チームパフォーマンスコーチ

今と共に

 

私達に与えられた

唯一の現実は

 

「今」

 

である。

 

私達は

「今」という現実を

生きている。

 

だから

「答え」はすべて

「今」にある。

 

ちゃんと

「今」を生きている人は

自らの「答え」に

「今」気づくことができる。

 

どの「今」に

気づけるか?

ということも

だんだんとわかるようになる。

 

「今」はまだ

答えは出ないな。

 

あっ「今」ここで

答えが出るな。

 

・・・ということが

わかるようになる。

 

これができると

人生はとても

楽になるし

 

自由になる。

 

逆に言えば、

私達は

「今」から意識が外れる

ことで

 

迷わなくてよいところで

迷い、

 

本当は決められるのに

その瞬間を

逃し、

 

人生の路頭に迷う。

 

でも実は

どれだけ路頭に迷っても

「今」に戻り

「今」を生きれば

 

すぐに

本来の自分に

戻れるんだ。

 

「今」にいない

ということは、

 

「世界」と分断されている

状態だ。

 

それは

孤独だ。

 

私達が唯一

「世界」とつながれるのは

「今」だけだ。

 

「今」に生きている

人はだから、

孤独ではない。

 

すべてとの繋がりを

「今」感じ取る

ことができる。

 

それは理屈ではない

感覚だ。

 

だから、

 

人生がわからなく

なったら

「今」に戻ろう。

 

今この瞬間に

意識を集中させ

 

今この瞬間を

生きよう。

 

そのためには

まずは

「今」をゆっくりと

感じ取ることだ。

 

呼吸を整え、

「今」の自分と

「今」の世界を

両方同時に

感じ取ってみよう。

 

「今」を

味わい尽くしてみよう。

 

その状態で

生きるんだ。

 

その状態で

ずっと

生きるんだ。

 

つづく

 

この一言を

 

人と会うときに

とてもお勧めなのは、

 

「この人に今回は

どんな言葉を

プレゼントしようか?」

 

前もって真剣に

決めておくことだ。

 

その言葉とは、

もちろん

やさしい一言とは

限らない。

 

時には

厳しい一言を

残さなければならないことも

当然ある。

 

でもやはり

それは

プレゼントだ。

 

自分の解釈ではなく、

その人のことを

ずっと想いながら、

 

その人の姿を

浮かべながら、

 

自然に浮かぶ一言を

私はいつも

胸に抱いた上で

当日、

その人と会う。

 

するとそのプレゼントを

実際にお渡しできる

こともあれば、

できないこともある。

 

どちらでもいい。

 

相手がいること

なので、

その時その場の流れを

大事にすればいい。

 

でも、

言葉のプレゼントを

渡せても渡せなくても、

 

言葉のプレゼントを

胸に抱いた状態で

その人と向き合えば、

 

随分とその場は

あったかいものに

なるよ。

 

つづく

 

まっすぐなんだから

 

まっすぐな道が

観えるなら、

 

進めばいい。

 

観えなくても

感じるだけでも

いい。

 

「まっすぐさ」

 

これを感じる

ということは

 

「全力で進みたい」

 

という

自分自身の

真本音の意志だ。

 

そこに

素直になればいい。

 

そこで

変な躊躇をしていると

いつしかその

「まっすぐさ」

は消えていく。

 

一度消えてしまうと

また復活させるには

かなりの苦労が

要る。

 

せっかく手に入れた

「まっすぐさ」

存分に味わえばいい。

 

全力疾走だ。

 

これをすると

全力だと思っていた

自分の限界が

 

本来の自分の

わずか1割の力

にしか

過ぎなかったという

事実を知るだろう。

 

であれば

そこからさらに

全力を出そう。

 

つまりは

そこからが本当の

加速だ。

 

そして

良い加速ができれば、

 

ある時ふと

その道を離れ、

頭上の空から

道を見降ろしている

自分にも

気づくだろう。

 

その自分は

空にいるので、

かなり遠くまで

見通せる。

 

ほんの一瞬かも

しれないが

道の彼方を

垣間見れるかも

しれない。

 

それはそれで

自分から自分への

プレゼントだ。

 

プレゼントは

素直に受け取れば

いい。

 

要はだね、

 

遠慮するな、

ということだ。

 

まっすぐな道は

まっすぐ気持ちよく

進むために

あるのだから。

 

つづく

 

暗闇だからこそ

 

暗闇の中を

進むよりも、

 

明るい道を

進んだ方が良い、

 

に決まっているが、

でも人生は

そうもいかない

時がある。

 

暗闇になると

どうしても

怖気づくが、

 

暗闇には

暗闇の意味が

ある。

 

暗闇の時こそ

自分の生き方が

試される。

 

だから、

 

どうせだから、

 

そんな時こそ

自分の生き方に

こだわろう。

 

胸を張り

堂々と

自分の生き方で

進もう。

 

そうすると

多分、

 

ゴツゴツと

いろんなものに

ぶつかるし、

 

スッテンコロリン

と転ぶだろう。

 

でも

それこそが

暗闇の意味だ。

 

明るいところでは

そうはいかない。

 

見えちゃうから

上手く進めて

しまう。

 

暗闇だからこそ

思い切り

ぶつかれる。

 

素っ転べる。

 

上手く進もうなんて

思っちゃダメだ。

 

諦めて

開き直って

進むしかない。

 

暗闇は

楽しめないかも

しれないが、

 

しかしそれでも

楽しんでしまえ。

 

つづく

 

生まれたか

 

産みの苦しみ、

というのがある。

 

新たな何かを

生み出すために

どうしても

経なければならない

過程だ。

 

その苦しみが

大きければ大きいほど、

 

生まれる何かも

大きい。

 

今、

新たな何かが

生まれた感覚が

凄い。

 

もの凄い

生命力とエネルギー。

 

恐らくこれは、

たくさんの人達の

中に、

 

何かが生まれた

感覚だ。

 

・・・・・・

 

人の心や魂は

「脱皮」を

繰り返すものだが、

 

「脱皮」という

表現では足りないような

 

・・・それはまさしく

「生まれ変わる」

と言った方が

ぴったりくるような

 

そんな

根本的変化を

遂げることがある。

 

もちろん

並大抵のことでは

ない。

 

