チームパフォーマンスコーチ

それは本当の全力ではない

 

もし仮に、

私達に翼が生えた

とします。

 

翼を広げれば、

自由に大空を

飛ぶことができます。

 

空からも

地面からも

両方から

物事を見ることが

できるように

なりました。

 

足で走るよりも

何倍もの速度で

移動できるように

なりました。

 

地面のみにいる時には

大きな障害だった

ものも、

翼を使えば、

ヒョイっと

ひとっ飛びです。

 

その翼は

とても力強く、

誰か他の人を抱えて

飛ぶこともできます。

 

まだ翼の生えて

いない人を抱えて、

あえて空に

連れて行き、

そこからすべての物事を

眺めてもらうことも

できます。

 

そのような翼を

私達は手に入れたと

します。

 

・・・・・・

 

ところが、

せっかく手に入れた

翼を

まったく使わずに、

 

私はずっと

地面を走り回れば

良いのだ、

これまで通りに。

 

と思ったとします。

 

そして

翼を使わずに、

足を使って

全力で地面を走り回り、

いかに地面を

スピーディーに走るか?

ということに

全力を費やしていたと

します。

 

私はこれを、

 

「現実逃避」

 

と呼んでいます。

 

ちょっとキツい

言い方ですか?

 

でも

それが事実です。

 

本当は翼を

使えるのに、

それを使わずに、

別のことに

自分の労力と時間を

費やす。

 

本当は、

全力を尽くすべき

ことがあるのに、

そこに向かわずに

別のことに

全力を注ぐ。

 

「全力を注ぐ」

ということについては

素晴らしいことだと

思いますが、

「全力を注げばいい」

ということでは

ありません。

 

私達にとっては、

 

「どこで、何に対して

全力を注ぐか?」

 

こそが大切であり、

それをしっかりと

見極め、

実行することを、

 

「真剣に生きる」

 

私は呼んでいます。

 

努力や全力を

言い訳にして、

本来すべきことを

まったくしていない人、

 

本来進むべき道を

まったく進んでいない人、

 

は、

とても残念ですが、

多いです。

 

どれだけ努力をしても

どれだけ全力を

尽くしても、

現実逃避をしていては

私達の真本音は

力を発揮しません。

 

それどころか、

「真剣に生きているフリ」

をしている自分を

最も嫌がります。

 

よく私は、

「真本音が家出する」

という表現を

使うのですが、

 

そういった人の

真本音は

まるで家出をして

しまったかのように、

まったく機能しなく

なります。

 

当然、

その人本人には

とてつもないストレスが

生じます。

 

あまりに

とてつもないので、

心の中が麻痺します。

 

麻痺をしながらも、

現実逃避をし続け、

本来ではないところに

全力を注ぎ、

 

「私は全力を尽くしている」

 

と自己満足している

わけです。

 

私はそういう人を

許しません。

 

命の無駄使い

だと思うからです。

 

ちょっと

キツ過ぎますか?

 

でも、それくらい

キツい見方をして

関わらないと、

その人は

現実逃避をいつまでも

やめようとしないのです。

 

・・・・・・

 

私はいつも

申し上げます。

 

本当は

人生は

もっと楽に

進める、と。

 

なぜ、

楽にならないか?

と言いますと、

 

現実逃避を

しているからです。

 

現実逃避をすることで、

無駄な確執が

起こります。

 

無駄な不調和が

起こります。

 

そしてそこでまた

無駄な全力が

増えていくのです。

 

そのサイクルから

いい加減に

抜け出しませんか?

 

自分のためにも。

 

人のためにも。

 

つづく

 

臆病にならず毅然と進もう

 

最近、

真本音度合いが

高まった方々から、

ある共通のご相談を

いただくように

なりました。

 

皆さん、

同じことを

言われます。

 

「最近、

不調和が多いのです。

私の真本音度合いが

低まってしまっている

のでしょうか?」

 

いいえ。

 

むしろ、逆です。

 

あなたは

さらに加速を

しているのです。

 

これまでに

経験したことのない

加速に

入っています。

 

すると多くの場合、

これまで

経験したことのない

「調和の仕方」

が起こるように

なります。

 

それが一見すると

不調和に

見えてしまっている。

 

という、

ただそれだけの

ことです。

 

ですから、

私がお伝えしたいのは、

 

不調和を感じる

からと言って、

自信をなくし、

臆病になり、

腰が引け、

真本音で進むことを

躊躇するように

ならないでください。

 

ということです。

 

・・・・・・

 

いつも

申し上げることですが、

 

自信がある

とか

自信がない

とかは、

 

真本音の歩みには

いっさい

関係がありません。

 

物事が

上手く行こうが、

上手く行くまいが、

いっさい

関係ありません。

 

物事が

上手く行くから

真本音で進む、

 

となった時点でもう

それは

反応本音の歩み

です。

 

状況に

揺らされている

わけですからね。

 

もちろん、

真本音も

状況や現実は

大切にします。

 

自分の理想通りに

進めよう

というのが

真本音ではありません。

 

状況や現実は

大切にしますが、

それに揺らされる

ことは

ありません。

 

自分の想いも理想も

大切にし、

かつ

状況も現実も

大切にし、

 

すべてを大切にした

最善の一歩を

踏み出す、

 

というのが

真本音の求める

ことであり、

真本音の意志

です。

 

それをすることに

毅然

としていて

ほしいのです。

 

すると、

不調和だと思って

いたことが、

実は、

これまでに経験した

ことのないような

素晴らしい調和の形

の一つ

であることが

わかってくるでしょう。

 

・・・・・・

 

よくよく考えますと、

調和とか

不調和とか、

それ自体を私達は

自分の解釈(思考)で

決めつけています。

 

これまでと同じ

スピードで進む人は、

ある意味、

自分の解釈での範疇の

調和は

続くでしょう。

 

しかし、

これまで以上に

加速しようとする人には

これまでに

見たことのない

新たな世界が

新たな次元が

展開します。

 

新しいものは

確かに少し(いや、だいぶ?)

怖いかもしれません。

 

しかしその怖さ

そのものも

感じ、味わいながら

進みましょう。

 

自分の世界を

広げるのです。

 

毅然と

進むのです。

 

あなたの真本音は

それこそを

望んでいるのですから。

 

つづく

 

地球はどこにある?

 

人生においても

仕事においても

言えることですが、

 

私達はついつい

今、自分のいる場所

今、自分のやっていること

今、自分に与えられた役割

の中に

埋没してしまいます。

 

集中することは

大事ですが、

埋没する必要は

ありません。

 

というよりも、

集中と埋没は

真逆です。

 

集中に必要なのは

全体意識です。

 

つまりは

全体を見る

意識。

 

全体から自分を

俯瞰する

意識。

 

そして

私の表現で言えば、

「すべては一つ」

の感覚から

「今この瞬間」

にエネルギーを

集約する、

そんな意識です。

 

・・・・・・

 

今、どんどん加速を

し続けている皆さんに

私がオススメするのは、

 

地球意識

 

です。

 

地球全体を

視野に入れるのです。

 

なんか凄い話だなぁ、

と思われるかも

しれませんが、

別に何も特別なこと

ではありません。

 

あなたの中に

地球

が存在するの、

わかります?

 

私達は

地球という星で

生きています。

 

それは

紛れもない事実

であり、

現実です。

 

私達の立っている

この大地は

地球そのものです。

 

そして

すべての人達が

地球にいます。

 

私達は

地球の中にいて

地球を感じ続けて

います。

 

ですから

少しだけ高い次元の

私達の意識では

地球と自分は

一つです。

 

ですから

私達の心の

少しだけ深い場所に

意識を向けると、

誰もがそこに

地球を抱いています。

 

私達は

地球に抱かれながら、

地球を抱いています。

 

あなたの中の

どこに

地球はありますか?

 

あなたの体の中の

どこかに

地球はあるはずです。

 

もしくは、

人によっては

体の外かもしれませんが、

しかし

自分の身近に

地球はあるはずです。

 

その地球を

見つけ、

そして

見つめましょう。

 

あなたの中の

地球は今、

元気ですか?

元気が

ないですか?

 

・・・・・・

 

あなたが今、見つけた

地球を常に

意識しながら、

 

今この瞬間

 

に集中しましょう。

 

それが

全体を感じた

本来の「集中」

です。

 

「全体」

「今の一点」

完全に結ばれた時、

 

これまでとは

まったく次元の異なる

発想が

あなたの中に

生まれます。

 

それを

楽しむと

よいですね。

 

私も

楽しみます。

 

共に

地球を育てる

親のような感覚で

進みましょう。

 

つづく

 

その人のことが嫌い?

 

誰にだって

好きな人と

嫌いな人が

います。

 

嫌いな人は

その人の存在が

なくなってしまえば

いいのに、

 

と、ついつい

思ってしまうのが

人情ですね。

 

しかし

「嫌う」とは、

非常にエネルギーを

使う行為です。

 

「無関心」とは

根本的に

異なります。

 

「無関心」は、

その人に一切の

エネルギーを

向かわせないことを

言います。

 

それに比べれば

「嫌う」というのは、

少なくとも

その人にエネルギーを

向けています。

 

そういった意味では

「好き」というのと

同じです。

 

「好き」と「嫌い」は

表裏一体。

 

表面上の感情は

違っても、

エネルギーという

視点から見れば、

実は、

同じようなものなのです。

 

・・・・・・

 

それだけ

その人に

エネルギーを使う

ということは、

 

それだけ

その人が

気にかかる

ということ。

 

気にかかる

ということは、

人生において

大事な存在

だと言うことです。

 

嫌いな人の

ことなど、

考えたくもない、

 

と思うかも

しれませんが、

どうしても

気になるのなら、

 

いっそのこと、

 

徹底的に

その人と

向かい合って

みましょう。

 

もちろん、

現実のその人と

向かい合えれば、

それが理想

ですが、

 

さすがに

それはちょっと

キツいですよね。

 

そこでまずは、

イメージで

向かい合って

みます。

 

目の前に

その、嫌いな人が

いるイメージを

するのです。

 

ほんの目の前

に、

その人の顔が

あるイメージ

です。

 

とても

イヤですよね。

 

気持ちは

わかります。

 

でもそこを

がんばって我慢して、

 

じっと

その顔と

向かい合いましょう。

 

全身は強張り、

心は震え、

感情は湧き上がり、

 

本当にいやな

時間になると

思いますが、

 

すべての感情を

存在承認しながら

じっと

向かい合います。

 

かなりの時間を

要するかも

しれませんが、

それを続けると、

ある時ある瞬間に

 

ふっと

楽になる時が

来ます。

 

すべての

反応本音を

存在承認することで

ふっと

楽になるのです。

 

その、

楽になった状態で

その人のイメージと

さらに

向かい合い続け

ましょう。

 

これまでずっと

嫌いで嫌いで

しょうがなかった

その人なのに、

 

なぜか、

その人への

重要なメッセージが

自分自身の心の

奥の奥から

浮かび上がって

くる可能性が

高いです。

 

それが、

高い次元の

自分自身の

声です。

 

真本音の声

と言っても

よいでしょう。

 

・・・・・・

 

嫌うということは、

その人に

エネルギーを

使う、という

選択を

自らしているという

ことです。

 

そこには

何らかの意味が

あります。

 

その意味は、

表面上に現れる

反応本音の中には

残念ながら

見出せません。

 

反応本音を

すべて出し切った

その後に

残るものこそに、

 

真の意味が

埋もれています。

 

そしてその意味に

気づくために、

自分はその人の

ことを嫌って

いたのだ、と、

いうことも

わかるでしょう。

 

嫌うことを

無理に止める

必要はありません。

 

しかし

せっかくエネルギーを

かけている

その人なのだから、

 

自分がそれだけ

エネルギーをかける

意味は

知りたいですよね。

 

そこには

より自分らしい

人生を創り上げる

ヒントが

あるはずですしね。

 

つづく

 

月は、月だ

 

26歳。

 

私は、ガンジス川の

ほとりにいた。

 

1泊100円にも満たない

ボロホテルに

個室をとった。

 

ホテルと言っても、

窓にガラスはない。

 

トイレもシャワーも

共同で、

確か、6畳一間くらいの

広さ。

 

そこに、

何十日洗ってないのだろう?

