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これは私だけに
限ったことかな?
私は、
「ながら時間」
というのが
かなり苦手だ。
つまりは、
○○をしながら
△△をする、
という
時間の使い方。
一見、効率が
良さそうで、
しかし私は
生産性が極度に
減退すると
実感している。
私だけかな?
私は、
『一つを決めて、
一つをする』
というのを、
時間の使い方の
基本にしている。
今は
何をする時間か?
今は
何のための時間か?
今は
何をしてはならないか?
今は
何を手放す時間か?
というようなことを
はっきりくっきりと
決めている。
常に。
こう書くと、
「面倒だなぁ」
とか
「真面目すぎだよ」
と
思われるかな。
いやぁ、
私はまったくもって
こっちの方が
楽だと思っている。
なぜなら
一つに集中することで、
発想の
広さも深さも
100倍くらい変わる
からだ。
だからもし、
「ながら時間」で
同じことをした場合の
100分の1の時間で
それを完了できる。
これ、実は
大袈裟な表現では
ない。
以前は私は
「ながら時間」こそが
効率性を高めると
思っていたので、
そればっかり
やっていたが、
その当時の私は
睡眠時間もほぼないし、
休日もまったくない
日々だった。
でも今は、
当時、一週間くらい
かけて悩んで
導き出していた答えを、
下手をすると
10分くらいで
出せるようになった。
今、これを
やればいいんだ。
と
真本音で決めたことを
する
という習慣化は
それくらいの
生産性を
掘り起こしてくれる。
そしてもう一つ
良いことがある。
それはこのブログでも
よく書かせていただいた
『完了感』
だ。
完了感とは、
「これについては
今、ここで完了したな」
という
確信を持った感覚
のことだ。
一つを決めて
一つをする、
というやり方を
大事にすれば、
この完了感が
非常にわかりやすく
なる。
完了感が出たら、
私はその仕事が
途中でも、
それをやめてしまう。
じゃあ
その仕事は
終わらなくなって
しまうじゃないか?
と思われるかも
しれないが、
もちろんそうではなく、
また別の時間に
「続きをやろう」
と自然に
思える時が来る。
そしてそこで
再びその仕事を
始めれば、
一気に
カタがつくのだ。
人間の集中力は
限られている。
であれば、
最大の集中力を
出せるように
すること。
それが
時間活用の基本
だと私は
思っている。
つづく
「明日」という
一日が
当然のようにやってくる
と私達は
思っているが、
本当にそうだろうか?
と私は
よく思う。
今日までと
同じ明日が来る
という
保証はない。
しかし、
まるでその保証が
あるかのように
私達は思い込む。
それだけ
平和なのだと
言えばそうであるが、
悪い言い方を
すれば
「惰性で生きる」
状態に
私達は入りやすい。
しかし本当に
その「惰性」を
私達は
望んでいるのだろうか?
もちろん人間は
これまでと同じ日々が
続くことで
安心する。
コンフォートゾーン
という言葉もあるが、
一度、安心安定を
感じてしまうと、
そこから抜け出ることは
なかなかに
難しい。
ただしそれは
心で言えば、
表面的なものだと
私はいつも
感じる。
「惰性」が生み出す
不安定さに
どれだけの人が
気づいているの
だろうか?
私達は
「惰性」、つまりは
何も考えずに
慣性の法則のように
進むことで、
本当は
不安を蓄積させる。
例えば幸せな
日々が続いたとして、
この幸せは
本当にずっと
続くのだろうか?
と
どこかで不安に
おののく。
そして
いつの間にか
「この日々を
ずっと守りたい」
と思うようになる。
それ自体は
大切なものだが、
しかしその気持ちは
多くの場合、
「今の日々」
「今の毎日」
への
執着になってしまう。
その「執着」に対して
私達の心は
とてつもなく
不安定になるのだ。
「執着」とは
依存。
「依存」とは
何かに寄りかからないと
生きていけない状態
だ。
それはつまり、
「私は自力では
立てない」
ということ。
もちろん人は
皆で助け合いながら
生きるものだが、
「自力で立てる」
という基盤の上での
助け合いと、
「寄りかからないと
生きていけない」
という状態での
助け合いは、
本質的には
まったくの別物だ。
私達の真本音は
そういった
「依存」や「執着」を
まったく
望んでいない。
本当には望んで
いないことを
やり続けることで、
私達の中には
「そんな自分で
良いのか!」
という、
罪悪感、つまりは
自分を責める気持ちも
発生する。
これがまた、
不安や不安定さを
生み出す。
「明日も今日と
同じ一日が来る」
というのは
もちろん
思い込みだ。
私達は明日、
人生を終えるかも
しれない。
あらゆる状況が
一変するかも
しれない。
別に脅すつもりは
ないし、
悲観的になれ、
ということでも
ない。
ただ言いたいのは、
私達はもっと
自分の「毎日」を
愛した方が
よいのではないか。
ということだ。
自分の「時間」を
自分の「人生」を
自分の「命」を
もっと
愛した方が
よいのではないか。
私達は
本当に自分の
愛する人には
常に自分の
意識を注ぐ。
それと同じように、
自分の時間、
人生、命、
そして、
今日という一日、
明日という一日、
に
もっと意識を
注いだ方が
よいのではないか。
人のサポートを
させていただく
中で、
そして
企業サポートの
現場で、
いつも私は
そう思う。
もっと
自分を生きよう。
それは、
時間を愛する
ところから
始まる。
つづく
新しい何かを
始めようとした時、
必ず
その中心となる
人がいる。
その人が
どのような人か?
によって
そこから生まれる
世界(ワールド)は
大きく変質する。
誰がいいか?
ということよりも、
今は
どんな世界(ワールド)を
ここで創りたいか?
が非常に
大事だ。
もしあえて、
今は
誰がいいか?
から決めたい
場合は、
一人一人、
この人が、
もし中心になったと
したら?
とイメージし、
私達の心の奥
が、
しっくりするか
どうか?
という「感覚」で
中心となる人を
決めることを
オススメする。
やはり、
感覚は
大事だ。
感覚が、
最も的確な判断に
つながる
場合は多い。
ただし、
感覚を感覚の
ままで、
曖昧なままで、
放置しておいては
ならない。
なぜこの感覚が
生まれるのか?
この感覚の
意味は何か?
この感覚は
どのような未来を
象徴しているのか?
などを、
しっかり皆で
考え合うことが
とても大切だ。
そういったことを
語り合える
チームや組織は
本当に
楽しいね。
つづく
あぁそうか。
私はこの出会いを
一つのきっかけに
するのだったな。
これを一つの
合図とし、
私は新たな波を
始めるのだったな。
その波は
顕在意識のレベルの
自分の頭には
まだ漠然と
したものであるが、
しかし、
私の心の奥の
方には、
もうすでに
確固たるものが
出来上がっている。
この感覚。
出来上がって
いることを
思い出す感覚。
何となく
久しぶりだ。
この感覚を
味わい、
いざ、
さぁ始めよう!
