チームパフォーマンスコーチ

二足

 

二つの方向に

進みたい自分が

いるのなら、

 

その両方が

どうてみても

自分にとって

本気であると

思えるなら、

 

二つとも

徹底的に

大切にしてみると

いい。

 

本来は、

道は一つに

決めた方がいい。

 

エネルギーを

一本に集約するのと

二本に分裂させるのでは、

 

それは

2分の1になるのでは

なく、

 

1/1000 くらいの

効果に

減退するのだ。

 

それをわかっていて

それでも二つを

大切にしたいなら

 

徹底的に

二つ共を

大切にするといい。

 

徹底的に。

 

それをして

初めて

観えてくるはずだ。

 

実はそれは

二つだと

思っていただけで

 

一本道だった

と。

 

しかし

そこにたどり着く

までは

 

生半可では

ない

ということは

言っておくよ。

 

一本道を

行くよりも、

難易度も数十倍だ。

 

それを

わかった上で

それでも

覚悟あるなら、

 

それは

自分の選択だ、

 

徹底的に

二つ共

大切にしよう。

 

つづく

 

使命

 

私のままで

いいじゃないか。

 

このまんまで

いいじゃないか。

 

・・・本当に

そう思えるまで

とことん

私として

生きてごらんよ。

 

徹底的に

として。

 

もしそれが

できたら、

 

次に

こう思えるんだ、

実に自然にね。

 

今の私じゃ

ダメだ。

 

・・・と。

 

このままじゃ

ダメだ。

 

・・・と。

 

この状態での

この想いは

次の想いと

完全に一致する。

 

今の世界じゃ

ダメだ。

 

このままの世界じゃ

ダメだ。

 

・・・とね。

 

そこで初めて

わかるんだ。

 

私は

何のために

生まれてきたか?

 

何を

成し遂げるのが

私の人生か?

 

・・・がね。

 

この順番。

 

この順番でしか

見つからないんだよ。

 

つづく

 

無益

 

とてつもない

敵と

ずっと戦い続けている

人がいる。

 

とても

かなわない敵。

 

それでも

一人で

戦い続ける。

 

戦略がある

わけではない。

 

結局

いつも同じ戦い方

になる。

 

そして

結局

いつも同じ

負け方となる。

 

戦いに敗れて

傷ついて

しかし時間が経てば

だんだん

体力は戻る。

 

体力が戻ったら

また

その同じ敵と

戦う。

 

でも

何も改善されてない

ため、

また負けるのだ。

 

心の中の

話だ。

 

自分の心の中の

敵。

 

自分が作り出した

敵。

 

それと戦い続け、

負け続け、

 

エネルギーを

消費し続ける。

 

人生の

 

生きるという

意味の

 

エネルギーの

ほとんどを

 

そこで

使っている。

 

その状態で、

様々な現実に

向かって行く。

 

だから

実際の

現実における

出来事にも

 

まともに

対応できない。

 

もともと

弱っているから、

対応できる

はずがない。

 

「人生は戦いだ」

その人は言う。

 

いやいやいや。

 

そうやっている

のは

あなたの勝手でしょ。

 

勝手に敵を

つくり、

勝手に疲れる。

 

そうして

つまづいて

ばかりいるのは

あなたが

勝手にやっている

ことだ。

 

自己満足

 

という言葉が

どうしても

浮かんでしまう。

 

今日も

また

戦うの?

 

幻影の

敵と?

 

幻と共に

疲れ果てるの?

 

幻によって

傷つくの?

 

もういい加減、

その

お遊び

から

 

脱け出さないか?

 

つづく

 

出口

 

出口が

見えたとき、

 

凄まじい加速が

始まる。

 

これまで

経験したことの

ない

 

加速。

 

だからここで

多くの人が

逃げる。

 

何とか

踏ん張り、

 

その加速

自分自身

 

一致させた者

だけが

出口にたどり着く。

 

そして

次の世界に

解放される。

 

自己開放

 

が起こる。

 

そう。

 

出口の手前

までは

誰でも

到達できるんだ。

 

しかし

出口を脱ける

のは

容易ではない。

 

どれだけ

口で

意気込んでも、

 

どれだけ

気合を入れても、

 

その加速の

前で

皆、尻込みする。

 

しかもそこは

他者による

サポートは

一切意味を成さない。

 

孤独で

あるし、

 

不安の

権化となる。

 

その状態での

加速。

 

それでも

あなたは

出口に向かうか?

 

つづく

 

道標

 

真一文字に

上昇する

鳥のように

飛んでゆく。

 

目は

たった一点を

見つめている。

そこから

離れない。

 

むやみに

翼は

動かさない。

ただ

大きく広げ、

風に乗っている。

 

あの一点さえ

見つめ続ければ

いい。

 

目を離さなければ

いい。

 

しかしその一点は

すぐに近づく

わけではない。

 

どれだけ

進んでも、

それは同じように

遠い。

 

ずっと

遥かなる一点だ。

 

あそこに

たどり着けるか

どうかは

わからない。

 

むしろ

その実感も気配も

ない。

 

このまま

飛び続けることが

私にとって

正しいのかどうか?

 

それすらも

わからない。

でも

私は飛ぶ。

 

身の程知らず

だろう、

きっと。

 

後先を考えても

いない。

 

無謀か?

 

でも

そう問うと、

とてもそうは

思えない。

 

根拠のない

この確信。

 

あの一点には

私しか

辿り着けないだろう

という

理由のない確信。

 

それに

委ねてしまう

この馬鹿さ加減。

 

それらは

ちゃんと

自覚している。

その上で、

飛んでいる。

 

私の他は

誰もいない。

 

孤独だろうか?

