過去

断切

 

あなたの「過去」は

今のあなたに

とって、

 

何者ですか?

 

私達は

「過去」と地続きで

ここにいる。

 

しかし

実在のレベルでは

一刻一刻の時間は

 

この3次元では

 

分離している。

 

地続きのようで

地続きではない。

 

「過去」は

自分自身を

引きずるが、

 

実は

引きずられなきゃ

いけない義理は

まったくもって

ないのだ。

 

「過去」を

あえて

自分から

分離させてしまっても

いい。

 

だって、

すでに分離

しているのだから。

 

極端な

話かい?

 

でもね、

 

今はこれが

あなたにとって

最も必要なこと

ではないか。

 

これまで

散々、

その「過去」とは

向き合って

きたではないか。

 

何度も

引きずられ、

 

引きずられ、

 

何度も

すでにもう

解消されたはずの

痛みを

 

味わい続けて

きたではないか。

 

だから

もういいだろう。

 

そろそろ

分離をしても。

 

むしろもう、

「過去」に

お付き合いしている

時間はない。

 

「未来」に

活かすための

「過去」であるなら、

 

もうきちんと

あなた自身から

「分離」させるといい。

 

その「過去」は

「あなた」

ではないのだから。

 

「あなた」は

今ここにいる

あなただ。

 

「あなた」は

今ここにしか

いないのだ。

 

これから

今、

何をするか?

は、

 

今の「あなた」が

決めればいい。

 

「過去」は

もはや

完全なる

無関係だ。

 

今のあなたは

どうするんだ?

 

今、

何をしたいんだ?

 

つづく

 

過去

 

皆さんの場合、

過去を振り返る

ということが

普段はあるだろうか?

 

私は過去など

振り返らない。

未来のみ見つめる。

 

という

人もいるが、

 

過去の振り返りは

想定外の気づきを

私達にもたらしてくれる

ことがある。

 

私はいつも

「私の人生」

というものを

過去・今・未来を

一直線に結んで、

 

その全体像を

客観的に眺める

ということを

 

ほぼ毎日のように

行なっている。

 

実は意識的に

そうしているわけでは

なく、

ふと、無意識に

それをしてしまうので

あるが。

 

そうして

人生の全体像を

眺めていると、

自然に過去のある場面に

引きつけられる

ことがある。

 

すると私の意識は

その場面へと

飛ぶ。

 

その場面に完全に

入り込む。

 

そして

そこでもう一度、

過去のその体験を

やり直すのだ。

 

もちろん

事実を捻じ曲げる

ことはしない。

 

実際の過去の

その出来事を

そのままに

もう一度、体験する。

 

しかし

今の私がそれを

すると、

その出来事の景色が

その当時とは

まったく別物に変わる

ということは

本当に多い。

 

そしてそれにより

その出来事からの

気づきが来る。

 

その気づきが

今の私への指針に

なるのだ。

 

私達は

体験の中で

生きている。

 

人生とは

体験だ。

 

しかしその体験は

一度の体験で

済ましてしまうには

惜しすぎる。

 

体験は

何度でもし直せる。

 

それにより

人生をより豊かに

進めることは

可能だ。

 

無理に過去を

振り返る必要は

ないが、

 

人生を客観的に

眺めつつ、

自然な振り返りは

強くお勧めする。

 

つづく

 

過去とは何か?

 

これまでの人生の

延長線上に

これからの人生が

あるわけではない。

 

突然、

ここまでの流れを

逸脱して、

 

まったく新たな

線を

描き始めるかも

しれない。

 

それが

私達の人生。

 

しかしそれは

決して、

これまで過去に自分が

培ったものを

捨てなさい、

ということではない。

 

逆に、

過去に執着する

ことでも、

過去の経験に

固執することでもない。

 

これまでの自分。

過去の自分。

 

私達にとって

「過去」

とはいったい

何なのだろうか?

 

・・・・・・

 

過去とは

幻だろうか?

 

もしくは

自分自身の

解釈に過ぎないの

だろうか?

 

久しぶりに故郷に

帰り、

子どもの頃に遊んだ

公園に行くと、

 

あれ?