と思えるくらいの

汚いシーツのベッドが

一つ。

 

何十匹いるんだろう?

と思えるくらいの

ヤモリとゴキブリが

床や壁にうごめく。

 

私はベッドの上に

あぐらをかき、

窓から見える

目の前のガンジス川を

眺めていた。

 

ガンジス川の

向こう岸は

神聖な場所みたいで、

人は誰もおらず、

ただ何もない大地が

広がっていた。

 

陽はとっくに沈み、

その大地から

月が昇っていた。

 

私は驚いていた。

 

その月は

とても大きく、

そして真っ赤だった。

 

赤い光は

ガンジス川の水面を

照らし、

向こう岸からこちら側に

赤い光の帯が

続いていた。

 

とても

この世のものとは

思えない光景。

 

シンシンシン・・・

という空気と

時間の流れが

聞こえるようだった。

 

時々、ガソゴソと

ヤモリだかゴキブリだかの

気配がすることで

私はちゃんとこの世に

いるのだな、と

自覚できた。

 

私はその日

会った人のことを

思い出していた。

 

その日、私は

インド人の泥棒さんに

会った。

 

どんな経緯か

忘れたが、

私はその人と安食堂で

食事をした。

 

そこでその人が

泥棒さんだと

知った。

 

彼は言っていた。

 

「俺は、ガンジス川に

沐浴するためにここに来た。

泥棒をいつも続けて

いるので、

時々ここに来るんだ。

ガンジス川に入れば、

すべて清められる。

神様から許して

もらえるんだ。

で、安心してまた泥棒が

できるってわけさ。」

 

彼の話を

聞きながら、

私は別の日に出会った

インド人を思い出して

いた。

 

その人は

自ら会社経営を

している人だった。

 

やはり経緯は忘れたが、

その人とは

人生について語り合う

展開になった。

 

当時まだ若かった私は

その人に

ダイレクトに

訊いたもんだ。

 

なぜ信仰を

するのですか?

と。

 

彼はとても真面目な

顔で

丁寧に答えてくれた。

 

「私達人間には

到底自分の力の及ばない

ことがある。

例えば、天変地異に

遭ってしまうとか。

だから私は、神様に

今日も一日無事に

過ごせますように、と

お祈りをするんだ。

しかしあとの人生は

すべて、自分次第だ。

人生とは、人間が

人間として創り上げていく

ものだ。

私は神様に祈ることで、

全力でその日一日に

向かうことができるんだ。」

 

同じ宗教なのに、

こうも考え方が

違うものか、と

私は驚いていた。

 

世の中にあるものに

対して、

あれが正しい、

あれが間違っている、

すぐに人は言う。

 

しかし本当は

そこが大事ではなく、

自分がそれに

どう関わるか?

自分がどう

生きるか?

 

そここそが

大事ではないか。

 

それにより

人生も現実も

根底から

変わるのではないか。

 

と、

私は思った。

 

だって、

月は、月だ。

 

月は、

ただそこにある

だけだ。

 

・・・・・・

 

ガンジス川の月は

だんだんと

天に昇っていく。

 

最初は真っ赤

だったのが、

次第に、黄色に

なっていく。

 

そしてさらに

白く輝くように

なる。

 

月はただ、

そこにあるだけ。

 

変化はしても

それは、

月だ。

 

私もただ、

ここにいる。

 

どれだけ変化しても

私は、私だ。

 

その日以来、

私の心の中心には

常に、

月が浮かんでいる。

 

月は

じっと私を

見つめている。

 

私もただ

見つめ返す。

 

そこにあるものを

ただ、あるがままに

見つめ続けられる

自分で

ありたいな、

と思う。

 

つづく

 

一本道はそこにある

 

私達は誰もが

人生の一本道を

決めている。

 

その道は

まっすぐだ。

 

そして、

清々しい。

 

余分なものが

一つもない。

 

不安も不信も

不満もなく、

 

ただただ

汚れなく

まっすぐに

伸びている。

 

私達人間に

そんな道が

あるはずがない。

 

だって

人生はこんなにも

迷ってばかりだ。

 

こんなにも

苦しいことばかりだ。

 

と言う

その気持ちは

よくわかる。

 

しかしそれでも

私は

断言する。

 

誰もにその

一本道はある。

 

・・・・・・

 

一度でも、

一本道に入れば、

 

その清々しさは

よくわかる。

 

そして、

一本道を

辿っているのか?

いないのか?

 

その区別が

つくようになる。

 

そうなるまでの

道のりが

長い、

というだけのことだ。

 

なぜなら

私達は

目を瞑っているから。

 

どれだけ

道がまっすぐに

伸びていても、

目を開けていなければ、

道に迷うのは

当たり前だ。

 

前に進んでいる

つもりが、

横に進み、

知らぬ間に

脇道に入ったり、

路肩で転んだり、

 

そうなるのが

当たり前だろう。

 

ということで言えば、

大切なのは

目を開けることだ。

 

・・・・・・

 

ところが、

目を開けることが

なかなかできない。

 

ここで言う「目」とは、

心の目の

ことだ。

 

つまりは、

自分の心の中を

見つめる目だ。

 

これができない。

 

なぜなら、

心の中を覗くのは、

怖いことなのだ。

 

心の中には

何が潜んでいるか

わからない。

 

それは、

真っ暗なお化け屋敷

に入るような

怖さだろう。

 

手探りで

暗闇に入っていく

あの怖さだろう。

 

・・・・・・

 

だから私は、

懐中電灯を

渡すことにしている。

 

残念ながら

いきなり心の中全体に

電灯をつけることは

不可能に近い。

 

だから懐中電灯で

徐々に中を

探検する。

 

それをすれば、

ある時ある瞬間から、

 

思ったよりは

怖くないな、

 

とわかるようになる。

 

そうしたら、

もっと大きく明るい

懐中電灯に

取り替える。

 

そうやってどんどん

明かりを増やして

いく。

 

気がつけば、

懐中電灯なしでも

見れるようになる。

 

すると、

自分を信じられる

ようになる。

 

そして、

一本道が

見えるようになる。

 

・・・・・・

 

自分を本当に

信じることのできる人

のみが、

自分自身の

一本道

を見ることができる。

 

99.9%信じても

見えない。

 

100%信じて

初めて、

見えるのだ。

 

それは一見、

とても難しそうだけど、

いやいや、

そう思い込むのは

やめよう。

 

懐中電灯をつけ、

徐々に明かりを

増やしていけば、

誰もが

できること。

 

そのやり方を

私は

「セルフコーチング」

と呼んでいる。

 

そして、

セルフコーチングを

指導できるコーチを

私は

増やしたい。

 

つづく

 

あなたは殻を破ったか?

 

ここ数日で、

多くの人が

殻を破ったようです。

 

私の言うところの

「脱皮」

というやつです。

 

とはいえ、

自分は殻を破れたのだ、

自覚できる人は

わずかです。

 

ひょっとして?

と思われる人は

以下の方法で

確かめてみてください。

 

・・・・・・

 

気をつけをして

立ちます。

 

背筋を

ピンと伸ばします。

 

足は

肩幅くらい。

 

肩の力は

抜きます。

 

顔は真正面を

向きます。

 

その状態で

目を閉じます。

 

そして

体の中心軸を

意識します。

 

中心軸とは、

おへその奥の

体の中心と、

頭のてっぺんの

中心を

結んだ線です。

 

まずはこの状態で、

 

「本来の私の等身大とは

どれくらいだろうか?」

 

と考えてください。

 

そしてその大きさ

を特定します。

 

例えば、

本来の私の等身大とは、

私のこの体の大きさ

とイコールである、

とか、

身長30mくらいが

本来の私の等身大だ、

とか、

雲を突き抜けるくらいだ、

とか、

地球と同じ大きさだ、

とか、

人によって様々な

「等身大」が

あるでしょう。

 

それを素直に

発想します。

 

発想したら、

今度は実際に

その大きさまで

自分を巨大化

させてみます。

 

もちろん

イメージで結構です。

 

が、

単なるイメージだけでなく、

「巨大化する感覚」

を得られると

よいでしょう。

 

本来の自分の等身大

を、感覚として

味わったら

もとに戻ります。

 

次に、今度は

自分の中心軸だけに

意識を向けて

ください。

 

そして中心軸を

上と下に

無限に伸ばします。

 

無限の上から

無限の下まで

中心軸に貫かれている

自分を

意識してください。

 

そして、

その中心軸を

意識しながら、

 

中心軸のみを

意識しながら、

 

自分をどんどん

巨大化させてみて

ください。

 

その結果、

先程の

「本来の等身大」

を難なく飛び越えて、

どこまでも

自分が巨大化する

感覚を得られたら、

 

あなたは

最近、

一つの殻を破った

ということになります。

 

これまで

本来の自分の等身大

と思っていた

自分の大きさを、

あなたは

破ったのです。

 

・・・・・・

 

「本来の等身大」

を破れなかった人は、

 

「本来の等身大」を

いつも意識しながら

毎日を過ごすと

よいでしょう。

 

すると、

本来の自分の発想が

出やすくなります。

 

「本来の等身大」

を破り、

殻を破れたな、

と自覚できた人は、

ますます自分を

巨大化させ、

次の「本来の等身大」

を特定してみて

ください。

 

そしてそれを

「新たな自分の大きさ」

として意識をしながら、

毎日を過ごします。

 

・・・・・・

 

真本音度合いが

高まると、

次から次へと

殻を破るように

なります。

 

しかしそれを

本人が

自覚していないことが

あります。

 

もったいない

ことです。

 

常に自分の

「等身大」

を意識しながら、

より自己進化を

続けてくださいね。

 

つづく

 

私達は家族になった

 

12歳の夏。

 

私はアメリカのオレゴン州

の片田舎

にいた。

 

私と同い年の

少年と、

2歳下の弟がいた。

 

私達は昨日

出会ったばかり。

 

もちろん私は

片言の英語すら

できない。

 

私達は

ある病院の待合室に

3人で待たされていた。

 

なぜか待合室には

電気もついておらず、

そして

私達3人の他には

誰もいなかった。

 

広い待合室なので

とてもガランと

していた。

 

二人の兄弟の前で

私はカチコチに

固まっていた。

 

相手は

外国人。

 

というか、

私こそが外国人

だ。

 

二人も緊張

していたのだろう。

 

まるで私を

無視するかのように、

兄弟で

じゃれ合っていた。

 

私はポツンと

一人。

 

心細さと

孤独感。

 

しかし私は

これから、

この二人と1ヶ月の

時間を過ごさねば

ならないのだ。

 

・・・・・・

 

ふと、

私は自分の左手に

目を留めた。

 

そこには、

私の手からすれば

かなり巨大な

腕時計があった。

 

私が半年ほど

親に対して

説得に説得を重ねて

ようやく買ってもらった

「超」が6つくらいつく

大好きな腕時計。

 

ふと、

この時計は

今のために

買ったのではないか、

と思った。

 

兄弟がじゃれ合っている

その隣で、

私は密かに

時計を操作した。

 

1分後にセット。

 

私は

その時を待った。

 

そして

1分後。

 

私の腕時計は

アラーム音を

鳴らした。

 

誰もいない

暗い待合室に、

びっくりするほど

それは

大きく鳴り響いた。

 

あれ?