人のサポートを

どう受けるか、

などと言うレベルの

ことでもない。

 

その人が

生まれた時から

抱き続けている、

密かな覚悟が

それをさせる。

 

その覚悟は

多くの場合、

そのご本人すら

気づかないもの。

 

それがある時

何かのきっかけで

ニョキっと顔を現し、

 

そして

一気に生まれ変わる。

 

「一気に」とは

言うものの、

そこに発生するのが

言語に絶する

産みの苦しみだ。

 

・・・・・・

 

恐らく

私のクライアントさんの

何人かも

これを成し遂げた

のだと思う。

 

会えばその瞬間に

わかるだろう。

 

「おめでとう!」

って

言いたいね。

 

つづく

 

それが人間だから

 

新たな何かに

チャレンジしようと

したり、

 

何か大きな問題に

立ち向かおうと

するとき、

 

私達はどうしても

不安に苛まれる。

 

不安のモヤモヤに

入り込んでしまう。

 

そんな場合は

そんな自分を

ただあるがままに

感じ取ってみよう。

 

今ある不安を

取り払うのではなく、

 

その不安の

すべてを

そのまま受け止めよう。

 

そして

受け止めている自分自身も

そのまま見つめてみよう。

 

すると

どうだろうか。

 

案外、その不安、

自分が自分の意志で

大切に

抱いているのでは

ないか?

 

まるで

赤ちゃんを抱っこする

ように、

 

不安を大切に

抱っこしているのでは

ないか?

 

不安はなぜ

起こるのか?

 

それは

必要だからだ。

自分にとって。

 

本来は、

自分にとって

不必要なことは

起こらない。

 

必要なことしか

起こらない。

 

特に私達の内面

においては。

 

不安も

必要だから、

私達が自ら

生み出している。

 

そして

抱いている。

 

だから、

不安と共に

進もう。

 

不安を

抱きながら

進もう。

 

理屈云々では

ない。

 

それが

人間だから。

 

つづく

 

ずっと反対し続けた

 

いつもあまりに

当たり前のように

やっていること

 

だからこそ

 

気づかない

ことがある。

 

今日、私は

一つ気づいたこと

がある。

 

人生、

半世紀以上過ぎて

初めて気づいた。

 

私は

自分の心の中で

いつも

ディベートを

し続けてきた。

 

ということを。

 

人生にとって

大事なこととか

そうじゃないこととか

関係なく、

私の中には

必ず

反対者が生まれる。

 

自分の意見に

異を唱える自分だ。

 

その自分は

自分のしようとする

判断に、

ずっと評論家的な

突っ込みを

入れ続ける。

 

ある重要テーマに

ついては

下手をすると

一日中、

もしくは何日も、

やり続けているかも

しれない。

 

これ、

めっちゃ疲れる。

 

時にはその

反対者は

自分をボロクソに

責め落とす。

 

しかし

それでもその

反対意見に

私はさらに

反論を続け、

 

ある一定以上に

それが続くと、

 

自分の中に

言いようの知れぬ

納得感と

完了感が

生まれる。

 

すると私は

水を得た魚のように

その判断を

行動に移す。

 

・・・ということを

私は人生で

ずっとやり続けていた

ようだ。

 

恐らく、

幼少の頃から。

 

でもこれ、

納得は得られるが、

本当に疲れる。

 

下手をすると

自分の中の

ディベートにエネルギーを

取られ、

 

肝心の

目の前の現実が

疎かになることも

多かった。

 

私の人生の失敗の

多くは、

ここに原因があった

ようにも思う。

 

だから私は

いつしか、

 

もっと楽に

ディベートはできないか?

 

もっと楽に

自問自答は

できないか?

 

もっと早く

納得の答えは

見つけられないか?

 

ということも

知らず知らずのうちに

探究し続けたのだと

思う。

 

恐らく、

その過程の中で

発見したのが、

「真本音」

という存在であり、

 

「セルフコーチング」

の各種手法だ。

 

最近私は、

セルフコーチングの

ことを

 

『直観型自問自答』

 

と呼んでいる。

 

自分の直観を

(確信の答えを)

いかに早く

掘り起こすか?

 

いかに楽に

掘り起こすか?

 

こそが

セルフコーチングの

肝だと思うからだ。

 

この手法は、

自己内ディベートで

苦労し尽くした

私だからこそ

生み出せたものかも

知れないな、と

 

今日、ふと

気づいたんだ。

 

であればやっぱり

もっと本格的に

世の中にご紹介した方が

良いのかな、とね。

 

つづく

 

時と共に

 

静かに

時の流れを

感じてみることを

お勧めする。

 

何もせず、

目を瞑り

 

自分の呼吸を

感じ、

 

一秒一秒の

時を感じる。

 

時の流れとは

なんと

静かなものか、

少しびっくりする。

 

それに比べて

我々人間の心の

なんと

騒がしいことか。

 

時は

こんなに

静かなのに。

 

人生が

騒がしくなるのを

私達は

時のせいに

し過ぎているような

気がする。

 

騒がしいのは

私達自身であり、

 

ではない。

 

時はただ

いつもまったく

同じペースで

私達を

じっと見つめる。

 

時に翻弄される

私達は思うことも

あるが、

 

時は私達を

翻弄したりは

しない。

 

ただそこに

あるだけ、

 

流れ続けている

だけだ。

 

こうやって

時の流れのみに

意識を向けて

いると、

 

もっと

シンプルに

生きたいものだ、

 

行きたいものだ、

 

思わないかい。

 

すべては

なるように

なっていくのだから、

 

どうせなら

時と共に

静かな自分として

進んで行きたい。

 

つづく

 

不完全だねぇ

 

この世の中では

私達は

お互いのことを

理解できないように

できている。

 

心も体も

それぞれが

分離しているから、

 

人生だって

分離しているから、

 

理解できる

はずがない。

 

だからこそ

「理解しよう」

し続ける。

 

そこにこそ

価値が生まれる。

 

「できない」

からこそ

できることがある。

 

「できない」

ことにこそ

価値がある。

 

これがこの

3次元の世界だ。

 

言い換えれば

「不完全」

にこそ価値がある。

 

あえて

「不完全」に

できている。

 

それがこの世だと

言える。

 

だから

完全さを求めること

自体はいいけど、

 

完全じゃないことに

腹を立て

拗ねてしまっても

しょうがない。

 

完全じゃないことを

恨み続けても

しょうがない。

 

不完全さを

楽しもう!

