今日はシンプルに
一つの問いを
投げよう。
とは言え、
だいぶ難問かも。
いつものこと
だけど、
すぐに答えが
浮かんだからと言って
満足しないで。
それはまだ
表層の答えでしか
ないから。
答えは
無限にあなたの
奥から
掘り起こされるかも
しれないよ。
では、問いです。
自分自身に問うてね。
『私が
永遠にやり続けたい
たった一つのことは
何だろう?』
あなたの中には
思いもよらぬ答えが
多分、
新たにできているよ。
つづく
今日はシンプルに
一つの問いを
投げよう。
とは言え、
だいぶ難問かも。
いつものこと
だけど、
すぐに答えが
浮かんだからと言って
満足しないで。
それはまだ
表層の答えでしか
ないから。
答えは
無限にあなたの
奥から
掘り起こされるかも
しれないよ。
では、問いです。
自分自身に問うてね。
『私が
永遠にやり続けたい
たった一つのことは
何だろう?』
あなたの中には
思いもよらぬ答えが
多分、
新たにできているよ。
つづく
本当に深く
物事を学ぼうという
意志を持っている人は
実に謙虚だ。
なぜなら
学べば学ぶほど
わからなくなる
からだ。
真剣に
探究すればするほど、
「さらにその奥」
があることに
気づき、
その「わからなさ」に
茫然とする。
しかしそれを
探究しようと
決めている人は、
その「わからなさ」に
敢然と向かっていく。
そこで生まれるのが
謙虚さだ。
その「深さ」に
対する
畏敬だ。
自然の摂理への
真摯さだ。
だから
学べば学ぶほど、
「自分」というものの
小ささを
知ることになる。
「自分」の儚さも
浅さも、浅はかさも、
脆さも、弱さも
知ることになる。
学べば学ぶほど、
自分を
壊したくなる。
でも壊れるのは
怖い。
でもそれでも
勇気を奮って
壊していく。
次々に。
そして
「壊す」ということの
尊さを知る。
「壊す」ことは
進化そのものである
ことを知る。
そして
それをしている
自分自身の深さを
知る。
自分の「わからなさ」
を知る。
だから自分自身を
探究したくなる。
自分を探究しながら
自分の探究したい
ことを
探究し続けるように
なる。
それが
真に学ぶ
ということだ。
つづく
人は、
本当に
力を抜いている時にこそ
莫大な
力が出る。
・・・という瞬間に
私は何度も遭遇した。
人もそう、
私自身もそう。
真に力の抜ける
人こそが
真の力を
発揮できる。
力を抜く
ことと
動かない
ことは
まったく別物だ。
動いている時にこそ
力を抜ける
し、
まったく止まっているのに
力を消費しきっている
という
こともある。
表面的な自分の
振る舞いと、
力を抜く、抜かない
は
別次元の話だ。
あなたの中に
芽生えている
その光は、
あなたの
力の集中を
待っている。
あなたが
真に力を抜き、
その上で
真に100%の力を
一瞬に込めることが
できた時、
その光は
初めて
発現する。
あなたの光は
そんなあなたに
なれるのを
じっと
待ち望んでいるんだよ。
つづく
自分の中に、
『新たな世界』
が
生まれた人が
多いのではないか。
探してみて
ください。
あなたの体の
どこかに、
「新たな世界」
が
小さく
とても
小さく
でも確かに
力強く
芽生えているのでは
ないかな。
それが
見つかったら、
それが
どうすれば
順調に成長できるか?
を
考えてみてください。
そして
毎日毎日
その「世界」に
栄養を与えてください。
「栄養」とは
あなた自身の
生き様。
そして
在り方。
あなた自身の
願いへと向かう
エネルギー。
それらが
そのまま「栄養」
となる。
大切に
育ててね。
みんなで
それぞれの「世界」を
それぞれ
育てよう。
そうしたら、
自然にこの世界も
変容していくね。
いよいよ
本格始動だな。
つづく
もし今、あなたが
ものすごく睡眠を
欲しているのなら、
よく眠った方が
いい。
眠ることでしか
為し得ないことが
私達にはある。
眠る、とは
一時的に
顕在意識のスイッチを
切ることでもある。
と同時に
実在のレベルでは
一度、
リセットをする。
いったんすべてを
ゼロにする。
しかし
目が覚める時には
元通り、
昨日までと同じ
自分ではある。
しかしそれは
本当は
同じではない。
いったんリセットし
もう一度
ゼロから
同じカタチに
創り直したものだ。
それを
毎日必ず行なう
わけではないが、
しかし、
それを念入りに
しっかりと
やらねばならない
時がある。
そんな時は
とてつもなく眠く
なる。
ちゃんとリセットと
再生ができるよう
ちゃんと
寝た方がいい。
ここは
無理をしては
いけないよ。
つづく
私達の真本音は、
自分自身の成すことに
「期限」
を決めている。
期限のない仕事が
ないのと同様に、
期限のない
人生のミッションは
ない。
期限にちゃんと
間に合うかどうか、
によって
その後の展開は
根底から変わってしまう。
ちょうど10年前、
当時、「実在」というものを
急激にキャッチしたり
感じ取ったり
体験できるようになった
私は、
自分の人生ミッションの
最初の「期限」を
知った。
それは
3年後(=2013年)の
8月1日午前0時ジャスト
という、
明確なものだった。
その「期限」までに
具体的なあることを
成さなければならなかった。
それは当時の私から
すれば
「とても無理だろう」と
