依存

小さくても本質的に

 

自力で進もう

とする意思を

失ってはならない。

 

もちろん

私達人間は、

人との関わりの中で

生きている。

 

お互いが

助け合いながら

力を合わせながら

進むところに

人間としての

意義と価値がある。

 

しかし

本当の意味で

それを成すには、

 

その大前提として、

 

自分の人生は

自分のものだ。

 

自分の人生を

自力で進もう。

 

という

基本的なあり方が

必要だ。

 

これを持っている

人だからこそ、

 

逆に、

 

助け合いも

協力も

コラボも

相乗効果も

生まれる。

 

これを持っていない

人は

単なる依存しか

生まない。

 

もっと激しい表現を

使えば、

 

寄生

 

しか生まない。

 

人に、

人の人生に、

寄生して

血をチュウチュウ吸いながら

生きる、

という「寄生」だ。

 

・・・・・・

 

逆に、

「寄生される」

のを

好む人もいる。

 

これ自体も実は

「寄生」の一種だ。

 

あまり

決めつけてはならないが、

 

でもあえて

短絡的に決めつけ風に

言えば、

 

「自分は立派な

人間だ」

 

と言っている人ほど、

「寄生される」

ことによって

人に寄生する生き方

を無意識に創り出している

傾向は高い。

 

実は何を隠そう

昔の私自身が

そんな風だったので

よくわかる。

 

最近、なぜか

その時代の自分の

振る舞いが

フラッシュバックすることが

増えている。

 

フラッシュバックしながら

いつの間にか

独り言で

「ごめんなさい」

と呟いている。

 

もう二度と

ああいうことはしないで

おこう

気をつけているが、

 

でもなぜ

最近、そんなことを

思い出すのだろう?

と、少し不思議に

思っていたら、

 

最近、

「寄生の空気感」を

そこかしこに

感じるからだ、と

思い至った。

 

嬉しいことに、

私のクライアントさんは

今、

人生を最速で進んでいる

人が多い。

 

皆、基本的には

「まずは自力で」

とがんばっている。

 

がんばりながらも

様々な人と出会い、

協力し合って進んでいる

のだが、

 

そこに私は

寄生の空気感を

どうやら

感じているようだ。

 

最速で進む人に

寄生しようとする人が

群がってきている

空気感だ。

 

それは世の常

とは言いながらも、

やはり、特にこれからは

注意しなければ

ならない。

 

コラボという名の

寄生に

ならないように。

 

・・・・・・

 

スモールスタート、

ビッグウェーブ。

 

最近、私が

心掛けている言葉

だ。

 

始めは小さく。

 

そして、

自然に大きくなっていく

波を創り出す。

 

自走する波を

生み出すには、

始めは小さく、

着実に、

が良いのではないか。

 

着実、とは

「本質を大事に」

という意味だ。

 

形ばかりの

華やかさや、

形ばかりの

ビッグウェーブは、

後で必ず

寄生を生む。

 

足の引っ張り合い

になる。

 

ちゃんと

本質を一つずつ

形にしていく。

 

根幹を

しっかりと

創り出し、

 

自然の摂理に

従った広げ方を

したい。

 

そう

思っている。

 

つづく

 

まだ仲間になってはならない

 

仲間というのは

いいなぁ、

と思う。

 

本当に

いいなぁ、と

思うが故に、

 

私は

こうも思うのだ。

 

一人ひとりが

まだ

自律できて

いないうちは、

 

仲間になっては

ならない、

 

と。

 

どれだけ

相性の良い人同士

でも、

自律する前に

仲間となってしまえば、

 

必ず、

 

依存が生まれる。

 

お互いが

寄りかからなければ

いられない

グループとなる。

 

「この仲間が

いるからこそ

私はがんばれる」

 

という状態。

 

じゃあ、

仲間がいなければ

どうなるの?

 

ということだ。

 

もちろん、

 

人というのは

依存し合う存在

だ。

 

依存し合わねば

存続できないように

できている。

 

だからこそ

良い依存関係が

大事であり、

 

私はそれを

依存ではなく

 

「調和」

 

と呼んでいる。

 

調和とは、

一人ひとりが

ちゃんと

大地に立っている

状態だ。

 

一人でしっかりと

歩くことができる

人同士が、

 

さらに

相乗効果で力を

発揮し合い、

 

共に進化し合う

 

状態だ。

 

そこからは

常に

新たな何かが

生まれるし、

 

ある意味、

 

すべての人が

「リーダー」

であり

「コーチ」

である。

 

すべての人が

「主役」

であり

「サポート役」

である。

 

その状態に

なるためには、

 

まずは

一人ひとりの

自律が

必須だ。

 

・・・・・・

 

これからの

時代。

 

誰かが

誰かを

支えるような

仲間は

もう要らない。

 

ぐらいに

私は

思っている。

 

ちょっと

極端かも

しれないが。

 

でも、

真本音のレベルでは

もう誰も

そういった仲間を

望んでいない。

 

特に

若い人達からは

それを

ひしひしと

感じる。

 

馴れ合いは

いやなのだ。

 

本当の

仲間。

 

共に

道を創る

仲間。

 

私自身も

そういった仲間を

慎重に

丁寧に

一人ずつ増やして

行こう。

 

私は、

仲間の在り方

こそが

 

ダイレクトに

世の中の在り方

インパクトを与える

のだと

思っている。

 

つづく

 

明日は来るのか?

 

「明日」という

一日が

当然のようにやってくる

と私達は

思っているが、

 

本当にそうだろうか?

と私は

よく思う。

 

今日までと

同じ明日が来る

という

保証はない。

 

しかし、

まるでその保証が

あるかのように

私達は思い込む。

 

それだけ

平和なのだと

言えばそうであるが、

 

悪い言い方を

すれば

「惰性で生きる」

状態に

私達は入りやすい。

 

しかし本当に

その「惰性」を

私達は

望んでいるのだろうか?

 

もちろん人間は

これまでと同じ日々が

続くことで

安心する。

 

コンフォートゾーン

という言葉もあるが、

一度、安心安定を

感じてしまうと、

そこから抜け出ることは

なかなかに

難しい。

 

ただしそれは

心で言えば、

表面的なものだと

私はいつも

感じる。

 

「惰性」が生み出す

不安定さに

どれだけの人が

気づいているの

だろうか?

 

私達は

「惰性」、つまりは

何も考えずに

慣性の法則のように

進むことで、

本当は

不安を蓄積させる。

 

例えば幸せな

日々が続いたとして、

この幸せは

本当にずっと

続くのだろうか?

どこかで不安に

おののく。

 

そして

いつの間にか

「この日々を

ずっと守りたい」

と思うようになる。

 

それ自体は

大切なものだが、

しかしその気持ちは

多くの場合、

「今の日々」

「今の毎日」

への

執着になってしまう。

 

その「執着」に対して

私達の心は

とてつもなく

不安定になるのだ。

 

「執着」とは

依存。

 

「依存」とは

何かに寄りかからないと

生きていけない状態

だ。

 

それはつまり、

「私は自力では

立てない」

ということ。

 

もちろん人は

皆で助け合いながら

生きるものだが、

 

「自力で立てる」

という基盤の上での

助け合いと、

「寄りかからないと

生きていけない」

という状態での

助け合いは、

 

本質的には

まったくの別物だ。

 

私達の真本音は

そういった

「依存」や「執着」を

まったく

望んでいない。

 

本当には望んで

いないことを

やり続けることで、

私達の中には

「そんな自分で

良いのか!」

という、

罪悪感、つまりは

自分を責める気持ちも

発生する。

 

これがまた、

不安や不安定さを

生み出す。

 

「明日も今日と

同じ一日が来る」

 

というのは

もちろん

思い込みだ。

 

私達は明日、

人生を終えるかも

しれない。

 

あらゆる状況が

一変するかも

しれない。

 

別に脅すつもりは

ないし、

悲観的になれ、

ということでも

ない。

 

ただ言いたいのは、

 

私達はもっと

自分の「毎日」を

愛した方が

よいのではないか。

 

ということだ。

 

自分の「時間」を

 

自分の「人生」を

 

自分の「命」を

 

もっと

愛した方が

よいのではないか。

 

私達は

本当に自分の

愛する人には

常に自分の

意識を注ぐ。

 

それと同じように、

自分の時間、

人生、命、

そして、

今日という一日、

明日という一日、

 

もっと意識を

注いだ方が

よいのではないか。

 

人のサポートを

させていただく

中で、

 

そして

企業サポートの

現場で、

 

いつも私は

そう思う。

 

もっと

自分を生きよう。

 

それは、

時間を愛する

ところから

始まる。

 

つづく

 

子どもだって自律する

 

『子が育ちますように』

 

という祈りは、

すべての人の

本能の中心に

脈々と

流れ続けるものだ。

 

私は思う。

 

子は

親のその祈りを

受け、

自らを成長・進化

させようとする。

 

この祈りと想いが

すべての

原動力になっているように

私には

思えてならない。

 

もちろんこの祈りは、

実際の親子

だけに当てはまる

ものではない。

 

例えば、

私のクライアント企業様の

ある社長から感じる

社員さん達への想いは

これとまったく

同質のものだ。

 

・・・・・・

 

私は、5歳の息子と

できるだけ

向き合うようにしている。

 

彼と共に時間を過ごし、

彼との会話を続けていると、

時々、

彼の真本音からの

メッセージが届く。

 

その多くは、

 

