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「心技体」
という言葉があるが、
最近はその大切さを
つくづく感じている。
というのも、
皆の急成長が
凄まじいから、
かもしれない。
私の表現を
使えば、
心の次元が高まる
という意味では
とても素直に
自己成長できる人が
増えている気がする。
だから
心を整える
という意味では
とても優等生だ。
しかし、
心が急成長すれば
するほど、
体、つまりは
行動が伴わないと
その急成長ぶりは
逆に
足を引っ張ることになる。
なぜ行動が
伴わないかと言えば、
その理由の多くは、
技、つまりは
能力が伴わないからだ。
心が整えば
願いがわかる。
願いがわかれば
どんどん
願いに進みたくなる。
しかし
現実的には
能力がまだ未熟で、
願いはわかったが
とてもそれを叶えるだけの
自分ではない。
だから
能力を高めよう!
と素直になれば
良いのだが、
実は
ここで止まる人が
いる。
心を整えるのは
気持ちが良いけど、
能力を高める努力は
面倒臭い、
とか
能力を高めたり
行動を変える自信がない、
とか
そういう挑戦をするのが
怖い、
とか。
理由は様々だが、
とにかく
現実的な力を
身につけることに
躊躇をし出す。
残念ながら
その瞬間に
すべてが崩れる。
「バランスが崩れる」
のではない。
バランスどころの
騒ぎではない。
「すべて」が
崩れるのだ。
つまりは
心も崩れていく。
私の表現で言えば、
「真本音が離れていく」
という状態になる。
私達の真本音は、
心だけでなく、
現実世界における
自分の行動を
心に一致させることを
望んでいる。
「現実」を
大切にしている。
心技体の
たった一つでも
努力を怠れば、
離れていって
しまうのだ。
すると
後に残るのは
「自己満足」
だけ。
「自分には願いがある」
「自分にはミッションがある」
と言いながら、
すでにそこに真本音は
なく、
ただ、空虚な言葉が
踊るだけ。
そんな状態に
なってしまう。
だから単純に
言ってしまえば、
願いがわかったら
努力せい!
ということに
なるのだが、
本当は
自分の真の願いに向かって
現実的な努力をする
ということは、
それ自体が
深い悦びになることだ。
だから
現実的な一歩を
踏み出せばよい。
ただそれだけ
なのだ。
心技体。
心の伴わない
行動と能力だけでは
意味はない。
しかし、
心だけでも
意味はない。
一つが急成長
できたら、
他のすべても
急成長させよう。
つづく
すべての意欲や
モチベーションが
喪失される状態を
経験したことが
あるだろうか?
生きる気力
そのものも
生きる意味
そのものも
自分の中から
喪失される。
エネルギーが
まったく出てこない。
そんな状態。
鬱になってしまった
わけではなく、
日常の中で
突然、来る。
真本音を大事に
生きてきたのに、
突然、来る。
経験あるかな?
それには
いろんな理由が
あるのだが、
ここではその理由は
述べず、
ただ
対処法のみを
述べたい。
対処法と言っても
とても簡単だ。
「そのままでいい」
と
その状態そのものを
認めることだ。
「この状態こそが
今は必要だ」
と。
そしてそのまま
朝を迎え、
一日を始めれば
いい。
すべきことに
着手すれば
いい。
これによって
得られるものを
あえて最も近い言葉で
表現すれば、
「自由」
となる。
意欲がなければ
動けない?
モチベーションが
なければ
何もできない?
エネルギーがなければ
生きていけない?
いや、
そういったものから
完全に自由に
なれる。
そのきっかけに
過ぎない
一つの経験が
この「意欲ゼロ」の状態だ。
私達は本来、
自分がどのような
状態であっても、
自分のすべきこと
(=すると決めていること)
を
粛々と進めることが
できる。
自分の状態は
自分の人生を
決めない。
そこから
自由になれるのが
本来の私達だ。
真本音度合いが
高まり、
本来の自分が
顔を覗かせる度合いが
高まるということは、
そういうことなんだ。
だから安心して
「意欲ゼロ」を
楽しめばいい。
つづく
私達は人生において
様々な後悔を
するが、
自分が
自分自身の真本音を
無視した生き方をする
ことによる後悔ほど
大きい後悔はない。
特に
人生の終わりに
その後悔に
苛まれる人が
多い。
そういった人を
実は私は
たくさん拝見してきた。
その後悔は
すさまじく、
それを感じるにつけ、
私はとてつもなく
悲しくなった。
だからいつも
本当に思う。
人生は
いつ終わるか
わからない。
今この瞬間、
今ここで、
ちゃんと
自分の真本音を
自分が
大事にしよう。
自分は本当は
何を願っているか?
自分は本当は
何を望んでいるか?
本当はどんな人生に
したいのか?
本当はどんな生き方を
したいのか?
本当は
誰のために
どう生きたいのか?
私達は残念ながら
過去に戻ることは
できない。
決して。
だから深く
後悔する。
後悔のない
人生を。
当たり前のことだが
とても大切な
ことだ。
今ここで
今この瞬間から
真本音を
大切にしよう。
つづく
実は、
昨年の9月から
私は
お酒を飲まなくなった。
やめたわけでも
ないし、
「禁酒」している
わけでもない。
ただ、
飲まなくなった。
それまでは
毎日欠かさずに
ウィスキーをストレートで
飲み続けていた。
家にはウィスキーの
ボトルが常に
並んでいた。
飲まなくなった
きっかけは
一週間の内に
偶然にも(必然にも?)