最初から諦めるしか
ないような、
難易度の高いミッション
だった。
しかし
自分自身が真本音で
決めていたことだ。
そのために私は
ここにいるのだと知った
私は、
そこからガムシャラに
なった。
本当の真剣さ
というものを学んだのは
そこからだったろう、と
今、振り返ると思う。
そして3年後に私は
何とか
ミッションを達成した。
達成できたのは、
なんと
2013年7月31日の
23時57分だ。
つまりは、
期限の2〜3分前。
ギリギリの
達成。
あの時のヒヤヒヤと
安堵感は
今でも昨日のことのように
思い出す。
そして。
実は、
その達成の直後に
新たなミッションが生まれた。
その期限は
そこからちょうど7年後。
つまりは
2020年8月1日午前0時ジャスト
だった。
そこからの私は
とにかく、
この期限を守るために
必死になった。
そして、5日前に
そのミッションも
ついに達成できた。
なんと今回も、
達成は
2020年7月31日23時57分。
またしても
たった2〜3分前の
ギリギリの達成。
7年前と同じような
ヒヤヒヤと安堵感。
しかし今回は
本当に疲れた。
ギリギリ間に合った時、
思わず私は
「疲れた〜〜〜っ!!」
と
一人叫んでしまったよ。
と同時に
「もう勘弁してくれ〜〜っ!」
と。
でもやっぱり
私はすべて自らの
真本音で決めてここにいる。
だから当然の
ことであるが、
次のミッションが
始まった。
ギリギリだが、
しかし結局は
順調だ。
そして、
ミッションを達成すれば
するほど私は
自由になる。
流れは
さらに大きくなる。
7年前と今回の
大きな違いは、
7年前は
私は一人だった。
しかし今回は
仲間と共に
それができた。
さて、
次はどうなるか?
ちょっとくらい
休めばいいのに、
と
自分自身に対して
思うのだが、
もう私は
次のミッションに向けて
全力疾走に
入っている。
「期限」があるからこそ
私達の人生には
メリハリが
できるんだ。
つづく
美しいものと
醜いもの。
世の中には
どちらもある。
心の中も
同様だ。
両方あるのが
事実であり
真実だ。
それをそのまま
受け止めることが
現実と向き合う
第一歩だ。
とは言え、
醜いものを見ても
「醜い」とは
思ってはならない、
と言う人が
いる。
それも不自然だ。
良いではないか、
何を思ったって。
人間は
感じる生き物であり
解釈する生き物だ。
美しいものは
美しい。
大好きだ。
醜いものは
醜い。
大嫌いだ。
・・・それでいい。
素直でいい。
ただ、
その心の「反応」を
そのまま
行動の「反応」として
出してはならない。
すべてを
あるがままに受け止めて、
それによる
心の動きもあるがままに
受け止めて、
すべてを
素直に受け止めて、
その上で
次、
自分はどう動こうか、
を
真本音で決める。
それだけの
ことだ。
反応のままに
行動することを
「素直」とは言わない。
自分にとっての
真の素直さとは
「真本音で動く」
ことだ。
だから、
素直に受け止めて
素直に動く、とは
現実と向き合って
真本音で動く、
ということと
まったくもって
イコールなんだよ。
つづく
一つの物を
じーっと見つめ、
100%の意識を
そこに
向け続けていると、
自分と
その物の
区別がつかなくなって
くる。
よかったら
やってみてほしい。
結構、
簡単にできる。
しかしこれをしようと
する時、
自分の心が
大きく荒れることが
ある。
まるで台風のような
心の渦が
溢れ出る。
それらは皆、
ストレスと捉えて
いい。
それだけのストレスを
自分は抱えている
ということだ。
そして当然、
そういった場合は
その物に
意識を100%向ける
こと自体が
難しい。
だから、
その物と自分が
区別がつかなくなる
という感覚は
わからない。
ということは
分離したままだ。
一つに
なれないのだ。
残念なことだが、
このように
ストレスが多く
分離したままでしか
いられない人は
人との関係も
同じこととなる。
自分自身との
関係も
同じこととなる。
人とも自分とも
分離したまま。
一つになる瞬間が
ない。
そうなると私達は
だんだんと
すさんでいく。
孤独に
陥っていく。
自分と何かの
区別がつかなくなる
状態、
つまりは
一つになる状態
は、実は
私達は毎日
自覚しないままに
無意識に
結構やり続けているものだ。
しかし
これができない
ということは、
普通ならできることが
できないのであるから、
とても
辛いことなんだ。
生き方を
変えた方がいい。
人との関わり方も
見直した方がいい。
そのままであれば
いつか病気に
なってしまうだろう。
もっと自分に
素直になることだ。
本当は自分は
どうしたいのか?
行動に移せなくても
良いから、
自分自身の気持ちに
光を当てることだ。
私の好きなある作家の
ある本の中に、
こんな一文があった。
「きっと人間は、
自分のなかに
淀んでいるものを
さらけだしてしまわないと、
他人の言葉を
受け容れることが
できないのであろう。」
その通りだな。
つづく
もう少し
意図的に
自分の意思を
明確にした方がいい。
そうしないと、
これまでのあなたの
パターンに基づいた
判断や行動に
なってしまう。
あなたは
変わった。
大きく
変わった。
それを自覚
するためには、
一つ一つ
ちゃんと
自分が次にどうしたいか?
