チームパフォーマンスコーチ

魂を鬼にする

あと一歩を
踏み出せず
元の場所に戻って
しまう人と、

あと一歩を
踏み出すことで
次の世界へと
人生を進める人。

その差は
あまりに大きい。

もちろん、
どちらが良いとか悪いとか
そういった評価を
他者が下すことは
できない。

しかしこれはもう
本人の問題だ。

踏み出せなかった
ことによる
深い深い後悔を、

本人にしか
わからない後悔を、

私は側から
数多く拝見してきた。

本人にしか
わからないのだが、
その悲しみは
他者である私にも
十分過ぎるほどに
伝わってくる。

そうなると私も
とても悲しくなり、
一晩、泣き明かすことも
多くあった。

自分で決めていた
人生に
進まなかった後悔。

これは本当に
深くて痛いのだ。

私にももちろん
その体験は
ある。

ギリギリで
先に進めた体験も。

後で振り返れば、
あの時よく
進めたな、と
思う。

しかし私の場合、

私は特に
頑固なので、
他者からの
ありがたいご支援を
いただいてきた。

あの時
私を罵倒してくれた
人。
あれがなかったら、
私はそこで
止まっていた。

あの罵倒が
私を後押し
してくれた。

その経験が
あるからこそ、

私は、
罵倒までは
いかなくても、

毅然泰然と、
大地に踏ん張りながらも、
ある時は
その人の歩みを
全否定する、
ということも
している。

誰かがどうしても
それをしなければ
ならない、
という時があるからだ。

そういう場合は、
コーチという役割、
立ち位置というのは
プラスに働く。

コーチだからこそ
言えること
というのは
たくさんある。

だから私は
どうしても!
という時は、

心だけでなく
魂までもを鬼にして、
その人に
対峙する。

一歩を
進めるように。

そういう
私の役割を、
引き継いでくれる人は
いないかな?

いてくれると
嬉しいな。

つづく

甦る未来

昔の思い出だと
思い込んでいたことが、

実は
未来の出来事だった、

ということは
ある?

過去と未来は
分離しているようで、

それでいて
一つだ。

過去が未来を
決める
ということも
よくあることだけど、

未来が過去を
決める
こともあるんだ。

未来を描く、

言うけれど、

実は
未来を思い出す
ということの方が
多いんだ。

未来を思い出す
という
感性。

それは
誰にでも
備わっている。

実は、
過去を思い出すのと
同じくらい簡単な
ことだ。

未来は一つか?

問われれば、

未来は無数に
ある、
というのが
答えだ。

未来は決まっているか?

問われれば、

未来は
決まっていない、
これから創り出すものだ、
というのが
答えだ。

だからこそ、
だ。

私達は未来を
思い出す必要が
ある。

その必要性は
ますます
高まっている。

真本音で生き、
「今」を
大切にできるように
なった人は、

しだいに
未来を思い出せる
ようになる。

未来を自分で
選びながら、

未来に
選ばれながら。

つづく

無駄な抵抗はやめよう

自分の原点だな、

これまでずっと
信じてきたものが、

急に
揺らぎ出す。

それどころか、
今にも
消えそうになる。

もしくは、
消えてしまった・・・。

ひょっとすると、
そんな状態に今、
あなたは
あるのだろうか?

もしそうなら、
その「事実」を
「事実」として
しっかり受け止めよう。

これまで
信じてきたものが
間違っていた、

ということでは
もちろん、ない。

これまでの
その原点は、

今、もう、
その役割を
終えたのだ。

ここからは
新たな「原点」が
あなたのさらに奥から

浮上してくる
だろう。

しかもその「原点」は、
あまりに
唐突なものかも
しれない。

これまでとは
真逆をいく可能性も
ある。

それでも
受け止められるか?

