チームパフォーマンスコーチ

静かに問うてみよう

 

今回も一つ、

問いを投げようかな。

 

これもとても

重要な問いだ。

 

思いつく答えを

たくさん

紙に書いてみて、

 

出し切った後で、

書かれたものの中から

最も、ピンとくる

答えを選び出してみよう。

 

 

『あなたがこの1ヶ月で、

徹底的に考え続けたい

ことは何?』

 

 

どちらかと言えば、

探究する

という方向の答えが出ると

より良いかな。

 

今は

何かを探究するには

とてもよい「流れ」が

来ている気がする。

 

なかなか外出も

ままならない今

だからこそ、

 

何かを徹底的に

考え続けるのも

よいのでは?

 

つづく

 

問い、と共に生きる

 

問いを持つこと。

 

「今の自分」

にとっての

最良の問いを

持つこと。

 

そしてその問いと

毎日、毎時間、毎分、毎秒、

真摯に向き合い続けること。

 

これにより、

人生は劇的に

変わる。

 

臆病で臆病で、

あらゆる自分の

判断と行動が

自分自身の臆病さを

打ち消すためだけに

あったのが、

かつての私だった。

 

その私が

そんな人生から抜け出せたのは

今から思えば、

ひとえに

そこに理由がある気がする。

 

私は常に

「問い」と

向き合い続けた。

 

今も

ずっとそうしている。

 

それだけは

この17〜8年間は

止めたことがない。

 

とは言え、

それは私だけのことでは

ないはずだ。

 

すべての人は

いついかなる時も

その胸の中に

「問い」を

抱き続けている。

 

それをしっかりと

自覚するかどうか。

 

それだけの違い

ではないか。

 

自分がすでに

抱き続けている問いを

掘り起こし、

自覚し、

向き合い続ける。

 

たとえ答えが

わからなくとも、

とにかく

大事に大事に

向き合い続ける。

 

答えがわからない

というのは

気持ちが悪いし、

それだけでストレスに

なるかもしれないが、

 

それでも

向き合い続ける。

 

「問い」と向き合い

続けることこそが、

「人生」と向き合い

続けることでは

ないか。

 

今のように、

現実的に

様々な不安要素、

不安定要素が

次々に発生する社会で

あればあるほど、

 

これが本当に

必要なのでは

あるまいか。

 

どのような現実でも

ちゃんと

本来の自分を失わず、

 

ちゃんと

自分の意志・意思として

道を創っていく。

 

それができるのは

「問い」と

向き合い続ける人

のみではないか。

 

ここ数日で

改めて

強く思うことだ。

 

つづく

 

大事な問いだ

 

問いを

投げよう。

 

いくつもの答えを

出してほしい。

 

そしてその中で

最も自身の心と

魂に響く答えを

 

一つ、

決めてほしい。

 

『あなたが

あなたの真の

人生の目的を知る

ために、

一つ、

捨てるべきこだわりは

何か?』

 

必ず答えを出して、

実行に移すといい。

 

つづく

 

無茶しろよ

 

勢いのある人は

凄いなぁ、とは

思うけど、

 

勢いだけで

進んでいる人は

弱っちいなぁ、と

思う。

 

勢いに任せて

進むというのは

弱さの現れだと

私は思っている。

 

勢いがなきゃ

進めないという

ことだもんね。

 

今の自分に

勢いがあろうと

なかろうと、

 

そんなことは

お構いなしで、

 

一つ一つ

淡々と

やるべきことを

やっていく。

 

そういう人ほど

実はちゃんと

道を創っていく。

 

自分をコントロール

できるから。

 

一つ一つに

自分がどれだけの

エネルギーを注げば

良いのかを

見極めながら、

 

エネルギーの強弱を

絶妙につけながら、

最善の一歩を

進み続ける。

 

そんな人ほど、

表面は

淡々としていても

その内側に秘めた

パワーは圧縮され、

 

いざという時には

無尽蔵とも言える

エネルギーを

一点に集中して

注ぎ出すことが

できる。

 

そんな風に

なれるといいなと

私は思うね。

 

勢いとは

勢い以上のものには

なれない。

 

私達が目指すべきは、

勢いを闇雲につける

ことではなく、

 

勢いをコントロールする

(マネジメントする)

力をつけること

ではないかな。

 

ただし。

 

以上をしっかり

わかった上で、

 

その上で、

 

あえて勢いに

身を任せる

 

というのは、

逆に

あり、だと思うよ。

 

そんな経験が

あるからこそ、

コントロールの力も

養えるんだ。

 

制御不能。

 

限界を超える。

 

という経験をしてこそ、

私達はちゃんと

進めるようになるんじゃ

ないかな。

 

だから

たまにゃあ、

無茶しろよ。

 

つづく

 

もっと大きな目で

 

人はどうしたって、

暗い雨雲が立ち込めて来たら、

この後、どんな大雨が

降るだろう?

不安になるだろう。

 

雨だけじゃなく

雷も来そうだ、と。

 

そして

一刻も早く逃げねば、

不安に駆られて

自分の行動のすべてを

決めてしまうだろう。

 

それはある意味、

人としての非常に

健康な

心の動きだ。

 

しかし、

雨雲ばかりに目を

奪われていたら、

知らぬ間に大事な何かを

失ってしまうのも

また私達だ。

 

後になって冷静に考えれば、

どうしてあの時

あんな判断を

自分はしてしまったのだろう、

後悔することも多い。

 

そうならずに、

やはり

「最善の道」を

一つ一つ丁寧に見極めることが

大切であると

私は思う。

 

現実と向き合う、

とは

目の前にある現実だけを

見つめることではない。

 

もちろんそれは

最低限必要なことだが、

それは現実の一部

でしかない。

 

雨雲の上には

間違いなく

果てしなく続く青空がある。

 

今、目の前には雨雲しか

見えなくとも、

その向こうに青空がある

という事実もまた

現実である。

 

しかも、現実とは

心の外側だけにあるもの

ではない。

 

心の内側にも

現実がある。

 

私達は

「内と外」

二つの現実の狭間で

生きている。

 

二つの現実の

近くと

遠くを

それぞれちゃんと

見渡すこと。

 

それができて初めて、

「次の一歩」

が直観できる。

 

その直観とは、

一切の迷いがない。

 

透き通った

自分の「答え」だ。

 

透き通った

風が吹く「答え」だ。

 

その「答え」にこそ

私達は素直に

従うべきだろう。

 

すべての現実を

毅然と

見渡す生き方と

在り方。

 

今こそ、それを

身につけるチャンスだ。

 

つづく

 

揺るがぬ願いがある

 

人には皆、

揺るがぬ願い

がある。

 

それは

いかなる人生に

なろうとも、

 

いかなる現実が

来ようとも、

 

自分がいかなる状態に

なろうとも、

 

決して

変わることはない。

 

その願いに

意識を向けるだけで、

私達は

言いようのない

精神の安定を得る。

 

願いとは

叶えるものだが、

それは

叶えるとか、叶えないとか、

そういったものさえ

超越している。

 

その願いを持つこと

そのものが

その人の存在の意義

と意味

とさえ言える。

 

そういったものを

私達は心の中心に

持っている。

 

人にとっての幸せは

千差万別だ。

 

その人には

その人なりの幸せが

あるだろう。

 

ただ、一つ言えるのは、

 

自分自身のその

揺るがぬ願いに

一歩ずつでも向かう

毎日なのかどうか?

