チームパフォーマンスコーチ

若者が若者を

 

人のエネルギー

というものは、

 

むやみやたらと

高めれば良い

 

というものではない。

 

どれだけ高めても、

それを

その人自らが

コントロールできなければ

意味がない。

 

意味がないどころか、

自分自身のエネルギーに

自分が呑まれてしまい、

 

せっかく

エネルギーが高まったのに

 

自分を失う

ということが実に

多いのだ。

 

だから

自然な人の成長とは、

 

ある一定の

エネルギーをコントロール

するだけの準備が

整い、

 

それだけの器が

出来上がった上で

自らにOKを出し、

 

その上でようやく

その人自らが

自身の奥から、潜在していた

エネルギーを浮上させる。

 

そしてまたそのエネルギーを

完全に使いこなすことが

できて初めて、

 

準備が整った、ということで

次のステージに

進む。

 

という一歩一歩の

段階を

とても大切にしているのだ。

 

それをよくわかった上で

人のサポート

をしなければならない。

 

そして

それができるためには

 

自分自身が

 

その「経験」を

踏まなければならない。

 

・・・・・・

 

以上のことを

感性のレベルで

本質理解できる若者が

増えている。

 

そして

そういった若者ほど、

 

人のサポートをしたい

 

本気で語る。

 

そしてそのための

修行をしようとする。

 

若者が若者を

サポートする。

 

という時代が

始まっている。

 

私はそれを

 

希望

 

だと感じるのだ。

 

若者が若者を

サポートできるよう、

 

私は

それをサポートしよう。

 

つづく

 

継続するには

 

継続力は

どうすればつきますか?

 

という質問を

受けた時、

 

結構、私は

 

「毎日行なうことです」

 

と答えることが多い。

 

単純なことだが

とても大事だと

思っている。

 

一日置きに、とか

週に何日、とか

毎週、とか、

 

そういうのは

なかなか続かない。

 

それをする日と

しない日がある、

 

という変化が

リズムを生まないのだ。

 

毎日必ず

それはする。

それはまるで、

毎日、歯を磨いたり

体を洗うのと

同じ。

 

という風に

した方がいい。

 

私達の人生とは

一日一日が

基本となっている。

 

朝起きて

夜寝る。

 

それで

一回の人生が終わる、

というような

本能的なニュアンスが

ある。

 

睡眠とは大事だ。

 

睡眠することで

一度、生まれ変わるのだ

と私は

思っている。

 

そして

「毎回の人生」において、

必ずすることを

決めて

それをし続ければ、

 

それが

自然な習慣へと変わる

のは楽なことだ。

 

まぁ、

比較的

ということだが。

 

もちろん、

 

その習慣を始めることを

真本音で決めること。

もしくは、

真本音で望むことを

習慣化すること。

 

というようなことも

大事だが、

 

そういった内面的な

こととは別の次元で、

 

こういったルーティンを

決めてしまうことも

私はとても大切だと

思うんだな。

 

つづく

 

決めた

 

増えてるな。

 

中途半端な加速と

中途半端な展開では

 

自分を許せなくなる

くらいに

ストレスを生じさせ、

 

人生を生き切る

ことのみに

意識を向け続けている

人達が。

 

もう少しゆっくり行ったら?

 

思わず私から声を

かけてしまいそうな

人達が。

 

しかしもう私は

そういう声のかけ方は

やめることにした。

 

もう二度と

しない。

 

その人達の

意志を

尊重することにした。

 

それで

すっ転んで

立てなくなって、

 

立ち直れなく

なったとしても、

 

それはそれ。

 

その人が

望んでそうしたのだから、

それは

しょうがない。

 

そのように

ある意味、

開き直ることにした。

 

私としては

そういった人ほど

大切に大切に育成したり、

 

慎重に慎重に

サポートしたいのだけど、

 

もう

やめた。

 

その人達に

委ねることにしたよ。

 

だってそうすること

こそが、

 

その人達を本当に

大切にすることだと、

 

痛感したから。

 

もう少しゆっくり

行った方がいいよ、

 

・・・なんて、

その人達を

舐めた物言いだったな。

 

反省している。

 

その人達には

その人達の

人生がある。

 

その人生を決める

のは、

その人達自身だ。

 

その人達が

本当に望むので

あれば、

 

私は

さらに後押しをしよう。

 

前に前に

流れを

より激しく。

 

より美しく。

 

それが私のサポート

であると

 

決めた。

 

そして

当然であるが、

 

私自身も

彼らと共に行く。

 

最後まで、

ね。

 

つづく

 

満月としみじみ

 

時々、

私の心の中には

「満月」

が浮かぶ。

 

黄色い色をした

大きくて美しい

満月。

 

それをじっと

見ていると、

 

満月と対峙

しているようでも

あるし、

 

満月に

優しく包まれている

ようでもあるし、

 

不思議な

感覚になる。

 

時には

満月はトツトツと

私に語りかける。

 

今日のあのコーチングは

なかなか良かったね、

 

とか

 

あの人の笑顔は

深みが増したよね、

 

とか

 

私が何となく

感じていたことを

思い出させるようにして

語ってくれる。

 

今日の満月は、

 

「良かったねぇ・・・」

 

しみじみ呟いた。

 

私も

 

「ホント、

良かったよぉ」

 

と。

 

今日、一日終わり

じんわり

そう思っている。

 

今日、私は

ある一つのことを

確認できた。

 

そして

確信した。

 

「もう大丈夫だな」

 

と。

 

私は一つの

大仕事の終わりを

実感したのだ。

 

その大仕事は

現実レベルの話では

なく、

実在レベルの話だ。

 

しかしそれは

大変だった。

 

大変だったが

完了した。

 

そして

ちゃんと完了できたことを

しっかりと確認できた、

 

そんな一日だった。

 

さて、

どうしようか?

 

私が満月に問うと、

 

「次に行こうよ」

 

と。

 

そうだな。

 

次に進もう。

 

これでまた

大きく私は私を

変えられる。

 

いろんなことが

変わるかな。

 

つづく

 

自ら育て

 

花が咲いた。

 

小さな花だ。

 

これをどう

育てようか。

 

大切に大切に

育てたいところだが、

 

実は

そうも言って

いられない。

 

この花には

強くなってもらわねば

ならない。

 

過保護では

いけない。

 

自ら逞しく

育ってもらわねば。

 

だから最低限の

サポートのみ

しよう。

 

でもそうすると

この花は

すぐに枯れてしまう

かもしれない。

 

でももし

そうなったとしたら、

 

それはこの花の

必然だ。

 

ということにしよう。

 

それくらいの

覚悟で

手をかけないで

おこう。

 

私の場合、

一度そう決めたら

とことんまで

本当にそうしてしまう

というところが

 

我ながら怖いなぁ

と思う。

 

時々、

厳し過ぎるのでは

ないか、と。

 

しかし

決めてしまったら

もう、変えない。

 

花の命を

花自身に

預けるのだ。

 

すべて

自業自得

やってみなさい、

と。

 

花は

にこやかに

私に

笑いかける。

 

その笑顔の

かけがえのなさ。

 

その笑顔のままで

強く成長するのだぞ。

 

私は祈るばかり・・・。

 

つづく

 

変化の芽に気づこう

 

今回は、ちょっとした

セルフコーチングチェック

を。

 

あなたの「中心」に

目を向けよう。

 

魂の中心。

心の中心。

体の中心。

 

この3つの中心が

どこにあるか?

直観的に探ろう。

 

もしこの3つの場所が

ズレていたら、

 

一致させよう。

 

好きな場所に

一致させればよいが、

 

オススメは、

すべてを

体の中心に合わせる

ことだ。

 

中心を合わせたら、

そこに意識を

向けよう。

 

そこに

何が観えるだろうか?

 

何を

感じるだろうか?

