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「私は今、
どこにいるのだろうか?」
と
自分に問うと、
どんな答えが
返ってくるかな。
本来の自分で
いられる時は
どんな答えで、
本来ではない自分に
なってしまっている時には
どんな答えか?
その違いを
把握しておくといい。
ちなみに私の場合、
本来の私でいられる
時は、
「ここにいるよ」
と返ってくる。
本来でない場合は、
「ここにいないぞ、
ここはどこだ?」
というような感じで
返ってくる。
後者の場合は、
どこにいるのだろうか?
と
私は私を捜す。
大抵の場合、
どこか宇宙の彼方のような
遠くを彷徨っていたりする。
あまりに疲れ果てた
時などはそうなる。
おーい、早く帰って
来いよ!
と呼び戻すと、
ようやく帰ってくる。
そして
本来の私に戻る。
その途端に、
自分自身の存在感を
自分で感じられるように
なって、
根っから安心する。
安定する。
この
本来ではない状態のまま
ずっと毎日を過ごしている
人は多い。
よくもまぁ、
こんな不安定状態で
いられるものだと、
感心する。
でもやっぱり
そんな状態では
何も良いことはない。
ちゃんと
本来の自分として
生きていこう。
上記の答えは
あくまでも私の場合。
あなたの場合は
どんな答えだろうか?
ちゃんと把握して
常に自分チェックを
するといい。
つづく
私達は
昨日とは同じ場所
にはいない。
私達は
流れ続けている。
私達は
進み続けている。
その事実を
自覚しないままに
生きることは
本当は
不自然なんだ。
人は皆、
変化を恐れる
ものだが、
変化は
誰が何と言おうが
自然に起きてしまう。
変化するのが
人間だし、
変化するのが
現実なのだから、
良い変化をしよう!
と思うのは
自然なことだ。
良い変化を
しよう、本当に!
さて。
変化にも
いろいろある。
単純に言えば、
緩やかな変化と
激しい変化がある。
あなたは
どっちがいい?
実は、
顕在意識では
どう考えるかは
別として、
本質部分では
激しい変化を
望んでいる人が
今、急増している。
激しい、
と言っても
環境を変えるとか
転職するとか
そういったことでは
なく、
自分自身を
一気に変化させようと
しているようだ。
だからあえて
次の問いを
自分に投げてみよう。
「私が今、
最もこだわりたいことは
何だろう?」
そして、
その答えを
手放してしまおう。
つまりは、
今、最もこだわって
いることを
手放してしまおう。
勇気を持って。
勢いつけて。
一気に。
今は、
やる価値あるよ。
私は
やるよ。
あなたもぜひ。
つづく
心身ともに
静かなとき、
私は自分自身に
エネルギーが満ちる
のを感じる。
静かな悦び
と共に、
自分の中を
ゆっくりと
強大なエネルギーが
循環している。
それは血液が
ゆっくりと循環する
のと同じだ。
循環が滞りなく
行われることこそ、
私達にとっては
正常で健全な在り方
の礎となる。
良い仲間と
共に、
良い出会いがある。
それが今の私を
実に健全に
してくれているのだろう。
静かに
感謝の想いが
積もってくる。
・・・・・・
一つ、
問いが浮かんだ。
こういう時の問いは
特に重要だ。
「ここから私は
どんな風を吹かそうか?」
どうやら
私自身が発信源となって
何かを始める
ようだ。
何だろうな?
今はまだわからないが、
答えはもう
ここにある、
ということはわかる。
しかもその答えは
私自身をまた
相当に楽しませて
くれそうだ。
一つ、出会いが
あれば、
一つ、風が吹く。
今回はその風を
私自身が
あえて
吹かせてみる。
これは
楽しみだ。
・・・・・・
最近、
なぜかよく
「未来」が私に迫ってくる。
その「未来」は
あまりに明るく
輝いているので、
中身は見えないのだが、
その輝きを
感じるたびに、
無性に
ウキウキしてくる。
このウキウキは
ひょっとすると
私にとって初めての
体験かもしれない。
だから慌てず
静かに行こうと
思う。
私は慣れないウキウキ
がくると、
すぐに地に足が
つかなくなるので、
ちゃんと足元を
踏み締めながら、
着実に進もうと
思う。
つづく
私には
意志があり、
私はその
意志通りに
生きてきたつもりだ。
この道を行けば
きっと
満足のいく人生と
なるだろう。
この道に挑戦すれば
きっと
素晴らしいビジネスを
構築できるだろう。
それを
信じて疑わず
進んできた。
確かに
充実し、
満足の大きな
道のりだった。
でも、
なぜか、
ここに来て、
今、
根本的問いが
浮かんでいる。
「本当にこの道で
良いのか?」
と。
「本当にこのまま
進んで良いのか?」
と。
「私はまだ何か
とても大事なものを
見つけていないのでは?」
と。
心の中の
ほんのわずかな
虚脱感。
それはずっと
私には気づかない
ものだったが、
確かに今は
わかってしまうのだ。
その虚脱感は
違和感となって
実はずっと自分の
奥の奥の奥に
在り続けていた
と。
今、
それが確かに
浮上してきている。
それと
どう関わり
向き合えばよいのか、
わからない。
私は本当に
この道で良いのか?