を
行動レベルで
認識するんだ。
その場合に、
「これまでの私だったら
次はこうするだろうな」
だけど、
「今の私は本当は
どうしたいのだろうか?」
という形で
丁寧に自分自身に
問うと良い。
これまでの自分と
今の自分を
完全に区別するんだ。
その断絶を
感じるんだよ。
でないと
せっかくここまで来た
意味がなくなってしまう。
あなたは
変わったんだよ。
大きくね。
つづく
物事の判断を
する時に、
ちゃんと
地に足がついている
感覚が
あるかどうか?
を
大切にするといい。
自分は
ちゃんと大地を
感じ取っているか?
自分の足で
立ち、
自分の足で
一歩一歩前に進む、
という
当たり前の実感が
今、
あるかどうか?
もしこれが
ない状態であれば、
私は
いかなる時も
そこで判断することは
やめる。
例えば、
やる気満々で
エネルギーが
とてつもなく湧いていて、
すべてを
引き受けてやる!
という
強い意気に
自分が満ちていたと
しても。
それでも
足元の感覚が
なければ、
判断しない。
自分は今、
お酒に酔っている状態
と同じである、
と認識する。
よく、
モチベーションの
高い時に判断をし、
モチベーションの
低い時には判断しない、
という人がいるが、
モチベーションの大小は
実は
物事の調和とは
関係がない。
「気分が乗っている時に進もう」
とする人は
必ず、
・・・そう必ず、
どこかで躓く
時がくる。
そうならない人は
これまで一人も
見たことがない。
心の調子が良い
とか、
物事の調子が良い
とか、
ではない。
意欲があるとか、
今は前向きとか、
でもない。
スッと
今ここに立ち、
クリアな眼差しで、
前向きな心も
後ろ向きな心も
順調そうな現実も
難しそうな現実も
ありとあらゆるものを
あるがままに
見つめられる
状態。
地に足がついている
時というのは
そんな時だ。
そんな時にしか、
私は
物事の判断をしない。
そして
そんな時が
一日のうちでずっと
続くような自分に
なるための
生き様を
大切にしている。
まぁそれが
真本音で生きる
ということだけどね。
つづく
とても変な表現
だが、
私達は誰もが、
「見張られている未来」
というのを
持っている。
その「未来」は
自分自身をじっと
見張っているのだ。
私達は無意識に
ずっと
その「未来」から
見張られ続け、
その「未来」から
怒られないように、
その「未来」を
裏切らないように、
その「未来」から
見捨てられないように、
頑張ってきた。
しかし実は、
その「未来」から
自由になることこそが、
私達にとっての
「本当の未来」
を築く歩みとなる。
そこで
ちょっとやってみよう。
あなたの
背後の、
上の方にずっと
意識を向けてみて
ほしい。
背中のちょっと
後ろ。
その後ろから
上に上にと
意識を上げていく。
何メートルくらい
上か?
ひょっとすると
雲くらいか?
宇宙にまで
出てしまうか?
などは
人によりけりだろう。
とにかく
背後の上の方に
意識を上げていくと、
その何処かに
「見張られている未来」
があるはずだ。
その「未来」は
一見、あなたの味方
であるような趣で、
しかし
厳しくあなたを
見張っている。
もちろん
「見張られる」こと
自体に
意味があった。
だからこそ
私達は精進できた。
しかしもう、
私達には「準備」が
整った。
もう、
見張ってもらう必要は
ない。
だから、
その「未来」には
去っていただこう。
やることは
簡単だ。
その
「見張られている未来」
に、
感謝の気持ちを
伝えると共に、
「もう私はここから
一人で行きますから」
と
毅然と決意を
伝えればいい。
そうしたら
意識を「ここ」に
戻し、
あとは
毅然と進めばいい。
たったそれだけ。
すぐにやってみて
ほしい。
つづく
磁石の
N極とN極は
反発する。
S極とS極も
反発する。
であれば、
N極とS極を
くっつければ
いい。
なのに、
何がなんでも
N極とN極を
くっつけようと
する。
S極とS極を
くっつけようと
する。
場合によっては
強力な接着剤を
持ってきて
強引にくっつける。
なんで
そんなことを
するんかねぇ、
私達人間は。
もう少し
自然の摂理に
素直になっては
どうだろう。
重力は
上から下に
働いている。
持っている物を
離せば、
上から下に
落ちる。
無理に
下から上に落とす
必要はない。
なのに
それをしようと
する。
それができることが
凄いと言う。
それができる
自分が
凄いと言う。
もちろん
ある意味、凄い。
でも、
そこに本当に
意味はあるの?
それよりも、
自然の摂理に
素直になって、
もっと
本当に自分の
すべきこと、
自分が
しようと決めている
ことに
向かったら
どうだろうか。
「私は本当に
ここにエネルギーを
使うべきだろうか?」
今こそ
真剣に問いかけて
ほしい。
つづく
自由とは
何だろうか?
ずっとこの問いと
共に
私は生きてきた。
最初にこの問いが
浮かんだのは、
確か、19歳の時。
ということはもう
33年間も
この問いと共にいる。
もともと人類は
自由ではなかった。
だから
「自由になりたい」
という
渇望が湧いた。
自由でない状態
から
自由になることが、
我々人間にとっては
自由だった。
でもそれは
あくまでも
「現象」のレベルでの
話であり、
反応本音のレベルでの
話だ。
本来の自由とは
何だろうか?
・・・・・・
「脱皮」と
私が呼んでいる
大きな段差を超える
成長は、
それを超えることで
間違いなく
その人を
一つ
自由にしてきた。
私自身の経験も
そうであるし、
私のクライアントさん達も
みんなそうだ。
階段を一つ上がれば
一つ
自由になった。
ではその
「一つ」
とは何だろうか?
