“生まれたばかりの無邪気”

 

この言葉が木村さんから発せられた時、

私の体の芯が痺れるように震えました。

(→前回記事)

 

その人の真本音から出された言葉。

これは、本当に人の心に響きます。

 

私はコーチというお仕事をさせていただいていますので、

このような、ある種の「感動」には敏感です。

しかしそれは敏感なだけであって、

このような心の深いところでの感動は、

誰もが感じることでなのです。

つまり、

木村さんの口からその言葉を聴けば、

私でなくても、誰もがその感動を味わいます。

それを敏感に認識するかどうは別として。

 

仮にまったく認識していなくてもよいのです。

認識していなくとも、その人の心には確かに

「感動」は起こるのです。

そこが大事。

 

そういった「感動」をもたらしてくれる人に対して、

人は、何となく「この人と一緒にいるといいなぁ」とか

何となく「この人と一緒にいたいなぁ」とか

何となく「この人と一緒に仕事をしたいなぁ」

というように感じるのです。

 

こういった無意識レベルにおける「印象」こそが

人間関係においてとても大事です。

もちろん、仕事においてもです。

 

真本音度合いが高まるということは、

その人の口から

真本音からの言葉がたくさん発言される、

ということです。

 

その言葉が、人に響きます。

ですから、真本音度合いの高い状態でチームを組むのと

低い状態でチームを組むのとでは、

同じメンバーだとしてもまったく違った成果を生み出すのです。

 

私は、

世の中全体の真本音度合いが高まればいいなぁと

思います。

同じ人であっても、

真本音度合いが高いか低いかによって

そこで生み出される現実がまったく変わるからです。

 

調和の現実か、

不調和の現実か、

です。

 

不調和を起こすから、その人はダメだ。

不調和を起こすから、その人を辞めさせて

別の誰かに変えなければならない。

・・・ということではないのです。

 

すべては、

真本音度合いが高いか、低いか。

ここでこそ、道が決まってくるのです。

 

“生まれたばかりの無邪気”

 

この言葉の意味は、

木村さん本人にすら、よくわかりません。

しかし、

最初はそれでOKです。

むしろ、

意味をわかったつもりになるよりも、

徐々に、その真の意味を

日常においてつかんでいくことこそが重要です。

 

木村さんがその言葉を大切にしながら

日常に入っていってからすぐに反応がありました。

平井さんが

私に連絡をくださったのです。

 

「たけうちさん、木村が変わりましたよ。」

 

平井さんは本当に嬉しそうに

そうおっしゃいました。

 

「どう変わったのですか?」

 

「明らかに雰囲気が変わりましたよ。

先日、コーチングを終えた直後の木村を見て

私はびっくりしましたよ。

なんか憑き物が落ちたような感じで。」

 

「あっははは、

平井さんが真本音を見つけられた時も

そうだったんですよ。」

 

「えぇ、そうなんですか。」

 

「ご本人には、まったく自覚はないんですけどね。」

 

そうなんです。

まず、真本音度合いが高まると、

その人の雰囲気(空気感)が変わります。

しかしそれは、当の本人はまったく気づいていません。

 

人が本質的成長をしている時は、

あまりに自然な変化のため

本人が最も気づかないものです。

むしろ、

「私はここが変わった!」と

本人が自覚しているときは、自己満足のケースが多いです。

もちろん、そうでない時もありますが。

 

「それから、どうですか?

木村さんの行動ベースで変わったところはありませんか?」

 

「いやぁ、なんかとてもオープンになってね、

私にどんどん話しかけてくるようになったんですよ。

それは、仕事に関する提案もあるのですが、

まったく関係のない雑談もあります。

あんなヤツじゃなかったんですけどねぇ。」

 

「どうですか、

バンドをしている時の彼に近づいている感じはあります?」

 

「あぁ、ありますあります。

確かに、本来の彼に近づいていますよ。」

 

しかしここで満足してはなりません。

ここまでは、非常に良い傾向です。

でも、

本当に「自分を壊す」とは、

ここからが勝負なのです。

 

つづく