 

これも

違う、と

わかる。

 

私以外

誰もいないのに

孤独ではない。

 

なぜ

飛ぶか?

 

わからない。

 

なぜ

目指すか?

 

わからない。

 

なぜ

やめないか?

 

わからない。

 

ただ、

これが私である、

とは

わかるのだ。

 

つづく

 

限界

 

自分の限界を

超える

スピードが出た時、

 

私達は

目がくらむ。

 

何も見えなく

なる。

 

見る余裕が

なくなる。

 

現実が

わからなくなる。

 

だから本当は

限界を超えるスピードで

進むことは

無茶であり

やめた方がいい。

 

本当は。

 

でも

それをよく

わかっていて、

 

しかしそれでも

あえて

限界を超えたまま

進もうとする人がいる。

 

実は

私もよくやる。

 

これはあまり

お勧めできないこと

なのだが、

どうしてもそれを

やりたいという人を

 

止める術は

ない。

 

だから一つだけ

アドバイスを。

 

どうせ限界を

超えるのであれば、

 

とことん

委ねてしまえ。

 

何という

無茶なアドバイス、

言えなくもないが、

 

しかしそれが

一番良い。

 

限界を超えて

何も観えなくなると

途端に恐怖が来る。

 

恐怖が来れば

身がすくむ。

そして

変なブレーキが

かかってしまう。

 

それが一番

怖い。

 

限界を超える

とは

まさしく限界を

超えることなので、

 

私達自身にはもう

コントロールは

不可能だ。

 

であればもう、

すべてをその流れに

委ねるのだ。

 

諦めるのだ。

 

どうとでもなれ、

と。

 

開き直りだ。

 

これしかない。

 

これしかなくなるのが

限界を超える

ということだ。

 

だから

興味本位で

やらないこと。

 

しかし、

 

やる以上は

完全に

 

委ねてしまえ。

 

つづく

 

過去

 

皆さんの場合、

過去を振り返る

ということが

普段はあるだろうか?

 

私は過去など

振り返らない。

未来のみ見つめる。

 

という

人もいるが、

 

過去の振り返りは

想定外の気づきを

私達にもたらしてくれる

ことがある。

 

私はいつも

「私の人生」

というものを

過去・今・未来を

一直線に結んで、

 

その全体像を

客観的に眺める

ということを

 

ほぼ毎日のように

行なっている。

 

実は意識的に

そうしているわけでは

なく、

ふと、無意識に

それをしてしまうので

あるが。

 

そうして

人生の全体像を

眺めていると、

自然に過去のある場面に

引きつけられる

ことがある。

 

すると私の意識は

その場面へと

飛ぶ。

 

その場面に完全に

入り込む。

 

そして

そこでもう一度、

過去のその体験を

やり直すのだ。

 

もちろん

事実を捻じ曲げる

ことはしない。

 

実際の過去の

その出来事を

そのままに

もう一度、体験する。

 

しかし

今の私がそれを

すると、

その出来事の景色が

その当時とは

まったく別物に変わる

ということは

本当に多い。

 

そしてそれにより

その出来事からの

気づきが来る。

 

その気づきが

今の私への指針に

なるのだ。

 

私達は

体験の中で

生きている。

 

人生とは

体験だ。

 

しかしその体験は

一度の体験で

済ましてしまうには

惜しすぎる。

 

体験は

何度でもし直せる。

 

それにより

人生をより豊かに

進めることは

可能だ。

 

無理に過去を

振り返る必要は

ないが、

 

人生を客観的に

眺めつつ、

自然な振り返りは

強くお勧めする。

 

つづく

 

状況

 

物事の状況

というのは

もちろん、

自分にとって

都合の良いこと

ばかりではない。

 

なぜ

こんなことに

なってしまったんだ、

悔やむことも

多いだろう。

 

状況に焦る

気持ちは

そのままに。

 

心は

そのままに。

あるがままに。

 

ただ、

 

今のこの状況

だからこそ

できる発想が

ある。

 

この状況だからこそ

気づくことが

ある。

 

この状況だからこそ

とれる行動が

ある。

 

今の状況が

自分にとって

プラスかマイナスか、

という

視点から離れ、

 

どのような状況も

今ここでしかないのだ、

という

事実は誠実に

受け止めよう。

 

今ここ

でしかできない

ことをする。

 

どれだけ心が

荒れていても

そこに真摯で

あり続けよう。

 

それが

私達にできる

最善のこと。

 

つづく

 

心身

 

どれだけ

自分のエネルギーが

高まっても、

 

実際に

現実のレベルで

出せるエネルギー量には

限界がある。

 

限界以上の

エネルギーをもし

出し続けると、

 

体が

壊れてしまう。

 

時には

心も壊れてしまう。

 

せっかく

エネルギーが

高まったのに、

それによって

心身が壊れてしまうのは

あまりにも悲しい。

 

エネルギーが

高まった人ほど、

エネルギーコントロールが

必須だ。

 

エネルギーコントロール

とは、

自己マネジメント

そのものだ。

 

つまり、

 

「今、私は

何にこそ自分の力を

注ぐべきか?」

 

絞り込むことだ。

 

これは

 

「今の私の取り組む

課題は?」

 

イコールだ。

 

エネルギーとは

発散・拡散

させ続けるのではなく、

 

集約・集中

させるものだ。

 

一点集中

と言ってもいい。

 

その

「一点」を

的確に決めることこそ

自己マネジメントの

真髄だ。

 

もっと

大袈裟に言えば、

 

無駄なことは

一切しない。

 

無駄なエネルギーは

一切かけない。

 

あらゆる無駄を

削ぎ落とす。

 

ということだ。

 

日々を

シェイプアップ

する。

 

時間の使い方、

エネルギーの使い方を

シェイプアップする。

 

エネルギーが

高まった人ほど、

その意識を

高めること。

 

エネルギーの

高まりによって

自己を過信

してはならない。

 

エネルギーが

高まったからこそ

よくわかるだろう。

 

心も体も

そんなに強いもの

ではないのだ、と。

 

つづく

 

惰性

 

このまま進むと

私の未来は

どこに行き着くか?

