- ホーム /
- チームパフォーマンスコーチ
昨日からの続きです。
(→ 意識を向ける②)
(→ 意識を向ける①)
世界全体に
意識を向ける、
つまりは
世界全体を
感じ取ろうとする。
これを日常的に
続けることで、
私達の意識は
無限に広がっていく。
そして常に
「世界」を感じ取りながら
今ここに
向かうようになる。
単なる自分の主観
のみで生きるのと、
世界全体を感じ取り
ながら
生きるのとでは、
自分の生き方
自分の在り方
発想の仕方
行動の仕方
さらには
現実の起こり方
が
根本的に違って
くる。
意識的に変えよう
としなくても、
無意識的に自然に
変化が始まるだろう。
さらに、
常に世界全体に
意識を向けていると、
ある時ある瞬間から
「世界の中の自分」
を
感じ取れるように
なる。
それは
自分自身に対する
世界からの
客観的視線だ。
もし、
これまで自分の
主観のみで生きていた
とすれば、
これにより
自己イメージは
かなり変わる可能性が
ある。
「自分」という存在
の意味が
突然にわかったり
するかもしれない。
それは相当な
インパクトだ。
私がこれを
初めて体験した時、
私が真っ先に
思ったのは、
「いったい俺は
何を遊んできたんだ」
「こんなことを
やってる場合ではない」
「こんなことに
悩んでいる場合ではない」
「俺はもっと別のことで
悩まねばならない」
・・・そんなような気持ちが
立て続けに湧いてきた。
かと言って
職を変えるとか
環境を変えるとか
そういったことではなく、
生き方
を変えようと思ったのだ。
そこから
変なことに悩まなく
なったし、
必要のないところで
深刻にならないように
なり、
人生がかなり
軽くなった。
すると面白いように、
人間関係とか
出会う人の種類とか
ということはつまり
人生の展開が
変わり始めた。
そこから私は、
常に「世界」に
意識を向け、
かつ
常に
世界から観た「自分」に
意識を向け
続けるようになった。
おかげでさらに
心は安定するように
なり、
確信
も高まった。
さて。
まださらに
お話は続きます。
つづく
昨日の続きです。
(→ 意識を向ける①)
「意識を向ける」
とは
客観的目線であり、
それは、
あるがままに
観る
聴く
感じる
ということだ。
そういった
「意識の使い方」
を
私達現代人は
忘れてしまっている。
さて。
今回は何を一番
お伝えしたいのかと
言うと、
世界に意識を
向けよう。
・・・ということだ。
「世界」とはつまり
「自分以外の存在すべて」
だ。
ある特定の存在に
意識を向けるのでは
なく、
世界全体
に意識を向けて
みよう。
全身全霊を
込めて、
世界全体
を感じ取ってみよう。
するとどうだろう。
自分の意識が
どんどん無限に
広がっていくのが
わかるだろうか?
実際に
世界全体を
観ることはできないが、
感じることは
できる。
世界全体を
あるがままに
感じ取ろう
とする。
本当にできるか
どうか、ではなく、
しようとする
のだ。
それを一日の内に
何度も何度も
すると良い。
ちなみに私は
ほぼ24時間
ずっとこれを
やり続けているのかも
しれない。
ちょっと極端に言うと。
これに慣れてくると、
ある時から
世界の意識
が、
何となく自分に
伝わってくるように
なる。
そんなの自分の
思い込みではないか、
と
言われそうだが、
たとえ思い込みでも
良い。
世界全体を
あるがままに感じ取ろう
と
意識を広げること
自体に
意味がある。
そしてその状態で
自然に感じ取れること
そのものに
意味がある。
世界全体から
伝わってくる何らかの
意識。
それを無理に
言葉にしなくても
良い。
でもそれを得た状態で
今を生きると、
何かが根底から
安定する。
ドッシリと
安定する。
そして、
今自分がしようと
していることに
根拠のない
確信を
持てるようになる。
私達は
「世界」の中で
生きている。
であれば、
「世界全体」を
常に感じ取りながら
生きると良い。
その生き方は
自分自身の開放に
つながっていく。
このお話、
まだ続きます。
つづく
すべての存在を
・自分
と
・自分以外
に
分けたとする。
そして
自分以外のことを
「世界」
と表現するとする。
すると
すべての存在は
・自分
と
・世界
のどちらか
ということになる。
さて。
皆さんは、
・自分
と
・世界
の
どちらにいつも
意識を向けている
だろうか?
意識を向ける、
とは
もう少し具体的に言えば、
「観察する」
とか
「声を聴く」
とか
「感じ取る」
とか。
そういったことだ。
ちなみに、
頭の中で思考を
したり、
解釈をしたり
することは
上記の3つのどれとも
違う。
頭の中の思考
は、
意識が内側に籠もっている
状態で、
それは主観的だ。
意識を向ける
とは、
客観的だ。
つまりは
「知ろう」
とすることだ。
もしくは
「体験しよう」
という表現でも
良いかも。
そう捉えると、
・自分
にも
・世界
にも、
どちらにも
意識を向けていない
人は多い。
いつも意識は
内側にあり、
主観的な状態だけで
生きている
という人だ。
そういった人は
残念ながら
なかなか自分の視界
から抜け出ることは
できないし、
本質的な成長も
難しい。
私達は
・自分
を生きているし、
・世界
の中で生きている。
まずはその二つに
客観的目線を
向けることが大切だ。
それがつまり
「意識を向ける」
ことであり、
観察したり
声を聴いたり
感じ取ることだ。
さて、
今回はここまで。
このお話は
明日も続けます。
つづく
私は、
一日の終わりには
必ず
自分自身と対峙する。
いや、
場合によっては
一日のうちに何度も
自分自身と対峙する。
目の前に
じっと私を見つめる
私がいる。
それは
見張られている
というのとは
まったく異なる。
むしろ
真逆だ。
自分自身にじっと
見つめられることで、
私は自由に
なる。
そして
シャンと心が
落ち着く。
自由で
落ち着いた
状態。
そこに戻る
ことができる。
私は私に
告げる。
いらんことで
悩むな。
と。
私の悩むべきは
もっと他に
ある。
と。
言われなくても
わかっている。
でも
言われると
何かが
もっとわかる。
元来、私は
悩み過ぎの質だ。
すぐ悩む私を
私は大嫌い
だったが、
私自身と対峙し、
私自身から
「悩むな」と言われると、
なぜか
悩む自分も
それはそれで
人間らしくていいな。
と
思えるのだ。
つまりは
存在承認。
その上で、
もう悩むのは
やめよう、
と
思えるのだ。
これははっきり言って
楽だ。
静かに自分自身と
対峙する時間を
私は本当に
大切にしているので、
だから
一歩一歩の自分の
歩みに
確信を持てるのだと
思う。
こう感じることが
できるのは
私だけではないはずだ。
人間であれば
皆、
同様だと思うのだ。
もっと
対峙せよ。
自分自身と。
世の中は
そうお伝えしたい人
ばかりだ。
対峙すれば
もっと楽に
進めるのに、と。
もっと
対峙せよ。
自分自身と。
自分の人生
なのだから。
つづく
潔さ、って
何だろう?
