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日が昇ろうと
している。
海の彼方から
新しい太陽が
昇ろうとしている。
海は
荒れている。
まるで
太陽に抗うかの
ように。
荒れた海に
意識を向ければ、
全身が
荒れてくる。
まるでその
荒れ狂う波に
自分のすべてが
さらわれてしまうようだ。
自分が
観えなくなる。
でも、
一転、
半分姿を現している
太陽に意識を
向ければ、
途端にすべてから
解放された
穏やかな心地になる。
太陽も海も
同じ視界に入っているのに、
ほんのちょっと
目を転ずるだけで、
こうも違うものか。
そう。
こうも
違うものなのだ。
どこに
意識を向けるか?
どの一点を
観続けるか?
・・・だ。
もちろん前提として、
すべてをあるがままに
観て、感じることは
とても大事。
荒れた海を
ないものにしては
ならない。
確かにそこで
荒れているのだから。
しかしすべてを
理解した上で、
私は今、
どこに意識を
向け続けながら
進むのか?
を明確に
するといい。
そしてそこから
目を離さないこと。
決して。
そうすれば
間違いなく、
あなたは
生まれるよ。
つづく
いつもと視点を
変えて、
天井から自分を
観察してみるといい。
どう観える?
自分だけじゃない。
環境もそうだ。
例えば、
天井から観ると、
自分の部屋は
どう観える?
そして、
何を感じる?
・・・・・・
視点を変えながら
生きることは、
とても大切なことだ。
私達はいつも
同じ視点に立ち
同じ角度から
同じように解釈をして
生きている。
ちょっとそれを
変えるだけで
下手をすると
人生観そのものが
変わってしまうかも
知れない。
・・・・・・
自分自身を
正面から観たり、
上から観たり、
下から観たり、
横から観たり、
斜めから観たり・・・。
人を
正面から観たり、
上から観たり、
下から観たり、
横から観たり、
斜めから観たり・・・。
イメージするだけでも
随分違うね。
人生の豊かさ
を決めるのは、
この視点の多さと
広さと柔軟さではないか、
と
思うことが
私はよくある。
視点の少ない人、
視点の狭い人は
とても窮屈そうだ。
すぐにイライラするし、
すぐに道が
閉ざされてしまったような
顔をする。
一つの「現実」が
起こっても、
それを一方向からのみ
見て、
良い・悪い
と評価判断するよりも、
たくさんの視点から
観察をしよう。
あるがままに。
その方が
余程面白い。
・・・・・・
さて。
私は今、
自分の背後にまわって
自分の背中を
見つめている。
そうすると、
今の自分は
とても寂しそうにしている
ように感じる。
なんか、
励ましてあげたく
なってきた。笑
ちょっと一人で
背負い過ぎだな。
つづく
ほんの小さな
ドブがあった。
幅は30cmもない。
小さな子どもでも
一跨ぎで
越えられる
ものだ。
私は4歳だった。
そのドブの前で
立ち往生していた。
ドブの向こうには
当時まだ若かった
親父がいた。
親父は
ドブを跨いで
越えられない私を
苛立った。
「大丈夫だよ。
こんなの簡単に
越えられるよ」
と言いながら、
何度もその見本を
見せてくれた。
そうだ。
こんなの簡単に
越えられる。
・・・と、
頭ではよくわかって
いたのだが、
それでも私は
その簡単な一歩を
踏み出せなかった。
怖かったのだ。
頭では
大丈夫と
わかっていても、
どうしても
怖かったのだ。
そのうちに
親父は本当に
苛立って、
ついには大声を
上げた。
「こんなものも
越えられないのか!」
と。
私はそんな親父が
怖くて、
ついに一歩を
踏み出した。
すると
何のことはない。
本当に
簡単に越えられた。
それだけの
ことなのだが、
何故がとても鮮烈な
思い出として、
この年までずっと
私の脳裏に
こびりついている光景だ。
・・・・・・
大丈夫だよ。
あなたには
きっとできるよ。
・・・と、
いつも微笑んで
くれる人。
そんなことも
できんのか。
さっさとやれ!
・・・と、
厳しく叱る人。
どちらも人生では
必要だ。
私自身も
どちらの役割も
これまでは
行なって来た。
自分自身に
対してはどうだろう?
私は結構、
自分に対しては
ずっと後者で
いたのかな。
結構、
自分に厳しく
して来たように思う。
いや、
自分への厳しさ
以上に、
他人に厳しくしたことは、
きっと
一度もない。
自分への厳しさ
と同じくらいに
もし他人に厳しく
したら、
きっと耐えられる人は
一人もいないだろう、
と
思って来た。
・・・ということに
今日、気がついた。
私はもともと
とても怖がりなので、
私に厳しくしてくれた
人達には
とても感謝している。
その人達のおかげで
初めて
一歩を踏み出せたことは
数知れず。
あれがなかったら
ひょっとすると
今の私はもう
生きていないかも
知れない。
厳しさ。
本当の
厳しさ。
今の世の中にも
ひょっとすると
これが必要なのかな?
人間は、
怖さを越えて
もっともっと先に
進まないといけないと、
最近、特に強く
思うんだ。
つづく
意識を外に
向けよう。
意識を
人に向けよう。
そこにいる
すべての人に
向け続けよう。
あなたの中に
「答え」はない。
「答え」は
その場において
生まれる。
生まれる瞬間を
見逃しては
ならない。
生まれる瞬間を
捕らえなければ
ならない。
だから
思考をしている
場合ではない。
顔を上げ、
人を観て、
場を感じて、
今、目の前にある
すべてを
楽しもう。
この
基本的姿勢が
「調和」の
原点だ。
そして、
「創造」の
原点だ。
調和とは
創造だ。
調和とは
シナジーだ。
調和とは
「最大速」に
なくてはならない
ものだ。
だから、
意識を外に
向けよう。
そこにある
すべてを
あるがままに
観察し続けよう。
思考も解釈も
している場合では
ないんだよ。
つづく
人が人を救おう、
などと
思うことは、
大変おそがましい
ことだ。
傲慢だ。
ということは
重々に
よくわかっているのだが、
それでも
救いたい!
