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人生を、
一本の糸に
喩えてみましょう。
自分の人生を
赤い糸だと
思ってください。
そして、例えば
Aさんの人生を
青い糸だと
思ってください。
赤い糸と
青い糸が
交差する瞬間が
あります。
要するに、
ご縁のある状態、
出会いの瞬間
ですが、
交差した瞬間から
その人との展開は
以下の二つのいずれかに
分かれます。
一つは、
交差するだけの展開。
もう一つは、
交差した瞬間に
共に
「結び目を創る」
展開です。
前者は、
交差したその時は
共に人生の時間を
共有しますが、
その後に
またそれぞれの
糸(人生)をたどって
行きます。
後者は、
「結び目を創る」
ことで、
その後、それぞれの糸を
たどったとしても、
必ずまた次の
交差の瞬間が来ます。
もしそこでまた
「結び目を創る」
のであれば、
さらに二つの糸は
その後も
交差を続けるでしょう。
「結び目」は
創れば創るほど、
一心同体に近づいて
いきます。
赤い糸と青い糸が
統合され、
融合され、
紫色の糸として
進化していくかも
しれません。
・・・・・・
大切なのは、
結び目を創る
人とは
きちんと創ること。
そして逆に、
結び目を創らない
人とは
決して創らないことです。
ここを間違えると、
二つの糸の
調和が乱れます。
つまり、
人生がお互いに
乱れていきます。
時々拝見するのですが、
どんな人とも
必死に「結び目」を
創り続けようとしている人が
います。
「結び目を創る」
ことが
人を大切にすること
であると、
ご縁を大切にしていること
であると
勘違いしてるのです。
・・・・・・
自らの真本音を
大切に生きていれば、
今出会ったこの人が
結び目を創るべき人かどうか、
すぐにわかります。
結び目の
本質的な創り方は
簡単です。
この人とは
結び目を創るんだと
自分自身にOKを
出せばよいのです。
そしてその
OKの意識で、
相手の目を見つめます。
すると
その瞬間に
はっきりとした絆を
感じます。
それは
一瞬のこと。
こうやって
結び目を創るべき人達と
一つ一つ丁寧に
出会いを楽しんでいく。
これも
人生の醍醐味の
一つですね。
つづく
目を瞑り、
全身の力を抜き、
心の力も抜き、
しばらく
静かにします。
そして、
すべての
「電源」
を切ってみてください。
その電源を
落とせば、
「私」のすべてが
「オフ」になります。
パソコンが
電源を落とすと
動かなくなるように、
「私」も
電源をすべて
落としてしまうのです。
「電源」を切れば、
すべての光が
失われる感覚が
あるでしょう。
そうしたら、
しばらくそのままで
いましょう。
・・・・・・
もし、
「電源」を落とそうと
思っても、
落ちない場合は、
現時点での
あなたの真本音度合いは
残念ながら
まだまだ低い
ということになります。
もしくは、
最近のあなたが
自分の真本音を
無視した日々を
送っているか。
真本音と乖離した
生き方は、
自分の「電源」を
落とすことすら
できなくさせます。
そして私達は、
「電源」を落とさなければ、
本当の「休息」を
得ることはできません。
短い時間でも
本当に「電源」を落とす
ことができれば、
私達はかなり
リフレッシュできます。
・・・・・・
面白いことに、
電源を落とすと、
その瞬間までにずっと
自分に取り憑いていた
あらゆるストレスの類が、
まるで自分が
死んでしまったと
勘違いするのでしょうか、
ザーッとすべて
流れ出てしまうことも
あります。
そういえばパソコンも、
一度、電源を落とすことで
調子が戻ることが
ありますね。
電源を落としたり
リセットすることは
私達人間にも
必要なのですね。
自分自身の電源を
入れるか落とすか、
それくらいの自由は
自分で持ちたいものです。
自分自身
ですからね。
・・・・・・
電源を落とすことが
できた人は、
オススメなのは、
一度、そのまま
睡眠をとることです。
電源を入れたまま
睡眠をとるのが
通常の私達が
行なっていることですが、
一度、
すべての電源を
オフにして
ゆっくりと
眠ってください。
大丈夫。
これで死ぬことは
ありません。笑
むしろ、
生き返ります。
自分自身の
ことです。
自分で自分を
大切にしましょう。
つづく
心の中に
一本のローソクを
イメージしてください。
そのローソクに
火を灯して
ください。
そしてその火を
じっと
見つめてください。
しばらく見つめて
いると、
火はどうなりますか?
火は
静かに微動だにせず
灯り続けますか?
それとも、
揺らぎますか?
火はだんだんと
大きくなりますか?
小さくなりますか?
それとも
変わりませんか?
色はどうですか?
変化しますか?
それとも
変わりませんか?
・・・・・・
今の私が
これをやると、
火は一瞬にして
巨大化します。
ローソクなのに、
火は炎となり、
私の全身を
焼き払います。
焼き払うと言っても、
私の全身は
灰にはなりません。
むしろ、
焼かれることで、
より輝きを
増します。
ピカピカに
なっていきます。
あなたの場合は
いかがですか?
・・・・・・
では次に、
火に問うて
ください。
「あなたは
何の象徴ですか?」
と。
私が問うと、
火が答えました。
「私は今のあなたの
生命力を
表しています」
と。
おぉ、なかなか
凄いなぁ。
俺ってそんなに
生命力あるんだ、
と喜んでいたら、
「ちょっと生命力
使い過ぎです」
と叱られました。笑
「無理し過ぎです」
と。
でも、
生命力である火に
焼かれて、
私の体はピカピカに
なりましたよ、
と私が反論すると、
「私(火)ではなく、
周りにピカピカに
してもらえばいいのに」
と、また反論
されました。
それは、
周りの人達を
もっと頼りなさい、
ということ?
と問うと、
「その通りです。
周りの人達の進化の
スピードの凄さは
あなたが一番よく
わかっているでしょ?」
・・・と。
なるほど。
確かにそうだ。
この1〜2ヶ月。
確かに、
みんなの進化度合いは
普通ではない。
じゃあ、
そうしよっかな。
「自分でやる」度合いを
下げてみようかな。
と思いました。
こんな感じで
あなたも、
自分の中にある
ローソクの火と
対話をしてみると
面白いですよ。
つづく
あなたの
胸の中心に
大事に抱き続けている
願いとは
何でしょうか?
あなたは
その願いに
いつも意識を
向けていますか?
毎日、
ほんの少しずつでも
その願いに
近づいていますか?
自分を
自由にする。
とは、
願いに素直になる
ということです。
今の自分を
自分で評価し続け、
今の自分を
基準に
未来を決めるよりも、
単純に
自分の願いに素直な
今日を生きてみる。
ということを
一日一日
続けることで、
私達は
本来の自分自身を
開くことができます。
・・・・・・
あなたは
自分が好きですか?
自分が嫌いですか?
自分のどこが
嫌いで、
自分のどこが
好きですか?
・・・なんてことを
一度、
考えるのを
やめませんか?
多くの人が
「自己評価」を
し過ぎです。
もちろん
自己評価は大事
ですが、
それを
「今の自分の解釈」
によってしても
実はほとんど
意味がありません。
よく、
自分の短所を直す
よりも
長所を伸ばした方が
いい、
と言われますが、
ちょっと極端な
ことを言えば、
そんなことは
どうでもいいじゃない、
と
私は時々
言いたくなります。
そんなことよりも、
自分の
真本音の願いに
素直に
今日を生きることだけ
してみれば
いいじゃない、
と。
ちょっと乱暴な
言い方ですけどね。
でも、
願いに生きれば、
自分という人間は
ある時ある瞬間に
とてつもなく大きく
変貌することが
あるのです。
明らかに
それまでの自分の
延長線上にはない
まったく新たな自分が
一気に花開くのです。
自己評価を
解釈によってし続け、
それを指針にしていては、
その開花は
一生起きません。
人間とは
もっともっと
奥の深いものです。
私達自身の
解釈の尺度を
超えた存在なのです。
自分と向き合う
とは、
自己評価することでは
ありません。
自分を
解釈することでは
ありません。
あるがままの自分を
ただ見つめること。
観察することが
基本です。
あるがままに
見つめれば、
必ず、
あまりに強烈な
あなた自身の願いに
気づくはずです。
あなたは
「願いが服を着て
歩いている」
存在なのです。
すべての人が
そうなのです。
解釈の人生から
願いの人生へ。
そろそろ
人生のシフトチェンジを
してみませんか?
