チームパフォーマンスコーチ

直観について書こうかな

 

「直観」が

出てしまうことが

ある。

 

それが出ると、

思わず

その通りに

行動してしまう。

 

自分を

その方向に

動かしてしまう。

 

それに抗うことは

ほぼ不可能だと

思わせる。

 

かと言ってそれは

自分が自暴自棄に

なったり、

混乱に陥ったり、

制御不能になっている

訳ではない。

 

むしろ全く逆で、

 

自分の頭は

その瞬間、

晴れ渡り、

冴え渡り、

 

感覚として

「すべてがわかった」

という

実に清々しい状態

であり、

 

かつ、

非常に理性的な

落ち着いた

 

地に足がついた

 

状態だ。

 

その状態において

「これをするしかない」

確信している。

 

そのような

安定感と力を

持ち合わせているのが、

 

本来の「直観」

である。

 

それが浮上すると、

私達はもう

その方向に

動いてしまう。

 

「意味」は

後からついてくる

場合が多い。

 

その時その瞬間は

確信はあるのに、

 

なぜ自分が

それをしようとしているのか

わからない

 

ことが多い。

 

でも

確かに確信はあるし、

 

その確信を

抑える必要性も

感じない。

 

そして実際に

そのような方向の行動を

起こすと、

 

驚くような展開で

「調和」が

始まる。

 

むしろ頭がついて

くるのは、

その段階だ。

 

あぁそういうこと

だったか。

 

と、

自分の行動の後に

起こる結果の数々を

体験しながら、

ようやくにして

意味がわかる。

 

そして多くの場合、

その「意味」とは

実に楽しく、

感動的だ。

 

私は、

この「直観力」こそが、

自らの人生や

使命や経営や

人間関係や

・・・あらゆることの

可能性を広げ、

道を拓く原動力になると

思っている。

 

私達の欲しい

「答え」のほとんどは、

直観によって

もたらされる。

 

しかしその直観とは、

自分以外の何者か

が、

自分にもたらしている

ものではなく、

 

それは

私達自身の

「本当の意思」

に他ならない。

 

私達は

私達自身に「答え」を

もたらす。

 

それが

「直観」という形として

現れる。

 

それだけの

ことだ。

 

これまで私は

「直観」について

随分と語ってきたが、

 

もう少し丁寧に

このブログにおいても

書かせていただいた方が

良いかな、と

思い始めている。

 

なぜなら、

「直観」を単なる「思いつき」

と混合してしまう人が

いるようだから。

 

「直観を大事にしよう」

と言うと、

「ではもう、考えなくて

いいんですね!」

という反応すら

時々見受けられるから。

 

自分の「直観」を言い訳に

現実逃避の方向に

走っている人すら

いるから。

(それは本当は

直観でも何でもないのだが。)

 

直観もどきではなく、

本当の直観で生きる

ためには

私達は何をどうすれば

よいのか?

 

直観を阻害するもの

とは何か?

 

など、

様々な視点から

書かせていただきたいな

と考えている。

 

つづく

 

苛立ちを愛する

 

自分の中の苛立ちに

気づける人は

幸福だ。

 

本当は、

苛立ちのない人は

一人もいない。

 

苛立つために

私達は

この世界に生きている、

言ってしまってもいい。

かなり乱暴な

言い方だが。

 

自分は

本当は

何に

苛立っているか?

 

これを

何の解釈もなしに

あるがままに

見つめ、

自覚することができれば、

 

それだけで

その人は

自分自身の

今、すべきこと

人生でこれからすべきこと

理解できるかもしれないのだ。

 

それほど

「苛立ち」とは

大切なものだ。

 

自分の苛立ちを

知ることができれば、

私達は

その中から

抜け出ることができる。

 

自分の苛立ちを

自覚できなければ、

下手をすると

一生、その中にいることに

なる。

本人は、そうとは

知らないままに。

 

私達は

苛立ちから抜け出ることで

初めて、

本来の自分として

本来の人生を

歩み始めることができる。

 

そのためには

まずは

「自覚」だ。

 

人の成長とは

「苛立たない自分に

なることだ」

勘違いしている人は

多い。

 

違う。

断じて。

 

苛立ちとは

宝物だ。

 

自分の「本当」を

見つけるための

鍵だ。

 

せっかく

様々なことに

苛立つことができる

という「心」を

私達は手に入れているの

だから、

それを思う存分に

活用すればいい。

 

苛立ちを

人を傷つけることに

活用するのではなく、

 

苛立ちを

真の自分を見つける

ために

活用するのだ。

 

最近、

様々な方々との出会いが

増えているが、

 

にこやかで

柔らかい雰囲気を

持った人ほど、

 

その人の奥から私は

強い苛立ちを

受け取る。

 

それだけ強い苛立ちが

あることは

とても良いことだと

私はその度に思う。

 

大事なのは

それを自覚できているか

どうか、だ。

 

苛立ちを自覚し、

苛立ちを活用し、

真の道を見出す。

 

苛立っている自分は

愛すべき存在だ。

 

つづく

 

それは本当の意思か?

 

川の水面に空が

映っている。

 

まるで

鏡のように。

 

それを見つめていると、

どちらが本物の空なのか、

わからなくなった。

 

実在と幻影。

 

その本質は

まったく異なるものだが、

姿と形は

よく似ていることが多い。

 

似ているどころか、

表面だけを見れば、

完全に一致することも。

 

実在と幻影。

 

私達の心の中には

この二つがある。

 

その区別が

つかないからこそ、

私達は戸惑い、

迷う。

 

・・・・・・

 

ある時、私は

「風」になろうと思った。

 

風になれば、

川の水面は揺れる。

 

揺れれば、

そこに映っている

幻影も揺れる。

 

そうなれば、

本物の空と

映っているだけの空の

区別がつく。

 

私のやっている

サポートの本質とは

これである。

 

というよりも、

たったこれだけのことを

しているだけだ。

 

・・・・・・

 

あなたが捕らわれている

確かなものとは、

 

実は単なる幻影かも

しれない。

 

幻影に捕らわれ、

幻影の意思のままに

動けば、

 

いつかはそれは

消え、

あなた自身の意思も

消える。

 

すべての幻が

消え去った時、

 

あなたは何もない

孤独の世界に

ポツンと突っ立っている

自分を発見するだろう。

 

虚しさと虚無感。

 

絶望感。

 

それにより、

この世に確かなものなど

一つもない、

あなたは思い込んで

しまうかもしれない。

 

虚しさに基づき、

それが真実だと思い込み、

次の自分の道を

決めてしまう。

 

しかしその道すらも

幻影なのだ。

 

幻影で築いた道は、

どこまで行っても

幻影のまま。

 

そこから抜け出す

唯一つの方法は、

 

自分の中の

実在

を見つけることだ。

 

・・・・・・

 

自分の中の

実在。

 

揺るがぬ意思。

 

それは、

揺るがないようにしよう!

と努力して創り上げた

ものではない。

 

始めから、初めから、

揺るがないもの。

 

そこにただ

在るものだ。

 

それは、

顕在意識レベルの

表現を使えば、

 

あなた自身の

「願い」

である。

 

揺るがぬ願い。

 

人生を通じて、

一生

持ち続ける

願い。

 

一生持ち続けるが、

それは変化をしない

ということではない。

 

それは着実に

進化をする。

 

その進化に

歩調を合わせれば、

あなたの心も身体も

進化する。

 

だから常に

実在に

立ち返るといい。

 

そこを

毎日の原点と

するといい。

 

もし自分の実在が

わからないのであれば、

 

わかろうと

するだけでもいい。

 

今のこの私の意思は、

実在か、幻影か?

 

それを一つずつ

確認しながら

進めばいい。

 

それだけでだんだんと

区別はついて

来るもんだ。

 

・・・・・・

 

本物の空なのか?

