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重い重い
岩を
担いでいないか?
首や肩や
背中に。
頭上に
自分の体よりも
もっと大きな
ものを
担いでいないか?
それは本当に
担ぐべき
ものか?
本当は、
降ろそうと思えば
すぐに
できるのでは?
それを降ろすと、
自分でなくなって
しまう、と
恐れていないか?
その重荷に
依存
してはいないか?
まぁ、でもね・・・
それを本当に
担いで行くのなら、
それは
それで
自分の選択だ。
その代わり
どうせなら
徹底的に
担ごう。
覚悟しよう。
担ぐ人生は
思っている以上に
大変だよ。
今はまだ
中途半端な
重さだから。
本当の重さは
これからだ。
でも
それでもいい。
それが
自分の人生だ、と
本当に
決めるのなら、
心から
応援しよう。
さぁ、どうする?
人生の
選択だよ。
つづく
命の源泉
が
あるとする。
広大でかつ
深い
海のイメージだ。
その中に
入る。
深く深く
沈んでいく。
何万メートルも
潜っていく。
海の底に
たどり着き、
そこで小さく
体を丸め、
まるで
赤ん坊のように
眠ろう。
海を
そのまま
感じるのみ。
あとは
何もない。
でもそれは
無ではない。
命そのもの、
となるのだ。
そうなれば、
ザーッと
あらゆる余分な
ものたちが、
流れ去り、
浄化され尽くす
だろう。
そこで初めて
決断しよう。
人生の
決断を。
つづく
生まれる前兆
って
あるよな。
大切な何かが
生まれる
前兆。
卵の中で
それは
蠢いている。
ガサゴソと。
もう
いっぱしに。
早く外に
出してやりたいが、
まだ、だ。
まだ、
早過ぎる。
待て、待て、
俺よ。
・・・と
自分を戒める。
ちゃんと
準備を完了した
上で
生まれなければ、
すべてが
中途半端になる。
どうせなら
一気呵成に
行きたいのだ。
次のステージ
まで。
そのための
大事な大事な
何か・・・。
まだ生まれるな。
まだ気づくな。
まだ
開放しては
ならない。
気持ち悪い
状態だが、
この気持ち悪さを
愛そう。
生まれる直前の
愛おしい時間。
つづく
蜘蛛の糸の
ような、
一本の細い
線が
天と地を
結んでいる。
細いなぁ。
弱そうだなぁ。
すぐに
切れちゃうかもね。
と
思うのだが、
しかしそれでも
確かに
それはある。
以前には
これすらもなかった
のだから、
0が1に
なったのだから、
それは実に
大きな進歩だ。
でもやっぱり
すぐに切れそう。
ちょっと
風が吹けば、
すぐに飛んで
消えてしまいそうだ。
これをこれから
どうやって
育てようか?
0を1にする
ためには、
ある意味、
闇雲さとか、
大胆さとか、
いろいろ
試行錯誤を続ければ
よかった。
でも実際に
0が1に
なってみると、
この1を
守ることが
実に難しい。
神経を使うし
疲れるものだ。
でもやはり
この1は
愛おしい。
次はこれを
2にすること。
1から2に。
さぁどうするかな。
ちょっと幸せな
悩みでもある。
つづく
時々、私は
狭いトンネルのような
筒のような中を
グングンと
もの凄い勢いで
進んでいる感覚に
見舞われる。
夜、眠ろうとして
布団に入り、
目を瞑った瞬間が
多いが、
昼間の
仕事の最中とか、
移動中とか、
ふとした瞬間にも
その感覚に
見舞われたりする。
深く深く
潜っていくのか、
それとも
上に上に
上昇しているのか。
それすらも
わからないが、
ただわかるのは
何か一点に
とてつもない集中力を
使っているようなのだ。
一点突破。
ここしかない。
ここからしか
出られない。
・・・そんな言葉達が
浮かんでくる。
こんな時、
私は私を邪魔しない
ようにしている。
ちゃんと
集中できるように。
足を引っ張らない
ように。
感覚は違うかも
しれないが、
皆さんにも
こういう時はあるのでは
ないか?
