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どうしても
壊さないといけない
ものがある。
壊すことに
躊躇をしていては
ならない時
がある。
そんな時に
迷うことなく
壊すことが
できるか?
心にどれだけ
恐怖や痛みが
走ったとしても、
一瞬の淀みも
なく、
壊すことができるか?
そんな自分に
なるために
私はかなり
苦労した。
正直、今でも
自信はないのだが、
でも
心は揺れても
その瞬間を逃すことは
ないであろう。
それが私は
「コーチ」の役割だと
思っているし、
それができなければ
「コーチ」ではない
と思っている。
壊すべきものを
壊せるか?
手放すべきものを
手放せるか?
自分の心の苦しみを
理由に
自分の行動や
振る舞いを変える
ことなく、
誰よりも正確に
その瞬間にそれを
実行する。
その覚悟の
ある人を
私は「コーチ」として
育てたい。
「壊す」
とは
「生かす」
こと。
「手放す」
とは
「結ぶ」
こと。
それを
本当に知っている
人こそが、
人を
真にサポートできる
のだから。
つづく
定期的に
点検しよう。
「私は今、
“すべて”の中心に
いるだろうか?」
・・・と。
年齢や立場に
関係なく、
人は
誰しも
“すべて”の中心
にいる。
本質的本能的
には
そのように
捉えている。
それが
人の心が健康
な状態だ。
そうなれている
時は
私達の心や体が
壊れることは
ない。
そうなれていない
からこそ、
私達は
喪失感や孤独感や
執着に
苦しめられる。
だから最初は
イメージ
だけでもいい。
自分が
“すべて”の中心に
いる状態を
意図的につくろう。
イメージ
だけでもいい。
いつもそうなれて
いない人は
このイメージを
するだけで
苦しくなるだろう。
しかし
苦しくても
続けるといい。
毎日毎日だ。
中心にいることに
自分を慣らすと
いい。
それだけで
心身は
シャンとするよ。
つづく
時々、
未来を感じる
ことがある。
イメージが湧く
わけでもないし、
明確でもない。
でも、
確かに未来を
感じている。
そして
いつも安心する。
あぁこのまま
行けばいいな、
と。
自分が
今ここにいて
自分の今の
一挙手一投足が
未来を創る
ということは
誰もが理屈では
わかっていても、
その影響の大きさ
には
あまり意識は
ないようだ。
でも、
ちょっとした自分の
振る舞いが、
人生を大きく左右する
のは
日常茶飯事だ。
今の自分の
振る舞いと
未来の現実。
その繋がりが
みえないから
なかなか実感は
ないかも知れない。
でも、
その繋がりは
私達の想像以上だ。
人生は、
人生に影響するな
という
大きな選択肢のみ
が
大事なわけではない。
むしろ、
自らの気づかない
あまりにも
日常的な
ちょっとした振る舞いに
よって
決まってくるのだ。
その自覚を
もう少し
私達はした方が
良いと思う。
良い人生を
創りたいのなら、
今ここでの
次の振る舞いを
大切にしよう。
一つ一つを
丁寧に。
力を入れる必要は
ないけれど、
誠実に。
つづく
未来を
イメージした時、
胸がザワザワ
したり、
心が騒がしく
なるようであれば、
その未来は
目指さない方が
いい。
それは
反応本音のレベル
のビジョンだ。
どうせ
未来を描くので
あれば、
真本音で
描こうではないか。
真本音で描く
未来は、
静かだ。
静かと言っても
エネルギーがない
わけでも
表面的に静かな
わけでもない。
むしろ
踊るような
活気ある場面を
描いたとしても、
それを見つめる
私達自身の
心と魂が
静かになるのだ。
それを
イメージすれば
するほど、
ワクワクするのと
同時に
鎮まるのだ。
そして
鎮まったその
心で、
あぁそうか
私はこれを
目指すんだったよな。
・・・と
まるで過去の出来事を
思い出したかのような
感覚になる。
そう
それは、
実際に
思い出している。
未来を
思い出している。
私達は
未来を思い出し
ながら
進むことで、
未来を
まるで当然のように
実現していく。
もちろん
試行錯誤はある。
悩みも迷いも
生まれる。
でも
その一歩一歩を
やはりこれも
最初から必要と
されているステップとして
必然的で
大事な道のりとして
どこか
楽しみながら
進むことができる。
その瞬間は
心の底から
悩んでいる。
余裕もゆとりも
ない。
一歩先が見えなく
なることも
ある。
暗中模索だ。
しかしそれでも、
どこか
私達はすべてを
わかってやっている。
そんな眼差しが
どこかにありつつも、
今を
精一杯に
進む。
そして、
進むごとに
自分自身を取り戻し、
進むごとに
自分は開かれ、
本来の自分として
その未来に
たどり着く。
歓喜の道。
達成したその瞬間も
もちろん
嬉しいが、
一歩一歩が
歓喜の道なんだ。
悩もうが
迷おうが
そこに
歓喜があるんだ。
だから
未来を描くなら
真本音で
描こう。
つづく
昔、登山をしていた頃、
北アルプスや
南アルプスや
様々な山に登りながら、
時折ふと
遠くに聳える
富士山を見つけた
ものだ。
富士山は
どこからどう見ても
だいたいいつも
同じ形だ。
季節が変わっても
天候が変わっても
場所が変わっても
同じ形だ。
威風堂々とし、
かつ
神秘的で
揺るがない。
男性性も
女性性も
ある。
人は
そういった
揺るがないものに
安堵する。
富士山という
存在が
日本という国に
与えた影響は
私達が想像している
よりも
大きいのではないか
と思う。
・・・・・・
私達の中にも
揺るがないものは
存在する。
