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洞窟の中に
私は仰向けに
倒れていた。
真っ暗で
何も見えない。
その私の
胸からお腹の辺りに
何かが
乗っかっている。
重い。
どうやら
時間が経つにつれ、
徐々にではあるが
重みは増している
ようだ。
しばらく私は
それに耐えていたが、
しだいに
内臓が圧迫され、
苦しみに
悶えるようになった。
重い。
苦しい。
ゲホッと、
まるで動物の
呻り声のようなものが
私の口から
吐き出された。
やばい。
このままでは
圧迫されて
死んでしまう。
でも、
周りは真っ暗で
何も見えない。
いったい
自分に何が
乗っかっているのか
すら
わからない。
ただ、
重く
ただ、
苦しい。
やばい。
死んでしまう。
と、
私は必死に
もがき始めた。
生命の危機
を感じ、
もがき始めた。
その時になって
初めて、
私は
気づいた。
ここは
暗闇ではない。
私自身が
目を
瞑っているのだ、
と。
・・・・・・
私は
目を開けようと
思った。
しかし、
開かなかった。
怖いのだ。
怖くて
目を開ける勇気が
出ないのだ。
命の危機に
晒されているのに、
怖さの方が
勝ってしまっている。
すると
それを見透かした
かのように、
さらに重みが
増してきた。
あ、ダメだ。
本当に
もうダメだ。
もう
限界だ。
というところまで
来て、
初めて
私はようやく
目を開けた。
・・・・・・
目を開けると、
なんとそこは
草原だった。
明るい日差し。
青空が
広がっていた。
呆然としながらも
私は
私の体の上に
乗っかっている
ものを見た。
私のお腹と
胸の上には、
私自身が
立っていた。
お、お前は
俺か?
と、必死に
私が問うと、
見ての通りだ。
俺は、
お前だ。
と
彼は言う。
お前が俺なら
俺を
助けてくれ。
俺の上から
どいてくれ。
と
私が言うと、
いいよ。
と彼は言い、
あっけなく
私の上から
降りた。
ゼーゼーと
私は
何度も息を
深く吐いた。
た、
たすかった・・・。
私はしばらく
うずくまっていたが、
少し落ち着くと
途端に
腹が立って来た。
おい、お前、
なんで
俺の上に
乗っかっていたんだ!
と
私が叫ぶと、
何言ってんだ。
お前が自分で
望んだことだろう。
・・・と。
その一言で
私は
思い出したのだ。
そうだった。
私が
望んだこと
だった。
目を閉じたままで
決して開けようと
しない自分に対して、
本当に
腹を立てたのは
他でもない
私自身だった。
だから私は
私自身に
「必死さ」を
与えた。
それにより
ようやく私は
目を
開けることが
できたのだ。
私はずっと
自分が
洞窟の暗闇の
中にいると
思い込んでいた。
それが
人生だと
思い込んでいた。
しかし、
本当は
気持ちの良い
草原にいた。
青空まで
広がってやがる。
その現実を
私は
自ら目を閉ざして
見ようと
しなかった。
すまんな。
ありがとう。
感謝してるよ。
と、
私は
私の上に乗っかっていた
私自身に
伝えた。
わかれば
いいんだよ。
心配したぞ。
本当に
死んでしまうのでは
ないかと
思ったよ。
でも俺は
お前を、
つまりは
俺自身を
信じているから。
そう言われて
私は
涙した。
涙しながら
訊いた。
お前はさ、
本当に
俺なのか?
すると
彼は笑いながら
言った。
何言ってんだ。
俺はお前だ。
お前が
俺なんだよ。
だって俺は、
お前の
真本音なんだから。
つづく
完全燃焼しなければ
掴めないものが
ある。
すべてが
灰になるまで
力を振り絞り、
限界を超えることで
初めて
わかることもある。
でも。
本当にそこまで
やる必要が
あるのだろうか?
ずっとその答えが
わからぬまま
ここまできた。
・・・・・・
私はほとんどが
いい加減な
人間だが、
でも、
これは!
と思ったことに関しては、
とことん
やり切ってきた。
自分が納得するまでは
決して
やめなかった。
自分が得たいものは
必ず
得られるまで
やり続けた。
ちょっと大袈裟に言えば、
たとえ
自分の命が
尽きてしまったとしても、
それよりも
得たいものを得る
方を優先した。
よくここまで
生きて来られたものだ
と、
この歳になって
ようやく客観的に
思えるようになった。
私の生き様は
極端だ。
人間としての私は
とても
ヘナチョコで、
臆病で気が小さくて
何ともならないのだが、
しかし
そんな自分であることを
お構いなしに
突き進む自分も
時々、現れた。
ヘナチョコでも
進むんだ、
今は。
と思うと、
後先考えずに
突き進んだ。
あっ今日、もう俺
死んじゃうな。
と思う日が
毎日続いた時期も
あった。
ヘナチョコのくせに
そこまで
やってしまう。
その捨て身さ加減に
私は
危うさを感じると
共に、
他の人にこの
生き様を
押し付けるのは
絶対にやめよう、
と
気をつけて
生きてきた。
こんな生き方、
よほどの
アホじゃないと
無理だと
やはりどこかで
ちゃんと
わかっていたからだ。
そういった意味で
私は私のことを
「変態」であると、
認めていた。
人に
「変態」を
押し付けては
ならない。
それが
私自身への
戒めだった。
いつもいつも。
・・・・・・
「変態」から見れば、
「普通」の人は
眩しく見える。
普通に生きられる
のって
いいなぁ、
と
いつも羨ましく
眺めていた。
普通の人が
普通に
生きられますように。
というのが
私の祈りの
一つだった。
そして本当に
普通の人が
普通を取り戻して
いく姿は
感動的で、
その人の魅力が
どんどん溢れ出た。
いいなぁ。
普通の人は。
という、
わけのわからない
感嘆と共に
私の人生はあった。
・・・・・・
人間は
「普通」であるのが
一番。
「普通」の人こそが
人としての本来の
進化を遂げていく。
そう思ってきたし、
今でも
そう思っている。
私は、
人が「普通」になるために
サポートを
続けている。
でも。
でも。
でも・・・。
どうやら
「変態」が
私の他にもいることが
近年、
わかってきた。
そういう人と
出会ってきた。
そういう人を見ると、
まるで
鏡を見ているようだ。
いつしか。
私の使命は
「変態」こそを
サポートすることでは
ないか、
と思うように
なった。
しかし
多くの「変態」は
まだ、
顕在化していない。
ある時
ある瞬間から、
あっ、この人
まだ完全に
眠っているけど、
私と同じ
「変態」だな。
と、
わかるようになった。
本当に
近年のことだ。
本人は
自分のことを
「変態」だとは
ちっとも思っていない。
かつての私が
そうであったように。
しかし
紛れもなく
「変態」
だ。
あなたは本当は
「変態」なんだよ。
と、
私は最善のタイミングで
その人に
伝えるだろう。
そして、
「変態」が
変態的に生きることを
サポートするだろう。
それは
とてつもなく
骨の折れることで
あるが。
人間として
本当に魅力的なのは
「普通」の人だ。
「変態」は、
人間っぽくない。
だからこそ、
「変態」のサポートは
私にしか
できないことかな、
と
今は思っている。
つづく
怒りは
抑えない方が
いい。
怒りが湧く
というのは、
人として
当たり前のこと。
人生やってれば
必ず発生
するもの。
怒りが発生
すれば、
それを開放
すればいい。
ただしそれを
単なる反応として
人に向けては
ならない。
反応は
次の反応を生み、
反応の相乗効果は
怒りを何十倍にも
増幅させる。
そしてその循環から
出られなくなる。
それを
怒りの開放
とは言わない。
むしろそれは
怒りを閉じ込めている
行為だ。
怒りの開放
とは
怒りと向き合う
ことだ。
人は
怒りが発生すると
多くの場合
向き合わない。
向き合えば
コントロールできる
はずのものが、
向き合わないから
コントロール不可
となる。
怒りに任せて
思わず
怒りそのものの行動
や振る舞いに
走ってしまうというのは、
怒りに向き合っていない
ことによる
最も典型的な
現象だ。
その人は
怒りに呑まれた
振る舞いをしながら、
怒りから
逃げ続けている。
それでは
怒りが開放される
ことはない。
怒りはさらに
塊となり、
その人の中に
残り続け、
育ち続ける。
怒りの開放とは
真逆の行為だ。
・・・・・・
怒りとしっかり
向き合い、
自分は今、何に
怒っているのか?
を
ハッキリくっきりと
知ること。
それが
向き合うという
こと。
いや、
自分が何に怒っているか?
などは
百も承知だ、
と言う人がいる。
でも残念ながら、
それは違う。
ずれている。
その人が
怒りの原因だと
思っているものとは
ずれているのだ。
本当はその人は
そこで怒っている
のではなく、
もっと別のところに
怒りの源泉が
ある。
それが見つかって
おらず、
それを放置するからこそ、
怒りは
開放されない。
そしてその人は
怒りの塊と
化していく。
・・・・・・
もちろんこの世の中、
「向き合う」なんて
そんな生易しくない
怒りもたくさんあるだろう。
それは充分
承知している。
人間の持つ
本当に深い怒りに
私も何度も触れてきたし、
私自身も
そこから抜け出せなく
なったこともある。
怒りとは
まるで宇宙のように
無限に深まっていく。
でもだからこそ、
私達は
怒りと向き合わねば
ならないのだ。
怒りに対して
逃げ腰になることで
私達は
怒りに呑まれる。
怒りを愛せ、
とは言わない。
ただ、
怒りと
向き合ってほしい。
怒りを
まっすぐに
見つめてほしいのだ。
・・・・・・
すべての怒りが
開放されたとしても、
それでも残る
怒りがある。
それこそが
本物の
怒りだ。
これを私は
『真本音の怒り』
と呼んでいる。
つまりは、
真本音と結びついた
怒りだ。
そして、
真本音が望む
怒りだ。
そういうものが
あるのが
私達人間であり、
真本音の怒りには
私は
思いっきり呑まれる
ことをお勧めする。
真本音の怒りに
呑まれ、
その怒りに委ね、
その怒りに任せた
行動をとれば、
すべてが
調和していく。
それは大変
勇気が必要なこと
かもしれないが、
それでも私は
それをお勧めする。
実際に
私はその通りに
している。
すると面白いように
すべてが
調和していくのだ。
私達の真本音は
「最善の道」
を進もうとする。
今、怒ることが
最善の道だと
判断すれば、
その通りにするのが
私達の真本音だ。
だから私は
真本音の通りに
淀みなく
まっすぐに
怒る。
それが
人を愛することの
一つの形であると
私は
確信している。
つづく
人は皆、
孤独なのだろうか。
よく、そう感じる
ことがある。
いや、
私はと言えば、
確かにずっと
孤独だった。
誰も私のことを
本当には
理解してくれないだろう
と思っていた。
多くの人も
そう思っている
のではないか。
一日の仕事を
終えて
帰途についている時、
ふと
無性に泣けてくる
ことがある。
理由がわからずに
涙が流れるので、
慌てて
人目のつかないところに
逃げ込み、
そこで泣く。
よくあることだ。
泣きながら、
この涙は
私のものだろうか?
