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- 2019年 4月
ここだけは
譲れない。
という
こだわりを
誰もが持っている
けど、
新しい時代を
迎えることだし、
一度、
そのこだわりを
横に置いて
みないか?
いったん、
「何でもOK」
という
自分になって
みないか?
こだわりは
こだわりなので、
自分にとっては
とても大切なもので、
それがなくなれば、
まるで
自分が自分では
なくなるみたいで、
ある種の
不安もよぎるかも
しれないが、
でもあえて、
一時的で
よいから、
自分にとって
最も重要なその
こだわりを
横に置いて
みないか?
そして
そうすることで
観えてくるもの、
感じるもの、
思いもかけない
新たな発想を、
一度しっかりと
受け止めて
みよう。
さらには、
これまでの
そのこだわりを
持ち続けていた
自分自身を
ちょっと
客観的に
見つめてみよう。
その自分は
どうだい?
小さく
観えるかい?
大きく
観えるかい?
そのこだわりは
これからもずっと
大事に
持ち続けると
いいかな?
それとも、
今回やってみた
ように、
こだわる時と
あえて横に置く時と、
その時その時に
合わせて
臨機応変に
使い分けた方が
いいかな?
まぁ
いずれにしても、
「これがなきゃ
生きていけない」
というものの
ほとんどは
「執着」
だから。
このこだわりが
なければ
自分は自分で
いられない、
というのも
ちょっと窮屈だね。
こだわりは
こだわりとして
大事にすれば
いいけど、
大事にすること
と
それに固執すること
は
別のことだからね。
新たな時代。
自分は
どんな自分として
生きていくか?
これまでよりも
ちょっと大きく、
ちょっと自由な
自分として
スタートを
してみないか。
つづく
あなたの中の
迷いは
何だろうか?
私には
迷いはない。
などとは
決めつけないで
ほしい。
今この瞬間、
この時、
あらゆる人の中に
迷いは
ある。
今は
そういった
大切な時間
だ。
特にこの
数日は。
迷いは
必ず
ある。
今は。
そこに
きちんと目を
向けられるか
どうか?
によって、
令和という
新たな時代の
スタートが
根本的に
変わってくる。
あなたの
迷いは
何か?
本当は
あなたは今、
今だからこそ、
何を
迷っているか?
ちゃんと
向き合おう。
そして。
迷いには
必ず
選択肢がある。
だから次には
あなたの
選択肢を
明確にしよう。
複数の選択肢が
あるからこその
迷い。
逆に言えば、
漠然としていた選択肢を
明確に
することで、
答えが
観えてくる。
とは言え、
答えを出すのは
焦らないこと。
複数の選択肢を
明確にしたら、
次は、
いつ答えを
出すか?
を
決めよう。
何月何日
何時何分、
と、
具体的に
決めよう。
恐らくこの
タイミングは
そう遠くない。
恐らく
ほとんどの人は
この連休中に
答えを出すの
だろう。
タイミングが
わかれば、
あとはその時を
静かに待ち、
その日の
その時間に、
きっちりと
答えを
出そう。
そして、
「決断」
をする。
決断とは、
一つの答えを
決めて、
他の選択肢は
すべて
断ち切ること。
一つを決めて、
他を断ち切る。
だから
決断、だ。
100%その道を
行くと、
完全に決めよう。
そして
新たな時代の
道を
始めよう。
つづく
人の成長には
段差がつきもの。
比例直線のような
成長は
普通はしない。
緩やかな
成長を普段は続け、
しかし
ある時、突如として
「段差」が来る。
階段のステップアップ
と同じ。
段差を登り、
次の緩やかな大地に
たどり着くまでは、
恐らく人生の中でも
最も
あらゆるものが
不安定となるだろう。
「あらゆるもの」とは、
心の内と外の
あらゆるもの。
心の内は常に
不安と不安定で
いっぱいとなり、
結果として、
過去の最も
戻りたくない自分の
心のパターンが
復活することもある。
心の外では
環境が大きく変わる
ことがある。
仕事が変わる
とか、
人間関係が変わる
とか。
いずれにしても
「変化」
が大きく始まる。
多くの人はここで
「変化を収めよう」
としてしまう。
不安定はもちろん
嫌なことだからだ。
しかし
何をやっても
収まらない。
収めようと
すればするほど、
より不安定になる。
実はそういった
状態の人が
私にコーチングの依頼を
されることが
多い。
収めるために
サポートを受けようと
するのだ。
しかし私は
逆のサポートをする。
「不安定のままで
いてください」
と
お願いしたり、
時には、
「もっと不安定さが
増す方向に
進みましょう」
と
提案することもある。
すべては
「段差」をしっかりと
乗り越えるためだ。
「段差」を乗り越える
ことで、
真の安定と
次の人生のステージが
始まることが、
側から観ていれば
よくわかるからだ。
「不安定さ」は
恐れるものでは
ない。
いや、
恐れてもいいが、
逃げるものでは
ない。
恐れつつも
立ち向かって
ほしい。
ここで後退すれば、
間違いなく
より多くの不安定が
自分の前に
立ち塞がり、
今後は、
その不安定さから
逃げ続ける人生へと
悪い意味で
変化してしまう。
ちょっと酷な
言い方かもしれないが、
「不安定さ」を
楽しんでほしい。
今は
段差を乗り越える
時。
そんな時は
何をやったって
どうせ
不安定だ。
ならば、
人生において
そんなに頻繁には
起こらない
今の時期を
味わいながら
進もうか。
・・・そんな
開き直りを
してみてほしい。
あなたなら
できるはずだ。
つづく
人には
突然に、
そして一気に、
真本音度合いが
高まる瞬間が
ある。
その多くは、
人と向き合っている
時だ。
その向き合い方も
半端な向き合い方
ではなく、
完全に
向き合えた瞬間だ。
その瞬間は
フッと、その場の
空気が変わる。
場合によっては
目眩に近いものを
私は感じることも
ある。
真本音度合いが
一気に高まることで、
まるでその人は
別人になったのでは
ないか、
というくらいの
これまで見たことのない
個性を出すこと
さえある。
しかし実は
それこそが
その人の本来の
個性の一端だ。
そして、
声。
声の質が
変わるのだ。
一言一言の
言葉達が
トツ、トツ、・・・
と胸に
響いて来る。
言葉を発する
というよりも、
清らかな音色が
まるで泉のように
湧き出ている、
という表現を
したくなる。
その声を
聴くと、
私は全身が
ゾワっとしたり、
胸がキュン
としたりする。
こういった
場面に出会うと、
人とは
神秘の存在だ。
と、
否が応でも
思ってしまう。
そして、
人の奥深さは
無限ではないか、
とも。
真本音状態の
突然の高まりは、
残念ながら
最初はわずかな時間で
終わるかもしれない。
しかし
一度でもそれを
体験すれば、
後のサポートは
実に楽だ。
一度も体験のない
状態と、
わずかでも一度は
体験した状態
では、
根底の何かが
変わるからだ。
その「何か」とは
あえて表現すれば、
「自信」
なのかもしれない。
自信、とはつまり
自分を信じる力。
たった一度でも
一気に真本音度合いを
高める体験をすれば、
「あぁ私は
自分を信じても
いいかもしれない」
と、
どこかで強く
納得するのだろう。
それがその人の
佇まいを
変える。
本人の自覚の
ないところで、
その人は
どこか毅然となる。
その毅然さが
また、
真本音度合いを
高めていく。
人間は
神秘だ。
と、
素直に実感
できる
今のこのお仕事に
私はやはり
深く感謝する。
つづく
人生の
選択肢の前で
迷ったら、
光を感じる方
に進もう。
「光を感じる」
と言っても、
その先の結果を
予測するわけでは
ない。
その選択肢の
向こうにある
「未来」に
ただ純粋に意識を
向けた時に、
光を感じるかどうか?