と
思ってしまうことがある。
それも
人間。
いいだろ?
・・・・・・
心が痛む。
心だけじゃない。
魂までが
ギリギリと
痛む。
なんでこの人は、
自らの意志で
自らの本当の願いとは
真逆の道を
行こうとするのか。
なんでこの人は、
自らの意志で
自分自身を
傷つけ尽くす道を
行こうとするのか。
それは
成長でも進化でも
ない。
その真逆だ。
そこには
何の希望も価値も
ない。
なのに
まっしぐらに
その道を行こうと
する。
何としてでも、
腕を引っ張ってでも
止めたいと
思う。
救いたい!
と
思ってしまう。
でも
残念ながら
できない。
やろうと思えば
思うほど、
その人の
その道へ向かう意志を
強めてしまう。
他者には
できないこと。
本人にしか
できないこと。
救えるのは
本人しか
できないのだ。
その真実を
無力感と共に
痛感する。
これまでに
何度もあった。
何度もあったが
これは
慣れることがない。
あまりに
苦しく、痛く、
悲しいことだ。
・・・・・・
救いたいと
思うこと自体が
傲慢なことは
わかってるんだ。
でも
思うのだから
しょうがないだろう。
人生は
痛いな。
でもこの痛みを
背負うことも
また
人間なのだな。
痛いままで
進むのが
人間なのだな。
つづく
「願い」
を口に出して
みてほしい。
できれば、
「人生の願い」
がいい。
私の人生は
これを実現するために
ある。
・・・くらいのものが
いい。
わからなければ、
わかる範囲での
自分自身の最も長期的な
願いがいい。
もちろんそれは
抽象的でもいい。
具体的でもいい。
大切なのは
「これは私の願いだ」
と思える願いで
あることだ。
・・・・・・
「願い」を口に出す
ときは、
大きな声は
出さなくいい。
小さな声でよいから
実際に口に出し、
それを自分の耳で
聴いてほしい。
それをした時に、
どれだけそれが
自然に聴こえるか?
どれだけそれを
自然に口ずさむことが
できるか?
を確認して
ほしい。
その願いと自分は
溶け合っているだろうか?
その願いと自分は
「一つ」だろうか?
その願いは本当に
自分のものだろうか?
そんなところを
確認してみてほしい。
そしてもし
少しでも
違和感があれば、
その「願い」を一度、
手放してほしいんだ。
その「願い」を、
なかったことに
してほしいんだ。
その状態でしばらく、
日々を過ごしてみて
ほしいんだ。
・・・・・・
なぜこんなことを
するかって?
そりゃもちろん、
あなたが
次のステージに
進むためだよ。
つづく
今のこの一瞬
の中に、
永遠が存在する。
・・・言葉で書くと
どうしてもこうなって
しまうのだが、
この言葉を
感覚として
捉えてほしい。
私達には
この「感覚」が
あるはずだ。
この「感覚」を
思い出している時、
私達は
あらゆる判断が
観える。
すべてを知っている
自分を思い出す。
これも
「感覚」として。
すると、
次の自分の一歩
について、
あらゆる迷いや惑いが
なくなる。
その一歩は
ただの「一歩」
となる。
純粋な
「一歩」となる。
「一歩」以上のものではなく、
「一歩」以下のものでも
なくなる。
その「一歩」は
「一歩」ではあるのだが、
「全体」でもある。
「すべて」でもある。
だからこそ
完全に調和をする。
理屈で捉えると
訳がわからなくなるかも
しれないが、
これを「感覚」として
わかっている私達が
確かにここにいる。
それが
真実だ。
・・・・・・
今のこの一瞬が
永遠に続けば
いいのに。
と願ったことは
ないだろうか?
私はしょっちゅう
ある。
それ自体が
幸せなことだが、
しかしそれがもう
願いではなく
真実であることを
一方で、私達は
よくわかっている。
何度も言うが、
これは理屈では
ない。
この「感覚」を
日常の中で
いかに思い出し続けるか?
・・・だ。
これを私は恐らく、
もうすぐ52年になろうとする
この人生で、
探究し続けた。
言葉で表現すれば
実に難しいが、
これを「感覚」として
捉えることができるように
なれば、
実に
簡単なことだ。
簡単過ぎて
難しいのだ。
今、ようやくにして
よくわかるのは、
これは、
探究するものでは
なかった。
これは、
あまりに当たり前の
こと。
ただ、
思い出すだけの
ことだったのだ。
だから私は
その「思い出し方」を
私のすべてのサポートの
根幹に
置いているんだ。
つづく
「シンプル」
ということが
私は好きだ。
ほぼほぼ
あらゆる物事の根幹は
極めてシンプルだ。
例えば、
企業様で様々な問題が
起こっており、
その解決に何年もかかって
いるとしても、
実はその原因は
とてもシンプルなところに
あるケースが多い。
シンプルが故に
それが当たり前になり、
原因が原因として
認識されなくなっていたりする。
そう、それは
空気
のようなものだ。
シンプル過ぎて
あるのが当たり前
になっている。
そういうことが
仕事においても
人生においても
我々には多い。
そこで今回は
シンプルに
次の問いを皆さん自身に
投げてみよう。
「私は何が好き?」
・・・これ結構、
シンプルに答えられる人、
少ない。
もしくは
答えても実は
的が外れてしまっている
とか、
本当の答えからは
ズレているとか。
本当の本当の本当に
好きなことは
何だろう?