 

しばらくジーッと

意識を向け続け

ながら、

 

「自分はこの1ヶ月で

何が変化しただろうか?」

 

問うてみよう。

 

中心をジーッと

見つめながら

問うこと。

 

何も発想が

出なければ

それでいいし、

 

もし、

 

「あっ! 私は

こんな変化をしたんだな」

 

と気づくことが

あれば、

 

その変化を

大事にしよう。

 

その変化の芽を

大切に育てて

行こう。

 

そのために

今日、何をしようか?

具体的な行動に

結びつけてみよう。

 

まぁ、

気楽な気持ちでね。

 

つづく

 

一は無限である

 

無限の中の

一点として

自分がいる。

 

その一点は

次の一点を

定めていく。

 

さらにその一点は

別の一点に

影響を

与えていく。

 

最初は

何もなかった

はずなのに。

 

もしくは、

 

最初は

すべてがあった

はずなのに。

 

無限の中の

「一」。

 

これがすべての

始まりであり、

 

無限が

無限として

認識できるその感覚

始まりだ。

 

本当は、

 

あらゆるものが

あらゆる存在が

「一」

である。

 

あなたも私も

「一」

である。

 

そして

「一」は

別々のもの達では

なく、

本当はすべてが

同じ。

 

違った「一」でも

本当は同じ。

 

あなたは

私であり、

 

私は

あなただ。

 

ではこの「違い」

とは何か?

 

なぜ

「違う」必要が

あるのか?

 

単純だ。

 

すべてが

「一」であることを

思い出すため。

 

「違い」という

思い込みを超えて、

「一」であるという

真理に気づく。

 

その過程でしか

得られない

エネルギーがある。

 

私達は

それがほしい

のだ。

 

そのエネルギーを

私達は

「愛」

と名付け、

 

これをより

深く尊いものとして

生み出そうと

している。

 

なぜなら「愛」は

すべての「一」を

進化させ、

 

「無限」を

さらなる「無限」へと

広げるから。

 

そう。

 

「無限」は

無限のくせに

さらなる無限を

求めている。

 

無限のくせに

今の無限では

飽きたらない。

 

無限とは

こんなものでは

ないはずだ。

 

もっと

深くて尊いもの

のはずだ。

 

という、

言いようのない

無限の確信が

あり、

 

それを

確かめ実現する、

 

・・・無限に

実現し続ける・・・

 

ことが、

無限である

自分の役割であると

知っているから。

 

「無限」が

無限に進化を

続ける。

 

そのための

「一」

である。

 

そのための

あなたであり

私である。

 

つづく

 

揺れるなら揺らせ

 

来る日も来る日も

一つのことに

打ち込む。

 

何がどうあっても

一つのことを

極めようとする。

 

そんな生き方を

望んでいる人は

実は

予想以上に多いのでは

ないか?

 

たった一つのことを

見つけ、

それを人生の目的

とする。

 

そのために

真一文字になる。

 

私自身も

そんな生き方が

好きだ。

 

とは言え、

人によって

望む生き方は様々だから、

そう生きなければ

ならない、

という話ではない。

 

これは

私の好みに

過ぎない。

 

でも、

そんな人と語り合うと

とても面白い。

 

一つを極めた。

もしくは

極めようとしている人は

 

独特の視点

 

を持っている。

 

その視点の話を

聴くことは、

驚きも多いし

感動も多い。

 

インターネットが

どれだけたくさんの

情報を溢れさせようとも、

 

そこには現れようの

ない、

 

口頭と空気感と

とてつもなく微妙な

ニュアンスでしか

伝わらない、

 

そんな世界を

感じることができる。

 

それが

とてもとても

私には面白いのだ。

 

・・・・・・

 

あれは

何だろうな?

 

人間、

一つを極めようと

すると、

 

本当に極まるかどうか

は別として、

 

その瞬間から

独特のムードが

発せられる。

その人からは。

 

「極める」というのは

中途半端では

いけない。

 

この件については

この人は世界一

ではないか?

くらいの

レベルの話だ。

 

それは本当に

針の一点のような

小さな一点

でもいい。

 

そういう生き方を

望む人は

ぜひ、

その一点探しを

してみるといい。

 

「私はこれについては

世界一になろう」

 

決めてみるといい。

 

本当になれるか

どうかはわからないが、

 

本気でそう

決めることが大事だ。

 

何でも「本気さ」は

大事だな。

 

・・・・・・

 

今の私達は

揺らぎの大きい

時代に入った。

 

世界は

様々な原因によって

大きく揺らぐし

ブレる。

 

右往左往

する。

 

それに応じて、

私達自身も

右往左往しながら

揺れるだろう。

 

過去の延長線上の道

など

一瞬で儚く消える

時代だ。

 

どれだけ確固たる

ものだと思っていても、

 

吹けば飛んでしまう

ような時代だ。

 

これは

チャンスだ。

 

いっそのこと

大きく

自分自身を

揺らせばいい。

 

徹底的に

揺らしてしまえば、

 

その奥から

本来の自分が

目を覚ます。

 

そうすれば

揺れること

そのものを

 

楽しめるように

なる。

 

だから

揺らせ。

 

自分を

揺らせ。

 

その方法の一つ

が、

 

何でもいい、

世界一を目指す

ことだ。

 

一点を見つける

ことだ。

 

本気でそう決めれば、

揺れるよ。

 

自分が。

 

人生が。

 

だいぶ勇気が

必要かもしれないけど。

 

やってみたい人は

やってみるといい。

 

時代は、

これからは

私達が創っていくんだから。

 

つづく

 

いざという時に

 

勇気と無謀は

もちろん

違うが、

 

時には、

 

無謀を覚悟する

くらいの

勇気が必要な

こともある。

 

もちろん、

無謀はいけない。

 

もちろん、

無謀は

最短の道どころか

結局は、

大きく回り道になったり

大きくダメージを

負うだけで、

それは決して

私達の真本音が望んでいる

ことではない。

 

無謀はいけない。

 

・・・しかしそれを重々に

わかった上で、

 

それでもあえて

無謀な勇気を

出さねばならない

ことがある。

 

・・・・・・

 

変な言い方だが、

 

「無謀」から

常に逃げよう逃げよう

としている人ほど

 

結果的に

無謀になる。

 

現実から

逃げれば逃げるほど

私達は結局は

追い詰められることに

なるからだ。

 

そして最後は

無謀な決断を

下す。

 

それは

「自暴自棄」

と言うやつだ。

 

そうならない

ためには、

現実と向き合わねば

ならない。

 

無謀な現実とも

向き合わねば

ならない。

 

そして時には

それに対して

立ち向かわねば

ならないことがある。

 

・・・・・・

 

そんな時ほど

私達は

自らの原点に戻る

べきだ。

 

何のために

自分は

生きるのか?

 

なぜ

ここにいるのか?

 

どこに

行くのか?

 

自分は

何者か?

 

・・・当然、

答えはわからないこと

だらけだ。

 

しかしそれでも

その原点に

戻らねばならない。

 

答えはわからずとも

その「問い」に

戻らねばならない。

 

答えはわからずとも

それにより

私達の意識は

「原点」に向く。

 

その

「原点に向いた状態」

で、

 

「現実」に

向かうのだ。

 

「無謀な現実」と

向き合うのだ。

 

それが私達にできる

最大のことだ。

 

・・・・・・

 

人間には

できることと

できないこと

がある。

 

できないことは

できないのだから

 

諦めるしかない。

 

だから、

何を諦めるか?

決めることも重要だ。

 

何を諦めるか?

をちゃんと決めれば、

 

何ができる

最大のことか?

 

がわかる。

 

そしてそれを

やり続けるしか

ない。

 

そしてその判断が

的確にできるのは、

 

「自分の原点に

意識が向いている時」

 

だけだ。

 

・・・・・・

 

セルフコーチングを

私がなぜ

推奨するか?