だ。
感覚のみで
判断する。
これをすると、
どう考えても
こっちの道は
茨の道だよなぁ、
厳しい道だよなぁ、
上手くいかないよなぁ、
と
考えてしまう道の方に
光を感じる
時がある。
普通に頭で
考えたら、
絶対選ばない道。
その方向に
光を感じてしまう
時がある。
そんな場合は、
理屈ではない。
勇気を持って
そちらに進むことを
私は
オススメする。
最もオススメ
できないのは、
その逆パターン。
頭で考えれば、
ここが一番無難だ、
と思えるのに、
なぜかその方向の
未来に
光を感じない、
・・・という道。
それを選択してしまうと、
ほぼ間違いなく
後悔することに
なるだろう。
光を感じるか
どうか?
は、
自らの真本音が
望んでいるかどうか?
と
イコールだ。
要するに
単純に言えば、
真本音の望む方向へ
進めーーーっ!!
ということだ。
進む前に
どれだけ怖くても、
どれだけ勇気が
必要でも、
そういった道は
進み始めれば、
途端に充実度が
違ってくる。
最初は少し
大変でも、
どんどん
面白くなってくる。
自分の人生を
進んでいる
実感も
生まれてくる。
上手くいくかどうか、
よりも
そういった
充実の道にこそ、
私達は生きがいを
感じられるものだ。
重要な選択で
あればあるほど、
自らの
感性を
信じよう。
頭で決める
のではなく、
心で
決めよう。
そして
決めたらもう、
100%の気持ちを
その道に
向けて進もう。
つづく
夢を持つことは
やっぱり
大事だなぁ。
でも、
とりあえずの夢
なら
持たない方がいい。
ちょっと
極端な言い方
だが。
とりあえずの夢
は、
とりあえずの人生
を
創り上げてしまう。
であれば、
本当の夢が
見つかるまでは、
「今この瞬間」
に集中すると
いい。
今この瞬間を
本当に
本当に
大事にするのだ。
本当に
本当に
大事にする、
とは
今この瞬間を
愛でる
ということだ。
愛でる、
とは
満喫すること
だと
私は思う。
今ここにいる
自分自身。
自分の魂。
自分の心。
自分の体。
さらには
自分以外の存在。
周りにある
すべてのもの。
周りにいる
すべての人。
自然、人工物、
目に見えるもの達。
そして、
目の届かない
ところにある
すべてのもの達にも。
それらに
意識を向け、
すべてを
あるがままに
感じる。
これが
満喫であり、
愛でることだと
私は思う。
もちろん、
そこには
自分の嫌いなものも
目を向けたく
ないものも
あるだろう。
でも、
その「嫌い」という
気持ちも含めて
すべてを
満喫してしまおう。
そんなつもりで
今この瞬間を
大切にして
みよう。
そんな一日を
過ごして
みよう。
今日
それができたら、
明日も
そうしてみよう。
一日一日、
そんな毎日を
積み重ねよう。
そうすれば、
自ずから
未来が観えてくる。
最初はそれは
漠然としたもの
かもしれない。
でも、
だんだんと
具体化してくる
だろう。
それが
本当の夢。
みんなそれは
必ず出会える。
ちゃんと
生きれば。
そして
本当の夢が
わかれば、
さらに
今日という一日を
愛でることが
できるだろう。
それによりさらに
夢は
具体化してゆく。
今と未来の
コラボが
始まり、
今と未来が
まっすぐに
つながる。
誰もが
それはできる。
誰もが
今この瞬間から
それを
始められる。
つづく
完了感が
出るということは、
次のステージ
への
スタートを
意味する。
完了感が
出るということは、
何かを一つ
手放さなければ
ならない。
それは
寂しいことなのだが、
でも
そこに留まれば、
どれだけの
不調和がその後に
発生するかを
私はこれまで
いやというほど
経験してきた。
一つを
終えたら、
一つを
手放す。
一つを
手放したら、
一つを
始める。
新たに始める
その一歩は
これまでより
ちょっと次元が
高まっている
はずだ。
それは
勇気を伴う
ことが多いが、
勇気さえ出せば、
新しく軽やかで
清々しい
風を受けながら、
調和の道を
進むことができる。
そういった
単純明快な
進み方のできる
仲間を
私は丁寧に
増やしていきたい。
そんな仲間達と
語り合い、
笑い合っていたい。
つづく
言葉の一つ一つは
とても冷たく、
人を否定すること
ばかり言い、
人の心など
関係ないよ、
という意味での
厳しさをいつも
前面に出している
のに、
なんか、
この人のこと
好きだなぁ、
と思える
人が
たまにいる。
マウンティング、
と言うのかな、
そんな圧も
感じるのだが、
その一方で、
とても居心地良さ
を
感じてしまうのだ。
別に私が
マゾなわけでは
ない。
(よく言われるが。)
その居心地良さ
とは、
あったかさ
と
表現することも
できる。
そういう人は、
こちらが目を
見つめると、
見つめ返して
くる。
睨み返す
のではない。
子どものような
目で
見つめ返して
くるのだ。
その瞬間、
つながった感
が
私の全身に
伝わってくる。
もちろん
その人が私と
同じように
感じているかどうか
は、わからない。
多分、
感じてないだろう。
しかし、
このつながり感は
ハンパない。
そうするともう
私の方は
その人に何を
言われようが、
あぁいいなぁ、
ずっとこの人と
こうやって
向き合ってたいなぁ、
と
思えてしまう。
(マゾではない。)
表面上の会話
では、
マウンティング
されたり、
きついことを
言われたとしても、
その言葉達を
じっと
見つめていると、
その中心に、
とてつもない
ヒントが
潜んでいたりする。
すると
そのヒントが
その人の開花や、
その人の所属する
組織の脱皮に
つながったり
する。
私が
好きになってしまう
そういった人は
恐らく、
真剣
なのだろう。
ただ、
その真剣さが、
ちょっと
(もしくは、だいぶ)
ひん曲がって
表出しているだけで、
本当は
その真剣さは、
とても明るく、
軽やかで
あたたかい。
私はその
本質の方を
感じ取れるように
なったので、
この仕事を
していて
よかったなぁ
と
しみじみ思う。
そして
その本質の方を
いつも見つめ、
そこに焦点を
合わせ、
その人を
サポートし続ける
ことで、
いつしかその人の
表面上のひん曲がりは、
修正されていく。
私自身は
修正しよう
などとは、実は
これっぽっちも
思っていない。
いや、
もしそう意図すれば
その途端に
何かが切れる。
私は
その人の本質を
感じ、
本質と
向き合い、
その瞬間感じたことを
そのまま
そこで
行なう。
そして
その人から
いただいたヒントを
宝物として、
次の
指針とする。
それだけだ。
人間はある意味、
多かれ
少なかれ
みんな
ひん曲がっている。
その
曲がった部分に
焦点を当てる
のではなく、
その奥の
中心に
焦点を当ててみよう。
すると
観える景色が、
印象が、
真逆になるかも
しれないよ。
つづく
たけうちさん、
これだけ私の話、
聴いてるんだから
もう
わかってるでしょ?
私が
自分を全然
信じていないってこと。
あれ?
何ですか、
自覚あったんですね〜。
またそうやって
軽く言う。
こんな話、
誰にもしませんよ。
そうですね。
ありがとうございます。
正直にお話し
くださって。
でも何で急に
そんなお話を?
なんかねぇ。
もう、嫌なんですよ。
こんな自分が。
あっそうなんですか。
「このままの自分でいい」
って
ずっと言われていたのに。
いや、
たけうちさんのせいに
するわけじゃないですけどね、
なんだかんだと
こうやって自分と
向かい合ってると、
やっぱやだなぁ、俺、
って
思いますよ、やっぱり。
ご自分を信じられない、
というのは、
ご自分の何を
信じられないんですか?
いやぁ、
何もかも、ですよ。
何もかも?