もっと他に
すべきことが
あるのではないか?
もはやこの
焦りにも近い気持ちは
誤魔化すことは
できなくなった。
ここまで
創り上げてきたもの
はある。
それらは
素晴らしいものだ。
でも、
このまま
進むことは・・・・。
・・・こんな人が
増えている。
私はこんな人こそを
サポートしたいのだ。
つづく
真っ暗な
世界の中にいる。
私は地面に
胡座をかいている。
地面には
まるで雪のような
そして
鏡のように輝く
銀の草草が広がっている。
音は
何一つない。
まるで異次元空間に
迷い込んだようだ。
どうやらここは
丘のような場所らしい。
ふと、
遠くで稲妻が
輝いた。
音はないが
何度も輝き、
その激しさが伝わってくる。
ふと、
ここはブラックホールの
中ではないかと
いう気がした。
私はブラックホールに
吸い込まれてしまった
のだと。
それにしては私は
悠然としたもので、
ここがブラックホールの
中なら、
もう出られないかもなぁ、
などと
暢気に考えていた。
ここで
私は
自分自身が非常に
疲れていることに
気づいた。
実は動きたくても
動けないのだと。
まぁそうだようなぁ。
随分と大勢の人たちを
助けたもんなぁ。
ちょっと限界を
超えちまったかなぁ。
と
考えていると、
また稲妻が。
今度は近い。
しかも、
音のない世界だと
思っていたのに、
一瞬後に、
雷鳴が響いた。
全身に
ズンと来る。
これはいかんな。
行かなきゃな。
助けなきゃ。
私はよろよろと
立ち上がった。
まだ多少は
動けそうだった。
行かなきゃな。
私はトボトボと
歩き出した。
歩くたびに
また
体の奥から
力が漲ってくるのが
わかった。
おぉまだ
こんなに力が
残っているのか。
これなら
なんとかなりそうだ。
私はちょっと
走ることにした。
急がなきゃな。
私は駆けた。
雷鳴の方向に
向かって。
妙にリアルな
夢だったな。
つづく
私達には皆、
「自己表現」
をしたい!という
欲求がある。
人生とは
自己表現の場である、
と
あえて言うことも
できるだろう。
自己をちゃんと
表現できている時、
その人は間違いなく
活き活きしている。
さて、
今日もまた一つ
問おうか。
「自己表現」
という視点で
発想してほしい。
『自己表現のために
あなたはこれから
自分の何を開放する?』
どうだろう。
一見、難しい問い
だが、
案外、
いろんな面白い
発想が広がるかも。
自由発想
してみてください。
つづく
今回は一つ、
ちょっと面白い
問いを投げよう。
あまり理屈で
意味を考えず、
ただ直観のみで
どのような発想が
浮かぶか、を
楽しんでみてください。
・・・
『あなたの心の中の
山頂(最高地点)が
あるとしたら、
それはどんなカタチを
していますか?
そして
そこには何がありますか?』
・・・
紙に発想を
書き出すとよいかな。
もし面白い発想が
生まれたら、
ぜひそれを
日常生活の中で
大事にしてみてください。
ちなみに
私の場合、
ものすごく鋭く尖った
山のピークが
観えた。
それは山というより
岩かな。
でも、大気圏を
超えるくらいに
高い。
そしてその山頂には、
鍵が一つ
落ちていた。
その鍵を私は
持ち帰った。
きっと鍵穴が
どこかにあるのだろう。
それを私は
日常の中で
探してみようと
思う。
宝探しのようで
面白そうだ。
つづく
山の向こうから
月が昇った。
途端に
世界が調和
した。
そこにある
あらゆる存在が
意味を持ち始めた。
一つとして
不足はなく、
一つとして
余分もない。
世界は
完成された。
と、
次の瞬間、
世界に
ほんのわずかな
綻びが生まれた。
それが
次々に歪みや
淀みを生み出した。
そして
世界全体が
ざわめき始めた。
それを月は
ただ微笑んで
眺めている。
月は
調和をもたらし、
調和は
進化をもたらす。
そして進化は
次の調和を
もたらすだろう。
同じ調和でも
そうやって一つ一つ
次元を高めていく。
私は
月のような存在で
ありたいな、と
思っている。
一見、調和をもたらし
世界を完成させるかの
ように見えて
本当は、
進化のための
綻びをもたらすのだ。
決して
完成はされない世界。
そこにこそ
真の美しさがある。
一人の人間も
同様だ。
綻びがあるのを
嫌がる人もいるが、
綻びがあるのが
人間なんだ。
つづく
人は誰しも
冒険心
を持っている。
今、あなたの
中にある
最大の冒険心を
探し出して
ほしい。
その気持ちは
何を「やりたい!」と
強く願っているだろうか?