こんなに小さかったっけ。

 

びっくりしたりする。

 

私達は

あらゆる経験を

自分の「解釈」を通して

行なっている。

 

だから

事実を事実として

あるがままに

記憶しているわけでは

ない。

 

ということは、

私達の中にある

「過去」とは、

単なる解釈に

過ぎないのだろうか。

 

そうとも言えるし、

そうとは言えない

気もする。

 

・・・・・・

 

過去は、

今の自分を

形づくるものだろうか?

 

人は

過去の経験によって

個性を変えて行く。

 

自分とまったく

同じ過去を持つ人は

世の中に

一人もいない。

 

過去とは

自分だけのもの。

 

その過去によって

今の考え方や生き方は

変わるだろうし、

未来の自分へも

大きな影響を受けるだろう。

 

でも一方で、

過去にまったく

捕らわれない生き方

というのも

あるかもしれないし、

ないかもしれない。

 

私達は、

過去の影響から

脱することが

できるのか、

できないのか?

 

・・・・・・

 

ここで

ちょっと奇抜なことを

書こう。

 

私は思うのだ。

 

過去とは、

 

「抱っこ」

 

であると。

 

私達は皆、

自分自身の過去に

「抱っこ」されている。

 

過去に安住すれば、

それはそれで

自分自身は安心かも

しれない。

 

しかし私達の体は

どんどん大きく

なる。

 

大きくなれば、

抱っこしている腕から

体が溢れ、

いつか支えきれなくなる。

 

私達は

どこかでその「抱っこ」

から

自立しなければ

ならない。

 

そして今度は逆に、

過去そのものを

私達自身が

抱っこできるといい。

 

過去は私達に

大きな影響を

与えるが、

 

その過去に

支配されてはならない。

 

かと言って

過去をないがしろに

する必要もない。

 

自らが

過去を抱っこし

過去を愛するように

なること。

 

どれだけ

過去が大きくなろうとも、

その分、

私達自身も大きく

過去を愛する。

 

そうなれると

いいな。

 

・・・・・・

 

過去に

抱っこされる人生

から、

 

過去を

抱っこする人生へ。

 

その転換点が

人生には

必ず来る。

 

今、そこにいる

人達は

多いのではないかな。

 

つづく

 

過去は振り返られるかい?

 

私はよく、

自分の人生を

振り返る。

 

過去を振り返る

よりも、

常に未来に意識を

向けた方がいい、

 

とも言われるが、

 

過去を振り返る

ことができない

うちは、

自分の本当の

未来を

築くことはできない。

 

なぜなら

過去の体験は

すべて

自分自身の心の中に

残っている。

 

それを観ない

ということは、

自分と向き合っていない

ということに

なるからだ。

 

自分と向き合えない人

に、

真本音の未来は

見つからない。

 

・・・・・・

 

とは言え、

何でもかんでも

まずは過去を振り返る

ところから、

 

・・・とやってしまう

サポートも

お勧めできない。

 

どうしても

見つめたくない

辛い過去は

誰だってある。

 

それを

見つめるだけの

準備が整う前に

強引に過去を見つめることで

心が壊れることもある。

 

人の心は

繊細だ。

 

やり過ぎると

すぐに壊れる。

 

しかし、

 

人の魂は

何があろうと

安定している。

 

心と魂は

別個のものだ。

 

魂に基づいて

今日という日を

生きることができる人は、

 

繊細な心のすべてを

見つめることが

できる。

 

魂の安定を

常に感じ取れるから。

 

しかし、

自分の魂を無視した

日々を送る人は、

自分自身の魂と

乖離し、

結果として

魂の安定を

感じられなくなる。

 

その状態で

自身の繊細な心と

向き合うのは

難しい。

 

安定しているから

こそ、

あらゆる過去を

振り返ることができる。

 

だからまず私は

クライアントさんに

その、安定状態に

なっていただくための

サポートをする。

 

つまり、

日々を

自分の魂に基づいた

行動が取れるように

サポートする。

 

魂の意思のことを

私は

「真本音」

と呼んでいる。

 

つまり、

真本音度合いを高める

サポートを

私はする。

 