と思えた時に、
ちゃんと始められる
自分でいること。
いつでも
始められる準備を
整えておくこと。
自分自身を
整えておくこと。
本来の自分を
開花させて
おくこと。
そのための
約50年だったな。
ちゃんと
歩いてきて
よかった。
もちろん
回り道はたくさん
あったけど、
しかしそれらも
すべて
糧にしながら、
こなす
のではなく
不器用に
ぶつかりながら、
その一つ一つの
痛みを
大切にしながら、
ちゃんと生きてきて
よかった。
ちゃんと
始められる自分に
なれていて
よかった。
さぁ。
ここから何を
始めるか。
自分の中で
決めていることを
ゆっくりじっくりと
顕在化して
行こう。
準備が
できたからこその
出会い。
人生は
本来は
それに溢れるものだ。
多くの人が
そうなるといいな
と思う。
そして私自身も
そういった出会いを
静かに長く
大切にしたいと
思う。
つづく
「時間」とは、
削るものでは
なく、
創るものだ。
今日一日を
どのような一日に
するのか?
その問いに
真摯に向き合い、
だから私は今日、
・これをする。
・これをしない。
と、
完全に決めるのが
私の一日の始まりの
日課だ。
「完全に決める」
とは
「真本音で決める」
ということだ。
真本音で決める
ためには
心を落ち着かせる
必要がある。
朝起きた瞬間から
バタバタと
何も考えずに
一日を始めてしまうと、
もうその時点で
その一日は
雑なものになる。
朝一番で
「今日は雑な一日に
するぞ!」
と決めている
ようなものだ。
それはつまり、
「私は私の人生を
雑なものにするぞ!」
と
決めていることに
等しい。
そんな人に
望む人生や
望む現実が
起こるはずがない。
昨日、
初めてお会いした
ある経営幹部さんは、
「私は何のために
生まれてきたのか?
を
毎日考えることに
しています。
もちろん、答えは
出ません。
本当に出るときは
人生を終えるときだと
思います。
それでも私は
そう自分に問いかける
ことに意味があると
思っています」
と言われていた。
いいなぁ、
と思った。
何のための
人生か?
何を目指して
いるか?
何が課題か?
今は何と
真剣に向き合うべきか?
私は本当は
何をしたいのか?
それらの問いを
落ち着いた心で
しっかりと
自分に投げる。
実はこれをするのは、
私の場合、
朝だけに
限ったことではない。
一日中、
ずっと自分に
問いかけ続けている
かもしれない。
だから
一日の内で
何度も何度も
リセットする。
原点に
戻る。
これをしていると、
常に私は
揺るがない私に
なれる。
揺るがずに
地に足をつけて
「では、今からは
どんな時間を
創ろうか?」
と決める。
そうすると、
自分の望む以上の
「時間」が
現れる。
生きることの
幸せと
充実感を
得ることが
できるのだ。
つづく
ある一つの物事を
考えている時、
特に
迷ったり悩んだり
している時、
私は心の中から
浮き上がってくる
あらゆる
「こうしたら
良いのではないか」
という発想を、
次々と
手放すことを
する。
「これはなかなか
良い発想だな」
と思っても、
思いついた瞬間に
手放している。
それをしていると、
ある瞬間から
まるでダムが
決壊したかのように、
心の奥底から
発想の波が
溢れるようになる。
しかし、
それすらも
一つ一つすべて
手放し続ける。
なぜそんなことを
するかと言うと、
これだけ徹底的に
発想を手放すと、
それでも最後に
一つだけ
必ず残る
発想があるからだ。
それは、
手放そうと思っても
手放せない。
いや、
正確に言えば、
手放そうと思う前に
もう、
「あっ、これが答えだ」
と、
まるで「思い出す」かの
ように
わかるからだ。
そこに
迷いとか、
決めるための覚悟とか、
何もない。
ただ、
「あぁこれが答え
だったな」
と、
まるで宇宙の真理に
たどり着いたかのような
確信と安堵感が
ある。
ちょっと
大袈裟な表現かも
しれないが。
そして私は
その答えの通りに
動くのだ。
これをすれば、
人生において
後悔する
ということは
完全になくなる。
その答えの通りに
動いたからと
言って、
自分の意図した通りの
結果が出るとは
限らない。
しかし間違いなく、
道は
できる。
そして
間違いなく、
願いも祈りも
実現する。
結果的には。
だから私は
いつも思う。
「手放す」力が
必要だと。
極端に言えば、
「手放す」ことが
できないが故に、
皆、
止まってしまうのでは
ないか、とも
思う。
手放すのは、
つらいかな?
手放すのは、
もったいない気が
するかな?
いや。
手放すからこそ
手に入るものが
ある。
いや。
そういうもの
ばかりだ。
だからあえて
言うんだけど、
手放さないと
もったいないよ。
つづく
人の放つエネルギー
は、
中途半端だと
キツい。
それは
エネルギー
というよりも、
単なる「圧」のように
感じられる。
せっかくの
エネルギーが
「人を圧するため」に
作用してしまう。
そうなると
周りの人達は
必然的に
イエスマン
になる。
人を圧するエネルギー
は怖い。
そのエネルギーからは
誰もが
逃げたくなる。
離れたくなる。
気がついたら
周りに誰も
いなくなっていた。
・・・イケイケどんどん
の人の多くは
そのような結末に
なりやすい。
すべては
中途半端なエネルギー
の作用だ。
・・・・・・
中途半端なエネルギー
は、
中途半端な志
から来る。
その志は
残念ながら
本当の志ではない。
多くは、
志のふりをした
自己顕示
であったりする。
もしくは、
志のふりをした
承認欲求。
要するに、
自己愛の形。
自分が可愛く、
自分のために
「まわりのため」の
ふりをしている。
ちょいと
言い方がキツい
かな。
でもあえて
事実のみを言えば
そういうことだ。
かつての私も
そうだったので、
よ〜くわかる。
・・・・・・
真本音の志。
これはみんな
持っている。
たとえまだそれが
明確でなかったと
しても、
そこに気づき
そこに向かえば、
その人からは
本来のエネルギーが
放たれるように
なる。
本来のエネルギーは
最初はまだ
微弱かもしれない。
しかしそれは
「中途半端」
ではない。
中途半端とは、
量のことでは
ない。
エネルギーの
質のことだ。
純粋な
エネルギーかどうか?
だ。
本来のエネルギー、
純粋なエネルギーは
もちろん時には
それが明る過ぎて
一見すると
人を圧してしまうかも
しれないが、
それはあくまで
表面的なこと。
本来のエネルギーとは
愛そのものでも
ある。
それは
実在のレベルでは
人をあたたかく
包み込む。
そんなエネルギーを
放つ人と
向き合うと、
私は一瞬で
その人とつながる感覚を
得ることができる。
もちろん最初から
そういったエネルギーを
発している人は
稀だ。
しかし
ある時ある瞬間に
突然、
中途半端なエネルギー
が
本来のエネルギー
へと
変換される。
それは
予測できない場合が
多い。
突如として
変質するのだ。
もちろんその
理由の大本は
真本音で生きる
ことだ。
・・・・・・
私が、組織において
「要(かなめ)」
と呼ぶ人達は、
そういった
本来のエネルギーへの
変質が
起こりやすい人の
ことだ。
そういった人は
どの組織にも
必ずいる。
社長が
「いや、ウチには
いないよ、絶対」
と言われても、
これまでいなかった
試しがない。
そういった
「要」になる人を
見つけるのが
「コーチ」である私の
役割だ。
今日、
ある会社の
思わぬ人が
「要」として
浮上した。
急浮上。
それがとても
嬉しかった。
人は
変わるものだ。
つづく
ある物事に対して
もし
言い訳の心が
浮き上がるとしたら、
自分の心は今、
整っていないのだな。
と
認識するとよい。
とは言え、
言い訳はダメ
だから、
言い訳は
しない!
