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私達の苦しみの
9割は、
自分自身の妄想が
創り出したものだ。
本当は
そんなものはない。
ところが、
残りの1割くらいは
本当の苦しみが
ある。
その苦しみとは
向き合わねば
ならない。
妄想の苦しみは、
ちゃんと向き合えば、
その瞬間に
消えていく。
しかし
本当の苦しみは、
向き合っても
なかなか消えない。
どころか、
余計に苦しくなる。
なぜならそれは
自分自身への
メッセージや
合図でもあるからだ。
「現実を変えよ」
とか
「生き方を変えよ」
とか。
何かとても大事な
ものを
変えなければ、
その苦しみは
終わらない。
しかしもし
そのメッセージを
ちゃんと受け取り、
変えるべきものを
変えることが
できれば、
その先に
あるのは、
新たな自分
であり
新たな世界
だ。
私自身も何度となく
そういった体験を
させていただいたが、
今、
私の仲間たちが
次々に
苦しみを超え、
次の自分として
次のステージに
進み始めている。
妄想も含め、
ちゃんと自分自身と
向き合い続けた
成果だ。
やはり
自分と向き合わずして
人生を進めることは
できないのだな、と
改めて
痛感する日々。
つづく
魂を込める
というのは
静かな行為だ。
全身全霊を
込めるというのは
静かな行為だ。
肩の力は
抜けている。
「込める」という
割には、
エネルギーは
下から上へと、
まるで
地球の中心から
宇宙の彼方へと
突き上げる
ようだ。
そのエネルギーの
流れに
自分の身を
預けると、
やはり
さらに静かに
なっていく。
心が整って
いく。
目の前の
あらゆる景色が
ただ、あるがままに
くっきりと観え、
それらに
一切何も
評価、判断を加えず、
ただすべてが
一つの存在である
と
愛と共に
認識できる。
自然に頬が
緩む。
全身の力も
抜けてしまう。
しかし
細胞の一つ一つは
明らかに
とてつもないパワーを
湛え、
ほんのわずか
例えば、
指先をちょっと触れる
だけで、
そこから
エネルギーが無限に
波及していくのが
よくわかる。
その状態で
一つの振る舞い
を行なう。
たった一つだ。
そのたった一つの
振る舞いの後に、
さらに次の
たった一つの
振る舞いを行なう。
そしてさらに
その次にまた
たった一つの
振る舞いを行なう。
一つ一つ・・・。
それがずっと
続く。
一つの振る舞いは
無限の波及を
生み出し、
次の一つの振る舞いも
また
無限の波及を
生み出す。
実在のレベル
で言えば、
それが
魂を込める
ということだ。
魂を込めて
毎日を生きるのと
魂を込めずして
毎日を生きるのと
では、
そりゃ
人生の展開は
変わるわな。
つづく
本当に大事なもの
は何か?
を明確にできている
人は、
一見、大事だな
とは思うけど
よくよく考えると
どっちでも良いもの
も明確にわかるように
なる。
本当に大事なもの
と
実はどっちでも良いもの。
似て非なるもの。
この区別がつく
だけで
人生は劇的に変わる。
多くの人は
どっちでも良いもの
に執着しすぎている。
どっちでも良い
と思っているのに
それにこだわるから
とても疲れる。
しかも
その執着をすることで
本当に大事なものを
ポロッと手放してしまう
こともある。
手放すのは
そっちじゃないのに。
今、執着している
それこそを
手放せばいいのに。
側から見れば
そういうのはよく
わかるのだが、
本人には
わからないのだ。
まぁそれが
人間だ。
もし、
神様が目の前に
現れて、
「何でも3つの願いを
叶えてあげよう」
と言われたら、
何をお願いする?
ちょっと
考えてみよう。
ここで発想される
3つの願いは、
その人にとって
本当に大事にしていること
・・・のような気が
するでしょ。
でも実は
そうとも限らないんだな。
本当に大事にしたい
もの(こと)は、
結構、私達は
安直に手に入れよう
とはしないんだ。
だから
自力で手に入れようと
する。
それをするのが
自分の人生だと
わかっている。
だから、
その3つの願いの答えは、
案外、
どっちでも良いこと
のケースが多い。
まぁ、人によりけり
だけどね。
本当に大事なもの
と
実はどっちでも良いもの。
ちょっと真剣に
考えてみよう。
もっともっと
自分自身のことを
自分が理解して
あげないとね。
つづく
雨が降ろうが、
槍が降ろうが、
私達は
自分の決めた
一本道を
進もうと
決めている。
その覚悟は
最初から備わっている
のに、
その覚悟そのものを
忘れてしまう。
目の前に
一本道が観えている
のに、
わざわざ目を瞑り、
「見えない、見えない」
と言う。
目を瞑り、
自分の中で空想を
生み出し、
イメージで道を
描き、
現実ではない
イメージの道を
目を瞑ったまま
進もうとする。
目が開いていない
ので、
当然だが
すっ転ぶ。
そして
「痛い痛い!」
と泣く。
なんでそんな
面倒なことをしながら
苦しむのか?
と思うのだが、
みんなそれを
やっている。
もちろん私も
ずっとやっていた。
私達は
目の開き方を
忘れてしまった。
実在の道が
そこにあるのに、
妄想の道ばかりに
行くことに
慣れてしまった。
そして
いかにしたら
妄想の道を上手く
進めるか?
を開発し、
それを「成功哲学」とか
「なんとか成功法」とか
呼んで重宝している。
いやいや、
それは妄想の道だ。
妄想の道を
どれだけ上手く
進んでも、
私達に真の幸せは
訪れない。
何がどう上手く
いっても、
私達は常に何かが
枯渇し、
疲弊し、
喉の渇きがなくならない。
上手く道は
進めているのに、
なんでこんなに
幸せ感がないのか?