つづく
真本音度合いが
高まり始めた人は
すぐにわかります。
まず、それは
目に出ます。
目の輝きに
出ます。
どのように出るかと
言いますと、
一番近い表現は、
「無邪気になる」
・・・かな。
目の輝きが
無邪気に
なるのです。
ある意味、
まるで子供のような
純粋な目。
最初は
常にそういった目を
するわけではありません。
最初に現れるのは
笑ったその瞬間です。
大笑いの必要も
ありません。
ほんのわずか、
クスッと笑ったり、
かすかに
微笑んだり。
その瞬間に、
無邪気な輝きが
放たれます。
そこを私は
見逃さないように
しています。
その輝きが
生まれた瞬間から
私のサポートは
次のステップに
入ります。
・・・・・・
目の輝きの次は、
その人の
「空気感」
となって現れます。
空気感とは、
その人の全身から
放たれ続ける
雰囲気のようなもの。
それがやはり、
「無邪気」に
なるのです。
すると途端に、
その人のそばに
ずっといたくなります。
人として
その人を
好きになって
しまうのです。
真本音度合いが
高まると、
多くの場合は
ご本人は自分の変化には
気づきません。
それよりも、
「なんか、周りの私への
関わり方が変わった
気がします」
と言い始めます。
時には面白いことに、
「最近、周りの人達が
良くなったんですよ。
みんな、
成長してるんですね」
なんて、言い出します。
いやいやいや、
あなたが変わったんですよ、
と私は笑って
お答えします。
その瞬間はいつも
とても幸せですね。
つづく
苦しい体験をすることで
成長ができる
わけではありません。
苦しみを抱き続ける
からこそ、
私達は成長できるのです。
心が激しく
揺さぶられる過去と
対峙しながらも
「今」を進む人。
そんな人は、
揺れ動く心が
そこにあるにも関わらず、
とてつもなく
静謐です。
心は嗚咽しても
魂が
静かなのです。
そんな人と
向かい合うと、
こちらも
静かになっていきますね。
私は
そんな人を
どこまでも
応援したいなぁ。
・・・・・・
心と魂の
区別のつく
コーチが
増えるといいなと
思います。
心は
揺れて
いいんだよ。
揺れるままで
いいんだよ。
でも、
魂が揺れ、
魂が傷つくことは
やめようよ。
・・・そんな
ちょっとした助言の
できるコーチが
今の世には
必要です。
心は
そのままでいい。
たったその一言を
聴くだけで、
どれだけ私達は
救われることか。
・・・・・・
魂を大切にできる
コーチとは、
命を大切にできる
コーチです。
心の痛みから
逃れることで、
命を傷つけてしまう人が
います。
それを
止めるのは
残念ながら
本人には難しいのです。
そこは
ちょっとお節介でも、
傍にいる人が
止めなければいけません。
しかしそれができる人は
多くはありません。
私達はもっと
「人間」を学ぶべきでは
ないでしょうか。
「人間」を真剣に
学ぼうとする人に
私は
コーチになって
もらいたいな。
つづく
自分自身が、
「白い炎」の中に
いるイメージを
してみてください。
白く燃えさかる炎
です。
普通の炎は
その中に入ると
焼かれてしまいますが、
白い炎は
その中に入ることで
すべてが
洗い流されます。
あなたの心や
体の中に
残っているストレスや
苦しみや淀みや
歪みや、
余分なもの達。
それらが
白い炎で
どんどん蒸発、
浄化されて
いきます。
しばらくその炎の
中で、
浄化されていく
気持ち良さを
味わっていてください。
白い炎に
包まれる内に、
あなたの体は
どんどん
ピカピカになって
いきます。
より若く
ピチピチに
なっていきます。
生命力に
溢れてきます。
あなたの体
だけでなく、
心も魂も
ピカピカになって
いきます。
ここまでの疲れが
ウソのように、
新鮮な空気感が
あなた自身から
発せられるように
なります。
まるで
シャワーを浴びた
後のような
気持ち良さ。
それを
充分に感じるところまで
続けてみてください。
・・・・・・
白い炎によって
清々しくなったところで、
その炎からは
出ます。
今度は
目の前に
たった一本の
「花」
を思い浮かべます。
その「花」は
たった一本ですが、
とても
凛としています。
茎はシュッと
まっすぐに伸び、
花びらなどは
あなたが最も好きな
色や形を
イメージしてください。
派手すぎず、
地味すぎず、
あなたらしく、
居心地よい花。
しかもそれは、
凛としており、
毅然としており、
堂々としています。
しなやかで
強い。
揺るがないけど
柔らか。
そのような「花」を
イメージします。
その「花」と
向かい合って
ください。
その「花」は
あなたの「中心軸」
そのものです。
じーっとしばらく
向かい合って
ください。
あぁこの「花」は
私自身だな、
私の「毅然」そのもの
だな、
と思えたら、
「花」に問うてください。
「今の私に
メッセージはありますか?」
と。
そして
「花」のメッセージを
聴いてください。
そしてさらに、
「今の私は、
何かから
目を逸らしていませんか?」
「今の私が、
もっとしっかりと
向き合うべきものは
ありますか?」
「今の私が
最も意識すべき
課題は何でしょうか?」
「今の私が
もっと真剣に
目指すべきものは
ありますか?」
「今のままの私で
私はあなたのように
なれるでしょうか?」
・・・そのような
問いを投げ、
あとはじっくりと
向かい合ってみて
ください。
問いの答えが
自然に浮かんできたら
それをぜひ
メモに取り、
今度はそれらの
「答え」達と
向かい合ってみてください。
あなたの「毅然」が
あなたにメッセージ
することは、
あなたの真本音からの
メッセージに
他ありません。
本来の
自分自身からの
メッセージ。
ぜひ
大切にしましょう。
つづく
生命の源としての
海を
イメージしてみて
ください。
その海は
無限に広がり
続けています。
その海は
とても
静かです。
そして
とても
深いです。
しかしその
深さには
怖さは
微塵もありません。
そこには
やすらぎと
あたたかさと
まるで
母親の胎内に
いるかような
安堵があります。
『始まりの海』
とでも
名づけましょうか。
その
「始まりの海」の中に
入りましょう。
静かに
入りましょう。
そして
深く深く
沈んでいきます。
深く沈んでも
もちろん
溺れることはなく、
沈めば沈むほどに
やすらぎが
増して来ます。
不思議なことに
深く深く沈んでも
光が失われることは
ありません。
かといって
眩しい光でも
ありません。
適度な光。
やはり、
やすらぎの光。
その中を
静かに
深く深く
沈んでいきます。
もうこの辺りで
いいかな。
と思えたら
そこで留まります。
そこで
身も心も
芯から
リラックスしましょう。
徐々に
その海の持つ
本質的なエネルギーが
自分自身に
浸透して来るのを
感じましょう。
自分の中に
エネルギーが
満ちて来るのを
感じましょう。
あぁ満たされたな、
と思えたら、
そこで
自分自身に
問うてみてください。
私は
なぜ
生まれたのだろうか?
と。
私は
なぜ
人間なのだろうか?
と。
そして、
私の人生は
何のために
何を目指すことで
成就されるのだろうか?
と。
「始まりの海」
だからこそ
浮かび上がる発想が
あるでしょう。
それは
新たに生み出した
発想というよりも、
「思い出す」
感覚のはず。
私達はそろそろ
思い出すときに
来ているのです。
つづく
目を閉じて、
意識を自分の内側
ではなく、
外側に向けると、
変な表現ですが・・・
「世界」が自分を
祝福してくれている、
といった感覚を
得たことは
ありませんか?
私がこの感覚を
初めて得たのは、
そうですね、
もう何年前でしょうか。
恐らく、
8〜9年前。
ある企業様で
講演をさせていただいた
時です。
それは結構
大手の企業様で、
全国からマネージャーの
皆さんが一同に会する
という、
年に一度か二度の
全体会議の中で、
確か70分だけ
お時間をいただいたのです。
しかし、
時間は70分でしたが、
お客様のご要望される
内容は非常に深く、
これまでの私がもし
その内容をお伝えするならば、
最低でも丸一日は
時間が必要でした。
それを
70分でやれ、
と。
しかし私はそのご依頼を
お受けし、
短時間でいかに
深いご理解を
皆様にいただくか?
という
挑戦をしたのでした。
まぁ、
緊張しましたよ。
今でも
思い出します。
講演の直前は、珍しくも
心臓バクバクで、
その企業様自体が
初めての体験でしたので、
どのような傾向の皆さんが
いらっしゃるかもわからず、
本当に大袈裟でなく、
口から心臓が
飛び出している
感覚でした。
で、
必死にやりましたよ。
我ながら
凄い集中力でした。
講演中は
ほぼ、記憶が
ありません。
で、終わった直後に
ご依頼いただいた
担当の方から
喜びのお声をいただき、
やれやれと、
その企業様を後にした
その時に、
それは起こったのでした。
まるで「世界中」から
万雷の拍手を
いただいているような
激しい祝福の感覚に
見舞われたのです。
それは、
10分、20分と
かなりの時間、
続きました。
なんだ?
なんでこんなに
祝福を受けている
感覚なんだ?
と、
当時の私は
わけがわからないまま
でした。
が、今の私は
わかります。
それは
実在の世界における
拍手であり、
祝福です。
一つのことに挑戦し、
自分が思っている以上に
脱皮を果たした後の
祝福です。
それは私だけでなく、
本当は
誰もが受けたことのある
「世界」の人々の真本音からの
感謝と祝福の
嵐なのです。
・・・・・・
実は、
今日も私は一日、
その万雷の拍手が
鳴り響き続け、
いつまで経っても
止まないのです。
ここのところ、
確かに私は
挑戦ばかりをしている
ような気がしますが、
いったいなんで
こんなにも祝福されるのか?
がまだ自覚できて
いません。
ただ言えるのは、
とてつもなく
幸せであるということです。
多分、
何かを成し遂げたのかな。
これからゆっくり
セルフコーチングして、
自分がいったい
何を成し遂げたのか?を
明確にしたいと
思っています。
「世界」からの
万雷の拍手。
それは
皆さんの人生においても
何度も
体験しているはずです。
もしそれに
気づいていないので
あれば、
もったいないことですね。
そういったことを
感じ取れる
感性を
身につけられると
よいですね。
そのための
最大最善の方法が
自分と向き合う
ということです。
自分と
しっかり向き合うからこそ、
自分の幸せ感に
自ら気づけますからね。
つづく
今日という日は
いったい
何のために
あるでしょうか?
このような問いを
自身に
投げたことは
ありますか?
今日という一日が
存在している
意味。
自分の人生に
とって。
そして
世界にとって。
当たり前のことですが、
今日がなければ
明日も
ありません。
今日という一日が
明日という
新たな一日を
決めます。
そんなことは
当たり前だと
誰もが思いますが、
しかし本当は、
今日という一日と
明日という一日は、
完全に
分離しています。
この
3次元世界に
おいては。
・・・・・・
完全に分離
しているのに、
なぜ
続いていくのか?
それは、
この3次元世界に
存在している
慣性の法則
の影響に過ぎません。
「慣性」を
別の表現で言い換えれば、
「惰性」
とも言えます。
要するに、
今日の惰性のまま
明日を迎えている
のが
私達のほとんどです。
ちなみに
「惰性」を辞書で引きますと、
今まで続いてきた習慣や癖
とあります。
そうです。
癖なんです。
今日と明日が
続いているのは、
そういった私達の
癖でしかありません。
なんで
こんな極端なことを
書くのかと言いますと、
「私達はもっと
自由になれる」
と言いたいのです。
「癖に負けるな」
と言いたいのです。
癖って
強いんです。
なぜなら
私達人間にとっては
癖とは
とても大切な
「能力」だから。
癖という能力が
なければ、
私達は
何もできなくなるでしょう。
例えば、
自転車に乗れるように
なるのも、
要するにそれは
自転車に乗れる癖を
自分自身につけている
ということになります。
癖という能力が
なければ、
私達は、何度練習しても
自転車には乗れません。
そういった意味で、
私達の心と体とは
癖の塊です。
癖の宝庫です。
でも、
それが「癖」であるとは
認識していません。
で、
自分で認識していない
「癖」に捕らわれたまま
「明日」を
迎えます。
昨日と同じ延長線上に
ある
新たな日を
迎えます。
・・・・・・
癖は
大事ですが、
癖を超える
日々を
今の私達は
創り出さねば
なりません。
本当の
「創造力」
とは、
そういうことを言います。
癖の延長線上にある
創造力は
本来の創造力ではないと
私は思っています。
癖によって
新たな一日を
迎えるのではなく、
常に
原点に戻り、
毎日を
原点から
始めること。
それができるように
なると、
一日一日が
劇的に変化し
進化し始めます。
実は、
真本音で生きるとは
そういうこと
なんですけどね。
私が推奨している
セルフコーチングとは、
癖を大事にしつつも、
そういった癖を
超えていく力を
発揮するものです。
すべての人が
癖に捕らわれた人生から
自分自身を
解放できるといいなぁと
私は思います。
癖が
自分の人生を決める
のではなく、
自分が
自分の癖を活かす人生。
そんな人生に
シフトチェンジ
しませんか?
つづく
あなたの
「人生の始まりの地点」
は、どこだと
思いますか?
それは、
あなたにとっての
「本当の人生」の始まり
の地点です。
今振り返って、
「ここから私の
本当の人生が
始まったんだな」
と思える瞬間です。
そこでは
どのような出来事、
どのような体験が
ありましたか?