冒険心だから
それは、
なかなかの挑戦心でも
ある。
できるかどうか
で言えば、
到底できないよ、と
思ってしまうことだろう。
しかし今、
あえて、
その冒険心の言うことを
大事にしよう。
あなたの冒険心の
望んでいることを
落ち着いて
受け取り、
しっかり
対峙して、
なんとかその方向に
進んでみよう。
勇気を持った
冒険をすることで、
人生は
一気に進むことが
ある。
今は
その時だ。
つづく
私は、
考えに考えに
考えても、
決して
答えを出そうとは
しない。
でも、
真剣に
考えに考えに
考える。
でも、
決して
答えを出そうとは
しない。
今は、
考える時だ。
答えを出す
時ではない。
・・・というのを
とても大切にする。
そして、
考えに考えに
考え尽くしたな、
と
満足したら、
それで終わる。
あとは
待つ。
あとは
何かのきっかけで
答えは
必ず出る。
それは
まるで思い出すかの
ように、
浮上する。
それを最近
私は、
未来を思い出す
と
表現している。
これ、
あながち間違っては
いない表現だ。
私達は
過去と同様、
未来も思い出すことが
できる。
だって
実在のレベルでは
すべてが
「ここ」
に存在しているからね。
人間に与えられた
「考える」
という素晴らしい
行為は、
未来を思い出す
きっかけとして
必須のものだ。
考え尽くすから
こそ
思い出せる未来が
ある。
考えて
答えを出すのでは
ない。
考えて
答えを思い出すのを
待つんだよ。
つづく
具体的なことは
書けないのだが、
今日、私は
自分自身との
約束
を、
一つ果たすことが
できた。
こういうの、
魂が泣く
と
言うのだろうか。
涙が
止めどなく出た。
きっと
理屈を超えた
嬉しさなのだろう。
久しぶりに
自分を褒めて
あげた。
まぁちょっと、
私は私という人間に
厳し過ぎるのかも
しれない。
そんな生き方を
ずっと続けてきた
気がするが、
それも
今日のこの時の
ためだったのだな、
と
今日初めて
知った。
人は、
自分自身との
約束がある。
何のために
今、
ここにいるのか?
その
大いなるきっかけ
としての
約束がある。
その約束には
深い悲しみや
悔恨や
希望や願いや、
いろんなものが
混ざり合っているのだが、
私達は
間違いなく、
その約束を果たすために
ここにいる。
真本音で生きる
とは
その約束を思い出す
ための
なくてはならない
ステップだ。
約束を一つ
果たすことのできた
私は
もちろんこれからも
一歩一歩
真本音で生き続ける。
ここからは
次のステージだ。
次の約束を
果たすための
ステージだ。
つづく
覚悟ができた
顔には、
独特の表情
がある。
それは
大人も子どもも
同じだ。
子どもだって
覚悟を決める
のだよ。
実は
ほとんどの人が
気がついていない
だけで、
人生の重要な
選択肢は、
人生のそこかしこ
にある。
それは現象としては
ほんの些細な
ことかもしれない。
例えば、
今日は電車で行こうか、
歩いて行こうか、
・・・みたいな。
そこでちゃんと
電車で行こう
と選択することで、
たまたま
同じ車両に乗った人との
出会いがあるかも
しれない。
それが人生を
大きく転換する
きっかけとなるかも
しれない。
そういった、
日常の中に
密かに隠された
重要な選択肢たち。
そこをちゃんと
真本音の方向に
行くこと。
それができるのは、
ちゃんと
普段から自分の
本当に望む生き方を
実践できていること、
もしくは、
実践しようと
決めている人だ。
そしてそういう人が
ちゃんと
自分の望む選択を
(それがほんの
些細な選択でも)
できた時、
覚悟の表情に
なる。
人生を一歩
進めた人の
表情だ。
それは実に
本当に
清々しいものなんだ。
つづく
きっとそれは
何もなかった
のだろう。
ある、と
思い込んで
いたのだろう。
ないものを
ある、と
思い込む始まりは
その後、
物事がどう
展開しようが
辛いものとなる。
自分が
実はそれに関して
何の意志(意思)も
持っていなかった
という事実を
どこかで
受け止めなければ
ならなくなる。
いや、そこで
もし受け止めることが
できたなら、
それだけで
やり直しは効く。
しかし多くの場合、
せっかく
始めたのだから、
と
惰性で続ける。
もしくは、
自分に意志(意思)が
まったくなかった
という事実そのものを
受け止められない
ままでいる。
やはりそれは
ちと、辛い。
意志(意思)が
ないことは
いけないこと
ではない。
大事なのは、
この件について
自分には
意志(意思)がないのだ
と
ちゃんと自覚すること。
そして
そういうことは
一刻も早く
手放す
ことだ。
手放す、とは
捨てることでは
なく、
自分から
距離を置く
ことだ。
あらゆる物事に
距離感
はとても大切で、
自分の意志(意思)の
ないことは、
自分から遠くに
置けばいい。
そしてもし
意志(意思)が
生まれれば、
その時点で
近づけばいい。
遠くに置くべきもの
を
遠くに置いていないと、
本来
近くにあるべきもの
が、
寄って来れなくなる。
人生は
調和、だ。
調和とは
距離、だ。
何とどう距離を
置くか?
