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- 2022年 3月
ほんの
ちょっとしたこと
だ。
ほんの
一言。
ほんの
一歩。
ほんの
一つの
何気ない行動。
一見すると
とても些細な
こと。
それが
人生を
変える。
人生の展開を
根底から
変えることも
ある。
それを
無意識に行なう
のが
ほとんどだが、
それを
意識して行なう
こともできる。
その度合いを
高めることも
できる。
意識的に
人生の展開を
コントロールする。
いや、
コントロール
という言葉は
語弊があるかも
しれない。
それはすべて
意図を超えた
展開になるから。
でも、
そういったことも
含めて、
展開を変えて
いく。
意識的に。
その力は
みんな
もっと養った方が
いい。
例えば、
Aさんと会う。
しばらく会話を
して、
別れ際、
さりげない
一言を
Aさんに
残しておく。
それが
Aさんにとって
時限爆弾のような
刺激となり、
時間差で
Aさんの行動が
変わり、
その後の物事の
展開が変わる。
もちろん
Aさんの行動の変化を
予測したり
意図したり
想定したり
するのではない。
Aさんは
想定外のことばかり
する。
でも
それでいい。
それがいい。
それによって
様々な調和が
結果として
起こる。
こちらが
意識的に行なう
のは、
さりげない
別れ際の
あの一言だけだ。
「この一言を
今、残せばいいのだな」
と
その瞬間に
わかる。
わかったことを
ただ
行動に移す。
こちらが
意識的に行なっている
のは、
それだけ。
これは
人生が
楽しくなる。
未知の領域に
進むための
最大にして
唯一の進み方、
・・・だと
今の私は
思っている。
みんなが
この力を
グンと高めれば、
世の中
変わるだろうな、
と
今日も思ったよ。
つづく
最初は本当に
細い道だったと
しても、
始めることに
意味がある。
始めなければ
続かない。
続かなければ
大きな波には
ならない。
最近は「持続」という
言葉が当たり前のように
使われるようになった。
持続することは
大事だ。
持続することで
初めて
到達できる次元が
ある。
そして
そのためには
始めなければ
ならない。
・・・
私は
未知の領域で
あればあるほど、
始まりは
小さくて良いと
思っている。
スモールスタート
だ。
大きな志が
あればあるほど、
最初は小さく
かつ
しっかりと
地に足をつけて
始めるべきだ。
物事の始まりで
最も重要なのは、
その物事に
「魂」
を宿すこと。
一つ、一つ、
の行動に
魂を込めることで
それは自然に
醸成される。
最初から規模に
こだわることで
そこが
薄くなる。
魂とは
その物事の
核である。
核が薄ければ、
持続は
しない。
最初は勢いだけで
進めたとしても、
勢いがなくなった
ところで初めて
それが本当に
持続できるかどうかが
決まる。
勢いが大事な
時期はある。
しかし
勢いだけで進むことは
特にこれからの
時代においては、
致命的だ。
進化を伴う
持続が大切、
・・・というか、
本来の持続とは
進化によって
成される。
着実な進化を
進めるには、
「始まり方」
が大事だ。
そしてその始まりに
おいて
必須なのが、
一つ一つの選択と
行動に
魂を込める
ということだ。
・・・
だから最初は
スモールスタートが
いい。
そこで魂を込め、
核を生み出す。
それが
ビッグウェーブに
つながっていく。
つづく
本当に望む
未来は
どこにある?
あなたの周りの
空間の
どこかにそれはある、
としたら
どこにある?
私の場合、
私の少し前の
上空。
ずっとずっと
上の方に
それはある。
とてつもなく
強い光として
それは
そこに存在している。
あなたのは
どこ?
それは、
真本音のビジョン
だ。
もし場所を
見つけられたら、
そこにじっと
意識を向けてみよう。
少し落ち着いた
時間に、
ずっと意識を
向け続けよう。
ずっと。
じっと。
何も考えず。
それをし続ける
だけで、
何か感じるものが
あるはず。
私の場合、
感じるのは
あったかさ。
とても穏やかで
静かなあったかさが
じんわりと
伝わってくる。
と同時に、
「仲間」の存在感。
大勢の仲間達の
感覚が。
とてもパワーのある
仲間達だが、
とても静かで
落ち着いている。
一緒にいて
居心地の良い
仲間達。
これを感じると、
私はまだまだこれから
大勢の人達と
出会うのだな、と
わかる。
さらに意識を
向け続けると、
じんわりと
メッセージのような
ものが。
それをあえて
言葉にすれば、
「やったね」
となる。
きっと何かを
みんなで
やり遂げたのだろう。
あなたは
どうだろう?
あなたのビジョンの
場所に
意識を向け続けると、
何が伝わって
くる?
その、
伝わってくるものを
素直に感じながら、
今日
に向かおう。
今日
という一日に。
今のこの
一歩一歩が
その未来に
続いて行くように。
その未来に
たどり着けるか
どうかは、
今の私
で決まるのだから。
つづく
今一度、
自らの中心軸を
明確にしよう。
今ここで
明確にすることに
意味がある。
たとえ
これまで確立した
中心軸が
あったとしても。
今、
だからこその
言葉(表現)が
見つかるはず。
その際、
発想の起点となる
いくつかの問いを
列挙しておこう。
・・・
これまでの私の人生は
何を軸としてきただろう?
これから私は
何のために生きよう?
これからの私は
何をやらない?
何をやり続ける?
これからの私は
何から離れる?
何に近づく?
これからの私は
誰から離れる?
誰に近づく?
ここからの私が
何が起きても決して
変えることのない
軸は何だろう?
それを最も
今の私に納得のいく
シンプルな表現で
言語化すると?