という
問いをいつも
投げる。
すると
ほとんどの場合は、
私
ではない。
先ほどお会いした
あの人のものだ、
と
わかる。
とてつもない
悲しみ。
それと共に
必ず湧き上がって
くるのが、
言いようのない
孤独感。
人はみんな
孤独なんだな、と
そんな時に
いつも思うのだ。
・・・・・・
これは私の
体質なのだと
随分前にすでに
諦めているのだが、
私は
私と向き合った人の
苦しみを
そのまま
受け取ってしまう。
そして、
その人が苦しんでいる
まったく同じ強さの
苦しみを
そのまま
感じ取ってしまう。
一日に
何人もの人と
向き合えば、
その人数分だけ
苦しみは倍増する。
時には、
全身が崩壊するのでは、
と思うくらいの
苦しみに
苛まれてきた。
以前は、これは
私の思い込みに
違いない、
と思っていた。
人に相談しても
誰もが
そう言った。
だからこんな思い込みは
やめよう、と
ずっと試行錯誤
してきた。
しかし
ある時から、
どう見ても
思い込みではない
ということが
わかるようになった。
その苦しみ達と
いつしか私は
真正面から
向き合えるように
なったのだ。
すると、
その人が今、
何に苦しんでいて、
どうすれば
その苦しみから
抜け出ることが
できるのか?
が、わかるように
なった。
そして
その通りのサポートを
すれば、
その人は必ず
解放された。
そういった経験を
何十人、何百人と
続けてきた。
それは私にとっては
時には
地獄のようで
あったが、
しかしその経験を
経て、
ようやくわかったのだ。
人は
もっと
楽に生きることが
できる、
と。
そして、
人は
もっと
楽に生きる
権利がある、
と。
みんな、
苦しみ過ぎだ。
その苦しみは
不必要だ。
もちろん、
進化や成長の
ために
必要な苦しみは
ある。
乗り越えるべき
苦しみは
必ず、ある。
しかし、それ以上に
不必要な
苦しみもあるのだ。
ということが
本当によく
わかった。
だから私は
もっと
すべての人が
楽に生きることが
できるとよいと、
祈る。
その祈りのために
生きることに
した。
それが
約8年前の
ことだ。
・・・・・・
私は一人の
人間だ。
人が人を
救うなんてことは
大変
おこがましいことだ。
そんなことは
よくわかっている。
でも、
私はその人の
苦しみを
そのままに
感じ取ってしまうのだ。
何とかしたい、
と思うのは
人として
当然だろう、
と、今は思えるように
なった。
必要な苦しみは
その人自身が
自力で
乗り越えれば
いい。
でも、
不必要な苦しみは
早く
手放そう。
本当に
そう思う。
その術を
私は探究し続けるし、
その術を
修得したコーチを
私は
たくさん育成
したいのだ。
つづく
真剣な人って
やっぱり
いいなぁ。
真剣な人って、
上手く進もう
なんて
考えていない。
いろんなものに
ぶつかってもいいから
前に進もうと、
そればかりを
考えてる。
だから私は
言う。
もう少し
ゆっくり
進んでも
いいですよ、
と。
私、結構
この一言を
言うのが
好き。
早く
やりなさい、
とか
もっとスピードアップ
しなさい、
とか
本当は
言いたくない。
ちょっとちょっと
やり過ぎじゃない?
と
お伝えするときの
幸福感といったら。
・・・・・・
真剣な人ほど、
怖い、怖い、
と言う。
怖さに対して
素直なのだ。
怖い、怖い、
と言いながらも
進んで行く。
怖いから
止まる、
という選択肢は
ない。
怖いのと
止まるのとは
まったくの別物だと
いうことだ。
むしろ、
自分が怖がっていることを
素直に認めない人の
方が、
歩みは遅いかな。
人間なんで
怖いのは
当たり前。
怖がりが悪い
なんてことは
一つもない。
怖がっている自分を
噛み締めれば
いいし、
愛すればいい。
その方が
淡々と前に
進める。
・・・・・・
前に進む、
とは
プラス指向で生きる
ということでも
ない。
私はね、
プラスでもマイナスでも
どっちでもいい
と思ってる。
プラス指向でいなきゃ、
と思い過ぎると、
マイナスの心に
フタをしてしまう。
フタをされた
気持ちたちは
だいたいは
フタをされたことに
反発して
10倍くらいに膨れ上がる。
だから、
プラス指向で
生きなきゃ、
と思っている人の多くは、
そう思えば思うほど、
マイナスの心が
隠されている。
そんな辛くて
難しいことを
するくらいなら、
そんなの
どっちでもいいじゃん。
と思いながら、
進んだ方がいい。
まぁ、
私自身がもともと
「超」がつくくらいの
マイナス指向の
人間だったから
そう思うのかも
しれないけどね。
・・・・・・
怖くてもいい。
マイナスでもいい。
でも
進む。
でも
自分のやることを
やる。
自分のやることは
真本音が
知ってる。
真本音に素直に
動く。
それを
するだけ。
それが
真剣に生きる
ということ。
これをすると
結構
ぐうたらになる。
そうそう。
真剣な人は
結構みんな
ぐうたらだ。
でも、
いざという時に
1000%の力を
出す。
そして
「いざという時」
をよく
わかっている。
だから
真剣なんだ。
・・・・・・
怖がりでも
いい。
マイナスでも
いい。
ぐうたらでも
いい。
それでも、
私はコーチとして
人を真剣に
サポートしたい、
というコーチを
私は育成
したい、
真剣に。
なのでそろそろまた
コーチ養成を
やろうと
思ってます。
つづく
人には
第3の目がある。
その目が
開かれた時、
それまで
見えなかったものが
観えるようになる。
私の場合、
物事のシンプルさが
観えるようになった。
そしてその結果、
本当はシンプルで
あるはずの
現実の中で、
いかに人々が
複雑怪奇なことを
し続けているかを
知ることになった。
しかしそれを観て、
人は愚かだと、
私にはどうしても
思えなかった。
それよりも、
あぁこれが
私達人間なのだな、
とある意味
感嘆した。
そして
恐らくその時初めて、
私は人を好きに
なれた。
・・・・・・
シンプルなことを
複雑怪奇に
行なうことほど
疲れることはない。
私、
あなたのことが
大好きなんだよね。
このシンプルな
理由だけで
人はその人に対して
一生懸命になれる。
なのに、
そこに変な
理由づけをする。
大好き、
という純粋な
気持ちにさえ、
何らかの意味を
持たせようとする。
もちろん
意味はあるのだけど、
本質とは別の
意味をそこに持ってきて、
本質とずれるばかりの
行動を付加する。
そしてそこに
誤解が生まれる。
すると今度は
誤解を解くための
行動を
せねばならない。
当然、
上手くいかない。
誤解はまた
次の誤解を生み、
結局、最初は
何だったのか?
もともとの想いすら、
思い出せなくなる。
その連続の
日々。
そしてついには、
自分が
何者で、
何をするために
ここにきたのか?
完全に
わからなくなる。
皆、
迷子になる。
・・・・・・
私達は皆、
好きで
人間を
やってる。
人間を
味わうために
人間を
やってる。
だから本当は
複雑怪奇なこと
それ自体を
味わえばいい。
だけど
そうはなかなか
いかないんだな、
これが。
自分を見失うことの
辛さは
私には本当に
よくわかる。
私は随分と長い間、
自分を失ったままで
いた。
これが自分だ、と
それこそ誤解も
していた。
わかったつもりにも
なった。
人生とは
こんなもんだと
投げやりにもなった。
人間とは
こんなもんだ、と。
・・・・・・
私は
紛れもなく
私なんだろう。
そして
あなたは
紛れもなく
あなただ。
私とあなたは
別の脳を持ち、
別の体を持ち、
別の心を
持っている。
もちろん、
別の人生を
生きてきた。
そんな別ものが
今ここで
交わっている。
その場合、
私は、
私のすることとは、
あなたとの関わりを
あらゆる意味で
シンプルにすることだと
思っている。
私はもう
シンプルな人生を
進むと決めた。
もう
複雑怪奇は
飽きた。
本来の私として
私は生きていく。
だから
私と関わるすべての人、
つまり、
あなたにも
シンプルに戻ってもらおうと
思っている。
ちょいと傲慢な
表現だが、
それが私という
人間だ。
とは言え
そこに対して私は
これまで
かなり躊躇しながら
来たような気がする。
その躊躇を
もう取ろうかと
思っている。
私はあなたの
あらゆるものを
尊重しよう。
でも、
私の想いは、
私もあなたも
シンプルになることだ。
そのために
私は
あなたと関わっていく。
つづく
あなたの全身に
意識を向けてください。
そして
あなた自身の
エネルギーを
感じてみてください。
体の中に充満し、
そして
循環を続ける
エネルギーを
感じてみてください。
そのエネルギーは
今、
高まりつつある
感覚がありますか?
それとも逆に
弱まりつつある
感覚がありますか?
どちらにしても、
そのエネルギーの循環が
滞りやすそうな
体の箇所を
見つけてみてください。
それは誰にでも
必ずあるものです。
例えばもし
エネルギーを
「光」として捉えた場合、
その「光」が少なく、
ちょっとした「影」とか
「暗闇」のように感じる
体の部分が
あるはずです。
そこを
特定します。
特定できたら、
そこに手を
当ててください。
手を当てながら、
手から
あなたのエネルギーが
集中的に注がれる
イメージをしてください。
「影」や「暗闇」が
なくなり、
他の体の部分と同様に
「光」となれば、
完了です。
・・・・・・
滞りは
誰にもあります。
体の滞り。
心の滞り。
恐らく、
滞った箇所に
手を当てて
エネルギーを注いで
いると、
何となくですが、
その「滞り」が
どのような原因で
生じているのか?
が
わかってくるのでは
ありませんか。
その「原因」は
あなたの心の中の
問題かもしれませんし、
現実的な問題かも
しれません。
いずれにしても
その「原因」を
解消するために
何らかの行動を
起こしましょう。
・・・・・・
エネルギーの循環が
100%ではなく、
ほんの一部の滞りに
よって
99%になってしまったと
します。
すると実際に
日常生活の中で出せる
あなたのエネルギーは
半減してしまうのです。
1%の滞りが
エネルギー出力を
半分以下にして
しまうのです。
これは実は
「個人」だけでなく
「組織」も
同じ。
「ちょっとした原因」
だと思っているもの
こそに、
実はエネルギーの大半を
奪われている可能性は
大いにあります。
その「原因」や
「滞り」を
見つけることが、
大いなる飛躍のための
大切な一歩に
なるでしょう。
つづく
大学3年の夏、
私は3週間、山の中に入り、
縦走を続け、
最後の目的地点として
剣岳という山の
ピークに立った。
このピークまで
メンバー全員と
無事にたどり着けるか
どうか?