と、
気合いを込めて
言い訳を止める
のも
ダメだ。
自然に
湧き出る心を
ただ
あるがままに
見つめてほしい。
その上で、
言い訳が
たくさん浮かぶ
ようなら、
まずは
心を整えるところから
始めた方がいい。
言い訳とは
合図だと
思えばいい。
「自分の軸が
ない」
という
合図だ。
本当は
すべての人に
「軸」
はある。
しかし、
それを忘れているか、
無視をしているか、
もしくは
その軸から
ズレた発想や行動を
しているか。
もちろん
軸なんて
考えたこともない
人もいるだろう。
たとえ考えたことが
なくても、
すべての人は
しっかりと
自分の軸を
持っている。
でなければ、
この世に
生まれることが
できない。
軸とは
生まれた時から
備わっているものだ。
軸を思い出すには、
「軸を作ろう」
としてはならない。
まずは
自分のすべての心、
あらゆる気持ち達を
観察することが
スタートだ。
そのためには、
何もせず
静かに自分と
向き合う時間を
創らねばならない。
現代人は
自分と向き合う
時間が
少な過ぎる。
そういった時間を
創る努力をせずに
「望む人生」も
へったくれもない。
何もしない
時間。
ただ静かに
目を閉じて、
移ろいゆく
自分の心に
目を向けるだけの
時間。
たとえ10分でも
いい。
そういった時間を
持つことが、
すべての始まり
だと
私は思う。
つづく
私達はいわゆる
3次元
という世界に
いるのだが、
この世界の
最大の特徴は
「時間」
と
「距離」
だ。
「時間」は
過去から未来へと
一方向に
一定のスピードで
流れ続けており、
その流れ自体を我々が
コントロールすることは
できない。
という摂理のもとで
成されているのが
この世界だ。
もう一つの
「距離」について
言えば、
「距離」とは
「分離」の
象徴だ。
距離という概念が
あること自体が
分離を表わしている。
この世界では
ありとあらゆるものが
分離している。
例えば、
私とあなた
は違う存在だ。
もちろん、
私と
目の前のパソコン
も違う存在だ。
違う存在だからこそ、
距離がある。
私とあなたは
常に異なる場所に
いるし、
目の前にある
私のパソコンは、
私から30cmくらい
離れている。
3次元の世界を
生きていく、
というのは、
この
「時間」と「距離」
と
どう関わっていくか?
ということでもある。
なぜこんなことを
書いているかと
言うと、
「時間のコントロール」
と
「距離のコントロール」
こそが、
自分自身のコントロール
の根幹に来る
からだ。
この3次元世界においては。
言葉を変えれば、
時間のコントロール
と
距離のコントロールが
できずして、
自己コントロールは
できないし、
自分の望む人生には
ならない。
自分の望む現実を
創り上げている人と
それができない人の
本質的な違いが
ここにある。
望む現実を
創っている人は
時間をとても
大事にしているし、
距離(感)も
大事にしている。
そして、
「真本音で生きる」
とは、
この「時間と距離」との
関わりを
真本音で決めていく、
ということでも
ある。
ちょっと極端に
言えば。
あなたは
時間をコントロール
できているだろうか?
距離(感)を
コントロールできている
だろうか?
どうすれば
それができるように
なるだろうか?
今後は、
そんなテーマでも
時々、このブログを
書いてみたい。
つづく
人は
面白いなぁ、
やっぱり。
特に
リーダーを
やっている人は
面白い。
「もっと
リーダーとしての
自覚を持ちなさい」
と
お伝えしなければ
ならない人も
いれば、
「リーダーであることを
いったん
忘れてください」
と
アドバイスし、
本当に忘れて
自由奔放にやったら、
途端に
良いリーダーに
なる人もいる。
それは、
その人の個性に
よるもの
というよりも、
その人の
その時の
テーマによって
傾向が変わる、
と言えるかな。
自分を抑える
ことで
今の殻を突破する
時期と、
自分を解放する
ことで
今の殻を突破する
時期。
この二つが
ある。
今のあなたは
どちらだろう?
つづく
私は
毎日毎日、
私を
リセットする。
何もない世界に
ポツンと
一人。
佇む私を
そのまま
感じ取る。
人生で培った
あらゆるもの、
人生で得た
あらゆるもの、
人生で育んだ
あらゆるもの、
それらを
いったんすべて
手放す。
能力も
ない。
志も
ない。
生きる目的も
ない。
何もない。
そんな自分に
いったん
本当に
戻る。
人間は
面白い。
それができたと
しても、
「真っ白」
にはならない。
やはり
「これが私だ」
と思える
個性が
残るのだ。
すべてを
リセットすることで
初めて
自覚することも
ある。
私は
私である。
という
事実が
迫ってくる。
・・・・・・
一方で、
すべてをリセット
すると、
自分が
なくなる感覚も
起こる。
いや、
正確に言えば
「なくなる」
のではない。
「すべてと
一つになる」
と言った方が
いいかな。
すべてと
つながり、
一つであり
全体である
私がいる。
そう、
そうなっても
やはり
そこには
「私」
がいるのだ。
つまり
「私」
とは、
あまりにも
存在が大きい。
この存在感を
すべての人が
体験できると
いいな、
と
いつも思う。
そうすれば
自分自身を
ないがしろにする人は
激減するだろう。
自分という
人間の
存在そのものの
大きさと
尊さを
皆、知れるのになぁ、
と
いつも思う。
・・・・・・
そしてそれを
実感するとき、
実に簡単に
思えることが
ある。
それは、
「人は
変われるんだな」
という
真実だ。
いや、これも
もっと正確な
言い方がいいな。
「人は
変わるために
存在している」
が正確だ。
変わらなきゃ
おかしいのだ。
変わらなきゃ
自然の摂理に
反しているのだ。
しかし、
「変わる」
とは
「自分を失う」
ことではない。
「自分を
取り戻す」
ことであり、
「本来の自分」
をさらに
際立たせて行く
ことだ。
それを
「成長」と
言うし
「進化」と
言う。
・・・・・・
今日も、
いい出会いが
あったなぁ。
なんで
こんなに素敵な
人と
出会えるんだろう?
と、
心では思う
のだが、
でも一方で、
当たり前だよな。
という気持ちと、
これが自然だな。
という気持ち。
そして、
こいつも
俺じゃん。
という
傲慢というよりも
ユニークな
気持ちが
現れる。
俺が
俺と
出会う。
それが
本来の
「出会い」
ではないか。
そして、
俺が
俺と
コラボする。
それが
本来の
「人生」
ではないか。
つづく
よく、
「私の評価は本来
他者がするものなので、
自己評価は
しません。
他の人に訊いて
ください」
と
言われることが
ある。
一見、
そうだな
とも思うのだが、
私はいつも
違和感を覚える。
仕事に関して
自己評価をしない
人は
プロと言える
だろうか?
常に
客観的に自分と
自分の仕事を
みて、
他の人からの
評価も
しっかり聴いて、
自己評価と
他者評価の
差異を
見つめることが
プロとして
当たり前のこと
ではないだろうか。
もちろん
すべての評価は
その人その人の
主観による。
それが
正確な評価か
どうか?