・・・
上記の問いは、
あくまでご参考までに。
中心軸をちゃんと
言語化したら、
さぁ、
超加速だ。
つづく
本当の瞬発力
とは、
待てる人
にこそ
発揮される。
物事には
タイミングが
大事、
ということは
これまで何度も
書かせていただいた
ように思うが、
今ほど、
「タイミング」が大事な
時期は
これまでになかった
のではないかと
最近は強く
感じている。
1秒、
タイミングがズレれば
その1秒が
永遠に広がっていく。
・・・というような
表現が
大袈裟ではない
気がする。
だから私は
どれだけ良いアイデア
でも、
全身で納得
できるような
タイミングが来ない内は
何もしない
ことにしている。
タイミングを
じっと待つ。
私のクライアントさんで
これが非常に
上手な人がいる。
その人を
拝見していると
いつも思うのだが、
瞬発力
すげーな!
と。
で、思うのだ。
瞬発力とは、
タイミングを掴むことで
初めて
発揮されるもの
なんだな、と。
あらゆることが
調和を始める
調和ポイント。
そのタイミングを
掴み、
そこで一気に
駆け出す。
その瞬間がくる
までには
イライラするほど
歩みが遅い。
何もしない。
何も進まない。
でも、
調和ポイントが
「今だ」
と感じられたら、
これまでの静けさが
嘘かと思うくらいに、
躊躇なく
ぶっ飛ばす。
あなた
怖いもの何もないの?
と
ハラハラするような
ことでも
躊躇なく。
そして次々に
物事を
進展させていく。
まるで、
これが人生の
進み方だ、
と
教えられるようだ。
でもまさに
それは
人生の醍醐味
なんだろうな。
待つことが
できる人は
一気に進む
ことも
できるんだな。
つづく
人には
鍵みたいなもの
があってね、
それを知らずに
扉を閉じたまま
ずっと
生き続けているんだ。
でも、
ある時ある人と
出会った時に、
あー、この人と
出会えたから
もういいかな、
と
自分にOKを
出して、
その鍵を
開けるんだ。
扉が開くと、
その向こうに
ずっと隠れていた
ものが
姿を現す。
それが
「本来の自分」
だったりする。
しかもその
「本来の自分」
は、
これまでの自分の
個性とは
真逆のものを
たくさん持っていたり
する。
能力もそう。
これまで
まったく使ってこなかった
力を
突然使い出したりする。
未経験の個性で
未経験の力を
使う。
本人にとって
みれば、
自分が自分では
なくなってしまった
感じ。
でもその
個性と力のその
向こう彼方に、
確かに
観えてくるんだ。
本当の
ビジョンが。
これを自覚
した時、
その人は初めて
本当に
認めるだろう。
以前の私は
仮の姿だった、
と。
そういった意味で
出会いとは
ある意味
恐ろしい。
と、当時に
とてつもなく
素敵だ。
出会いによって
人生は
とんでもなく
刺激的な変化を
することになる。
人との出会いは
自分との出会い
でもあるんだ。
つづく
融通の利かない
自分がいる。
それを
面白おかしく
眺めている
自分がいる。
私は私の
頑固さを
楽しんでいる。
人生においての
遊び心の
一つとして。
実際、
頑固というのは
子供っぽい。
こだわらなくて
良いところに
こだわり続ける。
例えば、
雨が降ってくる。
しかし
傘をさすと
なんだか
負けた気になる。
だから
ささない。
何に対して
負けた気になるのか
わからんけども、
でもそんな自分を
面白おかしく
眺めながら、
濡れて帰る。
まぁこれくらいの
軽い頑固であれば
良いが、
企業の中で
重要な選択をしようと
するところで
頑固さを出す
人がいる。
みんな心の中で
辟易している。
その人に
本当はもう
寄り付きたくないと
みんな思っている。
この人さえ
もしいなくなれば、
もっと物事は
スムーズに進めるのに。
この人が
いるから
我社はいつまでも
変わらないのだ。
と
みんな内心
思っている。
思っているが、
口には出さない。
出しても
無駄だと
わかっているから。
その虚脱感。
何を言っても
どうせ無駄。
・・・この認識が
その人を組織から
離れさせる。
人をそんな気に
させてしまう
頑固さは
致命的なのだが、
しかしそれでも
やはり
私は
その頑固さを
面白おかしく
観てしまう。
ついつい
微笑んでしまう。
でも
本当に面白いのは、
そういった
微笑みの目線で
見つめ続けると、
その人の頑固は
溶けていくのだ。
もちろん
全部が全部では
ない。
でも、少なくとも
私の前では
その人は
自分の頑固さを
出しながらも、
その人自身が
「まぁ私が頑固な
だけですけどね」
と
微笑み出すのだ。
そういう場面は
数限りなく
あった。
社内にそんな
微笑みの目線が
あれば、
そんなに深刻な頑固には
ならないのにな、
と
よく思う。
が、まぁ
難しいわな。
人間だからな。
つづく
自分の
「想い」
と
「行動」
を
一致させるとしたら、
どんな想いで
どんな行動を
し続ける?
・・・
何がなんでも
やり続ける
その行動を、
明確にすると
いい。
何がなんでも。
そういったものを
一つでも
持つことだ。
それが
自分の「軸」を
一気に醸成して
くれる。
・・・
ちなみに
私の答えを
書いておこう。
私の「想い」は、
『関わるすべての人
と共に
殻を破り続けたい』
だ。
その人の殻。
私の殻。
共に人生を全うする
ために。
そしてそのための
「行動」は、
『殻を破壊するための
刺激を、
自分にも人にも
与え続ける』
だ。
刺激、というのは
具体的には
メッセージや問いだ。
私は何よりも
自分自身に
それを与え続ける。
それができるが故に
人に与え続ける
こともできる。
そういった意味で、
私は破壊者だ。
殻の破壊者。
なんかこう書くと
怖いねぇ。
でもこれを
素直にやり続ける
ようになったので、
破壊されるのが
怖い人は
いつからか
私に寄り付かなく
なった。
気がつけば、
破壊されるのが
好きな人達
ばかりだ。笑
それはそれとして、
私はこれを
日々、ずっとやり続けて
いる。
やらない日は
ない。
やめる気は
ない。
さて。
ではあなたは
どんな想いで
どんな行動を
し続ける?