その瞬間のことを
ありありと
思い出してみて
ください。
そして
もう一度、
イメージの中で
その瞬間を
体験し直してみて
ください。
あなたはその時、
何かを手放した
はずです。
そして、
その時に
何か大切なものを
見つけたはずです。
その時その瞬間の
あなたには
その自覚はなかった
でしょう。
でも、
今、改めてありありと
その瞬間を思い出す
ことで、
それが何か?を
自覚することが
できるはずです。
あなたはその時、
何かを手放し、
何かを見つけた。
その、
見つけたものは
多くの場合、
とてつもなく強い
「願い」
だったはずです。
それが、
「真本音の願い」
です。
・・・・・・・
私は18歳の時、
初めて縦走登山を
始めました。
大学の部活動です。
一人50kg以上の
ザックを背負い、
3週間近くも山に入り、
山を縦走します。
「夏合宿」と
呼んでいました。
私の初の夏合宿は
北アルプスという
場所でした。
1日目は、
14時間登りづくめで
体力のすべてを
使い果たしました。
2日目は、
3000m近い稜線の上で
台風のような
暴風雨に遭いました。
テントが50mくらい
吹き飛ばされ、
みんなで必死にテントに
しがみつき、
雨にびしょ濡れになりながらも
自分達の生活の場を
守り続けました。
そして3日目。
常念岳という、
日本百名山の一つを
越えました。
その山はとても
急峻でした。
実はこの時まで
入山以来、一度も
晴れていなく、
ずっと真っ白なガスの中の
苦しみの登山
だったのですが、
常念岳の山頂まで
あと少しというところで
突然、ガス(雲)が晴れ、
青空が見え、
そして、
北アルプスの山々が
目に飛び込んで
きたのです。
突然、目の前に
現れた
槍・穂高岳連邦。
そのあまりの迫力と
素晴らしさに
私は50kgを背負ったまま
茫然自失と
立ち尽くしました。
その瞬間です。
私の場合はその時、
はっきりと
自覚しました。
今、この瞬間に
私の本当の人生が
始まったのだな、
と。
その時、私が
手放したものは、
「私は、誰よりも
劣っていなければ
ならない」
という、
とてつもなく強い
自分への
「リミッター」
でした。
そして、私が
得たものは、
「私にはこの人生で
果たすべき何かがある」
という確信と、
「その何かを
35歳までに見つけなければ
ならない」
という使命感にも似た
願いでした。
ですから私は
それ以降、
「人生を上手く進める」
ことをやめました。
多少ダメージを受けても
よいから、
いろんなものに
ぶつかりながら、
濃密な人生を生きると
決めたんです。
35歳までに
人生の目的を
見つけるために。
そしておかげさまで
その通りに
なりました。
35歳なりたての時、
私は、
「真本音」
と出会うことになります。
と同時に、
自分がすべきことを
はっきりと
自覚できました。
・・・・・・
さて。
以上は私の話
です。
あなたは
いかがですか?
つづく
あなたにとって
大切な人は
誰ですか?
その人のお顔を
目の前に
イメージしてみてください。
まるで本当に
その人が
目の前にいるかのように
イメージしてみてください。
それが
「イメージ」であると
思えないくらいに。
するとそれは
「実在」
となります。
正確に言えば、
あなたのイメージに
「実在」が一致する
ということですけど。
まぁここでは、
あまり理屈はいいです。
とにかく
その人の存在を
今ここに感じ取れるくらいに
イメージしてください。
すると今、
その人は
どのような表情で
あなたを
見つめていますか?
その人と向き合って
あなたは
その人から
何を感じ取り、
何を受け取りますか?
あなたはその人に
どんな一言を
投げかけたいですか?
・・・・・・
その人は、
あなたに何か
言いたげでしょうか?
もしそうであるなら、
その人からの
メッセージを
聴いてみましょう。
「何を私に
伝えたいの?」
と訊いてみて
ください。
そして
何も思考せずに、
その人に意識を向け、
ただ
待ちます。
この時、実際に
言葉が聴こえる
かもしれません。
もしくは、
自然に何らかのメッセージが
心の奥から
浮かび上がってくるかも
しれません。
いずれにしても
そのメッセージを
あるがままに
受け取りましょう。
・・・・・・
今度はその人に
あなたから
問いを投げてみて
ください。
「私達の関係は、
今のままで
良いだろうか?」
・・・と。
そう問いかけた瞬間の
その人の
表情に意識を向けて
ください。
そして次に、
自分自身の心に
意識を向けてください。
「変えた方がいいかな」
と
自然に思えた場合は、
何かを変えた方が
よいでしょう。
「何をどう変えれば、
我々の関係は
さらに良いものと
なるだろう?」
と、さらに問いを
投げてみてください。
そして同じく、
その人と
自分自身の心の
両方に意識を向けます。
このようにして
浮かび上がってきた
答えに関しては、
できるだけ
何も解釈を入れずに
その通りに
実行に移すとよいですね。
・・・・・・
大切にしたい人を
大切にする。
この当たり前のことを
本当の意味で
できている人は
実は少ないです。
大切にしたくても
時間がない。
とか、
様々な制限や制約が
現実の世界においては
ありますしね。
でも、
そういった制限を超えて
私達は人を
大切にできる力を
持っています。
実際に会わなくとも、
人を大切にすることは
できますし、
それが相手に伝わる
こともできます。
私達には
まだまだ使っていない
人間として
素敵な能力が
あり過ぎるのです。
それを誰もが
開発できるといいなと
思っています。
私達は、
そろそろ本当に
次のステージ、
次の次元に
進まなければいけません。
これまでの自分の
生き方、
これまでの自分の
人との関わり方、
を超えて、
新たなる自分を
育んでいきましょう。
つづく
今は
加速すべき
時です。
もし
迷っている人が
いるとすれば、
私は必ず
そうアドバイス
するでしょう。
今はもう、
止まっている
時では
ありません。
準備は
整っています。
あとは
必要なのは
前に踏み出す
勇気のみ。
勇気を出せた
人は
一気に進み、
勇気を出せなかった
人は
ずっと止まり続ける。
その
わかりやすい
二者択一の
どちらを選ぶかによって
恐らく、
今後の何十年かの
人生展開が
根本的に
変わるでしょう。
それくらいに
今の
世の中全体の
「潮流」は
重要な時を
迎えています。
・・・・・・
私は
進むべき価値のある
人間でしょうか?
そのような
問いを受けることが
あります。
いやいやいや、
それを決めるのは
あなたでは
ありません。
それに、
それを決めるのは
今では
ありません。
むしろ、
もし自分の愚かさを
知っているので
あれば、
それはチャンス
です。
本当に愚かなのは、
自分の愚かさを
自覚していないこと。
愚かさを知る者は
ちゃんと
「観えている」
のです。
そして、
観えている人
こそが
加速できるのです。
自分の価値は
人生の最期の
瞬間くらいに、
きっと自然に
わかるでしょう。
・・・・・・
あなたの中に
夢や希望が
ありますね。
それは
「幻影」
ですか?
それとも
「実在」
ですか?
もしも
「実在だな」
と思えるのならば、
すぐにでも
加速を
始めてください。
今は
本当に
チャンスです。
今、始めなければ
いつ始めるの?
というくらいの
チャンスです。
それは
あなた自身が
本当は
最もよくわかっている
はず。
あなたの中に
確信は
あるはず。
そこに素直に
進んでください。
勇気とは
今のこの時の
ために
あるのです。
つづく
心の中で
「今、やろう」
と思っていることを、
実際の行動としては
「今、やらない」
という選択をしたとします。
心の「やろう」
と
行動の「やらない」。
行動というのは
私達の体を使って
行われますから、
言い換えれば、
心の「やろう」
と
体の「やらない」。
この不一致が起こることで
私達の
「一貫性」
は大きく損なわれます。
一貫性が
損なわれるということは、
歪みが起こる
ということ。
それにより、
私達の中には
大量のストレスが
発生します。
一貫性のなさによる
ストレスは、
実は
私達が発生させるストレスの
中でも
重度のものです。
ということはそれは
エンティティ化
しやすいということです。
「エンティティ」とは
ストレスが
反物質化したもの。
日本語では
生き霊
と訳されます。
しかしそれは
ほぼすべての人が
多かれ少なかれ
持っています。
エンティティが
多くなり過ぎると、
自分の生き霊が
自分に取り憑く
ことになり、
常に理由のない苦しみを
感じ続けます。
自分が自分に
取り憑く
・・・って、なんかもの凄く
意味のないことであり、
生産性の低いことだと
思いませんか?
しかし、
一貫性がなくなることで
誰もがそうなります。
しかも、
そのように自分自身の
エンティティに取り憑かれ
続けていると、
「それが普通の状態」
だと思い込むようになります。
エンティティは
苦しみだけを
自分に与えるのでは
ありません。
言いようのない
・不安
・憤りやイライラ
・倦怠感
・無気力
・悲しみ
・孤独感
・空虚感
などが常に発生し、
未来に向かうのが
億劫になり、
ほんのちょっとのことで
恐怖に苛まれるように
なります。
すると、
勇気が出なくなり、
挑戦することをやめ、
心で「やろう」と思っても
体では「やらない」という
選択をし、
ますます一貫性が
取れなくなるという
悪循環に入ります。
その循環から
抜け出せなくなっている人
は非常に多く、
その循環にいるのも関わらず、
毎日のお仕事に
がんばって向かって行く
という
とてつもなく辛い日々を
送っています。
よく喩えられる表現ですが、
まさしく
「ブレーキをかけながら
自転車を漕いでいる」
状態です。
・・・・・・
エンティティを
自ら浄化したり、
流したりする。
それも
セルフコーチング法の
一つです。
私はそのための方法を
できるだけたくさんの方々に
お伝えしたいのですが、
しかしその方法を
実践するためには
自分自身のエンティティと
向かい合わねばなりません。
そしてそのためには
エンティティと向かい合える
だけの自分に
ならねばなりません。
そのために最も
必要なことが、
自分自身の「真本音」を知る
ということです。
自分は
真本音で
何を願っているか?
自分は
真本音で
何を大切にしているか?
それらを
まずは言語化して
常にそれを「原点」とします。
その「原点」に
いつも立ち返ることで、
「これが本来の私だ」
という「感覚」を得ます。
この「感覚」が
大事です。
「感覚」を得られたら、
「本来ではない自分」の
感覚もわかるように
なります。
そうなって初めて
エンティティと向かい合える
ようになります。
本来の自分が
本来でない自分と
向かい合う
という感覚がわかれば、
エンティティはちっとも
恐ろしいものでは
なくなるからです。
そこまでの状態に
なるためのステップを
私はこれから
できるだけ多くの方々に
発信していきます。
このブログも
そうですが、
これまで行なったことのない
様々な発信法を
試してみるつもりです。
つづく
寂しくてしょうがない。
不安でしょうがない。
虚しくてしょうがない。
悲しくてしょうがない。
腹が立ってしょうがない。
悔しくてしょうがない。
・・・これらの心を
埋めるために、
私達は次の行動を決定
してしまうことがあります。
ところがそれをした場合、
もっと寂しくなります。
もっと不安になります。
もっと虚しくなります。
もっと悲しくなります。
もっと腹が立ちます。
もっと悔しくなります。
何かを満たすために
何かをする。
それをしているうちは
決して
そこから抜け出ることは
できません。
・・・・・・
満たされないものを
満たしたい。
この心は
「反応本音」
です。
つまり、
外からの影響
その時の状況によって
その反応として
生み出される心。
反応本音の願いとは、
満たされないものを
満たしたい
というもの。
それは人として
大事なことではありますが、
しかし残念ながら、
満たされないものを
満たそうとすればするほど、
その「枯渇感」は
ますます増長します。
「私はもっと
幸せになりたい!」
という気持ち自体は
尊いです。
しかし、
それは今、
幸せではないから
幸せというものを
満たしたい
というところから
発せられています。
それがいけない
というわけではありません。
しかし、
満たしたいものを
満たすためだけに
動いたとしたら、
さらにその「枯渇感」は
増してしまうのです。
それが
自然の摂理として
この世の中で
機能している法則です。
人間は
反応本音があるかこそ
人間です。
でも、
反応本音に対して
反応的に動いても
何も生まないのです。
・・・・・・
反応本音を否定する
必要はありません。
それが
あるがままに
そのままに
受け入れましょう。
その上で、
すべてを受け入れ
すべてを感じ取った上で
「真本音」に
戻るのです。
真本音とは
自らの原点。
どのような状態、
どのような状況に
なっても
変わることのない
原点です。
こんな状況だから
こうした、
ではなく、
どんな状況でも
原点に
帰るのです。
そして、
原点から
すべての判断をします。
自分の
行動を決定します。
すると、
真本音と反応本音が
結びつきます。
真本音と反応本音は
敵対するものでは
ありません。
共に
コラボ(協業)するために
存在しています。
真本音という原点を
常に大切にすることで
そのコラボは
実現します。
満たされないものを
満たしたい、
という心をそのまま
受け取り、
原点に戻るのです。
すると、
それらの反応本音も
すべて大切にしながら、
私達は
自身の真本音の次の一歩を
見出すことができます。
真本音と
結びついた反応本音は
強いです。
それは
道を拓きます。
真本音と反応本音の
コラボレーション。
これを
創り出すのが
セルフコーチングの
本質です。
つづく
人の声に
耳を傾ける。
本当にこれが
できる人は
素敵です。
ところが、
傾けているつもりで
まったく人の話を
聴いていない、
という場合があります。
というか、
ほとんどがそれです。
なぜなら
私達には自分自身の
「解釈」
というフィルターが
あるからです。
人が何をどう
伝えようとも、
どうしても自分の
フィルターを通してしまう。
これが
私達人間です。
能力が高まり、
経験と実績が高まり、
人望が高まり、
・・・そういった状態に
なればなるほど、
いつの間にか、
自分の解釈の権化に
なってしまいます。
私自身も本当に
ここだけは
気をつけています。
気をつけていても
知らないうちに
裸の王様になっていた
ということが
何度もあります。
そういった時、
周りの人達は
決して自分には
反対意見を言いません。
ほぼみんなが
イエスマンになります。
私は私自身に
反対意見を言ってくれる人が
いなくなった時に
とても注意をします。
そして、
常日頃から
私と接してくれている
人達が、
どのような空気感と
眼差しで
私を見てくるか?を
注意します。
本当に私といて
みんなは
幸せなのだろうか?