そう。
何もかも。
なんか自分なんか
いなくなればいい、
って
思うことが本当は
あるんですよ。
定期的にそんな波が
襲ってきます。
ひょっとして今が
まさに?
そうそう。
その時です。
何かありました?
いやいや、
何もないですよ。
その、何もないことが
嫌なんですよ。
以前は、
何もないままの人生
でいい、
って断言してたのに?
もちろん
そう思いますよ。
でも、一方で
それを嫌がっている
自分がいる。
自分が分裂しそうです。
わけがわからなくなる。
あぁ、それは
いい兆候ですね。
なに?
そうなの?
嫌だよ、こんなの。
気持ち悪いですしね。
気持ち悪いよ。
たけうちさん、
早く治してよ。
笑笑。
治しませんよ。
なんでよ〜。
クライアントが
困ってるんだぜ。
だって、
せっかく気持ち悪い
状態なんだから。
こんなチャンス
たまにしかないでしょ。
なにがチャンスだよ。
他人事だと思ってる
でしょ。
もちろん他人事ですよ。
当たり前じゃないですか。
福田さんは
あなたなんですから。
あなたに起こることは
あなた自身が
起こしてるんですから。
福田さんがご自分を
癒してあげないと。
えぇ〜、嫌だよ。
俺、自分が嫌いだもん。
自分を癒すなんて。
ご自分のどこが
嫌いなんですか?
全部だよ。
でも、その中で
特にどこが?
こういうところ。
へっ?
こういう
素直じゃないところ。
笑笑笑!
なんだ、それも
自覚してんだ。
笑わないでよ。
わかってるよ。
俺はこういう
斜に構えたところが
大嫌いで。
じゃあさ、福田さん。
10秒だけ、
素直になりませんか?
なにそれ?
10秒だけ、
私の目をじっと
見つめませんか?
えぇ〜?
気持ち悪いよ。
いいじゃないですか。
10秒だけ無言で、
まっすぐ私の目を
見つめてみてください。
催眠術?
いやいや、
そんな力、私にはないし。
人をまっすぐに
見つめると、
自分もまっすぐに
見つめられるんですよ。
まぁ、遊び感覚で。
わかったよ。
じゃあやるよ。
<10秒、見つめる>
どうですか?
そんなに悪い
もんじゃないな。
おぉ。
じゃあ大丈夫ですね。
なにが?
まぁまぁそれは
ともかくとして。
福田さん、ご自分の
何を一番、
信じたいですか?
夢、
ですかね。
何言ってんですか?
何言ってんですか、って
何言ってんの!
大真面目だよ。
だって、福田さん。
主体的に生きるのも
望みを持つのも
嫌だって
あれだけ言ってたじゃ
ないですか。
いや、だからさぁ、
そんな風に考える
自分が嫌なのよ。
そんな自分を
好きになれると思う?
思いませんよ。笑
だろっ!?
だから、そんな自分を
信じられるわけが
ないじゃないか。
って、
なんで私が福田さんから
説教されないと
いけないの。笑
じゃあ福田さん、
本当は夢があるんですね?
ないよ。
ないから困ってる。
自分を信じられないから
夢がないのか、
夢がないから、
自分を信じられないのか。
それが
よくわからんけど。
でも俺だって本当は
夢を持ちたいよ。
なんだ福田さん、
かなり健康的じゃないですか。
やっぱり。
そこまでご自分の気持ちを
素直に見つめられるなら、
もう大丈夫ですね。
今日のコーチング、
終わりにしましょう。
なんでだよ〜。
つづく
自分の器を
勝手に自分で
決めちゃってるなぁ。
惜しいなぁ。
等身大は
大事だけど、
今のあなたは
本当に
等身大?
私には
今のあなたが
窮屈にみえて
しょうがないのだけど・・・。
まるで
卵の殻のようなもので
自分を覆い、
でもその殻は
鋼鉄のように
固く、
でもあなた自身は、
ぐんぐん
大きくなって、
その殻の中には
収まりきれない
くらいになって、
本当は、
殻の大きさよりも
あなたの大きさの
方が
何倍にも大きく
成長したのに、
その小さな
殻の中に
強引に、
無理矢理に、
体を押し曲げ
ひん曲げて
丸くなって
自分を押し込んでいる。
それは
あまりに窮屈で、
苦しいよ〜、
苦しいよ〜、
ここから出たいよ〜、
誰か
ここから出してよ〜、
と、
あなたの魂は
ずっと叫んでる。
でも残念ながら
あなたの心は
それに気づかない。
今の殻が
本来の自分の大きさ
だと
頑なに思い込んで
いる。
なんで、
そんなに頑な
なの?
なんで、
わざわざそんな
苦しいことを
しているの?
多分、・・・
怖いのかな?
自分を
解放するのが。
本来の自分を
開放するのが。
本当は別に
何も怖いことは
ないんだけどね。
むしろ、
そんな殻を
取り払ってしまえば、
気分爽快、
いつも晴れやか、
自由自在、
になれるのにね。
でもやっぱり
怖いのかな。
殻があるのが
当然の人生
だったもんね。
殻こそが自分
である、
と信じて生きて
きたもんね。
自分を小さく
折り曲げて、
折り曲げて、
その
折り曲げ度合いを
高めることが
人の成長だと
信じて
きたもんね。
でも、
もうやめないか。
そういう
苦しさは。
その苦しさは
何の
生産性もない。
誰も
喜ばない。
あなたを待っている
人との
出会いも
なくなってしまうよ。
あなたには
あなたの
大切な人生が
あるのではないか。
あなた自身の
生まれた瞬間の
約束が
あるのではないか。
本来のあなた
として
生きることこそ、
あなたの
悦びであり、
あなたの
使命ではないか。
器の大小で
人の価値は
決定されない。
しかし、
等身大の自分を
受け入れるか
受け入れないか
で、
人生の価値は
大きく変わるんだよ。
それを
決定できるのは
あなたしか
いないんだよ。
つづく
上手くいくこと。
上手くいかないこと。
日々、
いろんなことが
あるが、
それらは
自分自身の
解釈に過ぎない。
上手くいかない
ことに恐怖し、
上手くいこうと
することに
執着し続けると、
本来、上手く
いくべきところで
上手くいかなく
なり、
本来、上手く
いってはならない
ところで
上手くいってしまう。
なんて
ことになる。
これを
不調和と言う。
本当は
すべてが調和
すれば、
上手くいくとか
上手くいかないとか
そんなこと
どっちでも
よくなる。
もちろん私達には
反応本音という
ものがあるから、
上手くいけば
喜ぶし、
上手くいかなれば
悲しくなる。
でも
そういった心の動き
もすべて
ひっくるめて、
あるがままが
いいなぁ、
と思えるように
なる。
そうなると
もう、
「人間であること」
そのものを
楽しめるように
なる。
人間であることを
楽しめるように
なると、
「人事を尽くす」
ことが
できるようになる。
「人事を尽くして
天命を待つ」
ことが
できるようになる。
人事に
集中できるように
なるからだ。
理想通りには
いかない。
でも、
「最善を尽くす」
ことはできる。
その、
「最善」を
どんどん高める
ことが
できるようになる。
つまり、
人事の範囲が
大きくなるのだ。
これも
人間の醍醐味
かもしれない。
上手くいけば
喜べばいいし、
上手くいかなければ
悲しめばいい。
そういった自分を
抑える必要は
まったくない。
「あるがまま」。
あるがままの
自分として、
人間を楽しめると
いいな、
と思う。
つづく
結果は
出さねば
ダメだ。
自分の
望む結果
は。
自分の望む
結果が
出ていない
ということは、
何かが
おかしい。
その
「おかしさ」が
どこにあるか?