は
わからない。
しかし、
すべてに真摯に
耳を傾けることで、
その奥に
「真実」
が観えてくる。
その真実と
向き合い続ける
ことこそが、
プロとしての
自身の成長(進化)に
つながるのでは
ないか。
誰もが
評価を受けるのは
怖い。
こんなに
がんばっているのに、
なぜ誰も
そこを評価して
くれないのだ?
と
苛立つことや
悲しくなることも
あるだろう。
が、
それが事実であり
現実であり、
人間関係でも
ある。
真本音で生きる
からと言って、
すぐに評価に
つながるわけでは
ない。
真本音の想い
は
きちんと
「カタチ」しなければ
ならない。
「カタチ」に
することができて
初めて
「想い」は
ここに存在した
ことになる。
どれだけ
心の中で想い
続けても
それだけでは
永遠に
自己満足の世界に
過ぎない。
くらいに
思うことが
普通だと思う。
想いは
カタチに
せよ。
そのためには
想いを
行動に
移せ。
その行動は
最初は
効果を出さない
かもしれない。
効果どころか、
失敗とか
後退とか、
するかも
しれない。
しかしその
試行錯誤を
経ずして、
想いをカタチに
現すことは
できない。
試行錯誤のない
前進は
ない。
もし
試行錯誤を
していないのなら、
それは
本当には
前進していない
のだ。
それこそ
自己満足。
何があっても
前進しようと
すること。
自分の
想いは
自分がまずは
信じ抜くこと。
恐れても
いいから
恐れず
足を前に
踏み出し続ける
こと。
それがまた
真本音で生きる
ということだ。
つづく
暗中模索は
大事だ。
真っ暗闇に
入ると、
当然であるが
不安になる。
出口を
探すのに
必死になる。
もがいても
もがいても
ちっとも
出口が
見つからない。
だからこその
暗中模索
であるが、
こう
考えてほしい。
暗中模索自体に
意味がある
と。
どのような
意味があるか?は
この際
考えなくてもいい。
せっかく
何も見えなく
なっているのだ。
必死に
もがくことに
全力を尽くせばいい。
こんなに
闇雲になって
効果はあるのか?
と
思うかもしれない。
でも、
せっかく
何もわからない
のだ。
そこにこそ
価値が
あるのだ。
ちなみに、
私は
そういう時こそ、
たくさんの人と
向き合った。
そういう時こそ、
現場に
出るようにした。
必死だ。
がむしゃらだ。
しかし、
そんな状況
でしか
見つからないことが
ある。
そんな体験
からしか
得られない
ことがある。
出口は
もう
探さなくて
いい。
ただ
必死に
もがけばいい。
それを
自分自身の
真本音は、
静かに
見守っている
はずだ。
つづく
自分自身の未熟さを
責める人がいるが、
それはまったく
見当違いだ。
誰もが、
未熟から成熟
へと
階段を上がっていく。
未熟という
プロセスを経ない
成熟はない。
当たり前の
ことだ。
未熟さをもし
責めるだけの
エネルギーが
あるならば、
未熟であるが
故の、
今にしかできないことを
精一杯
すればいい。
例えば、
私はずっと毎日、
日記を書いている。
書いた日記を
読み返すことは
ほとんどないの
だが、
時々、思い出した
ように
昔の日記を見たり
する。
例えば、
「真本音」という概念が
私自身の中で
生まれた頃の
日記がある。
17〜8年前の
日記だ。
それを読むと
未熟だなぁ、
と思う。
しかし、
その文章は
その時の私にしか
書けない文章
であり、
その日の
気づきは、
その時の私にしか
得られないもの
だ。
未熟であるが
とても伝わって
くる文章。
そしてその一日は
今の私には
到底できない一日
だ。
未熟かどうか?
ではない。
今の自分にしか
できない
一日を
創り出すこと。
それこそが
大事ではないか。
未熟であることを
恥じることも
責めることも
ない。
ただ、
早く一人前になろう
という
その意志は
大事だ。
意志に基づき、
今日という一日を
精一杯
生きる。
実はそれは
今の私も
まったく変わって
いない。
私は
今の私に
まったく満足
していない。
いまだ
未熟だ。
だから、
今にしかできない
一日を
創り出す。
ずっと変わらずに
それをやっている。
だから今、
こんなにも
人生が楽しいのだな、
と
思える。
つづく
もう
何度も何度も
言い続け、
そして
書き続けてきた
ことであるが、
苦しいことを
苦しい、
と
感じることは
健康的である。
辛いことが
あれば、
辛い
と感じ、
悲しいことが
あれば、
悲しい
と感じ、
怖いことが
あれば、
怖い
と感じる。
イライラする
ことがあれば、
そのまま
イライラ
すればいい。
それらは
すべて
健康的だ。
感じていることを
そのまま
感じることこそが
健康的だ。
ただし、
「感じている」
こととは
つまり、
「反応している」
ということ。
その
「反応」
に対して、
「反応」
で返しては
ならない。
そこには
明確な自分自身の
「意思」
が必要だ。
そして
その「意思」
とは、
「真本音の意思」
であることが
重要だ。
何を感じても
いい。
何を思っても
いい。
ただし、
次の自分の
言動の
すべては、
選択の
すべては、
真本音の意思
によって
為されるもの。
という
生き方ができれば
人生が本当に
楽になる。
反応によって
生まれる意思も
あるが、
それは本来の
意思ではない。
それは
意思のふりをした
幻影であり、
いつかは必ず
消えていくもの。
いつかは必ず
消えていくものに
基づいて
次の一歩を決めて
しまうからこそ、
私達は
後悔をするし、
次の苦しみを
生み出して
しまう。
本当の
意思。
本来の
意思。
それに基づいて
次の一歩を
決める。
人生も
仕事も
すべて
そうする。
その生き方が
できると
いい。
それができれば
すべては
調和する。
組織も
社会も
調和していく。
そしてその
調和こそが
進化を生む。
やはり
これがすべての
原理原則だ。
つづく
人生には
曲がり角
がある。
曲がり角が
見えてきたとき、
あなたは
どうする?
角を曲がる?
それとも
これまでの通り、
まっすぐ進む?