と、
時々考える。
きっとたくさんの
答えがあると
思うのだが、
私は
真の潔さを
目の当たりにすると
涙が出る。
感動という
言葉は
そこには当てはまらない。
ただ、
涙が出る。
きっと
魂がダイレクトに
泣いている。
そしてその潔さは、
そんなに特別な
ものではない。
日常の中で
そこかしこに
存在している。
例えば、
「風」。
道を歩いていて、
ふと
風を感じ、
あぁこの風、
潔いな。
・・・と感じると
泣く。
こういうこと
ない?
まぁ街中で涙を流す
のは恥ずかしいので、
泣く、というより
泣きそうになる
ということなんだけど。
この「潔さ」、
説明しようとすると
かなり難しい。
しかし私なりに
あえて言えば、
潔さって、
自分と
自分以外のもの
との
区別をつけること
かな。
自分は自分。
それ以外は
それ以外。
じゃあ、
何が自分で、
何は自分ではない存在?
例えば、この手は
本当に自分かな?
この足は?
この髪は?
この風は
本当に自分以外の
存在?
太陽は?
あの人は?
この人は?
本当は
どれが自分なのだろう?
これ結構、
答えが出ない。
でも、
きっとこうだろうな、と
ふと
答えがわかる時がある。
そしたら、
これは自分なのだから、
自分として
在ろう。
と、
あるがままの自分
として
そこに存在する。
自分以外の存在への
執着は
すべて手放す。
ただ、
本当に自分だと
思える存在が
本当に自分そのもの
として
ここにある。
こうなっている状態は
きっと
かなり、潔い。
あぁこの風は
潔いな。
・・・と感じる風は
あるがままの
風として
そこに生きている。
逆に言えば、
あるがままじゃない風は
とても多い。
自分とは
何か?
どれが
自分だろうか?
本当に
自分だと思えるものを
まずは
潔く、大事にしよう。
そっから
潔い人生は
始まるのだと思う。
つづく
ゆっくりと
何かを語りたい
ときがある。
何を語りたい
のかは
わからない。
でも、
何かを語りたい。
そういったときは、
私はすぐに
パソコンに向かう。
文章を
書き始める。
頭では
書かない。
手、のみで
書く。
すると
面白いように
手が
スラスラと文章を
書き進める。
手が書いた文章を
後から
目が追い、
頭が追う。
そして
それを面白がる。
これも一種の
セルフコーチングの
やり方であり、
ある意味、最も
初心者向けの
方法だ。
できればこれを
毎日、
一日の終わりに
行なうと良い。
日記を
頭ではなく、
手で書くようなものだ。
とは言え、
毎日、
何か語りたいことがあるな、
という感覚に
なるわけではないだろう。
しかしそれでも
毎日、手に書かせて
いると、
毎日、一日の終わりには
何かしら
手が書けるようになる。
習慣化というのは
面白いものだ。
我々現代人は、
あまりにも
自分自身の内面を
理解せずにいる。
頭の中で
考えていることのみが
自分であると
思い込んでいる。
もっと
しっかりと自分を
理解しようとした方が
良い。
でないと、
本当に自分の人生を
自分として生きていることに
ならないのではないかな。
手で書く、というのは
習慣化するには
とてもオススメの
やり方だ。
つづく
心の中に
今、
大きな揺らぎが
ある。
大地を揺るがす
ような
揺らぎだ。
今、
私自身も含めて
誰もに
それを感じる。
だからきっと
あなたにも
それはあるだろう。
揺らいでいる時は
揺らいでいることを
自覚した方がいい。
人の心は元来、
揺らぐようにできている
ので、
大地を揺るがすような
揺らぎは、
自分にとっては
人生の宝物だと
捉えるといい。
大きな揺らぎを
体験しなければ、
先に進めないのが
私達だ。
逆に言えば、
先に進むために
今の私達は
大きく揺らいでいる。
過去最大の
揺らぎ。
恐らくこれからの
私達は、
その「過去最大」を
何度も更新して
行くのだろう。
自分の揺らぎを
見つめ、
自分の揺らぎを
感じきる。
あなたは今、
揺らぎの中に
ある。
であればそこに
あえて自ら
埋没してみよう。
自分の心の中に
全身を
埋没させてみよう。
そして
揺らぎの中を
探検する。
ゆらぎの中心を
見つけよう。
その中心と
対峙しよう。
私の場合、
今の私の揺らぎの
中心にあるのは、
子どもの笑顔
だ。
私の知らない
たくさんの子ども達の
笑顔が観える。
これが今の私を
揺るがせているのだと
意味はよく
わからないが、
妙に合点する。
恐らくこれは
未来の子ども達。
これから私が
出会う子ども達。
私はこの子達の
笑顔のために
何かをしなければ
ならないのではないか?
そんな疑問が
私の心を
根底から揺るがして
いる。
この問い、
私は大事にしよう。
あなたはどうだ?
あなたの揺らぎの
中心には
どんな問いがある?