ということだ。
もしわからなければ、
この問いを
しばらくの間、毎日、
朝から晩まで
大事にしてみてほしい。
きっと何か
シンプルな答えが
見つかるよ。
つづく
たくさんの発想が
出ることが
良いことである、
とは
私は決して思わない。
心の中から
発想が溢れ出ることが
よくあるが、
それが良い状態である
とは
私は思っていない。
むしろ、
うるせーなぁ、
と
自分の心になかなかに
冷たい言葉を
投げかける。
そしてそんな時は
実際、
100個、1000個、・・・と
どれだけの発想が浮かび、
その一つ一つが
どれだけ魅力的でも、
ほぼほぼそのすべてを
私は捨てる。
心がうるさい時の発想は
すべて
捨てるのだ。
本当の発想は、
「静謐」の中から
生まれる。
その発想は
「確信」
である。
根拠のない確信
である。
逆に言うと私は、
根拠のある確信を
「確信」とは
呼んでいない。
だってそれは
根拠(理由)がなければ
確信ではないのだがら、
それは
確信ではないのだ。
確信に
理由は要らない。
確信に
解釈は要らない。
もっと言えば、
自信も要らない。
賛同も要らない。
確信は
確信だ。
それに出会ったら、
四の五の言っている
暇などない。
勝手に体が
動いてしまうのだ。
これが、
真本音の発想
である。
真本音の発想には
根拠はないが、
しかし本当は
根拠は大ありなのだ。
ただそれは
次元の高い根拠なので
言語化が非常に
難しい。
言語化できないものを
我々は「根拠」とは
言わないので、
結局は
「根拠はないけど
確信はある」
みたいな言い方に
どうしてもなってしまう。
でも本当はそれは
言葉にならないほどに強い根拠
という土台があるということなので、
私達の体は勝手に
その通りに動いてしまう。
次元の高い根拠とは
つまりは、
「すべてはつながっている」
もしくは
「すべては一つ」
という次元から来るもの
なので、
これをすれば必ず
皆も悦ぶ。
これをすれば必ず
調和する。
ということが
よ〜くわかっているのだ。
だから
言葉や理屈としての
根拠がなくとも
私達は安心して
動けてしまう。
要するに、
どの次元での根拠に
基づいて生きるか?
動くか?
という問題であり、
どうせなら
次元の高い根拠に
基づいて生きた方が良い。
それは必ず
悦びにつながるから。
真本音度合いを
高める、
とは
真本音発想を増やす
ことであり、
次元の高い根拠に
基づいて生きる自分に
なる、
ということなんだ。
それを今のこの世の中
において
実践していく。
それが私のサポートの
本質かな。
つづく
本当に
人のことを言えた
義理ではないが、
休息は
取った方がいい。
ちゃんと休む
ための一日を
創った方がいい。
「お前が言うか?」
と言われそうだが、
本当にそうなのだ。
無理を
し過ぎだ。
がんばり
過ぎだ。
魂のエネルギーは
「すべて」のエネルギーと
繋がっているから、
ある意味、
無尽蔵とも言えるが、
心と体は
別だ。
人としての
限界がある。
その限界を
超えてまでも、
進むことは
我々の真本音は
望んでいない。
命を削れ、
とは
言っていない。
むしろ、
進めば進むほど、
命のパワーも
力もエネルギーも
高まって行く生き方(行き方)
をした方がいい。
あなたは
無理をし過ぎだ。
そのペースでは
倒れてしまう、
そのうちに。
それをちゃんと
わかってほしい。
本当に
どの口が言うか?
だが。
無理すんな。
自己犠牲すんな。
しかし、
最速で進もう。
つづく
交差する。
人と人が
交差する。
その時、
「火花」が飛ぶ。
その人とその人で
なければ決して
生じない独特の
「火花」だ。
それは
交差のタイミングに
よっても変化する。
つまり、
その「火花」は
奇跡的とも言える確率で
発生する。
そのように生まれた
「火花」の積み重ねで
私達は私達の人生を
創り、
そして
歴史を創って来た。
真本音度合いが
高まると
何が変わるかと言えば、
その「交差」が
変わる。
絶妙のタイミングで
絶妙の縁が
生まれるのだ。
それはある意味
「最高!」
と言ってもいい。
その「最高!」を
毎日のように
創り出せるようになる。
つまりそれは
「最高!」の人生だ。
傲慢な言い方を
あえてさせていただくが、
私は人類のこれからの
歴史を
「最高!」にしたい。
そのためには、
「最高!」の人生を
創り出すことのできる人、
自力でそれが
できる人を
一人ずつ増やすこと。
私自身が増やすことは
できないが、
増えて行くのを
サポートすることは
できる。
そして私と同じように
サポートできるコーチも
増やしたい。
あぁ、
やりたいこと
だらけだ。
残りの人生の時間が
少な過ぎる。
つづく
目の前に起きている
現象を見ていると、
ついつい
物事を複雑に
捉え過ぎてしまう。
そして
何をすれば良いか?
わからなくなる。
時には
そんな自分に
無力感でいっぱいになる。
しかし。
現象の根源は
非常にシンプルなことが
多い。
一つのシンプルが、
カタチを変えて
様々に現象化している
だけの場合が
多い。
だから私は
「観察」を続ける。
一つ一つの現象に
対して、
どうしようか?とは
考えない。
どうすれば良いか
わからないので
あれば、
それが
合図だ。
「まだ動くな」
という合図だ。
わからなければ
「観察」を続ける。
ただ、
何の解釈もせずに
現象の一つ一つを
あるがままに
観察し続ける。
意識を
自分の思考に向ける
のではなく、
ただただ「現象」そのものに
向け続ける。
これを続ければ、
ある時ある瞬間に
フッと
何かが観えるのだ。
何かがわかるのだ。
なるほど
そういうことか!
と
合点がいくのだ。
するとそこで初めて
「これをしよう!」
という
自らの行動が
湧いて来る。
これは文字通り
湧いて来る。
確信と共に。
現象の奥に潜む
シンプルさを掴み、
シンプルに
行動する。
その連続で
道は開く。
確信の答えが
湧くまで
待つべし。
ただ、観察をし、
待つべし。
つづく
渦の中心に
あなたは
いるか?