つづく
地面が
覆いかぶさって
くるのか。
それとも、
私自身が
地面に倒れ込もうと
しているのか。
せり上がり
迫りくる
地面の、
その荒々しい土のような
砂のような
一粒一粒の
表情まで
観えるようだ。
ガツン
という衝撃と
共に、
気が遠くなる。
やるべきことを
やった上での
これであるなら
しょうがないか、
と
思った。
きっと私は
半身不随のような
大きなダメージを
負うだろう。
しかしそれは
自業自得だ。
私の選択の
結果だ。
しばらく
気を失って
いたのだろう。
ハッと
目を覚ますと
私は
大の字だった。
目に映るのは
青空のみ。
風が
吹いている。
首から下の感覚が
ない。
そうかきっと
私は
このまま
動けないのだろう。
頬に風を感じながら
私は
鎮まったまま。
何も考えず、
無心となった。
青空だけを
見つめているので、
自分なのか
青空なのか
私の存在が
何なのかわからなく
なった。
途端に
体の中心から
力が溢れた。
ガバッと
飛び起きる。
体が勝手に
動く。
私は全力で
ダッシュをしていた。
なんだ、
もう復活したのか。
ちょいと
早くねーか?
と
少しは思ったが、
私はただ
前だけを向く。
一点に意識を
集中し、
余分なことは
考えない。
あーこのままでは
また
すっ転ぶだろう。
今度こそは
立ち直れない
かも。
でも、
私には
選択肢はない。
いや、
私は私の選んでいる
この選択肢以外には
興味がない。
だから
前よりももっと
速く走る。
次こそは
ヤバいかもな。
と
呟きながら
笑う。
楽しくて
しょうがない。
私には
選択肢はないのだ。
つづく
焦り、
というのは
厄介でね。
どうしても
焦ると
闇雲に動いて
しまう。
私達はどこかで
「動かなきゃ」
「行動しなきゃ」
と
強迫観念のように
思っているところが
ある。
一つの場所に
留まっていると、
それは
何もしない
ということなので、
止まっている
わけなので、
物事は何も
進まなく、
それが最も悪い結果に
なると、
どうしても
思ってしまう。
ところが、
「動くことが」
最も不調和を呼ぶ
ということが
私達の人生に
おいては
私達の想像以上に
多いのだ。
ただ一方で、
「問題を先送りにする」
という癖を
持っている人も
いる。
そういう人は、
動かねばならない
ところで
止まってしまうために
不調和が蓄積する。
「とにかく動かなきゃ」
という人は、
その「先送り」こそが
最悪なのだ、
と
闇雲に動いてしまう。
私のクライアントさんは
行動力の豊かな人が
多いので、
問題先送り型の人は
少ない。
だからこそ
お伝えするのだが、
「待たねば
ならない時がある」
と。
動かないことが
ベストの時が
ある。
物事には
「調和ポイント」
という
極めて密度の高い
「タイミング」
がある。
そのタイミングで
次の一歩を進む
ことで、
あらゆることが
調和を始める。
まったく同じ行動
だとしても、
調和ポイントで動くのか、
そこを外すのか、
では
起こる結果は
180度変わることも
ある。
調和ポイントを
キャッチするその
感性は、
真本音度を
高めることで
得られる。
真本音度の
高い人ほど
「今だ!」
というのが
わかりやすいのだ。
逆に言えば、
「焦り」
というのは
真本音度を低める。
普段、
真本音度が高い人
だったとしても、
焦りによって
一気に低まる。
そして闇雲に
動いてしまう。
私はコーチとして
そこを
引き止める役割を
これまで随分と
させていただいた。
ちょっと極端に
言えば、
そのサポートだけで
他のサポートは
ほとんど要らない
人も多い。
それだけ
「焦り」
は、キツイのだ。
物事の判断を
するとき、
焦りによって
動こうとしていないか?
を
落ち着いて見つめる
ことは大事だ。
焦っていては、
調和ポイントは
決して
掴めない。
混乱の現実の
前でこそ、
私達は
深呼吸しよう。
つづく
無限の中の
一点。
それが
私であり
あなただ。
無限には
無限に
すべてが
満たされている。
それは一見、
何もない
のと同じ。
しかし
すべてが
満たされている。
本当は
そのまま
でも良いのだ。
その
満たされたまま
で。
そのままでも
無限は
無限に続く。
時間的にも
空間的にも。
しかしそこに
一点
という存在が
始まった。
一点
が存在する
ことで、
一瞬にして
無限では
ないもの
が
始まった。
その瞬間
「無限」は
根本的な
意味を、
存在の意味を
変えた。
いや、
「意味」という
存在が
与えられた。
そこからだ。
一点が
次の一点を
生み、
無限の中に
一点が
増殖し始めた。
これがすべての
始まり。
なぜ、
何もない
とも言える
「無限」に、
突如として
「一点」が
現れたのか?
これが
私の探究テーマ
だ。
私は
ある時ある瞬間から
その
無限から一点が
始まる瞬間、
に
立ち会っている
ような
生き方を始めた。
ここを
探究せねば
何も始まらない。
何も
わからない。
と
気づいたのだ。
この仕事を
続けていて、
そこにたどり着いた。
それが
12年前の
ことだ。
「一点」は
増殖し、分離し、
その一つの形
として
「人」
がある。
私達はすべて
「一点」
である。
無限の中の
一点。
そしてその
一点の中に
無限がある。
なぜだ?
なぜ
すべてが満たされて
いたはずの
無限から
一点が生まれた?
毎日、毎時間、
毎分、毎秒、
私はこれを
自分に問い続けながら
生きている。
自分の中の
無限に
問い続けながら。
すると
ある時ある瞬間に
とても不思議な
感覚が起きた。
「一点」が
生まれるその瞬間、
私は
「無限」の願い
を
感じたように
思うのだ。
「無限」の願い?
