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昨日、このブログで
直観について
書かせていただいたが、
直観のお話をすると
よく勘違いされてしまうのが、
「そうか、じゃあ
あまり考えなくて
いいんだ。」
という誤解だ。
いやいやいや、
もっとちゃんと
考えようよ!
と言いたくなる。
私のクライアントさんは
経営者の方々が
多い。
経営者は
しょっちゅう会社の
ことばかりを
考えている。
24時間、
考え続けている
人が多い。
そういう人にこそ
私は言うのだ。
「直観を
大切にしましょう!」
と。
それだけ
真剣に考えている
人にこそ、
本来の直観は
働く。
考えもしないで、
「直観で行けば
いいんだ」
とやっている人の
多くは、
・直観
と
・単なる思いつき
の
区別がついて
いない。
だから結構、
思いつきのままに
行動して
大変な目に合う。
思いつきとは、
反応本音レベル
の発想だ。
それは直観に
似てはいるが、
実に浅い。
しかもその多くは
自分本位の発想、
自己満足の発想、
だ。
そういう人が
いれば、
私は
「まずはしっかりと
考えよ」
と「指導」する。
人生を
仕事を
安直に考え過ぎ
だ。
困ったことに、
そういう人ほど、
「真本音が、真本音が」
と
言う傾向がある。
「お前が言うな。
それよりもっと
ちゃんとしっかり
考えろ!」
と
私は言う。
まずは、
自分で考え、
自分で決め、
自分で行動し、
自分で成果を出す。
これがやはり
自律の基本だ。
これを
やり続けながら、
試行錯誤を経ながら、
人は初めて
真本音とか
直観とかを
知っていく。
それもせずに、
真本音とか
直観とか
語らないでほしい。
なんか今日は
文句のような
文章になっているが、
残念ながら
今は、
グングン最高速で
進む人が
増えている一方で、
まるでその反動の
ように、
止まってしまう人も
増えている。
そして
実に残念だが、
止まっている人
ほど、
自分が止まっている
という自覚がない。
自分はちゃんと
やっている。
自分は
真本音で進んでいる。
と
思い込んでいる。
でも、
現実をよく
観てほしい。
本当に自分の
望む現実が
できているか?
「もうすぐできる
はずだ」
ではダメ。
ちゃんと日々、
望む現実が
生まれ続けて
いるか?
進んでいる
実感は
本当にあるか?
よ〜く
客観的に
自分を振り返って
ほしい。
自分を
大切にできるのは
まずは
自分自身なのだから。
「大切にする」
第一歩は、
「あるがまま」を
「現実」を
自覚する
ことだから。
つづく
心がざわめいて
いる時は、
私は一切の
決断をやめる。
止まる。
何もしない。
と
決めている。
何もしない、
というのは
現状のまま行く、
ということだ。
何も変えない。
と同義語だ。
極端に言えば、
惰性のままでも
いい、
ということだ。
私達は
特に重要な決断の
前では、
あーだこーだ、と
考えてしまう。
当たり前だ。
考えること自体は
良いことだし、
しっかりじっくり
考え尽くさねば
ならないが、
考えの中から答えを出す、
ということを
私は
一切、しない。
考えの中から答えを出す、
というのは、
根拠を求めて、
最も点数の高い根拠に
基づいた答えを出す、
ということに
なってしまうからだ。
企業でもビジネスでも
そういったやり方を
している人は
多いだろう。
しかし私は
それをしない。
何故ならば、
そこに最善の答えは
ない。
からだ。
ちょっと極端に
聴こえるかもしれないが、
実は、
そんなに極端なことは
言っていない。
私は、
すべての考えを
自分が
手放せるくらいまで
考えて考えて
考え尽くす。
人間、面白いもので、
そこまで考え続けると、
途中で
どうでもよくなる
瞬間が来る。
ある意味、
答えが出ないことへの
あきらめでもある。
開き直り、
とも言える。
本当にそうなると、
そこまで続けた
あらゆる思考を
私達は手放してしまう。
するとその直後に
やすらぎ
と
静寂
が来る。
その状態に
入って初めて、
「直観」
が来る。
その直観こそが
最善の答えを
運んできてくれる。
その多くは、
根拠のない答え
だ。
が、
根拠のない自信
が
付与されている。
つまりそれこそが
「確信」
というものだ。
多くの場合、
確信には最初
根拠がない。
根拠はだいたい
後付けだ。
人に説明するために。
根拠のない確信を
人に説明し
納得していただくために
思考を働かす。
そこでこそ、
考える
という行為は
本当に生きて来るのでは
ないかと
私は思っている。
それはともかく、
そういった確信は
私達に
パワーとエネルギーと
モチベーションを
与えてくれる。
そうしたら
それに素直に
動くといい。
だから私は
確信に基づいた
決断しかしない。
・・・・・・
以前は、
この過程に
随分と時間をかけて
いた。
例えば、
一つの答えを出すのに
1週間も2週間も
考え続けた。
長い時間をかけて
直観を待った。
しかし残念ながら
直観は
意図的に起こすことは
極めて難しかった。
しかし。
今は私はこれを
数分単位、
時には
数秒単位で
意図的に行なうことが
できる。
つまりは、
意図的に
直観を呼び起こすことが
できる。
私のコーチングは
すべてこれを
主体としている。
では、
それは私だけの力か?
と言うと
とんでもない。
これこそ、
私達人間の
誰もが持っている力
の一つだ。
その本来の力を
呼び起こすための
最短の道が
セルフコーチング
である。
正しく自分と
向き合い続け、
自分の心の中にある
ものを
あるがままに
見つめることが
できるようになると、
直観も確信も
毎日のように
浮上する。
むしろそれが
当たり前と
なる。
しかしそれが
ゴールでは
ない。
そんな自分になれて
初めて、
私達は
人生の目的にも
気づけるし、
そこに向かう
道を見出すことも
できる。
本来の人生が
スタートするのだ。
直観なくして
道はなし。
ただし、
直観と言っても
ただの思いつきでは
ない。
ただの思いつきと
直観を
区別できるように
なる必要もある。
そのためにも
セルフコーチング力が
必要だ。
つづく
あの人に向けた
その怒りは、
実は
自分自身に向けた
怒り
そのものだ。
人を許せない人は、
自分を
許すことが
できていない。
しかも、
自分を許すことが
できていないという
事実を
認めようとしない
人ほど、
その怒りは
増大し、
さらに人を
許せなくなる。
自分を許せ、
とは
言わない。
だが、
自分に向けた
その怒りを
自覚せよ。
その怒りは
刃となり、
自分自身を
グサグサと
刺し続けている。
その傷は
心だけでなく、
魂にまでも
及ぶことがある。
魂の傷は
あまりに痛く、
深い。
そうなるともう
自力では
立ち直れなく
なる。
しかし
そのような人は
多い。
急増
している。
・・・・・・
人はどうして
こんなにも
自分と
向き合わない
のだろう。
自分の心に
数え切れない
ほどの
蓋をするのだろう。
いや、
その理由は
わかるし、
感覚も
わかる。
かつての私も
そうだったから。
無数の蓋をして、
都合の良い部分
のみを見て、
それが
自分の心だと
思い込んでいた、
いや、
思い込ませて
いた。
しかし今なら
とてもよく
わかる。
それが
いかに苦しく
辛く
不自然なことか、
を。
・・・・・・
自分の中の
蓋を取り払うのは
コーチの役目
ではない。
それは
自分自身にしか
できないことだ。
頑なにそれを
拒否する人に
私は
何もすることは
ない。
何も
できないのだ。
他者によって
自分を
変えられたいかい?
絶対に
いやだろう。
誰だって
そうだ。
本当はね、
自分を変える
必要すらない。
本来の自分に
戻るだけだ。
自分自身の
手によって
自分を
本来の自分に
戻していく。
それだけの
ことだ。
それだけで
自分の心は
調和し、
人と人は
調和し、
組織は
調和し、
社会は
調和していく。
調和していないのは、
単純に、
自分と
向き合っていない
からだ。
それが
すべての悪循環の
始まり、なんだ。
つづく
本当は私達は、
実に見通しの良い
道に
立っている。
さえぎるものは、
何一つとして
ない。
霞みさえない、
濃い青空のもと、
穏やかな風を
受けながら、
伸びやかに
私達は
立っている。
しかしそれでも
人は
「何も見えない」
と
言う。
「自分の道が見えない」
と
言う。
目を
閉じている
からだ。
もしくは、
目隠しを
し続けているから、
もしくは、
相当に分厚いフィルターの
眼鏡を
かけている、
からだ。
どれだけ気持ちよく
どれだけ安定した
道でも、
目を閉じていれば
進むのは
怖い。
当たり前の
こと。
だから、
目を開ければ
いい。
でも、
開け方が
わからない。
残念ながら、
そんな人達が多いのが
今の世の中だ。
そこで
大半の人が
とってしまう方法は、
目を閉じたまま
上手く進もう
と
すること。
目を閉じたままで、
どちらの方向に
どのように
進めば良いか?