という視点で
できるだけあるがままを
感じ取ろうとします。
・・・・・・
セルフコーチングの
素晴らしいところは、
自分自身の心の声に
耳を傾ける
というところです。
自分の心の声を
あるがままに聴く
というのは、
実は結構難しいのです。
なぜなら
他の人との関係と
同じく、
私達は自分自身の心の声
に対しても
解釈のフィルターを
つけてしまうからです。
自分の心なのに、
自分でフィルターを
通すのですよ。
ですから、
多くの人達が
自己理解ができて
いません。
自分自身のことを
誤解していますし、
現実とは違う
自己イメージを
持っています。
自分のことなのに
自分が一番わかっていない、
というのも
私達人間の特徴の
一つです。
ですから、
セルフコーチング力が
高まることで、
自己理解が進みます。
と同時に、
そこで培った
「あるがままを受け取る力」
は、
対人関係においても
活きてきます。
つまり、
セルフコーチング力の
高い人は、
人とのコミュニケーション力も
高くなるのです。
・・・・・・
少し言葉を変えれば、
自分と向き合うことの
できる人は、
人とも向き合うことが
できる
ということになります。
「向き合う」とは
あるがままを受け取れている
状態です。
そして人生は、
あるがままを受け取れて
こそ、
本当の面白味も
醍醐味も
味わえます。
自分の解釈のフィルターを
バリバリに
張り巡られている
ということは、
要するに
自分の世界の中に
閉じこもっている
ということです。
自分という狭い世界に
閉じこもったままで
人生を進むのと、
すべてをオープンにし、
広い世界をそのまま
感じ取りながら
人生を進むのとでは、
当然、
人生展開も幸せ度合いも
満足度合いも
根本的に変わります。
オープンな生き方を
しましょう。
それが自分を
生かすということです。
そのためにも
まずは自分と向き合う
ことが大切ですね。
つづく
人は着実に
成長します。
本当の成長とは
次元を高める
ことです。
次元の高まらない
成長を
「膨張」
と言います。
そして
次元の高まる成長を
「進化」
と言います。
膨張と進化の区別こそが
人や組織のサポートの
真髄であると
私は思っています。
膨張には
必ず終わりがきます。
破裂
の瞬間が来ます。
しかし
進化には終わりが
ありません。
よく、
「次元」というのは
何次元まであるのですか?
というご質問を
いただきます。
次元は
無限にあります。
本当に無限です。
3次元の世界における
「規模」を表す手段として
「数字」というものが
ありますが、
最高次元を
「数字」で表すことは
できないのです。
それくらいに
無限です。
・・・・・・
数字で表せられない
くらいの最高次元から
今の私達を観れば、
それは
赤子のような未熟さ
でしょう。
いえ、
赤子までもいかない
でしょう。
しかしそれでも
私達人間の本当の価値は
次元の高低に
あるのではありません。
私達の価値は
「成長」(進化)
にこそあります。
昨日よりも今日、
今日よりも明日、
・・・と、
わずかずつでも
進化を続けていること。
そこにこそ
価値があります。
私は
コーチを目指している人に
必ずいつも
お伝えしています。
「コーチは
クライアントさん以上の
成長(進化)をしなさい」
と。
なぜなら
進化し続ける人にしか
進化のサポートは
できないからです。
自分の経験に
満足したり、
自分の能力に
満足したり、
自分の功績に
満足し、
「俺のようになりなさい」
となった瞬間に
その人のサポートは
まったく
意味を成さなくなります。
進化を放棄しているにも
関わらず、
他者に影響を与えようと
する行為を私は
「傲慢」
と呼んでいます。
私は
傲慢な人を見ると
とても腹が立ちます。
きっと
以前の私が
傲慢の塊だったから
でしょうね。
・・・・・・
人は
着実に
成長(進化)
します。
その進化は
無限に続きます。
よく
人の可能性は無限大
と言われますが、
本当にそうです。
私は
人と向き合う時、
いつもその人の目の奥に
無限の深さを
感じ取ります。
誰とお会いしても、
この人は
無限の可能性を
持っているんだな、と
実感します。
人間とは
無限の可能性
なんです、
やっぱり。
ですから、
私達はもっともっと
胸を張って
進化していきましょう。
今の自分のレベルがどうか?
ではありません。
昨日よりも
ほんのわずかでも
前に進んでいれば、
そこに価値があるのです。
進み続けることで
私達は
安心し、安定し、
幸せ感や満足感を
高めます。
人間とは
そういうものです。
それが
人間の本質です。
進化の楽しさを
知る者が
コーチになるといいなぁと
思います。
つづく
私達の多くは、
時間に追われています。
ほとんどのお仕事には
期限があります。
人生にも
期限があります。
いつまでに
〜〜をしなければならない。
そういった
時間的拘束に晒されながら
私達は生きています。
時間の制限がなければ
どんなに自由だろうか。
そう思われる人は
多いでしょう。
もちろん私も
そう思います。
が、
時間制限がない、
というのは実は、
とても不自然なことなのです。
・・・・・・
この3次元の世界は、
時間が一定の方向に
一定のスピードで
流れ続けています。
これは
3次元世界にしかない
特色です。
これはなかなかに
凄い制限です。
でもこういった
凄い制限をあえて
私達は自分に与えて
います。
そういった世界に
生きる私達。
ということは、
私達の真本音は
「時間制限」というものを
とても大切にしているのです。
私達は
真本音レベルで
いつまでに何をするか?を
明確に決めています。
そして、
それに間に合うか?
間に合わないか?
によって、
その後の人生の展開を
大きく変えます。
私は時々、
「怠慢」
という言葉を使いますが、
怠慢とは、
真本音で決めている
時間制限を
無視する行為である
と私は定義しています。
いつまでに、
必ずこれをする。
そのためには
今日は必ず
これをする。
そう決めていることを
しない。
自分で決めているのに
それを無視する。
それを
「怠慢」と呼んでいます。
・・・・・・
「怠慢」は
人生のスピードを
遅らせるどころか、
何度も何度も
リセットし続けることも
あります。
リセットとは、
もう一度
スタート地点に戻る
ということです。
もう一度、
スタート地点に戻る
ということは、
これまで培った経験や
経験の中で得た知恵の
数々を、
リセットしてしまうという
ことです。
その場合、
自分の経験は
記憶としては残りますが、
その経験によって得た
知恵は発動しなくなります。
もう一度、
やり直し。
こういった判断を
私達の真本音は
ある意味、
冷徹に自分自身に対して
下します。
でも本当は
冷徹ではないのですけどね。
それこそが
自分自身への最大の
愛なのですが、
しかし「怠慢」な人は
なかなかそこに気づけません。
・・・・・・
自分が怠慢に
陥っていないかどうか?
を確認する
簡単な方法があります。
以下の問いを
自分自身に投げるのです。
一日の終わりに
自分に投げてみてください。
①私は今日、自分を大事に
できただろうか?
②今日一日を終えていい、と
本当に今、思えているだろうか?
③今日、やるべきことをちゃんとやり、
後回しにすべきことはちゃんと
後回しにできただろうか?
④次の期限は
いつだろうか?(直観で)
⑤その期限に間に合うように
私は行動できているだろうか?
(直観で)
以上の5問です。
自分自身に問いかけ、
頭で考えるのではなく、
自然に浮かぶ答えをキャッチ
します。
どのような答えが
返ってくるか?も大事ですが、
この問いを自分に投げた時に、
投げること自体に
倦怠感が出たり、
「投げたくないなぁ」という
気持ちが出る場合は、
かなりやばいです。
怠慢な毎日を送っている
証拠です。
怠慢な毎日は、
必ずその代償が自分自身に
返ってきます。
もちろんそれは
神様が行なっていることでは
ありません。
自分自身で行なって
いることです。
怠慢ではない日々。
きちんとやるべきことを
やり続ける日々。
その方がよほど
楽です。
心は安定し、
安心できます。
人生の悦びも幸せも
日々、感じ続けることが
できます。
自分は怠慢かも・・・。
と思われた人は、
ぜひ真剣にそこから
抜け出る決意を
してください。
つづく
人が変化を始める時、
その変化が大きければ
大きいほど、
その兆しは
微小です。
変化の最初の芽。
それは
あまりにも小さく、
ほとんどの人が
その芽の存在に
気づきません。
もちろん
一番気づかないのは
本人です。
そして
せっかくの芽を
知らずに
踏みつけてしまう
ケースも多いです。
地中から、
チョンと
ほんのわずかだけ
頭を出したその芽に
どれだけ気づけるか?