「時と場合ですよ」
という答えが
返って来そうだ。
もちろん
そうなのだが、
私の場合、
曲がり角を
感じたら、
とりあえず
曲がってみる
ことにしている。
「とりあえず」
と書いたが、
実は
全力で曲がる。
曲がるなら
全力で
曲がる。
すると必ず、
これまでの自分では
まったく知らなかった
世界が
そこに広がる。
そうしたら、
その世界に
やはり
全力で入って行く。
その結果、
その世界が
自分の新たな道
となることもある。
いや、これは
違うな。
・・・と、たとえ思ったと
しても、
私の場合、
曲がり角を
曲がってしまったことを
後悔はしない。
違うのなら、
この新たな世界
新たな道と、
これまでの道
を
統合・融合
してしまおう。
・・・とする。
すると
面白いことに
本当に
それができる。
しかもその場合、
統合・融合に
よって
明らかに
「次元」が一つ
上がる。
人生の次元が
上がる。
でもよくよく
考えれば、
統合・融合とは、
次元を上げる
ことなのだ。
ということは、
結局のところ
曲がり角は
曲がらねば損だ。
ということだ。
私の場合。
私は
曲がり角とは、
人生の
プレゼントだと
思っている。
ここまで
人生に対して
真摯に向き合い、
懸命に進んで来た
からこそ
プレゼントされるもの。
それが
曲がり角。
そのように
受け止めることに
している。
つづく
本当は、
「覚悟」
はみんな
持っている。
始めから。
ただ、
それを
忘れてしまっている
だけ。
だから、
「覚悟を持て」
ではない。
「覚悟を思い出せ」
が正しい。
100%とは言わず、
その「覚悟」の
ほんの片鱗でも
思い出すことが
できれば、
幼い子どもですら
ちゃんと
進む。
その道に
進む。
振る舞いも
変わるし、
表情も
姿勢も
生き様も
変わる。
それが
我々人間だ。
もう少しで
自分の「覚悟」を
思い出せそうな
人が
今、
増えている。
でも、
思い出す直前で
躊躇している。
思い出すことを
怖がっている。
本当は
何も怖いことは
ない。
思い出し、
その方向に
進む
その瞬間から、
その人は
心の真の平穏と
安定を
手に入れる。
にも関わらず、
私達は
「覚悟」を思い出す
ことに
恐怖を感じる。
恐怖を
乗り越えてほしいな。
一歩を
進んでほしいな。
自分自身の
「覚悟」
なのだから、
まずは
自分自身が
認めてほしいな。
と、
切に願っている。
つづく
様々なことに
終わりがあり、
そして
それは同時に
次への
始まりである。
完了感。
100%やり切った
時のみに
心と体に満ちる
独特の感覚。
それを得られる
生き方は、
人として
ひょっとすると
最上の幸せなのかも
しれない。
一つのことを
極めようと
するならば、
日々、
この完了感に
こだわるといい。
一日一日の
完了感。
一つ一つの
仕事の
完了感。
一人一人との
会話の
完了感。
99%では
ダメ。
そして
101%、つまり
やりすぎも
ダメ。
ちょうど
100%で
終えることに
真剣になること。
それができる
からこそ、
どこまでも
どこまでも
継続が
できる。
そしてその
結果として
一つを極めることが
できる。
残念ながら
(というか、本当は
幸いなことに、
と言いたいところだが)
私達の人生には
物理的な
限りがある。
大概は、
一つのことを
極めるだけで
人生は
終わってしまう。
だからこそ、
何を極めるか?
に
真剣になれる。
人生は
あっという間に
終わる。
一つを極める
ということは、
自分を極める
ということでも
ある。
自分を極める
には、
一つ一つに
魂を込めること。
それがつまり
完了感を
大切にすることだ。
完了感を得る前に
次に
行くな。
完了感があるにも
関わらず、
ここに
しがみつくな。
よい
終わり方を
しよう。
よい
始まり方を
しよう。
つづく
地球という
星の上で、
人と人
国と国が
争っている。
しかし
どれだけ争おう
とも、
地球そのものは
常に
そこに
存在している。
宇宙から観れば、
地球はいつも
変わりなく
ゆったりと回り、
いつも同じ軌道を
描き、
宇宙に存在
し続けている。
その表面で
何が起ころうと
変わることがない。
私達の真本音も
同じような
ものだ。
表面上で
どのような葛藤が
起ころうと、
どのような
反応が起ころうと、
いつも変わらずに
そこに
あり続けている。
・・・・・・
そして実は、
まったく
変わっていないように
見えても、
実在のレベルでは
地球は
徐々にではあるが
「進化」を
し続けている。
本当に
徐々にでは
あるが。
「進化」とは
エネルギーの質が
変わるということだ。
波長が
変わるということだ。
いつも
変わらずに
揺るがずに
そこにあるが、
しかし
波長は変わり
エネルギーとしての
強さも安定度も
さらに
高まっていく。
もしくは
それを常に
望んでいる。
これも私達の
真本音の
特徴だ。
・・・・・・
そしてそれが
人間の本質
というものだ。
自分自身の
本質
というものだ。
その本質を
常に思い出しながら
今日
という一日を
過ごすかどうか?
によって
人生は
根本的に変わる。
本質を
忘れていれば、
表面上の
些細な揺れにも
意識を
奪われる。
その「揺れ」が
自分自身である
と
いつの間にか
思い込んでしまう。
本当は
地球にいるのに、
そのことを
忘れてしまう。
本質を
思い出すからこそ、
私達は
自身の本来の
願いを
思い出すことも
できる。
その状態に
なるための
サポートを私は
「コーチング」と
呼んでいる。
自身の本質を
思い出せば、
その人の人生は
本質の人生と
なる。
そうなることで
「今の会社を
辞めよう」
とか
「今の仕事を
変えよう」
という
短絡的な結果には
ならない。
どの環境、
どの仕事においても
自分自身の
本質を
発揮することは
できるからだ。
むしろ、
「ここにいては
私は私らしくある
ことはできない」
という発想に
縛られるということは、
本質を
思い出していない
証拠だ。
「どこにいても
いいじゃないか」
と本当に
わかることで
私達は
自由になれる。
その状態で
環境を選ぶのであれば、
それは
健全な選び方だ。
自由な状態で
環境を選ぶのか?
不自由な状態で
環境を選ぶのか?
この違いは
あまりに大きい。
もちろん
人生に調和を
起こすのは
前者である。
そのためには、
自分自身の
地球を、
真本音を、
思い出すことだ。
つづく
私達にとって
「悲しみ」
とは何だろうか?
深い悲しみは
多くの場合、
怒りに
転嫁される。
ちょっとしたことに
対して
すぐに怒りを
現す人は
その心の奥に
深い悲しみを
抱えているケースが
多い。
その悲しみを
感じると、
私もとても
悲しくなる。
悲しみ
とは
何だろうか?
悲しみの多くは
執着を
伴っている。
執着というと
キツいかな?
柔らかく言えば
望み
と言ってもいい。
自分の望みが
思う通りに
叶えられない時、
悲しみが
発生する。
その望みへの
執着が
激しければ激しいほど
悲しみは
大きくなる。
ただし。
執着のない
「悲しみ」
もある。
そして。
執着のない
「悲しみ」は
執着のある
悲しみよりも
圧倒的に
深くて辛い。
私達人間は
このレベルの
「悲しみ」を
乗り越えることが
できるのだろうか。
と
よく考える。
この仕事を
していると、
随分と多くの
悲しみと
出会った。
悲しい!
と
本人が泣いている
うちは
まだマシだ。
しかし、
悲しみの度が
過ぎると、
本人の自覚が
なくなる。
麻痺する。
自分が悲しんで
いることを
自分が一番
わからなくなる。
すると、
悲しみとは別の
出方をするように
なる。
残念ながら、
現代社会においては
麻痺してしまっている
人が多い。
人は
「悲しみ」を
超えることが
できるのだろうか?
あなたは
どう思う?