何を近づけ
何を遠ざけるか?
その視点で
すべての物事に対して
距離の調整を
しよう。
すると、
止まっていたものが
流れ出すよ。
つづく
今、私が
最も集中すべきことは
何だろうか?
・・・この
非常にシンプルな
問いが、
今こそ
重要だ。
人生や仕事の
ステージが
変わるとき、
これまでの
ステージから
次のステージに
向かう
扉(出口)がある。
それは多くの場合、
たった「一点」
だ。
一点集中を
することで、
道は開かれる。
ステージを
変えようとしている
人が急増している
今、
特にこの6月、
一点を自ら
自覚し、定めることが
とても重要だ。
今は、
自分のエネルギーを
分散させている
場合ではない。
今は、
自分の出せる
最大のパワーを
一点
に込める
時だ。
つづく
すごく充実している
日々の中で、
ちょっとした瞬間に
フッと訪れる
空虚感
はないかい?
この充実感の中で
そんなことは
感じてはならない
と、
一瞬にして
その空虚感を
踏み潰していないかい?
これで
いいじゃないか。
こんなに
充実してるのだから。
これで
満足じゃないか。
・・・と、
どこかでずっと
自分を説得し続けて
ないかい?
本当に大事に
すべきは、
その
ほんのわずかな
空虚感。
その幻の
ような。
ちょっとした
淀み。
そこにこそ、
自分自身の
本当の本当の願いや
使命へのヒントが
潜んでいる可能性は
大いに
あるのだよ。
そこに目を
瞑るからこそ、
だんだんと
疲弊をしていく。
そこを
誤魔化すからこそ、
だんだんと
自分を失っていく。
99.9%の満足が
たとえあったと
しても、
あと、0.1%。
この、0.1%を
大事にしよう。
99.9%に意味がない
ということじゃない。
それがあるからこそ
あと、0.1%まで
来れた。
だからこそ
最後の、0.1%を
妥協せずに、
100%を
目指そう。
つづく
一つ、
仕事が終わると
私は目を閉じる。
そして
何も考えず
じっとしている。
すると自然に
次の仕事に取り掛かろうか
という意識が
湧いてくる。
その状態になって
私は
「今から何をする?」
と
自身に問う。
問うた瞬間に
答えが浮かぶ。
その浮かんだ仕事に
すぐさま
取り掛かる。
・・・このやり方を
繰り返すと、
非常に気持ちが良い。
仕事が
タンタンタンと
進む。
今、何をやるか?