 

それは、

そういった

「いざ」

という時に効果を

発揮するからだ。

 

「いざ」

という時に、

自分を失わないで

すむ。

 

どれだけ心が

混乱しようとも、

 

混沌の中で

溺れようとも、

 

それでも

「本来の自分」に

戻れる。

たとえ一瞬でも。

 

そして

自分にとって、

自分の現実にとって、

自分の人生にとって、

 

ひいては

周りの人達の人生に

とって、

 

その時できる

最大最善の一歩を

出そうとする

その意志を

 

思い出せるから。

 

そのためにも

鍛えるんだ。

 

普段から。

自分を。

 

それが

自分自身と向き合い

続ける

ということだ。

 

つづく

 

あまりに苦しい縛りでも

 

自分自身を

自分が

ギュウギュウに

縛りつけている。

 

固いロープで

幾重にも

縛りつけ、

 

まったく

動けないように

している。

 

そして

その状態で

 

「さぁ、動けるもんなら

動いてみろ」

 

とやる。

 

「そこから抜け出せる

もんなら

抜け出してみろ」

 

と。

 

猿ぐつわまで

されているから

声すら出せない。

 

ただただ、

呻くだけ。

 

ここから

どうやって

抜け出すと言うんだ?

絶望的になる。

 

そしてそれを傍らから

見つめる自分。

 

しかし、

その眼差しは

意外なことに

真摯だ。

 

まっすぐに

自分自身を

見つめ、

 

見守っている。

 

その目は

「あなたにはもう

できるはずだ」

語りかけている。

 

そして

「そこから抜け出して

ほしい」

祈っている。

 

祈りながら

自分を縛る

自分。

 

もしそんな自分を

ほんのわずかでも

感じ取ることが

できたら、

 

その自分を

精一杯

見つめよう。

 

その自分を

精一杯

意識しよう。

 

その自分と

何がなんでも

向き合い続けようと

するのだ。

 

上手く出来なくても

いい。

それでも

やり続ける。

 

すると、

 

ふと、

 

自分が入れ替わる

ことがあるんだ。

 

ふと気がつくと、

 

目の前に

縛りつけられている

自分の姿が

ある。

 

猿ぐつわをはめられ、

声すら出せずに

もがいている

自分がいる。

 

私は

誰だ?

 

私は、

縛られた自分を

見つめる自分だ。

 

とわかる。

 

入れ替わった

のだ。

 

入れ替われた

なら、

縛られている自分を

よく

観察しよう。

 

ただ、

あるがままに

観察しよう。

 

するとまた、

ふと

真実がわかる

はずだ。

 

この目の前の

自分は

本当は

縛られてなどいない

のだ、

と。

 

この、

傍らにいる自分が

この目の前の自分を

縛っているのではない。

 

目の前の自分が

自分で

自分を

縛っているのだ。

 

いや、

本当は、

 

ロープも猿ぐつわも

ない。

 

何もない。

 

ただあるのは

果てしなく続く

自由の空間だ。

 

もはや

自由になれている

自分自身だ。

 

そこで

気づくのだ。

 

人は

本当の自由を

手に入れた時、

 

その自由が

恐ろしくなるのだ

と。

 

それがあまりに

恐ろしいが故に

自分で自分を

縛るのだ、

と。

 

幻のロープと

幻の猿ぐつわで。

 

それがわかったら、

もとの

自分に戻って

みよう。

 

そう。

 

縛られている自分

に。

 

縛られていると

思い込んでいる

自分に。

 

そっからは

自力で行け。

 

幻影など

吹き飛ばせ。

 

つづく

 

君、捨て身だよな

 

最近、

 

『捨て身』

 

という言葉が

よく浮かぶ。

 

私のクライアントさんは

「捨て身」な人が

多い。

 

もちろん

良い意味で

である。

 

ひょっとすると

私のサポートとは、

 

「捨て身」な人が

ちゃんと

身を捨てられるように

するためのもの。

かもしれない。

 

身を捨てる、

というよりも

身を捧げる、

という感じか・・・。

 

とはいえ

「身を捧げる」

というと、なんか

自己犠牲的かな。

 

でも

クライアントさん達は

決して

自己犠牲ではない。

 

むしろそれをすることで

イキイキと

ワクワクと

輝いている。

 

笑いながら、

身を捧げている。

・・・いや、やっぱり

身を捨てている。

 

あぁこっちの方が

やっぱり

表現としては

しっくりくるな。

 

身を捨てて、

「魂として」

そこにすべてを

込めている。

 

魂の願いを

込める。

 

・・・それが

身を捨てるという

ことかな。

 

心を込める

のと

魂を込める

のは

根本的に異なることだ。

 

そう。

 

だから私は

心を込めるレベルの

サポートは

しないのだ。

 

それが良いことか

どうか、

というのはわからないが、

 

私は

魂を込める人の

サポートを

したいのだな。

 

しかも

最近の私はだいぶ

厳しくなっている

ようで、

 

「魂の込め方を

教えてください」

 

という人には

 

「そんなのは

自力でできるように

なってください」

 

返しているように

思えるのだ。

もちろん本当に

そんなやりとりを

しているわけでは

ないよ。

 

でも結局は

そんなことをしている

気がする。

 

だって、それは

自分でやることでしょ。

人生で、

試行錯誤しながら。

 

そこをサポート

してしまうと逆に、

肝心なところで

「覚悟」

を持てなくなるのでは

ないか。

 

自身で、自力で

魂の込め方を

見つけ出した人には

やはり

「覚悟」がある。

 

面白いことに

本人にはその自覚が

ないケースが多い。

 

でも

「私は魂を込めて生きる」

とか

「私は捨て身で生きる」

とか、

 

その意味を自力で

見つけ出した人には

独特の空気感がある。

 

それを言葉で表現すると

「覚悟がある」

ということになる。

 

しかもこの「覚悟」は

年齢によらない。

 

最近は

社会経験も少ない

もしくは

まったくない若者で

 

すでに「覚悟」を持った

人達が

多い。

 

最初からもう

覚悟を持って生まれてきた

としか思えない

人達だ。

 

そして、

年齢が高く、

これまでそういった

「覚悟」のないままに

生きてきた人も多い。

 

が、

そんな人生であっても

今、急激に

一気に「目覚め」、

(・・・そう。

まさしく「目覚める」という

言葉がぴったりだ)

 

急に「覚悟」をし

「捨て身」になり、

「魂を込める」ように

変貌する人もまた

多いのだ。

 

私の身近には

そういう人が

溢れてきた。

 

あっそうか。

 

で、結局

そうした人達の

サポートで

手一杯になってきた、

 

というのが

今の私の正確な

状況かもしれない。

 

ということで言えば、

それはとても

良い傾向だな

と思う。

 

なるほど。

 

だから私は最近は

またさらに毎日に

楽しさを実感できている

わけか。

 

私自身は、

というと、

やはり私自身も

「捨て身」だなぁ、

よく思う。

 

ヤバいやつだよな、

と時々

思う。笑

 

で、そんな私が

共鳴できる人達が

増えているということは、

ヤバい世の中に

なってきたというか。笑

 

これからは、

心を込めて社会を

良くする

のではない。

 

魂を込めて

社会を変えていく。

 

社会の次元を

根本から高めていく。

 

そんな時代

なのだろう。

 

でもそれが

本当にできるかどうか。

 

それは

わからない。

今、ここにいる私達

一人一人に

かかっている。

 

きっと

そんじょそこらの

覚悟では変わらない。

 

捨て身にならんと

何も動かない。

 

それを本能的に

ちゃんと捉えられる人が

増えてきたんだろうな。

 

つづく

 

コツコツはすべての基本

 

一つ一つ

コツコツ、

今日一日を

大事にする。

 

一つを決めて

一つをする。

 

決めたことは

必ず

心を込めて

やる。

 

一つ一つ

コツコツ。

 

小さくても

わずかでも

着実に

地道に。

 