これが
コーチとして
最も重要な力の
一つです。
・・・・・・
人はどうしても
悪いところ、
不足しているところ、
間違っているところ
などに
目が行きがちです。
ですからよく
「肯定的にその人を
見ましょう」
と言われます。
「その人の良いところを
見つけましょう」
とも言われます。
もちろんそういった
視点は大事ですが、
あくまでもそれは
視点の一つとして
大事なのです。
実はですね。
私は、
人を無理に肯定的に
見ることを
あまりお勧めしていません。
なぜなら、
肯定も否定も
「解釈」だからです。
見る側の
解釈。
それは
良いか悪いかの違い
だけで、
次元は同じです。
ですから、
いくら頑張って
人を肯定的に見ても、
心の中では
否定的な印象も同居し、
ただその否定的な
自分の意見にフタをするだけ
という状態となります。
これまでも
申し上げてきた通り、
心にフタをすると
ろくなことにはなりません。
「本当はAさんのここの
部分がいやだ」
という心にフタをしながら、
「Aさんって、こういうところが
素晴らしいよね」
とAさんに伝えても、
むしろ、
フタをしている否定的な印象が
空気感となって現れ、
Aさんに伝わります。
すると
Aさんはこう思います。
「この人、口ばっかだな」
とか
「なんかこの人
嫌味ったらしいな」
と。
これでは
意味がありませんね。
・・・・・・
私がお勧めするのは
「あるがままに
その人を観る」
ということです。
こう書くと、
とても難しいように
思われるかもしれません。
でも実は
これが最も楽ですし、
慣れれば最も
簡単です。
実は、
肯定的に人を見よう
とする人ほど、
その人の本質的な魅力に
気づくことができません。
なぜならあくまでも
自分の解釈でしか
その人を見ていないから。
肝心な部分が
観えなくなるのです。
解釈を超えた
・・・というよりも
解釈を手放した見方
(つまり、「観方」)
が大切で、
それができると
その人の素敵な箇所に
どんどん気づけますし、
先ほど書きました
「変化の芽」
も観逃さなくなります。
そして私は、
コーチだけでなく、
すべての人が
「人をあるがままに観る」
ことができるようになると
いいなぁ、と
心底、願っています。
はっきり言って
それだけで
世の中は平和になるかも
しれません。
人と人との
ぶつかり合いとは、
解釈のぶつかり合いでしか
ないですからね。
今はそこを
超えていくことを
私達は求められているのでは
ないでしょうか。
つづく
いつも私が申し上げること
ですが、
私達が存在している
この3次元の世界は、
すべてが分離している
世界です。
分離すればするほど、
次元は下がるわけですが、
分離がいけない
ということではありません。
分離をしているからこそ
得られるものは
多いです。
学べることも
多いです。
例えば、
私とAさんは
別人です。
お互いに分離した存在です。
しかし
Aさんと向かい合っていますと、
ある瞬間に
「あっ、一つになれたな」
とわかるタイミングが
きます。
そうなると
その時点から
Aさんとのコミュニケーションは
極めて楽になります。
Aさんの意図や、
言わんとしていることや、
意図を超えた願いとか、
そういった
「あらゆるものが」
まるで手に取るかのように
わかるようになります。
ただし、
「わかる」といっても
それは言語化されたもの
ではなく、
あくまでも「感覚」
です。
感覚的に
「すべてをわかり合えた」
と思えるのです。
その状態は
しばらく続きます。
するとその時間は
実に創造性に富んだ
ものとなります。
直観や確信は
もちろん次々に
湧いてきますし、
今後の自分達の歩みにおける
大切なヒントを
見出せたりもします。
以前は私は
この状態を意図的に
創り出すことが
できませんでした。
でも今は
ほぼ毎回、この状態に
入れます。
とはいえ、
相手もいることですから
あくまでもAさんの心や
体の状態によって
対応を変えます。
Aさんの心が
反応本音やエンティティに
まみれてしまっているときは
「一つ」になるには
かなりのエネルギーを要しますので、
そういった場合は
あまり無理はしません。
大切なのはやはり、
まずは自分自身の
真本音度合いが高まること、
そして、
Aさんの真本音度合いが
高まること。
そうなればなるほど
簡単に
「一つ」になれます。
・・・・・・
相手と一つになれる
コミュニケーション。
これを私は
「真本音コミュニケーション」
と呼んでいますが、
この力をつけるための
最短の道が
セルフコーチング力を高める
ということなんです。
セルフコーチングというのは、
自分自身の様々な
心と向き合います。
それをまるで
他人のように
観察したり感じたり
対話をしたりします。
その客観性に慣れて
きましたら、
今度は、
客観的になれた自分に対して
「一つ」になることを
するのです。
えっ?どういうこと?
と思われるかもしれませんね。
自分の心と分離し、
客観性を高めた上で
また一つになる。
・・・じゃあ最初から
自分の心は自分なんだから、
一つなんだから、
わざわざそんなこと
しなくてもいいんじゃないの?
そう思われるかも
しれないですね。
でも、
違うんです。
最初から一つである自分自身の
心のままにいることと、
あえて分離して
また、意図的に一つになるのとでは
本質的にまったく
異なる状態になるのです。
なぜなら実は、
私達は本当は
最初は自分の心と
「一つ」になれているわけでは
ないからです。
「一つ」になっていると
思い込んでいますが、
実はそれは
「ズレて」います。
そう。
「ズレている」という表現が
最も正確です。
自分の心なのに
自分は心と
「ズレた」関係になっている
のです。
そのまま私達は
毎日を生きているのです。
ですので、
いったん分離し、
その上でしっかりと
「一つ」になる必要があります。
すると、
私達は私達自身の心を
「ありあり」と
感じ取り、理解することが
できるようになります。
あぁ私は、
こんなことを思っていたんだ、
こんなことを願っていたんだ、
こんなことで苦しんでいたんだ、
こんなことを喜んでいたんだ、
・・・というように
自分自身のことを、
初めて理解できるのです。
それを、
あるクライアントさんは
「自分とやっと出会えました」
と表現されました。
そうです。
私達の多くは、
まだ
「自分と出会っていない」
のです。
自分なのに
自分と出会わないままで
人生を進めているのです。
それって、
変ですよね。
健康な状態とは到底
言えません。
・・・・・・
以上のように、
セルフコーチングは
自分自身と
・分離したり
・一つになったり
を自由自在に織り交ぜながら
自己理解を進めます。
そしてその中で、
自分の
・真本音の意思と
・反応本音の意思を
区別します。
そして
・真本音の意思で動く
度合いを高めていきます。
それをすることで、
私達はより
「本来の自分らしく」
なれますし、
「自分の本当に望む人生」
を生きることが
できるようになるのです。
つづく
心の中に、
未来に向かう不安や
恐怖や、
絶望感がどうしても
出てしまう時、
まずは次の二つの区別を
してみてください。
一つ目の区別。
それは、
「この心は、
私の心だろうか?
それとも
誰か他の人からもらった
心だろうか?」
の区別です。
だいぶ以前にこのブログで
「エンティティ」について
書かせていただきました。
エンティティとは、
ストレスの濃度がある一定の
水準を越え、
ストレスが物質化(に近い状態)
したもの。
日本語では
「生き霊」
と訳される怖そうなものですが、
しかしエンティティは
誰もが多かれ少なかれ
常に持っています。
エンティティがゼロの人は
私はこれまで
一人もお会いしたことは
ありません。
ですので、
それほど怖いものでは
ありませんが、
このエンティティ、
まるで風邪のウィルスのように
人から人へ
伝染します。
未来に対する不安や
恐怖や絶望感が
なぜ起こるのかがよく
わからない時は、
恐らく、複数人の人から
そういったエンティティを
受け取ってしまっています。
みんなの不安を
少しずつ合わせて
受け取ってしまい、
大きな恐怖や絶望感として
感じてしまっているのです。
自分の心ではないのに、
不安や恐怖があるのは
なんか、イヤですよね。
この場合は、
不安や恐怖が
体のどの辺りに憑いて
しまっているかを
特定してください。
時には、
体全体を
エンティティが覆って
しまっているかも
しれません。
場所を特定したら、
そこに意識を向けて
ください。
するとそこに
何かが観えたり、
存在を感じたりすると
思います。
そしてそこに、
あなたの
「愛のパワー」を
送ってください。
エンティティを
「よしよし」と
子供をあやすようにし、
「私の愛だよ」
とエンティティに向かって
エネルギーを照射するような
イメージをすればよいです。
するとそのエンティティは
浄化されます。
逆に言えば、
このやり方で浄化されるならば、
それはエンティティだった
ということになります。
・・・・・・
さて、
二つめの区別です。
もしその不安や恐怖が
エンティティではなく、
自分自身が発生させて
いるものならば、
(つまり、上記の方法で
浄化できないならば)
その不安や恐怖は、
①単なる反応本音か?
それとも、
②真本音と結びついた
反応本音か?
の区別をしましょう。
これのやり方は
簡単です。
まずは自分の真本音の場所
を特定します。
つまり、
お腹の奥の体の中心と
頭のてっぺんの中心を
結び、中心軸をイメージ
します。
そしてその中心軸の上の
どこかに
「ここが私の中心核だな」
と思える場所を
特定します。
それが、
真本音の場所です。
この特定がすぐにでき、
しかも真本音の存在を
強く感じるのであれば、
②である可能性が高い
です。
つまりは、
その不安や恐怖は
自分が真本音でわざと
自分にもたらしているもの
ということです。
その場合は、
この不安や恐怖そのものに
とても大切な意味が
ありますので、
そのままにします。
ちょっと辛いですが、
不安と恐怖を感じるままで
過ごしていきます。
すると必ずどこかで
大事な気づきやひらめきや
成長へのヒントを
得られるでしょう。
さて、そして、
真本音の存在を感じられない
場合は、
それは①です。
つまり、
単なる反応本音です。
あなた自身が
反応本音として
発生させている不安や恐怖
です。
この場合は普通に、
「自分は何に恐怖しているか?」
を自分に問いかけて
ください。
普通に頭で考えれば
よいですが、
もしどうしても答えが
わからない場合は、
エンティティの時と同じように
その反応本音の場所を
特定して、
その場所に
「何が不安なの?」
と問いかけてください。
そして答えが返ってくるまで
待ちます。
ただし、
①の場合はほとんど、
不安の原因は
あなた自身がよくわかって
いるはずです。
しっかりと考えれば。
原因がわかったら、
無理に反応本音を
無くそうとせず、
普通に、
「どうすればその不安を
取ることができるだろうか?」
を考えてください。
その発想ができない場合は、
自分の真本音に
問いかけてみてください。
不安や恐怖が
単なる反応本音の場合は、
自分の行動で持って
(つまりは現実への働きかけにより)
不安を取るのが一番です。
そこを逃げずに
立ち向かっていけば、
自然にあなたの
真本音が発動します。
反応本音から
逃げれば、
その反応本音は
エンティティ化し、
さらに不安や恐怖は
大きくなります。
反応本音と向き合い
理解できれば、
あとは行動です。
・・・・・・
以上をまとめますと、
不安や恐怖や絶望感は、
・エンティティ
・自分の反応本音
・自分の真本音がもたらしているもの
の3つに分かれます。
それらをきちんと区別することが
次の一歩の
大きな指針となります。
以上は
セルフコーチングの基本
です。
ご参考までに。
つづく
私達の心の中には
よ〜く丁寧に意識を向けると、
実に様々な
心の声が存在しています。
たった一つの
事象でも、
それを見た瞬間から
様々な心の声が
発生します。
人にもよりますが、
最低10個の
心の声は
発生するはずです。
10個、
つまりは10種類。
それぞれの心の声は
それぞれ別人格の
自分から
発せられます。
私達の心の中には
いくつもの
人格が存在して
いるのです。
多重人格というのは、
ある特定の人を
指したり、
精神的な疾患を
表したりするものでは
ありません。
私達は誰もが
多重人格者。
たくさんの自分が
心の中に
住んでいます。
心とは
チームのようなもの。
「私の心」
というチームです。
そして、
チーム員のすべてが
一つの事象に対して
それぞれの心の声を
発します。
ですから心の中では常に
10人以上の発する
心の声が、
渦巻き
反響しています。
それが私達の
普通の状態です。
・・・・・・
ところが、
その10人以上の自分の
心の声を
きちんとすべて
把握している人は
ほとんどいないでしょう。
多くの人が、
10人の内の一人か、
二人か、
多くて3人か、
それくらいの心の声
しか聴いていません。
10人中、
3人くらいまでしか
自分の声を
聴いていないのです。
もうその時点で
私達の自己理解は
不足しています。
そして、
自分という人間への
誤解が始まります。
10人中3人は
理解してもらえる。
しかし、
残りの7人は
理解してもらえない。
理解してもらえない
人達の心は
どうなるでしょうか?