全身全霊を
使って、
何かに集中している時。
もちろん
顕在意識レベルの
話ではない。
全潜在力を
使う、
という表現を用いても
言い過ぎではない
状態の話だ。
やはり一番
ぴったりくる表現は
「全身全霊」
か。
目的も意図も
理由もわからなくとも、
自分自身の
全身全霊を
止めてはならない。
足を引っ張っては
ならない。
全身全霊を
顕在意識が
阻害する。
・・・よくあることだ。
自分自身の
邪魔をするのは
もうやめよう。
つづく
世界を
感じるといい。
もっともっと。
世界全体
を。
そんな大層な
ことを!
とは
思わずに。
もともと
私達は、
世界を感じながら
生きている。
全体の中の
一点が
私達であるが、
全体と一点は
常に繋がっている。
・・・というより
本当は
一致している。
全体であり
一点であり
というのが
人間の本質だ。
ところが私達は
一点
の視点のみで
生きている。
だから
わからなくなる。
観えなくなる。
全体の視点を
もっと
養った方がいい。
そのためにも
常に
意識を大きく広げる。
地球全体に
宇宙全体に
広げようとし続ける。
そして可能であれば、
その状態で、
今ここの
一点の現実
に
向かっていく。
すると、
ほんの些細な
一挙手一投足から
私達は変化を
始めるんだ。
つづく
「中心」から
ずれると、
だいたい
おかしくなる。
妙にソワソワし、
ちょっとした
現実に
心の中は
右往左往だ。
どれだけ
真本音度が高まっても、
中心からずれれば
誰もが
そうなる。
不安定なこと自体は
決して悪いこと
ではないが、
妙に不安定
過ぎるな、
と
感じる場合は、
自分の「中心」を
確認するといい。
自分の「中心」は
今、
本当に
「中心」にあるだろうか?
・・・と。
中心が中心から
ズレていたら、
すぐに
修正しよう。
ズレてしまった
中心を
本来あるべき場所に
移動すればいい。
中心が中心に
戻った瞬間に、
自分自身の
空気感が
明らかに変わるのを
感じるかも
しれない。
できれば
毎日、
ちゃんと中心を
確認するといいね。
つづく
人を
一つの個体として
見るのではなく、
一つの「世界」
として
観るようになっていた
のだと思う。
いつの間にか。
私はあらゆる人を
そう
観ている。
いつから
だろうか?
きっと
7年くらい前
からだ。
そこから明らかに
私のサポートの
仕方は
変わったと思う。
人を育てる
というよりも、
世界を育てる
のだから。
その人には
その人の
世界がある。
「場」がある。
人と世界(場)は
一つであり、
かつ
分離もしている。
世界(場)を
育てることは、
その人を育てる
のとイコールだが、
でも、
世界(場)という
視点に立つことで、
サポートの本質が
まったく
異なってくる。
人は
自己成長を
目指しながら、
自分自身の
世界(場)を
壊し続けている、
ケースが多いのだ!
だから私は
その人の世界(場)を
まずは
守る。
守り方を教え、
守る力を養い、
その人がその人の
世界(場)を
自ら整えられる状態を
目指す。
そしてその上で、
その人が
その人にしか
実現できない世界(場)を
目指す、
という段階に入っていく。
その人が
目指す自分像を
実現するサポートでは
ないのだ。
その人が
目指す自分の世界(場)を
実現するサポート
だ。
この私自身の
本質的変化に
ようやく、
ホントにようやく
最近、
気づいたのだ。
なるほど。
私のコーチングが
独特だと
言われるはずだ。
しかしここが
わかれば
あとは早い。
さらにこの部分を
探究していけば
いい。
そして
世界(場)をサポートできる
コーチを
増やしていくことも、
ここからはさらに
加速できるだろう。
つづく
一区切り感
がある。
ほんの小さな
ものだが。
でも確かに
一つ
やりきった。
この完了感を
今日は
しみじみ
味わおう。
休息は
いつ以来だろう?