実は、

これが私が

ずっと大事にし続けている

生き方だ。

 

ずっと

変わっていない。

 

でも

質は明らかに

変わったと思う。

 

「一つ一つ」

が、

以前の私は随分と

心の淀んだ「一つ一つ」

だった。

 

常に迷いながら、

これでいいのかな、と

疑念を持ちながら

「一つ一つ」

を行なっていた。

 

しかも

やろうと思って

やめてしまうことも

多かった。

 

今から振り返れば

であるが、

 

一つを決めて

一つをする

 

ということに

全くなってなかったな

と。

 

でもそれが

わかるようになったのは

やはり

ずっとコツコツと

やり続けてきたからだ。

 

やはり、

継続は力なり

真実だな。

 

前にも少し

書いたかもしれないが、

 

今の私は

ほんのわずかでも

迷いがあることは

やらないことにしている。

 

つまり

淀みや濁りのある

「一つ一つ」

は、ない

ということだ。

 

淀みなく100%

「やろう」

と思うことのみを

決めて、

 

そしてそのまま

やる。

 

それだけの

ことだ。

 

真本音度合いが

高まるということは

それが

とても楽にできる

ということだ。

 

とはいえ、・・・

 

やはり私はまずは

 

質よりも量

 

でいいと

思う。

 

まずは質は問わず、

 

一つを決めて

一つをする

 

を、

愚直なまでに

丁寧にやり続ける

ことを

 

本当に

オススメするね。

 

そうすると、

ある時ある瞬間、

自分のまったく

及びのつかぬところで、

 

突然に

次元の変わった展開が

始まったり、

 

一気に何かが

開花したり、

 

成果が立て続けに

現れたり。

 

そんなことが必然的に

起こる。

 

でももちろんそれらを

期待してはならない。

 

期待したって

何も起こらない。

 

それよりも自分が今、

できること、

しようと思うことを

 

一つ一つ

 

することだ。

 

つづく

永遠なんだよ

 

物事に

終わりはない。

 

終わったな、

という感覚は

あるが。

 

それは一つの

区切りだ。

 

区切ったら

すぐ「次」が

始まる。

 

だからそれは

終わりではなく

始まりでもある。

 

物事に

終わりはない。

 

人生も

同様だ。

 

・・・・・・

 

私達は

何かを残して

ゆく。

 

人生において。

 

いや、私なんかは

何も残せない。

 

と思う人は

多いようだが。

 

しかし、

その人がそこにいた、

という

ほんのわずかな一瞬の

空気感と

存在感さえ、

 

永遠に

残るのだ。

 

それが

「実在」

というものだ。

 

世の中には

ほんの一瞬だけ

この世に生まれ、

そして

すぐに死んでしまう

赤ちゃんがいる。

 

「私はそんな

赤ちゃんを

抱きしめて、

あなたの命には

大いなる意味が

あるんだよ、

という想いを込めて

笑顔を贈りたい。

それが

私の夢です。」

 

と言われる

経営者がいた。

 

そう。

 

ほんのわずかな

一生だとしても、

 

それは永遠に

ここに

残るのだ。

 

それが

「実在」だ。

 

最近、

この2〜3ヶ月

かな。

 

久しぶりに

たくさんの本を

読んでいる。

 

たまたま本屋さんで

出会った一冊の本が

きっかけで、

 

立て続けに

次から次へと

本を購入し、

 

今は

約30冊を

同時に読み続けて

いる。

 

ある一つのことを

研究した本も

あれば、

 

哲学書や

昔の文学や

大学の名誉教授の

書かれた

人生の成果や

 

ある作家が

生涯を通じて

書き続けている

小説や

 

ジャンルは

いろいろだ。

 

ちょっとずつ

併読しているので

 

わけが

わからなくなる。笑

 

何がどこに

書かれているのか、

頭は混乱

混沌となる。

 

しかしそれを

私は望んでいる

ようだ。

 

これまで

あまり読んだことの

ない傾向の本も

あるのだが、

 

「実在」について

書かれてあるものや、

 

言葉は使われなくても

あぁこの人は

「実在」を感じ取りながら

書いてるんだな、

思われるものが、

 

私が想像していたよりも

ずっと多いことに

私はちょっと

嬉しくなっている。

 

「実在」を

感知できるということは

 

常に

「永遠」を

感知できるということだ。

 

「永遠」の視点で

「今」を

観て、感じることが

できるということだ。

 

その感性を、

すべての人が

思い出せるといいな

と思う。

 

もともと

すべての赤ちゃんは

実在を感じながら

生まれてくるの

だから。

 

実在と現象の

合間にいるのが

赤ちゃんだから。

 

私達はみんな

それを

経験しているのだから。

 

その感覚を

思い出せれば、

 

あらゆる命に

永遠の価値がある

よくわかるんだけどな。

 

つづく

 

レールがあるだろう

 

難しいことを

考え込みながら

地面に目を

落とし続けるよりも、

 

顔を上げて、

 

今ここに

吹いている

風を感じよう。

 

内に籠ると

いいことは

一つもない。

 

私達は

「世界」の中に

立っているんだから、

 

外に意識を

向け、

世界を感じよう。

 

まっすぐに

素直に

目を開けば、

 

まっすぐに

素直に伸びる

道があるだろう。

 

レールまで

敷かれている。

 

すでにその上に

立っているでは

ないか。

 

「レールの上を

進むなんていや」

 

・・・だって?

 

そのレール敷いたの、

自分だろうが。

 

自分で選んで

ここに

来たのだろうが。

 

せっかく

気持ちよく敷かれた

レールだ。

 

気持ちよく

進めばいい。

 

ちなみに私は

新幹線くらいの

速さで進むのが

好きだ。

 

そんなに速いと

周りの景色を

楽しめない、

と言われるかも

しれない。

 

確かにそうかも

しれないが、

 

新幹線くらいの

スピードを出して

初めて、

観える世界も

あるんだ。

 

私はその世界が

好きなんでね。

 

今は、

その同じスピードで

進もうとする人達と

 

共に行こうと

思っている。

 

あなたは

どうだい?

 

新幹線くらいで

進むことも

できるし、

 

もうちょい落として

特急電車レベルでも

行けるし、

 

鈍行でもいい。

 

好きなスピードで

進めばいい。

 

レールが

あるんだから。

 

そこは

安定しているの

だから。

 

あとはあなたの

覚悟一つ

なんだから。

 

素直に進もう、

素直に決める

だけなんだからね。

 

つづく

 

後悔と向き合う

 

頭のてっぺんから

足の先まで、

 

身体の中を

川の流れのように

 

エネルギーが

流れていく

イメージをしよう。

 

気持ちよく

天から地に

エネルギーが

流れていく。

 

その流れに

全身を委ね、

 

そして

身体の内側を

そのエネルギーで

洗うようなイメージだ。

 

身体の内側に

シャワーを浴びる

イメージだ。

 

それをした時に、

 

身体のどこかに

滞りは

ないだろうか?

 

川で言えば

まるで岩があるかの

ような箇所。

 

そこだけ

流れがいったん

止まってしまったり、

 

淀んだり、

 

濁流が起きたり、

 

水が死んでしまって

いるかのような箇所。

 

別の表現で言えば、

 

そこだけ

まるで異物があるかの

ような箇所。

 

腫れ物が

できてしまっている

ような箇所。

 

それは

ないだろうか?