つづく
私の場合、
精神年齢は
27歳の誕生日で
止まっている。
27歳のあの日、
私は海外を
放浪していた。
ネパールで出会った
ある男性の家に
転がり込み、
そこにはとても
あたたかい家庭が
あり、
そこでまるで
家族のように
時間を過ごした。
そんなに裕福な
家庭ではなかったが、
かと言って
貧しすぎるわけでもなく、
質素だが
とても豊かな
時間だった。
私は本当に片言の
英語しか
喋れなかったが、
彼とは
人生について
よく語り合った。
彼の年齢は
知らないが、
恐らく当時の私より
10歳も20歳も
年上だったろう。
でもまるで
同級生のように
彼は気さくに
私と接してくれた。
彼は彼なりの
ビジネスをしていた。
私も恐らくは
この一年以上に及ぶ
放浪の旅が終われば、
日本に帰って
何らかのビジネスを
するのだろう、と
予想していた。
「でも、その前に
見ておきたい何かが
あると思っているんです。
今の私には
見ておかなければ
ならない何かが
あると思うんです。」
・・・などと、
かなり偉そうなことを
私は語った。
それを聴いて
彼はにこやかに
言ったものだ。
「私は神を信じて
いるが、
人生は、人の努力に
よって成されるものだ。
人の力では
どうにもできないことに
関しては、
私は神に祈り、
しかしあとは
私自身の努力によって
人生は動いていく。」
多分、こんな感じの
ことを言われたのだと
思う。
すごくしんみりと
彼の言葉は
私の胸に入った。
その日は確か、
私は彼の小さな
オートバイの後ろに
乗せてもらい、
一緒に、片道2時間以上
も走り、
ある丘の上まで行き、
そこから一緒に
ヒマラヤの山々を
眺めた後だった。
私はもうすぐ
彼のもとを離れ、
ネパールを離れ、
次のどこかへ
行こうとしていた。
「お誕生日、
おめでとう」
と彼は笑った。
あの日から
私の精神年齢は
止まった気がする。
私は今でも
27歳のままだ。
ふと気がつけば、
あれからさらに
もうすぐ27年の
歳月が経とうとしている。
ひょっとすると
今の私の年齢が
当時の彼の年齢
だったかもしれない。
今の私はちょうど、
当時の私の年齢と
同じくらいの人達との
接点が増えてきた。
多くは、
すでにビジネスを
しているか、
もしくは、これから
立ち上げようと
している若い人達。
彼らと接すると、
私はやはり今でも
彼らと同じくらいの年齢の
イメージで
自分を捉えているのだな、
と思う。
でも知らぬ間に、
あっという間に、
私は彼らの倍も
人生を重ねた。
もちろん彼らは
私のことを
年配者として見るし、
人生の先輩として
見るだろうが、
私の心は、
彼らとはそれほども
変わらない。
共に同じ場所にいて
同じ方向を
見つめている気がする。
きっとネパールの彼も
今の私と
同じだったんだろうな。
つづく
コーチングの
素晴らしいところの
一つは、やはり、
定期的に
そして連続的に
そのクライアントさんと
正面から向き合い続ける
ことだろう。
継続性というのは
とてつもなく重要だ。
継続的に向き合い
続けていると、
ある時ある瞬間に、
そのクライアントさんの
『世界』
が入ってくる。
「世界」というのが
何か、というのは
上手く説明が
しづらい。
表面的に言えば、
その人の物事への
「見方」とも言えるし、
その人の
「解釈の仕方」とも
言えるし、
その人の
「生き方の特徴」
とも、
「その人から見た
現実の捉え方」
とも言えるが、
しかしどれもが
表現としては
とても浅い気がするし、
正確ではない。
「世界」という
表現が最も的確で、
その「世界」が
スーッと、
私の中に入ってくる。
するとその瞬間に
なってようやく
私は
そのクライアントさんと
「一つ」
になれた感覚を
得る。
そのクライアントさんへの
「理解」
が始まった感覚を
得る。
もちろん、
人が人を理解する
というのは
簡単なことではないし、
自分自身のことさえ
理解できないのが
人間なので、
ましてや
自分以外の人のことを
理解しきる、
などと考えるのは
傲慢の極みだと
よ〜くわかってはいるが、
しかし、
その人の「世界」が
入ってくると、
その人のことを
「理解」はしきれては
いないが、
その人ととても
近づくことができ、
その人と何か
とても大事なものを
「共有」できたような
気がする。
そして
そこからコーチングは
次元の壁を超えていく。
そのクライアントさんと
私は
別人であり、
別の存在であり、
分離しているが、
その前提と土台
の上で、
常に
「一つ」
として生きることが
できるような、
そんな不思議でしかも
とても心地よい感覚が
ずっと続くようになる。
私は
人と人が共に生きる
ということの
本質は
こういうことなのではないか、
と
コーチという仕事を
させていただくことで
知ることができた。
この、
理解を超えた繋がりと、
感覚として
常にあり続ける悦びを
知ることは、
コーチの悦び
ではなく
これは私は
人間としての悦びの
一つであると
思うのだ。
お互いがお互いの
「世界」を
大事にし合いつつも、
お互いがお互いの
「世界」を
共有する。
そんな関係が
増えると、
それこそ本当に
世界は変わるのでは
ないか。
つづく
ひょっとすると
今、あなたは
まったく
地に足がついて
いない状態かも
しれない。
まるで
空中にいるかの
ように、
浮遊しながら、
足をバタバタさせて
いる。
地面がないので
不安定で
しょうがない。
気持ちも
悪い。
早くどこかに
降り立って、
安定したいし
安心したい。
・・・という
状態かもしれない。
もしそうであれば、
ちょっと大変
だけど、
しばらくそのままで
いた方がいい。
足をバタバタさせる
ことは
疲れるだけなので、
その状態であること
を、諦めて、
開き直って、
静かにしよう。
落ち着こう。
諦めが肝心。
力を抜こう。
そして、
風にプラプラと
吹かれていよう。
たまには
地面のない不安定さも
いいもんだ。
不安定そのものを
楽しもう。
今のあなたは
旅人のようなもの。
新たな
自分の立ち位置を、
「人生」そして「生活」
の足場を、
ゆっくりじっくりと
探しているんだ。
ゆっくりじっくりと
探させてあげて
ほしい。
一番良くないのは、
中途半端に
地面に降り立って
しまうこと。
本当に納得の
大地を見つける前に
降りてしまうこと。
いったん降りると、
次、また
空中に上がるまでは
時間も労力も
努力も
並大抵ではない
くらいに
かかってしまう。
そう。
今、空中に
漂えているというのは、
それ自体が
凄いことなんだ。
あなたが頑張って
脱皮を繰り返し、
その結果、
思いっきり
ジャンプし、
ジャンプどころか、
風に乗って
飛び、
あなたのこれまでの
狭い世界から
飛び出した、
ということなんだ。
せっかく
飛び出したのだから、
本当に望む大地を
見つけるまで
自分の好きに
させてあげよう。
だから、
さぁ、力を
抜いて。
風に揺らめいて、
空を見上げて、
光を感じて、
プラプラと、
今しか体験できない
その浮遊感を
満喫しよう。
つづく
自分にとっての
栄養とは
何だろう?
真の栄養
とは
何だろう?
・・・そんなことを
考えたことは
あるかな?
よくよく思えば、
私はしょっちゅう
そんなことばかりを
考え続けてきたのだと、
今日、
ふと思った。
コーチというお仕事を
させていただいて
いるので、
とにもかくにも
お客様と向き合う
その瞬間は
最高の自分
でいなければ
ならない。
「最高の自分」
そのものを
いかに高めるか?
ということと、
その「最高の自分」
の状態に
常に帰れる自分に
なるには?
ということ。
それをずっと
探究し続けた。
その中できっと
自分にとっての
栄養とは?