というのは、
今から考えると、
私の人生においては
非常に重要な
分岐点だった。
つまり私は
真本音で
決めていたのだ。
剣岳のピークに
立てれば、
人生の次のステージに
進もう。
立てなければ、
もう一度、
同じステージを
やり直そう。
そう
決めていたのだ。
もしあの時、
剣岳まで
たどり着けなかったと
したら、
私の人生の展開は
20年は遅れて
いただろう。
この20年は
大きい。
人生の質そのものを
大きく決定する
大切な分岐点
だった。
私達の真本音は、
このような分岐点を
人生において
いくつも設定している。
・・・・・・
剣岳のピークに
立つこと自体も
もちろん大事で
あったが、
さらに私の真本音は
もう一つの条件を
自分に課していた。
それは、
メンバー全員が
笑顔でピークに
立つこと、
だ。
それをするためには
私は
メンバーを愛せる
リーダーとして
成長していることが
必須だった。
人を愛し、
そして
結果を出す。
私の真本音は
これを
私自身に
課していた。
剣岳のピークに
立った時は
快晴だった。
私達が
3週間かけて越えてきた、
北アルプスの山々の
ほとんどが
見渡せた。
それを
全身で受け止めながら、
私は
それまでの私の人生を
感じていた。
そして、
そのピークにおいて、
私は
それまでの私の人生を
手放した。
もう一度、
自分を
「ゼロ」に
戻したのだ。
ある意味、
私のこの人生の
流れは、
あの時あの瞬間に
決定したと
言っていい。
・・・・・・
そういった大事な
「分岐点」
を、
私はすべての人が
自覚できるといい、
と思っている。
そして
自分の設定した
分岐点に
自分で責任を持つ。
それをすることが
自立、そして自律の
基本だと思う。
残念ながら、
分岐点の手前で
逃げてしまう人を
私は
何人も見てきた。
その度に
私は自分の無力さを
悲しんだが、
しかしこれはもう
他者には何とも
し難いことだ。
きちんと
自分自身と約束した
分岐点に
たどり着くこと。
それは
本人の意志でしか
成し得ない。
分岐点の
手前までは
サポートすることは
できる。
しかし最後の一歩を
踏み出すかどうか?
は、
本人が決めることだ。
・・・・・・
今、
分岐点を
目の前にし、
戸惑っている人が
たくさんいる。
私は
心からその人達を
応援したい。
そして、
祈り続けている。
しかしやはり、
そこだけは
私には何もできない。
してはいけない。
分岐点に
きちんとたどり着けば、
その人は
開放される。
次のステージに
進むことで、
より「自由」を
手に入れられる。
しかし、
分岐点の手前では
とても不安定に
なる。
その不安定さと
向き合い、
勇気を持った
一歩を踏み出すこと。
私はとにかく
それを
祈り続ける。
つづく
「本気」
とは、
「真剣+目的」
によって
生まれるものだと
私は思います。
「真剣」
とは、
無駄なことを
しないこと。
本当に、
全力になるべきところで
全力になれる
生き方をすること。
ということは、
自分が
何のために
生きていけばよいのか?
自分の
人生の目的は何か?
自分には
どんな役割があり、
どこに自分のすべての
力を注げばよいのか?
を自覚し、
その通りに
素直に生きている
状態です。
真剣な人は
普段は
肩の力が抜けて
います。
淡々と、
飄々と
生きています。
しかし、
いざ、という時に
とてつもない集中力を
発揮します。
その、
いざ、という時のために
すべてを整えている
からです。
それを
「真剣」
と言います。
その
「真剣な人」
が、
いつまでに
これをしよう、
いつまでに
これを成そう、
いつまでに
これを実現しよう、
というように、
「期限付きの目的」
を持った時に
「本気」
が生まれます。
「期限付き」
というのが
ポイントです。
・・・・・・
期限のついた目標
を
嫌がる人がいます。
もっと
自由に
自然に成果を
上げたい、
と。
しかしそれは
自由でも
自然でも
ありません。
なぜなら、
私達の真本音は
「期限」
を決めているからです。
私達のいる
この3次元世界は、
時間の流れが
一定です。
しかも
過去から未来へと
一方向にしか
時間は流れません。
これは
「3次元」
という世界特有の
ものです。
そして、
であるが故に
あらゆるものに
「期限」
があります。
例えば、
私達の人生の時間にも
「期限」が
ありますよね。
すべてが
「無限」ではなく
「有限」です。
それがこの
3次元世界の原則
であり、
掟です。
その中で
生きるからこそ
価値があります。
ということは、
すべての物事には
「期限がある」
ということを
受け止めることが
非常に重要です。
「期限なしで
自然に進みたい」
というのは、
この世界の否定
です。
極端に言えば。
この「3次元世界」での
人生を
否定しているのと
同じなのです。
・・・・・・
ですから私は
あらゆることに
「期限」を
設けています。
例えば、
私の人生の寿命にも
「期限」を
設けています。
私は人生の
終わりを
すでに設定しています。
もちろん、
それ以上に生きる
可能性もあります。
しかし、
期限を設定し、
その時までに
人生の目的を果たす、
と決めた方が
あらゆる発想が
次々と生まれて
くるのです。
モチベーションも
上がります。
エネルギーも
湧き続けます。
それが
人間です。
期限設定が
嫌だ、
という人は、
その期限が
反応本音で設定したもの
だからです。
私達の真本音は
あらゆることに
期限を決めていますので、
それを
自覚すればよいのです。
つまりは、
「真本音で期限を決める」
ということです。
これをすることで
人生には
気持ちの良いメリハリと
刺激と
冒険と
そして、
安定が得られるのです。
「期限」に
目を瞑る人は
不安定になります。
なぜならそれは、
自らの真本音の意志に
フタをしている
ことになるからです。
私達は皆、
期限を
決めているのです。
その事実に
素直になることが
人生の安定と
安寧を得る
最重要ポイントの
一つです。
・・・・・・
もうそろそろ
「本気」
になりましょう。
加速をする
人達、
つまり、あなたに
お伝えしたいのは、
それだけ加速する
理由と意味を
知りましょう、
ということです。
加速の先には
「期限」
があります。
「期限付きの目的」
があります。
それを、
自覚しましょう。
それがわかれば、
あなたは自然に
「本気」
になれるでしょう。
つづく
後悔しても
後悔しても
後悔しても
足りないことが
ひょっとすると
あなたの人生には
あるかもしれません。
その出来事以来、
あなたは
大切な何かを
失くしてしまった。
それを
常に探し続けては
いたけれど、
ただ、
探し続けていただけで、
実は
もう見つからないだろう、
と
その時からずっと
あきらめてしまっている。
あきらめては
いるのに、
しかし心のどこかで、
ずっとずっと
探し続けている。
まるで
地面を這いずり
まわるかのように。
ずっと
探し続けている。
・・・・・・
15歳の時。
クラスで一番元気な
級友がいた。
彼はいつも明るく
溌剌としており、
いつも皆を
笑わせた。
そんな彼が
たった一度の
ミスをした。
そのミスで
彼は泣いた。
しばらく
学校を休んだ。
再び学校に
現れた時、
彼は元通りの彼に
見えたが、
しかしその元気さは
空回りのように
私には見えた。
それから
16年後。
31歳の時に、
同窓会が行われた。
久しぶりに彼に
会って、
私は驚いた。
彼は別人のように
なっていた。
あの溌剌さは
微塵もなくなって
いた。
妙にペコペコし、
斜に構え、
ため息ばかり
ついていた。
皆で談笑している時、
何かの折に
彼が独り言のように
つぶやいているのを
私は聴いた。
「あの出来事で
俺の人生、
変わっちゃったから・・・」
16年前の
15歳の時の
出来事。
31年の人生の中で
半分にも満たない
地点での出来事が、
残りの半分以上の
人生を決めた、
そして、ここから先の
人生も
決めている。
と、彼は
そう思っているのだ。
それを知って
私は愕然としたが、
でも
人間とは
そういうものなのだろう。
・・・・・・
私のクライアントさんにも
そういった人は
いっぱいいた。
彼のように
15歳の出来事であれば
まだマシな方で、
もっと小さな
小学生の頃の
出来事とか、
幼少の頃の
出来事とか、
まだ人生の始めの頃の
ある出来事に
ずっと引きずられている
人が多かった。
というよりも、
本当のことを言えば、
誰もがみんな
そうなのかも
しれない。
私達はみんな、
人生における
何らかの出来事に
引きずられながら
生きている。
・・・・・・
私のお仕事の
重要な目的の
一つは、
そこからの
解放
なのだと思う。
あらゆる出来事
からの
解放。
しかしそれは、
これまでの出来事を
否定したり、
消去したり、
書き換えたり、
することでは
決して、ない。
出来事の中に
閉じ込められて
しまっている
自分自身を、
外に出し、
「出来事の中の自分」
ではなく、
「自分の中の出来事」
にするのだ。
過去は
変えられない。
しかし、
過去の捉え方は
変えられる、
とはよく言われるが、
私は
過去の捉え方自体も
別に
変えようとする必要は
ない、と思う。
その捉え方自体も
すべてを含めて、
自分がそれらを
抱くのだ。
大切に
抱く、のだ。
それにより
私達は皆、
自由になれる。
私達は
雲の中に
閉じ込められる。
雲の中にいると、
何も
見えなくなる。
その真っ白な
世界が
すべてだと
思い込んでしまう。
しかし
違う。
私達は
地球だ。
私達は
もっと大きく
もっと揺るがない
存在だ。
地球が
雲を抱いているに
過ぎない。
その雲に
意識の焦点を
当てているに
過ぎない。
あの出来事は
雲の一つだった。
その雲は
とてつもなく
大きな雲では
あるが、
しかし私は
地球なのだ。
あらゆる雲は
地球である私が
抱いている。
そんな事実と
真実に
自ら立ち返ることが
私達には
必要ですね。
つづく
もし仮に、
私達に翼が生えた
とします。
翼を広げれば、
自由に大空を
飛ぶことができます。
空からも
地面からも
両方から
物事を見ることが
できるように
なりました。
足で走るよりも
何倍もの速度で
移動できるように
なりました。
地面のみにいる時には
大きな障害だった
ものも、
翼を使えば、
ヒョイっと
ひとっ飛びです。
その翼は
とても力強く、
誰か他の人を抱えて
飛ぶこともできます。
まだ翼の生えて
いない人を抱えて、
あえて空に
連れて行き、
そこからすべての物事を
眺めてもらうことも
できます。
そのような翼を
私達は手に入れたと
します。
・・・・・・
ところが、
せっかく手に入れた
翼を
まったく使わずに、
私はずっと
地面を走り回れば
良いのだ、
これまで通りに。
と思ったとします。
そして
翼を使わずに、
足を使って
全力で地面を走り回り、
いかに地面を
スピーディーに走るか?
ということに
全力を費やしていたと
します。
私はこれを、
「現実逃避」
と呼んでいます。
ちょっとキツい
言い方ですか?