なぜ
「無限」に
願いが?
「無限」
なのに?
私はずっと
問い続けている。
私のテーマで
あり、
これは
すべての「人」が
いずれ向き合わねば
ならない問い
であると
私は感じている。
答えは
言葉ではない
ことは
わかっている。
なぜなら
言葉とは
「一点」である存在が
生み出したもの
だから。
でも、
それでも
私は
それを、
言葉として
表現しようとしている。
きっとそれは
一言では
言い表せまい。
きっとそれは
一つの
「物語」
となるだろう。
私はその
「物語」を
残すために、
この後の人生のすべてを
費やそうと
しているようだ。
つづく
これは、
今の自分には
わからない
ことなのだ。
と、
わかることが
ある。
きっと
未来の自分、
ひょっとすると
それは
明日の自分かも
しれない、
1時間後の自分かも
しれない、
10年後の自分かも
しれない、
・・・けど、
でもとにかく、
未来の私にしか
出せない、
今、ここにいる
この私には
出せない答えなんだ。
今の私が
出してはならない
答えなんだ。
・・・と
わかる。
この感覚は
とても大事だ。
そうしたら
今、ここで
答えを出すことは
あきらめて、
では、
答えのわからない
自分は、
今これから
何をしようか?
と。
「答えを出すために
何をしようか?」
という観点も
大事かも
しれないが、
それ以上に
「答えをわかっていない
この自分だからこそ、
何をしようか?」
という
この感覚も
超
大事だ。
コーチという
役割をしていて、
私は痛感する。
「答えがわからない」
ということが
いかに
素敵なことか。
これこそ
人間の醍醐味
ではないか。
人生の醍醐味
ではないか。
問いがある
ということは
イコール、
必ず答えがある
ということだ。
にも関わらず、
答えがわからない。
わかるべき
時が来るまで
わからない。
・・・これ、
凄く面白い!
だからこそ
人生が進む。
冒険が
始まる。
未知の領域へ
進んで行ける。
「わからないまま
進む」
・・・その楽しさ。
だから私は
いつも自分に
問いばかり
投げ続ける。
問いは全部、
それ専用の手帳に
書き続けている。
その手帳を
いつも見ながら、
答えがわからない
モヤモヤを
楽しみ尽くして
いる。
これが
セルフコーチングの
基本だ。
この
楽しみこそが。
つづく
自分の心の
最も痛い部分には
何がある?
痛さを感じるのは
健康である
証拠。
痛い部分を
見たくない、
と思うのも
健康である証拠。
ここからより
健康に進むためにも、
その痛い部分を
直視しよう。
可能であれば、
その痛い部分に
全身
どっぷり浸かる
くらいに
入り込んでみよう。
観て
感じる。
あるがままに。
その痛い部分は
自分自身に
何を訴えているか?
何を
望んでいるか?
何を
理解してほしいのか?
あなたはそれらを
受け取り、
どう思うのか?
思ったことは
正直に
その痛い部分に
告げてみよう。
そして
その痛い部分と
しっかりじっくり
話し合うのだ。
つまりそれは
自分自身との
対話だ。
これも大切な
セルフコーチング。
真本音度が
高まれば高まるほど、
こういった対話は
しっかりやった方が
いい。
これを私は
毎日、やり続けた。
このように
ちゃんと自分と
向き合い続ければ、
自分自身との
「和解」
が進む。
その結果、
痛い部分は自然に
消えていく。
成仏する
感じ。
今はもう
私の心に
痛い部分はない。
あるのは
他の人から受け取った
痛い心。
それはそれで
別の対処をするのだが、
まずは基本は
自分自身の心との
対話だ。
自分の痛みは
自分で向き合おう。
自分の道を
しっかり進む
ためにも。
つづく
人の個性は
花開く。
確かに
「開花」
という言葉が
ピッタリだ。
その人にしか
ない
その人の
魅力。
能力。
そういったもの
は
確かにある。
しかしだ。
「好きなことに
向かえば、
それは花開く」
とは
限らない。
もちろんそういう
人もいる。
でも、
そうとは
限らないのだ。
これまで
(私自身も含め)
数多くみてきたのは、
真本音度が
高まることで、
ある時、
ふと、
これまで自分が
苦手としてきて
最も避けてきたこと
を
本当にふと、
やってみようかな
と
思う瞬間だ。
クライアントさんが
それを口にすれば、
私はほぼ
間違いなくそれを
強烈に
進める。
「ぜひやって
ごらんよ!」
と。
自分の準備が
整うまで、
あえて
「それ」
から自分を遠ざけて
おく。
ということを
する人は
多いのだ。
自分から「それ」を
遠ざけ続けるために
自分にとっての
「それ」を
「苦手である」
「嫌いである」
という
「印象」
にしておく。
そうして「それ」に
ずっと関わらずに
生きる中で、
自分の準備
(「それ」に向かう覚悟)
を
養い続ける。
そして
覚悟ができた瞬間に
「それ」に関しての
制約を
一気に心の中から
取り払う。
・・・そういう
離れ技のような
進み方を
する人は結構
多いのだ。
だから
苦手だし
嫌いだし
絶対やりたくない
のに
なぜだか
気になる、
なぜだか
やってみようかな
試してみようかな
と
思ってしまう、
そんなことが
あれば、
それはもしかすると
自分の準備が
整ったという
合図かも。
実は
「それ」の方向にこそ
あなたの
天職
があるのかも、よ。
つづく
何もない
広い空間に
一人でいると、
いくら自由でも
不安になるだろう。
むしろ
狭い部屋に
閉じ込められて、
「この中なら
自由だよ」
と言われた方が
余程、楽だ。
私達人間には
そういうところが
ある。
制約のある中
でこそ、
自由を謳歌できる。
しかし
完全なる自由は
不安であるし、
実際、
何をして良いのか
さっぱり
わからなくなる。
ところが
みんな
自由を望む。
「自由」をただ
漠然と
捉えながら。
「不自由でないこと」
が、自由である
と。
だから
一度、しっかりと
自分に問うてみよう。
私は何から
解放されたいか?