渦の中心に
いるといいよ。
そこにいれば、
「すべて」が
入ってくる。
そして
そこにいれば、
「すべて」が
出て行く。
すべてが入り、
すべてが出る。
すべてを
インプットし、
すべてを
アウトプットする。
完全なる
呼吸。
完全なる
協働。
それが
「世界」と共に
できるから。
これが一番
気持ちが良いし、
一番、
安心する。
真の自分が
現れる。
人間は、もともと
渦の中心にいる
存在なんだ。
もともと、ね。
でもそこから
外れてしまうことで
苦しみが始まる。
苦しみから
逃げようとすることで、
さらに中心から
ズレる。
その悪循環のまま
生きる人は多いのだが、
もうそろそろ
やめよう、
そんな生き方は。
中心に
戻ろう。
渦の中心に。
怖くても
戻ろう。
遊気をもって。
つづく
自分の中の
最もエネルギーの高い
自分の心に
到達しようとすると、
そこは
必ず、
厚くて黒い雲に
覆われている。
ある意味、
最も近づきたくない
場所なんだ、
そこは。
しかし、
その雲に
私達は
立ち向かわなければ
ならない。
雲から逃げずに
雲に
突入しなければ
ならない。
雲をくぐり抜けてこそ、
初めて
自分の「真」を
目の当たりにすることが
できるからだ。
その勇気を
持てる人を
私は育成している
のだと思う。
それが私の
志であり、
もし10人に一人の人が
それが
できるようになれば、
この世の中は
大きく変わると
思っている。
・・・・・・
「立ち向かう」
と言うと、
どうしてもかなり
キツいイメージが
ついてしまう。
勇気と言うと、
怖いとか、
気合いとか、
そんなイメージも
あるかも。
しかし私は
真の勇気とは
『遊気』
だと
思っている。
遊び心。
人生、
遊ぶが如し。
これは、
少し短絡的に言えば、
結果を気にしない
ということ
でもある。
もちろん
「結果」は大事だ。
ある意味、この世は
結果がすべて
とも言える。
仕事や経営では
特にそうだ。
しかしそれを
すべて
受け入れた上で、
あえて、
結果を
気にしない。
人事を尽くして
天命を待つ
ではないが、
どのような結果が
出ても
それはそれで
しょうがないではないか、
との
開き直りができると、
逆に
凄いパワーが出ることが
ある。
もちろん
すべての結果を
自分自身が
飲み込む覚悟があっての
話だが、
その覚悟ができると
人は
途端に
楽になる。
力が抜ける。
自然体になる。
そうなった時に
発生するのが
「遊気」
だ。
そういった意味で
言えば、
遊気をもって
事に当たれる人
を、
私は育成したいし、
それがやはり
私の志だ。
・・・・・・
人は
怖気づく。
当たり前だ。
それが
人だ。
それをなくす
必要は
ない。
一切ない。
というか、
なくそうとしては
ならない。
なくならない
からだ。
なくならないところに
人の価値と
存在意義が
あるからだ。
怖気づく
ヘナチョコな
自分。
それと共に
歩む。
その覚悟を
持った時に、
遊気は
生まれるね。
つづく
心が
100%スッキリしないと
出て来ない発想が
ある。
ということはつまり、
その発想とは
一生出会えない人も
多い。
100%のスッキリ状態を
知らず、
そこで生まれる発想も
知らないまま
人生を終えて、
それで果たして
「自分を生きた」
ということに
なるのだろうか?
もちろん、
100%スッキリせずとも
自分は自分だ。
淀みも含めて、
淀みの出方(パターン)も
含めて、
すべて自分だ。
それもまた事実
ではあるが、
本当にそれで
いいか?
本当の自分の
想いや発想を
知らないままに
生きて、
それで満足だろうか?
満足かどうかは
別として、
私はその「事実」は
実にもったいないと
思うのだ。
100%スッキリ
した時、
自分はどのような
発想をするのか?
何を決め、
何を決めないのか?
何を
願っているのか?
何を
目指しているのか?
ちょっと極端に
言うと、
「自分」として
この世に生まれてきた
以上、
私はそれらを
知ることは、
人間としての「義務」
ではないかと
思うのだ。
せめてそれを
知ろうと
努力することは、ね。
・・・・・・
最近、特に
思うのだけど、
みんな
悩まなくていいところで
悩んでいるよな。
先ほど、
100%のスッキリ
と書いたが、
これを手に入れることの
できる人は、
ちゃんと
悩むべきことに
悩んでいる
人だ。
本当に悩むべきことに
向き合い続けている
人だ。
だから、
変な風に聴こえるかも
しれないが、
100%スッキリできる
人ほど、
悩みが深い
のだ。
深い悩みと
向き合い続け、
いつも
ある意味
混沌としている。
でも
その混沌としっかり
関わり続けることで、
ある時
ある瞬間に
必要なタイミングで
100%晴れる
という状態が
訪れる。
100%晴れる
ためには
雲をなくそうと
してはダメだ。
あらゆる雲と
ちゃんと向き合い
続けることだ。
そして
そういう人ほど、
軽やかになる。
今、「悩みが深い」
という表現を
使ったが、
これは
「悩みが深刻だ」
ということでは
ない。
深刻ではなく、
深い。
深刻とは、
本来悩むべきことに
向き合わないことで
発生する状態だ。
それとは
まったくの真逆。
悩みが
深くなればなるほど、
その人は
軽やかに
なっていくんだ。
・・・・・・
そういう意味で
もっとちゃんと
悩もう、
我々は。
悩みと
向き合おう。
毅然と。
悠然と。
真正面から
ね。
つづく
自力で進もう
とする意思を
失ってはならない。
もちろん
私達人間は、
人との関わりの中で
生きている。
お互いが
助け合いながら
力を合わせながら
進むところに
人間としての
意義と価値がある。
しかし
本当の意味で
それを成すには、
その大前提として、
自分の人生は
自分のものだ。
自分の人生を
自力で進もう。
という
基本的なあり方が
必要だ。
これを持っている
人だからこそ、
逆に、
助け合いも
協力も
コラボも
相乗効果も
生まれる。
これを持っていない
人は
単なる依存しか
生まない。
もっと激しい表現を
使えば、
寄生
しか生まない。
人に、
人の人生に、
寄生して
血をチュウチュウ吸いながら
生きる、
という「寄生」だ。
・・・・・・
逆に、
「寄生される」
のを
好む人もいる。
これ自体も実は
「寄生」の一種だ。
あまり
決めつけてはならないが、
でもあえて
短絡的に決めつけ風に
言えば、
「自分は立派な
人間だ」
と言っている人ほど、
「寄生される」
ことによって
人に寄生する生き方
を無意識に創り出している
傾向は高い。
実は何を隠そう
昔の私自身が
そんな風だったので
よくわかる。
最近、なぜか
その時代の自分の
振る舞いが
フラッシュバックすることが
増えている。
フラッシュバックしながら
いつの間にか
独り言で
「ごめんなさい」
と呟いている。
もう二度と
ああいうことはしないで
おこう
気をつけているが、
でもなぜ
最近、そんなことを
思い出すのだろう?