でも
それが事実です。
本当は翼を
使えるのに、
それを使わずに、
別のことに
自分の労力と時間を
費やす。
本当は、
全力を尽くすべき
ことがあるのに、
そこに向かわずに
別のことに
全力を注ぐ。
「全力を注ぐ」
ということについては
素晴らしいことだと
思いますが、
「全力を注げばいい」
ということでは
ありません。
私達にとっては、
「どこで、何に対して
全力を注ぐか?」
こそが大切であり、
それをしっかりと
見極め、
実行することを、
「真剣に生きる」
と
私は呼んでいます。
努力や全力を
言い訳にして、
本来すべきことを
まったくしていない人、
本来進むべき道を
まったく進んでいない人、
は、
とても残念ですが、
多いです。
どれだけ努力をしても
どれだけ全力を
尽くしても、
現実逃避をしていては
私達の真本音は
力を発揮しません。
それどころか、
「真剣に生きているフリ」
をしている自分を
最も嫌がります。
よく私は、
「真本音が家出する」
という表現を
使うのですが、
そういった人の
真本音は
まるで家出をして
しまったかのように、
まったく機能しなく
なります。
当然、
その人本人には
とてつもないストレスが
生じます。
あまりに
とてつもないので、
心の中が麻痺します。
麻痺をしながらも、
現実逃避をし続け、
本来ではないところに
全力を注ぎ、
「私は全力を尽くしている」
と自己満足している
わけです。
私はそういう人を
許しません。
命の無駄使い
だと思うからです。
ちょっと
キツ過ぎますか?
でも、それくらい
キツい見方をして
関わらないと、
その人は
現実逃避をいつまでも
やめようとしないのです。
・・・・・・
私はいつも
申し上げます。
本当は
人生は
もっと楽に
進める、と。
なぜ、
楽にならないか?
と言いますと、
現実逃避を
しているからです。
現実逃避をすることで、
無駄な確執が
起こります。
無駄な不調和が
起こります。
そしてそこでまた
無駄な全力が
増えていくのです。
そのサイクルから
いい加減に
抜け出しませんか?
自分のためにも。
人のためにも。
つづく
最近、
真本音度合いが
高まった方々から、
ある共通のご相談を
いただくように
なりました。
皆さん、
同じことを
言われます。
「最近、
不調和が多いのです。
私の真本音度合いが
低まってしまっている
のでしょうか?」
いいえ。
むしろ、逆です。
あなたは
さらに加速を
しているのです。
これまでに
経験したことのない
加速に
入っています。
すると多くの場合、
これまで
経験したことのない
「調和の仕方」
が起こるように
なります。
それが一見すると
不調和に
見えてしまっている。
という、
ただそれだけの
ことです。
ですから、
私がお伝えしたいのは、
不調和を感じる
からと言って、
自信をなくし、
臆病になり、
腰が引け、
真本音で進むことを
躊躇するように
ならないでください。
ということです。
・・・・・・
いつも
申し上げることですが、
自信がある
とか
自信がない
とかは、
真本音の歩みには
いっさい
関係がありません。
物事が
上手く行こうが、
上手く行くまいが、
いっさい
関係ありません。
物事が
上手く行くから
真本音で進む、
となった時点でもう
それは
反応本音の歩み
です。
状況に
揺らされている
わけですからね。
もちろん、
真本音も
状況や現実は
大切にします。
自分の理想通りに
進めよう
というのが
真本音ではありません。
状況や現実は
大切にしますが、
それに揺らされる
ことは
ありません。
自分の想いも理想も
大切にし、
かつ
状況も現実も
大切にし、
すべてを大切にした
最善の一歩を
踏み出す、
というのが
真本音の求める
ことであり、
真本音の意志
です。
それをすることに
毅然
としていて
ほしいのです。
すると、
不調和だと思って
いたことが、
実は、
これまでに経験した
ことのないような
素晴らしい調和の形
の一つ
であることが
わかってくるでしょう。
・・・・・・
よくよく考えますと、
調和とか
不調和とか、
それ自体を私達は
自分の解釈(思考)で
決めつけています。
これまでと同じ
スピードで進む人は、
ある意味、
自分の解釈での範疇の
調和は
続くでしょう。
しかし、
これまで以上に
加速しようとする人には
これまでに
見たことのない
新たな世界が
新たな次元が
展開します。
新しいものは
確かに少し(いや、だいぶ?)
怖いかもしれません。
しかしその怖さ
そのものも
感じ、味わいながら
進みましょう。
自分の世界を
広げるのです。
毅然と
進むのです。
あなたの真本音は
それこそを
望んでいるのですから。
つづく
人生においても
仕事においても
言えることですが、
私達はついつい
今、自分のいる場所
今、自分のやっていること
今、自分に与えられた役割
の中に
埋没してしまいます。
集中することは
大事ですが、
埋没する必要は
ありません。
というよりも、
集中と埋没は
真逆です。
集中に必要なのは
全体意識です。
つまりは
全体を見る
意識。
全体から自分を
俯瞰する
意識。
そして
私の表現で言えば、
「すべては一つ」
の感覚から
「今この瞬間」
にエネルギーを
集約する、
そんな意識です。
・・・・・・
今、どんどん加速を
し続けている皆さんに
私がオススメするのは、
地球意識
です。
地球全体を
視野に入れるのです。
なんか凄い話だなぁ、
と思われるかも
しれませんが、
別に何も特別なこと
ではありません。
あなたの中に
地球
が存在するの、
わかります?
私達は
地球という星で
生きています。
それは
紛れもない事実
であり、
現実です。
私達の立っている
この大地は
地球そのものです。
そして
すべての人達が
地球にいます。
私達は
地球の中にいて
地球を感じ続けて
います。
ですから
少しだけ高い次元の
私達の意識では
地球と自分は
一つです。
ですから
私達の心の
少しだけ深い場所に
意識を向けると、
誰もがそこに
地球を抱いています。
私達は
地球に抱かれながら、
地球を抱いています。
あなたの中の
どこに
地球はありますか?
あなたの体の中の
どこかに
地球はあるはずです。
もしくは、
人によっては
体の外かもしれませんが、
しかし
自分の身近に
地球はあるはずです。
その地球を
見つけ、
そして
見つめましょう。
あなたの中の
地球は今、
元気ですか?
元気が
ないですか?
・・・・・・
あなたが今、見つけた
地球を常に
意識しながら、
今この瞬間
に集中しましょう。
それが
全体を感じた
本来の「集中」
です。
「全体」
と
「今の一点」
が
完全に結ばれた時、
これまでとは
まったく次元の異なる
発想が
あなたの中に
生まれます。
それを
楽しむと
よいですね。
私も
楽しみます。
共に
地球を育てる
親のような感覚で
進みましょう。
つづく
誰にだって
好きな人と
嫌いな人が
います。
嫌いな人は
その人の存在が
なくなってしまえば
いいのに、
と、ついつい
思ってしまうのが
人情ですね。
しかし
「嫌う」とは、
非常にエネルギーを
使う行為です。
「無関心」とは
根本的に
異なります。
「無関心」は、
その人に一切の
エネルギーを
向かわせないことを
言います。
それに比べれば
「嫌う」というのは、
少なくとも
その人にエネルギーを
向けています。
そういった意味では
「好き」というのと
同じです。
「好き」と「嫌い」は
表裏一体。
表面上の感情は
違っても、
エネルギーという
視点から見れば、
実は、
同じようなものなのです。
・・・・・・
それだけ
その人に
エネルギーを使う
ということは、
それだけ
その人が
気にかかる
ということ。
気にかかる
ということは、
人生において
大事な存在
だと言うことです。
嫌いな人の
ことなど、
考えたくもない、
と思うかも
しれませんが、
どうしても
気になるのなら、
いっそのこと、
徹底的に
その人と
向かい合って
みましょう。
もちろん、
現実のその人と
向かい合えれば、
それが理想
ですが、
さすがに
それはちょっと
キツいですよね。
そこでまずは、
イメージで
向かい合って
みます。
目の前に
その、嫌いな人が
いるイメージを
するのです。
ほんの目の前
に、
その人の顔が
あるイメージ
です。
とても
イヤですよね。
気持ちは
わかります。
でもそこを
がんばって我慢して、
じっと
その顔と
向かい合いましょう。
全身は強張り、
心は震え、
感情は湧き上がり、
本当にいやな
時間になると
思いますが、
すべての感情を
存在承認しながら
じっと
向かい合います。
かなりの時間を
要するかも
しれませんが、
それを続けると、
ある時ある瞬間に
ふっと
楽になる時が
来ます。
すべての
反応本音を
存在承認することで
ふっと
楽になるのです。
その、
楽になった状態で
その人のイメージと
さらに
向かい合い続け
ましょう。
これまでずっと
嫌いで嫌いで
しょうがなかった
その人なのに、
なぜか、
その人への
重要なメッセージが
自分自身の心の
奥の奥から
浮かび上がって
くる可能性が
高いです。
それが、
高い次元の
自分自身の
声です。
真本音の声
と言っても
よいでしょう。
・・・・・・
嫌うということは、
その人に
エネルギーを
使う、という
選択を
自らしているという
ことです。
そこには
何らかの意味が
あります。
その意味は、
表面上に現れる
反応本音の中には
残念ながら
見出せません。
反応本音を
すべて出し切った
その後に
残るものこそに、
真の意味が
埋もれています。
そしてその意味に
気づくために、
自分はその人の
ことを嫌って
いたのだ、と、
いうことも
わかるでしょう。
嫌うことを
無理に止める
必要はありません。
しかし
せっかくエネルギーを
かけている
その人なのだから、
自分がそれだけ
エネルギーをかける
意味は
知りたいですよね。
そこには
より自分らしい
人生を創り上げる
ヒントが
あるはずですしね。
つづく
26歳。
私は、ガンジス川の
ほとりにいた。
1泊100円にも満たない
ボロホテルに
個室をとった。
ホテルと言っても、
窓にガラスはない。
トイレもシャワーも
共同で、
確か、6畳一間くらいの
広さ。
そこに、
何十日洗ってないのだろう?
と思えるくらいの
汚いシーツのベッドが
一つ。
何十匹いるんだろう?
と思えるくらいの
ヤモリとゴキブリが
床や壁にうごめく。
私はベッドの上に
あぐらをかき、
窓から見える
目の前のガンジス川を
眺めていた。
ガンジス川の
向こう岸は
神聖な場所みたいで、
人は誰もおらず、
ただ何もない大地が
広がっていた。
陽はとっくに沈み、
その大地から
月が昇っていた。
私は驚いていた。
その月は
とても大きく、
そして真っ赤だった。
赤い光は
ガンジス川の水面を
照らし、
向こう岸からこちら側に
赤い光の帯が
続いていた。
とても
この世のものとは
思えない光景。
シンシンシン・・・
という空気と
時間の流れが
聞こえるようだった。
時々、ガソゴソと
ヤモリだかゴキブリだかの
気配がすることで
私はちゃんとこの世に
いるのだな、と
自覚できた。
私はその日
会った人のことを
思い出していた。
その日、私は
インド人の泥棒さんに
会った。
どんな経緯か
忘れたが、
私はその人と安食堂で
食事をした。
そこでその人が
泥棒さんだと
知った。
彼は言っていた。
「俺は、ガンジス川に
沐浴するためにここに来た。
泥棒をいつも続けて
いるので、
時々ここに来るんだ。
ガンジス川に入れば、
すべて清められる。
神様から許して
もらえるんだ。
で、安心してまた泥棒が
できるってわけさ。」
彼の話を
聞きながら、
私は別の日に出会った
インド人を思い出して
いた。
その人は
自ら会社経営を
している人だった。
やはり経緯は忘れたが、
その人とは
人生について語り合う
展開になった。
当時まだ若かった私は
その人に
ダイレクトに
訊いたもんだ。
なぜ信仰を
するのですか?