3人の方から
「お酒、控えた方が
いいんじゃないですか?」
と
言われたからだ。
いつもなら
そういうのは全く
意に介さないのだが、
3人目の人に
言われた瞬間に、
「あぁそうだよな」
と思ったのだ。
で、
飲まなくなった。
単純だ。
真本音で
飲むのをやめよう
と
思っただけだ。
だから
飲まなくなった。
あれから一年以上
が過ぎた。
飲まなくなったけど
「飲もう」と
思うときは飲んだ。
とは言え、
一年のうちでも
片手で済むくらいの
回数だ。
そして、
「この人と飲みたいな」
と思える人が
いる場合だけだ。
そうすると、
その人と一緒に
お酒を飲んでいる
その時間が
とてつもなく
楽しくなった。
大概、
久々のお酒なので
悪酔いしないだろうか、
と心配するが、
まったくそんなことは
なく、
以前、飲んでいた時
以上に、
美味しく飲めるし
気持ちよく酔える。
まぁだけど
酔うかどうかは
もう
どうでもいいかな。
今は。
それよりも、
お酒を味わいながら
その人達との
時間を味わう。
そこにこそ
私の魂の悦びが
あるかな。
今日も
そんな時間だった。
お二人の人と
飲んだのだが、
私の魂は
ずっと
笑い転げていた。
つづく
本当に大事なもの
が何か?
がわかると、
これまで
大事にしてきてものが
どうでもよくなる。
であれば、
手放せばいい。
どうでもよいものは
手放せばいい。
ちょっと
極端な言い方だが。
いつも言うことだが、
手放すとは、
捨てることではない。
距離を離す
ことだ。
今よりも
遠くに置く
ことだ。
この世の中の
調和は、
時間と距離
で決まる。
最善のタイミングで
最善の行動を
起こす。
これが
時間による調和
だ。
と同時に、
最善の距離で
最善の関わりを
する。
これが
距離による調和
だ。
この二つを
大事にし続ける人は
(もしくは、組織は)
あらゆることが
調和し始める。
具体的に
何をするか?
何を選択
するか?
よりも、
どのタイミングで
するか?
どの距離感で
するか?
の方が
実は
大事なんだ。
真本音度合いが
高まるということは、
この二つを
見極める力が高まる
ということと
イコールだ。
つまり
真本音度合いが
高まると
手放すべきものを
手放せるように
なる。
だから、
自分が
本当に大事にしている
ものが何か?
が
わかればわかるほど、
「今、私は
何を手放すか?」
という問いを
大事にするといい。
私はこの問いを
毎日毎日
自分に問うている。
答えがわからなくても
問い続けることが
また大事なんだ。
つづく
何もない
広大な大地に、
たった一輪だけ、
花が咲いた
とする。
ちょっと
イメージしてみて
ほしい。
その花は
どんな花?
もしイメージ
できるなら、
その花を
じっと見つめて
みてほしい。
花と
しばらく無言で
対峙してみてほしい。
すると、
花の意志(意思)
が
何となく
伝わってくるはずだ。
その意志(意思)は
あるがままに
感じるだけでもいいが、
でも可能なら、
できるだけ
言語化してみよう。
言語化できたら、
今度は
あなたはその花を
どう育むか?
を
考えてみてほしい。
その花はまだ
小さいので、
目を離すと
すぐに枯れてしまう
かもしれない。
その花が
丈夫に育つために、
あなたは
その花に
どんな栄養を与える?
どう育てる?
そしてそれは、
現実の世界においては
具体的に
あなたが
どんな行動をとることで
成されるのだろう?
花。
それは
あなたの中に
芽生えた
新たな願いであり、
新たな使命であり、
新たなビジョンであり、
新たな
真本音だ。
真本音とは
本来、
揺るがないものだが、
でもそれは
日常における
あなたの行動と
結びつけないと、
すぐに
地中に戻ってしまう。
花が本当に
逞しく咲くためには、
あなたの
普段の行動が
必要だ。
だから
花を育てるように、
あなた自身の
真本音を
育ててほしい。
あなたの
新たな意志(意思)は
何て言ってる?
つづく
心を完全に
自由にしたときに、
多くの人が
目撃するものが
ある。
それは
「激流」。
心の中の
激しい流れだ。
それを
目の当たりにすると
私達はまずは
戸惑い、
慄く。
これは何だ?