・・・ではなく、
受け止めるしか
ないんだ。

・・・というより、
どれだけ嫌がっても、
受け止めてしまう
ことになる。
だって、
自分自身の「原点」
なのだから。

もし抵抗が
あったとしても、
それは
顕在意識のみの
抵抗だ。

つまりは
これまでの経験則に
基づいた
過去からの延長線上の
あなた自身による
抵抗だ。

はっきり言って
そんなものは
弱い。

本来の「原点」から
してみれば、
吹けばすぐに
飛んでいく。

しかしそれでは
あまりに可哀想
なので、
「原点」は少しずつ
あなたを
納得させてくれるだろう。

だからあえて
言うのだが、

無駄な抵抗は
やめよう。

早く受け入れて、
早く 
先に進もう。

その方が
何十倍も楽しいよ。

つづく

しっかり準備したよ

一見、
がんじがらめに
見えるかも
しれない。

しかしそれは
思い込みだ。

手足に絡みつく
その一つ一つの
障害を

よく目を凝らして
見つめてみると
いい。

大したことは
ない。

一つ一つを
じっくり丁寧に
手放せば、

あっという間に
自由
になれる。

私達は
すでに
私達が想像している
以上に
力を開放できている。

それを
体験によって知る
というのが
ここからのテーマだ。

体験すれば、
知る
ことができる。

体験する
だけだ。

一歩を
踏み込むかどうか。

それだけ。

もし仮に、
自分を縛るものたちを
手放せないとしても、

じゃあさ、
そのまま
縛られたまま、さ、

進んでみると
いい。

そんな無茶な、

思うよりもまず、

思い切って
進んでみよう。

あれ?
というくらいに
抵抗なく
行ける可能性は
高いよ。

そんなもんだよ。

それだけ
ここまで頑張ってきた
準備の一つ一つの
意味は
大きいんだよ。

つづく

激しい進み方に見えるけど

グッと
一気に進む。

そして
急ブレーキ。

様子を見ながら
そろりそろりと
進む。

そしてまた
瞬間をとらえ、

グッと
一気に進む。

急加速。

急ブレーキ。

最も楽に
進めるその瞬間のみ
確実にとらえ、

そうでない時は
無理をしない。

どれだけ
急加速しても
急ブレーキをかけても、

自分には
負荷はかからない。

むしろ自身には
静けさと落ち着きが
あるのみ。

側から見れば、
激しい進み方かも
しれないが。

自分のスピードを
調整しながら、
最も抵抗の少ない
進み方をしている。

もちろん
理想を言えば、
ずっと最大速で
進みたい。

でもまだまだ
それができる
世の中ではない。

ちゃんと様子を
見極めながら、
着実だけど
行く時は行く!
という進み方。

これが
現時点での
現実世界における
真本音の進み方。

もちろん、
意図してやっている
わけでなく、

今この瞬間に
集中しながら、

一つを決めて
一つ動く、


丁寧に繰り返している
だけだ。

真本音に素直に
生きれば、
そのような進み方に
なる。

今はね。

混乱の中だからこそ
の進み方。

しかしそれは
次々に調和を
生み出していく。

皆の手本にも
なるんだよ。

つづく

風がキツいか

心の中の
風通しが良くなった
と思ったら、

強烈な
向かい風がきた。

しかも
下から上へ
突き上げるような。

飛ばされそうだ。

目も
開けられない。

踏ん張るだけで
精一杯。

なんてことだ。

風を感じられる
ようになったら、

その風が
私を妨害する
とは。

こんなことなら、
心の中は
モヤモヤのまま
の方が楽だった。

風を感じる
とは
こんなに辛い
ことなのか。

・・・と。

最初は
そうなるかも
しれない。

しかしその風は
モヤモヤが
なくなったから
吹き始めたのではない。

最初からずっと
吹いていたものだ。

そんな中で
あなたは
生きていたんだよ。
しかも
その風の存在を
知らぬままに。

慣れないうちは
風は
キツいものかも
しれない。

しかし
負けるな。

踏ん張ることしか
できないなら、
踏ん張ればいい。

じっと
我慢して。

そして決して
風から
逃げるな。

風に
向かい続けよう。

すると
その生き様に
風が
共鳴するようになる。

しだいに
向かい風は
鎮まり、

それだけでなく、
徐々に
追い風に変わる。

風は、
進もうとする意志に
共鳴する。

それが弱いと
怒る。

かといって
風に媚びるな。

堂々と
向き合えば
いい。

そういった覚悟が
風の喜びと
なる。

風は仲間だ。

風は同志だ。

風と共に
進もう。

つづく

たとえ混乱があっても

現実の中で
起こっている
様々な混乱に
目を奪われていると、

自分自身も
その混乱の渦に
巻き込まれている
感覚になるが、

混乱と自分

とは
ちゃんと区別を
つけた方がいい。

真本音で生きる
ということを
日々、続けていれば、

あなた自身は
静かなもんだ。

むしろ、
静かであるが故に
混乱を
あるがままに
感じ取ることができている。

感じている
だけ
だ。

混乱と自分

別物だ。

・・・という区別が
きちんとできれば、
すぐに

混乱の本質

観えてくるはずだ。

そうすれば、
その混乱は

きちんと対応すべき
ものか、

それとも
ただやり過ごせば
いいか、

無視して離れれば
よいか、

などの指針が
わかる。

そして落ち着いて
自分の振る舞いを
すればいい。

真本音で生きる
ということを
続けているならば、

私とは
調和の源だ、

くらいに思っておけば
いい。

自分の振る舞いが
一つ一つを
ゆっくり調和させていく。

実際、本当に
そうなるだろう。

あなた自身は
静かだよ。

つづく

仲間はほしいが

仲間はいるか?