・・・・・・
「一つ」
とは
一つの枠を外す
ことだろうか?
いや、
なんかちょっと
違う気がする。
もっとそれは
別のことだ。
一つ
自由になる。
一つ
自由になる。
やはりこの表現が
妙にぴったりくるのだが、
やはりその意味は
わかるようで
よくわからない。
・・・・・・
では、
二つ
自由になることは
あるのだろうか?
この問いには
即答できる。
ない、
と。
私達は
どれだけ大きな脱皮を
しても、
たとえ段差を
二つ三ついっぺんに
飛び越えても、
それでも
一つ
しか
自由にはならない。
それが
人間だということが
何故だか
とてもよくわかる。
それが
人間の宿命だと。
・・・・・・
一つずつ
自由になっていく。
何がどうあっても
一つずつ
自由になっていく。
それが
人の道であり、
その道を進むことを
私達は
望んでいる。
しかし残念ながら
一生をかけても
一つも
自由になれなかった人も
多い。
しかしたとえ
そうだとしても、
それでも私達は
一つずつ自由になろう
とする。
人間の本能なんだろうな、
と思う。
今、
バタバタと
私の周りの人達が
一つ
自由になっている。
今日も昨日も
一昨日も
そうだった。
みんな
一つ
自由になっている。
自由とは
何だろうか?
その問いと共に
私はその様子を
ただただ
眺めている。
つづく
あなたの中心軸に
今、
どのような「大樹」が
あるだろうか?
よく観察して
ほしい。
昨日までの
「大樹」は
どうだっただろうか?
そして
今の「大樹」は
どうだろうか?
さらに
明日以降の「大樹」は
どうなっていくだろうか?
今、
「大樹」は
大きな変化の最中に
ある。
だからその変化が
わかるはずだ。
ありありと。
「大樹」が未来に向かって
どう育って行くか?も
よくわかる
はずだ。
その「変化」を
自覚してほしい。
そしてその「変化」が
本当にきちんと
成されるように
努力
してほしい。
具体的には
その「変化」とは
何がどう変わることなのか?
自分の考え方を
どう変化させ、
自分の行動を
どう変化させ、
自分の成果を
どう変化させることに
努力
すべきなのか?
それを
今は早急に
明確にしてほしい。
私達は今、
とてつもなく大事な
境目にいる。
一つの境界線に
たどり着こうと
している。
そこをちゃんと
超えられるように、
自分で自分の
「変化」を
マネジメント
してほしい。
ここは、
自力で
超えて行くところだ。
つづく
私達の心の奥の
奥には
泉がある。
それは
豊穣の泉
だ。
そこに
たどり着けると
いい。
泉の中に
意識を沈めると
その中に
浸り込むと
あらゆることが
「わかる」。
それは
言葉とか理屈とか
を超えた
ただの感覚に過ぎないが
「わかる」
ということが
わかるのだ。
そこにいると、
あぁもう
悩むことは何もない
のだな、
と思う。
私達が思い込んでいる
悩みというものは
ないのだ、と。
ただ、あるとすれば
必要な答えに
行き着くための
過程としての
試行錯誤だ。
その一歩一歩に
意味があるからこそ
すぐに答えには
行き着かずに、
右に行ったり
左に行ったり
立ち止まったり
行き過ぎたり
を
私達は繰り返す。
答えそのものにも
価値はあるが、
その答えまでの
道のりにこそ
その後へと続く
深い意味がある。
その意味とは
頭で理解できる
範疇を超えているが、
しかし
それはとても必要な
ものである
ということがわかる。
そういったことも
含めて、
私達はすべてを
わかっている、
ということが
わかるのだ。
泉に身を浸して
いると。
そして、
泉の中でじっと
していると、
様々な発想が
浮上する。
中には
意味のわからないものも
多いが、
それでも
その一つ一つが
宝物である
ということもわかる。
なんだ。
生きるとは
こういうことか、
と
わかる。
いや、頭では何も
わかっちゃいないし、
逆に
わかっちゃならない
ということも
わかるし、
わかるはずが
ないし。
人間も人生も
そんなに浅いものじゃ
ないし。
でも、
それでも、
あぁ自分はもう
すべてをわかっていて
やってるんだな、
ということが
わかるのだ。
そして私達は
また、
安心して
試行錯誤の毎日に
戻っていける。
豊穣の泉。
それは
毎日、毎日、
一日、一日、を
自らの真本音を大切に
生き続けることで
誰もが
たどり着ける場所だ。
つづく
一艘の舟が
ある。
自分一人しか
乗れない
手漕ぎの小さな
ものだ。
自分は
大海原に
出て行きたい。
目の前の
小さな舟では
とてもとても
大海原で無事でいられるとは
思えない。
しかし今の自分には
目の前の一艘しか
ない。
そんな時、
どうする?
無理なのを承知で、
それでも
舟を漕ぎ出す?
それとも、
もっとちゃんとした
船や仲間達が
手に入るまで
準備を進める?
・・・・・・
実はこれに
答えはない。
答えは自分で
決めるしかない。
どちらが正しいか?
ではない。
「その人にとって」
どちらが正しいか?
しかない。
その人にとって
正しいかどうか、は
真本音で判断するか
どうか?