 

水面に映っている

空なのか?

 

本当はそんな区別は

最初から

ついている。

 

私達は本当は

すべてをわかっている。

 

だから

「人間」を

やってるんだよ。

 

つづく

 

補助輪として

 

自転車に慣れない内は

補助輪をつけて

練習をする。

 

私達の人生そのものに

おいても、

補助輪が必要なときが

ある。

 

例えば、

一つの出会い。

 

ある人と出会い、

その人が

自分自身の補助輪に

なってくれた、

 

ということが

私にはたくさんある。

 

あの人が

いてくださったおかげで

今の私がある、

という人が

私にはたくさんいる。

 

とても

ありがたいことだ。

 

そして私は

そのご恩を、

 

私が誰かの補助輪に

なることで

お返ししようと

いつも考えてきた。

 

そこで

とても大事だと思うのが、

 

「私はこの人の

補助輪である」

 

という自覚だ。

 

補助輪が

本体と入れ替わって

しまってはならないし、

 

補助輪が

永遠にそこにあっても

ならない。

 

補助輪はあくまでも、

補助輪なしで

ちゃんと走れるように

なるための、

 

一時的な

 

支えである。

 

これを忘れてしまうと、

あらゆることに

不調和が起こる。

 

これは別に

私に限った話ではない。

 

すべての人が

誰かの

何かの

補助輪的な役割を

担っているし、

 

担い合っている。

 

私は今、

誰の何に関する

補助輪か?

 

という問いは

とても重要だ。

 

そして、

 

その人のその事に関する

補助輪として、

 

私は何を

すれば良いか?

 

私は何を

してはならないか?

 

は、

さらに重要だ。

 

補助輪は、

なくなるために

存在している。

 

もうこの人には

補助輪は

必要ないな、

 

わかったら、

 

補助輪が自ら

外れるべきだ。

 

補助輪の役目を

手放すべきだ。

 

それができてこその

補助輪。

 

その人の

自立・自律のために

あるのが、

補助輪だ。

 

つづく

 

不安を越えたい?

 

自分自身の

「不安」

の中に、

埋没してみよう。

 

「不安」を不安として

怖れ、

そこから逃れようと

することで、

 

「不安」は単なる

不安として

心の中にあり続ける。

 

その場合、それは

自分の本来の道のりの

妨げにしか

ならない。

 

「不安」とは

逃げるものではない。

 

「不安」とは

向き合うべきものだ。

 

そして

「感じきる」

べきものだ。

 

そのためにも

まずは、

 

自分の中にある

「不安」の塊を

見つけよう。

 

塊が見つかれば、

その中に

入ってみよう。

 

「不安」の塊の

中に、

自分自身の全身を

突入させて

しまうのだ。

 

そして全身で

その「不安」を

感じ取る。

 

「不安」と

一つになってしまう。

 

「不安」の全部と

一つになるのだ。

 

「自分は不安

そのものである」

 

という状態にまで

なってしまう。

 

それが完全に

成されたとき、

 

私達は

「不安」から

完全に解き放たれる。

 

それは

一瞬のことかも

しれないが。

 

しかしその一瞬が

重要だ。

 

その「一瞬」に

すべての「答え」が

存在している。

 

それをあえて

言葉にすれば

こうなる。

 

「なるほど。

この不安には

このような意味と意義が

あったのか。」

 

「なるほど、

この不安を抱えることで

私の人生には

このような展開が

生まれるのだ。」

 

「なるほど、

今の私には絶対的に

この不安が必要なのだ。」

 

「なるほど、

私は次の一歩として

これをすれば良いのだ。」

 

・・・etc.

 

それらは

理屈ではない。

 

頭で考え、

思考によって出される

答えではない。

 

完全に解き放たれた

その「一瞬」こそが

もたらしてくれるもの。

 

自ら導き出す答え

ではなく、

 

まさにそれは

「思い出す」

ものだ。

 

その「答え」が

わかれば、

 

あとはその通りに

行動することだ。

 

その行動には

ほとんどの場合、

大きな勇気が必要

だろう。

 

しかしそれを

飛び越える

覚悟を持とう。

 

そうすれば

その一歩は

私達の人生を、

次のステージへと

間違いなく

導いてくれるんだ。

 

つづく

 

本能に素直に

 

あなたは

だた、

そのままのあなたで

いれば

いいんだよ。

 

・・・真に

そういった眼差しを

受けると、

 

人は、

 

進化を始める。

 

変わろうと

し始めるのだ。

 

今のあなたでは

ダメだ。

変わりなさい。

 

・・・という眼差しを

受ければ、

人は

今の自分に執着を

始める。

 

何がなんでも

変わってやるものか、

意固地になる。

 

その結果、

たとえ表面上は

変わったとしても、

それはあくまで

表面上なだけであって、

 

それは

進化ではなく、

変化ですらない。

 

変わったフリ

である。

本人が自覚しているか

どうかは別として。

 

今の自分に

執着をして、

意固地に変わろうと

しないという生き方は、

 

その人に

あらゆるストレスを

生み出す。

 

人は本来、

進化の生き物で

ある。

 

いや、

 

進化というものが

カタチとして

現わされたのが

人だと

言っていい。

 

人の本質は

進化

であり、

 

しかしそれは

外圧によっては

浮上しない。

 

そのままで

いいじゃないか、

という

 

「完全承認」

 

があってこそ

初めて

それは浮上する。

 

「完全承認」が

あることで、

その人は、

 

「今のままでは

いやだ。

私はもっともっと

向上したい」

 

という「本能」が

発揮されるのだ。

 

だから

「完全承認」とは

甘やかし

ではない。

 

むしろその

真逆に位置する。

 

甘やかしとは

中途半端な

承認であり、

 

表面上だけの

承認であり、

 

そこには

愛はない。

 

それ自体が

執着であり、

執着は執着を

生むだけだ。

 

しかし

残念なことだが、

この

「完全承認」ができる人は、

ほとんどいない。

 

人を「完全承認」

するためには、

自分を「完全承認」

せねばならない

からだ。

 

果たして

そのようなことが

できるのだろうか?

 

私達人間に?

 

・・・というのが

この20年来の

私の探究テーマの

一つだった。

 

もちろん私は

「できるはずだ」

という前提のもとで

探究を続け、

 

それは

「できた!」

という体験も含めて、

年々

確信に変わってきている。

 

真本音度合いを

高める、

とは

自分も人も「完全承認」できる

瞬間を増やす

ということでもある。

 

そして、

それができる人のことを

私は「コーチ」と呼び、

 

意図的に「コーチ」に

なれる人

(それは、朝から晩まで

でなくてもいい。

ほんの瞬間でもいい)

私は増やしたいと

いつも願い、

ここまで来た。

 

その私の

探究の歩みと

実践の歩みを、

 

私はここから

さらに

一気に

加速させようと

思っている。

 

人は今、

・・・というか

もっと正確に言えば、

 

私達人類は今、

 

大きく、そして速く

そして一気に

進化を遂げようと

願っている。

 

その願いは

とてつもなく

高まっている。

 

と、

私は日々、実感

している。

 

私はその

「実感」に

応えたい。

 

もちろん私一人で

どうなるというものでも

ないのは

重々にわかっている。

 

しかし

私は人間だ。

 

人間は

自分にできる

最大のことをしたい

生き物だ。

 

それを通じて

進化したい生き物だ。

 

私はその自分自身の

本能に

素直に生きたいと

思う。

 

ここからさらに

加速するよ。

 

つづく

 

果敢に挑戦してもらいたい

 

よく、

「覚悟を持って生きよ」

という言葉を

聴くが、

 

その「覚悟」の中で、

私が最も基本として

大事だと思っているのは、

 

「自分として生きる覚悟」

 