と、少し不思議に
思っていたら、
最近、
「寄生の空気感」を
そこかしこに
感じるからだ、と
思い至った。
嬉しいことに、
私のクライアントさんは
今、
人生を最速で進んでいる
人が多い。
皆、基本的には
「まずは自力で」
とがんばっている。
がんばりながらも
様々な人と出会い、
協力し合って進んでいる
のだが、
そこに私は
寄生の空気感を
どうやら
感じているようだ。
最速で進む人に
寄生しようとする人が
群がってきている
空気感だ。
それは世の常
とは言いながらも、
やはり、特にこれからは
注意しなければ
ならない。
コラボという名の
寄生に
ならないように。
・・・・・・
スモールスタート、
ビッグウェーブ。
最近、私が
心掛けている言葉
だ。
始めは小さく。
そして、
自然に大きくなっていく
波を創り出す。
自走する波を
生み出すには、
始めは小さく、
着実に、
が良いのではないか。
着実、とは
「本質を大事に」
という意味だ。
形ばかりの
華やかさや、
形ばかりの
ビッグウェーブは、
後で必ず
寄生を生む。
足の引っ張り合い
になる。
ちゃんと
本質を一つずつ
形にしていく。
根幹を
しっかりと
創り出し、
自然の摂理に
従った広げ方を
したい。
そう
思っている。
つづく
これまで
頑なに守り続けてきた
ものが
燃えているのでは
ないか。
このために
頑張ろう!
と
自らの誇りとしてきた
ものが
燃えているのでは
ないか。
もしそれが
完全燃焼し、
カスも残らないくらいに
消えてしまったら、
凄い喪失感かも
しれない。
しかし
安心していい。
それだけ大切な
ものが
消える
ということは、
それを消してしまう
だけの
大いなるものが
あなたの中には
確かに存在し、
しかも今、
それが浮上しようと
している
ということだ。
だから、
燃えているものを
何とか燃えないように
しようと
足掻くのは
やめよう。
あきらめよう。
たとえそれが
なくなっても、
あなたが
あなたでなくなる
わけではない。
むしろあなたは
本来のあなたに
大きく一歩
近づくんだ。
それは
祝福に値する
ことだ。
だから
燃えていくのを
そのままに
見つめればいい。
これまで
ありがとな、
と
感謝しながら。
燃えていくままに
委ねればいい。
あなた自身が
やっていることだ。
凄い覚悟で
やっていることだ。
そんな自分を
讃め称えれば
いい。
つづく
物事を
順調に進める。
・・・とは、
物事を
ぶつからないように
上手く進める、
ということではない。
むしろそれは
真反対だ。
物事を
順調に進める。
・・・とは、
必要なぶつかり合いを
必要な瞬間に
きちんとする、
ということだ。
そこから
逃げるからこそ、
おかしくなる。
不調和が起き、
余計に
回り道になる。
物事が
順調に進まない
人は、
余計なことばかり
している。
余分なことに
人生や仕事の
大半の時間を
費やしている。
それは、
ぶつからずに
上手く進もう、
という
ある種の「逃げ」が
根本原因だ。
逃げる人ほど
余計なこと
余分なことが
多くなる。
断言
できるね。
・・・・・・
生きる、
とは
関わる、
ということだ。
関わる、
とは
摩擦すること
だ。
時には
ぶつかることだ。
別に
喧嘩をしろ、と
言っているわけでは
ない。
ぶつかり合いとは、
エネルギーの
交換だ。
エネルギーの
循環だ。
そして
向き合う
ということ。
向き合うことで
私達は
自分自身の範疇を
超える
発想や行動や
結果を
「初めて」
生み出せる。
それが
人間。
人間とは
そのように
できている。
だから、
ぶつかり合いから
逃げるということは
人間であることを
やめようとする
行為だ。
そして私達は
人間なので、
人間らしく生きることが
自分らしさとなり、
それが
幸せの「感覚」として
自分に
押し寄せ続けるように
なる。
「充実感」
と言ってもいい。
もし毎日に
充実感がないとしたら、
それは
自分自身が
ぶつかり合いから
逃げているからだ。
充実感のなさを
他の人や
環境のせいに
している場合ではない。
自分の
生き方の
問題だ。
・・・・・・
もう
いいじゃないか。
諦めて
ぶつかっちゃいなよ。
どうせ
人生は
ぶつかり合いの
道だ。
ぶつからずに
進もう、
ではなく
気持ちの良い
ぶつかり合いを
しよう。
そのためには、
自らの意志で
ぶつかって
行くんだ。
向き合って
行くんだ。
つづく
子どもの頃に
戻った感覚で、
心の中で
ブランコに乗ってみよう。
とても気持ちのいい
ブランコだ。
自分にとって
最も気持ちのいい
大きさの弧を描き、
最も気持ちのいい
風を感じながら、
いつまでも
ブランコを
漕ぎ続けよう。
これを続けるだけで、
何となく
エネルギーが
満ちてくるのが
わかるかな。
何となく
心の中に
光が宿ってくるのが
わかるかな。
子ども心
というのは
大事でね。
大人になると、
まるで自分はもう
大人である、
と
みんな思い込む。
しかし
そんなことはない。
子ども心は
ずっと私達の中に
あり続ける。
子ども心という
言い方に抵抗が
あるならば、
ちょっと表現を
換えよう。
「今を楽しみたい心」
と
言えばいいかな。
私達はみんな、
今を楽しみたいと
願ってるんだ。
人間の本能の
一つだと
私は思うよ。
・・・・・・
そもそも、
「楽しむ」とか
「楽しい」
というのは
どういうことだろう?