「今は私を

自由にさせないでください。

ここでしっかり

私に何が大切かを

何をしてはならないかを

教え込んでください」

 

というものだ。

 

このメッセージを

受け取った時、

私はできるだけ

その通りに

応えることにしている。

 

これはダメ。

 

こうしなさい。

 

やめなさい。

 

こんな言葉が

多く飛び交う。

 

今の息子のテーマは、

 

「一つを決めて

一つをする」

 

である。

 

彼は本当に

発想力と行動力が

豊かで、

しかも様々なことに

興味関心が向く。

 

一つのことを

始めても、

すぐに別のことに

目移りしてしまう。

 

一つを

やりっぱなしで、

次のことに

向かってしまう。

 

そんな時に、

「きちんと今、決めたことを

最後までやりなさい」

と叱る。

 

「心を

落ち着かせなさい」

 

「人を大切にして

自分が今、

どう動けばよいかを

相手の気持ちになって

決めなさい」

 

という言葉も

毎日のように

かけている。

 

恐らく、

こういった話を聴けば、

「それは5歳の子に

すべき教育ではない」

という反対意見が

出るかもしれない。

 

5歳であれば

「もっと伸び伸びと

させてあげた方がいい」

と。

 

しかし私の息子は

徹底的に

伸び伸びと自由だ。

 

なぜなら彼は

真本音度合い100%で

生きているから。

 

彼はすでに

人生のあらゆることに

向き合い、

自らの意思と意図で

動いている。

 

つまりは

私の言葉で言えば、

自律している。

 

もちろん幼いが故に

できないことは

大人よりも圧倒的に

多い。

 

知らないことも

多い。

 

しかし、

そういった未経験が

故の行動範囲と、

自律できているかどうか、

はまったくの別次元の

話だ。

 

彼はもちろん

子どもだからこそ、

親に依存している。

 

親がいなければ

生活もできない。

 

しかし、

実は、依存と自律は

対義語ではない。

 

彼は

自らの意思と意図で

依存している。

 

つまり、

自律した心で

依存している。

 

そんな彼だからこそ、

きちんと

教えるべきことを

教えなければならない。

 

・・・・・・

 

なんて

偉そうなことを書いたが、

その彼への教育を

しているのは

ほとんどが私の妻

である。

 

妻と息子との

コミュニケーションを

見ながら、

私は多くを学んだ。

 

「子が育ちますように」

 

という祈りを

実行するとは

こういったことか、

と。

 

そして私はそれを

様々な企業様での

人の育成と

組織活性化の

参考としている。

 

親の子に対する

育成の仕方こそに、

すべての育成の

原点がある。

 

と、今の私は

思うようになった。

 

・・・・・・

 

まずは

真本音度合いを

高めること。

 

その上で、

しっかりと

指導すること。

 

これこそが

本質であると

今の私は思っている。

 

そして

これができるコーチを

増やしたいと

思っている。

 

つづく

 

本当にサポートしていいの?

 

その人の

にこやかなお顔の

奥から

 

「助けてください!」

 

の声を

私は聴いた。

 

最近は、

毎日だ。

 

会う人会う人

皆が

助けを求めている。

 

特に

初対面の人に

多い。

 

そして、

企業でも

組織の上層にいる

人ほど多い。

 

皆、

苦しみ悩んで

いる。

 

しかもそれは、

自分だけで

生み出したもの

ではなく、

 

組織のいろんな人達の

苦しみを

一身に受け止めている

苦しみだ。

 

そういった人達からの

SOSを感じると、

まず私がするのは、

 

あなたは

自力でここを

乗り越えたいですか?

それとも

私のサポートが

必要ですか?

 

という

判断だ。

 

もちろん、

そのような問いを

実際に投げたところで

ご本人が正確に

答えられることでは

ない。

 

それよりも

あるがままに

向き合うことで、

自然に

明確に

その判断は自ずと

ついてくる。

 

あぁこの人は

自力突破したいのだな、

とわかれば、

私は

何もしない。

 

頼まれても

何もしない。

 

そこで何かを

してしまうことは、

その人のことを

冒涜しているに等しいと

私は思っている。

 

・・・・・・

 

他者が

絶対にやっては

ならないことが

ある。

 

それは、

その人が

自力で進もうと

しているのを

阻害することだ。

 

しかし

それをしてしまう人が

多いのも事実だ。

 

自力で進むのを

阻害することで

発生するのが

「依存」だ。

 

「ここまで来れたのは

すべてあなたの

おかげです。

ですからこれからも

よろしくお願いします」

 

と、

もしクライアントさんに

私が言われたら、

私は自分の仕事が

二流だったなと

思う。

 

「コーチのおかげで

できました」

 

と言われた時点で

コーチとしては

失格だと

私は思っている。

それよりも、

 

「たけうちさんはもう

必要ないね」

 

と言われる瞬間が

私にとっては

無上の悦びだ。

 

おぉオレ、

いい仕事できたな、

自分で自分を

褒めたくなる。

 

・・・・・・

 

今の私には

あなたのサポートが

必要です。

しかしそれは

今、だけのこと。

私は自力で進む自分に

なるために

一時的に

あなたのサポートを

求めます。

 

・・・そんな真本音の

意志を感じる場合のみ、

私はその人の

サポートの決断を

する。

 

人は皆、

自立と自律を

望んでいる。

 

そこに向かう

サポートならば

徹底的に

したいと思う。

 

本当に

この人を

サポートして

良いかどうか?

 

サポートするならば、

どれだけの

距離感で、

どれだけの

サポートをすることが

本当に必要か?

 

いつ、

サポートを終え、

その人から

離れれば良いか?

 

こんな判断が

的確にできる

コーチを

私は増やしたい。

 

つづく

 

自分の足で立っているかい?

 

広い広い大地の上に

ポツンと一人で

立っている自分を

イメージしてください。

 

大地は、

前にも後ろにも

右にも左にも

延々と果てしなく

続いています。

 

遮るものは

何もありません。

 

あなたの他には

誰もいません。

 

あなたは

一人です。

 

たった一人で

立っています。

 

そして、

風を感じています。

 

しばらく、

できれば3分くらい、

その状態を

味わってみてください。

 

・・・・・・

 

3分ほどイメージすることで、

あなたは

どんな気分になりましたか?

 

楽しい気分ですか?

 

寂しいですか?

 

孤独を感じましたか?

 

不安がありましたか?

 

それとも、

満たされた感覚でしたか?

 

大地に

立っている感覚は、

時間と共に

より強くなりましたか?

 

時間と共に

安定度は増して

いきましたか?

 

それとも、

時間が経つと、

大地が崩れたり、

足元が揺らいだり、

大地の存在が

なくなってしまったり

しましたか?

 

要するに

あなたにとって

その「世界」は

居心地の良いものでしたか?

 

あなたにとって

その「世界」は

地に足が生えたような

安定感がありましたか?

 

あなたにtとって

その「世界」は

充実した素敵なもの

でしたか?

 

・・・・・・

 

その「世界」が

自分にとって

「いいなぁ」と思えるもので

あったり、

安定度の増すもので

あったならば、

 

今のあなたの毎日は

しっかりと自分の足で

立ち、

自分の意志と意思で

前に進むもので

あるはずです。

 

これを、

「自立」であり

「自律」であると

私は表現します。

 

一見孤独に見える

その「世界」も

実は、自分自身の選んだ

「世界」であり、

自分自身の望んだ

「世界」であると

自然に思えるからです。

 

もしかすると

人によっては、

その「世界」が

自分そのものに同化した

かもしれませんね。

 

もしそうであれば、

その人はかなり

次元の高い毎日を

送っています。

 

しかしもし反対に、

その「世界」に

強い孤独を感じたり、

不安定さや

逃げ出したくなる気持ちに

なった場合は、

 

残念ながら

あなたは「自立」「自律」とは

言えない日々を

送っているのだと思います。

 

何かに依存したり、

自分以外の誰かから

何かを与えてもらって

初めて、

自分で動くという

受け身の生き方や、

他の何者かに人生の

ハンドルを預けてしまって

いる可能性があります。

 

・・・・・・

 

私達人間に

依存はつきものです。

 

というか、

私達は必ず何かに

依存しながら生きています。

 

しかし本当の依存とは、

自分が「自立」「自律」

できた状態で、

行なうものです。

 

自立している人、

自律している人は、

自分の役割を

よくわかっています。

 

わからないまでも

わかろうとし続けます。

 

その結果、

自分が何に依存すれば

良いか?が

よくわかります。

 

それによって

生じる「依存」は

調和と相乗効果を

生み出します。

 

・・・・・・

 

経済的な自立は

別として、

 

精神的な自立も自律も

特別なことでは

ありません。

 

例えば、

4歳や5歳の子供でも

自立・自律してるなぁ

と感じることがあります。

 

経験を積まなければ

自立・自律できない

というものでは

ありません。

 

私達の真本音は

当然ですが、

自立・自律した自分の

生き方(行き方)を

望んでいます。

 

自立・自律している人は

あらゆる「世界」が

味方につくのです。

 

つづく

 

本当に問題は自分だけ?