 

もしあれば、

その異物の部分に

意識を向けてほしい。

 

可能であれば、

その異物の色とか

形とか

重さとか

固さとか、

 

そういったものを

感じ取ってほしい。

 

あまり具体的に

できない場合は

 

その異物の

存在だけ感じ取れば

いい。

 

そして、

 

その異物に

じっと

意識を向け続けて、

 

その異物の

声を

受け取ってみるといい。

 

声でなくても

いい。

 

その異物の「訴え」

のようなものを

感覚で掴んでもいい。

 

「私に何を

伝えたい?」

 

と、

異物に訊いて

みてもいい。

 

恐らくそれは

 

その異物は

 

あなたの

「後悔」

だ。

 

「悔恨」

だ。

 

今、ここに来て

後悔や悔恨の気持ちが

浮上してきている人が

多い。

 

それは、

実は、

 

とても良いことだ。

 

「浮上」というのは

「解消」の前兆だからだ。

 

しっかりそれを

存在承認し、

 

その声や訴えを

聴いてあげてほしい。

 

自分自身を

カウンセリングする

ような感じだ。

 

そして

その異物を

癒してあげてほしい。

 

よしよし、と

手でさすってあげて

ほしい。

 

もしかすると

だいぶ、感情が

出てくるかもしれない。

 

それでいい。

 

すべて

存在承認。

 

以上をしっかりすれば、

異物は癒され、

 

心はニュートラルに

戻るはずだ。

 

そうなったら、

自分自身に問おう。

 

もう二度と

同じ後悔をしないために

 

今日から

明日から

 

何を大事にし、

何をしようか?

と。

 

ここからまた

スタートだ。

 

つづく

 

背後の中心軸

 

いつものように

一日の終わりに

一人静かに

セルフコーチングを

していると、

 

私の背後に

強烈な光の柱があるのに

気づいた。

 

天と地をつなぐ

強烈な光。

 

金色、というよりも

黄色に輝いている。

 

強烈だ。

 

何だろう?と

意識をそのまま向けて

みると、

 

私自身の「新たな中心軸」

であると

気づいた。

 

あんまり強烈なんで

ちょっと躊躇していたが、

 

一体化してみようかな、

 

という気になった。

 

そこで

自分の体とその中心軸を

合わせてみた。

 

その瞬間に

とても多くの「仲間」の

存在を感じた。

 

今の仲間もそうだが、

これから出会うべき

仲間達も感じた。

 

だが、

次の瞬間

私はその中心軸を

もとの場所に戻した。

 

自分の背後に

戻した。

 

何かがよく

わかった。

 

でもまだちょっと早い

とも感じた。

 

もうすぐこれが

私の中心軸となり、

 

私はこれから

これを中心に据えて

すべての発想と

行動を

決めていくことに

なるのだろう。

 

でも、

今はまだちょっとだけ

早い。

 

もうちょい

待とう。

 

ホントにもうちょい

・・・。

 

しかしもう

こうなってしまうと、

 

これまで自分の中心にあった

中心軸が

古く見えてしまう。

 

光も弱っちいな、

思ってしまう。

 

しかしその感覚を

こそ、

ここからは大事に

すべきなのだろう。

 

もうこの中心軸は

古い。

 

もうすぐ

新たな中心軸に

変わる。

 

という

「自覚」こそが

今の私に必要なのだろう。

 

まぁ、

 

楽しみだな。

 

つづく

 

何をやめるか?

 

私は

「どっちでもいいや」

と思うことは、

やらないことに

している。

 

「本当にやろう!」

まったく淀みなく

思うことのみ

やることにしている。

 

その結果として、

随分と

「やらないこと」が

増えた。

 

その結果として、

以前の自分は

人生において

いかに余分なことを

多くしてきたか、

よくわかった。

 

そして、

シンプルな毎日が

好きになったし、

 

時間の密度は

明らかに高まり、

充実度も

高まった。

 

例えば、

コミュニケーションに

おいても

同じ。

 

「どっちでもいいや」

と思う言葉は

一切、伝えないように

している。

 

「本当に伝えよう」

と思う言葉しか

口に出さない。

 

結果として、

コミュニケーションが

とても円滑になったし、

 

逆に

「冗談」も増えたような

気がする。

 

しかしそれは

「相手との繋がり感が

深まる冗談」

だ。

 

これ、

わかりますよね?

 

いらん冗談ではなく、

つながる冗談。

 

この区別がつくように

なったのは

大きい。

 

やはり、

以前の私は

いかに余分な一言が

多かったか、

というのを

痛感した。

 

みんな、

 

余分なことが

多過ぎるのでは

ないか。

 

それを

やめるだけで、

人生は調和を始める

のではないか。

 

強く思うね。

 

そして、

余分なことを

やめたおかげで、

エネルギー的にもゆとりを

持てるようになった

気がする。

 

すると、

新たな何かに挑戦しよう

という意欲も

湧いてくる。

 

新しい自分が

生まれやすくなる。

 

余分なことを

し続けることで、

そういった機会を

これまではずっと

失い続けてきたのだと

思うと、

 

ある意味

ゾッとする。

 

何をするか?

 

よりも前に

 

何をやめるか?

 

だと

思うのだけど、

どうかな?

 

つづく

 

問う力を磨け

 

たった一つの

問いが、

 

人生を変える

ことがある。

 

奇抜な問い

ではない。

 

普通の問い

だ。

 

あなたにとっての

それは何だろう?

 

・・・・・・

 

あるクライアントさんに、

唐突に

次の問いを投げた。

 

「今、地球は

あなたに何を

メッセージしているだろう?」

 

まぁ、これはちょいと

奇抜な問いだったが。

 

そのクライアントさん、

その問いに

まるで食い付くように

真剣に考えた。

 

すると、

ガラガラガラッと

そのクライアントさんの

何かが

崩れていくのが

わかった。

 

そして

これまで覆われて

見えなかった

あらゆる発想が、

 

クライアントさんの

中から

溢れ出た。

 

その一言一言は

私の全身を

痺れさせた。

 

すべて

真本音の言葉。

 

クライアントさんから

迷いとモヤモヤが

 

一切、

消えた。

 

・・・・・・

 

問いは、

 

内容も大事だが、

 

それ以上に

タイミングで決まる。

 

タイミングが

1秒ズレるともう

 

答えは出なくなる。

 

崩れるものが

崩れなくなる。

 

これを

自分自身で

できるようになると

いい。

 

それが

私の言うところの

セルフコーチング力

だ。

 

真の意味での

質問力

と言ってもいい。

 

今の人類にとって

最も必要な力は

これではないか。

 

とさえ

私は思うことが

ある。

 

そのためにも、

まずは自分自身に

問うことだ。

 

問い続ける

ことだ。

 

つづく

 

わからないままでいい

 

扉が開いてみなければ、

わからないことは

たくさんある。

 

扉が閉まっているんだから、

あーだこーだと

今、考えても

しょうがない。

 

開かなければ

わからないのなら、

 

開ければいい。

 

今ここで

考えごとをしていても

開くわけではない。

 

開くまで

行動し続けることだ。

 

未来やビジョンや

目指す姿が

わかった上で進めれば

一番良いかもしれないが、

 

わからないままで

進まねばならない時

は多い。

 

そっちの方が

多い。

 

でも進めば

いつかはわかる。

 

そこまで

進まないから

いつまで経っても

わからない。

 

だから

進むしかない。

わからないままに。

 

・・・・・・

 

わからない時は

わからないのが不安

だから、

 

ついつい

真本音でないにも

関わらず、

反応本音のみで

未来を設定してしまう。

 

反応本音の目標を

設定してしまう。

 

だから後で

混乱が来る。

 

中途半端な設定は

やめた方がいいね。

 

わからない時は

わからないままに、

 

その気持ち悪さの

ままに、

 

わからない!という

焦りも不安も含めて、

 

そのままで

 

進むといい。

 

わかる一歩のみ、

次の一歩のみ、

進めばいい。

 

できれば

わからないという

行き方自体を

楽しむといい。

 

それができるように

なると、

逆に

人生は安泰だ。

 

表面上は

安泰には程遠いが、

本質は

安泰となる。

 

ちゃんと進み続ける

者は、

本質はいつも

安泰だ。

 

・・・・・・

 

かと言って

闇雲に進んでは

ならない。

 

ちゃんと落ち着いて

一歩一歩を

進むこと。

 