これ、こんなにも

すごい音だっけ?

 

と思っていると、

私の目の前に

ビックリ仰天した

二つの顔があった。

 

彼らは、

英語で何かを

まくし立てた。

 

そして

私の左手を取った。

 

私は

私の自慢の

腕時計を見せながら、

 

「アラーム。」

 

とだけ言った。

 

その時私が

使える唯一の

英語だった。

 

恐らく日本語に

すると、

 

「すげーーっ!!

なんだこれ!!

お前、すげーもの

持ってんな!!」

 

ということだったと

思う。

 

彼らは凄い形相で

私に何かを

わめいた。

 

1980年のことだ。

 

アラーム付きの

腕時計は、

彼らにしてみれば

驚嘆だったようだ。

 

私は、

ニンマリと

笑った。

 

そしたら、

彼らも

ニンマリと

笑った。

 

あぁ、

その時だった。

 

私に

人生で経験したことの

ない

感覚が

訪れた。

 

・・・・・・

 

私と彼らの間に

あった

距離、

壁、

境界、

環境の違い、

文化の違い、

言葉の違い、

人生の違い、

・・・要するに、

断絶とも分離とも

言える

あらゆるものが、

その一瞬のうちに

消散した。

 

私達はまるで

生まれてからずっと

兄弟だったような

感覚に包まれた。

 

彼らは

どうだったかは

わからないが、

少なくとも

私はそうなった。

 

その瞬間から

私達は紛れもなく、

「家族」

になった。

 

ちょうどその時、

見舞いを終えた

彼らの両親が

待合室に

もどって来た。

 

弟の方が、

夢中になって

私の腕時計のことを

両親に伝えた。

 

両親は

私の腕時計を

見た。

 

もう一度、

アラームを

鳴らしてみた。

 

みんなで

笑った。

 

私達は

「家族」だった。

 

・・・・・・

 

あれから約

40年経った今、

 

そうか、

あの瞬間に私は

人生の道を

決めたのかもしれない、

 

と思う。

 

私が今の

お仕事をさせて

いただいているのは、

あの瞬間と、

彼らの

おかげだな。

 

つづく

 

ずっとそばにいるんだよ

 

少年が佇んで

川を見つめていた。

 

太陽が沈み、

日が翳り、

少年の表情も

もうすぐ

見えなくなるだろう。

 

だから私は

今のうちに

彼の横顔を

じっと見ることにした。

 

私は彼の

横顔が

好きだった。

 

少年は

私から見られているのを

まったく気にもせず、

 

ただ

川を見つめ続けた。

 

少年には

夕日の赤が

よく似合った。

 

これから

人生に繰り出して

行くはずなのに、

 

まだまだ

スタートラインから

それほど進んで

いないのに、

 

なぜか彼には

夕日の赤が

よく似合った。

 

悲しげな

表情が

似合っていた。

 

君はここまで

いったい

何を見てきたの?

 

そう

問いかけたく

なるのだが、

 

いつも私は

口をつぐんだ。

 

彼の悲しげな

顔の

その一枚奥には、

 

とてつもない

意志を

感じるからだ。

 

何をどう

話しかけても、

少年のその意志を

汚してしまう

気がした。

 

だから私は

じっと彼を

見つめるだけに

した。

 

少年は

佇んでいた。

 

夕日の赤が

とてもよく

似合っていた。

 

・・・・・・

 

彼はきっと

何も知らないのに、

すべてを

わかっていた。

 

これまでの

彼の歩みに

降りかかってきた

ことも。

 

これから彼の身に

起こるであろう

未来も。

 

自分だけでは

ない。

 

他人の痛みも

喜びも

すべてを

彼はわかっていた。

 

なぜ自分が

また

ここにいなければ

ならないのか。

 

それを見つめる時、

どうしても

その悲しげな顔に

なってしまう

という

その事実さえも

彼はよく

わかっていた。

 

少年の目に映る

その川と、

彼は自分の区別が

ついていないのだろう、

私は思った。

 

彼は

川であり、

そして

彼は彼で

あった。

 

その、

誰も感じることのない、

悲しさを

彼は確かに今、

感じているのだろう。

 

それがわかる分だけ、

私は彼に

何もできないでいた。

 

・・・・・・

 

少年の意志の

強さを、

私は恐らく

誰よりもよく

知っている。

 

だから私は

少年と共に

いる。

 

少年の隣に

立ち続けている。

 

私は彼を

支えるのだろうか?

 

いや、きっと

支えなくとも

彼は

歩んで行くのだろう。

 

私は

祈ればよいのか?

 

彼のために

祈り続けるだけで

よいのか?

 

恐らく彼は

それすらも

望んでいないだろう。

 

大人になった彼は

きっと

私の存在に

気がつき、

 

きっと笑顔で

私に言うのだろう。

 

ずっと

そこにいて

くれたんだね。

 

ありがとう、

と。

 

その日が来るまで

私は、

ただそっと

彼の隣に

立ち続けよう。

 

つづく

 

この手応えは何だろう

 

手応えが、

出てきた。

 

人生への

手応えが、

である。

 

ようやく。

 

これまで随分と、

種を蒔いてきた。

 

その種は

ほんの一部は

芽を出し、

 

さらにその中の

ほんの一部は

花を咲かせたが、

 

広大な大地

から見れば、

 

それは砂漠の中の

水の一滴に

過ぎなかった。

 

たとえ花は咲いても、

その花が咲くだけで、

やがてそれは

枯れていった。

 

花が

次の花に

結びつくことは

極めて

稀だった。

 

だから、

いくつもいくつも

種を蒔き続けた。

 

・・・・・・

 

私自身の中では

常に、

 

こんなことを

続けても、

結局は何の意味も

ないのではないか、

 

という声は

あり続けた。

 

しかし、

いざ、砂漠に立てば、

ここにこんな

種を蒔こう、

という思いが、

その瞬間だけは

何の迷いもなく

湧き上がった。

 

それを一言で

確信

と言うのだろうが、

 

確信は

その瞬間にだけしか

存在しなかった。

 

今ここだけの

確信。

 

それが

続いたが、

それが

続くうちは

その確信に従う

ことにして、

ずっとやってきた。

 

しかし気がつけば、

それで

人生の50年を

費やしてしまった。

 

・・・・・・

 

ところが、

思わぬ手応えを

今私は

感じ始めている。

 

もちろんこれまでも

手応えを

得ることはあったが、

 

明らかに

これまでとは

違う。

 

手を伸ばせば、

必ずそこに

何かを掴める

手応え。

 

力を込めれば、

その力がそのまま

伝播し続ける

手応え。

 

これは、

何なのだろう?

 

この手応えが

人生

というものか?

 

恐らくここからは

ステージが

変わるのだと

思う。

 

これまでの人生を

空虚なステージだったな、

言い切ってしまえるような

 

そんな未来を

今の私は

予感している。

 

今ここに

「今」

という

時がある。

 

時は常に

一定のスピードで

流れているが、

 

これからの

私にとって、

残された「今」は

とてつもなく

短く感じるのだろう。

 

残された「今」を

私はこれまで以上に

大切に

紡いでいくだろう。

 

つづく

 

私は何もしなくてよかった

 

二人の素敵な

経営者と

一緒に食事をした。

 

二人は

ハイボールを、

 

私はいつものように

ウィスキーの

ストレートを

飲みながら。

 

二人は

議論をしていた。

 

努力型と

天才型についての

議論。

 

それを中心に

話は様々な方向に

進んだ。

 

私は二人の会話を

聴きながら、

 

やっぱ

ウィスキーは

美味いよなぁ、

 

やっぱ

素敵な人達と

一緒に飲むと、

さらに美味いよなぁ、

 

と、

心の中で

呟いていた。

 

二人の意見は

なかなか

合わなかったのだが、

 

それでも

二人とも

とても楽しそう

だった。

 

時折、

引き込まれるように

自然に私は

口を開いていた。

 

たけうちさん、

真本音と反応本音の

割合は

どれくらいが一番

適切なんですか?

 

と一人が

問うと、

 

もう一人が、

 

いやいや、

真本音100%が

一番いいに

決まってるでしょ。

 

と、口を挟んだ。

 

私は何も答えず、

 

もっとお二人の会話を

聴いてたいなぁ。

 

と笑った。

 

またそういうことを

言う。

 

と、二人も

笑い、

会話はさらに

進んだ。

 

二人とも

私と同世代の

経営者。

 

もう随分長いこと、

組織のトップとして

がんばってきた。

 

ある意味、

二人は真逆の人生

を進み、

 

そして今

ここで

交わっている。

 

笑い合いながら

議論を

している。

 

いつものように

私は

「コーチ」としての

言葉を発しては

いたけれど、

 

今日の私は

「コーチ」では

なかった。

 

なぜなら、

今日の私は

まったくコーチングを

していない。

 

コーチングを

していたのは

二人だ。

 

二人は

議論という

形を取りながら、

とても美しい

コーチングを

し合っていた。

 

私はその

美しさに

見とれていた。

 

もちろん二人に

自分達が

コーチングをし合っている

なんて

自覚はない。

 

でもそれはそれは

見事な

コーチングで、

 

それを見ていた

私の真本音は

私がコーチングするのを

止めたのだ。

 

今日は私は

何もしない。

 

と、

私は決めた。

 

口は挟むし、

それらしいことは

言うのであるが、

 

今日の私は

本当に

何もしなかった。

 

ただ、

ウィスキーを

飲みながら、

 

二人のコーチングを

眺めながら、

 

その時間を

楽しんだ。

 

食事が

終わる頃になると、

二人の顔からは、

 

これまで

人生で培ってきた

一切の険しさが

 

取り除かれて

いた。

 

二人ともまるで

少年のようだった。

 

酔っ払って

いたのもあるが、

駅まで行く道すがら、

二人は

肩を組んで

笑い合っていた。

 

どう見ても

3歳と4歳の

ガキだ。

 

私は

自分の顔が

壊れるのではないかと

思えるくらいに

笑った。

 

二人のうちの

一人とは、

駅前で別れた。

 

残った一人と

私は一緒に

電車に乗った。

 

電車の中で

私は彼に

伝えた。

 

見事な

コーチングでしたね。

 

彼は

1歳の子どものように

笑った。

 

つづく

 

完成がゴールではない

 

仕事の合間に

目を閉じますと、

時々私は

大自然の風景を

観ることがあります。

 

それはまるで

目の前に本当に

展開しているかのように、

 

というよりも、

実際の現実よりも

さらにリアルに

存在感いっぱいに、

 

目を瞑った私の眼前に

現れます。

 

すると、

とてつもなく

心が洗われます。

 

今日、私が観たのは

広大な海。

 

海を観続けていたら、

海から島が

隆起してきました。

 

その島はどんどん

拡大し、

成長し、

ついには大陸に

なりました。

 

するとその大陸に

緑が芽生え、

それは大陸全体に

広がりました。

 

そこで様々な

生命が生まれます。

 

海にも

数え切れないくらいの

生命。

 

そして、

空にも鳥が

飛び交い、

 

大自然は

生命に満ち溢れます。

 

そんな光景を

目の当たりにしながら、

私はその「大自然」の

祈りの声を

聴いた気がしました。

 

その祈りとは、

言葉にすれば、

 

『すべてのものが

未完成で

あり続けますように』

 

でした。

 

・・・・・・

 

大自然は

未完成です。

 

もちろん

私達人間も

未完成です。

 

どれだけ成長しても

どれだけ進化しても

未完成のままです。

 

そこにこそ

価値も意義も

あります。

 

完成は

ありません。

 

人間として

完成する、

ということは

あり得ないのです。

 

それなのに、

多くの人が

自分の未完成ぶりを

嘆きます。

 

嘆くだけでなく、

未完成な自分を

責め続ける人も

います。

 

未完成だからこそ

素晴らしいのに。

 

未完成なのが

人間であり

大自然であるのに。

 

そこを否定する

というのは、

宇宙のすべてを

否定するのに

等しい

傲慢さです。

 

・・・・・・

 

未完成を楽しむ、

というのが

人生を楽しむという

ことの本質でしょう。

 

未完成だからこそ

私達は

進むことができます。

 

昨日とは

違う自分。

 

昨日よりも

成長した自分。

 

を、永遠に

楽しむことができます。

 

それをもし

「疲れる」と感じるならば、

その人は、実際には

成長できていない

からこそ、

疲れるのです。

 

成長・進化とは

パワーです。

 

無尽蔵の

エネルギーの

源です。

 

今のレベルが

どうか?