と
びっくりする。
そして
人によっては
見なかったことに
してしまう。
しかしその
「激流」は
確かに私達の中に
あり続ける。
流れ
続ける。
それを
ずっと観ていると、
自分の身も心も
その流れに
捧げてしまいたく
なる。
しかしそれには
余程の勇気が
必要だ。
多くの人は、
自分にはまだ
その準備が整って
いない、という
事実を知る。
そして
早くあの流れに
身を委ねたい、という
本能的願いが
生じ、
自分を高める努力を
始めるのだ。
・・・・・・
「激流」に
委ねてもよい、
と
自らが自らに
OKを出せば、
私達はそれに
飛び込むことが
できる。
できるが、
やはり、
怖い。
怖いが、
勇気を奮う。
そして
飛び込む。
飛び込んだ瞬間は
わけがわからなく
なるが、
もう一瞬後には
すべてを
悟るのだ。
あっそうか、
ここだった、と。
・・・・・・
この流れの
中こそが、
自分の原点だった
と
悟るのだ。
流れている
この状態こそが、
ゼロ。
すべてが
静止し、
すべてが
鎮まり、
すべてが
満たされている。
すべてが
ないように見えて
実は
すべてが
ここにある。
すべての
始まりであって、
すべての
終わりでもある。
そんな
始まりの場所。
原点。
ゼロ。
それが
「激流」の
本質だと。
ということは、
これまで静止している
と思い込んでいた
過去の状態は、
実は
逆流していたのだ
と。
その真実を
私達は知り、
ある意味愕然とし、
しかし、
ある意味ようやく
我に返る。
本来の自分を
取り戻す。
・・・・・・
そして私達は
「日常」に
帰っていく。
「激流」に
委ねながら、
これまで通りの
日常を過ごす。
日常は
何も変わらない。
これまでと
同じ生活が
そこにある。
これまでと
同じ現実が
そこにある。
しかしもはや
私達には
すべてがこれまでとは
違って観える。
そこにある
「すべて」の
実在が
わかるようになる。
ようやくこれで
「あぁ私の人生が
始まったな」
と
思えるんだ。
つづく
出会いというのは
すべて
必然だ。
しかしそれは
まるで
偶然であるかのように
目の前に
現れる。
せっかく
偶然であるかのように
現れるのだから、
偶然であるかのように
楽しめばいい。
それがこの世の
楽しみ方だと
私は思っている。
未来を
予測する人が
いる。
なんてつまらない
ことをするのだろう、
と
私なんかは
思ってしまう。
この世は
未来がわからない
からこそ
価値があるのに。
未来がわからない
からこそ
面白いのに。
不安を消す
ために
予測をするのだと
言う。
いやいや、
せっかく不安に
なっているのだから
その不安を
楽しめばいい。
不安は
楽しめないよ。
そんな
余裕はない。
と
言われそうだが、
それは
不安と向き合って
いないからだ。
不安から
目を逸らしている
から、
不安という存在
そのものが
恐ろしくなる。
そうすると
不安になること自体を
避けるようになるから
下手な未来の
予測の仕方をして、
結果、
さらに不安になる。
自分は今、
何が不安か?
よ〜く
見つめてみると
いい。
不安だ、不安だ
と
呟き続ける自分と
対峙するといい。
結構、
大したことは
言ってない。
可愛らしい
もんだ。
まぁ、
時と場合にも
よるけどね。
3次元という
この世には
この世のルールや
宿命がある。
そこから
目を逸らすよりも、
その宿命そのものを
素直に受け入れ、
そしてできれば
楽しめばいい。
楽しむためには
「楽しもう」
という
意志を持つことだ。
これこそが
私達人間が持ち合わせている
最大の力の一つだと
私は思うな。
つづく
自分に刺激を
入れる。
徹底的に
入れる。
それは
情報であったり、
人からの助言で
あったり、
時には
ある一つの経験で
あったり。
しかし
あくまでもそれは
刺激を入れることが
目的。
刺激を入れるだけ
なので、
それらの情報や助言が
「答え」ではない。
それは単に
刺激なのだから、
それに
揺らされたり
それによって
迷う必要はない。
解釈すら
必要ない。
ただ、
自分に素直に
インプットするだけ。
すると、
その刺激が
鍵となって、
自分の中に眠っていた
「答え」が
目を覚ます。
浮上する。
そして、
自覚する。
私達が欲しいのは
その
「答え」だ。
すでに
最初から自分の
中に
存在していたその
「答え」
だ。
そういった意味で
言えば、
人生を
推進する力とは
いかに必要な
インプットをするか?
いかに必要な
刺激を入れるか?
で決まる、
とも言える。
と同時に、
インプットとは
ただのインプット
であり、
刺激とは
ただの刺激である、
という
毅然とした
自分の在り方が
大事かな。
つづく
やっと
登り詰めた
山の頂に立ったら、
自分の登りたかった
山ではなく、
別の山頂に立って
しまった、
と
気づいたら、
あなたはどうする?
もう
この山頂でいいや。
ここで
生きよう。
と思う?
それとも
もう一度山を降りて、
最初から
登り直す?
私は
どっちでも良い
と思っているが、
ただ大事なのは、
勘違いでも何でも、
ちゃんと頂には立つべきだ、
ということかな。
本当によく
あるのが、
9合目辺りまで来て、
・・・いや、
時にはあと一歩で山頂
という所まで来て、
多くの人は
「ここは違う山だった」
と気づいてしまう。
気づくと
その時点で歩みを
止めてしまうのだ。
あと一歩を出せば
山頂なのに。
やめてしまうのだ。
私は
どの山頂でも、
山頂に立たなければ
わからない景色が
あると
思っている。
どの山でも
登るのだったら
ちゃんと山頂に立つ。
そここそが大事。
山頂に立ったら
ひょっとすると
翼が生えるかも
しれない。
そしたら、
「もっと別の山が良かった」
と思っても、
降りる必要はなく、
空を飛んで
次の山頂に行ける
かもしれない。
99.9%は
まだ山頂ではない。
100%になって
初めて
山頂だ。
そして
100%になることで
99.9%の自分では
到底わからなかった
何かが
わかるものなんだ。
何が言いたいか?