という問いが
自然に生まれて
いたのだろう。
だから私は
無意識的に、
栄養になるもの
には近づき、
そうではなさそうな
ものからは
遠ざかる、
ということを
やっていたようだ。
まぁ
本能的、とも
言える。
そして例えば、
私にとっては
電車に乗ること
が、
栄養になると
ある時に気づいた。
そこからはもう、
移動はほとんど
歩くか、電車か、
ばかり。
福岡出張とか
あっても、
私はもう
必ず新幹線で
行くようになった。
往復で10時間。
日帰りで
福岡出張をする。
しかし
電車に乗っている
その時間は
私にとっては
栄養そのもの
なので、
東京に戻って
来ると、
本当にパワーが
充電されて
力が漲っている。
もちろん
電車だけでなく、
こんな感じで
私は身近ないろんな
ところで、
自分自身の栄養
になるもの
を
持ち合わせている。
そして毎日を
楽しんでいる。
栄養探し。
皆さんにも
オススメだよ。
つづく
人が大きく脱皮を
しようとする時、
二つのパターンが
ある。
一つは、
本人がサポートを
求めるパターン。
もう一つは、
本人が自力で
脱皮しようとする
パターン。
今の時代、
圧倒的に
前者が多い。
ある意味、
そのために私は
コーチというお仕事を
させていただいている
とも言える。
ところが、
たま〜に
後者のパターンが
ある。
それを感じ取った
場合、
私はご本人には
そういったことは
一切お伝えせずに、
しばらく
コーチングを中断し、
ご本人を
放っておく。
たとえその時期に
ご本人から
サポートのご依頼が
入ったとしても、
適当に
受け流す。笑
1ヶ月くらいで
それが済む場合も
あるし、
何ヶ月かかかる
こともある。
今日は、実は
そんなクライアントさんが
お二人もいた。
お二人ともに
1ヶ月半くらいぶりに
お会いしたが、
お二人とも
見事に
脱皮されていた。
しかも
かなりかなり
大きく大変な
脱皮だ。
しかし
お二人とも
まったく自覚が
ないので、
私は何もお伝えせず
黙っておいた。
そのうち
必要があれば、
いつか
今のことを振り返りながら
お伝えすることも
あるかもしれない。
いずれにしても、
私からしてみれば、
大いなる感動
である。
秘かに心の中で
嬉し泣きした。
あ〜Aさんが
Aさんになった!
という
悦びだ。
コーチとしての
最大の悦びの
一つだろうな。
こういう時は、
Aさんとの関わり方を
大きく変化させる
ことが
できるケースもあり、
恐らく今回は
そのパターンだろう。
きっと私は
このお二人と共に
これから
何かを生み出すの
だろうな。
クライアントとコーチ
という関係性
そのものが
ここから
脱皮していくの
だろうな。
つづく
人というものに
対する理解を
深めることは
できるが、
人を理解しきる
ことなど
到底できない。
ということは
ちゃんと自覚した方が
いい。
人は
理解しきれない
もの。
だからこそ
理解しようと
し続ける。
それが
謙虚さの基本だと
思う。
私の場合、
この基本を
本当の意味で
身につけるまでに
随分と長い人生を
費やしてしまった。
だから
以前の私は
自分が本当は
人間嫌いであったことを
知っているようで
まったく理解して
いなかった。
人間嫌いな私が
人間が好きなふりを
している。
・・・これが
私だった。
しかし、
人とは
理解しきれないものだ
と
本当にわかった時から、
どうやら
途端に人のことが
好きになったようだ。
そして面白いこと
だが、
自分が人のことを
好きになったんだ
という事実も
だいぶ長い間、
私は自分のことなのに
理解できていなかった。
人は
美しい夕焼けの
景色のようなもの。
あぁ綺麗だな。
の一言で
終わることもある。
どれだけ綺麗でも、
毎日同じ角度から
同じ眺めを見続ければ、
それが当たり前
になる。
あーいつもの
景色ね。
になる。
でも
しっかりと目を
凝らして観察すれば、
一日一日
まったく異なる
陰影や色や光や
風や空気や気配が
そこにはある。
いや、
そういった現象的な
ものの一切を
超えた、
実在
が
そこにある。
実在は
変わらないものだが、
ずっと
変わり続けるもの。
だからその景色は、
「今この瞬間」
にしかあり得ない。
一刻一刻
すべて
異なるもの。
それらのすべてを
理解しきるなど
人の顕在意識には
到底、不可能だ。
だから私達は
その奥深さに
畏敬の念と共に、
深く
惹き寄せられ
続ける。
毎日、
人と向き合えば
向き合うほど、
それがたとえ
同じ人であったと
しても、
ちゃんと
向き合い続ければ
続けるほど、
人が
わからなくなる。
理解が
深まれば深まるほど、
さらに
わからなくなる。
その神秘を
感じ続けることも
また、
人生の醍醐味
ではないか。
つづく
自分には今、
何か言いたいことが
あるのだ。
・・・ということを
あまりに人は
自覚しない。
自分のことを
知ることは難しい
というのも
もちろんあるかもしれないが
いや〜、
もっと自分自身の
気持ちに
気づいてあげようよ。
自分のこと
じゃないか。
あまりにみんな
自分の心を
無視し過ぎでないかい。
自分には今、
何か言いたいことが
あるのだ。
・・・ということすら
わからないということは、
自分の中に芽生えた
願いとか望み
とか、
夢とかビジョン
とか、
に
気づけるわけがない。
なぜなら
最初はほんの小さな
芽みたいなもの
だから。
芽にもならず
種の状態かも
しれない。
そういうものに
気づけるかどうかで
人生は根底から
変わるのだが、
あまりにみんな
自分の心に
意識を向けていない。
目の前の
やらなければならない
ことを考え続け、
それで一日が
過ぎていく。
そんな毎日が
過ぎていく。
コーチングで
ある発想に気づき、
すごく盛り上がり、
あぁこの人はきっと
ここから湯水のように
いろんな発想が
溢れるんだろうな、
と
思いながらセッションを
終えて、
また2週間後とか
1ヶ月後にお会いすると、
発想がそこから
まったく進んでいない
どころか、
2週間前、1ヶ月前の
自分自身で盛り上がった
発想そのものを
忘れてしまっている人が
実に多い。
特にまだ
コーチング初心者は
そうだ。
ちょっとちょっと、
この2週間、
この1ヶ月、
いったい何してたの?