 

・・・によって

その人が感じる日々の

幸せの深さが

まったく違ってくる。

 

どれだけ

欲しいものを得たとしても、

自分が自分の願いに

向かっていなければ、

その人は

内側から常に

濃いストレスが発生し続ける。

 

何を得ても

真の満足を得られることは

ない。

 

極端な言い回しかも

しれないが、

しかしここは

断言できるところだ。

 

様々なことが起こる

今の社会において、

今の地球において、

唯一、

自分の指針となり

自分の原点となり

自分の帰る場所となるのは

 

その

揺るがぬ願い

ではないか。

 

つづく

 

早く捨てないと

 

やめてもいい、

やめた方がいい、

思うことは、

 

どんどん

やめてしまおう。

 

シンプルに

なるんだ。

 

身軽に

なるんだ。

 

手放せない、

とか

捨てられない、

というのは、

 

この3次元の世界を

生きていく上では

最大の阻害要因に

なる。

 

自分も他人も

すべてを含めて、

誰のプラスにも

ならない。

 

・・・と認識しよう。

 

「私、捨てられないから」

などと

のん気に言っている

場合ではない。

 

そんなこと言っている間に、

人生の最大の展開を

逃してしまっているケースは

とても多い。

 

この人は

真剣だな、

 

と私が思えるのは、

手放せる人

だ。

 

良い意味で

捨てる人

だ。

 

これのできない人は

覚悟がない。

 

自分の人生を

全うする覚悟が

ない。

 

そう断言することが

今はとても

大事だと思っている。

 

何をするか?

 

よりも

 

何をやめるか?

 

が、

今は大事。

 

それをしなければ、

次の「発想」すら

生まれないように

私達はできているんだよ。

 

つづく

 

波長の視点から

 

よく私は

「空気感」

という言葉を使うが、

 

これを別表現すると、

 

「波長」

 

とも言える。

 

私達人間だけでなく、

この世のあらゆるものは

独特の「波長」を

持っている。

 

すべてはエネルギー体

であり、

それぞれがそれぞれなりの

振動を続けている。

 

その中でも特に

人間は、

その「波長」をよく

変える。

 

それを私は

「空気感が変わる」

と表現している。

 

しかしとは言え、

変わらない波長も

ある。

 

私達人間には

変わらない波長と

変わる波長が

ある。

 

正確に言えば、

本当はすべてが

変わっていくのであるが、

変わりづらい波長

と言えばよいのかな。

そういうものがある。

 

私は人と向き合う時、

その両方の波長を

あるがままに

感じ取る。

 

そしてほぼほぼ

その「波長」によって

私自身の対応を

決めている。

 

こうやって書くと

なんか動物みたいだが、

人間も動物であり、

そういった感性は

本当は誰もが持っている。

 

私はおかげさまで

本当に多くの人達と

向き合い続けてきたので、

いつしかそういうことが

できるようになった。

 

はっきり言うと、

見た目よりも

波長を捉えた方が

本質を千倍も捉えることが

できるのだ。

 

そして

次のようなことも

実感できる。

 

「波長と波長の共振」

だ。

 

つまりは、

同じような波長を持つ

人同士は

やはり近づいていく。

 

そして時には

それが共鳴、共振し、

相乗効果を発揮しながら、

まったく新たな波長を

生み出すことさえ

ある。

 

それが人間関係の

面白さであり、

組織の面白さ

とも言える。

 

私はその、

相乗効果を発揮する

人同士のペアを

探し当てるのが

得意だ。

 

人生においても

仕事においても。

 

お互いが無理に

波長を合わせながらも

頑張る人達がいるが、

 

その場合は、

変わらない波長と

変わる波長の

両方を感知しながら、

 

その人達が協力をし合う

タイミングは

今が本当に良いのだろうか?

「直観」する。

 

そしてタイミングが

今ではないと感じた時は、

あえて

距離を離すことを

ご提案する。

 

人と人の

距離感は

とてつもなく大事だ。

 

近ければいい、

というものではない。

 

今はどの距離感で

どう関わるか?

今後のあらゆる物事の

進展度合いを大きく

左右する。

 

こういったところこそが

本当にサポートの必要な

部分ではないかと

いつも思っている。

 

波長や空気感の話を

し出すと、

止めどがなくなるくらいに

無限に話が広がっていく。

 

しかしそれは

「直観」というテーマに関しては

とても重要な要素となるので、

 

そんな視点からも

ポツポツと

ここで書いていこうかと

思っている。

 

つづく

 

やっぱり美しい

 

一つ一つの振る舞いの

美しい人は

 

一貫性が取れている。

 

ここで言う

「美しい」

とは、

いわゆる表面的なもの

ではない。

 

好き・嫌い

とか

好み

とかを超えたものだ。

 

そういった意味では

本来は、

すべての人に

その人ならではの美しさ

必ずある。

 

それは

本当にその人にしか

ないもの。

 

オンリーワン

である。

 

その美しさを

醸し出すことこそが

「その人らしさ」

の本質だ。

 

だから例えば、

一見するとあまりにも

乱暴な感じが

表面的にはしたとしても、

 

よ〜く観ると、

それこそがその人の

その人にしかない

美しさだったりする。

 

それが見事に

醸し出されている時、

その人は

周りの人達を自然に

惹き込む。

 

影響力を

発揮する。

 

私の仕事の醍醐味は

その

人それぞれの美しさの

発掘である、

 

と言ってもいい。

 

それはまるで

原石が宝石の輝きを

発する瞬間であり、

 

その瞬間に居合せる

のは、

私にとっては

人生の最大の悦びの

一つとも言える。

 

今日、実は

ある人のコーチングで

そんな瞬間を

迎えることができた。

 

嬉しかった。

 

・・・・・・

 

「一貫性」とは、

 

その人の

「願い」

「役割」

「能力」

「行動」

完全一致することで

高まるもの。

 

もちろんその要素の

一つ一つが

真本音に基づくもの

でなければ、

完全一致は

不可能だ。

 

一貫性の高まった

人は、

その人ならではの美しさを

高め、

それが他者に

影響を与え、

 

他者の一貫性までをも

高めていく。

 

他者の美しさまでをも

高めていく。

 

一貫性のある人達が

増えることで、

その組織も一貫性を

高めていく。

 

そしてその組織は

美しくなる。

 

美しい経営を

するようになる。

 

そんな人や組織が

増えることが

社会を美しくしていくと

私は考えている。

 

それは

遠い道のりか?