だ。

 

これは具体的に

言うと、

 

「今、本当にしようと

思うことを、

今、そのまま実行に

移す」

 

という覚悟だ。

 

これができなければ

「自分の人生」

は始まらない。

 

ところが

これをすれば

最初の内は

様々な障害に当たる

だろう。

 

不調和も

起きるだろう。

 

失敗も

重ねるだろう。

 

なぜなら

最初の内は、

 

「今、自分が本当に

しようとすること」

 

 

「今、自分が本当に

しようと思い込んでいるだけで

本当はどうでもいいこと」

 

区別がつかないからだ。

 

これを

私の表現で言えば、

 

「真本音と反応本音の

区別がつかない」

 

からだ。

 

しかし私は

あえて言うが、

 

最初はそれでもいい

と思っている。

 

区別がつかなくても

いいから、

 

結果として

失敗を繰り返しても

いいから、

 

「今、本当にしようと

思うことを、

今、そのまま実行に

移す」

 

ことを

「今」から始めるべきだ

と思うのだ。

 

その「覚悟」を

持ってほしい。

 

・・・・・・

 

先日、

52歳になってつくづく

思うのだが、

 

人生というのは

短いな。

 

短か過ぎる。

 

24時間で

一日が終わってしまうのも

早過ぎる。

 

やりたいことが

いっぱいあるのに、

時間がまったく

足りない。

 

どう考えても

私のやりたいことは

私一人では

できない。

 

そのあまりに明確な

事実を

今、改めて

目の当たりにしている。

 

「自分の人生を

自分として生きる」

 

のは

当たり前のことだと

思うのだが、

 

残念ながら

本当にそれができている人は

滅多にいない。

 

人生はあっという間に

終わってしまうのに。

 

それが今の

世の中だ。

 

だから調和が

起こらない。

 

本当の調和とは、

 

「自分の人生を

自分として生きる人」

のみが

生み出せるもの。

 

最初は

試行錯誤の連続かも

しれないが、

 

真の調和を生み出せる

自分になるまで、

果敢に挑戦して

もらいたいな。

 

つづく

 

風の丘にて

 

私は

丘の上に

立っている。

 

そこからは

街が見渡せた。

 

田舎ではない。

 

かと言って

都会でもない。

 

程良い大きさの

街だ。

 

街の向こうには

海が見える。

 

穏やかな

海だ。

 

空は

晴れ渡り、

そろそろ夕暮れ時に

差し掛かろうとしている。

 

そよ風に

吹かれながら、

私はその世界を

感じ取っていた。

 

街にはいったい

どれだけの

人がいるのだろう。

 

どれだけの

人生が

あるのだろう。

 

ふと私は

後ろから

肩を叩かれた。

 

振り返らなくとも

それが誰かは

わかっていた。

 

私がよく知っている

人だ。

 

「どうですか、

ここからの風景は?」

 

「うん、いいね。

様々な人の様々な

想いが、

伝わってくるよ。」

 

「降りる気に

なりますか?」

 

「もちろん。

早くあの中に入り込んで

みたいね。」

 

「いつ行きますか?」

 

「まぁ、今すぐかな。」

 

私は立ち上がり、

伸びをした。

 

振り返ると

そこに笑顔が

あった。

 

「私と一緒に

来る?」

 

「いえ、今回は

ここから眺めています。」

 

じゃあ、と

私は片手を挙げ、

その人に

別れを告げた。

 

しばしの

別れだ。

 

恐らくすぐに

また会えるだろう。

 

・・・・・・

 

思った通り、

その街は面白かった。

 

街にドップリと

浸かった私は

丘の上に戻った。

 

その人は

まだそこにいた。

 

「やあ。」

 

「おかえりなさい。

どうでした?」

 

「やはりここは

面白いな。

君も行くか?」

 

「いえ、

ここから見ているだけで

お腹いっぱいになりましたよ。

グワッと次元が高まるのが

よくわかりましたよ。

あんな急激な高まりは

珍しいですね。」

 

「それがこの街の

もともとの力だよ。

いやぁ、まぁでも、

大変は大変だったな。」

 

そう言いながらも

その街特有のそよ風に

吹かれながら、

私は心地良い疲れに

充実感を覚えていた。

 

「こういう疲れ方だったら

大歓迎だよ。」

 

「どうします?

まだしばらくこの街に

いますか?」

 

「いや。

もうここは大丈夫だろう。

名残惜しいが

次に行こうかな。」

 

「そうですか。

次の街では、

私が降りることにしましょう。」

 

「なぁ。」

 

「はい?」

 

「しばらく、別々に

旅をしてみないか?」

 

「別々に?」

 

「うん。

君ももう一人で

大丈夫だろ?」

 

「はい。そうですね。

お〜、やっとそう言って

くださるんですね。

嬉しいな。」

 

「そう言うと思ったよ。

君はどっちの道を

行きたい?」

 

「じゃあ私はこちらの

道を行きましょう。」

 

「では私は

反対にあっちを行くよ。」

 

「次はいつ

あなたに会えますかね?」

 

「どうだろうね。

まぁでも、きっと

最も嬉しいタイミングで

会えるだろ。」

 

「そうですね。

では・・・。」

 

「うん、じゃあね。」

 

私は彼の

後ろ姿をしばらく

見送った上で、

踵を返した。

 

永遠に続くと

思っていた旅も、

そろそろ

終わりの予感がした。

 

つづく

 

晴れやかな一点を

 

「一点」を

決めよう。

 

自分が

どこに立つか?

 

決めるんだ。

 

何をやっても、

どんな状況に

あっても、

 

今この瞬間

 

私達が立てる

場所は

「一点」のみだ。

 

同時に

複数の場所には

立てない。

 

これは

現実レベルでも

そうだが、

 

心の中でも

実は

同様だ。

 

私は

何者でいるのか?

 

私は

何者として

事に当たるのか?

 

それを

完全に決める。

 

ここを決めないから

ブレる。

 

ブレるから

不調和が起こる。

 

だから

その後に起こる

現実も

複雑になり、

人生が複雑になる。

 

展開が

複雑になる。

 

同時に

二つ以上の自分で

あろうと

するからだ。

 

この3次元の世界が

なぜ

時間が一方向にしか

流れないのか。

 

なぜ、

身体は一つしか

ないのか。

 

なぜ、

皆は分離しているのか。

 

それは

「一点を決める」

という

意味と意義を存分に

味わうため。

 

それによる

進化を

執り行なうため、

なんだ。

 

だから、

「一点」を決めよう。

 

この世界では

「一点」を決めよう。

 

すぐに

決められなくても

「決めよう」と

努力しよう。

 

心も身体も

魂も、

 

すべてがスッキリと

納得できる「一点」は

必ずある。

 

それこそが

自分自身の

真本音の

一つだ。

 

つづく

 

逃げたくってしょうがない?

 

人生は、

逃げたって

いいんだ。

 

ちゃんと

自分が逃げていることを

自覚していれば。

 

自覚すれば

反省ができる。

 

反省すれば

次につながる。

 

しかし、

残念ながら、

 

逃げる人ほど、

自分が逃げている

という事実を

見つめない。

 

最も大事な

その部分を

まるでなかったかの

ように

フタをする。

 

自分は常に

立ち向かって来たんだ。

 

今も立ち向かっている。

 

その中での

選択だ。

 

・・・と、

渾身のエネルギーを使って

自分にそう

思い込ませ続けている。

 

これが最も

辛いことを知らずに。

 

潔さ。

 

もっと

潔く行ってほしい。

 

潔さとは

逃げないことを

言うわけではない。

 

人間だから

逃げることも

あるさ。

 

でも、

その事実をしっかりと

見つめること。

 

それが

潔さだ。

 

潔く

行こう。

 

それが我々にできる

最大のことだ。

 

つづく

 

それがあなたの人生だろう

 

激しい荒波に

呑まれる

混乱の感覚の

その中に、

 

いや、

その感覚

そのものと

一つとなって、

 

雲一つない

静かな青空を

何の抵抗もなく

スーッと

垂直に上昇し続ける

 

そんな自分が

いることを

あなたは

感じ取れるだろうか?