というところで
上手くいけばいくほど
悩むことに
なる。
そうかきっと
道が間違っていのだ!
と
一つの結論を
出し、
さらに次の新たな
妄想の道を
創り出す。
妄想の連続。
妄想の人生。
・・・もうそろそろ
そこから脱け出さないとね。
それはそれで
人生の一つの醍醐味
かもしれないが、
そろそろもう
時間がない。
妄想はやめて
目を開かないとね。
目を開けば、
実在の道がある。
それは
まっすぐ一直線に
伸びている。
完全に
決めてしまっている
道。
その道に入ると
初めて私達は
自由
を感じるんだ。
妄想から
実在へ。
妄想の時代から
実在の時代へ。
今はその
転換点だ。
つづく
やろうやろう、
と
思いながらも、
ずっとやれていない
ことって
あるかな?
もしあるのなら、
やれていない自分
を責めるよりも、
なぜ
やれていないのだろう?
と
じっくり自分自身を
見つめてみないか。
やれていない理由
は必ずある。
理由があるから
やれていない。
「面倒だから」
というのは
理由の一番にくる
かもしれない。
でも本当に
そうだろうか?
もっと他の
理由はないだろうか?
・・・・・・
真本音の視点
から言えば、
実は結構よくある
のは、
「まだタイミングでは
ないから」
という理由だ。
つまりは
「最善のタイミングを
待っている」
わけだ。
私達の真本音は
・いつ始めるか?
・どう継続するか?
を
とても大事にしている。
同じ物事でも
「始めるタイミング」
が
ほんのわずかでも
ずれると、
不調和が起こる
からだ。
どうせ始めるなら
ベストタイミングで
始め、
自分自身にも
周りにも
より良い影響を
与えて行きたいという
想いがあるわけだ。
だから
タイミングが来るまで
「じっと待つ」
ことをする。
そして
いざ、タイミングが来たら、
一気呵成!
だ。
そのメリハリを
真本音は大事に
している。
そしてそのように
始め、
継続ができると、
次には
・いつ飛び出すか?
を
大事にしている。
つまりこれは
今の段階を終え、
次のステージに
いつ飛び出すか?
ということであり
要するに、
枠を超えたり
脱皮したり
そういった
「継続の先にある
新たなスタート地点」
を
探るということを
する。
「進化」だね。
で、やっぱり
そういったあらゆる
展開が
ちゃんとスムーズに
進むためにも、
一番最初の
「いつ始めるか?」
が
とてつもなく大事だと
いうことだ。
・・・・・・
やろうやろうと
思いながらも
ずっとやれていないこと
が
もしあれば、
ひょっとすると
自分の真本音が
自分の行動を
あえて
止めているのではないか?
という視点から
一度、
チェックしてみよう。
もちろん、
ただのぐうたら
なら、
すぐに始めた方が
いいけどね。
つづく
もし迷ったならば、
どうしても
答えが出ないならば、
「世界」に意識を
向けてみよう。
「世界」とは
外部、ということだ。
つまりは
自分の内側に籠る
のではなく、
意識を外へ外へ
向ける。
今自分がいる
「ここ」。
「ここ」という世界。
その全体に
意識を向け続けよう。
そして
「世界」を
全身で思う存分に
感じとろう。
その状態で
一日を過ごして
みるといい。
日常を
過ごしてみるといい。
これをすることで
私達は
「我」
という範疇を超える。
いつの間にか
「我」を超え
「世界」そのものに
なる。
それが当たり前
の状態になって
初めて
自分の中から
浮上する「答え」が
ある。
その「答え」は
自分の内側に籠り
迷い続けて出す答えとは
次元が違う。
なぜ
答えが出ないか?
なぜ
迷い続けるか?
それは、
今のその次元とは
違う次元の答えを
自らが出そうと
しているからだ。
一つ上の次元の
答えを見つけようと
しているからだ。
それをするためには
「我」を脱ぎ捨てる。
「我」を超える。
それをするためには
「世界」に意識を
向け、
「世界」そのものに
なるしかない。
我は世界。
世界は我。
もうそんな時代
なんだな。
つづく
私達の真本音は、
(誰の真本音も)
そんなに
無茶はしない。
日常において
自分のやれることを
最善のタイミングで
一つ一つ
着実に
やろうとする。
自分の真本音に
素直に生きるとは
基本的には
そういうことだ。
しかしその着実な
一つ一つを
きちんと続けていくと、
それは
自分自身の
最短の進化に繋がり、
かつ
気がついたら
「結構、進んだなぁ」
となり、
周りの人達から見れば、
「なんであの人
あんな凄いことできるの?」
となる。
しかし本人は
着実に一つ一つ
進んでいるだけだ。
だから
真本音で生きる
とは、
本人からしてみれば
最も安心であり
安定であり
地に足のついた
進み方だ。
ところが・・・。
時々であるが、
(最近増えているが)
「おいおい
そんな無茶をするのかよ!」
と
ツッコミたくなるような
判断を
真本音がすることがある。
そんな人が
増えている。
そんな場合はさすがに
本人も
躊躇する。
そんな時は
こう考えるといい。
自分の真本音は
一つの選択肢を
あえて極端な表現で
自分に示している、
と。
そして
本当にそんな無茶な
ことをするのか?
それとも
着実に進むのか?