 

遠い道のりかも

しれない。

 

でもそれは

それでも

最短の道のりではないか、

私は思うのだ。

 

つづく

 

本当の自分の答えを

 

テレビもパソコンも

すべてを切って、

 

椅子に座って

目をつぶろう。

 

ゆったりと

リラックスして。

 

とは言え、

リラックスできない

場合は、

 

リラックスできない

自分の心を

見つめよう。

 

騒がしい心を

一つ一つ

丁寧に見つめよう。

 

見つめているうちに

それらはだんだんと

自分から分離していく。

 

無理にそれを

するのではなく、

自然にそうなるまで

見つめよう。

 

あぁだんだんと

落ち着いてきたな、

と思えたら、

 

改めて

深呼吸をしよう。

 

そして

こんなイメージを

してみよう。

 

自分の身体と

自分の心を

「一致」させるイメージだ。

 

身体の形そのものに

心の形を合わせるのだ。

 

それができたら

次は、

 

自分の魂も同じように

一致させよう。

 

つまり、

魂と心と身体が

身体の形として

完全に「一致」する。

 

という状態だ。

 

しばらくその一致感

を得ていると、

かなり「自分」が戻ってくる

はずだ。

 

もし可能であれば、

その「一致した自分」に

宇宙までもを

一致させてみよう。

 

宇宙のすべてを

自分の身体の形に

一致させる。

 

無理にやらなくても

いい。

できるようならね。

 

この状態で

ゆっくりと自然に

呼吸を続けながら、

 

「我に返れたな」

 

と思えたら、

しばらくはその自分を

楽しみ、

 

楽しんだら、

自分に問うてみよう。

 

「私は本当の私として

今、生きているだろうか?」

 

「私が本当の私として

一日一日を生きるために

修正すべきことは

何だろう?」

 

「私が本当の私として

一日一日を生きるために

もっと大事にすべきは

何だろう?」

 

もちろん、

その他の問いを

投げてもいい。

 

ゆっくりと

本当の自分の答えを

確認してほしいな。

 

つづく

 

きっと荒治療だよ

 

とても変な表現で

申し訳ないが、

あえて観たままに

書かせてもらうと、

 

本当に成長意欲、

進化意欲のある人と

向き合っていると、

 

時々であるが、

 

その人が

その人の本質では

(実在では)

まるでコマのように

凄まじい回転をし続けている

ことがある。

 

そんなに回転して

どうすんの?

思わず訊きたくなるのだが、

 

当然のことながら、

本人にその自覚は

ない。

 

ただ、

そのように高速回転している

その間は、

本人は何も見えなく

なっている。

 

「何も見えなくなっている」

のその意味は、

 

「これまでの自分の見方

ができなくなっている」

 

ということだ。

 

つまりは、

物事の捉え方、

解釈の仕方、

判断の仕方が

 

その人がずっと

培ったそれら諸々が

 

まったく機能しなく

なっている

ということだ。

 

それは必然的に

その人自身に

原因のわからない

不安定感を

もたらす。

 

そして、

いつもならば

自分で決められることが、

なぜだか

迷い続けてしまったり、

 

明晰な考えが

出なかったり、

 

ある時は、ボーッと

してしまったり、

 

そんな自分に

苛立ったり、

 

・・・というような「症状」

理由のわからない

ものとして

本人に自覚される。

 

で、

「最近、なんか調子が

悪いんですよね」

という話になる。

 

しかしその

本質的な原因は、

その人の本質(実在)の

高速回転

である。

 

なぜそんなことを?

とよく思うのだが、

しかしそれはやはり

わざとやっている。

 

本人の意志で

やっている。

もっとも

無意識にだが。

 

結局、

そこまでのことをしなければ、

我々は

過去の自分や

これまでの経験や

これまでに培ったあらゆるものを

手放すことが

できないのだ。

 

そこから自由になる

ことができないのだ。

 

だから恐らくそれは

荒治療だ。

 

自分を次の次元に

一気に高めるための。

 

次のステージに

一気に突入するための。

 

だから。

 

原因のわからない

不安定感に

悩まされる人は

逆に

あまり深刻にならない

方がいい。

 

それよりも

今自分は、

とてつもない荒治療を

しながら、

自分を進化させようと

しているのだと

 

そんな視点で

自分を見つめてみると

いい。

 

つづく

 

もっとしっかり感じ取ろう

 

自分の心の揺れ

と、

 

世の中の揺れ

を、

 

それぞれ別個に

あるがままに

感じ取ってみよう。

 

その二つは、

どのような関係に

あるだろうか?

 

私達は、

 

内側の揺れ

外側の揺れ

二つの揺れの狭間で

生きている。

 

二つの揺れに

常に迫られながら、

次の自分の一歩

決めている。

 

人生を生きる

というのは

そういうことなのだが、

 

内側の揺れ

外側の揺れ

混在しながらも

区別がつかなくなる

ところから

 

私達は

「わけがわからなく」

なる。

 

わけがわからなく

なった状態で

次の一歩を決めるよりも、

当然、

わけがわかった状態で

決めた方がいい。

 

そのためには

まずは

「観察」だ。

 

両方の揺れを

観察することだ。

 

人生の始まりは

「観察」

だ。

 

・・・・・・

 

内側も外側も

両方すべてを

観察しようとする時、

 

つまりは、

あるがままに

捉えようとする時、

 

その

捉えている自分が

両方の揺れから

「分離」する。

 

そこまで

観察できると

いい。

 

逆に言えば、

そこまで観察できない

からこそ、

私達は混乱してしまう

のだ。

 

徹底的な

観察だ。

 

徹底的に

あるがままを

見つめるのだ。

 

「あるがまま」

とは、

評価も判断も解釈も

何もしない

ということだ。

 

見えるものを

ただそのままに

見る。

 

聴こえるものを

ただそのままに

聴く。

 

感じるものを

ただそのままに

感じる。

 

慣れないうちは

かなり難しいだろう。

 

でもぜひ

やり続けてほしい。

 

「分離」が

できるまで。

 

・・・・・・

 

とは言え、

無理な分離は

してはならない。

 

自然な分離で

あることが大事だ。

 

自然な分離に

なるためには、

 

徹底的に、

見て、聴いて、

感じる

しかない。

 

辛いものも

徹底的に

その辛さを

感じるのだ。

 

それは当然

とてつもなく辛い

かもしれないが、

 

でも

逃げずに、

徹底的に。

 

そして

自然な「分離」が

訪れる時、

 

初めて

本当に観える

ものがある。

 

本当にわかる

ことがある。

 

その時に

実感できるのだ。

 

なんだ、

そうか。

私は最初からすべてを

わかっていたじゃないか。

 

・・・とね。

 

つづく

 

考え過ぎるな

 

人を傷つけないように

生きよう。

 

とすればするほど

知らないところで

人を傷つけていた。

 

あるがままで

生きよう。

 

とすればするほど

知らないところで

人を愛せていた。

 

人は

面白いものだな。

 

・・・・・・

 

私達の前には

必ず道があり、

 

そこをただ淡々と

進めばよいだけなのだが、

 

なぜか

余分なことばかりを

してしまう。

 

そして結果として、

余分なことばかりが

起こる。

 

何をしても

何をしなくても

 

道はそこに

あるのに。

 

ただそこを

進めばよいだけ

なのに。

 

・・・・・・

 

日が昇れば

活動をし、

 

夜が訪れれば

休めばいい。

 

嬉しい時には

笑えばいいし、

 

悲しい時には

泣けばいい。

 

やれないことを

やれない、と

悩むよりも

 

やれることを

一つずつ

丁寧に

やればいい。

 

進むことを

望むならば、

 

一歩ずつでも

足を前に出せば

いい。

 

隣の人と

笑い合いたければ、

 

隣の人に

こちらから

笑いかければいい。

 

一人になりたければ、

一人になればいい。

 

共に進みたければ、

共に進めばいい。

 

・・・・・・

 

海の風に

吹かれたければ、

 

海に行けばいい。

 

それなのに、

なぜか人は

山に行ったりする。

 

そのまま

 

その気持ちのまま

 

でいいのに。

 

自らを

物事を

評価したり

解釈するよりも、

 

私達には

できることがある。

 

したいことがある。

 

すべきことがある。

 

それを

そのまま

すればいいよ。

 

それが

自分

でいることだ。

 

つづく

 

そんなに壊しちゃうの?