 

よりも、

 

今の成長度合いが

どうか?

 

によって、

その人の放つ

魅力もパワーも

変わってきます。

 

本当に

魅力ある人とは

成長・進化し続ける

人のことです。

 

完成された人

のことでは

ありません。

 

もちろん、

完成など

あり得ないのですが。

 

・・・・・・

 

未完成であることを

見くびっては

いけません。

 

未完成であることは

私達の誇り

です。

 

人間の尊厳

です。

 

未完成は

完成を超える

存在です。

 

つづく

 

せっかく中心があるのだから

 

地球に中心核が

あるのと同様に、

私達にも

中心核があります。

 

「中心核」

と言うからには、

それは

中心にあります。

 

恐らくもし

それがなくなったら、

「それ」は

存在し得ないでしょう。

 

もしくは、

まったくの別物と

なるでしょう。

 

もし中心核が

他の何かに入れ替わった

だけだとしても、

「それ」は別物になる

可能性が高いです。

 

私達も

同様です。

 

・・・・・・

 

ところが。

 

私達には

中心核があるにも

関わらず、

その中心核とは

別の生き方を

してしまっているケースが

あります。

 

例えば、

中心核が望んでいる

ことと、

真逆の方向に進む

人がいます。

 

例えば、

中心核の持っている

個性を、

まったく生かさずに

進む人もいます。

 

中心核は

そこにあるのに、

 

自分の

中心なのに、

 

その中心を

自分自身が

無視をする。

 

ということは、

中心核が入れ替わった

わけでもないのに、

まるで入れ替わって

しまったかのように

生きてしまいます。

 

始末が悪いのは、

そういった場合、

私達人間は

とても「苦しむ」

ということです。

 

その苦しみは

想像している以上に

キツく、

その苦しみを私達は

打ち消そうとします。

 

苦しみを消そうと

するために

生きる、

という状態に入り、

 

その結果として

ますます

中心核を無視する

ようになります。

 

当然、

苦しみはさらに

増します。

 

残念ですが、

とても多い事例です。

 

・・・・・・

 

やはり・・・、

 

中心核があるからこそ

私達は

存在し得るのです。

 

中心核のない

人は

一人もいません。

 

それが事実であり、

真実。

 

にも関わらず、

まるで中心核が

ないかのように

生きてしまう人がいる。

 

これも事実。

 

そして、

現実。

 

この現実が

今の世の中の

現実を

引き起こしています。

 

現実的に

起こっている

様々な歪みは、

 

私達自身の

中心核とのズレが

根本原因だと

私は思っています。

 

中心核と

振る舞いの一つ一つが

結ばれていく。

 

中心核と

振る舞いの一つ一つが

一致する。

 

これを私は

 

『一貫性』

 

と呼んでいます。

 

今の社会には

一貫性が

ありません。

 

それは

私達一人ひとりに

真の一貫性が

ないからです。

 

まずは。・・・

 

中心核の存在を

自覚すること。

 

そして、

中心核の望みを

自覚すること。

 

そして

一つずつ、

その望みと

振る舞い(行動)を

丁寧に

一致させていくこと

ですね。

 

つづく

 

今の場所に答えはない

 

目の前に

大きな川が

流れています。

 

対岸は

遥か彼方に

見えます。

 

こちらから

対岸に

大きな橋が

架かっています。

 

その橋を通ることで、

私達は

対岸に行くことが

できます。

 

ところが、

超巨大な台風が

この地を襲い、

その橋は

破壊されてしまいました。

 

橋は粉々に

砕け、

対岸に行く術が

なくなってしまいました。

 

いったい

どうしたらよいのだろう?

と、

私達は茫然と

佇んでいます。

 

・・・・・・

 

時間がかかっても

新しい橋を

もう一度、

作り直そうか?

 

それとも

ここから何10kmも

先にある

別の橋まで

迂回しようか?

 

それとも

いっそのこと

泳いで渡ろうか?

 

船は

用意できない

だろうか?

 

どうしても

対岸まで行かなければ

ならない時、

私達はそのように

悩むでしょう。

 

しかしどの方法も

どうしても

最善だとは思えません。

 

どうしたら

よいでしょうか?

 

・・・・・・

 

人生では、

このような場面に

何度も出会います。

 

組織活性化の

サポート現場においても、

どの企業様でも必ず

このような場面に

出会います。

 

暗中模索。

 

五里霧中。

 

八方塞がり。

 

こんな時に限って、

次々と

台風が襲ってきたり

します。

 

そうなるともう

あきらめるしかないのだ、

どうしてもなりがちです。

 

確かに

私自身も

お手上げ状態に

なります。

 

・・・・・・

 

この

「お手上げ状態」に

なってからが、

私は、

組織活性化の本当の

スタートであると

思っています。

 

「お手上げ状態」

の時、

私は本当に

「お手上げです」と

マイッタをします。

 

もう

どうしようも

ありません。

 

と、

素直に認めます。

 

しかし、

目の前の現実、

・・・つまりは、

大きな川と

激しい台風から

目を反らすことは

決してしません。

 

お手上げのまま

じっと、

それらの「現実」達と

向き合い続けます。

 

もちろん

私だけでなく、

その組織の皆さんにも

同様にして

いただきます。

 

そして、

皆さんが

本当の意味で

開き直った時。

 

私達は

次元を一つ上がる

ことができます。

 

組織の「脱皮」の

瞬間です。

 

・・・・・・

 

次元が上がる

とは、

これまでとは

まったく別のステージに

上がる

ということです。

 

すると、

同じ現実でも

「現実の観え方」が

根本的に

変わるのです。

 

上記の喩えで言えば、

 

目の前に

存在していたはずの

大きな川が

実は

存在していなかった、

ということに

気づいたりするのです。

 

激しい台風だと

思っていたものが

実は単なる

思い込みに過ぎなかった、

とか。

 

もちろん

そのように解釈し直す、

という話では

ありません。

 

物事をすべて

前向きに捉えましょう、

という話でも

ありません。

 

本当に、

すべてが

違って観える

ようになるのです。

 

「世界」が

変わるのです。

 

「現実」は

同じなのに。

 

すると、

これまでは決して

観えなかった進み方が

明確にわかるように

なります。

 

それはそうです。

 

大きな川も

激しい台風も

ないのですから。

 

そこには

何の問題も

初めからなかった

かのように、

私達は

淡々と前に進むことが

できます。

 

これが、

次元が上がる

ということです。

 

・・・・・・

 

同じ次元に

いては、

私達が本当に

欲している道には

たどり着けません。

 

ましてや、

同じ次元の中での

「どちらが正しいか?」

をやっている間は、

決して進めませんし、

 

そこには、

争いや戦いや諍いが

あるだけです。

 

誰が正しいか?

 

何が正しいか?

 

ではないのです。

 

私達は

そこから早く

抜け出さなければ

ならないのです。

 

これが今の

私達の

共通のテーマです。

 

特に、

最高速で進もうと

する者の

最重要テーマ

なのです。

 

つづく

 

頑張っている内は超えられない

 

もし、

加速することに

疲れてしまったら、

 

その

がんばり

を、

いったん手放すと

よいですね。

 

あなたが

がんばっても

がんばらなくても

 

あなたの真本音は

進みます。

 

「頑張る」

とは

「我を張る」

というのが

語源であると

聴いたことがあります。

 

確かに「頑張る」の

「頑」は

「頑固」の「頑」

ですからね。

 

もちろん

がんばることは

大事ですが、

がんばろうとすることで

歩みが遅く

なってしまうことも

あるのです。

 

・・・・・・

 

私の心の奥から

 

『何もしない』

 

という言葉が

浮かんできたのは

いつのことだったかな?

 

当時の私は

毎日、クタクタで、

 

毎日、全力を

尽くしていました。

 

もちろんそれは

今も変わらない

のですが、

 

「全力を尽くさねば

ならない」

という頑なな想いが

私の疲れを

倍増させていたように

思います。

 

恐らくそのがんばりが

限界を超えて

しまったのだと

思います。

 

ある時、

仕事が終わって

帰宅した時に、

 

あっ、俺、死ぬな。

 

って思ったんです。

 

そして

自分の命の光が

スーッと消えていくのが

わかりました。

 

あっ、俺、このまま

死んでしまう。

 

生命エネルギー

使い切っちまった。

 

・・・と

焦りました。

 

私は私の命の灯が

消えていくのを

ただ茫然と

眺めるしかなかった

のですが、

 

命が消える

ギリギリのところで、

何かとてつもなく

あたたかなものに

支えられた感覚が

しました。

 

その感覚に

15分ほど包まれていたら、

気がついたら

普通の自分に

戻っていました。

 

助かったのかな?