と。
彼はとても真面目な
顔で
丁寧に答えてくれた。
「私達人間には
到底自分の力の及ばない
ことがある。
例えば、天変地異に
遭ってしまうとか。
だから私は、神様に
今日も一日無事に
過ごせますように、と
お祈りをするんだ。
しかしあとの人生は
すべて、自分次第だ。
人生とは、人間が
人間として創り上げていく
ものだ。
私は神様に祈ることで、
全力でその日一日に
向かうことができるんだ。」
同じ宗教なのに、
こうも考え方が
違うものか、と
私は驚いていた。
世の中にあるものに
対して、
あれが正しい、
あれが間違っている、
と
すぐに人は言う。
しかし本当は
そこが大事ではなく、
自分がそれに
どう関わるか?
自分がどう
生きるか?
そここそが
大事ではないか。
それにより
人生も現実も
根底から
変わるのではないか。
と、
私は思った。
だって、
月は、月だ。
月は、
ただそこにある
だけだ。
・・・・・・
ガンジス川の月は
だんだんと
天に昇っていく。
最初は真っ赤
だったのが、
次第に、黄色に
なっていく。
そしてさらに
白く輝くように
なる。
月はただ、
そこにあるだけ。
変化はしても
それは、
月だ。
私もただ、
ここにいる。
どれだけ変化しても
私は、私だ。
その日以来、
私の心の中心には
常に、
月が浮かんでいる。
月は
じっと私を
見つめている。
私もただ
見つめ返す。
そこにあるものを
ただ、あるがままに
見つめ続けられる
自分で
ありたいな、
と思う。
つづく
私達は誰もが
人生の一本道を
決めている。
その道は
まっすぐだ。
そして、
清々しい。
余分なものが
一つもない。
不安も不信も
不満もなく、
ただただ
汚れなく
まっすぐに
伸びている。
私達人間に
そんな道が
あるはずがない。
だって
人生はこんなにも
迷ってばかりだ。
こんなにも
苦しいことばかりだ。
と言う
その気持ちは
よくわかる。
しかしそれでも
私は
断言する。
誰もにその
一本道はある。
・・・・・・
一度でも、
一本道に入れば、
その清々しさは
よくわかる。
そして、
一本道を
辿っているのか?
いないのか?
その区別が
つくようになる。
そうなるまでの
道のりが
長い、
というだけのことだ。
なぜなら
私達は
目を瞑っているから。
どれだけ
道がまっすぐに
伸びていても、
目を開けていなければ、
道に迷うのは
当たり前だ。
前に進んでいる
つもりが、
横に進み、
知らぬ間に
脇道に入ったり、
路肩で転んだり、
そうなるのが
当たり前だろう。
ということで言えば、
大切なのは
目を開けることだ。
・・・・・・
ところが、
目を開けることが
なかなかできない。
ここで言う「目」とは、
心の目の
ことだ。
つまりは、
自分の心の中を
見つめる目だ。
これができない。
なぜなら、
心の中を覗くのは、
怖いことなのだ。
心の中には
何が潜んでいるか
わからない。
それは、
真っ暗なお化け屋敷
に入るような
怖さだろう。
手探りで
暗闇に入っていく
あの怖さだろう。
・・・・・・
だから私は、
懐中電灯を
渡すことにしている。
残念ながら
いきなり心の中全体に
電灯をつけることは
不可能に近い。
だから懐中電灯で
徐々に中を
探検する。
それをすれば、
ある時ある瞬間から、
思ったよりは
怖くないな、
とわかるようになる。
そうしたら、
もっと大きく明るい
懐中電灯に
取り替える。
そうやってどんどん
明かりを増やして
いく。
気がつけば、
懐中電灯なしでも
見れるようになる。
すると、
自分を信じられる
ようになる。
そして、
一本道が
見えるようになる。
・・・・・・
自分を本当に
信じることのできる人
のみが、
自分自身の
一本道
を見ることができる。
99.9%信じても
見えない。
100%信じて
初めて、
見えるのだ。
それは一見、
とても難しそうだけど、
いやいや、
そう思い込むのは
やめよう。
懐中電灯をつけ、
徐々に明かりを
増やしていけば、
誰もが
できること。
そのやり方を
私は
「セルフコーチング」
と呼んでいる。
そして、
セルフコーチングを
指導できるコーチを
私は
増やしたい。
つづく
ここ数日で、
多くの人が
殻を破ったようです。
私の言うところの
「脱皮」
というやつです。
とはいえ、
自分は殻を破れたのだ、
と
自覚できる人は
わずかです。
ひょっとして?
と思われる人は
以下の方法で
確かめてみてください。
・・・・・・
気をつけをして
立ちます。
背筋を
ピンと伸ばします。
足は
肩幅くらい。
肩の力は
抜きます。
顔は真正面を
向きます。
その状態で
目を閉じます。
そして
体の中心軸を
意識します。
中心軸とは、
おへその奥の
体の中心と、
頭のてっぺんの
中心を
結んだ線です。
まずはこの状態で、
「本来の私の等身大とは
どれくらいだろうか?」
と考えてください。
そしてその大きさ
を特定します。
例えば、
本来の私の等身大とは、
私のこの体の大きさ
とイコールである、
とか、
身長30mくらいが
本来の私の等身大だ、
とか、
雲を突き抜けるくらいだ、
とか、
地球と同じ大きさだ、
とか、
人によって様々な
「等身大」が
あるでしょう。
それを素直に
発想します。
発想したら、
今度は実際に
その大きさまで
自分を巨大化
させてみます。
もちろん
イメージで結構です。
が、
単なるイメージだけでなく、
「巨大化する感覚」
を得られると
よいでしょう。
本来の自分の等身大
を、感覚として
味わったら
もとに戻ります。
次に、今度は
自分の中心軸だけに
意識を向けて
ください。
そして中心軸を
上と下に
無限に伸ばします。
無限の上から
無限の下まで
中心軸に貫かれている
自分を
意識してください。
そして、
その中心軸を
意識しながら、
中心軸のみを
意識しながら、
自分をどんどん
巨大化させてみて
ください。
その結果、
先程の
「本来の等身大」
を難なく飛び越えて、
どこまでも
自分が巨大化する
感覚を得られたら、
あなたは
最近、
一つの殻を破った
ということになります。
これまで
本来の自分の等身大
と思っていた
自分の大きさを、
あなたは
破ったのです。
・・・・・・
「本来の等身大」
を破れなかった人は、
「本来の等身大」を
いつも意識しながら
毎日を過ごすと
よいでしょう。
すると、
本来の自分の発想が
出やすくなります。
「本来の等身大」
を破り、
殻を破れたな、
と自覚できた人は、
ますます自分を
巨大化させ、
次の「本来の等身大」
を特定してみて
ください。
そしてそれを
「新たな自分の大きさ」
として意識をしながら、
毎日を過ごします。
・・・・・・
真本音度合いが
高まると、
次から次へと
殻を破るように
なります。
しかしそれを
本人が
自覚していないことが
あります。
もったいない
ことです。
常に自分の
「等身大」
を意識しながら、
より自己進化を
続けてくださいね。
つづく
12歳の夏。
私はアメリカのオレゴン州
の片田舎
にいた。
私と同い年の
少年と、
2歳下の弟がいた。
私達は昨日
出会ったばかり。
もちろん私は
片言の英語すら
できない。
私達は
ある病院の待合室に
3人で待たされていた。
なぜか待合室には
電気もついておらず、
そして
私達3人の他には
誰もいなかった。
広い待合室なので
とてもガランと
していた。
二人の兄弟の前で
私はカチコチに
固まっていた。
相手は
外国人。
というか、
私こそが外国人
だ。
二人も緊張
していたのだろう。
まるで私を
無視するかのように、
兄弟で
じゃれ合っていた。
私はポツンと
一人。
心細さと
孤独感。
しかし私は
これから、
この二人と1ヶ月の
時間を過ごさねば
ならないのだ。
・・・・・・
ふと、
私は自分の左手に
目を留めた。
そこには、
私の手からすれば
かなり巨大な
腕時計があった。
私が半年ほど
親に対して
説得に説得を重ねて
ようやく買ってもらった
「超」が6つくらいつく
大好きな腕時計。
ふと、
この時計は
今のために
買ったのではないか、
と思った。
兄弟がじゃれ合っている
その隣で、
私は密かに
時計を操作した。
1分後にセット。
私は
その時を待った。
そして
1分後。
私の腕時計は
アラーム音を
鳴らした。
誰もいない
暗い待合室に、
びっくりするほど
それは
大きく鳴り響いた。
あれ?
これ、こんなにも
すごい音だっけ?
と思っていると、
私の目の前に
ビックリ仰天した
二つの顔があった。
彼らは、
英語で何かを
まくし立てた。
そして
私の左手を取った。
私は
私の自慢の
腕時計を見せながら、
「アラーム。」
とだけ言った。
その時私が
使える唯一の
英語だった。
恐らく日本語に
すると、
「すげーーっ!!
なんだこれ!!
お前、すげーもの
持ってんな!!」
ということだったと
思う。
彼らは凄い形相で
私に何かを
わめいた。
1980年のことだ。
アラーム付きの
腕時計は、
彼らにしてみれば
驚嘆だったようだ。
私は、
ニンマリと
笑った。
そしたら、
彼らも
ニンマリと
笑った。
あぁ、
その時だった。
私に
人生で経験したことの
ない
感覚が
訪れた。
・・・・・・
私と彼らの間に
あった
距離、
壁、
境界、
環境の違い、
文化の違い、
言葉の違い、
人生の違い、
・・・要するに、
断絶とも分離とも
言える
あらゆるものが、
その一瞬のうちに
消散した。
私達はまるで
生まれてからずっと
兄弟だったような
感覚に包まれた。
彼らは
どうだったかは
わからないが、
少なくとも
私はそうなった。
その瞬間から
私達は紛れもなく、
「家族」
になった。
ちょうどその時、
見舞いを終えた
彼らの両親が
待合室に
もどって来た。
弟の方が、
夢中になって
私の腕時計のことを
両親に伝えた。
両親は
私の腕時計を
見た。
もう一度、
アラームを
鳴らしてみた。
みんなで
笑った。
私達は
「家族」だった。
・・・・・・
あれから約
40年経った今、
そうか、
あの瞬間に私は
人生の道を
決めたのかもしれない、
と思う。
私が今の
お仕事をさせて
いただいているのは、
あの瞬間と、
彼らの
おかげだな。
つづく
少年が佇んで
川を見つめていた。
太陽が沈み、
日が翳り、
少年の表情も
もうすぐ
見えなくなるだろう。
だから私は
今のうちに
彼の横顔を
じっと見ることにした。
私は彼の
横顔が
好きだった。
少年は
私から見られているのを
まったく気にもせず、
ただ
川を見つめ続けた。
少年には
夕日の赤が
よく似合った。
これから
人生に繰り出して
行くはずなのに、
まだまだ
スタートラインから
それほど進んで
いないのに、
なぜか彼には
夕日の赤が
よく似合った。
悲しげな
表情が
似合っていた。
君はここまで
いったい
何を見てきたの?