 

成長には

2種類ある。

 

自分の枠内での

成長と、

 

自分の枠を壊す

成長だ。

 

一般的な成長とは

ほとんどが

前者だ。

 

本当の意味で

後者を行なう人は

わずかだ。

 

なぜならここは

他者の力や支えの

及ばない場所だから。

 

そこは、

本人の意志と意思と

覚悟のみで

決まる場所だから。

 

しかもそこは、

あまりに強い

恐怖と不安と不安定の

場所だから。

 

私はこの仕事を

させていただく中で、

なんとかして

後者の成長のサポートが

できないものか、と

試行錯誤して来た。

 

現時点での

結論は、

 

「できない」

 

だ。

 

自分の枠を壊す

その直前までは

サポートできる。

 

しかし最後の一歩は

本人が

「一人で」

越えねばならない。

 

現時点での私は、

そこを「一人で」越えること

そのものが

人間としての尊厳であると

思っている。

 

だから、

もしたとえ何らかの

サポート方法が見つかったと

しても、

そこは他者が

手をかけてはならないのだと

思っている。

 

でも、

であるが故に

私は祈る。

 

自分の枠を

その人が自ら壊し、

本来の自分を

取り戻せますように。

 

そして、

その人が本当に望む

人生の役割を見出し、

それを全うできますように。

 

これが私の

祈りだ。

 

ところが。

 

今の若い人達の

中には、

果敢に後者の成長に

向かう人が

増えて来た。

 

ある意味、

無茶とも言えるし、

無謀とさえも言える、

そんな勢いだ。

 

しかしなぜ彼らが

それをするかと言うと、

そこには

目を見張るほどの

使命感がある。

 

自分の決めた

自分の使命を

何としてでも果たすのだ、

という

人生への覚悟がある。

 

逆に私は

そういう人達をみると、

 

ちょ、ちょ、ちょっと

待って。

大丈夫?

もう、その辺で

やめておけば?

 

と、

ついつい言ってしまう

くらいだ。

 

しかしそんな私の

助言などには

一切構わずに、

彼らは、進む。

 

枠を

次々に壊していく。

 

さすがの私も

感動する。

 

すげーな、

人間って!

 

改めて感嘆する。

 

私のすべきことは、

それだけの覚悟と

勢いを持った

彼らを、

 

彼らが

自らのエネルギーに

呑まれてしまわないように、

 

彼らが本当に

自由に進めるように、

 

他者だからこそできる

最大のサポートを

し続けることだと、

つくづく

思ったよ。

 

つづく

 

ここが、スタートラインだ

 

私達は常に

スタートライン

に立っている。

 

道はこれまでも

続いて来たし、

 

これからも

続いて行くが、

 

その一つ一つ

一歩一歩が

本質的には

 

スタートライン

である。

 

常に、

 

いつ何時も、

 

ゼロからの

スタート

 

だ。

 

この本質を

掴めたとき、

人生は、

根本的に変容する。

 

いや。

 

変容、というよりも

やはり最も的確なのは、

 

本来に戻る

 

ということかな。

 

つまり、

私達は

常に

「ゼロ」にいる。

 

すべての一瞬一瞬

が、

「ゼロ」なのである。

 

ということは、

私達は

本来は、

 

完全に自由

 

だ。

 

これを理屈として

捉えようとすれば

わけがわからなくなるが、

 

理屈ではなく

「感覚」として

捉えるといい。

 

するとこれは

「当たり前の真理」

として

私達の眼前に

屹立する。

 

その「当たり前」と

常に向き合いながら

人生の歩を進めることが

 

真本音で生きる

 

ということだ。

 

そんな人が

増えれば、

組織は

社会は

世の中は

 

一瞬にして

次元を高めることが

できると思う。

 

過去が原因となって

起こる混乱は、

これからも

起こり続けるだろう。

 

しかしそれに

揺らされることなく、

常に「ゼロ」から

 

今ここから

 

スタートし続ける。

 

そんな生き方を

していこう。

 

つづく

 

やはりここで決まるな

 

人の影響力は

どこで決まるかと

言えば、

 

その人が

その人自身の

本来の在り方

本来の生き方

できているかどうか?

 

である。

 

もちろん

これだけでなく、

様々な要因は

あるだろうが、

 

これ以上の

要因はない。

 

本来の在り方。

 

本来の生き方。

 

これができている時と

そうでない時とでは

その人自身が醸し出す

空気感が

 

根本的に

変わる。

 

だから、

たとえ同じ言葉を

口にしたとしても、

人への伝わり方は

雲泥の差となる。

 

例えば、

「これをやろうよ!」

みんなに提案したとして、

 

それによって

みんながどれくらい

共鳴してくれるかが、

雲泥の差となる。

 

他者への影響力の

違いは、

人生の展開の違いに

直結する。

 

本来の在り方

本来の生き方

できているかどうか?

 

は、

人生展開を

大きく左右する。

 

だからまずは

ここから

始めることが

最も重要だ。

 

・・・・・・

 

肚が座っている人

座っていない人

 

という

言い方もできる。

 

肚が座っている人

とは、

自分の本来の在り方と

生き方の

できている人だ。

 

多少のことでは

動じない、

 

あらゆる現実と

しっかりと対峙し、

常に最善の行動を

見出すことのできる

人とは、

 

本来の在り方

生き方の

できている人だ。

 

そして、

 

人から

本能的な信頼を

得られる人も。

 

本能的な信頼とは、

理屈ではないところで

「なんかあの人

好きだなぁ」

自然に思える信頼のことだ。

 

それはやはり

空気感によって

決まる。

 

それも

本来の在り方と

生き方が

できているかどうかで

決まってくる。

 

・・・・・・

 

自分は

何者か?

 

自分は

何のために

生きるのか?

 

自分が

どんな時も大事にしたい

理念は何か?

 

こういった

すぐには答えを見出せない

問いがある。

 

根本的な問い達。

 

そのような問いと

常に対峙し、

 

すぐには答えは

出なくとも、

それを探求・探究し続ける。

 

そんな人は

本来の在り方と

生き方に

徐々に近づいて行く。

 

人生とは

探求・探究である。

 

それを真摯に

やり続ける人こそが、

 

「本来」

を得られるのだ。

 

つづく

 

本性を現せ

 

自分の本性を出す

ことを

怖い、と感じる人は

多い。

 

本性は

出してはならないものだ

思っている人も

多い。

 

いかに本性を

理性で抑え込むか?