 

この問いと

真剣に向き合う

ことは

かなりの恐怖かも

しれないな。

 

今だって

一生懸命

やっているさ。

 

でも

これまでと

変わらぬ

一生懸命さで

 

これまでと

変わらぬ

進み方をする

のは

 

単なる

惰性なんだよ。

 

どれだけ

一生懸命でも。

 

これまでの

延長線上は、

すべて

惰性。

 

惰性の先に

あるものを

イメージするのは

怖い。

 

なぜなら

惰性であると

自分自身が

よくわかっているから。

 

自分の範疇を

超えない

成長。

 

これも

惰性だ。

 

そういう人も

未来をイメージする

のは

怖がるはずだ。

 

未来は

怖い。

 

なぜなら

惰性の生き方を

しているから。

 

惰性の何が

悪い!

 

という声も

ありそうだが、

 

良い悪いの

問題ではない。

 

私達人間は、

惰性の生き方が

怖いのだ。

 

いや、もうちょっと

正確に言えば、

 

惰性の生き方を

続けるうちに

不安は日々、

積もり続けるのだ。

 

怖いから

自分を失う。

 

自分を失うから

自分以外の

何かのせいにする。

 

環境のせいにする。

 

状況のせいにする。

 

どれだけ

何かのせいにしても

ますます

不安は増すばかり。

 

惰性で生きている

自分に、

 

その生き方に

 

妥協はしない

方がいい。

 

惰性に

安定はない。

 

惰性に

安心はない。

 

早くその事実を

受け止めよう。

 

惰性で

進むのではない。

 

願いの方向に

進むんだ。

 

つづく

 

1500

 

2017年8月7日から

ブログを毎日書こう、

決めた。

 

で、実際に

そこから毎日

書いた。

 

今回で1500回。

つまり、

1500日。

 

ちゃんと

続いたな。

 

書くにあたり、

決めていたことが

あった。

 

一つ、

書き溜めはしない。

 

一つ、

書くのはすべての仕事が

終わってから。

つまり、夜中。

 

一つ、

昼の間に内容は

一切、考えない。

 

つまり、

一日を終え、

その「終えた時」に

私は何を書くのか?

 

それを

大切にした。

 

しばらくは

慣れなかった。

 

書くのに何時間も

かかり、

結局、朝を迎えたり。

 

写真選びも

こだわり、

それだけで

何時間もかけたり。

 

地味なところ

だけど、

フェイスブックにブログ記事を

紹介する

1行の紹介文。

その1行にも

何時間もかけたり。

 

とにかく、

1%でも淀みのある

ものは

書かない。

100%の気持ちの

一言一言しか

書かない。

 

内容が

正しいかどうか、

とか

素晴らしいかどうか、

ではなく、

 

ちゃんと自分の

100%がそこに

乗っかっているかどうか。

 

それを

大切にした。

 

そして実は、

 

ブログを書いた直後に

もう一つ

始めたことがある。

 

私は勝手に

「ヴォイス講座」と

呼んでいるが、

 

私の声の録音も

ある時から

始めた。

 

1回約10分の

声だけによる

講座。

 

真本音反応本音の

基本から、

真本音度合いの

高め方、

セルフコーチング法、

人の真本音度合いを

高めるコミュニケーション法、

・・・

というように

かなり基本的なことから

始め、

だんだんと次元の

高め方になり、

 

実在と現象の

話になり、

 

結局、今は

ちょっと人様にはなかなか

お聴かせできない内容に

なってしまい、

 

いったい私は

これをどうする気なんだ?

と思いながら

 

それでも

毎日、録音を続けて

いる。

 

これも昨日時点で

517回。

 

つまりは

517日、続けている。

 

でもこれ本当に

今は

一般公開する気は

なく、

きっとこれは

私が死んだ後に

世の中に出してもらうと

いいんじゃないかな、

くらいに思えてきた。

 

ただ、

あまりここは

考えないようにしている。

 

なぜこれを

録音しているか?

いつか必要な時に

わかるのだろう、と。

 

私にはよく

こういうことがある。

 

意味も目的も

わからないのに、

なぜか

「やろう」

と思うもの。

 

そういうのが

発想された場合、

私は

意味も目的も

わからないままに、

必ず素直に実行に

移す。

 

よく考えたら

人生、

そんなことばかりかも

しれないな。

 

とにかく

今回は完全に私事

なのだが、

 

1500という数字が

なんとなく

嬉しくってね。

 

書かせて

いただきました。

 

つづく

 

節目

 

白い龍が

踊っている。

 

踊りながら

あちらこちらを

自由に

飛び回っている。

 

表情は

見なくても

わかる。

 

悦び勇んで

いるのだ。

 

あぁ、節目が

来たな。

 

節目まで

来れたな。

 

わかる。

 

私の場合、

人生のとても重要な

節目を迎える時、

 

大概、そこで

白い龍を観る。

 

私にとって

白い龍は

自分ががんばった

証であり、

 

次のステージへの

スタートの合図

でもある。

 

自分を褒める

のと同時に、

どこかがキュッと

緊張する。

 

しかしこの

緊張感こそが、

ひょっとすると

私にとっては

人生でも最も好きな

感覚かもしれないのだ。

 

私はこれから

白い龍と共に

セルフコーチングに

入る。

 

ここは節目だ。

 

これまでの私は

何者で、

 

ここからの私は

何者となるのか?