 

あなたは今、

垂直に

上昇している。

 

静けさとは

あなたそのもの

であり、

 

純粋なその

青空は

あなたの反映だ。

 

上昇するその先に

あるものは

無限の宇宙であるが、

 

そこに具体的には

何が待っているのか

あなたは知らない。

 

その知らないこと

自体を

あなたは

静かに楽しんでいる。

 

一方で、

ほんのわずかに

目を転ずると、

 

あなたは

台風真っ盛りのような

傍若無人な荒海の

中にいる。

 

そこでのあなたは

一切のコントロールが

効かず、

ただ混乱を続け、

 

時には

阿鼻叫喚の声を

上げている。

 

二人のあなたが

「ここ」に

同時に存在している。

 

しかしそれは

別物ではなく、

両方が

そのままが

「あなた」だ。

 

垂直上昇を続ける

あなただからこそ、

あなたはその

荒海に呑まれている。

 

それが

あなたの選んだ

人生だ。

 

あなたは

その「あなた」でしか

できないことを

やろうとしている。

 

どちらのあなたも

そのまま

感じ取り続けてほしい。

 

それでしか

あなたの手に入れたい

ものは

手に入らないのだ。

 

あなたの実現したい

ことは

実現できないのだ。

 

自分の人生

受け入れよ。

 

あなたにとって

今、一番

必要なことだ。

 

つづく

 

痛いものは痛い

 

全身が

引き裂かれるような

感覚だ。

 

とても

生きていられる

状態とは思えない。

 

しかし

目の前のその人は

生きて、

しかも笑っている。

 

なんという

鈍感。

 

・・・・・・

 

私は、

目の前の人の

抱えているストレスを

そのままに感じ取るという

身体的な特徴を

持っている。

 

先天的に持っている

のではなく、

コーチという仕事を

続けるうちに、

自然に養われてきた。

 

受け取ったその感覚と

向き合うことで、

その人へのサポートの

大きな指針となった。

 

ストレスは、

大きければ大きいほど、

その本人は

気づいていないという

傾向は確かに高い。

 

麻痺させなければ

立っていられない

からだろう。

 

下手をすれば

心がおかしくなって

しまう。

 

身体に大きな負傷を

した時に感覚が麻痺し、

小さなすり傷の方に

痛みを感じる、

というのと同じなのだろう。

 

自己防衛の

一つかもしれない。

 

しかし私はいつも

思うのだ。

 

その鈍感は

本当に危険だ。

 

実際に

命の危険にまで

及んだケースも

いくつかある。

 

私がそのストレスの

大きさに気づかなければ、

いったいこの人は

どうなっていたのだろう、

ヒヤヒヤしたことは

数知れず。

 

我々はもっと

自分自身のことについて

もっと敏感になるべきでは

ないか。

 

といつも思う。

 

・・・・・・

 

苦しいことを

苦しいと感じる。

 

痛いことを

痛いと感じる。

 

これが健康の基本だと

私は思う。

身体も心も。

 

苦しいことを

苦しいと思っては

ならない。

そんなマイナス指向では

ダメだ。

などとは決して

思ってはならない。

 

苦しいことも

痛いことも

すべてわかった上で、

その上で

進んでいくのが私達人間の

本分だ。

 

痛くても

あえてこのまま進むのか、

それとも

いったん止まって

対策を練るのか。

 

そういったことを

自らきちんと判断しながら

進むことが

自律の基本だろう。

 

自分の痛みから

目を反らすことこそが

現実逃避のスタートである

と私は思うよ。

 

つづく

 

焦ってるね

 

あなたのその

本質的な焦りは

 

宝物だと

思った方がいい。

 

その焦りが

あなたを次のステージへと

駆り立てる。

 

焦りがあるからこそ

生まれるエネルギーも

ある。

 

でも、

せっかく生まれた

そのエネルギーを

 

焦りに任せて

浪費させては

ならないんだよ。

 

そうなってしまう

最大要因は、

 

焦りを消そう、

 

とすることだ。

 

焦りは

愛せばいい。

 

よしよし、と

可愛がればいい。

 

大切に

抱けばいい。

 

常に加速をしようと

強い想いを持っている

あなたには、

 

焦りは

家族みたいな

もんだ。

 

なくなるものでは

ないし、

なくしては

ならない。

 

家族として

共に行けばいい。

 

だから

もっと

焦ろう。

 

しかし、

焦りには

呑まれるな。

 

あなたの手の平に

その焦りを乗せ、

 

巨大なあなた

として、

進んでほしい。

 

つづく

 

もうすぐ出会いだな

 

真本音で

着実に

人生を進めれば、

 

私達は

出会うべき人と

出会える。

 

真本音度合いが

高まれば、

その予感・予兆すら

わかるようになる。

 

そして

最善のタイミングで

出会い、

 

出会ったその瞬間から

その人との間で

エネルギーの循環が

始まる。

 

そして

それまでよりも

さらに

自分の意図を超えた

素敵な展開が始まる。

 

ただし。

 

焦っては

ならない。

 

相手のある

ことだ。

 

独りよがりでは

いけない。

 

私は

自分自身に

戒めていることが

ある。

 

それは、

出会いを

喜び過ぎないこと。

 

私の場合、

あまりに嬉しくて、

ついつい相手を

引っ張ってしまう。

 

自分のペースに

巻き込んでしまう

ことがある。

 

それをしてしまうと

結果的に

回り道になる。

 

相手の

あることだ。

 

嬉しい出会いで

あればあるほど、

 

ゆっくり

じっくりと

自分自身を

オープンにしていこう。

 

とはいえ、

思わずニヤニヤ

してしまうかも。

 

まぁそのくらいは

いいだろう。

 

出会いを楽しむ

のは、

人生の醍醐味の

一つだ。

 

つづく

 

最初から曲がるな

 

まっすぐな道なんて

所詮は歩けない。

 

・・・そう思う前に、

一度、思い切って

歩いてごらんよ、

まっすぐに。

 

そして

行けるところまで

まっすぐ

行っちゃおう。

 

この辺くらいまでなら

行けるかな、

とか

あの辺くらいまでなら

大丈夫かな、

とか、

予測を立てている

暇があったら、

 

一歩でも前に

進んでみようよ、

まっすぐに。

 

もちろん

いろんなところに

限界はあるだろうが、

 

その限界を

自分の思い込みで

決める必要は

これっぽっちもないんだ。

 

どうせまっすぐ

歩けないから、

最初から曲がりくねって

進むんだ、

・・・だと?

 

歩いてもないくせに

勝手に決めんなよ。

 

何もやる前から

妥協すんなよ。

 

妥協しながら進むより、

多少転びながらでも

自分の行きたい道を

堂々と進む方が

 

多少痛くても

全然気持ちがいいよ。

 

勢いで行け、

と言っている

わけじゃない。

 

まっすぐだけど、

その分

丁寧に行くんだ。

 

一歩一歩に

想いを込めて。

 

魂を込めて。

 

地に足がつく

その感触を

充分に噛み締めながら、

 

一歩、また一歩と

進んで行くんだ。

 

そうすれば

行けるもんだよ。

思っているよりは。

 

どうしても

進めなくなったら、

そこでじっくり

考えればいい。

 

そこまでの

一歩一歩が

丁寧であればあるほど、

智慧は生まれるよ。

 

自分の道を

決めるんだ。

 

自分の道を

進むんだ。

 

まっすぐにね。

 

つづく

 

その意図から自由になろう

 

みんな、

「意図」を

持ち過ぎだ。

 

意図を

持つな。

 

と、

あえて断言せねば

ならないほどだ。

 

意図を手放せた時、

初めて観える

ものは

 

あまりに

多過ぎる。

 

意図があるが故に、

その多過ぎることの

一つとして

観えないままでいる。

 

これでは

人生も仕事も

進まない。

 

ただし。

 

意図を手放すためには

「準備」が

必要だ。

 

それは

自分自身の意図と

しっかり向き合うことだ。

 

例えば、

人と会う場合、

 

今回は

どんな目的のために

会うのか?