そう
問いかけたく
なるのだが、
いつも私は
口をつぐんだ。
彼の悲しげな
顔の
その一枚奥には、
とてつもない
意志を
感じるからだ。
何をどう
話しかけても、
少年のその意志を
汚してしまう
気がした。
だから私は
じっと彼を
見つめるだけに
した。
少年は
佇んでいた。
夕日の赤が
とてもよく
似合っていた。
・・・・・・
彼はきっと
何も知らないのに、
すべてを
わかっていた。
これまでの
彼の歩みに
降りかかってきた
ことも。
これから彼の身に
起こるであろう
未来も。
自分だけでは
ない。
他人の痛みも
喜びも
すべてを
彼はわかっていた。
なぜ自分が
また
ここにいなければ
ならないのか。
それを見つめる時、
どうしても
その悲しげな顔に
なってしまう
という
その事実さえも
彼はよく
わかっていた。
少年の目に映る
その川と、
彼は自分の区別が
ついていないのだろう、
と
私は思った。
彼は
川であり、
そして
彼は彼で
あった。
その、
誰も感じることのない、
悲しさを
彼は確かに今、
感じているのだろう。
それがわかる分だけ、
私は彼に
何もできないでいた。
・・・・・・
少年の意志の
強さを、
私は恐らく
誰よりもよく
知っている。
だから私は
少年と共に
いる。
少年の隣に
立ち続けている。
私は彼を
支えるのだろうか?
いや、きっと
支えなくとも
彼は
歩んで行くのだろう。
私は
祈ればよいのか?
彼のために
祈り続けるだけで
よいのか?
恐らく彼は
それすらも
望んでいないだろう。
大人になった彼は
きっと
私の存在に
気がつき、
きっと笑顔で
私に言うのだろう。
ずっと
そこにいて
くれたんだね。
ありがとう、
と。
その日が来るまで
私は、
ただそっと
彼の隣に
立ち続けよう。
つづく
手応えが、
出てきた。
人生への
手応えが、
である。
ようやく。
これまで随分と、
種を蒔いてきた。
その種は
ほんの一部は
芽を出し、
さらにその中の
ほんの一部は
花を咲かせたが、
広大な大地
から見れば、
それは砂漠の中の
水の一滴に
過ぎなかった。
たとえ花は咲いても、
その花が咲くだけで、
やがてそれは
枯れていった。
花が
次の花に
結びつくことは
極めて
稀だった。
だから、
いくつもいくつも
種を蒔き続けた。
・・・・・・
私自身の中では
常に、
こんなことを
続けても、
結局は何の意味も
ないのではないか、
という声は
あり続けた。
しかし、
いざ、砂漠に立てば、
ここにこんな
種を蒔こう、
という思いが、
その瞬間だけは
何の迷いもなく
湧き上がった。
それを一言で
確信
と言うのだろうが、
確信は
その瞬間にだけしか
存在しなかった。
今ここだけの
確信。
それが
続いたが、
それが
続くうちは
その確信に従う
ことにして、
ずっとやってきた。
しかし気がつけば、
それで
人生の50年を
費やしてしまった。
・・・・・・
ところが、
思わぬ手応えを
今私は
感じ始めている。
もちろんこれまでも
手応えを
得ることはあったが、
明らかに
これまでとは
違う。
手を伸ばせば、
必ずそこに
何かを掴める
手応え。
力を込めれば、
その力がそのまま
伝播し続ける
手応え。
これは、
何なのだろう?
この手応えが
人生
というものか?
恐らくここからは
ステージが
変わるのだと
思う。
これまでの人生を
空虚なステージだったな、
と
言い切ってしまえるような
そんな未来を
今の私は
予感している。
今ここに
「今」
という
時がある。
時は常に
一定のスピードで
流れているが、
これからの
私にとって、
残された「今」は
とてつもなく
短く感じるのだろう。
残された「今」を
私はこれまで以上に
大切に
紡いでいくだろう。
つづく
二人の素敵な
経営者と
一緒に食事をした。
二人は
ハイボールを、
私はいつものように
ウィスキーの
ストレートを
飲みながら。
二人は
議論をしていた。
努力型と
天才型についての
議論。
それを中心に
話は様々な方向に
進んだ。
私は二人の会話を
聴きながら、
やっぱ
ウィスキーは
美味いよなぁ、
やっぱ
素敵な人達と
一緒に飲むと、
さらに美味いよなぁ、
と、
心の中で
呟いていた。
二人の意見は
なかなか
合わなかったのだが、
それでも
二人とも
とても楽しそう
だった。
時折、
引き込まれるように
自然に私は
口を開いていた。
たけうちさん、
真本音と反応本音の
割合は
どれくらいが一番
適切なんですか?
と一人が
問うと、
もう一人が、
いやいや、
真本音100%が
一番いいに
決まってるでしょ。
と、口を挟んだ。
私は何も答えず、
もっとお二人の会話を
聴いてたいなぁ。
と笑った。
またそういうことを
言う。
と、二人も
笑い、
会話はさらに
進んだ。
二人とも
私と同世代の
経営者。
もう随分長いこと、
組織のトップとして
がんばってきた。
ある意味、
二人は真逆の人生
を進み、
そして今
ここで
交わっている。
笑い合いながら
議論を
している。
いつものように
私は
「コーチ」としての
言葉を発しては
いたけれど、
今日の私は
「コーチ」では
なかった。
なぜなら、
今日の私は
まったくコーチングを
していない。
コーチングを
していたのは
二人だ。
二人は
議論という
形を取りながら、
とても美しい
コーチングを
し合っていた。
私はその
美しさに
見とれていた。
もちろん二人に
自分達が
コーチングをし合っている
なんて
自覚はない。
でもそれはそれは
見事な
コーチングで、
それを見ていた
私の真本音は
私がコーチングするのを
止めたのだ。
今日は私は
何もしない。
と、
私は決めた。
口は挟むし、
それらしいことは
言うのであるが、
今日の私は
本当に
何もしなかった。
ただ、
ウィスキーを
飲みながら、
二人のコーチングを
眺めながら、
その時間を
楽しんだ。
食事が
終わる頃になると、
二人の顔からは、
これまで
人生で培ってきた
一切の険しさが
取り除かれて
いた。
二人ともまるで
少年のようだった。
酔っ払って
いたのもあるが、
駅まで行く道すがら、
二人は
肩を組んで
笑い合っていた。
どう見ても
3歳と4歳の
ガキだ。
私は
自分の顔が
壊れるのではないかと
思えるくらいに
笑った。
二人のうちの
一人とは、
駅前で別れた。
残った一人と
私は一緒に
電車に乗った。
電車の中で
私は彼に
伝えた。
見事な
コーチングでしたね。
彼は
1歳の子どものように
笑った。
つづく
仕事の合間に
目を閉じますと、
時々私は
大自然の風景を
観ることがあります。
それはまるで
目の前に本当に
展開しているかのように、
というよりも、
実際の現実よりも
さらにリアルに
存在感いっぱいに、
目を瞑った私の眼前に
現れます。
すると、
とてつもなく
心が洗われます。
今日、私が観たのは
広大な海。
海を観続けていたら、
海から島が
隆起してきました。
その島はどんどん
拡大し、
成長し、
ついには大陸に
なりました。
するとその大陸に
緑が芽生え、
それは大陸全体に
広がりました。
そこで様々な
生命が生まれます。
海にも
数え切れないくらいの
生命。
そして、
空にも鳥が
飛び交い、
大自然は
生命に満ち溢れます。
そんな光景を
目の当たりにしながら、
私はその「大自然」の
祈りの声を
聴いた気がしました。
その祈りとは、
言葉にすれば、
『すべてのものが
未完成で
あり続けますように』
でした。
・・・・・・
大自然は
未完成です。
もちろん
私達人間も
未完成です。
どれだけ成長しても
どれだけ進化しても
未完成のままです。
そこにこそ
価値も意義も
あります。
完成は
ありません。
人間として
完成する、
ということは
あり得ないのです。
それなのに、
多くの人が
自分の未完成ぶりを
嘆きます。
嘆くだけでなく、
未完成な自分を
責め続ける人も
います。
未完成だからこそ
素晴らしいのに。
未完成なのが
人間であり
大自然であるのに。
そこを否定する
というのは、
宇宙のすべてを
否定するのに
等しい
傲慢さです。
・・・・・・
未完成を楽しむ、
というのが
人生を楽しむという
ことの本質でしょう。
未完成だからこそ
私達は
進むことができます。
昨日とは
違う自分。
昨日よりも
成長した自分。
を、永遠に
楽しむことができます。
それをもし
「疲れる」と感じるならば、
その人は、実際には
成長できていない
からこそ、
疲れるのです。
成長・進化とは
パワーです。
無尽蔵の
エネルギーの
源です。
今のレベルが
どうか?
よりも、
今の成長度合いが
どうか?
によって、
その人の放つ
魅力もパワーも
変わってきます。
本当に
魅力ある人とは
成長・進化し続ける
人のことです。
完成された人
のことでは
ありません。
もちろん、
完成など
あり得ないのですが。
・・・・・・
未完成であることを
見くびっては
いけません。
未完成であることは
私達の誇り
です。
人間の尊厳
です。
未完成は
完成を超える
存在です。
つづく
地球に中心核が
あるのと同様に、
私達にも
中心核があります。
「中心核」
と言うからには、
それは
中心にあります。
恐らくもし
それがなくなったら、
「それ」は
存在し得ないでしょう。
もしくは、
まったくの別物と
なるでしょう。
もし中心核が
他の何かに入れ替わった
だけだとしても、
「それ」は別物になる
可能性が高いです。
私達も
同様です。
・・・・・・
ところが。
私達には
中心核があるにも
関わらず、
その中心核とは
別の生き方を
してしまっているケースが
あります。
例えば、
中心核が望んでいる
ことと、
真逆の方向に進む
人がいます。
例えば、
中心核の持っている
個性を、
まったく生かさずに
進む人もいます。
中心核は
そこにあるのに、
自分の
中心なのに、
その中心を
自分自身が
無視をする。
ということは、
中心核が入れ替わった
わけでもないのに、
まるで入れ替わって
しまったかのように
生きてしまいます。
始末が悪いのは、
そういった場合、
私達人間は
とても「苦しむ」
ということです。
その苦しみは
想像している以上に
キツく、
その苦しみを私達は
打ち消そうとします。
苦しみを消そうと
するために
生きる、
という状態に入り、
その結果として
ますます
中心核を無視する
ようになります。
当然、
苦しみはさらに
増します。
残念ですが、
とても多い事例です。
・・・・・・
やはり・・・、
中心核があるからこそ
私達は
存在し得るのです。
中心核のない
人は
一人もいません。
それが事実であり、
真実。
にも関わらず、
まるで中心核が
ないかのように
生きてしまう人がいる。
これも事実。
そして、
現実。
この現実が
今の世の中の
現実を
引き起こしています。
現実的に
起こっている
様々な歪みは、
私達自身の
中心核とのズレが
根本原因だと
私は思っています。
中心核と
振る舞いの一つ一つが
結ばれていく。
中心核と
振る舞いの一つ一つが
一致する。
これを私は
『一貫性』
と呼んでいます。
今の社会には
一貫性が
ありません。
それは
私達一人ひとりに
真の一貫性が
ないからです。
まずは。・・・
中心核の存在を
自覚すること。
そして、
中心核の望みを
自覚すること。
そして
一つずつ、
その望みと
振る舞い(行動)を
丁寧に
一致させていくこと
ですね。
つづく
目の前に
大きな川が
流れています。
対岸は
遥か彼方に
見えます。
こちらから
対岸に
大きな橋が
架かっています。
その橋を通ることで、
私達は
対岸に行くことが
できます。
ところが、
超巨大な台風が
この地を襲い、
その橋は
破壊されてしまいました。
橋は粉々に
砕け、
対岸に行く術が
なくなってしまいました。
いったい
どうしたらよいのだろう?