・・・は
自分(顕在意識)で
決めればいい、
と。
人生に答えはない。
正しいかどうか、
という視点を
持ち過ぎると、
途端に進めなく
なる。
最終的には
自分(顕在意識)で
すべて決めればいい。
自分の人生は
自分(顕在意識)で
ハンドルを
握るんだ。
人生の
最終意思決定者は、
顕在意識の自分
だ。
つづく
現実に
揺らされる心が
ある。
揺らしておけば
いい。
揺れるものを
揺れないように
努力するほど、
疲れることは
ない。
揺れるなら
揺らす。
揺れたいように
揺らす。
それが自由
というやつだ。
ただ、
その揺れるのを
ちゃんと
観察しよう。
目を瞑って
揺らされるのでもなく、
目を背けて
揺らされるのでもなく。
しっかり
目を開いていよう。
心の外にあるものが
現実ならば、
心の内側で
起きていることも
現実だ。
両方の現実に
しっかりと
眼差しを向ける。
それさえ
やり続ければ、
揺れる心は
そのままに
観察者としての
自分は
決して揺るがない。
すべてを観察する
という
覚悟。
これさえ失わなければ、
私達はちゃんと
地に足をつけたまま
でいられる。
そして、
観察をし続けることで
自然に
浮かび上がる意志(意思)
がある。
その意志(意思)には
淀みがない。
それが
真本音だ。
私はいつも
真本音が浮かび上がる
まで、
じっと待つ。
それまでは
動かない。
ただ、
観察をするだけで。
私は
待つ人だな
と思う。
しかし、
いざ真本音が浮上すれば、
私は
ロケットのように
一直線に進む。
そのメリハリが
人生の醍醐味の一つ
だと
思っている。
つづく
魂を込める、
とは
どういうことだろうか?
私達の魂は
自分自身の「生き方」に
こだわっている。
「何をするか?」
よりも
「どう生きるか?」
を
大切にしている。
昔からよく言われる
ことだが、
「雑用仕事もできない人は
大きな仕事もできない」
と。
これは私も本当に
そうだな、と思う。
何をするか?
ではない。
どんな「何」に対しても
そこに自分の生き方を
込めることができるか?
それができた時
私達の魂は
悦ぶ。
すると
内側からエネルギーが
湧いてくる。
内発的エネルギー。
これは
「生き方」が生み出すものだ。
私は
魂の意志のことを
『真本音』
と呼んでいるが、
真本音で望む生き方
がある。
私がさせていただく
あらゆるサポートの
第一歩目は
それを明確化、言語化
するところから始まる。
これを最初にやり
人生や仕事のあらゆる場面で
その「生き方」を
大切にすることで、
その人は一気に
真本音度合いを高め
(つまりは魂を込める度合いを
高め、ということだ)
内発的エネルギーが
高まる。
すると、
同じ環境、同じ現実の
中にいても、
その人は
変わる。
より活き活き、ワクワク
なり、
よりその人らしくなる。
その人の本質が
ニョキニョキと育まれ、
その人にしかない
魅力が溢れ出す。
その状態になった上で
お仕事などの具体的な
課題に取り組むサポートに
入る。
以上のサポートの流れ
を発見してから、
もう17年になる。
いまだに
これ以上に効果的な
サポートの流れは
ないな、と思っている。
すべては
「生き方」で決まる。
今この瞬間の
「生き方」だ。
同じ人間でも
「生き方」をどうするかで
人生はあまりに大きく
変わっていくんだ。
基本だな。
つづく
自分の大きさは
自分で決めない
方がいい。
私はここまでだ、
とね。
自分のことを
一番わかってない
のは
自分だ。
自分が自分を
小さくまとめてしまう
ことにより
迷惑するのは
周りなんだ。
だから、
私なんて・・・
というのは
謙虚でもなんでも
ない。
むしろ傲慢だ。
器が大きいとか
小さいとか、
そういった視点
そのものを
もう手放すといい。
もっと言えば、
自己評価
そのものを
手放すといい。
いいじゃないか、
自分は
あるがまま
で。
それよりも、
自分の願いを
素直に見つめよう。
自分の祈りを
素直に見つめよう。
素直に見つめる
だけで、
なんだか
あたたかくなるだろ?