また命を
削ってしまった。
しっかり
復活させねば。
休息は
短時間だが、
その時間は
徹底的に
休む。
メリハリが
大事。
何事も
中途半端は
苦しい。
肩が凝る。
ゆらゆらと
最も自然体に
なれるのは、
一つ一つを
徹底的に
行なっている
時だ。
真の集中は
余分な力が
すべて抜ける。
だから
楽なんだ。
つづく
推進力が
とても必要な時
がある。
何が
推進力に
なるだろう?
と
真剣に考える
ならば、
自分一人で
それを
決めないことだ。
物事が
永遠に近いくらいに
持続するための
推進力とは
循環
に他ならない。
ある一つの
存在から
一方向にエネルギーが
流れ続ける
という
ものではない。
それでは
長続きしない。
永続的エネルギー
とは
循環、だ。
エネルギーの
循環を
創るのだ。
循環しながら
エネルギーが
高まっていくこと。
そういう
仕組みを創ること。
そういう
場を創ること。
そういう
仲間を創ること。
理想論だと
思うなかれ。
確かに難しい
課題だが、
それこそが
自然の摂理では
ないか。
私達の目指す
ものを
自然の摂理に
見合ったものにする。
それは
理想論ではなく、
最も大切な
現実論だと
私は思うんだ。
つづく
もうちょい
静かに
せんか。
落ち着いて
進めんか。
一回、
ちゃんと
立ち止まり、
背筋を伸ばして、
しかと
前を向き、
遠くまで
見渡し、
深呼吸を
し、
目線を
上げて。
・・・そして
我に返って。
ガタガタと
騒ぎ過ぎ
だろうよ。
慌てて
騒いで
あたふたと
走り出しても、
何にも
ならんよ。
あなたには
あなたにしか
踏み出せない
一歩が
あるのだから。
何も見えない
状態で
闇雲に暴れる
よりも、
一回、
シャンと
落ち着いて。
静かに
なったら
しっかりと
100%の気持ちで
決断しよう。
決断とは
本来
そういうものだ。
慌てて
するものではない。
単なる
勢いで
するものではない。
つづく
私は
天上から来ている
わけではないだろうが、
地上に降りる
感覚
というのがある。
きっと
人間、
みんなあるのでは
ないか。
地上に降りる
のは
勇気が要る。
勇気を振り絞り、
降りてきて、
実際に地上に立ったら、
あとは
開き直る。
そのような
経験を経て、
我々は皆、
ここにいるのではないか。
私はあまり
人のことを安易に
同志である、
とは
思わないことに
しているが、
でも考えてみれば
ある意味、
同志だよな、
とも。
同じ試練を
越えて
ここまで来たのだから。
本当は
私達はもっと
繋がり合える
はずだ。
もっと
たくさんのシナジーを
起こし、
もっと
素晴らしい世界を
創れるのでは
ないか。
と
単純に
思うのだ。いつも。
同じ人間。
同じ苦しみ。
同じ喜び。
みんな
同じなのだ。
でも、
目的が違ったり、
欲が違ったり、
違いばかりが
際立ったり。
そんなこんなで
混乱ばかり
している。
混乱こそが
人生だ、
と
ちょっと思い込み
過ぎではないか。
現実をみれば、
どうしようもない
ことばかりだが、
でも、
なんとかなる
こともあるだろう。
せっかく
地上に来たんだ。
地上に降りた
同志として、
もっとできることが
あるのでは
ないか。
つづく
上も下も
右も左もない、
無限のような
広大な空間
で、
その世界で、
私は一人
漂っている。
私以外には
何もなく、
だから
「存在」という
ものの
意味が
そこでは
わからない。
「私」という
存在は何故だか
わかるのだが。
その広大な
空間は、
時には
空色になったり、
黄色になったり、
シルバーのような
白いような
単純だけど
表現のしようのない
不思議な光を
放ったり。
そこが
自分の帰る場所
であることは
わかるし、
恐らくであるが、
一日が終われば
毎日そこに
帰っているぽいのだ。
そこにずっと
いると
しまいには、
私自身ですら
わからなくなるが、
それがまた
非常に
心地が良い。
あらゆるものの
源泉に
還る、とは
こういう感覚か。
無限の中の
一点。
それが
私であり、
私がなくなる
ことで
無限と一つに
なる。
が、
それで私が
消えるわけでは
ない。
この
これまた表現の
しようのない
感覚を
思い出している
が故に、
日常において私は私を
忘れることは
ないのだろう、と
思えるのだ。
人とは
何か?