もちろん、
それは一般的な
人間関係と同じです。
それは
「不信」
となります。
つまり信頼関係が
崩れます。
要するに
「自己不信」
というやつですね。
どうでしょうか、
私の現場感覚で言えば、
9割以上の人が
「自己不信感」
を持っています。
もちろん人によって
程度の差はありますが。
自分で自分を
本当に信頼している人
には
滅多なことでは
お目にかかれません。
ちょっと怖い言い方を
すれば、
今のこの世の中は
自己不信者の集まり
です。
自己不信の人が
他者を信頼することは
当然ながらできませんね。
人との信頼関係を
構築しようとするならば、
まずは、
自分自身との
信頼関係が必須です。
そこを誤魔化しながら
人と向き合っても、
それはやはり、
誤魔化しの関係しか
生みません。
かなり極端な言い方を
していますが、
決して大袈裟では
ありません。
私がどの企業様の
サポートに入るにしても、
必ず、
自分自身と向き合うこと、
つまりは
各々のセルフコーチング力を
高めるところから
スタートするのは
このためです。
・・・・・・
セルフコーチングの
最初のステップは、
この、
自分の中にいる
10人以上の自分を
知ることです。
ところが、
これが怖い。
これまで見たことのない
自分を見るのを
人は極度に恐れます。
ですから私は
皆さんに
「真本音」の存在を
お伝えします。
自らの「真本音」の
感覚を得ていただきます。
すると、
「真本音」は
非常に安定していますから
私達はその安定感によって
安心します。
そしてようやく、
10人の自分と向き合える
ようになります。
10人の自分。
つまり、それらはすべて
「反応本音」
です。
自分の中にある
たくさんの人格、
「反応本音」。
そして、その中心に
位置する
「真本音」。
この二つの存在と
二つの区別を
つけることで、
私達の自己理解は
一気に進み、
自己不信は
一気に取り払われます。
これが
自分を大切にする
ということの
第一歩であると
私は強く思います。
つづく
私達の人生には
「今」
しかできないことが
あります。
そして、
「今」
してはならないことも
あります。
今は、
何をするための
この瞬間なのだろうか?
この、極めて重要な問いを
自分に投げながら
生きることが大切ですが、
それをし続けるのも
疲れますね。
そんなことを考えるよりも
もっと
「自由」
に今を生きたい、
と考える人が
ほとんどではないでしょうか?
今の意味を
大切にしたい。
でも、
今を自由に生きたい。
この二つの想いは
相反するもの
でしょうか?
いえ、
違いますよね。
今の意味を
大切にすることと、
今を自由に
生きることとは、
本質は
同じです。
「一つ」
のことです。
なぜなら
この二つを同時に
大切にすることこそが、
「真本音で生きる」
ということですから。
・・・・・・
「真本音で生きる」
とは、
・今ここでしかできないこと
をして、
・今ここではしてはならないこと
をしない
ことです。
しかしそれを
頭で考えながら判断するのでは
ありません。
今を生きるとは
瞬間瞬間を生きることです。
0.1秒、0,01秒、0.001秒・・・
の瞬間瞬間です。
そのスピード感に
臨機応変に対応できるようには
私達の頭(顕在意識)は
できていません。
むしろ
頭で判断しようとすると
「今」を逸します。
頭と心は
「自由」にすることが
重要です。
頭と心が
「自由」になるからこそ、
私達の真本音は
発動します。
すると、
「今、これをしよう」
「今、これはやめよう」
という直観が
自然に湧き続ける状態と
なります。
その「直観」こそが
真本音の意思であり、
私達自身が
本当に望んでいる
今この瞬間の選択です。
セルフコーチングとは、
その状態を創り出す
ためのものです。
・・・・・・
セルフコーチングと
言いますと、
これまでも書かせて
いただきました通り、
自己対話
であったり、
自分に
「問うて、待つ」
であったり、
いったん止まって、
ゆっくりと自分と向き合い、
自分との
会話をする
というイメージが強いと
思います。
もちろんそれも
重要ですが、
それはあくまでも
セルフコーチングの一部であり、
一つのステップに
過ぎません。
本当の自己対話とは
今を生きている
この瞬間、この瞬間
にこそ必要なものです。
いったん止まらなければ
自己対話できない
ということでは、
セルフコーチングの意味は
ありません。
頭で意図的に
自己対話しなくとも、
常に
真本音の自分自身と
対話し続けている状態を
創る。
それが
セルフコーチング力を高める
最初の目標です。
そのためにはやはり、
訓練や練習が
必要です。
しかしその訓練や練習は
とても楽しいものです。
その楽しさと、
セルフコーチング力が
高まっていく悦びを、
私は多くの皆様に
ご体験いただきたいなと
思っています。
・・・・・・
セルフコーチング体験とは
自分探検そのもの。
そして自分探検とは、
心の中の探検をする
だけではなく、
現実世界における
自分探検こそが
重要です。
自分の心と向き合ったら、
こんな発想があった。
その発想を
行動に移したら、
こんな風に現実が変わった。
すると私自身が
こんな風に変化した。
すると皆が
変化し始めた。
また、現実が変わった。
また、私の発想が
変わった。
行動が変わった。
皆が変わった。
現実が変わった。
いったい、私は
どこまで
行ってしまうのだろう?
・・・と、
まるで冒険の旅に
出るかのような
現実体験こそが、
セルフコーチング体験です。
そのためのサポートが
私の役目。
今後、私もますます
加速します。
つづく
母親の胎内から
自分がこの世に生まれる
その瞬間のことを
記憶している人は
そうそういないと思います。
もちろん私も
覚えていませんが、
でも、
生まれるその瞬間の
自分の
「決意」
のようなものは
明確に記憶しています。
と言ってもそれは
もともと覚えていたものではなく、
ある時、
セルフコーチングをしていた
最中に、ふと
思い出したのです。
それは、
強烈な決意
でした。
「覚悟」
と言ってもよいでしょうね。
あぁ私は
これだけの決意と
覚悟をもって
人生を始めたんだな、と
感動しました。
しかし当然ながら
これは私だけのことではなく、
恐らくすべての人が
同様の
決意と覚悟をもって
この世に誕生したのでしょう。
しかし
それを覚えている人は
ほとんどいない。
のみならず、
自分は生まれなければ
よかった、
と思ってしまっている人が
多いのも事実です。
・・・・・・
自分は
生まれなければ
よかった。
自分は、
自分であることが
いやだ。
自分を
なくしたい。
自分が
嫌いだ。
このような言い方で書くと
「そんなことを思っている
人は可哀想だなぁ」
という印象を持たれると
思うのですが、
実は、
ほぼすべての人の
心の中には
この気持ち達が
多かれ少なかれ
存在しています。
「いやいや、私の中には
ありませんよ」
と言う人ほど
大きかったりします。
ちょっと怖い言い方
ですが、
私はこの気持ちのことを
「殺(さつ)」
と呼んでいます。
「自分で自分を殺そう」
とする意識だからです。
もちろんこれは
反応本音の一種です。
しかし、
私達の心の奥底にある
最も大きな
反応本音であり、
反応本音の「ラスボス」
と言ってもよいものです。
私がコーチングなどの
サポートをさせていただく場合、
まずはこの「殺」を
いかにその人自身が
浄化できるか?が
最初のテーマとなります。
最初のテーマと言っても
それをクライアントさんに
お伝えするわけでは
ありません。
私の中にのみ留めておく
隠れテーマ
です。
で、コーチングなどを
続けていますと、
ある時ある瞬間に
明確に
「あっ、今この人は
自分の殺を浄化できたな」
とわかります。
ここからが
ある意味、
その人の本当の
真本音人生のスタート
だと言えます。
この状態になるまでは、
どうしても
その人の「殺」が
その人の歩みを
妨害します。
でもこの話は
クライアントさんには
まずしません。
だって、
怖いでしょ?
怖いし、
「自分を殺そうとする気持ちがある」
なんて言ったら、
そこを意識しすぎてしまい、
余計にそこに執着してしまう
可能性の方が
高いからです。
しかしなぜ
こういったことを今ここで
公表しているかと
言いますと、
もはやこういったことを
隠している場合ではない、
という想いの方が
強まったからです。
こういった少し怖いことも
すべて引き受けて、
セルフコーチングしながら
自分の真本音の道を
自ら進む術を
お伝えすることこそが、
これからの時代には
必要であると
思うようになったからです。
「殺」だろうが何だろうが、
反応本音は
反応本音です。
反応本音とは
真本音に比べれば
圧倒的に弱いものです。
かと言って、
真本音vs反応本音
ということでもありません。
真本音は
すべての反応本音を
愛します。
それはつまり、
自分が自分を
愛する、
ということです。
当然それは
自己満足でも
ナルシストでも
ありません。
自分の心を根底から
満たす
真実の愛です。
やはり、
すべての人の
真本音度合いが高まるといいな、
と思います。
つづく
私にだって
「迷い」はしょっちゅう
あります。
というよりも、
24時間、
迷い続けていると
言ってもよいでしょう。
しかし、
迷っているその心は
「反応本音」
です。
私は、それをよく
知っています。
ですから、
迷っている心は
そのままに
放っておきます。
Aか?Bか?
と迷った時に
どうしてもそのどちらかの
答えがほしくなりますが、
そこで、
答えは出しません。
迷いの心は
迷いの心
だからです。
迷いの心は
迷うために
そこに存在しているから
です。
迷いの心は
迷うという
その行為だけで
その存在意義を
果たしているからです。
迷いの心に、
「決めさせて」は
いけません。
迷っているだけで
完了。
それ以上の
役割は
ありません。
「迷ってくれて
ありがとう」
それだけです。
・・・・・・
その一方で、
「決める心」
もあります。
いえ、
正確に言えば、
「すでに決めている心」
です。
いえ、
もっと正確に言えば、
「すでに最初から
決めている魂」
と言った方が良いかな。
心は
迷えばいい。
そして、
魂で
決める。
のです。
魂の意志を
「真本音」
と言います。
基本的に、
魂に「迷い」は
ありません。
本当のことを言えば、
魂にも「迷い」は
あるのですが、
ちょっとこれはまた
次元の違う話ですので、
話がややこしくなるので
ここではあえて
短絡的に表現します。
魂に「迷い」は
ありません。
魂には
「願い」や「祈り」が
あります。
願いの一点。
祈りの一点。
原点。
それが魂です。
真本音の願いとは
魂の願いであり、
それは人生の願い
です。
それは
一生、揺らぐことは
ありません。
そしてその一点から
現実世界における
あらゆる場面においての
「答え」を
持っています。
その「答え」と
出会うことで
私達は
「確信」
を得ます。
確信とは
100%の意志であり
選択です。
どれだけ
反応本音が迷っていても、
その一方で
真本音の確信は
在り続けます。
反応本音で
迷ったら、
反応本音で無理に
答えを出すのではなく、
すでに存在している
真本音の答え、
確信の答えを
自分の中から
導き出せば
よいのです。
それをするのが、
セルフコーチング
ということですね。
つづく
私達が人生において、
意図的にできないことは
数多くありますが、
その代表的なものの一つは、
「出会い」
ですね。
これだけはどうしても
意図や思惑では
実現できません。
そして、
意図的にできない
もう一つ代表的なものが、
「他者からの一言」
です。
しかし、
私達の人生において
非常に重要な転機の
きっかけとなるのが、
この
「出会い」
と
「他者からの一言」
ではないでしょうか。
あの人のあの一言が
なければ、
今の自分はない。
あの一言がなければ、
自分の人生は
まったく違った展開を
していただろう。
・・・そういったことが
誰にでもあるのでは
ないでしょうか。
もし仮に、
意図的にそれらを
得ることができたとしたら、
逆に
人生を変えるほどの
インパクトは
ないはずです。
私達の人生は、
意図を超えたところで
展開していきます。
その事実を
謙虚に受け止める
必要があるのでは
ないでしょうか。
・・・・・・
とは言え、
その「出会い」も
その「他者からの一言」も
偶然の産物では
ありません。
すべてが必然
です。
すべてが必然ですが、
その必然を
意図的に起こすことが
不可能だと言うことですね。
では私達はいったい
何を
意図すれば
よいのでしょうか?