とイコールであると
私は思っている。
その人の真本音が、
「今はこんな舟でも
それでも大海原目指して
漕ぎ出そう」
と判断すれば、
そうした方が良い。
たとえ
もしその結果として、
すぐに
転覆してしまったと
しても。
なんだやっぱり
ダメだったじゃないか。
と、
後悔する必要は
ない。
真本音で進むうちは
一時的な後悔は
あったとしても、
それは必ず
「次」につながる。
なぜなら
自分自身の真本音の
意志だからだ。
自分の魂の意志
だからだ。
何がどう起きようと、
どれだけ
しまったなぁ、と
後悔しようと、
結局は
それが真本音の意志
である限りは、
自分自身が
どこか納得している。
人間、
大事な部分が
納得していれば
先に進もうとし続ける
ものだ。
先に進むために
モチベーションを
上げよう!
ではないのだ。
自分自身の
根底の納得感が
自分を先に
進めてくれる。
ちなみに
私は、
まったく力もないのに
舟を漕ぎ出して
しまった口だ。
おかげで
随分とひどい目に
遭った。
いや、
自業自得だが
全部。
もちろん
何度も転覆した。
大海原どころか
最初は
岸辺を離れること
すらできなかったな。
でもおかげで
随分と
自力がついた。
そして
自力だけでは
どうにもならない
という事実を
ちゃんと
受け入れられるように
なった。
傲慢だったからな、
私は。
自分の力のなさを
ちゃんと知り、
受け入れるためには
やはりあれだけの
転覆が必要だった。
そして
おかげさまで
今は素晴らしい人達と
出会えた。
毎日笑いながら
大海原を進んでいる。
舟は相変わらず
小さなままだが、
小さなままでも
大海原を
旅し続けられるように
なったのは
大きいな。
しかし
以上は私の人生だ。
私の真本音の
判断だ。
あなたには
あなたの人生と
真本音の判断
が
ある。
さぁ、どうする?
つづく
今また
大事な問いが
ある。
それを
今のあなたに
投げよう。
『今のあなたが
見つめている未来は、
何年何月何日の未来?』
例えば
私であれば、
この問いを
自分に投げると、
2039年7月29日の未来
という
答えが浮かぶ。
そうしたら、
その未来に意識を
向ける。
向け続ける。
すると何か
浮かぶイメージが
あるかもしれない。
イメージはなくとも
何かの気づきや
発想や
メッセージのようなものが
あるかもしれない。
それらを得ることが
できたら
それらを大事にするが、
何も得られなかった
としても
問題はない。
大事なのは、
今のあなたは
その未来に
意識を向け続けると良い
ということだ。
そこに常に意識を
向けながら
一日を過ごしてみて
ほしい。
「今の自分」
からは得られない
何かを
得られるかもしれないよ。
つづく
人間、
本当に逃げている
時は、
本人は
自分は逃げている
とは
認識しないものだ。
もし
認識できるので
あれば、
もうその時点でその人は
立ち向かっている。
逃げる自分を
自覚し
そのまま受け止める
ことは
かなりの覚悟が要る。
逃げる自分と
向き合うことが
できる人は
真摯だ。
自分に対しても
人生に対しても
そして
人に対しても。
逃げる自分は
見苦しい。
もちろんそんな自分は
認めたくないし、
見つめたくない。
だからついつい
そんな自分の存在を
感じ取ると、
私達はそこに
脚色をする。
それがあたかも
必然であり
必要であり
不可抗力であり
しょうがないことで
あり
しかも
自分の人生には
大切な経験であると
脚色する。
しかしそれらは
すべて
言い訳である。
自分で自分に対して
言い訳している
だけだ。
・・・という事実を
そのまま
存在承認できたら
私達はもっと
楽になれる。
そしてやはり
真摯になれる。
逃げる自分は
格好悪い。
その格好悪さも
全部含めて
存在承認できれば
いいね。
自分を無理に
正当化する
必要は、ない。
自分を
責め続ける
必要も、ない。
ただ、
あるがまま
で良いではないか。
そこに、
前に進もうと
する自分も
いるではないか。
進む自分と
逃げる自分と
もっともっと
いろんな自分と。
そこにあるものを
すべて
そのまま見つめて、
その上で
ちゃんと
自分で決めよう。
真摯な自分として
次の一歩を
決めよう。
つづく
やっぱり
思うのだけど、
余分なことを
やり過ぎだよな、
みんな。
力を入れなくても
いいことに
力を入れている。
だから
不調和が起きる。
そして
さらに余分なことを
しなければ
ならなくなる。
もし
人生の展開を
変えたくば、
まずは
余分なことを
やめることだ。
本当に
必要だと思うこと
のみを
ただただ
シンプルに
行なうことだ。
何が余分で
何が必要か
わからないんです。
・・・と
よく言われるが、
本当は
わからない
わけがない。
自分の気持ちに
素直になる
だけだろう。
本当は
どうしたいのか?
何をしたくて
何をしたくないのか?
自分の人生には
本当は
何が必要か?
今、
何をすることが
最も必要か?