その明確な答えを
私達は持っている。
今、やることを
今、やる。
そこに忠実になる
だけで、
実に一日が
気持ち良くなる。
今、やることを
今、やることで、
なかなか凄い
集中力が出る。
そりゃそうだろう。
今、やると
決めていることを
今、やるのだから、
その時間は
他のことには
意識がまったくいかない。
そして
そんな状態になれば
自然に
直観力が増す。
恐らく
同じ仕事を
今、ではない別のタイミングで
行なったとしたら、
このような直観とは
出会わなかっただろうな、
と思えるような
発想と巡り合える。
だから
仕事の生産性も
質も増すことになる。
いや、
これは仕事に関する
ことだけではない。
一日の自分の
あらゆる行動について
言えることだ。
今、やることを
今、やる。
これができずに
今、やることを
やらず、
今、やることではないことを
やってしまうことで、
私達は、
集中力も直観力も
生産性も減退する。
もちろん
不調和が起こる。
とても
単純なことでは
ないか。
時間を大切に
する。
人生を大切に
する。
自分を大切に
する。
・・・その基本は、
ここにあるのでは
ないかと
私は毎日、思っている。
つづく
これまでの自分
と
ここからの自分。
その断絶を
楽しむのも
人生の醍醐味の
一つだ。
断絶して
しまえばいい。
ガラッと、
何もかもを
変えてみてもいい。
無茶はする必要は
ないが、
できるところからで
よいので、
思いっきり
断絶させる。
自分自身を。
生まれ変わった
つもりで。
きっと、
人生というのは
こんなにも
自分の在り方一つで
展開が変わるものか、
と
びっくりするかもよ。
そう。
自分の在り方で
すべては変わる。
自分を変えずして
何も変わらない。
そして、
どうせ変えるなら、
望む方向に
一気に舵を切る。
変えるというよりも
やはり
断絶だな。
これまでの自分を
断ち切っちゃえ。
つづく
滝の水が
落ちるように、
意識が
落ちていく。
奈落に落ちる
ような感覚で
凄まじい激しさで。
一見、これは
恐怖を伴うはずの
ものだが、
実は
そうではない。
安楽、とまでは
言わないが、
心地よい
スリルがある。
それをそのままに
私は
楽しんでいる。
高く飛べば、
激しく落ちる。
両方ともが
あるのが人生だ。
いつも飛ぶだけ、
落ちるのはイヤ。
・・・とはいかない。
大事なのは
どちらも
味わい尽くす
ことだ。
いやいやいや、
そんなの無理だ
と
ほとんどの人が
言うだろう。
でもそれは
逃げるからだ。
逃げれば逃げるほど
恐怖は増し、
痛みも増す。
あるがままを
感じ
体験するのが
私の人生だと
あきらめよう。
どうせ
意図通りには
いかないものだ。
力がつけば
つくほど、
さらに強烈な
体験がくる。
それを私達は
本能的に
求めている。
だったら
しょうがない。
全部、味わおう。
そう開き直れば、
落ちている時も
実は
飛んでいるのだ、
とわかる。
落ちる、
という飛び方を
しているんだ。
人間の力を
卑下しては
ならない。
逃げるから
私達は弱くなる。
逃げるのを
あきらめよう。
そこから
本来の力は
目を覚ます。
つづく
水平線から
日が昇る。
一日が
始まろうと
している。
今日と言う
一日は、
昨日とは
違う。
これまでに
一度もなかった
一日だ。
今日しかない
今日だ。
それと同様に、
今日の自分は
昨日までの
自分とは違う。
今日にしか
いない
今日の私だ。
この世界は
あらゆるものが
分離し
断絶している。
つながっているように
見えているが、
すべてが
断絶している。
だから
昨日の私と
今日の私は
本当は別人だ。
人の成長は
徐々に進む
というものでは
ない。
一気に
変わる。
もちろんそれまでの
伏線はある。
しかし
本当は
伏線そのものが
必要ないのかも
しれない。
私達は
一気に変化し
成長する。
垂直の壁を
攀じ登るように。
垂直に空を
駆け上がるように。
大気圏を
一瞬で
抜けてしまうように。
本当は皆、
そんなことが
できるのだが、
それが
人間なのだが、
躊躇して
それをしない人が
多い。
成長は
徐々にでしょ。
特に自分は
そういう人間だし。
・・・と
思い込んでいる。
そんな思い込みは
もう要らない
のではないか。
成長したければ
一気に行け。
変わりたければ
一気に変われ。
本当はそれ、
できるんだ。
我々は。
人間であるから
こそ。
つづく
私は
私のままで
いられるだろうか?
という
極度の不安に
襲われたことは
あるだろうか?
願いが
強ければ強いほど、
その願いに
向かおうという
意志が強まるほど、
その不安は
強大化する。
それはもう
致し方ないことだな
と
私は思う。
人間の宿命の
一つかな、と。
自分のその
願いに
本当に向かうのか
向かわないのか
その選択権は
自分自身にある。
その事実を
わかればわかるほど、
悲しくなることが
ある。
こんなことなら
いっそのこと、
誰か私のために
私の代わりに
決めてくれよ、
と。
主体性なんか
要らない。
私はもう
その人の言う通りに
生きていくから。
何も考えず、
指示通りに
生きていくから。
・・・と
誰かに何かを
すがるような
気持ちになる。
私はこれまでの
人生で
そういうのが
何度もあった。
が、
その度に
やっぱり
その「誰か」なんてのは
いないのだな、
やっぱり
自分の人生は
自分で背負い、
自分で決めなければ
ならないのだな、
と
結局はそこに
帰結した。
そしてただ
ただ、
その不安と
そのまま
向き合い続け、
不安を
抱き続けた。
今だって
そういうのはもちろん
あるのだが、
でも
今になって思うのは、
その不安や
悲しみがなかったら
ヤバかったな、
ということ。
これがなければ
私の場合、
きっとどこかで
間違っていただろう。
傲慢への道に
入り込んで
いただろう。
だからまぁ
しゃーないか、と
思う。
何がどうあっても
目の前に
道はあってね。
その道は
まっすぐに前に
続いていてね。
こんなにも
大きな不安なのに、
そこには
まったく何の障害も
本当は
一つもないのだと、
どっかで
わかっている。
やることは
たった一つ。
今やることを、
今やる。
たったそれだけの
こと。
それを続ける
だけ。
そういうのすべて
ちゃんとわかっていて
それでも
不安になる。
これがまぁ、
やっぱ人間なのかな、
いや、
私という人間なのかな、
と
思うね。
つづく
どこに
こだわるか?