心はいつも
移ろうものだが、
心の中心には
揺るがぬ存在が
ある。
私はそれを
『真本音』
と名付けたが、
名前をつけても
つけなくても
それは
太古の大昔から
そこにある。
揺るがぬものを
常に感じながら
生きる人生と、
揺るがぬものを
知らぬまま
生きる人生では、
人生の質も中身も
根底から
変わるだろう。
同じ人間なのに、
人生は
根底から変わる。
揺るがぬものが
なければ、
私達は常に
何かに怯え続ける。
そして
その怯えに
打ち勝つための
人生か、
怯えから
逃げる人生か、
どちらかに
なるだろう。
どちらになっても
それは
不安定だ。
・・・・・・
怯える心を
怯えないように
矯正したり、
強制することは
不可能だ。
怯えの心は
そこに存在
し続ける。
なぜなら
それが私達の
本能の一つだから。
怯えても
怯えなくても
関係ない、
揺るがぬ存在が
そこにあれば、
怯えても
怯えなくても
関係のない人生と
なる。
いや、むしろ
怯えがあるからこそ
間違いなく進める
私達になる。
怯えの心を
なくさなければ、
というのは
不自然だ。
それは
世の中から
風をなくさなければ
と
言っているに等しい。
世の中に
風は吹く。
それが
自然だから。
心の中に
怯えは湧く。
それが
自然だから。
あらゆる自然を
そのままに
受け止め、
あらゆる自然を
そのままに
楽しみ、
あらゆる自然の
中で
聳え立つ。
そんな
まるで富士山の
ような自分に
私達は
誰もがなれる。
真本音を大切に
生きる
とは
そういうことだ。
つづく
その人の
心の中心には
火が灯っている。
確かに
火が灯っている
のがわかる。
だからその火を
大切にして
ほしい。
それは
命の灯火だ。
命そのもの
だ。
なのに、
その灯火を
打ち消すかのような
言動を
私達人間は
してしまうことが
ある。
それを
目の当たりに
すれば、
当然、
悲しくなる。
悲しくなるが、
他者として
できることには
限界があり、
自分の命を
活かすかどうかは、
これも
当然だが、
その人自身の
判断に
よるしかない。
その人の人生は
その人のもの。
その人の命は
その人のもの。
確かにその通り
だが、
本当に
それだけで
良いのだろうか。
それは
その人を
本当に尊重している
ということに
なるのだろうか。
・・・・・・
灯火と灯火は
本当は
共振し
共鳴する。
灯火が紡がれ、
さらに大きな
光になる。
そんな社会に
なれるといいな、と
いつも私は
願っているが、
そのために
全力を注いで
いるが、
なかなか、ね。
もし
人を救う力が
あるのなら、
私はその人を
救いたい。
でも、
その人を救う
ことは、
本当にその人を
救うことに
なるのだろうか。
そもそも
救う、
とは何だ?
命を救うのは
その人を
救うことに
なるのだろうか。
つづく
私達大人が
自分の心に蓋を
してしまうと、
子供たちだって
してしまう。
子供は大人の
真似をする。
しかし
これからの時代を
担う
若い世代の人たちは
私と同じ世代よりも
感受性が豊かだ。
だから
蓋をする生き方を
すれば、
言いようのない
気持ち悪さ
を感じるはずだ。
気持ち悪さを
感じて
自ら生き方を変える
ことができれば
良いが、
そう都合良くは
いかないだろう。
むしろ
その気持ち悪さに
さらに蓋をする
ということに
なるのではないか。
ますます
心は閉じこもって
しまうだろう。
私はそういう
社会になることを
本当に
避けたいと思う。
今の社会を
引っ張っている
我々の世代が
大人たちが
ちゃんと
自らの心と向き合い、
自分の本当に望む
生き方を
社会において
実践する。
それこそが
最も大事なこと
であり、
次世代に
良い世の中を
引き継いていくために
まずはできること
だと私は
思う。
・・・・・・
蓋をして
自分を誤魔化し
ながら生きることは
とてつもなく
深くて強い
ストレスを生み出す。
しかし、
それをしている
当の本人に
その自覚は
ない。
だからどうしても
サポート役が
必要だ。
最近、改めて
つくづく
思う。
世の中には
「コーチ」が
必要だ。
本物の
「コーチ」が
必要だ。
「コーチ」が
足りない。
「コーチ」が
いない。
何とかしたいと
改めて
強く思う。
つづく
やっぱり
向き合うかどうかだな
と
改めて思う。
人と人が
出会うのは
ご縁だが、
その縁を
本当に生かせるか
どうかは
運に任せる
わけにはいかない。
せっかく出会った
のだから、
その縁を
宝物として自ら磨く。
それをする
唯一の方法が
「向き合う」
だな、と。
ちゃんと
目と目を合わせ、
意識を
相手に向け続け、
自分の価値観とか
考えとかに
執着せずに、
その「場」そのものを
大切にする。
しかし
自分の価値観も
考えも
必要に応じて
ちゃんと表明する。
そして
相手の話を聴く。
喋る時も
聴く時も
意識は相手に
向け続ける。
そんな基本的な
ことを
一つ一つ丁寧に
続けることで、
この人と私は
なぜ出会ったのか、
が
理屈を超えて
わかる瞬間が来る。
その人と私は
何を創造すれば
よいのか、
が
理屈を超えて
わかる瞬間が来る。
その瞬間その場に
吹く風は
実に気持ちよく、
そんなときに
つくづく思うのだ。
この人と出会って
本当に良かったな、
とね。
つづく
あなたの心の
中心核には
「祈り」と共に
「問い」が
あるはずだ。
「問い」とは
人生のテーマ。
自分の人生の
最初から終わりまで
一貫して
持ち続ける。
探究テーマ
だ。
人生の問い。
それは
人それぞれ
異なる。
あなたの問いは
何だろう?