を
他者から
教えてもらったり、
アドバイスを
もらったり。
目を閉じたまま、
自分の手を
引っ張ってくれる人を
見つけ、
その人に
依存したり。
一生、
目を閉じたままで
いい、
と
思っているようだ。
もしくは、
一生、目を開けることは
できないと
思い込んでいるか。
もしくは、
すでに自分は
目を開けていると
思い込んでいるか。
今、
まだ自分は
閉じているという
自覚をすることが
第一かな。
自覚できれば
開けたくなる。
開けたくなったら、
その自分の
想いに、
素直になることだな。
そうなれば
あとは
方法論だ。
ただし、
何かをちょっとやって
すぐにパッと
開くものでは
ない。
開くには、訓練が
必要だ。
毎日毎日の
地道な習慣が
必要だ。
その方法を
私は
セルフコーチング法
と
呼んでいる。
自分が
自分自身の
目を開かせるために、
自分を
サポート
し続ける。
そして
目を開くことが
できたら、
次は、
進むための
サポートに入る。
それも
セルフコーチング。
自分の最大の
コーチは
自分自身。
みんなが
そんな状態に
なれればいいな、
と
思う。
そして
自分で自分を
コーチできるように
なれば、
その人は今度は
他者を
コーチできるように
なる。
他者に
セルフコーチングを
教えることが
できるようになる。
私は世の中に
本物の力を持った
コーチが増えることを
切に望んでいるが、
そのためには
やはり、
この順番が
大切だな。
つづく
人生の分岐点が
観えるかな?
これから
あなたの道は
いくつに
分かれているだろう?
ちゃんとそれを
観るんだよ。
そこに
分岐があるのに
それを認めず、
単に惰性のみで
進むのは
絶対にやめて
ほしいんだ。
なぜなら、
この分岐地点まで
来れたのは、
あなたのこれまでの
誠実さと努力の
成果だから。
やっとここまで
来れたんだ。
ここからが
本番だ。
だから、
ちゃんと自らの
選択肢を
自ら見つめ、
真本音で決めて
ほしい。
人生に
正解はない。
自分の正解は
自分で
決めるんだ。
そのためには
ちゃんと
問い
と向き合うことだ。
私には今、
どのような選択肢が
あるだろうか?
そして私は
どの選択を本当は
したいのだろうか?
と。
大事な
時間だ。
今は。
しっかり
自分自身と
向き合う時だ。
つづく
昨年の9月に
初めて開講し、
かなりのご好評を
いただいた
『ザ・セルフ』
という
セルフコーチングに
特化した講座を
もう一度、
開講しようと思う。
第2期ということに
なるかな。
第1期の皆さんは
随分と
人生を加速された。
この講座の受講生さんは
日々の習慣として、
毎朝、自分自身への
「今日の問い」
を自ら発想する。
そういった宿題を
出すのだが、
これが実に良い。
毎朝、皆さんの
「今日の問い」
をSNSのグループに
アップしていただき、
それを私が
「真本音から出ている
問いかどうか?」
をチェックする。
これを
毎日続ける。
第1期の講座は
1月末には終了
したのだが、
受講生の皆さんからの
「今日の問い」の
アップは、
いまだに自主的に
続いている。
私がチェックなど
しなくとも、
皆さん、毎日
真本音の問いを
アップされている。
その問いを
一日、自分に投げながら、
一つ一つ丁寧に
「答え」を
見つけていく。
真本音の問い
なので、
必ず真本音の答えが
見つかる。
これを毎日
続けるのだ。
そりゃ、人生も
変わるわなぁ。
第2期は、
第1期で得た気づきが
随分とあるので、
さらにブラッシュアップされた
講座となるだろう。
とは言え、
今日その打合せを
初めてしたので、
準備はこれからだ。
第1期の際にも
感じたのだが、
この講座は私の
ライフワークの一つに
なると思う。
この講座で
様々な人達と
出会っていきたいな、
とも思う。
セルフコーチングが
すべての始まり。
・・・以前から
そんな風には思って
いたし、
私の人生も振り返れば、
セルフコーチング力の
アップによって
展開されてきた。
これがなかったら、
今のお仕事は
こんなに20数年間も
続けられなかった。
間違いなく。
今、改めて
セルフコーチングが
すべての始まりだったなぁ、
と
思う。
実は昨日、5月9日は
私にとっては
記念日。
17年前の昨日、
私のセルフコーチング力は
一気に飛躍した。
それにより、
「真本音」という
概念の発見につながり、
私の企業サポートの
スタイルも
根本から変化した。
それとともに
私の人生も
根本から変化した。
セルフコーチング
とは、
自分と向き合うこと。
「本来の自分」
と向き合うこと。
これなくしては、
「自分の人生」
にはならないね。
つづく
あまりに速いスピードで
前に進むと、
見えなくなってしまう
景色がある。
例えば、
鈍行電車では
よく見えていた景色も、
新幹線に乗れば
見えなくなってしまう。
だから
鈍行電車が好きだ
という人は
多い。
人生の進み方に
おいても
同様だ。
その気持ちは
私はよくわかるし、
鈍行電車の魅力を
感じたいとも思う。
しかしあえて
言おうかな。
新幹線に
乗らなければ
わからないことも
実に多いんだ。
新幹線に乗ることで、
初めて
観えてくるものも
たくさんある。
それを
観てほしい。
感じてほしい。
それが
今の時代だ、
と。
しかも、
新幹線レベルの
スピードに乗ることが
できるようになれば、
逆に、
鈍行電車と同じくらいに
ゆっくりと進む
こともでき、
速く進むことも
ゆっくり進むことも
どちらも
可能となる。
つまりは
進み方の選択肢が
増える。
自由自在と
なる。
「私は鈍行でしか
行けないから、
鈍行電車でいい」
と、
最初から諦めている
人が
多過ぎはしないか?
まずは
自分なりの新幹線でも
よいではないか。
自分の限界の
一歩先を行く
スピードと
加速を
目指して
みないか?
つづく
人と向き合って
いる時に
いつも感じるのは、
言いようのない
幸福感だ。
実はそれは
誰と向き合っていても
同じだ。
例えば、
私のことを否定したり
非難する人と
向き合っていたとしても、
やはり
同じ幸福感を得る。
それは私が
人格者だから
ということでは
ない。
それが
「向き合う」
ということの
素晴らしさなのだ。
しかし恐らく
こういったことを
書くと、
「私には
よくわかりません。
たけうちさんだから
わかるんでしょ。」
と思う人も
多いだろうなぁ。
でもね。
はっきり言うと、
それは
違う。
もしこの幸福感を
得られないと
したら、
まだ「向き合い方」が
中途半端なんだ。
かといって
「幸福感を得るために
私はちゃんと人と
向き合おう」
とは
思わないでね。
そのような意図を
持てば持つほど、
向き合い方は
中途半端になって
いく。
良い向き合い方の
ポイントは
たったの二つだ。
一つは、
自分の意識を
しっかり相手に
向け続けること。
相手の表情や
息遣いや空気感
などが、
よ〜くわかるくらいに
意識を向け続ける
こと。
相手から
何を言われようが、
どんな会話になろうが、
それだけは
やめないこと、だ。
もう一つは、
自分の心の動きは
自由にしておく
こと。
つまりは、
心の中では
どんな心の声が
出ても、
どんな気持ちが
湧いても、
構わないんだ。
しっかり向き合う
ためには、
無心にならねば、
とか
心を白紙状態に
したり、
心の淀みを
無くして
純粋な自分でいよう、
などと
思わないことだ。
だってそんなの
無理だろう。
心の中は
何を考えていても
いいんだ。
と、それくらい
自分の心を自由に
しておく。
ただ、
意識のみを
相手にずっと
向け続けるんだ。
たったこれだけ。
これを本当に
しっかり
やってみてほしい。
実は私達は、
自分の嫌いな人や
苦手な人には
これを
やらない。
そりゃそうだ。
嫌いなんだから。
でも、
そんな人にこそ、
勇気を持って
やってみてほしい。
すると、
何かが大きく
変わると思うよ。
そして
「あるがまま」に
人を観る、
というのが
少しわかるかも
しれないね。
まぁこれも
意図しないで
ほしいけど。
面白いことに、
長年連れ添った
夫婦や家族ほど、
こういったことが
疎かになっている
ケースが
極めて多い。
身近な人、
大切な人には、
当たり前に
こういったことを
し続けたいね。
「向き合いたい」
というのは、
人の根源的な
本能の一つだと
私は
思っている。
人と向き合わない
人は、
どんどん心が
荒んでいく。
人と向き合う人は
常に
何かが満たされる。
だから
向き合おう。
ちゃんとね。
つづく
人生を進めている
つもりになっていても、
実は
まったく進んでおらず、
同じ場所で
足踏みをし続け、
足踏みをすることで
汗をかき、
汗をかくことで
「私は頑張っている」
と
自己満足している
人は、
残念ながら
とても多い。
以前にもよく
書かせていただいたが、
成長には
2種類があって、
それをあえて
名付けると、
・進化
・膨張
となる。
「進化」とは
次元を高めること。
「膨張」とは
同じ場所で
規模や能力など
のみが
大きくなることだ。
単なる膨張を
しているだけで、
満足をしている人が
多いのが
今の社会だ。
私は、
膨張のことを
成長とは
思っていない。
本来の成長とは
進化があっての
もの。
そして、
進化のないサポート、
つまりは
膨張のためだけの
サポートは
一切やらないと
決めている。
しかし
とても残念なことだが、
進化など
どうでもいい。
とりあえずは、
膨張さえすれば
それで
いいではないか。
と
思っている人は
とても多い。
経営者も
含めて。
注意していただき
たいのは、
能力の成長
も、
それのみであれば
膨張である
ということだ。
言い換えれば、
実力のみの成長
は
単なる膨張だ。
以上を踏まえた
上で
あえて断定すれば、
今の若者の
何割かは、
進化への欲求が
極めて高い。
逆に言えば、
単なる膨張に
対して
やりがいや生きがいを
感じなく
なって来ている。
膨張のために
頑張れ!