それは
感覚的なことかも
しれないが、
でもたまにはちょっと
その本質を
考えてみよう。
これ、
いろんな答えが
あると思うが、
一つ
私はこう思うんだ。
「楽しむ」
とは、
自分のエネルギーを
高めていること。
「楽しい」
とは、
そのエネルギーの高まりを
気持ちよく
感じ取っていること。
どうだろう?
まぁ、異論も
あるかもしれないけどね。
逆に言えば、
どうすれば私は
私のエネルギーを
ちょっとだけでも
高められるだろうか?
という問いを
持つことは
有意義な気がするね。
で、
エネルギーの高まりそうな
ことを、
ほんのわずかでも
少しずつ
毎日、増やして行く。
すると、
「楽しみ」が
増えて行くんじゃ
ないかなぁ。
ほんのちょっとで
いいんだ。
でも、そうやって
「楽しみ」を増やすことは
人生の充実度を
明らかに
高めるよね。
だって、
エネルギーが
高まるんだから。
・・・・・・
心の中で
ブランコに乗る
だけでも、
ちょっと楽しくなる。
だからさ、
楽しみなんて、
いくらでも
見つかるよ。
自分のエネルギーを
高める方法なんて、
いくらでも
見つかるよ。
見つけようと
思えばね。
つづく
問いを
投げよう。
次の問いを
自分自身に
ダイレクトに
投げてみよう。
できれば
声に出して
投げてみよう。
できれば
鏡に映る自分に
投げてみよう。
そしてまずは、
問いを受けた
最初の「感覚」を
自覚しよう。
その上で、
頭で考えず、
ただ
答えが浮かんでくるのを
待とう。
答えが浮かんで
来なければ、
何もしなくていい。
この問いを
単なる刺激として
活かそう。
何度か
自分に、刺激として
投げ続けるだけでいい。
さて。
では問いです。
『私は何と
さよなら、しようか?』
・・・誤魔化さずに
向き合えると
いいね。
つづく
星が
観えてきた。
斜め上、前方
遥か彼方
だが。
でも、
これまで一度も
観えなかった
星が
ついに姿を
現した。
これからは
ずっと
それを
見つめればいい。
そこを
目指せばいい。
そうすれば
私は
生まれてきた
意義を果たせる。
と
わかる。
・・・・・・
誰にでも
「星」はある。
それを
見つけ出せるのは
大いなる悦びだ。
皆、
そうなれると
いい。
もちろん
その「星」は
あなたの中に
ある。
誰もの
中にある。
しかしそれは
「外」に
観える。
内側には
決して
見つからない。
「内」と「外」が
一致してこそ、
それは
観えるのだ。
・・・・・・
「内」と「外」の
一致。
これが
我々人間の
目指すもの。
しかしそれは
「最初に目指すもの」
だ。
それが
実現すれば、
次はその「星」そのものを
目指すことになる。
不一致を
一致させる人生と、
一致した上で
進む人生。
どちらも
充実したものだが、
その「充実」を
味わうことが
人生の醍醐味だ。
結果よりも
過程に我々は
幸せを感じ、
幸せを感じながら
進むからこそ
結果が出る。
そういった意味で
過程と結果は
「一つ」だ。
・・・・・・
我々の中で
別物だと
思っていたもの、
分離
していたもの、
それらが
すべて
「一つ」になっていく。
それが
我々の
「正しい人生」だ。
別に人生は
正しくなければ
ならない、
というわけではない。
しかし
何が「正しい」か?
何を
「正しい」と
我々は決めているか?
は
知っておいた方が
いい。
皆、誰もが、
「正しい人生」は、
今、この瞬間から
始めることは
できるのだしね。
つづく
心の中の
「嵐」
の方に行ってみる。
凄まじい
風だ。
私は容易に
吹き飛ばされた。
超大型台風の
何十倍もの威力が
ありそうだ。
当然、
息もできない。
恐らく
竜巻に巻き込まれたら
こんな感じでは
ないだろうか。
縦に横に
吹き飛ばされ続け、
訳がわからない
状態のまま、
そのままに
自分の身を
委ねる。
風の音と共に
阿鼻叫喚の
声たちが
聴こえる。
大地震のような
振動を感じる。
何だ?
この振動は。
地面に立っている
わけでもないのに。
なぜ風と共に
空気はこれほどまでに
細かく激しく揺れる?