と、
私達は茫然と
佇んでいます。
・・・・・・
時間がかかっても
新しい橋を
もう一度、
作り直そうか?
それとも
ここから何10kmも
先にある
別の橋まで
迂回しようか?
それとも
いっそのこと
泳いで渡ろうか?
船は
用意できない
だろうか?
どうしても
対岸まで行かなければ
ならない時、
私達はそのように
悩むでしょう。
しかしどの方法も
どうしても
最善だとは思えません。
どうしたら
よいでしょうか?
・・・・・・
人生では、
このような場面に
何度も出会います。
組織活性化の
サポート現場においても、
どの企業様でも必ず
このような場面に
出会います。
暗中模索。
五里霧中。
八方塞がり。
こんな時に限って、
次々と
台風が襲ってきたり
します。
そうなるともう
あきらめるしかないのだ、
と
どうしてもなりがちです。
確かに
私自身も
お手上げ状態に
なります。
・・・・・・
この
「お手上げ状態」に
なってからが、
私は、
組織活性化の本当の
スタートであると
思っています。
「お手上げ状態」
の時、
私は本当に
「お手上げです」と
マイッタをします。
もう
どうしようも
ありません。
と、
素直に認めます。
しかし、
目の前の現実、
・・・つまりは、
大きな川と
激しい台風から
目を反らすことは
決してしません。
お手上げのまま
じっと、
それらの「現実」達と
向き合い続けます。
もちろん
私だけでなく、
その組織の皆さんにも
同様にして
いただきます。
そして、
皆さんが
本当の意味で
開き直った時。
私達は
次元を一つ上がる
ことができます。
組織の「脱皮」の
瞬間です。
・・・・・・
次元が上がる
とは、
これまでとは
まったく別のステージに
上がる
ということです。
すると、
同じ現実でも
「現実の観え方」が
根本的に
変わるのです。
上記の喩えで言えば、
目の前に
存在していたはずの
大きな川が
実は
存在していなかった、
ということに
気づいたりするのです。
激しい台風だと
思っていたものが
実は単なる
思い込みに過ぎなかった、
とか。
もちろん
そのように解釈し直す、
という話では
ありません。
物事をすべて
前向きに捉えましょう、
という話でも
ありません。
本当に、
すべてが
違って観える
ようになるのです。
「世界」が
変わるのです。
「現実」は
同じなのに。
すると、
これまでは決して
観えなかった進み方が
明確にわかるように
なります。
それはそうです。
大きな川も
激しい台風も
ないのですから。
そこには
何の問題も
初めからなかった
かのように、
私達は
淡々と前に進むことが
できます。
これが、
次元が上がる
ということです。
・・・・・・
同じ次元に
いては、
私達が本当に
欲している道には
たどり着けません。
ましてや、
同じ次元の中での
「どちらが正しいか?」
をやっている間は、
決して進めませんし、
そこには、
争いや戦いや諍いが
あるだけです。
誰が正しいか?
何が正しいか?
ではないのです。
私達は
そこから早く
抜け出さなければ
ならないのです。
これが今の
私達の
共通のテーマです。
特に、
最高速で進もうと
する者の
最重要テーマ
なのです。
つづく
もし、
加速することに
疲れてしまったら、
その
がんばり
を、
いったん手放すと
よいですね。
あなたが
がんばっても
がんばらなくても
あなたの真本音は
進みます。
「頑張る」
とは
「我を張る」
というのが
語源であると
聴いたことがあります。
確かに「頑張る」の
「頑」は
「頑固」の「頑」
ですからね。
もちろん
がんばることは
大事ですが、
がんばろうとすることで
歩みが遅く
なってしまうことも
あるのです。
・・・・・・
私の心の奥から
『何もしない』
という言葉が
浮かんできたのは
いつのことだったかな?
当時の私は
毎日、クタクタで、
毎日、全力を
尽くしていました。
もちろんそれは
今も変わらない
のですが、
「全力を尽くさねば
ならない」
という頑なな想いが
私の疲れを
倍増させていたように
思います。
恐らくそのがんばりが
限界を超えて
しまったのだと
思います。
ある時、
仕事が終わって
帰宅した時に、
あっ、俺、死ぬな。
って思ったんです。
そして
自分の命の光が
スーッと消えていくのが
わかりました。
あっ、俺、このまま
死んでしまう。
生命エネルギー
使い切っちまった。
・・・と
焦りました。
私は私の命の灯が
消えていくのを
ただ茫然と
眺めるしかなかった
のですが、
命が消える
ギリギリのところで、
何かとてつもなく
あたたかなものに
支えられた感覚が
しました。
その感覚に
15分ほど包まれていたら、
気がついたら
普通の自分に
戻っていました。
助かったのかな?
と思っていたら、
その瞬間に
浮かんだのが、
『何もしない』
という言葉
だったんです。
・・・・・・
変な表現ですが、
次の日から
私の人生理念は
『何もしない』
になりました。
一日中、その一言を
つぶやき続けていた
覚えがあります。
すると大変
面白いことに、
私の中から
「がんばり」が
消えてしまいました。
と同時に、
「がんばり」とは
別のところから
エネルギーが湧く
ようになりました。
「何もしない」
と呟いていると、
一人でいる時には
自分自身は
何の光も発していない
のですが、
クライアントさんなど、
人の前に立った瞬間に
一気に自分が
開かれる感覚がしました。
私自身は
「何もしない」と
思っているのに、
その時その瞬間、
自分のすべきことが
ありありと
わかるようになり、
私はその通りに
振る舞っている自分に
気づきました。
今ならよくわかる
のですが、
その時の私は、
自分の真本音に
完全に委ねている
という状態でした。
自分が自分に
委ねる、
のです。
変な表現ですが、
それ以外に
上手い表現が
思い浮かびません。
そして私は
明確に
わかったのです。
なんだ、
俺は俺を信じて
いなかったんだ、
と。
最初から
自分に委ねれば
よかったのに、
自分を信じられない
ものだから、
いつも我を張って
「何とかしよう」と
頭で考えていた。
それを
完全に手放すと
こんなにも
楽なのか。
そして、
それを完全に
手放すと、
こんなにも
目の前の人が
悦んでくださるのか。
ということを、
驚嘆と共に
私は体験することが
できました。
・・・・・・
今、
最高速度で進もうと
している皆さんへ。
これまで
自分が出すことのなかった
スピードを出すならば、
もう、
これまでの自分の
範疇で
「がんばろう」
とすることは
あきらめましょう。
自分をただ信じ、
そこを手放した時に、
初めて観えてくる
世界があります。
あなたは
その世界に入ろうと
しています。
合言葉は、
『何もしない』。
自分を自分に
委ねてしまって
ください。
つづく
私が人生において
初めて自分の「脱皮」を
自覚したのは
18歳の時です。
北アルプスにある
常念岳という山を
登っている途上でした。
かなり急峻な山で、
その時は50kgのザックを
背負っており、
しかも天候も悪く、
一歩一歩を踏み出すことに
全力を集中させて
いました。
ところが、
急に天候が
良くなったのです。
覆われていたガスが
晴れ渡り、
青空が
見えました。
と同時に、
まったく閉ざされていた
視界が広がり、
目の前に
槍・穂高連邦の
雄姿がドッカ〜ンと
姿を現しました。
と同時に
私自身の人生の
視界も
急に広がったのです。
目の前の現象と
心の中の実在が
一致するという、
今思えば
非常にわかりやすい
シチュエーション
でした。
これまで
非常に小さな視界の
中でしか
発想していなかった
私の思考は
一気に開放され、
とてつもなく
晴れやかな気分に
包まれながら、
私の中には
二つの問いが
生まれました。
「私はなぜ、
ここにいるのだろうか?」
「私の人生には
どのような意味が
あるのだろうか?」
です。
私はこの後、
その思索に耽りながら、
山を登り続けました。
疲れは完全に
吹き飛び、
これまたとてつもなく
幸せな時間でした。
今でも
ありありと
思い出せます。
・・・・・・
私達は、
自分自身の視界を
閉ざしてしまうような
「何か」を
常に抱え込んで
生きています。
その荷重が
限界を超えた時、
私達はそれを
一気に放り投げ、
身軽になります。
それが私の言う
「脱皮」というもの
ですが、
きちんとした
「脱皮」のためには
その荷重を
しっかりと背負い、
かつ、
感じ続けなければ
なりません。
荷重から
逃げたり、
目を逸らしていれば、
荷重は増えるばかりで
永遠に
脱皮はできないのです。
そしてついには
荷重によって
押し潰されてしまい、
押し潰されて
倒れ込んだままで
人生を終えてしまう
人もいます。
自分が今、
何に苦しんで
いるのか?
それを私達は
しっかりと自覚する
必要があるのです。
脱皮のためにも。
自分の人生の
ためにも。
そして、
自分の大切な
人達のためにも。
・・・・・・
真本音度合いが
高まると、
まず、
自分のその荷重に
気づく人がいます。
その人は
言います。
「真本音を大切に
し始めたら、
苦しくなりました」
と。
いえ、
それは
「苦しくなった」
のではなく、
「自分が苦しんで
いることを自覚した」
のです。
要するに、
麻痺が取れた
のです。
人は
麻痺を取ることを
極度に恐れますが、
しかしやはり、
麻痺のままでいる
ことは、
最もオススメできません。
なぜなら、
麻痺は
自分自身の苦しみを
増大させるだけでなく、
自分の周りの人達にも
苦しみや不調和を
与え続けるからです。
麻痺している人は
自分の気づかないところで、
周りの人達を
傷つけ続けます。
本人の気づかない、
ちょっとした一言、
ちょっとした空気感、
ちょっとした振る舞いに
よって、
周りを傷つけ続ける
のです。
麻痺していても
苦しいからです。
結局は
苦しみは変わらず、
その苦しみから
逃れるために、
その人は自分以外の人を
知らず知らず
傷つけ続けます。
そういった人が
いかに多いことか。
・・・・・・
人生は
苦しいか?
楽しいか?
もちろんそれは
両方です。
しかし、
苦しみと楽しさは
相反するもの
ではなく、
しっかりと自分の
苦しみと
向き合える人は、
本当の意味での
楽しさを
得ることができるのです。
つづく
命って
何でしょうね?