 

よく、

 

人のせいにしては

ダメだ。

 

環境のせいにしては

ダメだ。

 

と言われます。

 

その通りです。

 

自分以外の何かの

せいにして、

自分の次の振る舞いや

自分の次の選択を

決めている人は

どこに行っても、

どの環境に入っても、

自分以外の何かの

せいにする人生を

続けるでしょう。

 

それは

「依存」の人生

です。

 

自立した人。

 

自律した人。

 

人生の覚悟を

もっている人は、

 

もちろんそういったことは

しません。

 

・・・ということを

重々に承知した上で、

今日はあえて

申したいのです。

 

「もっと

人のせいにしたら

どうですか?」

 

「もっと

環境のせいにしたら

どうですか?」

 

と。

 

・・・・・・

 

もちろん、

すべての人に

そうお伝えするつもりは

毛頭ありません。

 

私がお伝えしたいのは、

 

自分のケツは

自分で拭く、

 

という覚悟を持った

人に対してです。

 

私のクライアントさんは

そういった方々が多く、

とても

気持ちの良い皆さん

ばかりです。

 

そういった人は

人生やお仕事で起こる

あらゆる「現実」に対して、

 

自分自身の責任である

 

と捉えます。

 

もちろんそれは

とても潔いことなのですが、

でも、時々ですが、

 

自分のせいにし過ぎる

 

人もいるのです。

 

すると今度は逆に

物事の本質が

観えなくなってしまうことが

あります。

 

私はよく

組織のサポートをする時に、

その組織に何らかの問題が

起きている場合、

 

「誰のせいか?」

 

を明確にします。

 

もちろんその人のことを

責めるためでは

ありません。

 

原因の本質を

あるがままに見極める

ためです。

 

誰がいけないのか?

何がいけないのか?

 

その事実を

そのままに見つめることこそ

物事の展開を大きく変える

起点となります。

 

・・・・・・

 

このような問題が

このように起きたのは、

 

まずは、

私のここがまずかった。

 

私のここが原因だった。

 

と同時に、

あの人のそこも

まずかった。

 

あの人のあそこが

原因だった。

 

・・・というように、

自分とか他人とか環境とか

そういった垣根を

取り払った

ニュートラルな視点から

すべてを俯瞰することが

実に大切です。

 

それができた時点で、

私達は

次元を一つ上がって

います。

 

誰が悪いんだ?

俺のせいか?

お前のせいか?

 

ではなく、

 

すべてを全部俯瞰して、

どこにどのような

問題があったのか?

 

をそのまま受け止める

ということですね。

 

これができる人は

自分にも他人にも

厳しくなりますが、

 

しかし、

自分にも他人にも

本当の意味で

やさしくなれますね。

 

・・・・・・

 

もともと私達の

高い次元の意識では、

 

すべてが一つ

 

です。

 

それはつまり、

 

私はあなたであり、

あなたは私

 

なのです。

 

この本質を思い出せば、

「自分がすべて悪い」

ということは、

あり得なくなります。

 

なぜなら、

物事はすべて

人と人の関わりと

影響のし合いで

成り立っているからです。

 

それが

この世の中です。

 

・・・・・・

 

世の中は

私である。

 

私は

世の中である。

 

すべては

私である。

 

私は

すべてである。

 

低い次元で

このように捉えると

それはただの

傲慢ですが、

 

高い次元では

これが本質であり、

普通であり

当たり前のことなのです。

 

ですから、

人生の覚悟を持った人、

自立・自律している人にこそ

私は問うのです。

 

「誰が問題ですか?」

 

「誰のせいですか?」

 

と。

 

つづく

 

 

<ご案内>

おかげさまで、

当初私が予想していたよりも

ずっと多くの皆様に

電子書籍と動画を

ご覧いただいたようです。

 

ありがとうございます。

 

まだお申込みが

続いているようですので、

配信期間をもう少し

延長しようかと思います。

 

良いセルフコーチングは、

自分の中にすでに

存在している

高い次元の意識を

思い出すきっかけとも

なります。

 

もちろん、

高い次元が良くて

低い次元が悪くて、

という単純なものではなく、

 

私達人間は

高い次元から低い次元まで

あらゆる次元の意識を

内包し、

コラボしているからこそ

素晴らしい存在なのだと

私は思います。

 

ですからこそ逆に、

多くの皆様に

高い次元の自分自身と

もっともっと出会って

ほしいな、と思うのです。

 

私達の心の中は

宇宙と同じように

広くて深いです。

 

心の宇宙の探検を

楽しくしていただくことは、

人生の冒険を楽しむ上では

必須です。

 

自分としっかり

向き合える人こそが、

現実とも

しっかり向き合え、

人生と

あるがままに向き合えます。

 

そんなきっかけになると

いいな、と思い、

配信させていただいています。

 

ご興味ありましたら、

ぜひどうぞ。

↓↓↓

『人生を真剣に変えたいあなたへ』

 

きちんと迷う人生にしよう

「迷う」ことが

いけないことであると

思わないでください。

 

私達の人生に

必須なものが

「迷い」です。

 

迷うべきときに

迷うべきものに

きちんと迷う

ことが

健全な生き方です。

 

真本音度合いが

高まったり、

意識の次元が

上がるということは、

迷いがなくなる

ということではなく、

迷いの質が向上する

ということです。

 

質の高い迷いとは、

迷うことそのものによって

エネルギーが高まり、

幸せ感が高まり、

自由を得られるものです。

 

質の高い迷いは、

答えが見えなくとも、

きちんと迷うだけで

私達は充足感を

得ます。

 

そして、

最も必要なタイミングで

「答え」が自然に

浮上し、

それにより

一つの殻を破り、

さらなる自由へと

自分を開放できます。

 

「迷いが出た」

 

「やった!私はまた

自分を開放できる」

 

というように、

「迷い」=「開放の瞬間」

とも言えるように

なります。

 

「良い迷いには

開放がセットでついてくる」

 

これが、

「迷い」の本質です。

 

・・・・・・

 

ただし。

 

すべての「迷い」が

良いわけではありません。

 

「良くない迷い」も

あります。

 

「良い」とか

「良くない」という表現は

あまりに短絡的ですが、

ここはあえて

わかりやすくこの表現で

進めます。

 

「良くない迷い」とは

一言で言えば、

 

「迷っているフリを

している迷い」

 

です。

 

本当は、

こんなことで迷う必要は

ないし、

本当は、

こんなことに本気で

迷っているわけでは

ないのに、

「私は迷っている〜!

私は苦しんでいる〜!

私はもがいている〜!」

とやり続けています。

 

なんでそんなことを

するのか。

 

その理由は

単純です。

 

現実と向き合いたく

ないからです。

 

今、本当に

自分が向き合わなければ

ならない「現実」から

逃げているのです。

 

逃げるための口実として

「迷っている自分を

演じている」

のです。

 

ただし、

本人の顕在意識は

本当にそこで迷っている

つもりになっています。

そして、

「迷うから進めない〜!」

という心の声が出ます。

 

実はこれが

「良くない迷い」の

特徴です。

もし、

「迷うから進めない〜!」

という心の声が出たら、

それは恐らく

「良くない迷い」

です。

 

その心の声は

進まない口実のために

生まれたものです。

 

本当に人生を

真剣に生きている人は

迷っていても

進もうとします。

 

迷いを

停滞の

理由には

しません、

決して。

 

「この迷いが取れてから

先に進もう」

というのは、

現実逃避の典型的な

パターン。

 

先ほども書きましたとおり、

本来の「迷い」とは

人生を加速させてくれる

ものです。

 

「迷い」があるからこそ、

先に進めるのです。

 

・・・・・・

 

反対に。

 

「迷い」そのものに

フタをしている人も

います。

 

「私はまったく

迷っていません」

と、

その人は言います。

 

言うだけでなく、

本人も本当に

そう思っています。

顕在意識では。

 

しかし、本当は

とても重要な「迷い」が

その人の中には

あります。

 

その「迷い」に向き合うことで

次のステージに

進めるのに、

それをしようと

していません。

 

これも、

典型的な

「現実逃避」です。

 

「迷い」にフタをし、

「私は迷っていない」

と自分を思い込ませ、

 

「だから

このままの私でいい」

 

と、

自分に言い聞かせ

続けています。

自分自身が。

 

そういった人ほど、

「私の人生は

充実しています」

とか

「私は毎日が

楽しいです」

など、

多くの前向きな言葉や

笑顔を見せるのですが、

残念ながら、

その人達には

足元がありません。

 

とても

フワフワした

空気感ばかりが

漂います。

 

地に足が

ついていないのです。

 

・・・・・・

 

なんか、

また今回もちょっと

キツイ言い回しに

なっていますが、

なんでこういったことが

わかるかと言うと、

以上に書かせていただいた

ことは、すべて

私の体験談でもあります。

 

昔の私のことを

私はついつい悪く

言ってしまうのですが、

昔を否定しているのではなく、

ただ、事実を

そのままお伝えしています。

 

私は、

「現実逃避のプロ」

でした。

今から

振り返りますとね。

 

ありとあらゆる

現実逃避の方法を

駆使して

生きていました。

 

ですから、

よくわかります。

 

「現実逃避」が

いかに

自分を閉ざしていくか。

いかに

自分を苦しめ続けるか。

 

・・・ということを。

 

そして、

昔の私ほど

ひどくはありませんが、

やはり多くの人達が

多かれ少なかれ

現実逃避のパターンを

繰り返しています。

 

開き直り、

そこから抜け出れば

本当に

楽になるのですが、

どうしても

「執着」

してしまうのですね。

 

何に「執着」するか

と言うと、

 

「自分以外の何か、誰か」

 

にです。

 

執着とは、言葉を換えれば

「依存」

とも言えます。

 

現実と向き合い、

迷いと向き合い、

次のステージに

進むということは、

そういった

「執着している対象」

「依存している対象」

を手放すことに

なります。

結果として。

 

そのことを私達は本当は

よ〜く理解していますので、

その執着・依存を

取り去りたくないのです。

 

もしくは、

執着・依存を手放すことに

恐怖を感じるのです。

 

・・・・・・

 

自分は今、

何に執着しているか?