わからないこと
だらけだが、
それでも私は
身を任せたままだ。
そうこうしている
うちに、
とうとう本当に
訳がわからなくなり
意識も飛びそうになる。
しかしそこを
恐れずに、
さらに力を抜く。
委ね切る。
すると、
訳がわからなく
なっている自分を
静かにじっと
見つめる
自分がいることが
フッと
わかった。
その自分と
一致すると、
「嵐」の中で
翻弄されている自分が
ありありと
観えた。
あー、ありゃ
ダメだ。
到底自力では
抜け出せない。
何ともならん
状態だ、
と
わかった。
わかったが
やはり、
何とかしようとは
思わない。
あえてまた
私は
「嵐」の中の自分に
戻っていく。
意識を失いそうに
なりながらも、
何とかそれだけは
踏みとどまり、
「嵐」の怖さと
苦しさを
あるがままに
そのままに
感じることのみに
集中した。
私は
私ではなく、
単なる
「感覚」
となった。
・・・と、
突然、
何かがオギャーと
生まれた。
目の前に
パッと光が
溢れる。
いや、
光の中に
私は出たのだ。
いや、
光の中では
ない。
「嵐」の外に
出たのだ。
いや、
「嵐」の外では
ない。
「嵐」が
生まれ変わった
のだ。
「新しい世界」
として。
なんだ、そうか、
お前は
生まれ変わり
たかったのか。
・・・と
ようやくここで
合点した。
気がつくと
静かに私は
いつもの書斎に
座っている。
これまでの
風は
やんだ。
これからは、
君らが
風を起こす
番だ。
つづく
本当に
高いエネルギーとは
静謐である。
一見すると
「無」に見えるくらいに
何もないのだが、
しかしそれは
あらゆる色が
合わさることで、
光が無色透明になるのと
同様である。
声を
張り上げたり、
体を
震わしたり、
周りに
鼓舞したり、
・・・そういった
表面的な激動は、
エネルギーの小ささの
現れと
見ればいい。
だから
静謐のまま
進めばいい。
着飾る必要など
ない。
そのまま
行けばいい。
・・・・・・
今やろうと
していることが
あれば、
それを
やればいい。
理由づけは
要らないし、
結果も
気にすることは
ない。
良い結果が
出ても
悪い結果が
出ても
それは
一時的なもの。
人生のどの瞬間を
切り取るかに
よって
「良い」「悪い」
という解釈が
変わるだけ。
私達は
未来を予測し
結果を気にしながら
心が波打つが、
心は
波打つそのままに
しておき、
何の修正も
対策も加えず、
ただ
最初に自分が
思ったことを
思った通りに
すればいい。
それの連続
としての
人生を歩めばいい。
・・・・・・
本当は
すべてをわかって
いるのに、
本当に
何もわからない。
それが
我々人間だ。
それでいい。
それでこそ
人間でいる
意味がある。
何の
修正も対策も
要らない。
静かに
そのまま
進めばいい。
つづく
「等身大」で生きる、
というのは
とても大事なことだ。
が、
自分に枠をはめ、
その「枠」を
自分の等身大である、
と
思い込んでないかい?
本当にあなたは
伸びやかに
生きているかい?
自分の「本来」を
「存分」に
出し切れているかい?
それができている時に、
その人は
本来の「等身大」
なんだよ。
・・・・・・
なんで「等身大」が
いいか?
って言うと、
「等身大」の
その時こそが、
その人の「影響力」が
最大となるから。
ただしこの「影響力」は
物理的なものを
言ってるわけじゃない。
人の心に与える
「影響力」だ。
言葉を換えれば、
「感化力」
と言っていい。
・・・・・・
人が人を変える
というのは
基本的には
不可能だ。
人が人を
変えているようで、
実はそれは
「感化」しているに
過ぎない。
私達は
「感化」し合いながら
生きている。
「感化」とは
感じた上で変化する
ということだが、
実際に変化するか
どうか?
は、
本人が決めている。
余程の
洗脳でもない限りね。
私達が他者に
できるのは、
変化するかどうか?
を本人が決める
前段階まで。
つまりは、
「感じる」「感じられる」
というやりとりだ。
例えば、
この人と一緒に
いると、
なんか凄く
感じるものがある。
・・・というもの。
その「感じる」を
最も居心地よく、
かつ
その人の人生にとって
意味のあるものに
する。
影響力が大きい
とは
そういうことだ。
そしてそれは
「等身大」の時に
最大化する。
・・・・・・
等身大になろう!
というよりも、
まずは
自分自身の
等身大を
知ってほしいな!
と
思う。
みんな、
あまりに自分のことを
誤解している。
あるがままの
自分と、
あるがままの
自分の影響力を、
あるがままに
知ってほしいな。
つづく
時々、
とても難解な文章を
書きたくなる。笑
だから今回は
それをやってみたい。
・・・・・・
私は
今ここにいるが、
実は
どこにでもいる。
誰とでも一緒に
いるし、
常に孤独でもある。
幸せを感じている
自分もいれば、
不幸せに塞いでいる
自分もいる。
両方が
紛れもない
自分自身だ。
地球の真裏の
意思を
感じる。
私を呼んでいる。
しかしあえて
それには
私は応えない
という選択をする。
それにより、
私の隣の人が
笑顔になる。
その笑顔を
観ることで、
ようやく私は
一つの
決断をする。
今が
タイミングだと
わかったからだ。
その決断によって
空気が
まずは変わる。
その空気を
浴びながら、
私は
もう一つの決断を
することを
決断する。
しかしそれは
明日の15時くらいだな、
とわかる。
ということで
少しの間、
ブラッと
電車に乗ることに
する。
私は
電車になる。
空気になり
風になる。
共に車両にいる
人々になる。
それぞれの
淀みや清々しさを
そのまま
私のものとする。
それにより、
この後の
コーチングの肝が
明確になる。
メッセージが
浮かび、
あぁ今日は
これを伝えることが
私の一番の目的だな、
とわかる。
しかし結果として
それは
伝えない。
それにより
私は目的を
果たす。
・・・・・・
意味、
わかります?
これ、
わかる人
一緒にランチでも
したいね。
つづく
3つの問いを
投げよう。
一つ目。
この2週間で、
あなたは
何から離れた?
二つ目。
この2週間で、
あなたは
何をあきらめた?
三つ目。
この2週間で、
あなたは
何を覚悟した?