そして

その力と技を

高めることこそが

人としての成長である、と

思い込んでいる人も

多いな。

 

そう。

 

それは

思い込みである。

 

本性とは

隠すものでは

ない。

 

活かすもの

だ。

 

活かすための

唯一の方法は、

 

真本音度合いを

高める

 

ことだ。

 

真本音度合いが

高まれば、

その人の本性が

どのようなものであれ、

 

その本性は

活かされる。

 

その本性こそが、

その人の

魅力となって

発揮される。

 

いかに自分を

オープンに

できるか?

 

これが人生を

決める。

 

そんな危険なことは

できない、

思う人はやはり

多いだろう。

 

しかし

私達の真本音は

私達のあらゆる心を

活かす術を

知っている。

 

というよりも、

すべての心は、

 

そして

すべての本性は、

 

真本音が

自ら選んで設定

したものだ。

 

自分の本来の人生を

創り上げるために。

 

だから

恐れることはない。

 

ただし、

真本音度合いを

高めずして

自分をオープンにすれば、

 

それは

単なる我欲の塊と

なるだろう。

 

それでは逆に

本性は

活きない。

 

あらゆる人が

自らの真本音によって

自らの本性を

活かす世の中になれば

良いと、

私は思っている。

 

そしてそれが

私のサポートの本質

でもある。

 

これをすることで

実際に

組織は初めて調和を

始める。

 

社会も初めて

真の調和を

得られるだろう。

 

つづく

 

本来のビジネスへ

 

ある若い経営者の

コーチングを

している。

 

彼は本当に

ビジネスの力が

あり、

次々に成果を

上げている。

 

ビジネスが

好きなんだ。

 

事業を始めたり、

事業を変革したり、

事業を通じた影響力を

一気に高めたり。

 

側から観ていると

自由自在だ。

 

そんな彼が

「これまでの自分の

延長線上にはない

ビジネス展開をしたい」

言い出した。

 

そこから一気に

コーチングの次元が

変わった。

 

しかし実は私は、

彼からコーチングの依頼を

受けたその時から、

彼が、こうなることが

ありありと

わかっていた。

 

だってその時は、

本来の彼じゃなかった

から。

 

ビジネスの力が

あるだけで。

 

その力だけで

ビジネスをしていた

だけで。

 

そこにはまだ

本来の「願い」と

繋がったものは

なかった。

 

でもいずれ

つながる時が

来るだろう、と。

 

それだけ彼の

まるで赤ん坊のような

「素直さ」を

強く感じ取っていたから。

 

で、

次元の変わったコーチングで、

私は彼に

問うてみた。

 

あなたは一体

何者ですか?

 

何のための

人生ですか?

 

何のための

ビジネスですか?

 

と。

結構ダイレクトな

質問だね。

 

すると

即座に返ってきた。

 

「子供たちの

ためです」

と。

 

「今の子供たち、

そして未来の子供たちの

ために、

ちゃんとした社会を

受け継いでいきたいんです。

だから

子供たちがワクワク

するような社会にしたい」

 

とニッコリ。

 

その笑顔がまるで

本当に

子供のよう。

 

あ〜こりゃいかん。

 

彼に惚れ込んで

しまう。

 

と思った。

 

彼の本来の

ビジネス人生が

始まる。

 

・・・こんな若い経営者が

今、増えている。

 

楽しい時代に

なりそうだ。

 

つづく

 

静かな場所から来る

 

私達は現実世界の

中で

生きている。

 

だから

いろんなことが

降りかかってくる。

 

楽しいことばかり

ではない、当然。

 

嵐のようなことが

降りかかることも

ある。

 

現実世界から

嵐が降りかかれば、

心の中も

荒れる。

 

私の言葉で言えば、

 

反応本音が

大揺れになる

 

ということに

なるが、

 

そういうことは

ほぼ毎日のように

ある。

 

しかし。

 

私達の中には、

現実が

どれだけ荒れようが、

心も

どれだけ揺れようが、

 

決して

揺れない場所

がある。

 

何が起ころうとも

いつも

静か

な場所がある。

 

それが

体の中のどこかに

ある。

 

その場所を

見つけよう。

 

それが

真本音の場所

だ。

 

・・・・・・

 

そこはいつも

静かで

落ち着いている。

 

「落ち着こう」

という意思を持って

落ち着いた状態を保っている

のではなく、

 

何の努力も

何の意図もなく、

ただ最初から

静かで落ち着いている。

 

その場所を

見つけることができたら、

そこに

入ってみよう。

 

自分の意識を

そこに入れ込んで

みよう。

 

するとそこには

何があるだろうか?

 

私の場合は、

そこには

「海」

がある。

 

気持ちよく

スーッと遠くまで

広がる

水面がある。

 

海なのに

波は一つもない。

 

まるで

鏡のような

冴え渡った海。

 

そこに

舟が浮かんでおり、

私はその舟に

乗っている。

 

時には、

舟にも乗らず、

その水面や水中に

自分自身の全身を

浸している。

 

その「景色」の中に

いると、

スッと私は

「もとの自分」

「もともとの自分」

に戻ることができる。

 

・・・・・・

 

「直観」

とは、

 

ここから来る。

 

この、

静かな世界から

来るものだ。

 

私の場合で言えば

その「海」は

 

「答え」の

宝庫だ。

 

「海」は

すでにもう

すべてをわかっているし、

すべてを知っている。

 

過去も今も未来も

全部、

「そこ」にある。

 

だから、

今自分が何をすれば

よいか?

ありありとわかる。

 

その「答え」が

「直観」である。

 

真本音の発想

という

やつだね。

 

つづく

 

スタートは、開き直り、だ

 

どうせ雨に

打たれるならば、

 

その土砂降りの

中に飛び出し、

 

全身を

晒してしまえばいい。

 

雨から

逃げようとするから

余計に辛い。

 

諦めて、

全身をそこに

委ねてしまえばいい。

 

開き直り。

 

そう、

開き直りだ。

 

開き直ることで

初めて開く

道もある。

 

いや、

そんな道ばかり

かもしれない。

人生は。

 

・・・・・・

 

土砂降りに

全身を晒して、

 

目を瞑りながらも

上を向き、

 

大きな雨粒の

一つ一つを

味わおうとする。

 

すると案外、

その激しさこそが

気持ちよさ

かもしれない。

 

なんだ、

飛び出す前は

土砂降りほど

怖いものはない、

思っていたけど、

 

結構

気持ちのよい

ものなんだな。

 

と思えた瞬間に、

その人は

何かから開放された

感覚を得るだろう。

 

何かを一つ

脱ぎ捨てることが

できたような。

 

もしこれが面白いと

思えるようになれば、

その人は

次から次へと

脱皮する人生へと

人生の質そのものが

変貌していくだろう。

 

一つの脱皮から

次の脱皮への間隔が

どんどん狭まり、

 

毎日のように、

 

毎時間のように、

 

脱皮を続ける人

すら現れる。

 

そうなると次に

何が起こるかと言うと、

 

その人の周りの

人達が

多大なる影響を

受ける。

 

脱皮する人は、

その存在だけで

影響を与える。

 

つまりは、

周りの人達も

脱皮を始めるのだ。

 

だから、

 

組織においては、

たった一人の

開き直りと

脱皮が、

 

組織全体の

脱皮に繋がることは

多い。

 

実は私は

これを起こすための

サポートを

させていただいている。

 

組織とは

たった一人の

「開き直り」から

変わっていくのだ。

 

・・・・・・

 