 

・・・なんて

到底言えないことも

多いけど、

 

でも、

不完全だからこそ

できる

我々の生き様を

大切にしようでは

ないか。

 

つづく

 

否定してもさ

 

この世は

映し出されたもの

である。

 

・・・などと書くと、

この世の現実を

おろそかにしそうに

なるが、

 

そうではない。

 

映し出されたもの

こそを

しっかりと

あるがままに

見つめることでしか、

 

映し出す本体

(つまりは、実在)

のことは

理解できない。

 

この世は

ただの幻だから、

 

などと

言っているようじゃ

ダメだ。

 

幻なら幻を

よく観なければ、

 

解釈なしに

観なければ、

 

何も

進まないんだ。

 

・・・・・・

 

あらゆるものに対して

まずは否定から

入る人がいる。

 

こんなものは

あってはならない、

と。

 

気持ちは

わかる。

 

でもそれでは

何も始まらない。

 

あるものは

ある。

 

それが

事実なのだから。

 

幻だろうが

何だろうが、

 

それが事実

なのだから。

 

あるものはある

として

そのまま受け入れて、

 

それを

あるがままに

観察する。

 

理解しようと

する。

 

それが全ての

スタートだ。

 

それができて

初めて、

最善の一歩が

見出される。

 

・・・・・・

 

否定の眼差しを

持つ人は、

 

自分自身をも

否定するように

なる。

 

下手をすると

自分の存在そのものを

否定するようになる。

 

それは

「生きる」道では

ない。

 

「活きる」道では

ない。

 

「すべてを前向きに」

という話ではない。

 

「あるがまま」

でいいんだ。

 

すべてを

「あるがまま」に

受け取るだけで

いいんだ。

 

その覚悟を持つことで

人生の道のりは

大きく違って観えると

思うんだけどな。

 

つづく

 

約束があるんだ

 

自分はなぜ

ここにいるのだろう?

 

という本質的な

問いの答えとして、

 

自分自身との

約束を果たすためだ。

 

・・・というのを

あえて

答えにしてみないか。

 

そうすると

問いが次のように

変わる。

 

自分は

自分と

どんな約束を

交わしたのだろうか?

 

私達は

この問いにこそ

もっと真摯に

向き合わなければ

ならないのではないか。

 

そしてさらに、

 

今、自分がやろうと

していることは、

 

今、自分が

選択しようとしている

ことは、

 

自分自身との約束を

果たす方向に

向かうことだろうか?

 

という視点。

 

常にこの視点を

持ちながら

日常の今ここにおける

一歩一歩を

決めるべきではないか。

 

約束が具体的に

何か?

ということが

わからなくても、

 

この一歩は

約束に近づくのか、

遠のくのか、

感覚的にわかることだ。

 

そして、

 

その感覚に素直に

選択し続けることで

 

私達はだんだんと

自分自身との約束を

思い出していく

のではないか。

 

つづく

 

正義を超えて

 

いろんな企業様に

サポートに

入らせていただくと、

 

もちろんそこには

様々な問題が

ある。

 

その問題を

引き起こしているのは

ほとんどが

人だ。

 

誰かが何かの

問題を起こす。

 

それについて

誰かがそれを

評する。

 

誰かが

文句を言う。

 

意見を言う。

 

それらが絡み合い

ながら、

その問題は

さらに大きくなっていく。

 

例えば、

AさんはBさんに

問題がある、

と言い、

 

BさんはAさんに

問題がある、

と言う。

 

どっちが正しいんだ?

ということに

なったりする。

 

そんな場合は、

本当に多くの場合、

 

どっちも正しい

 

ということが

わかる。

 

それぞれには

それぞれの

「正しさ」

がある。

 

もっと大きく言えば、

それぞれには

それぞれの

「正義」

がある。

 

どっちの正しさが

正しいか?

 

どっちの正義が

正しいか?

 

この視点に立っている

限りは、

絶対に答えは

出ない。

 

例えば、

 

誰もが「Aさんに問題がある」

と言ったとしても

Aさんに話を聴けば、

やはりAさんにはAさんの

「正義」がある。

 

私が常に

気をつけていることは

 

一つの問題に対して

偏った意見のみを聴く

ことはしない、

ということだ。

 

AさんにはAさんの

視点、

 

BさんにはBさんの

視点、

 

がある。

 

それぞれの視点に

立ち、

それぞれの景色を

知れば、

 

なるほど

それぞれには

それぞれの「正義」が

あるなぁ、

よく思う。

 

そして結局は、

 

時間はとても

かかるが、

 

それぞれの「正義」の

意味を、

その本質を、

 

お互いが理解し合う

しかない。

 

理解し合った上で、

「では何が最善か?」

決めていくしかない。

 

しかし

これも多くの場合だが、

ちゃんと向き合い

理解し合うことで

 

そこで

皆の真本音が

発動する。

 

すると、

どっちの正義が

正しいか?

を超えた次元の

発想が生まれる。

 

そうなるための

場創りが

私の仕事だ。

 

結構時間は

かかるし

大変だし、

 

どうしようもない

時もあるが、

 

しかし

あっ!次元が変わった!

と思える瞬間は

本当にたくさん

体験できた。

 

そういうのを

体験すると、

 

人間も

やるじゃないか!