というとね、
私はこう
言いたいんだ。
真本音度合い
99.9%の
君たちへ。
その時点でもう
だいぶ
人生は楽しく
満足かもしれないが、
そこで
満足すんなよな。
ちゃんと
山頂に立とう。
真本音度合い
100%になれ。
あと一歩だ。
ここまで来れた
自分を信じて、
たとえその道が
どんな道で
あったとしても、
あと一歩を
踏み出せ。
そっから
世界が
変わるんだ。
つづく
今日は珍しく
昼も夜も
人と食事を
共にした。
真剣な話を
すればするほど、
笑顔に
なれる。
軽く
なれる。
そんな人達と
一緒に向かい合う
時間は
私にとっては
至福だ。
顔は
真剣なのに、
なぜか
そこには
常に笑顔を感じ、
そして
ふとした瞬間に
その人の真実
が、
フッと風のように
私の
心に届く。
私はその時、
何かを
理解する。
時の蠢き
のようなもの。
時代の
切り替わりの
スイッチが
入れ替わるような
感触を
伴うもの。
背中を
やさしく
深く
そして強く
押してもらっている
ような
風。
あーこれが
この人の
真実か、と
その理解と
共に
言いようのない
悦びが
私を満たして
くれる。
人には
真実があり、
その真実は
ほんのちょっとだけ
顔の覗かせ、
それを
お互いに
確認し合いながらも
お互いに
風を贈り合う。
すべての人達が
こんな会話が
できるようになれば、
世の中は
根底から
変わるのでは
ないか。
つづく
願いが強ければ
強いほど、
願いが深ければ
深いほど、
迷いもまた
深くなるものだ。
迷うことは
いけないことでは
なく、
とても大事なことだ。
いけないのは、
必要のないところで
迷うこと。
決めているのに、
迷っているフリをして
進まないこと。
でも、
本当の迷いとは
しっかりと
向かい合った方がいい。
本当の迷いと
対峙することで、
そこで
しっかりと
「止まる」ことで、
「進まない」ことで、
初めて
観えてくるものが
ある。
そして
しっかりと
迷い、止まることで
その後に
「超加速」できる。
そう。
今、
「超加速」を望む人が
またもや
増えている。
ただの加速では
ない。
「超加速」だ。
そしてそのために
今、
本当に心から
魂から
迷っている。
とても
良いことだ。
必要不可欠な
ステップだ。
しっかり
止まり、
しっかり
迷い、
しっかりと
疲れるといい。
つづく
太陽は
いつも天にあり、
地上に
光をもたらして
くれる。
私達に
光をもたらして
くれる。
太陽がもし
なければ、
私達は生きること
自体ができなくなる。
太陽から
一体どれだけの
恩恵を
私達は得ている
ことか。
しかし普段、
私達は太陽の
ことなど
気にも留めていない。
時折、
今日は暑いなぁ、
とか
あ〜、天気
良くなったなぁ、
とか
そんな時に
ふと気にするくらいだ。
そこにあって
当たり前のもの。
だと
私達は太陽を
捉えている。
思えば、
私はそういった
太陽のような存在で
ありたいな、と
思い続けてきた。
とてもエネルギーが
高く、
多くのものを
もたらしながらも、
決して
目立たない存在。
だけど、
ふと意識を向ければ
それがそこに
あることに
自然に感謝の念が
湧いてくる存在。
もし自分が
そんな存在になれたら
最高だろうな、と
思ってきた。
でも今日、
強く思ったんだ。
太陽は
もっと自分の想いを
語るべきでは
ないか、と。
さりげなく
そこにあることは
もちろん大事だし、
主役は
そこで生きている
人達だけど、
でも
太陽はもっと
自分の想いを
語った方が良いのでは
ないか、と。
それをするからこそ、
多くの人達が
もっともっと
本来のその意志や
願いを
掘り起こすことが
できるのではないか、と。
太陽は
光をもたらすだけで
なく、
時には
風を起こしても
良いのではないか、
と。
そう思わせてくれた
私の大切な
仲間たちに
本当に
感謝します。
つづく
私達人間は
社会的生き物なんだな
と
つくづく思う。
自分は本当は
何者か?
を知るためには、
人と向き合うしか
ない。
答えは
自分の内側には
ない。
いや、
本当はあるのだが、
それは
人と向き合い続ける
中で刺激を受け、
初めて顔を見せるように
なる。
人に向かわずして、
社会に向かわずして、
自分を知る
ことはない。
それが
私達人間の
本質だ。
だから、
自分らしく生きる
ためには、
自分らしい
コミュニケーションを
探究する必要がある。
「探究」というと
堅苦しいが、
要は、
どうコミュニケーション
とることが、
本当に楽しいか?