・・・・・・

 

私自身も

自分の真本音度合いが

高まってからだ、

 

本当に

過去と向き合えるように

なったのは。

 

それまでも、

過去を振り返ることは

何度もしたが、

すべて

「ひん曲がった」見方

をしていた。

 

要するに、

自分に都合の良い

見方をしていた。

 

見たくないものは

見ずに

見ても差し支えのない

もののみを

見ていた。

しかも、

自分の分厚いフィルター(解釈)

をつけて。

 

それでは

過去の振り返りとは

言えない。

 

真本音度合いが

高まり、

安定度合いが高まる

ことで、

私は初めて

あるがままに過去を

振り返ることが

できるようになった。

 

まぁ、

過去を振り返る

と言っても、

意図的にやるという

よりも、

自然にフラッシュバックを

してしまうのだけど。

 

そして

大抵の場合、

そのフラッシュバックは

私を「反省」させる

ものだ。

 

過去の振り返りは

私にとっては

反省の時間だ。

 

しかし大事なのは、

「反省しようと思って

過去を振り返る」

のではなく、

 

「自然に過去を振り返り、

結果として

自然に反省する」

ということ。

 

この違いは

大きい。

 

前者の反省は、

自分を責めるだけで

終わる可能性が高い。

 

後者は、

本当に「反省」できる。

 

その結果として、

「今」や「未来」への

重要な指針となる。

 

こんなこと

胸を張って言える

ことではないが、

私の過去は

本当に恥ずかしいもの

ばかりだ。

 

道を歩いている時に

ふと

フラッシュバックする

ことがある。

 

その瞬間、

思わず私は

「ごめんなさい」

と小声で呟いていることが

多い。笑

 

過去において私は

随分と多くの方々に

迷惑をかけてしまった。

 

傲慢だった。

 

だからこそ、

今のこの瞬間に

今、目の前にいる

この人に、

 

本当に

真摯に向き合おうと

思うのだ。

 

つづく

 

未来に向かっていきましょう

 

未来がわからない

というのは

素敵なことです。

 

1秒後に

何が起こるかわからない

というのは

素敵なことです。

 

私達は

3次元という世界に

生きていますが、

いつも申し上げることですが、

3次元世界独特の魅力の

大半が

この、未来がわからない

ということです。

 

最近、

ちょっと極端な言い回し

ばかりをしているような

気がしますが、

今回もまた、ちょっと

極端に言いますね。

 

未来を予測するなんて

まったく意味がない。

 

と私は思ってるんです。

 

だって、

せっかく未来がわからない

という魅力的な世界に

いるのに、

予測してどうすんの?

・・・と。

 

これは私の体験上の

ことですが、

未来を予測すればするほど、

反応本音が

たくさん発生します。

 

そして

肝心なことが、

観えなくなってしまいます。

 

肝心なことの

代表的なものが、

「次の一歩」

です。

 

自分が本当は

どのような「次の一歩」を

踏み出そうとしているのか。

 

それが

わからなくなって

しまうのです。

 

未来とは、

予測するものでは

ありません。

 

・・・・・・

 

しかし、

未来に意識を向けることは

とても大事です。

 

「未来に向かって

いきましょう!」

 

というメッセージは

すべての方々に

お伝えしたいことです。

 

なぜなら私達は

紛れもなく、

未来に向かって生きて

いるからです。

 

未来とは、

予測するものではなく、

願うものです。

 

心から、

というよりも

魂から願うものです。

 

そして

その願いに向かって

未来とは

自ら創り上げるものです。

 

予測をして

それに合わせて、

自分の道を決める。

 

小賢しい!