 

思えるんだな。

 

つづく

 

等身大がいい2

 

昨日のブログで

「等身大」

という話をした。

 

誤解のないように

もう少しこれについて

書いておこう。

 

「等身大」

と言うと、

 

「今のままの自分

でいい」

 

と思われがちだ。

 

実はそういうわけ

ではない。

 

私は「等身大」を

次のように

定義している。

 

『最も自然に

進化できる状態』

 

だ。

 

人の本能は

「進化」なので、

そういうことになる。

 

そしてそれには様々な

大事な要素が

あるが、

 

特に大事なのは、

 

①視野の大きさ

 

②進化意欲の大きさ

 

③進むスピード

 

だ。

 

この3つを

「最も自分にとって

自然の状態にする」

「等身大」となる。

 

ところが

ほとんどの人達は

3つともが

現時点では小さ過ぎる。

 

例えば、

①が小さ過ぎる人が

多い。

 

私はクライアントさんに

よく

 

「もっと地球規模で

物事の発想をすると

良いですよ」

 

とアドバイスする。

 

地球規模の視野を

持つことで

実に自然にその人からは

発想が溢れ出る。

 

今、世の中には

何が必要で、

 

だから自分は

今はこれをする。

 

というように

視野が大きくなれば

なるほど、

「今の自分」

「日常の自分」

の一歩一歩の指針を

得ることができる。

 

ところが

そういう人に限って

「私は自分のことだけを

考えたいので」

とか

「とにかく会社の

利益だけを考えたいので」

言う。

 

もちろん両方とも

大事だが、

それではその人本来の

発想が生まれず、

結局は何も

進まないのだ。

 

②もそうだ。

 

溢れるほどの

進化意欲が

その人からは空気感として

漂っているに、

 

その人自身は

へっちゃらで

「今のままでいい」

言う。

 

それでその人が

活き活きしていれば

まだ良いのだが、

それを

眉間にシワを寄せながら

言うのだ。

 

自分の進化意欲を

自分で抑えることは

実はとても大きな

ストレスを生む。

 

ご本人は

それに気づいていない。

 

③もそうだ。

 

どんどん物事の

決断をして

新たなことに挑戦したい

と、

ご本人は心の奥では

強烈に思っていても、

 

行動を

躊躇する。

 

怠けてしまう。

 

そして結局は

自分の中から

凄まじいストレスが

生まれ、

それによって

苦しみ続ける。

 

そういった人達を

見ていると

とても「等身大」とは

思えない。

 

「これが私の

等身大ですから」

苦しみの表情で

言う。

 

いやいやいや、

「等身大」とは

そんな苦しいものでは

ない。

 

等身大とは

最も肩の力が抜け

最も自分の魅力が

溢れ、

 

最も活き活きと

進めている状態だ。

 

だから

残念ながら

今は多くの人が

 

「等身大になるために

一度は

無理をしなければ

ならない」

 

という

異常状態だ。

 

私自身も

自分の出せる

「最大速」で

進めている時が

自分の「等身大」だと

思う。

 

ある意味、

振り切っている時

こそが、

最も自分が「自然」で

あると思う。

 

そんな人は

多い。

 

「等身大」

と言いながら、

「等身大」には程遠い

小さな自分を

無理に創り続ける

必要など

何もない。

 

もっと

伸び伸びと

生きればいい。

 

あっそうそう。

 

ちなみに、

「調子に乗って

自分を過信して

イケイケどんどんで

進んでいる状態」

進化とは真逆の

状態だ。

 

それは

表面上は一見すると

進んでいるように

見えて、

実はまったく

進んでいない。

 

どころか、

後退すらしている。

 

だからそれは

「等身大」とは

真逆の状態だ。

 

「等身大」の人は

本質的に

みんな謙虚になる。

 

あるがままに

物事を観れる

ようになるからね。

 

さて。

 

以上のような

意味なんだ。

「等身大」とは。

 

そうすると

昨日の文章は

だいぶ

景色が違って

見えるかな?

 

つづく

 

等身大がいい

 

どれだけ分厚い

壁に見えても、

 

よ〜く観察すると

そこかしこに

ヒビがあり、

 

そのうちのどれかを

コツンと叩くと

 

一気に崩れる

ことすらある。

 

しかし私達は

その壁の大きさと

分厚さに

尻込みする。

 

最初から無理だ

と諦めかける。

 

諦めるのは、

よ〜く観察してから

でも遅くはないのでは、

とも思う。

 

尻込みはしても

良いが、

 

というか

私なんぞはしょっちゅう

尻込みばかりしているが、

 

それでも

しっかり

目は開こう。

 

よく観るんだ。

 

よく

向き合うんだ。

 

そうすれば

いつの間にか

次の一歩が

わかってくる。

 

まるで

手品のように

感じることさえある。

 

答えは

あるんだ。

 

・・・・・・

 

人間の本領は、

どうしようもなくなった

時にこそ

発揮されるもんだと

私は思っている。

 

調子の良い時は

調子が良いに

決まっている。

 

偉そうな一言も

言いたくなるし、

言葉に説得力も

出る。

 

でもいい気になって

いると

必ずすっ転ぶ。

 

すっ転んだその時に

その人の

本領が出る。

 

大事なのは

まずは反省することだ

と私は思う。

 

調子が良い時は

「俺は完璧だ」

と思い込んでしまう。

 

そして

失敗したり間違っている

自分を認められない。

 

そんな愚かだった

自分を

ちゃんと反省することだ。

 

反省できる人は

本当に素敵だ。

 

調子に乗って

立派に見えている人

よりも

1000倍素敵だ。

 

人間、

間違うのが

当たり前ではないか。

 

完璧ではない、

という事実(真実)にこそ

人間の本来の意味と

価値があるのに、

 

なんで完璧に

こだわるのか?

 

すっ転んだら

素直に反省する。

 

だから

次に進める。

 

さらに素敵な

自分になれる。

 

・・・・・・

 

弱っちい自分を

どれだけ大事に

しながら

共に進めるか、

だと思うよ。

 

そこで人生の

価値が

決まるのではないか。

 

あんまり自分を

高く見過ぎるな。

 

評価を

し過ぎるな。

 

等身大のまま

進めばいいでは

ないか。

 

等身大だからこそ、

どれだけ分厚い壁でも

 

よ〜く観察する

ことが

できるんだよ。

 

向き合うことが

できるんだよ。

 

つづく

 

本当に何もない?