その願いや
祈り、
それをいつも
胸に抱きながら、
目の前の
一人の人と向き合おう。
目の前の
一つの現実と
向き合おう。
願いと現実。
その二つと
いつも向き合って
いよう。
それだけで
いいんじゃないかな。
あとは勝手に
自分の中に
静かな衝動が起こる。
静かで
あたたかい衝動だ。
それに素直に
自分を預ける。
素直に行動する。
それだけで
いいんじゃないかな。
つづく
どれだけ悩んでも
答えが出ないこと。
答えは出る悩みだけど、
今は答えは出ないこと。
答えは出る悩みで、
今すぐに答えを
出すべきこと。
以上の3つを
しっかりと区別しよう。
そして
私達はすべきことは
一つだけ。
つまり上記の
3番目。
今すぐ答えを出すべき
悩みにのみ
集中しよう。
真本音度合いを
高めておくと、
こういう時に
とても楽だ。
何故なら、
あっこれは今、
悩むべきことじゃないな。
とわかったら、
スッと手放すことが
できるから。
逆に
真本音度合いが低いと、
手放そうと思っても
執着が出てしまうため
なかなかに難しい。
結果的には
答えの出ない悩みの
中に入り込み、
それで一日が
過ぎてしまう。
何の生産性もない。
いったい何のための
一日だったのだろうと
後悔することになる。
やはり
普段の生き様で
すべては変わる。
普段から
自分が本当に
大切にしているものを
大切にする日々を
送る人は、
いざという時に
強い。
心のコントロールが
効くからだ。
自分の心を
コントロールできずして、
人生のハンドルを
握ることはできない。
自由を手に入れる
こともできない。
今からでも
遅くはない。
自分の大切にしている
ものを
大切にする。
そんなシンプルな
生き方をするといいよ。
つづく
楽しく人生を
生きたい。
と思うのなら、
自分に
厳しくするといい。
まずは
すべてを
自分で決める。
決めたことは
必ず実行する。
そして
そこで起こる現実を
しっかりと
観察する。
これを続けよう
と思うことがあれば、
必ず続け、
習慣化する。
これを目指そう
と願うことがあれば、
常にそれを意識し、
そのための一歩を
進み続ける。
以上のことを
必ずするように
自分自身に
厳しくする。
それを真剣に
やろうとすれば、
必ずその一歩一歩の
中で、
楽しくなってくる。
人生が楽しくない
という人の共通の特徴は、
人生のハンドルを
自分が握っていない
ということだ。
他者に任せて
しまっている。
つまりは
依存。
依存的生き方は
何をどうやっても
楽しさを生まない。
楽に生きる
ということも
できない。
私達人間は
依存することに対して
不快感を覚える。
それは
人間の本能だ。
小さな子ども達は、
自分の意志で
遊ぶではないか。
主体的に
遊ぶではないか。
だから楽しい。
あれが本来の
私達だ。
主体的に
生きること。
それなくして
人生の楽しさは
ない。
つづく
自分が全力疾走
することで
初めて出会える
人がいる。
もし
全力疾走をしなければ
決して
出会えない。
そういう人が
何人もいる。
本当なら出会えるのに
出会えないままに
人生を終えてしまう、
というケースは
実はとても多い。
出会う、
とは
すごいことなのだ。
私達の人生は
人との
コラボだ。
どんな人と出会うか
によって
人生は大きく変わる。
どんな人と
出会い、
どうコラボするか?
これが人生を
決める。
どう生きるか?
とは
誰と、どう生きるか?
ということに
他ならない。
自分の人生には
必ず、
他者を入れなければ
ならないし、
他者との調和性を
高めることが
より良い人生に繋がる。
そしてそのためには、
自分の人生においては
自分自身が
リーダーであらねば
ならない。
自分の人生においては
リーダーとして
全力疾走をしなければ
ならない。
そしてここで言う
全力疾走とは、
常に全力を出し続ける
ということでは
ない。
全力を出すべき
その瞬間に
全力を出せる自分で
いること。
その瞬間に
自分の100%を
実際に出せること。
これができる人は
本当に必要な時に
必要な人と
出会うことができ、
その人との
コラボも
必要な発展の仕方を
する。
そして以上のことは
私達の真本音を
抜きにしては
決して実現できない。
一歩一歩、
真本音で進むことが
良い出会いを
生み出す。
真本音を忘れて
しまえばしまうほど、
本当は出会えるのに
出会えなかったという人が
増えてしまうのだ。
つづく
あなたの中の
中心軸は
今、
とてつもない
強い意志を
持っているはずだ。
それをしっかり
確認して、
自覚しよう。
そして
自分の心で生きる
というよりも、
中心軸で
生きる、
ようにしてみよう。
すべてを
中心軸で受け止め、
すべてを
中心軸で判断し、
すべてを
中心軸で決める。
そして
考えて動く
のではなく、
中心軸で
動いてみる。
その連続を
してみよう。
これをすることで
私達は
現時点での自分の心
を
超えることができる。
それは、
心を込めて生きる
という次元を
突破し、
魂を込めて生きる
・・・状態に
導いてくれる。
それにより
必然的に、
これまでとは次元の
異なる
現実の展開が
始まる。
それにより
心が失われる
わけではない。
むしろ、
中心軸が
「自分」という心を
活かしてくれる。
もう私達は
自分自身を
超えなければならない。
それがここからの
ステージだ。
つづく
今回はシンプルに
一つの問いを。
2021年を始めるに
当たって、
とても重要な
問いだ。
『今から
永遠に続けようと
思うことは何ですか?』
この問いと
しっかり向き合い、
浮上する発想は
すべてメモを取り、
大事にすると
いいかな。
まったく関係ない
発想が生まれても、
意味不明な
発想が生まれても、
すべてメモに取り、
大事にすると
いい。
頭で考えず、
自分自身に
問いを投げ、
答えを浮上を
待ってみてください。
つづく
夢。
自分の夢は
何か?
ということを
改めて真剣に
考えてみよう。
まったく
わからない、という
人も。
もう完全に
わかっている、という
人も。
夢は
進化・深化する。
しかも
突然に一気に
進化・深化する。
そのタイミングを
逃さないためにも、
自分自身の夢と
向き合おう。
向き合った結果、
「何もわからない」
となるかも
しれない。
これまで見えていた
ものすら
見えなくなった、
と
なるかもしれない。
それでもいい。
それも一つの
進化・深化だ。
夢の内容は
わからなくとも、
夢そのものと
向き合おう。
すると
夢そのものから
メッセージが届く
こともある。
夢の内容は
わからなくとも
今、
何をすれば良いかは、
わかるかもしれない。
私自身は
夢とは実現するものだ
と思っているが、
夢の捉え方は
人それぞれでいい。
ただし
本当にそれを
望んでいるかどうか
が大事だ。
夢の中身が
わからなくとも
本当に望んでいる夢の
存在そのものが
わかればいい。
その「存在」と
向き合えばいい。
そして、
「夢と向き合い続ける自分」
として
今に向かう。
現実に向かう。
これこそが
最も大事なことで、
夢を抱く人にしか
起こせない影響がある。
それによって現実は
変わっていく。
特にここからは、
そんな生き方(行き方)を
してみないか。
つづく
あなたの中の
卵の殻が
破れたとしても、
その中から
何が飛び出して
くるか?