・・・・・・
あなたは
生まれた時から
毎日、毎日、
その問いと
共に
歩んできたはずだ。
問いは意識
せずとも、
ずっとそこに
あり、
問いの答えに
つながるヒントを
得るたびに
あなたは
理由のわからない
高揚感やワクワクを
感じ続けてきた
はずだ。
時には
問いから逃げよう
としたこともあるだろう。
そんな時期は
自分らしさから
遠く離れてしまう。
まるで
灰色のような
日々だったはずだ。
今のあなたは
どうだろう?
問いに近い日々
だろうか。
問いから遠い日々
だろうか。
・・・・・・
人生の問いは
実にシンプルだ。
説明も必要ない。
あなた自身の
問いだ。
もうそろそろ
思い出しても
良いのではないかな。
つづく
私達の中には
様々な
エネルギー源が
ある。
一つの種が
エネルギーを発する。
その種を
いくつ持っているか
によっても
その人の内発的な
エネルギー量は
変わる。
もちろん、
たくさんあればあるほど
幸せだろう。
あなたの中に、
そのエネルギーの
もととなる
新たな種が
芽生えたのでは
ないか?
よく
自己観察を
してみてほしい。
新たな種が
生まれることは
とても喜ばしいことだ。
それはあなたが
次のステージに
進むという兆し
でもある。
だから
新たな種は
ちゃんと自覚した方が
よい。
自分自身の
新たなエネルギー源。
それは
新たな目的かも
しれない。
新たな在り方・生き方
かもしれない。
新たなテーマ・課題
かもしれない。
いずれにしても
それを自覚し
意識を向けるだけで
あなたの中から
内発的なエネルギーが
発生する。
ちゃんと
自覚して、
さらに
楽しく進もう。
つづく
人って
こういうもん
なんだな。
人には
こんなところが
あるんだな。
人の本質は
こうだな。
・・・この仕事を
続け、
人について
わかるようになれば
なるほど、
人が
わからなくなった。
どこまで
わかっても
わかれば
わかるほど、
わからなくなる。
それが
人というものの
深さだなと
思う。
もともと私は
傲慢な人間なので、
俺はもう
いろんなことが
よくわかった、
と
以前はすぐに
思い込んだ。
その度に
痛い目に遭った。
懲りないところが
また
私というの人間なので、
何度も
同じ痛い目に遭いながら、
やっと
自分が何もわかっては
いないことを
わかることができた。
そして
わからない
という事実を
受け止められるように
なった。
そして
あぁこれこそが
謙虚さというものか、
とわかった。笑
謙虚さは
探究心を生む。
わからないので
あれば、
さらに
わかろうとする。
それが
永遠に続くであろう
ということは
わかっているのだが、
それでも
さらにわかろうと
努力する。
その姿勢こそが
謙虚さなのかも
しれない。
そして面白いことに
自分が
わからないことが
わかるほどに、
私は確信を持って
ものを言えるように
なった。
自信が
なくなればなくなるほど、
ある時のある瞬間に
確信が
芽生えるようになった。
その瞬間は
すべてがわかったような
感覚になる。
でも一瞬後には
何もわからなくなる。
すべてがわかった
その瞬間に
私自身が発する一言は
私でも
予測し得ないものであり、
その一言を
人に伝えることで
私は私自身をも
救ってきたと思う。
そしてまた
そんな体験が続くたびに
私はまた
私自身のことも、
人のことも、
わからなく
なるのだ。
つづく
人が
「本来の自分」
に
戻る瞬間がある。
今日のコーチングも
そうだった。
その瞬間、
風が吹く。
その人の心から
余分なものが
取り払われ、
私はまるで
初めてその人と
出会ったかのような
感覚を得るのと
同時に、
よぉ、久しぶり!
と、
旧友に再会したかの
ような
懐かしさを覚える。
そして
じわりと泣けてくる。
ずっと一緒に
いたのに、
その人は
その人では
なかった。
やっとその人と
出会えた。
出会ったら、
なんだ
あいつだったのか。
私のよく知っている
あいつだったのか。
・・・そんな感じ。
人間というのは
面白い。
そして、
「本来の自分」に
戻れたその人とは
ここまでとは
まったく異なる
会話が始まる。
これまでの
あのやりとりは
いったい何だったの?