とにかくそれを
探究したい。
その想い
だけは
どうなっても
ここに
残っている。
だから
私は
私として
ここに
いるのだろう。
つづく
心が
バラバラになってる
人がいる。
心が
いくつもに
分離されている。
もともと
人の心は
いくつもに分離
しているものだが、
しかしその程度が
ひどくなり過ぎて
しまうのだ。
結果、
自分がまったく
わからなくなる。
とりとめが
なくなる。
そして
生きる気力が
失われる。
ただ、
その状態を
本人が無自覚の
人は多い。
バラバラの心を
無理に集約しようと
するのは
それこそ
無理がある。
バラバラの
ままでいい。
ただし
バラバラのままの
調和を図る
必要がある。
そのためには
中心核
が必要だ。
まるで太陽系の
中心に
太陽があるように。
中心核が
できれば、
それぞれの心達は
それぞれの
最も居心地に良い
距離感で、
全体として
調和を始める。
調和することで、
一見、バラバラな
心達が
バラバラだけど
統合される、
という状態になる。
バラバラだけど
同じ方向を
向くのだ。
それにより
その人からは
内発的なパワーが
溢れる。
だから、
改めて言うと、
バラバラな心を
無理に
一つにしようと
しないことだ。
それよりも
中心核を
持とう。
中心核と
なり得るのは、
願い。
人生の願い。
真本音の
願いだ。
つづく
ほんの
一滴のメッセージを
私は
その人に残す。
ほんの
一滴でいい。
それは
その人の心の海で
海底深くまで
スーッと
沈み、
ただ
ゆらゆらと
漂う。
メッセージは
皮膜に覆われ、
皮膜に
守られながら、
ずっと
ゆらゆらと
漂い続ける。
きっと
最善のタイミングで
その人の海は
その皮膜を
破るだろう。
するとその瞬間、
皮膜の中の
メッセージは、
海を浮上
し始める。
それは
時には
稲妻のような
鋭い輝きと
衝撃を
海全体に
与えるかも
しれない。
どれだけの
刺激が必要かは、
メッセージが
決めるのでは
ない。
海が
決めるのだ。
心の海が。
これは
一つのプレゼント
のようなもの。
皮膜付き
メッセージを
ほんの
一滴。
その人の
海が
望むものを。
それが
私の役割だ。
つづく
怖がりだからこそ
出る
パワーがある。
人は皆、
怖がりだ。
怖くない
ということは、
自分の範疇でしか
物事を為していない
ということ。
自分の枠を
超えることに向かえば、
誰だって
怖くなる。
怖がりである
ことを
恥じることはない。
むしろ、
怖がりであることは
誇りに思えば
いい。
自分の怖さを
ちゃんと見つめる
度胸がある
ということだから。
怖ければ
怖いほど、
しっかりと
現実を見よう。
自分の目と
耳と
体験で、
確かめよう。
怖さの原因を
見つけ、
怖さの原因を
見つめ、
怖さを
消さず、
そのままに、
怖がりの
まま
堂々と
進もうではないか。
つづく
人間の本質は
祈り
ではないか。
・・・と
強く感じるのは、
青空のもとに
強く風の吹いている
日だ。
風は
空気が生きている
証拠だ。
この世界が
生きている証拠。
人が
生きている証拠
だな、と。
強く風が吹けば、
ついつい
抗ってしまうが、
いっそのこと
風に身を任せ、
飛ばされても
よいではないか。
などと
考えながら
仕事に向かう。
自然に吹く
風と
同じものを
私はいつも
人から受けている。
今日お会いする
人達は、
どんな風を
吹かしているだろうか。
その
風のもとである
祈りは、
どんなものか。
人の祈りに
触れることは
私の秘かな
楽しみであり、
その祈りは
到底、言葉には
ならないものだが、
それらを
風として感じるのは
格別である。
今日は
どんな風に
乗り、
私自身が
その風を
どう活かすか?