 

の答えを

執着している今の自分が

見つけ出すことは

至難の業です。

 

それよりも

私達にとって大事なのは、

 

自分は今、

何に迷っているか?

 

を特定することです。

 

本当の「迷い」を

自ら見つけ出すことです。

 

この力がつけば、

人生は

本当に本当に

楽になります。

 

迷いを見つけ出す。

 

本当の迷いを。

 

これも

セルフコーチングの

基本です。

 

つづく

 

大事なものほど手放してみよう

「自由」と「手放す」

というのは、

ある意味、

同義語かもしれません。

 

もちろん

イコールではありません。

 

しかし、

本当に自由な人には

執着がありません。

 

手放すべきものを

手放すべきタイミングで

すぐに手放すことが

できます。

 

逆に、

そういう人は、

何を手放してはならないか?

について

とても冷静です。

 

手放すべきものと

手放してはならないものを

常に落ち着いて判断し、

その通りに実行することが

できます。

 

そういう人は概して、

とてもあたたかい雰囲気を

持っています。

 

そして、いい意味で

無邪気です。

 

一緒にいて、

癒されます。

 

なぜそうなれるか?と

言いますと、

そういった人は

実在レベルでは

すべてに満たされている

からです。

 

実在レベルでは

すべては一つである

という感覚が

大きいのです。

 

現象レベルで

何かを手放しても、

それはただ距離を離すという

だけのことで、

実在レベルでは

一つであるし、もしくは

共に在るのです。

ということを

感覚としてよくわかって

いるのです。

 

むしろ、

距離を調整することこそが

実在レベルでのあらゆるものの

存在感を

より高め合うことができる

ということも

よくわかっています。

 

「もうあなたと会うことは

やめにします」

「もうあなたと一緒に

仕事をすることはやめます」

「もう離れて暮らしましょう」

 

・・・というようなことを

言いながらも、

それをすることで

お互いのつながりや存在や

そして愛が

さらに深くなることを

知っているのです。

 

・・・・・・

 

私達が手放せるものの中で、

ある意味

最大のものは、

「人生」

かもしれません。

 

「人生を手放す」

 

もちろんそれは

自殺ということでは

ありません。

 

自分の人生を一度、

完全に手放して

しまうのです。

まずは

実在レベルで。

 

つまりは、

心の中で。

 

私は私の人生を

完全に手放せたな。

 

・・・と100%思えることで

初めて観えてくることが

あります。

 

例えば、

自分は自分の人生に

いかに執着していたか?

とか。

 

実は私はこれまで

何度もこれを

しています。

 

私の場合

そこで発見したのは、

人生の願いやビジョン、

そして、

使命に対して

依存している自分自身でした。

 

自分の真本音に

依存している自分であり、

自分の真本音に

執着している自分

でした。

 

もうその時点で

真本音

ではなくなってるんですけどね。

 

もちろん私達は

人間ですから、

執着があるのは当たり前です。

 

執着をゼロにすることは

難しいでしょう。

 

しかし、

執着が執着であることを

知ることが大事であり、

それが執着であるという

自覚のないまま進むことは

できれば避けたいですね。

 

・・・・・・

 

今、あなたにとって

最も大事だと思える人を

一人選んでください。

 

その人を

手放してみてください。

 

もちろん、

心の中だけで結構です。

 

でも、

完全に手放してみて

ください。

 

できます?

 

できないですよね。

 

そりゃ簡単には

いきません。

 

でも、

「手放せた!」

と確信できるまで

がんばって

やってみてください。

 

もちろん

心の中だけです。

 

するとそれが

ゼロリセットとなり、

その人との

新たな関係がスタート

するかもしれません。

 

その人との関係において

これまで思いもよらなかった

発想が

浮上するかもしれません。

 

同じように、

今の自分の仕事に

対しても

心の中で完全に

手放してみてください。

 

何をどう

感じますか?

 

どうしてもそれは

手放せない、

ということであれば、

それはまず間違いなく

執着です。

 

本当は私達は

自分にとって

真に大事なものであればあるほど

手放すことができるのです。

 

しかしもちろん、

その執着を無理に取り払う

必要はありません。

 

でも、

その執着がどのようなものかを

しっかり観察し、

自覚することは大事です。

 

その執着が

あなたの人生の足を

様々な場面で

引っ張っているかも

しれませんから。

 

以上は、

現実を本当に動かすわけでは

ありませんので、

「遊び」の範疇です。

 

でも、

「遊び」だからこそ得られる

発見もあります。

 

「遊び」だからこそ

一度、

真剣にやってみることを

お勧めします。

 

つづく

 

それ、手放せます?

あなたの中にある

最大の「こだわり」とは

何ですか?

 

それは、

人生に対するものでも、

仕事に対するものでも、

人間関係に対するものでも、

その他のことでも

何でもよいです。

 

「こだわり」と聴いて、

最初に思いつくことは

何ですか?

 

恐らくその「こだわり」は

人生経験を踏む中で

できあがったものだと

思います。

 

とても

大切なものでしょう。

 

でももし、

その「こだわり」を

あなた自身が手放したとしたら、

あなたは

どうなりますか?

 

あなたの人生は

どうなりますか?

 

人生展開は

どうなりますか?

 

以上の質問を受けると、

多くの場合、

その「こだわり」をなくすことで、

人生展開は

暗転するイメージを

持たれるではないでしょうか。

 

それはそうです。

 

人生を好転させるために

私達は「こだわり」を

持っているのですから。

 

私で言えば、

私の最大のこだわりは

「向き合う」

ということかもしれません。

 

これは、

私が初めて明確化した

最初の真本音キーワード

であり、

私の最初の人生理念でも

あります。

 

「向き合う」ことで

物事は好転し、

自分の真本音度合いも高まり、

良い意味での真剣さと

良い意味での「楽」を

手に入れることができる

と、私は考えています。

 

私にとっては

なくてはならないもの。

 

私から

「向き合う」ということを

取ってしまったら、

もう私ではなくなるのではないか、

と思えるほどのものです。

 

ところが・・・。

 

今回、書かせていただく内容は

 

その最大の「こだわり」を

手放しましょう。

 

・・・ということなのです。

 

つまり私で言えば、

私のこだわりである

「向き合う」

という自らのポリシーを

手放してしまおう、

ということです。

 

これを、

すぐにできる人のことを

 

『天真爛漫』

 

と言います。

 

真本音度合いが高まったり、

意識の次元が高まることで、

人は自然に

天真爛漫になっていきます。

 

ですので、

真本音度合いが高まったり、

意識の次元が高まることで、

人は自分の最大の「こだわり」を

すぐに手放すことが

できるようになります。

 

正直に言いまして、

私はですね、

最大のこだわりは

「向き合う」ということですが、

じゃあ、

「その、向き合う、というこだわりを

手放してしまってください」

と言われたら、

 

あっそっか、

それも面白そうだね、

 

・・・などと思えてしまいます。

 

いつからそうなったのかは

定かではありませんが、

少なくとも

以前の私はこうでは

ありませんでした。

 

「手放してください」

と言ったその人に対して、

以前の私であれば

食ってかかっていたでしょう。

 

「何言ってるんですか。

あなたは私が最も大事にしていることを

蔑ろにするのですか!」

とか、

「大事にしたいことを

大事にし続けることこそが

大事なことではありませんか!」

とか、

「自分の中心軸を取り除いたら

もうそれは、自分では

なくなるではありませんか!」

とか。

 

でもこれらのセリフって、

本当はちょっと

不自然だと思いませんか?

 

皆さんは

いかがですか?

 

皆さんの中の

最大のこだわりを

手放してください、と言われたら、

拒絶感が

出ますか?

 

それとも逆に

好奇心が

出ますか?

 

もし拒絶感が

出るとしたら、

残念ながらその人は、

 

「自分のこだわりに依存している」

 

ということになるのです。

 

私の場合で言えば、

「向き合う」ということに

自分は依存していた

ということになるのです。

 

実はそれは

人間本来の生き方では

ありません。

 

自然な生き方では

ありません。

 

かと言って、

こだわりを持つのを

やめましょう、

と言いたいわけでも

ありません。

 

こだわりは

大事です。

 

こだわりがあるからこそ

私達は

進化できます。

 

でも、

「こだわり」とは

何のために持つもでしょうか?