問われれば、

真本音で生きる
限り、
必ず仲間はいる。

真の仲間とは、
自分と同じ
成長スピード
進化スピード
開花スピード

進む人達だ。

他の人を
待つ
必要はない。

他の人から
置いていかれる
こともない。

同じ成長スピード
だからだ。

影響力の高まり

同じように
継続的開花を続ける。

一人ひとりの
やれることが
広がり深まるのだが、

その広がり方
深まり方が
お互いのシナジーを生み、

結果として
一人で進むよりも
何十倍ものエネルギーと
成果に繋がる。

仲間は
中途半端に集めない
方がいい。

意図を持ち過ぎると
コアメンバーが
中途半端な繋がりに
なり、

後々に苦労する。

コアメンバーには
徹底的に
こだわること。

違和感のない
人とのみ
組むこと。

人数は少なくても
いい。

ここをしっかり
すれば、
後が楽だ。

真本音の道を
進みながら、
一人ひとりと
真摯に関わり続ければ、

仲間は自然に
集まってくる。

あなたの
真の波長に
ピッタリの
仲間達だ。

つづく

また二極化が進む

光の中に
ポッカリと
黒い点がある。

そこに意識を
集中させると、

あぁこれは
虚無だな、

と思った。

恐ろしい。

あの中に
入れば
死ぬだろうな、
と。

心底
怯えた。

人間にとって
最も恐ろしいのは
虚無
ではないか。

何か障害が
あるとか、

乗り越えなければ
ならない壁が
あるとか、

そういったもので
あれば
我々はなんとか
立ち向かえる。

しかし
虚無とは
そのような類では
なく、
人間の力が
及ばない、

むしろ逆に
すべての力を
吸い取られるような、

根本的な
恐ろしさがある。

しかしそういった
虚無は
世の中に
増えてしまった。

しかも
虚無達は
わかりやすく
虚無の形をとらなく
なった。

むしろ、
甘い顔をして
私達を誘う。

こっちへ
おいでよ、と。

こっちの水は
甘いよ、と。

そして自ら
意図せぬままに、
いつの間にか
虚無に足を踏み入れ、

出られなく
なっている人が
この10年で
急増した。

真本音度が
高まる人達が
増える一方で、

その反作用の
ように。

人々が
年々、
二極化していく。

そういった
世の中全体の流れを
感じながら、

私の中に
悲しみが
日々、重なっていく。

なんとかしたい

何もできない。

私にできることは
私のすべきことに
日々、真摯に
向かい続けること。

それが
世の中に増えた
虚無の浄化に
繋がることを
祈りながら。

つづく

ただ待つのはやめた

いやに長い
夜だ。

ちっとも
夜が明けない。

気配すら
ない。

この
ネットリとした
重々しい空気。

暗さ。

闇に飲み込まれて
自分を
失いそうだ。

こんな場所に
ずっといるなんて
不可能だろう。

すぐに
限界が
来てしまうさ。

そうすれば
どうなる?

すべてが
終わるか?

私にできるのは、
夜明けを待つ
ことだけだったが、

そうでもない
ことが
わかってきた。

東に向かって
進むのだ。

そうすれば、
1秒でも早く
夜明けを迎えられる

かも

しれない。

その
「かも」に
かけてみようか。

ただ待つ
よりも

進みながら
待つ。

それくらいは
しても
自然の摂理には
外れないだろうよ。

つづく

大らかさはどこから

やめろ!