を探すのだ。
向き合う
とは
楽しいこと。
しかも
自分にしかできない
向き合い方がある。
それこそが
その人の個性だ。
個性とは
人との向き合い方
なんだ。
極端に
言えば。
だから、
迷ったら
人と向き合おう。
積極的に
人と関わろう。
オープンマインドで
人を感じながら
世界を感じながら
生きよう。
すべての答えは
自分の内ではなく、
外にある。
つづく
人生の楽しさ、
って
ゴツゴツと
ぶつかるところに
あるんじゃないかな。
他人の助言は
もちろん大事だけど、
助言っていうのは
あくまでも
本人の
自ら進もう
という強い意志が
前提だと思う。
それのない助言は
ただ
依存を生むだけ。
助言を受けながら
上手く進もう
とすれば
人生の楽しさの
大半が失われる
のではないかな。
かなり
極端な言い方を
しているけど、
これって
本質じゃないかな。
楽しさっていうと、
どうしても
刹那的な楽しさを
追い求めてしまうとは
思うけど、
もちろんそれも
人間として
大事だけど、
本当の
楽しさ、
自分の魂が
悦ぶような楽しさって
ゴツゴツと
ぶつかりながらも
自分の望む生き方で
進むことだと思うな。
ぶつかれば
痛いし、
転べば
立ち直れなくなることも
あるし、
逃げたくなることも
当然あるけど、
それでも
進もうとするのが
私達人間の本能だし、
その本能に
忠実に生きることが
私達の元気の
源じゃないかな。
本当の元気を
生み出す
楽しさ。
魂の悦ぶ
楽しさ。
そんな楽しさを
得ながら進むことに
私達はもっと
真剣になった方が
いいよな。
つづく
「努力」
という言葉を
聴くと、
やりたくないことを
一生懸命やること
のような
イメージがある。
自分を縛っていく
感じだ。
しかし私は
そうではないと思う。
努力とは
自由になるために
行なうものだ。
例えば、
この世の中では
技術が身につくことで
自由自在になれること
がたくさんある。
例えば自転車。
最初は
自転車に乗ることは
容易ではないが、
努力して
自転車の練習を
繰り返せば、
そのうちに
自由自在に乗り回せる
ようになる。
自分を
自由にするために
行なうこと、
それが本来の努力だと
私は思う。
ところが、
その努力を怠る人が
多いんだな。
自分のための
努力であり、
その努力をすることで、
他の人にも
とっても良い影響が
あるだろうに、
その努力を
面倒だから、という理由で
しない。
そして
「私は自由でいたいから
そういう努力はしません」
と
へっちゃらで言う。
いやいやいや。
それは
不自由な生き方だな。
そんな不自由なままで
人生を進めてしまって
本当にいいのか?
と
言いたくなる。
逆に
普段から努力を
続けている人は、
その人の真本音が
発動すると、
凄いことになる。
真一文字に
邁進する。
なかなか勇気の出ない
判断も
ある意味
捨て身な覚悟で
決断し、
実行に移す。
そして
そういう人ほど
本人は
努力だとは思って
いない。
そういう人は
「努力」という言葉は
使わないかもしれない。
自分の願いに
向かって
進んでいるだけ
だからね。
つづく
今回は
問いを一つ。
今のこのタイミングで
この問いを投げることは
かなりのインパクトに
なるかもしれない。
そんな問いだ。
難しい問いだが、
ぜひ
魂を込めて
この問いと
向かい合ってほしい。
今だからこそ。
『私の人生のゴールは
何だろう?』
答えは出なくても
良いので、
自然に浮かぶキーワードを
拾ってみよう。
キーワードは
毎日の宝
としてください。
つづく
自分自身を
じっと見つめる
自分自身の目を
意識したことが
あるかな?
ただ
じっと見つめ
続けるだけの
自分。
そこには
評価も判断も
ない。
ただ
あるがままを
見つめる。
見張っている
わけではない。
意図もない。
ただ
見つめるだけ。
この目が
あるからこそ、
私達は
「ここ」に
立っていられる。
この目が
もしなければ、
私達は
生きては
いられない。
そして
この目が
あるからこそ、
私達は
悩み苦しむことも
できる。
あるがままを
見つめる目
とは、
慈愛
そのものだ。
慈愛とは
そこに
意図はない。
愛そう
という意思も
ない。
私達は
自らに
慈愛を向け続ける
自らの目を
持っている。
だからこそ
生きていられるんだ。
その目を
「我が目」
とするといい。
その目で
もって
世界を観ると
いい。
すると私達は
自分以外の
あらゆるものに
慈愛を
向けられる。
それだけで
世界は
変われると
思うんだ。
つづく
手に負えない
エネルギーの乱れが
私の中にある。
一昨日に
『宇一』
という新しい理念が
生まれたのだが、
そこからずっと
そんな状態だ。
エネルギーの乱れの
中に、
新しい自分がいるのも
感じる。
微かに
自分の姿が観える。
何かを必死に
やっているようにも
観えるが、
よくわからない。
私は今、
何をしているのか?