 

自分の中に

「虚無」

が広がってきたら、

 

抗うのは

やめよう。

 

虚無に包まれれば、

自分は何もかもを

失ってしまうのでは、

 

という恐怖感は

あるだろうが、

 

実は

「虚無」の正体は

本当に何もないのではなく、

 

「虚無」という

虚構に過ぎない。

 

「何もない」という

カタチに過ぎない。

 

まぁ、「怒り」のような

感情と同じものだ。

 

つまり単なる

反応本音の一種だ。

 

だからそんなに

怖がることはない。

 

むしろ、

「へぇ、これが

虚無というものか」

楽しみながら観察

してしまえばいい。

 

「虚無」の隅から隅まで

観察したり

味わってしまえばいい。

 

実は「虚無」は

そういうのに極度に

弱い。

 

せっかく

「何もない」という

演出をしているのに、

その「何もない」自体を

観察されるのだから、

たまったものではない。

 

ひょっとすると

あっという間に退散

するかもしれない。

 

「私を見ないで!」

恥ずかしがって

あなたの中から

逃げ去るかもしれない。

 

それくらいの

ものなんだ。

 

一見、恐ろしそうな

ものほど、

本当は大したことは

ない。

 

所詮は

心の中の一つのカタチ。

 

心のすべては

存在承認すれば

いい。

 

それだけで

もとの自分に

戻れるよ。

 

つづく

 

孤独からの解放

 

誰の中にも

「孤独」

はある。

 

ない人は

いない。

 

コーチングなどの

サポートを

継続的にさせて

いただき、

 

真本音度合いが

高まり続けると、

 

ある時に

そのクライアントさんの

心の奥の奥の奥に

潜んでいた

その「孤独」が

 

私の方に

移ってくる。

 

それはつまり、

その人の中から

「孤独」が解放された、

 

いや、

 

その人が

その人の「孤独」から

解放された、

 

ということだ。

 

そこから

そのクライアントさんの

新たな人生が

始まる。

 

これまでは

「孤独」が表出するのを

恐れる人生。

 

これからは

「孤独」が満たされ

「願い」に向かう人生。

 

もちろん「願い」は

その人の中には

ずっと在り続けたが、

 

その「孤独」が

「願い」の開放を

阻害していたのだ。

 

そう。

 

「孤独」を満たすのは

誰でもない、

その人自身だ。

 

その人自身の

生き方だ。

 

真本音に素直に

生きることで

それは満たされる。

 

満たされれば、

その「孤独」を

その人は手放す。

 

私はそれを

受け取って

帰ってくる。

 

「孤独」とは

恐らく、

私達人間の恐れる

最大級の恐怖だ。

 

だからそれを

あるがままに観る

こと自体が

至難の業だ。

 

だから

孤独への恐怖が

その人の人生を

翻弄する。

 

翻弄される人生

から

抜け出すたった一つの

方法が、

 

自分の本当に望む

生き方を

貫くことだ。

 

だからその「生き方」

とは

その人自身の

真本音でなければ

もたない。

 

その人の

真本音の光が

その人の

孤独を解消する。

 

私達はみんな

孤独だが、

 

でも実は

本当は

そうではない、

 

ということを

自らの真本音が

教えてくれるんだ。

 

つづく

 

現象の奥の本質

 

「潮流」が

また変わった。

 

世の中の

潮流だ。

 

イメージで言えば、

90度、カクンと

横に曲がったかの

ようだ。

 

基本的には

これは

良いことだと思う。

 

これでまた、

出会うべき人と

出会いやすく

なるだろう。

 

投じた石は

波紋を広げやすく

なるだろう。

 

・・・・・・

 

実在のレベルの

変化を

今後は敏感に

察知できるかどうか?

人生の展開も

ビジネスの展開も

掛かっているのでは

ないか。

 

私達に普段

見えている

「現実」は

 

すべて現象。

 

それは

本質が一つのカタチ

として

現れているに過ぎない。

 

映像としての

現実の奥には、

 

映像になる前の

本質的な現実が

ある。

 

それが

「実在」だ。

 

実在のレベルで

何が起こり、

それがどのように

現象化しているか?

 

これをキャッチするには

澄んだ心が

必要だが、

 

澄んだ心さえ

手に入れれば、

 

それは誰もが

できることだ。

 

・・・・・・

 

ここ数年、

実在の変化は

激しかった。

 

その変化が

本当の意味で

現象化するのは

 

ここからだろう。

 

それを

「不安」と感じて

揺らされ

踊らされるか?

 

それとも

それをあるがままに

受け止めて、

しっかりと自らの

意思で対応するか?

 

それによって

人生の展開は

 

それこそ

本質的に

変わるな。

 

つづく

 

芽が出たな

 

自分の変化は

残念ながら

自分ではなかなか

気づかない。

 

だからこそ

私達は

他人と交わりながら

生きている。

 

他人との関わりに

おいて

自分の変化を

実感する。

 

だから、

 

「あの人変わったな」

 

思うのであれば、

 

「あの人が変わったのは、

ひょっとすると

私が変わったからでは

ないか?」

 

自分自身に

問うてみるといい。

 

私達は、

自分自身の変化に

無頓着すぎるな。

 

もっと

敏感になってもいい。

 

そして

変化を楽しむと

いい。

 

進化を楽しむと

いい。

 

実は

私達の中には、

「芽」は

いくらでも出ている。

 

しかしそれに

気づかないから、

知らぬ間に

せっかく生まれた「芽」を

自らが

踏みつけてしまう。

 

発芽という

変化。

 

そして、

それが育っていく

変化。

 

その両方に

敏感になるといい。

 

そのためにも

まずは

周りの変化に

敏感になるといいよ。

 

つづく

 

至高の試行を

 

試行錯誤を

恐れてはならない。

 

私達の真本音は

「良い試行錯誤」

をしながら進む

ことを望んでいる。

 

むしろ

試行錯誤せずに

進むことは

まったくと言ってよいほど

望んでいない。

 

なぜなら

試行錯誤のそのプロセス

でこそ

 

そこでしか

 

見つけ出せないこと

があるから。

 

それこそが

人生の宝物。

 

その宝物を

得るために

人生を生きている

と言っても

よいくらい。

 

だから、

試行錯誤の後に

自分の望む成果を

手に入れる

という

 

過程と結果

 

の両方を

とても大事にしている。

 

試行錯誤

ということは、

その時その時においては

 

「上手くいかない」

 

とか

 

「わからない」

 

とか

 

「道を見失う」

 

とか

 

そういうことを

何度も体験することに

なる。

 

そこには必ず

悔しさ

不安

がつきものだ。

 

これが嫌なので

私達は

試行錯誤を避けようと

する。

 

でも

本当に試行錯誤と

向き合う人は、

 

その一歩一歩を

大事にする人は、

 

実は

悔しさや不安以上の

ものを

常に手に入れられる。

 

それが、

 

「進んでいる」

 

という実感だ。

 

まったく進んで

いないのに、

 

心は悔しさや不安で

いっぱいなのに、

 

その次元ではない

もっと奥の奥の

方で、

 

もっと根底の

部分で、

 

何かがとてつもなく

満たされている。

 

何かがとてつもなく

静かで安定している。

 

そんな感覚が

常にわかるように

なる。

 

それが

「進んでいる」という

実感、

つまりは

「進化の実感」

だ。

 

これを

感じ取れるようになると

強い。

 

あらゆる現実に

立ち向かえる

ようになる。

 

心がどれだけ

揺れようが、

 

心の揺れに

自分が揺らされなく

なる。

 

まるで

根を張った大樹の

ような

自分になれる。

 

そして

そうなると逆に

 

今ここにおける

この試行錯誤は

 

本当に必要な

試行錯誤か?