というのは
本当に大事だな、
と思う。
私なんかは
職人気質なので、
これはとても
気をつけている。
・・・つもり。
こだわり
には
二つある。
真本音のこだわり
と
反応本音のこだわり
だ。
単純に言えば、
前者は
進化を生み出し、
後者は
皆が迷惑する。
物事には
変えてはならない
という
中心核がある。
それだけは
何があっても
不変のままで
行く。
しかし、それ以外は
ズブズブに (笑)
流されればいい。
周りの意見や
最近の動向や
流行や、
諸々のことを
取り入れればいい。
・・・というのが
真本音のこだわり
なので、
そのレベルのこだわり
を持っている人は
一見すると、
何のこだわりもない人
のように見られる場合
すらある。
時々私も
誤解を招いてしまう
のだが、
「真本音なんて言葉、
どうでもいいんですよ」
などと
平気で言ってしまう。
みんなが結果的に
真本音度合いが
高まっていけば良いので、
そこだけは本当に
大事にしたいので、
そのためにもし
「真本音」という言葉
そのものが
その足を引っ張るようなら、
私はその言葉は
使わない。
だから意外だと
思われるかもしれないが、
普段「真本音」という
言葉をまったく使わずに
サポートさせていただいている
クライアントさんは、
実は
半数近くいる。
そして
サポート内容は、
100社あれば
100通りのご要望と
やり方があると
思っている。
これは一見
柔軟に見えるかも
しれないが、
しかしやはり
私なりの強烈なこだわりが
あり、
それだけは
外さないようにしている。
なんか話が
私のことになって
しまったが、
言いたいのは、
自己満足のこだわりは
やめようね、
ということ。
「ここだけは曲げられない」
というのが、
ただの反応本音レベルの
こだわりに
なっていないかい?
という視点を
持つことは、
とても大事だ。
一緒に働いている
人達や、
お客様など、
周りの人達の
自分への対し方に
ちゃんと注意を
払おう。
意見を
言いにくそうに
していないかい?
腫れ物に触るように
コミュニケーションを
とってこないかい?
いつも遠慮するような
雰囲気を
感じないかい?
もしそうであれば、
誰も喜ばないこだわりに
執着
しているかもよ。
つづく
氷がゆっくり
溶けていくように、
自分自身を
ゆっくり
溶かしていく。
一滴一滴
余分なものが
落ちていく。
だんだんと
塊が
なくなっていく。
あのたった
一滴に
いったいどれだけ
こだわったことか。
あの
落ちていく一滴を
いったいどれだけ
これこそが私である
と
思い込んだことか。
でもあれは
私ではなかった。
むしろ
私にとっては
不必要な
一つのクセでしか
なかった。
人は、
自分自身の
思考と行動のクセ
を見て、
それを「自分である」
と
決めつける。
ただの
クセなのに。
それがなくなることは
自分がなくなることだ
と
思い込み、
その喪失を極度に
恐れる。
ただの
クセなのに。
クセを直し
まっすぐな自分に
なることこそ
本当の自分に
戻る
ということ
なのにね。
実を言うと、
この氷塊のような
ものは
一気にすべて
壊したいものだ。
でもそれは
さすがに
人間として耐えられる
恐怖の度を
超えすぎる。
人の心というのは
耐えられる限界が
ある。
だから
耐えられる限界
スレスレの
最大スピードで
少しずつ
自分を
溶かしていく。
本来の自分に
戻るために。
本来の生き方に
戻るために。
氷塊がすべて
溶けてしまう
ということは、
自分が
無になる
ということではない。
そこからが
本当に
生の誕生なんだ。
つづく
わからない
ことを
「わからない」
と言える
すがすがしさ。
本当に
わからんわぁ、
と
全身の力が抜けて
本当に心から
あきらめる
すがすがしさ。
・・・こういった
体験はあるかな?