 

それをゆっくり

見出そうと思う。

 

つづく

 

一祈

 

私の心の奥には

祈りがあるな、

ある時にわかった。

 

祈りとは

信仰心という

意味ではない。

 

他に言葉が

ないので、

どうしてもこの表現に

なってしまうが、

 

それは確かに

祈りだ。

 

しかも

何を具体的に

祈っているのかは

わからない。

 

でも確かに

祈りなのだ。

 

本当に苦しい

時期だった。

 

自分という人間を

根こそぎ

捨ててしまいたいと

考えていた

時期だった。

 

八方塞がり。

 

どこにどう向かっても

私には地獄しか

待っていない。

 

と、

そんな風にしか

考えられない

日々だった。

 

そんな中で

気づいた

私の中の祈り。

 

それは

自分を救い出す

ための祈り

ではなかった。

 

それは

私自身が

生まれてきた意味

だと思えた。

 

八方塞がりで

今は何をどうすれば

良いのか

さっぱりわからないが、

 

ただ

この祈りだけは

持ち続けようと

決めた。

 

恐らくであるが、

 

人は全員、

祈りを持っている。

私と同じように。

 

たくさんの人と

向き合いながら、

私は今では

ほぼすべての人に

祈りの存在を

感じる。

 

私はいつも

その人の祈りを

感じながら

人と向き合う幸福を

感じているのだが、

 

残念ながら

当のご本人が

それに気づいて

いない。

 

あなたには

祈りがありますよ。

 

などとは

伝えない。

 

伝えても

意味がない。

 

あなたは

祈りですよ。

 

本当は伝えたいのだが、

それをしては

恐らくすべてが

逆効果に働くだろう。

 

祈りは

自分で感じ取るしか

ない。

 

言葉はないが

自分という存在の

根源的なもの。

 

それと歩むのが

人間なのだと

思う。

 

私は一つの祈り。

 

皆の中の

たった一つの

祈りだ。

 

つづく

 

未来

 

未来が私に

語りかけてくる。

 

もっと私と

一つになったらどう?

 

と。

 

いや、いいよ。

 

私は返す。

 

私は未来を

知りたくないんだ。

 

ほんの1秒後の

未来でさえ。

 

その気持ちは

わかるけど・・・。

 

未来が呟く。

 

これは好みの

問題じゃないんだ。

 

未来がわからない

のが

この人生の

醍醐味さ。

 

悲しいことも

多いでしょう?

 

もちろんね。

耐えられそうも

ないことも

たくさんあった。

 

でもそれでも

私に未来は

必要ない。

 

寂しいね。

 

どうして?

私は未来を

創っていくものだと

思っている。

 

それはそうだけど、

でも結局はそれは

私と一つとなる

ということだよ。

 

もちろん

わかっているよ。

 

でもそれでも

未来は

私が創っていく。

その方が

面白いし、

ここにいる意味が

あるよ。

 

でもあなたの

歩みは、

私と一つになった方が

随分楽だと思うけど・・・。

 

いや、

今でも充分に

楽だよ。

私は「今」を

愛しているからね。

「今」を愛せば、

未来を感じるよ。

決して未来はわからない

けどね。

 

わかった。

じゃあ、あなたからは

離れておこう。

もっと離れようか?

 

そうだね。

遠くの星くらいで

いてほしい。

未来を星のように

眺めながら、

遠くの存在として

感じながら

進みたいんだ。

 

あなた、

変わってるよね。

 

そうかなぁ。

これが人間の

醍醐味だと思うけどなぁ。

 

つづく

 

約束

 

一本の道を

歩いている。

 

ずっとまっすぐ

続いている。

 

この道を

歩き続けたら、

 

一緒に歩く人が

自然に増えた。

 

私は常に

前を向いていた。

 

あまり

横は向かなかった。

 

なのに、

ふと気がつくと

一緒に前を向いて

隣を歩いてくれる

人達がいた。

 

あぁ俺は

幸せなことだなぁ。

 

呟きながら

さらにスピードを

上げた。

 

すると途端に、

道を外れる人が

出てきた。

 

えっ、えっ、えっ!?

 

君、外れちゃうの?

 

一緒にまっすぐ

進もうと

約束してたのに。

 

そこ、

曲がっちゃうの?

