、
海の方を見た。
「では、そろそろ
行こうと思うが、
その前に一つだけ
みんなに伝えておこうかな。」
私は次に
街を見た。
そして、
そこにいる
皆を見た。
「無茶をするな、
と言ってもみんなは
勝手に無茶をするんだろう。
自分の意思で
来たんだから、
これからも自分の意思で
やってもらえればいい。
だが・・・、」
「わかってますよ。」
と、
彼らが言葉を
引き継いだ。
「困ったときは
私を頼れ、でしょ。」
「ふっふっふ、違うな。
君らはもうちゃんと
私や仲間に頼ることも
できるじゃないか。
自分の命の意味を
わかっているじゃないか。
今さらそんなことは
言わんよ。」
皆、少しキョトンとした。
「私が言いたいのは
たった一つだ。
どうせやるなら、
もっと好きにやれ!
だ。
どうせ無茶するなら、
無茶を超えろ!
だ。
無茶のその先に
あるものを掴め!
だよ。
・・・あっ、3つも言っちゃった。」
皆がドッと笑った。
「君らはもう
無茶をするかしないか、
の次元にはいない。
その先にすでに
いる。
だからここまで来れた。
そんな自分を
祝福するといい。
そして、
自信を持って
行けばいい。」
彼らはニッコリ
笑い、
そして静かに
丘から去った。
私はしばらく一人で
風を楽しみ、
腰を上げた。
まだ私にも
すべきことがある。
もう一山も二山も
越えなければ
ならないが、
ゴールは見えてきた。
待ってろよ。
もうすぐ行くぞ、
と
呟くと、
風が静かに
微笑んだ。
つづく
一つ、
セルフコーチングを
やってみよう。
目を閉じて
深呼吸をして
まずは落ち着こう。
呼吸を静かにして
自分自身が
充分に鎮まったな、
と
思えたら、
目を閉じたまま、
自分自身が
巨大化していくイメージ
をしよう。
いや、できれば
今回は
「イメージ」というよりも
「感覚」のみで
それができると良い。
巨大化していく
感覚のみを
意識する。
ぐんぐん
巨大化する。
ビルよりも
日本よりも
地球よりも
もっともっと巨大化
していい。
宇宙の彼方まで
巨大化しても
いい。
できるところまで
行こう。
しかし、
必ずどこかで
「限界」
が来るはずだ。
もうこれ以上は
巨大化は
できないな、
と
思える限界だ。
何か
壁に当たったり、
殻のように
閉ざされた何かを
感じたり、
何かに
「これ以上はいくな」
と
押し込めらた感じに
なったり。
人によって様々だと
思うが、
その「限界」まで
行くことができたら、
その「限界状態」の
自分
最大に巨大化した
自分
を味わおう。
しばらくそのままで
いよう。
そして
その状態に少し
慣れてきたら、
自分自身に
次のように問いかけよう。
「この限界を
突破するには、
何が必要だろう?」
もし何か
指針を得られたら、
それをさっそく
実行に移してみよう。
つづく
顕在意識の個性が
そのまま
真本音の個性とは
限らない。
例えば、
真本音レベルの
その人のもともとの
個性が
非常に冒険的で
猪突猛進型だったと
すると、
あえてその人の
真本音は
顕在意識レベルでは
臆病なくらいに
慎重で柔和な自分を
常に
「選ぶ」という
傾向がある。
よくある話だ。
今、「選ぶ」と
書いたが、
本当にそうだ。
いろいろある自分の
個性の中から
今はどれを表出させるか?