を
しっかりと
探究すること。
これが
自律の第一歩
だ。
「結果がすべて」
という言葉が
あるが、
実は私は
結構好きな言葉だ。
なぜなら、
本当に結果を
大事にしている
人は、
間違いなく、
プロセスに
真剣だからだ。
「結果がすべて
なんて・・・。
プロセスこそが大事
ではないか」
と
言う人に限って、
結果も
プロセスも
両方ともが
中途半端だ。
・・・まぁ
一概に決めつけちゃ
いけないけどね。
でも
その傾向は
確かにある。
望む結果が
出ていないのに、
いつかは
出るはずだ。
とやっている
人は、
多くの場合、
人生から
逃げている。
「人生から
逃げる」
という意味は、
今、
自分が見つめるべき
現実を
あるがままに
見つめていない、
こと。
今、
自分が取り組むべき
課題に
真正面から
立ち向かっていない
こと。
今、
自分が向き合うべき
人と
向き合わずに
斜に構えている
こと。
そして、
今、
自分が出すべき結果
から目を逸らし、
その、
目を逸らしている
ことを
自らごまかし、
ごまかすために
他の何か別のことに
一生懸命になっている
こと。
しかし当然それは
一生懸命の
フリだ。
本当は自分が
それをよく
わかっている。
だからずっと
罪悪感が
消えない。
何かにいつも
ビクビクするように
なる。
これらを
ひっくるめると
「現実逃避」
ということに
なるし、
現実逃避している
人の多くは、
「自己満足」
に浸っている。
もちろんそれは
本当の
「自己の満足」
ではなく、
ごまかしの
ための満足。
「これでいい」
と自分に
言い聞かせる
ための満足だ。
じゃあ自分は
どうか?
現実逃避や
自己満足は
していないだろうか?
という疑問に
最もわかりやすく
答える方法は、
自分が望む結果
を、
自分が日々
出しているか?
を見ればいい。
もちろん、
すべて毎日が
上手くいくわけでは
ない。
試行錯誤こそが
大事とも
言える。
しかし
試行錯誤を
本当に大事に
できている人は、
やはり
結果を大事に
している。
「本当に
自分が望む
結果は何か?」
まずは
これすらも
明確にしていない
人が多い。
それでは
自律はできない。
まずは
そこに真剣に
なったら
どうだろうか。
つづく
心が揺れ揺れに
なることは、
人として
当然だろう。
心が揺れる
ことを
恐れる必要は
ない。
人間とは
そのようにできている
存在だから。
調子が悪い
心を、
なんとか
調子良くしようと
みんな
思い過ぎだ。
「あるがまま」
で
いいではないか。
それが
人間だから。
そういった
おおらかな目で
いつも自分と
向き合えば、
それだけで、
揺れ揺れだけど
安定している
という状態に
入れる。
心の揺れとは別の場所に
確かに、
常に安定した
土台を
感じることができる。
その土台が
あるからこそ、
私達人間は
安心して
揺れることができるのだ、
と
わかる。
揺れは
ダメ。
調子悪いのを
何とかしなきゃ。
・・・という
自分に対する
厳しさが、
本当はいつも安定している
はずの
土台の存在を
忘れさせる。
しかし本当は
それは
「厳しさ」とは
言わない。
それはただの
「自己否定」
だ。
否定と厳しさ
は
別物だ。
本当の厳しさ
とは
やさしさであり、
本当のやさしさ
とは
厳しさである。
・・・・・・
そしてその
土台となるもの。
これこそが
私達の真本音。
魂の意志であり、
願いである。
それは
言葉として
明確でなくても
いい。
しかしそれは
誰もの心の
根底に、
土台として
確かに存在する。
その存在を
感じたり
思い出すことで、
私達はいつも
安心して
揺れていられる。
人生とは
揺れ
である。
揺れながら
進むことが
人生の意味であり
意義である。
揺れないのなら、
人生を生きていない
のと
同じだ。
極端に言えば。
だから、
どんどん
揺れることに
挑戦してほしい。
開拓
してほしい。
自分自身を、
そして
人生を。
そうすれば
するほど、
私達は確かに
土台と身近になる。
土台を
思い出す。
本来の自分を
思い出せるのだ。
つづく
どうせ進むなら、
自分らしく
進んでほしい。
どうせ挑戦するなら、
自分らしく
挑戦してほしい。
良い結果を
望むのは
当然のこと。
わざと失敗する
必要はないが、
上手く手際よく
ぶつからずに
進もうとは
しないでほしい。
長い目で見れば、
どれだけ
ぶつかったか?
どれだけ
転んだか?
どれだけ
痛い思いをしたか?
によって
本物かどうかが
決まってくる。
もちろん
経験すればよい
というものでも
ない。
未経験者は
経験者には
勝てない、
などと
古いことを言うつもりも
ない。
だが、
君の真本音が
望んでいる経験が
ある。
それがあることで、
超加速できるんだ。
真本音が望む
経験は
存分にしよう。
恐れてもいい。
間違ってもいい。
挫けてもいい。
でも、
自分が真に
自分自身に必要だと
思っている経験は
存分にしよう。
未熟だからこそ、
できる経験があり、
未熟だからこそ、
得られることがあり、
未熟だからこそ、
開拓できるものが
ある。
そう。
人生は
開拓だ。
年を重ねても
開拓し続けることに
変わりはない。
であれば、
全力で開拓する
という経験を、
その気持ちの
良さを、
今のうちに
知った方がいい。
人生は
開拓だ。
どのレベルに
いるか?
ではない。
どれだけ
開拓できたか?
だ。
それにより
人生の満足度は
決まってくる。
だから、
行け。
私も、
行く。
共に
進もう。
つづく
目を閉じて
静かにしている。
何もせずに
いる。
すると
自分の心の中が
ありありと
観えてくる。
心の一つ一つを
丁寧に
横に置いていく。
すると
心の中には
何もなくなった。
しかし実は
そうではない。
何もなくなった
ように見えて、
本当は
「すべてがある」
状態となる。
光と同じで、
「すべてがある」
と、
それは
無色透明となる。
実は心とは
焦点化に
過ぎない。
焦点を当てた
ところが
強調されて、
他から分離
される。
分離されたものを
自分の心だ
と、
私達は
認識しているに
過ぎない。
本当は
最初から、
すべてここにある
のだ。
まぁそれは
ともかくとして、
一つ一つの
分離されたものを
横に置き終えると、
心は
無色透明に
なり、
すると、
世界のざわめき
が
聴こえてくる。
森羅万象の
ざわめき
と
言えばよいだろうか。
私はいつも
このざわめきを
聴きながら、
世の中全体の
把握を
している。
自分の仕事の
影響力と
自分の仕事の
未熟さと
自分の仕事の
成長ぶりを
把握している。
そして、
明日からのテーマ
を
明らかにする。
世界のざわめき
は、
数年前に比べれば
随分と
静かになった。
それはそれで
良いことだが、
静かになるが故に
聴こえてくる
雑音もある。
それらを
聴きながら、
一つのテーマが
明確になった。
それをあえて
言葉で表現すれば、
『助けない』
となる。
もう、
助けるのは
やめよう。
明日から。
随分と
助けちゃった
かな。
助け過ぎちゃった
かな。
もうちょいと
あらゆることに
厳しく
関わることに
しよう。
つづく
私自身も含めて、
人は
自分のことを
誰よりも
よくわからないように
できているのでは
ないか。
鏡がない限り、
自分の姿は
自分では見れない。
ナマの自分を
離れたところから
見ることは
一生、
できないのだ。
自分が
どのような表情を
して、
どのような空気感を
出して、
無意識のうちに
どのような振る舞いを
しているのか?