私は
あまりにもひどい
「悲しみ」に
埋没してしまった
ことがあるが、
あの時はもう
復活は無理だと
思ってしまった。
今でも
どうして復活できたか、
わかるようで
わからない。
もう一度、
あの「悲しみ」を
体験したとして、
また復活できる
自信は
ない。
それくらいに
深い「悲しみ」は
ある。
でもそれでも
私の選ぶ
選択肢は
一つだ。
人は
「悲しみ」を
超えられる。
それを
まずは私が信じて
進もうと
思っている。
つづく
変な言い方だが、
疲れた時は
仕事をするのが
一番だ。
クライアントさんの
エネルギーの高まりを
感じると、
私も凄く癒される。
クライアントさんの
エネルギーと
私のエネルギーが
循環を起こし、
渦を起こし、
その回転が
どんどん速まり、
エネルギーが
さらに
高まり合っていく。
気がつくと、
疲れが
吹っ飛んでいる。
そういう意味では
幸せなお仕事だと
思う。
真のエネルギーの
高まりは、
地に足をつけた
安定感と、
魂レベルの
静謐さと、
そして
ユーモア溢れる
遊び心と、
それらが
渾然一体となる。
そんな人と
向き合ってごらん。
本当に
幸せだから。
生きている
実感も得られるし、
癒される
悦びも感じる。
クライアントさんから
私は
そうしてもらえるし、
同じことを
私もクライアントさんに
できているのだと
思うと、
それ自体が
また嬉しい。
ただしこれは
コーチングの仕事に
限ったことでは
ないね。
ちゃんと丁寧に
一人一人
一回一回
人と向き合うことで
そういった
関係性は
誰もが創り出せる
はずだ、
本当は。
人間とは、
向き合うことを
前提として
生まれた存在であると
私は日々、
実感している。
だから、
人と向き合わずに
生きている人を見ると、
人間としての
悦びの大半を
知らずに生きているように
思えてならないし、
本当に
勿体ない生き方だと
思う。
向き合うことの
爽快さを
教えるのが
「コーチ」の役目だとも
思う。
元気になってから
人と向き合う
のではない。
人と向き合うことで
私達は
真の元気さを
生み出していく。
それが
人間の本質だね。
つづく
前を見て歩く
ということは、
前しか見ないで
歩く
ということでは
ない。
横も後ろも
斜めも、
すべてを見るから
こそ、
「前」がわかる。
すべての中から
選択する。
これが
自分を生きる
ということだ。
選択には
意志が必要
だ。
意志の根元
には
願いがあり
祈りがある。
自分自身の
それを
どれだけ尊重した
選択をするか?
それを私達は
人生を歩きながら
学んでいる。
進化の道
とは、
願いや祈りの
選択の道だ。
それを外した
選択を
し続ければ、
必ずどこかで
壁が来る。
明確な壁に
当たらなかったとしても、
必ず私達は
不安定になる。
一見、成功している
ように見えても、
その道を
進めば進むほど、
なぜだか日々、
イライラが募ったり、
悲しみや寂しさが
増したり、
絶望感に襲われる
頻度が増えたり、
結局は孤独では
ないか、と
呟いたり、
そんな傾向が
現れたとしたら、
こういうのが
人生であるし、
こういうのを
乗り越えるのが
私のテーマだ、
とは
思わないで
ほしい。
人生とは
苦しみへの道
ではない。
もし
様々な苦しみが
増すのであれば、
それは
あなたのその
道が違うのだ。
願いと祈りの
道ではない
のだ。
ただし
こう書くと、
「じゃあこの環境を
変えなければ
ならないのか」
とか
「仕事を変えよう」
とか
思われがちだが、
そういうことでは
ない。
「道」とは
「環境」とか
「何をするか」
ということ
ではない。
「生き方」のこと
を言っている。
今日の生き方、
今の生き方
のことを言っている。
今日という一日、
自分の
願いや祈りに
基づいた行動が
どれだけできたか?
自分の行動・振る舞いの
選択の一つ一つ
を言っている。
環境が変わっても
人は変わらない。
生き方そのものを
変えなければ。
今この瞬間の
生き方を
変えるだけで、
苦しみの道は
願いと祈りの道に
一瞬で
変わる。
本当に
一瞬で、ね。
つづく
余分な力は
入れない方が
いい。
いつも
肩の力は
抜いておけば
いい。
この3次元の
世界においては、
「結果」は
とても大事。
「結果」が
出なければ
何の意味もない、
と
私は常々
言っている。
しかし。
「結果」を求める
あまりに
余分な力が
入っては、
出る結果も
出なくなる。
大切なのは
「決める」
こと。
真本音で
「決める」
こと。
これをする。
こういった
結果を出す。
と
完全に決める
こと。
決めたら
後は、
「今この瞬間の現実」
に身を委ねる。
「身を委ねる」
と言うと、
「何もしなくていい」
と思われがちだが、
そうではない。
「身を委ねる」
とは
目の前の現実を
あるがままに
見つめること。
意図せずに
見つめること。
そして
ちゃんと
「ここにいる」
こと。
変に力を入れて、
あれをせねば、
これをせねば、
と焦るのではなく、
「今ここにいる幸せ」
を感じながら、
しっかりと
「今ここにいる」
こと。
そうすれば、
自然に
「これをしよう」
と
思いつくことが
ある。
それが
初めの一歩
となる。
思いついたら
すぐに
やればいい。
そこでまた
肩に力を入れて
しまう人もいるが、
ただ
思ったことを
そのまま
やればいい。
「それが難しいんだ」
と言う人も
いるかもしれないが、
そう言っている
時間があれば
やればいい。
ほんのちょっとでも
やり始めれば、
ほんの1mmでも
動き始めれば、
ちゃんと私達は
活性化する。
真本音で決めた
ことを
わずかでも行動に
移すことで
私達は活性化するように
できている。
肩に力を入れて、
気合いを込めて
進まねば!
は
必要ない。
ほんのちょっと
動けばいい。
そうすれば、
勝手に加速する。
せっかくの
加速を
肩に力を入れることで
止めてしまう人も
いるが、
自分を自分に
委ねてしまおう。
次々に湧き上がる
「これをしよう」
を
一つずつ
淡々とやればいい。
一つ一つは
そんな大したことは
ないはずだ。
たまには
勇気の要ることも
あるだろうが。
それも
慣れ、だ。
だから、
動けよ。
肩に力を
入れるのだったら、
その力を
足に移して、
一歩を
踏み出せよ。
つづく
私達は
「今この瞬間」
に生きている。
「今この瞬間」
以外の現実は
ない。
本当は
実在のレベルでは
「今この瞬間」
とは
「永遠」であり
「すべて」であり
過去も未来も
あらゆるものが
「一つ」になっている
のであるが。
しかし
私達の顕在意識は
「今この瞬間」
のみを
「現実」と
認識している。
であれば、
「今この瞬間」を
受け入れよう。
「今この瞬間」に
自分に起きている
あらゆる状況を
受け入れよう。
「今この瞬間」
を
自分のものに
するのだ。
目をつぶったり、
目を逸らすから、
それは
自分と乖離
していく。
自分の
コントロール外
となる。
「今この瞬間」
と
対峙せよ。
すべての現実
と
向き合おう。
向き合うことで
恐怖を感じたり、
絶望を感じる
こともあるだろう。
次の一歩が
まったくわからなく
なることもあるだろう。
であれば、
向き合うだけで
いい。
わからなければ
ただただ
向き合い続ける
だけでいい。
それだけで
「現実」は
自分のものとなり、
そこから
自分の人生が
始まる。
もう何十年も
人生を生きているのに、
いまだに
自分の人生に
なっていない人が
いる。
「今この瞬間」
と
対峙せよ。
私は
厳しいことを
言っているかい?