 

と思っていたら、

その瞬間に

浮かんだのが、

 

『何もしない』

 

という言葉

だったんです。

 

・・・・・・

 

変な表現ですが、

次の日から

私の人生理念は

 

『何もしない』

 

になりました。

 

一日中、その一言を

つぶやき続けていた

覚えがあります。

 

すると大変

面白いことに、

 

私の中から

「がんばり」が

消えてしまいました。

 

と同時に、

「がんばり」とは

別のところから

エネルギーが湧く

ようになりました。

 

「何もしない」

と呟いていると、

一人でいる時には

自分自身は

何の光も発していない

のですが、

 

クライアントさんなど、

人の前に立った瞬間に

一気に自分が

開かれる感覚がしました。

 

私自身は

「何もしない」と

思っているのに、

 

その時その瞬間、

自分のすべきことが

ありありと

わかるようになり、

 

私はその通りに

振る舞っている自分に

気づきました。

 

今ならよくわかる

のですが、

その時の私は、

 

自分の真本音に

完全に委ねている

 

という状態でした。

 

自分が自分に

委ねる、

 

のです。

 

変な表現ですが、

それ以外に

上手い表現が

思い浮かびません。

 

そして私は

明確に

わかったのです。

 

なんだ、

俺は俺を信じて

いなかったんだ、

と。

 

最初から

自分に委ねれば

よかったのに、

 

自分を信じられない

ものだから、

いつも我を張って

「何とかしよう」と

頭で考えていた。

 

それを

完全に手放すと

こんなにも

楽なのか。

 

そして、

それを完全に

手放すと、

こんなにも

目の前の人が

悦んでくださるのか。

 

ということを、

驚嘆と共に

私は体験することが

できました。

 

・・・・・・

 

今、

最高速度で進もうと

している皆さんへ。

 

これまで

自分が出すことのなかった

スピードを出すならば、

 

もう、

これまでの自分の

範疇で

「がんばろう」

とすることは

あきらめましょう。

 

自分をただ信じ、

そこを手放した時に、

初めて観えてくる

世界があります。

 

あなたは

その世界に入ろうと

しています。

 

合言葉は、

 

『何もしない』。

 

自分を自分に

委ねてしまって

ください。

 

つづく

 

苦しみの荷を降ろすには

 

私が人生において

初めて自分の「脱皮」を

自覚したのは

18歳の時です。

 

北アルプスにある

常念岳という山を

登っている途上でした。

 

かなり急峻な山で、

その時は50kgのザックを

背負っており、

しかも天候も悪く、

一歩一歩を踏み出すことに

全力を集中させて

いました。

 

ところが、

急に天候が

良くなったのです。

 

覆われていたガスが

晴れ渡り、

青空が

見えました。

 

と同時に、

まったく閉ざされていた

視界が広がり、

目の前に

槍・穂高連邦の

雄姿がドッカ〜ンと

姿を現しました。

 

と同時に

私自身の人生の

視界も

急に広がったのです。

 

目の前の現象と

心の中の実在が

一致するという、

今思えば

非常にわかりやすい

シチュエーション

でした。

 

これまで

非常に小さな視界の

中でしか

発想していなかった

私の思考は

一気に開放され、

 

とてつもなく

晴れやかな気分に

包まれながら、

 

私の中には

二つの問いが

生まれました。

 

「私はなぜ、

ここにいるのだろうか?」

 

「私の人生には

どのような意味が

あるのだろうか?」

 

です。

 

私はこの後、

その思索に耽りながら、

山を登り続けました。

 

疲れは完全に

吹き飛び、

これまたとてつもなく

幸せな時間でした。

 

今でも

ありありと

思い出せます。

 

・・・・・・

 

私達は、

自分自身の視界を

閉ざしてしまうような

「何か」を

常に抱え込んで

生きています。

 

その荷重が

限界を超えた時、

 

私達はそれを

一気に放り投げ、

身軽になります。

 

それが私の言う

「脱皮」というもの

ですが、

 

きちんとした

「脱皮」のためには

その荷重を

しっかりと背負い、

かつ、

感じ続けなければ

なりません。

 

荷重から

逃げたり、

目を逸らしていれば、

荷重は増えるばかりで

永遠に

脱皮はできないのです。

 

そしてついには

荷重によって

押し潰されてしまい、

 

押し潰されて

倒れ込んだままで

人生を終えてしまう

人もいます。

 

自分が今、

何に苦しんで

いるのか?

 

それを私達は

しっかりと自覚する

必要があるのです。

 

脱皮のためにも。

 

自分の人生の

ためにも。

 

そして、

自分の大切な

人達のためにも。

 

・・・・・・

 

真本音度合いが

高まると、

まず、

自分のその荷重に

気づく人がいます。

 

その人は

言います。

 

「真本音を大切に

し始めたら、

苦しくなりました」

 

と。

 

いえ、

それは

「苦しくなった」

のではなく、

 

「自分が苦しんで

いることを自覚した」

 

のです。

 

要するに、

麻痺が取れた

のです。

 

人は

麻痺を取ることを

極度に恐れますが、

 

しかしやはり、

麻痺のままでいる

ことは、

最もオススメできません。

 

なぜなら、

麻痺は

自分自身の苦しみを

増大させるだけでなく、

自分の周りの人達にも

苦しみや不調和を

与え続けるからです。

 

麻痺している人は

自分の気づかないところで、

周りの人達を

傷つけ続けます。

 

本人の気づかない、

ちょっとした一言、

ちょっとした空気感、

ちょっとした振る舞いに

よって、

周りを傷つけ続ける

のです。

 

麻痺していても

苦しいからです。

 

結局は

苦しみは変わらず、

その苦しみから

逃れるために、

その人は自分以外の人を

知らず知らず

傷つけ続けます。

 

そういった人が

いかに多いことか。

 

・・・・・・

 

人生は

苦しいか?

楽しいか?

 

もちろんそれは

両方です。

 

しかし、

苦しみと楽しさは

相反するもの

ではなく、

 

しっかりと自分の

苦しみと

向き合える人は、

 

本当の意味での

楽しさを

得ることができるのです。

 

つづく

 

今日も命を感じたよ

 

命って

何でしょうね?

 

私達には皆、

命があります。

 

一般的に

生物と言われる

ものには

命を感じます。

 

しかし実は私は、

生物以外のものにも

命を感じることが

あります。

 

すべてのものに

命はあるのではないか

と、よく

私は思います、

・・・というよりも

そう感じます。

 

例えば、

研修やチームコーチング

などをしていますと、

たくさんの人達と

長時間向き合い

続けます。

 

すると毎度のことですが、

途中から

自分なのか、

その人なのか、

自分が誰なのか、

わからなくなります。

 

皆さんがどう感じるかは

別として、

私は、皆さんと一つに

なっているのだと

思います。

 

そういった時間が

終わり、

一人になった時、

私は

「世界」のすべてに

命を感じます。

 

駅を歩いたり

電車に乗ったり

するその

一刻一刻の時間が

ゆっくりと流れ、

その時間の刻みと共に、

「世界」の息遣いを

ダイレクトに

感じるのです。

 

なんだ、

すべては生きている

ではないか、

と、いつも当たり前のように

思うのです。

 

人も

生きている。

 

物も

生きている。

 

空気も

光も

影も

すべて

生きている。

 

命そのものの

この世界の中に

私は

いる。

 

そう感じるのです。

毎日の

ことですが。

 

この時私は、

「もとに戻れた」

気が

いつもするのです。

 

・・・・・・

 

この仕事を

していますと、

 

人と人が争う

という場に

よく出くわします。

 

AさんとBさんが

言い争っています。

 

その時私は

二人の「そのまま」を

観察し、感じます。

 

すると

人と人の争いには

2種類あることが

わかります。

 

言い争いながら、

どんどん「分離」

していくケースと、

 

言い争いながら

どんどん「一つ」に

なっていくケースです。

 

前者を

「反応本音の言い争い」

 

後者を

「真本音の言い争い」

 

と私は呼んでいます。

 

「真本音の言い争い」

は、

愛の行為です。

 

そういうものが

私は

組織にどんどん

増えていくといいな、と

思います。

 

言い争いそのものが

悪いわけでは

ないのです。

 

つまりは、

表面的な「行為」

だけを見て

物事を判断することは

やめた方がよいです。

 

「真本音の言い争い」が

発生した場合、

私はそれを

どんどん助長します。

 

中途半端に終わろうと

すると、

「いや、そこで

終わってはダメですよ」

と、

言い争いを終わらせ

ません。

 

せっかく「一つ」に

なろうとしているの

ですから、

 

せっかくお互いに

愛を与え合って

いるのですから、

 

それを止めてしまっては

いけません。

 

「真本音の言い争い」に

私は、

命を感じます。

 

言い争えば

言い争うほど、

命の光が強くなるのを

感じます。

 

命とは、

「一つになろう」

という意志が

強まれば強まるほど、

 

明るく

輝くものでは

ないでしょうか。

 

・・・・・・

 

私達は

せっかく命を授かって

ここにいるのですから、

 

自分自身の

命も

 

自分以外の

命も

 

育んでいきたい

ですね。

 

命とは本来、

次の命を

生み出すものでしょう。

 

つまり

命とは

永遠を生み出すもの

だと

私は思うのです。

 

つづく

 

月と対話してみよう

 

月。

 

月は太陽と違い、

自らは

光を発しません。

 

しかし

太陽の光を受け、

太陽とは違った

とても魅力的な

輝き方をします。

 

じっと見ていると

心が芯から

やすらぐような

神秘的な輝き。

 

月とは

不思議な存在

です。

 

・・・・・・

 

まるで月のように、

私達自身を

じっと見つめる

存在が、

 

私達の中に

存在しているのが

あなたには

わかりますか?

 

その「月」は

どこに

ありますか?

 

私の場合、

その「月」は

時と状況によって

場所も大きさも

変化します。

 

今、

私が私の「月」を

探すと、

 

私の目の前に

直径5mくらいの

大きさで

輝いています。

 

おぉ、こんなところに

こんな大きさで

私を見つめて

いたんだな、と

 

ちょっと

びっくりしています。

 

あなたの

「月」は今、

どこに、

どのくらいの大きさで

ありますか?

 

・・・・・・

 

「月」が観えたら、

「月」にじっと

意識を向けて

みましょう。

 

それだけで

心が洗われて

きますね。

 

じーっと静かに

そうしていると、

何となくですが

「月」からの

メッセージが

伝わって来るようです。

 

私の「月」は

私に言います。

 

「ちょいと

がんばりすぎでは

ないか?」

 

・・・と。笑

 

あ、やっぱり?

と私が答えると、

 

「月」は私を

やさしく包み込んで

くれました。

 

おぉ、癒されるなぁ、

と思っていると、

「月」の意思が

直接伝わってきます。

 

「たまには

ゆっくり進んでも

いいんじゃない?」

 

いやぁ、でも今

最高速度で

進んでいる人も

増えているから。

私は、

そんな人を

全力でサポート

したいんだ。

 

「そうだね。

気持ちはわかるよ。

挑戦する人は

美しいからね。」

 

でしょ?

みんな、

美しいよなぁ・・・。

 

「美しいねぇ・・・。」

 

美しいよなぁ・・・。

 

「美しいねぇ・・・。」

 

ホント

美しいよなぁ・・・。

 

「そうだねぇ・・・。

でもだからと言って、

君が無理を

し過ぎてはいけないよ。

君が倒れたら

元も子もなくなる。」

 

私は倒れるくらいに

疲弊してる?

 

「ギリギリのところで

やってるでしょ?

君はギリギリの

名人だから。」

 

まぁねぇ・・・。

 

「君の自己管理力は

大したものだけど、

それでも君は

人間だから。

体もあるんだから。」

 

まぁねぇ・・・。

 

「私も君を応援するし、

君を癒し続けるけど、

君ももう少し

自分にやさしくして

あげて。

これから長く、

みんなをサポート

するためにもね。」

 

・・・そうだねぇ。

 

・・・・・・

 

「月」

っていうのは

やっぱりいいねぇ。

 

癒されているうちに

何となく

諭されてしまう。

 

じっと

どんなときも

自分を観続けて

くれる存在。

 

私も皆さんにとって

そんな存在で

あれたらいいな。

 

つづく

 

人生は怖いですか?

 

水は

上から下へと

流れます。

 

決して、

下から上へとは

流れません。

 

それが

自然の摂理です。

 

私達の人生も

上から下へと

流れる川のようである、

イメージしてみて

ください。

 

私達のたどり着く先

には

広大な「海」が

あります。

 

私達は

「海」を目指して

流れ続けています。

 

ところが、

川の流れの途中には

大きな「滝」が

あったりします。

 

時には、

滝壺が見えないくらいの

巨大で深い

滝があります。

 

大量の水が、

もの凄い勢いで

その滝壺に

飲み込まれていきます。

 

滝の上から

滝壺を見降ろしながら、

あなたは

恐れおののいて

います。

 

しかし、

ここを「落ちなければ」

先には

進めません。

 

さぁ、

どうしましょうか?