自分という人間は
自分だけだ。
だから
わからないはずが
ないんだよ。
つづく
力を
入れ過ぎだ。
どうせ
物事は
なるようになっていく
のだから、
力を抜こう。
とは言え、
力の抜き方が
わからないか。
そういう場合は、
逆に
思いっきり
力を込めよう。
とことん
全力で
力を込めてみよう。
限界を
超えるまで。
大気圏を
超えてしまえ。
これ以上行くと
死んでしまう、と
思い込んでいる
境界を
超えてしまえ。
すると、
フッと力が
抜ける。
要するに
今が
中途半端なんだな。
中途半端が
一番良くない。
ずっと慢性的に
力を込めたままだ。
ゼロか100か。
どちらかに
してしまった方が
良い時は多いよ。
ゼロか100か。
いざとなれば
どちらかになれる
自分になると
いいよ。
そのためには
大気圏を
超えよ。
大気圏だと
思っているその境界は
実は本当の
大気圏ではない
ということが
わかるよ。
ただの思い込み。
ただ自分が設定した
枠に過ぎなかった
ことがわかるよ。
だから
超えてしまえ。
でも目的は
力を抜くためだ
ということを
忘れずにね。
つづく
真本音度合いが
高まると、
突然に
理由もなく
モヤモヤしてくることが
ある。
しかしそのモヤモヤは
反応本音レベルの
それとは根本的に
違う感覚だ。
「本当に」
モヤモヤするのだ。
それは
実在レベルのモヤモヤ
だからだ。
そして
そういったモヤモヤは
大切にするといい。
モヤモヤに
しっかり意識を向け
それが
どのような感情を持ち
何を訴えているのか
を知るといい。
多くの場合
そのモヤモヤは
怒り
であったりする。
しかも
かなり強く深い
怒りだ。
もしくは、
悲しみ
であったりする。
かなり強く深い
悲しみだ。
いずれにしても、
何がそんなに
腹立たしいのか?
何がそんなに
悲しいのか?
を
しっかりと
理解するといい。
それは
自分自身の人生の
方向性を
明確に示してくれる
こともある。
そこまでいかなくても、
少なくとも
明日
という一日の
意味と
自分のすべきことは
明確に示して
くれるよ。
つづく
心の中に
濁流がある。
激しい水の流れは
私を呑み込んだ。
私はこのまま
流されていくのか?
とも思うのだが、
私はただ
襲いかかる濁流を
見つめ続けた。
目の前に
長く張り出した
大樹の枝があった。
恐らく
これにつかまれば
濁流からは
逃げられるだろうな、
と思うのだが、
私は決して
それには
手を伸ばさなかった。
私は何の抵抗も
なく、
しかしただ
毅然として
濁流を見つめた。
濁流は
凄い勢いで
私を流そうとするのだが、
しかし
私は流れなかった。
なぜ私は
流れずにいられるのだろう?
と
疑問に思いながらも、
私は毅然と
そこに
立ち続けた。
そのうちに
先ほど枝を張っていた
大樹が
濁流によって
流された。
あの時あの枝に
頼っていたら
私も一緒に
流されたんだな、と
わかった。
うん。
流されるなら
流されるで
いい。
でも私は
ここに立ち続けると
決めている。
決めているのに
流されたら、
それはそれで
そこまでだった
ということさ。
そんな、ある種
呑気な気持ちで
私はまた
濁流を
見つめ続けた。
濁流は
まるで何匹もの
飢えた狼のような
激しい表情で
私に吠えた。
でもやはり私は
ただそれを
あるがままに
正面から見つめた。
そしてついに、
ある瞬間に
私はわかったのだ。
私はもう
ここからは
流されないな、と。
どのような流れが
私を襲っても、
私はきっと
このままだろう、と。
そう思えた瞬間から
濁流達が
可愛らしく観えた。
私自身は
とても楽になった。
「安易な道」
と
「楽な道」
は
似ているようで
まったく違う。
本当に「楽な道」を
見つけ出すには
覚悟と決意が
必要だ。
自分の足で
立ち続けようとする
意志が必要だ。
大樹の枝に
つかまるよりも、
自らの足で
立ち続ける方が
楽だった。
安易な道に
行かなくてよかった。
つづく
聖徳太子さんが
十七条憲法の第十条
で書かれた言葉がある。
・・・
我必ず聖に非ず。
彼必ず愚に非ず。
共に是れ凡夫ならくのみ。
・・・
良い言葉だな
と思う。
この中に
『凡』
という文字がある。
平凡の「凡」であるが、
実は私は結構この文字
好きである。
以下は一般的に
言われていることではなく、
私なりの捉え方
だ。
・・・・・・
『凡』
の本質的な意味は、
「枠の前に立つ」
ということだ。
・・・とある時私は
人と向かい合っている
瞬間に思った。
漢字を見ると、
風かんむりの中に
点が書いてあるが、
この点は人。
風かんむりは枠。
枠の中に人が
いる。
私はこれは
人という存在の
本質的な意味を
現していると思う。
私達は皆、
枠の前に立つ存在
だ。
まずはそれを
自覚することが
最も大事だと思う。
そして、
今自分の前には
どのような枠が
あるのか?
今の私は
どのような枠を
超えることが
今後の私の人生において
大切なことなのか?
こういった問いと
真摯に向き合うことが
「凡」の本質であり、
人の本質だと
思うのだ。
「凡」は辞書で引けば、
「普通」とか
「ありふれた」とか
あるが、
常に何らかの枠の前に
立ち、
枠を超えて行こうとする
そのものが、
本来は、
私達にとっては
ありふれた普通の
行為であり
人生であるのだと
思う。
そして
そういった人生を
誠実に進めることが
人としての
本質的な幸せでは
ないか。
逆に
「凡」である自分を
認めないところから
私達には
あらゆる苦難や苦悩が
始まるのではないか。
私はそう
思うのだ。
しかも。
「凡」の風かんむりの中に
もう一つ点を
入れると、
それは
『風』
の略字となる。
そのもう一つの点とは、
私は
「魂」であり
「真本音」であると
勝手に解釈をし、
枠の前に立つ自分に
ちゃんと
魂や真本音を宿し、
それに素直に枠に
向かうことで、
私達は風になる
ことができると
思っている。
ちょいと
格好良過ぎかな?