を言われても、
無気力・無関心に
なる。
私は、
登校拒否になって
しまっている
未成年者のサポートを
させていただくことも
あるが、
彼らの何割かは、
(本質的には)
膨張のみを
強いろうとする
社会に対しての
拒絶感を持っている。
しかし
そういった彼らでも、
進化を感じられる
物事に対しては、
途端に
エネルギーを
発揮したりする。
進化に対しては
苦労をしてもいい。
どころか、
進化のために
努力や苦労をしたい!
と
望んでいる人は
多い。
しかし、
それが一体
どういうことなのか、
どうすれば
いいのか、
が
まったくもって
わからない。
大人達は
そこのところを
何も教えてくれない。
だから
単なる無気力
無関心になる。
という状態だ。
もちろん、
そのような状態でも
私は
自らの人生は
自ら進むことで
拓いていくことが
重要だと思っている。
進化への欲求が
あるならば、
自ら動けよ。
とも思う。
しかし人は、
あまりにも
何もわからなければ、
何もできなくなってしまう
ものだ。
「守破離」という
成長の段階があるが、
彼らはまだ
(多くの若者はまだ)
「守」の段階だ。
例えば2歳の子供に、
「進化のために
自ら人生を創りなさい」
と言っても
ほぼ不可能なのと
同じだ。
ちゃんと彼らに
「教える」
ことのできる大人が
必要だ。
その役割を果たすのは、
これからの時代に
おいては、
私は
「企業」
だと思っている。
ビジネスや仕事を
通じて、
生活を成り立たせ、
その土壌の上で
進化を起こす。
そういった「企業」が
増えることこそが、
これからの時代を
創る若者達を
活性化させる
最も重要な方法だと
思っている。
逆に言えば、
そういった「企業」が
増えなければ、
若者達の本来の力は
発揮されない。
若者達の本来の力
を発揮できる
「企業」
を増やさねば
ならない。
しかし、
現時点では
どうすれば進化できるか?
を明確に知る「企業」は
実に少ない。
だから、
そういった「企業」を
増やすことに
私は邁進する。
そしてこれは当然
私一人でできることでは
なく、
進化をサポートできる
「コーチ」を
増やすことも
必須だ。
そして
「コーチ」の
最低条件は、
進化とは何か?
どうすれば
進化できるか?
を知っていること
だ。
身をもって。
それを知るために
絶対的に必要なのが、
進化のための
セルフコーチング
だ。
進化のための
自分との向き合い方
であり、
進化のための
自己マネジメント
だ。
セルフコーチング法を
広めることが、
やはり
肝要だな。
つづく
荒れてるなぁ。
荒れてる人が
多いなぁ。
この1ヶ月間の
私の印象
である。
特にその「荒れ具合」は
令和に入った
この数日間で
極度に高まっている。
もちろんそれは
実在レベルの
話であり、
潜在意識レベルの
ことだ。
しかしこういった
感覚は、
時差を経て
現象化することが
多い。
一方で、
非常に安定度を
増し、
静けさを湛えている
人もいる。
しかし残念ながら、
割合としては
前者の方が
圧倒的に高い。
前者の中でも
さらにその
2割くらいの人達
からは、
大袈裟でなく、
阿鼻叫喚
の叫びのようなものさえ
私には
感じられるのだ。
その根本原因は、
自分自身への
ごまかし(誤魔化し)
だ。
・・・・・・
ごまかしの利かない
時代になった
と思う。
企業の活動に
おいても、
一人ひとりの人生に
おいても。
ごまかしごまかし
で何とかこなせて
来たことでも、
それが立ち行かなく
なって来た。
個人の人生に
おいて言えば、
自分の本当の気持ち
や
本当の願いに
蓋をしながら生きて来た
人も、
その蓋が外れかかって
いる。
外れかかっている
ことに
本人が気づいていない
ケースも確かに多いが、
外れかかっているが
故に、
モヤモヤ感が
半端なくなっている。
これまでは
「このまま行けばいいや」
とか
「このままの人生でいいや」
で
済ましてこれた
はずなのに、
どうしても、
「本当にこれで
いいのだろうか?」
という
自分自身への疑念が
拭えない。
本当はもっと
先に進まなければ
ならないのに、
それを
本当は自分は
とても強く望んでいるのに、
そうしない自分。
まぁでも人生、
こんなもんだからと、
これまでは
自分をある程度
納得させていたが、
それではもう
納得し切れない自分が
どうしても
ニョキニョキと
頭をもたげてしまう。
すると、
進まない自分に
対して、
自分自身が
非難を始める。
自分を
責め続ける。
自分を責める自分を
これまでは
なだめながら
来れたが、
もうそれでは
治まらなくなって
しまった。
そういった自分への
対応の仕方も
制御の仕方も
わからず、
ただただ途方に
暮れるだけ。
そのうちに、
自分自身の
堪忍袋の緒が切れ、
自分の心の中での
反乱が
ついに始まり、
心の中では
阿鼻叫喚が・・・。
という、
そんな具合の
ようだ。
・・・・・・
そんな中、
このブログを
お読みいただいている
ある方から
コメントをいただいた。
「たけうちさんは
まずは、
セルフコーチングを
広めてはいかがでしょうか。」
というご提言
だった。
その方とは確か、
10年近く前に
一度だけお会いした。
大変ありがたい
ご提言で、
私はその一文に
グッと来た。
この1ヶ月間の
多くの方々の
「阿鼻叫喚」を
感じるにつけ、
今のこのタイミング
でこそ、
セルフコーチングに
ついて、
もっともっと
しっかりと発信をしたり、
ご指導をさせて
いただく場を
増やした方が良いのでは、
と
今更ながらに
感じている。
最近はいつも
同じようなことを
書いている気が
するが、
今の世は、
そしてこれからの
世の中は、
「正解」がない。
これまで正解だと
決めつけていた
ことが、
そうではないことが
わかって来て
しまった。
「正解」は
自ら創り出していかねば
ならない時代。
これこそが
人としての
本質的な時代だ。
そんな時代だからこそ、
自分と向き合い、
自分の真本音を
把握、理解し、
それを行動に移し、
カタチとして
実現する人生や
仕事が
必要とされる。
私自身も含めて
できるだけ多くの
方々が
そうなれるように、
私は私の
できる最大のことを
していこうと思う。
つづく
私のビジネスパートナーと
打合せをしていて、
その時に話題に
上がったのだが、
「自分探し」を
するんだ、という
理由づけをして
現実逃避をし続けている
人がいる、
と聴いた。
皆さんは
どう思います?
そう言えば
昔、
私も「自分探し」とか
「人生の目的探し」
のために、
1年半〜2年ほど
旅に出た。
20代の中頃の
話だ。
海外のいろんな国々を
次の行き先を決めずに
周った。
そうしたら
確かに、
何年も旅をし続けて
社会復帰ができなく
なってしまった人を
何人も見た。
同じ日本人なのに
私を騙して
お金をもぎ取ろうと
した人さえいた。
一体この人達は
これからの人生、
どうするんだろう?