いや、
最も楽な生き方を
言ってるんだけどね。
つづく
「やろう」
と思ったことを
ちゃんとやる
ためには、
「やらない」
と思ったことを
ちゃんと
やらないことだ。
よく私は
仕事を「後回し」に
する。
一日の最初に
まず私が決めることは
「今日は何を
やらないか?」
ということだ。
それを決めて、
自分の中から
手放してしまう。
頭の中から
いったん
除外するのだ。
すると
必然的に
「今日は何を
すればよいか?」
がクッキリと
明確になる。
その時点で
すごく
スッキリする。
そして
その仕事に
全身全霊を込める。
もちろん、
突発的な仕事や
想定外の仕事が
割り込んでくるのは
普通である。
しかし、
ちゃんと
「今日すべきこと」
が
真本音で納得
できていれば、
あらゆる
突発的な仕事が
「今日一日の
調和を高めるための
必然的なもの」
に思えてくる。
そして、
一日の終わりには
必ず、
「完了感」
がくる。
今日すべきことを
やり切ったな。
という
深い満足感だ。
一日一日を
このように丁寧に
進めていけば、
人生は間違いなく
満たされたもの
となる。
真本音度合いの
高い人の、
共通の生き方だ。
つづく
自分の中から
真本音の想いが
浮上し、
顕在化しているにも
関わらず、
「こんな気持ちを
現してはダメだ」
と、
その想いを
必死に抑えながら、
違った自分を
懸命に出しながら
仕事に向かっている
人がいる。
多い。
実に
もったいないねぇ。
その想いに
素直に動けば、
すべてが
調和を始めるのに、
その人は
「この想いは
混乱しか生まない」
と
信じてしまっている。
真本音の想いに
素直に動くことは
俗にいう
「わがまま」
ではない。
なぜなら
真本音は皆、
つながっているから。
自分の真本音の
想いと
自分以外の人の
真本音の想いは
つながっている。
一人が
その想いに素直に
動けば、
隣の人も
真本音が活性化
する。
その人がまた
素直に動けば、
さらに隣の人の
真本音も活性化する。
その連鎖が起き、
組織は
完全調和へと
向かっていく。
「わがまま」とは
たくさんある反応本音の中の
たった一つの想いに
執着し、
それを頑なに、強引に
押し通すこと。
反応本音は
残念ながら
他の人とは
つながっていない。
だから
「わがまま」
となる。
真本音と
反応本音の
区別がつくように
なると
本当にいい。
本当に
楽になる。
個人も
組織も。
そんな世の中に
したい。
そのために
今は「コーチ」が
必要なんだ。
真本音サポート
のできる
「コーチ」が。
つづく
私達は
非常に強い「意志」
を持って
この世に
生まれてくる。
生まれたばかりの
赤ちゃんや、
街中で
抱っこされている
幼い子ども達と
一瞬でも
向き合えば、
それが
よくわかる。
最初は
それらの「意志」は
言葉には
ならないものだ。
しかしそれは
非常に強い。
その「意志」により
私達は恐らく
「私」という
存在として
「ここに在り続ける」
ことが
できるのだと思う。
じゃないと
辛くてしょうがない。
生まれたての
赤ちゃんは、
「自分」と「自分以外」の
区別がついていない。
その状態から
徐々に
「自分」が
分離されていく。
それはつまり
「つながり」を
喪失していくこと。
「孤独」への道を
突き進むこと。
これを私は
「次元を下げる」
と表現しているが、
あえて
この世に生まれる
ことで
次元を下げるのは
誰もが
とてつもなく
辛いことだ。
その辛さに
打ち勝つには、
強い「意志」が
必要だ。
逆に言えば、
誰もがそれほどに
強い「意志」を
持っているからこそ、
誰もが
「分離」を実現する。
それが
この世における
人生の始まり。
だから
私達の人生は
その「意志」と
共にある。
・・・・・・
今、ここにいる
自分の
今のこの意志は
その
「意志」と
一致しているだろうか?
その
「意志」を
尊重しているだろうか?
生まれた時から
私達の中にある
「意志」。
ここに素直に
生きる人は
常に内側から
エネルギーが
湧き続ける。
それは
「私の人生」を
きちんと生きている
証だ。
「私の人生」
を
生きる者は、
個性と力が
溢れる。
どのような環境
においても
自らの道を
創り出すことが
できる。
その道は
周りとの調和を
起こし、
進化につながる。
私は
すべての人が
「意志」
を
思い出すとよい
と思っている。
本当は
その「意志」は
いつでも「ここ」に
ある。
その人の「意志」は
その人自身でも
あるからだ。
だから決して
難しいことじゃ
ない、
「意志」と共に
歩むのは。
「意志」を忘れて
しまっていた人は、
「意志」を
思い出すことで、
その瞬間から
人生が変わるだろう。
「環境」が変わる
わけではない。
「環境」を
変えなければならない
わけでもない。
ただ、
「人生」が
変わり始めるのだ。
調和の人生に。
道を築く
人生に。
私は、
すべての人が
そうなるといいな、
と
願いながら、
今の私にできる
最大のサポートを
今日も
し続ける。
つづく
私はよく、
自分の人生を
振り返る。
過去を振り返る
よりも、
常に未来に意識を
向けた方がいい、
とも言われるが、
過去を振り返る
ことができない
うちは、
自分の本当の
未来を
築くことはできない。
なぜなら
過去の体験は
すべて
自分自身の心の中に
残っている。
それを観ない
ということは、
自分と向き合っていない
ということに
なるからだ。
自分と向き合えない人
に、
真本音の未来は
見つからない。
・・・・・・
とは言え、
何でもかんでも
まずは過去を振り返る
ところから、
・・・とやってしまう
サポートも
お勧めできない。
どうしても
見つめたくない
辛い過去は
誰だってある。
それを
見つめるだけの
準備が整う前に
強引に過去を見つめることで
心が壊れることもある。
人の心は
繊細だ。
やり過ぎると
すぐに壊れる。
しかし、
人の魂は
何があろうと
安定している。
心と魂は
別個のものだ。
魂に基づいて
今日という日を
生きることができる人は、
繊細な心のすべてを
見つめることが
できる。
魂の安定を
常に感じ取れるから。
しかし、
自分の魂を無視した
日々を送る人は、
自分自身の魂と
乖離し、
結果として
魂の安定を
感じられなくなる。
その状態で
自身の繊細な心と
向き合うのは
難しい。
安定しているから
こそ、
あらゆる過去を
振り返ることができる。
だからまず私は
クライアントさんに
その、安定状態に
なっていただくための
サポートをする。
つまり、
日々を
自分の魂に基づいた
行動が取れるように
サポートする。
魂の意思のことを
私は
「真本音」
と呼んでいる。
つまり、
真本音度合いを高める
サポートを
私はする。
・・・・・・
私自身も
自分の真本音度合いが
高まってからだ、
本当に
過去と向き合えるように
なったのは。
それまでも、
過去を振り返ることは
何度もしたが、
すべて
「ひん曲がった」見方
をしていた。
要するに、
自分に都合の良い
見方をしていた。
見たくないものは
見ずに
見ても差し支えのない
もののみを
見ていた。
しかも、
自分の分厚いフィルター(解釈)
をつけて。
それでは
過去の振り返りとは
言えない。
真本音度合いが
高まり、
安定度合いが高まる
ことで、
私は初めて
あるがままに過去を
振り返ることが
できるようになった。
まぁ、
過去を振り返る
と言っても、
意図的にやるという
よりも、
自然にフラッシュバックを
してしまうのだけど。
そして
大抵の場合、
そのフラッシュバックは
私を「反省」させる
ものだ。
過去の振り返りは
私にとっては
反省の時間だ。
しかし大事なのは、
「反省しようと思って
過去を振り返る」
のではなく、
「自然に過去を振り返り、
結果として
自然に反省する」
ということ。
この違いは
大きい。
前者の反省は、
自分を責めるだけで
終わる可能性が高い。
後者は、
本当に「反省」できる。
その結果として、
「今」や「未来」への
重要な指針となる。
こんなこと
胸を張って言える
ことではないが、
私の過去は
本当に恥ずかしいもの
ばかりだ。
道を歩いている時に
ふと
フラッシュバックする
ことがある。
その瞬間、
思わず私は
「ごめんなさい」
と小声で呟いていることが
多い。笑
過去において私は
随分と多くの方々に
迷惑をかけてしまった。
傲慢だった。
だからこそ、
今のこの瞬間に
今、目の前にいる
この人に、
本当に
真摯に向き合おうと
思うのだ。
つづく
人は
変われるか?