を
真本音が選んでいる。
猪突猛進の真本音
と
臆病な顕在意識
による
バランスを取っているのだ。
これにより
「最善の一歩」を
踏み出し続ける。
あくまでこれは
一例に過ぎないが、
真本音と顕在意識が
「真逆」をいく
人は多い。
だから、
顕在意識レベルでの
個性を
その人のすべてだと
思うことは
非常に浅はかだ。
元来、
私達の心の中には
たくさんの種類の
反応本音がある。
たくさんの個性が
共存しているのが
「私」という人間だ。
言ってみれば
会社で言えば
それらはたくさんの個性の
社員さん達のようなもの。
真本音とは
「私」という人間の
創業者に当たる。
創業者である社長が
「この仕事は
誰に任せようかな」
とか
「このプロジェクトは
誰と誰に組ませようかな」
とか。
そういった
人員配置と活用の仕方を
決めている。
心とは
チームと同じだ。
組織と同じだ。
「チーム私」を
まとめ上げるのが
真本音だ。
だからこそ、
真本音度合いを
高めなければならない。
真本音度合いが低い
ということは
リーダー不在の状態と
同じだ。
反応本音の各人が
それぞれ勝手なことを
考えて、
お互いに足の引っ張り合い
すらしてしまう。
それを束ね、
一つの方向に導くのが
真本音という存在
であり、
そういった人が増える
ことで、
現実世界にもまた
良いリーダーが
増えていく。
真本音度合いの高い
心の状態を
各自が創り上げることで、
組織も社会も
真本音度合いが
高まっていく。
「私」というチームを
その人本人が
ちゃんと導いていく。
そのためのサポートが
今の世の中には
本当に必要だ。
つづく
生き様
というのは、
ほんのちょっとした
振る舞いに
現れる。
ちょっとした
空気感。
ちょっとした
一言。
ちょっとした
気遣い。
「あんなことを
言うつもりは
毛頭なかった。
たまたま要らぬ
一言が出てしまった」
という言い訳を
よく聴くのだが、
残念ながら
私は、
「たまたま」
というのはないな、
と
よく思うのだ。
やはり
その人の普段からの
生き様が
そこに現れる。
一見して「たまたま」と
思えるような
些細なことにこそ、
その本質が
現れたりする。
「以後、気をつけます」
という問題では
ないと
私は思うのだ。
もちろん
人間だから
間違いはあるよ。
完璧な人など
一人もいないし、
本当に
そんなつもりはなくても
人を傷つけてしまう
こともあるだろう。
何を言おう
この私こそ、
そんなこんなで
たくさんの人を傷つける
人生を送っていた。
私自身の
自覚のないところで。
だからこそ
本当にわかるのだ。
やっぱ
生き様だな、と。
間違ったことを
してしまった時に、
どれだけ反省
するか?
ではないか。
時には
同じ間違いを
繰り返してしまうのも
人間だが、
同じ間違いを
繰り返しても、
何度でも
何度でも
その度に
真剣に、
心と魂を込めて
反省する、
ということが
人して最も大事なこと
だと思うのだが。
その時は
落ち込めばいいし、
悲しめばいいし、
泣けばいい。
自分を責めたければ
自分を責めればいい。
でも
ちゃんと反省して、
その後悔を
誤魔化さないこと。
誤魔化して
次に行こうとするから、
それが
生き様になって
しまう。
「誤魔化す」
という理念で
生きている人が
ちょっと多いよなぁ・・・。
生き様は
変えられる。
本気で変えようと
思ったら、
今この瞬間から
変えられる。
人生は
やり直しがきく。
やり直しが
きかないところまで
誤魔化し続けたら
話は別だけど。
でも多くの場合は、
やり直しはきく。
だから
「今」に心と魂を
込めて、
ちゃんと後悔して
ちゃんと反省して
次に
つなげようぜ。
つづく
私のクライアントさん
とか
私の知り合いには
本当に素敵な人が
多く、
ある時ある瞬間に
あっ!
この人にあの人を
ご紹介し、
コラボをすると
メッチャ面白そうだな!
と
直観することが
ある。
しかしだ。
そのほとんどが
現時点ではまだ
できていない。
いざ、ご紹介しようと
思ったり、
コラボを持ちかけようと
思っても、
ストップが
かかってしまうからだ。
まだ今は
そのタイミングでは
ない、
と。
これは
ある企業様のサポートに
おいて
その企業内においても
よくある。
この社員とあの社員を
コラボさせると
絶対面白い!