と思うような
会話の展開となる。
次元が
変わるのだ。
そして、
その人の
さっきまで語っていた
悩みは
もはや悩みでは
なくなり、
そんなことは
どうでもよくなり、
それよりも
前に進むための
最も大事なテーマを
その人は
語り出す。
人間というのは
面白い。
つづく
辛い辛い、
と言いながら、
魂が笑っている
人がいる。
幸せ幸せ、
と言いながら、
魂が苦しんでいる
人がいる。
私達人間は
面白い。
表面の自分と
奥の自分が
乖離している。
そんな人が
多い。
しかし私なぞは
もっとみんな
素直に生きれば
いいのに、
と思う。
魂が笑っているなら
顔も笑えばいい。
魂が苦しんでいるなら、
その辛さを
素直に感じればいい。
乖離をする必要は
ないのにな、と
思う。
・・・・・・
一貫性。
奥の自分と
表面の自分が
一致すること、
であると
私は捉えている。
一貫性の
取れている人は
魅力的だ。
その人にしか
出せない味を
出す。
空気感に
現れる。
一緒にいたいと
思う。
そんな人はきっと
いろんな調和を
生み出す。
その人にしか
創り出せない人生の
成果を
創り出すだろう。
そういった意味では
一貫性と素直さとは
私の中では
同じ意味だ。
・・・・・・
魂の望む生き方を
素直に
してほしい。
単純に私は
いつもそれを
願っている。
自分に対しても。
人に対しても。
世界に対しても。
一貫性のとれた
素直な世の中に
したいものだ。
つづく
想いが100
あるならば、
行動は
300くらいするのが
ちょうどいい。
この世は
制約だらけだ。
想いは自由に
持てるが、
行動はそう簡単に
自由には行かない。
動けば
いろんな障害に
当たるだろう。
だからこそ
300動くんだ。
・・・・・・
例えば、
一年後の目標が
あるならば、
半年で
実現するつもりで
動こう。
1ヶ月先の目標が
あるならば、
半月で達成する
つもりで動こう。
予定している
時間の
半分ですべてを
完了させる。
それくらいが
ちょうどいい。
・・・・・・
いざ動こうと
すれば、
私達は
自分で自分を
縛る。
できない理由を
自分に浴びせ、
動かないように
動かないように
持っていこうとする。
人間、
そうなるのは
仕方ない。
でもだからと言って
動かない
という選択肢は
ない。
それが
今だ。
・・・・・・
動くべき時が
ある。
決断すべき時が
ある。
それが
今だ。
今、動かずして
いつ動く?
いつ
自分の人生の
流れを
変えると言うのだ?
つづく
人の面白さ
とは、
自分のことを
自分自身が
ちっともわからない
ところに
あるのかもしれない。
自分のことを
本当に理解できれば、
私達はもっと
楽に生きられる。
自分は確かに
ここにいるのに、
自分は自分
なのに、
自分のことが
わからない。
何を考えているのか
わからない。
何を願っているのか
わからない。
わからないという
ことすら
わからない。
だから誰もが
いつも戸惑う。
たまたま
その時に思いついた
答えが、
自分の答えだと
思い込む。
たまたまその時
大きかった気持ちが、
自分の気持ちの
すべてだと
思い込む。
本当は
それらは
答えの一部、
気持ちの一部、
でしかない
のに。
自分自身の
見えているところ
だけが
自分だと
思い込む。
自分が自分の
ことを
一番、わかっていると
思い込む。
だから余計に
わからなくなる。
これが
私達であり、
だからこそ
面白いのかも
しれない。
・・・・・・
自分のことを
理解したければ、
自分自身に
問うしかない。
問いかけ
続けるしか
ないではないか。
問いかけては
本当の答えだと
思えるものを
答えとし、
行動するしか
ないではないか。
しかし
それすらも
真面目にはやらない。
問うことすら
しない。
そりゃ、
なんとも
ならんわな。
内側を見つめ、
行動をし、
その結果
外側で起こる現実を
見つめ・・・。
その繰り返しで
私達は
生きていくしかない
のだ。
どうせなら
その一つ一つを
楽しみたい。
そのためには、
その一つ一つを
真剣にやろう。
真剣に
自分を
理解しようと
決めよう。
だって
自分とは
自分のことなの
だから。
つづく
私はここで
何をする?
・・・この問いと
常に向き合い続ける
人は
誠実だ。
自分自身の存在意義
とは
自分で見つけるものだ。
見つけようと
するものだ。
それを放棄する
その瞬間から、
私達の中には
「虚無」が
発生する。
しかし本当は
「虚無」などというものは
ない。
「虚無」という
概念と感覚を
私達は勝手に
創り出しているだけだ。
にも関わらず、
私達は心の中に
多かれ少なかれ
「虚無」を持ちながら
生きている。
そしてそれを
極度に恐れる。
蓋をするから
余計に怖くなる。
蓋を開けられなく
なり、
「虚無」から目を
背け続け、
誤魔化しながら
生きるようになる。
誤魔化しの人生の
多くは、
ここから始まる。
私の仕事とは
人々の中の「虚無」と
向き合い続ける仕事
だとも言える。
当然、私の中にも
「虚無」は生まれる。
しかし私は
あっ、生まれたな
と
敏感に自覚できるから
幸いだ。
自覚できたら
すぐに向き合う。
向き合えば
その「虚無」が
どこでどのように生まれたか
がわかる。
わかれば
対応できる。
やはり多くの場合は
自分自身に
問題がある。
私はここで
何をする?
から逃げてしまって
いる時が多い。
私だけでなく
みんなも日々、
「虚無」を創り出す。
だから思う。
もっとこの問いと
真摯に向き合うこと。
答えがわからなくとも
真摯に向き合うこと。
それこそが
人生と真摯に向き合う
基本ではないか、と。
私達は
何らかの環境の中に
生きている。
今、いる環境とは
必ず縁が
ある。
縁とは意味である。
意味があって
必ずここにいる。
中途半端な意味を
無理に見出す
必要はない。
しかし、
私はここで
何をする?