については
意識を向けずに
いよう。
それは
後の楽しみ
ということで。
それよりも
前を向こう。
現実に
向かおう。
外に意識を
向け続けよう。
卵の中身は
現実に向かう
その接点の最中に
自然に
姿を現すだろう。
多くの場合は、
唐突な力
として。
へぇ、私には
こんな力が
あったんだ。
・・・と
ちょっとびっくり
するかもよ。
まぁ、
お年玉のような
ものだ。
力は
使うために
あるが、
力を
使うために
生きてはならない。
力とは
道具に過ぎない。
道具のために
生きるのではなく、
やはり、
自分の願いの
ために生きよう。
そうすれば
道具はすべて
生かされる。
自分の願いの
ために生きよう。
今は道が
開いている。
つづく
明けまして
おめでとうございます。
年が明けることを
祝福する気持ちは
毎年のことだと
思うのだが、
今回はどうも
格別
のような気がする。
なぜそう思うのか?
は
現時点では
私(顕在意識の私)は
わからない。
特に
わかろうとも
していない。
でもこの感覚は
大事にしたいと
思う。
昨年は全然
感じなかった
「節目」
を、
今回ほど大きく感じる
ことは
過去、なかったのでは
ないか。
その意味するところを
あえて探究せずに、
このまま
いつものように
進もうと思う。
私達は
「今」
の連続にいる。
この3次元の世界は、
すべてが分離、
断絶している。
だから
一瞬前の今と
今の今と
一瞬後の今は
別物である。
一瞬前の私と
今の私と
一瞬後の私も
別物である。
すべてが
別物同士の
集合体。
これがこの
3次元だ。
それによって
受ける制約は
とてつもなく多い。
どれだけ意志を
持っても、
すぐには
その流れはできない。
分離している分だけ、
伝播が非常に
非常に
遅い。
高い次元から
観れば、
すべてが固定化され
止まっているように
観える。
しかしそれでも
意志を止めず、
進み続けよう
とする。
固い岩に
トツトツと
水滴が一滴ずつ
落ちても、
その岩の形は
変わるわけが
ない。
でも、
そのトツトツが
1万年、1億年、
いや、1兆年も続けば、
さすがに
その岩も
変わるだろう。
それくらいの
のんびりさで
私達はここにいる。
でもだからと言って
そのトツトツを
やめるわけには
いかない。
やめれば、
その時点で
すべては本当に
止まってしまう。
それをまた
よくわかっているのが
私達だ。
だから
今日も明日も、
トツトツと
行く。
たとえすべてが
分離していようとも。
これまで
トツトツと耕し続けた
大地を感じながら、
トツトツと
着実に
進もう。
それこそが
この世界では
躍進となる。
止まっているように
見えながら、
世界は着実に
動き続けている。
つづく
2020年は
面白い感覚の年
だった。
ちょうど一年前くらいに
感じていたのは、
2019年と2020年は
つながっている、
という感覚。
つまり
節目がない。
もっと言えば、
2020年、という存在
自体を
あまり感じない。
という感覚が
昨年末にあり、
実はその感覚は
結局今日まで
消えなかった。
私の中では
いまだに
2020年は始まって
おらず、
2019年の年末に
いる状態のまま
一年が過ぎてしまった
のだ。
しかしその一方で
2020年は
随分と新しいことを
始めた。
さっき数えてみたら、
この一年で
6つの新たな挑戦を
した。
そのことごとくが
想定以上に
良い成果を出せた。
なかなかこんな
一年はないな、
というくらいに
現実は動いた。
しかしでもやはり、
2020年という
存在感はなく、
一年前のそのまま
の場所に
私はいる感じがする。
恐らく、
実在のレベルでは
その通りなのだろう。
実在のレベルでは
あえて
何も動かさず、
同じ場所にいて、
しかし
現実(現象)のみを
動かした。
そんな一年
だったのだろう。
逆に言えば、
それの意味する
ところは大きい。
この一年で、
実在と現象の
一致感は
格段に増した。
要するに、
実在の状態が
すぐに現象化する
ようになった。
タイムラグが
かなり縮まった。
実在が現象を
待つ。
・・・ということを
行なったのでは
ないかな、と思う。
そしてこの12月辺りから
ようやく
実在が動き始めた。
これまでに
ない、
実在〜現象の一致感
で。
そういうことで
言えば、
いよいよ
だ。
今年の年末年始は
大きな節目と
なりそうだ。
つづく
息が苦しくなれば、
私達は
たったそれだけで
周りを見れなく
なる。
ほんのちょっとした
ことで、
私達は現実と
向き合えなくなる。
そして
一度、内に篭れば
そこから出ることは
非常に困難だ。
弱いものだな、
と思う。
しかしその
自分の弱さを
自ら知り、
受け入れている人は
強い。
弱い自分を
何とかしようと
するよりも、
弱い自分を
もう、そういうものだと
諦めて、
その上で、
じゃあどうするか?を
探究する。
それが
人の強さとなる。
弱さとは、
強さの
きっかけである。
弱さを
強さに変える
のではない。
弱いままだからこそ
強くなれる。
これが
私達人間だ。
そして、
強さとは
頑固さではない。
頑固さとは
弱さの一つの
現れだ。
強さとは、
しなやかさであり、
柔軟性であり、
包容力だ。
しかし
包容力とは
「私はすべてを
包み抱きます」
とやっている人は
まやかしだ。
それは
強さのフリを
しているだけで、
フリが上手いだけ
である。
真に包容力の
ある人は、
自分の包容力には
気づいていない。
ましてや
それを「売り物」
にはしない。
自分の弱さに
真摯に
向き合い続ける人
こそが、
自然に
包み抱くことが
できる。
本人の意図
ではなく。
しかしこう考えると、
まったく人間とは
難しい。
よくこんな難しい
生き物が
生まれたものだと
感心する。
しかし
難しいと思うから
難しい。
やることは
至ってシンプルだ。
今この瞬間を
真摯に生きる
のみだ。
弱さも
強さも
そのままに。
あるがままに
生きるのみだ。
つづく
私達は、
余分なことを
し過ぎなのだと
思う。
不調和とは
ほとんどの場合、
余分なことを
することによって
生まれる。
何をするか?