そのたった一人の

ことを、

私は

 

『要』(かなめ)

 

と呼んでいる。

 

私のサポートとは、

「要」となりやすい人を

見出すこと。

 

そしてその「要」候補に

適切な刺激を

入れること。

 

そしてその人が

「要」としての脱皮を

始めたら、

それを適切に

周りに波及させること。

 

そして

次々に「要」を

増やしていくこと、

だ。

 

ここまで、

「組織」という言い方を

したが、

 

これを

「社会」と言い換えても

きっと

同様のことが起こるのだろう。

 

組織の要

となる人は、

社会の要

にもなり得るだろう。

 

そのための

新たな動きを

今週末から始めようと

思っている。

 

つづく

 

一言も喋らんぞ

 

みんな、

喋り過ぎだな。

 

余計なことを

言い過ぎだ。

 

もっと

黙っていれば

いい。

 

一度、お勧め

したいのは、

 

一日中、

黙っていよう

とすることだ。

 

誰といても

何をしていても、

 

たとえ

それが仕事であろうと、

 

何も喋らないと

決めてしまう。

 

もちろん

愛想を悪くする

必要はない。

 

頷いたり、

相槌を打ったり

笑顔を見せれば

よいのだが、

 

自分から

言葉を発することだけを

止めてしまう。

 

そんな一日を

過ごしたら

どうだろう?

 

実際、

それをすると

本当に一言も喋らないで

一日を終えることに

なるだろうか?

 

結論を言えば、

無理

である。

 

何だかんだ

言っても、

結局は何かを

喋ってしまう。

 

口が勝手に

動いてしまうのだ。

 

・・・それでいい。

 

それでいいのだ。

 

口が勝手に

動くまで

喋らないと決めて

いればいい。

 

・・・実はこの

一日の過ごし方。

私が

毎日やり続けている

ことである。

 

実は私は、

毎日、

今日は、何も喋らんぞ、

と決めている。

 

研修で講師をする時

でさえそうだ。

 

みんなの前に立っても

何も喋らんぞ、

決めているのだ。

 

そんな日々を

そうだな、

もうかれこれ8年は

続けている。

 

すると、

本当に必要な一言、

本当に肝心の一言、

のみを

喋る自分になるのだ。

 

私はこれで、

コミュニケーションに

調和が取れるように

なった。

 

人間関係が

とてもスムーズに

なったし、

 

私の言葉が

人に届きやすくなった。

 

受け取って

もらいやすくなった。

 

ただ、この方法、

私以外の誰かに

試してもらったことは

ほぼないので、

上手くいくかどうかは、

わからない。

 

でももし興味があれば、

試してみてください。

 

つづく

 

本当は、できて当たり前

 

今、

これをすれば

よいのだ。

 

という確信は、

本来は、

 

体と心と魂

 

が、

完全に一致した時に

現れる。

 

言葉として

表現すればそれは

どうしても

「確信」

ということになってしまう

のだが、

 

実は、それほど

大層なものではない。

 

よく言うことだが、

それは何かを

「思い出す」

感覚に非常に近い。

 

過去の出来事を

思い出す感覚だ。

 

「あぁあの時は

そうだったな」

と。

 

もしくは、

何か探し物の在処を

思い出すようなもの。

 

「あっそうだ、

あそこに置いたんだった」

と。

 

本当に

それくらいの

感覚だ。

 

ただしそれはもう

「過去」の

出来事。

 

つまりは、

事実として既に

揺るぎのないもの。

 

それであることが

当然であるもの。

 

寸分違わずに、

他の答えが入り込む

余地を

まったく与えないもの。

 

それくらいの

明確さで、

 

未来のことと、

今、自分が

すべきことが

 

「わかる」

のだ。

 

だからもう

寸分違わず、

他の答えはまったくもって

存在の余地なく、

 

「今、これを

しよう」

 

思えるのだ。

 

これが本来の

「直観」

だ。

 

そしてこの「直観」は、

人生において

数えるほどしか

現れないような

特別で神秘的なものでも

なく、

 

それは

日常生活において、

朝起きてから

夜寝るまで、

ずっと

現れ続けられるものだ。

 

なんなら、

24時間の自分の行動の

すべてを

この「直観」のみで

決めることすらも

可能だ。

 

それくらい

「普通」

のことだ。

 

むしろ、

「直観」によって

自分の行動を決めない、

ということの方が

「普通ではない」

気がするし、

「無理をしている」

とか

「不自然な生き方」

な気もする。

 

私達にとっては

やって当たり前の

もの。

 

それができていないのが

不自然なので、

その不自然さを

治さねばならない、

 

というのが

今の世の中の状態だ、

私は観ている。

 

本当は、

何も難しいことは

ない。

 

難しくしているのは

私達自身だ。

 

複雑にしているのは

私達自身だ。

 

それこそを

「思い出す」

必要が、

今の私達には

あるんだな。

 

つづく

 

呑み込まれそうだった

 

凄まじい「情熱」が

内側から

湧き上がってくる。

 

いわゆる

「やる気」で

全身が満たされる。

 

前に向かおうとする

エネルギーが

溢れ出ようとする。

 

全身全霊

という言葉がぴったりの

自分に

すぐにでもなれそうな

気がする。

 

怖いものが

なくなる。

 

何でもできるような

気がする。

 

全能感。

 

・・・今日、

久しぶりにこんな

感覚になった。

 

いわゆる

「幸せだなぁ」

という気持ちを

抱かせる状態であるが、

 

しかし私は

これが出た時には

 

すぐにその状態から

外れることに

している。

 

状態を無理に

変えようとするわけでは

ない。

 

ただ、

そこから外れる。

 

つまりは

客観的に自分を

見つめるのだ。

 

すると、

すぐにわかる。

 

あぁこのまま行くと

やばいな、

ということが。

 

「情熱」という名の

エネルギーに

自分は完全に

呑み込まれてしまって

いるな、と。

 

エネルギーそのものは

とても大事なものだし、

それが溢れるくらいに

高まることも

大事だ。

 

しかし、

呑まれては

ならない。

 

呑まれることで

観えなくなるのだ。

「現実」が。

 

それはつまり、

その瞬間から

「現実と向き合わずに

生きる」

ことになる。

 

それはつまり、

本質的には

「現実逃避」

何ら変わらないのだ。

 

当然、

真本音度合いは

一気に

落ちて行く。

 

だから私は、

自分自身のエネルギーに

呑まれそうになっている

自分を発見すると、

すぐに、

 

そのエネルギーを

凝縮させる。

 

エネルギーの高さは

そのままに、

 

全身を覆っている

それを凝縮し、

小さな光の球に

する。

 

かなりの

高密度の

エネルギー体だ。

 

そしてそれを

身体の中心部分に

大切に抱くようにして

据える。

 

すると、

全身がホカホカとして

温かくなる。

 

まるで

カイロを入れている

かのようだ。

 

こうすれば

「現実」は

はっきり観えてくる。

 

やれやれ、

となる。

 

中心に据えた

高エネルギー体は

高エネルギーなので、

しばらくはずっと

私の中におり、

私を温め続けてくれる

だろう。

 

それはとても

居心地の良いもの

だし、

それがあるが故に

私は疲れることなく、

いろんな物事に

取り組めるだろう。

 