と
思って見ていた。
しかし私も
旅を続けるうちに
わかってきた。
すべてが
無感動になって行く。
最初は
新たな文化や
新たな国の人々に
触れれば、
新鮮さで感動
していた。
しかし、
徐々に何を見ても
何も感じなく
なっていった。
私の場合、
大学の先輩や
友人などの
結婚式があったので、
それを理由に
帰国することが
できた。
あれがなかったら、
私も
どうなっていたか。
私は旅に出て
思い知った。
人は
社会的生き物
だと。
ちゃんと社会に
属し、
そこで自分ならではの
役割を持ち、
きちんと
役割を果たしながら
「生活」を
成り立たせること。
この基盤なくして、
「人間」は
成り立たない
ということを。
だから私は
旅の途中から
無性に働きたい!
と思っていた。
そして
どうせ働くなら、
たくさんの人が
幸せになるような
仕事をしたい、
と
思った。
その想いが
日本に帰ってからの
「出会い」に
影響を与えた。
その「出会い」によって
今の私がある。
今は私は
旅はほとんど
しないが、
でももし旅に出るなら、
「仕事」の合間に、
「生活」の合間に、
出るのがベストだと
思っている。
私のクライアントさんで
しょっちゅう旅に
出ている人がいるが、
彼は、
本当に仕事をよく
やっている。
私の同業のような
仕事をしているが、
本当に
大活躍している。
彼は
「旅」を「仕事」の
栄養にしている。
というよりも、
「旅」も「仕事」も
「人生」の栄養に
している。
でも、
よくよく考えたら、
毎日、「仕事」を
しているにも関わらず、
私が旅で出会った
彼らのように
自分を失っている
人達は
たくさんいる。
「仕事」をしているにも
関わらず、
人生を放棄している。
こうなるともう、
「旅」がどうとか、
「仕事」がどうとか、
関係ないのかな。
自分の「人生」に
どう向き合うか?
なのかな、
と
思うようになったのが
20年ほど前だ。
「自分探し」。
自分探しは、
日常生活の中でしか
できないものだと
私は思う。
ちゃんと「日常」を
持ち、
「生活」を成り立たせ、
自分の「仕事」を
見つけ、
「役割」を一つ一つ
きちんと果たして行く。
その過程の中で
初めて
社会的生き物としての
自分が
観えてくる。
でも、
単純にそういった
環境に身を置くだけでは
自分探しは
できない。
じゃあどうすれば
いい?
という問いに
一言で答えるならば、
「真本音で日常に
人生に
仕事に
向かおう」
ということに
なるな、
やっぱり。
つづく
人はいろんなことを
法則化したがる。
こうすれば、
上手くいきますよ、
という
法則を見出したがる。
もちろんそれは
良いことだし、
原理原則を見出そう
という探究心も
人として、
人の本能として、
とても重要なものだと
私は思う。
私自身も
現場で様々な原理原則を
見つけさせていただいたし、
それを法則として
まとめもした。
しかし。
その、
自ら導き出した法則に
自らが
縛られてしまっては
意味がない。
とも思う。
あえて言うけど、
真実は
法則を超えた
ところにある。
と
私はずっと
思っている。
法則とは
真実に近づくための
ステップに
過ぎない。
もっと言えば、
法則にこだわるあまりに、
真実を見失う
ということが、
あまりにも
多過ぎはしないか。
今、
この世の中を
構成している私達は、
縛られ過ぎだ。
自分自身の
考え方に。
自分自身の
法則に。
もしくは、
他者の言う法則
に。
もっと
自由であっても
良いのではないか、
我々人間は。
変な言い方だが、
法則を超える
存在が
人間である。
とも
私は思うのだ。
それが
人間の本来。
その本来を
取り戻すために
私は日々、
自分も含めて
様々な人達を
サポートさせて
いただいていると
言ってもよいかな、と。
ただし、
法則を学ぶことは
大事。
先日、
あるクライアントさんが
とても素晴らしいことを
言われた。
「私は先人が得た
知恵を学ぶ。
どんどん学ぶ。
その上で、
私はさらにその先に
行く。」
自由に行けば
いいから
何も学ばない。
というのは、
極めて不自由だ。
本当に自由な
人であればあるほど、
真実を求めるために
どんどん学ぶ。
しかし
その学びに
囚われることは
ない。
法則は
学ぶが、
そこには
囚われない。
これが
これからの時代、
さらに
私達に必要なこと
ではないか。
つづく
人生に
奇抜なことは
いらない、
と
私は思う。
ただ、
今日という一日の
今という時に
自分がしようと
していることに対して、
一つ一つ
丁寧に
魂を込めること。
それを
し続けるだけで、
「思わぬ素敵な展開」
が、
次々に起こっていく。
とはいえ、
そういった結果を
期待している
わけではない。
やっていることは
一つ一つ
魂を込めること
だけだ。
でも。
「魂を込める」
という意味が
わからない
という人も多い。
「心を込める」
のと
「魂を込める」
のは
実は本質的に
異なることなのだが、
まぁここでは
あまり難しいことを
説明しようとは
思っていない。
魂を込めることが
わからないならば、
せめて
心を込めることを
するとよい。
一つ一つ丁寧に
心を込めていけば、
途中で
疲れてしまうだろう。
でも
それでいい。
限界まで
がんばってみて
ほしい。
実は、
魂を込める
というのは
まったく疲れない。
永遠に
できることだ。
でも私だって
最初からそれが
できたわけではない。
ある意味必死に
心を込め続けて来たから、
その限界がきて、
それでも心を込めようと
がんばったら、
ある時
ある瞬間に、
魂の込め方が
わかったんだ。
そんなもんじゃ
ないかな。
しかし。
今の若い人達の
何割かは、
「魂を込めよう」
と言うと、
「そうですね」
とへっちゃらで
返してくる。
わかってないのに
適当に答えている
わけではない。
本当に
わかっている
ようなのだ。
だから私の
真本音の話も、
あーだこーだと
説明を加えなくとも
「あぁなるほど」
と、
すぐになる。
そんな人が
増えている。
そういう人達と
関わっていると、
本当に
時代は変わったなぁ、
と
実感する。
令和にも
なったことだし、
本当に
これまでの考え方
や
これまでのやり方
を
変えようかと
思っている。
「ペーシング」という
言葉があるが、
これは、
ペースを合わせる
などの意味があるが、
これからは
最初から感性が
豊かな
若い人達にこそ
我々はペーシングすべき
ではないかと
本気で思っている。
彼らがいかに
伸び伸びと
社会において
成長・進化するか?
が、
これからの時代を
決定づける。
そのサポートを
することは、
コーチ云々ではなく、
我々世代の
役割ではないかと
強く思うし、
そう決めた。
つづく
私達は
生きていれば、
様々な混乱や困難が
目の前に現れるが、
それらに
揺らされる必要は
まったくない。
いや、もちろん
心は揺らされても
いい。
というか、
心は揺れる
ものだ。
自由に揺らせて
おけばいい。
かと言って
自分自身の軸
までをも
揺らす必要はない。
というか、
これも正確に言えば、
中心軸は
常に揺れることは
ない。
という事実を
自覚すればいい。
それが
真本音の中心軸
ならば。
(→【中心軸を持って進もう】)
・・・・・・
がんばって
それを維持しなければ
ならないのであれば、
残念ながらそれは
真本音ではない。
真本音とはもっと
大きく深く
圧倒的なものだ。
私達地球人から
見れば、
地球そのものと
同じくらいの
安定感。
それが
真本音だ。
ところが、
私達の意識は
常に、
反応本音の中に
埋没している。
喩えて言えば、
反応本音という
濃い雲の中に
入り込んでいる。
その中にいると、
周りは一面の
灰乳色だ。
何も見えない。
地球にいるのに、
それすら
わからなくなる。
だから
揺れる。
何も見えないから
私達は
揺れてしまう。
何度も言うが、
心そのものは
揺れてもいいが、
自分の存在そのもの
まで
揺らしてしまう。
自分の人生の
道さえ
揺らしてしまう。
見えない
からだ。
じゃあ、
この灰乳色の雲から
どう抜け出せば
よいか?
方法を教えてよ!