という問い自体を
本当に
大切にし続けたい。
ひょっとすると
それだけで
人生は変わるかも
しれない。
つづく
この人、
なんといい加減なんだ、
と思う人の
中にこそ、
とてつもない覚悟を
感じる時がある。
そんな時、
あぁだからこそ
ここがいい加減なんだ、
と
妙に腑に落ちる。
人間の妙
だ。
皆、
個性がある。
どこを気にして、
どこを気にしないか、
という風に
個性は現れることが
多い。
それを
面白味として
捉える大らかさが
あれば、
その人の覚悟は
育つ。
私はひょっとすると
これまで、
その大らかさの
大切さを
学ばさせていただいた
のかもしれない。
それが
私の人生だった
のかもしれない。
よく、
「長所を伸ばせばいい」
という言葉を
聴くが、
それを聴くたびに
「安直なことを言うな」
と
言いたくなる。
人間は
そんな単純な
ものだろうか。
そもそも
長所ってなんだ?
自分にとって
都合良く、
その人の長所を
決めつけていないか?
実は、
その人の短所の
奥にこそ、
その人の本質が
隠されているのかも
しれないのだ。
その人の覚悟が
埋もれているのかも
しれないのだ。
人間とは
深いものなのだ。
しかも、
人は生まれ変わる。
生きながらにして
生まれ変わる。
人によっては
何度も。
人間を
短絡的な解釈のみで
決めつけてしまっては
ならない。
人間とはもっと
深いものなのだ。
つづく
また
潮目が変わった。
止まっていたもの、
淀んでいたもの、
が
一気に流れ
始めた。
正常な動きだ。
淀むこと自体は
悪いことでは
ない。
一気に流れる
パワーを宿すために
あえて
淀むことがある。
淀みと流れと
その連続で
世の中の潮流は
動き続ける。
正常な
ことだ。
・・・・・・
潮流に乗る
ためには、
淀むときに
ちゃんと淀む
ことだ。
淀みから
逃げては
ならない。
ただの流れは
何も生まない。
そこに
進化はない。
進化を求める
からこそ、
挑戦をする
からこそ、
様々な淀みが
起こる。
淀んで
流れ、
淀んで
流れ、
実に正常だ。
実在のレベル
では、
世の中は随分と
正常になった。
その正常さと
今の世の中の
現実(現象)を
ちゃんと
繋いでいくことだ。
一致させて
いくことだ。
これからの
最重要テーマは。
・・・・・・
挑戦したいことが
あるならば、
素直に
挑戦しよう。
未知の領域に
突入するには
好機だ。
今、変わらねば
いつ変わる?
つづく
頭で
考え過ぎだ。
考えることは
大事だ。
しかし
「考え」だけで
答えを創り出そうと
しない方がい。
そこには
「答え」はない。
「考える」とは
余分な気持ち達を
一つ一つ
存在承認しては
除ける
ためにある。
こんな考えも
あるな。
あんな考えも
あるな。
自分の中にある
様々な「考え」を
すべて掘り起こし、
存在承認し、
そして
除ける。
それが
「考える」という
行為だ。
真の答えは
その奥にある。
「考え」の
向こう側にあるからだ。
奥にあるそれが
顔を出すまで
考え続ける。
というスタンスであれば
それでいい。
「考え」の中から
強引に答えを
創り出そうとしては
ならない。
真の答えは
最初からある。
それは
いずれ必ず
顔を出す。
まるで
過去の出来事を
思い出すかのように。
だから、
もし「考え尽くしたな」
と思えたり、
同じ考えばかりが
出てくるようになったら、
今度は逆に
心を静かに、
すべての思考を
やめて、
「何もない」
状態で
「何もしない」
でいるといい。
そのためには
思考に向けた意識を
「外」に向けると
いい。
意識を
自分以外の何かに
向ければいい。
外にあるものを
ただ
観察し、
目で愛でていれば
いい。
世の中を
世界を
愛でるような眼差しで
楽しめばいい。
そうやって
真の答えが
「そろそろ出ようかな」
となる瞬間を
待てばいい。
つづく
自分の
真の安定感を
味わってみるが
いい。
それは
未だ出会ったことの
ない自分
だろう。
大地よりも
大きく、
空よりも
広く、
海よりも
深い
自分だ。
そんな自分を
知るための
唯一の方法は
「挑戦」
だ。
未開の地に
自らの意志と
覚悟で
飛び込むことだ。
ただしそれは
勢いで
行ってはダメだ。
誰かに
認められるため
でも、
自信を得る
ためでも、
自己顕示の
ためでも、
ダメだ。
自分の願いと
静かに
向き合い、
この道は
怖いけど、
この道は
自分の願いに
向かう道だ、
と
静かに
思えれば、
飛び込めばいい。
「挑戦」
と言うと、
激しいイメージが
あるかもしれないが、
静かに
行けばいい。
淡々と
進めばいい。
そこに
現れる
あらゆる壁も
障害も、
静かに
見つめればいい。
どうしても
心が揺れる時は
揺れるままに。
その場に留まり
揺れが治まるまで
待てばいい。
治まれば
また立ち上がり、
静かに進む。
淡々と進む。
未開の地でも
しっかりと
すべてを観ながら、
淡々と進む。
そのうちに、
現れるはずだ。
真の安定感
が。
最初は
ほんの一瞬かも
しれない。
でもその一瞬で
いい。
それを一度でも
感じた者は、
あらゆるものと
向き合える。
あらゆるものを
受け入れる。
そして
一瞬のそれは
だんだんと
日常化していく。
人間というのは
思っている以上に
本当は
凄いものなんだ。
それを
自身の人生で
体験してみないか?