と、私は思います。

 

・・・はい、

かなり極端な言い回しです。

すみません。

 

でも、

そこから自由になれると

その人は本当に

毅然と

「今」

に集中できるんです。

 

最も大切なのは

「今」

に生きることです。

 

「今」

に集中することです。

 

未来の予測は

そこを阻害します。

 

「今」

には、

「すべて」

があります。

 

本当は、

「今」

には

「過去」も「未来」も

すべてが

融合されています。

 

私達の高い次元では、

過去も今も未来も

すべてが「一つ」です。

 

これを

3次元的な表現で言えば、

高い次元の私達は

未来をわかっています。

 

未来を

知っています。

 

すべてを

知っています。

 

その、

高い次元の私達の意識が

発動する唯一の条件が

「今」に

集中することなんです。

 

「今」に生きる

ことなんです。

 

ですからそこに

淀みが起こることは、

自分が本来創り上げる

未来を

創り上げられなくなる

ということにつながります。

 

3次元の世界に住む

私達にとって

最も大切な生き方が

「今」に生きる

ことです。

 

・・・・・・

 

素直な気持ちで

「未来」を

願いましょう。

 

できるかどうか?

実現できそうかどうか?

ではなく、

自らの純粋な想いが

大切です。

 

その願いをいつもいつも

大切にしながら、

「今」に

向かいましょう。

 

「今」に向かうとは、

「今、何をするか?」

をとことん大切にする

ということです。

 

淀みのない

「今の行動」を

決めるということです。

 

その「淀み」が

いつも完全になくなっている

状態を

真本音度合い100%と

私は呼んでいます。

 

この状態には

本当は

すべての人が

なれるのです。

 

私の願いは、

そういった人が

一人、また一人と

増えること。

 

そして世の中の

1割以上の人が

そうなれること。

 

1割の人がそうなれば、

世界は間違いなく

変わります。

 

それが私の

未来への願い

です。

 

つづく

 

生まれたばかりの自分を取り戻そう

以前、私の母親から

聴いたのですが、

私は生まれたばかりの

赤ん坊の頃、

ほとんど

泣かなかったそうです。

 

ただ大仏のように

ジーッとしていたそうです。

 

あんまり泣かないものだから、

心配になって

産婦人科の先生に

相談に行ったそうです。

 

産婦人科の先生は

「どれどれ・・・」

と言いながら、

私のお尻を思いっきり

つねったそうです。

 

すると

私は大泣き。

 

「あっ大丈夫ですね。

これだけ泣けば

健康です」

 

・・・だって。

 

「大丈夫ですね」

じゃねーだろうよ。

こっちは落ち着いて

この世に生まれたことを

しみじみと

味わっていたのによぉ。

 

・・・と私は

思っています。笑

 

実は、

当時の私は

この世に生まれた悦びを

一人静かに

噛み締めていたのでした。

 

その記憶が

あります。

 

というよりも、

いつでもその時点の自分に

戻れるのです。

 

人生の最初の頃の

自分。

 

私はたまたま

「実在」をあるがままに

感じ取れるので

それが顕在意識レベルで

できますが、

本当はすべての人が

(当たり前のことですが)

生まれたばかりの頃の

自分をちゃんと

覚えています。

 

その時の

自分の想い、願い、

そして

強い意志。

 

この世には、

強い意志がなければ

生まれてくることは

できません。

 

この世に

生まれてきたということは

もうそれだけで

大変なことですし、

私達は

自分の人生を引き受ける

覚悟が

できているのです。

 

最初から。

 

それが、

今ここにいる

すべての

私達です。

 

・・・・・・

 

3歳の頃。

 

私はふと、

青空を見上げ、

自分の体が健康であることを

とてつもなく深く

感謝しました。

 

健康とは

なんて素敵な

ことなんだ!

 

と、

とてつもなく深い

悦びを感じました。

 

6歳の頃。

 

あれは確か、

小学校の入学式の

直後です。

 

田んぼに咲く

満開の蓮花の花々を

見ながら、

「あぁここから、

私の人生は本当に

始まるのだな」

と、

感慨にふけっていました。

 

これから何度も、

春のこの始まりの気持ちを

感じるだろうが、

今この目の前にある

満開の蓮花の花々を

私は一生忘れずにいよう

と思いました。

 

そして、10歳の頃。

 

私は、

私の人生の終わりに

想いを馳せました。

 

死を迎えるというのは

なんと、

恐怖を伴うものだろうか、

ある意味びっくり

しながら。

 

しかし、

私はどのように人生を

終えるのだろうか。

 