言われても、

やめられるなら
最初から
やってないさ。

もう
やめられない
自分だと
百も承知の上で、

だからこそ
ここに
来たんだから。

人には、

引き返せる
ことと
引き返せない
ことが
ある。

誰にどう
言われても、

もう
引かないよ。

でもさ、

そう決めた
からこそ逆に、

いろんな人の
意見に
耳を傾けることが
できるように
なったのさ。

人はね、

決める
ことで
大らかに
なれるんだ。

大らかな
自分でない
ならば、

まだ、
決めていない
ということ
なんだよ。

つづく

慌てず一つ一つ

ゆっくりと、
目を覚まして
いく。

焦る必要は
ない。

徐々に
慣らしていけば
いい。

一気に変わる
必要は
ないのだ。

一歩ずつ
着実に

丁寧に
意識を向けながら。

日常における
自分の振る舞いの
一つ、一つ、を
見つめ、

変えられるところから
変えていけばいい。

どれだけ
根本が変わっても、

表面は
徐々に変えた方が
いい。

この世は
焦ることで
遅くなる。

速く進みたい
ならば、
より一層、

一つ、一つ。

一つを決め、
一つ、動く。

丁寧に。

そのうちに
慣れるさ。

本当に
地に足ついたら、

そこからダッシュ
すればいい。

つづく

一歩も二歩も深く

自分の中で
芽生えたものと、

自分の中で
消えゆくもの。

その区別を
つけるといい。

その二つは、
表面上は
よく似たもので
あるかもしれないから。

よく似たものの
区別をつけるには、
その本質を
よく見つめることだ。

何のための
ものか?

何が目的か?

決して変えては
ならないものは
何か?

その本当の
部分を見つめることで、
同じものが
まったく別物に
認識される。

例えば、
あなたの中に
新たに
芽生えたものとして、

あなたはこれから
何を
目指していこうと、
決めているだろうか?

その「目指すもの」
とは、
これまでも同様に
目指してきたもの
かもしれない。

が、
本質が
変容したかも
しれないよ。

ここからは、
一歩も二歩も
深く
自分自身と
向き合おう。

例えば、
ここから特に大事なのは
「躊躇」
の気持ちだ。

「躊躇」するという
ことは、
自分自身の
生半可さの現れだ、

捉えるよりも、

その本質を
見つめよう。

なぜ、私は、
躊躇するのか?

何に違和感を
覚えているのか?

何がどうなれば、
躊躇は
解消されるのか?

一歩も二歩も
深く、ね。

つづく

始めよう

ちゃんと自分が
節目を
越えられたかどうか?

を、考えるよりも
越えたもの、として

原点からスタート
の気持ちで

ここからは
進もう。

原点。

自分の本当の
本質。

それが何か?

よりも、
そこに戻ろうと
する。

もう一度、
始めからスタート
くらいの
新たな気持ちで。

本当は、
毎日この気持ちで
一日を始められると
いいんだよ。

でもなかなか
難しいね。

難しいけど、
できるだけ常に
そうなれるように。

今回は
良いきっかけだ。

新しい風
新しい波

新しい世界。

そこに向かう
自分。

さぁここからは、
何を
本当に心の底から
大切にする?

つづく

メッセージを受け取り

さて、
そこに、
その足元に

花が咲いて
いるだろう。

その花が
多くなってくると、

もう
節目だ。

今のステージの
最後のメッセージを
花々は
あなたに
告げているだろう。

それをまずは、
言葉として
ではなく、

感覚として
そのまま
受け取ろう。

花々から
ダイレクトに
伝わってくる
感覚
だ。

それのみを
ただ
あるがままに
感じ、
味わおう。

ひょっとすると
それは
幸せな感覚とは
別物かも
しれない。

ちょっとした
痛みを伴う
かもしれない。

それでも
いい。

大切な
メッセージだ。

感覚を
そのままに。

大事に大事に
受け取り、
自分の体に
沁み込ませ、

その上で
その感覚を
言語化しよう。

言葉として
表してみよう。

それは大切な
指針と
なるだろう。

そのメッセージを
胸の中心に
しっかり抱きながら、

さぁもうすぐ
節目だ。

つづく

本当の正月だ

ここにきて
やはり、
節目だな

と思う。

今、2023年が
始まってもう
丸2ヶ月経つ
わけだが、

どうも
本当の
2022年から2023年
への
節目は、

2月28日と3月1日
の間にある。

つまりは、
本質的な正月、

という表現で
良いのかな?

本質的な正月は
3月1日ということだ。

毎年、という
わけではなく、
今年は。

ここに大きな
節目があるという
ことは、

3月1日から
一気に次のステージに
進む人は
多いだろう。

まるで
生まれ変わる
くらいに。

これまでとは
別人の自分として
人生を
進み始める。

内面的にも
外面的にも。

たとえ
外面的(現実的)に
何の変化が
なかったとしても、

内面的に
ガラッと変わるんだ、
というくらいの
心構えと準備は
しておいた方がいい。

さぁ、
2月28日までに、
何を
完了させておかねば
ならない?