つづく
叡智は
ここにある。
すでに
誰もに
備わっている。
ここにあるのに、
その
「ここ」に
たどり着けない。
それが現在の
多くの
私達だ。
答えは
自分が持っている
のに、
答えを
外に求める。
答えは
外にはないことを
本当は誰よりも
知っているのに、
答えを
外に求める。
叡智は
ここにある。
ということを
完全に
信じられる人は
いない。
それを言うなら
信じなくてもいい。
ただ、
ここにあるという
事実を
見れればいい。
今日、
世の中では
何のために
何が起こるのか?
叡智は
知っている。
つまり
私達はすでに
知っている。
その中で
自分は今日、
何のために
何をすればよいのか?
私達は
すでに知っている。
叡智のままに
生きることを
「素直」
と言う。
みんな
素直になれば
いいのに。
私達は
揺らされ過ぎだ。
目の前に
起きている現象に
揺らされ過ぎだ。
どうでもいいことに
自ら
執着する。
大切なものが
見えなくなる。
素直に生きれば
よいのに、
素直じゃない。
素直じゃない
ことを
「大人になることだ」
と
勝手に決めつける。
あなたの叡智は
今、
あなたに強い
メッセージを
与えているだろう。
あなたに
「変われ」
と。
あなたは
自分の何を
変える?
つづく
今日という
一日の
テーマを決めよう。
今日は
何の日か?
今日は
何のための日か?
それを
シンプルに一言で
表そう。
それが
この一日の
理念となる。
理念を胸に
今日しかない
この一日を
堪能しよう。
ちなみに、
私の今日の
テーマであり
理念は、
『混乱』
である。
混乱を楽しむ
一日とする。
面白いでしょ?
つづく
やってみて
意味がない
と思ったら、
やめればいい。
ただし、
その
「意味がない」
というのが
あなたの中の
誰が言っているか?
が重要だ。
あなたの
「中心」
「魂」
「原点」
「真本音」
・・・この4つはすべて
同じ意味だと
思っていただければ
よいが、
これらが
「意味がない」
と言ってるなら、
やめればいい。
あなたの
たまたまの
その時の
「心」
が、
「意味がない」
と言ってるなら、
その
「意味がない」
という意見自体が、
意味がない。
「心」の
言う通りには
動くな。
「心」は
移ろうものだ。
移ろわない
「確固たるもの」の
判断に
従った方がいい。
そして、
私達の中の
「確固たるもの」が
判断を下すには
条件がある。
それは
自分自身がそれに
本気で
取り組んだかどうか?
だ。
本気で取り組まずして
判断はできない。
ちょっと
かじってみる、
だけの取り組みでは
決して
答えは出さない。
私達は
本能的に
そう決めている。
やるなら
本気で。
本気を出さないことが
格好いい
と言う人もいるが、
それは
本気を出す生き方を
身に付けた人のみが
言えることだ。
私達の
基本的生き方は
「本気」
だ。
幼い子供たちを
見れば
よくわかる。
子供たちは皆、
本気で
遊んでいる。
本気で
物事に興味を
持ち、
本気を
それに向ける。
それが
私達の
基本的生き方。
もしそれを
忘れてしまっている
ならば、
まずはそれを
思い出すことから
始めることだな。
つづく
この3次元の世界では
時間はずっと
同じスピードで流れ
続けているから、
時間とは
永久不滅のものである、
と私達は考えがちだが、
実はそうとも
言えない。
時間も
エネルギー体の
一つだ。
3次元においては
ずっと流れ続けているが、
それは
3次元においてのみだ。
私達は
いつも「時間」に自分を
合わせている。
時間の流れは
私達には変えられない
ものであり、
変えられる存在である
自分自身を
時間に合わせるしかない、
と
私達は思い込んでいる。
でもやはりこれも
そうではない。
「時間」を「自分」に
合わせることも
本当はできるんだ。
「時間」にも
人と同じで
意志がある。
その意志と
いかに調和するか
によって
「時間」と共に
進めるかどうか
が決まる。
「時間」と共に
進めるようになれば、
「時間」の密度を
自由自在に変える
こともできるようになる。
例えば、
同じ10分であったとしても
その10分で
一年分のことをすること
だって
本当は可能だ。
私は、
自分自身も含めて、
ほんの0.5秒くらいの
間で
生まれ変わるくらいの
変化を遂げた人を
数多くみてきた。
その0.5秒は
一瞬だが、
でもそこには
永遠に近いエネルギーの流れが
存在していた。
それは
とてつもない密度
だったろう。
あるクライアントさんは
コーチングの最中に、
私の目の前で
「ちょっとお待ちください」
と
思索に入った。
彼は目を瞑ったまま、
そのまま
40分以上の時間が
過ぎた。
私はただ
黙って
彼を見守った。
彼は眠っていた
わけではない。
その証拠に
彼はずっとそこに
立っていた。
彼は立ちながら
思索するクセが
あるのだ。
後で聴けば、
彼はその時、
ほんの1分ほど思索した
のだと
思い込んでいた。
しかしそこでは
確かに40分以上の
時間が経過した。
40分後に目を開けた
彼の目を
私は忘れることが
できない。
彼の目を観た瞬間、
私は彼が
生まれ変わったのを
感じた。
そして彼は
一つの答えを
出した。
それは彼が
彼の経営と人生を
大きく変える
答えだったが、
しかしそれを彼は
まるで
今日の夕食を何にするか?
