不憫

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同情されることを

望む人は

あまりいないだろう。

 

かわいそうだ。

自分自身が言われる

ことを

望む人は

あまりいないだろう。

 

昔、私は

いろんな人に

同情ばかりしていた。

 

かわいそうだ、

その人のことを

思いながら、

 

自分にできることは

何だろう?

と、考え

結構、実行に移していた。

 

今、時々

その時代のことが

フラッシュバックする。

 

その度に

赤面する。

 

自分はなんと

傲慢であった

だろう、と。

 

そして、

なんと独りよがりで、

しかも

押し付けがましかった

だろう、と。

 

同情された人は

迷惑この上

なかっただろう。

 

なのに私は

まるで正義の味方

気取りだ。

 

今、その時代の

私が目の前にいたら、

頭を

叩いてやりたい。

 

ふざけるな、

と。

 

こんな感じで

またもや最近は、

過去の私が

フラッシュバックする。

 

昨晩などは

いくつかの過去の場面に

戻った夢まで観た。

 

そこには大抵、

今見れば大変に

恥ずかしい私が

いた。

 

自意識過剰。

 

それを

絵に描いたような

私。

 

まぁ確かに、

いろいろ痛い目に

遭わないと

修正できない性格

だったなぁと

思う。

 

しかし

じゃあ今の私の

性格が素晴らしいか?

と言うと、

これまた極めて

自信がない。

 

性格というのは

心の癖だ。

 

心の動かし方と

行動の現し方の

癖。

 

癖はなかなか

治らん。

 

真本音度合いが

高まるというのは、

癖が治る

ということとは

イコールではない。

 

癖が治る

というよりも、

選択肢が広がる

わけだ。

 

たった一つの

癖による

たった一つの

選択肢からは

自由になる。

 

そして、

癖がどうこう

ではなく、

自分の本当に望む

一歩一歩を

進むようになる。

 

それができたから

と言って

癖がなくなるわけでは

ない。

 

むしろ

多くの場合、

これまでの癖を

真本音は活用する

ことも多い。

 

すぐに同情する、

という

私の癖。

 

人を不憫に思う、

私の癖。

 

今の私の真本音は

それを上手く

使っているように

思う。

 

そういった意味で、

私はこれまで

自分の癖治しを

したわけではない。

 

つまり、

性格は

変えなくても良い。

 

それでも

真本音度合いは

高まり、

 

結果として

その性格から

自由になれるんだ。

 

つづく

 

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