と言いたくなる。
(言っちゃうことも
あるけど。)
なんてもったいない。
この2週間(1ヶ月)で
ひょっとすると
人生の展開が
とても大きく開いたかも
しれないのに、
それを
「何もしない」ことに
よって
自ら閉じてしまう。
物事には
旬というのがあるので、
旬のうちに
いろいろ進めると
良いのにねぇ。
本当にこんなんで、
自分の人生を
創り出せるのだろうか。
自分の心に
意識を向けずして、
それは本当に
自分の人生だと
言えるのだろうか。
・・・なんてことを
コーチになりたての
頃から良く思っていたが、
それは
四半世紀経った今でも
あまり変わらないな。
自分の心と
向き合い、
現実と
向き合う。
両方と向き合う
ことで、
初めて
自分の人生になっていく。
この基本から
まずは始めようよ。
そんなことを
最近また強く
感じるね。
つづく
私達は
呼吸をしている。
呼吸というのは、
インプットと
アウトプットだ。
次々に
新たなるものが
インプットされ、
次々に
新たなるものが
アウトプットされる。
当然、
インプットだけ
というのは
できない。
吐くから
次が入ってくる。
アウトプットするから
次のインプットが
できる。
ところが
どうだろう?
私達は皆、
ちゃんとアウトプット
しているだろうか?
人生で、
ちゃんと
アウトプットすべき
ときに
アウトプットすべき
ことを
アウトプットできて
いるだろうか?
私は
呼吸とは、
吐くことが主である、
と
思っている。
だから、
人生とは、
アウトプットすることが
主である、
と
思っている。
ちゃんと
アウトプットしないと
絶対に
健康的なインプットは
成し得ない。
人だけでなく、
組織も同じだ。
人も組織も
私は
「アウトプット」
を観る。
そこにこそ
本質が現れる。
一つ一つの
アウトプットこそを
大切に
しっかりと
とことん
魂を込めて
やり切ろう。
つづく
クルクルと
体を回転させると
目が回ってしまう。
すると
まともに動くことが
できなくなる。
何も正確には
見えなくなる。
思考すら
できなくなる。
要するに
正常ではない状態
になる。
クルクル回る
だけなのに。
実は、
心がこの状態の人
が増えている。
すると
正常な判断が
できなくなる。
本来のその人なら
絶対にしないような
判断をしてしまう。
物事が
上手く進展しなく
なり、
その人自身が
自分は今、
何かがおかしい。
と感じたり、
自分は今、
正常ではないのでは
ないか。
と訝しんだり。
でもそのように
自覚できる人は
症状としてはかなり軽い。
この状態。
これは別に
病気ではない。
体をクルクル回して
目が回ることが
病気ではないのと
同じだ。
心が
クルクル回っている
だけだ。
だから
止めればいい。
でも、
止め方がわからない。
心がクルクル回る
最大の原因は
単純だ。
一言で言えば、
「傲慢」
だ。
つまり、
自信のある人に
多い現象だ。
物事が上手く
行き出して、
モチベーションが高くなって、
喜びが高くなって、
毎日が
楽しくてしょうがなく
なって、
ウキウキワクワク
が止まらなくなって、
俺って凄いぞ!
私って凄いな!
となって。
心が踊り出す状態に
なって、
回転を始める。
そして、
止まらなくなる
のだ。
もうこうなると、
ほとんどの場合、
痛い目に遭うまでは
止まらない。
痛い目にあって、
物事が上手く進展
しないようになって
初めて、
自分は何かおかしい
と
気づくのだ。
正直言って、
コーチングもあまり
機能しない。
どんなアドバイスを
しても、
俺は凄い。
私は凄い。
の真っ只中に
いるからだ。
だから、
痛い目に遭うまで
待つしかない
というケースが多い。
これも
人間の可愛らしさ
と言えば
そうとも言えるが、
結構、
周りの人は
本人以上に痛い目に
遭っている。
何を隠そう、
昔の私もそうだったけど。
だから
随分、人を傷つけた。
今、
そんな人が増えている
というのも、
この時代にあって
面白い現象だ。
傲慢になる、
というのは
真本音で生きる
のとは
真逆の生き方だ。
自分はちょっと
はしゃぎ過ぎでは
ないか?
という目線は
いつも持っておいた方が
いいね。
つづく
最近、このブログでは
「空っぽ」
という言葉を
よく使っている。
意図して使っている
わけではないが、
どうやら現時点での
我々のキーワード
のようだ。
私達は
あえて
「空っぽ」に
ならねばならない。
「空っぽ」に
なることで初めて
見つかるものがある。
例えば、
心の中を
「空っぽ」にすると、
そこで初めて
自分の中心に
「源泉」
のようなものが
あるんだ、
ということがわかる。
そこでは
まるで泉のように
透明な水のようなものが
湧き続けている。
そして
あ〜なるほど、
これが「私自身」か。
これが
私の「原点」か。
と
実感できる。
「空っぽ」にした
つもりが
実は私達は
「空っぽ」にはなり得ない
ということがわかる。
常に私達の
中心には
「創造」
があるのだ。
また、
例えば、
「空っぽ」になることで
初めて、
自分以外の「世界」の
「豊饒さ」
がわかる。
「世界」がいかに
エネルギーに
満ちているか。
愛に満ちているか。
そしてそれらが
自分自身に
どれだけの恩恵を
もたらしてくれて
いるか。
という、
理屈ではない実感を
ただただ
得られる。
私達はきっと
余分なものを
持ち過ぎなのだ。
「空っぽ」になる
ことで、
あるがままの真実を
知ることができる。
そういうことで
言えば、
「空っぽ」とは
空っぽではない。
「空っぽ」とは
満ちること、
満たされること、
と
イコールなのかも
しれない。
さて。
自分の「源泉」と、
世界の「豊饒」を、
共に感じた
我々は、
次に何をしようか?
何のために
どの一歩を
踏み出そうか?
これこそが
今の我々にとって
最も大事な
問いなのかも知れないね。
つづく
過去の自分を
振り返っても
そこに答えは
ない。
過去の事例を
学んでも
そこに答えは
ない。
もう、
その世界には
私達は
いないのだ。
もう私達は
「別の世界」
にいる。
「世界」が
変わったのだ。
というくらいの
認識を持った方が
いい。
私は今
ここにいるが、
ここにいる私は
これまでの
私ではない。
「私」も
変わったのだ。
我々は
なかなか変化を
受け入れない
ものだが、
変化に
恐怖を感じる
ものだが、
でも
変化したものは
しょうがない。
もし
これまでと同じような
行動パターンを
とろうとする自分に
気づいたら、
直ちに
ストップしよう。
その方向では
ない。
これからは。
さぁ・・・、
一度、まっすぐに
立ってみよう。
何も持たずに
まっすぐに。
そして、
肩の力を抜き、
一番、向きたい
方向を
向こう。
そして
何も考えず、
その方向に進んで
みよう。
もし可能なら、
最大速で
走ってみよう。
まぁ、多少は
転んでもいいだろう。
どうせ
痛い目には
遭うんだ。
どこに行っても。
身軽なままで
走れば、
それはそれで
楽しいだろう。
もし
今の「世界」が
わからなくなったら、
立ち止まるよりも
探検をしよう。
幼い子どもが
何でもかんでも
触ったり
口に入れたり
するように。
すべてを
体験すればいい。
もう
武器は要らない。
自分を
守る必要もない。
そこに気づいた
人から、
ようやく今の
「世界」の意味が
わかるだろう。
これまでとは
違うんだよ。
もうすでに
変化は
完了してるんだ。
つづく
私は誰か?