実は、
その問いに対する
とてもシンプルな
答えを
私は持っています。
「私は」というよりも、
それが自然の摂理だと
思うのですけどね。
その答えは
簡単です。
「真本音に素直に
生きること」
これ以上でも
これ以下でも
ありません。
自らの真本音に
一歩一歩
素直に生きている人には
必然的なことが
本当に必然的に
起こります。
必要な「出会い」が
必要なタイミングで
起こります。
不必要なことは
起こりません。
そして、
必要な「他者からの一言」が
必要な瞬間に
プレゼントされます。
それはまさしく
プレゼントです。
そのプレゼントが
あった直後に、
そのプレゼントが
もしなければ
到底くぐり抜けられないような
出来事に放り込まれた、
あぁあの一言があって
本当によかった!
ということが、
皆さんにもあるはずです。
それが
日常茶飯事のように
普通に日々
起こるようになるのが、
真本音で生きている人の
ありがたい現実です。
ですから、
感謝ばかりが
湧き起こります。
感謝とは
無理に意図的に
するものでは
ありませんね。
本来は。
自然に
泣けてくるくらいの
勢いで
心の底から
湧き上がるのが
感謝の想いです。
誰かに対する
本気の感謝の想いは
自分自身を
本当に幸せに
してくれます。
感謝しなければ!
ではないですね、
本当は。
感謝は
自然に湧くものです。
・・・・・・
真本音で
生きましょう。
迷ったら、
自らの真本音に素直に
行けばよいのです。
それ以外の
「最善」は
ありません。
そしてそれができる
ためには、
自らの真本音と
きちんと向き合い、
語り合えることが
必須です。
それが
セルフコーチング
です。
本当は、
「セルフコーチング」
などという
なんか特別な感じのする
手法など
必要ないんですけどね。
人が人として
普通に健全に
生きることができれば
自らの真本音の意思は
必ずキャッチできる
ものですけどね。
でも、
残念ながら
それがなかなかできない
今の社会です。
多くの人達が、
自分自身の真本音の
意思を知らないままに
もがいています。
普通に生きましょう、
と言っても、
普通じゃない生き方を
してしまいます。
ですからあえて
「セルフコーチング」
などと、言わなければ
なりません。
コーチも
セルフコーチングも
必要ない世の中になれば
いいなぁと
思います。
でもそうなるためにも
コーチや
セルフコーチングが
必要ですね。
・・・・・・
来月か、再来月に
新しい
セルフコーチング系の
公開講座を
始めようと思っています。
ただ、
講座というと、
どうしても受講料も
かかりますし、
時間をとって
わざわざ出かけなければ
なりません。
もちろんそれが
ベストだとは思いますが、
「講座に来なければ
何もわからない」
という状態はどうかな?
と最近、
思い始めました。
そこで、
まずは動画を配信しようと
思っています。
それをご覧いただいても
特にお金はかかりません。
動画をご覧いただき、
自分なりに
セルフコーチングを
していただき、
それでも
「もっとしっかりと学びたい」
と思った人のみが
講座に来れるような、
そんな仕組みにしようと
思っています。
そういったやり方を
しないと、
なかなか「真本音」は
広まらないな、
と思っています。
多くの人が
どんどん
「真本音」の存在を知り、
どんどん
自分自身と向き合い、
自らの
本当に望む人生に
舵をとってほしいな
と、
心より願っています。
つづく
どんなに混沌とした
現実の中でも、
次の一歩
次の一歩
を一つずつ、
真本音で踏み出し続ければ、
必ず道は
開かれて行きます。
そしていつの間にか、
あれだけ混沌と混乱を
感じていた物事が
実は極めてシンプルな
原因の反映だったことが
わかるようになります。
シンプルな原因とは
これまた逆に
シンプルが故に
解決の難易度が
高く感じられますが、
しかし毅然とその原因に
向き合い続けることが
また大切です。
毅然と向き合い、
そして
次の一歩を
真本音で決める。
その連続で
道は開かれて
行きます。
そして気がつけば、
あれ?
何が問題だったっけ?
と、
知らぬ間にその問題を
くぐり抜け、
いつの間にか次の課題に
取り組んでいた
ということも少なくありません。
複雑な問題を
より複雑にさせてしまうのは、
目の前に現実に
揺らされてしまった
反応としての
次の一歩です。
要するに、
反応本音による
一歩です。
それは次の新たな
反応を呼び起こします。
反応に反応し、
また次の反応を起こし、
また反応する。
反応のループ。
それにどっぷりと
浸かってしまうと、
いつまで経っても
出てこれません。
下手をすると、
そのループの中に
いるままで、
人生を終えてしまうことも
あります。
反応のループから
抜け出ること。
抜け出るには
抜け道をしっかり
見つける必要はなく、
反応に踊らされない
毅然とした一歩を
踏み出すこと。
次の一歩が
わかればよいのです。
それが
真本音の一歩であり、
それを続ければ、
だんだんと
遠くを見通せるように
なります。
そのためには、
自らの真本音の意思を
自らが
理解できること。
自覚できること。
それが
セルフコーチングの
重要な目的の
一つです。
・・・・・・
では、
『セルフコーチングを使った
良い後悔の仕方』
の続きをいきましょう。
後悔の念としっかり
向き合った上で、
今度は
真本音との対話に
入りました。
真本音の場所を特定し、
その声を聴くという
ところです。
(→【あなたの中心核はどこだろう?】)
「ここまでの
私と、私の後悔の念との
対話を聴いていて、
どんなことを思った?」
そんな問いを
真本音に投げ、
その答えが返ってきたら、
次の問いを投げます。
それは、
「君が願っていることは
何だろう?」
です。
「君」というのはもちろん、
真本音のことです。
真本音とは
自分自身ですが、
やはりここでも
まるで他人のように
会話をするのがポイントです。
ここで言う
「願っていること」というのは、
後悔したその出来事について
願っていること、
という意味です。
例えば、
Aさんとのやりとりで
後悔するような一言を言い、
Aさんとの関係が
崩れてしまった、
とします。
その後悔の出来事について、
自分の真本音は
何を願っているか?
ということです。
例えば、
「Aさんとの関係を
何としてでも改善したい」
とか、
「Aさんとの関係が改善するか
どうかは別として、
あの一言については
きちんと謝罪したい」
とか。
そういった、
今後の自分の行動に関する
方向性や
具体的な行動が
答えとして返ってくることが
多いと思います。
それは、
本当に会話をしているかの
ように、
「声」として返ってくることも
ありますし、
答えが自然に心の中心核から
浮上してくることも
あります。
私の場合、
時と場合で両方あるのですが、
答えが浮上してくる時の感覚は
何とも言えない
いい感覚です。
その感覚を表現すれば、
一番近い言葉は
「思い出す」
でしょうか。
まるで忘れていたことを
思い出すかのような感覚で
答えが浮かび上がってきます。
あぁそうか、
確かにそうだった、と
合点がいくかのような
感覚で、
その答えに一切の
迷いはありません。
それを私は
「直観」
とも呼んでいます。
直観とは要するに
真本音からの答え
なのです。
しかし慣れないうちは、
すぐに真本音の答えを
キャッチできないかも
しれません。
その場合は、
何度も問いを自分に投げ、
答えを待つ、
ということが基本ですが、
もう一つお勧めの方法を
お伝えします。
それは、
あえてもっと根本的な問いを
真本音に投げてみる、
ということです。
先程の
「君が願っていることは
何だろう?」
という問いは、
後悔した出来事に関する
願いを訊いていました。
しかしもっと
根本的な問いに
変えてみるのです。
例えば、
「君が人生において
いつも願っていることは
何だろう?」
などのように。
根本的な問いにする方が
答えは難しそうな印象ですが、
根本的な問いは
答えが抽象的になりやすく、
真本音の場合は
そういった抽象的な答えを
掘り起こす方が
難易度が低くなるのです。
根本的な問いを投げ、
たった一つのキーワードで
よいですから
キャッチしようとします。
「君が人生において
いつも願っていることは
何だろう?」
すると例えば、
「楽しさ」
というような
キーワードが浮かんだり
します。
すると、それを使い、
「では今回も、
楽しさを大事にすると、
君は、今回の出来事について
何を願う?」
というように問います。
すると
「楽しさ」という言葉が
アンテナの役割を果たし、
真本音からの答えを
キャッチしやすくなるのです。
この特性を活かし、
私は初めて真本音と対話を
する人については、
「真本音の人生理念出し」
というセッションを
行ないます。
「自分はどんな時も
どんな生き方を大事に
したいか?」
を真本音に問い、
キーワード化します。
それを「人生理念」と
呼ぶのですが、
この人生理念をアンテナにして
常に真本音と
対話をしてもらうように
するのです。
真本音との対話で
気をつけていただきたいのは、
真本音と対話をしているつもりで、
実は単に頭の中で
解釈を繰り返しているだけ、
という人がいます。
頭の中の思考や解釈と
真本音との対話は
根本的に異なる行為です。
この区別がつくように
なることが、
セルフコーチング力を高める
最初の関門です。
つづく
かつての伝説的な
ボクシングの世界王者
モハメド・アリの
ファイトスタイルは、
「蝶のように舞い、
蜂のように刺す」
と形容されていました。
最近、よく思うのです。
私も似たような
スタイルかな、と。
もちろん私は
人と闘っているわけでは
ありません。
でも、
日常茶飯事に
思うことがあります。
「この人は
難攻不落だな」
と。
つまり、
「この人はもう
絶対に変わらないのでは
ないかな」
という印象です。
ここで言う
「変わらない」
というのはもちろん、
「本来のその人には
戻れそうもないなぁ」
という意味です。
無理に別人格に
変えようとしているのではなく、
その人が
自らの真本音に素直に
生きる状態に戻す
ということが
ほぼ不可能に近いなぁ
と思ってしまう、
という意味です。
でも先程も
書きました通り、
そういった「難攻不落さ」を
感じるのは
日常茶飯事です。
じゃあその
難攻不落な人を
どう変えるのか?
その人を変えるのが
私の仕事ですし、
そういった成果を
出さねば、
私はプロとして
評価されないわけですから
何としてでもそれを
成さねばなりません。
もちろん
私が評価されるために
ということよりも、
その人が変わらないと
その会社そのものが
ダメになってしまう、
という切実な理由の方が
圧倒的に大きく、
「彼が変わってくれれば、
我社は本当に
素晴らしくなるのに」
という
切実な想いは、
どこの会社にも
必ずあります。
しかしご承知の通り、
「人が人を変える」
なんてことは
傲慢の極みです。
それができている
と勘違いしている人も
いますが、
それは本当に
勘違いです。
人は、
自らが変わろうと
本気で思わない限り
決して
変わりません。
もちろん、
表面的に変わった
ふりをしていたり、
変わったつもりに
なっているケースは
ありますけどね。
人は、
自らを
変えていく。
自らを
変えようとしなければ、
変わらない。
つまり、
人は
外側から変えることは
不可能で、
内側から
変わることしか
できません。
その
「内側から変える」
のが
私の役割です。
その視点で
みたときに、
「あぁこの人は難攻不落だ」
と思うのです。
そういう人が
いっぱいいます。
で、
結果として私が
やっている最も有効な
手段が、
「蝶のように舞い、
蜂のように刺す」
ではないか、と。
つまり、
ここぞ!という瞬間に
ジャブを打つのです。
もちろん
闘っているわけでは
ありませんので、
表現を変えれば、
「刺激を入れる」
のです。
「刺激」とはもちろん、
パンチを放つわけでは
ありません。
その人にとっての
「刺激」となる
「一言」
をお伝えするのです。
それは、
「問い」であったり
「メッセージ」であったり
します。
しかもそれを
「ここぞ!」という
絶妙のタイミングで
しなければなりません。
一瞬でも
タイミングを外すと
まったく効果がないどころか、
逆に反撃をくらいます。
では、
そのタイミングや
「一言」は
どうすれば見出せるのか?