もし
解放されたら
私はどうしたいのか?
解放の先に、
私が望むことは
何だろうか?
・・・・・・
実は
私自身のことで
言えば、
私も昔は
制約の中での自由
の方が
落ち着く人間だった。
しかしどうも
今はもう違うようだ。
完全なる自由を
私は楽しむ。
真本音度が
高まると、
ある時ある瞬間から
どうも
そうなるらしい。
そしてそうなると
逆に、
今、状況的に
どのような不自由が
あったとしても、
そんな状況の
中でも
完全なる自由な自分
でいられるのだ。
さて、
これはどういった
ことだろうか。
あなたは
本当は
どんな自由を
得たい?
つづく
約3ヶ月前。
私の中に
あるビジョンが
浮上してきた。
それまで私は
30年ビジョン
というのを持ち、
それを目指し
活動をしてきた。
30年ビジョン
と言っても
それは2016年に
立てたものなので、
今ではもう
24年後のビジョン
だ。
何のために
私はこの人生を
生きるか?
という
私なりの明確な
答えだ。
その24年後の
ビジョンに向けての
さらに具体的な
ビジョンが
浮かんだのが
約3ヶ月前。
そのさらに前から
恐らく
一年以上前から、
私は
私の社会的役割を
「コーチ」
から卒業せねば
と
思い始め、
一歩ずつその準備を
してきた。
もちろん
コーチというお仕事を
辞めてしまうのでは
ないが、
しかし
私自身の在り方
としては
「コーチ」からは
脱ける。
と
決めた。
3ヶ月前の
新たに具体的な
ビジョンが浮かび、
その流れを
本格化しようと
思った。
3ヶ月前に
そう思い、
ようやく今、
その動きを
本格的に
とれそうだ。
やはりまだ
その内容については
ここで書くことは
できない。
でもこれから
必要な動きを
私は
とっていく。
加速を
していく。
これまで
関わりを持たせて
いただいた皆様との
関係については、
場合によっては
発展的変化が
あるかもしれない。
でも急に
私がどっかに
旅立ってしまう
とか、
行方不明になる
とか、
そういった
ご迷惑をおかけする
わけでは
ありません。
もちろん。
私達は
次々に
ステージを進んで
行かねばならない。
「ならない」
とここでは
あえて書くことにする。
なぜならそれは
未体験ゾーン
だから。
これまで私達の
誰もが
経験したことのない
加速をする。
当然、そこには
恐怖が
ある。
もちろん
それは私達自身が
望むことであり、
本当の本当に
やりたいこと
だ。
でも私達は人間
なので、
未体験ゾーンに
ついては
どうしても恐怖が
湧く。
それを乗り越えて
頑張らねば
ならない。
だから
「ならない」
だ。
私は
ここからの進み方
にちゃんと
対応できる自分に
なるために、
これまでの人生を
費やしてきた。
そういった
意味では、
これまでは
準備段階、
ここからが
本番、
とも言える。
いずれにしても
明るい未来に
向かい、
未来をより
明るくするために、
私は私自身が
「やりたい」
かつ
「やらねばならない」
ことを
本格的に
やっていく。
この人生の
意味を
果たすために。
つづく
私は
苦しみと共に
進みたいのだな、
と
よく思う。
人間の苦しみを
感じ続けたいのだ、
と。
もっと楽に
進めば良いのに、
と思う自分も
当然いるのだが。
苦しまない
人はなく、
誰もが苦しみに
呑まれ、
進めなくなるという
経験を
積んでいる。
むしろそういう
経験を積まないと、
「進む」ということの
本質も
掴めないのだろう。
苦しむために
苦しむのではなく、
進むために
苦しむ。
自己満足のための
苦しみではなく、
進むために
本当に苦しいこと、
越えるために
本当に苦しいこと、
と対峙する。
苦しみに
鈍感になるのでは
なく、
むしろ
敏感なままで
進む。
ますます敏感に
なろうとまで
する。
そういった人を
私はどうしても
応援したくなる。
自分がそうだった
から、
というよりも
やはりそこにこそ
私は
人間らしさを
感じるのかもしれない。
苦しみには
必ず
「もと」
がある。
苦しみのもと。
これまで
自分のも含め
本当にたくさんの
「もと」と
対峙してきた。
対峙どころか
一体化まで
した。
私=苦しみ
にもなった。
そういうことを
重ねて初めて
本当に
実感したことが
ある。
苦しみは
「現象」
だ。
・・・ということ。
「幻影」
と言っても
いい。
でも、
だから意味がない
とか
言いたいわけではない。
むしろ
幻影だからこそ
苦しいのだ。
幻影だからこそ
きっとそこに
価値がある。
苦しみという
幻影と共に
人は歩く。
幻影なので
それは
自分で創り出して
いるものだ。
だから、
自分の苦しみは
自分自身だ。
自分が創り出した
幻影と、
どう関わるか?
どう向き合うか?
幻影だからこそ
向き合わねば
ならない。
ちゃんと苦しまなければ、
幻影を超える
こともできないだろう。
幻影の世界。
現象の世界。
私達はそこに
いる。
現象の私達
なのだ。
それをつくづく
実感できた時、
初めて
その奥に
実在の自分を
感じ取れるんだ。
つづく
目の前に
うっすらと
「存在」を
感じる。
あぁもう一人の
私だ。
新たに
生まれた
もう一人の。
ここから私は
その
もう一人の方に
移行していく。
生まれ変わって
いく。
人は本当は
人生において
何度も
これをやる。
その度に
本当に
心は生まれ変わる
のだと、
今の仕事を長く
続けることによって
ようやく私は
知ることができた。
それは、
全てを変える
チャンスだ。
もちろん
変えたくない自分も
いるだろう。
それはそれで
いい。
生まれ変わった
後で、
もう一度同じ
自分を創ればいい。
本当に望む
自分とは?