「わからない」
には
2種類ある。
一つは、
まだまだ
しっかり考えていない
ことによる
「わからない」。
もう一つは、
あらゆる手段を
尽くして
答えを探究
し尽くして、
やれること
すべてやって
それでも
どうしても答えの出ない
「わからない」。
もちろん
すがすがしいのは
後者だ。
そしてその
すがすがしさは
こんなにまで
探究し続けても
わからないという、
こんなにも
奥深いテーマと
出会えたなんて、
なんと幸せだろう
という
すがすがしさでもある。
と同時に、
答えのわからない
問い
はない。
もちろんその
答えとは、
その人にとっての答え
ということだが。
その人に浮かぶ
問いには
その人なりの答えが
必ずある。
その答えが
見つかることで
その人は次のステージに
一気に進む。
答えがわからない
ということは、
それだけそのステージに
入ることの
難易度が高いということ。
そして難易度が高いほど、
それを越えた時の
開放感も
その後のまだ見ぬ世界の
広さも大きさも
凄いということになる。
そういった
本能的感覚的な
期待感も含めて
すがすがしい
と思えるのだ。
探究が
まだまだ足りないうちに
「わからない」
とあきらめるのは
実にもったいない。
そして、
本当の納得の答えに
たどり着く前に
中途半端な答えを
出しておしまいにする
のも、
実にもったいない。
うー、わからない!
と
笑いながら言える
くらいに
とことん
探究しようでは
ないか。
つづく
あまりに
ゆっくりな流れ
だが、
この川は
確かに流れ
続けている。
じれったくも
なるのだが、
しかし紛れもなく
ここに
流れはある。
この川に
身を委ねると
決めた以上は
この流れに
乗り続ける。
景色は
ほとんど
変わらないが、
でも確かに
進んでいる。
たまには
こうして
ゆっくり進むのも
いい。
ゆっくり進む
からこそ
見つかる景色も
ある。
風を切る
爽快さもあれば、
風を感じない
この静けさもある。
でもやはり
確かに
進んではいるのだ。
まるで
停滞しているかの
ごとく
進むべき時。
そんな時は
自ら水をかき分け
泳ぎたくも
なるのだが、
こんな時に
「待てる」自分に
なれるといい。
流れ方は
一定ではない。
急流と
緩流と。
それぞれの
「今」を
今にしかない
「今」を
楽しむことが
人生の醍醐味だ。
つづく
自分の中の
閉じていた目が
ふと
開く感覚。
・・・わかるだろうか?
これまで
まったく観えなかった
ものが、
突然
観えるようになる。
わかるように
なる。
見通せるように
なる。
これまで
悩んでいたのが
いったい何だったのか?
と
思えるくらいに
簡単に
答えがわかる。
まるで最初から
そこに答えが
あったかのように。
いや、
本当は
そうなのだけど。
答えは
あるのだけど。
でもずっと
それを観るための
目が
閉ざされていただけ。
目が開かれれば
それは
わかる。
それだけ。
ではどうすれば
目は
開かれるのだろうか?
これにはきっと
いろんな答えが
あるのだろう。
でも今の私は
たった一つ、
こう答えよう。
「人生」
だ。
「人生」について
とことん考える。
良い問いが
ある。
『私の人生、
本当にこのままで
良いのか?』
・・・これだ。
この問いと、
本当に真摯に真剣に
向き合い続ける
ことだ。
徹底的に。
これをする人は
いつか必ず、
目が
開かれる。
未来を
見通せる。
自分が何を
すれば良いか?
の
本当は目の前にずっと
ある答えを
その目によって
明確に
見出すことが
できるのだ。
そうなれば、
「わかる」。
理屈ではなく
「わかる」。
ここにいる
意味が。
そして
本当に「わかった」
人は、
自分が本当は
まだまだ何も「わかって」ない
事実も知り、
ますます
真摯になるもんだ。
つづく
目の前の
現実を、
自分の鏡
として
見つめよう。
今、何が
起きているか?
今、
どのような展開が
あるか?
今、
誰がいるか?
それらはすべて
自分自身の
反映だ。
自分の生き方の
結果だ。
不可抗力だって
あるだろう。
自分が被害者的に
他者の何かを
受け止めることも
あるだろう。
・・・という
考え方は
あえて今は
やめてみよう。
すべて
100%。
目の前に今
あるものが、
自分を100%
映し出している。
そう覚悟を持ち
すべてを受け止める
生き方こそ、
今の私達には
必要なのでは
ないかな。
つづく
真実を知る
ということは
怖いことなんだろうな。
真実。
私のいつも使う
言葉で言えば、
実在。
あらゆる現象の
奥にある
本質。
でも、
怖いのは
最初だけだ。
実在がわかる
ようになると、
それはもう
いろんなものは
「わかって」
しまうが、
それでもまだ
「わからない」
ことは
本当にたくさんあり、
そして、
それらを全て
含めても、
そんなに
ひどいものでは
ない、
ということは
わかるよ。
そして、
思い切って
実在の
奥の奥の方まで
意識を向ければ、
そこには
確かに
「流れ」があるのも
わかる。
悠久の流れ。
それを
あるがままに
感じ取れば、
そこに
「希望」を
感じることも
できる。
私はその感覚を
『祈望』
と呼んでいる。
その希望は
祈りのような
ものだ。
現象のみを
見れば、
ひどいものも、
その奥の奥に
流れる
「祈望」を感じ取りながら、
その現象と
向き合えば、
今、自分が
ここで
何をすべきか、は
すぐにわかる。
そして
この現象の世界に
おいての
「祈望」の方向に
物事を進めることが
できる。
真実を
感じ取れば
取るほど、
やっぱり
自分次第なんだな、
我々次第
なんだな、
と
強く「わかる」ように
なった。
全て
我々が
やってるんだよ。
それが
「わかれば」
覚悟が
決まるよ。
つづく
「意志」には
距離がある。
あなたのその意志は
自分自身と
どれくらいの距離が
あるだろうか?