それを
正確にわかる人は
世の中に
一人もいないのでは
ないか。
だからこそ
人は、
自分以外の人との
関わりの中で
生きていく。
他人を通じて
自分を知る。
自分の影響は
他人の反応で
知るしかない。
人は、
他の人と関わる
という前提で
創られた存在
なのだと
私は思う。
だからこそ、
素直な人は
強い。
周りからの意見や
反応を
まっすぐに
受け止める人は
どんどん
成長・進化する。
その
まっすぐさ
は、
年齢は関係ない。
まっすぐな人は
いつまで経っても
若々しい。
目が、
輝いている。
人は
人と関わるからこそ、
の存在だから、
人を尊重し
人から学び
人との関わりに対して
どこまでも
真剣になる。
そんな人が
増えてほしいし、
増やしていかねば
ならない。
だから私は
今日も明日も
明後日も、
お一人お一人と
丁寧に
向かい合い
続けよう。
つづく
人生の岐路に
立つ人が、
自らの道を
選択する、
その瞬間の
覚悟は
とても尊い。
それが
真本音の決断
ならば、
その瞬間、
必ず
風が吹く。
フッと
まるでそよ風の
ように、
一瞬、
それは私の
心に届く。
そしてそれは
体の中心にまで
至り、
今度は
中心部分から
外側に向けて、
まるで
波打つかの
ように、
ゾワゾワゾワッと
痺れるような
感覚が、
全身に広がり
溢れる。
その感覚は
強い時には
5分程度も
続く。
人の覚悟が
生み出す
波動だ。
魂まで
洗われるような
心地良さ。。。
これが
人の力。
人の
影響。
この波動が、
社会全体に
伝播すると
いいな、と
いつも
思う。
つづく
ここのところ、
出会いや
再会が
増えている。
そして決まって
想定外の
展開に
つながっている。
もちろん
想定外に
素敵な展開だ。
こういう時に
感謝
という想いは
溢れてくる。
いったい私は
誰に感謝
しているのだろう?
と
ふと思う。
もちろん
出会ったあの人、
再会できた
あの人に、
だが、
でも、
それだけか?
そういう展開に
なった
必然の流れや、
運命的なものや、
人智を超えた
様々な力や
摂理や、
実在・現象問わず
たくさんの人達の
想いや願いや、
恐らく
いろんなものに
私は
感謝している。
でも、
その中でも特に、
今気づいたのだが、
きっと私は
私自身に
感謝している。
私の真本音に
感謝している。
私の反応本音に
感謝している。
私の
魂に、
心に、
体に、
私の細胞の
一つ一つに、
私のすべてに
きっと
言いようのない
感謝をしている。
のだと
思う。
自分が自分に
感謝するなんて、
昔の私には
考えられない
ことだったなぁ。
なんで
こんなにも
私は変わることが
できたんだろう?
いや、実は
「変わった」という
実感は
あまりない。
振り返れば
変わったなぁ、
とは思うが、
振り返らなければ、
私はずっと
私のまま
生きてきた
気がする。
ただし。
やっぱり
真本音を大事に
するように
なってからだなぁ。
自分自身の
真本音を大事に
生きる
ということは、
結果として、
自分自身のすべてを
大事に生きる
ということに
なるんだなぁ。
ということは
それはイコール、
自分の周りの
あらゆるものを
大事に生きる
ことに
なるんだな。
おかげさまで
そういうことを
自身で
しっかり体験できた。
こんな
幸運はないのだろう。
体験できたから
こそ、
それを
人のサポートに
活かすことが
できるのだと思う。
あぁ、
もともとできの悪い
自分でよかった、
と
苦笑いしながら
思える。
・・・ように
なれたんだな。
これから、
「令和」
という新しい時代に
入る。
ただ名前が
変わるだけじゃん、
と
思うなかれ。
これは
実在の世界の
一つの反映だ。
実在の世界は、
・・・つまりは、
私達の心の中の
世界は、
根底から大きく
変貌している。
これまでも
そうであったが、
その変貌が
一つの境界を
超えた。
人の成長で言えば、
「脱皮した」
というのと
同じことが、
実在の世界全体で
起きた。
そう、
「起きた」
のだ。
すでに
「完了」
している。
その反映が
「平成から令和」
への
移行だ。
だからこれは
とてつもなく
大きな
節目だ。
その節目を
迎えるにあたり、
日々起きている
この
出会いと再会。
やっぱ、
本当に
感謝でしょ。
つづく
後悔したことが
一度もない人は
一人も
いないだろう。
後悔は
疲れるし、
できればしたく
ないものだが、
後悔があるからこそ
人は
成長できる。
どうせ後悔するなら、
徹底的に
後悔した方が
よい。
とことん
落ちればいい。
心が
落ちていく。
それが無限に
続くことは
あり得ない。
もし無限に
続いていると
感じるならば、
それは
本当は
落ちて行っていない
のだ。
同じ場所で
ずっと
バタバタともがいている
ということだ。
同じ場所に
いるから、
しかもそれは
苦しみの場所だから、
その時間が
無限に続いて
しまう。
落ち方が
中途半端
だということだ。
落ちるならば
徹底的に
落ちること。
そうすれば
必ず
「底」
に着く。
「底」まで
たどり着けば、
あとは
浮上するだけだ。
「底」まで行き、
「底」を存分に
味わえば、
私達には
「完了感」
が出る。
そうすれば
自然に
浮上が始まる。
中途半端にもがく
のではなく、
徹底的に落ちる
ために
必要なことは、
最も見たくない
自分自身の心を
思い切って
見つめることだ。
それは
怖いことかも
しれない。
いや、
ほとんどの人が
本当に恐怖する。
しかしそれは
見ないから
そうなる。
見てしまえば、
その瞬間から
恐怖は消える。
そして、
なんだこんなもの
だったのか、
と
大抵は思う。
こんなんだったら、
もっと早く
見ておけば
よかった、と。
私達の心は
見ないうちは
とてつもなく
暗く怖いものだが、
光を当ててしまえば、
可愛いもんだ。
「いや、絶対に
私の心はそうじゃない」
と言い張る人も
よくいるが、
騙されたと思って
見てほしいのだ。
私達人間の
心は
可愛らしい。
もし
その可愛らしさが
なくなってしまった
のだとしたら、
その原因は
見ていないから
だ。
ちゃんと見れば、
可愛らしくなり、
見なければ、
もしくは
無視をし続ければ、
どんどん
暗黒になっていく。
それが
私達の心。
後悔するより
反省すること。
・・・なんて
難しいことを
言っていないで、
しっかり
とことん
後悔すればいい。
で、
浮上を始めれば、
楽になり、
そこからまた
自然に
反省が始まる。
人生なんて
失敗だらけじゃ
ないか。
人間なんて
未熟だらけだ。
それで
いいじゃないか。
ちゃんと
後悔する人は
自然に
そう思えるように
なる。
行っちゃえ!
徹底的に
落ちてしまえ!
で、
早く
楽になろうよ。
つづく
今日は冷たい雨が
降っていたね。
私は日帰りで
出張だったのだが、
電車を降りて
駅のホームで
少し震えながら
冷たい雨を
見ていたら、
今日という一日
が
とても愛おしくなった。
今日も昨日も
一昨日も、
何人もの人と会い、
向かい合ったが、
皆、それぞれに
辛さ
を持っていた。
その辛さとは
ほとんどの場合、
その人の
価値基準が
生んでいる。
これは
正しい。
これは
間違っている。
本当は
こうなることが
正解だと思うのに、
なんで物事は
こうなってしまうんだ!
という
憤りの苦しみ。
本当は
こうあるべきなのに
なんであの人は
わかってくれないんだ!
という
悲しみの苦しみ。
それは
物事や人に
向けられるばかり
ではなく、
自分自身にも
向けられる。
正しい。
間違っている。
ここは正しいが、
ここは違う。
なんで私は
こんなに
間違ったことを
してしまうんだ!