 

そこでは、

自分は何を本当に

伝えたいのか?

 

何を共に

考え合いたいのか?

語り合いたいのか?

 

何をその場の

ゴールとしたいのか?

 

そしてそのために、

自分はどんな問いを

そこで投げたいのか?

 

それら、自分の「意図」を

本質的にしっかりと

考えることだ。

 

自分の意図を

しっかり考え、

明確にすることで

初めて、

 

意図は手放せる。

 

もちろん、

しっかり考えたら、

「そんな場にしよう」

強く思えばいい。

 

意図通りで行きたい

強く思えばいい。

 

その気持ちでもって

その人と

会えばいい。

 

そして、

会ったその瞬間から

自分の意識を

その人にのみ

向けてみよう。

 

その場にのみ

向けてみよう。

 

その人を

その場を

味わい、楽しんで

みよう。

 

すると

自分の意図は

どうでもよくなってしまう。

 

この

「どうでもよくなる」

ことが重要で、

 

これが

「手放せた」

という証だ。

 

手放せた結果、

その場は

まったく想定外の

展開になることは多い。

 

しかし、

手放せたからこそ

意図通りの展開に

なることも

またよくあることだ。

 

どちらでもいい。

 

どちらでもそれは

とても素敵な

展開となる。

 

要するに。

 

しっかりと

準備せい!

 

ということだ。

 

人とコミュニケーションを

とる前には

それくらいしっかりと

準備をする。

 

一つ一つ

しっかりと。

 

それにより

「自分の意図」という

狭い世界から

 

私達は自由に

なれるんだよ。

 

つづく

本当の情熱で生きよう

 

「情熱」

という言葉がある。

 

情が熱すること。

 

感情が熱くなって

いること。

 

このもともとの

語源は

「受難」から

来ているらしい。

 

つまり、

苦難の中で

それに立ち向かおう

とするところから

発生する状態。

 

それが「情熱」

ということのようだ。

 

・・・・・・

 

以下は

私流の解釈だが、

 

情熱の「情」とは

反応本音のことだ。

 

反応本音が

熱くなっている。

 

反応本音が

燃えている。

 

それが

エネルギーとなり

目の前の物事に

取り組んでいく。

 

大事なのは、

 

「誰」が

その反応本音を

燃やしているか?

 

だ。

 

これ、

結構、いろんな

「誰」が

いるもんだ。

 

私が思う

人として最も幸せな

情熱とは、・・・

 

その人自らの

真本音が

 

自らの反応本音を

燃やしている。

 

・・・という状態だ。

 

真本音が

一つの「現実」に

向かおうとする。

 

その自分に

さらにエネルギーを

与えるために、

 

自らの

情(反応本音)に

熱を与える。

 

熱を与えられた

反応本音は

その熱を「炎」に

する。

 

それにより

人間としての

心のパワーが

増幅する。

 

それにより

その「現実」に

立ち向かうパワーが

増幅する。

 

それにより

道が開かれる。

 

真本音が

反応本音を

燃やす。

 

それは喩えれば、

会社の創業者が

一つの目的を果たす

ために、

組織を編成し、

 

そこにいる

社員さん達に

エネルギー(熱)を

与え、

 

自分一人ではなく、

組織としての

相乗効果を発揮しながら、

 

自分一人では

成し得ないことを

成し遂げていく。

 

・・・というような

ものだ。

 

私はよく、

人の心を「組織」に

喩える。

 

真本音が

創業者で、

 

反応本音は

その創業者に共感する

社員さん(仲間)達。

 

これが

本来の私達の

心の有り様だ。

 

真本音と反応本音が

このような関わりに

なることが

本来の私達の

心の姿であり、

 

この状態になることを

 

「真本音度合いが

高まる」

 

と、

私は表現している。

 

つまり、

真本音度合いが

高まることで、

 

私達は、

真本音と反応本音の

パワーの相乗効果が

発揮される。

 

それこそが、

真の情熱であり、

 

これが発揮されて

いる時、

 

その人は

その人らしさを

最大限に発揮する。

 

その人らしい

道を

切り拓く。

 

だから。

 

「情熱」って

いいね。

 

情熱的な人生で

ありたいと

私はいつも願って

来たし、

 

みんなもそうなれると

いいな、と

思う。

 

無理な

熱じゃない。

 

自らの願いや

祈りの込められた

真本音の熱で、

 

自分をさらに

熱くしよう。

 

つづく

 

流されよう

 

自分は

たった一枚の

葉っぱだ。

 

くらいに

自分を捉えた方が

良い時がある。

 

一枚の

力のない葉っぱが

水に流されていく。

 

最初は

小さな小さな

沢の流れだったのが、

 

しだいにその沢は

様々な沢と

合流しながら

太く大きくなっていく。

 

ある時は

激しく、

ある時は

緩やかに。

 

ある時は

まっすぐ、

ある時は

曲がりくねりながら。

 

濁流に

呑まれたり、

岩にぶつかったり。

 

様々な体験を

重ねながらも、

 

しかし決して

葉っぱは

川下から川上へは

流れない。

 

重力の法則に則り、

川上から川下へ

流れ続け、

 

やがては

海へと至る。

 

それが

人生であると

私は捉えている。

 

もちろん。

 

川や水の流れに

依存する

のとは違う。

 

川や水の流れの

真理に目を向け、

 

そこに確かに

流れが実在することを

知り、見つめ、

 

その流れに乗る

ことこそが

自分自身の

本分であるという

 

それもまた

真理であることを

知り、

 

その通りに

流れていく。

 

これこそが

「自律」の本質で

あると

私は思っている。

 

流れに乗る

覚悟。

 

流れに委ねる

覚悟。

 

実は、

流れそのものが

自分自身である

という真理を

そのままに受け入れる

覚悟。

 

これが

「自律」だ。

 

だから私は

時々、

 

あえて自分を

葉っぱのように

捉えることにしている。

 

何の力もない

葉っぱ。

 

ただ、

委ねることしか

できない

葉っぱ。

 

しかし、

その世界のすべてが、

 

委ねるその

世界そのものが、

 

自分自身である

ということを

よく知っている葉っぱ。

 

そんなイメージで

一日を過ごすのも

悪くない。

 

つづく

 

沁み込むなぁ

 

言葉とは

本当は

多くは要らない。

 

たった

一言でいい。

 

その一言が

胸の奥の奥まで

沁み込むことがある。

 

私が

真本音メッセージ

と呼んでいるものだ。

 

今日も

そんなメッセージを

いくつかいただいた。

 

それが

ある種の炎のように

なって、

しかしとても静かに

 

私の奥で

トツトツと

燃えている。

 

きっとこの炎は

しばらくは、

何日、いや、何週間かは

私の中のここに

あり続けるのだろう。

 

その炎は

恐らく

様々な気づきと指針を

私にもたらして

くれるだろう。

 

そしてその影響が

私のコーチングに、

様々な人へのサポートに

ダイレクトに

及ぶだろう。

 

つまり、

一人の人の

たった一言が、

多くの人の人生を

変えることすら

あるのだ。

 

それくらいに

真本音メッセージは

世の中に

響き渡っていく。

 

多くの人が

これができると

いい。

 

そうすれば、

世の中は

心地よい響き合いのもとで

進化を続けて

いくだろう。

 

つづく

 

それは本当にそれか?