の前に
何をしないか?
を決めることは
とても重要では
ないか。
特にこの2〜3年で
本当に痛烈に
私は感じた。
余分なことを
する癖のついている
人は、
余分なことに
人生のほとんどを
使ってしまう。
一つの余分なことは
余分な混乱や
余分な波乱や
余分な葛藤を
生む。
余分なそれらに
反応している
うちに、
人生は
終わってしまう。
だいぶ極端な
言い方をしているが、
何故あえて
こんな言い方を
しているかと言うと、
「人生の時間が
足りない!」
という
とても強い気持ちを
真本音のレベルで
抱いている人が
今、
急増しているのを
感じるからだ。
実は特に
若い人達に
私はそれを感じる。
まだ
20代、30代なのに、
もう
「人生の時間が
足りない!」
と
焦り始めている。
気持ちは
よくわかる。
私もいつも
そう思ってきたから。
しかし
焦れば焦るほど、
また新たな
余分なことを
してしまう。
新たな何かを
始めることは
特に今の時代は
とても大事だが、
しかしその前に
しっかりと
自分自身に
問うてみよう。
まずは、
何をやめるか?
何を
しない!と
決めるか?
つづく
あえて、
狭く暗い部屋の中に
閉じ籠ってみる。
あえて、
目も閉ざし
何も見えない状態に
陥ってみる。
何も見えなく
なった時、
何もわからなく
なった時、
果たして自分は
何をどう判断する
だろうか?
そう考えた時、
ふと、
ひょっとして
今の私が
そんな状態なのでは
ないか?
と
思ったりした。
実は、
目を開いているようで
閉じている。
広い世界にいる
ようで、
狭い中にいる。
わかっているようで
何もわかっちゃ
いない。
ひょっとして、・・・
ではなく
本当にそうではないか、
と
よく思った。
そう考えた時、
では、
そんな私に
できることとは
何だろうか?
と。
で結局
たどり着いたのが、
目が見えていようが、
狭い部屋にいようが、
何も
わかってないとしても、
私は
自分の意志で
進むしかないでは
ないか、
と。
もし
何もわかっていない
のであれば、
少しでも
わずか1ミリでも
わかろうとする。
わからないなりに
今わかることを
信じて
進む。
それしかないでは
ないか、と。
そう考えると、
日々、やることは
同じだな、と。
自分が開く方向に
進む。
本当に開けるかどうか
ではなく、
こっちは
開く方向なのではないか、
と
思える方に
進む。
自分がたとえ
間違っていても、
自分の判断を
する。
それしかない
ではないか、と。
人間として
できることは。
と。
もし間違っていたら、
きっと
ゴツゴツと
何かにぶつかるだろう。
痛い目に
遭うのだろう。
もしかすると
生命の危機に
晒されることも。
でも
自分の判断であれば
それはそれで
しょうがないではないか。
見えていても
見えていなくても、
精一杯
やるしかないではないか。
だから、
見えないから
わからないから
という理由で
止まってしまうことだけは
やめよう。
間違ってもいいから
進んでみよう。
どんなに
怖くても。
できれば、
盾も鎧も脱ぎ捨て、
できるだけ
素っ裸で
進もう。
できれば、
でいいから。
・・・そんなこんなで
ここまでヨタヨタと
歩いてきたように
思う。
本当に、
痛い目ばかりの道のり
だったが、
昔に比べれば、
随分と
歩きやすくなったし、
道も広がっている
ようだ。
仲間も増えた。
「幸せだな」と
感じる瞬間も
増えている。
今の私は
見えているのだろうか?
わかっているの
だろうか?
と、
今でも日々、
問うている。
ひょっとすると、
この問いがあるうちは
大丈夫なのかも
しれないな、と、
ここまで歩いてきて
ようやく
思えるようになった。
私は
先導者でも何でも
ない。
私は
共に歩く者だ。
つづく
あなたの中に
「壊したい自分」
がいるのでは
ないか?
本当は、
経験を通じて
それは
じっくりと壊していくもの
かもしれないな。
でも、
もうそんな時間はない、
と
思ってるんだろ?