これは

「冷静になれ」

とか

「冷静に生きろ」

ということでは

ない。

 

これをすることで、

自分のエネルギーの

コントロールが

効くようになる。

 

その結果、

ここぞ!という

本当に必要な

その瞬間に、

 

一気にそのエネルギーを

注ぎ込むことも

できる。

 

だからこれは

「冷静に生きる」

というよりも、

 

これこそが

「真剣に生きる」

ことなのだと

私は思っている。

 

つづく

 

見せてやれ

 

もし今、

「やろう!」

と思うことがあって、

 

でも

いざそうしようと

思うと

迷ってしまうことが

あるとすれば、

 

やるべきだ。

 

今は

やるべきだ。

 

迷ったときは、

一度止まって

じっくりと状況や

環境の様子を観る

ことが

大切な時もある。

 

しかし逆に、

どれだけ迷っていても、

今は進むべき

という時もある。

 

今は、

後者だ。

 

世の中的には

今は

動きづらいかも

しれない。

 

しかし

だからこそ

動かねばならない。

 

ここでこの

潮流を

止めてはならない。

 

あなたが

阻害しては

ならない。

 

まずは、

あなたのその

意志と意思を

 

あなた自身が

信じるべきだ。

今こそは。

 

そのために

ここまで

来たのだから。

 

あなたは今、

あなた自身を

試そうとしている。

 

次に行っても

良いかどうか?

 

次に行くだけの

自分に

なれたかどうか?

 

自分自身に

見せてやれ。

 

もう

準備完了だと

言うことを。

 

つづく

 

苦しいな

 

時々、

とんでもないくらいの

人の苦しみを

私は受け取る。

 

その人のコーチングを

終え、

駅に向かって歩いている

その時に、

 

その苦しみを

そのまま感じてしまうと、

 

立っていられなく

なる。

 

しかし街中なので

倒れるわけにも

行かず、

 

私は必死に

その苦しみと

対峙する。

 

阿鼻叫喚

と言える苦しみも

あれば、

 

絶望

と言える苦しみも

ある。

 

私はそれを

ただあるがままに

感じ取る。

 

何の評価も判断も

しない。

 

ただただ

そのままを感じ取る。

 

その人は

この苦しみと

ちゃんと対峙している

だろうか?

 

していないの

だろうな、きっと。

 

だからこそ

ここまでの苦しみに

育ってしまうのだ。

 

苦しみとは、

逃げれば逃げるほど

増す。

 

そして限界を超えると

麻痺をする。

 

麻痺をすれば

苦しまなくてもよいので、

さらに

その苦しみから

目をそらす。

 

すると、

本人の気づかないところで

それは増長を

続け、

 

結果としてそれは、

何らかの病気という

形で現れたり、

 

重篤な心の病として

現れたりする。

 

私の体質は、

その人のその苦しみを

そのまま感じ取ることが

できるので、

それがヒントとなり、

すぐさま

そうならないように

対処はできる。

 

対処はできるのだが、

逃げ癖を身につけた

その人は、

やはりまたもや

逃げるようになる。

 

そんな人が

多いのは

悲しい事実である。

 

・・・・・・

 

これまで

あらゆる苦しみと

対峙してきた。

 

命に関わる苦しみも

数知れず。

 

しかしそんな中で

一つ、

事実として

明確にわかったことが

ある。

 

それは、

 

その人の苦しみは

その人自身が

乗り越えることが

できる、

 

ということだ。

 

乗り越えられない

苦しみを

もつ人は、

 

一人もいない

のだ。

 

人は、

自分に乗り越えられる

苦しみしか

自分に

与えないのだ。

 

しかし、

実際には

乗り越えられない人が

いる。

その原因は、

「逃げる」

からだ。

 

苦しみから逃げれば

逃げるほど、

 

本当は乗り越えられる

その苦しみを

妄想によって

より大きなものに

してしまう。

 

ちゃんと対峙すれば

何とかなるものを、

本人が

何とかならないもの

として思い込み、

 

そして

崩れていく。

 

だから私は

言い続ける。

 

「逃げるな」

と。

 

「見つめろ」

と。

 

「向き合え」

と。

 

そうすれば、

何とかなるんだ。

 

つづく

 

単純なんだよ

 

光と闇が

もし目の前にあったら、

 

心が健康で

あれば、

 

光の方に

進んで行くよね。

 

しかしその光が

眩し過ぎる場合、

 

それが辛くて、

思わず光を避けて、

闇の方に進んでしまう

のも、

また人間だ。

 

じゃあ、

闇がまったくダメかと

言うと、

そういうわけでもなく、

 

闇に真正面から

立ち向かうことで、

その闇を突破し、

 

その向こうに

真の光を

見出す人もいる。

 

それもまた

人生。

 

先日、ある人から、

「人間の器というのは

振り幅の大きさだ」

というお話を聴いて、

 

なるほど、と

思った。

 

光しか知らない人

よりも、

闇も光も

両方共を知っており、

 

それでも進もうと

する人は、

 

確かに器が

大きそうだ。

 

とは言え、

あなたは光しか

知らないから、

バカにする気も

もちろんない。

 

・・・・・・

 

様々な人が

いる。

 

実に様々な人が

いる。

 

一口に「光」だ「闇」だ

と言っても、

 

その人その人で

光の中身は

違ってくるし、

闇の中身も

違ってくる。

 

それを個性と

言うのかもしれないが、

 

基本的に私は

あらゆる人の個性は

素敵だなと

思う。

 

いや、

思えるようになった。

 

今のこの仕事の

おかげだ。

 

昔の私は

人間嫌いだった。

 

まずもって

自分が嫌い。

 

本当に

嫌い。

 

だから、

人も嫌いだった。

 

でも、

この仕事のおかげで、

日々、

あらゆる人と向き合い、

 

あらゆる光と

あらゆる闇と

向き合いながら、

 

ある時、

スコーンっと

 

人が好きになった。

 

恐らく、

自分のことも

好きになれたのだと思う。

 

嫌いから好きに

なった瞬間から、

明らかに

人生の展開は変わった。

 

・・・・・・

 

無理に自分を

好きになる

必要なんてない。

 

あなたの中に

闇があれば

それでいい。

 

そこにあるものは

そのままでいい。

 

大事なのは

そこにあるものを

あるがままに

自覚すること。

 

光も闇も

そのままに

認めること。

 

そして、

 

光であろうが

闇であろうが、

 

今日これをやろう!

 

心に決めたことを

しっかり

やればいい。

 

人生は

いろいろあるが、

 

人生は

思っているよりも

ずっと

 

単純ではないか。

 

つづく

 

捨てる人

 

海を自由自在に

泳いでいた魚が、

 

突然に

鳥になってしまった

としよう。

 

これまでいた

海にはもう

いられない。

 

背に翼が生え、

海ではなく

空を飛ぶようになった。

 

これまでとは

まったく異なる自由を

手に入れたが、

 

何をどうしてよいのか、

わからない。

 

その戸惑いと

不安は

大したものだろう。

 

しかし

それをよくわかった

上で、

 

あえて、

 

魚であった自分から

鳥になろう!

という意志を持つ

人がいる。

 

増えている。

 

もしあなたなら、

それを

「無謀である」

止めようとするだろうか?