を決めるとの
同じくらいに淡々と
口にした。
彼の中での
1分。
実際の時計で流れた
40分。
そこで
生まれ変わった彼には
実在では
一体どれだけの
「時間」が
流れただろう。
「時間」には
意志があるのだと
実感した
最初の体験だ。
「時間」は人と
同じだ。
「時間」には意志が
あり、
「時間」は
永久不滅ではない。
私達はもっと
「時間」と共に進もう
という意思を
持った方がいい。
人と信頼をつなぐ
ように、
「時間」とも
信頼をつなぐのだ。
そうすれば
私達は「時間」と調和し、
「時間」と共に
次の時代を創り出せる。
つづく
未知の領域に
進もうとする時、
私達は必ず
不安を覚える。
そして、
行けるかどうか?
を
考える。
しかし残念ながら
その視点で
考えているうちは
答えは出ない。
出たとしても
本当の答えでは
ない。
ここで言う
「本当の答え」
の意味は、
どういった選択を
するか?
という意味での
「本当の答え」
ではなく、
本当に納得して
いるか?
という意味での
「本当の答え」
である。
どの道を
選択したとしても、
自分自身が
納得し切れて
いなければ、
それは
「本当の答え」
ではない。
同じ道をとる
にしても、
迷いながら
その道を選んでいる
うちは、
まだ「本当の答え」に
なっていない。
しかし
同じ道をとる
にしても、
「この道だな」と
自分自身が
スッキリと
腑に落ちている
のであれば、
それは
「本当の答え」だ。
何を選ぶか
ではなく
どう選ぶか。
ということだ。
そして、
できるかどうか?
という
視点にいるうちは
決して
腑に落ちる答えの出し方は
できない。
なぜなら
できるかどうか?
なんて
やってみなければ
わからないからだ。
わからないことは
どれだけ考え
続けても
わからないものだ。
じゃあ
どうすればいいか?
私がオススメなのは、
単純だ。
「まずやってみる」
ということだ。
しかも
「本気でやってみる」
ということだ。
その結果、
「この道じゃなかったな」
ということも
当然ある。
でも、
まず進んでみないと
わからないことは
多い。
「まずやってみる」
なんていう
中途半端な意識では
逆に
何をやっても
すぐに諦めてしまうのでは
ないか?
という質問も
よくいただくが、
いや、
実はそうではない。
「この道に行きたい」
と思うのであれば、
本気で進んでみる。
・・・という
人生を繰り返せば、
私達は
本能的にわかるように
なる。
「この道が自分にとって
本当の道かどうか?」
が。
「本気で進んでみる」
という経験を
重ねれば、
そういった感性が
ついてくる。
一番ダメなのは、
どの道にするかを
迷いながらも
止まったままの状態。
もしくは
「恐る恐る
一歩しか進まない」
状態。
その状態のままでは
いつまで経っても
道は見えない。
「本気で進む」
というクセを
そういう生き方の
クセを
つけることだな。
つづく
人はあえて
霧の中に
迷い込むことが
ある。
迷い込むこと自体は
苦しいことだが、
しかし
それをしなければ
手に入らないものも
ある。
それがわかっている
から、
私達は無意識的に
かつ意図的に
霧の中に
迷い込む。
自覚していたか
どうかは
別として、
あなたも
しばらく
霧の中にいたはずだ。
大事な何かが
わからなく
なっていたはずだ。
そして
あなたはそこから
今、
出ようとしている。
もしくは、
すでに出られたかも
しれない。
そこで
問おう。
「あなたが見えなく
なっていたものは何?」
そして
「それを経て、
あなたは改めて
何を発見した?」
真摯に
自分自身に
問うてみよう。
つづく
本来の自分
として生きるには
覚悟が必要だ。
覚悟のない人は
本来の自分には
戻れない。
しかし
覚悟さえ持てば
すぐに
戻れる。
それが私達だ。
今日も
一人のクライアントさんが
そうなった。
自分にまとっていた
あらゆる余分な
ものを
その人は
脱ぎ捨て、
本来の自分に
戻った。
その途端に
「地に足がつく」
ような
安定感が
伝わってきた。
と当時に、
とてつもなく
強い意志が、
一つの波長として
私に伝わって
きた。
そういった「意志」を
感じる時、
私はいつも
それは
「祈り」
だなと思う。
それは
言葉にはならない
ものかもしれない。
でも
やはりそれは
「祈り」
だ。
そう言えば、
もう20年近く前だが、
「真本音」というものの
存在を見つけ、
「真本音」を掘り起こす
サポートを始めた当時の
私が、
自分自身の理念として
言語化したのが、
「一祈」
という言葉だ。
私の造語だが、
これを私は
「いし」
と読んだ。
自分は
一つの祈りなんだな、
と
思ったのだ。
そして
それを忘れない限り、
私はちゃんと
人と向き合い続け
られるな、と。
そして
多くの人達と
向き合い続け、
私は誰もが
その本質は
「一祈」
であることを
知った。
私達人間は
みんな、
一つの祈り
なんだ。
つづく
あぁ、
この道しかないな。
あぁ、
自分がやるしか
ないな。
あぁ、
何があっても自分は
進もうとしているな。
・・・この3つの事実を
素直に受け入れた
とき、
人は覚悟を持つ。
覚悟は、
人の空気感を
変える。
だから
覚悟を持った人の
一言は、
人の魂を
打つ。
だから
道が開く。
私達は
未知の世界を
切り拓こうと
している。
それはまだ
誰も行ったことの
ない世界。
答えのわからない
世界だ。
当然、
これまでのやり方は
通用しない。
一歩一歩を
試行錯誤しながら
進むしかない。
その先頭を
切るのは、
覚悟を持った
人だ。
でないと
先頭には
立つことさえできない。
覚悟がないまま
先頭に立てば、
その瞬間に
腰が砕けてしまう。
では、
覚悟とは
特別な人にしか
持てないものか?