という声を
よくいただく。
もちろん
方法はある。
いくらでも。
でも、
肝心なことは、
その雲から
抜け出すことは
実は
いつでもどこでも
誰でも
すぐにできる
ということだ。
ちゃんと
意志さえ持てば。
しかし
雲の中にい続ける
ほとんどの人は
自ら望んで
その雲の中に
いる。
出ようと
しない。
コーチングなどの
サポートを通じて、
雲から抜け出す
直前まで行っても、
最後の一歩は
自らの意志で
進まねばならないのだが、
その一歩を
拒否する人さえ
たまにいる。
雲から抜け出し、
地球を見て、
自らの本当の中心軸に
沿った人生を
進めると言うのに、
そちらに
行こうとしない。
どうやら、
そういう人生は
面倒だと
思っているようだ。
雲の中でも何でも、
ある種の安定が
ありさえすれば、
一生このまま
行けばよいではないか。
というように
考えているようだ。
しかし残念ながら
一生そのまま
行くことは、ない。
なぜなら
その人自身の
真本音が、
それを許さないから。
私達には
人生の目的が
ある。
その目的を
果たすために
生まれて来た。
それは
自分自身との
約束とも言える。
真本音の中心軸とは、
その約束を
言語化したもの、
とも言える。
自分の中では
人生を進む上で
最も大切なものだ。
この中心軸に
沿った生き方を
するからこそ、
出会う人とも
出会い、
幸せな仕事も
幸せな家庭も
幸せな仲間も
できる。
何よりも
生まれて来た
満足感を
日々、
得続けることが
できる。
そしてそれは
やろうと思えば
誰もが必ずできる
はずなのに、
それをしない自分に
対して、
自分の真本音が
怒りまくるのだ。
つまりは、
自分で自分を
叱るようになる。
心の奥底で。
その怒りによる苦しみは
最初は麻痺を
しているかもしれないが、
ある瞬間から
その限度を超える。
あまりの
苦しさや、
あまりの
不安や、
あまりの
モヤモヤに
わけがわからなくなる。
そういった
自覚症状のある
人達が
今は急増している。
これからの時代は
まさしく
正解のない時代だ。
正解は
自らの意志で
自ら
創り出さねばならない。
つまりは、
自分の意志で
しっかりと雲から出て、
地球という大地に立って
歩み始めなければ
ならない時代だ。
だから
今こそちゃんと
自分を見つめよう。
自分の人生を
見つめよう。
つづく
『中心軸』
の必要な時代だ。
中心軸とは、
①自分は何のために
生きるのか?
という
「一点」を決める
ところから
始まる。
つまり
人生の目的
だ。
人生の目的の
ために、
自分は、
②具体的に
何を目指し、
③何を探究
し続け、
④どんな力を
伸ばし続け、
⑤どんな行動を
し続け、
⑥いつまでに
何を実現するか?
以上の
6点を決める
こと。
これが
中心軸だ。
「決める」と
言っても、
本当はもうすでに
私達は
真本音のレベルでは
「決めている」。
決めていること
を、
自覚すること
だ。
自らの中心軸を
まだ
自覚できていない
人は、
一刻も早く
自覚できる自分
にまで
自分を高めて
ほしい。
中心軸は
自分自身の準備
が整わない限り、
決して
自覚できないように
私達の真本音は
決めている。
つまり、
自覚できていない
ということは、
まだ準備が整って
いないということ。
準備を整える
ための
毎日を、
送れていない
ということだ。
その根本原因の
大半は、
手放すべきものを
手放していない
ことにある。
「進化」とは、
「手放す」こと
である。
と言っても
よいくらいに、
手放すのは
重要なことだ。
一つ一つ
手放すことで、
一つ一つ
次に必要なものが
入ってくる。
昨日、このブログで
「こだわり」のことを
書かせていただいたが、
「こだわり」も
手放すべきものの
筆頭だ。
変なこだわりを
持つことで、
現実的な何かを
手放さないまま、
それに
すがるか、
執着するか、
どちらかを
し続けるという
結果を生む。
それにより、
私達は
先に進めなくなる。
つまり
準備が滞る
のだ。
・・・・・・
中心軸を持った
人同士は、
真に調和する。
「令和」とは、
美しい調和
という意味だそうだ。
美しい調和を
果たすためには、
すべての人が
自らの中心軸を
思い出す
必要がある。
そのために
私は、
これからの時代も
一つ一つ
一人一人
と
丁寧に向き合って
行こう。
つづく
ここだけは
譲れない。
という
こだわりを
誰もが持っている
けど、
新しい時代を
迎えることだし、
一度、
そのこだわりを
横に置いて
みないか?
いったん、
「何でもOK」
という
自分になって
みないか?
こだわりは
こだわりなので、
自分にとっては
とても大切なもので、
それがなくなれば、
まるで
自分が自分では
なくなるみたいで、
ある種の
不安もよぎるかも
しれないが、
でもあえて、
一時的で
よいから、
自分にとって
最も重要なその
こだわりを
横に置いて
みないか?
そして
そうすることで
観えてくるもの、
感じるもの、
思いもかけない
新たな発想を、
一度しっかりと
受け止めて
みよう。
さらには、
これまでの
そのこだわりを
持ち続けていた
自分自身を
ちょっと
客観的に
見つめてみよう。
その自分は
どうだい?
小さく
観えるかい?
大きく
観えるかい?
そのこだわりは
これからもずっと
大事に
持ち続けると
いいかな?
それとも、
今回やってみた
ように、
こだわる時と
あえて横に置く時と、
その時その時に
合わせて
臨機応変に
使い分けた方が
いいかな?
まぁ
いずれにしても、
「これがなきゃ
生きていけない」
というものの
ほとんどは
「執着」
だから。
このこだわりが
なければ
自分は自分で
いられない、
というのも
ちょっと窮屈だね。
こだわりは
こだわりとして
大事にすれば
いいけど、
大事にすること
と
それに固執すること
は
別のことだからね。
新たな時代。
自分は
どんな自分として
生きていくか?
これまでよりも
ちょっと大きく、
ちょっと自由な
自分として
スタートを
してみないか。
つづく
あなたの中の
迷いは
何だろうか?
私には
迷いはない。
などとは
決めつけないで
ほしい。
今この瞬間、
この時、
あらゆる人の中に
迷いは
ある。
今は
そういった
大切な時間
だ。
特にこの
数日は。
迷いは
必ず
ある。
今は。
そこに
きちんと目を
向けられるか
どうか?
によって、
令和という
新たな時代の
スタートが
根本的に
変わってくる。
あなたの
迷いは
何か?
本当は
あなたは今、
今だからこそ、
何を
迷っているか?
ちゃんと
向き合おう。
そして。
迷いには
必ず
選択肢がある。
だから次には
あなたの
選択肢を
明確にしよう。
複数の選択肢が
あるからこその
迷い。
逆に言えば、
漠然としていた選択肢を
明確に
することで、
答えが
観えてくる。
とは言え、
答えを出すのは
焦らないこと。
複数の選択肢を
明確にしたら、
次は、
いつ答えを
出すか?