 

必死に声をかける

のだけど、

私は無視された。

 

あんたとは

もともと道が

違うのだよ、という

感じで

 

平気で

無視された。

 

本当に

言葉もなかった。

 

その度に

私は泣いた。

 

泣くけども、

それでもその道を

進むことは

止めなかった。

 

むしろ

スピードアップした。

 

反撥していた

わけではない。

 

君がいなくなるなら、

もっと俺は

頑張らねば・・・、

 

という気持ち

からだ。

 

でもそれを

やっているうちに、

その新たなスピード

だからこそ

だろうな、

 

また自然に

隣に

一緒に進む人が

集まってきた。

 

そしてさらに

スピードアップ。

 

するとまた

何人か外れていく。

 

ずっと

その連続だった。

 

何度も泣き、

何度も喜んだ。

 

気をつけた

こと。

 

それは決して

横を向き過ぎないこと。

 

横を一緒に

進んでいる人のために、

ならないこと。

 

あくまでも

私は前を向き、

自分のこの限られた人生で

 

進めるところまで

進む。

 

私にはどうしても

達成せねばならぬ

ことがあるのだ。

 

そのために

進む。

 

そこは揺るがぬ

こと。

 

こういうのを

頑固

と言うのだと思う。

 

融通が利かないなぁ

と思う。

 

でもそれが

という人間だ。

 

この道を進むのが

私であり、

 

この道が

私だ。

 

これからも

悲しむことは

あるのかな。

 

なきゃない方が

良いけれど、

 

悲しまないために

どう進むか、

ということも

きっと私はまったく

考えず、

 

さらに

スピードアップを

続けるのだと思う。

 

私自身との

約束だから。

 

つづく

 

地道

 

地道に一歩ずつ、

私達は

行くしかないでは

ないか。

 

たった一人の

能力は

たかが知れている。

 

一日、24時間。

 

この限られた

資源。

 

その中でできることは

たかが

知れている。

 

大きなものを

目指すことは

自由だが、

 

私達に

今、

できることは、

 

今、

できることを

すること。

 

だから

今、ここを

とてつもなく

大切にする。

 

ほんのわずかな

一歩だと

しても、

 

そこに

魂を込める。

 

ほんの些細な

一言だと

しても、

 

そこに

魂を込める。

 

体が一つしか

ない自分。

 

1秒においては

1秒しか

活動のできない

自分。

 

この制限の

中、

私達は

生きている。

 

ほんのわずかしか

命の炎は

燃やせない。

 

命のエネルギーは

費やせない。

 

どれだけ大声を

出しても、

地球の裏側まで

その声が届くことは

ない。

 

どれだけ

思いっきり

空気にパンチをしても、

 

自分の右手の

周りの空気が

小さな小さな

風を立てるくらいだ。

 

何という

小さな存在、

 

小さな

影響力。

 

にも関わらず

大志を抱く。

 

この

人間という

存在。

 

ならば

やはり

ここに、すべてを。

 

この1秒に

すべてを。

 

この一つに

すべてを。

 

丁寧に、

誠実に、

 

祈りを込めて。

 

つづく

 

生活

 

通常の成長の

限度を超えた

 

逸脱的成長を

しようとしている

人達が

 

今、急増している。

 

かなり

勇敢な行為だ。

 

勇気と覚悟を

もって

一気に進もうと

している。

 

それ自体は

称賛すべきこと

なのだが、

 

しかし

わかってほしいのは

それは

そんなに簡単な

ことではない。

 

逸脱的成長を

しようとする場合、

最も大事なことは

何だろう?

 

もしそう問われたら

私なら

こう答える。

 

ちゃんとした

「生活」

をすること。

 

・・・と。

 

「生活」とは

つまり、

 

今、やるべきことを

今、ちゃんとやる

ということだ。

 

自分をコントロール

して、

人として

生きる上で必要な

こと、

人間関係を維持する

上で必要な

こと、

をちゃんとすることだ。

 

例えば、

ちゃんと毎日

体を洗う、

歯を磨く、

清潔にしている、

部屋は掃除する、

食事はきちんととる、

人とのコミュニケーションを

大事にする、

挨拶を大事にする、

感謝の一言を忘れない、

ごめんなさい、をちゃんと言う、

一つ一つの物事を

丁寧に心を込めて行なう、

・・・etc.

 

ということだ。

 

地に足をつけて

「生活」すること。

 

これは

自分自身の意思で

行なうことだ。

顕在意識の意思で。

 

そういった

当たり前のことを

大事にできない人は

 

逸脱的成長など

とんでもない。

 

「生活」を

コントロールできない人が

自分をコントロール

することはできない。

 

そんな人が

逸脱的成長を目指せば、

自分が

壊れてしまう。

 

「成長できた!」

と思ったとしても

それは究極の自己満足

に過ぎないだろう。

 

真本音度合いが

高まる、

と人は自然に

「生活」をしっかり

するようになる。

 

「今」という時間を

大事に、

「人」を大事にし、

「生活」を

本当に大事にするように

なる。

 

それが

正常な成長の姿

だ。

 

人としての

姿だ。

 

つづく

 

自分

 

「自分」

という人間を

自分が潔く見つめる。

 

たったこれだけの

ことで

 

人生は

変わる。

 

私自身も

そうだったし、

 

それができた人は

皆、そうなった。

 

なぜ、

私の人生は

変わらないのか?

 

その理由は

自分をちゃんと

見つめてないから。

 

・・・究極は

そう言ってしまっても

良いのだな、

最近は改めて

思う。

 

人生を変える、

までは

行かなくても、

 

最近、物事が

上手く捗らないなぁ、

 

すぐに何かと

ゴタゴタに

ぶち当たるなぁ、

 

なんでこうずっと

モヤモヤが

続くんだろう?