そうでないか?

 

ありありとわかる

ようになる。

 

で、

本当に必要な

試行錯誤のみを

選べるようになる。

 

それがさらに

「進化の実感」を

強くする。

 

早くそうなれると

いいね。

 

そうなるための

まず第一歩は、

 

自ら進んで

試行錯誤を始める

ことだ。

 

つまりは、

挑戦

することだ。

 

これまでの自分の

限界を超えそうな

挑戦を

 

してみること

なんだ。

 

つづく

 

どこみてる?

 

動き過ぎだ。

 

もっと

じっとしていれば

いい。

 

そして

すべてをもっと

よく観察すると

いい。

 

解釈なしに

観察するといい。

 

肯定も

否定も

必要ない。

 

素晴らしい

くだらない

必要ない。

 

ただ

そこにある

事実のみを

観察し、

 

そのまま

感じる。

 

それらはすべて

「インプット」

だ。

 

自分自身に

インプットしている

ことになる。

 

必要なものを

必要なだけ

インプットできたら、

 

ある瞬間に

今度は

「アウトプット」が

自然に起こる。

 

つまりは、

自分の内側から

ひらめきが

起こる。

 

「今、こうしよう」

「今、これをすれば良い」

「今は、これがベストだ」

 

といった

ひらめきたち。

 

それらに素直に

動けばいい。

 

自分のひらめきに

委ねてしまおう。

 

すると

その行動のすべてが

調和をもたらして

くれる。

 

動き過ぎ、

 

考え過ぎ、

 

解釈のし過ぎ、

 

そういった余分なことを

いっさいがっさい

まずは

手放してしまおう。

 

すべてを

観察から

始めよう。

 

つづく

 

いやだ?

 

いやなものは

いやだ。

 

そう思うのは

人間として

当たり前ではないか。

 

「いやだ」と

思わない自分を

創ろう、

などと

思ってはならない。

 

だいたいまず

無理だし。

 

何でも前向きに?

 

いやいやいや、

 

いやなものは

いやだろう。

 

「いやだ」

という気持ちに

フタをするから、

 

本人の気づかぬ

うちに、

本人の全身から

 

「いやだ」オーラ

 

が溢れるんだよ。

 

「いやだ」オーラ

なんてものを

発していることは

本人はちっとも

気づきはしない。

 

でもそれが

いかに周りを

いやな気持ちに

させているか、

わかった方がいい。

 

結構、それで

周りの人を

傷つけてるんだよ。

 

前向きだと

思い込んでるのは

本人くらいでさ。

 

全部

空気感に

出るんだよ。

 

空気感で

人は人を

傷つけるんだよ。

 

それが最も

深い傷に

なるんだよ。

 

だから、

 

いやなものは

いやだ。

 

という自分の

気持ちを

素直に見つめよう。

 

あ〜今自分は

「いやだ」と

思ってる。

 

素直に認めよう。

 

そうしたら、

まずは

「いやだ」オーラ

だけは

消えていくよ。

 

それで

人を傷つける

ことはなくなるよ。

 

で、

その「いやだ」を

素直に見つめれば、

 

その「いやだ」

を客観的に見ている

自分になれる。

 

その状態で、

「本当は

どうすると良いのか?」

「何が最善か?」

考えよう。

 

「いやだ」という

気持ちに素直に

断るのか、

 

「いやだ」という

気持ちはあるけど、

あえてここは

我慢してでも

それを行なうのか、

 

それとも

それ以外の

第3の道を

探るのか。

 

そういったことを

ちゃんと丁寧に

見つけよう。

 

それが

自分自身と

相手に対する

誠実さだと

思うな。

 

つづく

 

親になってみる

 

あなたは

自分自身を

どのように

成長させたい?

 

ちょっと

「親」の視点に

なってみよう。

 

あなたが

あなたの親だとしたら、

 

子どもである自分自身を

どう

厳しく

育成したい?

 

今の自分には

何が足りない?

 

今の自分には

何が必要?

 

必要なものを

手に入れるためには

何をさせたい?

 

どんな行動と経験を

させてあげたい?

 

もし今、あなたが

何かの枠を超えて、

大きく脱皮したとして、

 

次に

そんなあなたに

どのような課題やテーマを

与えてあげたい?

 

「親」の視点で

考えてみよう。

 

これはつまり

自分自身の真本音が

自分を見つめる眼差しと

とても似ているんだよ。

 

つづく

 

今は何の時間か?

 

本当に

自分のしたいことを

 

本当に

したい瞬間にする。

 

・・・ということに

私達はもっともっと

こだわった方がいい。

 

「妥協の時間」

 

を使い過ぎでは

ないか?

私達は。

 

自分の人生に

起こる

不調和の

根本的な原因は

 

ほとんど

これではないか?

 

時間というものに

対する

妥協ではないか?

 

もちろん

すべて自分の

思うがままに

いくはずがないのが

人生だし、

 

世の中は

自分一人で

成り立ってはいないので

 

他者との関わりが

大事だ。

 

でも

そういうことを

全部ひっくるめて、

 

本当に

自分のしたいことを

 

本当に

したい瞬間にする。

 

という

生き方を

目指すと良いと思う。

 

「真剣」とは

そういうことでは

ないかな。

 

「妥協の時間」

ではなく、

 

「真剣な時間」

を。

 

これは

私達全員の

共通のテーマでは

ないかな。

 

つづく

 

先を考えすぎるな

 

「未来を見通す力」

人にはあるかどうか?