ということが
すごく曖昧になる
ことがある。
記憶喪失に
なったり、
精神分裂を起こしたり
するわけではなく、
ただ普通の
精神状態なのだが、
ふと、
私は私が誰か?
が
わからなくなる。
人とずっと
向き合っていたり、
もしくは
世界とずっと
向き合っていたり
すると
なりやすい。
ところがその状態は
感覚的に
悪いものではない。
むしろ、
自分の中から
あらゆる余分なものが
消え去っている
感じがする。
良い意味での
空っぽ状態だ。
そんな時は
決まって、
自分の範疇の
外からの
何らかの気づきが
来る。
と同時に
とてつもない
安心感が
来る。
むしろ
この状態でずっと
過ごせると良いな、
とさえ
思うことも。
もしそうなると
いったい
私の人生は
どう展開するのだろう?
と。
そして逆に
こうも思うのだ。
私は
私であることに
固執し過ぎではないか?
と。
もっと
私であることを
忘れても良いのでは
ないか、と。
少し表現を間違えると
とても危ない感じが
するが、
この感覚は
それとは真逆な
感じがする。
私が私であることを
忘れることで、
むしろ
私は
本当の私に
戻れるのではないか?
私の原点に
立ち戻れる
のではないか?
ひょっとすると
これは
赤ちゃんの感覚
なのかもしれない。
自分が何者かが
わからない状態で、
自分と他人の
区別がつかない状態で、
ただ
純然と
世界と向き合い続ける。
そこから生まれる
発想は、
私自身をびっくりさせる
ことも多いが、
今はそれ自体を
楽しみたいと
思っている。
つづく
こうしたい!
とか
こうなりたい!
とか。
自分の夢とか
ビジョンとか。
目標でも
使命でもいい。
とにかく、
自分が強く
願っていたこと
が、
ある日を境に
突然、
あれっ?
どっちでもいいかな・・・。
と
思うようになること
がある。
あれだけ強く
願っていたのに、
ずっと
実現のために
頑張ってきたのに、
実現しても
しなくても
どっちでもいいかな・・・、
と。
もしそうなったら、
それらの願いは
手放してしまうと
いい。
ついさっきまでの
自分は、
その願いのために
生きてきた。
でもこれからの
自分は
ちょっと違うのかも、
・・・というところに
素直になればいい。
その代わり、
手放すなら
本当にしっかりと
手放すといい。
中途半端に
願うなら
ゼロにする
のだ。
自分を
空っぽにする
のだ。
すると、
その空っぽの奥から
新たな
願いが浮上を始める。
つまり、
どっちでもいいかな、
と
思うようになった
ということは、
自分の願いが
「進化」「深化」
する兆しだ。
ひょっとすると
これまでのその願いを
手放すことは、
自分自身の人生や
自分自身そのものを
手放してしまうくらいに
インパクトがあったり、
怖かったりするかも
しれない。
しかしそうであっても
私は
オススメする。
中途半端な願い
なら
ゼロにしちゃえ!
と。
空っぽの自分
として
もう一度、今日から
生きてみよう。
きっと何か
脱皮できるよ。
つづく
ある事柄に関して
何も発想が
出ない
という状態に
なることがある。
これを私は
「ゼロ状態」
と
呼んでいる。
どれだけ考えても
まったく
発想が湧かない。
何も浮かばない。
ひょっとして
自分は、
その事柄について
モチベーションがゼロ
なのではないか。
まったく
やる気がないのでは
ないか。
避けたいのでは
ないか。
・・・そんな風に
思ってしまう。
しかしそんな時は、
その事柄についての
「お部屋のイメージ」
をしてみると
いい。
その事柄についての
発想が
たくさん詰まっている
お部屋を
イメージするのだ。
その部屋に
入ってみて、
もしその部屋に
いろんなたくさんの
ものが
存在している感じが
するのであれば、
・・・にも関わらず
発想が出ないので
あれば、
確かに
もうやる気がない
のかもしれない。
しかし
そのお部屋に入ると
中が完全に空っぽ
・・・のように
感じるのであれば、
それは先ほど
私が書いた
「ゼロ状態」
である。
ゼロ状態の場合は、
一見、発想がゼロ に
見えるが、
実は
そうではない。
大掃除をして
これまでの古い発想
達を
いったんすべて
お部屋から出して
捨ててしまったイメージ
だ。
そういう意味では
発想がゼロとも
言えなくもないが、
しかし実はまったく
真逆で、
これまでの発想を
完全に卒業した上で、
そのお部屋に
新たな発想達を
ゼロから
入れ直したい、
と
思っているのだ、
だから、
一見、発想ゼロに
見えても、
待てばいい
のだ。
むしろ
お部屋の中が
空っぽになっている
その状態そのものを
楽しめばいい。
この部屋が
新たにどのような
発想達で埋まるのかな?