組織や場に
皆さん自身の
良い風を
増幅させ、
最も魅力的な
風の循環に
成長させていく。
そのサポートが
私の仕事の
本質だな。
つづく
私は
私と
一致しているか?
本当に
一致しているか?
私は今、
本当に
私だろうか?
私だと
思っていても
実は
何かに支配されている
だけの
存在ではないか?
自分の想いで
生きている
つもりでも、
実は
自分の本当の想いは
踏みにじり、
どこの誰かも
わからない、
存在すらも
あやふやな、
何者かによって
揺らされ続けて
いるのではないか。
これは
本当の道か?
私の望んだ
道か?
今日は
本当の一日か?
私の一日
だっただろうか?
私は私か?
本当に
私か?
・・・
もっと真剣に
問おう。
目を
そらさずに。
もう、
進む時だ。
本当の足で。
自分の足で。
つづく
天と地は
実は
一つだ。
一つが
あえて
二つに分離
している。
二つに分離
したからこそ、
進化が
始まる。
二つを
一つに
結ぶもの。
それが
人間であり、
私達だ。
天と地を
結ぶ
生き方。
天は想い。
地は形。
想いと形を
一致させる。
それができるのは
私達
人間のみ。
これからの
社会は
人間が創っていく。
これまでも
そうだったでは
ないか、
とは
思うなかれ。
これまでは
人間の世では
ない、
と私は思う。
人間ではなく、
何かに私達は
ずっと
支配されてきたのでは
なかったか。
自分の人生を
生きている
つもりで、
そうではない道を
創ってきたのでは
なかったか。
時代を変える。
人間の時代に
変えていく。
そのために
私達は
ここにいるでは
ないか。
天と地を
結ぶのは、
私達だ。
私達人間
だ。
つづく
今、
流れが
観えるだろう。
あなたの
前に。
ここに
辿り着いたのは
あなた自身だ。
あなたの
成果だ。
その流れは
あなたがずっと
夢みてきたもの。
あなたの
人生の願いに
直結する。
この流れに
入り、
流れに
委ねれば、
あなたはきっと
あなたの望む
海に
出られるだろう。
さぁ、行くか?
どうする?
人生の展開は
これまでの
展開の仕方が
まるで別人の人生
だと
感じるくらいに、
変貌するだろう。
これまで
あなたは
陸地を歩いてきた。
流れに乗れば、
ここからは
陸地を歩く
ことは
もう、ない。
しかしそれこそが
本来の
あなたの
進み方だ。
あなたが
最も得意とする。
さぁ、どうする?
流れに入り、
流れに委ねるか?
もう少し
陸地を進むか?
どうする?