と
わかっていても
それができないのだ。
今はまだ
そのタイミングでは
ない、
と。
「タイミング」
これは大事だ。
これがほんのわずかでも
ずれてしまうと、
同じ人同士のコラボ
でも
まったく異なる結果と
なる。
コラボには
「準備」が要る。
AさんとBさんの
コラボであれば、
お二人それぞれの
準備がいる。
その準備の多くは、
各々の「脱皮具合い」だ。
つまりは、
AさんはAさんで
「私はここまで自分が
脱皮したら
準備完了だ」
というのがあり、
BさんはBさんで
「私はここまで自分が
脱皮しないと
Aさんとはコラボしない」
と
決めている。
それはもちろん
顕在意識のレベルで
決めているのではなく、
潜在意識とか
もっと言えば
実在のレベルで
決めていることだ。
Aさん一人が
準備できてもダメ。
Bさん一人が
準備できてもダメ。
AさんBさん両方の
準備ができて、
かつ
お二人がそれぞれ
「今がベストタイミングだ!」
と感じて
そこで初めて
「コラボ」にOK
が出る。
しかもそのタイミングは
多くの場合
実に短い。
その短い一瞬のタイミングを
逃さずに、
「今だ!」
という時に
AさんとBさんに
私は声をかける。
それだけ注意を
していても、
それでもタイミングが
ずれてしまうことも
ある。
難しいんだよ。
コラボはね。
つづく
人には、
根本的な部分での
明るさ
暗さ
がある。
どれだけ表面上は
明るくても
根本的に暗い人は
いる。
どれだけ表面上は
大人しくても
根本的に明るい人も
いる。
パッと見える部分と
その奥の部分。
私は、
どのようなサポートを
させていただく場合でも、
その、
奥の部分の明るさ、
つまりは
根本的明るさを
その人が取り戻すところから
始めることにしている。
そう、
それは「取り戻す」
という言葉が
しっくりくる。
本来は皆、
根は明るいのだ。
でないと
この世には
生まれて来れない。
しかし、
生まれた瞬間の
環境からの影響や
親からの影響によって
一瞬にして暗くなってしまう
こともある。
しかしそれは
「明るさ」を
忘れてしまっているだけ。
電灯のスイッチが
落ちてしまっただけ。
スイッチは
入れれば良い。
もちろんなかなか
スイッチの入らない人も
いるけどね。
そして、
スイッチを入れる
最も自然で効果的な
方法が、
真本音で生きる
ということだ。
これなくして
私達人間が根本的な明るさを
取り戻すことは
まぁ、無理だろう。
私はいつも、
次の日にコーチング
させていただく
クライアントさんに
意識を向ける。
クライアントさんの
実在に
意識を向け、
実在のレベルで
コーチングをする。
それを
必ずするし、
それをしないコーチングは
もはやコーチングとは
言えないと、
私は思っている。
実在レベルでの
コーチングでは
そのクライアントさんの
明るさ、暗さ
をモロに感じ取ることが
できる。
もちろん
コーチングを進めるごとに
明るさは増していく
のであるが、
最近は、
階段を2段跳び3段跳び
するくらいの勢いで
ぐんぐん明るくなる人が
増えている。
クライアントさんの
笑顔が、
とてつもなく明るい
まるで赤ちゃんのような
純粋な笑顔が、
目の前に
視界いっぱいに
広がる。
その笑顔に
包まれると、
こちらもホッコリする。
そうしながら
明日のコーチングの
指針を立てる。
私の至福の時間の
一つである。
つづく
これだけまっすぐの
道が
目の前にありありと
続いているのに、
遮るものは
何一つとしてないのに、
天気が思わしくなく、
重い雲が立ち込めている
だけで、
この道は
本当に私の道だろうか?
という
疑念が心を
占めてしまう。
まぁそれが
人間かな、
とも思うよ。
でも、
天気が良いとか
悪いとか、
そんなこと
関係ある?