と自分を
責め続ける。
ほとんどの
人は、
自分の解釈に
よって
自分を
苦しめている。
それを
「幻影」と言い、
それは
本当の苦しみ
ではないのだが、
私達人間の
苦しみのほとんどは
その、幻影
である。
だからもう
そんな苦しみは
しなくていい、
ということを
言いたいのでは
ない。
そういった
私達人間の営み
そのものが
妙に
愛おしくなったのだ。
一日は、
解釈と共に
始まり、
解釈と共に
終わる。
人は
解釈によって
喜び、
解釈によって
苦しむ。
その世界
そのものを
愛おしく
思ったのだ。
冷たい雨だから
嫌だなぁ、
というのも
解釈。
雨の中
歩きたくないなぁ、
なんで
出張の日に限って
雨なんだ、
という解釈。
こんな日は
きっと
ひどいことが
起こるに違いない、
という解釈。
そう思っていたら、
素敵なことが
たくさん起こり、
逆にとても
嬉しくなった。
これも
解釈の成せる技。
人間って
面白いね。
正しいと
思うことは
受け入れて、
そう思えない
ことは
受け入れない。
それって
まったく
自由じゃない。
これをきっと
不自由
と言うのだろう。
本当の
自由とは、
正しいとか
間違っているとか
関係なく
すべてを
受け入れること。
受け入れる
とは
肯定する
ことではない。
ただ、
受け入れるだけ。
すべてを
受け入れて、
その上で
次の一歩を
決めること。
そういった人の
人生には
きっと
多くの選択肢が
観えてくるのだろう。
しかし
そうなれない自分が
ここにいて、
実際には
不自由な中で
毎日
苦しんでいる。
理屈では
わかっていても
どうにもならない。
人間って
大変だ。
でも、
面白い。
面白がるのが
受け入れる
ということかな?
なんか
全部ひっくるめて
愛おしくなった。
今日という
一日が
愛おしくなった。
うぅ〜、
さみぃ・・・。
つづく
自分自身のことを
深く憤っている人が
増えている。
そのストレスたるや
半端ない。
それはある意味、
真本音レベルの
憤りだ。
「なぜ私は、
私の望んでいる通りに
動かないのだ」
「なぜ私は、
本当はやればできるのに
やろうとしないのだ」
「なぜ私は、
本当の想いに目を向けず、
どうでもいいことばかりに
意識を向けるのだ」
「なぜ私は、
本当に向き合うべき人から
逃げ続け、
自己満足だけで人と
関わるのだ」
「なぜ私は
根拠のない不安ばかりに
意識を向け、
進まない理由に
し続けるのだ」
・・・
あえて言葉にすれば
そういったことに
なる。
一言で言えば、
「本来の道に
進もうとしない自分」
を、心の底から
憤っている。
そのストレスは、
「ストレス」の臨界を
越え、
「エンティティ」という
実体となっている。
それは「生き霊」とも
言える念の塊
だ。
そういった人と
向き合うと、
エンティティ達が
ワッとこちらに
襲いかかってくる。
あまりにひどい場合は、
それは「殺意」の
ようにも感じられる。
自分への憤りの
度が過ぎて、
自分自身への殺意に
すらなっているのだ。
しかもそのことを
本人(の顕在意識)は
知らない。
自覚して
いないのだ。
苦しみも
限界を越えると
麻痺するからだ。
・・・・・・
世の中全体の
真本音度合いは
間違いなく
高まっている。
特にこの1〜2年の
上昇率は
これまでになかった
ものだ。
だからが故
なのだろう。
人々の真本音が
浮上しやすくなった。
真本音が浮上する
ということは、
これまで決して
気づかなかった
自分の本当の願いに
気づきやすくなった
ということ。
これまでは
願いに向かわなくとも
自分で自分を
ごまかし続ける
ことができた。
しかし今はもう、
たとえ無意識で
あろうとも、
何となく皆、
わかっているのだ。
自分の本当の
願いを。
自分の人生の
願いを。
だからこそ、
そこに向かおうとしない
自分自身をもまた
よくわかっている。
だからこその
憤りの大きさ
だ。
・・・・・・
時代は
変わった。
私が
「真本音の時代」
と呼んでいる時代には
6年前には
入っていたのだが、
ようやく世の中は
その自覚を
し始めている。
自分の本当の
願いに向かい
生きる、
のは
人として当たり前の
ことだ。
自然な
ことだ。
しかしその
当たり前のことを
私達はしてこなかった。
その当たり前が
できないのが人生だ、
くらいに
思い込んで生きてきた。
その癖と
本当の願いとの
せめぎ合いが
今、だ。
ごまかしてきた
ことが
ごまかせなくなる。
その傾向は
今後ますます
強まっていくだろう。
だから
自分の癖に
執着している場合
ではない。
早く、
自分自身に
素直になってほしい。
しかしそれは
とても怖い
ことなのだろう。
だからこそ
そのサポートをする
人が必要だ。
「コーチ」が
必要な時代だ。
真本音で生きる
ことを
ちゃんとサポート
できる
「コーチ」が必要だが、
今はその数が
あまりにも
少ない。
でもその素養を
持った人は
確かに
たくさんいる。
特に
若い人達には
多い。
もう私も
51歳だ。
私が最前線でやり続ける
べきではない。
早く私は
多くの若い人達に、
本物の「コーチ」の力を
伝授したい。
「伝授」と言うと
おこがましいが、
でもあえて
言う。
ちゃんと
伝授したい。
丁寧に
伝授したい。
つづく
「誠実」とは
何だろうか?
これについては
いろんな答えが
あると思う。
私の思う
誠実の第一歩は、
「あるがままを観て、
あるがままを感じる」
ことだ。
逆に言えば、
「あるがままを
観ようとせず、
感じようとせず、
目を逸らし続ける」
のは
不誠実だと思う。
例えば、
自分の感じている
「喜び」
から
目を逸らし続ける人
がいる。
本当は喜んで
いるのに、
素直に喜べば
いいのに、
「自分は喜んでは
ならない人間だ」
と思い込み、
「喜ばないことこそが
謙虚な生き方だ」
と思い込み、
自分の素直な心と
向き合わない人。
そういう人を
みると、私は
不誠実だなぁ、
と思う。
自分自身に対して
不誠実だし、
自分の人生に対して
不誠実だし、
自分の現実に対しても、
共に喜びを創り合った
人達に対しても、
実に不誠実だと
思う。
そして、
そういう人ほど
周りや環境への
文句が
知らず知らずのうちに
多くなる。
自分にも
文句を言い、
周りにも
文句を言い続け、
さらに
喜びから
遠ざかっていく。
そういう人を
みると、
不誠実だなぁ
と思う。
もっと
素直に生きれば
いいのに。
と、
私はとても悲しく
なるし、
実際にこの悲しみは
ほぼ
毎日のように
感じている。
これが今の社会の
現状なのだろう。
だから、
変えたい
と
素直に思う。
「変えたい」と言っても、
「私が変える」
などと思うのは
きっと傲慢なのだろう。
私にできるのは
「コーチ」として、
いや
「人」として、
一人ひとりの方々と
誠実に
向き合い続けること
だろう。
その人を
あるがままに観て
あるがままに
感じ続ける。
それにより
私自身が悲しみを
受けることは
これからも多い
だろう。
でも、それでも
向き合い続けるのが
誠実だと思うし、
一人の人の誠実は
目の前の人の
誠実に必ず
伝播する、
と信じている。
『あるがまま』。
・・・誠実さの
基本であり
第一歩。
とても難しい
ようだが、
実は
とても簡単。
しかし
簡単であり過ぎる
が故に
難しい。
『あるがまま』。
私も含めて、
すべての人の
最重要テーマであると
思う。
つづく
これは私だけに
限ったことかな?
私は、
「ながら時間」
というのが
かなり苦手だ。
つまりは、
○○をしながら
△△をする、
という
時間の使い方。
一見、効率が
良さそうで、
しかし私は
生産性が極度に
減退すると
実感している。
私だけかな?
私は、
『一つを決めて、
一つをする』
というのを、
時間の使い方の
基本にしている。
今は
何をする時間か?
今は
何のための時間か?
今は
何をしてはならないか?
今は
何を手放す時間か?