 

それは、

 

そのこだわりを

手放すために持つ

 

ものなのです。

 

このテーマについては、

明日以降も続けます。

(多分。 ・・・笑)

 

つづく

 

どこまで寄り添うか、それがコーチングの肝です

「プロのコーチになるために、

私はまずは何をすればよいでしょうか?」

・・・という木村さんからの問いに、私は

 

「まずは、100人にコーチングをしてください。」

・・・とお答えしました。

 

「木村さん、お忙しいとは思いますが、

まずは、平日のお仕事が終わってから毎日二人ずつ、

そして土日に一日6人ずつ。

つまり、一週間に22名のコーチングを行なってください。

すると、5週間で100人できると思います。

まずはここからですね。」

と。

(→前回記事)

 

もし木村さんの「プロのコーチになりたい」という想いが

真本音から出されたものであれば、

彼は何の躊躇もなく、私のアドバイスを

受け入れたでしょう。

 

しかし残念ながら彼のその想いは

反応本音レベルです。

恐らく内心は、「そこまでのことをしなければならないのか」

と感じていたと思います。

 

でも、100人コーチングというのは

本当に特別なことでもありませんし、

私は100人コーチングして初めて、

「私、コーチとしての活動を始めました」

と言えるのではないかと思っています。

 

木村さんはしばらく黙っていましたが、

意を決したように言いました。

 

「わかりました。では、それをします。

相手は、誰でも良いのですか?」

 

「はい。

社内の人でも知り合いでも初めてお会いする人でも

誰でも良いです。

ただし、プロのコーチを目指すのであれば、

初対面の人の割合を多くした方が良いですね。」

 

その日から彼は、

100人コーチングを始めました。

 

彼の偉いところはこういうところです。

自分の真本音の想いだと思ったことは、

とにもかくにもそれを実行してみる、というところです。

 

こういう人は必ず、

何らかの気づきがありますし、

たとえそれが回り道だったとしても、

必ず「次」につながります。

 

彼は、平日は、社内の人達のコーチング、

土日は、社外の人達のコーチング、

というように分けて活動をしたようです。

 

もちろん、そのような活動をすることを

彼は、上司である平井さんに報告しました。

 

実は、彼の報告の前に、私は平井さんにこの件を

お伝えし、了承を得ていました。

これが彼の反応本音レベルの想いだということも

含めてお伝えし、

「この体験で得られることは、間違いなく

彼の新規事業プロジェクトリーダーとしての

成長につながります。

ですのでここは、ご理解をお願いします」と。

 

平井さんはニコニコしながら、

「木村がこれでどのように変化するか、

楽しみですねぇ」

と言われました。

 

こういった度量の大きな上司がいることは

本当に人の成長を左右するなぁ、と

私は感嘆しました。

 

さて、木村さんですが、

私の予想よりも少し早めに彼は

「挫折」しました。

 

2週間後のコーチングで彼はこう

言われたのです。

 

「たけうちさん、

社内の人達のコーチングは順調に進むのですが、

土日の社外の人へのコーチングが難しいです。

なかなかアポが入りませんし、

知り合いのコーチングをするのですが、

コーチングというよりも、ただの雑談になるというか。

どうしたら良いでしょうか?」

 

「どうしたら良いでしょうか?」

この問いが出た瞬間に私はいつも、

それは一つの挫折である

と思います。

 

それは、依存している人のセリフだからです。

 

真本音の想いで進んでいる人は、

決してその一言は口にしません。

 

本当に真本音でプロのコーチを目指している人であれば、

必ず自分なりの方法を自力で見つけ出します。

 

これまでの受講生さんの例で言えば、

知り合いのコーチングが難しいと感じたならば、

異業種交流会に出まくるとか、

いつも顔を合わす、近所のコンビニの店員さんに声をかけて

コーチングをさせてもらうとか、

道行く人に自ら声をかけてコーチングさせてもらう

という人すらいました。

 

真本音の想いであれば、自然にそういったことを

人はします。

しかし、反応本音レベルの想いであれば、

行き詰まるとすぐに、人に答えを求めます。

 

もちろん、とことんやってどうしてもわからなければ、

人に訊くのも良いでしょう。

大事なのは、とことんやったかどうか、です。

 

それは、空気感ですぐにわかります。

 

木村さんは安易に私に答えを訊いてきました。

 

さて。

ここでどうするか?

 

コーチとして取るべき対応は様々です。

 

私はここでまた、彼の真本音に訊きました。

口には出さずに、心の中で問いかけたのです。

 

「木村さん、

今ここで、私にどんな言葉を返してもらいたいですか?」

 

すぐさま答えが返ってきました。

心の奥底から自然に浮かび上がってくるのです。

 

「たけうちさん、申し訳ありませんが、

ここはもう少し、相談に乗ってあげてください。

私にとって本当に必要な気づきを得るためには、

もう少し、私に寄り添ってください。」

 

「わかりました。

では、寄り添うためには、

今は何を伝えればいいですか?」

 

「私に、問いをください。」

 

と同時に一つの問いが自然に浮かんできました。

 

私はそれをそのまま、現実の木村さんに

投げかけました。

 

「木村さんは、

どんな人のコーチングをされたいのですか?」

 

つづく

 

自分を本当に信頼していますか?

平井さんが、依存から自律へと変化できたのは

なぜでしょうか?

(→前回記事)

 

平井さんが、深刻から真剣へと変化できたのは

なぜでしょうか?

 

そのきっかけは、

自分自身との「本能的信頼関係を結べた」からです。

(→本能的信頼関係についてはこちら)

 

要するに、本当の意味で自分自身を

信頼することができるようになったからです。

 

ではなぜ彼は、自分を信頼できるようになったのか?

その答えは極めてシンプルです。

 

「真本音で生きるようになった」からです。

 

真本音とは、揺るがぬ自分です。

どのような状況、どのような環境においても

変わることのない自分です。

 

その自分は、人生に対する揺るがぬ願いを

持っています。

 

何のために自分は生きるのか?

この世の中において、どんな役割を自分は果たすのか?

どのような強みを、どう活かしていくのか?

 

それらを「願い」として明確に抱いています。

 

真本音で生きるとは、

その「揺るがぬ願い」に向かって生きる

ということです。

 

今、この瞬間に自分は何をするか?

今、この瞬間に自分は何を言うか?

 

今、この瞬間に自分は何をしないか?

今、この瞬間に自分は何を言わないか?

 

日常における、自分の一歩一歩を

真本音に素直に出し続ける。

その度合いが増せば増すほど、

自分自身が喜びます。

 

そして、自分の揺るがぬ願いに素直な自分を

自分が信頼するのです。

 

逆に言えば、

自分の真本音をないがしろにした言動を

繰り返すことで、

私達は自分への信頼を失くしていきます。

 

自分への信頼を失くしてしまうと、

自分の「決断」を信じられなくなります。

自分の決断が信じられなければ、

常に「迷う」という状態になります。

 

迷いながら進めば、

当然ですが、物事は進展しません。

 

例え同じ選択をしたとしても、

本当に決断をしてその道を進めば、

どのような障害があっても乗り越えられます。

しかし、

迷いながらその道を進めば、

ほんの少しの障害に出会うだけで、

すぐに止まってしまいます。

 

人生に正しいかどうか、という答えはありません。

大事なのは、

自分が決めた道を進めるかどうか?

しかし、

自分が決めること自体ができなければ、

人生は一向に進みません。

望む未来は決して

実現しません。

 

自らの真本音に素直に生きるかどうか?

 

それで、すべてが決まります。

・・・と言っても過言ではないと私は実感しています。

 

「おはようございます」

と、挨拶一つをするにしても、

それを真本音でするかどうか?です。

 

真本音ですれば、

その人らしい、その瞬間における最善の

挨拶ができます。

 

それができるかどうか、で

その後の展開が大きく変わります。

 

今この瞬間における些細な言動の一つによって

人生の展開は大きく変わります。

 

それをわかっているからこそ、

真剣な人は、今この瞬間を大切にします。

 

今この瞬間に真本音で生きる、

という度合いが高まることを私は、

「真本音度合いが高まる」

と表現しています。

 

真本音度合いが高まれば、

自分を信頼する度合いも高まります。

 

決断力も増します。

直観力も増します。

他者との信頼度も増します。

生産性も、必要な能力も、ほしい成果を手に入れる可能性も

増していきます。

 

では、どのようにすれば

真本音度合いは高まるのでしょうか?

 

それを、平井さんの例をもとに

ご紹介していきます。

 

つづく

 

ゆとりがあるのは真剣な証拠

今回も「自律」について、さらに深掘りします。

(→前回記事)

 

「私は私なりに一生懸命やっています。」

 

企業サポートをしていますと、こういった言葉を

よく聞きます。

 

しかし残念ながら、この言葉も

依存している人の典型的なセリフです。

 

自律している人は決してこのようなセリフは

言いません。

 

「一生懸命」によく似た言葉で

「真剣」

という言葉があります。

 

この二つはよく似ていますが、

本質が異なることは、何となくニュアンスとして

わかりますね。

 

もちろん、どちらも大切なことです。

 

自律している人は真剣です。

しかし、依存している人は真剣ではありません。

 

その違いは何でしょうか?