つづく

心が痛い?

心がモヤモヤ
していると、

目の前の現実を
あるがままに観る
ということが
できなくなる。

すると
落ち着いた対応が
できなくなる。

現実さえ
しっかりと見つめる
ことができれば、

それだけでも
私達の
対応力は増す。

現実さえ
しっかり向き合う
ことができれば、

それだけで
私達の
次元が高まる。

だから
心のモヤモヤは
できるだけ
取り除いた方がいい。

取り除くためには、
常日頃から、
ちょっとしたモヤモヤでも
しっかり見つめる
癖をつけておくことだ。

モヤモヤを
放置しない。

放置すれば、
時間が経つに連れて
それは増殖する。

モヤモヤは
出たら
すぐに!
対応する。

これは
お部屋が
散らかったら
すぐに
片付けるのと
同じことだ。

そういった習慣を
続ければ、
大掃除など
必要なくなる。

モヤモヤが
出たら
見つめる。

見つめるだけでも
良いのだ。

見つめれば
心が痛くなる
かもしれない。

でも、心とは
痛くなるものだ。

体が怪我すれば
痛くなるのと
これも同じ。

痛いと感じる
ことこそ
健康の証。

痛いことを
避けるのではなく、

痛みを感じなく
なるくらいに
麻痺させてしまうことこそ
避けるべき。

心がちゃんと
痛いうちに
ちゃんと
対応しよう。

つづく

断絶がきた

これまで来た道
と、

ここから進む道。

この二つが
まったくもって
ここで

断絶する

ということが
あっても良いでは
ないか。

むしろこの
断絶こそ、

これまでの
成果ではないか。

この断絶を
生み出すために
こそ

これまでの人生
あったのでは
ないか。

断絶を
恐れるな。

これは
自らが
生み出したもの。

自らが
願い続けたもの。

これまでの
精進の
一つのカタチだ。

断絶を
恐れるな。

断絶を超え、
ここから
まったく新たな道を

生まれたばかりの
気持ちを
もって。

つづく

確信=現実へと

心の奥の方にある
確信と、

目の前の現実に
起きている出来事と、

その繋がりは
どうかな?

確信通りに
現実は動いているかな?

もちろんそれは
予測通りに現実が
動いているかどうか?
とは
根本的に異なることだ。

予測と現実の
繋がり、

ではなく

確信と現実の
繋がりだ。

これを
よく観察しよう。

この繋がりが
ここのところ
急激に太くなり、
より確かなものと
なっている人は
多いのではないか。

ここまで着々と
地道に真本音で
生きてきた成果だ。

その成果は
ここからさらに
大きくなるよ。

普段の自分の
生き方、
進み方。

誠実さ。

真摯さ。

そういったものが
ようやく
現実的に発芽する
時代になったんだ。

つづく

頭、痛くないか?

頭が痛い、


感じたら、

その、
頭の部分に
ちゃんと意識を
向けてみよう。

その痛みは
何を
語りかけている?

何か
やらねばならぬ
ことがあるのでは?

やり残したことが
あるのでは?

完了感。

・・・ちゃんとそれが
湧き上がるまで、
きっちり
やり遂げるべきことを

99%くらいで

満足して
終えてしまって
いないかい?

99%では
何もやっていないのと
同じだ。

・・・くらいに
捉えた方がいいよ。

特に
今はね。

頭は本当に
痛くないかい?

やり残している
ことは
ないかい?

つづく

私の不安への対し方

自分の意志の
強さを
確認したい。

自分は本当に
強い意志を持つ
人間なのだろうか?

本当に自分の
望む方向に
人生の舵を切って
やっていけるの
だろうか?