天気が良かろうが、
悪かろうが、
目の前の道は
何も
変わらないじゃん。
道が
曲がるわけでも
なし。
道が
消えるわけでも
なし。
ただずっと
まっすぐに
そのまま続いている。
強い風が吹いたり
強い雨が降れば
ともかく、
ただ曇っている
だけだ。
むしろ
暑過ぎず寒過ぎず
程よい気温だ。
太陽が見えない
という
それだけの理由で
疑念を持つのは
疲れるだけじゃないか。
大概だね、
疑念が生まれる
ということは
暇な証拠だ。
ゆとりが
あり過ぎるんだよ。
もっと一途に
進んだら
どうだ。
自分が望む
スピードを
自ら出さないことで
ストレスって
生まれるもんだよ。
ゆとりが
ストレスを
生むんだよ。
遮る何かが
あるのなら、
私もサポートが
できるのだが、
あなたの目の前には
何もないじゃん。
あなた自身が
進もうと決めて
進むだけだろ。
障害は
もう、ない。
あなたはそれを
よくわかっている。
準備も
できている。
だからもう
困った顔はすんな。
曇っていても
晴れやかな顔で
全力で
進みなさい。
とっくに
それができる
あなたになってるの
だから。
つづく
ジーッと
客観的に自分を
見つめ続ける
一日が
あってもいい。
いつもの自分の
目線とは
まったく異なる目線を
一日中
持ってみるのだ。
例えば、
頭上10mくらい上から
自分を
見降ろし続けてみる
とか。
面白いのは
背後、3mくらいから
自分を観察し続ける
とか。
これなんかは私は
しょっちゅうやっている。
すると、私の場合、
自分がどんな瞬間に
どの人から
どのようなストレスを
受け取り、
そして
自分の心と
その人の心(エンティティ)が
どのように混濁し、
それがどのように
分離し、
どのように影響し合うのか、
とか
自分がそれらのうちの
余分なストレス達を
どのように浄化し
その浄化の過程で
どのような気づきを
得ているのか、
とか
まるで他人を
観察しているかのように
手に取るように
わかったりする。
そしてそれ自体が
また
次の気づきとなり、
私の場合は
それが人や組織のサポートの
新たなノウハウ開発に
直結したりする。
私のコーチング技術の
ほとんどは、
教わったものではなく
現場で気づいたものだ。
「気づいた」と言っても
もちろん私一人の
力ではなく、
現場で向き合う多くの
皆さんとの協業だ。
共に発見し
共に実践する
中で
確立したノウハウ達。
しかしそれを生み出せる
のは、
上記の客観性による。
いかに客観的に
「自分から離れて」
自分を観察できるか
によるのだ。
と同時に
客観性だけでも
ダメだ。
そこに
主観性も加味され、
客観と主観
のコラボによって
新たなノウハウは
開発される。
これができれば
新たなノウハウというのは
ほぼ毎日
開発される。
逆に言えば、
ノウハウというのは
その程度のものだ。
世の中には
ノウハウ本が山ほど
あるが、
本になっている時点で
それはもう古い、
と
私はいつも思っている。
ノウハウは日々
進化し続けるし、
逆に
進化しないノウハウ
であれば、
それは必要ない
ということだ。
机上の空論
ということだ。
実は、
以上のことはこれまで
私はあんまり
人に語ったことはなかった。
そうは言っても
「ノウハウの基礎」
は大事だし、
すべての「ノウハウの根底」
に流れる本質は
あるから、
それを学ぶこともまた
本当に大事だから。
しかし最近は
次のように考えるように
なった。
ノウハウそのものを
教えることも大事だが、
ノウハウを
その人自らが
現場の中で生み出せる力を
養うことこそが
大事だ、と。
これをやらねば
私は私の意思を
後継できないな、と
気づいたのだ。
後継者育成。
今の私の
最重要課題の一つだ。
つづく
若い人達の
その
あまりの「可能性」の
大きさに
向き合い続けていると、
全身が
痺れてくる。
彼らはまだ
自分自身のことを
何もわかっちゃいない。
しかしその
「何もわからない」
という事実の
なんと
魅惑的なことか。
まるで
これからビッグバンが
起こるかのような、
創世の直前の
ような、
独特の空気感が
私の全身を
洗い続けた。
彼らの凄いところは、
自分が私に
何を頼るべきか、
そして