というようなことを
はっきりくっきりと
決めている。
常に。
こう書くと、
「面倒だなぁ」
とか
「真面目すぎだよ」
と
思われるかな。
いやぁ、
私はまったくもって
こっちの方が
楽だと思っている。
なぜなら
一つに集中することで、
発想の
広さも深さも
100倍くらい変わる
からだ。
だからもし、
「ながら時間」で
同じことをした場合の
100分の1の時間で
それを完了できる。
これ、実は
大袈裟な表現では
ない。
以前は私は
「ながら時間」こそが
効率性を高めると
思っていたので、
そればっかり
やっていたが、
その当時の私は
睡眠時間もほぼないし、
休日もまったくない
日々だった。
でも今は、
当時、一週間くらい
かけて悩んで
導き出していた答えを、
下手をすると
10分くらいで
出せるようになった。
今、これを
やればいいんだ。
と
真本音で決めたことを
する
という習慣化は
それくらいの
生産性を
掘り起こしてくれる。
そしてもう一つ
良いことがある。
それはこのブログでも
よく書かせていただいた
『完了感』
だ。
完了感とは、
「これについては
今、ここで完了したな」
という
確信を持った感覚
のことだ。
一つを決めて
一つをする、
というやり方を
大事にすれば、
この完了感が
非常にわかりやすく
なる。
完了感が出たら、
私はその仕事が
途中でも、
それをやめてしまう。
じゃあ
その仕事は
終わらなくなって
しまうじゃないか?
と思われるかも
しれないが、
もちろんそうではなく、
また別の時間に
「続きをやろう」
と自然に
思える時が来る。
そしてそこで
再びその仕事を
始めれば、
一気に
カタがつくのだ。
人間の集中力は
限られている。
であれば、
最大の集中力を
出せるように
すること。
それが
時間活用の基本
だと私は
思っている。
つづく
「明日」という
一日が
当然のようにやってくる
と私達は
思っているが、
本当にそうだろうか?
と私は
よく思う。
今日までと
同じ明日が来る
という
保証はない。
しかし、
まるでその保証が
あるかのように
私達は思い込む。
それだけ
平和なのだと
言えばそうであるが、
悪い言い方を
すれば
「惰性で生きる」
状態に
私達は入りやすい。
しかし本当に
その「惰性」を
私達は
望んでいるのだろうか?
もちろん人間は
これまでと同じ日々が
続くことで
安心する。
コンフォートゾーン
という言葉もあるが、
一度、安心安定を
感じてしまうと、
そこから抜け出ることは
なかなかに
難しい。
ただしそれは
心で言えば、
表面的なものだと
私はいつも
感じる。
「惰性」が生み出す
不安定さに
どれだけの人が
気づいているの
だろうか?
私達は
「惰性」、つまりは
何も考えずに
慣性の法則のように
進むことで、
本当は
不安を蓄積させる。
例えば幸せな
日々が続いたとして、
この幸せは
本当にずっと
続くのだろうか?
と
どこかで不安に
おののく。
そして
いつの間にか
「この日々を
ずっと守りたい」
と思うようになる。
それ自体は
大切なものだが、
しかしその気持ちは
多くの場合、
「今の日々」
「今の毎日」
への
執着になってしまう。
その「執着」に対して
私達の心は
とてつもなく
不安定になるのだ。
「執着」とは
依存。
「依存」とは
何かに寄りかからないと
生きていけない状態
だ。
それはつまり、
「私は自力では
立てない」
ということ。
もちろん人は
皆で助け合いながら
生きるものだが、
「自力で立てる」
という基盤の上での
助け合いと、
「寄りかからないと
生きていけない」
という状態での
助け合いは、
本質的には
まったくの別物だ。
私達の真本音は
そういった
「依存」や「執着」を
まったく
望んでいない。
本当には望んで
いないことを
やり続けることで、
私達の中には
「そんな自分で
良いのか!」
という、
罪悪感、つまりは
自分を責める気持ちも
発生する。
これがまた、
不安や不安定さを
生み出す。
「明日も今日と
同じ一日が来る」
というのは
もちろん
思い込みだ。
私達は明日、
人生を終えるかも
しれない。
あらゆる状況が
一変するかも
しれない。
別に脅すつもりは
ないし、
悲観的になれ、
ということでも
ない。
ただ言いたいのは、
私達はもっと
自分の「毎日」を
愛した方が
よいのではないか。
ということだ。
自分の「時間」を
自分の「人生」を
自分の「命」を
もっと
愛した方が
よいのではないか。
私達は
本当に自分の
愛する人には
常に自分の
意識を注ぐ。
それと同じように、
自分の時間、
人生、命、
そして、
今日という一日、
明日という一日、
に
もっと意識を
注いだ方が
よいのではないか。
人のサポートを
させていただく
中で、
そして
企業サポートの
現場で、
いつも私は
そう思う。
もっと
自分を生きよう。
それは、
時間を愛する
ところから
始まる。
つづく
新しい何かを
始めようとした時、
必ず
その中心となる
人がいる。
その人が
どのような人か?
によって
そこから生まれる
世界(ワールド)は
大きく変質する。
誰がいいか?
ということよりも、
今は
どんな世界(ワールド)を
ここで創りたいか?
が非常に
大事だ。
もしあえて、
今は
誰がいいか?
から決めたい
場合は、
一人一人、
この人が、
もし中心になったと
したら?
とイメージし、
私達の心の奥
が、
しっくりするか
どうか?
という「感覚」で
中心となる人を
決めることを
オススメする。
やはり、
感覚は
大事だ。
感覚が、
最も的確な判断に
つながる
場合は多い。
ただし、
感覚を感覚の
ままで、
曖昧なままで、
放置しておいては
ならない。
なぜこの感覚が
生まれるのか?
この感覚の
意味は何か?
この感覚は
どのような未来を
象徴しているのか?
などを、
しっかり皆で
考え合うことが
とても大切だ。
そういったことを
語り合える
チームや組織は
本当に
楽しいね。
つづく
あぁそうか。
私はこの出会いを
一つのきっかけに
するのだったな。
これを一つの
合図とし、
私は新たな波を
始めるのだったな。
その波は
顕在意識のレベルの
自分の頭には
まだ漠然と
したものであるが、
しかし、
私の心の奥の
方には、
もうすでに
確固たるものが
出来上がっている。
この感覚。
出来上がって
いることを
思い出す感覚。
何となく
久しぶりだ。
この感覚を
味わい、
いざ、
さぁ始めよう!
と思えた時に、
ちゃんと始められる
自分でいること。
いつでも
始められる準備を
整えておくこと。
自分自身を
整えておくこと。
本来の自分を
開花させて
おくこと。
そのための
約50年だったな。
ちゃんと
歩いてきて
よかった。
もちろん
回り道はたくさん
あったけど、
しかしそれらも
すべて
糧にしながら、
こなす
のではなく
不器用に
ぶつかりながら、
その一つ一つの
痛みを
大切にしながら、
ちゃんと生きてきて
よかった。
ちゃんと
始められる自分に
なれていて
よかった。
さぁ。
ここから何を
始めるか。
自分の中で
決めていることを
ゆっくりじっくりと
顕在化して
行こう。
準備が
できたからこその
出会い。
人生は
本来は
それに溢れるものだ。
多くの人が
そうなるといいな
と思う。
そして私自身も
そういった出会いを
静かに長く
大切にしたいと
思う。
つづく
「時間」とは、
削るものでは
なく、
創るものだ。
今日一日を
どのような一日に
するのか?