今はその判断を
しっかりと
決めるとき。
明確に、
明瞭に、
決めるとき。
つづく
自分を責める
時間があれば、
自分を
誉めてあげた方が
いい。
なぜなら、
自分は
生きているでは
ないか。
生きていて
くれるでは
ないか。
それがどんなに
すごいことか、
私達は
忘れてしまっては
いないか。
人生なんて、
いつでも
リタイアできるものだ。
私達が想像する
よりも
ずっと簡単だ。
私達は本能的に
それを
知っている。
しかし今、
私達は
生きている。
生ききろうと
している。
それで
充分だ。
そうしている
自分を
誉めずして、
いったい何を
愛せるだろう。
生きる
とは
大変なことだ。
生ききる
のは
もっと大変だ。
そのことも
本能的によく
わかりながら、
私達は
ここにいる。
今、
ここにいる。
まずはその
現実を
しっかりと
感じようではないか。
つづく
生まれる、
というのは基本、
怖いことだ。
だから、
新たな自分として
生まれ変わったように
生きることも
怖いことだ。
でも一度
生まれてしまったら
生きるしかない。
新たな自分も
同様だ。
新たな自分として
せっかく
生まれ変わったなら、
開き直って
「これが私だ」
と
生きるしかない。
そこで
「以前の私に
戻りたい」
と
思ってしまうから
その中途半端さが
不調和の始まり
となる。
道を一つ
決めたら、
そこに
向かう。
真一文字に。
別の道の方が
良かったか?
ということはもう
考えずに。
私達人間は
器用ではない。
一つ決めて
一つやる。
そういう生き方しか
基本的には
できない。
中にはもちろん
二つ決めて
二つともやる。
とか
三つ決めて
三つともやる。
という離れ業が
できる人も
いるが、
それは
一つ決めて
一つやる、
という生き方が
ちゃんとできるからこそ
そういった応用が
効くだけのことだ。
一つ決めて
一つやる、
ことすらできない人が
二つ決めて
二つやる、
という芸当が
できるはずがない。
新たな自分として
生きる、
と
決めたら、
その自分が
自分なのだから、
以前の自分は
無視しよう。
この極端さが、
今は
道を開くんだ。
つづく
今回もまた
問いを。
ちょっと変な
問いだが。
・・・
あなたは今、
何に
包まれている?
それを
しっかり感じた
上で、
その
包んでいるものは
あなたに今、
何を
与えようと
してくれている?
・・・
与えられるもの
を
しっかり認識し、
それを活用し、
あなたは
今日から
何をする?
つづく
人には、
新たな自分
が
生まれる瞬間が
ある。
でもそれは
本人が気づかなければ
すぐに
消えてしまう。
気づき、
それを丁寧に
誠実に
育んでいく。
それにより
新たな自分は
ある時ある瞬間から
グッと
成長を始める。
それにより、
これまで自覚して
来なかった
自分の願いや
自分のビジョンや
自分のミッションや
自分の進むべき道が
観えてくる。
または、
これまでまったく
存在しないと思っていた
新たな能力や
新たな魅力や
新たな個性が
一気に開花する。
ほんのわずか、
そっと
芽生える
新たな自分。
それに気づける
自分で
あるか?
人生の展開は
ここで
まったく異なるもの
となる。
本来の自分に
戻る、とは
そういった
新たな自分を
一つずつ
育むことで成される。
新たな自分に
気づく感性。
それは
自らの真本音に
素直に生きる、
ということでしか
得られないものだ。
真本音で
生きる。
とても単純な
ことなんだけど、
その単純な
ことが、
今日一日、
あなたは
できたかな?
つづく
“迷ったら攻めよ”
という
指針が浮かんだ
という話を
昨日、書いたのだけど、
“攻める”
とは
どういうことだろう?
まず真っ先に
思い浮かぶ
のは、
「目的を定める」
ということだ。
何のために
私は
動くか?
という
自分自身が
本当に納得する
目的を特定する。
この目的に
真一文字になろう!
と
思えるものを。
それが
第一だね。
次には、
「余分なことは
全部やめる」
ということかな。
目的に近づく
のを阻害することや、
目的とは特に
関係のないことは、
極力
やめる。
自分の全エネルギーを
その目的に
注げるように。
もちろん
100%とは
いかないかも
しれない。
でも
徹底的に100%に
近づけようとする、
その潔さこそ
大事だな。
さらに、
「一つ決めて
一つやる」
かな。
これをやろう!