私達には皆、
命があります。
一般的に
生物と言われる
ものには
命を感じます。
しかし実は私は、
生物以外のものにも
命を感じることが
あります。
すべてのものに
命はあるのではないか
と、よく
私は思います、
・・・というよりも
そう感じます。
例えば、
研修やチームコーチング
などをしていますと、
たくさんの人達と
長時間向き合い
続けます。
すると毎度のことですが、
途中から
自分なのか、
その人なのか、
自分が誰なのか、
わからなくなります。
皆さんがどう感じるかは
別として、
私は、皆さんと一つに
なっているのだと
思います。
そういった時間が
終わり、
一人になった時、
私は
「世界」のすべてに
命を感じます。
駅を歩いたり
電車に乗ったり
するその
一刻一刻の時間が
ゆっくりと流れ、
その時間の刻みと共に、
「世界」の息遣いを
ダイレクトに
感じるのです。
なんだ、
すべては生きている
ではないか、
と、いつも当たり前のように
思うのです。
人も
生きている。
物も
生きている。
空気も
光も
影も
すべて
生きている。
命そのものの
この世界の中に
私は
いる。
そう感じるのです。
毎日の
ことですが。
この時私は、
「もとに戻れた」
気が
いつもするのです。
・・・・・・
この仕事を
していますと、
人と人が争う
という場に
よく出くわします。
AさんとBさんが
言い争っています。
その時私は
二人の「そのまま」を
観察し、感じます。
すると
人と人の争いには
2種類あることが
わかります。
言い争いながら、
どんどん「分離」
していくケースと、
言い争いながら
どんどん「一つ」に
なっていくケースです。
前者を
「反応本音の言い争い」
後者を
「真本音の言い争い」
と私は呼んでいます。
「真本音の言い争い」
は、
愛の行為です。
そういうものが
私は
組織にどんどん
増えていくといいな、と
思います。
言い争いそのものが
悪いわけでは
ないのです。
つまりは、
表面的な「行為」
だけを見て
物事を判断することは
やめた方がよいです。
「真本音の言い争い」が
発生した場合、
私はそれを
どんどん助長します。
中途半端に終わろうと
すると、
「いや、そこで
終わってはダメですよ」
と、
言い争いを終わらせ
ません。
せっかく「一つ」に
なろうとしているの
ですから、
せっかくお互いに
愛を与え合って
いるのですから、
それを止めてしまっては
いけません。
「真本音の言い争い」に
私は、
命を感じます。
言い争えば
言い争うほど、
命の光が強くなるのを
感じます。
命とは、
「一つになろう」
という意志が
強まれば強まるほど、
明るく
輝くものでは
ないでしょうか。
・・・・・・
私達は
せっかく命を授かって
ここにいるのですから、
自分自身の
命も
自分以外の
命も
育んでいきたい
ですね。
命とは本来、
次の命を
生み出すものでしょう。
つまり
命とは
永遠を生み出すもの
だと
私は思うのです。
つづく
月。
月は太陽と違い、
自らは
光を発しません。
しかし
太陽の光を受け、
太陽とは違った
とても魅力的な
輝き方をします。
じっと見ていると
心が芯から
やすらぐような
神秘的な輝き。
月とは
不思議な存在
です。
・・・・・・
まるで月のように、
私達自身を
じっと見つめる
存在が、
私達の中に
存在しているのが
あなたには
わかりますか?
その「月」は
どこに
ありますか?
私の場合、
その「月」は
時と状況によって
場所も大きさも
変化します。
今、
私が私の「月」を
探すと、
私の目の前に
直径5mくらいの
大きさで
輝いています。
おぉ、こんなところに
こんな大きさで
私を見つめて
いたんだな、と
ちょっと
びっくりしています。
あなたの
「月」は今、
どこに、
どのくらいの大きさで
ありますか?
・・・・・・
「月」が観えたら、
「月」にじっと
意識を向けて
みましょう。
それだけで
心が洗われて
きますね。
じーっと静かに
そうしていると、
何となくですが
「月」からの
メッセージが
伝わって来るようです。
私の「月」は
私に言います。
「ちょいと
がんばりすぎでは
ないか?」
・・・と。笑
あ、やっぱり?
と私が答えると、
「月」は私を
やさしく包み込んで
くれました。
おぉ、癒されるなぁ、
と思っていると、
「月」の意思が
直接伝わってきます。
「たまには
ゆっくり進んでも
いいんじゃない?」
いやぁ、でも今
最高速度で
進んでいる人も
増えているから。
私は、
そんな人を
全力でサポート
したいんだ。
「そうだね。
気持ちはわかるよ。
挑戦する人は
美しいからね。」
でしょ?
みんな、
美しいよなぁ・・・。
「美しいねぇ・・・。」
美しいよなぁ・・・。
「美しいねぇ・・・。」
ホント
美しいよなぁ・・・。
「そうだねぇ・・・。
でもだからと言って、
君が無理を
し過ぎてはいけないよ。
君が倒れたら
元も子もなくなる。」
私は倒れるくらいに
疲弊してる?
「ギリギリのところで
やってるでしょ?
君はギリギリの
名人だから。」
まぁねぇ・・・。
「君の自己管理力は
大したものだけど、
それでも君は
人間だから。
体もあるんだから。」
まぁねぇ・・・。
「私も君を応援するし、
君を癒し続けるけど、
君ももう少し
自分にやさしくして
あげて。
これから長く、
みんなをサポート
するためにもね。」
・・・そうだねぇ。
・・・・・・
「月」
っていうのは
やっぱりいいねぇ。
癒されているうちに
何となく
諭されてしまう。
じっと
どんなときも
自分を観続けて
くれる存在。
私も皆さんにとって
そんな存在で
あれたらいいな。
つづく
水は
上から下へと
流れます。
決して、
下から上へとは
流れません。
それが
自然の摂理です。
私達の人生も
上から下へと
流れる川のようである、
と
イメージしてみて
ください。
私達のたどり着く先
には
広大な「海」が
あります。
私達は
「海」を目指して
流れ続けています。
ところが、
川の流れの途中には
大きな「滝」が
あったりします。
時には、
滝壺が見えないくらいの
巨大で深い
滝があります。
大量の水が、
もの凄い勢いで
その滝壺に
飲み込まれていきます。
滝の上から
滝壺を見降ろしながら、
あなたは
恐れおののいて
います。
しかし、
ここを「落ちなければ」
先には
進めません。
さぁ、
どうしましょうか?
・・・・・・
落ちたくないので、
その場所に
立ち続けますか?
しかし、
川の水はずっと
勢いよく流れ続けて
います。
そこに立ち続ける
だけでも
体力を消耗し、
いずれは
あなたも滝壺に向かって
落ちることに
なるでしょう。
もしくは、
落ちるのがいや
なので、
川上に向かって
川を逆流しますか?
しかし
それほど不自然な
ことはありません。
もといた場所に
戻りたい、
というのは
我々人間の情の一つ
ではありますが、
それこそ
至難の業です。
・・・・・・
滝に落ちる恐怖。
それは誰しもに
あります。
しかしそれは
反応本音です。
私達の真本音は
滝壺に向かって
自ら飛び込むことを
望んでいます。
その勇気と
遊気を
望んでいます。
どうせ落ちるなら、
自分らしく
徹底的に
落ちてしまえ。
という
開き直りを
望んでいます。
いい意味での
「あきらめ」
が肝心です。
私のクライアントさんには、
滝壺に落ちる快感を
知ってしまった人が
何人もいます。
あるクライアントさんは、
自ら滝壺を
創り出し、
休みなく次々に
滝壺に飛び込み続けている
という
そんな人さえいます。
もちろん
自己満足で
やっているのでは
ありません。
その人は
一刻も早く
海に出たいのです。
そのために
自分にできることを
日々、
最大最高スピードで
行なっています。
私から観れば、
この人、毎日
滝壺だな、
と思えます。笑
そしてそれが
「普通」になってしまうと、
その人は
真に「安定」と「安寧」を
得ます。
ある意味、
怖いものなし
となります。
いえ、
もちろん「怖さ」は
あります。
何がどうなっても
私達には
反応本音は発生
します。
その人も
他の人と同様に
「怖がり」です。
しかしその
「怖さ」そのものに
対して、
とても素直です。
怖いからやめる、
のではなく、
怖さを存分に
味わいながら、
次々に
滝壺に飛び込む
のです。
すると、
その「怖さ」の根底に
私達は
「安寧」を得るのです。
それが、
真本音を感じながら
生きるという
ことです。
・・・・・・
自然の摂理に
抗う必要は
ありません。
私達自身が
「自然」なのですから。
人生は
怖いですか?
怖いですね。
その怖さを
消す必要など
一つもありません。
怖いから
進まない
のではなく、
怖いからこそ
進んでください。
怖いからこそ、
早く
飛び込んで
しまってください。
すると、
怖さとは味方である
ということが
ある瞬間から
わかるでしょう。
つづく
目の前に
「現実」があるのに、
その「現実」が
まったく見えなく
なることがあります。
見ているのは、
ただの「雲」。
しかもそれは
心の中の「雲」。
心の淀み。
そうなると
私達は、
その「雲」に勝手に
「映像」を
映し出します。
「映像」とは
私達の勝手な
解釈によるもの
です。
自分の解釈によって
創り出した映像を
自分で眺め、
それが
事実であると
思い込み、
その映像に即して
私達は
次の行動を
決めてしまいます。
それにより、
不調和が
発生します。
しかも
それをしているのは
自分だけでなく、
相手も同じ。
自分も
相手も
それぞれが
勝手に創り出した
映像に基づいて
お互いの関わり方を
決めます。
不調和が起こる
のは
当たり前ですね。
・・・・・・
私達人間にとって
解釈は
もちろん必要な
ものですが、
事実を解釈する
ならまだしも、
解釈によって
生み出された幻影を
解釈し、
さらにその解釈を
また解釈し、
・・・を繰り返せば、
それはそれは
苦しい人生に
なります。
解釈とは本来、
より良い人生に
なるために
あるものなのに、
解釈によって
苦しみが増すのは
実にもったいない
ことです。
自らの解釈によって
自らを
がんじがらめに
する。
「自分」という
人間さえ、
解釈の賜物
だったりします。
自らの解釈で
自らの個性までも
固めてしまう。
コリコリに
固まった自分が
「夢を持って
進む」
ということをしても、
それはもう
コリコリに
固まった人生
でしかありません。
「夢がわからない」
という人もいます。
コリコリの自分からは、
当然ですが、
夢も願いも
生まれません。
・・・・・・
「私はこういう
人間ですから」
という言葉を、
いったい私は
何百回、何千回
聴いたことでしょう。
多くの人が
まるで
確信を持ったかの
ように、
そう言うのです。
「私はこういう
人間ですから」
それを言って、
喜ぶ人が
一人でも
いるでしょうか?
自分も含めて、
誰も喜ばない
言葉です。
でも、
「私はこういう
人間ですから」
が、
唯一の
安全地帯であるかの
ように、
その人は
解釈しています。
・・・・・・
ピコン、ピコン、・・・
と
カラータイマーの
鳴っている人が
多いです。
本当は、
太陽エネルギーは
そこかしこに
あるのに。
エネルギーは
どこにいても
補充できるどころか、
常に
満タン状態で
生きていくことは
できるのに。
なのに、
「自分はこういう
人間ですから」
と言いながら、
エネルギーを
自分自身で
枯渇させています。
そのうちに、
本当に
エネルギーが
切れてしまいます。
エネルギーが
枯渇して
しまっているのは、
世の中の
せいでは
ありません。
状況の
せいでも
ありません。
他の誰の
せいでも
ありません。
自分の
生き方の
問題です。
自分が
変わるしか
ないのです。
いえ、
自分が
本来の自分に
戻ろうとする。
たった
それだけの
ことなんです。
つづく