その意志は
自分のすぐ目の前に
あるのだろうか?
すぐ後ろだろうか?
横だろうか?
斜めだろうか?
もしくは、
もっと遠くに
あるのだろうか?
何mくらい
遠くだろうか?
ひょっとして
何km?
もちろん遠くに
なればなるほど、
その意志は
自分とは別物となる。
だから
何かの拍子に
すぐに飛んでなくなる。
近くにあれば
あるほど、
その意志は
自分にとっては安定した
強いものとなるが、
それでも自分とは
別物だ。
だからいつも
意識して
思い出さねばならない。
あなたのその意志は
今、どこにあるだろう?
どれくらいの
距離があるだろう?
そんな観察の仕方を
してみるといい。
そして
大変に稀だが、
距離がゼロ
ということがある。
つまりその意志は
自分と一つ。
自分そのもの。
「自分=その意志」
という
そんな意志がある。
本当は
誰にもある。
しかし
そんな意志を
見つけられる人は
少なく、
もし見つけられたら
その人はとても
幸福だろうな。
自分からの
距離の遠い意志は
大したことはない、
ということではない。
どの距離の意志も、
もしそれが
自分の望む意志で
あるならば、
大切にすればいい。
様々な意志を
大切にできる人こそが、
この意志は
自分自身である
という
距離ゼロの意志を
自覚することが
できるようになる。
さぁ、
自分の意志を、
様々な距離の
意志を、
見つけよう。
自分の意志
なのだから。
つづく
自分の中にある
とてつもなく
強い意志を感じたら、
その存在の
確固たるを
知ったら、
その意志から
自由になると
いい。
意志から
脱け出そう。
意志を
忘れてしまおう。
その方が
結果的に
より早く
意志を成就
できる。
本当に確固たる
意志で、
それが
実在であるならば、
あなたは
その意志だ。
あなたという
存在そのものが
その意志なんだ。
であれば、
もう、それでいい。
あとは
自由だ。
あなた自身が
その意志である
ならば、
あなたが
自由に振る舞えば
振る舞うほど、
その意志は
最短の道で
成されていく。
それを
楽しめばいい。
意志を持ち、
意志そのもの
となり、
意図を手放す。
そんな進み方を
楽しめばいい。
つづく
「ここにしかないもの」
が、
ここにある。
この3次元の世界
における
存在とは、
すべてが
そういったものだ。
例えば「時間」は
すべて
分離されている。
「今」という
この時間は、
すべて分離され
「ここ」にある。
それが
積み重なっている。
だから、
0.1秒前の「自分」と
今の「自分」と
0.1秒後の「自分」も
本当はすべて
分離されている、
それぞれが
別個の存在だ。
ただ私達の
顕在意識では、
同じ存在が連続して
存在している
ように
感じられる、だけだ。
すべては
分離され、
すべては
今ここ
にしかない。
分離された存在
の
集積。
それが
この世界だ。
なぜ、こんなにも
「分離」をするのだ?
ここまで
徹底的に。
それは、
ここまで徹底的に
分離をしなければ
得られないもの
があるからだ。
分離の極致
まで行って初めて
手に入れられる
ものがある。
「分離」された
私達は
もともとの
「一つ」
に戻ろうとする。
分離の極致から
「一つ」への道は
永遠とも言える
長い道のりだ。
しかし
それをする。
「分離から一つへ」
向かうにあたり
発生する
エネルギーがある。
それを
「愛」と呼ぶ。
私達が得たいのは
これだ。
分離をしなければ
決して得られない
のが、
これだ。
私達は
「一つ」に戻ろうと
する存在だ。
愛というエネルギー
を発生させながら
「一つ」に戻る
ことで、
同じ「一つ」でも
これまでとは
次元の異なる「一つ」
になれる。
それを
進化と言う。
つまり私達は
愛のエネルギーを
発生させることで
進化する。
その
宿命、とも言える
意志と力と行動を
本能と言う。
私達はもっと
本能に素直に
生きた方がいい。
つづく