本来の自分
とは?
・・・など、
こういう時にこそ
これまで散々
自分自身に
問い続けてきた
成果が。
こういう時に
こそ。
うっすらと
存在する
次の私。
ほんの
目の前。
まるで
今の自分の鼻と
鼻が
触れ合うくらいに。
君が
どんな自分かは
知ってるよ。
ずっと私が
望んできた
自分だ。
こっから
よろしくな。
私よ。
覚悟は
とっくにできている。
私は
移る。
これまでの私を
潔く
全て
脱ぎ捨てて。
つづく
人生が
調和するかどうか?
を
左右するのは、
何をするか?
よりも
何をやらないか?
を
決めることではないか。
とつくづく思う。
最近は特に。
人生の新たなステージ
に入っている人は
今、多い。
もしくは、
その境界にいる人。
新たなステージでは
新たな歩み方をする
必要がある。
良い意味での
「転換」
が必要だ。
そこで改めて
じっくりと
考えてみよう。
「私はこれから
何をやらないか?」
「私はこれから
何をやめるか?」
やらないことを
決める
ということはつまり、
そのための時間
を消す
ということだ。
思えば、
不必要なこと
無駄なこと
をするが故に
実に様々な不調和や
混乱を起こしている
人ばかりだ。
人生がうまく
展開できない人の
ほとんどが、
やらなくてよい
ことを
やっている。
不必要なことを
することで、
本当に必要なことを
いざ、しようとする時に、
本当に必要な
エネルギーが
出なくなってしまう。
本当はここで
100%の力を
出したいのに、
99.9%しか
出なくなったりする。
このわずか
0.1%の差が
大きい。
あまりに
大きいのだ。
100%でなければ
成し得ないことは
人生において
とても多い。
100%出すべき
ところで
それができないと、
すべてがゼロになる。
99.9%と
100%の間には
無限の差がある、
と
思った方がいい。
不必要なことを
日々行なっている人は
ずっと
99.9%以下の人生だ。
つまりそれは
ゼロの人生に
等しい。
・・・くらいに
思った方がいい。
だから、
もう一度問うけど、
本当に真剣に
考えてみよう。
「私はこれから
何をやらないか?」
「私はこれから
何をやめるか?」
つづく
私は私を
絶対に
許さん!
という
凄い憤りを
抱えている人が
いる。
しかもその気持ちに
蓋をしている。
いや、
蓋をしている
からこそ、
ここまで巨大な
憤りになってしまう
のだろう。
やるべきことを
何も
やってないでは
ないか!
逃げてばかり
ではないか!
今回もまた
逃げるのか!
・・・という感じ。
この手の憤りは
キツい。
自分にナイフを
グサグサと
突き立てる。
そんな自分と
対峙するのは
確かに怖いだろう。
でも、
それ、
あなた自身
だからね。
自分だからね。
自分にちゃんと
謝りなよ。
ごめんなさい、
って。
そこから
スタートだ。
何度も言うけど、
自分!
だからね。
自分で自分を
騙すなんて
酷いよ。
だから人を
騙すことにも
繋がってしまう。
せめて自分には
誠実でいよう。
怖かったんだ。
怖くて
動けなかったんだ。
ごめん。
本当は私だって
動きたかったんだ。
ごめん。
意気地のない
私で
申し訳ない。
・・・と。
素直に
ちゃんと
謝ろう。
自分だぜ。
自分のことくらいは
大切にせいな。
つづく
あーこの発想は
まがい物だ。
この発想は
見せかけ
だ。
これは
これまでの私の
範疇を超えない
発想であり、
これまでは
確かにこれが
正解だっただろう。
しかし
今は
違う。
ここからは
違う。
正解に見えて
最善に見えて
これは
違う。
これまでと
同じ答えは
捨てる。
そう決めた。
新たな
ステージに
いるのだ。
古いステージに
固執していては
ならない。
・・・そう
決めて、
じっとその
発想を見つめる。
あるがままに。
すると突然、
それは
炎を上げた。
バババッと
燃え上がる。
カスになる。
カスすら
消えていく。
その後に、
何か小さな
光のような
ものが。
めっけた!
これだ、
私のほしかった
ものは。
そうか、
私の捨てるべき
発想の
その中に
隠れていたのか。
「これまで」
を
捨てる覚悟を
もったからこそ、
中から
出てきてくれた
のか。
ステージを変える
というのは
大変なことだ。
どうしても
成功体験に
左右されてしまう。
これまでの
正解に
惑わされる。
そこを超えるには、
何が何でも
ゼロでいよう
とする
覚悟だな。
本当は
こういった力みは
なしで、
もっと楽に
進みたい。
でも今は、
過去と決別
せねば。
しばらくは
力を込めてでも
頑張ろう。
つづく
デコボコしているのが
人間だろう。
デコボコをなくして
丸くなろう、
なんて
不自然なことは
考えない方がいい。
逆に、
デコボコを伸ばそう!
というのも
むしろ
不自然だ。
デコボコだろうが
なかろうが、
どっちでもいいじゃないか。
そのままの
あるがままの
自分で。
・・・・・・
私達には、
真本音によって育つ
デコボコがある。
それはほとんどの場合、
自分で認識するのは
不可能だ。
自分にとっては
自然体そのもの
の状態だから。
真本音の願いを
核に持ち、
その核を活かすから
こそ発生する
デコボコは、
その人にとっての
真の個性であり、
本来の個性
とも言える。
それは意図をして
伸ばすものでは
ない。
自分の真の願いに
素直に生きることで
自然に
伸びてしまう個性
だ。
・・・・・・
ちょっと極端な
言い方だが、
個性を伸ばす
ためには
個性を意識するな。
個性とは
結果だ。
それよりも
今のここにおける
次の一歩を
真剣に決めよう。
自分の意志で。
自分の願いで。
その連続の
結果として、
必然的な個性が
必然的に
伸びていく。
・・・・・・
大人達が
そのような生き方を
しないと、
子ども達の
真の個性が
伸びない。
子ども達は
大人達を
いつも観ている。
大人達の
真似をする。
ちゃんと
自分の人生を
自分の生き方で
進む。
そんな大人が
もっと
増えなければ!