何を頼ってはならないか、
をちゃんと
見極めているところだ。
これが今の時代の
若さの一つの
現れなのだろうか。
若い頃の私との
あまりの「出来」の
違いに、
素直に驚いてしまう。
恐らくこういった
若者達は
これから続々と
現れてくるのだろう。
今の時代に
今の社会に
新たな道を拓いて
行くのは
彼ら自身の為すこと
であるが、
彼らがちゃんと
今後の社会の要と
なれるように
私はやはり
最大のサポートを
したい。
それをせずして
他に何をする、
くらいに思ってしまう。
命とは
永遠だな。
と
つくづく思う。
私個人としての
人生は有限であるが、
私の意思は、
(もちろん私だけでなく
すべての人の意思は)
ちゃんと
すべきことをすれば
ちゃんと
次の世代に
受け継がれていく。
それこそが
命というものでは
ないだろうか、と
心洗われながらも
思ったよ。
つづく
私達は
眠っているときに
様々な発想を
している。
時々、それが
夢という形で
顕在化することもあるが、
それはすべての発想の
ほんの一部でしか
ない。
起きている時間に
発想しきれないことを
眠っている間に
一気に成し遂げている
という言い方もできる。
そういうことで言えば、
睡眠はとても
大事だ。
眠っている間に
していることを
もう少し具体的に言えば、
一つの発想を
それを基点として
様々に広げたり、
深めたり、
発想と発想を
掛け合わせたり、
紡いだり。
一つの発想を
そのままにしておく
ことはほとんどしない。
一つの発想は
次の新たな発想を
何十個も何百個も
生み出す。
それをやり続けて
いるのだ。
そして
生み出された発想は
しばらく
熟成させる。
すべての発想は
宝物。
しかしその宝物は
それを活用する
タイミング
が最も大事だ。
そのために
熟成をさせる。
そして、
起きている時間の
いざ、という瞬間に
一気にそれは
浮上する。
奥の方で熟成され
眠っていた発想が
ここぞとばかりに
顕在化する。
これを
「気づき」
と言う。
「直観」
とも言う。
そう考えると、
睡眠こそが
セルフコーチングの時間
とも
言える。
そして、
良い睡眠が取れるか
どうかは、
その多くは
その人のストレスの
状態で決まる。
単純に言って、
ストレスの多い人は
ちゃんと眠れない。
質の良い
睡眠は取れない。
睡眠は
量も大事だが
質も大事だ。
私は
睡眠時間がとても
短いときが多いのだが、
それでも
睡眠の質が良いので
ちゃんとセルフコーチング
できているし、
必要なときに
必要な発想が
ちゃんと出てきてくれる。
なぜなら
起きている時間、
自分の真本音に
素直に生きているからだ。
現実世界においては
様々なストレスが
あるが、
最大のストレスは
自分の望む生き方を
自分がしていない、
ことによる。
つまりは
自らの真本音を
大事にしない生き方を
することで
強いストレスが24時間
湧き続ける。
起きている時間の
生き方を
大事にすれば、
結果として
良い睡眠が取れ、
結果として
良いセルフコーチングが
でき、
結果として
起きているときに
良い気づきや直観が
生まれる。
もっと単純に言えば、
生き方が
睡眠の質を決め、
睡眠の質が
生き方に影響を
与える。
まずはこの
単純なサイクルを
意識しては
どうだろうか。
つづく
空っぽ・・・。
心の中がもし
空っぽに
なったのなら、
それは
大いなる
チャンスだ。
これまで
大事にしていたもの、
例えば、
信念とか
夢とか
宝物とか
これだけは
自分には
なくてはならない
・・・と思っていたもの達。
それらが
「どうでもよくなった」
とか
「あってもなくても
どちらでもいいかな」
とか
「ひょっとすると
ない方がよいかも」
とか、
もしそう思ったなら、
いっそのこと
すべて手放し、
自分の中を
空っぽ
に
してしまおう。
その潔さが
自分自身を
次のステージに
連れていってくれる。
空っぽ
とは
何もなくなった
ということではない。
むしろ
真逆だ。
しかしここを
頭で考え理解する
必要はない。
空っぽを
楽しめばいい。
それは、
人生の進化を
楽しむのと
同義なんだ。
つづく
自分自身の中に
確かに、
流れ続ける河
の存在を
感じるだろうか?