 

問われたら、

私は

 

「ある」

 

と断言する。

 

それは、

未来を「予測する」

ことでも

「予言する」

ことでもない。

 

ある時ある瞬間に

未来と

「完全につながる」

ことができる

という意味だ。

 

それは

理屈ではなく

「感覚として」。

 

あくまで「感覚」なので

未来がありありと

わかる(=顕在化する)

わけではない。

 

未来の映像が

見えるわけではない。

(まぁ、見える時も

あるだろうが。)

 

ただ、

一瞬、

つながる

のだ。

 

するとどうなるか、

というと、

 

今、ここで

 

自分がやろうと

していることが、

 

未来につながることか

どうか、

 

未来に道を開くことか

どうか、

 

「確信」として

わかるのだ。

 

そうしたらもう、

それだけで

充分だ。

 

私達は

未来を知る必要は

ない。

 

いつも言うことだが、

この3次元の世界は

未来がわからない

ことに

大きな意義がある。

 

「わからない」から

こそ

できることがある。

 

「わからない」から

こそ

進化できる。

 

そんな世界である

ことを前提にして、

 

しかしそれでも

一瞬、

「見通す」ことで

 

私達は

「今ここ」

における

「真の自分」と

 

「真の自分の

為すべきこと」

知ることができる。

 

そして

そこで生まれる

気づきは

 

無限の価値がある

私は思っている。

 

未来を見通す力

をつけるには、

 

真本音で

生きることだ。

 

「今ここ」で、

 

真本音で生き続ける

ことだ。

 

それ以外には

ない。

 

つづく

 

次元を変えてみよう

 

皆、

答えがほしい。

 

答えがわかれば

道がわかる。

 

間違わずに

道を進みたい。

 

だから

答えがほしい。

 

しかし、

今、どれだけ

考えても考えても

答えが出ないので

あれば、

 

今、どれだけ

試行錯誤して試行錯誤して

それでも答えが

出ないのであれば、

 

次元を変える

しかない。

 

次元を変えるとは、

喩えて言えば、

この地球上から

抜け出るようなもの

である。

 

例えば

地球上でどれだけ

旅をしても、

何年旅をしても、

 

地球上での旅は

地球上での旅だ。

 

どれだけ経験を

積んでも

同じ地球上での

経験だ。

 

同じ次元での

経験だ。

 

次元を変えるには

宇宙に旅立つしか

ない。

 

宇宙に出て、

地球よりも巨大な

自分となり、

 

自分の掌に

地球を乗せる。

 

それくらいの状態に

なれて

次元が変わった

と言えるのだ。

 

今、

あなたは

超巨大化し、

 

あなたの掌に

地球がある、

イメージしてみてほしい。

 

地球をじっと

見つめてほしい。

 

その地球を

ただのイメージだとは

思わずに、

 

本物の地球、

実在の地球が

掌にあると

思えるくらいの状態で、

 

「この地球には

何が必要か?」

 

問うてほしい。

 

そしてあなたなりの

真剣な答えを

一つでも見出してほしい。

 

ここまですると

ひょっとすると

次元の異なる発想が

一つ出るかもしれない。

 

もしその発想が

出たとしたら、

 

しかしそこで

終わってはならない。

 

今度は、

「ここ」に

地球上に

戻って来ねばならない。

 

そして、

先程の発想を得た

あなたとして、

 

「では私は

今日、何をしようか?」

 

問うてほしい。

 

もしくは、

 

「私の欲しかった

答えは

何だろうか?」

 

問うてほしい。

 

どれだけ次元を

変えても、

「今ここ」に

戻らねば意味はない。

 

高い次元の発想を

得たら、

必ず、

 

「今ここ」と

結ぶこと。

 

日常の自分と

結ぶこと。

 

自分の次の一歩

現実の一歩

結ぶことだ。

 

なぜなら私達は

「ここで」

生きているのだから。

 

つづく

 

共振してる?

 

何でもそうだが、

真に優れたものや

真に美しいもの

というのは、

 

それは

人であっても

物であっても

 

「中心軸」が

スッと定まっている。

 

つまりは、

 

「想いと形が

一致している」

 

状態だ。

 

私はもともと

音楽が好きで、

 

最近は久しぶりに

努めて

音楽を聴く時間を

取るようにしているが、

 

音楽も

「中心軸」がスッと

通っているものと

そうでないものが

ある。

 

その違いは

聴いていて

明らかだ。

 

そして

中心軸の通った

ものを聴けば、

 

私自身の「中心軸」も

それに反応して

スッとする。

 

とても良い状態に

なれる。

 

「中心軸」同士は

共振

するのだ。

 

自分の仲間集めも

組織創りも

この

「中心軸」の共振を

大事にするといい。

 

この人と

一緒にいると

私の中心軸が

共振して気持ちいい!

 

思える人と

いつも一緒にいるのは

とてつもなく

幸せなことなのだ。

 

また、

次のようなことも

言える。

 

本来は自分は

この人とは

「中心軸」が共振する

のだろうけど、

 

今はなぜか、

あまり共振できないな、

 

と。

 

そんな場合は、

今はちょっと

距離を置くと良いかも、

 

という合図だ。

 

少し距離を離すことで

逆に

共振するように

なるかもしれない。

 

実は私は

6〜7年、

まったく音楽を

聴かなかった。

 

音楽から

あえて離れていたが、

 

最近は

「共振」できる感覚が

して

仕事のちょっとした

合間に聴くようにした。

 

すると途端に

自分の状態管理が

楽になった。

 

面白いものだ。

 

「自分が今、

何との共振を

欲しているか?」

 

ということに

敏感になるといいね。

 

つづく

 

重いものは重い

 

誰だって

背負っているものは

ある。

 

どうせ背負うなら、

 

その重みを

しっかりと感じよう。

 

背負うのが

苦しいのなら、

 

その苦しみを

あるがままに

感じればいい。

 

苦しくないふり

とか

 

本当は重荷なんて

ないんだ、

とか

 

無理に思う必要は

ない。

 

重みは

重みだ。

 

自分がそう

感じていること

そのものが

事実だ。

 

感じていることを

感じるままに。

 

これが健康の

基本だと

私は思うけどね。

 

こういうことが

しっかりと

できる人は

逆に、

 

自分の感じている

その重みを

コントロールすることが

できるようになる。

 

今のこの時間だけは

ちょっと重みを

横に降ろしておこう。

 

ということが

できるようになる。

 