つづく
私達人間は、
自分自身のことを
「わからない」
ように
できている。
広大な宇宙
とも言える
深く広がる自分の
心のうち、
自分に見えているのは
ほんのわずか。
それがいけない
ということではなく、
そのように
できているのが
私達だ。
自分のことを
理解しようと
すればするほど、
さらに
わからなくなる。
しかしそれでも
私達は
自分自身を
探検する。
私はよく、
自分に対して
次の問いを
投げる。
・・・
今の私は
私の何を
わかっていない?
・・・
今日、この問いを
私に投げたら、
「私は私の個性を
わかってない。
ここにずっと
在り続けている個性を
見ずに生きてきた」
と
答えが浮かんだ。
と当時に、
小さな可愛らしい
光のような
球が観えた。
それを観た
瞬間、
あぁ確かに
これはここにずっと
在り続けた
私の個性だ、と
直観した。
でも私はこの個性を
あえて
見ずにきた。
使わずにきた。
でも今、これが
観えるということは、
ここから私は
自分がずっと温めてきた
この個性を
使うということ
なんだな、と。
でもあえて
今はまだ、その光の
中身は観ないでおこう。
使うべき瞬間だと
感じるその時に
私はこの光を
使おう。
・・・と思った。
例えば、
こんな感じだ。
皆さんも上記の
問いを
自分に投げてみると
面白いかも。
当然、
すぐに答えは
浮かばないかも
しれない。
でも、それでも
自分に投げ続けよう。
わかっていなかった
ことに気づくのは
それ自体が
楽しいことだ。
つづく
時々、
滝に打たれる
イメージをする。
自分自身を
浄化する
ためだ。
打たれながら
私に取り憑いている
あらゆる余分な
ものが
流れるのを
感じる。
今日もたくさん
いろいろ
もらったな。
みんな
余分なものを
すぐに創り出す。
すぐに
交換し始める。
それが
人間というもの
だけど。
自分の心では
ないのに、
外部から受け取った
余分なものに
心を捕らえられる。
例えば、
外部から憤りの
念を受け取れば、
自分が何かに
憤り始める。
その憤りは
自分のものでは
ないのに。
そして憤った
結果として、
目の前の人に
八つ当たりする。
そこでまた
一つの混乱が
起こる。
この繰り返し
だな。
それをやめよう
と思っても、
私達が人間で
ある以上、
すぐにやめることは
叶わない。
しかし、
人として
少しずつでも
改善しようという
意志がなければ
何も変わらない。
よりよい方向に
変えよう!
という意志に動くのも
また
人間ではないか。
「世の中のために
生きる」
・・・と、
非常に大層なことを
考え始めたのは
19歳の時だ。
誰かに言われたり
教わったわけでは
ない。
登山をしていたら
ふと
そう思ったのだ。
ふと、
自分の人生は
何のためにあるのだろう?
という疑問が
湧き起こり、
それを契機に考え
始めた。
大層なことだ。
世の中のために、
と言いながらも
自分の家族すら
幸せにできない
自分もいた。
そのギャップに
苦しみながらも、
それでも
その意志だけは
今も変わらない。
それで
良いじゃないか。
人には
意志があるんだ。
現在の自分に
見合った意志で
なくても、
そこにある
意志は
確かにそこに
あるのだから。
外部から
受け取る
あらゆる余分なものに
負けている
場合ではない。
自分の
意志に素直に
なろうぜ。
一つずつ
進めば良いでは
ないか。
つづく
真本音度の
高まりや、
意識の次元の
高まりが
あった場合、
まず、
その人のどこに
変化が現れるか、
と言うと、
目の輝き
というのが
一つ。
もう一つは、
笑顔の無邪気さ
だ。
目の輝きは
よく観察しないと
見逃してしまうことが
多いかもしれない。
でも、
笑顔の無邪気さは
意識さえ向ければ
すぐに誰もが
わかるのではないかな。
笑顔と共に
フッと
清々しい風が
吹いてくるんだ。
残念ながら
いろんなストレスを
抱えていたり、
心に淀みが
多い場合は、
たとえ
赤ちゃんや幼児で
あっても、
その笑顔は
濁ってしまうものだ。
笑顔に
険しさが混じって
しまうのだ。
でも
真本音度が
高まったり
次元が高まれば、
そういった険しさが
根こそぎ
浄化される。
すると
誰もがとても
素敵な笑顔になる。
それは
ちょっとニコリと
するだけで、
周りのみんなを
幸せに
できるんだな。
あの人の
笑顔を見たいから
一緒にいたい。
あの人の
笑顔を見たいから
一緒に仕事したい。
・・・みたいな想いを
自然に無意識的に
みんなが感じる
ようになる。
残念ながら
笑顔はみんなが
素敵というわけでは
ない。
でも、
本当は誰もが
素敵な笑顔に
なれるんだ。
つづく
静かな時間を
ちゃんと
あなたは
確保しているか?
私のコーチングサポートを
とっくの昔に
終了している
元クライアントさんから、
久しぶりに
「コーチングお願いします」
と
ご連絡をいただくことは
多い。
お会いしても、
再会を喜ぶだけで、
特に私は
何もしない。
ただじっと
静かな時間を
過ごすだけ。
元クライアントさん
だけあって、
私との「沈黙」の時間に
慣れているから、
特に会話が
弾むこともない。
むしろ私はわざと
会話を弾ませないように
していることすら
ある。
すると
静かな時間が
流れる。
多くの場合、
それだけで
気づくのだ。
「あぁ最近の私には
これがなかった
のですね」
と。
「何もしない時間」
を
一日の中で
どれだけ取れるか?