 

思うのであれば、

やはり答えは

同じだ。

 

自分をちゃんと

見つめてない

のだ。

 

最後は

ここに行き着く。

 

自分を見つめず、

自分から逃げる。

 

そういう人が

現実から逃げる。

 

逃げていることを

誤魔化す。

 

本当は

現実から

逃げているのでは

ない。

 

自分から

逃げている。

 

結局は

そうなのだ。

 

私達には全員、

 

ただ

自分を

そのままに

見つめる自分が

いる。

 

本当は

自分のことは

よくわかっている。

 

なのに

わかっていない

フリをする。

 

それも

誤魔化しだ。

 

もういい加減、

そんなことは

止めよう。

 

時代は

変わったんだ。

 

誤魔化しで

進めるほど、

今の時代は

甘くはない。

 

つづく

 

人間

 

年齢が若い

からと言って

未熟なわけではない。

 

表面的な若さ

のみを見て、

 

この人は

まだ未熟だ

 

決めつけることの

危うさ。

 

最近よく

感じる。

 

成熟している

若者が

増えている。

 

これはもちろん

良い意味で

言っている。

 

サポートしながら、

私の方が

100倍も未熟じゃないか、

よく感じる。

最近は。

 

もちろん

そういう人ばかりでは

ないが、

 

しかし

私達は、

特に私と同じくらいの

世代の人間は、

 

人の見方を

 

そろそろ

根本的に

変えなければならない

と思う。

 

「人間」

変わったよ。

 

ここ数年で

大きく変わった。

 

良いことだよ。

 

変わったことに

気づかない、

もしくは

気づいていないフリを

しながら

行くのは

終わりだ。

 

「人間」

変わったよ。

 

そして

これからも

さらに

大きく

変わっていくよ。

 

「人間」を

これまでの人間と

同様に

見てはならない。

 

その私達の

目線が

時代を本当に

変えていくのでは

ないか。

 

「未熟」

なんて

決めつけるな。

 

ここからは

共に社会を

創っていくんだ。

 

つづく

 

エネルギーいただこう

 

もし目の前に

川の激しい流れの

ような

 

勢いのある

エネルギーの束が

観えるなら、

 

それを

存分に浴びる

といい。

 

激流を目の当たり

にすれば

一瞬、

恐ろしくなるが、

 

開き直れば

いい。

 

自分を閉じる

のではなく、

 

自分を

開く。

 

全身を

開いて

そのエネルギーに

委ねてしまう。

 

すると

自分の中の

あらゆる余分な

存在が、

 

キレイさっぱり

洗い流される。

 

身も心も

軽くなるだろう。

 

必死に進む

毎日ならば、

もちろん

エネルギーを使い切る

ことなんて

ざらだろうね。

 

無理するな

と言っても

無理しちゃうよね。

 

全力で進めば

当然そうなる。

 

そんな時は

ふと

心を鎮めれば、

 

至るところに

流れる

エネルギーを

感知できるかも。

 

感知できるだけで

私達はそれを

引き寄せられる。

 

エネルギーは

真剣に進む存在へと

引き寄せられる。

 

それを

有り難く

いただけばいい。

 

私達は

自分のエネルギーだけで

進んでいるわけでは

ない。

 

自分のエネルギーだけで

進まなければならない

わけでもない。

 

この世は

エネルギーに

満ちている。

 

エネルギーの循環に

溢れている。

 

真剣に進む者は

それを活用できるように

なるんだよ、

自然にね。

 

つづく

 

希望の芽

 

自分の中に

希望が見えても、

それをすぐに

捨ててしまう人が

いる。

 

どうせ無理だ、

と。

 

もしくは、

 

今の私には

無理だ、

と。

 

そんな勿体無い

ことはしない方が

いい。

 

希望は

希望だ。

 

それは

大切にすれば

するほど、

心の中心核に

育っていく。

 

希望は

最初は甚だ心許なく、

弱々しいものかも

知れないが、

 

それをずっと

持ち続けることで

自分と一体化を

し、

 

そして

自分の中心核と

なる。

 

その中心核からは

芽が出、

茎が伸びる。

 

それは

自身の中心軸と

なる。

 

もちろん

花はそんなに簡単には

咲かないかも

知れない。

 

でも私達は

中心核と中心軸が

あるだけでも

毅然と生きることが

できる。

 

そういった

意味でも、

 

希望は

希望だ。

 

つづく

 

志の本質

 

新たな志が

芽生えたならば、

 

それと

ジッと向き合い

続けるといい。

 

志そのものと

ジッと

向き合い続ける。

 

思考する

のではない。

 

何も

考えない。

 

ただ、

静かに向き合い

続けるのだ。

 

・・・・・・

 

その志から

感じるのは

何だろう?

 

あたたかさ?

冷たさ?

柔らかさ?

硬さ?

 

その志は

伸びゆくもの

だろうか?

 

自分を伸ばして

くれるもの

だろうか?

 

思考ではない。

ただ

その視点で

見つめるといい。

 

その志は

自分自身に

何をメッセージ

しているだろう?

 

自分に何を

リクエスト

しているだろう?

 

思考ではない。

ただ

その視点で

見つめるといい。

 

・・・・・・

 

志には

命がある。

 

それは一人の

子どもが生まれた

のと

何ら変わらない。

 

大切に

常に大切に。

 

常に栄養を

与え、

励まし、

時には叱り、

指導する。

 

志を叱ったり

指導するのだ。

 

そうしないと

志はまっすぐに

育たない。

 

子どもと

同じだ。

 

志に依存しては

ならない。

 

志は

自分の意思で

育てるもの。

 

志は最初は

まだまだ小さくて

未熟だ。

 

自分からの保護が

必要だ。

 

志の保護者で

あること。

 

これをちゃんと

誠実にやり遂げる

人こそが、

 

志を

成就させるのだ。

 

私達は

志と共に進む。

 

志とは

パートナーである。

 

本当のパートナーに

育て上げるのは

自分次第だ。

 

つづく

 