 

それとも

応援をするだろうか?

 

魚と鳥と、

どちらが優れているか?

ということではない。

 

魚から鳥になることが

進化するということ

・・・であるとも限らない。

 

ただ一つ言えることは、

それは

まったく別物になる

ということであり、

別の存在になる

ということだ。

 

別の存在として

生まれ変わる。

 

・・・ということだ。

 

それを望む人を

あなたは

応援するだろうか?

それとも

止めようとするだろうか?

 

ある意味これは、

「これまでの自分」を

捨てる、

ということでもある。

 

「手放す」レベル

ではない。

「捨てる」レベル

だ。

 

ひょっとすると、

その人がこれまでの

人生で培った

あらゆるものを

「捨てる」ことになるかも

しれない。

 

当然のことながら、

その人自身の心には

「捨てる」ことに対する

悲しみや不安や

言いようのない混乱が

生じることになる。

 

しかしそれでも

その人の真本音が

その「生まれ変わり」を

望んでいるならば、

 

私は躊躇なく

それを応援する。

 

どれだけ

その人自身の心が

傷ついたとしても、

 

その人自身の

真本音が望むことで

あるならば、

 

私はその真本音に

躊躇なく

歩調を合わせる。

 

それが、

私というコーチ

だ。

 

「捨てるべきものを

捨てる」

 

これをしなければ

本来の人生を進めない

人がいる。

 

それは

身の引き裂かれるくらいの

苦しみを伴う。

 

しかしそこを

越えなければならない

人が

確かにいる。

 

私は

そういった人達の

サポートをすると

決めている。

 

つづく

 

卒業おめでとう

 

私は職人だな、

と思う。

 

人と向き合い、

人が開花していく

様を

リアルタイムで、

 

その決定的瞬間

を、

向き合いながら

共に体験する。

 

それがやっぱり

最上の悦び

だから。

 

そして

サポートをさせて

いただいている皆さんが、

 

私のサポートから

卒業して

旅立っていく。

 

自ら決めた道を

自ら拓いていく。

 

その後ろ姿の

逞しさと

晴れやかさを

リアルタイムで

体験した時はいつも

 

自分が

失われてしまうのでは

ないかと思うくらいに

私は

嬉しさの塊となる。

 

そんな自分自身の

在り様を

客観的に眺めると、

 

あぁやはり私は

職人だな、と

思うのだ。

 

とは言え、

私は、単なる職人を

超えていかねばならない。

 

なぜなら、

職人のままの自分で

在り続ければ、

 

私のビジョンは

達成できなくなる

から。

 

できれば

このままの延長線上で

進んでいきたいなぁ、

 

それは幸せだろうなぁ、

 

と思うのだが、

でもやはり

それは私の願いでは

ない。

 

私の本来の人生では

ない。

 

今日、

ある講座が完了し、

受講生の皆さんが

卒業されたのだが、

 

私自身もまた

これまでの自分を

改めて

卒業しよう、と

 

決意したんですよ。

 

つづく

 

あるがままで進んでみよう

 

成長意欲を

持つこと自体は

とても尊いことだが、

 

みんなちょっと

「自分を変えよう」

し過ぎな気がするよ。

 

例えば、

「私は人を信じる

ことができないのです」

という人がいた。

 

その人は、

「だからまずは

人を信じる自分に

ならねば」

と考え、

努力をされていた。

 

それ自体は

尊いことだと思うが、

 

結局はなかなか

そんな自分を変えることは

叶わず、

 

というよりも

その努力をしようと

すればするほど

空回りし、

 

ずっと同じ場所で

足掻き続けることに。

 

何度も言うが、

その努力自体は

尊い。

 

しかし

次のように考えることも

大事だと

私は思うんだ。

 

つまりは、

 

「こんな私を

私はどう活用しようか?」

 

と。

 

人を信じることの

できない自分を変える

 

のではなく、

 

人を信じることの

できない自分を

どう活用するか?

 

ということだ。

 

そんな自分だからこそ

何をどうすれば

よいか?

 

そんな自分だからこそ

できることは何か?

 

そんな自分だからこそ

逆に

大切にできることは

ないか?

 

という

発想である。

 

そして、

何か思いつくことが

あれば、

それを早速

実行に移してみる。

 

すると、

今の場所から

少しは進むことが

できるだろう。

 

少しでも進めたら、

景色は変わる。

 

違った自分や

違った展開が

観えてくる可能性も

ある。

 

つまり私は、

すべての始まりの

基本は、

 

「存在承認」

 

だと思うのだ。

 

「そこにあるものを

そのままに

あるがままに

その存在を

承認する」

 

こと。

 

その

「あるがまま」

どのように活かせば

よいかを

発想すること。

 

自分を

変えることよりも、

 

自分の場所を

変えてみること。

 

一歩でも

進んでみること。

 

そんなところから

始めてみることを

オススメするよ。

 

つづく

 

現象は現象だ

 

今の世の中は、

 

今の私達は、

 

「現象」に

揺らされ過ぎだな。

 

ちょっと何かが

起こると、

大きく

右に揺れたり

左に揺れたり

上に揺れたり

下に揺れたり

 

いつも

騒がしい。

 

ポンっと

ちょっと肩を

叩かれたくらいで、

 

飛び跳ねるように

驚く。

 

常に何かに

ビクビクしている。

 

過剰反応。

 

その連続の

ような生き方と

行き方。

 

脆弱だな、

と思う。

 

「現象」に

振り回され、

「現象」が

すべてであると

思い込んでいる。

 

すべての「現象」には

本質があり、

その本質のことを

「実在」と言うが、

 

もう少しみんなが

「実在」を

感じ取れるようになれば、

 

世の中はもっと

平和であり

調和するのになぁ、

 

私達の生活の

一歩一歩は、

 

日常の

一挙手一投足は、

 

もっと

地に足のついた

安定したものに

なるのになぁ、と

よく思う。

 

右往左往して

何も見えなくなるよりも、

 

しっかりじっくり

物事の展開を

見つめ(観察し)、

 

本当に

「こうしよう」と

迷いなく思える事柄

のみを

行動に移す。

 

その連続で、

すべてが

調和するのになぁ。

 

「現象」に

捕らわれるということは、

 

目を瞑ったままで

走るのに等しい。

 

それは

危険だ。

すぐに転ぶし、

すぐに何かに

ぶつかるよ。

 

物事の

「実在」を、

本質を感じ取れば、

 

私達は常に

ちゃんと目を開いた

状態で、

 

今、

何をすればよいかが

しっかりわかる。

 

何をすれば

よいか。

 

何をしては

ならないか。

 

それはすべて

「直観」として

わかる。

 

答えはすべて

私達の中に

ある。

 

外の情報は、

その答えに行き着く

ための

きっかけに過ぎない。

 

もっと

落ち着いて

生きよう。

 

「直観」とは

落ち着いた人から

発せられるものだし、

 

「直観」に基づき

生きることで、

その人は

落ち着いて進むことに

なる。

 

思いつきと

直観は違う。

 

右往左往するのは

単なる思いつき。

 

直観はもっと

静かな

ものだ。

 

静かで

とてもエネルギーが

高く、

 

あたたかく

安らぐ

ものだ。

 

つづく