そういった気持ちから
一歩を踏み出す
前で
躊躇してしまう人は
多い。

そういう気持ちに
なること自体が
実に人間らしい。

むしろその気持ちに
しっかり
寄り添うといいな、
と思う。

私にも
不安はある。

不安が出る度に、
もしそれが
10の不安だとしたら、

それを
100くらいの大きさに
感じ取ってしまう
くらいに、
私はその不安と
徹底的に向き合う。

その不安を
否定することは
一切しない。

しかし
受け入れるわけでも
ない。

ただ、
向かい合う。

不安は私を
飲み込もうと
するが、

もしその力が
あまりに強大な場合は、
私はいっそのこと
不安にわざと
飲み込まれる。

全身全霊
すべて、不安。

不安が私だ、
くらいに
不安と一つになる。

それは大変
苦しいことだが、
それでも
やり続ける。

心が
落ちていく。

もうすべて
ダメなんじゃないか
と絶望する。

それでも私は
決して
不安を否定しない。

こういった
生きる姿勢を
大切にし続けると、

ある時からまったく
不安に左右されなく
なった。

不安は同じように
湧くのだが、
それによって自分の行動が
変化することはない。

むしろ今は、
不安こそが私の進みを
後押ししてくれて
いるのではないか、と
思えるくらいだ。

不安は私と
敵対するものでは
ない。

不安は
仲間だ。

つづく

それは私の波紋だ

自分がいつも
どのような波紋を
広げているか、

観察をしよう。

自分の一言、
自分の振る舞い、
自分の行動、
自分の姿勢、
・・・

ほんの些細な
ことでも、
私達は必ず
波紋を広げる。

自分の波紋が
周りの誰に
どのような影響を
及ぼしているか?


よく観察しよう。

いつも丁寧に
観察を続ければ、

あぁ、人間社会
とは、
このようにお互いが
影響を及ぼし合いながら
動いているのだな、

わかる。

周りへの波紋の
広がり方を
観ることで、

自分という人間の
個性も
少しずつ理解できる。

自分という人間は
自分自身が
最もよくわかっていない。

だから
周りへのつぶさな観察
によって
知るしかない。

そういった意味での
自己理解が
進めば、

だんだんと
波紋の広げ方そのものを
コントロールできるように
なる。

それは、
現実レベルでの
道を開く大いなる力
となる。

よくお伝えする
ことではあるが、

自分の意識を
自分の内側に
籠らせておいては
ならない。

外の世界こそに
すべての指針が
ある。

意識を
オープンに。

そうすれば
自分の影響力の
大きさ、凄さも

きっと
わかるよ。

つづく

腹は据わったかな

太い中心軸が
ある。

真本音度が
高まれば、

自分の中に
中心軸がある、
というよりも

太い中心軸の
中に、
自分の全身が
入っている、

という
感覚になる。

圧倒的に
揺るがない存在
だ。

中心軸に
身を委ねるような
感じ。

すると、
自分の思考を超えた
振る舞いを
知らず知らず無意識に
とり始めるのが
私達だ。

第一、
空気感が
違ってくる。

中心軸となりきった
人の醸し出す
空気感とは、

覚悟の空気感

だ。

腹が据わった
淀みのない
空気感。

これは
心の動きとは
関係がない。

心がどれだけ
揺れ動いていても、
根底がドッシリしているので、

心の状態が
どうなっても
関係がなくなる。

つまりは
状況に揺らされない
進み方ができる。

こうなるともう、
物事の決断が
速くなる。

決めるべきことを
淡々と
スピーディーに
決めていく。

だから
人生の展開も
速くなる。

もちろん
決断は速ければ良い
ということでは
ないが、

最大速で進むべき
時に
最大速を出せる
ようになる。

これは
年齢とか経験は
まったく関係のない
次元での話だ。

本当にまったく
関係ない。

若いうちから
腹の据わった生き方が
できるといい。

人生が
ぐんぐんと進むから。

そのためのサポートを
私はしたいのだ。

つづく

無限に伸びるもの

人には誰にも
素質
がある。

素質とは、
先天的にその人が
持っている力。

先天的な才能
と言っていい。

素質とは
努力をすれば
すぐに
グングン伸びるもの。

真本音度が
高まれば、
この、素質が目を覚ます。

発芽して
開花し始める。

そうなると
人生の展開が
とても面白くなる。

なのだが、
実は
そこで満足して
しまっている人は
多い。

最近、
特に私が関わる方々に
強調しているのは、

素質は
無限に伸びる
から、

途中で満足せず、
生きている間は
ずっと、
素質を極めるための
探究を続けましょう、

・・・ということだ。

そうすれば
もっともっと
素敵なことができる。

素質を極める
ということは、
自分という人間を
極めるのと
同じだと思う。

人生を終える
その時まで、
自分自身を
探究し続けよう。

それが
人としての
根本的な幸せの
一つだから。

人は
“進化”のカタチ
だから。

つづく

本当は孤独ではない

階段が
見える。

無限に登る
ような
階段が。

しかも
逆流する
エスカレーターの
ような。

そこを必死に
登っていく。

先は見えない。

ただ、
光がある。

その光を
目指して。

・・・

私は
何者か?