つづく
一見、答えが
絶対にわからないような
ことでも、
落ち着けば
わかる。
落ち着いていないから
わからないだけだ。
落ち着けばいい。
ただしそれは
表面上の落ち着きでは
意味がない。
中心の
落ち着きだ。
まぁ、
自分の中心がわかる
だけでも
その時点でもう随分と
落ち着いている
ということになるけどね。
中心がわからない
場合は、
少し時間はかかるが、
落ち着かない心を
一つずつ
見つめていくしかない。
自分の中で
暴れたり、縮こまったり
している
落ち着かない心達は
皆、
「自分のことを
理解してほしい」
と思っている。
その気持ちを
満たすことだ。
一つずつ丁寧に
自分の心の声やつぶやきを
拾い上げて、
ただ、見つめる。
見つめるだけで
いい。
その気持ちを
何とかしてなだめよう
とか
肯定してあげよう
とか
まったくしなくていい。
ただ、
少しあたたかい眼差しで
見つめること。
本当は
こういったことが
日頃からできていると、
毎日簡単に
落ち着くことが
できるんだけどね。
でも定期的に
ちゃんとこのようにして
自分の心を
見つめることだ。
一つずつちゃんと
やっていれば、
ある瞬間に
スッと
落ち着ける。
心の座り心地が
変わるのだ。
お尻の下に
いろんな余分なものが
挟まっていたような
居心地の悪さが
フッと抜け、
普通に
シャンと座れるような
感覚だ。
あ、落ち着けたな。
とすぐに
わかるだろう。
そうしたら
自分の中心はどこだろう?
と
意識を向けてみよう。
中心軸
でもいい。
つまりは自分の中の
ブレない部分だ。
その存在を
感じ取れて、
かつ
心の座りが良くなったら、
その落ち着いた状態で
ようやく
今、迷っていること
今、悩んでいること
を
考えよう。
案外、
一瞬で答えが
出るかもよ。
つづく
自分の中に
「花が咲いた」
ことを自覚しよう。
あなたはここしばらく
だいぶ
苦しんだはずだ。
ひょっとすると
これまでの人生で
最大ともいえるくらい
不安定に陥った
かもしれない。
絶望や虚無や
虚しさや、
エネルギーがゼロに
なったり
すべてに意味を
見出せなく
なったり。
その多くは
あなた自身が
自らにもたらしたもの
だ。
自分の
脱皮のために。
だいぶ
苦しかったろうな。
でも、
あなたの今回の
その大きな脱皮は
もうすぐ完了
しようとしている。
しっかり完了させる
ためには、
今回の脱皮によって
あなたの中に
何が芽生え、
そして
どんな花が咲こうと
しているのか?
もしくは、
どんな花がすでに
咲いたのか?
それをあるがままに
見つめることだ。
ひょっとすると
それは
まだほんの小さな
芽かもしれない。
しかしその芽は
今後のあなたの人生を
大きく変える。
それくらいの
インパクトを持った
芽だ。
あなたの宝物に
育つ芽だ。
しっかりと
見つめよう。
「この2週間で、
私は何が変わった?」
そう
問いかけ続けよう。
ほんのわずかな
変化が
あなたの芽の
ヒントだ。
つづく
全力で走って
いた。
妙にスピードが
速いなぁ、
と思っていたら、
いつの間にか、
新幹線に乗っている
自分に気づいた。
しかも
運転席のすぐ上くらいの
屋根の上に
私は座っている。
なるほど、
こりゃ速いはずだ。
と
妙に納得をして
私はその速さを
味わった。
周りの世界が
もの凄いスピードで
駆け抜けていく。
本当は
駆け抜けているのは
私(新幹線)なのだが、
しかし私は自分が
静止しているような
感覚となった。
そうか、
これくらいの
スピードになると
自分は止まっているように
感じるのだな、
とわかった。
安定しているのだ。
それは、
実際に止まっている
時よりも
雲泥の差で
安定しているように
感じられた。
左側を見ると、
海が広がっていた。
今まさに
朝日が昇ったところだ。
空も海も
キラキラ輝いている。
右を向けば、
富士山が
大きく裾野を伸ばしている。
朝日を受けながら
やさしくこちらを
見守っている。
海と富士山の
間を
超スピードで
駆け抜ける。
気持ちいいなぁ、
と思わず感嘆。
富士山も海も
ほんの一瞬しか
見えなかったが、
その一瞬の光景は
私の中に
永遠に刻まれた。
一瞬だからこそ
永遠に。
そうか、
私はこういった
人生を
望んでいるのだな
と思った。
私はやはり
超スピードで
駆け抜けたい。
まっすぐに
進みたい。
そして
周りの世界との
対面はその分
ほんのわずかずつに
なるけども、
だからこそ
その珠玉の一瞬を
永遠に自分の胸に
刻みながら
進みたい。
いつの間にか、
新幹線と私は
一つになっている。
新幹線は私であり
私は新幹線。
新幹線とは
チームだ。
そんなチームを
私は創りたい。
つづく
「本来の自分」
と
「今の自分」
が
ズレていないか?
「本来の自分」
は
今、どこにいる?
あなたの身体と
一致している?
それとも
少しズレている?
それとも
自分の身体から
離れてしまっている?
もし離れていると
したら、
どこにいる?
前? 後ろ? 横?
上? 下?
どれくらい
離れている?