次の一歩すらわからない、

とは

言うなかれ。

 

そんなことは

ない。

 

次の一歩は

本当に真剣に見つけようと

思えば、

必ず見つかるものだ。

 

次の一歩すら

わからないなら、

まだ、

真剣さが足りん、

っちゅーことだな。

 

つづく

 

こんな人、素敵だな

 

ひたむきな人って

いいなぁ、

と思う。

 

一途で誠実な人。

 

一つのことを

丁寧に

取り組む人。

 

取り組む以上は

ちゃんとそれを

極めようとする人。

 

まぁ、飽くまでも

私の好みではあるが、

 

そういう人、

好きだなぁ。

 

よくよく考えると、

そういったタイプの

人達が

私のクライアントさんには

多い気がする。

 

どうしても

応援したくなるんだな。

 

そして結局は、

何だかんだ言いながらも、

そういう人が

最後には結果を出す。

 

奇抜さを求めて

奇想天外な道を経て

結果に結びつけようと

する人も多いが、

 

どうだろう、

やっぱり現場で

(現実で)

多くの人達と関わらせて

いただくと、

 

ひたむきで

真面目で

コツコツとやり続ける

人ほど、

ある時ある瞬間に

とんでもない展開を

起こしている気がするんだよな。

 

すげーなこの人!

びっくりする成果を

上げる人ほど、

 

毎日毎日

コツコツと着実に

努力し続けている。

 

やはり、

生き様がそのまま

カタチとして現れるんだな、

思うね。

 

そして、

そういうタイプはまた、

 

とても可愛らしい人が

多い。

 

人間的な可愛らしさ

だ。

 

憎めないのだ。

 

まるで

子供のような目で

笑う。

 

ずっとこの人と

一緒にいたいな、と

自然に思えるね。

 

そんな人が

リーダーシップを

発揮し、

 

そんな人が

世の中に新たなものを

創造していけると

いいなと

思う。

 

ひたむきな会社が

増えるといいな。

 

ひたむきなチームが

増えるといいな。

 

ひたむきな社会に

したいな。

 

つづく

 

何があっても攀じ登る

 

なぜ、

私はここに

いるのだろう?

 

私はどこに

行こうと

しているのだろう?

 

・・・決して

本当に納得の答えは

出そうにない、

そんな問いがある。

 

でも、

自分の心の

中心の方に、

 

奥の方に、

 

どんな時もずっと

在り続けている

その

答えの見つからない

問いは

 

常に自分を

じっと静かに

見つめている。

 

その問いと

どんな時も真摯に

向き合い続けるのは

 

疲れることだろうか?

 

一度、

とことんそれを

やってみては

どうだろうか。

 

いや、

 

きっと

答えは見つからない

だろう。

 

にも関わらず、

真剣に真剣に

やってみては

どうだろう。

 

・・・・・・

 

人生は、

答えがわからない

ことだらけである。

 

もちろん、

適当な答えを

選ぼうと思えば、

どれだけでも

選べる。

 

しかしそこに

納得感はない。

 

しかも、

そういった中途半端な

答えを

大事にすればするほど、

 

私達の心の中には

強烈なストレスが

発生する。

 

ならいっそのこと

答えがわからない

ことは最初から

無視すればいい。

 

ないことに

してしまえばいい。

 

とも思いがちだが、

実はそれこそが

最大のストレスを

生む。

 

答えが

わからないことにこそ

真剣に向き合うのが

「人生」というヤツだ。

 

開き直るしかない。

 

・・・・・・

 

もし目の前に

垂直の壁が

あったら、

 

どうする?

 

登る?

 

それを登らないと

答えが見つからない

としたら。

 

登る?

 

垂直なので、

いつ落ちるか

わからない。

 

いや実際、

何度も

落ちるだろう。

 

それでも

登り続ける?

 

壁を回避することも

選択肢としては

可能だ。

 

だから

皆、回避する。

 

それが

当たり前のように。

 

でも、

周りの誰もが

回避したとしても、

 

どうしても

私は登らねば

ならない、と

 

根拠のない使命感

のようなもののみで、

 

いや、

使命感すらないかも

しれない、

 

意味不明の

想いのみで、

 

いや、

想いすら

ないかもしれない。

 

まぁとにかく、

よくわからないままに

 

必死に壁に

取り付く人が

たま〜にいる。

 

私は

そんな人を

応援したい。

 

そんな人を

応援するために

私はここにいる、

 

というのは

私の現時点での

答えの一つだ。

 

当然、

私も壁を攀じ登る。

 

壁を攀じ登る人しか

壁を攀じ登る人の

サポートはできない。

 

だから攀じ登る

というのもあるが、

 

しかしそれ以上に

私自身が

「人生」というものを

 

もっともっと

探究したいんだ。

 

つづく

 

殻は破るもの

 

卵の中は

卵の中で、

 

そこには

自由な世界が

あるんだ。

 

無限の青空が

ある。

 

そこを自由に

飛び回っている。

 

ずっと

そこにいることも

当然できる。

 

卵の殻を破る

ということは、

 

その自由さを

手放すこと

でもある。

 

卵の殻を破る

というのは、

 

苦しいこと

なんだ。

 

ずっとそこで

自由でいても

いいのに。

 

でも私達は

本能的に、

 

殻を感じてしまったら、

 

そこを

出たくなって

しまう。

 

その自由が、

実は

殻の中の自由

だと

わかってしまったら、

 

そこがどれだけ

居心地が良くても、

 

そこに居続ける

こと自体に

違和感を得てしまう

のだ。

 

それが

私達の本能だ。

 

しょうがない。

 

だから、

 

どうせなら

その本能に

素直になればいい、

私は思う。

 

一度、苦しみに

入ることが

わかっていても、

 

それは

産みの苦しみくらいに

辛いことが

わかっていても、

 

それでも

私達は

行こうとする。

 

その尊さ。

 

それに素直に

なればいい。

 

もちろん、

 

いったんは

苦しくなるが、

 

それでも頑張って

殻を破れば、

 

そこにはまた

新たな自由が

ある。

 

その自由は

これまでの自由とは

次元が違う。

 

これまでの自由は

実は不自由で

あったと、

 

身をもって

知ることになる

だろう。

 

それをまた

私達は

 

本能的によく

知っているもんだからね。

 

だから

行くしかないっしょ。

 

今は、

 

その殻を破る時だ。

 

つづく

 

丁寧に行くぞ

 

いよいよ

門が開き、

 

その向こうの道が

あらわになった。

 

まるで

大河のような

光り輝く道が

 

延々と

永遠に

続いている。

 

その彼方は

あまりに眩しくて

 

今のところ

よく見えない。

 

でも、

ようやく待ち望んだ

道が開けたので、

 

祝福ムード、

お祭り騒ぎだ。

 

・・・・・・

 

私一人の道

ではない。

 

皆と共に

進む道。

 

皆と共に

準備をしてきた

その努力によって

 

ようやく

結晶化した

道。

 

だから、

私はもう

先頭を歩くことは

しない。

 

もう、いっつか昔に

そんな時代は

終わった。

 

誰が先頭を

行ってもいい。

 

それこそ、

全員がリーダーであり、

全員がコーチであり。

 

別に

組織になることも

チームになることも

 

なりたければ

なればいいが、

 

そんなことは

どっちでもいい。

 

一歩一歩を

自らの本当の意思で

進みさえすれば、

 

勝手に

調和も進化も

成されていく。

 

そこには

意気込みも必要ないし、

気合も

前向きさも

必要ない。

 

ただ、

行けばいい。

 

・・・というか、

もうみんな勝手に

進んでるし。笑

 

・・・・・・

 

これから、

様々なことが

大きく変わって

くるだろう。

 

これまで

躊躇していたことや

遠慮していたことや

 

コツコツと

準備のみをし続けて

きたことも

 

すべてが

流れとして

形として

 