 

月が水面に

映ると、

 

その月は

水面の揺らぎと

共に

揺れる。

 

もし、

その映っている月を

本物の月であると

思い込んでいたら、

 

私達は、

月とは揺れるものだ、

勘違いするだろう。

 

しかし同じようなことが、

この世の中では

起きている。

 

私達は

その物事の本当の姿を

ちゃんと

見つめているだろうか。

 

ただ、

その物事の幻影を、

 

どこかに映っている

幻影を

 

見ているだけでは

ないだろうか。

 

私達は

その人の本当の姿を

ちゃんと

見つめているだろうか。

 

ただその人の

幻影を

見ているだけでは

ないだろうか。

 

私達は

自分自身の本当の姿を

ちゃんと

見つめているだろうか。

 

ただ、

自分という人間の

幻影を

見ているだけでは

ないだろうか。

 

真実は

どこにある?

 

目に映っている

その現実は

本当に

現実だろうか?

 

私達は

その本質を

実在を

ちゃんと捉えて

いるだろうか?

 

そんな問いを

持ちながら

すべてと向き合うだけで

 

人生観は

変わるかも

しれないんだよ。

 

つづく

 

しっかり心に留めてほしい

 

私には

ミッション、ビジョン

がある。

 

このために

私の全人生と

全エネルギーを注ごう、

というものだ。

 

とてもありがたいことに、

この私の願いを知り、

共感、共鳴、共振

してくれる人が、

 

本当にそうなってくれる

人達が

 

少しずつ増えてきた。

 

そして、

共振しながらも

その人自身が自分の

ミッション、ビジョンの

ヒントを得て、

それに向かおうと

している。

 

その人の成長は

私自身のミッション、ビジョン

の実現に

直結する。

 

だからとてもとても

ありがたい。

 

その感謝の気持ちを

前提として、

 

あえて、

 

そう、あえて

申し上げたい。

 

無茶すんな。

 

・・・と。

 

・・・・・・

 

私がどれだけ

そこに

自分の命を込めているか?

ということは、

 

その人達は

感覚でわかってくれる

ようだ。

 

それもとても

ありがたい。

 

そしてその人達は、

「自分も!」

自分の命をそこに

注ごうとする。

 

もちろんそれは

私のミッションというよりも

その人自身のミッション

なのだが、

 

私と同じように、

いや、

私以上に

自分の命を注ごうと

してくれる。

 

しかしそれは

無茶な話なのだ。

 

正直に言おう。

 

私の命の注ぎ方、

エネルギーの注ぎ方は

人間としての常軌を

恐らく、逸脱している。

 

一歩間違えれば、

本当に今ここで

死んでしまう、

 

というくらいに

自分の生命エネルギーを

使うことは

これまで何百回、

いや

何千回とあったと思う。

 

でもそれは、

 

そこまでギリギリの

ことができるように

なったのは、

それだけの訓練と

修行を重ねたからだ。

 

それはたった一人の

訓練と修行であったが、

それは今でも

日々、重ねていることだ。

 

そして私はそれを

他者にもやってもらおう

とは

到底思っていない。

 

こんな言い方を

すると、

格好良く聞こえてしまう

かもしれないが、

 

でもあえて

本気で思っていることだから

言っておこう。

 

無茶をするのは

私一人でいい。

 

そのために

50年以上も

訓練を続けてきたんだ。

 

それは、

私以外の人が

無茶をしなくてもいい状態を

創るためだ。

 

それを

わかってほしい。

 

だから、

無茶をするな。

 

・・・・・・

 

私が提唱する

「真本音で生きる」

というのは、

 

決して

無茶をする生き方

ではない。

 

自分にできることを

 

その時の自分が

できる最大のことを

 

最善の方法で

 

最も楽しく

充実しながら

 

自分らしく

 

今ここで行なう、

 

という生き方だ。

 

そこには無茶も

無理もなく、

 

そこには自分の命を

込める悦びが

ある。

 

その生き方に

集中してくれればいい。

 

自分自身の

真本音で、

 

今、これをしよう

 

と思うことを

そのまま素直に

行ない、

 

今は、これはしない

 

と思うことを

そのまま素直に

やらない。

 

今、この瞬間に

常に意識を向けて、

 

丁寧に

向けて、

 

今この瞬間を

生きていく。

 

これが

どこまで行っても

 

基本なんだ。

 

この基本を

何があっても

繰り返すだけだ。

 

もちろんこれは

私もいつも

やっていることなのだが、

 

私の無茶とは

これとはまったく

異なる世界の話だ。

 

そこまで

踏み込まなくても、

いい。

 

少なくとも

今は。

 

無茶をするよりも、

今は

もっともっと

自分の命のエネルギーを

高めながら

進んでほしい。

 

これが私の

願いであり、

祈りだ。

 

つづく

 

美しい生き方とは

 

迷うことは

悪いことではない。

 

むしろ、

迷うからこそ人生は

進む。

 

迷うからこそ

その先の成長・進化に

つながっていく。

 

迷うことは

悪いことではない。

 

しかしもし問題が

あるとすれば、

それは

 

答えを出すことを

あきらめることだ。

 

・・・・・・

 

答えを出そうと

努力することは

大変だ。

 

それによる

ストレスもかかるだろう。

 

しかし、

答えをあきらめるストレス

に比べれば、

そんなのは100分の1だ。

 

答えをあきらめる

ということは、

人生をあきらめる

ということだ。

 

そしてそれは

自分という人間を

あきらめるということだ。

 

これによる

ストレスはあまりにも

根本的で苦しく、

 

苦しいが故に

麻痺をする。

 

そして、自分が

そのようなストレスに

苛まれていることに

自分で気づかない。

 

これを別の言葉では

「現実逃避」

と言うのだが、

 

現実逃避ストレスは

あまりに深く

辛いのだ。

 

時々、

「たけうちさんと出会って

前よりも格段に

苦しくなった」

と言う人がいるが、

 

それは単に、

麻痺していたものが

取れてきた

ということだ。

 

最初からそれだけ

苦しんでいたんだよ。

 

私はいつもコーチとして

その人の鏡

になる。

 

私と向き合うと、

自分のその時の本質と

向き合ってしまうことに

なる。

 

だから現実逃避している

人は、

本能的にそれを察知する。

 

そして

私の前から逃げていく。

 

私とは決して

向き合おうとは

しなくなる。

 

それは、

私から逃げている

のではなく、

自分自身から

逃げているということだ。

 

もうそんな

辛い人生は

やめにしないか。

 

・・・・・・

 

悩めば

いいじゃないか。

 

迷えば

いいじゃないか。

 

格好良く進まなくても

いいじゃないか。

 

それが人間だろ。

 

人間の一番の

美しさは、

 

あるがままの自分を

見つめる生き方

だと

私は思うな。

 

答えは出なくとも

答えを見つけようと

する。

 

どれだけ格好悪くても

何としてでも

見つけようとする。

 

そんな意志を持つ人を

私は本当に

美しいなぁ、と

いつも思ってるよ。

 

つづく

 

原点に戻ろう

 

一日の内に

本当に様々なことが

起こるので、

 

一日の終わりには、

心の中は

嵐のようになっている。

 

人から受けた風や

自分自身が起こした風、

 

それらが

心の中で絡み合いながら

いつまでもずっと

吹き荒んでいる。

 

もちろんその嵐は

悪いもの、というわけでは

ない。

 

その中には喜びも

あるのだが、

しかしそれにしても

疲れる。笑

 

その嵐の中に

ずっといるままで

眠りにつき、

一日を終えてもよいのだが、

 