と
行動を一つ決めて、
その行動に
集中する。
その完了感が
出たら、
次の行動を決める。
・・・というように
一つ一つ
丁寧に、
最大の集中力を
持って
取り組む、
ということ。
一つの行動を
しているときは、
そこに意識を
100%向ける
ということ。
なんか
書いているうちに、
いつもやっているのと
同じような
当たり前のことばかりだな
と
思ってしまうのだが、
でもこれら基本を
もう一度、
しっかり
丁寧に。
そうするだけで、
きっと
かなりの
攻め!
となるのだろう。
自然にね。
つづく
5月末から
この6月にかけて、
どうやらまた
大きな節目が
あるようだ。
一つ、何かが
世の中全体として
完了した感が
ある。
この節目を
どう
越えれば良いか?
という問いを
私自身に
投げてみると
たった一言、
かなり明確な
指針が来た。
・・・
“迷ったら攻めよ”
・・・
どうやら
私達は、
5月末まで
何かを必死に
守っていたようだ。
「守りきれた!」
という
達成感がある。
だからここからは
攻める。
「攻める」
という表現は
なんとも攻撃的
だが、
しかし今は
これが一番
ピッタリくる。
真本音で
攻めよ!
素直に
攻めよ!
場合によっては
勢いだけで
突っ走っても
いい!
という
開放的な
想いに乗って
それらの言葉が
浮かんでくる。
恐らく
5月末まで、
私達はだいぶ
我慢したのだ。
苦労したのだ。
お疲れさん。
でもそれはもう
終わったよ。
だから一気に
駆けようぜ!
という
ことだな。
つづく
今の
5月から6月にかけての
日々が、
またとてつもなく
重要なんだな。
一つの大きな
転換点。
これについては
改めて
書かせていただくと
思うが、
今回はまた、
今だからこそ
大事な問いを。
・・・
あなたの心の
根底にある
怒り(憤り)は何だろう?
それを
しっかり見つめて、
あるがままに
感じて、
その声を
ちゃんと聴いて
みよう。
・・・
怒り、って
大事なんだ。
自分はすぐには
怒らない
大らかな人間で
いよう。
・・・とする人が
いるが、
もし本当に
そうなりたいなら、
より一層、
自分の怒りや
憤りを感じ、
向き合った方が
いい。
怒りに敏感に
なる。
それにより、
自分が今
本当に意識を向け
エネルギーを注ぐ
べきことは何か?
が
観えたりする。
怒りは
安易に人にぶつけては
ならないが、
怒りは
ちゃんと自分自身の
大切な気持ちとして
自分が
大切にすべき。
自分の中では
いつも
怒りを
開放させておこう。
さて、
今はとてつもなく
大事な転換点。
その指針を
見出すには、
自分の怒りに
光を当てることだ。
つづく
もし
大波に
呑まれたら、
自分に
太刀打ちできない
もので
あればあるほど、
私はその
大波に
完全に
委ねることに
している。
完全に、
委ねる。
完全に。
・・・これが
できるようになる
まで、
だいぶ人生の時間が
かかった。
私が
セルフコーチングの
力をつけたのは、
これができるため
であったと
言ってもいい。
自分の
手に負えない現実に
完全に
委ねられる
自分になる。
これが私がずっと
目指したもの。
これができて
初めて、
この現実世界の
中で
調和を生み出せる、
自らを起点
とした
調和を。
・・・と
ある時
腑に落ちたのだ。
大波に
抗ったり、
反発したり、
そういった経験は
たくさんしたが、
結局は
すべて遠回り
だった。
これでは
人生の目的は
果たせない、
間に合わない
と
思った。
ただし、
大波に委ねる
とは
大波に従属する、
とか
大波に屈服する、
とか
自分を失う、
とか
そういったこと
とは
本質的根本的に
異なる。
それらとは
むしろ
真逆だ。
自己を
しっかり持ち、
自分の使命を
果たそうとする
とてつもない
意志を持つからこそ、
大波には
委ねることが
できる。
気がつけば、
大波を
自分が活用している
ということに
なっていることも
ある。
ただし
これも難しいことだが、
俺が大波を
活用しているぞ!