なぜ
こんな生き方を
するのか?

この先に
何があるのか?

・・・

せめて
逆流のエスカレーターが
止まってくれることを
祈る。

祈りながら
登り続ける。

唯一の希望は
この先に見える
あの光だ。

まだまだ
遠いのだが。

・・・

もう
やめないか?

ここまで来れば
充分ではないか?

馬鹿らしいと
思わないか?

・・・

心の動きに
苦しくなる。

しかし
じっと耐えながら
進む。

結局、
一度も止まらずに。

・・・

このまま
人生を終えても
よいのか?

もっと楽な道を
スムーズに
進めば良いのでは?

こんなに頑張っても
ただの自己満足
ではないか?

・・・

自分が自分を
責め立てる。

年齢を
重ねるほどに。

しかしそれでも
進み続ける。

味方が
一人もいなくとも、

誰にも
理解して
もらえなくとも、

自分に絶望しか
なくなったと
しても、

きっと私は
止まらない。

ここまで来て
ようやくそう
思えるようになった。

きっと私は
もう
何があっても
止まらない。

・・・

まぁ、
わかったよ。

お前の
意志は。

ここまで来たら
もう、
好きにやれば
いいさ。

・・・

スッと
軽くなる。

ずっと後ろに
引っ張られていた
感覚が
ついになくなった。

エスカレーターも
止まった。

そしてなんと
上に向かって
動き始めた。

そうなって
ようやく私は
止まり、
少し休んだ。

休んでいても
エスカレーターが
上に
運んでくれる。

でもスピードは
まだ遅い。

少し休んだら
また進もう。

少しゆとりが
でき、
ようやく
わかってきた。

・・・

なんだ、私は
孤独では
なかったな。

こんなにも
支えられて
きたのか・・・。

つづく

毎日、空っぽ

本当の発想
とは、

空っぽに
なってからこそ
始まる。

これまで
自分が
考えに考え続けた
あらゆる発想たちを

出し尽くして。

すべて
出し尽くして、

もう頭と心の中が
空っぽだ、

全部、
なくなった、
と。

そこから
こそが
真の発想の
スタートだ。

私自身、
自分のあらゆる仕事に
おいて、
それを大切に
しているし、

コーチングによる
人のサポート時にも
それを大切に
している。

これまで生まれた
発想の範疇では、

これまでの
範疇のことしか
できないから。

空っぽになった
ということは、

同じステージの
発想はもうすでに
なく、

次のステージに
進むことでしか、
発想は生まれない
という状態。

これまでと
同じ次元では
もう何も出ず、

次の次元に
進むことでしか、
発想は生まれない
という状態。

だから空っぽ
とは、
次の扉を開ける
きっかけ
だ。

だから、
自分の発想を
小出しにする
ということを私は
好まない。

それでは
進化はないでは
ないか。

その時に
そこに在るものは、
すべて出す。

という
生き方、進み方。

毎日、
出し尽くす
という
生き方、進み方。

これを続けて
初めて、
私達は
本来の次元の
自分自身と
出会うことができる。

本来、活躍したい
ステージに
たどり着ける。

のんびり
マイペースで、
などとは
言っておれない
ここからの時代だ。

人生を
間に合わせる
ためにも、

躊躇せずに
出し切ろう。

毎日、
空っぽ。

毎日、
進化。

つづく

ここで大事な問い

問いを
一つ。

・・・

もっと
スピードを意識して
進めた方が
よいことは何?

・・・

スピードは
速めれば良い
というものではない。

その物事に
最も適した
スピードがある。

スピードが
ズレれば、
調和性も低くなる。

もっと速めるべきは
グンと速め、

もっとじっくり
行くべきものは
一歩一歩丁寧に
ゆっくりと。

そのメリハリを
これまで以上に
つけよう。

つづく

現実の歪みから自由になるには

いくら空気が
クリアであっても、

自分自身が
曇った眼鏡を
かけていれば、

世界は全て
曇って見える。

眼鏡を外さねば
ならないが、
多くの場合、本人は
自分が眼鏡をかけて
いることを
自覚していない。

・・・というよりも
そもそも
自分流の眼鏡を
かけるのが
人間だ、
とも言える。

経験を重ねる
うちに、
気がつけば
その眼鏡なしには
生きられなく
なっている。

眼鏡こそが
自分である

というくらいに
なっていることも。

では、
眼鏡から自由に
なるためには
どうすればよいか?