 

・・・・・・

 

落ちたくないので、

その場所に

立ち続けますか?

 

しかし、

川の水はずっと

勢いよく流れ続けて

います。

 

そこに立ち続ける

だけでも

体力を消耗し、

いずれは

あなたも滝壺に向かって

落ちることに

なるでしょう。

 

もしくは、

落ちるのがいや

なので、

川上に向かって

川を逆流しますか?

 

しかし

それほど不自然な

ことはありません。

 

もといた場所に

戻りたい、

というのは

我々人間の情の一つ

ではありますが、

それこそ

至難の業です。

 

・・・・・・

 

滝に落ちる恐怖。

 

それは誰しもに

あります。

 

しかしそれは

反応本音です。

 

私達の真本音は

滝壺に向かって

自ら飛び込むことを

望んでいます。

 

その勇気と

遊気を

望んでいます。

 

どうせ落ちるなら、

自分らしく

徹底的に

落ちてしまえ。

 

という

開き直りを

望んでいます。

 

いい意味での

「あきらめ」

が肝心です。

 

私のクライアントさんには、

滝壺に落ちる快感を

知ってしまった人が

何人もいます。

 

あるクライアントさんは、

自ら滝壺を

創り出し、

休みなく次々に

滝壺に飛び込み続けている

という

そんな人さえいます。

 

もちろん

自己満足で

やっているのでは

ありません。

 

その人は

一刻も早く

海に出たいのです。

 

そのために

自分にできることを

日々、

最大最高スピードで

行なっています。

 

私から観れば、

この人、毎日

滝壺だな、

と思えます。笑

 

そしてそれが

「普通」になってしまうと、

その人は

真に「安定」と「安寧」を

得ます。

 

ある意味、

怖いものなし

となります。

 

いえ、

もちろん「怖さ」は

あります。

 

何がどうなっても

私達には

反応本音は発生

します。

 

その人も

他の人と同様に

「怖がり」です。

 

しかしその

「怖さ」そのものに

対して、

とても素直です。

 

怖いからやめる、

のではなく、

怖さを存分に

味わいながら、

次々に

滝壺に飛び込む

のです。

 

すると、

その「怖さ」の根底に

私達は

「安寧」を得るのです。

 

それが、

真本音を感じながら

生きるという

ことです。

 

・・・・・・

 

自然の摂理に

抗う必要は

ありません。

 

私達自身が

「自然」なのですから。

 

人生は

怖いですか?

 

怖いですね。

 

その怖さを

消す必要など

一つもありません。

 

怖いから

進まない

のではなく、

怖いからこそ

進んでください。

 

怖いからこそ、

早く

飛び込んで

しまってください。

 

すると、

怖さとは味方である

ということが

ある瞬間から

わかるでしょう。

 

つづく

 

いいかげんにやめなさい

 

目の前に

「現実」があるのに、

 

その「現実」が

まったく見えなく

なることがあります。

 

見ているのは、

ただの「雲」。

 

しかもそれは

心の中の「雲」。

 

心の淀み。

 

そうなると

私達は、

その「雲」に勝手に

「映像」を

映し出します。

 

「映像」とは

私達の勝手な

解釈によるもの

です。

 

自分の解釈によって

創り出した映像を

自分で眺め、

 

それが

事実であると

思い込み、

 

その映像に即して

私達は

次の行動を

決めてしまいます。

 

それにより、

不調和が

発生します。

 

しかも

それをしているのは

自分だけでなく、

相手も同じ。

 

自分も

相手も

それぞれが

勝手に創り出した

映像に基づいて

お互いの関わり方を

決めます。

 

不調和が起こる

のは

当たり前ですね。

 

・・・・・・

 

私達人間にとって

解釈は

もちろん必要な

ものですが、

 

事実を解釈する

ならまだしも、

解釈によって

生み出された幻影を

解釈し、

 

さらにその解釈を

また解釈し、

 

・・・を繰り返せば、

それはそれは

苦しい人生に

なります。

 

解釈とは本来、

より良い人生に

なるために

あるものなのに、

 

解釈によって

苦しみが増すのは

実にもったいない

ことです。

 

自らの解釈によって

自らを

がんじがらめに

する。

 

「自分」という

人間さえ、

解釈の賜物

だったりします。

 

自らの解釈で

自らの個性までも

固めてしまう。

 

コリコリに

固まった自分が

「夢を持って

進む」

ということをしても、

 

それはもう

コリコリに

固まった人生

でしかありません。

 

「夢がわからない」

という人もいます。

 

コリコリの自分からは、

当然ですが、

夢も願いも

生まれません。

 

・・・・・・

 

「私はこういう

人間ですから」

 

という言葉を、

いったい私は

何百回、何千回

聴いたことでしょう。

 

多くの人が

まるで

確信を持ったかの

ように、

そう言うのです。

 

「私はこういう

人間ですから」

 

それを言って、

喜ぶ人が

一人でも

いるでしょうか?

 

自分も含めて、

誰も喜ばない

言葉です。

 

でも、

「私はこういう

人間ですから」

が、

唯一の

安全地帯であるかの

ように、

その人は

解釈しています。

 

・・・・・・

 

ピコン、ピコン、・・・

カラータイマーの

鳴っている人が

多いです。

 

本当は、

太陽エネルギーは

そこかしこに

あるのに。

 

エネルギーは

どこにいても

補充できるどころか、

 

常に

満タン状態で

生きていくことは

できるのに。

 

なのに、

「自分はこういう

人間ですから」

と言いながら、

 

エネルギーを

自分自身で

枯渇させています。

 

そのうちに、

本当に

エネルギーが

切れてしまいます。

 

エネルギーが

枯渇して

しまっているのは、

 

世の中の

せいでは

ありません。

 

状況の

せいでも

ありません。

 

他の誰の

せいでも

ありません。

 

自分の

生き方の

問題です。

 

自分が

変わるしか

ないのです。

 

いえ、

自分が

本来の自分に

戻ろうとする。

 

たった

それだけの

ことなんです。

 

つづく

 

ここからはまっすぐだ

 

目の前に

まっすぐな道が

延々と

続いている

イメージをしてみて

ください。

 

もし

どうしても

曲がった道しか

イメージできない場合は、

 

どうすれば

まっすぐな道に

なるだろうか?

 

と自分自身に

問うてください。

 

まっすぐな道に

なるために、

今の自分に

必要なことは

何だろうか?

 

まっすぐな道に

なるために、

今の自分が

変えなければ

ならないことは

何だろうか?

 

などの問いも

よいでしょう。

 

まっすぐな道を

イメージできる人は

その道を

一気に進もうと

今、

決意しています。

 

しかもその

スピードは、

恐らく、

過去最高

です。

 

過去最高の

加速と

過去最高の

速度を

出そうと

しています。

 

過去最高を

記録するために、

 

今の自分に

必要なことは

何だろう?

 

今の自分が

今のうちに

準備しなければ

ならないことは

何だろう?

 

と、

自分に問うて

みてください。

 

・・・・・・

 

「過去最高」に

挑戦しようと

する人が、

 

今、

過去最高に

増えていると

私は最近

強く実感しています。

 

結構、

今の私は

感無量です。

 

あぁやっと

こんな時代に

なったのだなと、

なぜか

とても思えます。

 

まずは

この状態までに

来たかったんだ、

私の真本音も

笑っています。

 

きっと今、

私と同様に

真本音が笑っている

人が

多いのでしょう。

 

とても

穏やかな

気分です。

 

実在のレベルで

これだけ

穏やかさを

感じるのは、

ひょっとすると

生まれて初めて

かもしれません。

 

・・・・・・

 

「まっすぐな道」

の彼方に、

もし観えるものが

あれば、

それをしっかりと

キャッチしてください。

 

例えば私の場合、

七色に輝く

光が観えます。

 

その光と

じっくり向き合って

いますと、

何となく伝わってくる

メッセージが

あります。

 

それを言葉に

すると

次のようになるでしょうか。

 

「あなたはまだ

本当の自分を

まったく知らない。

これからだよ、

本当に楽しいのは。」

 

はははっ。

 

まぁ、

楽しみましょうか。

 

つづく

 

たった一人しかいなくても

 

あなたは

たった一人。

 

他は

誰もいない。

 

広く

永遠に続く

大地に

一人。

 

孤独。

 

そんな

不安な中でも、

 

それでも

あなたが

進みたい道とは

何ですか?

 

周りに誰も

理解者が

いなくても、

 

それでも

あなたが

切り拓きたい

道とは

何ですか?

 

いや・・・、

 

孤独な道は

私は進みたく

ない。

 

人の協力を

得られない道で

あれば、

私が進むことは

ない。

 

・・・と、

あなたは

思っているかも

しれませんが、

 

いえ、

あなたの中には

間違いなく、

 

たった一人でも

進みたい道が

 

存在して

います。

 

たった一人でも

その道を

行く。

 

そんな覚悟を

 

あなたは

生まれながらにして

持ち合わせて

います。

 

そこにそろそろ

気づけると

よいですね。

 

誰しもが

孤独は

いやですから、

 

というよりも、

私達のあらゆる

恐れの

根元には、

 

孤独への

恐れ

 

がありますから、

そんなことは

考えたくも

ないかも

しれません。

 

しかし

最も根源的な

恐れに

立ち向かって

までも、

 

進みたい道が

 

あなたの

中心には

確かに

存在している

はずです。

 

そろそろ

そこに

目を向ける

ときですね。

 

一人でも

進もう、

 

とする覚悟。

 

それは

あなたの

存在意義そのもの

でもあります。

 

そこを

しっかり

自覚し、

 

その想いと

願いを

しっかりと

抱き、

 

たった一人でも

歩き始めた

その時にこそ、

 

あなたの

本当の仲間、

 

ファミリー達は

 

あなたの

人生に

現れるのです。

 

あなたには

仲間が、

ファミリーが

います。

 

しかし

彼らは、

 

あなたが

たった一人でも

進もうとする

 

その

尊い意志にこそ

共鳴

するのです。

 

つづく

 

もっとあなたらしく

 

だってさぁ、

よく考えてごらんよ。

 

あなたが

生まれてきたことで、

いったい

どれだけの人が

 

救われたと

思う?