遥かな終わり

 

よく私は

トンネルの中に

入る。

 

トンネルは

延々と続く。

 

トンネルという

よりも

洞窟と言った方が

正しいかも知れぬ

自然さの

トンネル。

 

延々と続く中を

私は

延々と進む。

 

どれだけ進んでも

終わりが見えない。

 

同じ光景が

続くのみ。

 

しかしそれでも

進んでいる実感は

あるのだ。

 

そしてそこに

喜びを確かに

得ている自分がいる。

 

きっと

この進みの先には

まだ見えぬ終わりが

あるのだと思う。

 

その終わりを

見たいという想いで

進むのだが、

 

一方で

その期待のままに

永遠に進み続けたい

とも思う。

 

この感覚は

何かに似ているなと

思っていたが、

 

あぁこれは

我々の魂の旅路

であり

 

人生の旅路そのものの

感覚だな

とも思った。

 

早く終わりたいが

ずっと終わりたくない。

 

この

人間としての

感覚。

 

人間だからこその

感覚。

 

すべてのことに

きっと

終わりはある。

 

それは

出口かも知れないし、

 

行き止まりの壁

かも知れない。

 

それを見極めた時、

次の瞬間には

別の世界に飛び、

 

次の別のトンネルの

中にいるのかも

知れない。

 

このトンネルの

先には

何がある?

 

私はこういった時、

ダイレクトに

そう自分に問う。

 

すると面白い

ことに

必ず何らかの

答えのようなもの

を得る。

 

今回は

こんな答えが来た。

 

「たくさんの

集合体がある。

これまで出会った

あらゆるものの

集合体だ。」

 

つづく

 

近過ぎる 遠過ぎる

 

人と人の距離感

というのは

とてつもなく大事だと

私はいつも思っている。

 

せっかく相性が

良いのに、

距離感がズレている

ことで

足を引っ張り合ったり、

仲違いをしてしまうことも

ある。

 

近い距離を

遠ざけるのは

一般的には

「寂しさ」を感じたり、

 

それは表面的には

「手放す」ことと

同じなので、

 

罪悪感を

感じたり。

 

でもそこを

毅然と遠ざけることの

できる人は

私は本当に

愛のある人だなぁ、

と思う。

 

みんな距離が

近過ぎるな、

とも

よく思う。

 

もっと離れていて

良いのに、と。

 

執着や依存心が

距離を必要以上に

近づけてしまう。

 

逆もある。

 

この人達

もっと近づけばいいのに、

と思うのに

近づかない。

 

無理に

距離を取ろうとして、

そこにばかり

エネルギーを費やして

しまう。

 

近づけるどころか、

いっそのこともう

一つになってしまえば

良いのに、

というケースもある。

 

私達人間は

体は二つでも

本質的には

一つになることも

できるのだ。

 

なのに

中途半端にしか

近づかない。

 

とても遠慮を

する。

 

そんな関係も

多い。

 

距離感のみを

修正することで

世の中全体の調和は

根本的に変わるのでは

ないか。

 

とさえ

思えるんだな。

 

距離感。

 

この視点で

すべての関わりを

総チェックしてみると

いいね。

 

つづく

 

シンプル問い

 

私達は日々、

変化をし続ける。

 

だから

時々、

とてもシンプルな

問いを

 

ダイレクトに

自分に投げると

いい。

 

例えば、こんな

感じだ。

 

 

「私は本当は、

どんな自分になりたい?」

 

「そしてそのためには

どんな力を得たい?」

 

 

今のこの

タイミングで

この二つの問いを

自分に投げ、

 

今のこの

タイミングで

発想された答え。

 

これは

相当に大事な

答えのはずだ。

 

今日から

本気で

それを目指すことを

お勧めする。

 

つづく

 

ここから出たい

 

ものを言わぬ

人。

 

じっとこちらを

見ている。

 

まるで亡霊の

ような。

 

しかしそれは

紛れもなく

その人の実在。

 

ただ寂しそうに

こちらを

見つめている。

 

私はその

無表情の中に

本当の表情を

探そうとする。

 

私の解釈は

すべて手放し、

 

ただその

無表情に

透明な意識を

向ける。

 

と同時に、

様々な想い、

つまりは

恐らくその人の

と見られる想い達が

 

ダイレクトに

伝わってくる。

 

それは最初

言葉にならぬもの

であるが、

 

こちらの感覚

にすらなる前に、

 

私の目から

ツーっと

涙がこぼれた。

 

その後だ。

 

この人は今、

とても苦しんでいる

認識したのは。

 

何か

苦しい目に遭った

のではない。

 

それであれば

むしろ

わかりやすいだろう。

 

その苦しみは

自らが

日々、着実に

招いているもの。

 

その苦しみは

自らを

小さな枠の中に

無理に、強引に

閉じ込めようとする

その生き方に

よるもの。

 

ということが

わかった。

 

あえてそれを

言葉として

表すならば、

 

「ここから出してくれ」

 

だろう。

 

人は

自分で自分を

閉じ込める。

 

そして実は

その苦しみが

ひょっとすると

私達にとって

最大のものかも

しれないのだ。

 

これは、

コーチングでは

ないな、と。

 

「サポート」の

範疇ではないな、と。

 

この人は

「ヘルプ」を

求めている。

 

無表情のまま

ヘルプを。

 

私はその

能面のような

顔の奥に、

 

阿鼻叫喚を

感じ取り、

 

またため息を

ついた。

 

こんな人が

今、

本当に

増えている。

 

つづく

 

始まり

 