それでは

明日が今日に

影響を受けてしまう。

 

明日が今日に

影響を受けるのは

当たり前ではないか、

と思うかもしれないが、

 

私はそれを

あえて

お勧めしない。

 

一日の終わりには

ちゃんと自分の

電源を

一度、切った方がいい。

 

そして、

その一日という「人生」を

いったんきちんと

終えるのだ。

 

一日は

その一日で

終わり。

 

完了。

 

そして、次の朝の

目覚めは

そこでまた

「生まれる」のだ。

 

そういった毎日を

過ごすことができれば、

 

私達は毎日、

原点に戻れる。

 

いったん原点に

戻ってから、

「昨日の続き」を

また始められる。

 

いったん原点に

戻るのと、

まったく戻らずに

そのまま続きをするのでは、

 

雲泥の差

となる。

 

なぜなら

原点に戻るということは、

私達は

本来の自分を思い出し、

自分自身との約束を

おさらいすることに

なるからだ。

 

要するに

「私は何のために

ここにいるか?」

「何のための人生か?」

を、

明確な言葉にはならなくとも、

感覚として

思い出せるのだ。

 

それが

とてつもなく

重要だ。

 

原点に戻るためには、

今日という一日で

発生した嵐を、

 

その嵐のすべてを、

 

ただただ

じーっと見つめることだ。

 

眺めることだ。

 

嵐を鎮めようとする

必要はない。

 

ただ、あるがままのそれを

観察するのだ。

 

すると、

最初は嵐の中に

自分はいても、

 

だんだんといつの間にか

その嵐から

離れられる。

 

いつの間には

嵐と自分は分離し、

 

嵐を眺めている自分は

とても静かな場所に

いることに気づく。

 

嵐は嵐。

 

自分は自分。

 

ということが

わかる。

 

これが

原点だ。

 

そうなった上で、

眠りにつこう。

 

そんな一日の終え方を

しよう。

 

つづく

 

無数にあるんだよ

 

人生の選択肢は

いくらでもある。

 

あの時、

こうしておけば

今頃どうなっていただろう?

 

という疑問は

誰しも一度は

持ったことがあるのでは

ないか。

 

しかしそういった

思い出せる分かれ道

もあるが、

実は、記憶に残らない

細かな選択の場面は

無限と言ってよいほど

あるものだ。

 

例えば、

ある日、ランチに何気なく

入った店で

ちょっとした発想が生まれ、

その発想が

ゆくゆくの大きな展開を

生み出した、とか。

 

そんな場合、

私達はよく

「あの発想があったからこそ」

という記憶の仕方をするが、

しかし実は、

あの時、あのランチの店に

入ったからこそ

その発想が生まれた

のである。

 

もし店が違ったら、

発想は生まれなかった

かもしれないし、

生まれたとしても

そのタイミングが

変わっていた可能性は

充分にある。

 

どんな発想が

生まれ、

それをどのように

行動に移したか?

 

ということと、

 

あらゆる発想や行動の

タイミング、

 

によって

人生の展開は

次々に変わる。

 

そう考えると、

私達はあまりにも無数の

選択肢の中にいる。

 

それが私達の

日常だ。

 

その日常の中で、

「最善」を

選んでいく。

 

一つ一つ、

ほんの些細なことにも

「最善」を

選んでいく。

 

それが

真本音で生きる

ということだ。

 

最善かどうか

わかるのですか?

 

というご質問を

いただくことがある。

 

私は明確に

答える。

 

「わかりますよ」

と。

 

今の自分が

最善の選択を

し続けているかどうか、

は、

 

自分自身の実感として

実によくわかるのだ。

 

それはまるで、

自分が今、立っているのか

座っているのか、

を知るのと同じくらいに

明確にわかるものだ。

 

真本音度合いが高まる

ということは、

それがわかるようになる、

ということでもある。

 

もともと人には

そのような感性が

備わっており、

それが発現する

だけだ。

 

真本音で生きる

ことは、

人としての

もともと持ち合わせている

様々な力を

発現させてくれる。

 

つづく

 

「死」と共にある

 

日常生活の中で、

自分の死について

考えることは

あまりないのかな?

ほとんどの人は。

 

でもよく振り返れば、

私はいつも

そのことばかりを

考えてきたように思う。

 

いや、

ちょっと違うな。

 

考えているわけでは

ない。

 

「死」は

常に私と共にあったし、

今もある。

 

それは別に

悪いものでもないし、

悪いことでもない。

 

これがあるが故に、

私は

「どう生きるか?」

も常に考え続けた。

 

よく言われることだが、

死と生は

一つのことだから。

 

・・・・・・

 

今でも鮮明に

覚えている。

 

確か、小学3年か4年の

頃だ。

 

学校が終わり

下校している途中、

私は

一人だった。

 

歩きながら

近所のちょっとした

林を見つめた。

 

その瞬間、

まるで電撃に打たれた

かのように、

自分の「死」について

考えた。

 

何がどうあろうが、

いつか自分には

「死」が訪れるんだ、

という事実が、

 

ふと、

林の木々と共に

眼前に屹立したのだ。

 

私は急に

怖くなった。

 

死にたくない。

 

と思って

震えた。

 

でも、

必ずいつか、

私は死ななければ

ならない。

 

いったいその瞬間は

いつ、どのような形で

訪れるのだろうか?

 

考えた。

 

考えながら

怖くて震えた。

 

その瞬間から

ずっと、

私の傍らには常に

「死」がある。

 

・・・・・・

 

こんな仕事を

しているので、

 

これまでは

人の「死」と関わることも

多かった。

 

知り合いで

自殺した人もいるし、

不治の病の人も

いた。

 

生きるか死ぬか

という病気に

かかった人や、

その手術をされた人、

人の「死」に、お仕事で

毎日のように関わる人

もいた。

 

その度に、

私の「死」は

私の傍らでいつも

うごめいていた。

 

でもこれはきっと

他のほとんどの人も

同じだ。

 

ただ気づかないだけで、

ほとんどの人は

「死」と共に

歩んでいる。

 

その人の傍らには

常に

「死」がうごめいている。

 

何度も書くが、

それは決して

悪いことではない。

 

・・・・・・

 

「死」が傍らにあると、

最近の私は

毎日のように思っている。

 

残された時間が

あまりに少ないな、と。

 

私がこの世で

やりたいこと、

成し遂げたいことと、

残された時間の量との

ギャップだ。

 

こんな短い時間の中で

いったいどうすれば

いいのだろう?

いつも愕然とする。

 

そして、

今日と同じ一日を

明日も過ごすわけには

いかない、

焦りの気持ちが

どうしても湧いてくる。

 

と同時に、

その奥から

とてもあたたかく

高いエネルギーのような

ものが

ひょっこりと

顔を出す。

 

その「エネルギー」は

私にいつも言う。

 

「大丈夫だ。

ちゃんとやること

やっているよ。

明日も今日と同じく、

やることを

ちゃんとやればいい」

 

私は

一人の人間としての

限界を持っている。

 

私の思っていることが

成就するかどうかは、

やってみなければ

わからない。

 

私にできる

唯一のことは、

 

最善を尽くす

 

ことだ。

 

これ以外には

ない。

 

真本音で生きる

とは、

最善を尽くす

ことなんだ。

 

つづく

 

答えと巡り会う

 

心を

空っぽにする。

 

一見すると

それは

「無」であるが、

 

実は

そうではない。

 

そこには

「すべて」

がある。

 

心を

空っぽにする。

 

一見すると

それは

ある種の不安と

恐怖すら覚えるが、

 

実は

そうではない。

 

それは

自分が「自分である」

と思い込んでいる

あらゆるものを

手放した状態であり、

 

本来の自分そのものを

そのままに

感じ取り、

 