 

私はよく以下のような喩え話を用います。

 

「一生懸命」とは、

竹刀で必死に練習しているイメージです。

 

竹刀をブンブンと振り回して、

自分の能力向上のために努力しています。

 

もしくは、竹刀と竹刀を使った試合のようなもの。

 

勝つために、一生懸命に試合に取り組みます。

 

一生懸命に練習する人とそうでない人。

一生懸命に試合する人とそうでない人。

 

その二人がいたら、もちろん

一生懸命な方が、能力も実力も上がっていきます。

試合に勝てる頻度も高まります。

 

ですので、「一生懸命」は大事なことです。

 

しかし自律した人から言わせれば、

「一生懸命なんて、当たり前でしょ」となります。

わざわざそんなことはアピールすることではない、と。

 

「真剣」とは、

文字通り、真剣(本物の刀)で立ち合いをしているイメージです。

 

つまりそれは、命のやりとりです。

 

真剣と真剣で立ち合う時、

そこではほんのわずかな隙も見せられません。

 

竹刀の場合であれば、

エイヤッで、思い切って竹刀を振り下ろせば

よいかもしれません。

一か八か、でもよいかもしれません。

その結果、試合に負けたとしても、

それはそれで悔しいですが、次があります。

 

真剣の立ち合いとは、次がありません。

 

負ける、イコール、命を落とす、ということです。

 

ですから、エイヤッというような、

ただの勢い任せの一太刀を出すわけには

いきません。

 

真剣の立ち合いに出る前には、

当然のごとく、最高の自分に仕上げなければなりません。

そうでなければ、命を落とす可能性が高まるからです。

 

立ち合いでは、自分の集中力のすべてを使って

相手に集中します。

相手の呼吸、相手の思考、相手の空気感、

相手のわずかな動き、・・・。

すべてに意識を向け、

本当に必要な動きのみを自分はします。

 

不必要な動きは、命取りです。

 

自分自身の呼吸を整え、

自分のすべてのエネルギーをその場に集中させ、

自分が本当に必要だと思う動きのみをとります。

 

そのため、力は抜きます。

本当にいざという瞬間に、すべてのパワーを

込めるために、

心も体も自然体で、力を抜いています。

 

そして、「ここぞ!」という瞬間を待ちます。

 

ここぞ!という瞬間に、ここぞ!という一太刀を

振り下ろします。

 

それが「真剣」です。

 

つまり、ある意味、結果がすべてです。

負ける=死ぬ、だからです。

 

そこには、言い訳も努力もありません。

勝つか負けるか。

それだけです。

 

私達の日常では、もちろんこのような命のやり取りは

稀です。

 

毎日、真剣による立ち合いをしているようでは、

神経が擦り減ってしまい、それこそ寿命が縮まります。

 

しかし、先ほども書きました通り、

真剣な人とは、普段は力を抜いています。

 

本当に「ここぞ」という時に力を発揮します。

 

なぜならそれは結果を出すためです。

 

「私は私なりに一生懸命やってます」

という言葉が、いかに真剣な人から見れば

「変な言葉」として映るのか、

その理由がここにあります。

 

人生に言い訳は必要ありません。

人生に弁解は必要ありません。

 

言い訳や弁解が出た時点で

依存です。

 

私達人間には、真本音があります。

 

真本音には、人生の願いが詰まっています。

 

自分はどんな人生を創り上げたいか?

自分は人生において、何を成し遂げたいか?

そのために自分のどのような個性を活かして、

どのような役割を担いながら、それを果たしたいか?

 

それは私達の真本音が決めています。

 

自分が決めた「願い」を

自分が実現する。

 

そこに真剣な人は、

今、自分が何をすればよいか?

今、自分は何をしてはならないか?

に対して、とても真剣です。

 

そして、今自分のすることのみを

真剣に行ないます。

 

今、自分のすべきことをしない、のは

とても気持ち悪くてしょうがありません。

 

今、自分がしてはならないことをする、のも

とても気持ち悪くてしょうがありません。

 

だから、気持ちの良いことをし続けます。

 

すべき時にします。

しない時には完全に力を抜きます。

 

なので、いつもどことなく

「ゆとり」があります。

 

肩の力を抜き、自然体です。

 

それは自分を完全にコントロールできている

状態です。

 

ですから、真剣な人とは自律した人なのです。

 

自律とは真剣なのです。

 

コーチという視点で、私が平井さんを見ていて

最も変化したと思うのは、

平井さんが、「余分な行動をまったくしなくなった」

ということです。

 

それは日常の些細な振る舞いにも現れました。

 

例えば、

余分な一言を彼はまったく言わなくなりました。

 

以前の彼は、相手を茶化すような冗談を

よく言っていました。

恐らくそれは、場の雰囲気を和ませるための

彼なりのコミュニケーション手段でした。

 

しかしその彼の冗談が、

信頼をなくす要因の一つになっていました。

もちろん、彼本人はそれを知りません。

 

それが、自然になくなりました。

 

私はよく、「真剣性」という言葉を使います。

彼の真剣性が高まることにより、

彼は、余分な一言がなくなりました。

 

余分な行動がなくなりました。

 

余分な仕事をしなくなりました。

 

余分な時間の使い方がなくなりました。

 

結果として、彼には時間ができました。

いつもどの社員よりも忙しそうだった彼が、

今は、誰よりも「ゆとり」があるように見えます。

 

ゆとりのある目線で、彼はすべてを観察します。

 

そして、ほんのわずかでも心に引っかかることを

発見すれば、最善のタイミングと方法で、

それに対応します。

 

そんな彼の立ち振る舞いを見ていますと、

あぁこれが真剣性が高まるということなのだな、

とわかります。

 

真剣性が高まるということは

自律性が高まるということです。

 

自律とは、真剣です。

 

そして真剣な人、自律した人は

一緒にいて、心が和みます。

 

こちらも幸せな気持ちになれますね。

 

自分の人生に対して真剣かどうか?

 

すべてはこれに尽きると、

私は思います。

 

つづく

 

目的がわからなくても目的に向かう

「自律」について、さらに話を深めます。

(→前回記事)

 

何のために何をするか?

そして、

何のために何をしてはならないか?

 

自律した人は、

常にゼロからそれを発想します。

 

それまでの過程はもちろん大事ですが、

それまでの過程と、創り上げてきた現実に

執着はしません。

 

「これまではこういったやり方で成功してきたから、

これからもこのやり方で行こう。」

・・・というのは、依存です。

それまでのやり方への依存であり、

過去への依存です。

 

常に原点(ゼロ)に戻ること。

常に「何のために」(目的)に戻ること。

それができるので、自律した人は強いのです。

 

しかしこのような説明をすると、

よく、次のようなご質問をいただきます。

 

「原点とか目的とか言われても、

私にはそれがわからないのです。」

 

実は、コーチング初期の頃の平井さんからも

いつもそのようなことを言われました。

 

平井さんは、

「私には、目的がわかりません。

自分が何のためにこの仕事をしているのか?

それがわからなくなります。

もちろん表面上の目的はありますし、頭では

理解できます。

でも、その目的を頭に置いたとしても

力も湧いてこないし、発想も出ません。

多分それは、私の本当の目的ではないからです」

と言われていました。

 

そして、

「たけうちさん、目的を見つけるためには

どうすればよいですか?」

と。

 

実は、

「目的を見つけるためにはどうすればよいですか?」

という質問は、

依存している人の典型的な質問です。

 

自律している人は決して、

そのような質問はしません。

 

それは、

すでに目的がわかっているから

ではありません。

 

目的がわかっていなくても、

自律している人は、そんな質問はしません。

 

自律している人は、

目的とは自分で見つけるものである、

自分で見つけようとしなければ決して見つけられないものである、

ということを、何となくでもわかっているからです。

 

そして、今はまったく目に見えない目的を

自ら見つけよう、とします。

 

そこが大事なのです。

 

なぜなら、

自ら目的を見つけようと真剣になることで、

私達の「真本音」が発動するからです。

 

真本音とは、

「私達の人生の目的に向かおうとし続ける

揺るがぬ心」

と表現することもできます。

 

その真本音が発動します。

それにより、

「目的はわからなくとも、目的に向かう」

という状態に入っていきます。

 

本当は、

私達の目的は、最初から私達の中にあります。

ただそれが、

顕在化していないだけです。

 

私達の頭が

認識していないだけのことです。

本当は目的は

心の中にガッシリと存在しています。

 

何のために私は生きればよいのか?

何のために私はこの仕事をすればよいのか?

何のために私はこの役割を果たせばよいのか?

何のために・・・

 

自分自身が今、ここにいる理由(目的)を

私達は本当は誰よりもよくわかっています。

ただ、

顕在化していないだけ。

 

ですから、目的は他人に教えてもらうものでは

ありません。

自ら見つけようとするものです。

 

それをすることで、

私達の真本音は発動し、

真本音に素直に行動することで、その先に

自分自身の目的が見えてきます。

 

説明すると、以上のようなことになりますが、

自律している人は、理屈ではなく感性として

以上のことがよくわかっています。

 

ですので私のコーチングは、

その人の真本音が活性化するための刺激のみ

を入れるようにしています。

それ以外のことはできるだけご本人が自力で

進めるようにしています。

 

平井さんのコーチングはその典型でした。

 

私が行なったのは、

平井さんの真本音を活性化させることだけ。

 

自らの真本音を自らキャッチできるようになった

平井さんは、自らの真本音に素直に

すべての道を開いていきました。

 

それが自律状態です。

 

真本音で生きるとは、自律すること。

 

そして自律した人が、

周りとの調和を起こしていきます。

 

つづく

 

私とあなたは、本当に調和していますか?

『自律調和』という言葉を

私はよく使います。

 

この言葉は、私が尊敬するある社長が

生み出した言葉です。

 

「たけうちさんがやっていることって、

こういうことですよね」

と彼に言われた時、

あぁなるほど!と思いました。

 

この言葉の凄いところは二つあります。

 

一つは、

「自立」ではなく「自律」というところです。

 

「自立」と「自律」の違いは、

様々な解釈の仕方があると思いますが、

私の解釈で言えば、

自立の先にあるのが自律です。

 

人は、自ら立つことができて、初めて

自らを律することができます。

 

自ら立つことをせず、依存状態のままで

自らを律しても、それは自律もどきです。

社長に依存していた時代の平井さんがまさに

この状態でした。

(→前回記事)

 

そして、自分を律する、とは、

自分を縛り付けることではありません。

 

自分自身をコントロールすることです。

 

つまりそれは、「自由自在に自分を操ること」です。

 

要するに、本質的な「自由」です。

 

自律している人とは、自由な人なのです。

 

これが私の解釈です。

 

『自律調和』という言葉の凄いところの二つ目は、

 

「調和自律」ではなく「自律調和」である

というところです。

 

よく、「仲間がいるから私はがんばれる」

という言葉を聞きます。

 

私はそれを聞くと、「依存だな」と思います。

 

仲間がいるからがんばれる、

じゃあ、いなかったら?