その問いに
真摯に向き合い、
だから私は今日、
・これをする。
・これをしない。
と、
完全に決めるのが
私の一日の始まりの
日課だ。
「完全に決める」
とは
「真本音で決める」
ということだ。
真本音で決める
ためには
心を落ち着かせる
必要がある。
朝起きた瞬間から
バタバタと
何も考えずに
一日を始めてしまうと、
もうその時点で
その一日は
雑なものになる。
朝一番で
「今日は雑な一日に
するぞ!」
と決めている
ようなものだ。
それはつまり、
「私は私の人生を
雑なものにするぞ!」
と
決めていることに
等しい。
そんな人に
望む人生や
望む現実が
起こるはずがない。
昨日、
初めてお会いした
ある経営幹部さんは、
「私は何のために
生まれてきたのか?
を
毎日考えることに
しています。
もちろん、答えは
出ません。
本当に出るときは
人生を終えるときだと
思います。
それでも私は
そう自分に問いかける
ことに意味があると
思っています」
と言われていた。
いいなぁ、
と思った。
何のための
人生か?
何を目指して
いるか?
何が課題か?
今は何と
真剣に向き合うべきか?
私は本当は
何をしたいのか?
それらの問いを
落ち着いた心で
しっかりと
自分に投げる。
実はこれをするのは、
私の場合、
朝だけに
限ったことではない。
一日中、
ずっと自分に
問いかけ続けている
かもしれない。
だから
一日の内で
何度も何度も
リセットする。
原点に
戻る。
これをしていると、
常に私は
揺るがない私に
なれる。
揺るがずに
地に足をつけて
「では、今からは
どんな時間を
創ろうか?」
と決める。
そうすると、
自分の望む以上の
「時間」が
現れる。
生きることの
幸せと
充実感を
得ることが
できるのだ。
つづく
ある一つの物事を
考えている時、
特に
迷ったり悩んだり
している時、
私は心の中から
浮き上がってくる
あらゆる
「こうしたら
良いのではないか」
という発想を、
次々と
手放すことを
する。
「これはなかなか
良い発想だな」
と思っても、
思いついた瞬間に
手放している。
それをしていると、
ある瞬間から
まるでダムが
決壊したかのように、
心の奥底から
発想の波が
溢れるようになる。
しかし、
それすらも
一つ一つすべて
手放し続ける。
なぜそんなことを
するかと言うと、
これだけ徹底的に
発想を手放すと、
それでも最後に
一つだけ
必ず残る
発想があるからだ。
それは、
手放そうと思っても
手放せない。
いや、
正確に言えば、
手放そうと思う前に
もう、
「あっ、これが答えだ」
と、
まるで「思い出す」かの
ように
わかるからだ。
そこに
迷いとか、
決めるための覚悟とか、
何もない。
ただ、
「あぁこれが答え
だったな」
と、
まるで宇宙の真理に
たどり着いたかのような
確信と安堵感が
ある。
ちょっと
大袈裟な表現かも
しれないが。
そして私は
その答えの通りに
動くのだ。
これをすれば、
人生において
後悔する
ということは
完全になくなる。
その答えの通りに
動いたからと
言って、
自分の意図した通りの
結果が出るとは
限らない。
しかし間違いなく、
道は
できる。
そして
間違いなく、
願いも祈りも
実現する。
結果的には。
だから私は
いつも思う。
「手放す」力が
必要だと。
極端に言えば、
「手放す」ことが
できないが故に、
皆、
止まってしまうのでは
ないか、とも
思う。
手放すのは、
つらいかな?
手放すのは、
もったいない気が
するかな?
いや。
手放すからこそ
手に入るものが
ある。
いや。
そういうもの
ばかりだ。
だからあえて
言うんだけど、
手放さないと
もったいないよ。
つづく
人の放つエネルギー
は、
中途半端だと
キツい。
それは
エネルギー
というよりも、
単なる「圧」のように
感じられる。
せっかくの
エネルギーが
「人を圧するため」に
作用してしまう。
そうなると
周りの人達は
必然的に
イエスマン
になる。
人を圧するエネルギー
は怖い。
そのエネルギーからは
誰もが
逃げたくなる。
離れたくなる。
気がついたら
周りに誰も
いなくなっていた。
・・・イケイケどんどん
の人の多くは
そのような結末に
なりやすい。
すべては
中途半端なエネルギー
の作用だ。
・・・・・・
中途半端なエネルギー
は、
中途半端な志
から来る。
その志は
残念ながら
本当の志ではない。
多くは、
志のふりをした
自己顕示
であったりする。
もしくは、
志のふりをした
承認欲求。
要するに、
自己愛の形。
自分が可愛く、
自分のために
「まわりのため」の
ふりをしている。
ちょいと
言い方がキツい
かな。
でもあえて
事実のみを言えば
そういうことだ。
かつての私も
そうだったので、
よ〜くわかる。
・・・・・・
真本音の志。
これはみんな
持っている。
たとえまだそれが
明確でなかったと
しても、
そこに気づき
そこに向かえば、
その人からは
本来のエネルギーが
放たれるように
なる。
本来のエネルギーは
最初はまだ
微弱かもしれない。
しかしそれは
「中途半端」
ではない。
中途半端とは、
量のことでは
ない。
エネルギーの
質のことだ。
純粋な
エネルギーかどうか?
だ。
本来のエネルギー、
純粋なエネルギーは
もちろん時には
それが明る過ぎて
一見すると
人を圧してしまうかも
しれないが、
それはあくまで
表面的なこと。
本来のエネルギーとは
愛そのものでも
ある。
それは
実在のレベルでは
人をあたたかく
包み込む。
そんなエネルギーを
放つ人と
向き合うと、
私は一瞬で
その人とつながる感覚を
得ることができる。
もちろん最初から
そういったエネルギーを
発している人は
稀だ。
しかし
ある時ある瞬間に
突然、
中途半端なエネルギー
が
本来のエネルギー
へと
変換される。
それは
予測できない場合が
多い。
突如として
変質するのだ。
もちろんその
理由の大本は
真本音で生きる
ことだ。
・・・・・・
私が、組織において
「要(かなめ)」
と呼ぶ人達は、
そういった
本来のエネルギーへの
変質が
起こりやすい人の
ことだ。
そういった人は
どの組織にも
必ずいる。
社長が
「いや、ウチには
いないよ、絶対」
と言われても、
これまでいなかった
試しがない。
そういった
「要」になる人を
見つけるのが
「コーチ」である私の
役割だ。
今日、
ある会社の
思わぬ人が
「要」として
浮上した。
急浮上。
それがとても
嬉しかった。
人は
変わるものだ。
つづく
ある物事に対して
もし
言い訳の心が
浮き上がるとしたら、
自分の心は今、
整っていないのだな。
と
認識するとよい。
とは言え、
言い訳はダメ
だから、
言い訳は
しない!
と、
気合いを込めて
言い訳を止める
のも
ダメだ。
自然に
湧き出る心を
ただ
あるがままに
見つめてほしい。
その上で、
言い訳が
たくさん浮かぶ
ようなら、
まずは
心を整えるところから
始めた方がいい。
言い訳とは
合図だと
思えばいい。
「自分の軸が
ない」
という
合図だ。
本当は
すべての人に
「軸」
はある。
しかし、
それを忘れているか、
無視をしているか、
もしくは
その軸から
ズレた発想や行動を
しているか。
もちろん
軸なんて
考えたこともない
人もいるだろう。
たとえ考えたことが
なくても、
すべての人は
しっかりと
自分の軸を
持っている。
でなければ、
この世に
生まれることが
できない。
軸とは
生まれた時から
備わっているものだ。
軸を思い出すには、
「軸を作ろう」
としてはならない。
まずは
自分のすべての心、
あらゆる気持ち達を
観察することが
スタートだ。
そのためには、
何もせず
静かに自分と
向き合う時間を
創らねばならない。
現代人は
自分と向き合う
時間が
少な過ぎる。
そういった時間を
創る努力をせずに
「望む人生」も
へったくれもない。
何もしない
時間。
ただ静かに
目を閉じて、
移ろいゆく
自分の心に
目を向けるだけの
時間。
たとえ10分でも
いい。
そういった時間を
持つことが、
すべての始まり
だと
私は思う。
つづく