を
決めよう。
何月何日
何時何分、
と、
具体的に
決めよう。
恐らくこの
タイミングは
そう遠くない。
恐らく
ほとんどの人は
この連休中に
答えを出すの
だろう。
タイミングが
わかれば、
あとはその時を
静かに待ち、
その日の
その時間に、
きっちりと
答えを
出そう。
そして、
「決断」
をする。
決断とは、
一つの答えを
決めて、
他の選択肢は
すべて
断ち切ること。
一つを決めて、
他を断ち切る。
だから
決断、だ。
100%その道を
行くと、
完全に決めよう。
そして
新たな時代の
道を
始めよう。
つづく
人の成長には
段差がつきもの。
比例直線のような
成長は
普通はしない。
緩やかな
成長を普段は続け、
しかし
ある時、突如として
「段差」が来る。
階段のステップアップ
と同じ。
段差を登り、
次の緩やかな大地に
たどり着くまでは、
恐らく人生の中でも
最も
あらゆるものが
不安定となるだろう。
「あらゆるもの」とは、
心の内と外の
あらゆるもの。
心の内は常に
不安と不安定で
いっぱいとなり、
結果として、
過去の最も
戻りたくない自分の
心のパターンが
復活することもある。
心の外では
環境が大きく変わる
ことがある。
仕事が変わる
とか、
人間関係が変わる
とか。
いずれにしても
「変化」
が大きく始まる。
多くの人はここで
「変化を収めよう」
としてしまう。
不安定はもちろん
嫌なことだからだ。
しかし
何をやっても
収まらない。
収めようと
すればするほど、
より不安定になる。
実はそういった
状態の人が
私にコーチングの依頼を
されることが
多い。
収めるために
サポートを受けようと
するのだ。
しかし私は
逆のサポートをする。
「不安定のままで
いてください」
と
お願いしたり、
時には、
「もっと不安定さが
増す方向に
進みましょう」
と
提案することもある。
すべては
「段差」をしっかりと
乗り越えるためだ。
「段差」を乗り越える
ことで、
真の安定と
次の人生のステージが
始まることが、
側から観ていれば
よくわかるからだ。
「不安定さ」は
恐れるものでは
ない。
いや、
恐れてもいいが、
逃げるものでは
ない。
恐れつつも
立ち向かって
ほしい。
ここで後退すれば、
間違いなく
より多くの不安定が
自分の前に
立ち塞がり、
今後は、
その不安定さから
逃げ続ける人生へと
悪い意味で
変化してしまう。
ちょっと酷な
言い方かもしれないが、
「不安定さ」を
楽しんでほしい。
今は
段差を乗り越える
時。
そんな時は
何をやったって
どうせ
不安定だ。
ならば、
人生において
そんなに頻繁には
起こらない
今の時期を
味わいながら
進もうか。
・・・そんな
開き直りを
してみてほしい。
あなたなら
できるはずだ。
つづく
人には
突然に、
そして一気に、
真本音度合いが
高まる瞬間が
ある。
その多くは、
人と向き合っている
時だ。
その向き合い方も
半端な向き合い方
ではなく、
完全に
向き合えた瞬間だ。
その瞬間は
フッと、その場の
空気が変わる。
場合によっては
目眩に近いものを
私は感じることも
ある。
真本音度合いが
一気に高まることで、
まるでその人は
別人になったのでは
ないか、
というくらいの
これまで見たことのない
個性を出すこと
さえある。
しかし実は
それこそが
その人の本来の
個性の一端だ。
そして、
声。
声の質が
変わるのだ。
一言一言の
言葉達が
トツ、トツ、・・・
と胸に
響いて来る。
言葉を発する
というよりも、
清らかな音色が
まるで泉のように
湧き出ている、
という表現を
したくなる。
その声を
聴くと、
私は全身が
ゾワっとしたり、
胸がキュン
としたりする。
こういった
場面に出会うと、
人とは
神秘の存在だ。
と、
否が応でも
思ってしまう。
そして、
人の奥深さは
無限ではないか、
とも。
真本音状態の
突然の高まりは、
残念ながら
最初はわずかな時間で
終わるかもしれない。
しかし
一度でもそれを
体験すれば、
後のサポートは
実に楽だ。
一度も体験のない
状態と、
わずかでも一度は
体験した状態
では、
根底の何かが
変わるからだ。
その「何か」とは
あえて表現すれば、
「自信」
なのかもしれない。
自信、とはつまり
自分を信じる力。
たった一度でも
一気に真本音度合いを
高める体験をすれば、
「あぁ私は
自分を信じても
いいかもしれない」
と、
どこかで強く
納得するのだろう。
それがその人の
佇まいを
変える。
本人の自覚の
ないところで、
その人は
どこか毅然となる。
その毅然さが
また、
真本音度合いを
高めていく。
人間は
神秘だ。
と、
素直に実感
できる
今のこのお仕事に
私はやはり
深く感謝する。
つづく
人生の
選択肢の前で
迷ったら、
光を感じる方
に進もう。
「光を感じる」
と言っても、
その先の結果を
予測するわけでは
ない。
その選択肢の
向こうにある
「未来」に
ただ純粋に意識を
向けた時に、
光を感じるかどうか?
だ。
感覚のみで
判断する。
これをすると、
どう考えても
こっちの道は
茨の道だよなぁ、
厳しい道だよなぁ、
上手くいかないよなぁ、
と
考えてしまう道の方に
光を感じる
時がある。
普通に頭で
考えたら、
絶対選ばない道。
その方向に
光を感じてしまう
時がある。
そんな場合は、
理屈ではない。
勇気を持って
そちらに進むことを
私は
オススメする。
最もオススメ
できないのは、
その逆パターン。
頭で考えれば、
ここが一番無難だ、
と思えるのに、
なぜかその方向の
未来に
光を感じない、
・・・という道。
それを選択してしまうと、
ほぼ間違いなく
後悔することに
なるだろう。
光を感じるか
どうか?
は、
自らの真本音が
望んでいるかどうか?
と
イコールだ。
要するに
単純に言えば、
真本音の望む方向へ
進めーーーっ!!
ということだ。
進む前に
どれだけ怖くても、
どれだけ勇気が
必要でも、
そういった道は
進み始めれば、
途端に充実度が
違ってくる。
最初は少し
大変でも、
どんどん
面白くなってくる。
自分の人生を
進んでいる
実感も
生まれてくる。
上手くいくかどうか、
よりも
そういった
充実の道にこそ、
私達は生きがいを
感じられるものだ。
重要な選択で
あればあるほど、
自らの
感性を
信じよう。
頭で決める
のではなく、
心で
決めよう。
そして
決めたらもう、
100%の気持ちを
その道に
向けて進もう。
つづく
夢を持つことは
やっぱり
大事だなぁ。
でも、
とりあえずの夢
なら
持たない方がいい。
ちょっと
極端な言い方
だが。
とりあえずの夢
は、
とりあえずの人生
を
創り上げてしまう。
であれば、
本当の夢が
見つかるまでは、
「今この瞬間」
に集中すると
いい。
今この瞬間を
本当に
本当に
大事にするのだ。
本当に
本当に
大事にする、
とは
今この瞬間を
愛でる
ということだ。
愛でる、
とは
満喫すること
だと
私は思う。
今ここにいる
自分自身。
自分の魂。
自分の心。
自分の体。
さらには
自分以外の存在。
周りにある
すべてのもの。
周りにいる
すべての人。
自然、人工物、
目に見えるもの達。
そして、
目の届かない
ところにある
すべてのもの達にも。
それらに
意識を向け、
すべてを
あるがままに
感じる。
これが
満喫であり、
愛でることだと
私は思う。
もちろん、
そこには
自分の嫌いなものも
目を向けたく
ないものも
あるだろう。
でも、
その「嫌い」という
気持ちも含めて
すべてを
満喫してしまおう。
そんなつもりで
今この瞬間を
大切にして
みよう。
そんな一日を
過ごして
みよう。
今日
それができたら、
明日も
そうしてみよう。
一日一日、
そんな毎日を
積み重ねよう。
そうすれば、
自ずから
未来が観えてくる。
最初はそれは
漠然としたもの
かもしれない。
でも、
だんだんと
具体化してくる
だろう。
それが
本当の夢。
みんなそれは
必ず出会える。
ちゃんと
生きれば。
そして
本当の夢が
わかれば、
さらに
今日という一日を
愛でることが
できるだろう。
それによりさらに
夢は
具体化してゆく。
今と未来の
コラボが
始まり、
今と未来が
まっすぐに
つながる。
誰もが
それはできる。
誰もが
今この瞬間から
それを
始められる。
つづく
完了感が
出るということは、
次のステージ
への
スタートを
意味する。
完了感が
出るということは、
何かを一つ
手放さなければ
ならない。
それは
寂しいことなのだが、
でも
そこに留まれば、
どれだけの
不調和がその後に
発生するかを
私はこれまで
いやというほど
経験してきた。
一つを
終えたら、
一つを
手放す。
一つを
手放したら、
一つを
始める。
新たに始める
その一歩は
これまでより
ちょっと次元が
高まっている
はずだ。
それは
勇気を伴う
ことが多いが、
勇気さえ出せば、
新しく軽やかで
清々しい
風を受けながら、
調和の道を
進むことができる。
そういった
単純明快な
進み方のできる
仲間を
私は丁寧に
増やしていきたい。
そんな仲間達と
語り合い、
笑い合っていたい。
つづく
言葉の一つ一つは
とても冷たく、
人を否定すること
ばかり言い、
人の心など
関係ないよ、
という意味での
厳しさをいつも
前面に出している
のに、
なんか、
この人のこと
好きだなぁ、
と思える
人が
たまにいる。
マウンティング、
と言うのかな、
そんな圧も
感じるのだが、
その一方で、
とても居心地良さ
を
感じてしまうのだ。
別に私が
マゾなわけでは
ない。
(よく言われるが。)
その居心地良さ
とは、
あったかさ
と
表現することも
できる。
そういう人は、
こちらが目を
見つめると、
見つめ返して
くる。
睨み返す
のではない。
子どものような
目で
見つめ返して
くるのだ。
その瞬間、
つながった感
が
私の全身に
伝わってくる。
もちろん
その人が私と
同じように
感じているかどうか
は、わからない。
多分、
感じてないだろう。
しかし、
このつながり感は
ハンパない。
そうするともう
私の方は
その人に何を
言われようが、
あぁいいなぁ、
ずっとこの人と
こうやって
向き合ってたいなぁ、
と
思えてしまう。
(マゾではない。)
表面上の会話
では、
マウンティング
されたり、
きついことを
言われたとしても、
その言葉達を
じっと
見つめていると、
その中心に、
とてつもない
ヒントが
潜んでいたりする。
すると
そのヒントが
その人の開花や、
その人の所属する
組織の脱皮に
つながったり
する。
私が
好きになってしまう
そういった人は
恐らく、
真剣
なのだろう。
ただ、
その真剣さが、
ちょっと
(もしくは、だいぶ)
ひん曲がって
表出しているだけで、
本当は
その真剣さは、
とても明るく、
軽やかで
あたたかい。
私はその
本質の方を
感じ取れるように
なったので、
この仕事を
していて
よかったなぁ
と
しみじみ思う。
そして
その本質の方を
いつも見つめ、
そこに焦点を
合わせ、
その人を
サポートし続ける
ことで、
いつしかその人の
表面上のひん曲がりは、
修正されていく。
私自身は
修正しよう
などとは、実は
これっぽっちも
思っていない。
いや、
もしそう意図すれば
その途端に
何かが切れる。
私は
その人の本質を
感じ、
本質と
向き合い、
その瞬間感じたことを
そのまま
そこで
行なう。
そして
その人から
いただいたヒントを
宝物として、
次の
指針とする。
それだけだ。
人間はある意味、
多かれ
少なかれ
みんな
ひん曲がっている。
その
曲がった部分に
焦点を当てる
のではなく、
その奥の
中心に
焦点を当ててみよう。
すると
観える景色が、
印象が、
真逆になるかも
しれないよ。
つづく
たけうちさん、
これだけ私の話、
聴いてるんだから
もう
わかってるでしょ?