変われないか?
と
問われれば、
やはり、
「変われる」
と
答えるだろう。
この仕事を
続けていれば、
絶望的な場面には
幾度となく
出会う。
人の
変わらなさ
に失望したことなど
本当に
数えきれない。
もうちょっとなのに、
なんであの人は
あと一歩が
出ないんだ。
なぜ
そこで逃げてしまう。
なぜ
同じことをまた
繰り返すのか。
なんでこうも
この人は
変わらないのか。
・・・そういった
憤慨や
悲しみや
虚しさは
いやというほど
体験したし、
何度体験しても
まるで初めてかの
ように
辛かった。
私自身が
本当に
絶望してしまったことも
ある。
しかし
その度に、
想定外のところで
「人は変われるのだ」
という
体験をプレゼント
された。
人は
変わらない。
変わろうとしない
人は
いっぱいいる。
でも
やはり、
人は変われるんだ。
この印象が
ここまで現場に
い続けている
今の私の真実だ。
・・・・・・
いつだったか。
この人を
変えよう。
と意図することが、
その人の変化を
阻害する
という事実に
気がついた。
他者による
無理強いの意図は
その人を
頑なにさせる。
たとえ
表面上は
無理強いしていなくとも、
心の中に
その意図を持ち続ければ、
それが確実に
無意識レベルで
その人には伝わる。
それが
その人を
より頑固にさせる。
だからもう
「この人を変えてやろう」
という意図は
いっさい手放すことに
した。
とはいえ、
これは大変
難しいことだった。
とはいえ、
いつしかそういった
意図を
私はまったく
持たなくなった。
もちろん、
口頭では
「この人はどうすれば
変わるか?」
というお話はする。
しかし、
実は
私の心の中では
その意図は
完全に手放している。
それができるように
なってから、
人が
劇的に変わる瞬間を
目の当たりにする
頻度が
劇的に増えた。
人は
面白い。
変えようとすれば
変わらず、
その意図を
手放せば
変わってゆく。
ただし、
意図を手放すのと
何もサポートしない
のとは
まったく別の話だ。
人はどうせ
変わって行くのだから
もう何もしなくて
いい。
とやってしまうと
また、
その人は永遠に
変わらない。
まったく
厄介だ。
でも
だからこそ
面白い。
・・・・・・
人との関わりは
奥深く、
一見、とても
複雑で、
しかし実は
極めて
シンプルだ。
そのシンプルさ
に
気づけると
強い。
人との関わりで
揺らぐことは
なくなる。
しかしその
シンプルさとは
頭での理解では
理屈では
到底説明のできない
ものだ。
「感覚」として
身につけるしか
ない。
そのためには
多くの人と、
人生で
出会う
すべての人と、
向き合い続ける
ことだ。
まずは
向き合うこと。
これがやはり
すべての
スタートだと
思う。
シンプルに
人と関われる人を
私は増やしたい。
できれば
全人類が
そうなれるといいな
と、
願っている。
つづく
自分の中に
「躊躇」
が現れたとき、
私はそれと
しっかり真摯に
向き合うことにしている。
その「躊躇」には
非常に多くの
示唆が含まれている
からだ。
「躊躇」するのは
悪くない。
よく
すぐに決断できない
自分を
責める人がいる。
それは
意味のない
時間だ。
その時間を
「躊躇」としっかり
向き合う時間に
変えた方がいい。
「躊躇」を
観察してみよう。
もしくは
「躊躇」の声を
とことんまで
聴き切ってみよう。
そこまで明確で
なければ、
「躊躇」と一体になる
くらいまで、
それを感じてみよう。
その上で
ふとした瞬間に
浮かんでくる
一つ一つの気持ちや
発想を
丁寧にキャッチしよう。
「躊躇」は
自分自身に
何をメッセージ
しているだろうか?
・・・・・・
人は、
恐らく
「躊躇」としっかりと
向き合わないからこそ、
自分を見失っていく。
「躊躇」にフタをし、
気合いと根性だけの
(つまりは表面的な)
決断を無理にしてしまい、
先に進む。
その結果、
気合いと根性が
途切れた時に、
あっという間に
止まってしまう。
そして
後悔する。
何度も言うが、
「躊躇」は
良くないものでは
ない。
「躊躇」と向き合わない
のが
良くないのだ。
・・・・・・
「躊躇」と向き合えば、
自分が何に対して
「無理」をしているのか?
がわかる。
これを知るのが怖い
という人もいるが、
怖がっている場合
ではない。
しっかり
見つめよう。
自分の「無理」を
知れば、
その次は、
その「無理」は
しない方がいいか?
それとも、
あえて今は
その「無理」をし続けた
方がいいか?
の判断がつく。
そうしたら、
その判断の通りに
行けばいい。
もう無理はしては
ダメだ。
と判断したならば、
思いきって
その「無理」していることを
手放そう。
たとえ今、手放さなくても
いずれはそれは
手放す瞬間が来る。
そういった場合の
多くは、
手放すのが
後になればなるほど
辛くなるし、
ダメージも大きくなる。
いつ手放すの?
今でしょ。
ということだ。
・・・・・・
意図的であるならば、
「無理」は
してもいい。
そのかわり、その場合は
それこそ躊躇せずに
とことん無理をすること。
「無理」をするか?
しないか?
は、
0か100か?
しかない
と思った方がいい。
一番良くないのは、
中途半端に
無理をし続けること。
これが結果的には
最も辛いし、
自分を見失うことに
なる。
「無理」をするなら、
無理をする自分を
許そう。
「無理」をやめるなら、
無理をやめる自分を
許そう。
許した上で
徹底的に
その方向に進もう。
・・・・・・
つまり、
「躊躇」とは
「決断」のための
大事なステップだ。
「躊躇」としっかりと
向き合うことで
真本音の
「決断」
ができる。
「躊躇」することを
躊躇するな。
「躊躇」も
人生の醍醐味
だ。
つづく