と
楽しみにすればいい。
一つ注意点は、
ここで自分の思考に
入らないことだ。
思考に入ってしまうと、
結局はまた
これまでと同じ発想で
その部屋を
埋めてしまうことになる。
せっかくいったん
空っぽになったのだから、
もう思考は
やめて、
これまでのパターンは
やめて、
ただ
直観を待てばいい。
つまりは
「ゼロ状態」
とは
新たな直観達が
生まれる寸前の状態、
ということだ。
だから
やることは
ただ一つ。
待つこと。
空っぽ状態を
楽しみながら、
待つことだ。
つづく
たった一つの
ヒントが
人生を劇的に
変えることがある。
最初はそれが
「ヒント」であるとは
つゆ知らず。
しかしその
些細な何かは
ずっと
心の片隅に
ヒラヒラと
さりげなく
漂い続ける。
そのヒラヒラが
あまりに自然なので、
その存在そのものを
忘れてしまうのだが、
しかしそれは
確かにそこに
在り続け、
その存在を自分は
感じ続けている。
まるで
空気のような
存在となった
その「ヒント」は
しかし、
ある時ある瞬間に、
「あぁ私の周りには
確かに空気があり、
これがあるからこそ
私は生きていられるんだ!」
と
気づいた時の
ように、
その存在を
前触れなく、
突然に
誇示する。
そしてそれが
本当は
自分自身の人生の
道への
最大の「ヒント」であったと
わかった瞬間は、
まったく
わからなくて
どうしても知りたかった
手品のタネを知り、
そのタネが
あまりに簡単で
単純なものであることに
仰天する、
と同時に
笑ってしまう、
という
あの感覚にそっくりだ。
そう。
「ヒント」はもう
あるんだ。
あなたの
すぐそばに。
あなたと
共に。
あとは
気づくだけ。
つづく
思いきって
進む時ほど、
足元を
しっかりしよう。
勢いだけで
走るよりも、
急ぎたい時ほど、
一歩一歩を
着実に。
大地を
踏みしめながら。
大地の感触が
足と腰を通じて、
しっかりと
全身に渡るように。
私は今、
ここにいる。
私は今、
ちゃんとここに
立っている。
という実感を
持ちながら。
これがあるうちは、
進める。
思いきって
進める。
その安心感を
一日一日、
できれば常に
自分自身に
与え続けると
いい。
そのためにも、
次の問いを
自分に投げよう。
「これまでの私は
どんな大地を
進んできただろう?」
「そして今の私は
どんな大地に
立っているだろう?」
これは
「言葉」ではなく
「イメージ」できるといい。
イメージできたら
しっかりと
「今の大地」
に立っている自分を
大地そのもの
と
その感触を
実在として
得よう。
その上で、
思いっきり
急ごうではないか。
つづく
私達人間は
全員、
「リミッター」
を自分にかけている。
自分が
自分にならない
ための
リミッターだ。
本来の自分
に戻ることを
阻害するための
リミッターだ。
それを
自らの意志として
持ち、
自分で自分を
制限し続ける。
これが
私達の
全員の
人生だ。
何のために
そんなことを
するのか?
の理由は
明白だ。
自分を
試しているのだ。
自分の
準備を整える
ためだ。
準備完了
となって初めて
私達は
そのリミッターを
外す。
それにより
本来の自分に
戻っていく。
もちろん
リミッターは
一つではない。
たくさんある。
一つの準備が
整えば、
一つのリミッターを
外す。
また次の準備が
整えば、
次のリミッターを
外す。
当然であるが、
すべてのリミッターを
外す前に
人生を終えてしまう
人は多い。
むしろ
9割以上の人は
そうではないか。
一つずつ
リミッターを外し、
最後の最後の
リミッターを外し、
(それは
リミッターのラスボス
のようなものだ。)
そしてようやく
本来の自分に
戻る。
本来の自分に
戻ることで、
私達は
本来の人生の目的を
思い出し始める。
そして
本来の個性を
発揮し始める。
本来の力を
発揮し始める。
その人にしかない
先天的な
魅力が
醸し出され始める。
そこからが
人生の第2ステージだ。
本来の自分
として進む
ステージだ。
その、
最後の最後の
リミッターを外し、
人生の第2ステージに
進む人が
私の周りでは
一人、また一人と
増えてきた。
おかげでまた
私自身も
自分自身の本来の
役割を
担える状況になってきた。
だから私も
そちらに進む。
踏ん切りは
すでについている。
全身全霊の
内側からの悦びが、
中心からの
悦びが、
今、溢れ出ようと
している。
皆の準備を
待っていたんだ。
ようやく、だ。
つづく
自分には
何もないのでは
ないか?
・・・と
恐れたことは
ある?
自分の空っぽさ
を
感じたことは?
もし、
そんな感覚が
襲ってきたら、
それに
抗ってはならない。
全身全霊を
その感覚に
預けてしまおう。
空っぽさ。
これはとても
大事だ。
これまで
培ったものを
いったん
自分の中から
除去している。
もしくは
これまで培ったもの
に対する
価値を見出さなく
なっている。
虚しさにも
似た
その感覚は、
まったく新たな
自分が
生まれる
予兆だ。
だから、
抗っては
ダメだ。
むしろずっと
虚しくいれば
いい。
人によっては
いったん
モチベーションゼロ状態
になるかもしれない。
それでいい。
どうせなら
徹底的に
空っぽになって
しまえ。
目的意識とか
目標とか
どうでもよくなって
しまったら、
どうでもいい!
と
決めてしまえ。
全部
手放せばいい。
すべての意図を
排除すれば
いい。
無色透明の
何もない
空虚な自分。
そんな自分として
一日を
過ごしてみると
いい。
この症状は
「進んでいる」からこそ
発生する
とてもとても
大切な
ステップだ。
自分という人間を
一気に広げたり
開花させる
ための
ステップだ。
だから
空っぽになれれば
なれるだけ
いい。
とても不安定で
不安な
感覚だろうが、
空っぽの
ままで。
意図のない
ままで。
つづく
果敢に
新たなステージに
入り、
未開の地に
突入している人が
増えている。
どうも
私の周りだけでは
ないようだ。
そういった
気配とか
躍動感を
感じる。
とても良いことだ。
応援したい。
未開の地に
進むということは、
当然であるが
それだけ
いろんな困難にぶつかる
ということでもある。
覚悟を持って
進む人だからこそ
ぜひ大切にして
いただきたいのは、
目の前のその
困難や障壁や、
妨害は、
・立ち向かうべきもの
か
・避けるべきもの
か
一つ一つ
落ち着いて
しっかりと判断してほしい。
特に、
覚悟を持った人ほど、
立ち向かい過ぎる
という傾向が
ある。
避けることや
逃げることは
いけないことだ、
と
思い過ぎる。
そうではない。
「逃げる」
ことも
とても大事だ。
覚悟を持たない人が
逃げてしまうと
それは単なる
現実逃避になる。
しかし、
ちゃんと覚悟を持ち、
自分の人生を
引き受けている人が
未開の地に
入った時には、
「今、自分は
何から逃げるべきか?」
・・・こここそを
しっかりと自覚し、
「本当に立ち向かう
べきもの」
と
しっかりと
区別をしてほしい。
そして
自分自身の
エネルギーマネジメントを
的確にすることだ。
つまりは、
「自分は何に対して
エネルギーをかけるべきか」
を
ちゃんと決め、
「集中力を高める」
ことだ。
何でもかんでも
立ち向かってしまうことに
よって、
エネルギーは分散
してしまう。
エネルギー分散に
よって
拓くはずの道も
拓かなくなる。
いかに自分の
意識を
絞り込むか?