私が
自分を全然
信じていないってこと。
あれ?
何ですか、
自覚あったんですね〜。
またそうやって
軽く言う。
こんな話、
誰にもしませんよ。
そうですね。
ありがとうございます。
正直にお話し
くださって。
でも何で急に
そんなお話を?
なんかねぇ。
もう、嫌なんですよ。
こんな自分が。
あっそうなんですか。
「このままの自分でいい」
って
ずっと言われていたのに。
いや、
たけうちさんのせいに
するわけじゃないですけどね、
なんだかんだと
こうやって自分と
向かい合ってると、
やっぱやだなぁ、俺、
って
思いますよ、やっぱり。
ご自分を信じられない、
というのは、
ご自分の何を
信じられないんですか?
いやぁ、
何もかも、ですよ。
何もかも?
そう。
何もかも。
なんか自分なんか
いなくなればいい、
って
思うことが本当は
あるんですよ。
定期的にそんな波が
襲ってきます。
ひょっとして今が
まさに?
そうそう。
その時です。
何かありました?
いやいや、
何もないですよ。
その、何もないことが
嫌なんですよ。
以前は、
何もないままの人生
でいい、
って断言してたのに?
もちろん
そう思いますよ。
でも、一方で
それを嫌がっている
自分がいる。
自分が分裂しそうです。
わけがわからなくなる。
あぁ、それは
いい兆候ですね。
なに?
そうなの?
嫌だよ、こんなの。
気持ち悪いですしね。
気持ち悪いよ。
たけうちさん、
早く治してよ。
笑笑。
治しませんよ。
なんでよ〜。
クライアントが
困ってるんだぜ。
だって、
せっかく気持ち悪い
状態なんだから。
こんなチャンス
たまにしかないでしょ。
なにがチャンスだよ。
他人事だと思ってる
でしょ。
もちろん他人事ですよ。
当たり前じゃないですか。
福田さんは
あなたなんですから。
あなたに起こることは
あなた自身が
起こしてるんですから。
福田さんがご自分を
癒してあげないと。
えぇ〜、嫌だよ。
俺、自分が嫌いだもん。
自分を癒すなんて。
ご自分のどこが
嫌いなんですか?
全部だよ。
でも、その中で
特にどこが?
こういうところ。
へっ?
こういう
素直じゃないところ。
笑笑笑!
なんだ、それも
自覚してんだ。
笑わないでよ。
わかってるよ。
俺はこういう
斜に構えたところが
大嫌いで。
じゃあさ、福田さん。
10秒だけ、
素直になりませんか?
なにそれ?
10秒だけ、
私の目をじっと
見つめませんか?
えぇ〜?
気持ち悪いよ。
いいじゃないですか。
10秒だけ無言で、
まっすぐ私の目を
見つめてみてください。
催眠術?
いやいや、
そんな力、私にはないし。
人をまっすぐに
見つめると、
自分もまっすぐに
見つめられるんですよ。
まぁ、遊び感覚で。
わかったよ。
じゃあやるよ。
<10秒、見つめる>
どうですか?
そんなに悪い
もんじゃないな。
おぉ。
じゃあ大丈夫ですね。
なにが?
まぁまぁそれは
ともかくとして。
福田さん、ご自分の
何を一番、
信じたいですか?
夢、
ですかね。
何言ってんですか?
何言ってんですか、って
何言ってんの!
大真面目だよ。
だって、福田さん。
主体的に生きるのも
望みを持つのも
嫌だって
あれだけ言ってたじゃ
ないですか。
いや、だからさぁ、
そんな風に考える
自分が嫌なのよ。
そんな自分を
好きになれると思う?
思いませんよ。笑
だろっ!?
だから、そんな自分を
信じられるわけが
ないじゃないか。
って、
なんで私が福田さんから
説教されないと
いけないの。笑
じゃあ福田さん、
本当は夢があるんですね?
ないよ。
ないから困ってる。
自分を信じられないから
夢がないのか、
夢がないから、
自分を信じられないのか。
それが
よくわからんけど。
でも俺だって本当は
夢を持ちたいよ。
なんだ福田さん、
かなり健康的じゃないですか。
やっぱり。
そこまでご自分の気持ちを
素直に見つめられるなら、
もう大丈夫ですね。
今日のコーチング、
終わりにしましょう。
なんでだよ〜。
つづく
自分の器を
勝手に自分で
決めちゃってるなぁ。
惜しいなぁ。
等身大は
大事だけど、
今のあなたは
本当に
等身大?
私には
今のあなたが
窮屈にみえて
しょうがないのだけど・・・。
まるで
卵の殻のようなもので
自分を覆い、
でもその殻は
鋼鉄のように
固く、
でもあなた自身は、
ぐんぐん
大きくなって、
その殻の中には
収まりきれない
くらいになって、
本当は、
殻の大きさよりも
あなたの大きさの
方が
何倍にも大きく
成長したのに、
その小さな
殻の中に
強引に、
無理矢理に、
体を押し曲げ
ひん曲げて
丸くなって
自分を押し込んでいる。
それは
あまりに窮屈で、
苦しいよ〜、
苦しいよ〜、
ここから出たいよ〜、
誰か
ここから出してよ〜、
と、
あなたの魂は
ずっと叫んでる。
でも残念ながら
あなたの心は
それに気づかない。
今の殻が
本来の自分の大きさ
だと
頑なに思い込んで
いる。
なんで、
そんなに頑な
なの?
なんで、
わざわざそんな
苦しいことを
しているの?
多分、・・・
怖いのかな?
自分を
解放するのが。
本来の自分を
開放するのが。
本当は別に
何も怖いことは
ないんだけどね。
むしろ、
そんな殻を
取り払ってしまえば、
気分爽快、
いつも晴れやか、
自由自在、
になれるのにね。
でもやっぱり
怖いのかな。
殻があるのが
当然の人生
だったもんね。
殻こそが自分
である、
と信じて生きて
きたもんね。
自分を小さく
折り曲げて、
折り曲げて、
その
折り曲げ度合いを
高めることが
人の成長だと
信じて
きたもんね。
でも、
もうやめないか。
そういう
苦しさは。
その苦しさは
何の
生産性もない。
誰も
喜ばない。
あなたを待っている
人との
出会いも
なくなってしまうよ。
あなたには
あなたの
大切な人生が
あるのではないか。
あなた自身の
生まれた瞬間の
約束が
あるのではないか。
本来のあなた
として
生きることこそ、
あなたの
悦びであり、
あなたの
使命ではないか。
器の大小で
人の価値は
決定されない。
しかし、
等身大の自分を
受け入れるか
受け入れないか
で、
人生の価値は
大きく変わるんだよ。
それを
決定できるのは
あなたしか
いないんだよ。
つづく
上手くいくこと。
上手くいかないこと。
日々、
いろんなことが
あるが、
それらは
自分自身の
解釈に過ぎない。
上手くいかない
ことに恐怖し、
上手くいこうと
することに
執着し続けると、
本来、上手く
いくべきところで
上手くいかなく
なり、
本来、上手く
いってはならない
ところで
上手くいってしまう。
なんて
ことになる。
これを
不調和と言う。
本当は
すべてが調和
すれば、
上手くいくとか
上手くいかないとか
そんなこと
どっちでも
よくなる。
もちろん私達には
反応本音という
ものがあるから、
上手くいけば
喜ぶし、
上手くいかなれば
悲しくなる。
でも
そういった心の動き
もすべて
ひっくるめて、
あるがままが
いいなぁ、
と思えるように
なる。
そうなると
もう、
「人間であること」
そのものを
楽しめるように
なる。
人間であることを
楽しめるように
なると、
「人事を尽くす」
ことが
できるようになる。
「人事を尽くして
天命を待つ」
ことが
できるようになる。
人事に
集中できるように
なるからだ。
理想通りには
いかない。
でも、
「最善を尽くす」
ことはできる。
その、
「最善」を
どんどん高める
ことが
できるようになる。
つまり、
人事の範囲が
大きくなるのだ。
これも
人間の醍醐味
かもしれない。
上手くいけば
喜べばいいし、
上手くいかなければ
悲しめばいい。
そういった自分を
抑える必要は
まったくない。
「あるがまま」。
あるがままの
自分として、
人間を楽しめると
いいな、
と思う。
つづく
結果は
出さねば
ダメだ。
自分の
望む結果
は。
自分の望む
結果が
出ていない
ということは、
何かが
おかしい。
その
「おかしさ」が
どこにあるか?