「本来の自分」の場所
がわかったら、
「本来の自分」に
戻ってきてもらおう。
自分の身体と
一致させよう。
完全に
一致させよう。
すると、
フッと楽になるはずだ。
どことなく無理をしていた
感覚が
抜けるはずだ。
「本来の自分」が
戻ったら、
目を閉じて
深呼吸して
自分自身に
問うてみよう。
なぜ、いつの間にか
「本来の自分」が
「今の自分」から
ズレてしまったのだろうか?
と。
どこに問題があり、
自分は何を
修正すれば良いのだろうか?
とね。
つづく
気がつくと
森の中にいる。
少し
薄暗い。
白い大きな花が
いくつか咲いている。
その場所に
私は静かに
座っている。
物音はなく
とても静か。
私は、自分の
心の音
のみを聴いている。
その音は
言葉にはならないが、
言葉以上の
メッセージを
確かに私に伝えている。
もうすぐ
夜が明ける
とわかる。
問題は、
そこからだ。
夜明けと共に
すぐに
動くか?
それとも
もうしばらく、
少なくとも
今日一日は
静かにここに
いるか?
その答えが
もうすぐ出る
気配がある。
私は一切の
思考をやめ、
ただ
心の音のみに
意識を向ける。
意識が完全に
空になる。
「自分」という
認識がなくなる。
「世界」と「自分」の
区別が
なくなる。
・・・と、
ふと気がつくと、
私はもう
走り始めていた。
夜明け前
だと言うのに。
すでに
全力ダッシュ
だった。
なんだ、
そういうことかよ。
と、
私は半ば呆れ
ながらも
自分自身にちょっと
文句を言う。
でももう
走り出している。
もう
止まることはない。
しかも
もう、止まるという
選択肢がない
という事実を
目の当たりにして
私は心の底から
喜んでいる。
内側から
エネルギーが
溢れてくる。
すでに
先程までいた
森は
後ろの彼方に
見えなくなった。
もう
今は
前しか向かない。
決めるまでも
なかったな。
やはり最初から
決まっていたな。
なら
最初からそう言え、
と
私は自分にちょっと
文句を言った。
つづく
今、やろうとしている
ことが
正しいかどうか?
は、
やってみなければ
わからない。
だからまずは
捨て身になる気持ちで
やってみる。
すると当然、
正しかったな
と
思える時もあれば、
そうでない時も
ある。
でも、
正しいかどうか?
というのは
本当にわかるもの
だろうか。
本当にわかるのは
何年も経ってから、
いや、
100年後くらい、
いや、
やはり永遠にわからんかも
しれない。
第一、
何をもって
「正しい」
のだろうか?
「正しい」というのは
解釈であって、
ある人から見れば
正しくとも
別の人から見れば
正しくないことは
たくさんある。
たくさん、というか
ほとんどが
そうではないか。
・・・なんてことは
重々わかった上で
それでも私達は
正しさを
求める。
「答え」は
欲しいよな。
そりゃそうだろう。
でも
残念ながら
答えは誰も与えて
くれない。
自分で決めるしか
ない。
いつの間にか私は
50代になり、
それなりの経験も
積んだもんだから、
人の振る舞いを見れば
それなりに
アドバイスしたくなる。
それは正しいよ。
それは間違っているよ。
でも
そんなことを
している場合では
ないわな。
それでは
時代は何も
進まない。
私達はこれから
未開の地を
行こうとしている。
いや、
人類はずっと
そうだった。
でもこれまで以上に
私達は
「人間の道」とは何か?
を
突きつけられる。
人として
生きるというのは
どういうことなのか?
を
問われ続ける。
考えなくては、
生きていけなくなる。
ちゃんとした考え
なくしては
生きていけなくなる。
難易度の高い
時代だよ。
これからは。
覚悟せんといかん。
だからこそ
私達は
「正しさ」
を超えねばならない。
正しいかどうか?
という次元ではない
もう一つ上の次元で
物事を捉え
推進せねばならない。
「正しさ」について
論ずれば、
恐らく一生かかっても
答えは出ない。
だから
この次元にいては
ならない。
もう早いところ
次に進まねばならんのだ。
つづく
どんな人でも、
自分なりの価値観
というものがある。
これまで生きてきた
中で
培われた価値観。
こんなことを
大事にしよう。
でも
これにこだわることは
やめよう。
私も随分と
そういったものを
見つけてきた。
そしてある時には、
これまで大事にしてきた
価値観を
根本的に手放さなければ
ならないこともあった。
そしてその経験を経て
逆に、
その「手放し」こそが時には
大事であるという
価値観を持った。
でも今、
かつて私が
完全に手放した価値観を
もう一度
手に取るべきでは
ないか?
という問いの前に
私はいる。
かつて手放した
わけなので、
私にとってそれは
不要のもの
であり、
あってはならないもの
だった。
それがあることで
昔の私は
道を誤りかけた
こともあった。
だからそれは
私から見れば、
危険なもの
とも言える。
その価値観を
手放してからは
私は
人生がかなり
調和した。
仕事も。
でも、その
手放したものが
今、
私の目の前に
戻ってきた。
私はその価値観を
もう一度、
自分の中に
戻すのか?
それとも
やはりやめるのか?
その選択の前に
いる。
どうしようかな?
かつての私と
今の私の違いは、
今の私には
真本音レベルで
つながった
ビジネスパートナー達
がいる。
仲間がいる。
彼らに相談
してみようかな。
その価値観、
戻ってくるのは
20年ぶりくらいか。
20年間で
私も変化した。
今の私には
必要なことなのかな?
う〜ん。
相談しよう。
つづく