 

あなたは

自分の存在なんて

ちっぽけなもの

だと

思っているようだけど、

 

少なくとも

私は

あなたに

救われたのよ。

 

そりゃ、ね

あなたがいなければ

生きてられなかった、

なんて

そんな大袈裟な話では

ないよ。

 

でもね、

私はね、

私の心はね、

随分と

救われたのよ。

 

あなたの

知らないところ

でね。

 

そうだね。

 

確かにあなたは

私に何か

立派なことを

してくれた

わけではないよ。

 

うん、

たくさん

傷つけられた

気もする。

 

でも

あなたがいなければ

起こらなかった

ことは

たくさんあるの。

 

あなたがいなければ

始まらなかった

ことも

たくさんある。

 

ほんのわずかな

ことかも

しれないけど、

私は

救われたよ。

 

あの時の

あなたのちょっとした

笑い顔に。

 

あなたのちょっとした

つぶやきに。

 

あなたの

存在そのものに。

 

あなたが

いなければ、

私の人生は

違ったものに

なってるよ。

 

確かに

それが良かったかどうか、

なんてわからない。笑

 

でも

私の人生には

あなたとの出会いが

入っているの。

 

こうやって

あなたと

出会ったのだから。

 

それが

事実なのだから。

 

私は

私の人生で

あなたと

出会った。

 

ということは、

それが

私の人生。

 

あなたとの

出会いのない

私の人生は

ない、

ってことなの。

 

あなたは

私の人生で

必須なの。

 

そこに

良いも悪いも

ない。

 

厳然たる

事実。

 

人はね。

 

誰しもね。

 

必ず

その人の

「風」

を吹かせるの。

 

その人

ならではの

「風」。

 

出会うという

ことはね、

 

その「風」に

当たる

ということなの。

 

私は

あなたの「風」に

当たったの。

 

それによって

私の「風」も

影響を受けたの。

 

「風」同士が

影響し合って

それぞれが

お互いの「風」を

変化させ合って、

 

そして時には

「風」と「風」が

新たな「風」を

生み出すこともある。

 

そうやって

私達は

自ら生み出した

「風」のコラボによって

今、ここで

生きている。

 

あなたにしかない

「風」があって、

 

その影響は

測り知れないよ。

 

私達の体は

こんなにも小さいし、

一個しかないし、

できる行動も

わずかだけど、

 

「風」は

一度吹いたら

永遠に吹き続ける

んだよ。

 

その影響は

測り知れない

んだよ。

 

あなたの存在は

測り知れない

んだよ。

 

あなたは

あなたの「風」を

生み出し切れた?

 

あなたにしか

吹かせられない

「風」を

躊躇なく

吹かしてる?

 

あなたの「風」は

私を救い、

 

そして

多くの人を

救っていく。

 

その自覚を

しっかり持ってね。

 

だからもう

こんなところで

立ち止まらないで。

 

人生は

まだまだ続く。

 

だって

あなたの「風」を

待っている人が

いるのだから。

 

あなたとの

出会いを

待っている人が

いるのだから。

 

つづく

 

ちょっと厳しくし過ぎでしょう

 

あなたの目の前には

大勢の観客が

います。

 

あなたは

壇上に立って、

彼らに向かって

話をしています。

 

皆、とても熱心に

あなたの話を

聴いています。

 

あなたは

必死に語ります。

 

自分自身の

人生について

語っています。

 

人生において

見つかったこと、

得られたものに

ついて、

全身全霊で

語っています。

 

すべてを

語り終えた時、

たくさんの拍手が

湧き起こりました。

 

その拍手の中で、

あなたは

ホッとしました。

 

・・・・・・

 

すると突然、

舞台の端の方に

スポットライトが

当たりました。

 

そこには

重々しい顔をした

人達が数名、

座っていました。

 

「審査員」という

貼り紙が

見えます。

 

どうやら各分野の

エキスパート達

のようです。

 

人生のエキスパート

です。

 

突然、司会者も

現れ、

 

「審査員の先生方、

今のお話はいかが

でしたか?

彼の人生は

いかがでしたか?」

 

と問いました。

 

すると、

「審査員」と呼ばれた

数名のエキスパート達が

順番に印象を

述べ始めました。

 

褒める部分も

ありますが、

概して、

かなり辛辣な意見や、

 

「もっとこうしなさい」

というアドバイスが

多く出されました。

 

あなたは先ほどの

拍手を忘れ、

だんだんと心が

萎んでいきました。

 

一通りの話が

終わったところで、

司会者が

言いました。

 

「はい、では

審査員の皆さん、

彼の人生の点数は?」

 

すると、

電光掲示板に

大きく数字が

映し出されました。

 

「30て〜〜ん!!」

 

と司会者が

叫びました。

 

「30点です!

残念ながら失格です。

予選落ちですね〜。

でも、次回も是非

挑戦してください。」

 

と司会者は

にこやかに

言いました。

 

観客からは

あたたかい拍手が。

 

しかし

あなたにはそんなものは

もう、

聞こえていませんでした。

 

30点・・・。

 

失意の中で

あなたは

うなだれました。

 

・・・・・・

 

私達の心の中には

常に

「審査員」が

います。

 

そして常に自分に

対して、

ダメ出しをし続けます。

 

もちろん

自分自身を

応援してくれる心も

あります。

 

しかし「審査員」の

意見は絶対で、

あなたは自身の中の

その意見に縛られ、

その結果、

人生を進めるうちに

徐々に

自分自身を萎縮

させていきます。

 

自分を

審査することは

大事。

 

自分を反省したり、

振り返ることも

大事。

 

客観性も

大事。

 

しかしそれらは、

 

「伸び伸びと生きる」

 

という前提のもとでこそ

意味があるのでは

ないでしょうか。

 

「審査員」の

ない時間。

 

「審査員」の

ない空間。

 

「審査員」の

ない人生。

 

「自由になる」

とは、

そういった瞬間が

増えていくことでは

ないでしょうか。

 

そして

大変、面白いことに、

 

私達人間は、

 

そういった

「自由時間」が

増えれば増えるほど、

周りと「調和」し、

 

「審査員」の点数も

格段に

上がっていくのです。

 

つづく

 

倉庫の中で何してるの?

 

ある暗い倉庫の中で

遊んでいた子どもが

ふと、

外に出たとします。

 

外は

太陽の光が

注いでいます。

 

出た瞬間は、

それがあまりにも

まぶしくて、

 

目を開けて

いられません

でした。

 

しかし次第に

目が慣れて

きました。

 

周りを見渡すと

とても気持ちの良い

草原が

広がっていました。

 

青空と

爽やかな風と

広々とした

大地。

 

草原はどこまでも

続き、

その子は

大はしゃぎで

走り回って

遊びました。

 

ふと見ると、

倉庫がありました。

 

とても小さい。

 

あぁそうか、

さっきまで

あそこの中に

いたんだ、

とわかりました。

 

あんな小さな

中にいたんだ、と。

 

そこでもう一度、

倉庫の扉を開け、

中を覗いて見ると、

 

真っ暗で

何も見えません。

 

しかも中は

窮屈で、

空気も淀んで

います。

 

わぁ、さっきまで

こんな中に

いたんだ、

とびっくりしました。

 

いや、もう

ここには

戻りたくないなぁ、

と。

 

ふと、

気配がしたので

その子は

後ろを振り返りました。

 

すると、

ニコニコした

「家族」が

いました。

 

あっ、家族だ

一瞬でわかりました。

 

久しぶりに

会えた!

と思いました。

 

「母親」が

言いました。

 

「倉庫の中で

何やってたの?

随分と長い間

入ってたね。」

 

「うん。

あそこが僕の家

だと思ってた。」

 

「あはは、

何言ってんの。

あなたの家は

あそこでしょ?」

 

と「母親」の指差す

方向を見ると、

とても大きく、

しかも可愛らしく、

そして居心地良さそうな

建物が見えました。

 

あぁそうだ。

 

あそこが僕の

家だった。

 

僕はいつも

あそこで

寝起きしていた。

 

とても楽しい

毎日だった。

 

あっそうか。

 

僕はあそこで

育っていけば

いいんだ。

 

暗い倉庫の

中でじっとして

いなくてもいいんだ。

 

と思い出し

ました。

 

「父親」が

言いました。

 

「あの倉庫の中で

何をしていたんだい?」

 

「う〜ん。

何をしていたんだっけ?

なんか大切なことを

していたような・・・。

あっそうか。

探し物を

していたんだ。」

 

「見つかったのかい?」

 

「ううん。

そういえばまだ

見つかってないや。」

 

「それは

見つけた方が

いいものかい?」

 

「・・・そうだなぁ。

見つけた方が

いいかな。」

 

すると、

「兄弟達」が

言いました。

 

「そうなんだ。

じゃあ僕らも

手伝おうか?」

 

「ほんと!?

それは嬉しいなぁ。」

 

「そうしよ、そうしよ、

一緒に探してあげるよ。」

 

「わ〜い!

そうしよう!」

 

「兄弟達」は

その小さくて

暗い倉庫の中に

一緒に入りました。

 

最初は

暗くて何も見えなかった

けれど、

やはり中に入れば

暗さに目が慣れて

きます。

 

「兄弟達」は

協力して、

探し物をしています。

 

その子は、もう

知っています。

 

今のこの倉庫は

僕の本当の家ではない、

と。

 

しかし今の僕には

とても大切な場所で、

ここでしか

見つからないものが

あると。

 

でも、

ここで見つけたいものを

見つけられたら、

再び

外に出ることが

できる、と。

 

そして、外には

僕の本当の「家」が

ある、と。

 

その子はそれを

思い出しました。

 

だから、

あえてこの倉庫の

中にいる

意味も意義も

わかります。

 

しかも

「兄弟達」も

今はいます。

 

すると、

この倉庫が

より愛おしくなって

きました。

 

倉庫よ、

ありがとう!

 

そんな気持ちに

なってきました。

 

・・・・・・

 

真本音の人生を

歩き始める、

というのは、

そんなような

ものですね。

 

つづく

 

グルグル回ってる?

 

最近、増えている

のですが、

 

心の中に

「竜巻」

を持っている人が

います。

 

強烈な竜巻がずっと

心の中で暴れ続け、

その竜巻に自らが

飲み込まれ、

グルグルグルグル

目が回り続け、

 

自分が毎日、

何をしているのか?

 

自分が本当は

何をしたいのか?

 

自分が今、

何に取り組めば良いのか?

 

などが

まったく見えなくなって

しまっています。

 

・・・・・・

 

その竜巻を

止めることは

本当はとても

簡単なのですが、

 

多くの場合は、

その本人が

止めようとして

いません。

 

目が回っている自分

でい続けよう

としているのですね。

 

その理由の多くは、

「見たくないものが

ある」

からです。

 

要するに

現実から目を

背けてしまって

いるのです。

 

しかし稀に、

それを

真本音で行なっている

人がいます。

 

その場合、

真本音は何を

望んでいるのでしょうか?

 

理由は

単純です。

 

自分を

進ませない

ためです。

 

・・・・・・

 

私達の真本音は

「現実との調和」

を重んじます。

 

その結果、

 

自分自身が

進む準備が整って

いても、

現実(状況)の準備が

整っていない場合、

 

現実(状況)が整うのを

じっと待つ、

ということをします。

 

しかし

自分自身の準備が

整ってしまうと、

人は皆、

とにかく前へ前へと

進みたがります。

 

そんな自分を

抑えるために、

あえて、

自分の中に竜巻を

起こし、

そこに自分を

封じ込めるのです。

 

エネルギーの高い

人ほど、

そんなことをします。

 

・・・・・・

 

たけうちさん、

なんか最近、私は

心がとても

不安定なんです。

 

理由が

わかりません。

 

いつもなぜか

落ち着きません。

 

冷静な

判断もできません。

 

周りの状況を

きちんと把握したり、

ありのままに

現実を観ることも

できていない感じが

します。

 

私はまずい状態では

ありませんか?

 

そのように

クライアントさんから

問われるケースが

最近、増えています。

 

面白いことに

真本音度合いの高い

人ほど

そうなります。

 

私は

「そのままで

いいですよ」

と笑って答えます。

 

「今、わざと

グルグル回って

いますから。

しばらくそのままで

回っていてください」

と。

 

「えぇ〜!?」

 

と言いながら、

そのクライアントさんは

途端に楽しげに

なります。

 

今はそれで

良いのです。

 

そのうちに、

ピタリと竜巻は

止まります。

 

そしてその瞬間から

あらゆることが

ありありと観える

ようになります。

 

そうなったら、

全速力で

進みましょう!

 

つづく

 

自分を壊すのは怖い?