一気に開花を

始めるだろう。

 

それを

一つ一つ

楽しめばいい。

 

「芽」はもう

すぐに出始めるだろう。

 

たくさんの芽が

出るので、

一つ一つ丁寧に

行こう。

 

一つの芽には

一つの広大な

命がある。

 

一つ一つ丁寧に

その命を

育もう。

 

・・・・・・

 

時代は

変わるな、

本当に。

 

わかりやすく

変わっていく。

 

時代に

呑まれるか、

 

時代を

創り上げるか。

 

それは私達の

丁寧さ

に掛かっている。

 

スピードはもう

充分にある。

 

ここからは、

 

一つ一つに

魂を込める

丁寧さだ。

 

・・・・・・

 

閉まっていた門

が開き、

 

見えなかった道

が観える時、

 

私達は

嬉しさのあまり

一気に進もうとする。

 

でも

こんな時こそ

注意が必要だ。

 

放っておいても

この流れは

止まらない。

 

だからこそ、

一瞬一瞬を

丁寧に、ね。

 

つづく

 

拒絶しちゃうだろ

 

拒絶感

ですら、

 

真本音と結びつく

ことがある。

 

祈りと拒絶感の

融合だ。

 

するとそれは

驚くような展開で

 

「愛」として

発現することがある。

 

もちろん

意図してできる

ことではない。

 

私達は

「愛そう」

という意図と意志を

持つことはできるが、

 

本当に「愛」そのものが

発現するかどうかは、

私達の意図の範疇

にはない。

 

なぜなら「愛」とは

エネルギーだから。

 

そのエネルギーが

発するかどうかは、

 

私達の顕在意識が

調整できることでは

ない。

 

それよりも

普段の自分自身の

生き方と生き様こそが

 

それを左右する。

 

・・・・・・

 

嫌いな人を

愛することが

できるだろうか?

 

普通は

できないだろう。

 

「できます」

と言う人はむしろ

危うい。

 

それは

自己満足か自己愛に

陥っている可能性が

高い。

 

私達人間は

そんなにも

出来は良くない。

 

ということを

ちゃんと見つめて

おいた方がいい。

 

出来の良くない自分を

見つめることの

できない人は

残念ながら

「愛」というエネルギーは

あまりに脆弱となる。

 

それはともかくとして

嫌いな人を

愛そうとすることには

かなりの難しさが

ある。

 

ましては

拒絶感を手放すことは

なかなかに

至難のわざだ。

 

だから、

そのままでいい。

 

やはり、

 

そのままで

いいのだ。

 

ただ、

 

普段の自分の生き様

として、

常に真本音を大切に

するといい。

 

自分の願いや祈りと

今ここにおける

行動を、

結びつける努力を

続ける。

 

それを日々

大切にする人は、

 

いざという時に、

 

拒絶感すらが

真本音と結びつく。

 

真本音が

自分自身の拒絶感を

活用するのだ。

 

そして

その多くの場合は、

 

自分自身の

空気感として

その場で勝手に

発現される。

 

そしてその空気感は

お互いの関係を

癒していく。

 

それはもちろん

劇的というよりも

徐々に、だろう。

 

でもその

徐々に、

 

ある時ある瞬間に

ある境界を超え、

 

劇的な展開を

見せることも

ある。

 

それを期待しては

ならない。

 

でも、

地道にいくんだ。

 

人間としてね。

 

つづく

 

悲しみが溢れる

 

実は、

 

真本音の悲しみ

 

というのも

ある。

 

もちろん、

真本音そのものに

感情はない。

 

真本音が

「悲しみ」という自らの

反応本音を

活かしているのだ。

 

悲しみと

祈りが

結びつく。

 

それが

真本音の悲しみ

だ。

 

そうなると、

悲しみも

エネルギーに変わる。

 

悲しみも

次へのパワーと

最善の一歩に

変わる。

 

そう考えると、

私達の心には

(反応本音には)

 

やはり一つも

無駄なものはない。

 

・・・・・・

 

先日、

ある人から

「トラウマはどうすれば

解消できますか?」

というご質問を

いただいた。

 

それに対して私は

 

「トラウマは宝物だ」

 

とお答えした。

 

トラウマは

そのままにしておけば

自分にとっては

辛いものでしかないが、

 

しかしこれも

真本音と結びつくことで

祈りのエネルギーへと

変換される。

 

そのトラウマが

あるからこそ、

 

そんな自分で

あるからこそ、

 

見出せる道があり、

やり遂げられること

がある。

 

自分にとって

これは良いもの。

これは悪いもの。

 

良いものは

大切にし、

 

悪いものは

消去しよう。

 

・・・ということは

必要ないのだ。

 

そういうことでは

ないのだ。

 

それよりも

私達がすべきは、

 

これまでの経験も

 

その経験で得た

自分の心も

 

すべて

 

活かすことだ。

 

それが

自分の人生では

ないか。

 

そしてそのためにも

私達にとって

必須なのは、

 

真本音で生きる

こと。

 

真本音度合いを

高めること。

 

つまりは、

自分自身の

本当の願いや祈りに

基づいて

 

今この瞬間を

生き続けることだ。

 

つづく

 

怖がってもいいんだ

 

混乱が

怖いかな?

 

これまで

安定していたものが

一気に壊れ、

 

足元が

ぐらついてしまうのは

 

怖いかな?

 

怖いのが

いけないのでは

ない。

 

怖がるのが

人間だから。

 

大事なのは

自分のその

怖がっている気持ちを

 

あるがままに

 

そのままに

しておくことだ。

 

その存在を

認めることだ。

 

そうすれば、

 

「怖さに基づいた

行動」

 

には

つながらない。

 

私達が後々に

後悔してしまうことの

多くは、

 

「怖さに基づいた

行動」

 

を起こしてしまった

ときだ。

 

もちろん

本当に身の危険を

感じる場合は

そうせざるを得ない

が、

 

単なる自分の

憶測だけの怖さに

よって、

 

本当に自分の

取りたかった行動とは

別の行動を

取ってしまい、

 

さらなる混乱や

不安を

引き起こしてしまった場合、

 

私達は

後悔する。

 

本当は、

「怖さ」とは

私達の味方だ。

 

「怖さ」を

あるがままに

感じ取り、

 

あるがままに

見つめることで、

 

本当に望む

自分自身の最善の

一歩が

観えてくる

ものなんだ。

 

私達の心の中に

不必要な心は

 

本当は

一つもない。

 

しかし

私達自身がそれを

不必要な存在に

仕立て上げて

しまっている。

 

それは

その心に蓋をしたり、

 

その心から

目を背けたり、

 

その心から

逃げよう逃げようと

し続けることで

 

そうなってしまう。

 

そして、

「不必要にされた心」

は、

 

心の中で

反乱を起こす。

 

それにより

心の中に混乱が

起こり、

 

現実の混乱と

心の中の混乱が

融合し、

相乗効果を起こし、

 

ますます自分自身を

混乱させて

しまうのだ。

 

怖がる心を

怖がるな。

 

という

ことだけど、

難しいかな?