以上の3問。
頭をまったく
働かせずに、
純粋に
自分に問い、
純粋に
答えを待ってほしい。
もし
答えが出なければ、
無理に頭で
考えず、
一日の内に、
何度も何度も
3つの問いを
自分に投げてほしい。
すると、
その問いへの
直接の答えでは
ないかもしれないが、
何らかの発想が
浮かぶかも
しれない。
それらを
大切にしてほしい。
浮かんだこの発想は
どういう意味だろうか?
と、
さらに深掘りを
してみてほしい。
すでに
大事なことに
気づいているのに、
自分が
気づきを得ていることに
気づいていない、
という
状態の人が今、
とても多い。
もったいないことだ。
一度、
本気で
やってみてほしい。
つづく
「こうすれば
上手く行くな」
と、
頭の中に浮かんだ
あらゆる発想を、
私はいつも
すべて
捨てる。
それを持っておくと
ロクなことがない
からだ。
それを持った途端に、
私は自分の意図
の通りに
物事を進めようと
してしまう。
そこに待っているのは、
想定外のことが
決して起こらないという
つまらなさ、
と
想定内のことすら
上手く行われないという
失望、
と
何よりも、
常に自分が何かに
縛られ続けているという
窮屈さ、
などである。
結局は
自分の意図が
いつの間にか
自分を縛っている
ということなのだが。
要するに
自分が自分を
縛っている。
そのような人生では
面白いはずがない。
自由な
はずがない。
私は決して
自分の意図で
自分を縛るような
不自由なことは
しない。
・・・・・・
意図をすべて
手放す。
捨てる。
自分の思惑の
道筋を
消去する。
すると、
今この瞬間を
完全に
自由に生きる自分
のみが残る。
その自分は
目の前に展開する
「現実」達を
ただあるがままに
見つめる。
ありありと
「現実」の「本質」が
自分の中に
入ってくる。
すると、
何かを思い出すかの
ように、
次の自分の
一手
(つまりは行動や
振る舞い)
が
わかる。
「わかる」と言っても
「わかったから
そうしよう」
というように
思う時間すら、
そこにはない。
そう解釈する前に
勝手に自分は
その通りに
動いている。
するとそこに
「調和」が
生まれる。
・・・・・・
以上のような
そういった生き方、
行き方
の出来ている人は
増えているのではないか。
これを天然で
行なっている
若者も増えている。
真本音度合いを
高める、
ということは、
このような生き方に
なるということだ。
それは
先ほども書いた通り、
自分自分を
拘束しない生き方
であり、
自由な生き方
である。
そういった生き方を
する人が
これからの世の中を
引っ張っていって
ほしい。
そういった生き方を
する人の輪を
広げていって
ほしい。
それが、
世の中全体
社会全体の
調和度を一気に高める
最短の道だ。
つづく
一日の始まりは、
まずは
何をおいても、
「私」という人間が
今ここに存在している
という事実を
味わおう。
存在の幸せを
嚙みしめよう。
この世での存在には
「体」が必要だ。
頭のてっぺんから
足のつま先まで、
上から順番に
自分の「体」の存在を
感じよう。
ちゃんと自分の
体はここにあり、
自分は間違いなく
ここに存在している。
と、
ありありと実感できたら
一日をスタート
させよう。
私達は
存在している
というその事実だけで
価値がある。
存在している
からこそ、
何かができる。
次の価値も
生み出せる。
存在がなければ
何もできないのだ。
その事実に
感謝しよう。
一日を
感謝から始めるのは
やはり
健康的だな。
つづく
私達は
「今にしかできないこと」
をしている。
よく
「今の自分」の
未熟さを見て、
「今の自分は価値がない」
と自己評価する人が
いる。
自己評価だけであれば
まだ良いのだが、
それにより
「何をやっても無駄」
という方向に
意識を向けてしまう人が
残念ながら多い。
しかし、
最初から
成熟している人間
なんて
一人もいない。
未熟な時期を経て
初めて
成熟に向かう。
未熟な時期を
「未熟な自分」として
しっかりと体験・経験
することによって、
初めて成熟を
手に入れる。
これはもちろん
人間として
という話だけではなく、
仕事の能力の面でも
まったく同じ。
しかも。
私達人間なんて
ずっと未熟では
ないか。
未熟だからこそ
進化がある。
未熟さを
いかに楽しむか?
ではないか、
大切なのは。
しかも
「未熟さ」のとても
素敵なところは、
昨日の未熟さと
今日の未熟さは
異なる
ということだ。
未熟さと真摯に
向き合えば、
一歩一歩
成熟に向かい、
結果として、
今の未熟さは
今にしかない
ということに
なる。
これって
とても素敵なことでは
ないか。
だから。
今にしかない
今の未熟さを
存分に味わいながら
存分に楽しもう。
今の未熟さだから
こそできることを
見つけよう。
今の未熟さだから
こそできる冒険を
しよう。
今の未熟さだから
こそできる挑戦を
しよう。
それが
「今を生きる」
ということだと
私は思うね。
つづく
外に
出よう。
「自分」
という枠の
外に出よう。
それをするためには
それを本気で
しようとする
強い意思が必要だ。
いつか、
徐々に、
自分の枠を超えて
行けばいいさ、
という悠長さでは
残念ながら
私達は一生、
枠の中にいる。
それでも
いいじゃないか、
という生き方も
もちろんあるが、
でも本当に
それで良いのか?
と
真摯に自分に
問うてほしい。
私達は
人生において、
何度も、その枠を超える
チャンスを得る。
そのチャンスを
逃さずに
超えることができれば、
その度に
私達は「自由」という
感覚を
手に入れることが
できるし、
何よりも
その度に
心の深いところで
自分のことを
好きになれる。
それにより、
さらに次の枠超えへの
モチベーションも
上がる。
これも一つの
好循環。
進化への
好循環だ。
今、
枠を超えるチャンスを
得ている人は
多いのではないか。
あなたの目の前にも
そのチャンスが
あるのではないか。
チャンスが
来たときに、
一気に行こう。
勇気を持ち、
強い意思を持ち、
一気に
行ってしまえ。
つづく