いなかったら、がんばるのをやめるの?

と。

 

もちろん、仲間は大事です。

調和できる環境や、職場や、人間関係は

とても重要です。

 

しかし、「みんながいるから私はがんばれる」

というのは、調和もどきです。

 

依存の集合体です。

 

依存とは、寄りかかること。

もしくは、ぶら下がること。

 

寄りかかる対象がなければ、

ぶら下がる対象がなければ、立つことができない状態

を言います。

 

お互いがお互いに寄りかかり、

お互いがいなければ立っていられない状態で

一つの調和を作っていても、

それは調和とは言いません。

 

そこに、「自由」はありません。

 

本来の調和とは、

一人一人がまずは自分で立ち、

自分で自分を自由にコントロールし、

そういうことのできる人達が、

お互いに寄りかかるのではなく、

自ら立った状態で、手をつなぐこと

です。

 

手を放そうと思えばいつでも放せます。

 

つなごうと思えば、いつでもつなげます。

 

どちらもできる状態。

 

今は、手を放すことが大切か?

それとも、手をつなぐことが大切か?

 

いつでもどちらの選択もできる状態。

 

そうなれると、

くっついていても、離れていても、

どのような状態でも

その人とその人は「調和」しています。

 

調和とは、「距離感」です。

 

その人とどれくらいの距離感で関わることが

今は最も相乗効果を発揮することに

なるだろうか?

 

それをお互いに見極め、

最適な距離感で関わり合うことが

真の調和をもたらします。

 

それができるのは、

自律した人同士のみです。

 

ですので、『自律調和』なのです。

 

自律→調和 なのです。

 

この順番しかあり得ない。

逆はあり得ないんだ、ということに

いつからか私は気づくことができました。

 

そこに気づいてから、

人や組織への関わり方が

非常に楽になりました。

 

何をすれば良いか?が

明確に掴みやすくなりました。

 

そしてさらに次のことも言えます。

 

自律した人は、

次の自律した人を生む、

と。

 

平井さんの例はまさしくそうです。

 

もともとは社長に依存していた平井さん。

その平井さんが自律することで、

自律した社員さんが一気に増えました。

 

組織全体が、

依存状態から自律調和状態へと

脱皮し始めました。

 

一人の自律は、

組織のパワーになるのです。

 

つづく

 

今が人生を変えるとき

平井さんにとっての社長は、

ある意味、「すべて」でした。

(→前回記事)

 

「私は、社長と出会ったその瞬間から、社長を尊敬しています。

彼の人柄も経営のやり方も、本当に尊敬に値するものです。

それは今も変わっていません。」

と平井さん。

 

しかし、

「尊敬するがあまりに、私は彼の

”寄生虫”

になりました。」

 

“寄生虫”。

 

何もそこまでご自分のことを酷く言わなくてもいいのに、

と思うのですが、

しかし、これは後の彼(本来の自分を完全に取り戻した彼)

から出た言葉です。

 

彼は、以前の自分のことを、”寄生虫”と

表現しました。

 

「私は昔から、自分が依存したい人を探し出し、

それを見つけると、まるで寄生虫のように取り付く

という人生を繰り返してきました。

最初に寄生したのが母親です。

私は、母の言いなりの自分になっていましたが、

それは私が母に寄生していたのです。

確かに母にも問題はありましたが、

これは私が自分で行なっていたことです。」

 

平井さんは、必ず自分が依存する人を見つけ、

寄生虫のようにその人の血や養分を吸い、

自分のものとし、

しかし本来の自分はどこかに捨ててしまった状態で

生きてきたのだそうです。

 

社長もその一人。

 

「私は寄生虫のように生きることこそが

最も楽な生き方だと思い込んでいたようです。

本当はそれこそが最も苦しい生き方なのに。」

 

本来の自分を取り戻してからの平井さんは

過去の自分の生き方が

ありありと見えてきて、そんな自分を

嫌悪しました。

 

しかしその「自己嫌悪の自分」すらも観察することで、

それを存在承認し、愛し、

すべてをあるがままに受け取ることができるように

なりました。

 

”寄生虫”とは、そんな平井さんが

ご自分を評して出された言葉です。

かなりキツイ言葉ですが、

それをお話しされた時の平井さんは

笑顔でした。

「まったくコイツはどうしようもないヤツで・・・」

と笑いながら、自分を指差しながら語る彼を見て、

私はつくづく、この人は凄いなぁ、と

感嘆しました。

 

話を戻します。

 

平井さんは社長に”寄生”していました。

それは完全なる依存状態でしたから、

寄生虫は、寄生している相手から捨てられることを

極度に恐れます。

 

その恐れを振り切りながら社長と向き合う勇気が

最初は平井さんには出ませんでした。

 

彼は正直に私におっしゃいました。

「部下のことは、ありありと観察することができますし、

しっかりと向き合うことも抵抗はありません。

でも、社長と向き合うのは怖いです。

自分の意見をはっきり伝えることで、

私は社長からの評価を失うのではないか、

社長から捨てられるのではないか、

と思ってしまいます。」

 

しかしそういった恐れを抱く自分自身をも

平井さんは観察されました。

そんな自分の心の声をパソコンに打ち続けました。

 

そしてある時、また平井さんは真本音状態と

なりました。

 

私はその瞬間を捕らえて、

彼に問いました。

 

「平井さん、

平井さんは社長に対して何をされたいですか?」

 

「私は、彼と向き合いたい。

私は彼と本当に向き合ったことは一度もありません。

私にとっては、教祖様なんです。

しかし、この関係を続けていては、この会社に未来は

ありません。

私は、彼と向かい合い、今後の経営の方向性や

私自身のリーダーシップについて、

彼と語り合ってみたいです。」

 

私の体の中心は、いつものように

ゾワゾワと痺れました。

 

「では平井さん、それをいつしますか?」

 

「この後、すぐします。」

 

「えっ? すぐですか?」

 

「はい。今が一番いい気がします。

今の私は、社長に何をどう話せばよいか

まったくわからない状態です。

だからこそ、良い気がします。

私のあるがままを彼にぶつけてみたいのです。」

 

「平井さん、怖くありませんか?」

 

「怖いです。笑」

 

「私も同席しましょうか?」

 

「いえ、これは私が一人でやらなければならないことです。

怖いですが、これをすれば私の人生は変わりそうです。

今、すぐに行きます。

社長は今なら事務所にいますから。」

 

なんと平井さんはコーチングを中断し、

そのまま社長のもとへ向かいました。

 

その日はたまたま、と言いますか、

こういうのを「必然」と言うのでしょうか、

平井さんも社長もこの後の予定が何もない状態でした。

滅多にないことです。

 

部屋を出る時に、平井さんは私に向かい、

「たけうちさん、怖いです。

でも、この怖さを拒絶せず、これを持ったまま

社長と向き合ってみます。」

と言って、笑いました。

 

真本音の風。

そういった言葉が浮かぶくらい、

私は平井さんから「風」を感じました。

それはとてつもなく清々しいものでした。

 

この人は本当に凄い。

 

と思ったのと同時に、

人間って本当に凄いなぁ。

と私は呟いていました。

 

つづく

 

強みを使わない生き方なんて

人は、生まれ持った強みを発現することで

ある意味、非常にニュートラルで自然体になれます。

 

特に何かを意識して無理矢理に物事を進めるのではなく、

自然に淡々と、まるで当たり前のように

物事を進展させていくことができるようになります。

 

ある中小企業の女性経営幹部の中原さん(仮名)の

生まれ持った強みは、

『毅然』

でした。

(→前回記事)

 

しかし彼女は、それをこれまでの人生でまったく

活かしてこなかったどころか、『毅然』とは真逆の生き方を

し続けていました。

 

そしてその生き方をすることで、

彼女なりに物事を上手く進めていたのです。

しかし、本来自分に存在しているはずの強みを使わずに

生き続けるというのは、ストレスを生む行為です。

 

ですから出会った頃の中原さんはとても疲れていました。

リーダーとは疲れるものである。

リーダーとは疲れてなんぼのものである。

というのが、中原さんにとって当たり前のことだったのです。

 

ところが。

生まれ持った強みである『毅然』を発現できるようになってから

彼女の日々は劇的に変わりました。

まず変わったのが、彼女の「疲れ方」です。

 

以前の中原さんは、

自分の本来望む在り方とは異なる在り方をすることで

発生するストレスでいっぱいでした。

つまり、ストレスを自ら生じさせている状態でした。

 

しかし今の中原さんには、

これがまったくありません。

 

それによってどうなったかと言いますと、

自分のストレスではなく、他者のストレスを直に

感じ取ることができるようになりました。

 

今、誰がどのようなストレスを生じさせているのか?を

ありありを知ることができるようになり、

適宜、対策を打つことができるようになりました。

 

しかも彼女の『毅然』とは、

他者に安心感をもたらすものでした。

いえ、彼女だけでなく、本来の『毅然』とはそういったものかも

知れません。

 

例えば、仕事で何か問題を起こした社員さんが慌てて

中原さんのもとに相談に来たとします。

以前の中原さんは、その社員さんの動揺をそのまま受け取ってしまい、

自分自身も動揺しながら、自分がその処理をする

というパターンを持っていらっしゃいました。

 

ところが今の中原さんは『毅然』としています。

何があっても動揺しません。

社員さんは、そんな毅然とした中原さんの前に来るだけで、

どことなく心が安定します。

そして冷静になって、どのような問題がなぜ起きたのか?