と言えば、
いや、
誰にでも
持てるものだ。
というよりも、
人とは本来
覚悟するために
生きる存在だ。
覚悟のない状態
から
覚悟する状態
へ。
その体験をする
ための存在が
人だ。
そこにこそ
人としての
本能的な悦びが
ある。
その悦びを
得るために
私達は
ここに来たんだ。
時間は
もう
あまりない。
私達は皆、
期限つきの人生を
歩んでいる。
期限は
自分で決めている。
その事実も
また
素直に受け入れる
べきだな。
つづく
私達が
人生の始まりの瞬間を
迎えた時、
私達は
自らの人生の
終わりの瞬間に
想いを馳せる。
始まった瞬間から
私達は
終わりに向かう。
こんな終わり方を
したい。
そのためには
こんな人生に
したい。
その強烈な願い
のもとで
私達は
意志を固める。
そして
自分自身との
約束を交わす。
その「約束」は
一生、
自分と共にある。
意識することは
ほとんどないかも
しれない。
でもそれは
いつでも
「ここ」にある。
約束=自分
である
とも言える。
私達は
約束に生きる者
だ。
・・・・・・
「約束」を
思い出すことは、
自分自身の
決意を思い出す
ことでもある。
その決意は、
勇気を生み出す。
本来の勇気
とは、
単なる意気込み
ではない。
「約束」を果たそう
とする
私達の本能から
来るものだ。
そういった勇気を
誰もが
持ち合わせている。
ただ、
忘れているだけだ。
「約束」を
忘れてしまうように。
・・・・・・
本来の自分を
取り戻す
ということは、
その「勇気」を
取り戻すことでも
ある。
不安だから
先に進めない。
怖いから
この道は
行けない。
そう言いながら
止まってしまう人が
多い。
その場合に、
私が
サポートするに当たり
とても注意している
ことは、
意気込みレベルの
勇気で
先には進ませない、
ということだ。
意気込みレベルの
勇気では
確実に
止まる。
途中で
投げ出す。
この道は
「約束」への道だ、
とわかれば、
心を落ち着かせ
自らと
完全に向き合う
ためのサポートを
する。
勇気を奮う
のではなく、
約束を思い出す
のだ。
そして
そこから生まれる
勇気は
「遊気」
でもある。
人生、
遊ぶが
ごとし。
この境地は、
「約束」
から来るものだ。
つづく
残念ながら、
危機感では
人は動かない。
余程、自分の生命に
直接の影響が
ない限りは。
もし
危機感で動ける
人がいたとしたら、
その人はもう
最初から
自律できている。
だが
多くの人はまだ
そうではない。
人は
危機感では
決して動かず、
「楽しさ」
で動き出す。
「ワクワク」
で動き出す。
これが
これまでの企業での
サポート現場で
私が幾度となく
実感したことだ。
よく
社長さんが
「社員と危機感を
共有したい」
と言われるが、
本当に残念ながら
無理だ。
危機感では
組織は
生まれ変われない。
誰かが
何とかしてくれる
と皆、
思っている。
・・・・・・
人は
依存する。
すぐに
人は
依存する。
常に
依存できる
対象を
探し求めている。
そして
それを見つけると、
それに
飛びつく。
そして
まるで寄生虫の
ように、
チュウチュウと
その対象から
血を吸い続ける。
血を
吸い尽くすと、
次の対象を
探す。
そういった
生き方をしている
人は多い。
しかしもちろん
本人に
その自覚はない。
・・・・・・
だから人間は
愚かだ。
ということを
言いたいわけでは
ない。
もちろん
愚かだし、
その愚かさは
誰にでもある。
当然
私にも。
人間の愚かさを
見つめる
ということは、
自分の愚かさを
見つめる
のとイコールだ。
人への悪口は
自分への悪口と
イコールだ。
私達人間に
例外はない。
皆、同じだ。
愚かな部分を
何とかしよう!
として
本当に何とか
なるのであれば
いいのだが、
何ともならん
のも
また私達人間だ。
人類は
同じ過ちを
これでもか、という
くらいに
繰り返してきた。
だから
存在する価値が
ない、
などと
言いたいわけではない。
私達はもっと
私達の愚かさを
見つめた方がいい。
それができている
人ほど、
真剣に
「楽しさ」を
見つけ出そうとする。
本能的に。
「楽しさ」とか
「ワクワク」は
理性ではない。
理屈でもない。
これは
本能だ。
そしてその本能は
自分の
愚かさを
きちんと見つめられる
人にこそ
浮上する。
自分の愚かさを
知る者は
自分の愚かさと
人の愚かさを
真摯に受け止めながらも
それが何とも
ならないことをまた
よく知り、
そして
愚かだからこそ
真剣に
未来に向かおうとする。
その指針として
浮上する
本能が
「楽しさ」だ。
だから、
愚かさを知る者
ほど、
軽やかだ。
明るい。
私は
そこにこそ、
人の凄みを
感じるね。
つづく