を
しっかりと
探究すること。
これが
自律の第一歩
だ。
「結果がすべて」
という言葉が
あるが、
実は私は
結構好きな言葉だ。
なぜなら、
本当に結果を
大事にしている
人は、
間違いなく、
プロセスに
真剣だからだ。
「結果がすべて
なんて・・・。
プロセスこそが大事
ではないか」
と
言う人に限って、
結果も
プロセスも
両方ともが
中途半端だ。
・・・まぁ
一概に決めつけちゃ
いけないけどね。
でも
その傾向は
確かにある。
望む結果が
出ていないのに、
いつかは
出るはずだ。
とやっている
人は、
多くの場合、
人生から
逃げている。
「人生から
逃げる」
という意味は、
今、
自分が見つめるべき
現実を
あるがままに
見つめていない、
こと。
今、
自分が取り組むべき
課題に
真正面から
立ち向かっていない
こと。
今、
自分が向き合うべき
人と
向き合わずに
斜に構えている
こと。
そして、
今、
自分が出すべき結果
から目を逸らし、
その、
目を逸らしている
ことを
自らごまかし、
ごまかすために
他の何か別のことに
一生懸命になっている
こと。
しかし当然それは
一生懸命の
フリだ。
本当は自分が
それをよく
わかっている。
だからずっと
罪悪感が
消えない。
何かにいつも
ビクビクするように
なる。
これらを
ひっくるめると
「現実逃避」
ということに
なるし、
現実逃避している
人の多くは、
「自己満足」
に浸っている。
もちろんそれは
本当の
「自己の満足」
ではなく、
ごまかしの
ための満足。
「これでいい」
と自分に
言い聞かせる
ための満足だ。
じゃあ自分は
どうか?
現実逃避や
自己満足は
していないだろうか?
という疑問に
最もわかりやすく
答える方法は、
自分が望む結果
を、
自分が日々
出しているか?
を見ればいい。
もちろん、
すべて毎日が
上手くいくわけでは
ない。
試行錯誤こそが
大事とも
言える。
しかし
試行錯誤を
本当に大事に
できている人は、
やはり
結果を大事に
している。
「本当に
自分が望む
結果は何か?」
まずは
これすらも
明確にしていない
人が多い。
それでは
自律はできない。
まずは
そこに真剣に
なったら
どうだろうか。
つづく
心が揺れ揺れに
なることは、
人として
当然だろう。
心が揺れる
ことを
恐れる必要は
ない。
人間とは
そのようにできている
存在だから。
調子が悪い
心を、
なんとか
調子良くしようと
みんな
思い過ぎだ。
「あるがまま」
で
いいではないか。
それが
人間だから。
そういった
おおらかな目で
いつも自分と
向き合えば、
それだけで、
揺れ揺れだけど
安定している
という状態に
入れる。
心の揺れとは別の場所に
確かに、
常に安定した
土台を
感じることができる。
その土台が
あるからこそ、
私達人間は
安心して
揺れることができるのだ、
と
わかる。
揺れは
ダメ。
調子悪いのを
何とかしなきゃ。
・・・という
自分に対する
厳しさが、
本当はいつも安定している
はずの
土台の存在を
忘れさせる。
しかし本当は
それは
「厳しさ」とは
言わない。
それはただの
「自己否定」
だ。
否定と厳しさ
は
別物だ。
本当の厳しさ
とは
やさしさであり、
本当のやさしさ
とは
厳しさである。
・・・・・・
そしてその
土台となるもの。
これこそが
私達の真本音。
魂の意志であり、
願いである。
それは
言葉として
明確でなくても
いい。
しかしそれは
誰もの心の
根底に、
土台として
確かに存在する。
その存在を
感じたり
思い出すことで、
私達はいつも
安心して
揺れていられる。
人生とは
揺れ
である。
揺れながら
進むことが
人生の意味であり
意義である。
揺れないのなら、
人生を生きていない
のと
同じだ。
極端に言えば。
だから、
どんどん
揺れることに
挑戦してほしい。
開拓
してほしい。
自分自身を、
そして
人生を。
そうすれば
するほど、
私達は確かに
土台と身近になる。
土台を
思い出す。
本来の自分を
思い出せるのだ。
つづく
どうせ進むなら、
自分らしく
進んでほしい。
どうせ挑戦するなら、
自分らしく
挑戦してほしい。
良い結果を
望むのは
当然のこと。
わざと失敗する
必要はないが、
上手く手際よく
ぶつからずに
進もうとは
しないでほしい。
長い目で見れば、
どれだけ
ぶつかったか?
どれだけ
転んだか?
どれだけ
痛い思いをしたか?
によって
本物かどうかが
決まってくる。
もちろん
経験すればよい
というものでも
ない。
未経験者は
経験者には
勝てない、
などと
古いことを言うつもりも
ない。
だが、
君の真本音が
望んでいる経験が
ある。
それがあることで、
超加速できるんだ。
真本音が望む
経験は
存分にしよう。
恐れてもいい。
間違ってもいい。
挫けてもいい。
でも、
自分が真に
自分自身に必要だと
思っている経験は
存分にしよう。
未熟だからこそ、
できる経験があり、
未熟だからこそ、
得られることがあり、
未熟だからこそ、
開拓できるものが
ある。
そう。
人生は
開拓だ。
年を重ねても
開拓し続けることに
変わりはない。
であれば、
全力で開拓する
という経験を、
その気持ちの
良さを、
今のうちに
知った方がいい。
人生は
開拓だ。
どのレベルに
いるか?
ではない。
どれだけ
開拓できたか?
だ。
それにより
人生の満足度は
決まってくる。
だから、
行け。
私も、
行く。
共に
進もう。
つづく
目を閉じて
静かにしている。
何もせずに
いる。
すると
自分の心の中が
ありありと
観えてくる。
心の一つ一つを
丁寧に
横に置いていく。
すると
心の中には
何もなくなった。
しかし実は
そうではない。
何もなくなった
ように見えて、
本当は
「すべてがある」
状態となる。
光と同じで、
「すべてがある」
と、
それは
無色透明となる。
実は心とは
焦点化に
過ぎない。
焦点を当てた
ところが
強調されて、
他から分離
される。
分離されたものを
自分の心だ
と、
私達は
認識しているに
過ぎない。
本当は
最初から、
すべてここにある
のだ。
まぁそれは
ともかくとして、
一つ一つの
分離されたものを
横に置き終えると、
心は
無色透明に
なり、
すると、
世界のざわめき
が
聴こえてくる。
森羅万象の
ざわめき
と
言えばよいだろうか。
私はいつも
このざわめきを
聴きながら、
世の中全体の
把握を
している。
自分の仕事の
影響力と
自分の仕事の
未熟さと
自分の仕事の
成長ぶりを
把握している。
そして、
明日からのテーマ
を
明らかにする。
世界のざわめき
は、
数年前に比べれば
随分と
静かになった。
それはそれで
良いことだが、
静かになるが故に
聴こえてくる
雑音もある。
それらを
聴きながら、
一つのテーマが
明確になった。
それをあえて
言葉で表現すれば、
『助けない』
となる。
もう、
助けるのは
やめよう。
明日から。
随分と
助けちゃった
かな。
助け過ぎちゃった
かな。
もうちょいと
あらゆることに
厳しく
関わることに
しよう。
つづく