 

あっ、今

この選択をすれば、

私は私で

なくなってしまうかも

しれないな。

 

これまで

「私である」

と思っていた私が

壊れてしまいそうだな。

 

「私」というダムが

決壊して

しまいそうだな。

 

・・・そんな風に

思う瞬間は

ありませんか?

 

そんな風に

思う瞬間を感じる人

が増えているのでは

ありませんか?

 

自分が自分を

壊す、

というテーマについては

これまでも何度か

書かせていただきました。

 

その時に、

「どのようにすれば

自分を壊すことが

できるのでしょうか?」

というご質問を

いただいたりも

しました。

 

まずは、

「自分を壊す」

というのは決して

悪いことではない、

ということを

頭で認識することが

大事です。

 

壊れるというのは

とても怖そうな

ことですが、

 

そして、

 

壊れてしまうと

「私」という存在が

なくなってしまう、

そんな喪失感も

ありますが、

 

壊れても

壊れても

決して消えないのが

「私」

なんです。

 

壊れても

壊れても

そこに「私」は

存在し続けます。

 

そして

壊れれば

壊れるほどに

「私」は

「本来の私」に

近づいていきます。

 

しかもそれを

「進化」と

言います。

 

壊れることは

決して悪いことでは

ありません。

 

では、

どうすれば

壊れるのか?

 

まずは意図的に

「壊そう」とは

しないことです。

 

意図的に壊す方法も

もちろんありますが、

それはある意味

「上級者」のできる

ことです。

 

ほとんどのケースでは

「勝手に壊れていく」

のです。

 

「自然に壊れていく」

のです。

 

ただし、

壊れる方向の

何らかの選択をする

という「きっかけ」が

必要です。

 

「きっかけ」とは

その選択への

「第一歩」

を踏み出すことです。

 

・・・・・・

 

冒頭に書きました、

「あっ、この選択をすれば

自分は壊れるな」

という感覚を

私達は何となく肌で

感じることができます。

 

それを肌で感じた場合、

実は私のこれまでの

現場感覚では、

 

ほぼ9割くらいの人が

そこでその選択から

逃げてしまいます。

 

まぁ、

当たり前ですけどね。

 

だって、

怖いから。

 

怖い方向には

人は行かないですから。

 

しかし、

真本音度合いが高まると、

その「怖い選択」が

気になってしょうがなく

なります。

 

これまでは

あっという間に

逃げていたのに、

今回は

逃げようとはするけど、

なんか気になってしまう。

 

「本当に逃げてしまって

いいのだろうか?」

という疑問が

湧き始めるのです。

 

そしてある時に、

その「怖い選択」を

ついに、

エイヤッと選んで

しまいます。

 

そしてその人は

本当に

壊れます。

 

しかし、

壊れた後の開放感も

同時に得ます。

 

それが一つの体験

となり、

その後も

「壊れる選択」を

続けるようになります。

 

そして、

「壊れる選択」こそが

最善だとわかるように

なり、

「壊れる選択」こそが

最も楽しく充実し、

しかも最も楽である

ことも知るように

なります。

 

そしてついには、

「普通に進む」とは

壊れる選択を

し続けることだと

いう状態になります。

 

ここまで来ると

ほぼ、

真本音度合い100%

です。

 

進化への道

まっしぐら、

という状態です。

 

そしてこれも

これまで何度も

書かせていただきましたが、

 

その

進化への道まっしぐら

という状態こそが、

私達人間が

最も安定し、

安心できる状態である

ということです。

 

決壊することは

怖いのに、

本当は

決壊し続けることこそが

最も楽だった。

 

・・・という、

人間とは実に実に

面白い存在です。

 

つづく

 

ちゃんと迷い、ちゃんと答えを出そう

 

迷うことが

いけないわけでは

ありません。

 

むしろ

人生とは

迷いである。

 

と言っても

よいでしょう。

 

大切なのは、

自分の中に発生した

迷いと

対峙することです。

 

今、

私は

何に

迷っているのか?

 

自分と向き合う

基本は

これです。

 

・・・・・・

 

時々、

「私には迷いが

ありません」

という人が

います。

 

もし本当に

そう思っているのなら、

それは

大間違いです。

 

迷いがない

わけがありません。

 

なぜなら

迷いをもたらすのは

私達自身の

真本音だからです。

 

毎日毎日

自分自身に

最善の迷いを

もたらすのが、

ある意味、

真本音の仕事

でもあります。

 

なぜ

真本音は

そのようなことを

するのか?

 

それは

「答え」に気づいて

もらうためです。

 

まず私達の中には

「答え」が

生まれます。

 

そしてその答えに

自らが気づくために

「迷い」が

発生します。

 

答えのない迷い

ありません。

 

今、気づくべき

大切な答えに

行き着くための

手段が

迷いです。

 

そういった意味で、

・自分の迷いに

瞬時に気づき、

かつ、

・その迷いの答えに

瞬時に気づく。

 

・・・ということでの

「迷いのない人」

はいます。

 

つまり、

迷いのない人とは

迷いそのものがない人

ではなく、

誰よりも早く迷いに気づき、

誰よりも早く

答えを見つけ出せる

名人だと言うことです。

 

・・・・・・

 

ただし、

私達の真本音が

大切にしていることが

もう一つあります。

 

それは、

・迷うタイミング

・答えを出すタイミング

です。

 

要するに

「タイミング」

です。

 

このタイミングは

早すぎても

遅すぎても

いけません。

 

最高のタイミング

があります。

 

ですから、

ある時にふと

迷いに気づき、

 

しかしその答えは

なかなか

見つからずに、

モヤモヤを続け、

 

しかし、

ある最高のタイミングで

答えを見つける

ことができる。

 

・・・ということが

できれば、

人生のすべてが

調和を始めます。

 

迷っていることを

迷ったままに

していることに

迷いがない、

という人。

 

ここまでできる人

こそが、

真に

「迷いのない人」

ですね。

 

・最もよいタイミングで

迷いを見つけ、

 

・最もよいタイミングで

答えを見つける。

 

・あとはそれを

そのまま実行するだけ。

 

真本音で生きる

とは、つまりは

そういうことなのです。

 

つづく

 

手放さないから進めない

 

やめるべきことは

やめた方がいい、

きっぱりと。

 

やめるべきことを

やめずに

ずっと続けることは、

10トンの重りを

足につけながら

全力疾走をし続ける

よりももっと

物事の効率も

現実の展開も

悪くなります。

 

手放すべきを

手放す。

 

これが

人生のとても重要な

原理原則。

 

3次元世界の

掟です。

 

マネジメントにしても

リーダシップにしても、

 

何をやらないか?

 

そして

 

何をやめるか?

 

これを明確にすることが

ファーストステップ

です。

 

このファーストステップを

きちんと経ずして

良いマネジメントも

良いリーダーシップも

あり得ません。

 

やめるべき、

手放すべき、

そのままにして

前に進もうとすることは

傲慢の極みです。

 

・・・・・・

 

と、

かなり断定的に

書きましたが、

でもやはりこれは

決して大袈裟な表現では

ありません。

 

人生が思うように

進まない。

 

いつも何かしら

妨害や障害ばかりが

自分に降りかかる。

 

こういった場合の

ほとんどは、

ここに原因が

あります。

 

自分が人生において

何をするか?

 

何が人生の目的か?

 

といった重要な答えも、

手放すべきことを

手放さなければ、

一生、見つかりません。

 

これは、

私達の真本音が

決めていることです。

 

私達の真本音は

私達の進化の度合いを

 

手放せるか?

手放せないか?

 

で測ります。

 

何ができるか?

 

では、

測らないのです。

 

「できることが

増えていく」

というのは実は、

単なる「膨張」です。

 

「進化」とは

余分なものをどんどん

脱ぎ捨てていくこと

だからです。

 

ある一定以上の何かを

脱ぎ捨てたり

手放すことで、

私達の真本音は

私達自身の

「準備が整ったな」

と判断します。

 

そして、

次のステージに

進もうとします。

 

それがステージアップに

つながります。

 

・・・・・・

 

手放すべきものから

目を逸らしていては

何も始まりません。

 

手放すには

勇気が必要ですが、

手放すこと自体は

とても簡単です。

 

勇気をもって

しっかりと

手放すべきものを

見つめましょう。

 

しっかりと

見つめながら、

毅然と

手放しましょう。

 

あなたにはもう

それができる

はずです。

 

つづく

 

その真面目さはいらない

 

あなたは

そのままでいいです。

 

変わろうと

しないでください。

 

自分の思う通りに

わがままに。

 

自分がいけない、

なんて思わないで

ください。

 

もっともっと

わがままに

思うままに、

自分を変えようとせず、

自分はOKだと信じて

 

好きなように

やってください。

 

・・・時々ですが、

私はクライアントさんに

そのようにお伝えする

ことがあります。

 

私がそうお伝えすると、

多くの場合、

「えっ?

いいんですか?」

という反応が

返ってきます。

 

自分がわがままに

なってしまうと

大変なことが

起こるのではないか。

 

不調和や戦いばかりが

巻き起こるのでは

ないか。

 

そんな風に

お考えになるのですね。

 

まぁ当たり前です。

普通はそうですからね。

 

・・・・・・

 

もちろん

私がそのように

お伝えするのは、

 

その人自身の

真本音が

「そのように私に

伝えてください」

と望んでいるのが

わかるケースのみ

です。

 

「あなたは

そのままで。」

 

「自分が変わらなきゃ

ならないと

一切思わないで

ください。」

 

実は、

この言葉を

お伝えすることで、

その人は

変わり始めるのです。

 

変わり始めると

言っても、

別人になるのでは

ありません。

 

本来のその人が

ニョキニョキと

芽を出し始める

のです。

 

・・・・・・

 

一見、自由奔放に

生きている人に

限って、

その実、

心の中では

かなり真面目な部分を

お持ちの人は

多いです。

 

しかしその「真面目さ」は

反応本音だったり

します。

 

本当はその人は

自由奔放さを

100%発揮することで

周りと完全調和できる

のに、

 

その真面目さによって

その100%を

阻害してしまいます。

 

すると途端に

不調和が起こります。

 

つまり、

 

自由奔放に

行き切れば良い

のに、

行き切れないので

様々な問題が

起こることに。

 

そういう人に対して

周りの人は

 

「あの人は

自由奔放だから

様々な確執を

起こしてしまうのだ。

だから

あの人の奔放さを

制御しなければ

ならない」

 

と判断します。

 

まぁ当然ですけどね。

 

しかし、

その制御をすれば

するほど、

確執や不調和は

さらに起こることに

なるのです。

 

100%の奔放さを

発揮することで、

面白いことに

その人は

本来の自分の在り方を

取り戻し、

結果として

とても穏やかな空気感に

なっていきます。

 

そういった変化を

もたらすために

必要なアドバイスが、

 

「そのままで

いてください。」

 

「自分が変わらなきゃ

ならないと

一切思わないで

ください。」

 

なのです。

 

そういったタイプの

人が、

時々、いるのです。

 

・・・・・・

 

真面目さが

いけないわけでは

ありません。

 

むしろ私は、

真面目さこそが

人の進化には

必須のことだと

思っています。

 

しかし、

真面目さと

自由奔放さは

対義語では

ありません。

 

人は、

本当に自由に

なれば、

自然に真面目に

なります。

 

自分を悪い意味で

制御してしまう

真面目さとは、

 

本当はそれは

真面目、ではなく、

 

単に

周りとの確執を

恐れるあまりの

妥協に過ぎなかったり

するのです。

 

つづく