私はその時、

どのような自分に

なれているのだろうか、

と、

何十年も先の自分に

想いを馳せました。

 

そして

その想いを

「ラストページ」

という名の

詩にしました。

 

どこでどうなったのかは

まったく覚えていませんが、

その詩が

朝日新聞に掲載される

ことになりました。

 

それは、

人生の最期が

迫っている人が

人生の最期に

書くような内容の

詩でした。

 

ませたガキだと

お思いでしょう。

 

確かに

そうですね。

 

でも、恐らくそういった

ませた自分が出る

その瞬間の私は

「実在」を

感じ取っていたのだと

思います。

 

ませているのは

本当にその瞬間だけで

あとは普通の

子供でした。

・・・だったと思います。

 

「実在」を感じ取る

とは、

過去も未来もすべてを

「今ここ」に

感じ取れるという

ことです。

 

過去の自分にも

なれますし、

未来の自分にも

なれます。

 

それは

イメージでも想像でもなく、

本当の

「実在」です。

 

私はたまたま

それを顕在化できますが、

顕在化できるかどうかは

別として、

すべての人が

本当はそういったことが

できます。

 

つまり、

過去も未来もすべて

自分の人生を

引き受けて、

「今ここ」における

判断や決断を

下すことができる

ということです。

 

・・・・・・

 

私達は、

自分の人生を

自分で

引き受けています。

 

最初から。

 

生まれた

その瞬間から。

 

だから

ここに存在

できています。

 

にも関わらず、

自分の人生から

逃げる方向の

発想や決断や行動を

し続けてしまう人が

います。

 

それもまた人間

なのですが、

でも、

なんか、

もったいないですね。

 

せっかく

人生を引き受けたのですから、

そんな自分を

思い出せるといいなぁ、と

よく思います。

 

そんな自分を

思い出した方が

よっぽど人生は

楽なんですけどね。

 

逃げれば逃げるほど

辛くなる。

・・・それが人生。

 

楽になるために

逃げようとしますが、

それをすればするほど、

苦しみは

増してしまいます。

 

開き直って、

私の人生は

私のものだ。

私の人生は

私が決める。

となった方が

よほど、

身が軽くなります。

 

あなたは

あなたです。

 

他のどこにも

あなたは

いません。

 

あなたが

あなたなのです。

 

そして

あなたの人生は

あなたのものです。

 

その人生を

良くするも

悪くするも

それは

あなたしだいです。

 

もちろん、

何が良くて

何か悪いのかも

あなたが

決めるのです。

 

・・・こう言われて

辛さを感じる人は、

もう少し

自分の想いや願いや

意志を

大切にした方が

よいですね。

 

つづく

 

本当に望む未来を描くには

今、自分は確かな道を

歩んでいる。

 

・・・という実感は、

未来が見通せているから

得られる、

というわけではありません。

 

むしろ私達の真本音

(真本音のことをあえて

魂と表現します。

あえて、ですが・・・)

私達の魂は、

わざと自分自身に

「未来を見せない」

ということをするケースが

多いです。

 

なぜなら、

私達に「準備」ができていない

からです。

 

「準備」が完了しないうちに、

もし私達が「未来」を

観てしまったら、

どうなるでしょうか?

 

多くの場合、

私達はその「未来」に

縛られることになります。

 

「未来」が

プレッシャーになります。

 

もしくは、

「未来」と今のギャップの大きさに

無気力になってしまう

かもしれません。

 

私達が真本音(魂)で

決めている「未来」は、

準備ができた時点で

「徐々に」

観えてきます。

 

つまり

「段階」があるのです。

 

一つの準備が完了すれば、

一つ、未来へのヒントが

わかります。

 

そしてもう一つ次の準備が

整えば、

未来像がより具体的になります。

 

さらにまた次の準備が

整えば、

さらにまた未来の姿が

明確になります。

 

・・・というように、

自分自身の準備には

ステップがあり、

そのステップに応じるかのように

未来が「徐々に」

観えてきます。

 

それを真本音(魂)は

意図的に行なっています。

 

よく、こんな声を

聴きます。

 