もちろん

現実レベルのことは

すぐには変えられない。

 

でも

重みを感じているのは

その人の

心だ。

 

心のことであれば、

それは本来は

自由に手放したり

できる。

 

現実が変わるまで

永遠に手放すことは

できないが、

一時的に横に置くことは

できる。

 

するとそれは

「休息」

となる。

 

その「休息」が

エネルギーを

回復させてくれる。

 

こういうことが

できるようになる

ためには

 

重みから

逃げちゃダメだ。

 

重みを感じ、

重みと向き合い、

重みを味わうくらいの

開き直りがあって

初めて、

それはできる。

 

これが

自分をコントロールする

基本だ。

 

まぁ、やっぱり

開き直りが

大事ということかな。

 

つまりこれこそ

「覚悟」だね。

 

つづく

 

集中力回復

 

集中力が

続かない時は、

 

外に意識を

向けよう。

 

自分の内側に

入ることで

私達は心のモヤモヤに

捕らわれていく。

 

そしてさらに

集中力が続かなく

なる。

 

外に意識を

向け、

「世界」

とつながろう。

 

「世界」とは

自分以外の

あらゆるものだ。

 

自分の周りに

見える

あらゆるものを

観察しよう。

 

ありありと。

 

すべてを細かく

見つめよう。

 

そして

だんだんと視界を

大きく大きく

広げていこう。

 

自分の内側から

完全に意識が外に

脱出できたら、

 

今度は

観察だけでなく、

「感覚」も

外に向けよう。

 

目で意識を向ける

だけではなく、

全身で

意識を外に

「世界」に

向けよう。

 

しばらくそうしていると、

「自分」と

「世界」の

区別がつかなくなって

くる。

 

それが「世界」と

つながった状態だ。

 

「自分」と「世界」が

一つになった状態

とも言える。

 

すると、

自分の内側とか

外側とか

それすらも

わからなくなる。

 

というか、

そんなこと

どうでもよくなる。

 

そうなれたら

完了。

 

自分は

もとの自分であり

本来の自分に

戻れているはずだ。

 

真本音が

出やすい自分

だ。

 

そこから

仕事の再開だ。

 

つづく

 

この道は幻影か

 

目の前に続く

一本道を

ずっと自分の道だと

信じて進んできた。

 

道の先は

霧の中だが、

 

しかしこの道を

行くことが

自分にとっての最善

なのだと

信じて進んできた。

 

ところが、

 

ずっとまっすぐに

進んでいると思っていた

その道は、

 

実は

ほんのわずかずつ

右に曲がっていた。

 

まっすぐだと

思い込んで進んだが、

少しずつ右に右に

ズレ続け、

 

その道は

大きな大きな

円を描き、

 

ふと気がつくと

もといた場所に

戻っていた。

 

・・・冬山では

霧のために視界が

遮られた時、

このような状態で

同じ場所をグルグル

周り、

体力が尽き

遭難に至る、

ということがよくある。

 

それと同じことを

人は

人生でも

行なう。

 

私はこれを

「幻影の道」

呼んでいる。

 

この道は

同じ場所を

周回し続ける。

 

進んでいるように

見えて、

実はまったく

進んでいない。

 

成長し続けている

ように見えて、

実は何も

変わっていない。

 

ただ、

疲弊を

していくだけ。

 

しかし

多かれ少なかれ

私達はもともとは

この「幻影の道」に

いる。

 

しかし

ある時にその周回から

逸脱をする。

 

グルグルから

抜け出すのだ。

 

抜け出した私達は

「自由」になり

今度は「まっすぐ」に

進むが、

 

しかし実はそれさえも

また、

さらに大きな周回に

過ぎない。

 

でもいつかまた

その大きな周回からも

脱出する。

 

そして「まっすぐ」

行くが、

でもやはりそれすらも

さらにさらに大きな

周回である。

 

・・・このようにして、

私達は、

「幻影の道」

を抜け出しては

さらに大きな「幻影の道」

に入り、

 

を繰り返し、

 

そしてついには

本当にまっすぐな道

に至る。

 

これを私は

「実在の道」

呼んでいる。

 

実在の道

幻影の道

か、

 

は、

後になってわかる

ことだ。

 

残念ながら

「今ここ」では

わからない。

 

でも、

ちゃんと

一日一日・一歩一歩を

自分の真本音を大切に

丁寧に進めば、

 

今いる幻影の道からは

自然に

脱することができる。

 

私が「脱皮」と

呼んでいるのは

このことだ。

 

脱皮を繰り返せば、

自分がいかに

小さな世界で

グルグル回っていたか

よくわかる。

 

あれは「幻影の道」

だったと

よくわかる。

 

だからと言って

ガックリする必要は

ない。

 

それが

私達人間の成長であり

進化であり、

 

それらすべてを

含めて

それが私達の道なんだ。

 

幻影だろうが

実在だろうが

 

堂々と

今を進もう。

 

つづく

 

枠はね

 

枠を超えていく

のが

人の価値であり

醍醐味だ。

 

極端に言えば、

最初から枠のない

人生なんて

意味がないし

つまらない。

 

そういうもんなんだな、

最近はつくづく

思う。

 

なぜなら

最近の私のクライアントさん達の

枠の外し方、

 

もしくは

壊し方、

 

もしくは

溶かし方、

 

が凄い。

 

その様子を

拝見していると、

 

枠はあっては

ならないものだ、

 

などと

短絡的に捉えている

場合ではないな、

思えるのだ。

 

枠を超えた

その瞬間とか、

 

枠を超える

その直前とか、

 

もっと言えば、

枠に近づいた

一番苦しい時期とか、

 

そういう時に

その人の持つ

潜在された本当の

魅力が

滲み出す。

 

そしてその魅力は

枠を超えた後の

その人の歩みの

パートナーとなる。

 

そういうのを

観ていると、

 

枠というのは

宝物なんだな、

 

つくづくね。

 

とは言え、

 

本人にとっちゃ

そんなことは

言ってはいられない。

 

「枠は宝物なんだ」

などと

余裕をかましている

うちは、

 

そんなものは

本物の枠ではない。

 

枠は

苦しみの源

でしかない。

 

でもやはり

私達の人生には

なくてはならないもの。

 

人生っていうのは

面白い、というか

何というか・・・。

 

つづく