じっと私は

成り行きを

観察している。

 

いろんな

エネルギーが

融合したり

分離したり。

 

渦を巻いたり

爆発したり。

 

その中から

一本の細い

エネルギーの筋が

 

スーッと

降りてきた。

 

そして

地上に突き刺さる。

 

轟音と共に、

激しい光の

開放。

 

無数の火の玉

が四方八方に

飛び散っていく。

 

いったいこれは

どうなることか。

 

到底、手に負えない

現象の数々に

私はただ

茫然とするのみ。

 

本当に

観察することしか

できない。

 

気がつくと

私以外にも

この成り行きを

観察している人達が

いる。

 

私の周りに

集まってきている。

 

皆、茫然と

している。

 

「これも

自然の流れと

言うのか・・・」

 

一人が呟く。

 

「ここまで

頑張ったんだけどな」

 

さらに一人が。

 

努力というのは

このように

一切、報われない

ことがある。

 

どれだけ着実に

積み上げても

それでも

一気に崩れ去る

こともある。

 

そんな時は

茫然とするしかない。

 

しかし私達は

それでも

知っている。

 

この激しい現象の

最中にも、

次の新たな芽が

生まれつつある

ことを。

 

その芽をこそ、

私達は

探し出そうと

ここに

集まってきた。

 

「あるのか?

本当に・・・」

 

「あるさ。

我々がそれを

信じなきゃ」

 

「そう、

きっとあるさ」

 

皆が口々に

呟き合う。

 

希望というには

あまりにも

遠い

希望の光。

 

絶望という

言葉が

あまりにも軽く

響くこの惨状。

 

それでも

やはり

我々は

探し出さねばならない。

 

そうでなきゃ、

ここまで来た

意味はない。

 

「行くか?」

 

「そうだな」

 

「行くか・・・」

 

そろりと

少しだけ進む。

 

惨状は

さらに激しさを

増している。

 

それでも

さらに

そろりと進む。

 

今はこれしか

できないが、

 

たったわずかでも

できることを

するしか

ないではないか。

 

・・・。

 

思い出すな。

 

これが

始まりだったな。

 

つづく

 

俯く

 

悲しみ。

 

人間は

悲しい生き物だ。

 

その悲しみを

私は

この一週間、存分に

味わったように

思う。

 

この仕事に

就いてから

私は何度も何度も

泣き続けたが、

 

昨晩もついに

堪えきれなくなり、

ずっと

涙を流し続けた。

 

人間は

悲しいな。

 

この感覚は

何度体験しても

慣れることはない。

 

もし仮に

慣れたとしたら

私はその瞬間に

この仕事と

 

私自身の使命

 

捨て去るだろう。

 

悲しみの

ちょっとの隣には

もちろん、

憤りもある。

 

寂しさも

絶望も

ある。

 

でも考えてみれば

そういったもの達は、

ずっと

在り続けている。

 

なくなることは

あり得ない。

この世で生きている

限りは。

 

人生は

悲しいか?

 

人生は

悲しいな。

 

人は

孤独か?

 

人は

孤独だな。

 

例外のない

この世の中で

それでも私達は

生きていかねば

ならない。

 

生きているか?

 

生きているな。

 

悲しみは

生きていることの

証だ。

 

つづく

 

今日だ

 

今日、

向き合わねば

ならぬ

人がいる。

 

今日、

もし向き合わねば

お互いの人生が

大きく変わって

しまう。

 

今日、

もし向き合わねば

お互いの周りの

人達の人生も

大きく変わって

しまう。

 

そんな重要な

節目がある。

 

今日で

なければダメ。

 

昨日でも

明日でも

ダメ。

 

今日の私と

今日のあの人で

なければ

ダメなのだ。

 

これが

人と人の関わり。

 

その節目を

ちゃんと丁寧に

一つずつ

果たしていく。

 

それが

調和の人生の

最低条件だ。

 

そして

人を大切にする

とは、

このようなタイミングを

大切にする

ということでもある。

 

ただ闇雲に

関わればいい

というものではない。

 

一人、一人、

丁寧に。

 

一つ、一つ、

丁寧に。

 

つづく

 

踊ろう

 

自分の踊りを

極めようと

ますます研鑽する人

と、

 

自分の踊りを

諦めてしまう人。

 

その二極化が

さらに進んでいる。

 

せっかくもうあと

一歩で、

 

一作目の踊りが

完成し、

それが基礎となり

今後ますます自分らしく

魅力に富んだ踊りを

次々に発明できるのに、

 

その直前で

踊りの開発を

放棄してしまう。

 

そんな人だって

いる。

 

人の踊りを

踊ったり、

もしくは

踊りそのものを

やめてしまったり。

 

それは

面白くないと

思うんだが・・・。

 

踊るのが

怖いのかい?

 

自分の踊りを

みんなに見せるのが

怖いのかい?

 

それともただ

面倒臭いだけ?

 

誰もが

その人にしか

できない踊りがある。

 

それを見れば、

みんなが

拍手喝采する。

 

だって

その人にしか

できないから。

とても独自の

魅力に溢れているから。

 

別に

拍手喝采のために

踊らなくても

いい。

 

でも、ちゃんと

自分の踊りが

できれば少なくとも、

 

自分が自分に

拍手喝采は

したくなるもんさ。

 

それは

自己満足とは

言わない。

 

それは本当に

嬉しいことだよ。

 

さぁ・・・、

 

それは本当に

あなたの踊りか?

 

自分のやりたい

踊りか?

 

自分ならではの

踊りだろうか?

 

つづく