で
人生の質は
根本的に変わる。
私は
仕事と仕事の合間に
ほんのわずかな
空隙だとしても、
必ず
「何もしない時間」
を意図的に創り出す。
慣れれば、
思考そのものも
完全に止めることが
できる。
「空」
の時間。
リセット
もくは
リブート
の時間。
いわゆるこれが
本当の
「休息」だ。
これがなければ
人間は本来は
生きていけない。
これがなくて
本当の自分の
気持ちに
向き合えるはずが
ないだろう?
「自分」として
人生を生きるには、
必須の
時間だよ。
つづく
私の中には
龍がいる。
白い龍だ。
普段は
眠っている。
海の底
深くで。
でも
時折、
目を覚ます
のだ。
ここぞ、
という時に。
今、
龍が目を
覚ましている
のが
わかる。
私の中の
海が、
ムクムクと
活性化
し始めている。
きっと
もうすぐ
あの海の水が
盛り上がり、
勢いよく
龍は
飛び出すのだろう。
龍が飛び出せば
私の何かが
解放される。
今回は
何か?
恐らく
何らかの能力
だろう。
私が無意識の
うちに
長年ちょっとずつ
培い続けて
きたもの。
そうとは
知らないままに
しかし着実に
コツコツと、
継続的に
養ってきたもの。
そんな力の
何かが
きっと一気に
開花する。
ここから私は
その能力を
使い切ることを
するだろう。
ここからの私に
必須のもの。
最初からずっと
わかっていた
もの。
最初からずっと
決めていた
道を
行くために。
つづく
生まれ出づる
ものは
大概、
恐怖に
慄いている。
その恐怖を
和らげることは
残念ながら
できず、
ただ
見守るしか
ない。
その慄きは、
それを間近で
感じるだけで、
いつも私を
戦慄させる。
するともう
私には
祈ることしか
ない。
そんな時には、
あぁ祈りには
強いパワーが
宿るのだな、と
逆に
実感できたり
する。
そして
彼は生まれた。
まるで
「体」という
殻を
破るかのように。
実体のない
光の球の
ように。
生まれ出づる
ものの
慄きは、
生まれ出た
その瞬間から
悦びに
変わる。
私がすべき
は、
悦び過ぎない
ように
制御すること。
まぁまぁまぁ、
と、
落ち着いて
もらうこと。
ようやく
落ち着いたら
今度は、
その光は
途方に暮れる
のだ。
この強い輝きが
あまりに
強いから。
この輝きを
どのように
使えばよいのか、
わからずに。
ここからが
本当の
コーチングの
スタートだ。
つづく
あぁこのクライアントさんは
今、何かを
生み出そうとしているな。
と
強烈に感じる
ときがある。
何か強い光の塊の
ようなものが、
クライアントさんの
体に重なって
観えることもある。
そんな時は
多くの場合、
そのままをご本人に
お伝えする。
そしてその
強烈な「何か」は
何だろうか?
と
一緒に探すのだ。
ただ、
「産みの苦しみ」
という言葉があるように、
新たな何かを
顕在化するというのは
骨が折れるものだ。
すでにそれが
存在しているにも
関わらず、
それが何か、が
わからない。
当然、非常に
モヤモヤする。
そのモヤモヤが
大事なのだが。
逆のケースも
ある。
これからこの
クライアントさんは
大事な何かを
「手放そう」としているな、
と。
そんな時も私は
そのクライアントさんに
光を観る。
恐らくその光は、
その大事な何かを
手放した後の
クライアントさん自身の
輝き。
エネルギー。
そのエネルギーが
表に出ようと
しているのに、
何か一つを
手放せないが故に
それが出ない。
じゃあ何を
手放せば良いか?
これもまた
クライアントさんと
共に
モヤモヤすることが
多い。
「生み出す」
「手放す」
この二つは
真逆の行為のように
見えて、
実は本質は
同じだ。
生み出す力の
強い人は、
手放すことも
どんどんできるし、
手放すことの
得意な人は、
新たな何かを
どんどん生み出す。
だから、
何かを今、生み出そう
としていて
苦慮している
クライアントさんには、
よく私は
次のような問いを
投げる。
「その何かを
生み出すために、
あなたは今、
何を手放さなければ
なりませんか?」
手放す
とは
自分を解放する
こと。
自分を解放して
初めて
私達は、自らの
創造性を
発揮できるんだ。
つづく
もっと自分に
問うといい。
みんな、
問う量が
圧倒的に少ない
のだと思う。
問えば
自然にわかることが
ある。
しかし
問わないから
永遠に
わからないままだ。
もっと
自分の中に発生
している問いに
敏感になった方が
いい。
最も単純な
問いは、
「なぜだろう?」
だ。
まずは
この問いを意識
するだけでも
人生は変わる。
ちょっとした
ほんのわずかな
心の隙間。
そこに
「なぜだろう?」
が
存在している。
わざわざそんな
どうでも良いことを
考えなくてもいいか、
と
思うなかれ。
そこにどれだけ
深い意味があるか?
は
答えに気づいた
後にならねば
決して
わからないものだ。
私達は
一日のうちに
何度も何度も
「なぜだろう?」
を
繰り返している。
その一つ一つに
馬鹿丁寧に
なるくらいに
真摯に向き合って
ごらんよ。
それだけで
人生の充実度は
根底から
変化するかも。
大袈裟では
ない。
問いに敏感に
なるのは、
人生を豊かにする
ための
基本だと思う。
私は一日中
自問自答するように
なって
本当に景色が
変わった。
この充実度は
誰もがすぐに
手に入れられるもの。
存分に
自分自身に向かって
問うてほしい。
生きるとは、
問うことだ。
つづく