私が最も
オススメする方法は、

徹底的に
自分の眼鏡を
理解する

ということだ。

どうせなら
眼鏡を拒絶する
のではなく、
徹底的に探究する。

自分は
どんな時に
どんな眼鏡を
かけるのか?

そして、

それぞれの
眼鏡の特徴は?

何にどのような
色をつけて
それを見るのか?

現実を
どのように
変化させて(歪めて)
見ているのか?

そういったことを
客観的に
自分を観察しながら
探究すれば、

逆に
眼鏡の活かし方

観えてくる。

外し方も
わかってくる。

こんな時は
この眼鏡を
あえて使おう、と
自己コントロールが
できるようになる。

基本、やはり
何でもそうだ。
拒絶からは
何も生まれない。

そこにある
ものは、
そこにあるの
だから、

そこにある
ものを
徹底的に理解
探究しよう。

その方が
何十倍も
楽しいしね。

つづく

何だこの種は・・・

種のような
もの。

何が生まれるかは
わからない。

ただ、
とてつもなく
濃縮されたものを
感じる。

そんな不思議な
何かが、
心の中心に
発生した。

今はただ
それを
大切に保管している。

水をやれば
よいのか、
栄養を与えるのか、
光を与えるのか、

何も
わからない。

わからない場合は
何もしない、

決めている。

ただ
それを
そのまま
大切に
見つめている。

私達の中に
芽生えるものは
多い。

しかし
芽生える前の
ものは
さらに多い。

それを

と表現するなら、

種こそを
まずは自らが
気づいてあげると
いい。

気づいたら
大切にする。

ちゃんと
芽が出るように。

何かが
生まれるように。

私達は時折、
恐れの気持ちから
種を
自ら潰してしまったり、

潰さないまでも
埋めてしまったり
する。

昔の私は
そればかりをしていた
と、
今はわかる。

だから今は
気をつけている。

まずは、
ほんのわずかな
兆しから
種を見つけること。

見つけたら
それを
ただ、そのまま
大切にすること。

時折、
見つめたり
向かい合えば
いい。

いつか必ず、
最善のタイミングで
それは
変化を起こすだろう。

それを
楽しみに
待っていよう。

つづく

断絶に陥ったら

断絶に
陥る。

動けなく
なる。

八方塞がりに
感じる。

人生では
時々こういう目に
遇う。

その場合、
大切なのは

その断絶は
自ら
創り出したものか、

それとも
人から
与えられたものか、


区別だ。

残念ながら、
ここを
見誤っている人は
多い。

区別をつける
ために
必要なことは、

自分の願いを
思い出すこと。

その願いの
エネルギーを
自分の中で
高めようとすること。

もし
高まるので
あれば、

その断絶は
人から与えられた
ものだ。

その場合は、
願いを常に
自分の中心に置き、
意識しながら
現実に
真正面から
向かっていけばいい。

堂々と。

さて問題は、
その断絶が
自分原因の場合だ。

それは
ここまでの生き方を
何かしら
根本的に変換する
必要がある。

何が
このような断絶を
引き寄せてしまったのか?

しっかり
見つける必要がある。

が、
それがまた
難しい。

あらゆるエネルギーが
湧いてこないから。

そこでオススメ
なのは、

「普通の生活」


しようとする
ことだ。

願いとか
直観とか
そういったことは
いったん忘れて、

朝起きてから
夜寝るまで、

この一日を

普通に過ごそうと
する。

やるべきことを
一つずつ
やる。

嫌なことでも
好きなことでも
目の前に与えられた
ことを
一つ一つ丁寧に
こなしていく。

「こなしていく」
だけでいい。

ただし
できるだけ
丁寧に。
誠実に。

自分自身が
原因で
断絶に陥った人は、

自分が
自分に
呆れている

という状態だ。

つまりは
自分のことが
大っ嫌いに
なっている。

自分への
信頼がなくなって
いるのだ。

それを
取り戻す必要があり、
そのためには、

一つ一つ
目の前のことを
する

という
謙虚な生活姿勢だ。

面倒でも何でも
ちゃんと
一つ一つ
やっていけば、

まぁそんな自分なら
許してあげようかな、

どこかで自分を
許し「始める」。

そこまでは
地道にしっかり
毎日を生きることだ。

いずれにしても
断絶に入ったら、
それを何とかするのは
自分自身しかない。

自分の人生
だからね。

つづく