・・・・・・
これまで必死に
培ったものを
一気にすべて
捨ててしまう、
という勇気を出すのは
誰もが
難しい。
特に、
いろんな経験を経ながら
ようやくにして
形作られた自分
というものを
根底から破壊するのは
私達人間に
してみれば、
不可能に近い。
しかしその
不可能に近いことを
私はやろうとしている
のではないか、
という
不気味な予感
がする。
しかし
不気味な予感
とは言いながらも、
それ自体を
楽しんでいる自分も
確かにいる。
いったい
何が起こるのかな。
何も
起こらないのかな。
・・・・・・
だいたい、
手に負えないもの
を、
手に負えるように
しようと思うこと
自体に
無理がある。
手に負えない
ものは
手に負えない
ままでいい。
そう言えば、
私のクライアントさん達も
皆、
私の手に負えない人達
ばかりだ。
手に負えないことを
わかっており
そこを諦めているから
こそ、
私は彼らと
関係を紡ぐことが
できるのかもしれない。
自分に対しても
きっと同じだ。
新たな自分は
きっと
私の手には負えない
だろう。
じゃあもう
任せるしかないか。
すべてを。
つづく
静かな何もない
場所で
静かに一人
立っている自分を
イメージしよう。
周りには本当に
何もなく
つまりは
存在そのものが
なく
存在しているものと
言えば
自分だけ、
という状態だ。
私達は常に
「環境」の中にいるが、
その「環境」を
すべて取っ払ってしまう
イメージだ。
そんな自分を
側から見つめてみよう。
背中を
見つめるといいかな。
何もない中での
自分。
自分の背中は
何を語っているかな?
何を
訴えているかな?
私達は
自分自身からの訴えに
あまりに鈍感だ。
もちろん「訴え」とは
悪いものばかりでは
ない。
歓喜の訴えも
ある。
しかしそれにすら
気づかない人が
多い。
ただ単純なる
一つの存在「自分」
は、
「自分」の背中は、
何を語ってる?
つづく
私自身がまた
新たな流れを起こす
時が来たようだ。
「来たようだ」
と言うからには、
現時点では
まったくもって
意味がわかっていない。笑
しかし、
新たな流れが
目の前に観えている。
それはあくまで
「実在」なので、
今はまだ私の脳が
それを上手く
キャッチできていないが、
そんなことは
どうでもよく、
さっそく私はきっと
何かを始めるのだろう。
それは
ほんの些細なことかも
しれないし、
とてつもなく巨大な
ことかもしれない。
まだわからない。
しかし、
表面は
とても激しく波打ち、
根本は
とても静かにすべてを
観ている。
根本と表面の
あまりの落差に
愕然とするくらいの
そんな流れが
起きるのはわかる。
文字が
浮かんだ。
「宇」
と
「一」
だ。
「宇」とは
その流れの根本を
表し、
「一」とは
表面を表す。
両方とも
「すべて」という
意味の込められた
文字だ。
ただ、
「宇」は
終わりのすべて、
完成されたすべて、
という意味であり
それに対して、
「一」は
始まりのすべて、
という意味だ。
始まりと
終わりの
すべて。
それが
強烈な流れとなって
現れる。
今日は
いつもにも増して
わけのわからないことを
書いている自覚は
あります。笑
でも、
わけはわからないけど
とてつもなく
何かがよくわかる。
あぁ、始めるんだな、
という感覚だ。
その二文字、
どうやら一つに
つながるらしい。
『宇一』
うい、と読むのかな。
私にとっては
あまりにも
強烈な言葉だ。
きっと私は
大きく変わる。
つづく
心の中が
うるさいときは、
私は決断は
しない。
心の中が
鎮まっているときに、
私は決断
する。
心の中が
うるさいときは、
私は仕事は
しない。
心の中が
鎮まっているときに、
私は仕事
する。
だから大事なのは
いかに
心が鎮まっている状態を
増やすか?
いかに自らの意志で
心を鎮めることが
できるか?
だと思って
私はこの人生を
生きてきた。
恐らく
このテーマを
真剣に持ったのは
19歳のとき。
33年前だ。
それ以来ずっと
私は
自分との向き合い方を
探究してきた。
その極意を
今回はここで
書こうというわけでは
ない。
ただ、
その探究の中で
つくづくわかったことが
ある。
自己探究とは、
行動を伴わなければ
まったく意味がない
ということだ。
自己探究すれば
するほど、
現実から
逃げる人がいる。
自分の内面
ばかりを見て、
自分の外側の
現実を
見なくなる人が
いる。
しかしそれは
自己を喪失させて
いく行為だ。
私達は
現実世界に生きて
いる。
自己探究をして
今の現実じゃ
いやだ、
と思うのなら、
その現実に
自ら取り組み、
自己の望むものに
変えていく必要が
ある。
それを放棄する
というのは
自己探究の
真逆だ。
私の心が鎮まるのは、
その視点から
言えば、
現実と
向き合い、
人として
今やれることを
やり切っている、
そんな行動が
できている
ときだ。
そんなときは
人の心は
鎮まる。
だから
良い決断が
できる。
良い仕事が
できる。
人は
行動する生き物。
そして
現実を生きる者。
だから、
考えて止まるよりも
まずは
行動だ。
つづく
私達に与えられた
唯一の現実は
「今」
である。
私達は
「今」という現実を
生きている。
だから
「答え」はすべて
「今」にある。
ちゃんと
「今」を生きている人は
自らの「答え」に
「今」気づくことができる。
どの「今」に
気づけるか?