「私はどうしても未来を

描けません。

どう描いても、ピンときません。

違和感ばかりで、

未来を描く気になりません」

と。

 

それはまだ

未来を観るだけの準備が

整っていないのです。

 

私も自分自身の

人生のビジョンが浮かぶまでは

だいぶ時間がかかりました。

 

本当の意味での

私の人生のゴール(と決めていること)

がわかったのは、

たったの3年前です。

 

「わかった」と言っても

まだまだ抽象的です。

 

すべてが明確に

観えているわけでは

ありません。

 

でもそれで充分です。

 

必要な時に

必要な未来は

必ずわかるからです。

 

それよりも大切なのは、

「必要な時に

必要な未来が

ちゃんとわかる自分で

あること」

です。

 

人によっては

「準備」が一生整わない

というケースもあります。

 

いえ、実は

そんな人が圧倒的

多数です。

 

もしくは、

「準備」は整っているのに

未来を観ることができない

人もいます。

 

「必要な時に必要な未来が

ちゃんとわかる自分になる」

ためには、

必須なことが

一つ、あります。

 

それは言葉を換えれば、

 

「どんな人が

自分が本当に決めている

未来(ビジョン)に

気づくことができるか?」

 

という問いの答えです。

 

その答えは

単純明快です。

 

「今を大切に

生きている人」

 

です。

 

では、

「今を大切に生きる」

とは、

どういうことでしょうか?

 

これも

単純明快です。

 

「自分の本当に望む生き方を

今この瞬間に

大切にする」

ということです。

 

「今」とは、

この3次元の世界においては

唯一の「現実」です。

過去も未来も、

「現実」ではありません。

私達の頭の中にあること

です。

 

自分を大切にするとは、

「現実の自分」を

大切にすること。

人生を大切にするとは、

「現実の人生」を

大切にすること。

 

それはつまり、

唯一の現実である

「今」を大切にすること。

 

・・・私達の真本音(魂)は

そのように捉えてます。

 

どれだけ

未来を大切にしようと

思っていても、

今を大切にしない人は

一生、未来を大切にすることは

できないのです。

だって、

今の積み重ねが未来を

創るのですから。

 

今を大切にできる人が

未来を大切にできる。

そして、

今、望む生き方のできる人が

望む未来を実現できる。

 

そんな「事実」を

私達の真本音(魂)は

大切にしています。

 

「人生のあらゆる場面において

今、大切にしたい生き方」

のことを

私は、「人生理念」と

呼んでいます。

 

それは、

「今この瞬間に、

私は本当はどんな生き方を

したいか?」

の、その人その人の

真本音の答えです。

 

魂が望んでいる

答えです。

 

私はそれを

シンプルに言語化

することを

お勧めしています。

 

言葉として表すことは

有意義です。

 

それがもし

真本音(魂)から浮かび上がる

言葉であれば、

その言葉そのものに

深いパワーが宿るからです。

 

その言葉を

心の中でつぶやくだけで、

シュッと「本来の自分」に戻れる、

・・・そんなパワーが

宿ります。

 

そして、

その「人生理念」を

自分自身の心の中心に

いつも置いておくのです。

 

つまり、

魂の望む生き方を

心の中心に据えるのです。

 

それにより、

「今を大切にする度合い」は

圧倒的に高まります。

 

真本音度合いも

圧倒的に高まります。

 

そして、

その状態でいつも楽しく

未来を描くのです。

 

未来を描こうと

するのです。

 

すると、

必要な時に必要な未来が

自分の中心から

湧き上がってきます。

 

それは

頭で無理矢理に考える

ものではありません。

 

それはもう

私達の中にすでに

存在していますから、

必然的に

浮かび上がってくるのです。

「徐々に」

ではありますが。

 

たとえ

未来がわからなくとも、

今を大切に生きていれば、

「今の私は望む未来に

着実に向かっている」

という確信に

満ちてきます。

 

「今と未来のつながり」

を実感できます。

 

それはとても

気持ちのよいこと。

 

未来を見通せるから

確信が起こるのでは

ありません。

 

今を大切にするからこそ

未来への確信が

自然に生み出されるのです。

 

つづく