それは、
その人の「真本音」が
すべてを教えてくれます。
その人の「真本音」を
キャッチすることが
できれば、
ある意味、簡単に
わかります。
あとは、
その人の真本音が
望むタイミングで
望む一言を
お伝えするだけです。
ですから
よく私がするのは、
「たった一言を伝える」
ためだけに、
その人に会いに行く
ということです。
しかもそのタイミングが
例えば
「一週間後の何時くらい」
というように
わかることもあります。
するとそこにアポを入れ、
会いに行き、
実際に向き合い、
本当に今のこのタイミングと
その「一言」で良いのか?を
その場で確認し、
「OK」であれば
それを伝える、
ということをします。
そしてすぐに
去って行きます。笑
一つの刺激を入れたら、
すぐに去る。
こんな
ファイトスタイルです。
ファイトしているわけでは
ありませんが。
そうすると、
その「刺激」は
その人の真本音が
望んでいたものですから、
その人は
その「刺激」がきっかけで
真本音度合いが高まり、
「内側からの変化」
が始まります。
これを繰り返すことで、
難攻不落だと思っていた人が
思わぬ変化を
見せたりします。
で、私はこういう時に
いつもとてつもなく
感動します。
私がやっていることは
単に、
「刺激」を入れるだけ
なのです。
あとは勝手に
その人が自らの力で
進めます。
たったあれだけの刺激で
この人は
こんなにもがんばる人
だったんだ!
という感動です。
やっぱ、
人って大したもんだな、
という感動ですね。
・・・・・・
私のこういったサポート力は
いつも言うことですが、
私特有の力では
ありません。
私達人間が
本来持っている
コミュニケーションの力を
ただ「普通に」
活用しているだけのこと
です。
本当はすべての人が
こういった力を
活用できるようになると
いいな、と
思いますが、
まずは、
こういったことのできる
コーチが増えるといいなと
思っています。
そのために、
そろそろ来月辺りから
新たな動きを
取ろうかと準備しています。
昨日の記事の続きは
明日書こうかな。
つづく
後悔の念が生まれたら、
まずはその後悔の念と
しっかり向き合うこと。
それにより、
後悔の念をしっかりと
理解すること。
これが、
「後悔」を「未来」につなげて
いくための必須のことです。
後悔から逃げてしまうと
せっかくの「未来」が
開けなくなります。
後悔とは、
チャンスです。
(→前回記事)
後悔の念を
しっかり理解することで、
その「念」は
それだけで随分と
浄化されて軽くなります。
その状態になれたら
次に私達がすべきは、
自分自身の
「真本音との対話」
です。
言ってみれば、
ここまでは
自分の中に湧き上がった
「反応本音との対話」
をしてきたわけです。
反応本音をしっかりと
理解したら、
次に行なうのが
「真本音との対話」
なのです。
これも、
単に「思考する」とか
「発想する」というのとは
異なる行為をします。
自分自身の真本音と
まるで他人のように
向き合い、
真本音からの声を
キャッチするのです。
・・・・・・
まずは、
真本音の場所を
特定する必要があります。
私のセミナーや研修や
コーチングを
受けていただいた方は
その場所がすでに
ある程度わかると思います。
まだ受けていただいて
いない方の場合は、
次のことをするとよいでしょう。
まずは
自分の体の中心軸を
感じます。
「中心軸」というのは、
おへその奥の体の中心と
頭のてっぺんの中心を
結んだ線です。
その「中心軸」を
まずはしっかりと
感じ取ってください。
人によっては
それだけでもう
真本音発想の始まる
ケースもあります。
「中心軸」を意識する
だけで、
シャンとした
「本来の自分」に
戻れる感覚が
あるかもしれません。
もしここで、
「中心軸」を感じ取ること
自体が難しい場合は、
まだまだ「後悔の念」との
対話が不足している
ということです。
その場合は、
今一度、「後悔の念」を
理解しようとするための
対話を続けてください。
反応本音をある程度
浄化することができて
初めて、
私達は自らの真本音を
感じ取る感性を
取り戻せるのです。
さて。
「中心軸」を
感じ取ることができたら、
次に、
その中心軸上のどこかに
自分の
「中心核」
となる場所があります。
「中心核」とは、
「ここが自分の中心だ」
と思える場所のことです。
中心軸上のどこか
にあるはずです。
その場所を
特定してください。
なかなかわからない場合は
「ここに私の中心核が
あってほしいな」
と思うところで結構です。
・・・・・・
「中心核」の場所が
わかりましたか?
そこが、
あなたの真本音の
場所です。
ここが特定できましたら、
今度はその
真本音の場所に
意識を向けます。
すると、そこに
何かが観えてくると
思います。
もしくは、
人によっては何かを
感じるだけ、
というケースもあります。
できれば、
「何か」がしっかりと
観えるまで
意識を集中していただけると
よいですね。
例えば、
そこに意識を向けると、
「とてもまばゆい光
があります。
それは緑色に輝いて
います」
とか、
「大樹の根っこのような
ガッシリとしたものが
あります」
とか、
「すごく柔和な笑顔
が浮かんでいます」
とか。
人によって様々な
ものが観えます。
ここで大切なのは、
それは
無理にイメージした
ものではない
ということです。
自然に浮かぶものが
よいです。
自然に浮かぶものは
「実在」
です。
単なるイメージとは
「幻影」
です。
「実在」と「幻影」は
本質的に異なるものです。
「幻影」は単なる
イメージですので、
次々に変化します。
儚く消えたりします。
「実在」とは
そこに本当に実在する
ものであり、
この現実世界における
「現象」を生み出す
大本のようなものですから、
そこに意識を向ければ、
いつでもそれがそこに
在ります。
それは
絶対的な存在感
です。
その「実在」を
特定できたら、
いよいよ真本音との
対話です。
・・・・・・
まずは、
その「実在」である真本音に
次のように問いかけます。
「ここまでの
私と、私の後悔の念との
対話を聴いていて、
どんなことを思った?」
と。
そう問いかけたら、
「答え」を
待ってください。
その「答え」は
まるで本当に会話を
しているかのように、
言葉として
返ってくると思います。
もしくは、
そうでない場合は、
自然に意識の塊のような
ものが、
浮かんでくるかも
しれません。
いずれにしても、
「答え」を
待っていてください。
もし何も返ってこない
場合は、
返ってくるまで
待ちます。
今はまだ全然、
返ってくる気配がないなぁ、
と思ったら、
問いだけをそこに残して
セルフコーチングそのものを
中断します。
そして、思い出した瞬間に
何度かその問いを
自分の真本音に投げてください。
それを続けていると、
ある瞬間にふと、
「答え」が浮上してくる
ことがあります。
そうなるまで、
何日もかかるかも
しれません。
しかしそれは単に
慣れていない
というだけのことです。
慣れるまでは
時間がかかるかも
しれませんが、
原則は同じです。
つまり、
「問うて、待つ」
のです。
つづく
人はなぜ
後悔するのでしょうか?
後悔にも
様々なものがあります。
次元の低い後悔も
あれば、
次元の高い後悔も
あります。
次元が低いからダメ
という話では
ありません。
高くても低くても
後悔ときちんと
向き合いながら進むことは、
間違いなく私達に
進化をもたらします。
ただ・・・。
一つ、しっかりと
お伝えしなければ
ならないことがあります。
それは、
後悔には
「真本音の後悔」
もある、という
ことです。
・・・・・・
「真本音の後悔」
とは、
正確に表現すれば、
「真本音が
もたらしている後悔」
と言えば
よいでしょうか。
どういうことかと
言いますと、
一言で言えば、
「後悔のその奥に
願いあり」
ということです。
つまり、
真本音レベルの非常に
強い願いがあり、
その願いに気づくための
後悔の経験であった、
と。
その後悔が
あったからこそ、
自らの真本音の願いに
気づくことが
できた、
と。
願いに気づくための
重要な経験としての
後悔。
ということです。
しかも、
そういったもので
あればあるほど、
後悔の念は
深く、強く
なります。
ある意味、
立ち直れなくなるくらいの
魂が慟哭するかのような
後悔。
それが、
真本音のもたらす
後悔です。
ところが、
そういった強い後悔からは
どうしても私達は
逃げたくなります。
その後悔と
向き合うことは
非常に辛いことです。
そこでその後悔から
逃げ続ける一生を
続ける人も多いです。
でもそれは、
自らの真本音の願い
に気づくチャンスを
逸していることになります。
何のために
自分の人生が
あるのか?
自分は
何に向かって
生きていけばよいのか?
その大事な大事な
答え、
人としての
幸せをもたらしてくれる
答えに
気づくチャンスを
逸していることになります。
・・・・・・
では。
後悔との向き合い方。
後悔についての
セルフコーチング法の続き
をいきましょう。
(→【後悔する自分を責めてはならない】)
後悔の出来事の中でも
自分が特に
どのポイントにおいて
深く後悔しているか?
を特定するところまで
きました。
それが特定できたら、
次にまた
とても大事な質問を
「後悔の念」に対して
投げます。
それは、
「君は私に
何を伝えたいの?」
もしくは、
「君は私に
何をわかってもらいたいの?」
という問いです。
これも、
自分自身の「後悔の念」を
理解しようとする
質問です。
理解しようとすることで
自分自身との
信頼関係を深めていきます。
この問いに対しての
答えとは、
多くの場合
反応本音レベルのもの
です。
例えば、
「もう俺は嫌なんだよ。
逃げたいんだよ!」
とか、
「俺がこんなに苦しんで
いることを
知ってもらいたいんだよ!」
とか、
「俺はもう、
あいつとは一緒に
やっていけないんだよ!」
とか。
そしてここから先は、
まるでカウンセラーになった
気持ちで、
自分の後悔の念と
向かい合ってください。
「それは
どういうことなの?」
「もう少し
詳しく教えてくれる?」
「どんな理由から
そう思うの?」
「そう言いながらも、
本当は私に
何を伝えたいの?」
「本当に、一番
解消してもらいたい
苦しみは何?」
「私に直してもらいたい
ことはある?」
「私にしてもらいたい
ことはある?」
「君はどうすれば、
もっと楽になれる?」
「君は本当は
何を望んでいるのだろう?」
「君は何のために、
私の両肩に乗っかっている
と思う?」
「君の切実な
願いとは何だろう?」
・・・などなど。
すべてが
「理解しよう」
とするための質問
です。
大切なのは、
返ってくる答えに対して
いっさいの
評価・判断をしないこと。
つまりそれは
否定をしないことは
もちろんですが、
肯定もしないこと
です。
否定も
肯定も
なし。
「知ろう」と
するだけです。
「あなたのことを
もっとよく知りたいんだ」
という意志を
その後悔の念に
向けていきます。
「愛」
という言葉がありますが、
愛のファーストステップは
「理解しよう」
という意志です。
私は、「愛」というのは
「エネルギー」だと
思っていますが、
「理解しよう」という
意識を向けることで、
そのエネルギーは
発生し、相手に
伝わります。
これは、
他者との人間関係でも
まったく同じですね。
・・・・・・
「理解しよう」という
愛のエネルギーを
受けることで、
後悔の念はさらに
浄化されるでしょう。
ポイントは、
その「後悔の念」が
最も伝えようとしていること、
わかってもらいたいと
思っていることを
ピンポイントで
特定・理解することです。
そこが特定できれば、
後悔の念は
ほぼほぼ浄化されます。
両肩がかなり
軽くなるのを
感じるでしょう。
そうなったところで
初めて、
いよいよ
「真本音」の
登場です。
つづく