であれば、
ダイレクトに今、
壊してしまっても
良いのではないかな。
壊し方は
簡単。
「壊す」
と
決めるだけだ。
その自分を見つめ、
正面から
「君を壊す」
と伝えればいい。
その自分は
反発をするかも
しれない。
反論を
するかもしれない。
しかし
その一つ一つには
しっかりと耳を傾け、
しかし
毅然とする。
そして誠実に
丁寧に
愛を込めて
改めて伝えるんだ。
「もう私の人生には
君は要らない。
どうか私の人生を
応援してほしい。」
・・・と。
それでわかって
くれないようなら、
その自分は
「自分」ではない。
恐らく
他者からもらった
エンティティ(念)だ。
それであれば
放っておけばいい。
自然に消えるから。
とにかく。
「壊したい自分」
を壊せるかどうかは、
あなたの意志
しだいだ。
それ以外は
ないんだよ。
つづく
生きていれば、
様々な「余分なもの」を
私達は
心の中に蓄積する。
そしてその
「余分なもの」達に
自分自身が
翻弄される。
しかし当の本人は
それらを
「余分なもの」
とは認識せずに、
むしろそれらを
「これが私だ」
と認知する。
「余分なもの」を
「余分なもの」と
認知せずに
生きるのが私達だ。
しかし私はここに
人間の素晴らしさ
があると思っている。
人間の
力だ。
・・・・・・
「余分なもの」の
最大の問題は、
そこに目を奪われる
ことで、
自分自身の
「本質的なもの」
を
忘れてしまうことだ。
本来は
「本質」があり、
その周りに
「余分なもの」達が
くっついているはず
なのだが、
肝心の「本質」が
見えなくなって
しまう。
つまりは、
「自分を失う」
という状態だ。
だから私の
サポートは、
「余分なもの」
はそのままに、
でも
「本質的なもの」
も
ちゃんと思い出そう、
とするものだ。
そして
ここからが最も
大事なことなのだが、
もしその人が
自分自身の
「本質的なもの」を
思い出すことが
できたとしたら、
その時点から、
その瞬間から、
「余分なもの」達が
「余分なもの」では
なくなってくる、
という事実だ。
「本質的なもの」
が
それまで存在した
あらゆる「余分なもの」を
一つ一つ丁寧に
「活かす」
ようになるのだ。
そこで発揮される
ものこそが
その人の
「真の個性」
だ。
私は、その
「真の個性」で
生きる人が
社会に溢れる状態を
創りたい、
と思って
この25年間、
今の仕事をやり続けた。
どうすれば
それが実現できる
のだろうか?
というのが
私の探究テーマの
一つであり
根幹であった。
このテーマは
もちろん
これからも続く。
きっと
永遠に続く。
しかし今、
明らかに
新たなステージに
入ることができた。
人が
「真の個性」で生き、
活かし合う社会は、
きっと
深く調和するだろう。
次の25年で
私はそこに向かって
邁進したい。
つづく
私達人間は、
この3次元の世界に
おいては、
使える命の力は
有限だ。
全身全霊
という言葉があるが、
全身全霊になった時に
発揮できるパワーが
有限だ。
なぜかと言うと、
二つ理由がある。
一つは、
この3次元という
世界そのものの
存在意義が
「有限であること」
だからだ。
限りのある中で
どのように
生きるか?
この根本テーマの
もとで
この世界は
成り立っている。
有限だからこそ
私達は
進化できるのだ。
もう一つの理由は、
「リミッター」
を
私達一人ひとりが
自分自身に
つけているからだ。
自分が
ある一定以上に
進化・成長できたら、
このリミッターを
外そう。
そしてまた
次の段階の
ある一定の進化・成長が
できたら、
また次のリミッターを
外そう。
・・・と、
私達は決めて
生きている。
もちろん潜在意識の
レベルでの話だが。
これもやはり
有限であることの
意味を
私達自身が自分に対して
活用しているわけだ。
そして私達は、
有限だからこそ
無限の可能性を
望んでいる。
その「望み」もまた
尊い。
その「望み」自体が、
有限であるからこそ
発生するもので、
これもまた
有限であることの
意義の一つだ。
有限から
無限へ。
その憧憬を抱きながら
私達は
生きているし、
そこに素直に
生きればいい。
そして、
有限から無限へ
近づくための
最短の道は、
「一点」
を決めること。
つまりは、
有限である自分の
命の力を、
エネルギーを、
どこに一点集中
させるか?
を
毎日、丁寧に
誠実に
決めて、
進むこと。
これができている
人は、
日々、「無限」に
近づいている。
命の力は
絞り込むこと。
拡散
させないこと。
そのためにも、
今は何のための
時間か?
今は私は
本当はここで
何をすべきか?
何をしたいか?
自分は今日、
何に自分の心を
込めるか?
魂を込めるか?
を、
常に自分自身に
問いながら
一歩一歩を
進んで行こう。
つづく
自分自身の
エネルギーが
高まったな、
と思えた時に、
一つ
確認をしてみて
ほしい。
自分の「中心軸」
の「回転」を。
自分の「中心軸」が
回転しながら
まるで台風のように
周りにエネルギーを
波及させているか
どうか、を。
もし
そのような「波及」を
感じたら、
その回転数を
上げるといい。
もっともっと
回転数を上げて
エネルギーの放出を
高めるといい。
それにより
さらに
中心軸の内側から
パワーが
漲ってくるはずだ。
自分の真本音を
大切に生きている人
であれば、
今は皆、
そのような状態の
はずだ。
今は、
一気にパワーアップの
できる時。
躊躇する
必要はない。
自分の中心軸を
意識し、
どんどん
さらに自分を
開放しようと
すればいい。
躊躇する
必要はない。
一気に
突き抜ければ
いい。
つづく
怒り
という感情が
出る時、
その怒りに
呑まれてしまうことから
逃げよう逃げよう
と
するよりも、
その怒りと
じっと
向き合うといい。
怒り、だけに
それは
とても騒がしいかも
しれない。
暴れている
かもしれない。
それは
そのままでいい。
ただ、
じっと
見つめる。
すると、
いつか
わかるはずだ。
それが本当に
ただ騒がしいだけの
怒りか、
それとも本当は
とても静かに燃える
怒りなのか。
実は
本当に強いのは
後者だ。
静かに燃え続ける
怒りは
基本的には
消えることがない
からだ。
静かに燃え続ける
怒りには
芯がある。
真がある。
つまり、
ちゃんとした理由が
あり、
その「理由」は
自分自身の「願い」に
関わっているものだ。
だからその怒りに
向き合うことで
私達は
自分が何に
怒っているか?