と
意識した瞬間から
大波には
呑まれてしまう。
要するに、
自我とか
反応本音レベルの
意図では
まったく太刀打ちは
できない。
そんな次元は
手放してしまう。
それが
委ねる
ということの
根本だ。
言葉で説明しようと
すると、
このように
とても難しくなる。
これはやはり
説明することでは
ない。
自ら
体験することだ。
体験すれば、
すぐに
わかる。
説明はできないが
「わかる」
のだ。
頭ではなく、
肚でわかる。
私自身が
そのように生きて
行きたいし、
みんなが
そのように
生きていけるように
サポートするのが
私の役割だ。
さて、
7月からまた
大事な動きに
入る。
そのための準備が
この6月だ。
つづく
自分自身の
コア(中心核)に
意識を向けると、
静謐、
という言葉が
ぴったりするくらいの
静けさを
たたえている時と、
ブンブンと
凄い勢いで回転
しまくっている時が
ある。
あんまり
中間はない。
中途半端が
嫌いだからか。
静謐な時は、
私はできるだけ
物事を(現実を)
よく観察するように
している。
観察するだけで
あとは
何もしない。
何か
思考を働かせたり、
今後の道筋を
見つけたり、
実際に何か
行動に移したり、
・・・どれだけ
そういったことを
したくなっても
やらない。
ただ、
観察に徹する。
逆に、
ブンブン回転
している時は、
自分のすべての
思考と直観と
知恵を
振り絞って
道を見出そうと
する。
たとえ
道が見出せなくても
一歩ずつでも
進む。
行動に移す。
振り返れば、
そのメリハリを
とても大切に
してきた。
恐らく、
そのメリハリこそが
私の人生を
調和させてくれた
のだと思う。
調和とは
安定ではない。
極端な言い方を
すれば、
調和とは
不安定だ。
進化のための
最善の
不安定さを
常に内包しているのが
真の調和だ。
私のその
メリハリは、
常に何らかの
波乱と
混乱と
課題を
私自身に与え続けて
くれた。
それが
とてつもなく
良かった。
さて、
今日からまた
私の中心核は
ブンブンと
凄い勢いで
回転し始めた。
明日から
どうなるかな?
楽しみ。
つづく
ふと、
意味のわからない
映像が
浮かぶときは
ないかな?
それがかなり
明瞭な場合、
それは
単なるイメージ
ではなく
「実在」
かもしれない。
「実在」
つまりは
現象(現実)の
もとにあるもの。
物事の根元。
物事の本質。
何らかの物事
について
その本質を
掴めた時、
私達は時々、
それを映像化して
自分自身に
もたらす。
それは
非常に意味のある
ヒントとなる。
自分が単に
頭でイメージを
しているのか?
それとも、
何らかの「実在」を
掴み、
そのヒントとしての
映像を
自分自身に見せて
いるのか?
この区別が
つくようになると
人生はとても
面白くなる。
そうなるためには
まずは、
ふと浮かぶ
一見すると
わけのわからない
映像があった場合、
それは
ほんの一瞬
よぎるだけの場合が
多いのだが、
それを
逃さずに、
来た!
と
その映像に意識を
向けること。
頭で解釈する
のではなく、
ただただ
その映像に
意識を向け続ける
こと。
・・・ということを
続けるといい。
意味がわからない
ならば、
意味がわからない
ままで良いので、
これを続けていると、
ふと
突然に何らかの
気づきが
来るかもしれない。
来ないかも
しれないが。
来ないなら
来ないで
それでいい。
これも一つの
セルフコーチングの
訓練だ。
一つ一つの
映像を
大切に。
つづく