ということも
だんだんとわかるようになる。
「今」はまだ
答えは出ないな。
あっ「今」ここで
答えが出るな。
・・・ということが
わかるようになる。
これができると
人生はとても
楽になるし
自由になる。
逆に言えば、
私達は
「今」から意識が外れる
ことで
迷わなくてよいところで
迷い、
本当は決められるのに
その瞬間を
逃し、
人生の路頭に迷う。
でも実は
どれだけ路頭に迷っても
「今」に戻り
「今」を生きれば
すぐに
本来の自分に
戻れるんだ。
「今」にいない
ということは、
「世界」と分断されている
状態だ。
それは
孤独だ。
私達が唯一
「世界」とつながれるのは
「今」だけだ。
「今」に生きている
人はだから、
孤独ではない。
すべてとの繋がりを
「今」感じ取る
ことができる。
それは理屈ではない
感覚だ。
だから、
人生がわからなく
なったら
「今」に戻ろう。
今この瞬間に
意識を集中させ
今この瞬間を
生きよう。
そのためには
まずは
「今」をゆっくりと
感じ取ることだ。
呼吸を整え、
「今」の自分と
「今」の世界を
両方同時に
感じ取ってみよう。
「今」を
味わい尽くしてみよう。
その状態で
生きるんだ。
その状態で
ずっと
生きるんだ。
つづく
人と会うときに
とてもお勧めなのは、
「この人に今回は
どんな言葉を
プレゼントしようか?」
を
前もって真剣に
決めておくことだ。
その言葉とは、
もちろん
やさしい一言とは
限らない。
時には
厳しい一言を
残さなければならないことも
当然ある。
でもやはり
それは
プレゼントだ。
自分の解釈ではなく、
その人のことを
ずっと想いながら、
その人の姿を
浮かべながら、
自然に浮かぶ一言を
私はいつも
胸に抱いた上で
当日、
その人と会う。
するとそのプレゼントを
実際にお渡しできる
こともあれば、
できないこともある。
どちらでもいい。
相手がいること
なので、
その時その場の流れを
大事にすればいい。
でも、
言葉のプレゼントを
渡せても渡せなくても、
言葉のプレゼントを
胸に抱いた状態で
その人と向き合えば、
随分とその場は
あったかいものに
なるよ。
つづく
まっすぐな道が
観えるなら、
進めばいい。
観えなくても
感じるだけでも
いい。
「まっすぐさ」
これを感じる
ということは
「全力で進みたい」
という
自分自身の
真本音の意志だ。
そこに
素直になればいい。
そこで
変な躊躇をしていると
いつしかその
「まっすぐさ」
は消えていく。
一度消えてしまうと
また復活させるには
かなりの苦労が
要る。
せっかく手に入れた
「まっすぐさ」
は
存分に味わえばいい。
全力疾走だ。
これをすると
全力だと思っていた
自分の限界が
本来の自分の
わずか1割の力
にしか
過ぎなかったという
事実を知るだろう。
であれば
そこからさらに
全力を出そう。
つまりは
そこからが本当の
加速だ。
そして
良い加速ができれば、
ある時ふと
その道を離れ、
頭上の空から
道を見降ろしている
自分にも
気づくだろう。
その自分は
空にいるので、
かなり遠くまで
見通せる。
ほんの一瞬かも
しれないが
道の彼方を
垣間見れるかも
しれない。
それはそれで
自分から自分への
プレゼントだ。
プレゼントは
素直に受け取れば
いい。
要はだね、
遠慮するな、
ということだ。
まっすぐな道は
まっすぐ気持ちよく
進むために
あるのだから。
つづく
暗闇の中を
進むよりも、
明るい道を
進んだ方が良い、
に決まっているが、
でも人生は
そうもいかない
時がある。
暗闇になると
どうしても
怖気づくが、
暗闇には
暗闇の意味が
ある。
暗闇の時こそ
自分の生き方が
試される。
だから、
どうせだから、
そんな時こそ
自分の生き方に
こだわろう。
胸を張り
堂々と
自分の生き方で
進もう。
そうすると
多分、
ゴツゴツと
いろんなものに
ぶつかるし、
スッテンコロリン
と転ぶだろう。
でも
それこそが
暗闇の意味だ。
明るいところでは
そうはいかない。
見えちゃうから
上手く進めて
しまう。
暗闇だからこそ
思い切り
ぶつかれる。
素っ転べる。
上手く進もうなんて
思っちゃダメだ。
諦めて
開き直って
進むしかない。
暗闇は
楽しめないかも
しれないが、
しかしそれでも
楽しんでしまえ。
つづく
産みの苦しみ、
というのがある。
新たな何かを
生み出すために
どうしても
経なければならない
過程だ。
その苦しみが
大きければ大きいほど、
生まれる何かも
大きい。
今、
新たな何かが
生まれた感覚が
凄い。
もの凄い
生命力とエネルギー。
恐らくこれは、
たくさんの人達の
中に、
何かが生まれた
感覚だ。
・・・・・・
人の心や魂は
「脱皮」を
繰り返すものだが、
「脱皮」という
表現では足りないような
・・・それはまさしく
「生まれ変わる」
と言った方が
ぴったりくるような
そんな
根本的変化を
遂げることがある。
もちろん
並大抵のことでは
ない。
人のサポートを
どう受けるか、
などと言うレベルの
ことでもない。
その人が
生まれた時から
抱き続けている、
密かな覚悟が
それをさせる。
その覚悟は
多くの場合、
そのご本人すら
気づかないもの。
それがある時
何かのきっかけで
ニョキっと顔を現し、
そして
一気に生まれ変わる。
「一気に」とは
言うものの、
そこに発生するのが
言語に絶する
産みの苦しみだ。
・・・・・・
恐らく
私のクライアントさんの
何人かも
これを成し遂げた
のだと思う。
会えばその瞬間に
わかるだろう。
「おめでとう!」
って
言いたいね。
つづく
新たな何かに
チャレンジしようと
したり、
何か大きな問題に
立ち向かおうと
するとき、
私達はどうしても
不安に苛まれる。
不安のモヤモヤに
入り込んでしまう。
そんな場合は
そんな自分を
ただあるがままに
感じ取ってみよう。
今ある不安を
取り払うのではなく、
その不安の
すべてを
そのまま受け止めよう。
そして
受け止めている自分自身も
そのまま見つめてみよう。
すると
どうだろうか。
案外、その不安、
自分が自分の意志で
大切に
抱いているのでは
ないか?