を知るのと
同時に、
自分は何を
願っているか?
を
知ることができる。
しかもその「願い」は
変わらずに
燃え続けているもの。
真本音の
願いだ。
真本音の願い
という芯のもとで
静かに燃え続ける
怒り。
それを私は
「真本音の怒り」
と呼んでいる。
それは
とてつもなく
エネルギーが高く、
とてつもなく
強い怒り。
しかしそれは
自分自身への
「合図」であり、
自分自身を
「導く」ために
ある。
だから、
真本音の怒りが
生まれたら、
私はその怒りに
身を任すことに
している。
あえて
意図的に
呑まれてみる
のだ。
それにより
「現実」
に突破口を見出す
一点を
創り出すことが
できるかも
しれない。
つづく
人は自分自身に
様々な「リミッター」を
つけている。
悪いことでは
ない。
必要なことだ。
そして、
人生を進めながら
その「リミッター」を
順番に外していく。
進化とは
リミッターを外すこと
とも言える。
リミッターを外す
ためには、
それ相応の自分に
ならねばならない。
「それ相応の自分」
とはつまり
「それ相応の行動」
ができること。
つまりは
自分の
「想いと行動」が
一致すること。
その一貫性度合いが
高まることで
その人は自分自身に
「合格」を出す。
私は
自分の想いを
ここまで実践し
カタチにすることが
できるように
なった。
だから、
次のステージに
行こう。
・・・このように
自分に「OK」を出す
ことで、
「リミッター」を一つ
外すのだ。
これを私は
「脱皮」
とも表現している。
今日も
あるクライアントさんが
「リミッター」を
外し、
「脱皮」した。
コーチングの後、
私の中に
そのクライアントさんからの
真本音メッセージが
残されていることに
気づいた。
『私は次に行きます。
私として。』
一つの巣立ちだな、
と思った。
つづく
つくづく
私という人間は
意図を持ってはならないな、
と思う。
意図を持てば
途端に
「すべて」が小さくなる。
小さな器の中で
小さく
まとまってしまう。
それにより
私自身は嬉しいかも
しれないが、
それはあくまでも
私の自己満足に
過ぎない。
意図した通りの
結果が手に入り、
私は意図した通りに
嬉しいが、
いったいそれの
どこに価値があると
言うのだろう。
どこに人生の
醍醐味があると
言うのだろう。
私は
小さい。
小さい私が
小さな枠の
小さな何かを
創り上げ、
いったいそこに
どんな意義が
あると言うのだろう。
と
つくづく思うのだ。
・・・どんな時に
そう、つくづく思う
かと言えば、
私の意図を超えた
展開を
目の当たりに
した時だ。
この人は
こんなことが
できるのか!
この人達は
こんなに凄い展開を
起こせるのか!
この仕事を始め、
もうすぐ25年。
いまだに
これの連続だ。
「驚嘆」
というやつだ。
驚嘆するたびに
私はつくづく
私の意図の
小っぽけさと
本来の、
人々の可能性の
デカさを
嘆息するのだ。
人間は
凄い。
という
「まいりました」
と
思える瞬間。
今日もそれが
あった。
それが
日常茶飯事に
起きている。
今日も
「俺って小せぇなぁ」
・・・と。
こんな悦びが
他にあろうか。
つづく
どれだけ素晴らしい
力を持った人でも、
自身のエネルギーを
分散させてしまったら
物事は
成し遂げられない。
器用貧乏
という言葉があるが、
器用なために
一つのことに徹することが
できず、
様々なことに手を出し、
結局は何も貫徹しきれない、
という生き方は
特にこれからの時代は
お勧めできない。
不器用でもいいから、
一つの何かを、
自分にしかできない
何かを
極めるといい。
探究すると
いい。
そのためには
自ら、人生の探究テーマを
持つことだ。
初めは抽象的な
テーマでもいい。
でもそれを
毎日、いつも意識しながら
深堀りしながら
生きる。
例えば、
私で言えば、
「自由とは何か?」
これは
19歳の時に持った
テーマだ。
以来、今でもずっと
探究している。
「生きる」
という現場において
探究している。
その答えに
たどり着いたかどうかは
わからないが、
私にしか語れない
独特の切り口で
「自由」を語ることくらいは
できるようになった。
そしてそれが
今の私の仕事のやり方に
深く反映している。
「真本音」という視点に
行き着いたのも、
このテーマがあった
からこそだ。
このように、
自分自身のテーマを
常に持ちながら
生きている人は
増えている。
特に若い人達に
多いように
私は感じる。
難しいテーマ。
人生のすべてを
費やしてでも
自分の人生と共に
歩み続けるテーマ。
そんなものを
持つと良いが、
まずは何でも一つ
自分で決めるといい。
「一つ」。
そう、
「一つ」決めるのだ。
するとその「一つ」は
さらに発展して、
次の新たな「一つ」を
引き寄せてくれるかも
しれない。
分散ではなく、
「一つ」。
たくさんではなく、
「一つ」。
そして
「一つ」に向かう
ことで
エネルギーは常に
集約され、
その「深さ」は
結果的に「広さ」を
もたらしてくれる。
さぁ、今すぐ
探究テーマを決めよう。
つづく