 

一見難しそう

だけど、

 

実は

えいっ!と勇気を持って

怖がっている心を

見つめると、

 

案外、

大したことはない

ことが多い。

 

やはり

蓋をするから

大したことになって

しまうのだ。

 

私達の心は

 

見つめれば

見つめるほど

良い。

 

それが

自分と向き合う

基本だ。

 

つづく

 

苦しみを語る

 

いつも私は

人の苦しみについて

考える。

 

人は

苦しむ生き物

だ。

 

それを完全に

自らの中から

排除することは

極めて難しい。

 

その苦しみの

多くは、

その人自らが

生み出しているもの。

 

苦しみとは

現象そのものなので

実在としてのそれは

存在しないのだが、

 

しかし

その現象が

苦しい。

 

実在のない

もの。

 

ただ、

感覚のみが

現象として発生

するもの。

 

それが

苦しみだ。

 

だから、

本当は苦しみなどは

ないのだよ、

言われることも

ある。

 

実在の意味に

おいては

その通りなのだが、

 

しかしここは

現象の世界なのだ。

 

現象として在る

ものは在る

のだ。

それもまた

現実。

 

しかもその

現象(苦しみ)は、

 

人から人へと

伝播もする。

 

8割方

今の苦しみが

自分の苦しみだと

しても、

 

あとの2割は

他の人から

受け取ったものであり、

他の人の苦しみを

まるで自分の苦しみの

ように

感じ取っている

ものだ。

 

ところが、

その8割と2割が

逆転することが

ある。

 

人の苦しみを

受け取り

その感覚によって

苦しんでいるのに、

 

その苦しみと

自分の「記憶」の何らかの

現実とを

自分で勝手に結びつけ、

 

あぁこの苦しみは

あれが原因の苦しみだ、

 

自分で勝手に

結論を出して

 

本当は自分の苦しみ

ではないのに

苦しみ続けている人が

いる。

 

自分の苦しみの8割方を

そういうことをしている

人もいて、

実はとても多い。

 

いずれにしても

苦しみとは

苦しいことなので、

私達は

そこから逃げ出したい。

 

だから

苦しみには

背を向ける。

 

だから余計に

苦しみの正体を

知らないままに、

 

人は

苦しみ続けている。

 

・・・・・・

 

今、

私はとても

頭が痛い。

 

その痛む箇所に

意識を向けると、

 

それは

今日コーチングをした

クライアントのAさんの

ものだとわかる。

 

内容までは

さすがにわからない。

 

しかし

どのような類の

苦しみかは

わかる。

 

そして

どれだけの大きさの

苦しみか、も。

 

私はそのAさんの

苦しみと向き合いながら、

それを浄化しながらも、

Aさんの次のサポート

の方向性について

検討をする。

 

こんなことをもう

20年も毎日毎日

休みなく

続けている。

 

だからよくわかる。

 

Aさんはこのままで

いると、

間違いなく

病気になるな、と。

 

人の苦しみは、

それがある境界を

超えると、

3次元化する。

 

つまりは、

物質化する。

 

心が

物理的なものに

変化するのだ。

 

それが

病気となって

現れる。

 

医学的にそんなことが

証明されているか

どうかはわからないが、

 

これは私が

サポート現場でいやでも

実感し続けている事実

だ。

 

だから

病気になる前に

何らかの手を

打たねばならない。

 

どうしようかな?

 

・・・・・・

 

私は

人の宿命について

いつも考える。

 

宿命と苦しみは

セットだ。

 

宿命が苦しいもの

だという

意味ではない。

 

でも多くの人が

自分自身の苦しみと

向き合い、

それを越えようと

するときに、

 

自らの宿命を

受け入れる。

 

そこから初めて

「自由」は

始まるんだ。

 

つづく

 

大丈夫だ

 

心配するな。

 

あなたはちゃんと

進んでいる。

 

ただ、

 

かつてないスピードに

挑戦しているが故に

 

何もわからなくなって

いるだけだ。

 

進むが故の

不安定と

進むが故の

混乱だ。

 

必然的な

ものだ。

 

道は、

観えなくても

いい。

 

今はまだ

観えない方が

いい。

 

観えないことを

楽しめばいい。

 

その不安定さを

楽しもうとすれば

いい。

 

今、

 

進む仲間は

世の中にたくさん

いる。

 

まだ出会っていない

人達も多い。

 

でも、

進む人達は

常に影響をし合って

いる。

 

もうすでに

連携をとっている。

 

相乗効果すら

ある。

 

相乗効果の波を

きちんと生み出し、

 

波が波に乗った

その上で、

 

出会おう

という魂胆だ。

 

何という変態的な

進み方か、

とも思うが、

 

それも楽しみ方の

一つだ。

 

人生は、

いろいろな進み方が

ある。

 

私達の頭では

想像をし得ないくらいの

とんでもないことを

 

私達は心の

奥の奥の方では

すでに決めていたり

する。

 

そして

その奥の方で、

 

つまりは

実在のレベルで、

 

私達は

チームなんだ。

 

チームが

チームとして

出会っていく。

 

これからちゃんと

出会えるように、

 

今は多少の不安定が

あったとしても、

 

多少の無茶を

したとしても、

 

このまま

行けばいい。

 

未知のスピードで

行けばいい。

 

つづく

 

私は何者か?

 

よく私は

「加速しよう」

という言葉を

使うが、

 

実は、

 

中途半端な加速ほど

苦しいものはない。

 

加速するなら

徹底的に

するしかない。

 

加速してみようかな?

では

苦しいだけで

逆にすぐに止まってしまう。

 

勢いだけで

進もうとしてもダメだ。

 

それも

中途半端さしか

生まない。

 

本当に加速する

ためには、

 

「私は何者か?」

 

という問いと

徹底的に向き合う

ことだ。

 

そしてその答えを

出そうと、

 

完全に

決めることだ。

 

とは言え、

そう簡単に答えは

出ない。

 

下手をすると

一生出ないかも。

 

しかしそれでも

必ず答えを出そう

決めるんだ。

 

私は何者か?

 

私は何者か?

 

私は何者か?

 

これを問い続けながら、

その答えを

求めながら

 

今、やる。

 

思えることを一つ決め、

(完全に決め)

 

その一つを

一切の迷いを捨てて

実行する。

 

それの連続だ。

 

「私は何者か?」

 

とは、

自分の意識を

「原点」に

戻してくれる。

 

その「原点」が何か?

はわからなくとも

少なくとも

原点のその場所には

意識は戻る。

 

原点とは

ゼロの地点だ。

 

いつもいつも

ゼロの地点に

戻りながら、

 

前に進む。

 

これにより、

勢い任せの中途半端な

加速からは

解放される。

 

これを

実直に淡々と

飄々と

 

毎日、

毎時間、

毎分、

毎秒、

 

する。

 

そう決めて

進む。

 

進もうとする。

 

これだけの

ことなんだよ。

 

つづく

 

開き直ってシンプルに

 

「私」の範疇で

物事を進めようと

するから、

 

複雑化

するんだ。

 

わけが

わからなく

なる。

 

わけがわからないままに

次の一歩を進むから

 

余計に

わからなくなる。

 

自分を失うのは

当然のことだ。

 

「私」の範疇に

いようとすると、

 

結果として

自分を失うんだ。

 

とても乱暴な

言い方だが、

 

今は

次の心の声が

とても大事な時代(時期)

のような気が

どうしてもするんだ。

 

「私なんて、

どうだっていい。」

 

この一言。

 

これを呟きながら

決断するといい。

 

もちろんこれは

自暴自棄になる

ことではない。

 

でも、

「開き直る」ことだ。

 

自暴自棄と開き直りは

真逆のことだ。

 

自暴自棄は

自分もすべても

捨ててしまうこと。

 

自分を失った状態で

進むこと。

もしくは、

進まないこと。

 

そこにあるのは

「虚無」だ。

 

「開き直り」は

真逆。

 

それは

自分を超えること。

 

それにより、

これまでの自分では

到底為し得なかった

「すべてを大切にする」

「すべてを活かす」

「すべてを統合する」

ということが

 

結果的に

成されるんだ。

 

そのためには、

今の「私」という

小さな範疇にいては

ダメだ。

 

「私」を超えて

本当の

本来の

『わたし』の声を

聴き、

 

『わたし』の

決断で行くんだ。

 

開き直って

「私」を捨てた時、

 

その奥から

『わたし』が

悠然と

屹立する。

 

でも、

 

それを意図しては

ならない。

 

頭で考えて

行なっても意味は

ない。

 

行なうのは、

 

真剣に、

 

「私なんて、

どうだっていい。」

 

と呟きながら、

進むことなんだ。

 

今はね。

 

つづく