自分という存在の
意義を
絞り込むか?
覚悟を持った人こそ
大切にしてほしい
ことだ。
避けるべきを
ちゃんと避け、
逃げるべきから
ちゃんと逃げ、
手放すべきを
ちゃんと手放し、
諦めるべきを
ちゃんと諦める。
そして、
本当に立ち向かう
べきと
真摯に
誠実に
立ち向かう。
これこそが
自己マネジメント
だ。
応援しています。
つづく
ただ
純粋な存在
として
私はここに
いる。
ただ
純粋な存在
として
あなたもここに
いる。
私達は
向かい合って
いる。
ただ
純粋な存在
として。
その事実だけを
そのまま
受け取るとき、
そこには
エネルギーの
渦が観える。
脳が感知する
渦ではない。
そこに実在する
ものを
そのまま
受け取っている
だけだ。
脳を使わずに
受け取っているものは
多い。
それを自覚することは
人生の
あらゆる場面の
意味を
根底から
覆すだろう。
一見、
ピンチに見える
出来事が
実は
とてつもない
愛に満たされている
ことを知ったり、
逆に
愛に満たされている
と
思い込んでいたものが、
実は
空虚の塊に過ぎない
ことを知ったり。
そういうことを
「わかる」
というのは
怖いことかもしれない。
でも本当は
私達人間は
最初から
わかっているのだ。
わからないフリを
しているだけ。
フリをするために
脳に
逃げている。
脳の創り出す
五感に
逃げている。
それだけの
ことだ。
もう
逃げる人生からは
卒業しようと
覚悟をすると
いい。
その覚悟は
自分自身の
鼓動の質を
変える。
人生の質を
変える。
すべては
実在している。
それらは
幻ではなく、
むしろ
五感で得るものの
方が
幻に近い。
薄っぺらい。
本当の存在、
本物の存在を
私達はもっと
知った方がいい。
世の中は
変わりつつあるように
見えるが、
それも五感。
本当は
変わるとか
変わらないとか
ではなく、
ずっとそこに
あるんだ。
存在しているものを
ただそのまま
感じ取れる度合いが
私達自身に
高まっている
だけなんだ。
つづく
たくさんの発想を
することは
大事だ。
しかし、
真の発想とは
それら無数の
発想達が
すべて
飛び去り、
消え去った
後に
初めて
現れる。
そして
真の発想とは、
決して
飛び去らない。
消え去らない。
いったんそれが
姿を現せば、
確信
という感覚と
共に、
自分自身が
その発想そのもの
となる。
つまり、
真の発想とは
自分が生み出す
ものではない。
自分自身だ。
私は、
真の発想が
明らかになるまでは
決して
動かないことに
している。
決断しない
ことにしている。
皆、
決断が
早すぎるのだ。
まだ上辺だけの
発想の状態で、
強引に一つの
解を
出してしまう。
無理矢理に
自分に言い聞かせる
ようにして、
決断をしてしまう。
しかし残念ながら、
その決断は
その後の迷いを
必ず生む。
では、
どうすれば
上辺だけの発想
ではなく、
真の発想に
たどり着ける
だろうか?
実は単純な
ことだ。
自分には
真の発想が
すでにある。
と
信じることだ。
そして
それが姿を現す
まで、
「待つ」
ことだ。
人生とは、
待てるかどうか、
だ。
今回はちょっと
あえて
極端な言い回しを
している。
でも、
とても大事なことだから、
あえて
誤解を恐れずに
断言する。
人生は、
待てるかどうか、
だ。
ちゃんと自分を
信じて
待つことのできる人は
道を
手に入れる。
道が
開かれる。
急いでいる時
ほど、
待つがいい。
急いでいる時
ほど、
焦らずに。
真の答えを
待て。
つづく
「現状維持」
とは
進むことだ。
これ、
多くの人が勘違い
している。
現状維持とは
今と同じ場所に
い続けることだと
思い込んでいるが、
そうではない。
今と同じ場所に
い続けることは、
イコール、
「衰退」
である。
私のクライアントさんが
とても良いことを
言われた。
「私はこの一年は特に
現状維持に
努めたい。
だから、存分に進みます」
と。
特に今の時代は、
現状維持のためには
最大速を
出さねばならない。
ということは
さらなる成長
さらない進化の
ためには、
これまでの自分を
逸脱した加速を
せねばならない。
それが
今の現実だ。
ここを勘違いした
ままだと
大変なことになる。
進むのは
当たり前のこと。
今の場所に
かじりついている
場合ではない。
・・・・・・
逸脱した加速
のためには、
自分自身を
もっと理解する必要が
ある。
自分の本質を
理解する必要が
ある。
自己理解なしに
逸脱はできない。
なぜなら私達は
みんな、
無自覚のままに
自分自身に様々な
リミッターを
かけ続けているから。
自分は
何者か?
そんな自分に
どんな枠(リミッター)を
自分ははめているか?
どの枠から
順番に
外せば良いか?
・・・これらを
理解しなければ
ならない。
結局、私のコーチング
とは、
これをサポートしている
のだと、
改めて、今日、痛感した。
と同時に、
こここそを
これからもちゃんと
意識的に
大切にしたサポートを
続けようと
思った。
そしてやはり、
そんなサポートの
できるコーチを
増やさなきゃ。
つづく
時々、
私のクライアントさん達に
意識を向けると、
変な踊りをしている
映像が浮かぶことが
ある。
変テコな踊りを
実に楽しそうに。
そうすると
私はホッとする。
それは
そのクライアントさんが
「何か」から
自由になれた合図だから。
何かを脱ぎ捨て
一つ
脱皮をした合図
だから。
それにしても
その「踊り」は、
人それぞれ
まったく個性が
違う。
みんなそれぞれの
「踊り方」
つまりは「生き方・行き方」
があるのだな、
と
いつも実感する。
そして
思うのだ。
みんな、
踊りたいのだな。
自分の踊りを、
自分にしか
できない踊り方で。
そんなイメージ(実在)
を得た後で
実際にそのクライアントさんと
お会いすると、
確かに
「何か」が変わっている。
空気感は
明らかに違う。
そこで
コーチングの最初に
そんな時は
いつも問うのだ。
何かがなんか
凄く変化されたように
感じるのですが、
何だと思いますか?
「あっ、そうそう、
それ、自分でも
わかります!」
と返ってくることも
あれば、
「へぇ、そうなんですか。
自分では
わからないなぁ」
と返ってくることも
ある。
どちらでも
いい。
どんな返事でも
その日のコーチングは
実にまた
楽しいものになるんだ。
変な踊り。
みんな、
変な踊りを
思いっきり
踊ればいい。
つづく