まるで
赤ちゃんを抱っこする
ように、
不安を大切に
抱っこしているのでは
ないか?
不安はなぜ
起こるのか?
それは
必要だからだ。
自分にとって。
本来は、
自分にとって
不必要なことは
起こらない。
必要なことしか
起こらない。
特に私達の内面
においては。
不安も
必要だから、
私達が自ら
生み出している。
そして
抱いている。
だから、
不安と共に
進もう。
不安を
抱きながら
進もう。
理屈云々では
ない。
それが
人間だから。
つづく
いつもあまりに
当たり前のように
やっていること
だからこそ
気づかない
ことがある。
今日、私は
一つ気づいたこと
がある。
人生、
半世紀以上過ぎて
初めて気づいた。
私は
自分の心の中で
いつも
ディベートを
し続けてきた。
ということを。
人生にとって
大事なこととか
そうじゃないこととか
関係なく、
私の中には
必ず
反対者が生まれる。
自分の意見に
異を唱える自分だ。
その自分は
自分のしようとする
判断に、
ずっと評論家的な
突っ込みを
入れ続ける。
ある重要テーマに
ついては
下手をすると
一日中、
もしくは何日も、
やり続けているかも
しれない。
これ、
めっちゃ疲れる。
時にはその
反対者は
自分をボロクソに
責め落とす。
しかし
それでもその
反対意見に
私はさらに
反論を続け、
ある一定以上に
それが続くと、
自分の中に
言いようの知れぬ
納得感と
完了感が
生まれる。
すると私は
水を得た魚のように
その判断を
行動に移す。
・・・ということを
私は人生で
ずっとやり続けていた
ようだ。
恐らく、
幼少の頃から。
でもこれ、
納得は得られるが、
本当に疲れる。
下手をすると
自分の中の
ディベートにエネルギーを
取られ、
肝心の
目の前の現実が
疎かになることも
多かった。
私の人生の失敗の
多くは、
ここに原因があった
ようにも思う。
だから私は
いつしか、
もっと楽に
ディベートはできないか?
もっと楽に
自問自答は
できないか?
もっと早く
納得の答えは
見つけられないか?
ということも
知らず知らずのうちに
探究し続けたのだと
思う。
恐らく、
その過程の中で
発見したのが、
「真本音」
という存在であり、
「セルフコーチング」
の各種手法だ。
最近私は、
セルフコーチングの
ことを
『直観型自問自答』
と呼んでいる。
自分の直観を
(確信の答えを)
いかに早く
掘り起こすか?
いかに楽に
掘り起こすか?
こそが
セルフコーチングの
肝だと思うからだ。
この手法は、
自己内ディベートで
苦労し尽くした
私だからこそ
生み出せたものかも
知れないな、と
今日、ふと
気づいたんだ。
であればやっぱり
もっと本格的に
世の中にご紹介した方が
良いのかな、とね。
つづく
静かに
時の流れを
感じてみることを
お勧めする。
何もせず、
目を瞑り
自分の呼吸を
感じ、
一秒一秒の
時を感じる。
時の流れとは
なんと
静かなものか、
と
少しびっくりする。
それに比べて
我々人間の心の
なんと
騒がしいことか。
時は
こんなに
静かなのに。
人生が
騒がしくなるのを
私達は
時のせいに
し過ぎているような
気がする。
騒がしいのは
私達自身であり、
時
ではない。
時はただ
いつもまったく
同じペースで
私達を
じっと見つめる。
時に翻弄される
と
私達は思うことも
あるが、
時は私達を
翻弄したりは
しない。
ただそこに
あるだけ、
流れ続けている
だけだ。
こうやって
時の流れのみに
意識を向けて
いると、
もっと
シンプルに
生きたいものだ、
行きたいものだ、
と
思わないかい。
すべては
なるように
なっていくのだから、
どうせなら
時と共に
静かな自分として
進んで行きたい。
つづく