その流れは
決して
止まらない。
人生で
何が起きても
何が手に入っても
何を失っても
その流れは
決して
止まらない。
流れ続けるという
こと
そのものが
「命」の証だ。
自分の存在の
証だ。
そう。
私達人間は
流れ続けている。
どこまでも
流れ続けるのが
私達の宿命だ。
どうせ
流れるのであれば、
自らの意志を
そこに込めるといい。
宿命なんて
受け入れない。
と、拒絶を続ける
よりも、
宿命をそれごと
丸ごと
自らの意志として
受け入れる
どころか
「活用」しようと
する。
それが人間の
本来の逞しさ
なのだろう。
流れよ。
どこまでも。
この流れに
委ね、
私はどこまでも
行ってやる。
そう、
本心から決めた
とき、
初めて、
その流れは
「私」となる。
「私」そのもの
となる。
そうなって初めて、
宿命そのものが
実は最初から
自らの掌の上に
あったのだ、
という真実を
私達は
思い出すことができる。
どうせなら、
そんな生き方を
したいものだ。
つづく
今回もまた
大事な問いを
一つ。
自分の「中心」
だと
思うところへ
投げてみてほしい。
そして
頭で考えるのではなく、
自分の「中心」から
自然に浮かび上がる
答えを
待つといい。
『私がちゃんと
人生のゴールにたどり着くために
今日から毎日、欠かさずに
やり続けることは何だろう?』
答えが浮かんだら、
素直にそれを
することだ。
毎日ね。
土日も含めて
欠かさず、だよ。
つづく
人と向き合うお仕事を
ずっとずっと
続けてきているので、
私は本当に
多くの「潜在意識」とも
向き合い、
感じ続けてきた。
だから
いつの頃からか
当たり前のように
わかるように
なった。
「生まれる瞬間の覚悟」
というやつを。
私達全員
だ。
私達は
すべての人が
もの凄い覚悟と
決意を持って
この世に
生まれてきたのだ。
それを
くぐり抜けて
今、ここにいるのだ。
その「覚悟」を
思い出すだけだ。
その「覚悟」こそが
私達の
原点だ。
そこに
戻るだけだ。
その感覚を
取り戻すだけ
なのだ。
それで
人生への道は
開かれる。
いや、
自ら拓いてゆく。
ここにこうして
存在している
ということの意味。
意義。
価値。
それは
誰よりも
私達自身が一番、
よくわかって
いるんだ。
つづく
人のエネルギー
というものは、
むやみやたらと
高めれば良い
というものではない。
どれだけ高めても、
それを
その人自らが
コントロールできなければ
意味がない。
意味がないどころか、
自分自身のエネルギーに
自分が呑まれてしまい、
せっかく
エネルギーが高まったのに
自分を失う
ということが実に
多いのだ。
だから
自然な人の成長とは、
ある一定の
エネルギーをコントロール
するだけの準備が
整い、
それだけの器が
出来上がった上で
自らにOKを出し、
その上でようやく
その人自らが
自身の奥から、潜在していた
エネルギーを浮上させる。
そしてまたそのエネルギーを
完全に使いこなすことが
できて初めて、
準備が整った、ということで
次のステージに
進む。
という一歩一歩の
段階を
とても大切にしているのだ。
それをよくわかった上で
人のサポート
をしなければならない。
そして
それができるためには
自分自身が
その「経験」を
踏まなければならない。
・・・・・・
以上のことを
感性のレベルで
本質理解できる若者が
増えている。
そして
そういった若者ほど、
人のサポートをしたい
と
本気で語る。
そしてそのための
修行をしようとする。
若者が若者を
サポートする。
という時代が
始まっている。
私はそれを
希望
だと感じるのだ。
若者が若者を
サポートできるよう、
私は
それをサポートしよう。
つづく