どのように対策すればよいか?を自ら考えることが

中原さんの前に来るとできるようになりました。

 

中原さんは、その社員さんが自らその問題に対して

向かっていけるようにアドバイスをするだけです。

 

これをすることで、多くの問題について

「社員が自ら解決できるようになりました」と

中原さんは言われます。

逆に言えば、

「これまでは、私がやり過ぎていました。

だから社員が皆、私に甘え、私に依存するという悪循環が

起きていました」。

 

中原さんの『毅然』は素晴らしく、

社長でさえ、中原さんの『毅然』を浴びるようになりました。

つまりは、

社長が何かの経営判断に迷った時に、

まず社長は中原さんに相談をするようになりました。

 

社長の相談に対して、中原さんが何か具体的な答えを

出される訳ではありません。

ただ、中原さんの『毅然』とした空気感を浴びることで、

社長ご自身の心が安定し、自然体に戻り、

良い発想が浮かぶようになるそうです。

 

中原さんの『毅然』とは、言葉を変えるならば

『中心軸』と言ってもよいでしょう。

 

私達人間は、真の中心軸を持った人と向き合うと、

非常に心が安心・安定します。

それは、揺るがない大地に降り立ったような安定感です。

 

そして私達人間は、中心軸を思い出し

心に安定感を得ると、「最善の発想」「最善の答え」を

得ることができるようになります。

 

今の中原さんの口癖は、

「私は何もしていないんですけどね」

です。

 

彼女は、何もしてないのに、彼女と向き合う人は

自分自身の「最善の答え」を見つけ出すことができるように

なります。

 

その効果と影響はどれだけのものか?

それは測り知れないですね。

 

さて。

 

ここまで例に挙げさせていただいた中原さんですが、

これは、約6年前のお話です。

 

今も私は中原さんのサポートをさせていただいています。

が、それは不定期です。

中原さんが、「今、コーチング受けたいな」と思われた時点で

呼んでいただく、という。

 

その頻度は年々少なくなり、今は何ヶ月かに一回お伺いする

くらいです。

 

先日、久しぶりに中原さんに呼ばれてお会いしました。

 

この6年。

実に様々なことがありました。

中原さんの会社も、何度も脱皮をしました。

売上規模で言えば、6年前の数倍になっています。

しかしその道のりは決して楽なものではなく、

挑戦するが故の経営危機に何度も陥りましたが、

その度に彼女の『毅然』が社長や社員さん達を助けて来ました。

そんな道のりをずっと私は拝見して来ました。

 

先日お会いした時に、中原さんは私にご報告してくださいました。

 

「実は、弊社の新しいグループ会社を立ち上げることに

なりました。

私がその社長をさせていただきます。」

 

「中原さん、ついに社長ですか!」

 

「はい。私が社長になるなんて思いもよらないことでしたが。

でも、私は私流のリーダーシップを発揮していきます。」

 

「中原さん、6年前に私と出会った頃のご自分を

覚えていらっしゃいますか?」

 

「6年前ですか・・・。

もう忘れてしまっていましたが、今から振り返ると、

あの時の自分は、閉じてましたねぇ。(苦笑)

あの時の自分は、自分ではなかったです。

何か借り物の洋服を身につけて、自分ではない何かを

演じていたような気がします。

あんな疲れる生き方は、もうしたくないですね。」

 

そう言われて、中原さんはニッコリされました。

 

このニッコリに、どれだけ多くの人達がこれまで

力をもらって来たのだろう、と私は思いました。

 

人には、生まれ持った強みが

必ずあります。

 

しかし残念ながら、それを本当の意味で

活かしている人は稀です。

 

新たに創り出す強みではなく、

もうすでにここにある強みなのに。

それを使っていないのです。

 

本当にもったいないことです。

 

私達は、私達にもともと備わっている力を

使い切りたいものですね。

 

自分のためにも。

周りのためにも。

 

たった一人でも組織活性化は成る

この記事は、人の強みについて

書かせていただいております。

 

人の強みには後天的なものもありますが、

先天的なもの、つまりは「生まれ持った強み」

もあります。

 

とてももったいないことですが、

生まれ持った強みを日常的に、そして意図的に

活かしながら生きている人・仕事をしている人は

稀です。

 

私がコーチングをさせていただく場合は、常に

このクライアントさんの生まれ持った強みは何だろう?

という視点を持ち続けます。

そして、

それを掘り起こすための「スイッチ」を見つけ、

最善のタイミングで、そのスイッチを入れます。

 

そんな例として、ある中小企業の経営幹部の

中原さん(仮名)の件を書かせていただいています。

(→前回記事)

 

私は、中原さんの「スイッチ」は

『自己中心に生きること』

であると気づきました。

そしてそれを彼女にお勧めしました。

 

中原さんは「自己中心に生きる」ことに挑戦し、

その結果として驚くような成果をもたらすようになりました。

 

「自己中心」と言うと一般的には「わがまま」という

イメージがあります。

自己中心に生きることで、周りとの協調性が失われ、

確執や争いや不調和が起こるイメージですね。

 

一般的にはそうかもしれませんが、しかし

中原さんにとっては全くの逆でした。

 

中原さんはこれまで

「まずは自分を抑え、他者を主にした関わり」

を取り続けてきました。

それにより、確かに物事はうまく進展してきたかも

しれません。

しかしそれは、中原さんが本当に望んでいた生き方では

ありませんでした。

それどころか、

その生き方は、中原さんの生まれ持った強みとか

本来の個性を打ち消してしまっていました。

 

中原さんは自己中心になることで、

『毅然』

を手に入れることができました。

それこそが、彼女の「生まれ持った強み」だったのです。

 

面白いことに、

生まれ持った強みを発揮しているとき、

その本人は、「強みを発揮していること」自体を自覚しません。

あまりにもそれが「自然な振る舞い」だからです。

 

ですので、私は中原さんにフィードバックをする必要が

ありました。

 

「自己中心」が板についてきた頃合いを見計らって

私は彼女に告げました。

 

「中原さん、今の中原さんがどんな雰囲気か、

フィードバックしてもよろしいですか?」

 

「えっ? はい。どうぞ。」

 

「今の中原さんは、『毅然』を絵にしたような

立ち振る舞いですよ。」

 

「えっ? そうなんですか。全然自覚ありませんが。」

 

「でも、言われれば、お分かりになるのでは?」

 

「はい、そうですね。

今の私は、どんな状況があっても、まったくブレることが

ないような気がします。」

 

・・・と彼女は、淡々と断言されました。

 

これも、生まれ持った強みが発現し始めた人の特徴です。

 

恐らく以前の中原さんに同じ内容のことをフィードバックしたと

したら、

「いえいえ、とんでもありません。毅然だなんて。

そんなすごい私ではありません。」

というような、拒絶が返ってきたと思います。

 

しかし、生まれ持った強みが発現し始めると、

その人は自分を客観視できるようになります。

良いところは良い。

素晴らしいところは素晴らしい。

しかし、ここか次の課題である。

というように、淡々と自分を語ることができるようになります。

 

「中原さん、コーチングを始めた時点の状況と今の状況を

客観的に比べていただきたいのですが、

社員さん達の、中原さんへの関わり方は何か変化がありますか?」

 

「そうですね。

今から思えば、ですが、以前の社員は皆、私に甘えていたと

思います。

何があっても結局は、中原がなんとかしてくれる、というような

依存心があったと思います。」

 

「それが今は、どのような状態ですか?」

 

「今は、私に依存しようとすれば、私はその社員をすぐに

叱ります。

もしくは、時には無視します。

無視、というとひどいことのように思われるかもしれませんが、

必要以上に関わらずに、見守るだけの状態にします。

なので、誰も私には依存しません。」

 

「その結果、どうなりました?」

 

「みんながんばってますよ。(笑)

以前よりも格段に主体性が増したと思います。」

 

「生産性はどうですか?」

 

「数字にして見なければわかりませんが、

私の印象だけで言えば、2倍、まではいきませんが、

1.5倍くらいはいっている印象です。

これまでは私は一人でいろいろ抱えてましたから。

今は、社員に全部任せています。」

 

実は、当初私は、この会社の社員さん達の

チームコーチングを行なう予定でした。

実際に社長にはそのようなご提案をしていたのですが、

中原さんのおかげで、その必要がなくなってしまいました。

 

私は、中原さんのサポートだけをすれば

よかったのです。

 

この会社に関わり始めた当初、私は

中原さんが生まれ持った強みを発現すれば、

それが組織全体の活性化に直結するだろう、

と踏んでいたのですが、

私の想像以上にそういった展開となり、非常に楽でした。

 

組織活性化のためには、

その「要(かなめ)」となる人の活性化が不可欠である

ということを、私は改めて実感しました。

 

では、中原さんの生まれ持った強みである『毅然』とは

実際には、どのような形で

組織で活かされているでしょうか?

 

その辺りを次回でさらにご説明します。

 

 

つづく