そのままに

そこに在る、

という状態だ。

 

この状態に入れば、

ほんの数秒で

いい、

 

自分がその時

ほしいと思っている

あらゆる「答え」

手に入る。

 

それには

一切の迷いが

ない。

 

一般的にはそれを

「確信」

と言うが、

 

「確信」というほど

力の入ったものでも

ない。

 

それはあまりに

自然なもの。

 

当たり前の

もの。

 

ただ、思い出した

だけのもの。

 

しかしそれは

紛れもなく

「真実」であり

「真理」である。

 

だから

その「答え」に

巡り会えば、

 

その瞬間から

すべてが

動き出す。

 

だから、

 

私はいつも

思うのだ。

 

心を空っぽに

する。

 

・・・ということを、

誰もが気軽に、

気楽に、

すぐに、

どこででも、

日常において

どんな時でも、

 

今この瞬間に、

 

できるように

なれればいいな、

と。

 

そのための

手段が、

 

真本音度合いを

高める

 

ということなんだ。

 

つづく

 

そいつは無理だ

 

真剣に進む

のと

無理をする

のとは

まったく異なる

ことだ。

 

というよりも、

真逆だ。

 

第一、

無理をしていては

真剣になることなど

できない。

 

真剣とは、

全力を出すべき時に

全力をきちんと

出すこと。

 

そんな自分で

い続けること。

 

そんな生き方を

持続すること。

 

全力を出すべき時に

もし全力を出せないようで

あれば、

最速で進むことなど

できない。

 

全力を出すべき時に

全力を出せないのは、

どこかで無理を

しているから。

 

つまり、

「無理」とは

「真剣」を

阻害するものだ。

 

ただし。

 

「無理」をしたことの

ない人は

「真剣」に生きることは

できない。

 

矛盾しているように

聞こえるかもしれないが。

 

無理をして無理をして

無理をして、

 

自分の限界を味わって、

限界を痛感して、

痛い思いをして、

 

それでやっと

「無理をしない」とは

どういうことか、

「真剣に生きる」とは

どういうことか、を

我々は学べる。

 

だから、

真剣に生きるために

上手に無理をしないように

しよう、

と思う人は

いつまで経っても

真剣にはなれない。

 

かといって、

無理をしていることに

自己満足している

人もいる。

 

私は毎日、無理を

している。

それだけ必死に生きている。

凄いでしょ。

 

・・・と自己満足している。

 

こういう人も

真剣にはなれない。

 

難しいかな?

 

いや、

やることは

単純だ。

 

私はいつ

全力を出すべきか?

常に考えながら

生きればいい。

 

そして、

その瞬間に本当に

全力を出せるためには

どうすれば良いか?

常に考えながら

生きればいい。

 

その探究を続ければ、

最初は「無理」ばかりに

なるかもしれないが、

そのうちに

「真剣」になれるよ。

 

つづく

 

なるにまかせよ

 

内側から

何かが

込み上げてくる。

 

それは

決して悪いものではなく、

心地良いもので

あるが、

 

しかしそれにしても

凄いエネルギーだ。

 

このエネルギーを

どうやって

コントロールしようか?

 

・・・と思うと

途端に自信が

なくなる。

 

しかし

込み上げるものを

抑えることも

できない。

 

わずかでも気を抜けば、

それはまるで

活火山のように

大噴火し、

マグマを放流させるだろう。

 

・・・・・・

 

そのエネルギーは

あえて感情として

表現すれば、

 

悦び

 

となるだろう。

 

しかしそれにしても

なんと強い

悦びか。

 

この悦びに

包まれること自体に

恐怖すら感じる。

 

この悦びを

制御できなければ、

いったい自分は

どうなってしまうのか?

 

・・・・・・

 

いくら居心地の良い

ものであっても、

私達は

未知のものや

これまでの範疇を

大きく超えるものを

前にすれば、

 

誰だって

躊躇する。

 

だから

躊躇すること自体は

健康的だ。

 

しかし。

 

今は、

躊躇している

場合ではない。

 

今、感じている

制御不能のその悦びは、

そのエネルギーは、

 

まだまだ

序の口だ。

 

そんなものは

堂々と

受け止めよ。

 

それができる

あなたに

なっているんだよ。

 

早く受け止めて、

 

すぐに

次に行こう。

 

つづく

 

無限の自分へ

 

自分という人間を

徹底的に

客観視してみよう。

 

ちょっと離れた

ところから

自分を観察し続ける

イメージだ。

 

朝起きてから

夜寝るまで

一日中、一度それを

完全にやり遂げて

みてもらいたい。

 

何が

観えるだろうか?

 

・・・・・・

 

これを徹底してやると、

面白いことに

すぐに慣れる。

 

常に主観的な視点と

客観的な視点の

二つから同時に

物事を受け止めることが

できるようになる。

 

すると、

発想が劇的に

変わる。

 

二つの視点になるから

発想も2倍になる、

のではない。

 

二つの視点を持つことで

発想と発想のシナジーが

起こり、

発想力ということで言えば、

恐らく、数十倍になる。

 

そしてさらに

慣れてくれば、

その客観的視点を

増やしていくのだ。

 

例えば、

上から自分を客観視

する自分と、

下(地面)から自分を

客観視する自分、

というように。

 

つまり3つの視点を

常に持っている状態だ。

 

これに慣れれば、

4つ5つ、と

どんどん視点を増やしていく。

 

この客観的視点は

実は、

何十個、何百個と

増やすことができる。

 

無限に増やす

ことができる。

 

さて。

 

無限に増えた

客観的視点と、

もともと持っていた

主観的視点。

 

それらが合わさると

どうなるだろうか?

 

感覚としては、

世界と自分が

一つになる。

 

すべては私

であり、

私はすべて

となる。

 

この感覚は

明らかに

人生観を変える。

 

物事の本質を

捉える力が

次元を超える。

 

すでに真本音度合いが

ある程度高い人は、

以上を

数十分間くらいですべて

体験できるだろう。

 

・・・・・・

 

すべては私であり、

私はすべてである。

 

という感覚で、

次の自分の一歩を、

行動を

決めるといい。

 

その瞬間から

人生は

新たな段階と展開に

一気に

入っていく。

 

つづく

 

豪雨だろうと

 

凄まじい豪雨

だ。

 

これまでに

見たことのない

激しさだ。

 

その中を

私の息子が

歩いている。

 

立つことすら

ままならないので、

ヨロヨロしている。

 

しかしついに

膝をついた。

 

もう、前に進む

気力も失われて

しまったようだ。

 

息子は

後ろを振り向いた。

 

来た道を

戻ろうとしているのだ。

 

私はとっさに

豪雨の中に

飛び出した。

 

そして息子を

抱きかかえ、

そのまま

前に向かった。

 

息もできない

くらいだが、

それでも

前に進み続けた。

 

私は抱っこしている

息子に伝えた。

 

「一度、決めたら

何があっても

止まるんじゃない。

何があっても

先に進むんだ。」

 

・・・ここで

目が覚めた。

 

・・・・・・

 

調べてみると、

夢で見る豪雨とは、

どうやら

心のモヤモヤを

晴らしてくれるものらしい。

 

しかし

私が夢で見た豪雨は

恐らく、暗示ではなく

「実在」だ。

 

夢の中で

息子だと思っていた

存在は、恐らく

前に進むあらゆる人

を象徴していたのだと

思う。

 

今、最速で

前に進む人の多くは、

豪雨の中にいる。

 

それを私は

必死に応援している。

 

しかし人によっては

「救い出す」

必要がある。

 

それくらいの

豪雨だ。

 

ただ、

豪雨の終わりも

観えている。

 

もうすぐ

雨は止む。

 

それまでの

辛抱だ。

 

大変だが、

それでも

前に進もう。

 

つづく